モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 最後の一すきの土を墓穴へかぶせてしまって、お終いの挨拶がすむと、父子おやこはゆったりした歩調で家の方へ帰って行ったが、その一歩一歩がひどく大儀そうであった。二人とも無言だんまりで歩いていた。長い混雑とりこみの後に起るくたびれが急に出てきて、物をいうさえもおっくうだった。
 家へ帰ってみると、ひつぎに供えた花の香気が、まだそこいらに残っていた。この数日来、多数の人の出入りやら悲歎やらで込合っていたが、今は家の中が静閑ひっそりがらんどうになって、妙に改たまった感じがするのであった。
 年った女中が一足先きに戻って、後片付をすましていた。父子おやこは、まるで長旅からでも帰って来たような気がした。そのくせ、帰りつくなりほっとして『ああ自分の家ほどいいところがない』というような、晴れ晴れした気持にはなれなかった。
 しかし家の中の体裁は、前と少しも変ったところがなく、飼猫は例のごとく炉辺ろばたにうずくまって、ごろごろ喉を鳴らしており、そして冬の日射しが柔かく窓硝子を染めていた。
 父親は炉のそばに腰をおろし、首をふって溜息をつきながら、
可憫かわいそうだったな、お前のお母さんは」
 そういったかと思うと、涙が一杯に湧いてきて、歎きと、街の冷たさと、室内の急な暖かさで赤くなったその好人物らしい丸顔を伝わって、はらはらと流れた。
 彼は暫く黙りこんで、猫の喉鳴きや、時計のチクタクや、火皿の上に薪のはねる音を聞いていたが、何だか物足りない。それ以上にもっと何かを聞きたいような心持だ。けれどまた一方には、死んだ者は永久に死んでしまったが、自分は幸いにまだ生きているという、一種の満足に似た感じを意識しながら、せがれの方へ話しかけた。
「お前はジュポン家の人達に会ったかい。野辺送りに来ていたがな。あの御老体も来てくれたので、ほんとうに難有ありがたかったよ。お前のお母さんは彼家あすこの人達が大好きだったんだ。ときに、お前の友達のプレマールは来ていたかい。多分来てくれただろうが、あのように大勢になると見分けがつかんもんだな」
 父親は再び吐息をついて、
「ああ、お前も可憫かわいそうだな」
 二十五にもなったこの大きな倅のことを考えると、彼は一層やさしく、いたわるような気持になった。そして憂鬱な眼つきで、薪の燃えるのをじっと見つめていた。
 倅は父親のそばに黙然と坐っていた。
 そのとき、老女中が音もなく戸をあけて、静かに入って来た。
「御両人ふたりさま、そう沈んでばかりいらしては困りますね、御夕食を召上らなければいけません」
 父子おやこは顔をあげた。
 なるほど有理もっともなことだ。食事をせねばならぬ。生活は元どおりにつづけてゆかねばならぬ。気持よい空腹を感じながら、心づくしの食卓につくことが楽しみだった以前とはちがって、今のは、単に胃腑いのふが空っぽになった動物のひもじさに過ぎないけれど、とにかく腹はっていた。が、場合が場合なので、腹がったというようなことを明らさまにいいだしかねていたのであった。
 今女中から注意されて、父子おやこは顔を見合った。広すぎてさびしくなった食卓に、父子おやこ二人がはじめて差向いで食事をしてみたくもあったが、お互いにそれが却って寂しさを増しはせぬかという懸念もあったのだ。
 父親はまたも涙ぐんで、
「そうそう、有理もっともだ、すぐ準備したくをしてくれ。ジャンや、お前も一緒に食べるがいい」
 倅はうなずいてちあがると、
「僕は着替えをして来ます」
 足は機械的に母親のへやの方へふらふらと行って、戸のハンドルに手をかけたとき、老女中がそっと追かけて来て、低声こごえでいった。
「ジャン様、貴方にお渡しするものがございます。お母様のお手紙ですがね、恰度八日前に、御病気がもういけないということが御自分でおわかりになると直ぐお書きになったので、お亡くなりになってからお渡しするようにという、お云附いいつけでございました。これがそのお手紙でございます」
 ジャンは怪訝そうに立ちどまって、女中の顔を見た。女中は手紙をもった手先がふるえて、妙にためらいながらジャンの様子を窺うようにしていた。ジャンは何だか只ならぬ秘密、もしくは非常に悲しいことを、今自分が知るのだと覚った。
「手紙をこっちへお出し」
 その手紙をひったくるようにして母親のへやへ入ると、夢中で戸をしめきって鍵をかけた。
 寝台の蒲団がひっそりと平らで、寝台幕がひろく開けしぼったままになっていて、暖炉には火の気がなく、すべての調度も几帳面に取片づけられて、いかにも不用になったへやらしく寂しい感じがした。
 彼は暫くそこに突立って、今女中から受取った手紙をいじくりながら、少し皺になった封筒の文字を見つめていた。その文字は常より幾らか乱れてはいたけれど、なつかしい母親の筆跡にちがいなかった。
 窓にはすっかり窓掛をおろしてあったが、その隙間から、女中が隣りのへやせわしげに食卓の仕度をしている跫音あしおとが聞えた。
 彼は封を切って、読みはじめた。

可愛いジャンへ――
永のお別れをせねばならぬ時が、いよいよ間近になったようです。わたしは恐れも、未練もなく、安心してこの世にいとまをつげます。お前が一人前の男になって、もう久しくわたしの補助たすけなしに生活しているのを見とどけたからです。わたしは、母親として最上の勤めをして来たと信じているけれど、わたし達の間には、わたしがこれまで打ちあけかねた、一つの大きな秘密があります。そしてそれは、是非お前に知っておいて貰わねばならぬことなのです。
お前が誰よりも尊敬してあんなに慕っていた母親、お前の幼少の時からあらゆる面倒を見てあげて、大人になってからは親身の相談相手であったお前の母親は、実は大変に重い罪を犯しているのです。何を隠そう、お前は自分で『お父さん』と呼んでいる人の子ではありません。
わたしは一生にたった一度、深い深い恋にちたことがあります。そして、そのことをこれまで告白しなかったのが、わたしの一等わるい落度でした。お前の父親てておや――ほんとうの父親てておやはまだ生きています。お前の成人するのを見まもっていて、そしてお前を愛しているのです。お前ももう一人前の男になったのだから、今、人生の一大事を自分できめなければなりません。お前にその気があれば、これからまったく別の生活くらしをすることも出来ます。わたしに欠けていた勇気をお前が出してくれるなら、お前は明日からでも金持ちになれるのです。
わたしは今、卑劣なことをお前に勧めている――それは自分にもよくわかっているけれど、一生涯方針を誤ったわたしとしては、死ぬる間際にこうすることも已むを得ないのです。わたしはこれまでに、いっそお前をつれて此家ここを出ようと考えたことが幾度だったか知れませんが、思いきってそれを実行することが出来ませんでした。お前のお父さんがわたしを疑るとか、叱り飛ばすとか、そうした一寸したはずみがあったら、わたしも家出をする勇気が出たでしょうけれど、お前のお父さんは只の一度もそんなことをなさらぬばかりでなく、お父さんのお心には一点の暗影くもりもなかったのです……

 ジャンはふと読み方をめた。思いもかけぬこの告白で呆気にとられたのであった。
 母は絶えずその良人おっとを欺いていたのだ。長年の間虚偽の生活をやり通したのだ。彼女はこれっぱかりも自分の秘密を、またそれについての悔恨を気取られることなしに、はなしたり笑ったりして来たのであった。
 して見ると、世間の女のそうした罪をことごとく憎んで、あらゆる誇りも歓びも尊敬もすべて『母親』ということばのうちに概括ふくめていた彼れジャンは、この家で養育されたにも拘らず、実は一個の侵入者に外ならぬのであった。そして彼は、いつも変らぬ親切と温情の権化だった好人物の父親に対して、生きた侮辱であったのだ。
 彼は、幼少の記憶をはっきりと思いうかべた。小さな子供だった頃、父の手にぶら下って街を歩いた自分の姿が眼に見えるようだ。可成り大きくなってから一度大病にかかって、何ヶ月かの間生死の境を彷徨さまようたときなんか、父が枕辺に坐って、笑顔を見せようとしながら却って涙ぐんでいたのを思いだす。その後父は事業に失敗したが、その時分のことを思えば一層難有ありがたくなる。それは、ジャンが寝床へもぐりこんでから、ふと耳にした親達の会話なんだが、そのとき母は落ちつきはらっていたけれど、父はひどく亢奮してこんなことをいった。
「おれはどうしても盛りかえして見せるぞ。煙草もめよう、カッフェや倶楽部へも行くまい。服装みなりだっておれは贅沢すぎる。とにかく子供には不自由をさせたかアないな。なアに、きに楽になるさ。おれさえすべての方面に経済をすれば、子供は感づくまい。小さい者は先きへ行って苦労せねばならないんだから、今から憂目を見せるということは余りに残酷だよ」
 こうした好人物を、母は欺いていたのであった。
 ジャンは椅子へ倒れて、両手に顔をうずめた。彼はたった今読んだ手紙の文句を思いだした。『お前ももう一人前の男になったのだから、今、人生の一大事を自分できめなければなりません』と。
 その通りだ。ぐずぐずしている場合でない。金銭上の考えはまるっきり念頭にないが、母親に欠けた勇気を奮いおこすということが問題なのだ。
 彼はいっそ何も云わずに此家ここを出て行きたいと思った。二度と帰らぬ決心で何所どこか遠い遠いところへ行ってしまいたかった。そうするとこの恥辱が自分とともに去るわけだ。こうした秘密を知った以上は、父親と食卓に向き合って、『可愛い倅』と呼びかけ、『可憫かわいそうなお母さんの思い出』を語る父の言葉をば、どうして顔を赤らめずに聞かれよう。
 ジャンは屹然きっとはらをきめた。けれどしくしく泣いていた。
「ああ、お母さん、お母さん、あなたは何ということをしたんです!……」
 平和な家庭生活もこれを限りだ。神聖な記憶のかかっている家へ毎日帰って来るという楽しみも、これっきりだ。虚偽をつづけてゆくことは厭だし、それは許されることでもなかった。
 身じろきもしずに悲しい思いにひたっていると、食堂の方で父の話し声がする。
可憫かわいそうに、倅はひどく沈鬱ふさいでいるようだな。母親のへやへ行ったのか、まアうっちゃっておけ……何だか家の様子が変って、おれも急に老けたような気がする。でも倅がいるので大助かりさ。あれは優しい子だから、おれを見棄てはしないよ」
 ジャンはふと顔をあげたが、堅く唇を噛んでいた。彼は父の話し声を聞いているうちに、考えが別の方向へ走っていった。彼の決めた方針は可成り困難であるばかりでなく、それでは自分の義務が明瞭にならないような気がして来た。
「おれを見棄てはしない……」
 そういって彼を信頼している人――寂しく年老いてゆくこの可憫かわいそうな人をば、このまま置き去りにすることが出来るものか。家出をするということが、果して、多年かわらぬこの父の恩愛と努力と克己に酬いる唯一の道であろうか。
 しかし彼はこの父の子でない。してみると、此家ここの軒下にべんべんととどまっているということはあまりに図々しく、ゆるしがたいことなのだ。直ちに決心をしなければならぬ。ぐずぐずしたら後でどうすることも出来なくなるだろう。
 ジャンは母親の手紙をしかと握っていた。彼はもう一度それに眼をやった。

……お前のお父さんがわたしを疑るとか、叱り飛ばすとか、そうした一寸したはずみがあったら、わたしも家出をする勇気が出たでしょうけれど、お前のお父さんは只の一度もそんなことをなさらぬばかりでなく、お父さんのお心には一点の暗影くもりもなかったのです……

 そのとき、食堂の方でた父親の話し声がした。
「うむ、おれは家内と二十七年も連れ添うたがな、彼女あれはまったく一点の暗影くもりもない女だったよ」
 恰度同じことばだ。同じ文句だ。
 ジャンは手紙のつづきを読んだ。

それで、わたしは今こそお前のほんとうの父親てておやの名前を打ちあけます。それは……

 恰度その頁の切れ目だったが、ジャンはここまで読むと、書簡紙が手先でぶるぶるとふるえた。一寸裏をかえせば、その男の名がジャンの眼に、いや心の奥底へ永久にりつけられるだろう。そうするともう万事休矣おしまいだ。
 と、食堂の方から父の声で、
「ジャンや、早く来ないと、御馳走が待ちくたびれているぞ」
 ジャンは天を仰いで、一瞬間瞑目した。それからマッチをすって手紙に火をつけた。彼はそれのするすると燃えてゆくのを見つめていたが、爪に火がつきそうになったので、ぱっと指を離した。手紙は黒い、四角な灰になって床へ落ちた。僅かに残っていた白い隅もきに燃えてしまった。もう何もない。
 やがて食堂の戸口から覗いてみると、人の好い父親は、そこに突立ったなりで倅の来るのを待ちかねていた。
 相変らず温情に充ちたやさしい顔をして、瞼に涙を一杯ためて両手がかすかにふるえている父親の容子ようすを見ると、ジャンはいきなり飛んで行って、幼い子供のような仕草でその曲りかけた肩へしがみついた。
 それは、この世で二度と逢えない骨肉に向ってするような熱烈な抱擁だった。そして泣きじゃくりでもしているような涙声で彼はいった。
「お父さんだ、僕の大切だいじ大切だいじなお父さんだ」





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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