孤独

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 その年った事務員は、一日の単調な仕事に疲れて役所を出ると、不意におっかぶさってしだいに深くなってゆく、あの取止とりとめもない哀愁に囚われた。そして失える希望とあだに過ごした光陰を歎く旧い悩みを喚びおこしながら、珍らしくも、ぼんやりと門前に立ちどまった。それまでは、毎日脇目もふらずに宿へ帰ってゆくことが、二十五年もつづけて来た習慣だったのに。
 街は賑わっていた。店舗みせにはみな煌々とあかりがついて、通りかかる女たちも、人も、物も、すべてこの春の黄昏たそがれの幸福な安逸と、生の楽しさとを物語っていた。
 老事務員は考えた。
「おれも今夜は人並に楽しんでみたいな」
 金は衣嚢かくしにある。宿へ帰ったって、誰も待っていてくれる者もないのだ。
 彼は辻馬車を呼びとめた。
「ボア公園へやってくれ」
 馬車はシャンゼリゼーをまっすぐに駆けて行ったが、幾組となく睦まじく連れだって歩いている男女のさざめきが彼の耳に聞え、多くの馬車が彼の馬車とすれちがった。彼は初めてそうした華やかな群の中へ入ったのだが、何というわけもなく、沁々しみじみ寂しさと遣瀬やるせなさを感じた。それは、役所からしずかな街を通っててくてく宿へ帰って行くときよりも、もっともっと深い寂しさ、遣瀬やるせなさであった。
 ボア公園で馬車を乗り棄て、やがて或るレストオランへ入って空席をさがしていると、給仕ギャルソンがやって来て、
「お二人の御席でございますか」
「いや、僕は一人だ」
「では、どうぞ此方こちらへ」
 あかりのみなぎっている賑やかな広間であるにも拘らず、彼は何だか遠く懸離かけはなれた、暗いところへ島流しにでもされたような気持がした。歓楽は、彼の坐っている小卓から数歩のところで立ちどまっているらしかった。四辺あたりを見ると、他の連中のいかにも楽しそうなのが不思議だった。
 陽気にはしゃげるとしでないことは、自分にもよく解っていた。そのくせ、昔の思い出の中にそれを探し求めたって、彼の思い出には、今宵目のあたりに見るがごとき光景に似寄ったものは何もなかった。彼は上の空で食事をしながら、
「おれは只の一度だって楽しい思いをしたことがない。おれには青春というものがなかったんだな」
 そんなことを考えた。
 それから頬杖をついて、きょとんとした眼付をして、取止とりとめもない思いを辿っているうちに、空気が人いきれで重くなって、人々のさざめきや、皿の音や、酒杯さかずき肉叉にくさしの触れる音や、さては煙草の煙りのために朦朧とあかりのくもった中から音楽がはじまった。
 その音楽は、どうも度々聴いたことがあると思った。何処で? それははっきりしないが、兎に角それを聴いていると、曲の名も歌詞も知らぬながらに、その折返ルフランの一つが早速お馴染になって、思わず口吟くちずさみたくなるたぐいのものであった。
 突然、いろいろな幻影まぼろしが想像にうかんで来た。まるで別人になったような気持がして、たましいの奥に眠っていた数々の野心が急に目ざめ、感覚が極めて鋭敏になり、そして明るい考えが頭をもたげて来た。彼は思った――おれは有力だ――おれは強いぞ――
 そう思っているうちに、ふと或る切願に彼は囚われた。打解けてみたかった。話相手がほしかった。それは、肉体もたましいもしっくりと融け合って、細君であると同時に情婦らしい感じのする女、つまり理性と享楽を兼ねていて、沁々しみじみと話がわかって、夜は温々ぬくぬくとしたへやで、打解けた寝床に心ゆくまで語り明かすような女――を探し求める心であった。彼は空想でそうした漠然たる、しかし已みがたい欲求に思い耽っていた。
 いつの間にか音楽がんであかりが暗くなったので、彼はふと眼をあけると、何だか非常に遠いところから帰って来たような感じがした。先刻さっきまであんなに明るく輝いていた広間も今はどうしたことかめっきり暗くて、汚くさえ見えるのだ。真白できれいだった卓子テーブル掛は薄よごれて、半ば片づけられた食卓には、盛花もりばながしおれ、皺くちゃなナフキンが床にちらばっていた。今、最後の男女ふたりづれの客が出て行くところであった。
 彼もちあがって勘定をはらってそこを出たが、ひどく倦怠けだるいような気持になって、げっそりしていた。
 暫くの間何処という当てもなく歩いて行った。暗さは一層彼を寂しくした。ひっそりとした夜の静けさの中を歩きながら、彼は何だか厭な気持になった。やがて公園の門をぬけて、明るい雑鬧ざっとうの中へ出ると、やっと倦怠をふり落したように思えたが、孤独の感じだけはどうすることも出来なかった。彼は、ぞろぞろ連れだって高声たかごえに語りながら行き過ぎる、見も知らぬ人々の上に、妬ましそうな視線を投げた。そんなことは、彼としてそれまでにかつてないことであったのに。
 彼は友達も持たないし、情婦おんなが出来たこともなく、一人ぽっちで世の中をわたって来た男だ。元からそんな風で、厳格だった青年時代から、利己主義や習慣や偏執に支配される齢になっても、結婚をしないという決心に変りはなかった。こうして彼は、自分に接近してはまた遠のいてゆく人々の一人一人を眺めて来たのだ。不和になったわけではないが、彼等は新らしい気苦労や新規な楽しみが出来ると、彼を去ってその方へ移って行ったというだけのことだ。こんな風で友達がしだいにうとくなって行った。彼も、もとは友人のないのを静かでいいと思っていたけれど、今ではそれが寂しさそのものとなったのである。
 大時計のそばを通るとき、時間を覗くと恰度十二時で――人通りが稀になって、どこのカッフェも店仕舞をやっていた。外気が冷々ひえびえとして、細かい雨が降りだした。それがまた冷いので彼はぞっと寒気を覚えながら、歩調を早めて宿の方へ帰って行った。
 彼は、歩きながら、自分の将来をどうしようかと考えた。しかもその想像の大部分は、何も重大な問題ではなくて、些末なことばかりであった。まず食堂は、雪白まっしろ食卓掛ナップ卓子テーブルを蔽い、天井には飾燈をつるして、そこから大きな丸い明りが落ちるようにすること。夜は暖炉のそばで新聞を読むこと。左右に幕をあける式の寝床。そして家の中は出来るだけ陽気にして、『つまらない』近親を大勢集めること。つまらないといっても、そうした者達を欠くことの出来ないのが即ちその幸福な場所、『家庭フォアイエ』というものなんだ――
 彼は低声こごえで独りごとをいった。
「どうせ立直しをやるなら、おれは細君を持とう。細君を持てば子供が出来る。そうすると、家へ帰ってもそこは愉快な住居すまいで、おれの家族――おれを愛している者達がおれを待ちかねていて、ちやほやしてくれるんだ」
 ところが宿の前まで来ると、瓦斯ガスが消えていて、街が真暗だった。彼は自分のへやの窓を見あげたが、今まで浸っていた幻想の名残で、ふと其窓そこあかりを探し求めるような眼付をしながら、肩をすぼめて呟いた。
「さアお前の家へ帰ったぞ、憐れな老人!」
 彼はそのときほど廊下を暗いと思ったことはなかった。変な臭気がそこらにただよっていた。それは食余くいあましや、穴倉のむっとするにおいや、酒樽のかび臭さであった。
 彼は徐々そろそろと階段を登って行って、ふと立ちどまった。何階登ったか数えてもいなかったので、自分の昇框パリエを通りこしはせなんだか? そう思って軒窓のきまどの明りで判断しようとしたけれどあまりに暗くて中庭の白壁さえ判断はっきりしないくらいだった。で、衣嚢かくしからマッチを出して振ってみた。
「畜生、心細いぞ」
 マッチ函をあけて、
「一本しか残っていやしない」
 手をかざして注意ぶかくそのマッチを摺ってみると、そこは六階目だった。
「一階よけいに登ったな」
 階段を逆戻りして、戸の錠前へ鍵を突こんだとたんにマッチが消えて、再び真のやみだ。
 廊下から自分の寝室へ入って行ったが、家具に突当るまいとして、そっと手をひろげたまま立ちどまった。それから小卓へ行ってマッチ函を探ると、それも空っぽなので、すっかり当惑した。
「どうしたらいいだろう……マッチがない……下へ降りたっても店はもう仕舞っている……あかりなしで寝床へもぐりこもうか……どうせられやしまい」
 森閑しんとした寂寞せきばくが彼を押しつつみ、ただ時計のチクタクばかり、闇の中でせわしげに時を刻んでいたが、彼にはその時刻もわからなかった。
 それまでは、どんなに悲しい時だって、これほど痛切に孤独を感じたことはなかった。
 あかりも点いていないこの惨めなへやへ帰ると、遠い過去の種々いろいろな思い出が蘇えって来て、きにしんみりとした気持になった。
 それはあまりに遠くて、消え消えになっているような思い出であった。ごく小さい子供の時分には、両親の家で、密閉したへやの中に温々ぬくぬくと寝かされて、入る前に母親が接吻をしに来てくれるのを待ちかねていたものだが、時として、あまり咳でもすると、その懐かしい声が隣りのへやから呼びかけた。
「どうしたの、坊や」
 記憶の中のこの声は、大変やさしい抑揚をもっていて、それをおもい出すと、接吻でなごまされるような気持がするのであった。
 しかるに今は、どんな感懐おもいが彼の心を占めているのか。
 恋をささやく男女の群にまじって、歓楽と華やかな雑鬧ざっとうの中に数時間を送った後、こんな真暗なへやへ帰って独りぽっちになってみると、自分というものが可哀そうで、しみじみ悲しくなって来た。彼は顔に両手を押しあてて、しくしく泣きだした。
 それまで隠れていた或る悶えが、ふと疲れた頭に浮んで来た。そして、それは外から呼び醒されるのを待ちかねたように、恐る恐る口へ出てしまった。
「おれがへやを空けたって誰も気づきはせなんだ。探しに来てくれる者もありはしない。こうしておれは寝るのだ」
 それから彼は考えた。
「おれはもう老境に入ってしまった。何をやったって駄目だ。家庭なんか持つまい。決して持つまい。死んだ後には何一つ残るんじゃなし、思い措くことも更にない。明日も、明後日あさっても、また首輪をかけられて、同じような日を送るのだ。そして遅かれ早かれ貧しい犬のように死んでゆかねばなるまい。人はおれの棺が通るのを見て、『会葬者もないこの死人はどんな人か』と怪しむだろう――それも瞬間だが――」
 彼は悲しくなって、しきりに泣いた。涙は止め度もなく髭を伝わって唇へ流れこんだ。
 しまいにくたびれてしまった。徹宵よっぴてそうしているわけにも行かなかった。
 彼はかがみこんで寝床を開けた。が、棚のそばにあった筈の椅子へ上衣をかけるつもりで其方そっちへ行きかけたとたんに、何かの道具に膝をしたたか打衝ぶっつけて、あまりの痛さにアッと声をあげた。
 壁にりかかって足を浮かしながら、
「おお、痛い、痛い」
 と呻いていたが、その痛みはやがて絶望に変っていった。独りぽっちで、慰めてくれる者もないということが、千倍も辛い苦痛だった。気が遠くなりそうで、全身汗びっしょりになって、手さぐりで椅子に触るとぐったりと腰をおろし、額を小卓へおしつけて、
「おお、痛い。痛い」
 その声はうつろにひびいた。
 当てもなく卓子テーブルの上を払うと、何か円味まるみのものがひやりとふるえる手先に触れた。彼はそのまま握りしめたが、それは毎晩そばへおくピストルだった。そして不思議なことに、それを握っても、すこしも恐怖を感じないので、むしろ気が鎮まるのであった。
 握っているうちに銃身が生温なまぬるくなって来て、いい気持がした。昼間だったら、不気味な銃尾や凶々まがまがしい銃身など随分ぞっとする代物にちがいないのだが、今この暗闇と、孤独と、悩みの中では、まさしく探し求めていたものにぶっつかったような気がした。で、単にはてしれぬ哀愁と倦怠のほか何の理由もなく、彼はそのピストルを※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみへもっていって、押しつけて、引金をひいた。
 棒をへし折るようなバリッという音がした。
 と、一瞬間ざわめいたへやなかは、すぐにまた静寂ひっそりとなった。時計のチクタクもちょっと息どまったが、又もせわしげに無限の彼方に向って、例の小エゴイストの小刻みな歩みをつづけて行った。





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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