老嬢と猫

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 その老嬢は毎朝、町の時計が六時を打つと家を出かけた。
 それは最初の弥撒ミサを聴くために、近所の教会堂へ出かけるのだが、彼女はまず注意ぶかく戸じまりをしてから、どの頁も手垢によごれて隅がぶよぶよになった、古い祈祷書をしっかと抱えて、小急こいそぎに街を通ってゆくのであった。
 教会堂へつくと、殆んどがら空きな脇間の祈祷台に膝まずいて、両手を組み合せ頸をふりふり、牧師の声に合せて低声こごえでおいのりをした。そして勤行ごんぎょうがすむとさっさと帰って行くのだった。
 彼女は痩せ面で、いかにも片意地らしい額の、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみのあたりはもう小皺だらけのくせに、くぼんだ眼の底には、或る不思議な情熱が燃えているようであった。
 彼女は静かに珠数の珠をかぞえながら、鋪石に跫音あしおと一つ立てないで歩いて行った。そばへ寄ると何となくこうや湿った石の匂いがした。長年教会へ通いつめているので、納骨堂や祭具室の冷たい匂いがその衣類きものにまで浸みこんでしまったのであろう。
 彼女は独りぽっちで、郊外の家に住まっていたが、そこには流行おくれの調度をならべ、壁に先祖達の古い肖像画だの、神聖な絵像などを懸けつらね、年って痩せこけた灰色の牝猫が唯一の伴侶で、彼女はそれをプセットと呼んでいた。
 この猫は、終日寝そべって居眠りをしながら、蠅の飛ぶのをぼんやりと眺めたり、時たまちあがっては、風で窓硝子へぶっつかる落葉を狙ったりして、日を暮らしているのであった。
 この老猫おいねこと老嬢は、お互いに理解し合っていた。何方どっちもこうした隠者くさい生活が好きで、長い夏の午後なんか、鎧戸を閉めて、窓布リドオをおろしたへやの中に寂然ひっそりと引籠っていた。街は危険だらけのように思われて恐ろしいからであった。
 人がその小路こうじを通るとき、老嬢は鎧戸の隙間から、跫音あしおとの遠くなるまで覗いているのが常であった。猫はまた猫で、よその猫がやって来ると、頸を伸ばし三本足で延びをして、ひょいとはぐれてしまう。
 そうするとよその猫は手持不沙汰に戸の前へしゃがんで、大きく頭を振りながら、自分の体を舐めずり廻わしたり、或はあわてて換気窓からすべるように逃げだすのであった。
 この老猫のプセットだって、かつては、静寂ひっそりと動かぬ樹々すらも恋に浸っているような生温かい晩など、よその牡猫のおぼろな影が屋根のあたりにちらほらすると、庭の方へ顔をつき出して声を合せながら、その切なる誘いに興奮した体をしきりに椅子の脚へすりつけたりしたこともあったものだ。
 そんなとき、老嬢はプセットをいきなり自分のへやへ押しこめて、窓からよその猫を憎さげに怒鳴りつけた。
「しっ、彼方あっちへ行け、彼方あっちへ行け」
 すると鳴き声ばかり聞えて、影は一瞬間じっとしているが、再び動きだそうとすると、老嬢はまた鎧戸をしめ窓布リドオをおろし、寝床へちぢこまって、猫をば夜具の下へかくして、外の声を聞かせぬようにして、そしてつかせるために頭を撫でてやるのであった。
 老嬢はさかりということを考えるだけでも癪にさわった。自分の処女性を誇りとしている彼女は、りにも純潔でないものはことごとく嫌った。肉の機能というものは、人間ばかりでなく、獣をも堕落させる悪魔の道具としか思えなかった。恋人同士が手を取って月夜にそぞろ歩きをしたり、夕暮の空をねぐらにかえる鳥がつながって飛んだり、夫婦つがい鳩が巣の縁でくちばしを触れ合うところを見てさえ、彼女は真赤になっておこった。
 プセットも以前もとは綺麗な猫で、毛並がつやつやして丸々と肥っていたので、近所の人がよく口をかけたものだ。
「お宅の猫を貸して下さいな。うちのと交尾つがわせると、きっといい仔が出来ますわ」
 だが老嬢はプセットをしかと抱きしめ、しかめっ面をしてねつけた。
「嫌です。大切だいじの猫ですからね」
 そうしているうちに、プセットはだんだん醜くなった。痩せた体がますます落ちこんで行った。おまけに、この僧院らしい生活の感化によって、本能というものを全然忘れてしまったようであった。はげしい情熱も次第に鎮まって、しまいには牡猫等の執拗しつこい誘い声に身悶えするようなこともなくなった。
 ところが或る夏の晩、プセットは肱掛椅子の上に寝ていたが、ふと焦々いらいらしく起きあがって、暗がりをのっそりのっそり歩きはじめた。外では、よその猫等がといの中でしきりに呼び声を立てていた。プセットは足をのばして爪で絨氈を引っかき、尻尾で自分の横っ腹を叩いていたが、突然、夢中になって半開きの戸口から驀直まっすぐに庭の方へ駆けだした。
 牡猫等のそばへゆくと、長い間眠っていた本能が目ざめて来た。プセットは口を開け、爪で瓦を掻きむしり、牡猫等と一緒に跳び廻りつつ、彼等が呼べば声を合せ、彼等がふざけて噛みつくと、甘ったれて嬉しそうに鳴き立てた。
 この騒ぎに眼をさました老嬢は、びっくりして寝床の上に起きなおった。恋というものがこれほど勝ちほこった叫びをあげているのを、彼女はかつて聞いたことがなかった。彼女はプセットを保護すべく、いきなり寝台から跳びおりたが、肱掛椅子の上に猫がいない。
「プセットや、プセットや。ここへ来い、ここへ来い」
 いつも呼ぶとすぐに駆けて来るのだが、その晩に限って答えがない。老嬢は、手さぐりで戸が半開きになっているのを発見して、ぎょっとした。賊が忍びこんだかという恐ろしさよりも、猫が逃げてしまったのではないかを恐れたのである。
 暗がりでマッチを擦ると、小さな蒼いほのおがちょろちょろと燃えた。
「どうしたんだろう……はてナ……プセットや……」
 呼びながら、そのマッチで蝋燭を点したが、同時にアッと怒りの叫びをあげた。
 プセットが其室そこに見えないのだ。
 やがて、草花の匂いのぷんぷんする庭へ出て行った老嬢は、青白い月光を浴びながら、夢中になってプセットを呼びつづけた。
 屋根の上では、プセットはすっかり落ちついて、相手の牡猫の横っ腹へ肩をなすりつけていたが、そのとき如何にも馬鹿にしたような風で、ちらと老嬢の方を見たっきり、たいをのばし、首をふりながら、平気で巫山戯ふざけつづけた。
 翌くる朝の六時に、老嬢が弥撒ミサに出かけるときになっても、プセットは姿を見せなかった。
 勤行が済むと、老嬢は例の珠数たまを数えることも忘れて、大急ぎで帰って来た。昨夜ゆうべのことが気がかりなので、教会堂へ行っても上の空でったり膝まずいたりして、弥撒ミサもろくろく耳に入らなかったのである。
 家へ帰ってみると、プセットは椅子の上にぐっすり寝こんでいて、呼んでも耳すら立てなかった。
 老嬢は嚇然かっとなって、いきなりプセットの首っ玉をつかんで床へ叩きつけた。と、猫は驚いて一瞬間じっとすくんでいたが、やがて一つ欠伸あくびをして、背中を盛りあげ、またしゃがんで暫く眼をぱちくりさせてから、ぐったりと腰をまげると、そのまま乱次だらしなくこんでしまった。
 それからというものは、老嬢はこの猫をばけがれたもののように毛嫌いした。猫が寄って来ると足で蹴っとばして、
彼方あっちへ行け、彼方あっちへ行け」
 と叱りつけた。
 或るときは、いかりで真蒼になって、痩せた指でプセットをつまみあげてその眼をじっと睨み据えているかと思うと、だしぬけに地面へ叩きつけたりした。そればかりでなく、プセットが通りみちにまごまごしていると、つかまえて、頭といわず、肩といわず、殊に横っ腹を厭というほどひっぱたいた。
 彼女はこうした折檻せっかんによって一種の兇暴な、そして神聖な歓びを感ずるのであった。が、猫はそれに対してすこしも反抗する気色がなかった。
 そういうことが六週間もつづいた。そして老嬢は成るだけ近所の人達を避けるようにした――恰度愚かな子の噂を聞くことすらも恐れる母親のように。
 ところが或る朝、常よりも激しく責め折檻をして、横っ腹を手ひどくひっぱたくと、プセットが矢庭に跳び起きて、脚をあげ、毛を逆立てたので、
「おや、わたしを引掻く気だね。こいつ
 と身構えをする暇もなく、猫は主人の顔を目がけて跳びつきざま、両頬へ深々と爪を立てた。
 老嬢はアッという悲鳴とともに、血塗ちみどろの顔を押えながら自分のへやへ逃げこんだ。
 こうなると、老嬢はもうプセットが魔もののように思われてならなかった。彼女はへやに引籠ったっきり、猫の爛々たる眼をいからせ、歯をむいている形相を見るのが恐ろしさに、戸を開けることすらも出来なんだ。
 彼女は祈祷台の上に膝まずいて、呻くように呟いた。
「神さま、悪魔がこの家におります。わたしを狙っております」
 夜は寝床にうずくまってあごを膝へ押しつけ、眼をかっと開いて、物音に耳を澄まし、大きく十字を切りながら間断ひっきりなしに、
悪鬼ル・デモン悪鬼ル・デモン
 と口走っていた。
 が、次第に物をいう力さえれになって、果はくちばかり動くけれど、言葉はもう聴きとれなかった。
 それから一週間目に、教会堂の牧師は、毎朝欠かさずに弥撒ミサへやって来た老嬢が、この頃ぱったり顔を見せなくなったのを不審に思って、彼女の家へ訪ねてゆくと、近所の人達も戸口のところへ駆けて来て、
「何か変ったことがあったようでございますよ、牧師さま。見てあげたいと思っても、彼女あのひとは大変気が荒くなっているものですから、誰もよう入れないので……だが貴方なら大丈夫です」
 そういいながらどんどんを叩いたけれど、返事がない。
 もう一度叩いてみたが、やはり寂然ひっそりとしている。
おかしいぞ」
 牧師が呟きながら戸のハンドルを廻わすと、わけなく開いた。その騒ぎをききつけて近所の人々がまた大勢集まって来て、一緒にどやどやと入って行った。
 家の中はよく整頓していた。食堂には朝餉あさげのときの卓巾クーヴェールがかけたままになっていて、茶碗の底には飲み残した少量の牛乳入り珈琲に真珠母しんじゅも色の上皮うわかわが張っていた。蠅が砂糖の塊りの上を飛び廻り、そして白い皿には黄ばんだバタが少しばかり半溶けのまま残っていた。
「きっと寝室にいるんだわ」
 一人の女がいいだしたので、皆んなが寝室へ行って戸をあけると、其室そこは鎧戸を閉め窓布リドオを引きおろしてあるものだから、真暗で見分けがつかない。今の女がじっと耳を傾けていたが、
「いますわ、牧師さま。そら、息づかいがするでしょう」
 一人の男が踏込んで行って、窓布リドオをあげて窓や鎧戸を押しあけると、室内がぱっと明るくなった。
 主人あるじの老嬢は、寝床の裾の方に襦袢じゅばん一枚で痩せた胸もあらわに、髪をふり乱したままうずくまっていた。皆んなが自分を覗きこんでいるのに気づくと、彼女は血糊でべとべとに固まった顔をば両手にかくして、呻きだした。
悪魔サタン悪魔サタン悪鬼ル・デモン
 牧師は彼女の手を執って、
「わしの顔がわからんかナ? わしだよ、牧師だよ」
 だが、老嬢はやたらに自分の額を掻きむしりながら、一段と声を張りあげた。
悪魔サタン悪鬼ル・デモン悪鬼ル・デモン
 牧師はこの有様を見ると悲しげに首をふって、
可憫かわいそうに、気がれたか。信心ぶかいひとだったがなア、わからんもんじゃ。一体どうしたんだろう。御覧、自分で自分の顔をこんなに傷だらけにしている。誰か早くお医者を呼びに行っておくれ、わしがここに番をしているから」
 人々は一人去り二人去りして、いつの間にか皆んな帰ってしまった。老嬢は相変らずしゃがれた声で叫びつづけた。
悪鬼ル・デモン悪鬼ル・デモン
 牧師は食堂へ引かえすと、そこにプセットがいたので、笑顔を見せて優しくさすってやった。
 猫は横っちょにそべって、首をもたげ眼を半開きにして喉を鳴らしながら、生れたばかりの三びきの仔猫に、薔薇色の乳房をしゃぶらせていたのであった。





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「新青年」
   1927(昭和2)年6月号
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年2月25日作成
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