ピストルの蠱惑

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 一時間前までおれは囚人だった。しかも大変な囚人だ。外聞だの刑期だのという問題ではなく、すんでのことに、この首が飛ぶところであったのだ。
 斬首台ギョッチーヌを夢に見てうなされたことも幾度だかしれない。そんなときは思わずぞっとして、もしやあの庖丁の細い刃の痕がついていはせぬかと、冷汗の滲んだねばねばする手で、そっと頸筋を撫でてみるのだった。弥次馬の立騒ぐ声までも聞えるような気がして、ぶるぶるっと身ぶるいがした。『死刑にしろ、死刑にしろ』というしゃがれた叫び声が耳底でがんがん鳴った。
 しかし今はすべてが終った。おれは釈放されて、自分の住室へやへ帰って来たのだ。そしてもう一度市街の雑鬧ざっとうや、店屋の明るい電飾が見られるからだになったのである。今夜は久しぶりにゆっくりと晩餐を使おう。暖炉のそばで好きな煙草もめるし、それに、暖かい自分の寝床でのうのうと眠れるのだ。
 だが、おれはこうしてやっと無罪放免になったばかりなのに、今この瞬間ほど、自分を痛切に罪人だと感じたことはない。
 裁判官がどう踏みちがえて、おれの正体がつかめなかったのか、不思議でたまらない。おれは徹底的にあらゆる事実を否定することに熱中しつづけたので、頭がぼうっとしてしまった。もう少し頭がはっきりして来たら、是非とも事の真相を書かねばならぬ。おれはこの真実をば、過去三ヶ月の間、巧みにつ意地わるく隠しとおして、終いには、殆んど自分の嘘を自分で信ずるくらいまで漕ぎつけたのであった。
 ところが何を隠そう、おれが殺人者なんだ。あの女を殺したのは、このおれなんだ。
 何故殺す気になったのか。だれにもわからない。何だってあんなことを仕出来しでかしたのか、自分にもまるで合点がゆかぬ。
 おれはあの女に惚れていたのではないから、嫉妬が原因でないことは確かだ。といって物盗りのためでもなかった。裕福なおれは、彼女あれの屍体から発見された数フランの金なんかに目がくらむわけはないのだ。左ればといって、憤怒の果に殺したのでもなかった。
 あのときおれ達両人ふたりはこのへやにいたのであった。彼女はあの鏡のそばに立っていたし、おれは恰度今坐っている場所に坐っていた。おれが本に読みふけっていると、彼女は話しかけた。
「外へ出ましょうよ。ボア公園へ散歩に出かけようじゃありませんか」
「僕は疲れているから駄目だ。家にいる方がいい」
 とおれは顔もあげないでねつけた。
 彼女は行こう行こうとせがんだけれど、おれはどこまでも厭だと頑張った。それでも執拗しつこくせがむので、おれはその声が癪にさわって来た。彼女はいかにも腹立たしそうな物のいい方をして、おれの不精を皮肉ったり、冷笑わらったり、軽蔑して肩をゆすぶったりした。
 おれは数回彼女を黙らせようとした。
「静かにしてくれないか。頼むから静かにしてくれ」
 だが、女は平気で饒舌おしゃべりをつづけた。おれはちあがってへやの中を歩きはじめた。そうして歩き廻っているうちに、ふと暖炉棚の上に、小型のピストルが載っているのが眼に止まった。それは、おれが夜分いつでも衣嚢かくしへ入れておくピストルなのだ。
 おれは機械的にそのピストルを手に取ったが、その瞬間に一種の変な気持に囚われた。
 まだがみがみいっている情婦の声が、何とも形容の出来ない程度にまでおれを焦々いらいらさせた。しかし癪にさわったのは、口汚ない文句ではなくて声であった。そうだ、あの声だ。あの場合彼女がよしんば意味のない言葉をしゃべくっていたとしても、或は美くしい詩を朗読していたとしても、おれはまったく同一のいかりを感じたにちがいない。
 おれは静かにしていたかった。ひたすらに完全な休息が欲しいのであった。しかし何故、どうしておれの心がそうした沈黙に対する已みがたい欲求と結びついたのか。またその欲求が、手にもったピストルとうして結びついたのか。おれにもわからない。何でもおれはその兇器を振りまわしているうちに、ふと引金をひいたと思うと、女が声も立てずにたおれてしまったのだ。おれの覚えているのはそれだけだ。
 いったい咄嗟に人を殺したいというような考えは、ほんの気まぐれな幻想に過ぎないもので、胸にひらめくが早いか直ぐに消えてしまうものだが、あの時に限って、その奇怪な幻想が心にこびりついて、恰度真綿の中へギザギザな爪を突こんだように、焦れば焦るほどからみつくのであった。
 おれはピストルを卓子テーブルの上においた。が、どうしてもそれを見ずにはいられない。顔を背けようとするけれど、視線はおのずからその方へひきつけられた。
 ピストルはおれの前にあった。象牙の柄がついて銃身のきらきらする奴がおれの前にあった。
 おれは二、三度手をのべたり引こめたりしたが、欲望は結局意思よりも強かった。おれはどうしてもその物に手を触れ、それをつかまねばならなかった。
 われわれが或る種の危険に直面したときに襲いかかる誘惑というものは、実に不可解なものだ。おれは今でも記憶おぼえているが、或る日ビュット・ショーモン公園へ遊びに出かけて、俗に『自殺者の橋』と呼ばれているところへさしかかると、おれは一生懸命にその欄干にしがみついた。そうしないと、自分で不意に跳び込みそうで、危くて仕様がなかったのである。また汽車に乗って、一つの車室はこに自分一人っきりのことも数回あったが、そんなときは、警報器が引きたくて狂気きちがいになりそうだった。あの警報器にぶらさがっているニッケルの握り玉がおれを誘惑するのだ。それは『どうぞ私を引いて下さい』とせがんでいるように見えた。そういうことは途方もない行為で、罰を喰うか、多額の科料を課せられると知りながら、どうしても制しきれないのだ。だが幸いなことに、そんなときいつも偶然にその列車が停車したり、他の列車とすれちがったりして考えをらしてくれたから助かったようなものの、左もなければ、おれはきっとあの誘惑に屈伏しただろう。
 さて事件のあったあの晩にも、今いったような抵抗しがたい衝動に駆られたのである。おれの手も眼も、もはや意思こころどおりにはならなくなっていた。おれはまるで他人のように自分自身を眺め、そして結果がどうなろうとも、自分の行動に盲従する外はなかった。
 そのとき、女はまだ饒舌しゃべくっていたのであったか、それとも沈黙していたかは判然はっきりしないが、何でも、おれはピストルを持ったままつかつかと女の方へ行って、手首を彼女の額の高さにまであげて引金をひくと、鞭鳴りのような鋭い音がして、女の右の眼の下に、ぽっちりとごく小さな赤いマークが出来た。と思うと、彼女はまるで紐がとけたはかまのように、へなへなと床に崩折れてしまった。おれの覚えているのはそれだけで、あとは夢中だった。
 やがてはっとして正気にかえると、狂おしい恐怖がおれを支配した。おれは狂人きちがいのようにへや中を駆けまわった。そして犠牲者を見ようともしないで、或る臆病な本能から、戸をあけるが早いか、
「大変だ、自殺だ」
 と叫びながら階段を駆けおりた。
 最初人々は、女がまったく自殺したものと信じた。が、後に専門家がしらべて、自殺にしてははなはだ怪しいということを発見すると同時に、おれは逮捕された。さアそれから裁判が長びいた。おれが一言自白すれば何もかも判明するんだが、
「何も申し上げることがありません」
 の一点張りで押し通した。ところが裁判官なんてものは、晩かれ早かれ、何かしら動機を見附けだして犯行を解釈してくれるものなので、おれはいい塩梅あんばいに釈放されたのである。
 おれは今すべてを冷静に批判すると、虚偽の供述を押通したことが必ずしも悪いといえないような気がする。よしんば、今ここに書いている通りに申し立てたとしても、陪審官達は果しておれを信じただろうか。無罪にしてくれただろうか。おれはやはり頑張っていいことをしたと思う。変な風にとると、真実だって嘘と見られることが幾らもあるんだから。
 ああ、おれはもう自由な体になって、こんな難有ありがたいことはない。何処へでも勝手に出歩くことが出来るのだ。
 窓から街が見える。人家も、青い樹木も見えている。
 あの騒ぎを起したのは、恰度このへやだ。人々はもうおれを此室ここには住まわせまいとしたけれど、おれはどこまでも頑張って帰って来たのだ。おれは幽霊なんか恐れはしない。それにこの告白書だって他で書くよりも此室ここで書く方がいいんだ。何でも過去の事件は、それの起った場所へ行けばもっとも如実に思いだせるものなのだ。
 とにかく、この告白書によっておれの心はすっかり解放された。たましいが洗ったようにきれいになった。
 この上は、今まで取憑いていた夢魔を忘れるように心掛けよう。おれは、何処ぞ巴里パリから懸隔かけはなれた田舎に隠れて暮そう。世間はきにおれの姓名なまえすらも忘れるだろう。おれはすっかり別人になって、新たに百姓になりきって生活しよう。そして今までの自分というものを全然忘れてしまおう。
 さてここに一つ、何を措いても処分せねばならぬ品物がある。それは、今朝法廷で下戻さげもどされたこのピストルだ。どうも此品こいつがさまざまなことを厭にはっきりと思いださせるので困る。早速これを処分しよう。武器の要るときはまた他のピストルを買えばいいんだ。
 ピストルは今おれが書きものをしているそばにころがっているんだが、こいつを見ると腹が立つ。だが何て小さなピストルだろう。綺麗なものだ。まるで玩具おもちゃ装飾品かざりもののようだ。これが害になるとはどうしたって思えない。
 おれは今そのピストルを手に取った。ごく軽くて、滑々すべすべして、いい手触りだ。ひんやりとして……少し気味がわるい……何だか神秘な感じのするこの眠っている兇器は、短刀なんかとちがって、危険が外に顕われていない。短刀なら鋭利な刃わたりを見ても、切先きっさきに触ってもすぐにその危険がわかるのだ。それでピストルは使おうと思えばすぐにも……だから、おれはこんなものを持っていてはいけないんだ……明日早速売りとばそう……それよりも無代ただで呉れてやろう……いやそれもかん。いっそ捨ててしまおう。
 だが、なぜ捨てねばならぬのか。おれはあまり熱心に見つめるから悪いのだ。暫く見ないでいたらいいではないか。しかしどうも見ずにはいられない。それはもだせる証人のように、そこによこたわっている。まったく厭なもんだ。すぐに処分してしまおう。
 おれはこうして書きつづけているが、ピストルは依然としておれの前によこたわっている。
 自殺をする奴等は、きっとこんな風に坐って、最後の願望ねがいを書き遺すにちがいない。そのときの心持はどんなだろう。おれは判然はっきりとわかるような気がする。初めは誰だってピストルを真正面まともに見る勇気もあるまいが、一度決心がつくと、おそらくそのピストルから眼が離せなくなって、魅せられたようにじっとそれを見つめるだろう。
 いったい自殺なんて、そんなに勇気が要るものか知ら。
 一等辛いことは――動作は簡単だが、こう手をのべてピストルを握れば、かねの肌が冷々ひえびえとして――
 いや、何ともありやしない、おれは今、ピストルを左手に握っているんだ……銃身をこう※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみへあてる……この感じは決してわるいものじゃない……少しひやりとするだけだ……が、鋼鉄は肌の温もりで生温なまぬるくなって来る……
 いや、これが一等恐ろしい瞬間ではあるまい……辛いことは何といったって、引金をひく刹那だろう……それは、たましいがこの肉体を離れようという最後の時なんだから。
 しかしそれだって分るもんか……案外平気かも知れんぞ……一度魔力にかかると、否応なしにずるずると誘いこまれるものだ。
 その気持がはっきりとわかる……おれは何だか、この世のものでないような気がして来た……もう何の感覚もない……えたいの知れない者がおれを呼んでいる……ああ其奴そいつがおれを引きずりこんでおれを押しつつんでしまった……おれは今引金をひく……





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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