鎮西八郎

楠山正雄




     一

 八幡太郎義家はちまんたろうよしいえから三だいめの源氏げんじ大将たいしょう六条判官為義ろくじょうほうがんためよしといいました。為義ためよしはたいそうな子福者こぶくしゃで、おとこ子供こどもだけでも十四五にんもありました。そのうちで一ばん上のにいさんの義朝よしともは、頼朝よりとも義経よしつねのおとうさんにたる人で、なかなかつよ大将たいしょうでしたけれど、それよりももっとつよい、それこそ先祖せんぞ八幡太郎はちまんたろうけないほどのつよ大将たいしょうというのは、八なん鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためともでした。
 なぜ為朝ためとも鎮西八郎ちんぜいはちろうというかといいますと、それはこういうわけです。いったいこの為朝ためとも子供こどものうちからほかの兄弟きょうだいたちとは一人ひとりちがって、からだもずっと大きいし、ちからつよくって、勇気ゆうきがあって、の中になに一つこわいというもののない少年しょうねんでした。それにまれつきゆみることがたいそう上手じょうずで、それこそ八幡太郎はちまんたろうまれかわりだといわれるほどでした。それどころか、八幡太郎はちまんたろうゆみ名人めいじんでしたけれど、人並ひとなみとちがったつよゆみくということはなかったのですが、為朝ためともせいたかさが七しゃくもあって、ちからつよい上に、うで人並ひとなみよりながく、とりわけひだりの手がみぎの手より四すんながかったものですから、みの二ばいもあるつよゆみに、二ばいもあるながをつがえてはいたのです。ですから為朝ためともは、みの人のがやっと一ちょうか二ちょうはしるところを五ちょうも六ちょうさきまでんでき、ただ一てきの三にんや四にん手負ておわせないことはないくらいでした。
 こんなふうですから、子供こどもときからつよくって、けんかをしても、ほかの兄弟きょうだいたちはみんなかされてしまいました。兄弟きょうだいたちは為朝ためとも半分はんぶんはこわいし、半分はんぶんはにくらしがって、なにかにつけてはおとうさんの為義ためよしところへ行っては、八郎はちろうがいけない、いけないというものですから、為義ためよしもうるさがって、度々たびたび為朝ためともをしかりました。いくらしかられても為朝ためとも平気へいきで、あいかわらず、いたずらばかりするものですから、為義ためよしこまりきって、あるとき
「おまえのような乱暴者らんぼうものみやこくと、いまにどんなことをしでかすかわからない。今日きょうからどこへでもきなところへ行ってしまえ。」
 といって、うちからしてしまいました。そのとき為朝ためともはやっと十三になったばかりでした。
 うちからされても、為朝ためともはいっこうこまったかおもしないで、
「いじのわるいにいさんたちや、小言こごとばかりいうおとうさんなんか、そばにいないほうがいい。ああ、これでのうのうした。」
 とこころの中でおもって、家来けらいもつれずたった一人ひとり、どこというあてもなくうんだめしに出かけました。

     二

 国々くにぐに方々ほうぼうめぐりあるいて、為朝ためともはとうとう九州きゅうしゅうわたりました。その時分じぶん九州きゅうしゅうのうちには、たくさんの大名だいみょうがあって、めいめいくにりにしていました。そしてそのてんでんのくににいかめしいおしろをかまえて、すこしでも領分りょうぶんをひろめようというので、お隣同士となりどうし始終しじゅう戦争せんそうばかりしあっていました。
 為朝ためとも九州きゅうしゅうくだると、さっそく肥後ひごくに根城ねじろさだめ、阿蘇忠国あそのただくにという大名だいみょう家来けらいにして、自分勝手じぶんがって九州きゅうしゅう総追捕使そうついほしというやくになって、九州きゅうしゅう大名だいみょうのこらずしたがえようとしました。九州きゅうしゅう総追捕使そうついほしというのは、九州きゅうしゅう総督そうとくという意味いみなのです。するとほか大名だいみょうたちは、これも半分はんぶんはこわいし、半分はんぶんはいまいましがって、
為朝ためとも総追捕使そうついほしだなんぞといって、いばっているが、いったいだれからゆるされたのだ。生意気なまいき小僧こぞうじゃないか。」
 といいいい、てんでんのおしろてこもって、為朝ためともめてたら、あべこべにたたきせてやろうとちかまえていました。
 為朝ためともくとわらって、
「はッは。たかが九州きゅうしゅう小大名こだいみょうのくせに、ばかなやつらだ。いったいおれをなんだとおもっているのだろう。子供こどもだって、りっぱな源氏げんじ本家ほんけの八なんじゃないか。」
 こういって、すぐ阿蘇忠国あそのただくに案内者あんないしゃにして、わずかな味方みかたへいれたなり、九州きゅうしゅうしろというしろかたっぱしからめぐりあるいて、十三のとしはるから十五のとしあきまで、大戦おおいくさだけでも二十何度なんど、そのほかちいさないくさかずのしれないほどやって、としたしろかずだけでもなん箇所かしょというくらいでした。それで三ねんめのすえにはとうとう九州きゅうしゅうのこらずしたがえて、こんどこそほんとうに総追捕使そうついほしになってしまいました。
 すると為朝ためともしたがえられた大名だいみょうたちは、うわべは降参こうさんしたていせかけながら、はらの中ではくやしくってくやしくってなりませんでした。そこでそっとみやこ使つかいをてて、為朝ためとも九州きゅうしゅうてさんざん乱暴らんぼうはたらいたこと、天子てんしさまのおゆるしもけないで、自分勝手じぶんかって九州きゅうしゅう総追捕使そうついほしになったことなどをくわしく手紙てがみき、その上に為朝ためとも悪口わるくちることいことたくさんにならべて、どうか一にちはや為朝ためともをつかまえて、九州きゅうしゅう人民じんみん難儀なんぎをおすくくださいともうげました。
 天子てんしさまはたいそうおおどろきになって、さっそく役人やくにんをやって為朝ためともをおかえしになりました。けれども為朝ためともは、
「きっとこれはだれかが天子てんしさまに讒言ざんげんしたにちがいない。天子てんしさまには、間違まちがいだからといって、よくもうげてくれ。」
 といって、役人やくにんかえしてしまいました。
 為朝ためともがいうことをきかないので、天子てんしさまはおおこりになって、子供こどもわるいのはおやのせいだからというので、おとうさんの為義ためよし免職めんしょくして、隠居いんきょさせておしまいになりました。
 為朝ためともは、おとうさんが自分じぶんわりにばつけたということをきますと、はじめてびっくりしました。
「おれは天子てんしさまのおばつをうけることをこわがって、みやこへ行かないのではない。それを自分じぶんが行かないために、としられたおとうさんがおとがめをうけるというのはおどくなことだ。そういうわけなら一にちはやみやこのぼって、おとうさんのわりにどんなおしおきでもけることにしよう。」
 こういって為朝ためともはさっそくいまたのしい身分みぶんをぽんとてて、まえくだってとき同様どうよう家来けらいれずたった一人ひとりでひょっこりみやこかえって行こうとしました。ところがながあいだ為朝ためともになついて、影身かげみにそうように片時かたときもそばをはなれない二十八武士ぶしが、どうしてもおともについて行きたいといってききませんので、為朝ためともこまって、これだけはいっしょにれてみやこのぼることにしました。
 こういうわけで九州きゅうしゅうから為朝ためともについて家来けらいは二十八だけでしたが、どうしてもおともができなければ、せめて途中とちゅうまでお見送みおくりがしたいといって、いくらことわっても、ことわっても、どこまでも、どこまでも、ぞろぞろついてくる家来けらいたちのかずはそれはそれはおびただしいものでした。為朝ためともちからつよいばかりでなく、おとうさんに孝心こうしんぶかいと同様どうよう、だれにかってもなさけぶかい、こころのやさしい人でしたから、三ねんいるうちにこんなに大勢おおぜいの人からしたわれて、ほんとうに九州きゅうしゅうおうさま同様どうようだったのです。それでだれいうとなく、為朝ためとものことを鎮西八郎ちんぜいはちろうぶようになりました。鎮西ちんぜいというのは西にしくにということで、九州きゅうしゅう異名いみょうでございます。

     三

 さて為朝ためともは一にちはやくおとうさんを窮屈きゅうくつなおしこめからしてあげたいとおもって、いそいでみやこのぼりました。ところがのぼってみておどろいたことには、みやこの中はざわざわ物騒ものさわがしくって、いま戦争せんそうがはじまるのだといって、人民じんみんたちはみんなうろたえてみぎひだりまわっていました。どうしたのだろうとおもってくと、なんでもいま天子てんしさまの後白河天皇ごしらかわてんのうさまと、とうにおくらいをおすべりになって新院しんいんとおよばれになったさき天子てんしさまの崇徳院すとくいんさまとのあいだに行きちがいができて、敵味方てきみかたわかれて戦争せんそうをなさろうというのでした。朝廷ちょうてい二派ふたはかれたものですから、自然しぜんおそばの武士ぶしたちの仲間なかま二派ふたはかれました。そして、後白河天皇ごしらかわてんのうほうへは源義朝みなもとのよしともだの平清盛たいらのきよもりだの、源三位頼政げんざんみのよりまさだのという、そのころ一ばん名高なだか大将たいしょうたちがのこらずお味方みかたがりましたから、新院しんいんほうでもけずにつよ大将たいしょうたちをおあつめになるつもりで、まずおとがめをうけてしこめられている六条判官為義ろくじょうほうがんためよしつみをゆるして、味方みかた大将軍たいしょうぐんになさいました。為義ためよしはもう七十の上を出た年寄としよ[#「年寄としより」は底本では「年寄としよりり」]のことでもあり、天子てんしさま同士どうしのおあらそいでは、どちらのお身方みかたをしてもぐあいがわるいとおもって、
「わたくしはこのままこもっていとうございます。」
 といって、はじめはおことわりをもうげたのですが、どうしてもおれにならないので、しかたなしに長男ちょうなん義朝よしともをのけたほか子供こどもたちをのこらずれて、新院しんいん御所ごしょがることになりました。
 そういうさわぎの中に為朝ためともがひょっこりかえってたのです。為義ためよしももうむかしのように為朝ためともをしかっているひまはありません。おおよろこびで、さっそく為朝ためとも味方みかたくわえて、みんなすぐと出陣しゅつじん用意よういにとりかかりました。

     四

 為朝ためともはやがて二十八家来けらいをつれて新院しんいん御所ごしょがりました。新院しんいん味方みかたせいすくないので心配しんぱいしておいでになるところでしたから、為朝ためともたとおきになりますと、たいそうおよろこびになって、さっそくおそばにんで、
「いくさのきはどうしたものだろう。」
 とおたずねになりました。すると為朝ためともはおそれもなく、はっきりとちからのこもった口調くちょうで、
「わたくしはひさしく九州きゅうしゅうりまして、なんとなくいくさをいたしましたが、こちらからせててきめますにも、てききうけてたたかいますにも、夜討ようちにまさるものはございません。今夜こんやこれからすぐてき本営ほんえい高松殿たかまつどのにおしよせて、三ぼうから火をつけててた上、かってくるてきを一ぽうけてはげしくてることにいたしましょう。そうすると、火にわれてげてくるものはとります。をおそれてげてくものは火にてられていのちうしないます。いずれにしてもてきふくろの中のねずみ同様どうよう手も足もせるものではございません。それにあちらへお味方みかたがった武士ぶしの中で、いくらか手ごわいのはわたくしのあに義朝よしとも一人ひとりでございますが、これとてもわたくしが矢先やさきにかけてたおしてしまいます。まして清盛きよもりなどが人なみにひょろひょろの一つ二つかけましたところで、ついこのよろいそでではねかえしてしまうまででございます。まあ、わたくしのかんがえでは、けるまでもございません。まだくらいうちに勝負しょうぶはついてしまいましょう。御安心ごあんしんくださいまし。」
 といいました。
 為朝ためともがこうりっぱにいきりますと、新院しんいんはじめおそばのひとたちは、「なるほど。」とおもって、よけい為朝ためともをたのもしくおもいました。するとその中で一人ひとり左大臣さだいじん頼長よりなががあざわらって、
「ばかなことをいえ。夜討ようちなどということは、おまえなどの仲間なかまの二十か三十でやるけんか同様どうようぜりあいならばらぬこと、おそおおくも天皇てんのう上皇じょうこうのおあらそいから、源氏げんじ平家へいけ敵味方てきみかたかれてちからくらべをしようというおおいくさだ。そんな卑怯ひきょうきはできぬ。やはりけるのをって、堂々どうどう勝負しょうぶあらそほかはない。」
 といって、せっかくの為朝ためとものはかりごとをとりげようともしませんでした。
 為朝ためともは、おもしろくおもいませんでしたけれど、むりにあらそってもむだだとおもいましたから、そのままおじぎをして退しりぞきました。そしてこころの中では、
なにもしらない公卿くげのくせによけいな出口でぐちをするはいいが、いまにあべこべにてきから夜討ようちをしかけられて、そのときにあわててもどうにもなるまい。こんなふうでは、このいくさにはとてもてる見込みこみはない。まあ、はたらけるだけはたらいて、あとはいさぎよくにをしよう。」
 とおもいました。
 こう覚悟かくごをきめると、それからはもう為朝ためともはぴったりだまんだまま、しずかにてきせてくるのをっていました。
 するとあんじょう、そのばん夜中よなかちかくなって、てき義朝よしとも清盛きよもり大将たいしょうにして、どんどん夜討ようちをしかけてました。
 頼長よりながはまさかとおもった夜討ようちがはじまったものですから、今更いまさらのようにあわてて、為朝ためとものいうことをかなかったことを後悔こうかいしました。そして為朝ためとも御機嫌ごきげんをとるつもりで、きゅう新院しんいんねがって為朝ためとも蔵人くらんどというおもやくにとりてようといいました。すると為朝ためともはあざわらって、
てきめてたというのに、よけいなことをする手間てまで、なぜはやてきふせ用意よういをしないのです。蔵人くらんどでもなんでもかまいません。わたしはあくまで鎮西八郎ちんぜいはちろうです。」
 とこうりっぱにいいきって、すぐ戦場せんじょうかって行きました。
 為朝ためともれいの二十八をつれて西にしもんまもっておりますと、そこへ清盛きよもり重盛しげもり大将たいしょうにして平家へいけ軍勢ぐんぜいがおしよせてました。
 為朝ためともはそれをて、
弱虫よわむし平家へいけめ、おどかしていはらってやれ。」
 とおもいまして、てきがろくろくちかづいてないうちに、ゆみをつがえててき先手さきてかってかけますと、このまえってすすんで伊藤いとう六の胸板むないたをみごとにぬいて、つきぬけたうしろにいた伊藤いとう五のよろいそでちました。
 伊藤いとう五がおどろいて、そのをぬいて清盛きよもりところへもって行ってせますと、みの二ばいもあるふとさきおおのみのようなやじりがついていました。清盛きよもりはそれをたばかりでふるえがって、
「なんでもこのもんやぶれというおおせをうけたわけでもないのだから、そんならんぼうもののいないほかもんかうことにしよう。」
 と勝手かってなことをいいながら、どんどんして行きました。
 するとこんどはにいさんの義朝よしとも平家へいけわりにかってました。にいさんはにいさんだけの威光いこうで、いきなりしかりつけて為朝ためともおそらしてやろうとおもったとえて、義朝よしとも為朝ためともかおえるところまでますと、大きなこえで、
「そこにいるのは八郎はちろうだな。にいさんにかってゆみをひくやつがあるか。はやく弓矢ゆみやして降参こうさんしないか。」
 といいました。
 すると為朝ためともわらって、
「にいさんにゆみをひくのがわるければ、おとうさんにかってゆみをひくあなたはもっとわるいでしょう。」
 とやりめました。
 これで義朝よしとももへいこうして、だまってしまいました。そしてくやしまぎれに、はげしく味方みかたにさしずをして、めちゃめちゃにかけさせました。
 為朝ためともはこの様子ようすをこちらからて、大将たいしょう義朝よしともをさえ射落いおとせば、一勝負しょうぶがついてしまうのだとかんがえました。そこでゆみをつがえて、義朝よしともほうにねらいをつけました。
「あのあおむけている首筋くびすじてやろうか。だいぶあつよろいているが、あの上から胸板むないたとおすぐらいさしてむずかしくもなさそうだ。」
 こう為朝ためともおもいながら、すぐはなそうとしましたが、ふと、
「いやて。いくらてきでもにいさんはにいさんだ。それにこうして父子おやこわかれわかれになっていても、おとうさんとにいさんのあいだないしょの約束やくそくがあって、どちらがけてもおたがいにたすうことになっているのかもしれない。」
 とおもかえして、わざとねらいをはずして、義朝よしともかぶとあてました。するとかぶとほしけずって、そのうしろのもんの七八すんもあろうというとびらをぷすりとぬきました。これだけで義朝よしともきもひやして、これもほかもんして行きました。
 こうして為朝ためとも一人ひとりすくめられて、そのまもっているもんにはだれもちかづきませんでしたが、なんといってもこうは人数にんずうおおい上に、こちらの油断ゆだんにつけんで夜討ようちをしかけてたのですから、はじめから元気げんきがちがいます。とうとうほかもんが一つ一つかたはしからうちやぶられ、やがてどっとそうくずれになりました。
 こうなると為朝ためとも一人ひとりいかにりきんでもどうもなりません。れいの二十八もちりぢりになってしまったので、ただ一人ひとり近江おうみほうちて行きました。
 そののち新院しんいんはおとらわれになって、讃岐さぬきくにながされ、頼長よりながげて途中とちゅうだれがたともしれないられてにました。
 おとうさんの為義ためよしはじめ兄弟きょうだいたちはのこらずつかまって、くびをきられてしまいました。
 その中で為朝ためとも一人ひとり、いつまでもつかまらずに、近江おうみ田舎いなかにかくれていましたが、いくさときにうけたひじのきずがはれて、ひどくいたしたものですから、あるとき近所きんじょ温泉おんせんはいってきずのりょうじをしていました。するとかねてから為朝ためとものゆくえをさがしていた平家へいけかって、為朝ためとも油断ゆだんをねらって、大勢おおぜいにおそいかかってつかまえてしまいました。
 為朝ためともはそれから京都きょうとかれて、くびをきられるはずでしたが、天子てんしさまは為朝ためとも武勇ぶゆうをおきになって、
「そういう勇士ゆうしをむざむざところすのはもったいない。なんとかしてたすけてやったらどうか。」
 とおっしゃいました。そこで為朝ためとも死罪しざいゆるして、そのかわつよゆみけないように、ひじのすじいて伊豆いず大島おおしまながしました。
 為朝ためともすじかれてゆみすこよわくなりましたが、ひじがのびたので、まえよりもかえってながることができるようになりました。

     五

 為朝ためとも大島おおしまわたると、
「おれは八幡太郎はちまんたろうまごだ。このしま天子てんしさまからいただいたものだ。」
 といって、しましたがえてしまいました。そのうち方々ほうぼうにかくれていた為朝ためとも家来けらいが、一人ひとり二人ふたりとだんだんあつまって為朝ためともにつきました。
九州きゅうしゅうよりはずっとちいさいが、また為朝ためともくにができた。」
 こういって、為朝ためともはここでもおうさまのような威勢いせいになりました。
 あるとき為朝ためともうみばたに出て、はるかおきほうをながめていますと、しろいさぎとあおいさぎが二つれってうみの上をんで行きます。為朝ためともはそれをながめて、
「わしかなんぞなららないが、さぎのようなはねよわいものでは、せいぜい一か二ぐらいしかちからはないはずだ。それがああして行くところをると、きっとここからそうとおくないところにしまがあるにちがいない。」
 といって、そのまま小船こぶねにとびって、さぎのんで行った方角ほうがくかってどこまでもこいで行きました。
 その日一にちこいで、うみの上で日がくれましたが、しまらしいものはつかりません。よるはちょうど月のいいのをさいわいに、またどこまでもこいで行きますと、がたになって、やっとしまらしいもののかたちえました。
 為朝ためともはだんだんそばへよってみますと、きしいわがけわしい上になみたかいので、ふねけられません。さんざんまわりをこぎまわりますと、やっとたいらなのようなところがあって、しまの中からちいさな川がそこにながしていました。
 為朝ためともはそこからがって、ずんずんおくはいってますと、一めん、いわでたたんだような土地とちで、もなければはたもありません。ところどころになれない草木くさきえて、めずらしいにおいのはないていました。
 いくらあるいてもいえらしいものもえませんでしたが、そのうちいつどこから出てたか、一じょうせいたかさのある大男おおおとこがのそのそと出てました。まっくろなからだがもじゃもじゃえて、あたまかみはまっで、はりえたようでした。
 為朝ためとも不思議ふしぎおもって、
「このしまなんというしまだ。」
 と大男おおおとこ一人ひとりきますと、
おにしまといいます。」
 とこたえました。
 為朝ためともは、いよいよめずらしくおもって、
「じゃあおまえたちはおにか。それとも先祖せんぞおにだったのか。」
 とたずねました。
「そうです。わたくしどもはおに子孫しそんです。」
おにしまなら、たからがあるだろう。」
「むかしほんとうのおにだった時分じぶんには、かくれみのだの、かくれがさだの、水の上をくつだのというものがあったのですが、いまでは半分はんぶん人間にんげんになってしまって、そういうたからもいつのにかなくなってしまいました。」
「よそのしまわたったことはないか。」
「むかしはふねがなくっても、ずんずん、よそのしまへ行って、人をとったりしたこともありましたが、いまではふねもないし、たまによそからかぜにふきつけられてくるふねがあっても、なみあらいので、きしがろうとするといわにぶつかってくだけてしまうのです。」
なにべてきている。」
さかなとりべます。さかなはひとりでにいそがってます。あなってその中にかくれて、とりこえをまねていると、とりはだまされてあなの中にとびんでます。それをとってべるのです。」
 こういっているときに、ひよどりのようなとりがたくさんそらの上をかけってました。為朝ためともはもってゆみをつがえて、とりかってかけますと、すぐ五六ばたばたとかさなりってちてました。
 しま大男おおおとこ弓矢ゆみやたのははじめてなので、目をまるくしてていましたが、そらんでいるものが、射落いおとされたのをて、したをまいておじおそれました。そして為朝ためともかみさまのようにうやまいました。
 為朝ためともおにしまたいらげたついでに、ずんずんふねをこぎすすめて、やがて伊豆いず島々しまじまのこらず自分じぶん領分りょうぶんにしてしまいました。そしておにしまから大男おおおとこ一人ひとりつれて、大島おおしまかえってました。
 大島おおしまものは、為朝ためとも小船こぶねって出たなりいまだにかえってないので、どうしたのかとおもっていますと、あるおそろしいおにをつれてひょっこりかえってたので、みんなびっくりしてしまいました。

     六

 こうして為朝ためともは十ねんたたないうちに、たくさんのしましたがえて、うみおうさまのようないきおいになりました。すると為朝ためとものために大島おおしまわれた役人やくにんがくやしがって、あるときみやこのぼり、為朝ためとも伊豆いずの七とう勝手かってうばった上に、おにしまからおにをつれてて、らんぼうをはたらかせている、ててくと、いまにまた謀反むほんいくさをおこすかもしれませんといってうったえました。
 天子てんしさまはたいそうおおどろきになり、伊豆いず国司こくし狩野介茂光かののすけしげみつというものにたくさんのへいをつけて、二十余艘よそうふね大島おおしまをおめさせになりました。
 為朝ためともきしの上からはるかにてきの船のかげをると、あざわらいながら、
ひさしぶりでうでだめしをするか。」
 といって、れいつよゆみながをつがえて、まっさきすすんだ大きなふね胴腹どうばらをめがけて射込いこみました。するとふねはみごとに大穴おおあながあいて、たくさんのへいせたまま、ぶくぶくとうみの中にしずんでしまいました。てきはあわててうみの中でしどろもどろにみだれてさわぎはじめました。
 為朝ためともはつづいて二のをつがえようとしましたが、ふねしずめられたおおぜいの敵兵てきへいが、おぼれまいとして水の中であっぷ、あっぷもがいている様子ようすると、ふとかわいそうになって、
「かれらはいいつけられて為朝ためともちにたというだけで、もとよりおれにはあだもうらみもないものどもだ。そんなもののいのちをこの上むだにとるにはしのびない。それにいったんこうしててき退しりぞけたところで、朝敵ちょうてきになっていつまでも手向てむかいがしつづけられるものではない。かんがえてると、おれもいろいろおもしろいことをしてたから、もうんでもしくはない。おれがここで一人ひとりんでやれば、おおぜいのいのちたすかるわけだ。」
 こういって、為朝ためともはそのままうちにかえって、自分じぶん居間いまにはいると、しずかに切腹せっぷくしてんでしまいました。
 そのあとでは、こわごわしまがってて、為朝ためとも一人ひとりでりっぱにんでいるのをてまたびっくりしました。





底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
※「鬼ガ島」の「ガ」は底本では小書きになっています。
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
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