麦畑

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 ジャン・マデックは、ゆっくり調子をとってさっくさっくと鎌を打ちこんでゆくと、麦穂は末端はしをふるわせ、さらさらと絹ずれのような音を立てつつ素直にふせるのであった。
 ジャンは歩調を按排あんばいしながら、器用な手捌きで前へ前へと刈りこんで行った。うしろには刈られたあとの畑が鳶色の地肌を現わし、そのところどころに小石原があって、褐色になった麦藁が厚く毛羽立っていた。
 年った母親は、ジャンの後から腰をかがめて、散らばった落穂を拾いあつめていたが、彼女の重い木履サボを引きずっている足や、皺だらけの節くれだった手や、襤褸衣物ぼろきものを着たその胴体だけを見ると、まるで獣が四つ足で這っている恰好だった。
 太陽が地平線から昇ると、炎熱があらゆるものを押しつつんで、田園全体が痲痺したようになり、そして耕地は爛熟した大きな果実のごとく、何ともいえない甘酸あまずっぱい香気を発散するのであった。
 婆さんは落穂をひろいながら、口の中でぶつぶつと呟いた。
「コレ、嫁は今時分まで何をしくさるだ。何時になったら来るかの」
正午おひるには皆んなの弁当をもって来るよ」
 婆さんは肩をゆすぶって、
「何にしても、楽なもんじゃのう」
「なアに何家どこかかあも同じことよ。彼女あれはここへ来ても、小舎うちにいても、せっせと仕事をしているだ」
「ふむ、彼様あねえな仕事をな」
 婆さんはなお地面を掻きながら、独りごとのようにいった。
「旦那は今朝はまだここへ来ねえようだの。大方彼女あれそばにべたべたとくっついて、手助けでもしてござらっしゃるだろうさ」
 ジャンは鎌の手を休めて、
「何いうだ」
「うんにゃ、何でもねえだよ。話がさ……ただ……」
 ジャンはまた刈り進んで行った。が、婆さんはもう一度独りごとのように呟いた。
「お前の死んだ父親てておやという人は、彼様あねえな真似大嫌いでのう。あの人が野良へ出たあとでは、わしは只の一度だって、旦那の話相手になんかなったことねえだよ」
 ジャンはまた顔をあげた。
「何だっておれに其様そねえな話をするだ」
「何でもねえがの、父親てておやはお前なんかよりも気が廻っていたっていうことよ」
 するとジャンはすっくと立ち直って、
「な、何だって? そねえなこと云うからには、何か理由わけがあるべえ」
「あるとも」婆さんは相変らず腰をかがめたままで、「皆がお前やセリーヌの噂をしているだ。何のかのとうるさくいっているだよ」
「誰がさ」
「誰ってこともねえがの……皆ながよ……もっとも無理アねえだ、眼にあまることは見まいとしても見えるものだで」
「出鱈目いっているだ」
 しかし、婆さんはせがれの打消しを聞かぬふりをして、爪先で土塊つちくれを弾きながら、
「お前のためを思えばこそ、此様こねえなこともいうだよ。わしはお前の母親でねえか。隠し立ては厭だからのう、後で怨まれるか知んねえが、云うだけはいっておくだ」
「皆んな出鱈目だっていうことよ。セリーヌはいい女房かかあで、よく働いてくれるだ。それに、おれはこれっぱかりも彼女あれに不自由はさせてねえだから、彼女あれが何でおれを袖にするもんか」
 婆さんはどっちつかずの身振りをして、
「知れたもんじゃねえわさ」
 といったが、ふと調子をかえて、
「うんにゃ、わしは悪口をいうでねえ。利益ためを思えばこそいうだよ。彼女あれなんかは若い盛りでのう、まだ面白い思いがしたい年頃じゃ。土曜日っていうと、市場へ行くのに、しゃれた服装みなりもしたいじゃろ。誘惑まどわしにかかるのは早いもんでな。それに、初めは何でもないように思われるもんじゃ。男の方でリボンだ、ショールだ、櫛だ、時計の鎖だと、いろんなものをれる。そんで貰った女は、出物を安く買ったとか、往来で拾ったとかいうだ。それは左様そうかも知れねえがの……」
 婆さんの一語一語がジャンの胸をえぐった。先日こないだ女房が地主の旦那と一緒に町へ出かけて行って、夜になってから帰って来たことがあったが、その日曜日には、彼女が木理もくめリボンをつけ、薄紗うすしゃのショールをかけていたのを彼は思いだした。殊に黄金きんの鎖が目立った。しかも彼女はそれを往来で拾ったといっていたのだ。
 婆さんは例の単調な声で話しつづけた。
「わしは彼女あれの悪口などいいともねえがの、亭主っていうものは、年中かかあそばにばかりくっついていられるもんじゃねえだ。毎日野良へ出なけりゃなんねえし、また兵隊の召集で、一月も小舎うちを空けることもあるべえに」
 ジャンはもう、母親の言葉なんか聞いてはいなかった。鎌をいてその上に腕をくみ合せ、何処を見るともなくきょとんとした眼つきをして、はてしもなく種々いろいろなことを思いだしていた。些細な出来事までも記憶にうかんで来たが、それ等はみんな母親の暗示を裏書きする材料なのであった。
 女たらしの主人は、他の作男にはがみがみ小言をいうくせに、自分にだけ特に優しく目をかけてくれる。それというのも、女房かかあ婀娜女あだものなせいにちがいない――そう考えて来てふと思いだしたのは、もう一週間経てば軍隊の方へ一ヶ月も召集されて、その間留守にせねばならぬことであった。
 そのとき、耕地のはずれの大木の下から人の呼び声がしたので、ジャンはふと顔をあげると、黄金こがね色の麦穂の上から、彼の女房の上体がちらと浮きあがった。と思うとそのうしろの数歩離れたところに、つば広の帽子をかぶったあから顔の主人が、太短いステッキを振りながら畑の間を歩いているのが見えた。
昼食おひるだよう」
 晴々した声がひびきわたると、麦畑の処々からぽつぽつちあがった作男等は、皆んな木蔭に集まって来て、やがて昼食ちゅうじきをはじめた。
 その中で、ジャンは独り黙りこくって麺麭パンいていると、
「どうしたんだ、マデック、いやに沈黙むっつりしているじゃないか」
 主人が声をかけると、
「お前さん、気分がわるいんじゃないの」
 と女房も聞いた。
「うんにゃ、お日様にひどく照りつけられたせいだよ。小舎こやで休んだらええかも知んねえ」
 すると主人は莞爾にっこりして、
「うむうむ、それがよかろう」
 昼食ちゅうじきを終えると皆んなが昼寝をした。少し涼しくなるまで骨休めをする習慣になっているのだ。
 ジャンはしかし、眠らなかった。腹ん這いになって頬杖をついて、じっと考えこんでいた。
 二時が鳴ると、作男等は起きだして仕事にかかった。そよとの風もない黄金こがね色の麦畑に、さっくさっくと刈り込む節調的リズメな鎌の歌がまたつづいた。
 皆んなが仕事をやっている間、主人は長々と寝そべって、眠そうな声でジャンの女房を呼んだ。
「おいセリーヌ、お前縫針を持ってるかい」
「ござりますよ、旦那さま」
「そんならここへ来て、わしのブルーズを繕うてくれ。乳牛うしは皆んな牧場まきばへ放してあるし、あれ等を牛舎こやへ入れるまでにはまだまだ間がある。おお、ここも暑くなって来たぞ。わしは林檎りんごの樹の下へ行っているから、お前もたばねが済んだら彼処あすこへ来てくれないか。あぜを歩くんだぞ、麦を倒すとけないからな」
 男女ふたりぬすみ笑いをした。ジャンは注意していたので早くもそれを見て取った。そして彼は何か物をいいそうにしたが、そのまま黙って首をうな垂れて自分の持場の方へ歩いて行った。
 婆さんが小舎こやへ帰ってしまったので、今度は女房が彼の後について来た。
 女房が束をしめあげたとき、彼は振りむきもしずに声をかけた。
「お前は先刻さっき旦那のおっしゃったことを聞いたかね」
「ああ聞いたよ」
「そんなら、何でぐずぐずしているだ」
「今行くよ」
 かがんだままに、乱れた後れ毛を掻きあげてから、両手を腰へあてて、派手な裾着すそぎの下でくるっと胴体をひねると、彼女は矢車菊を一本くちくわえて、畦づたいにすたすた歩きだした。
 彼女の姿は海にでも入るように、次第に草の中へかくれて行った。そして彼方むこうの林檎の樹のところで全く見えなくなったとき、ジャンは再び刈り方をつづけた。
 彼はしかし、午前中のような落ちついた軽快さを失っていた。性急せっかちに進んだかと思うと、突然手を休めたり、また思いだしたように遣りはじめたりするのであった。うつ向いて、口を堅く結んで、額にはむずかしそうな八の字をよせていた。
 婆さんに聞いた言葉の一つ一つが、胸の中で新酒のように醗酵して来た。※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみのあたりがずきんずきんして、総身が憤恚いかりで酔っぱらっているようであった。最初は半信半疑だったけれど、今の先目撃した事実によって、それが間違いのない、しかもいよいよ確かなことのように思われて来たのだ。
 彼は前へ前へと刈り進んで行ったが、何だかあの林檎の木蔭で女房と主人が笑い交わしたり、接吻したりしている容子ようすがまざまざと眼に見えるような気がした。
 全身の力を腕にこめてぐんぐん刈ってゆくと、後ろには麦穂の束が続々ところがり、そして、鎌に喰われたあとの畑が急に広々となって見えた。彼は血気さかんな時分でさえ、こんなに仕事のはかどったことがなかった。
「おうい、一日で刈り仕舞いにするかよう」
 遠くの方から、作男の一人が声をかけると、
「そうかも知んねえ」
 とジャンは腰ものばさずに答えた。
 やがて、かの林檎の樹から数メートルのところまで進んで行ったとき、彼はふと手を休めて、聴き耳をたてると、そこにひそひそ話が聞えた。それは確かに女房の声で、
「厭……あの人に見つかると大変よ」
「しっ、あれはまだ向うのはずれにぐずぐずしているんだよ。ここまで刈って来るには、半時間も間のあることだ……どれ、もっとそばへお寄り」
 ジャンは陽にけた顔を真蒼にして数秒間立ちすくんだが、屹度きっと思い定めた風で再び刈り進んだ。しかし今度は歩調をゆるめて、音を立てないように静かに鎌を捌きながらやってゆくと、もう少しでかの林檎の樹の下へ出ようとするとたんに、ふと接吻の音が聞えて来た。
 ジャンはすっくとちあがると、物すごい形相で鎌を振りあげたが、その刃先が陽にきらめくよと見る間に風を切って打ちおろされた。きゃっ消魂たまぎる叫びとともに宙に飛んだ二つの首級くびがもんどり打って地面へころげ落ちると、さらさらという音がして、折れた麦穂を鮮血あけに染めた。と、真紅まっかになった鎌が高くほうりだされた。
 ジャンは鎌を投げ棄てると、血染めの両手を振りながら叫んだ。
「誰か来てくれい。人がいたとは知らねえで、おらアどえれえことをやっただ!」





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年2月25日作成
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