フェリシテ

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 彼女はフェリシテという名前だった。貧しい女で、美人でもなく、若さももう失われていた。
 夕方、方々の工場こうば退け時になると、彼女は街へ出て、堅気かたぎ女らしい風でそぞろ歩きをした。ときどき微かに歩調をゆるめたかと思うと、また元のように歩いて行った。
 よその子供等が裾にからまって来ると、彼女は優しい身振りでそれをけたり、抱きとめたりした。そしてその母親たちには莞爾にこやかな笑顔をむけた。
 彼女は元来饒舌おしゃべりや騒々しいことの嫌いな性分なのに、こうして雑鬧ざっとうの中へ入ってゆくのは、そこではひとから勘づかれないで男達の合図に答えることが出来るからであった。一体にそうした慎ましい風なので、刑事達も特に彼女を大目に見てくれたし、近所の人々も出会えば簡単な挨拶を交わすぐらいの好意はもっていた。
 彼女は全くの独り暮しで、格別たのしみもない代りに大したくるしみもなく、そうした果敢はかない職業しょうばいにも拘らず、ごく自然な従順さとしとやかさをもっていた。だから誰一人彼女を蔑む者もなかった。彼女だって以前もとは人並に贅沢もしたかっただろうし、歓楽にあこがれもしただろうが、今はそんなことはすっかり断念あきらめて、只もう生きてゆくだけで満足しているのであった。
 ところが或る晩――街には終日いちにち雨が降りつづいて、濡れた歩道の上に夜の幕が落ちかかった時であったが、そろそろ家へ帰ろうとしていると、一人の男――『旦那ムッシュウ』と呼ばれそうな男がふと彼女に声をかけた。
「今日は、フェリシテ」
「今日は、ムッシュウ」
「あなたは僕を覚えているでしょう」
「ええええ」
 彼女は単にお愛嬌のつもりでいうと、男はすぐにつけ加えた。
「厭な雨ですね。傘にお入りなさい、さア腕を組みましょう」
 彼女はいわれるままに男と腕を組み合せた。そうして両人ふたりは、人通りの絶えた街を相合傘で歩いていった。フェリシテはこんなところをひとに見て貰えないことを、少し残念にさえ思った。
 男はやさしく話しかけていた。街燈の下へ来たときにフェリシテはふと相手を見ると、齢は四十五、六、好男子ではないが、少し陰気くさい、人の好さそうな顔で、何だか見かけたことのある人だと思った。
 やがて宿の前へ来ると、彼女は立ちどまって、
「ここですわ」
「もう遅いから駄目。それに、僕は友人から晩餐に招ばれているんですがね、おせわしくなければ、はなしながらそこまで送って行って下さいませんか」
 フェリシテはびっくりした。しかし非常に嬉しかった。男の口の利き方が、堅気の立派な婦人に話しかけるような調子で、いかにも優しく叮嚀だったからである。
「いいえ、ちっともせわしいことはありません。ひまでございますわ」
 二人はまた歩きだした。途々みちみち、男は自分の生活について少しばかり――それも重大な方面ではなく――職務しごとのことだとか、役所の時間だとか、毎晩食事をする小さなレストオランのことなどを話してくれた。彼女は黙って聞いていた。人からそんな風に親しく話しかけられたことは、ほんとうに久しぶりだった。が、彼女は何だか極りがわるいような気がして、自分自身のことは何も話さなかった。
 やがて或る街かどへ来ると、男は歩調をゆるめて、
「これが友人の家です。一しょに歩いて貰ってほんとうに愉快でした。ええと、今日は火曜日なんだが、あなたは土曜はおせわしいですか」
「いいえ」
「お邪魔でなければ、五時頃ちょっとお礼に行きますよ。左様さようなら、フェリシテ」
左様さようなら、ムッシュウ」
 フェリシテは自分の部屋へ帰ったが、それから毎日ちょいちょい思いだしては、『あの紳士は程のいい人だ』とおもった。
 約束の土曜日には、例日いつもとちがって一歩も外出しずに、暖かいへやで静かにその人を待ちもうけていると、五時頃に、彼は菓子を手土産にもってやって来た。そうして二人の向き合った食卓には、ちょっと律儀なブルジョワらしい気分がただよった。
 七時になると彼は帰って行ったが、何だか時が大変早く過ぎたような気がした。
 次の土曜日にも、彼は訪ねて来た。それからというものは、土曜日ごとに必ずやって来た。そして今ではそれが二人の間の約束のようになってしまったのである。一週に一回、土曜日の、その時刻になると、ムッシュウ・カシュウ――女は蔭で彼を思いだす時でさえも必ずムッシュウという敬称をかぶせるのであった――は、極まって菓子の包みを提げてやって来た。
 二人は語り合った。彼女は単に話のきっかけのために、自分のところに起ったことをごく簡単に聞かせたりした。男の方では主に役所のことを話してくれた。女が自分の職務しごとにも興味をもっていてくれるらしいので、同僚の姓名なまえを教えたり、やがて給料のあがる話などもした。ときどき新聞を読んでくれることもあった。フェリシテはその新聞記事でさまざまな事象の説明を聴きながら、その人が何でも心得ているのにひどく感心した。
 土曜の晩ごとに静かに語り合うということが、今では一つの習慣になってしまった。彼女は毎週土曜日の来るのを待ちに待って、その二時間をば慰楽たのしみとして過すのであった。彼女はまったく親身に男を待遇した。或る晩、男が足がびしょ濡れになってやって来ると、彼女はすぐに美くしい刺繍ぬいとりをおいたスリッパをこしらえた。そして次の土曜に彼が来たとき、その綺麗なスリッパがちゃんと暖炉のそばに揃えてあった。一体がそんな風だった。
 やがて春が来て、また夏が来た。二、三度、穏かな晩に、二人は人目に立たぬように少し遠方の小料理店へ出かけて行って一緒に食事をしたこともあった。
「わたしはあの人に惚れているだろうか」
 彼女は時折自分に問うてみたが、男の少し陰気な、好人物らしい顔を見ると、やはり恋しているのではないと自ら答える外はなかった。只もう彼を待ちもうけることが大きな喜びで、そばに彼のいてくれることが非常な幸福であり、そして自分がそうした紳士の話相手であると思えば、ひそかに誇りを感ずるのであった。
 長年の間目的も前途もなく、その日その日を単調に暮らして来た彼女にとって、この土曜日ごとの二時間というものは真に懐かしい安息だった。一週間のくさくさする思いをば、土曜日にしんみりこの人とはなしが出来るという希望で僅かに慰めているのであった。
 こうして二年は過ぎた。それは彼女の一生涯のうちで最も平和な二年間であった。男はいつも『今日は、フェリシテ』と挨拶しながら入って来て、帰るときは極って、『また来週の土曜日に』といい残した。
 只の一度も争論いさかいなどしたことはなかった。そうした交情は、彼女にとってはあたかも終身年金の支払をうけているようなもので、それが突然に終りをつげるというようなことは夢にも思えなかった。
 ところが或る晩、男は常よりも早くやって来た。それはまったく珍らしいことなので、フェリシテはびっくりした。
「今日は、フェリシテ」
 戸口を入ると男はすぐにそういったが、例の簡単な挨拶ながらその日は妙な調子で、声もすっかり変っているようであった。
 彼はもって来た菓子の包みを卓子テーブルにおいたまま突立っていると、
「さアお掛けなさい」
 フェリシテは椅子をすすめた。男はその椅子に腰をおろして暖炉の方へ脚を投げ出したので、彼女もいつものようにスリッパを出しかけると、彼はやさしくそれを押しのけて、
「今日はそうしちゃいられない。それよりも、お前に話さねばならぬことがある。フェリシテ、僕はもうここへ来られんようになったよ。実は結婚をするのでね。いい齢をして極りのわるい話だが、しかしこの齢になると、やはり自分の家庭というものをもって、身の廻りの世話をしてくれる者がいてくれないと困るんだ」
 フェリシテはうつむいて黙っていた。
「僕は最近二年間痛切にそれを感ずるようになったが、そのことが沁々しみじみわかったのも実はお前のお蔭なんだよ。僕は毎土曜日にここへ来てお前とはなしをするのがたのしみだった。いつも暖炉のそばにスリッパを揃えておいてくれるお前の親切が身にしみたのさ。ねえ、フェリシテ、お互いの齢になっちゃ、もう色恋の沙汰じゃないんだね。ただ甘やかされて、少し我儘がしてみたいというだけさ。ね、そうだろう」
 フェリシテは黙ってうなずいた。自分のためにも男のためにも、その考えを承認した。今日男が入って来たときの様子から彼女が漠然と予感したことを、彼はついに云いだしたのだ。この二年間、土曜日ごとに語り合ったことは、男にとっては要するに家庭というものの影像イマージであったし、彼女にとってはそれの幻覚イリュジオンに過ぎなかったのである。
 男は間断ひっきりなしにしゃべったが、フェリシテは上の空で聞いていた。やがて男は黙りこむと紙入から百フラン紙幣さつを一枚とりだして、
「これでいい着物でも買いなさい」
 そういって、その紙幣さつを彼女にくれた。
 しかし、これは特別のお情といってよかろう。よしんば無断で来なくなろうと、何もれなかろうと、彼女の方から不足はいえないわけだ。まして男は最後まで彼女に好意をもって、大切だいじにしてくれたのである。彼はフェリシテの両頬に接吻して、
「では左様さようなら、フェリシテ、これでお別れだ。お前も達者で暮らしなさい」
 そういって彼は帰って行った。フェリシテはまた独りぽっちになった。
 やがて時計が五時半を打った。彼女は、
「街へ出ようか」
 と思ったけれど、何だか疲れを感じておっくうだった。それに外は急に雨が降りだして、人々はその夕立の中を駆けているらしかった。
 暖炉の火もいつの間にか消えていた。彼女は椅子に坐ったなりで、男がおいて行った青色の紙幣さつを幾度もひっくりかえしてみた。
 そして機械的にあたりを見廻わしたが、その視線はかの刺繍ぬいとりしたスリッパから、卓子テーブルの隅に寂しくおかれたままになっている菓子の包みへおちて行った。
 やがて六時が鳴ると、
「こうしちゃいられない。出かけよう」
 しかし彼女は、ちあがる力もなくて、やはりじっと坐りこんでいた。間もなく夜だが、暮れなやむ黄昏たそがれの光線が微かにほのめいて、開けっぱなした窓からは冷いしぶきが床へ吹きこんでいた。
 彼女は急に捨てられた孤独を感じだした。
「やっぱり街へ出なければならない」
 窓に肱をついて、六階の上から、何を見るともなく何を考えるともなく、ぼんやり街を見おろしながら独りごとをいった。
「ああ厭だ……厭だ……」
 そのとき、すぐ下の五階から晴れやかな笑い声が聞えて来た。階下したの家族は幸福だった。そこの主人あるじは昨日、ムッシュウ・カシュウの勤めている役所に大変いい口を見つけて採用されたということだ。彼女はそんなことも話題にするつもりだったのに、ムッシュウ・カシュウは自分の云い分が通るとさっさと帰って行ったものだから、その噂をする暇もなかった。そして突然独りぽっちになった今は、そうした世間話がしたくも、もう相手がないのであった。
「ああ厭だ。この先どんなに厭な思いがつづくことか」
 日はとっぷりと暮れてしまった。背後うしろから湿っぽいやみと小さなへや寂寞せきばくが肩の上へ蔽被おっかぶさるような気がして、思わずそっと窓から顔を出した。ふるえる瓦斯ガスにちらちらしている街は、何だか自分から逃げてゆくように見えた。
「ああ厭だ」
 彼女はほっと溜息をついた。そして無雑作に、何の未練もなく、殆んど何の気なしに半身を突きだして首を垂れると、あっ! といったなりその六階の窓から跳び降りた。
 彼女は『至福』を意味するフェリシテという名前であった。それだのに、若くも美くしくもない、貧しい女だった。





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
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