一
むかし、
摂津国の
阿倍野という
所に、
阿倍の
保名という
侍が
住んでおりました。この人の
何代か
前の
先祖は
阿倍の
仲麻呂という
名高い
学者で、シナへ
渡って、
向こうの
学者たちの中に
交ってもちっとも
引けをとらなかった人です。それでシナの
天子さまが
日本へ
還すことを
惜しがって、むりやり
引き
止めたため、
日本へ
帰ることができないで、そのまま
向こうで、一
生暮らしてしまいました。
仲麻呂が
死んでからは、
日本に
残った
子孫も
代々田舎にうずもれて、
田舎侍になってしまいました。
仲麻呂の
代から
伝えた
天文や
数学のむずかしい
書物だけは
家に
残っていますが、だれもそれを
読むものがないので、もう
何百
年という
間、
古い
箱の中にしまい
込まれたまま、
虫の
食うにまかしてありました。
保名はそれを
残念なことに
思って、どうかして
先祖の
仲麻呂のような
学者になって、
阿倍の
家を
興したいと
思いましたが、
子供の
時から
馬に
乗ったり
弓を
射たりすることはよくできても、
学問で
身を
立てることは
思いもよらないので、せめてりっぱな
子供を
生んで、その子を
先祖に
負けないえらい
学者に
仕立てたいと
思い
立ちました。そこで、ついお
隣の
和泉国の
信田の
森の
明神のお
社に
月詣りをして、どうぞりっぱな
子供を
一人お
授け
下さいましと、
熱心にお
祈りをしていました。
ある
年の
秋の
半ばのことでした。
保名は五六
人の
家来を
連れて、
信田の
明神の
参詣に出かけました。いつものとおりお
祈りをすましてしまいますと、
折からはぎやすすきの
咲き
乱れた
秋の
野の
美しい
景色をながめながら、
保名主従はしばらくそこに
休んで、
幕張りの中でお
酒盛りをはじめました。
そのうちだんだん日が
傾きかけて、
短い
秋の日は
暮れそうになりました。
保名主従はそろそろ
帰り
支度をはじめますと、ふと
向こうの
森の
奥で大ぜいわいわいさわぐ
声がしました。その中には
太鼓だのほら
貝だのの
音も
交って、まるで
戦争のようなさわぎが、だんだんとこちらの
方に
近づいて
来ました。
主従は
何事がはじまったのかと
思って
思わず
立ちかけますと、その
時すぐ
前の
草叢の中で、「こんこん。」と
悲しそうに
鳴く
声が
聞こえました。そして
若い
牝狐が一
匹、中から
風のように
飛んで
来ました。「おや。」という
間もなく、
狐は
保名の
幕の中に
飛び
込んで
来ました。そして
保名の
足の下で
首をうなだれ、しっぽを
振って、さも
悲しそうにまた
鳴きました。それは人に
追われて
逃げ
場を
失った
狐が、ほかの
慈悲深い
人間の
助けを
求めているのだということはすぐ
分かりました。
保名は
情け
深い
侍でしたから、かわいそうに
思って、
家来にかつがせた
箱の中に
狐を
入れて、かくまってやりました。すると
間もなく、「うおっうおっ。」というやかましい
鬨の
声を
上げて、
何十
人とない
侍が、
森の中から
駆け
出して
来ました。そしていきなり
保名の
幕の中にばらばらと
飛び
込んで
来て、
物もいわずにそこらを
探し
回りました。
この
乱暴なしわざを
見て、
保名はかっと
腹を
立てて、
「あなたはだれです。
断りもなく、
出し
抜けに人の
幕の中に
入って
来るのは、
乱暴ではありませんか。」
ととがめました。
「
生意気をいうな。
我々がせっかく
見つけた
狐が、この
幕の中に
逃げ
込んだから
探すのだ。
早く
狐を
出せ。」
とその中の
頭分らしい
侍がいいました。それから
二言三言いい
合ったと
思うと、
乱暴な
侍共はいきなり
刀を
抜いて
切ってかかりました。
保名も
家来たちもみんな
強い
侍でしたから、
負けずに
防ぎ
戦って、とうとう
乱暴な
侍共を
残らず
追い
払ってしまいました。そして
箱の中にかくしておいた
狐をさっそく
出して、その
間に
逃がしてやりました。
狐はまるで
人間が手を
合わせて
拝むような
形をして、二三
度拝んだと
思うと、さもうれしそうにしっぽを
振って、
草叢の中へ
逃げて行ってしまいました。
狐の
姿が
見えなくなったと
思うと、また
向こうの
森の中で、
先よりも三
倍も四
倍もさわがしい
人声がしました。
保名が
驚いて
振り
返って
見るひまもなく、すぐ
目の
前に
一人、りっぱな
馬に
乗った
大将らしい
侍を
先に
立てて、こんどは
何百
人という
侍が、
一塊になって
寄せて
来て、
保名主従を
取り
囲みました。そこで
又はげしい
戦がはじまりました。
保名主従は
幾ら
強くっても、
先刻の
働きでずいぶん
疲れている上に、百
倍もある
敵に
囲まれていることですから、とても
敵いようがありません。
保名の
家来は
残らず
討たれて、
保名も
体中刀傷や
矢傷を
負った上に、大ぜいに
手足をつかまえられて、
虜にされてしまいました。
この
馬に
乗った
大将は、やはりお
隣の
河内国に
住んでいる
石川悪右衛門という
侍でした。
奥方がこのごろ
重い
病にかかって、いろいろの
医者に
見せても
少しも
薬の
効き
目が
見えないものですから、ちょうど
自分のにいさんが
芦屋の
道満といって、その
時分名高い
学者で、
天子様のおそばに
仕えて、
天文や
占いでは
日本一の
名人という
評判だったのを
幸い、ある
時悪右衛門は
道満に
頼んで、
来て
見てもらいますと、
奥方の
病気はただの
薬では
治らない、
若い
牝狐の
生き
肝を
取ってせんじて
飲ませるよりほかにないということでした。そこで
信田の
森へ大ぜい
家来を
連れて
狐狩りに
来たのでした。けれども
運悪く、一
日森の中を
駆け
回っても一
匹の
獲物もありません。すっかりかんしゃくをおこしてぷんぷんしながら
引き
上げようとしますと、ひょっこり、
親子三
匹の
狐が
長いすすきの
陰にかくれているのを
見つけました。
大喜びでさっそく大ぜいかかりますと、
狐は
驚いて、
牝牡の
狐はとうとう
逃げてしまいましたが、まだ
若い
小狐が一
匹逃げ
場を
失って、大ぜいに
追われながら、すばやく
保名の
幕の中まで
逃げ
込んだのでした。
こうしてせっかく
手に
入れかけた
狐を
横合いから
取られてしまったのですから、
悪右衛門はくやしがって、やたらに
保名を
憎みました。そして
生け
捕ったまま
保名を
殺してしまおうとしますと、ふいに
向こうから、
「もしもし、しばらくお
待ちなさい。」
という
声が
聞こえました。
悪右衛門が
驚いて
振り
返ると、それは
同じ
河内国の
藤井寺というお
寺の
和尚さんでした。そのお
寺は
石川の
家代々の
菩提所で、
和尚さんとは
平生から大そう
懇意な
間柄でした。
「これはめずらしい
所でお目にかかりました。どういうわけで、その男を
殺そうとなさるのです。」
と
和尚さんはたずねました。
悪右衛門はそこで、
今日の
狐狩りの
次第をのべて、とうとうおしまいに
保名にじゃまをされて、くやしくってくやしくってたまらないという
話をしました。
和尚さんは、
静かに
話を
聞いた
後で、
「なるほど、それはお
腹の
立つのはごもっともです。けれども人の
命を
取るというのは
容易なことではありません。
殊に
大切な
御病人の
命を
助けようとしておいでの
時、ほかの
人間の
命を
取るというのは、
仏さまのおぼしめしにもかなわないでしょう。そうすると、せっかく
助かる
御病人が、かえって
助からなくなるまいものでもない。」
こう
和尚さんにいわれると、さすがに
傲慢な
悪右衛門も、
少し
勇気がくじけました。
和尚さんはここぞと、
「しかし、ただ
助けるというのが
業腹にお
思いなら、こうしましょう。この男を
今日から
侍をやめさせて、わたしの
弟子にして、
出家させます。それで
堪忍しておやりなさい。」
といいました。
悪右衛門もとうとう
和尚さんに
言い
伏せられて、いったん
虜にした
保名を
放してやりました。
やがて
悪右衛門の
主従は
和尚さんに
別れを
告げて、また
森の中にすっかり
姿が
見えなくなりますと、
和尚さんは、その
時まで、ぼんやり
夢をみたように
座っていた
保名に
向かって、
「さあ、
乱暴者どもが行ってしまいました。また
見つからないうちに、そっと
向こうの
道を
通って
逃げていらっしゃい。わたくしはさっきあなたに
助けて
頂いた、この
森の
狐です。
御恩は
一生忘れません。」
こういうが
早いか、
和尚さんはもうまた
元の
狐の
姿になって、しっぽを
振りながら、
悪右衛門たちが
帰っていった
方角とは
違った
向こうの
森の中の
道へ
入っていきました。それはさも、
自分について
来いというようでした。
保名はいよいよ
夢の中で
夢を
見たような
心持ちがしながら、うかうかとその
後についていきました。
二
もう日がとっぷり
暮れて、
夜になりました。
暗い
樹の
間から、
吹けば
飛びそうに
薄い
三日月がきらきらと
光って
見えていました。
保名はいつの
間にか
狐の
行方を
見失ってしまって、
心細く
思いながら、
森の中の
道をとぼとぼと
歩いて行きました。しばらく行くと、やがて
森が
尽きて、山と山との
間の、
谷あいのような
所へ出ました。
体中にうけた
傷がずきんずきん
痛みますし、もう
疲れきってのどが
渇いてたまりませんので、
水があるかと
思って
谷へずんずん
下りていきますと、はるかの
谷底に
一すじ、白い
布をのべたような
清水が
流れていて、
月の
光がほのかに
当たっていました。その
光の中にかすかに人らしい
姿が
見えたので、
保名はほっとして、
痛む
足をひきずりひきずり、
岩角をたどって
下りて行きますと、それはこんな
寂しい
谷あいに
似もつかない十六七のかわいらしい
少女が、
谷川で
着物を
洗っているのでした。
少女は
保名の
姿を
見るとびっくりして、
危うく
踏まえていた
岩を
踏みはずしそうにしました。それから
保名の
血だらけになった
手足と、ぼろぼろに
裂けた
着物と、それに
何よりも
死人のように
青ざめた
顔を
見ると、
思わずあっとさけび
声をたてました。
保名は
気の
毒そうに、
「
驚いてはいけません。わたしはけっして
怪しいものではありません。大ぜいの
悪者に
追われて、こんなにけがをしたのです。どうぞ
水を一
杯飲ませて
下さい。のどが
渇いて、
苦しくってたまりません。」
といいました。
娘はそう
聞くと
大そう
気の
毒がって、
谷川の
水をしゃくって、
保名に
飲ませてやりました。そしてそのみじめらしい
様子をつくづくとながめながら、
「まあ、そんな
痛々しい
御様子では、これからどこへいらっしゃろうといっても、
途中で
歩けなくなるにきまっています。むさくるしい
家で、おいやでしょうけれど、ともかくわたくしのうちへいらしって、
傷のお
手当をなさいまし。」
といいました。
保名は
大そうよろこんで、
娘の
後についてその
家へ行きました。それは
山の
陰になった
寂しい
所で、うちには
娘のほかにだれも人はおりませんでした。この
娘は
親も
兄弟もない、ほんとうの
一人ぼっちで、この
寂しい
森の
奥に
住んでいるのでした。
その
明くる日
保名は目が
覚めてみると、
昨日うけた
体の
傷が
一晩のうちにひどい
熱をもって、はれ
上がっていました。
体中、もうそれは
搾木にかけられたようにぎりぎり
痛んで、
立つことも
座ることもできません。そこで
保名は
心のうちには
気の
毒に
思いながら、
毎日あおむけになって
寝たまま、
親切な
娘の
世話に
体をまかしておくほかはありませんでした。
保名の
体が
元どおりになるにはなかなか
手間がかかりました。
娘はそれでも、
毎日ちっとも
飽きずに、
親身の
兄弟の
世話をするように
親切に
世話をしました。
保名の
体がすっかりよくなって、
立って
外へ
出歩くことができるようになった
時分には、もうとうに
秋は
過ぎて、
冬の
半ばになりました。
森の
奥の
住まいには、
毎日木枯らしが
吹いて、
木の
葉も
落ちつくすと、やがて
深い
雪が
森をも
谷をもうずめつくすようになりました。
保名はそのままいっしょに
雪の中にうずめられて、
森を出ることができないでいました。そのうち
雪がそろそろ
解けはじめて、
時々は
森の中に
小鳥の
声が
聞こえるようになって、
春が
近づいてきました。
保名は
毎日親切な
娘の
世話になっているうち、だんだんうちのことを
忘れるようになりました。それからまた一
年たって、二
度めの
春が
訪れてくる
時分には、
保名と
娘の
間にかわいらしい男の子が
一人生まれていました。このごろでは
保名はすっかりもとの
侍の
身分を
忘れて、
朝早くから日の
暮れるまで、
家のうしろの
小さな
畑へ
出てはお
百姓の
仕事をしていました。お
上さんの
葛の
葉は、
子供の
世話をする
合間には、
機に
向かって、
夫や
子供の
着物を
織っていました。
夕方になると、
保名が
畑から
抜いて
来た
新しい
野菜や、
仕事の
合間に
森で
取った
小鳥をぶら
下げて
帰って
来ますと、
葛の
葉は
子供を
抱いてにっこり
笑いながら出て
来て、
夫を
迎えました。
こういう
楽しい、
平和な
月日を
送り
迎えするうちに、
今年は
子供がもう七つになりました。それはやはり
野面にはぎやすすきの
咲き
乱れた
秋の
半ばのことでした。ある日いつものとおり
保名は
畑に出て、
葛の
葉は
一人寂しく
留守居をしていました。お
天気がいいので
子供も
野へとんぼを
取りに行ったまま、
遊びほおけていつまでも
帰って
来ませんでした。
葛の
葉はいつものとおり
機に
向かって、とんからりこ、とんからりこ、
機を
織りながら、
少し
疲れたので、手を
休めて、うっとり
庭をながめました。もう
薄れかけた
秋の
夕日の中に、白い
菊の
花がほのかな
香りをたてていました。
葛の
葉は
何となくうるんだ
寂しい
気持ちになって、
我を
忘れてうっかりと
魂が
抜け
出したようになっていました。その
時外から、
「かあちゃん、かあちゃん。」
と
呼びながら、
遊び
疲れた
子供が
駆けて
帰って
来ました。うっとりしていて、その
声にも
気がつかなかったとみえて、
葛の
葉が
返事をしないので、
不思議に
思って
子供はそっと
庭に
入ってみますと、いつものように
機に
向かっている
母親の
姿は
見えましたが、
機を
織る手は
休めて、
機の
上につっぷしたまま、うとうとうたた
寝をしていました。ふと
見るとその
顔は、
人間ではなくって、たしかに
狐の
顔でした。
子供はびっくりして、もう一
度見直しましたが、やはりまぎれもない
狐の
顔でした。
子供は「きゃっ。」と、
思わずけたたましいさけび
声を
上げたなり、あとをも
見ずに
外へ
駆け
出しました。
子供のさけび
声に、はっとして
葛の
葉は目を
覚ましました。そしてちょいとうたた
寝をした
間に、どういうことが
起こったか、
残らず
知ってしまいました。ほんとうにこの
葛の
葉は
人間の女ではなくって、あの
時保名に
助けられた
若い
牝狐だったのです。
狐は
今日までかくしていた
自分の
醜い、ほんとうの
姿を
子供に
見られたことを、
死ぬほどはずかしくも、
悲しくも
思いました。
「もうどうしても、このままこうしていることはできない。」
こう
葛の
葉はいって、はらはらと
涙をこぼしました。
そういいながら、八
年の
間なれ
親しんだ
保名にも、
子供にも、この
住いにも、
別れるのがこの上なくつらいことに
思われました。さんざん
泣いたあとで、
葛の
葉は
立ち
上がって、そこの
障子の上に、
「恋しくば
たずね来てみよ、
和泉なる
しのだの森の
うらみ葛の葉。」
とこう
書いて、またしばらく
泣きくずれました。そしてやっと
思いきって
立ち
上がると、またなごり
惜しそうに
振り
返り、
振り
返り、さんざん
手間をとった
後で、ふいとどこかへ出ていってしまいました。
もう日が
暮れかけていました。
保名は
子供を
連れて
畑から
帰って
来ました。
母親の
変わった
姿を
見てびっくりした
子供は、
泣きながら
方々父親のいる
所を
探し
歩いて、やっと
見つけると、
今し
方見たふしぎを
父親に
話したのです。
保名は
驚いて、
子供を
連れて、あわてて
帰って
来てみると、とんからりこ、とんからりこ、いつもの
機の
音が
聞こえないで、うちの中はひっそりと、
静まり
返っていました。うち
中たずね
回っても、
裏から
表へと
探し
回っても、もうどこにも
葛の
葉の
姿は
見えませんでした。そしてもう
暮れ
方の
薄明りの中に、くっきり白く
浮き
出している
障子の上に、よく
見ると、
字が
書いてありました。
「恋しくば
たずね来てみよ、
和泉なる
しのだの森の
うらみ葛の葉。」
母親がほんとうにいなくなったことを
知って、
子供はどんなに
悲しんだでしょう。
「かあちゃん、かあちゃん、どこへ行ったの。もうけっして
悪いことはしませんから、
早く
帰って
来て
下さい。」
こういいながら、
子供はいつまでもやみの中を
探し
回っていました。さっき
顔の
変わったのに
驚いて
声を
立てたので、
母親がおこって行ってしまったのだと
思って、よけい
悲しくなりました。
狐のかあさんでも、
化け
物のかあさんでもかまわない、どうしてもかあさんに
会いたいといって、
子供はききませんでした。
あんまり
子供が
泣くので、
保名は
困って、
子供の手を
引いて、
当てどもなく
真っ
暗やみの
森の中を
探して
歩きました。とうとう
信田の
森まで
来ると、とうに
夜中を
過ぎていました。けっして二
度と
姿を
見せまいと
心に
誓っていた
葛の
葉も、
子供の
泣き
声にひかれて、もう一
度草むらの中に
姿を
現しました。
子供はよろこんで、あわてて
取りすがろうとしましたが、いったん
元の
狐に
返った
葛の
葉は、もう
元の
人間の女ではありませんでした。
「わたしの
体にさわってはいけません。いったん
元の
住みかに
帰っては、
人間との
縁は
切れてしまったのです。」
と
葛の
葉狐はいいました。
「お
前が
狐であろうと
何であろうと、
子供のためにも、せめてこの子が十になるまででも、
元のようにいっしょにいてくれないか。」
と
保名はいいました。
「十まではおろか
一生でも、この子のそばにいたいのですけれど、わたしはもう二
度と
人間の
世界に
帰ることのできない
身になりました。これを
形見に
残しておきますから、いつまでもわたしを
忘れずにいて
下さい。」
こういって
葛の
葉狐は一
寸四
方ぐらいの
金の
箱と、
水晶のような
透き
通った白い
玉を
保名に
渡しました。
「この
箱の中に
入っているのは、
竜宮のふしぎな
護符です。これを
持っていれば、
天地のことも
人間界のことも
残らず目に
見るように
知ることができます。それからこの
玉を
耳に
当てれば、
鳥獣の
言葉でも、
草木や
石ころの
言葉でも、手に
取るように
分かります。この二つの
宝物を
子供にやって、
日本一の
賢い人にして
下さい。」
といって、二つの
品物を
保名に
渡しますと、そのまますうっと
狐の
姿はやみの中に
消えてしまいました。
三
狐のふしぎな
宝物を
授かったせいでしょうか、
狐の
子供の
阿倍の
童子は、
並の
子供と
違って、
生まれつき
大そう
賢くて、八つになると、ずんずんむずかしい
本を
読みはじめ、
阿倍の
家に
昔から
伝わって、だれも
読む
者のなかった
天文、
数学の
巻き
物から、
占いや
医学の
本まで、
何ということなしにみな
読んでしまって、もう十三の
年には、
日本中でだれもかなうもののないほどの
学者になってしまいました。
するとある日のことでした。
童子はいつものとおり
一間に
入って、
天文の
本をしきりに
読んでいますと、すぐ
前の
庭の
柿の木に、からすが二
羽、かあかあいって
飛んで
来ました。そして
何かがちゃがちゃおしゃべりをはじめました。
何をからすはいっているのか
知らんと
思って、
童子は
例のふしぎな
玉を
耳に
当てますと、このからすは
東の
方から
来た
関東のからすと、
西の
方から
来た
京都のからすでした。
京都のからすは
関東のからすに
向かって、このごろ
都で
見て
来た
話をしました。
「
都の
御所では、
天子さまが
大病で、
大そうなさわぎをしているよ。お
医者というお
医者、
行者という
行者を
集めて、いろいろ手をつくして
療治をしたり、
祈祷をしたりしているが、
一向にしるしが
見えない。それはそのはずさ、あれは
病気ではないんだからなあ。だがわたしは
知っている。」
「じゃあどういうわけなんだね。」
と
関東のからすはたずねました。
「それはこういうわけさ。このごろ
御所の
建て
替えをやって、
天子さまのお
休みになる
御殿の
柱を
立てた
時に、
大工がそそっかしく、
東北の
隅の
柱の下に
蛇と
蛙を
生き
埋めにしてしまったのだ。それが
土台石の下で、
今だに
生きていて、
夜も
昼もにらみ
合って
戦っている。
蛇と
蛙がおこって
吹き
出す
息が
炎になって、
空まで
立ちのぼると、こんどは
天が
乱れる。その
勢いで
天子さまの
体にお
病がおこるのだ。だからあの
蛇と
蛙を
追い
出してしまわないうちは、
御病気は
治りっこないのだよ。」
「ふん、それじゃあ
人間になんか
分からないはずだなあ。」
そこで
京都のからすは、
関東のからすと
顔を
見合わせて、あざけるように、かあかあと
笑いました。そしてまた
関東のからすは
東へ、
京都のからすは
西へ、
別れて
飛んでいってしまいました。
からすの
言葉を
聞いて、
童子は
早速占いを
立ててみると、なるほどからすのいったとおりに
違いありませんでしたから、おとうさんの
前へ出て、その
話をして、
「どうか、わたしを
京都へ
連れて行って
下さい。
天子さまの
御病気を
治して
上げとうございます。」
といいました。
保名もこれをしおに
京都へ
行って、
阿倍の
家を
興す
時が
来たと、
大そうよろこんで、
童子を
連れて
京都へ
上りました。そして
天子さまの
御所に
上がって、お
願いの
筋を
申し
上げました。
天子さまも
阿倍の
仲麻呂の
子孫だということをお
聞きになって、およろこびになり、
保名親子の
願いをお
聞き
届けになりました。そこで
童子はからすに
聞いたとおり
占いを
立てて
申し
上げました。
御所の
役人たちはふしぎに
思って、なかなか
信用しませんでしたが、
何しろ
困りきっているところでしたから、ためしに
御寝所の
東北の
柱の下を
掘らしてみますと、なるほど
童子のいったとおり、
火のような
息をはきかけはきかけ
戦っている
蛇と
蛙を
見つけて、
追い
出して、
捨てました。するとまもなく
天子さまの
御病気は
薄紙をへぐように、きれいに
治ってしまいました。
天子さまは
大そう
阿倍の
童子の
手柄をおほめになって、ちょうど三
月の
清明の
季節なので、
名前を
阿倍の
清明とおつけになり、五
位の
位を
授けて、
陰陽頭という
役におとりたてになりました。
後に
清明の
清の
字をかえて、
阿倍の
晴明といった
名高い
占いの
名人はこの
童子のことです。
四
たった十三にしかならない
阿倍の
童子が、
天子さまの
御病気を
治してえらい
役人にとりたてられたと
聞いて、いちばんくやしがったのは、あの
石川悪右衛門のにいさんの
芦屋の
道満でした。
道満はその
時まで
日本一の
学者で、
天文と
占いの
名人という
評判でしたが、こんどは
天子さまの
御病気を
治すことができないで、その
手柄を
子供に
取られてしまったのですから、くやしがるのも
無理はありません。そこで
御所へ
上がって
天子さまに
讒言をしました。
「
御用心遊ばさないといけません。あの
童子は
詐欺師でございます。
恐れながら、
陛下のお
病は
侍医の
方々や、わたくし
共の
丹誠で、もうそろそろ
御平癒になる
時になっておりました。そこへ
折よく
童子めが
来合わせて、
横合いから
手柄を
奪っていったのでございます。
御寝所の下の
蛇と
蛙のふしぎも、あれら
親子が
御所の
役人のだれかとしめし
合わせて、わざわざ
入れて
置いたものかも
知れません。どうか
軽々しくお
信じなさらずに、一
度わたくしと
法術比べをさせて
頂きとうございます。もしあの
童子が
負けましたらば、それこそ
詐欺師の
証拠でございますから、さっそく
位を
取り
上げて、
追い
返して
頂きとうございます。」
と
申し
上げました。
「でもお
前がもし
童子に
負けたらどうするか。」
と
天子さまは
少しおこって、おたずねになりました。
「はい、
万々一わたくしが
負けるようなことがございましたら、それこそわたくしの
頂いておりますお
役も
位も
残らずお
返し
申し
上げて、わたくしは
童子の
弟子になって、
修業をいたします。」
と、
高慢な
顔をしてお
答え
申し
上げました。
そこで
天子さまは
阿倍の
晴明親子をお
呼び
出しになり、
御前で
術比べさせてごらんになることになりました。
道満と
晴明が
右左に
別れて
席につきますと、やがて
役人が四五
人かかって、
重そうに大きな
長持を
担いで
来て、そこへすえました。
「
道満、
晴明、この
長持の中には
何が
入っているか、
当ててみよ、という
陛下の
仰せです。」
とお
役人の
頭がいいました。
すると
道満は、さもとくいらしい
顔をして、
「
晴明、まずお
前からいうがいい。
子供のことだ、
先を
譲ってやる。」
といいました。
晴明はその
時、
丁寧に
頭を
下げて、
「では
失礼ですが、わたくしから
申し
上げましょう。
長持の中にお
入れになったのは
猫二
匹です。」
といいました。
晴明がうまくいいあてたので、
道満はぎょっとしました。
「ふん、まぐれ
当たりに
当たったな。いかにも二
匹の
猫に
相違ありません。それで一
匹は
赤猫、一
匹は
白猫です。」
長持のふたをあけると、なるほど
赤と白の
猫が二
匹飛び
出しました。
天子さまも
役人たちも
舌をまいて
驚きました。
今のは
勝負なしにすんだので、
又、四五
人のお
役人が、大きなお
三方に
何か
載せて、その上に
厚い
布をかけて
運んで
来ました。
道満はそれを
見ると、こんどこそ
晴明に
先をこされまいというので、いきり
立って、
「ではわたくしから
申し
上げます。お
三方の上にお
載せになったのは、みかん十五です。」
といいました。
晴明はそれを
聞いて、「ふん。」と
心の中であざ
笑いました。そして
少しいたずらをして、
高慢らしい
道満の
鼻をあかせてやりたいと
思いました。そこでそっと
物を
換える
術を
使って、お
三方の中の
品物を
素早く
換えてしまいました。そしてすました
顔をしながら、
「これはみかん十五ではございません。ねずみ十五
匹をお
入れになったと
存じます。」
といいました。
天子さまはじめお
役人たちはびっくりしました。こんどこそは
晴明がしくじったと
思いました。そばについていたおとうさんの
保名も
真っ
青になって、
息子のそでを
引きました。けれども
晴明はあくまで
平気な
顔をしていました。
道満は
真っ
赤になって、
「さあ、
詐欺師の
証拠は
現れましたぞ。中を
早くおあけなさい、
早く。」
とさけびました。
お
役人はお
三方の
覆いをとりました。するとどうでしょう。お
三方の上に
載せたのはみかんではなくって、
今の
今まで
晴明のほかだれ
一人思いもかけなかったねずみが十五
匹、ちょろちょろ
飛び
出して、
御殿の
床の上を
駆け
歩きました。すると
長持の上に
寝ていた二
匹の
猫が
目早く
見つけて、いきなり
飛び
下りて、ねずみを
追い
回しました。みんなは「あれあれ。」とさけんで、
総立ちになって、やがて
御殿中の
大さわぎになりました。
これで
勝負はつきました。
芦屋の
道満は
位を
取り
上げられて、
御殿から
追い
出されました。そして
阿倍の
晴明のお
弟子になりました。