闇と寂寞

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 彼等は三人とも老ぼれ、衰えて、見るも惨めな有様であった。
 女は二本の撞木杖しゅもくづえにすがって、やっとのことで歩いていた。一人の男は、両手を前へ突きだして、指をひろげて、眼は堅くつぶっていた。盲目なのだ。もう一人の男は、頑固かたくなな相好で顔をうつむけ、身内の方々に苦しいところでもあるらしく、不安な眼つきをして、いつも黙りこんで二人のあとにとぼとぼとくっついていた。これはおうしなのだ。
 噂によれば、撞木杖の女は姉で、めくらと唖はその弟で、大変に仲のいい姉弟きょうだいだそうな。この姉弟は何処へ行くのにも必ず三人一緒だった。
 彼等は同じ乞食でも、白昼に教会堂の入口に出しゃばって、否応なしに参詣人の施しを狙うような汚い乞食の仲間には入らなかった。彼等は強請ねだるのではなくて、単に哀願するだけであった。彼等はいつも薄ぐらい路地などを歩いていた。不思議な三幅対さんぷくつい――もっと適切にいえば、老衰と、闇と、寂寞じゃくまく
 ところがこの姉は、或る晩、町はずれの見附門のそばのあばら屋の中で、二人の弟の手に抱かれながら、声も立てないで静かに呼吸いきを引きとった。そのとき、唖は姉が断末魔の苦しそうな眼つきを見た。盲は握っていた手首にはげしい痙攣を感じた。それだけであった。彼女は無言のまま永久の沈黙に入ってしまったのである。
 その翌くる日、町の人々は珍らしく、この乞食が男の兄弟二人っきりで歩いているのを見た。
 二人は終日いちにち方々をさまよい歩いた。麺麭パン屋の前で立ちどまりもせなんだけれど、麺麭パン屋では例日いつものように少しの麺麭パンを恵んでくれた。日が暮れて、暗い街々にあかりがつき、閉まった鎧戸の蔭では、どの家もランプのでぱっと陽気になる時分、二人は貰いあつめた銅貨で貧弱な蝋燭を二本買い求めて寂しい小舎こやへ帰って行った。そこには粗末な寝床の上に、姉の遺骸が、枕頭まくらもとにおいのりをする者もなく寂然ひっそりと横たわっていたのである。
 兄弟は死人に接吻をした。間もなく、世話をする人々がやって来て、遺骸を棺へれてくれたが、棺桶の蓋をしめて、それをば木でこしらえた二つの台の上に載せてから、皆んな帰って行った。後は兄弟が二人ぽっちになると、一枚の皿に黄楊つげの小枝を供え、買って来た蝋燭をともして、最後のあわただしい通夜をするために、棺の前へ坐った。
 屋外そとでは、北風が建てつけのわるい戸の隙間へ吹きつけ、内では、二本の蝋燭の短くふるえる灯影ほかげが、黄色い二つの汚点しみのようにぽっかりと闇をつらぬいていた。
 夜は森閑と更けてゆく。
 兄弟は長いことじっと坐って、おいのりをしたり、いろいろな思い出をたどったり、恍惚うっとりと考えこんだりしていた。
 泣くだけ泣いてしまうと、二人とも、うつらうつらと居眠りをはじめた。
 眼がさめても、依然として夜であった。二本の蝋燭のあかりは、まだちろちろしていたが、燃えて可成り短くなっていた。黎明よあけに近いので、ぞくぞく寒気がした。と、その瞬間、二人はふるえあがってさっと身をかがめた。幽霊が現われるか、でなければ何か物音が起りそうな気勢けはいがしたからだ。それでじっと様子を窺っていたが、格別何事もなさそうなので、今度は寝床へもぐりこんでおいのりをはじめた。
 間もなく、彼等は又もぎょっとして起きあがった。これが一人だったら、つまらぬ幻想にだまされたと思ったかしれない。盲ばかりとか、唖ばかりだったら、気のせいということも云えるだろう。が、こうして二人を驚ろかした以上――眼と耳を同時に惹きつけた以上は、てっきり何か異常な事件が起ったに違いないのだ。二人はそこまでは合点が行ったが、さて実際に何が起ったかは判らなかった。
 彼等は、二人揃えば何事もはっきりするけれど、離れ離れになると、まるで不完全な、悩ましい考えしか起らぬのであった。
 唖はむっくりちあがって歩きはじめた。と、盲は恐怖でしめつけられたような声で、弟が唖であることも忘れて、問いかけた。
「どうした、どうした。何故起きたんだい」
 唖の跫音あしおとにじっと耳を澄ましていると、行きつ戻りつときどき立ちどまっては、歩きだして、また思いだしたようにぴたりと立ちどまる。盲は耳で判断するだけなので、妙に怖気おじけが出て、歯の根ががたがたふるえだした。そしてもっと何か云おうとして、やっと気づいた。
「駄目駄目。あれ金聾かなつんぼだっけ。だが、一体何が見えたんだろう」
 ところが唖は眼をこすりながら、なお暫く歩き廻っていたが、別段怪しいこともないので、また寝床へもぐりこんで、そのままてしまった。
 盲は、あらゆる物音が杜絶えて森閑しんとなると、ほっと安心して、またおいのりをはじめた。それから単調な声で聖歌を唱えているうちに、頭がぼうとして、やがてねむりが落ちて来て、自然と身内の闇が明るくなってゆくようであった。
 うとうとと夢に入りかけたとき、何だかさわさわという物音がしたと思って、仮睡まどろみからさめた。それは今のさき彼等を愕然ぎょっとさせた、あの物音に相違ないのだ。
 何か引掻いているかと思うと、板を軽く叩くような刻みが入って、また怪しくこする音がする。それに、息づまるような忍び声がまじっている。
 盲は思わず跳びあがった。が、唖は相変らず眠っていて動かない。
 盲はひしひしと恐ろしくなって来た。
「おれは何だってあの物音で狂人きちがいのようになるんだろう。暗がりでむやみと音がする……弟はよくているらしい。だが、たった今、あれがおれのそばを歩いている跫音あしおとがしたっけ……あれ呼吸いきがおれの顔にかかったではないか。してみると、あれは起きていたんだな……そら、あの音だ……風だろうか?……風だけかな?……いや左様そうじゃない。風の音ならおれもよく知ってるが、あの音はこれまでに聞いたことがない……何だろう……はてな……」
 彼は拳を噛みながら、ふと考えた。
「ひょっとすると? そんな筈はないんだが……いや左様そうかもしれないぞ……そら来た……又だ……だんだん大きくなって来る……今度は確かだ……そら、引掻いている……叩く……おお、呻いている……呼んでいる……声だ……姉の声だ。姉が泣いている……助けてくれい」
 彼は寝台の脚のところへころげこんで呶鳴った。
「フランソア、起きて助けてくれい。たた大変だ」
 恐怖がひしと彼をつかんだ。彼は髪をかきむしりながら喚き立てた。
「大変だ……お前は眼があるんだ。見てくれい」
 例の怪しい呻き声がはっきりして、叩く音がだんだん荒々しくなって来た。盲は弟の方へ行こうとして、手さぐりで壁に触りながら、家具の代用に使っている破れ箱に突当ったり、でこぼこな土間のくぼみにつまずいたりした。
 幾度も転げては起きあがり、方々に傷をこしらえて、血だらけになって泣きながら、
「おれは眼が見えない。おれは眼が見えないんだ」
 まごまごしているうちに、黄楊つげを浸した皿をひっくりかえしたが、彼はその陶器が地面に砕けた音で、かっ逆上のぼせてしまった。
「助けてくれ。おれは何をやったんだろう。助けてくれい」
 そのとき例の物音がまた起った。今度は一層はっきりと不気味に聞えた。それに、けたたましい叫びが一声闇をつん裂いたので、いよいよ只ならぬ事件が起ったのを確かめた。盲はその見えない眼の蔭で、恐ろしいことを占断うらなった。いや、彼はそれをありありと見たのだ。
 経帷子きょうかたびらを着た年った姉が、棺桶の横木を破ろうと藻掻いている有様を彼は見た。この世のものでない恐怖、あらゆる死人より千倍もむごたらしい姉の苦患くげんを彼は見た。姉はそこに生きていた。そうだ、すぐそばのようだが、さて何処だろう。彼の跫音あしおとも、声も、姉には聞えている筈だ。それだのに、盲目の彼は、姉のために奈何どうしてみようもなく、ひたすら哀訴歎願するばかりであった。
「お待ち、今助けに行くぞ。しっかりして!……おお神様! たとえ一分間でも、一秒間でもよろしゅうございますから、この眼を開けて下さい。その代り、様子を見とどけた上は、すぐに元の盲にして下さればよろしいのです。それとも私は罪障の深い者で、そういう資格がないと思召おぼしめすなら、せめて弟の目を覚まして下さい……神様! 唖が盲よりも役に立たないなんてあんまり情けないではありませんか」
 左右に手をひろげたとたんに蝋燭が倒れて、生血なまちのように暖かい蝋が手の上にたらたらと流れた。そのとき例の音がますます大きく、躍起になって、それが物をいった。たしかに言葉を発したと思った。が、力がえたのか、やがてその声は苦しそうにきれぎれになって行った。
 盲は這いだした。
「しっかりして! おれがここにいるぞ……助けてやるぞ」
 しかし答えはなくて、ただ、胸のはり裂けるような呼び声が聞えるばかりであった。その呼び声にぐうぐう眠っている弟の寝息がまじっていたが、盲は突然くるりと廻ったはずみに、寝台にぶっつかって、手探りをすると、弟の体に指先が触れたものだから彼は弟の肩を押えて、力一杯にぐいぐいゆすぶった。
 唖はびっくりして眼を覚ましたが、四辺あたりを見ると蝋燭が消えていて真暗なので、彼はわっと叫んで跳びあがった。あやめも分かぬ闇、妖怪変化が跳梁する闇の中では、視力は何の役にも立たなんだ。唖は盲よりもよっぽど暗闇が不気味だった。彼はもう夢中で、半狂乱になって、やたら滅法に両手を打ちおろした。
 盲は弟に厭というほど押えつけられ、苦しい息をふりしぼって、
「助けてくれい。たた大変だ」
 と叫んだとき、唖は彼の喉を絞めあげた。それから二人は土間にころがって、組みつき、からみ合い、爪や歯で死物ぐるいに肉を裂いたり、噛み合ったりしつつ、そこいら中をのたうち廻っていたが、その呻きもしだいに微かになって、盲の声が或は遠く、或は近く、果ては末期まつごのらしいしゃっくりに変って行った……やがて、めりめりっと物の折れる音がした……と、懸命に藻掻いていた体ががっくりと陥入おちいった気勢けはいで……それに何か軋むような音が聞え……ひくひく微弱かよわ呼吸いきづかいが暫くつづいていたが……もう一度軋む音がして……それっきり寂然ひっそりとなった。
 外では、郊外の樹々が突風にたわんで、ひゅうひゅうとうなり声をあげ、雨が壁のおもてに舞い狂うていた。そしてけなやむ冬の陽は、まだ地平線の彼方にうずくまっていた。
 あばら屋の中は闃寂げきせきとして、もう何の物音も聞えない。吐息もない。
 闇と寂寞じゃくまく……





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「新青年」
   1927(昭和2)年6月号
※初出時の表題は「闇と沈黙」です。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2024年8月9日作成
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