蕩児ミロン
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳
若くもなければ美人でもないあの女に、ミロンがどうしてあんなに惚せたのか、それは誰にもわからぬ謎であった。
ミロンはそれ以来、親友にも疎くなり、始終彼を見かけた場所へも、ぱったり顔を見せなくなった。そればかりでなく、彼は芸術のためという真摯な態度を棄ててしまって、下らない糊口的の絵を描きだした。
或るとき旧友の一人が彼を諫めた。
「君は馬鹿だな、ミロン。君はこの頃下らん仕事ばかりやっているものだから、腕が荒ぶのだ、芸が堕落するんだ」
するとミロンは肩を怒らして、
「馬鹿を云え」
とせせら笑った。それでも友人はミロンのゆたかな天分を賞めて、彼が以前大いに画壇に名を成そうと意気込んでいた時分のことを云いだして飽くまで反省させようとすると、ミロンはあべこべに向っ腹を立てて、
「天分が何だい、盛名が何だい、笑わしやがらア。おれなんか、そんなものにあこがれていた時分はな、屋根裏にくすぶって、一日一食しか食えなかったんだ。そのくせ『彼奴はきっと大家になるぜ』なんて人がいってくれたもんさ。今は誰もそんなことをいう奴がない代りに、飯はたらふく食ってるんだ。おれは暢気で幸福だよ。素的に幸福だよ」
こう云いすてて、さっさと行ってしまった。だが、友人の姿が見えなくなると、彼はそこいらのカッフェへ飛びこんで、空っぽになった酒杯を前に、何時間もぼんやりと考えこんでいるのであった。
ミロンは嘘をいったのだ。彼は決して幸福ではなかった。初めのうちは恋愛で夢中になって、何もかも忘れていた。新生活に必要な金をこしらえるために、つまらない小品画や新聞雑誌の挿絵などをむやみと描きなぐった。が、あまり厭な気持がするときは、
「なアに、おれだって今に真面目な製作をはじめるんだ」
そう思って僅かに自分を慰めた。しかし時が経つにつれて、その決心もおとろえて殆んど臆病にさえなった。今では胸のそこに憂鬱な悔恨がきざして来て、ひそかに自分の腑甲斐なさを恥じているのだが、恋ゆえにだんだん深間へ引きずられてゆくのを、どうすることも出来なかった。
そのうちに借金がどんどん嵩んで来て、債権者からは責められる。それがために情婦と喧嘩がはじまる。そんなことで苦しまぎれに、彼はとうとう不正手形を振りだした。
初めどうにかして金をこしらえて、その手形を落すつもりであったけれども、生憎仕払日の前日になっても金の工面がつかないものだから、彼は途方にくれてついに夜逃げをした。
人目につかぬように、まず一人で出発した。情婦も後からやって来る約束だった。彼はその約束を信じきっていたので、その晩隠れ場所へつくと、殆んど何の煩悶もなくぐっすり眠こんだ。
翌くる日は女からの手紙を待ちわびていると、晩になって『ユカレヌ』という簡単な電報が一本とどいただけであった。
彼は茫然自失した。女がこんな電報を書くわけがないと思ったが、しかしよく考えると格別腹を立てることもなかった。
「彼女が来ないのも無理がない。おれはお尋ね者なんだからなア」
そう思って、彼はあきらめた。
失恋の痛みとともに、理想に向ってひたすら精進した頃の自分をふりかえって、今の堕落した姿にひき較べると、彼はまるで迷子になった子供のようにげっそりして、何ともいえない遣る瀬なさがこみあげて来るのであった。いっそ巴里へ引返して、自首して、潔よく刑罰をうけようかとも思った。
彼は己れを恥じて涙におぼれるほど泣いた。
自分のような男は、社会から葬られるのが当然である。けれども法廷、監獄――そんなことを考えるとさすがに気おくれがした。巧みに踪跡をくらましておれば、そうした恥辱から遁れることが出来そうにも思われたからである。
しかし何故そんなことが気になるのか。妻や、両親や、友人や、その他尊敬する人々に累を及ぼしてならぬ場合とか、有名な人物であって名声が惜しいという場合なら格別だが、無係累で無名の彼が何でそんなことを思い煩う必要があろう。
彼は一枚の新聞を取りあげて、何心なく読んでゆくうちに、さっと顔色を変えた。『ミロン画伯の失踪』という大標題のもとに、長々しい記事が載ているではないか。
彼は幾度もその記事を読みかえした後で、ふと考えた。会計係が公金を拐帯したの、偽せ金使いが捕まったのということは、毎日のように起る事件で、人が殆んど注意を払いはしない。それだのに、おれが夜逃げをしたことを世間が大問題にしている。官憲はおれの行方を捜している。そして新聞がこの記事に多くの紙面を割いただけ、それだけおれの天才は社会から認められているのだ。してみると、おれは無名の一画家ではない。いつの間にか問題にされていい人物になっていたのだ――
そこまで考えると、急に入監ということが恐ろしくなって来た。恥と、恐怖と、自尊心で懊悩煩悶した。それから彼は幾日かを室に閉じこもって、もしや窓下へ警官がやって来はせぬかと、路地を通る跫音にも気をくばった。新聞も毎日熱心に注意して読んだ。
ところが『ミロン画伯失踪』の記事は、やがて一面から二面へ、二面から三面へと移されたが、彼の名がまったく出ない日が二日つづいて、その後三、四度ちょっぴり余聞のような雑報が載て、それっきりぱったりと杜絶えてしまった。もう彼の噂をする者もなく、警察でも捜査を止めたらしい。
彼は虎口をのがれた思いがした。もう何処へでも出歩ける体になった。漸とのことで自由を得たのである。
しかしそれにも拘わらず、彼は実に遣る瀬ない孤独を感じた。
やがて貧苦がやって来た。彼は仕事を探しはじめた。だが一体何をやったらいいのか。油絵、挿絵――いや迂闊りそんなものを描いたら大変だ。自分の画風が看破されて、忽ち足がつくだろう。
けれども糊口のためには、何か仕事をやって金を得なければならぬ。そこでまず教師の口を探したけれど、駄目だった。何処か事務所へ勤めようとしても、身元証明書が得られぬのでそれも出来なんだ。それで已むを得ずあらゆる種類の端た仕事に働いた。恐ろしく惨な筋肉労働さえもやった。服は破けて、汚点だらけになり、容貌はじじむさくなって、髪にも髭にもめっきり白髪がふえた。
「おれはもう駄目だ。いっそ自殺をしよう」
悲愴な決心をしたことも幾度だったか知れないが、いよいよという時になるとさすがに気おくれがした。
しかも心は絶えず昔をふりかえって、あの小さな画室で途方もなく大きな理想をえがいていた時分のことを思いだすと、何となく胸の底から希望らしいものが頭をもたげて来るのであった。
こうして歳月は流れて行ったが、どうにかして昔の自分に立ちかえるか、左もなくばもう一人の自分を創り出したいという、已みがたい欲求に囚われるようになった。そこで彼は更に辛苦を重ねた。食うものも食わずに、或るときは野天に寝たりして、零砕な金を蓄えはじめた。そうして一銭一銭と積んでゆくうちに、それが漸く少しばかり纏まった額に達した。
と、不思議にも若々しい活気が旺然と盛りかえして来た。そこで彼は白壁にでも、卓子の隅にでも手当りしだいに絵を描きはじめた。そうなると、眼に入るものが悉く絵になって見えるのであった。そしてふところに百フランという金が溜まると、彼はいきなり汽車に乗りこんで、仏蘭西へ――巴里へ帰って来た。出奔してから十五年目で彼は帰ったのだ。
誰が彼を思いだそう。殆んど白髪になった頭と、長い頤髯と、脊が弓なりに曲った彼の姿を見て、誰が昔のミロンを認めよう。
彼は初め怖けて滅多に外出もしなかったが、追々と大胆になって来て、時たま美術店の前へ素見しに出かけたりした。その飾り窓に陳んでいる絵の中には、彼の修業当時から有名だった諸大家のほかに知らない新進大家の作もまじっていた。彼はそれらの絵をじっと見くらべていたが、曾て自分の技倆を誇ったことのない男だけれど、そのとき初めて確信を得たもののように、独りごとをいった。
「おれなら、もっと巧く描けるぞ」
彼は早速画布を一枚と、絵具と絵筆とを買って来て、旅宿の室で描きはじめた。
まるで長患いから癒りかけた患者のように、危っかしい手つきでふるえながら絵筆をはこんでいたが、やがてそれが仕上がると、一日一杯その絵を眺めながら考えた。
「いったい巧いのか、拙いのか」
彼はその出来栄えについて判断に迷った。が、思いきってロリオ――という出鱈目な名前で落款をした。それからその絵を小腋にかかえて、或る美術店へ出かけて行った。
「僕は絵師なんだがね、貧乏で困っているので、絵を一枚買ってくれませんか」
「誰方の御作ですか」
「ぼ、僕が描いたのです」
「先生の御姓名は?」
「ロリオ」
「へえ、お気の毒ですが、只今は誰方のもお断りしておりますので」
ミロンは蒼くなった。そしてぐっと唾をのみこんで、画布を突きつけながら、
「見るだけでもいいから、見てくれたまえ」
美術商はちらとその絵をのぞいて、つかつかと前へ寄って来たが、一目見るとびっくりして、
「うむ、これは偉い」
とすぐに仲間の者を呼んで、
「おい、此絵を御覧。どうだい」
仲間はその画布を手に取って眺めていたが、低声で、
「拙かアないね」
「拙くないどころか、素晴らしいもんだ」
「その爺さんが描いたのかい」
「そうだよ」
二人は暖炉棚の前で絵に見入りながら、ひそひそ話をはじめた。
「素的なもんだね、実に素的だ」
「誰に似ているかわかるだろう。尤もこの方がずんと偉いんだがね。そら、あの小品にそっくりじゃないか、放蕩者のミロンのさ」
戸口の隅のところでじっと待っていたミロンは、それを聞くと起ちあがって、
「な、何だって?」
「いや、放蕩者といったのは、先生のことじゃありません」美術商は笑いながら、「今、絵のお噂をしていたんですがね、先生の絵はミロンという画家の作によく似ていますよ」
「え、ミロンに似ているかね、ミロンに」
彼は不思議そうに自分の本名をくりかえした。
「ええ、此店にもミロンの小品が一つありますがね、先生はあの画家を御存じないんでしょう」
「知ってるよ」
「先生の絵は筆法といい、画趣といい、ミロンにそっくりですよ。もっとも先生の方がずんと巧いんです。商売柄こんなことを正直にいっちゃ可けませんがね」
「いや、僕のが好いということもないさ」
とミロンは店先に懸っているその小品の方へ眼をうつしながら、いった。
「どういたしまして、先生は立派に腕が出来ていらっしゃるけれど、ミロンなんかは、ただ器用に描きなぐったというだけのもんです。較べものになりやしません。ですから先生、どんどんお描きになって私共へもっていらっしゃい。先生の御作なら何枚でもお引受けして、片っ端から捌いてお目にかけます。それで二ヶ月もしたら人が先生の絵に目をつけはじめます。そして二年の後には一流の大家です。そのときはミロンなんか世間から忘られてしまいますよ」
ミロンは聞いているうちに、顔が蒼ざめた。昔ならそうした讃辞を喜んだでもあろうが、今の彼にとっては、それは苦痛の種であった。彼が心ひそかに愛慕していたのは、ミロンという昔の自分に外ならなかった。わが身でありながら二度と名乗ることの出来ないミロンが恋しいのであった。ロリオなんて奴が成功しようと、名を挙げようと、彼にとって何の意義があろう。ロリオは彼の本名でない。否、ロリオという者は彼の本尊であるミロンを蹴落そうとする赤の他人で、しかもそのミロンという名を永久に抹殺しようとしている恐ろしい競争者なのだ。
美術商はなおくどくどと巧い話をつづけたが、ミロンはもう聞きともなかった。てんで耳を傾けてもいなんだ。彼は想像した――客がミロンの絵を買いに来ると、この男はロリオの絵をば客の前へ突きだしてしたり顔にいうだろう。
『ミロンなんかよりもずっと好いのがあります。まア御覧なすって下さい』
ミロンはそれを思うと堪らなかった。彼は恰かも果敢なく失った恋を歎くような心持で、自分自身を弔った。
「ところで先生、いか程御入用なんですか」
訊かれて、ミロンは悲しげに眼をあげたが、相手の言葉が呑みこめないような風であった。
「御承知のとおり、初めっから十分の報酬を差あげるということは出来ません。半年や一年の間は、何といっても惰勢でミロンの方がロリオよりも売れましょう。新らしい作家のを売りだそうとすれば、顧客に対しても当分の間宣伝ということが必要なんですからね。その代りにその後はもう、ミロンなんか影も形もなくなってしまいますよ」
画家は相変らず黙りこんでいた。美術商は、報酬が少いから相手が躊躇っているのだろうと推量したので、
「それでは、うんと奮発して……」
といいかけると、ミロンは手をふって、
「いや、僕は時機を待とう。また来るよ」
「左様ですか。でも絵はおいて行って下さい。飾り窓の目立つところへ、ミロンのと入れ替えておきましょう」
「厭だ」
「無茶を仰しゃらないで、よく考えて御覧なさい。こんないい機会を遁すなんて、随分御損なお話じゃありませんか。実際、私どもが今貴方にしてあげるくらいに優待したら、ミロンだってあんな馬鹿な真似をしないで、ずっと巴里にいられたでしょうよ、夜逃げなんかしなくてもね」
「それは左様かもしれんが」
とミロンはつぶやいた。彼はふるえていた。
「ですから諾といって下さい。わざわざお持ちになった絵をまたもって帰るなんて、あんまり子供らしいじゃありませんか」
「折角だけれど、返してくれたまえ」
「だがそれは……」
「返してくれたまえ」
ミロンは嗄がれ声で頑張った。眼はもの凄く光っていた。
「残念なこった。私どもは、先生をミロンよりも有名な大家にしてあげるつもりなんですよ」
「それは左様かもしれんが」
ミロンはもう一度低声でそういって、其店を立ち出でた。
日はとっぷりと暮れていた。
足早に街を急ぐ人々は、ぼんやりしているミロンを突きとばしてぐんぐん行き過ぎた。
それは湿々した陰鬱な晩であった。恰度十五年前に夜逃げをしたときもこんな晩であったことを、ミロンは思いだした。
彼は絵をかかえたまま歩道の上にぼんやり突立っていたが、何を思ったかその絵を高々と振りあげると、折しも車道を向うから驀進して来た馬車の前へぽんと投りだした。
「何か落ちましたぜ」
誰かが注意すると、
「ええ、難有う、知っています。何でもないんです」
その瞬間、額縁が馬蹄に蹂みにじられ、車輪がその上を轢き過ぎた。殆んど音もしないくらいだったが、馬車の通った跡を見ると、ずたずたに破けた画布が泥の中へ滅りこんで、灰色の断片が少しばかり、紙屑でも捨てたように残っているだけであった。
ミロンは踵をかえして、再びかの美術店の飾り窓の前へやって来た。夜霧のために燈火がぼやけていたけれど、飾り窓の中には、以前に描いた彼の小品が目立つ場所にかけられ、金色の枠に『ミロン』という彼の本名がはっきりと読まれた。彼はやさしくも熱心な眼ざしでじっとその絵をうち眺めた。
過ぎ去った日の思い出や、現在の境涯など、そこはかとなく心にうかんで来た。涙が一ト雫ほろりと頬を伝わった。
「哀れな老人」
こう独語をいって、やがて鋪道を濡れ光らせている小雨のなかを、彼はとぼとぼと帰って行った。
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
1928(昭和3)年6月23日
初出:「新青年」
1926(大正15)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「徒労」です。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2025年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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