小さきもの

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




裁縫おはりは出来るの」
「少しばかり致します」
煮焚にたきも出来るね」
「はい、マダム」
「毎日、朝六時からここへ来て、家の雑用と食事の仕度をしてもらいます。給金は葡萄酒代も入れて一ト月四十フランだがね、それでいいの」
「それはもう結構でございますが……ただ……」
 と女中はいいかけて、遠慮がちに口ごもった。そして、抱かれてすやすやと眠っている赤ん坊から眼を離さずに、可愛くてたまらないといった風で、その子の顔へ頬ずりをしながら、
「ただ、わたしは独りぽっちでございまして、家に人手がないものですから、この赤ん坊をつれてまいってもよろしいでしょうか。おとなしい子でございます。御覧のとおり、ちっとも泣きはしません。お台所の隅にでもおいていただけば……古い枕に寝かしておいて……ときどきわたしが乳をります。家に人がいないものですから、此子これの面倒を見てくれ手がございませんので」
 恐る恐るこう歎願すると、マダムはすぐに反対した。
「困ったね。その子、幾歳いくつなの」
「生れて三月みつきでございます」
「三月の赤ん坊を此家ここへつれて来るって? 駄目よ、旦那さまはきっとけないとおっしゃるわ、心配が大変だからね。怪我でもあったらどうするの。ひょっとして猫に喰いつかれるとか、それにまだ乳呑児なんだからね、大きな声を出したり、泣いたり……いいえ、駄目です。近所にでもあずけたらどうだね」
「そうおっしゃらずに、マダム……」
「お気の毒だがね、此家うちは駄目よ」
 女中は顔をうつむけて、赤ん坊の眼の上に接吻をした。彼女はげっそりして、もう念をおして歎願する勇気もなければ、反抗心も起らなんだ。ただ非常に疲れていて、眠くて仕様がなかった。この一週間というものは、殆んど饑死うえじにをするかと思ったくらいで、こうした返事には慣れっこになっていたのだ。
 こんなときは、何か腕に覚えがあれば助かるのだが……彼女はあいにく何も知らない。仕事を探すにしても、女中の口より外にはなく、しかも赤ん坊というこぶがついているものだから、何処へ行ってもねられた。或るときは侮辱され、或るときは気の毒がられもしたが、ねられることに変りはなかった。
 彼女は強いて寂しい微笑を口元に浮かべながらいとまをつげた。そして当てもなく街を歩いているうちに、日はとっぷりと暮れて、店頭みせさきにはあかりがついて、家々の窓が一つずつ明るくなっていった。もう夜になったと思うと、往来が妙にうら寂しく、寒げに見えた。彼女は何を考えるということもなく、何の希望もなく、只もう当てずっぽうに歩いているのであった。
 火の気は無論のこと、一きれ麺麭パンもない下宿の部屋へ帰ったって、どうすることも出来はしない。
 いつの間にか河岸かしっぷちへ出た彼女は、途方にくれながらぼんやりとそこに突立っていた。両岸は暗くなって、その間をばセーヌ河がゆるやかに流れていた。波の囁きと、水垢のにおいと、寒さで彼女はぞっとした。
 そこに眠りと安息があって、困苦くるしみの結末がつけられるではないか。と、彼女はその流れに惹きよせられるのを感じた。それは恰度、朝の起き際に、『こうして寝ていられたらどんなに楽だろう』と思うとき、その寝みだれた床に惹きつけられるのと同じ心持であった。
 そのとき赤ん坊が眼をさまして、けたたましく泣きだした。すると、彼女は今考えたことが急に恐ろしくなって、駆けるような歩調でそこを立ち離れた。
 暫く早足にとっとと歩いていたが、生憎あいにく小雨が降り出して来たので、抱いていた赤ん坊に風を引かせまいとして、その小さな顔を肩掛ですっぽりと包んでやった。そして、疲れきったふるえ声で一生懸命にあやした。
「ねんねんよう……ねんねんよ……坊やはいい子だ……いい子だね……」
 宿の戸口を入って階段を登りかけたが、息ぐるしそうにはアはアいって、一階ごとに立ちどまりながら、それでも六階の上まで登って行った。湿っぽい欄干が凍えた手にねばりついた。やっと自分の部屋の貧しい寝台に腰をおろしたが、赤ん坊がまだ泣き止まないので、彼女は濡れた胴着をはだけて乳房を出した。
 母親というものは、子供に添え乳をするところを見ると、不思議に恍惚うっとりとした眼付をして、莞爾莞爾にこにこしながら、子供の顔にやさしい接吻の雨を降らせるものだ。が、彼女は今、添え乳をはじめたと思う間もなく乳房を引こめ、悲しそうに眉をよせて唇を噛んだ。彼女の胸は気苦労のために乳もすっかりれてしまっているので、赤ん坊はそのしなびた乳房にしゃぶりついて、いたいけな指で絞りだそうとするけれど、乳はどうしても出ないのであった。
 赤ん坊はまた泣きだした。彼女はひもじさを紛らして寝かしつけようと思って、赤ん坊をゆすぶったりあやしたり、子守唄をうたったりしながら、狭苦しい屋根部屋をあちこちと歩きはじめた。その子守唄というのは、誰に教わったともなく人が聞覚えている旧い旧い唄であった。
 暫くして赤ん坊がどうやら眠ったらしいので、彼女は赤ん坊の手足をのばして、暖くくるんでやってから、そうっと椅子へ腰をおろすと、涙がしきりに込みあげて来た。今度こそはいよいよ行き詰ったことをはっきりと意識した。自分で食べる麺麭パンもない――それは我慢が出来るとしても、子供に乳がれなくなったのには、ほんとうに当惑した。私生児かくしごを抱えて、男から棄てられた彼女は、今さら誰に歎願してみようもなかった。何家どこの戸口を叩こうという当てもなかった。
 そのうちに、ふと或る考えが浮かんで来た。『いっそこの子を保育院へ捨てよう』初めこの考えが起ったとき、彼女は反感で跳びあがった。そして、
「捨てるくらいなら、この子と一緒に死ぬるがしだ」
 とも思ったが、しかしよく考えると、先刻さっきだってとても自殺をするほどの勇気はなかった。あの河水かわみずや寂しい河岸かしの景色を思いだしてさえ、ぞっと身ぶるいがするのであった。
 彼女は今、筋道を立ててそのことを熟考した。
「子供は保育院へ捨てたって、そんなに不幸なことはあるまい。あすこではものを暖かく着せてくれて、食べものも不自由はさせない……それでわたしも独り身になれば口すぎが出来る……今に奉公口がきまって、いい保護者でも見つかれば、またつれて戻ることも出来よう。だけど、この子と別れともない! この頃わたしを見覚えて、顔を見ればにっこり笑うようになった。ほんとうにわたしのものになった。それだのに、これっきり手離さねばならぬとは、何という情けないことだろう」
 彼女は決心がつきかねて、一晩中泣き沈んでいた。
 朝になって、赤ん坊は眼をさますとすぐに乳を欲しがった。彼女は赤ん坊のくなくなになった頸筋や、黄ばんで干乾ひからびた皮膚を見ると、もはや自分の力ではこの子を育ててゆけないと思った。
 で、彼女はついに赤ん坊を抱いて出かけて行ったが、途中で三、四回も方角を訊かねばならなかったほど頭がぼんやりしていた。外には雨が降っていた。赤ん坊はうえと疲れで根気がつきて、母親の肩にうとうとと眠った。母親は保育院へつくと、少しの躊躇もなく、つかつかと入って行った。
「何の用かね」
 係りの役員から問われると、彼女ははっと夢から覚めたような風で、
「子供のことでお願いにまいりました」
あずけるんだね? よろしい、その子をこっちへお出し」
 係りの人は、赤ん坊の姓名なまえ年齢としを記入してから、装飾も何もない殺風景なへやへ彼女をつれて行った。
此室ここで三十分間休息して、その間によく考えて、子供をおいて行くかつれて帰るかをきめなさい」
 戸がしまって、独りぽっちになると、彼女は初めて自分のやろうとしたことがはっきりと判った。昨晩ゆうべの癇癪がまたむらむらと起って来た。皮を剥がれ肉を絞られる思いで、今にも狂気きちがいになりそうな気がした。
「こうなれば、乞食もしよう、身も売ろう。何が何でもあの子を手離してなるものか」
 しかし、やがて、それは無分別な考えに過ぎないということに気づいた。もう二日自分の手許におけば、赤ん坊は死んでしまうにちがいないのだ。
 戸口が再び開いたとき、彼女は、古い絹紐の端につけて頸にかけていたメタルを外しながら、
「どうぞ、これをあの子につけておいて下さい」
 そういって、メタルを※母ほぼ[#「女+保」、U+5AAC、175-3]の手にあずけた。それから元気のない足どりでよろけながら、振りむきもしずにそこを立ち去った。
 昨日のように、街から街とさまよい歩いたが、眼がくらんで幾度も人に衝突つきあたった。
「あの女は酔っぱらってるんだよ」
 と人々はいった。彼女はもう街の物音も耳に入らなかった。一度馭者から『こらっ』とこっぴどく怒鳴られ、びっくりして顔をあげると、頸筋へ馬の鼻息がかかっているのであった。
「あら、御免なさい」
 彼女は跳びあがって歩道の方へ避けながら、低声こごえわびをいった。
 彼女は夢中で、何もわからなかった。赤ん坊をられて空っぽになった両の腕は、重たげにだらりと垂れていた。
 或る公園の中で、乳母達が赤ん坊に乳房をふくませたり、子供等が砂いじりをやっている前に彼女は立ちどまった。そして長いことそこにって、莞爾莞爾にこにこして子供等の遊びに見とれていたが、ふと気がつくと、眼をかくして逃げるようにそこを駆けだした。
 やがて夜がやって来た。街燈の火口ひぐちが霧にぼやけて豆ランプのように小さく見えていた。彼女はそのときに思いだした。
「昨日の今時分はあの子を抱いて、ぴったりと胸に引きつけて、頬ずりをしていたっけ……今はもう手離してしまった。捨ててしまった。何だか夢のような気がする。これから部屋へ帰って……独りぽっちで、あの子の物を片づけなければならぬのか……ああ厭だ厭だ、何て情けないこったろう」
 これまでも左様そうだったが、これからも度々見せつけられねばならぬ世間の子持ち女というものに対して、彼女は一種の嫉妬と反感がむらむらと起って来た。そればかりでなく、今のさき彼女が公園で遊びに見惚みとれた、あの無邪気な子供等までも憎らしく思われるのであった。
 昨日の謙遜と悲歎、伏し眼がちに哀願したあのしおらしい女――それはまったく別人のようであった。彼女は今、
「自分が子供を捨てた」
 ということは思わないで、
「保育院に子供をられた」
 と考えこんだ。
 保育院だなんて、あの人達は人情も何もあったものじゃない。規則がひどすぎる。あの人達は、母親が子供を手離すということは、自分の乳房やお腹をむしり取られるのと同じだっていうことを知らないんだ――そう考えると、彼女はたまらなくなって、しくしく泣きながら、爪で顔中を掻きむしった。
 やがて、とある四つ角へさしかかると、彼女は怪訝そうに立ちどまって、指を一本あげてくちを半開きにしたまま、じっと聞き耳をてた。
 四辺あたりを見まわすと、或る家の戸口の前に何だか白いものがうごめいている。屈みこんで手をさしのべたが、それがやはり悲しそうに泣きつづけているので、彼女はその白いものを抱きあげた。
 それはほんの赤ん坊――彼女のよりもっと小さな赤ん坊であった。抱いて胸におしつけると、泣き声が少し落ちついて来た。彼女はその赤ん坊をごく静かにゆすぶりながら、ぼんやり見とれていると、ふいに、今までのいかりも憎しみも一つのかぎりない温情の中へ溶けこんで行った。と、嬉しさ悲しさがまた一時にこみあげて来て、すすり泣きをしながら、矢鱈むしょうにその小さな頬っぺたへ接吻をした。
 それから足早にそこをすり抜け、赤ん坊を泣き止ませようとして、昨日わが子にしたと同じように低声こごえでくりかえした。
「ねんねんよう……ねんねんよ……坊やはいい子だ……いい子だね……」
 彼女はその赤ん坊をあやしながら宿の方へ帰って行った。





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「女+保」、U+5AAC    175-3


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