ラ・ベル・フィユ号の奇妙な航海
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳
「好い船だろう、え?」
だしぬけに声をかけられて、ガルールはふと顔をあげた。彼は波止場に腰をかけて両脚をぶら垂げたまま、じっと考えこんでいたのであった。
で、顔をあげると、一人の見知らぬ男が、背ろから屈みこんで、向うに碇泊している帆船の方を頤でしゃくっていた。
「好い船だろう?」
「うむ」ガルールは簡単に合槌をうった。
港は、海員の同盟罷業が長びいたために、ひっそり寂れてしまって、沈滞しきった姿を呈していた。
男はガルールの頭のてっぺんから、真黒に陽炎けのした頑丈な頸筋や、広い肩や、逞ましい腕のあたりをじろじろと見た。襤褸シャツを捲りあげた二の腕に「禍の子」「自由か死か」という物凄い入墨の文字が顔を出しているのをも、彼は見逃さなかった。
と、今度はガルールが、相手の容子をじろじろと見かえした。その男も陽に炎けて筋骨逞ましく、手の甲の拇指のところに碇の入墨がしてある。そして青羅紗の広い上衣に、折目正しいズボン、金筋入り頤紐つきの帽子――これを襤褸服姿のガルールなんかに較べると、まるで段ちがいに立派な服装だ。
ガルールは横っちょにペッと唾を吐きながら起ちあがって、ズボンの裾を捲りあげて立ち去ろうとすると、男は馴々しく肩へ手をかけて、
「ねえ君、そこいらで一杯飲ろうじゃないか」
湿っぽい夕風が身に沁みる。近所の酒場では、硝子窓の外の暗をすかしながら、ちびりちびり飲っている時分だ。
ガルールは酒と聞いて鼻をひこつかせたが、
「一杯飲ろうなんて、どうしたんですか?」
「飲みたくなったからさ」
海にも灯が入った――帆船の黄色い灯や、突堤の端に碇泊している監視船の青と赤の灯が、ちろちろ瞬きはじめた。
煙のように棚びいている夜霧のために、船の帆檣も海岸の人家もぼうっとぼかされ、波止場に積まれた袋荷や函荷も霧に罩められて、その雨覆にたまった雫の珠がきらきら光っていた。
男は先に立って、海岸のうす暗い路地の方へぐんぐん歩いて行ったが、とある小さなカッフェの戸口を開けると、ガルールを押しこむようにして奥の方の席に導いた。
そこは、天井が薄黒く煤け、壁のところどころに安物の石版画が貼りつけてあった。アルコールや、鰊樽や、煙草の臭いのむっと籠った室で、帳場のそばには貧弱な暖炉が燃えていた。
「酒は何がいい?」
「シトロン酒の強いやつを飲まして下さい」
ガルールは、男が出してくれた煙草を捲きながら答えた。
酒が来ると、ガルールは一息に飲みほした。男も一息に、しかし幾らか緩くり加減に飲り、不味そうに手の甲で唇を拭いて、何か考え事でもするように、洋酒の底をいじくりながら、
「一体君は、職業は何だね」
「そういうお前さんは?」
「おれかい。おれは先刻君も見たラ・ベル・フィユという二檣帆船の運転士だがね、姓名は……聞きたければ教えてもいいが」
「こうお交際を願ったからには、聞かしてもらいたいね」
「おれはモッフっていうんだが、君は?」
「私はチューブッフ(牛殺の意)」
「そんな姓名があるものか」
「でも、それで私が返事をして、用が足りたらいいでしょう」
「それはどうでもいいが、兎に角、大いに飲ろうじゃないか」
ガルールは二皿の料理を瞬く隙に平らげ、更になみなみと注いだ酒を飲み乾したが、それで漸と人心地がついたように、ほっと一息した。
次の皿には、焼豚がさも美味そうにほやほや煙を立てているが、モッフは、それを頒けるべくフォークを構え、ナイフをその肉にずぶりと突き刺したのを機会に、肝腎の話を切りだした。
「実はいい仕事があるんだが、君、一つ試ってみる気はないか」
「物によりけりですね」
といいながら、ガルールは皿の肉から眼が離せない。
「なアに、ぶらぶらしていて金になろうという仕事だよ。それはこうなんだ」とモッフは何故か声をひそめて、「おれは今もいったように、ラ・ベル・フィユ号の運転士だが、あの船は見たところ、小さくて弱そうだけれど、なかなか確かりした船だよ。あれよりもずっと立派な五本檣の帆船や大きな汽船が暴風を喰って避難港をさがしている時でも、彼船は平気なんだからね。ところで君は船に乗った経験があるかい?」
「ええ」
「遠洋かね?」
「なアに鼻っ先のレエ島へ行ったばかりでさア」
「貨物船だろうな?」
「ええ、それじゃ駄目ですかね」
と狡そうな眼付で相手の顔色を窺った。
「結構結構。どうせ腕っ節の要る仕事なんだ」
「そんなら、お前さんの船は同盟罷業じゃないんですね?」
「警戒おさおさ怠りなしさ。何しろ船長は支那人を二十人ばかり雇いこんだが、其奴等は馬鹿に忠実で、よく働いて、僅かな給料と半人前の食物を充てがわれ、軍艦同様な八釜しい規則にも、不平一つ云わずに服従しているんだ。ところが、おれは密かに彼等を語らって、船長に対して一騒動起そうという計画なんだ。あの連中は腕っ節も強いし、頭もあって確かりした手合だが、どうだい君も仲間に入らないか」
と彼は膝を乗りだして、一段と低声になって、
「ところで、こうした闘いは一遍にどっと勝を占めてしまわねばならん。一騎打ちをやっていた日にはどうなるか分らないからね。それに、おれの方の一味は二十人だが、いざとなると五、六人はきっと逃げるものだ。そこで君のような強い男が十人も加勢してくれると、わけないんだがなア」
「それはいいが、お前さんは船長達を殺つけた後で、港へ入れますか? そこんところを何ういって弁解するつもりかね?」
するとモッフは肩をそびやかして、
「そりゃ君、仏蘭西へ帰ることは疑問さ。しかし仏蘭西にばかり日が照りはしないよ。大洋は万人の領域で、港に事を欠かぬ。そこでは危険も幸運も共通だ。おれ達は自由に生きようではないか。最初に着いた港で船荷を売払って、他の品物を仕入れる。ポケットに金があるうちは陸で好き放題に遊んで、金がなくなればまた航海さ」
ガルールはもう飲食どころではなかった。彼は眼を細めて、遠い、太陽と夢幻の国へ航海する光景を、恍惚と夢見ているのであった。
「どうだい、金は使いきれないほど儲かるんだぜ。あの魔法使が一夜に建てたかと思われる、夢のような都市へ行ってみたまえ。彼等は暢気にも鞭で奴隷を使っていて、夜が昼のように華やかなんだ。永遠の春だね。それに、お伽にあるような不思議な鳥や、世にも珍らしい香料……」
モッフの話は、まるで音楽のようにガルールの耳をこそぐった。
「素的素的」ガルールはすっかり誘入れられてしまって、「その加勢の人数は私が引受けます。一週間と経たないうちに、きっと纏めてつれて来ます」
「一週間なんて、暢気なことを云っちゃ困る。明日の晩までに集めてくれないか。船は明日の夜半の満潮と同時に出帆することになっているんだ」
「そいつア早過ぎますね。だが、一つ試ってみましょう。それで、手筈はどうすればいいんですか」
「明日の今時分に船へ来てくれ。その時分にはおれの外に誰も甲板へ出ていないが、ひょっとして見付かると可けないから、目立たぬように、二、三人ずつ密とやって来たまえ。事を挙げるまでは、少しの間船艙に隠れていて貰わにゃならんが、そこはだだっ広いから、君等は鱈腹食って飲んで臥ころんでいてくれればいいので、その代り物音を立てたり、大声で饒舌ったりしては不可んよ。そして三、四日目におれが合図をしたら飛出して思う存分に働いてくれ。つまり君等は伏兵なんだ。いいか?」
「わかりました」
恰度九時が打ったので、二人は明日の再会を約して別れた。
モッフが重い歩調で波止場の方へ帰ってゆくと、ガルールは遽だしく場末の汚い街へ姿を消した。
ラ・ベル・フィユ号が出帆してから四日目のことだ。渾名チューブッフことガルール、渾名フィヌイユことマロン、渾名クールドースことシャブルトンという名うての悪漢と、その手下の破戸漢七人、都合十人の荒くれ男が、密閉された、真暗な船艙の中で、穏かならぬ語気で何かぶつぶつ論争をやりだした。
彼等は船暈でへとへとになっている上に、充がわれた食糧は、まる四日間にすっかり食い尽してしまって、今は、石のように堅くなった麺麭の皮や、腐った果物の片ら一つでも鼠と争わねばならなかった。
今、マロンが、彼等を狩集めた張本人のガルールに喰ってかかった。
「おい、お前が腕を貸せっていうから、おれ達は加勢に来たんだ。こんな穴ん中へ燻ぶりに来たんじゃねえ」
「まったくだ。酷い目に遭わせやがったな。おれ達を元へ返してくれ」
とシャブルトンも捲し立てた。
「まア左様云わずに、モッフから合図のあるまで待ってくれ」
ガルールは一生懸命宥めにかかったが、饑渇で自暴自棄になった九人の男は、そんな言葉を耳にもかけず、気色ばんでじりじりと詰め寄った。
「おいチューブッフ、上へ昇って様子を見て来い。でなければ……」
と呶鳴ったのはシャブルトン、衣嚢の中でナイフを握っている気配だ。
ガルールは梯子に捉まると、黙って船艙の入口から上の方へ昇って行った。彼は仲間の威嚇に恐れたのではないが、そのとき甲板の方が妙に寂然となったわけを見とどけたいと思ったのであった。
船艙では、破戸漢どもが首をのばしてガルールの帰りを待っていたが、間もなく大濤がどっと船の横っ腹へ打衝かって船体がはげしく揺れだすと、帆檣がギイギイ鳴る。綱具が軋む。それに、暗の中を太々しく駆けずり廻る鼠の跫音。
暫くして、突然、何か巨大な物が海へ落ちこんだ物音に、彼等はぎょっとして跳びあがった。
「恐ろしく揺れるなア」
「堪ったもんじゃない」
さすがの悪漢等も、この激しい動揺が堪らなく不気味だった。彼等は海上のことは全く無経験な上に、饑でひょろひょろになっていて、しかも武器といってはナイフ一挺しか持たないので、こんなとき、訓練のとどいた三、四十人の船乗に立向われたら――と思うと慄然としないわけに行かなかった。
それから約半時間経って、ガルールが、船燈を手にして密と梯子を降りて来た。
「おい大変だぞ。此船は空船なんだ。人っ子一人居やしない」
「な、何だって? 人がいない?」
「うむ、ガラ空きだ。おれは船首も、船尾の方も、上から下まで探した。大きな声で呼んでみた。けれど誰もいやしない。舵にも、帆檣にも、甲板の何処にも、まるで人がいないんだ」
「〆たっ! この船はおれ達の所有だ!」
誰かが頓狂な声で叫ぶと、
「万歳万歳」
皆が一しきり興奮して、矢鱈に嬉しがったが、
「馬鹿」ガルールは苦笑いをして、「おれ達の所有になったって、この中に船を動かせる奴は一人もいやしねえ」
そう云われてみると、成るほどそれは容易ならぬ問題だ。彼等は急に心細くなって、暗がりで顔は見えないけれど、互いに手を探り合った。
彼等はこの船の中に、しかも大洋の只中に捨てられたのだ。そうした不可思議と寂寞が、犇と恐ろしくなって来たのである。
或る者は自棄くそになって、途方もなく大きな声で呶鳴りだした。或る者は恐怖と饑で狂人のように髪を掻きむしっているかと思うと、或る者はまるで子供のように泣き喚いた。その中で、
「皆、甲板へ出ようじゃないか。愚痴をいっている時じゃねえ」
と声を励ましたのはマロンだった。そして梯子へ手をかけると狂っていた者達もはっと我れにかえって、今度は先を争うて上へ昇って行った。
甲板は気味わるいほど寂然して、強風の下に船体は傾斜したまま、盛んに潮烟を浴びながら駛っていた。動揺は少し収まったけれど、それでも殆んど起っていられないくらいだった。墨を流した空の下に、怪物のような巨濤が起伏して、その大穴へ船が陥ちこんでゆくときは、今にも一呑みにされるかと思われた。
「そら来た……ほう……ほう……」
彼等はその度に声を揃えて叫んだ。
ところが、ふと、遠くの方で微かにその叫びに答えるような声がした。何だか錯覚としか思えないほど微かな声だったが、彼等はじっと耳を傾けた。けれど、もう何も聞えなかった。
ガルールは、それから夢中になって船床を探し廻った。そしてふと穴のような凹みへ首を突込むと、
「あっ、此処だ」
早速下へ跳び降りて、方々の箝板を叩き廻っているうちに、一つの戸口がすっと開くと、彼は喜びの叫びをあげながら、そこへ飛び込んだ。他の者達もつづいて入って行った。そこは奥行約二十メートル、高さ二メートルほどの可成り広い室だったが、その中央に、素足に木履を穿いて革服を着こんだモッフが黙然と突立っていた。その姿を見ると、悪漢共は、地獄で仏に逢ったような気持でほっとした。
運転士を見つけた。これで生命は大丈夫だと思うと、ガルールは急に強気になって、
「一体どうしたんですか?」
嚇すように呶鳴りつけると、モッフは黙って、傍に並んでいる腰掛を指した。そこには、天井からぶら垂ったカンテラに照されて、十人ほどの荒くれ男が正体もなく転がっていた。
「これが乗組員の残りだよ」
「えっ、そんならあの件を実行たんですか?」
「うむ、行ったよ」とモッフは首を振りながら、「今夜八時に突発したんだ。おれの方では九時に事を挙げる予定で、それぞれ部署をきめて、艙口も開け放して、いざといえば君等に飛出して貰う手筈までつけたんだが、敵が早くも感づいたらしく、おれが自分の持場へ行こうとすると、突然に三人の奴が飛かかって来たので、『やったぞ、出会え出会え』と呶鳴ったのが事の始まりで、そのときはもう、おれの仲間は不意打を喰って梯子から突落され、綱具の中に転がっていた。まごまごしているうちに、おれは棍棒で強か頸筋を殴された。瞬間、もう駄目だと観念ったね。何しろ突然なので、君等を呼ぶどころか、衣嚢から短銃を抜く隙もなかったんだ。なお驚いたことには、仲間の半分は敵方についていたのだ。それでも我々は捨て身になって、矢鱈滅法に奮闘した。到る処で殺し合い、絞め合った。そんな死物狂いの格闘が約十五分も続いたと思ったが、ふと気がついたときは、我々十二人の者が残ったっきり、敵は皆殺られてしまっていたのさ。そこで、敵は海の藻屑となったのに、おれ達は生残った。大勝利だ。ソレ祝杯だというんで、まるで狂人のようになって飲んだね。で、この通り、酔倒れてしまったんだ。しかしおれだけは、船を動かす責任もあるし、君等のことも考えて、控え目に飲ったというわけさ」
モッフは歯をむいてにっと笑いながら、拳骨で膝を叩いた。
ガルールは苦い顔をした。自分等の手を俟たずに、その大仕事が遂行されたということが面白くないのだ。
「約束が違いますね。そんなら、我々にはもう用がないって云うんですか?」
「馬鹿な!」モッフは釘止めにした卓子の上にごろりと臥ころんで、「お互いに愛相づかしをしたのじゃなし、それに、おれ達の大目的は、まだ半ばしか遂げられていないじゃないか。印度まではまだまだ暇がかかる。その間航海を続けるのに、どうしたって人手が足りないんだから、君等にも大いにやって貰わにゃならんよ」
モッフはやがて起き上ると、食料庫の方へ行って、戸棚から酒壜を両手に提げて来た。
「皆飲ってくれ。彼奴等がこんなに酒を残して行ったぜ」
ガルールの連中は大いに飲ける口ながら、モッフの言葉もあるので、ごく控え目に飲んだ。実際、海はなお荒れ狂っていて、まだまだ暢気に構える時ではなかった。
モッフはやがて真先に甲板へ駆け昇って、舵機についた。何しろ危険なので、ガルール等もそれぞれ出来るだけの働きをしなければならなかった。
夜が明けてから、酔いつぶれていた船員達が起きて来た。彼等は、ボロ服を着て青白い顔をしたガルール一味の者達を胡散そうにじろじろ睨まえていたが、
「仲間だ仲間だ」
モッフは、その一人に舵機を渡しながら、蔽かぶせるようにくりかえしたので、漸と納得したらしかった。
それから三日間ぶっ通しに海が荒れたので、船の仕事で目が廻るほど忙しかった。船体が恐ろしく揺れて、あらゆる荷物をひっくりかえした。で、ガルール等の仕事は、綱や鎖で一生懸命にその荷物を引からげることで、その合間には船員達の作業に手伝をさせられた。そうして彼等はいつの間にか、一廉の水夫らしくなって来た。
荒れが歇むと、海上は静かな凪になって、船は爽やかな風に満帆を張って、気持よく駛った。皆が思う存分に御馳走を食ったり、酒を飲んだりした。中には、優しくも五弦琴を掻き鳴らす者もあり、各自にいろいろな娯楽に興じたり、ハンモックの中で悠閑な眠りを貪ることも出来た。
そのとき船は阿弗利加沖を駛っていたが、ガルールは仏領南亜米利加はギヤーヌの徒刑場へ流された苦い経験を思いだし、マロンは阿弗利加屯田兵の営舎から脱走して営倉に叩きこまれたときの記憶を喚びおこして、心ひそかにこの海上の自由を讃美しているのであった。
ところが、日数が経つに従って、一つの已みがたい熱望が彼等を囚えた。それは陸地に対する憧憬であった。彼等は出帆以来、只一度、それも遠くからちらと陸地を見たきりなので、今はこの単調な、四顧茫々たる海上に倦み果てたのであった。ところが、
「ソラ陸だ! とうとう来たぞ!」
それは七週間目に、微かに陸地が見えだしたときの、モッフが思わず叫んだ勝利の声であった。
「もう印度ですか?」
マロンが問いかけると、
「馬鹿な」モッフはにやにや笑いながら、「どうして印度だなんていうんだい」
「私にゃ解りませんが……印度ならもっと遠いように思いますがね」
「下らんことを云わないで、自分の仕事をやれ。余計なことを考えては可かん」
「何時港へ入れるんですか」
「皆が精を出せば二日以内さ。怠ければ四日だ」
その日は夕方まで風を間切って進んだ。陸も、間近に見えだした。やがて運転士を乗せて先行したボートが帰っての報告によると、検疫や税関の手続上、日中に上陸しろということなので、その翌日の昼になって入港した。
「おい、大したもんじゃないか」とガルールはひどく悦に入った。「おれ達が上陸するってんで、此港じゃ大統領をお出迎えするような騒ぎをやってやがる。あの立派な服装をした奴等アまるで狂っているぜ。これに楽隊がつけば申し分なしさ」
「そら、お迎えが来た」
はしゃいでいるうちに、一隻の汽艇が横付けになって、一人の港役人が船へ上って来た。
「やア御苦労様」
モッフは、何事も起らなかったような、落ちついた風で挨拶をすると、
「いや船長、この同盟罷業じゃ、まだ四週間はお帰りがあるまいと思っていました」
するとモッフは、舷側に凭れているガルールの連中を指しながら、役人の方へ目配をして、
「ええ、ひどい同盟罷業でね。実は、この船なんかも、マルセイユではたった十人しか残らないという騒ぎだったが、僕のような海上の古狸になると、そんなことは平気なもので、早速独特の術で新規の乗組員を募集しました。非常の時は非常手段でなくっちゃね。その代り素晴らしい代物を連れて来ましたぜ。昨日運転士からお知らせしたように、彼等の中には徒刑場から脱走した罪人がいます。それは警察への御土産で、彼奴等を捕縛て下されば、僕も大助りです。用意はいいでしょうな?」
「ええ、此方もそのつもりで、汽艇に平服憲兵が待ちかまえています」
そんなこととは知らずに、傍へやって来たガルールの肩を、モッフは軽く押えて、
「御推薦したいのはこの男ですよ。まア此男が一等値打がありましょうな」と役人の方へいった。
「では、私等は上陸していいんですね?」
顔を綺麗に剃って新しい服に着替えたマロンが訊ねると、
「いいともいいとも」とモッフは上機嫌だ。
そこで、彼等は一人一人静かに舷梯を陸りて行ったが、最後の一人が汽艇に納まったのを合図に、憲兵達はソレッとばかり一斉に跳びかかって、彼等に手梏をはめてしまった。
「畜生、欺しやがったな!」
ガルールは吼り立って、猛然身構えようとしたが、ぐいと手梏を絞めつけられる痛みに、アッといって腰掛へへたばってしまった。
「漕せ!」
役人の一声に、汽艇はそのまま波を蹴立てて港の方へ駛りだした。
と、船長モッフは、自分の水夫達を顧みて、いやに厳格な口調でこんなことをいった。
「彼奴等が印度へ上陸したがっていたのに、このマダガスカールで捕縛させたのは少し拙かったが、といって、あの悪漢共を船へ置くわけにも行かんじゃないか……荷が港へ着いてしまった上はね!」
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「新青年」
1928(昭和3)年10月号
初出:「新青年」
1928(昭和3)年10月号
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。