フランソアズは
倅が捕縛されたということを新聞で読んでぎょっとした。
けれど、初めのうちはとても真実と思えなかった。それはあまりに途方もない出来事であったから。
可愛い倅はごく内気な律儀者で、こないだの復活祭の
休暇には、彼女の許へ帰省していた。そして隊へ帰って行ってからまだ一月と経たぬのに、その者が賊を働いた上に殺人罪を犯したということがどうして信じられよう。
倅が兵隊服を着て、あのまん丸な若々しい顔に人懐っこい
微笑をうかべながら
佇っている姿が、今もまざまざと見えるようだ。そして別れ際に、
彼が、皺くちゃの頬ぺたに接吻をしてくれたっけ――そんなことを思いだすと、彼女は平和な、幸福な記憶で胸が一杯になるのだ。
「きっと何かの間違だわ。人違いなんだよ」
彼女は肩をすぼめて独りごとをいった。
だが、新聞では『兵卒の犯罪』という大
標題の
下に仰々しく書き立てている。それは兵営内に起った怪事件で、しかもその犯人として、倅の名が
判然と掲げられているではないか。
彼女は当惑して椅子にうずくまった。眼鏡を額にはねあげて、両手をかたく握り、唇をふるわせて独りごとをいいながら、老ぼれた飼犬が、
寂然と暖かい台所の開け放した戸口に寝そべっている姿をば、きょとんとした眼つきで見るともなしに見ていたが、やがてその視線を懸け時計の方へうつした。時計はチクタクと
緩たり重々しい音で時を刻んでいた。
そのとき誰か木戸を入って来る気配に、彼女はびっくりして、
「
誰方」
と声をかけた。
近所の女がやって来たのであった。
フランソアズは、自分の心配事に感づかれては大変だとおもって、すぐにこんなことをいった。
「わたし、好い気持で居眠りをしていたのよ。ほんとうに暖かくなりましたねえ」
そして、いつもの無口にも似合わず立てつづけに
饒舌をした。問いをかけられるのが恐ろしいものだから、成るだけ相手に口を開かせないようにするのだ。そのくせ、この
女は倅の事件を知っていはしないか、ということが絶えず気がかりだった。
そのうちに話題も種切れになったので、
仕様事なしに黙りこんでしまった。すると近所の女は変な顔をして、
「息子さんから暫く
音信がないんでしょう」
「ちょいちょい手紙をくれますよ……今朝もね、お前さん……」
と答えたものの、どんな手紙が来たということは云わなんだ。が、彼女はふと考えた。どうかして倅の潔白を確かめたい。慰めてほしい。新聞が間違っているんだ。倅がこんなことを
仕出来す筈がない――という自分の考えに合槌がうってもらいたい――そうした欲求がむらむらっと起って来た。
で、彼女は新聞をひろげて、
「お前さん
此紙を読んで?……奇態なこともあるもんですね」
左りげなくいったつもりだが、声が
咽喉にからみついて、眼には涙が一杯こみ上げて来た。
「わたしも随分
鈍馬ね。初めてこれを読んだときは、もう
吃驚して、どうしたらいいか解らなかったのよ。何て馬鹿でしょうね」
それでも、相手が何ともいってくれないので、
「ねえ、変じゃありませんか。ほんとうに途方もないことだ」
「まったく変ね、同じ聯隊に同じ
姓名の
兵卒が二人いるなんて」
そういってくれたので、フランソアズ婆さんは急に元気づいて来た。
「そうそう、わたしも
左様おもったの。同じ
姓名の
兵卒が二人あって、そして犯人はうちの倅じゃない……」
「兵隊屋敷のことはわたしにも解りませんがね」と近所の女はいった。「ただね、お訊きしようとおもって来たのよ。そりゃ同名異人であれば結構ですがね、
若しかそれがお前さん
許の息子さんだったら、
桶屋さんに入った泥坊も多分あの人じゃないかなんて、村では噂をしているのよ。桶屋さんで三百フランのお金を盗られた一件ね。あれは恰度こちらの息子さんが復活祭の
休暇で帰っていたときのことなんだからね」
それを聞くと、フランソアズ婆さんはすっくと
起ちあがった。死人のように蒼ざめて、両の拳をかたく握りしめていた。
「ひどいことを云ったものね、飛んでもない……そ、そんなことがあるもんですか……よくも云えたものだ……一体何の
怨みがあって、わたし達にそんな濡れ衣を着せるんだね……ああ、あの子が
可憫そうだ……わたしは、ど、どうしてもこの
証明を立てなければならない」
云うより早く、彼女は
木履も穿かずに、
上草履を突かけたままで不意に外へ飛びだすと、駆けるようにして真直に停車場のある町の方へ行った。
町へ着くと、恰度十一時が鳴っていた。彼女はすぐ汽車に乗った。が、心は少しも休まらないで、却って不安を増すばかりであった。『倅にそんなことがあるものか』という考えは
何時の間にか消えてしまって、『
若しか事実だったら……』と、そればかりが気づかわれた。
途中の
焦燥しさは、まるで
際涯もない旅をしている気持であった。畑や村が
車窓をかすめて後へ後へと消え、沿道の電線は、
鞦韆からでも眺めるように、目まぐるしく高まったり
陥ちこんだりした。
やがて目的地へつくと、今度は、事実を聴かされる時があまりに早く来たような気がして、却って身ぶるいを感じた。そして停車場を出ると、ひとりでに込みあげて来る祈祷の文句に、自分の祈願をも
綯いまぜて一心に唱えはじめた。
「おお、お慈悲ぶかい聖母さま、あなた様はこんな
事件の起るっていうことを、決して決してお許しになりますまい……今にあなた様の
御前に、御礼のお
祷りを捧げることの出来まするように……」
兵営の
厳めしい鉄門をくぐって、掃除の行きとどいた
広庭を歩いてゆくと、やがて四角い営舎が幾つもつづいているところへ出た。恰度夕暮の休憩時間だったので、兵士等は、入口の階段に腰をかけて何か無駄話しに花を咲かせていた。
フランソアズは倅から教わって、兵営内の
種々の階級のことをよく心得ていたので、一人の軍曹の前へ行って叮嚀に問いかけた。
「軍曹様、少々物をお訊ねしとうございます。わたしは、あの……」
と云いかけてちょっと
躊躇った。内心の不安を気取られては大変だと思ったのだ。
「実は倅のことにつきまして。倅はジュール・ミションと申します。第三中隊でございますが、
若しや
彼が……いいえ、
彼と面会が出来ますでしょうか」
と強いて笑顔をつくって、
「わたしは
彼の
母親でございます……
母親でも面会が出来ないと仰しゃるんですか? それはまた何故……
彼は何処におりますでしょうか。それとも病気ででも?……では、何故会えないでしょう……はい知っております……いいえ、それは存じません……捕まって……警察に……でなくって、あの、営倉に?」
がっかりして両手に顔をうずめ、
「おお、さては
真実であったか。エエ
口惜しい」
彼女はよろめきながら、そこを立ち去った。それから営倉へ行って訊くと、倅は独房に入れられているということであった。独房と聞けばいよいよ恐ろしくなった。たった独りで厳重に監禁されている倅の様子を想像すると、
堪らなく悲しかった。
とにかく町の弁護士に頼んだらよかろうと勧められるまま、彼女はふらふらと兵営を出て、或る弁護士の
許へ行って、その人から事件の内容をすっかり話してもらった。聴くと、倅の犯行はもう疑う余地もない。人殺しをやって金を盗ったことは明らかである。彼の敷布団の下から六百フランに近い金が発見されたので、包みきれなくなって、すっかり罪状を自白したということだ。
フランソアズは散々泣いて、一目でもいいから倅に会わせてと願ったけれど、
素よりそうしたことの許さるべき筈もなく、がっかりして村へ帰って行った。
倅の事件はもう村中に知れわたっていた。それで彼女は、村人から顔を見られたり物をいわれたりするのが恐ろしいものだから、夜中に
密とわが家へ帰った。
一旦家へ帰ると、今度は人を恐れて縁の下へもぐりこんだ宿無し犬のように、一歩も外へ出ようとしない。戸口は締めきり、窓には鎧戸をおろし、そして毎朝、新聞屋が戸の隙間から挿しこんでゆく新聞をば、彼女はふるえながら読んだ。
新聞には倅の罪状が詳しく連載され、なお余罪があるということまでも
載ていた。その記事によれば、証人として召喚された人達は、桶屋の金を盗ったのも倅の仕業であると申し立てたらしい。しかし倅は何ぼ何でも、わが村で賊を働くような男ではない――それだけは、誰が何といっても濡れ衣だ――初め彼女は堅くそう信じていた。けれども、終いにはそれさえ危っかしくなって来た。
それから一月経って、彼女はまた弁護士のところへ行った。が、この度は面会の手続などを
強請まなかった。そうかといって、夢々わが子に愛想づかしをしたというのではないが、只もう気恥かしさで一杯だった。
「倅はどうなるでしょうか。先生のお力で死刑だけは免れるように、どうぞお助けをねがいます」
「お気の毒だが、死刑らしいね。尤も何か酌量されるような情状でもあれば、助からぬとも限らんが」
「情状って云いますと、そりゃ
何ういうことでございましょう」
「それは判事の眼から見て、罪が軽くなるような事情をいうのさ。例えば、或る男が他人の金品を盗んだとする。しかしそれが、貧乏でわが子が
饑死するというような場合であったとすれば、裁判官もその事情を酌んで幾らか罪を軽くする。それを情状酌量というのだよ。だが今度の事件ではそうした事情もなし、おまけに初犯でもない。前にも一度窃盗をやったことがある。尤も当人は、前のは自分の仕事でないといっているがな。ああ、いいともいいとも、出来るだけの尽力はしてあげるよ」
フランソアズは、そのままわが家へ帰ったが、こんなに
疲びれて、こんなにがっかりしたことはなかった。
初めて聞いた『情状酌量』という
語を考えると、何だか気になって、居ても
起ってもいられない。裁判官に刑を軽くして貰えるような巧い口実をば、何処から手繰りだしたらいいだろう?
生憎そんな口実は一つも思いつかぬ。頭にうかぶものは、わが子の犯した恐ろしい罪業ばかりだ。どうしたって死刑を免れるということは出来そうもない。
そのうちに、とうとう公判の日がやって来た。フランソアズはまた町へ出かけて行った。それは刑場への最後の歩みにもひとしかった。汽車に乗るとまずあらゆる聖者の
御名を呼びかけてはお
祷りをささげたが、その間にも例の『情状酌量』という
語が、絶えずその単純な頭にひびいていた。そして彼女は幾度もそれをくりかえした『情状酌量、情状酌量』と。
裁判所へ行くと、他の証人達とともに、暗い、陰気くさい控室に暫く待たされた。人々は彼女の姿を見ると急に声を落して、ひそひそと何か囁き合った。やがて順番が来ると、彼女はふらふらする
歩調で、法廷の証人席へ入って行ったが、暗い控室から急に明るみへ出たので、眼をパチクリさせながらも、すぐに被告席にいるわが子の姿を認めた。彼は藍色の太い縞目のあるハンケチに顔を押しあてて、続けざまにはげしく
歔欷げていた。その哀れな姿を一目見るとフランソアズは
堪らなくなって、いきなり
起ち上って、
正面に裁判官の方へ向き直った。
彼女は自から申請して証人となったのであるが、さて、一体何を申立てようとて法廷へ出て来たのか、自分にも判らなくなってしまった。
実はこの事件については全く事情を知らなかったし、今さら云うべきこともないのであった。そんなら、何故法廷へなど出て来たのか。他に理由とてもないが、彼女は犯人の母親だから出て来たのだ。犯人を産み落して乳をやって、可愛がって育てあげたその母親だから。
彼女は訊問に対しては、大抵簡単な身振りか、不器用な言葉で答えた。法廷は水を打ったように
寂然となった。人々の同情は、この黒衣を着て
面窶れのした百姓婆さんに集まった。
「被告はお前の実子か」
判事が問うと、
「はい」
「お前は被告の素行上の欠点について、何か気づいたことはないか」
「何もございません」
「被告はこれまでに、
朋輩から何か悪い感化をうけたというようなことはないか」
「悪い友達など一人もございません。この子の死んだ
父親というのは、誰からでも好かれ、また敬まわれておりまして、至って厳格な人でございましたから、なかなかこの子が悪い友達をこしらえるどころではございませぬ。また、わたしとしても、悪いことは黙って見ていられない性分でございまして、子供の躾は、それは
八釜しくいたしたつもりでございます」
「うむ……左もあろう左もあろう……」
判事はうなずいていたが、やがて被告の方に向って、
「被告、お前は両親が律儀者であることを十分承知しておったな。その両親の好い評判をお前は利用したのじゃろう。そして殊更、母親の許に帰省しておった際に、一回窃盗を働いたのであろう。それ故、このような律儀者の子にお前のごとき悪人があろうとは、村の者も気づかなかったのじゃ。たとえ罪人でも場合によっては『自分ばかり悪いのではなく、周囲の感化をうけて遂に罪を犯した』と申し立てることも出来るものじゃ。いいか。しかしお前は、そうした申し開きも立つまいがな」
フランソアズはそれを聞くと、心中に何か非常な決心を堅めたらしく、小さな眼が涙の底から異様に輝いて、じっと首をうな垂れていた。と、彼女は突然に
確かりした声でいいだした。
「お許し下さい、判事様。もう白状しなければなりません。倅
奴が大それたことをいたしまして、大罪でございます……けれども倅ばかりが悪いのではござりませぬ……たった今わたしは、身に
疚しいことがないと申し上げましたけれど、実は嘘を申しましたので、村の桶屋から三百フランの金を盗ったのは、このわたしでございます……恰度ジュールが復活祭の
休暇で帰っていたものですから、
彼にそのことを
打開けますと、
彼は
可憫そうに……まだ若いだけに……大そう
狼狽てて、それは大変だ、お
母が
他人から後ろ指を差されることになっては困る……
一図にそう考えこんだものと見えまして……その後
彼が
他人様のお金に手をかけたのも、つまりそのお金でもってわたしの盗んだ金を返して、わたしの罪を救いたいばっかりに致したことでございます……ところが
彼は忍びこんだとき、
生憎騒がれたものですから、眼がくらんで、殺す了見もなく斬りつけたのでございましょう」
ここまで
陳べると、
呼吸切れがしてちょっと黙りこんだ。それから一段と微かな声で後をつづけた。
「わたしは、初めに
虚偽を申しました。ほんとうに罪深い女でございます。
彼に悪い手本を見せたのは、このわたし
奴でございます。
何卒わたしを罪にして下さい……そして
彼のためには『情状酌量』をお願いいたします……重々悪うございました、判事様」
フランソアズはこう云い終ると、一そう叮嚀にお辞儀をした。肩をおとし、顔を俯むけ、消えも入りたき風情であった。
裁判の結果は、無期懲役という判決が下って、倅は
辛くも死刑を免れることが出来た。
あわれな母親は、それ以来、村中から
除け者にされてしまった。
彼女は間もなく重患でどっと
床就いたが、誰一人
真身に介抱をしてくれる者もなく、あわれ寂しく死んで行った。すると村の人々は、型ばかりの念仏を唱えて、遺骸は厄介払いでもするようにさっさと墓地の片隅へ
埋めてしまった。そこは、村の墓地のうちでも一番かけ離れた隅っこのところで、どんなに天気の好い日でも、お寺の本堂や鐘楼の影さえも射さないような場所であった。
この
説話は、私が
偶々彼女の墓の
傍で、人から聴かされたのである。
墓といっても、雨風に打たれた、黒木の質素な十字架が一本建っているばかりで、それに、朽ちかけた珠数だまの
環が一筋、よじれてところどころばらばらになったまま懸っていた。そしてその十字架の表面には、次の文字がはっきりと読まれた。
フランソアズ・ミション之墓
彼女ノ一子ヲ審ケル判事 建之