世界怪談名作集

聖餐祭

フランス Anatole France

岡本綺堂訳




 これは、ある夏の涼しい晩に、ホワイト・ホースの樹の下にわれわれが腰をおろしているとき、ヌーヴィユ・ダーモンにあるセントユーラリ教会の堂守どうもりが、いい機嫌で、死人の健康を祝するために古い葡萄酒を飲みながら話したのである。彼はその日の朝、白銀しろがねの涙をひつぎおおいに散らしながら、十分の敬意を表して、その死人を墓所へ運んだのであった。

 死んだのは、わたしの可哀そうな親父ですが……。(堂守が話し出したのである)一生、墓掘りをやっていたのです。親父は気のいい人間で、そんな仕事をするようになったのも、つまりはほうぼうの墓所に働いている人たちと同じように、それが気楽な仕事であったからです。墓掘りなどをする者には「死」などという事はちっとも怖ろしくないのです。彼らはそんな事をけっして考えていないのです。たとえば私にしたところで、夜になって墓場へはいり込んでゆくくらいのことは、まるでこのホワイト・ホースの樹のところにいるくらいのもので、少しも気味の悪いことはないのです。どうかすると、幽霊に出逢うこともありますが、出逢ったところで何でもありませんよ。私の親父も自分の仕事については、私と同じ考えで、墓場で働くくらいの事は何でもなかったのだと思います。私は死人の癖や、性質はよく知っています。まったく坊さんたちの知らないことまでも知っています。私が見ただけの事をすっかりお話しすれば、あなたがたはびっくりなさると思いますが、話は少ないほうが悧口りこうだと言いますからね。私の親父がそれでして、いつもいい機嫌で糸をつむぎながら、自分の知っている話の二十のうちの一つしか話さない人でした。この流儀で、親父はたびたび同じ話をして聞かせましたが……。そうです、私の知っているだけでもカトリーヌ・フォンテーヌの話を少なくも百度ぐらいは話しました。
 カトリーヌ・フォンテーヌは、親父が子供の時によく見かけたことを思い出していましたが、いい年の婆さんであったそうです。いまだにその地方に、その婆さんの噂を知っている老人が三人もいるそうですが、かなりその婆さんは知れ渡っている人で、ひどく貧乏であった割合に、またひどく評判のいい人であったようです。婆さんはそのころ、ノンス街道の角の――いまだにあるそうですが――、小さい塔のような形の家に住んでいまして、それは半分ほどもこわれた古屋敷で、ウルスラン尼院の庭にむかっている所にありました。その塔の上には、今でもまだ昔の人の形をした彫刻の跡と、半分消えたようになっている銘がありまして、さきにお亡くなりになりました聖ユーラリ教会の牧師レバスールさまは、それが「愛は死よりも強し」というラテン語だとおっしゃいました。もっとも、この言葉は、「聖なる愛は死よりも強し」という意味だそうです。
 カトリーヌ・フォンテーヌは、この小さなひと間に独りで住んで、レースを作っていたのです。ご存じでしょうが、この辺で出来るレースは世界じゅうで一番いいことになっているのです。この婆さんにはお友達や親戚はなんにもなかったと言いますが、十八の時にドーモン・クレーリーという若い騎士を愛していて、人知れずその青年と婚約をしていたそうです。
 もっとも、これは作り話で、カトリーヌ・フォンテーヌの日ごろのおこないが普通の賃仕事をしている女たちとは違って上品であったのと、白髪しらがあたまになってもどこかに昔の美しさが残っていたせいだといって、土地では本当にしていないのです。婆さんの顔色は、どちらかといえば沈んでいて、指には金細工きんざいく屋に作らせた、二つの手が握りあっている形をした指環をはめていました。昔はここらの村では婚約の儀式にそんな指環を取り交すのが慣習ならわしになっていましたが、まあ、そんなふうな指環であったのでしょう。
 婆さんは聖者のような生活をしていました。一日のうちの大部分を教会で過ごして、どんな日でも毎朝かならず聖ユーラリの六時の聖餐祭の手伝いに出かけていたのです。
 ある十二月の夜のことでした。カトリーヌの婆さんは独りで小さい自分の部屋に寝ていますと、鐘の音に眼を醒まされたのです。疑いもなく第一の聖餐祭の鐘ですから、敬虔けいけんな婆さんはすぐに支度をして階下したへ降りて、町の方へ出て行きました。夜は真っ暗で、人家の壁も見えず、暗い空からは何ひとつの光りも見えないのです。そうして、あたりの静かなことは、犬の遠吠え一つきこえず、なんの生き物の音もせず、まるで人気ひとけがないように感じられたそうですが、それでも婆さんが歩いていると、みちにころがっている石も一つ一つはっきりと見えて、眼をつぶったままでも教会へゆく道は立派に分かったといいます。そこで、ノンスの道とパロアスの道の角まで、わけもなしにたどって来ると、そこには、おもおもしいはりに系統木(クリストの系図を装飾的に現わしたもの)の彫ってある木造の家が建っていました。
 ここまで来ると、カトリーヌは教会の扉があいていて、たくさんの大きい蝋(燭の灯)が洩れているのを見たのです。歩いて教会の門を通ると、自分はもう教会のうちにいっぱいになっている会衆の中にはいっていました。礼拝者の人たちは見えなかったのですが、そこに集まっているのはいずれも天鵞絨ビロードや紋織りの衣服を着て、羽根毛はねげのついている帽子をかぶって、むかしふうの佩剣はいけんをつけている人びとばかりであるのに驚かされました。そこには握りが黄金おうごんで出来ている長い杖をついている紳士もいます。レースの帽子をコロネット型の櫛で留めている婦人たちもいます。聖ルイスふうをした騎士たちは婦人たちに手を差しのべていると、相手の婦人たちは隈取りをした顔を扇にかくしていて、ただ白粉のついている額と、眼のふちに眼張りをしているのだけが見えるのでした。
 それらの人びとは少しの音もさせずに自分たちの席につきましたが、その動いている時、鋪石しきいしの上に靴の音もなければきぬずれの音もないのです。低い所には、とび色のジャケツに木綿デイミンの袖をつけて、青い靴下をはいている若い芸術家たちの群れが、顔を薄くあからめて伏目がちな娘たちの腰に腕をまいて親しそうに押し合っています。また、聖水ホリーウォーターの近くには、真紅しんくペティコートをはいて、レースのついている胸衣むなぎをつけた農家の女たちが、家畜のように動かずに地面に腰をおろしています。そうかと思うと、若い者がその女たちのうしろに立って大きな眼をして見廻しながら、指先でくるくると帽子を廻したりしています。これらの悲しそうな顔つきの人たちは、何か同じ思いのために、動かずにここに集まっているようで、ある時は愉しそうに、またある時は悲しそうにみえるのでした。
 カトリーヌはいつもの席についていると、司祭は二人の役僧をしたがえて、聖餐の壇にのぼるのを見ました。どの僧もみな婆さんの識らない人ばかりでしたが、やがて聖餐祭は始まりました。実にしずかな聖餐祭で、人びとのくちびるの動きは見えても、その声はきこえないのです。鐘の音もきこえません。
 カトリーヌは自分のまわりにいる不思議な人びとの注目を受けていることを感じながら、わずかに顔を振り向けようとする時、そっと隣りをぬすみ見ると、その人は婆さんがかつて愛していて、四十五年前にもう死んでいるはずの騎士ドーモン・クレーリーであったのです。カトリーヌはその人であることを、左の耳の上にある小さいあざと、長い睫毛まつげが両方のほほにまで長い影をうつしているのとでたしかめたのです。彼は黄金きん色のレースのついている緋色ひいろ猟衣かりぎぬを着ていましたが、その服装こそは聖レオナルドの森で、初めて彼がカトリーヌに逢って、彼女に飲み水をもらって、そっと接吻キッスをした時の姿であったのです。彼はいまだに若わかしく、立派な風貌をそなえていて、彼が微笑を浮かべると、今も美しい歯並があらわれるのでした。カトリーヌは低い声で彼に話しかけました。
「過ぎし日の私のお友達……そうして、私が女としてのすべての愛を捧げたあなたに、神様のお加護がありますよう……。神様は、あなたのお心にしたがった私の罪をついに後悔させようとなされましょうが、私はこんな白い髪になって、一生の終わりに近づきましても、あなたを愛したことはいまだに後悔いたしておりません。そこで伺いますが、この聖餐祭に集まっていられる、あの昔ふうの服装なりをしている方がたはどなたでございます」
 騎士ドーモン・クレーリーは、呼吸いきをするよりも微かな、しかも透き通った声で答えました。
「あの男や女は、私たちが犯したような罪……動物的恋愛の罪のために、神様を悲しませた人たちです。煉獄れんごくの境いから来た霊魂たちです。しかしそのために、神様から追放されているのではありません。あの人たちの罪は私たちと同じように、無分別がさせた罪であるからです。あの人たちは、地上にいたときに愛していた人たちから離されている間に、この人たちにとって最も残酷な呵責かしゃくである放心の苦難を受けて、煉獄の浄火にきよめられたのです。この人たちの愛の苦しみは、天界にいる天使たちから見ると、憐れに見えるほどの不幸であるのです。この人たちは、天界の最も高き所にいます神の許しによって、一年のうち夜の一時間だけは、この人たちの教区に属する教会で、愛人と愛人とが逢うことができるのです。ここで、この人たちが、影の聖餐祭に集まって、手と手を握り合うことを許されています。私もここで、まだ死んでいないあなたに逢うことを許されたのは、これも神様のあたえてくだされた一つの愉楽なのです」
 そこで、カトリーヌ・フォンテーヌは次のように答えました。
「もし私が、いつか森の中であなたに飲み水をさしあげた時のように美しくなれますなら、わたしは喜んで死にたいと思います」
 二人が低い声でこんな話をしている間に、ひどく年をとった僧が大きな銅盤を礼拝者の前に差し出しながら、喜捨の金を集めに来ました。礼拝者たちは交るがわるにその中へ、遠い以前から通用しない貨幣を置きました。六ポンドのエクー古銀貨、英国のフロリン銀貨、ダカット銀貨、ジャコビュスの金貨、ローズノーブルの銀貨などが音もなしに盤のなかへ落ちました。その盤はついに騎士の前に置かれたので、彼はルイス金貨を落としましたが、今までの金貨や銀貨と同じように、これも音を立てませんでした。
 それから、かの老僧はカトリーヌ・フォンテーヌの前に立ち停まったので、カトリーヌは懐中ふところを探りましたが、一ファージングの銅貨も持ち合わせていませんでした。しかし、何も入れないでそのまま通してしまいたくなかったので、騎士が死ぬ前に彼女に与えた指環を指から抜き取って、その銅盤へ投げ入れると、金の指環が盤の上に落ちると同時に、おもおもしい鐘が鳴りひびきました。この鐘の反響のうちに、騎士を初め、僧員や司祭者や役僧や、婦人や、そこに集まっているすべての人たちはみな消えてしまったのです。灯のついていた蝋燭も流れては消え、ただ、かのカトリーヌ・フォンテーヌの婆さんだけが闇のなかに取り残されました。
 堂守はここで話を終わると、葡萄酒をひと息にぐっと飲みほして、しばらく黙っていたが、やがてまた、次のように話し始めた。
「わたしは親父が何度も繰り返して話して聴かせたのを、そのままお話し申したのですが、これは本当にあった話だと思います。それというのは、この話はすべてその昔に私が見知っている……今はこの世にいない人たちの様子や特別な風習に符合ふごうしているからです。わたしは子供のときから、死人のことにずいぶんかかり合いましたが、死人はみな自分の愛している人のところへ立ち帰るものです。
 吝嗇りんしょくな人間が生前に隠して置いた財物ざいもつの附近に、夜中徘徊するというのもやはりこのわけです。この人たちは自分の黄金こがねに対して厳重な見張りをしているのです。死人として、しなくともいいことをして自分で自分を苦しめ、かえって自分の不利益になってしまうのです。
 幽霊のすがたになって、地のなかに埋めた金などを掘っているのは珍らしいことではありません。それと同じように、さきに死んでしまった夫が、あとに生き残って他人と結婚した妻を悩ましに来たりすることがあります。私は生きていた時よりも、死んでからいっそう自分の妻を監視している大勢の人の名前までも知っています。
 こんなことはいけないことです。正しい意味からいえば、死人が嫉妬をいだくなどはいわれのないことです。私自身が見たことについてお話をすることもできますが、男が未亡人と結婚しても同じようなことになるのです。しかし、今お話をしたカトリーヌの一件は、次のように伝えられています。
 その不思議なことのあった翌朝、カトリーヌ・フォンテーヌは、自分の部屋で死んでいました。そうして、聖ユーラリ教区の役僧が集金のときに使った銅盤のなかに、二つの手の握り合った形をした黄金の指環がはいっていたのを発見したのです。いや、私は冗談などをいう男ではありません。さあ、もっと葡萄酒を飲もうではありませんか」





底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
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