紅い花

КРАСНЫЙ ЦВЕТОК

ガルシン Всеволод Михайлович Гаршин

神西清訳




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イヴァン・セルゲーヴィチ・トゥルゲーネフの記念に


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かしこくも天の下しろしめす皇帝、ピョートル一世陛下の御名代ごみょうだいとして、本癲狂院ほんてんきょういん査閲さえつを宣す!」
 甲高い、耳がびんびんするような大音声だいおんじょうで、そんな文句が述べ立てられた。インクの汚点しみだらけの机に向かって、ぼろぼろの大きな帳簿にその患者の名を書き込んでいた病院の書記は、思わず微笑を浮かべてしまった。だが患者を護送して来た二人の若者は、にこりともしなかった。二昼夜というものまんじりともせずに、この狂人と面と向かい合って汽車に揺られた挙句に、ここまで連れて来たのだから、立っているのもやっとなのである。降りる一つ手前の駅で狂気の発作がひどくなったので、何処どこやらで狭窄衣きょうさくいを手に入れて、車掌や憲兵に手伝ってもらって患者に着せたのだった。そのまま彼をこの町まで運び、いまこの病院に送りとどけたところである。
 見るも怖ろしい姿だった。発作の時ずたずたに裂いてしまった鼠色ねずみいろの服のうえから、り込みの大きいごわごわのズックの狭窄衣が、ぴっちりと胴体をめつけている。長いそでが、両腕をぎゅっと胸の上に十文字に組ませ、背中でくくり上げてある。真っ赤に充血した両眼は大きく見ひらかれ(これで十日のあいだ一睡もしないのだ)、じっと動かぬ燠火おきびのように燃えている。神経性の痙攣けいれんが下唇の端をぴくぴくと引っらせ、くしゃくしゃになったちぢが、まるでたてがみのようにひたいに垂れかかっている。そうして事務室のすみから隅へずしずしと足早に歩き廻って、探るような眼つきで書類のはいった古戸棚や油布張りの椅子いすをじろじろ眺めたり、時には護送人の方をちらりと見たりする。
病棟びょうとうの方へ御案内して。右の方です。」
「僕は知っている、知っているよ。去年も君たちと一緒に来たことがあるからな。僕らはこの病院を検閲したんだよ。僕は何もかもすっかり知ってるんだから、そう易々やすやすとはだまされんぞ。」
 患者はそう言うと、扉口とぐちの方へくるりと向き直った。看視人がその前の扉をあけてやると、相変らずずしずしと足早に、しかも決然たる足どりで、狂った頭を高々とらしながら事務室を出て行ったが、右へ折れると今度はほとん駈足かけあしで、精神病患者の病棟の入口までやって来た。護送人たちもやっと追いついて行ったほどだった。
「ベルを押してれ。僕には押せん。君たちに両手を縛り上げられちまったからな。」
 番人が扉をあけると、一行はそのまま病棟へ歩み入った。
 それは昔の役所風の建て方をした、大きな石造りの建物であった。大広間が二つあって、一つは食堂に、もう一つは穏やかな患者の共同病房になっている。広い廊下が走っていて、庭の花壇へ下りる玻璃扉ガラスどがついている。それから患者の入れてある単独病房が二十ばかり――ざっとこうした間どりが一階を占めている。一階にはまだそのほかに暗い部屋が二つあって、一つは毛蒲団けぶとんをいちめんに張りめぐらし、もう一つは板張りだが、いずれも兇暴性きょうぼうせいの患者を収容するのである。それから円天井のついたおおきな陰気な部屋――これは浴室である。二階は婦人患者が占領している。そこからは調子のはずれた噪音そうおんが、うなり声や苦痛の叫びで引き裂かれながら、階下したまで伝わって来るのだった。この病院の定員はもともと八十名なのだけれど、近隣の数県をここ一つで掛け持ちしているので、患者の収容数は三百人にも及んでいた。手狭な病室ごとに寝台が四つか五つは入れてある。冬は患者を庭へは出さないし、鉄格子の外の窓はみんなぴったりと閉ざしてしまうので、病院の中はたまらない息苦しさであった。
 新来の患者は浴槽よくそうのある部屋へ連れて行かれた。健康な人間にさえ、この部屋の空気は重苦しい印象を与えまいものでもないのに、ましてや常軌を逸し興奮しきった想像力の持主には、尚更なおさらその作用はひどかった。それは円天井のついた大きな部屋で、石を畳んだ床はべとべとしていて、明りは片隅にあるたった一つの窓からしかし込まない。壁と円天井とは赤黒い塗料で塗り上げられ、あかほこりで黒ずんでいる床には、まるで二つの橢円形だえんけいの穴に水を張りでもしたように、石の浴槽が二つ、床面とすれすれにめ込んである。途方もなく大きな銅製の炉が、湯沸かし用の円筒形のかまや、そのほか銅管だの活栓カランだのの一切の装置をそなえて、窓と反対側の一隅いちぐうを占めていた。そうしたものがんな、病的な頭脳にとっては異常に陰惨で幻想的な性質を帯びているところへ、湯番をしているふとったウクライナ人とさかあたまがまた、ついぞ口を利いたためしのないむっつり屋と来ているので、その陰気な顔つきがいやがうえにも部屋の印象を暗くするのであった。
 この怖ろしい部屋に連れて来たのは、患者を入浴させて、この病院の医長の療法にしたがって頸筋くびすじ発泡膏はっぽうこう塗布とふするためであったが、部屋の様子を一目みると、彼は恐怖と忿怒ふんぬに取っかれてしまった。途方もない想念が、次第に怪奇の度を増しながら、あとからあとからと頭の中で渦を巻いた。一体これは何だろう? むごたらしい邪宗改めの法廷か? 仇敵きゅうてきどもが彼を亡きものにしようと思い定めた秘密の刑場か? ひょっとしたらこれが地獄じゃあるまいか? しまいには、これは何かの拷問ごうもんなのだという想念が浮かんだ。必死になって抵抗する彼を、寄ってたかって裸にした。ところが病気のせいで二人力ににんりきになっていた患者は、幾人いくにんかの看視人の手を苦もなく振りほどいてしまい、相手は勢い余って床べたへつんのめってしまった。やっと四人がかりで押し倒して、手とり足とり温湯の中へつっ込んだ。それが患者にはくらくらに煮え返った熱湯と思われ、その狂った脳裡のうりを、煮え湯や灼熱しゃくねつした鉄棒を使う拷問についての脈絡のないきれぎれの考えが、稲妻のようにひらめき過ぎた。湯にむせ返って、看視人たちにしっかり抑えつけられた手足を痙攣的けいれんてきにもがきながら、あえぎ喘ぎ、何やら取留めのないことをわめき立てるのだった。それは、自分の耳で実際に聞いた人でない限り、想像もつかぬような叫喚であった。祈りの文句もあったし、呪詛じゅその叫びもあった。精根つきるまで喚きつづけていたが、やがてしまいには熱い涙をぼろぼろこぼしながら、それまで喚き立てていた言葉とは何の脈絡もない文句を、小さな声で唱えるのだった。「聖なる大殉教者ゲオルギイ。この肉体はあなたの御手みてにお任せします。だが魂は――いいや、いやです、厭です。」
 看視人たちはまだ抑えている手をゆるめなかったけれど、患者はそのうちにすっかりしずまっていた。温浴と頭に当てがった氷嚢ひょうのうが、利き目をあらわしたのだった。ところが殆ど気を失っている彼を湯の中から引き上げて、発泡膏を塗布するため腰掛に掛けさせる段になって、残っていた力と狂った想念とが、またしても文字どおりせきを切ってほとばしった。
何故なぜそんな、何故そんなことをする」と彼は喚いた、「俺は誰にも悪いことをした覚えはないぞ。何の罪でこの俺を殺すんだ。おおお、おお、しゅよ! おお、我に先んじて十字架を負い給える主よ。お願いです、お救い下さい。……」
 頸筋へ来た焼けつくような感じが、彼を必死にもがき狂わせた。看視人たちは手の附けようがないので、途方に暮れてしまった。
「仕方がない」と施術にかかっていた看護卒が言った、「摩擦せにゃならん。」
 この何でもない言葉に、患者はふるえ上がってしまった。『摩擦だと……何をこする、誰をこする? この俺をだ!』と彼は考え、死なんばかりの怖ろしさに両眼をつぶった。看護卒はごわごわのタオルの両端を握ると、力いっぱいにしつけながら、勢いよくごしごしと頸筋をこすった。発泡膏がげ落ち、頸の上皮がすりきれて、赤剥あかむけのり傷があとに残った。平静な健康人にとってさえ我慢のならぬこの施術の苦痛は、病人にはこの世の終りかと思われた。必死の力を満身にこめてぐいと踏張ふんばり、看視人たちの手を振りもぎった途端に、赤裸あかはだかのからだは石畳のうえにころころと転がった。彼は首をり落とされたかと思った。喚こうとしたが声が出ない。彼は失神したまま病床に運ばれ、そのまま死んだような深い長いねむりに落ちた。


 彼が気がついたのは真夜中であった。あたりはしんとしている。隣の大きな部屋からは患者たちの寝息が聞こえて来る。どこか遠方で、その一夜を真っ暗な部屋に押し込まれた患者が、単調な奇妙な声で自分を相手にしゃべっている。かと思うと二階の婦人病棟からは、しゃがれた女性中音コントラルトが何やら野卑な歌を唄っているのが聞こえてくる。病人は耳を澄ましてこれらの声に聴き入っていた。手足から腰から、そこらじゅうが怖ろしくだるく、ぐったりと力の抜けた感じだった。頸筋がずきずき痛んだ。
『俺は何処どこにいるんだろう、どうしたんだろう?』という考えが浮かんだ。とにわかに彼の脳裡には、このと月の自分の生活が不思議なほどありありと描き出されて、自分が病気なこと、それも何処が悪いかということまでが、はっきり悟られたのだった。さまざまな途方もない想念や言葉や行為が思い出され、それが総身を慄えあがらせた。
『だがもう済んだのだ。ああ有難い、もう済んでしまった!』とつぶやくと、彼はまた睡りに落ちた。
 鉄格子のまった窓は開け放してあって、大きな建物と石のへいに挟まれた細い露路に面していた。この袋小路にははいって来る人もないので、名も知らぬ野生の灌木かんぼくむらや、ちょうどその季節に美しい花をつける紫丁香花むらさきはしどいやが、一面にはびこり繁っている。……繁みの向こうには、窓と丁度むかい合わせに、石の塀が黒々とそそり立っていた。宏大こうだいな庭園の樹立こだちが、高いこずえに月光を浴び、また月かげを透かせながら、石塀ごしにのぞいていた。右手には病院の白い建物がそびえ、鉄格子の嵌まった窓々が、明るく内側から照らされている。左手は――月の光にまぶしいほど白く浮きあがった、死亡室の盲壁である。月光は窓の鉄格子をとおして室内の床に落ちて、寝台の一部と、眼をつぶった病人の疲れきったあおい顔とを照らしていた。いま見ると狂気じみたところは少しもなかった。それは疲れ果てた人に来る、夢も見ず身じろきもせず、息さえも殆ど通わぬ深い重苦しい睡りであった。ほんの数瞬のあいだ、彼はまるで健康な人のように、完全な知覚をもって眼ざめたのである。やがて朝になれば、またもとの狂人として寝床を起き出ようがために。


「御気分はいかがです?」とあくる日、医者が彼にたずねた。
 たったいま眼をさましたばかりの病人は、まだ毛布にくるまっていた。
すこぶるよろしい」とね起きてスリッパを穿き、寝間着をぎゅっとつかみながら彼は答えた、「実によろしい。だがたった一つ、そらここが――」
 と自分の頸を指さして、
「痛くって頸が廻せないんです。まあそんな事はどうでもいい。あれが分かりさえすりゃ文句はないのさ。ところが僕は分かっているんだ。」
「いま何処におられるのか御存知ですか。」
「そりゃ勿論もちろん、ドクトル。僕は癲狂院にいるのです。だがあれが分かってしまえば、そんなことは全くどうでもいいんです。全くどうだっていいことですよ。」
 医者は患者の眼にじっと見入っていた。見事に手入れの行き届いている金色のひげ金縁きんぶち眼鏡ごしにじっと見ている落ち着き払った青い眼――医者の美しい、たしなみのいい顔はぴくりともせず、見透し難いものがあった。彼は観察していたのである。
「何故そう僕を見詰めるのです? 僕の心の中なんかとても読めるもんですか」と患者は言葉をついだ、「しかし僕にはあなたの心の中が読める。何故あなたは悪いことをするのです? 何故あなたは不幸な人達をこんなに集めて、ここに監禁して置くのです? 僕のことはどうでもよろしい、僕は一切を見抜いて泰然としているんだから。しかしあの連中はどうです? ああした苛責かしゃくが一体何になるのです。自分の魂には偉大なる思想、万有に相通ずる思想が存するということを達観した人間にとっては、何処に住もうと何を感じようと同じことです。生死すらも問うところではありません……そうじゃないですか?」
「そうかも知れませんねえ」と医者は答えて、患者の姿がよく見えるように、部屋の一隅の椅子に腰をおろした。患者は大きな馬革のスリッパをぺたぺたいわせ、荒い赤縞あかじまに大きな花模様のついた木綿の寝間着のすそをはためかせながら、勢いよく隅から隅へ歩き廻っている。
 医者のお供をして来た助手と監督とは、不動の姿勢で扉口に立ちつづけている。
「で、僕にはその思想がある!」と患者は叫んだ、「それを発見したとき、僕は生まれ変わったような気がしました。感覚は鋭敏になり、頭脳は今までにないほどよく働く。これまでは推理や臆測おくそくの長い道程を経て到達したことを、今では直覚的に認識する。哲学が作り上げたものを、僕は現実的に把握したのです。空間と時間とは擬設フィクチョンである――という大いなる観念を、僕は身をもって体験しつつある。僕はあらゆる世紀に生きている。僕は空間を絶した所に生きている。到る所に生きているとも言え、また何処にもいないとも言えましょう。だからあなたが僕をここに監禁して置かれようと、或いは解放なさろうと、僕が自由の身であろうと束縛されていようと、僕にとっては同じことなんです。ここには僕同様の人々がまだ数人いることを僕は認めました。しかしその他の有象無象にとっては、こういう状態は怖ろしいものです。何故あなたは解放してやらないのですか。一たい誰に必要が……」
「今あなたは」と医者はさえぎった、「時間と空間を絶したところに生きていると言われましたね。しかし、あなたと私が現にこの部屋にり、そして今が」と時計を出して、「一八**年五月六日の十時半であるということは、否定する訳には行きません。この点はどうお考えですか。」
「別にどうとも考えていません。何処にいようと何時いつに生きようと、僕には同じことなのです。僕にとって同じことである以上、つまり『僕』というものが、随処にあり随時にあるということになるではありませんか。」
 医者はちらっと薄笑いを漏らした。
「珍しい論理ですねえ」と彼は立ち上がりながら言った、「或いはあなたの言われる通りかも知れません。ではまた。葉巻をひとついかがです?」
「有難う。」――彼は立ちどまって葉巻を取ると、神経質にその端をみ切った。「これは思考の助けになる」と彼は言った、「これは世界だ、小宇宙だ。一方の端にはアルカリがあり、他の端には酸がある。……互いに対立する原理が中和している世界の平衡状態も、やはりこの様なものだ。……さようなら、ドクトル!」
 医者は回診をつづけた。患者の大部分はそれぞれの病床の傍に直立して、彼を待ち受けていた。どんな役所の長官でも、精神病医がその患者から受けるほどの敬意を、部下から受けることはないのである。
 さて例の患者はひとりになると、病室の隅から隅へ、せかせかと落着きのない歩みをつづけた。お茶が運ばれて来ると、彼は立ったままで、把手とってのついた大コップをた口でからにし、ほとんどまたたくひまに白パンの大きなかたまりを平らげてしまった。それから病室を出て、数時間というもの小休おやみもなしに、例のずしずしう足早な歩調で、建物の端から端へと歩きつづけた。その日は雨模様だったので、患者たちは庭へ出されなかった。助手が新来の患者を捜しに来て見ると、他の患者が廊下のはずれを指さして見せた。彼はそこにたたずんで、庭へ出る玻璃扉はりどのガラスにぴったりと顔をつけたまま、じいっと花壇に見入っていた。罌粟けしの一種の、異様に鮮やかな真紅の花が、彼の注意をきつけたのである。
「体重を量りますからいらして下さい」と、彼の肩に触れながら助手は言った。
 そして患者がくるりと顔を振り向けたとき、助手はぞっとして、殆どたじたじとなった。それほどに兇暴な敵意と憎悪の色が、狂った眼の中に燃えていたのである。しかしそれが助手だと分かると、彼はぐさま顔色を改めて、まるで深い物思いに沈んでいるかのように一言も口を利かずに、おとなしく後からついて来た。医者の診察室にはいると、患者は言われぬ先に自分から、十進法の目盛りのついた小型なはかりの台座に立った。助手は体重を取ると、帳簿の彼の名のところに一〇九フント(ロシヤの重量の単位。一フントは四〇七・七グラム)と記入した。翌日には一〇七になり、三日目には一〇六になった。
「この調子で行ったら、あの患者はとてももつまい」と医者は言って、出来るだけいい食餌しょくじを与えるように言い附けた。
 だがそれにもかかわらず、また患者の異常な食慾にも拘らず、彼は日に日にせ衰えて、助手が日毎ひごとに記入するフントの数はだんだん少なくなって行くのだった。患者は殆ど睡眠をとらず、来る日も来る日も終日小休みもなしに動き廻っていた。


 彼は癲狂院にいることを意識していた。自分が病気だということさえ意識していた。時々はあの最初の晩のように、終日の狂おしい運動の後に来た静寂のさなかで、四肢ししのずきずきする鈍痛と、頭の怖ろしい重さとを感じながら、それでも完全に意識を取り戻して眼ざめることがあった。恐らく深夜の静寂と薄明りのなかでは外界の印象がけていること、また恐らくは眼をさましたばかりの人間の脳髄の働きの鈍さが、そうした瞬間彼に自分の状態をはっきりと認めさせ、あたかも健全であるかのような相を呈させるのであろう。しかし夜が明けると、射し入る光とともに、また病院の生活の眼ざめとともに、またしても様々の印象が大波をなして彼を取り囲むのだった。病んでいる脳髄はそれらの印象をもて扱い兼ねて、彼はまたもや狂人になってしまうのだ。彼の状態は、正しい判断と妄想との奇妙な混合物だった。彼には、自分の周りにいる者が皆んな病人だということは分かっていたが、それと同時に彼等の一人一人に、自分がかつて知っていた、或いは本で読んだことのある、乃至ないしは噂に聞いたことのある誰かれの顔を――それらようやひそやかに薄れ隠れようとしている、または全く忘却の狭霧さぎりおおわれてしまっている面影を、見出すのであった。で病院には、あらゆる時代、あらゆる国々の人が住んでいた。生きている人も死んでいる人もあった。その名一世に鳴り響いた人々も、武勇のほまれ天下に高い人々も、またの間の戦争で死んで、ふたたびよみがえって来た兵士もいた。彼は、地上の一切の力を集中させた或るあやしい魔法の輪の中にいる自分を見、思いおごった恍惚こうこつのなかで、自分をその輪の中心だと思った。彼の病院仲間はみんな、ある仕事を遂行するため此処ここに集合したのであり、その仕事は彼の胸には漠然と、地上の悪の絶滅を期する雄大な一大事業なのだと思い描かれた。具体的に果たしてどういう事をする事業なのかは、彼にも分からなかったが、彼はそれを遂行するに充分な力が身内にあることを感じていた。彼は他人の心の中を読むことができた。事物にその全歴史を見ることもできた。病院の庭のにれの大樹は、その過去の一切の伝説を彼に物語るのだった。病院の建物は事実かなり昔に建てられたものではあったが、彼はそれをピョートル大帝の造営であると考え、帝がポルタヴァの役の当時に住まわれたものとかたく信じていた。それを彼は四方の壁や、剥げ落ちた漆喰しっくいや、庭に転がっている煉瓦れんが陶瓦タイル破片かけらの上に読んだのだ。家屋と庭園の一切の歴史は、それらのものの上に記されていた。彼は死亡室の小さな建物に、とうの昔に死んでいる何十人何百人の人間を住まわせ、その地下室から庭の片隅に面していている小窓に、じっと眼を凝らすのだった。すると、その虹色にじいろをした汚れた古硝子ふるガラスのうえの光の乱反射の中に、曾て生あるものとして、または肖像画として彼の眼に触れた、見覚えのある面影が浮かぶのであった。
 そのうちに澄み渡った晴天の日々が来た。患者たちは終日庭に出て外気のなかで過ごした。その庭の彼等の領域は広くはなかったが、樹々がよく生い繁って、植えられる限りの場所には一面に草花が植わっていた。監督は少しでも労働のできる者にはみな庭で働くように強いていたので、彼等は日ねもす小径こみちを掃いて砂をいたり、自分たちの手でき起こした花壇や、胡瓜キュウリ西瓜スイカ甜瓜メロンの苗床の草むしりをしたり、水をやったりしていた。庭の隅にはよく繁った桜の林があった。それに沿って楡の並木が連なっていた。中央の小さな築山つきやまの上には、庭じゅうで一ばん美しい花壇が作ってあった。鮮やかな色の花々が上段を縁どって生え、その真ん中には、豊満な、珍しいほど大輪の、赤い斑点はんてんのある黄ダリヤが、今を盛りと咲き誇っていた。このダリヤは一段と小だかいところに位して、庭全体の中心をなしていたので、多くの患者がこの花に何かしら神秘な意味を附していることは、一見してそれと見てとられた。新来の患者にもやはり、その花は尋常一様のものとは言い切れぬ或るもの、何かしら庭園と家屋の守護女神像パラジウムのように思われるのだった。あらゆる小径の両側にも、患者達の手で花が植えてあった。そこにはウクライナ地方の庭々で見られるありとある花があった。たけなす薔薇ばら、色鮮やかな衝羽根朝顔つくばねあさがお、小さな淡紅色ときいろの花をつけた見上げるようなたばこ叢立むらだち、薄荷はっか孔雀草くじゃくそう凌霄葉蓮のうぜんはれん、それから罌粟けし。またその庭には、昇降口のじき傍に、何か特別の種類と見える罌粟が三株はえていた。普通の罌粟よりもずっと花が小さく、その真紅の色の並々ならぬ鮮やかさが、普通には見られぬ特徴であった。入院後の第一日に、例の患者が玻璃扉ごしに庭を眺めていたとき、その眼を驚かしたのはこの花なのであった。
 はじめて庭に出た彼は、昇降口の段を下りようともせずに、何よりもずこの燃えるような花を眺めた。花はたった二つしかなかった。それは他の草花から離れて、偶然この雑草の抜いてない場所に生えたので、よく茂ったあかざや、名も知らぬ丈の高い南方の雑草が、ぎっしりと周りを取り囲んでいた。
 患者達は順ぐりに扉から外へ出た。扉口には看視人が一人立っていて、額に赤十字の印のついた木綿編みの厚手の白い患者帽を、めいめいに手渡すのだった。この帽子は戦地に行って来たもので、競売で買い入れたのである。とはいえ、例の患者がこの赤十字の印に、特別な神秘な意味を附していたことは言うまでもない。彼は帽子を脱いで十字の印を眺め、それから罌粟の花を眺めた。花の方が鮮やかだった。
「奴の方が勝っている」と患者は言った、「だがまあ見ていろよ。」
 そして彼は昇降口を離れた。あたりを見廻し、背後うしろに立っている看視人の姿には気づかずに、彼は花壇を一跨ひとまたぎしてその花の方へ手を伸ばしたが、摘みとる勇気は出なかった。まるで得知れぬ力の何かしら強烈な流れが、その真紅の花弁から発して、彼の全身を貫きとおしでもしたように、彼はまず差し伸べた手に、やがては全身に、焼けつくような感じと、刺すような痛みを感じたのである。彼はぐいとにじり寄って、花とすれすれまで手を伸ばしたが、花は人命を奪うような毒気を発散して、防いでいるように彼には思われた。彼は眩暈めまいがして来た。彼が最後の死にものぐるいの努力をして、やっとのことで茎に手をかけた時、にわかにどっしりと重い手が彼の肩にかかった。看視人が彼を捉えたのだ。
むしってはならん」とウクライナ人とさかあたまの老人が言った、「花壇へはいってもならん。ここには君等のような気ちがいが一杯いる。それに一本ずつ毟られたら、庭じゅうが坊主になってしまうからね」と彼は、患者の肩をつかまえたまま、さとすような口調で言った。
 病人は彼の顔を眺め、無言のままその手を振りほどくと、興奮して小径を歩いて行った。『ああ、哀れな奴等だ』と彼は思った、『お前等は眼が見えないのだ。彼奴きゃつをかばうほどに、お前等はめしい果てているのだ。だが俺は、どんなことがあろうと、きっと彼奴をやっつけて見せる。今日が駄目なら明日こそ力くらべをしてやろう。それで俺が死んだとしても、どっちみち同じことじゃないか。……』
 彼は日がとっぷりと暮れるまで庭をぶらついて、患者仲間と交際を結んだり、または対談者がみなてんでに、途方もない摩訶不思議まかふしぎな言葉で自分の狂った考えを言い表わして、それに対する相手の返答だけを聞くといった風な、奇妙な会話を交わしたりした。病人はいまこの患者と歩いていたかと思うと、すぐまた別の患者と道連れになって、日が暮れる頃には、彼が自分に言い聴かせた文句によると『用意はすっかり出来ている』ことについて、ますます確信を深めるに至った。間もなく、間もなく鉄の格子は崩れ落ち、これら監禁されている人々は残らずここを出て、地上のありとあるはてへと飛んで行く。そして全世界はおののき震え、着古した衣をかなぐり棄てて、新しい驚くべき美しさを以て立ち現われる。……彼は花のことは殆ど忘れてしまっていたが、庭を去って昇降口を上がろうとしたとき、黒ずみかけて既に露を宿しはじめていた雑草の茂みの中に、まるで二つのあかい炭火のような罌粟の花が、あらためてまた彼の眼についた。すると病人は患者の群れから後れて、看視人の背後うしろに佇み、まんまと恵まれた瞬間をつかんだのだった。誰ひとり、彼が花壇を飛び越え、花を鷲掴わしづかみにして、いそいで胸の肌衣はだぎの下にかくしたのを見たものはなかった。冷え冷えと露を含んだ草の葉が彼の肉体に触れたとき、彼は死人のように蒼ざめて、恐怖のあまり眼を大きく見開いた。冷汗ひやあせが彼の額ににじみ出た。
 病院にはランプがともった。晩食を待つあいだ、患者の大部分は寝床に横になっていたが、幾人かの躁狂性そうきょうせいの患者はせかせかと廊下や広間を歩いていた。花を抱いた患者もその一人だった。十文字に組んだ両腕を、ぐいぐいと痙攣的に胸に圧しつけながら、彼は歩いていた。胸に匿した草花を圧しつぶしてしまいたい、みじんにみしだいてしまいたいと思っているようだった。ほかの患者が向こうから来ると、彼は着物のへりの触れ合うのをおそれて、遠廻りにけて通った。『傍へ寄らんで呉れ、傍へ寄らんで呉れ!』と彼は叫んでいた。しかし病院の中では、そんな大音声に一々注意を向ける人はまず無かった。で彼はいよいよ足早に、ますます大股になりながら、何かしら激しい怒気を含んで、一時間二時間と歩き廻っていた。
「へとへとにして呉れるぞ。息の根をとめて呉れるぞ!」と彼は、うつろな声でさも憎さげに言うのだった。
 ときどき彼は歯ぎしりをしていた。
 食堂に晩食が出た。卓子掛テーブルかけのない大きな食卓の列の上には、きん蒔絵まきえのある色塗りの木鉢きばちがそれぞれ幾つかずつ置かれて、その中に水っぽい黍粥きびがゆが盛ってあった。患者達は長い腰掛に坐った。黒パンが一片ずつ配られた。八人ほどが一組になって、おもやいの鉢から木匙きさじで食べるのだった。上等食を支給される幾人かの患者には、別室で食事が出た。看視人によって自分の病室へ呼び込まれた例の患者は、その看視人が運んで来た一食分を急いで一呑ひとのみにしてしまうと、それでは満足がゆかずに共同食堂へやって来た。
「僕もここに坐らせて下さい」と彼は監督に言った。
「もうお済みじゃなかったのですか」と、お代りの粥を木鉢にぎながら監督はきき返した。
「僕はとても空腹なんです。それに僕はうんと精分せいぶんをつける必要がある。僕の命をつないでいるのは食物だけなんです。御存知の通り、僕は一睡も出来ないのですから。」
「じゃまあ、たんとおあがりなさい。タラス、この方に匙とパンをお上げ。」
 彼は木鉢の一つに向かって坐ると、さらにびっくりするほど大量の粥を平らげた。
「さあ、もう沢山たくさん、もう沢山」と、一同が食事をえたとき監督はそう言ったが、病人はまだ腰を上げずに鉢の上へのしかかって、片手では粥をすくい、のこる片手では胸をしっかり抑えていた。「おなかこわしますよ。」
「ああ、僕にどれほどの力が、どれほどの力が要るのか、あなたが分かって下すったらなあ! ではお別れします、ニコライ・ニコラーエヴィチ」と彼は食卓を立ちながら、監督の手をぎゅっと握りしめて言った、「御機嫌よう。」
「一たい何処へいらっしゃるのです?」と監督は微笑しながらいた。
「僕ですか? 別に何処へも。此処におりますよ。だが明日は恐らくお目にかかれますまい。色々と御親切に有難うございました。」
 そう言いながら、もう一ぺん監督の手を固く握りしめた。彼の声はふるえ、眼には涙が浮かび出た。
「まああなた、落ち着いて下さい」と監督は答えた、「何だってそんな陰気なことを考えるのですか。お部屋に帰って横におなりなさい。そしてぐっすりおやすみなさい。あなたはもっと睡眠をらなくちゃいけませんよ。よく眠りさえすれば、じきくなりますよ。」
 病人はむせび泣いていた。監督は顔をそらすと、食事の残りを早く片づけるように、看視人たちに命じた。それから半時間ののちにはもう、病院の中はすっかり寝静まっていたが、ただ一人、かどの部屋の寝台の上に、着替えもせずに横たわっている患者だけは例外だった。彼は熱病患者のようにがたがたと顫え、前代未聞の怖るべき猛毒に犯されたと自ら考えている胸を、痙攣的にめつけるのだった。


 彼は一晩じゅう眠らなかった。彼があの花を摘み取ったのは、そうした行為のうちに自分の遂行せねばならぬ大いなるわざを見たからだった。玻璃扉ごしにはじめて見かけた時、彼の注意はその真紅の花弁に惹きつけられてしまった。そして彼には、この刹那せつなを境にして自分が、この地上で自ら為遂しとげなければならぬ事の何かを、完全に悟ったような気がしていた。あの燃えるような紅い花に、世界のありとある悪があつまっていたのだ。彼は罌粟けしからは阿片あへんの採れることを知っていた。恐らくはこの想念が枝葉をひろげ、異様な形をとって、すさまじい怪奇な幻影を彼に作り上げさせたのであろう。彼の眼にはその花は、ありとある悪の凝って成ったものと映じた。その花は、罪なくして流された人類の血を一滴もあまさず吸いとり(だからこそあんなに真紅なのである)、人類のあらゆる涙、あらゆる胆汁をも吸いとったのだ。それは神秘な怖るべき存在であり、神の反対者であり、さも内気そうな無邪気そうなふりを装う暗黒神アリマンであった。毟り取って、殺してしまわねばならないのだ。しかもそれだけではまだ足りない。それが息を引きとる際に、身内のすべての悪を世界へ吐きだすようなことがあってはならないのだ。だからこそ彼は、それを自分のふところにじっと押し匿していたのである。彼は、夜が明ければその花が、一切の魔力を失うことと期待していた。その悪は彼の胸に、魂に乗り移って、そこで彼に征服されるか彼を征服するか、どっちかなのである。それが彼を征服することになれば、彼自身は滅びる、死ぬ。しかし彼は名誉ある戦士として死ぬのだ。のみならず、未だ曾て誰一人として、世界のありとある悪を相手に一挙に闘いを決しようとした者がない以上、彼は人類最初の戦士として死ぬのである。
「奴等にはあれが見えなかった。俺にはちゃんと見えたのだ。どうしてあれが生かして置けよう。そのくらいなら死んだ方がましだ。」
 そして彼は、ぐったりとなって横たわっていた。幻想の生んだ、現実にはない闘いではあったが、それでも矢張りぐったりと疲れ果てて。――朝になると、助手は息もたえだえの彼を見出した。がそれにも拘らず、しばらくすると興奮の力の方がうち克って、彼は寝床からび起き、相変らず病院じゅうを駈けずり廻って、今までにないほどの高声と脈絡の無さとで、患者達と話をしたり独り言をいったりした。彼は庭へは出されなかった。医師は、体重が日ましに減って行くのに、彼が相変らず一睡もせずに絶えず歩き廻っているのを見て、多量のモルヒネの皮下注射を命じた。彼はさからわなかった。幸いにもこの時は、彼の狂った想念がこの施術にぴったりと一致したのである。彼は間もなくうとうとと寐入った。魔に憑かれたような運動はんだ。またあのせかせかした歩みの拍節タクトから生みだされて、たえず彼につきまとって離れなかったとどろくような楽旨モチーフも、彼の耳から消え失せた。彼は自分を忘れ、一切の思考をやめて、摘み取らなければならない第二の花のことすら考えなくなった。
 しかしそれから三日すると、あっと思う暇もない咄嗟とっさのうちに、老看視人の眼の前で彼はその花を摘み取った。看視人は追っかけて来た。勝ち誇ったような悲鳴をあげながら、患者は病院へ駈け入って、自分の部屋へとび込むが早いか、草花を胸に匿した。
「なぜ花を毟ったりする」と、後ろから駈け込んで来た看視人がつめ寄った。が、その時はもう病人は腕組みをしたいつもの恰好かっこうで寝床に横たわって、例のたわごとを始めたので、急いで逃げる拍子に返し忘れた赤い十字の帽子を、黙って彼の頭から取っただけで、看視人は部屋を出て行った。そして幻想の闘いがまた始まった。病人はその花から、蛇に似た何本もの長いうねうねした流れをなして、悪がのたくり出るのを感じるのだった。それは彼に巻きつき、四肢を緊めつけしぼりあげ、その怖ろしい分泌物を彼の全身にみ込ませるのだった。彼は涙をぼろぼろこぼしながら、敵に投げつける呪詛の文句の合間あいま合間あいまに神に祈った。夕暮になると花はしぼんだ。病人は黒ずんで来た草花を踏みにじって、残骸ざんがいを床から拾いあげると、それを浴室へ持って行った。形も何もなくなった青草の小さな塊を、石炭で真っ赤にけている炉の中へ投げ込むと、敵がじゅじゅっと云って縮くれあがり、やがての果てにはふんわりした、雪のように白い一片の灰に化してしまうまで、彼は長いこと見守っていた。ふうっと吹くと、何もなくなった。
 翌る日、病人の容態は目に見えて悪化した。げっそりとけた頬、眼窩がんかの奥へ落ちくぼんでぎらぎらしている眼、そして怖ろしいほどさおな顔をした彼は、最早もはやふらふらと頼りない足どりでつまずき躓き、憑かれたような歩みを続けながら、ひっきりなしに喋り立てていた。
「暴力にはうったえたくないものだが」と科長がその助手に言った。
「しかし先生、あの猛烈な運動だけはめさせなければなりますまい。今日の体重は九三フントでした。この調子で行くと、二日たてば死んでしまいます。」
 科長は考え込んだ。――「モルヒネか? クロラールか?」と半ば問うように言う。
「昨日はもうモルヒネも利きませんでした。」
「縛れと言って呉れ給え。だが僕は、まず助かるまいと思うよ。」


 そこで病人は縛りあげられた。狭窄衣を着せられ、幅のひろいズックの帯で寝台の鉄枠へしっかり結わえ附けられて、彼は自分の寝床に横たわっていた。しかし運動性の狂躁は鎮まるどころか、かえって募る一方だった。かせから自由になろうとして、彼は何時間もぶっ通しの執拗しつような努力を試みた。到頭しまいに、力一ぱいにぐいと突っ張ると、帯が一本きれて足が自由になった。やがてもう一本の帯からも抜け出して、手を縛られたまま部屋のなかを歩き廻って、兇暴な訳のわからぬ言葉を喚きはじめた。
「ひゃあ、このやつがれ!……」と、はいって来た看視人が喚きたてた、「何たる悪魔がけおったぞな? グリッコやい、イヴァンやい! いそぎうよう、抜け出おったがな。」
 彼等は三人がかりで病人に飛びかかって、そこで長い格闘がはじまった。それは攻撃する側にとっても厄介千万なものだったが、ましてや消耗した力の残りを振り絞って防禦ぼうぎょする方にとっては、やり切れない苦難であった。とどのつまり彼は寝台のうえに押し倒されて、前よりも固く縛り上げられてしまった。
「君たちは自分でしている事が分からんのだ」と病人は喘ぎ喘ぎ叫んだ、「君たちは滅亡にひんしてるんだぞ。僕は咲きかけている三つ目の奴を見たんだ。今頃はもう彼奴きゃつめ、用意ができた頃なんだ。頼む、この仕事を果たさせて呉れ。彼奴を殺さにゃ、殺さにゃ、殺さにゃならん。そうしたらすっかり片附くんだ、みんなが救われるんだ。君たちに頼んでもいいが、これが出来るのはこの僕だけなのだ。君たちはちょっと触っただけでも死んでしまう。」
「黙っとりなされ、若旦那わかだんなや、黙っとりなされ」と、見張りのために寝台の傍に居のこった老看視人がいった。
 病人は急に黙り込んでしまった。看視人達を騙そうと決めたのである。一日じゅう縛られたまんまだったが、なおそのうえに、その一晩は同じ状態で置かれることになった。病人に晩食を与えると、看視人は寝台の下に何やら敷いて横になった。一分後には彼はぐっすり寐入ってしまったが、病人の方は仕事に取りかかった。
 寝台のたての鉄枠にさわれるように、彼は全身をねじまげた。そして狭窄衣の長い袖の下に隠れている手頸がそれに触ると、勢いよくごしごしと袖を鉄にこすりつけはじめた。暫くすると厚いズック地がすりきれて、食指がやっと自由になった。そうなるともう仕事は手っとりばやく運んだ。健康な人にはとても信じられぬほどの巧妙さと、屈伸の自在さとで、彼は背中でくくりあげてある袖の結び目を解きはなち、狭窄衣を振りほどいてしまうと、長いことじっと看視人のいびきに耳を澄ましていた。が老人は正体もない。病人は狭窄衣をぬいで、寝台を抜けだした。彼はもう自由の身だった。彼は扉にあたってみた。内側からじょうがおりている。かぎは恐らく看視人のポケットにあるのだろう。老人に目をさまされては困るので、そのポケットを探ることはあきらめて、窓から脱け出ようと決心した。
 静かな暖かいやみの夜であった。窓はあけ放してあって、星かげが黒々とした空にまたたいていた。彼はそれを眺め、自分の知っている星座を見わけたり、何となく星たちが自分の気持を理解し、同感して呉れるような風に見えるのを喜ぶのだった。彼は眼をまたたかせながら、星たちが自分へ送ってよこす無限の光を眺めていた。それにつれて狂った覚悟はますます強まって行くのだった。鉄格子の太い棒をねじまげ、狭い隙間すきまいぬけ、灌木の生い茂った露地へ下りたって、それから高い石塀を乗り越えなければならぬ。そこでいよいよ最後の闘いだ。そのあとでは――死んでもいい。
 彼は素手で太い鉄棒を曲げようとして見たが、鉄はびくりともしなかった。そこで彼は狭窄衣の丈夫な袖を縄にり、鉄棒のさきやりになっているところへ引っかけて、全身の重みでそれにぶら下がった。残っている力の殆どありったけを振り絞った死にもの狂いの努力の後で、槍先はやっと折れまがって、狭い口があいた。肩やひじや、裸の膝頭ひざがしらをすり剥きながら、彼は無理やりにその隙を抜けだし、灌木の叢をきわけて、石壁の前に立ちどまった。あたりは静まり返っていた。終夜燈の明りが、巨きな建物の窓々を内側から鈍く照らして、その中には人影も見えなかった。誰も彼に気づいたものはないのだ。彼の寝台の傍で番をしていた老人は、恐らくぐっすり眠っているのだろう。星たちの優しく瞬く光が、彼の心臓にまでみ透ってきた。
「もうすぐにお傍へ参ります」と、彼は空を仰いでささやいた。
 最初の試みでずり落ちて、爪をがし、手や膝頭を血だらけにした彼は、都合のいい場所を捜しはじめた。石塀が死亡室の壁と接している処に、塀からも壁からも幾つかの煉瓦が崩れ落ちていた。病人はそのあなぼこを探り当てると、それを利用して石塀に這い登り、向こう側に生えている楡の枝につかまって、幹をつたわって静かに地上に降りた。
 彼は昇降口のそばの例の場所めがけて、転ぶように走って行った。罌粟は花弁を閉じて、露のおりた草の上にくっきりと浮き出しながら、小さな頭を黒ずませていた。
「最後の奴だ」と病人はささやいた、「最後の奴だ。今日こそは勝つか死ぬかだ。だがもう俺にはどっちだって同じことだ。暫くお待ちください」と彼は空を仰いで言った、「もうすぐにお傍へ参ります。」
 彼は草花を根ごと引き抜くと、ずたずたにちぎって揉み潰し、それを握りしめたまま、もとのみちを自分の部屋へ取って返した。老人は眠っていた。病人は寝床のところまで辿たどりついたかと思うと、そのまま気を失って寝床の上に倒れてしまった。
 朝になって、人々は死んでいる彼を見出した。安らかな明るい顔をしていた。薄い唇と、深く落ち窪んだ閉ざされた眼――その衰え果てた相貌そうぼうは、何かしら誇りかな幸福の色を浮かべていた。彼を担架に移したとき、人々は手を開かせて、紅い花を抜きとろうとした。がその手はもう硬直しだしていて、彼は自分の戦利品を墓へと持ち去ったのである。





底本:「紅い花 他四篇」岩波文庫、岩波書店
   1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
   2006(平成18)年11月16日改版第1刷発行
入力:hitsuji
校正:持田和踏
2022年2月25日作成
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