集金掛
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳
ラヴノオは、同じ銀行に十年間も集金掛を勤めていて、模範行員と呼ばれた男であった。塵ほどの失策もなければ、只の一度だって間違った帳記けを発見されたこともなかった。
係累のない独り者で、やたらに友達をつくりもしなければ、カッフェなんかに出入りするという噂も聞かぬ。それに色恋の沙汰もなく、只もう満足してその分を守っているようであった。
「そんなに大金を扱っていると、さぞ誘惑を感じるでしょうね」
人がそんなことを訊くと、
「なアに、自分の所有でないから金だと思いやしません」
と彼は落ちついて答えるのであった。
近隣の人達も彼は確かな男だというので、何かの時には意見を求めたり、口をきいてもらったりするくらいだった。
ところが、彼は或る集金日に出て行ったまま、夜になっても帰って来ない。誰もこの男に不正があろうとは思わないが、ひょっとすると、悪漢の手にかかったのではないかと心配しだした。警察の方で、その日彼が立ち廻った先を調べてみると、一々几帳面に手形を出してはその金額を受取り、最後にモンルージュ門附近の取引銀行へ廻ったのが晩の七時頃で、そのときは、二十万フラン以上の金が財布に入っていたということがわかった。
さて、それから何うなったか行き方が知れない。城壁附近の空地や、その辺に散在している小舎、物置などを隈なく捜したけれど無効であった。なお念のために、各地方や国境の各駅へも電報を打った。
が、銀行の重役だの警察側の見当では、賊が金を奪った上に彼を殺害して、屍体を大河へ投げ棄てたものと見た。若干の確かな手がかりもあった。それによれば、常習的強盗団が前々から企らんでやった仕事ということは、殆んど疑う余地がなかった。
この事件は、翌くる日になって、巴里の各新聞を賑わした。ところが、その記事を読んで『どんなもんだい』と肩を聳やかしたのは、当のラヴノオであった。
敏捷な警察の探偵犬もついに探しあぐんだとき、彼れラヴノオは、外ブールヴァルからセーヌ河の河岸っぷちへ出て、とある橋の下へ忍びこんだ。そして夜前からそこへ隠しておいた通常服に着かえて、二十万フランの金を衣嚢にしのばせ、脱ぎすてた制服はグルグル巻きにして、大きな石を結びつけて大河へ投りこんだ。それから無難に市内へ舞いもどって来て、その晩は或る旅館に泊ってぐっすり寝こんだ。
かくて彼は、たった数時間で立派な賊になってしまったのだ。
その勢いに乗じて国境から高飛びでもしそうなものだが、彼はなかなか怜悧な男だから、二、三百キロメートルぐらい突駛ったところで、どうせ憲兵に捕まるということをよく知っていた。妄想で当てずっぽうな楽観などはしない。どのみち逮げられることは判りきっていたからである。
そればかりでなく、彼は一つの奇抜な計画をもっていたのだ。
夜が明けると、彼はかの二十万フランの紙幣をば大きな紙袋に入れて、五所も封印を施し、それを持って或る公証人の許へ行った。
「伺ったのは外でもありませんが、実はこの包みなんです。中味は有価証券ですがね、私は今度遠い旅へ出なければならぬので、何時帰れるかわかりませんが、とにかく私が帰って来るまで、この財産を保管して頂きたいんです。そういうことがお願い出来ましょうか」
「ええ、ようござんす。只今預り証をあげます」
しかしラヴノオは、考えてみると、預り証など貰ったって置きどころに困る。その預り証を他人に託けておくことも出来ない。といってそんな書類を身につけていると、それが手がかりになって、肝腎の金を没収されるだろう。この思いもかけぬ障碍に彼は少なからずまごついたが、やがて左あらぬ態でいった。
「私は独り者で、友人も親戚もないんです。それに、今度の旅は相当に危険が伴っているので、預り証などいただいても紛失したりしては可けませんから、とにかく品物だけ金庫へ保管しておいて下さい。私が帰って来れば、貴方なり貴方の後継者なりに、自分の姓名をいって返して貰います」
「だが、それでは……」
「いや、『本人が名乗って受取りに来た場合に限り引渡すこと』と包装に書いておいて下さい。無事に帰ったら取りに来ます」
「よろしい。それで御姓名は?」
「ジュヴェルジェ……アンリ・ジュヴェルジェって云います」
すらすらと出鱈目な姓名をいってのけた。
彼は公証人の門を出ると、初めてほっとした。これで筋書の第一巻は予定どおりに行った。いつ何時手錠をかけられたって差支がないのだ。贓品へはもう誰の手もとどかないんだ。
彼は冷静に熟考して、これだけの処置をしたのである。刑期が終ってから、この預け物を受取ればいいのだ。誰も妨げる者があるまい。牢屋で四、五年辛抱をすれば、あとは金持ちになれる。得意先をうろうろ集金などして歩くよりも、どんなに気が利いているか知れない。そのときは田舎へ隠退するんだ。知らぬ土地へ行けば、金持ちのジュヴェルジェ様で立派に通る。律儀な慈善家になりすまして平和に、円満に、余生が楽しめるわけだ――無論この財産の幾分を慈善事業にも使うつもりなのである。
それから一日待って、隠匿した紙幣の番号が全く判明していないことを確かめてから、彼は巻煙草を啣えながら、悠々と警察へ行って自首をした。
大抵の人間は、こんな場合に何かつくり話を発明するものだが、彼は拐帯した事実をてきぱき白状した。時間が惜しいからだ。しかし裁判のときに、かの二十万フランの金をどう処分したかについては、一言も真実を吐かなかった。
「存じません。共同ベンチに眠ている間に掏られてしまいました」
これ以外は、知らぬ存ぜぬの一点張りで押通した。
従来の素行が善良だったおかげで、僅かに五年の懲役を宣告された。彼は平気でその判決を聞いた。
今年三十五歳だから、四十には、自由な金持になれるわけだ。それゆえ五年ぐらいの懲役は少しの、そして已むを得ない犠牲だと観念したのである。
入監後は、よく規則を守って、銀行に於て模範行員であったように、ここでも模範囚人といわれた。そして焦らず悲観もせずに、遅々として日数の経ってゆくのを待った。ただ健康を害ねないように一生懸命に要心した。
とうとう待ちに待った出獄の日がやって来た。
ラヴノオは、少しの貯蓄を役人から還してもらって牢屋を出たが、何を措いても公証人のところへ例の託けものを取りに行こうという考えで頭が一杯だった。で、彼は歩きながらその場面を想像してみた。
まず戸口を入ると、あの事務室へ案内されるだろう。ところで公証人はおれの顔を見覚えているか知ら。鏡が見たいものだ。随分老けて、苦労をした人相が現われているにちがいない。いや、公証人は思いだせないでまごつくことだろう。ハハア、それも時にとってのお愛嬌だ。
『どういう御用ですか』
『五年前にお預けしたものを受取りにまいりました』
『物は何でしたかな。そして御姓名は?』
『私の姓名は……』
ここまで考えると、ぐっと行きづまった。
「はて訝しいぞ。あのときの姓名を忘れるという筈はないがなア」
しきりに記憶を捜した――けれど、空っぽだ。
彼は共同ベンチに腰をおろしたが、何だか力が抜けて行きそうなので、一生懸命に気を取りなおした。
「確かりしろ確かりしろ。落ちついて……ええと、何だっけ……あの姓名の頭字は?」
夢中になって一時間も考えこんだ。記憶を絞りだそうと焦った。思いだす端緒をいろいろ捜したけれど、もう一呼吸というところまで行っていながら、結局思いだせずに時が経つばかりだった。そのくせ、その姓名が眼の前でダンスをやったり、ぐるぐる廻ったりした。姓名の文字の一つ一つが盛んにとんぼがえりをやったり、連結がったやつがちらちらして消えたりした。それがすぐにも手のとどきそうなところにいて、眼先にちらついて、今にも唇へ上りそうになっていながら、ついに思いだせなかった。
初めは単に当惑だけだったが、焦るにしたがって、非常に苦しくなって来た。熱湯のようなものが脊筋を上ったり降りたりした。筋肉がひきつってじっと坐っていられなくなった。両手はちぢこまり唇が馬鹿に乾いた。
泣きたくて堪らなかった。一方にはまた、何とかして思いださねばならぬという気がする。が、焦って注意を凝そうとすればするほど、かの姓名は遠のいて行くのであった。
彼はベンチから起ちあがって地団駄ふんで、独りごとをいった。
「焦ると駄目だ。却って可けない。うっちゃっておくと、ひとりでに思いだせるものさ」
だが、いかに平気でいようとしても、一度取憑いたその懊悩を追除けるわけには行かなんだ。往来の人の顔を見たり、店の飾窓を覗いたり、街の物音に耳を傾けたりして気を紛らそうとするけれど、一向無駄であった。見れども見えず聞けども聞えずで、頭の中は絶えず例の大問題に悩まされていた。
「何だっけ、何だっけ」
そうして当てもなく歩いているうちに、とっぷりと日が暮れてしまって、次第に夜が更けていった。街は寂然となって往来も杜絶えた。
彼は疲れきって、とある旅館へ飛びこんだが、室がきまると着のみ着のまま寝床へふんぞりかえって、数時間頭をひねったけれど、どうしても思いだせないで藻掻いているうちに、暁け方になって正体もなく眠こんだ。
目が覚めたときは、陽が高々と昇っていた。寝床の中で久しぶりにのうのうと手足を伸ばしたら、いい気持だった。が、ふと姓名のことを考えると、また悩みがはじまった。
「何だっけ、何だっけ」
おまけにもう一つの新らしい感情が、その悩ましい心に蔓こりだした。それは一種の不安――かの姓名が永久に思いだせなかったら何うしようという不安だ。
彼は跳びおきて旅館を出て、かの公証人の事務所の辺を、何時間という間当てもなく歩き廻った。
やがて又その日も暮れてしまった。彼は両手で頭を押えて呻いた。
「ああ、おれは狂人になりそうだ」
今恐ろしい懸念が彼の頭を占領していた。というのは、彼が公証人に預けた二十万フランという紙幣は、勿論不正手段で取ったものだが、どうもそれがふいになりそうだ。その金が欲しさに五年間懲役をつとめて来たのに、今その金に手を触れることも出来ぬとは何という情けないことだろう。紙幣は彼を待っている。だが一語――たった一語思いだせないために、越えがたい鉄壁がその間を隔ててしまったのだ。
彼は、理智が静止らない秤のようにふらついている気持がして、拳骨で自分の頭をがんがん叩いた。酔漢のようによろけて街燈の柱に突当ったり、歩道の止め石に躓ずいたりした。こうなると、煩悶だの懊悩だのという程度を通りこして、もはや全存在――身も魂もあげて狂乱してしまったので、とても思いだせる気づかいはなかった。妄想で何者かが耳元にせせら笑いをしているのが聞えた。往来の人がみな自分を指さしているような気がした。
彼はずんずん歩調を速めて、やがて驀直に駆けだした。幾度も人に衝突した。そこが往来だということも忘れてしまったのだ。彼はむしろ突き仆されるか、轢かれるかして死んでしまいたかった。
「何だっけ、何だっけ」
何時の間にかセーヌ河岸へ出ると、その濁った緑色の水面には星影がきらきらと映っていた。彼はすすり泣きをしながら呟いた。
「何だっけ。ああ、あの姓名、あの姓名」
彼は、河岸の段々を水際へ降りて行った。そして熱る顔や手を冷そうとすると、ひどく呼吸が喘んでいた矢先なので、そのままするすると河面へ引きずりこまれた。咄嗟に、熱い眼がかくれ、耳がかくれ、とうとう全身落ちこんでしまった。辷ってゆくのを感じながら、岸が嶮しいものだから取りつくことが出来ず、見る見るすっぽりと陥りこんだ。
総身冷い水に浸るとぞっとして、矢鱈むしょうに藻掻きながら、腕を突きだし顔を擡げたが、一度すっぽり沈んで、間もなくひょいと水面へ顔が出た。と突然満身の努力とともに、眼を皿のようにして叫んだ。
「あっ、思いだした、助けてくれい……ジュヴェルジェだった……ジュヴェル……」
あいにく、河岸には人っ子一人通らなかった。漣がぽちゃぽちゃ橋柱にくだけていたが、今彼が沈みぎわに思いだした姓名は、その寂然と暗い橋裏のアーチに空しく反響した。気だるそうに起伏起伏している河面には、河岸の白い灯や、紅い火がちらちらとダンスをやっていた。
そこのところだけ微かにさわぎ立った波は、一しきり繋船場の護岸をたたいていたが、やがて、すべてが元の静寂にたちかえった。
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
1928(昭和3)年6月23日
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2024年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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