安達が原
楠山正雄
一
むかし、京都から諸国修行に出た坊さんが、白河の関を越えて奥州に入りました。磐城国の福島に近い安達が原という原にかかりますと、短い秋の日がとっぷり暮れました。
坊さんは一日寂しい道を歩きつづけに歩いて、おなかはすくし、のどは渇くし、何よりも足がくたびれきって、この先歩きたくも歩かれなくなりました。どこぞに百姓家でも見つけ次第、頼んで一晩泊めてもらおうと思いましたが、折あしく原の中にかかって、見渡す限りぼうぼうと草ばかり生い茂った秋の野末のけしきで、それらしい煙の上がる家も見えません。もうどうしようか、いっそ野宿ときめようか、それにしてもこうおなかがすいてはやりきれない、せめて水でも飲ましてくれる家はないかしらと、心細く思いつづけながら、とぼとぼ歩いて行きますと、ふと向こうにちらりと明りが一つ見えました。
「やれやれ、有り難い、これで助かった。」と思って、一生懸命明りを目当てにたどって行きますと、なるほど家があるにはありましたが、これはまたひどい野中の一つ家で、軒はくずれ、柱はかたむいて、家というのも名ばかりのひどいあばら家でしたから、坊さんは二度びっくりして、さすがにすぐとは中へ入りかねていました。
すると中では、かすかな破れ行灯の火かげで、一人のおばあさんがしきりと糸を繰っている様子でしたが、その時障子の破れからやせた顔を出して、
「もしもし、お坊さま、そこに何をしておいでだえ。」
と声をかけました。
出し抜けに呼びかけられたので、坊さんは思わずぎょっとしながら、
「ああ、おばあさん。じつはこの原の中で日が暮れたので、泊る家がなくって困っている者です。今夜一晩どうかして泊めては頂けますまいか。」
といいました。
するとおばあさんは、
「おやおや、それはお困りだろう。だがごらんのとおり原中の一軒家で、せっかくお泊め申しても、着てねる布団一枚もありませんよ。」
とことわりました。
坊さんはおばあさんがそういう様子の親切そうなのに、やっと安心して、
「いえいえ、雨露さえしのげばけっこうです。布団なんぞの心配はいりませんから、どうぞお泊めなすって下さい。」
と頼みました。
おばあさんはにこにこ笑いながら、
「まあまあ、そういうわけなら、御不自由でも今夜は家に上がってゆっくり休んでおいでなさい。」
といって、坊さんを上へ上げてくれました。
坊さんは度々お礼をいいながら、わらじをぬいで上へ上がりました。おばあさんは、囲炉裏にまきをくべて、暖かくしてくれたり、おかゆを炊いてお夕飯を食べさせてくれたり、いろいろ親切にもてなしてくれました。それで坊さんも、見かけによらないこれはいい家に泊り合わせたと、すっかり安心して、くり返しくり返しおばあさんにお礼をいっていました。
お夕飯がすむと、坊さんは炉端に座って、たき火にあたりながら、いろいろ旅の話をしますと、おばあさんはいちいちうなずいて聞きながら、せっせと糸車を回していました。そのうちだんだん夜が更けるに従って、たださえあばら家のことですから、外の冷たい風が遠慮なく方々から入り込んで、しんしんと夜寒が身にしみます。けれどあいにくなことには、炉の方の火がだんだん心細くなって、ありったけのまきはとうに燃やしつくしてしまいました。
おばあさんはふと坊さんの寒そうにふるえているのを見つけて、
「おやおや、まきがみんなになりましたか。お客さまがあると知ったらもっとたくさん取っておけばよかったものを、気のつかないことをしました。どれどれ、ちょっと裏の山へ行ってまきを取って来ますから、お坊さま、しばらく退屈でもお留守番をお頼み申します。」
こういっておばあさんは気軽に出て行こうとしました。
すると坊さんはたいそう気の毒がって、
「いやいや、この夜更けにそんな御苦労をかけてはすみません。何ならわたしが一走り行って取って来ましょう。」
といいますと、おばあさんは手をふって、
「どうして、とんでもない。旅の人に分かるものではない。まあまあ、何にもごちそうのない一つ家のことだから、せめてたき火でもごちそうのうちだと思ってもらいましょう。」
といいいい出かけて行きましたが、何と思ったのか戻って来て、
「その代わりお坊さま、しっかり頼んでおきますがね、わたしが帰ってくるまで、あなたはそこにじっと座っていて、どこへも動かないで下さいよ。うっかり動いて、次の間をのぞいたりなんぞしてはいけませんよ。」
とくり返し、くり返し、念を押しました。
「どういうわけだか知らないが、むろん用もないのに、人の家の中なんぞをかってにのぞいたりなんぞしませんから、安心して下さい。」
と坊さんもいいました。
それでおばあさんも安心したらしく、そのまま出ていきました。
二
さておばあさんが出て行ってしまうと、坊さんはただ一人、しばらくはつくねんと炉端に座ったままおばあさんの帰りを待っていましたが、じき帰ると思ったおばあさんはなかなか帰って来ません。何しろ西も東も分からない原中の一軒家に一人ぼっちとり残されたのですから、心細さも心細いし、だんだん心配になってきました。何でも安達が原の黒塚には鬼が住んでいて人を取って食うそうだなどという、旅の間にふと小耳にはさんだうわさを急に思い出すと、体中の毛穴がぞっと一時に立つように思いました。そういえばこんな寂しい原中におばあさんが一人住んでいるというのもおかしいし、さっき出がけに、妙なことをいって度々念を押して行ったが、もしやこの家が鬼のすみかなのではないかしらん。いったい「見るな。」といった次の間には何があるのか知らん。こう思うと、こわさはこわいし、気にはなるし、だんだんじっとして辛抱していられなくなりました。それでもあれほど固く「見るな。」といわれたものを見ては、なおさらどんな災難があるかもしれません。
坊さんはしばらく見ようか、見まいか、立ったり座ったり迷っていましたが、おばあさんはやっぱり帰って来ないので、とうとう思いきって、そっと立って行って、次の間のふすまをあけました。
すると坊さんは驚いたの、驚かないのではありません。あけるといっしょに中からぷんと血なまぐさいにおいが立って、人間の死骸らしいものが天井まで高く積み重ねてありました。そしてくずれてどろどろになった肉が血といっしょに流れ出していました。
坊さんは「あっ。」といったなり、しばらく腰を抜かして目ばかり白黒させたまま起き上がることもできませんでした。そのうちふと気がつくと、これこそ話にきいた一つ家の鬼だ、ぐずぐずしているととんでもないことになると思って、あわててわらじのひもを結ぶひまもなく逃げ出そうとしました。けれども今にもうしろから鬼婆に襟首をつかまれそうな気がして、気ばかりわくわくして、腰がわなわなふるえるので、足が一向に進みません。それでもころんだり、起きたり、めくらめっぽうに原の中を駆け出して行きますと、ものの五六町も行かないうちに、暗やみの中で、
「おうい、おうい。」
と呼ぶ声がしました。
その声を聞くと、坊さんは、さてこそ鬼婆が追っかけて来たとがたがたふるえながら、耳をふさいでどんどん駆け出して行きました。そして心の中で悪鬼除けの呪文を一生懸命唱えていました。そのうち、
「おうい待て、おうい待て。」
と呼ぶ鬼婆の声がずんずん近くなって、やがておこった声で、
「やい、坊主め、あれほど見るなといった部屋をなぜ見たのだ。逃げたって逃がしはしないぞ。」
というのが、手にとるように聞こえるので、坊さんはもういよいよ絶体絶命とかくごをきめて、一心にお経を唱えながら、走れるだけ走って行きました。
すると、お経の功徳でしょうか、もうそろそろ夜が明けかかってきたので、鬼もこわくなったのでしょうか、鬼の足がだんだんのろくなって、もうよほど間が遠くなりました。そのうちずんずん空は明るくなってきて、東の空が薄赤く染まってくると、どこかの村で鶏の鳴き立てる声がいさましく聞こえました。
もう夜が明けてしまえばしめたものです。鬼は真昼の光にあってはいくじのないものですから、うらめしそうに、しばらくは、旅僧のうしろ姿を遠くからながめていましたが、ふいと姿が消えて見えなくなりました。
坊さんはそのうち人里に出て、ほっと一息つきました。そして花やかにさし昇った朝日に向かって手を合わせました。
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