目次
江戸ッ児の教育
顔役の裔
三ヶ日と七草
揚り凧
藪入と閻魔
節分と鷽替
初卯と初午
梅と桜
弥助と甘い物
渡し船
汐干狩
山吹の名所
節句
筍めし
藤と躑躅と牡丹
初松魚
釣りと網
初袷
五月場所
花菖蒲
稗蒔
苗売り
木やり唄
浅草趣味
八百善料理
風鈴と釣忍
井戸がえ
箱庭と灯籠
定斎と小使銭
青簾
夏祭り
心太と白玉
川開き
草市と盂蘭盆
灯籠流し
蒲焼と蜆汁
丑べに
朝顔と蓮
滝あみ
虫と河鹿
走り鮎
縁日と露店
新内と声色
十五夜と二十六夜
細見と辻占売り
おさらい
常磐津、清元、歌沢
お会式
菊と紅葉
酉の市
鍋焼饂飩と稲荷鮨
からッ風
納豆と朝湯
歳の市
大晦日
見附と御門
江戸芸者と踊子
人情本と浮世絵
見番と箱屋と継ぎ棹
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挿画・江戸川朝歌
(竹久夢二の別名)
[#改ページ]江戸ッ児の文明は大川一つ向岸に追いやられて、とうとう本所深川の片隅に押込められてしまった。然らばすなわち、今の東京に江戸趣味は殆んど全く滅ぼしつくされたろうか。いいえさ、まだ捜しさいすりゃァ随分見つけ出すことが出来まさァね。
さ、そこで、少し思う仔細があるのでそこはかとなく漁って見たら、こんなものが拾い出されたようなわけで、残されたる江戸だなんて、ごたいそうもないこと。実はそんじょそこらのお人の悪い御仁にツイそそのかされて、例のおッちょこちょいから、とんだ
空に五月の鯉の翻る朝
著者
[#改丁]残されたる江戸
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江戸ッ児の教育
十九世紀に遺された女と子供の研究が、二十世紀の今日この頃になって、婦人問題がどうの、児童問題がこうのと、むしょうに解決を急ぎ出し、実物教育なぞいうことが大分やかましくなってきた。西洋文明もこうなって見ると実は少々心細いて! 自慢じゃないが江戸ッ児にはその実物教育てのが三百年も前からちゃァんと決定されている、しかも俚謡になって――
ちん(狆)わん(犬)ねこ(猫)ニャァ(啼き声)ちゅう(鼠)きんぎょ(金魚)に放しがめ(亀)うし(牛)モウ/\(啼き声)こまいぬ(高麗狗)にすゞ(鈴)ガラリン(鈴の鳴る音)かえる(蛙)が三つでみひょこ/\(三匹が動く態)はと(鳩)ポッポ(鳴き声)にたていし(立石)いしどうろ(石灯籠)こぞう(小僧)がこけ(転)ているかい(貝)つく(突)/\ほてい(布袋)のどぶつ(土仏)につんぼえびす(聾恵比寿)がん(雁)がさんば(三羽)にとりい(鳥居)におかめ(阿亀)にはんにゃ(般若)にヒュウドンチャン(笛と太鼓と鉦の名称をその音色で利かしたもの)てんじん(天神)さいぎょう(西行)にこもり(児守)にすもとり(角力取)ドッチョイ(取組んだ態を声喩したもの)わい/\てんのう(天狗の面を被って赤地の扇をひらき短冊びらを散らしなぞする一種の道芸人)五じゅうのとう(五重塔)おんま(馬)がさんびき(三頭)ヒン/\/\(啼き声)
先ずざっとこうである。
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顔役の裔
久しい以前のこと、山の手から下町、下町から山の手と、殆んど処隈なく古ぼけた車に朴の木樫の木撫の木を載せて、いずれの太夫が用いすてたのやら、糸も切れ切れの古鼓を鳴らして、下駄の歯入れをなりわいに呼び歩く四十なにがしという爺さんがあった。この爺身にまとう衣服こそ卑しいが、どこやらに一風変った見どころがあって、その頃はたとえ古鼓にせよ、そうしたものを鳴らして下駄の歯入れに歩くものとては一人もなかった。さるを
実際かれはかばかりの自然児である。半宵もし軒をうつ雨の音を聞く時は、蹶然褥を蹴って飛び起き、急ぎ枕頭の蝋燭に火を
かれはまた絵画を好む、往々上野の展覧会場に半日の清閑を楽しんで、その憧憬を恣にすることは必ずしも稀らしくない。しかしかれは文盲だ、眼に一丁字なく、耳に一章句を解せぬが、しかもよく大義名分を弁え、日露の役には区民に率先して五十円を献金し、某の侯爵に隣してその姓名を掲げられたが、実は侯爵よりも数日を先んじて報公の志をつくしたのであったそうな。
吾が江戸ッ児には
けれどもかれはその後を継ぐに潔からざった。維新後父の死歿を機として遺産のすべてを
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三ヶ日と七草
正月は三ヶ日が江戸ッ児の最も真面目なるべき時だ。かれらは元日の黎明に若水汲んで
かくして更に向島の七福神巡りをするものもあれば、近所の廻礼をすますものもある、けれど廻礼には大方二日以後の日を択び、元日はただ

二日は初湯、初荷、買初、弾初、初夢など江戸ッ児にとっては事多き日である。殊にお宝お宝の絵紙を買って、波乗り船のゆたかな夢を
三日には大方の廻礼もおわり、浮世の義理をはなれた仲よし気よしのザックバランな酒盛り、江戸ッ児の特色は一に全く個中に存するを見るべくして、これやがてその本領なのである。もしそれ夜に入っての
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揚り凧
一度は世に捨て果てて顧みられざった名物の凧も、この両三年已来再び新玉の空に勇ましき唸りを聞かせて、吾儕の心を
昔時は大の男幾人、木遣りで揚げたというほどの大凧も飛んだと聞くが、子供には手頃でいつの時にも行わるるのは二枚半の絵凧である。
武蔵野を吹き暴るるからッ風の音、ヒュウヒュウと顔に鳴るとき鯨髭の弓弦もそれに劣らず唸り出しては、江戸ッ児の心自らジッとしておられず、二枚半の糸目を改めて雁木鎌幾つかを結びつけ、履物もそそくさと足に突ッかけて飛出すが例である。実にこの揚り凧の唸りほど江戸ッ児の
火事と喧嘩はまた江戸の名物だ、かれらは携えゆいた二枚半をとばすや否な、大空を吾がもの顔に振舞っておる他の絵凧に己が凧をからまし、ここに手練の限りを尽くして彼これ凧糸の切りあいを試み、以て互いにその優劣を争う、江戸ッ児の生存競争は早く既に地上のみに行われつつあったのではなかった。打ち仰ぐ紺碧の空に、道心格子、月なみ、三人立ち五人立ちの武者絵凧が、或は勝鬨をあげ、或は闘いを挑む様は、これや陽春第一の尖兵戦、江戸ッ児はかくして三百六十五日その負けじ魂を磨きつつあるのである。向上心をそそりつつあるのである。
いうを休めよ、三月の下り凧は江戸ッ児の末路を示すものだと、江戸ッ児本来の面目は執着を離れて常に凝滞せざるを誇りとするもの、
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藪入と閻魔
藪入と閻魔とは正月と盆とに年二度の物日である。この日奉公人は主家より一日の暇を与えられて、己がじし思う方に遊び暮らすのである。かれらの多くはこの安息日を或は芝居に、或は寄席に、そのほか浅草の六区奥山、上野にも行けば、芝浦にも赴き、どこということなしに遊びまわって、再び主家の
それから地獄の釜の蓋のあく日に、お閻魔様への御機嫌伺い、これとて強ち冥土の沙汰も金次第だからとて、死なぬ先から後生をお願い申すわけでも何でもなく、そんな卑怯な気の弱い手合いは口幅ったいことを言うのじゃないが、恐らく正真正銘の江戸ッ児には一人もないはず。あったら其奴はいかさまだと思召して頂きたい――
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節分と鷽替
年越しの夕べ、家々に年男の勇ましい声して「福はァ内、福はァ内――、鬼はァ外、鬼はァ外――」と豆撒くが聞え出すと、福茶の煮える香ばしい匂い、通りすがりの人をも襲うて、自ら嗅覚を誘る心地、どこやらに
その夜の
又この天満宮に行わるる
鷽は国音嘘に通ず、故に昔は去年の鷽を返して今年の鷽を新たに受けて来たものだが、今は前年のまでも返さぬという、江戸ッ児は嘘が身上で、それがなかったら上ったりだろうなぞと、口さがない悪たれ言も聞かぬではないが、そんな人にはてんでお話が出来ず、俳諧の風雅を愛し、その情味を悟るほどの人ならば、そんな野暮は
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初卯と初午
亀戸天神からはツイお隣りの、柳島の妙見には初卯詣での老若男女、今も昔に変らぬは、白蛇の出るのが嘘じゃと思わぬからか。橋本の板前漸く老いて、客足の寂れたのも無理ならぬことで、近頃の亀戸芸者に深川趣味を解するもの一人もなく、時節柄の流行唄にお座を濁して、客もこれで我慢するというよりは結局その方が御意に召す始末。イヤ変りましたなと妙に感服仕って後を言わねば褒めたのやら腐したのやら頓と判らず、とはいえ詮索せぬが華だとそのままにして、ただここへおこしなら繭玉の珍なのと、
初午に至っては東京市中行くとして地口行灯に祭り提灯、赤い鳥居の奥から太鼓の音の聞えぬはなく、伊勢屋と稲荷と犬の糞とは大江戸以来の名物だけに今もイヤ多いことおおいこと。
その多い稲荷社の初午、朝からの勇ましい太鼓の音に、界隈の子供が一日を楽しく嬉しく暮らして、絵行灯に灯の
「お稲荷様のお初穂、おあげの段から墜こって……」と膏薬代をねだるように口ではいうが、実はさらさらそんな風儀の悪いのではない、供物と蝋燭の代につないだ銭が、幾分子供達の舌鼓の料ともなりはするにしても、そこらはさっぱりしたもの、見くびられては
――稲荷祭りの趣向に凝ったのは、料理屋とか芝居道の人々のそれだ。今も浜町の岡田や築地の音羽屋、根岸の伊井が住居なぞでは随分念の入った催しをする。
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梅と桜
何事にも走りを好む江戸ッ児の気性では、花咲かば告げんといいし使いの者を待つほどの悠長はなく、雪の降る中から亀戸の江東梅のとさわぎまわって蕾一つ綻びたのを見つけてきても、それで寒い
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弥助と甘い物
江戸ッ児は上戸ばかりと相場のきまったものでもなければ、下戸にも相応の贅はある。されば一トわたり上戸と下戸の口にあう鮨と餡ころの月旦を試みように、弥助は両国の与兵衛、代地の安宅の松、
凡そ鮪の土手を分厚の短冊におろして、伊豆のツンとくるやつを
そこへゆくと与兵衛鮨は甘味が勝ち過ぎ、松ずしは他の料理に心をおくようになって、頓と元ほどの味なく、毛抜鮨も笹の葉と共に大分お粗末になって、その他のはお
甘いものは餅菓子に指を屈して汁粉、餡ころにも及ぶべく、栄太楼の甘納豆、藤村の羊羹、紅谷の鹿の子、岡野の饅頭と一々は数え切れず、それでもこれらの店には今も家伝の名物だけは味を守って、老舗の
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渡し船
「おッこちが出来てわたしが嫌になり」さて霊岸島から深川への永代橋が架って以来名物の渡し一つ隅田川にその数を減じたが、代りに新しく月島の渡し、かちどきの渡しなぞふえて、佃にも同じ渡しの行きかうを見るようになった。
しかし、隅田の渡しで古いのは浜町三丁目から向河岸への安宅の渡し、矢の倉と一ノ橋際間の千歳の渡し、須賀町から横網への御蔵の渡し、
この渡し、元は待乳の渡しといったものなのを、いつの頃からか竹屋という船宿の屋号がその通り名となり、百五十年来の名所に二つの呼び名を冠するに至ったのだ。
花の向島に人の出盛る頃は更にも言わず、春夏秋冬四時客の絶えぬのはこの竹屋の渡しで、花の眺めもここからが
されど趣あるは白髭の渡しもこれに譲らず、河鹿など聞こうとには汐入りの渡し最もよかろうと思う。
千住から荒川に入っては豊島のわたしを彼方へ王子に赴くもまた趣あり。船遊山とはことかわるが、趣味の江戸ッ児にはこの渡し船の乗りあいにも興がりて、永代から千住までの六大橋に近い所でも、態々まわり路して渡し船に志すが尠くない。
然ればこそ隅田川上下の流れを横切って十四の箇所を徂徠している数々の渡し船も、それぞれに乗る人の絶えないので船夫の
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汐干狩
三月桃の節句に入っての大潮を見て、大伝馬、小伝馬、荷たりも出れば屋根船も出で、江戸ッ児の汐干狩は賑やかなこと賑やかなことこの上なく、紅白の幔幕旗幟のたぐいをまでたてて、船では三味線幾挺かの連れ弾きにザザンザ騒ぎ、
然れば夕べに七つ屋の格子を潜って、都々逸よりも巧みな才覚しすまして旦は町内のつきあいに我も漏れず、一日を他愛もなく興じ暮らして嚢中の空しきを悔いざる雅懐は、蓋し江戸ッ児の独占するところか。
上げ汐の真近時になると、いずれの船からも
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山吹の名所
歌書には井出の玉川をその随一とするよう記されてはあるが、さて今はさる名所も探ぬるに影さえ残らず、あわれ名所の花一つを旧蹟もなくして果てようとしたを向島なる百花園の主人、故事をたずね、旧記をあさって、此処彼処からあつめきた山吹幾株、園のよき地を択りに択って、移し植えたるが一両年この方大分に古びもつき、新しく江戸の名所をここに
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節句
五節句の中で、今も行わるるは桃の節句、菖蒲の節句である。
桃の節句は女の子の祝うものだけに、煎米、煎豆、菱餅。白酒の酔いにほんのりと色ざした、眼元、口元、
さて雛壇には内裏雛、五人囃、官女のたぐい賑やかに、人形天皇の御宇の盛りいともめでたく、女は生れてそもそもの弥生からかくして家を形づくること学ぶなるべし。
菖蒲の節句は男の節句、矢車のカラカラと高笑いする空に真鯉、緋鯉、吹流しの翻るも勇ましく、神功皇后、武内大臣の立幟、中にも
ただ恨むらくは
また菖蒲湯というもの、これも残されたる江戸趣味の一つで、無雑作に投げ入れた菖蒲葉の青々とした若やかな匂い、浴しおえて出で来る吾も人も、手拭に残るその香を愛ずれば、湯の気たちのぼる四肢五体より、淡々しく鼻にまつわりこす同じ匂い、かくては骨の髄までも深く深く沁み入ったように覚えて、その爽やかさ心地よさ、東男の血の貴さは、こうして生立つからでもあろうか。
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筍めし
名物の筍は目黒の土に育ったのを江戸以来随一としている。その筍を
近頃は筍めしの一つも、目黒くんだりまで態々食いにゆく人、いとど尠うなりはしたが、かえって電車も汽車も何もなかった以前には、走りを賞美する江戸ッ児の、売りに来たを値切って買って、己が台所で妻婢の手にものさるるを待ってはいず、それと聞くより吾も我もと一日を争い、途の遠きを辞せずしてそれのみに出かけ、今年の筍はどうのこうのと舌の知識を誇りたいが関の山、その余には毛頭謀犯慾望のあって存するなく、考えれば他愛もなく無邪気なことどもである。
読者よ、乞う、この子供らしき誇りと他愛なさとを買いたまわずや。江戸ッ児の身上は常にかかる間に存する万々で、この情味さえ解したまわば、その馬鹿らしと見ゆる行動、くだらないと聞く言語、いずれも溌剌たる生気を帯びきたって、かれらに別個の天地あることも御承知が出来ようと思う。
さてこの筍めしに就いては、曾つて西欧人を
要するに筍の料理、これ一色でも会席は出来ることで、何も目黒くんだりまでゆかずともではあるが、ここの土に育ったが最良とせらるるその本場へ、態々歩を運ぶという気分、人はこの気分に生きたいものだ。
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藤と躑躅と牡丹
梅に始まって桃、桜と花の眺め多きが中に、藤と躑躅と牡丹とは春の
藤は遠く粕壁に赴けば花も木ぶりもよいが、近くは日比谷、芝、浅草の公園など数も少からず、しかし何処よりも先ず亀戸天神のを最とする。
ここの藤、三、五年この方は花も少く、房も短くはなったが、なお且つ冠たるを得べく、殊に名物の葛餅、よそでは喰べられぬ砂糖加減である。お土産の張子の虎や眼なし達磨、これも強ち御信心がらでないのが味なところだ。
躑躅も日比谷、清水谷とそれぞれに名はあるが、大久保なるを最とし、この躑躅大方は日比谷へ移されて若樹のみとはなったが、土地が土地だけに育ちもよく、今に名所の称を失わぬ。別けても嬉しいのは例の人形細工がなくなったことで、あんなことは江戸ッ児の弱点につけ入って何者かが始め出した一種の悪戯に由来すると思う。
牡丹は本所の四ツ目、麻布の仙花園なぞ共に指を屈すべく、花の富貴なるを愛すといいし唐人の心持ちを受けついでの物真似ではないが、芍薬の徒に艷なるより、どことなく取りすましたその姿に実は惚れたまでのことである。ただそれ惚れたまでのことである。もしそれ九谷焼の大瓶に仰山らしく活け込んで、コケおどかしをしようなぞの了見に至ってはさらさらなく、寧ろそは一輪二輪の少きを
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初松魚
鎌倉を活きて出でけん
声にそそられて昨日うけたばかりの袷をまた典じ来て夕餉の膳を賑わすほどの者、今日も江戸ッ児は昔に変らぬのが、さても情ないは仙台鮪が河岸にのぼる日もあって、それ以来初松魚の有難味頓と下り果てた
しかはあれども、松魚は元より男の魚、ピンと跳ねた姿にすッきりした縞目の着もの、美しきは上べばかりでなく、おろした身のさらりと綺麗で、盃の口に決してしつこからず、箸にする一片の肉にも、死して死せざる筋の動き、身は寸断に切り刻まれても、魂は遂に滅びざる江戸ッ児の性根をそのままなる、ここに財物を抛ってもの値打ちはあるのだ。
仙台鮪は黒味なものと心得、肉さえ赤ければ近海ものだと喜んでいる御仁にはお解りになるまいが、窮しては鱒のおろしたをも身代りにして鮪だと胡麻化す鮨屋が、強ち屋台店ばかりでなくなってきた世に、初松魚の賞美さるるも、既にここらが最期だろうとの心配は、先ずは取越し苦労で、江戸趣味の残る限り、江戸ッ児の子孫の続く間は、吾儕より初松魚を除くことはあるまいと信ずる。吾儕より初松魚を忘れ去ることはなかろうと言いきれる。
初松魚! 初松魚! 汝の名は常に新しい誇りと力を吾儕にもたらす。蓋し汝は永遠に江戸ッ児のシンボルである、然り、江戸ッ児のシンボルである。
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釣りと網
寒鮒に始まって鯊釣り、鱚釣り、
鮒は本所深川の池、堀、別しては木場辺の浮き材木の上から釣るのなぞが獲物もよく、釣堀は先ずその次である。但し堀江、猫実辺への遠出をすればこの上はないが、さるは充分に閑暇を得ての上のことだ。
鯊釣りは彼岸を待っての
海津は「ケエヅ」とよんでいただかねば江戸ッ児には承知が出来ず、何んだ黒鯛の子かァ……などは少々お話にならぬ筋だ。
凡そ釣りというもの、
されば釣り好きになると、目のまわるほどな忙しい中でも、他の綸を垂るるを息を殺して凝視し、自分までが力瘤を入れて少しポカつく日には額より汗の珠、拭いもあえねば釣りする人の襟元に折りおり落つるのを彼も此も知らず気づかず。魚を逸して畜生と舌打ちすれば、それにも合槌して、やがてのこと竿を捲きはじむるに、初めて用達しのすまずにいたを思出し、慌てて駆出す連中決して稀らしくない。個中の消息、かれらの別天地に遊んだものでなくばとうてい味えも判りもせぬこと。網は昔より近頃の
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初袷
袷着て吾が女房の何とやら、綿入れの重きを脱ぎすてて初袷に着代えた当座、
江戸ッ児の趣味は素肌に素袷、素足に薄手の駒下駄ひっかけた小意気なところにあって存するので、近頃のシャツとか肌着とかは寧ろこの趣味を没却するものである。
されど若き女のネルなぞ着たのは、肌つきもよく、新しき時代のものとしては江戸趣味に伴える一つである。
絹セルに至っては少しイカツくて、セルのやわやわしいに若かぬが、それとて今どきの衣類にてはよき一つとや言わんか。何はしかれ女は身重なると綿入れ着たるとはいとど惨めに浅ましく、袷より単衣のころ最も美しく懐かしきものだ。
男の素袷に
ただ恨むらくはこの袷というもの、着るべき間のはなはだ長からで、幾許もなくして単衣と代る、是非なしとはいえ江戸ッ児には本意なしとも本意ない。
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五月場所
櫓太鼓の音、都の朝の静けさを破って、本場所の景気を添ゆれば、晴天十日江戸ッ児の心勇んで、誰しも回向院に魂の馳せぬはない。
本場所も、一月よりは五月場所の方力瘤も入って、自ら気勢いもつくが定で、こればかりは今も昔に譲らず、向両国はいつも熱狂の巷となるのである。
さりながら、相撲道にも大分二一天作の五が十になる鼠算が流行って来て、折角の青天井になお一つ天井が出来、掛小屋が常設館という厳めしいものになって、場所以外にはチャリネの競馬もあれば、菊人形もここで見せるという、どこまでも勘定高い世の風潮につれてしまったが、江戸ッ児にはこの一事のみは心から口惜しく遺憾千万である。
元来が裸一貫の力ずくでやる勝負の見物に、屋根も天井もいったものかは、青空を頭に戴いて小屋も土俵も場所場所に新しくものしてこそ、六根清浄、先祖の
実際情ないは小屋ばかりでなく、協会と取的とのゴタゴタ、賦金がどうの、親方がこうのと、宵越しの銭を持たねえ江戸ッ児が見るものにそんな
それからなお一つ、近頃の相撲好きは贔負からの入れ力ではなく、可哀相にかれらの勝負を賭けごとの道具にしておる、まさかに江戸ッ児はそんなこともしめえが、するやつがあったら己が聴かねえと、倶利迦羅紋紋の
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花菖蒲
菖蒲は堀切と蒲田にその名を恣にし、花に往き来した向島の堤をまたぞろ歩むもおかしき心地がする。
堀切も吉野園、小高園など、今も花の種類はかなりにあるが、花より団子の喰う物なければ治まらぬ都人士の、なけなしの懐を気にしながらも、次第に種々な贅をいうので、粗末なものを値ばかり高めて売りつけ、客を馬鹿にした振舞尠からず、したがって江戸ッ児は少々二の足を踏むようになり、つまらねえやと鼻もひっかけなくなった連中すらある。
こうなっては折角の花菖蒲も散々で、人は園内の切花を高い銭出して買うのが嫌さに、帰り路の小流れのほとり、百姓の児どもなぞが一把三銭の五銭のと客を見て吹ッかけるやつを、また更に値切りたおして、隣近所へまでのお土産、これで留守して貰った返礼をもすますようになって江戸以来の名所も台なしにされた形である。
蒲田にはそうした情なさはないが、ここはまた横浜に近いだけ外人を目あてに好みも自らその方に傾けば、これとて江戸ッ児には興のぼらず、一層その位なら西洋草花を賞美した方がとは、満更皮肉な言い分でもなくなった。
昔男ありけりと碑にも刻まれた東の名花、ここに空しく心なき人々に弄ばれて、あわれにもまた情ない今の有様、如何にもしてそが復活を図りたいものだとは物のわかった昔のお兄哥さんが皺だらけの顔を撫でての思案である。
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稗蒔
尺寸の天地をも愛する江戸ッ児は常にその景情を象って、自然の美に接せねばやまぬ。
麦の穂漸く色づいて、田園の風致いよいよ
「稗蒔や、ひえまァき――」
人もしこの声を朝の巷に聞く時は、貴賤老若にかかわらず、門に出てその値ぶみをする。大小精粗によって五銭より十銭、二十銭、三十銭、五十銭、それ以上なは先ず注文でなくば大方は持合わさず、僅に半円以下の散財で恣に野趣を愛する。さても気やすいことではないか。
要するに江戸ッ児の趣味は多角的である。その都会美にも一致すれば、田園美にも合体する。かれらは炎塵の巷に起臥するをも苦とせねば、静閑の境に悠遊するにも億劫でない。すなわちかれらは忙裏の閑をかかる小自然の間にもとめて、洗心の快をやる。されば「稗蒔や、ひえまァき――」の声耳に達するや、かれらの憧憬はその愛らしき別乾坤に馳せて、或は数銭、或は数十銭の所得を減ずるに
人もし理髪のために床屋の店に赴かんか、そこに幾個の盆栽あり、稗蒔あり、そしてまた箱庭なんどの飾らるるを見る。これ必ずしも理髪師の風流のみではないが、待合わす人の眼を楽しましむるに利して兼ねてかれらの俳趣味をも養うものであるのだ。
さるはまた床屋のみでない、湯屋も然り、氷店も然り、而して小料理店といわず、屋台店の飲食店といわず、近頃は欧風のショオウィンドオにまでもこれらの幾つかを按排して、装飾の一つに応用するなど、捌け口はいよいよ広くなりゆく。
都会の膨脹が尺地をも余さず、庭というもの店舗を有する人々には次第に失われ行くにつれて、かれらの自然美に憧るる心は遂にここに赴いて、その幾鉢を領することに満足する以上、残されたる江戸趣味の中にも、かかる類いは永遠に滅びざるものの一つとや言おうか。
ああ自然は遂に滅びぬ。人は物質の慾に足っても、それで始終の満足はされぬ。かくてかれらは自然に憧れ、かくてかれらは尺寸の別天地を占むるに算盤珠を弾かぬのだ。
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苗売り
「朝ァ顔の苗夕顔の苗。隠元、唐茄子、へちィまの苗。茄子の苗ェ黄瓜の苗。藤ィ豆、冬瓜、ささァぎの苗」
静かな朝の巷に、その美しい咽喉を利かせて、節面白く商いあるく苗売りの
某のお店の若旦那、清元に自慢の咽喉を人に誇っていたまではよかったが、一ト朝この苗売りの声を聞いて心ぞその身もなって見たく、私かに苗売りの後に尾して、その家に訪ねゆき、事をわっての頼みに、初めのほどは止めても見たが、たっての所望致しかたなく、翌朝はこの若旦那のお供して、「朝ァ顔の苗――ささぎの苗――」とりどりに呼び歩いたが、若旦那荷だけは半町も担げず、すぐに代って貰った。が自慢の咽喉だけはどうでもきかしたく、とうとう一日を互いに呼び歩いて、それが病みつき、一端はそうした生業に口すぎするまでの道楽におちて、父親の勘当容易にゆりなかったを、番頭、手代、親戚、縁者の詫び言で、
但し、この苗売りというもの、商いの苗よりは咽喉が肝腎で、中には随分この若旦那のようながあり、売上の高も節の上手が一番だとは、どこまでも面白き生業の一つである。
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木やり唄
揃いの
実に木やり唄は江戸趣味のこれも一つよ。祭りの巷に男姿の芸者数多、揃い衣の片肌脱ぎになって、この唄につれ獅子頭曳くも趣は同じく、折柄の気勢いにはまたなしともまたなし。
趣味の江戸ッ児はかくして常にこの唄にそそられ、建前のここかしこ、もしは祭りの日、物の催しの
「めでためでた」の本唄はさらなり、「不二の白雪や旭で解ける――」の木やりくずしまで、唄の数は二十幾つにも及ぶが節は元よりたった一つ、多少の崩れは三味線に合わすとてのそれ者が振舞い、そこにいずれはないでもないが、吾儕の心を
蘇子、白居易が雅懐も、倶利迦羅紋紋の
[#改ページ]
浅草趣味
浅草趣味は老若男女貴賤のいずれとも一致する、したがって種々に解釈され、様々に説明される。
少年少女の眼には仲見世と奥山と六区とにかれらの趣味を探ぬべく、すなわち彼処にはおもちゃ屋と花やしきと見世物とがある。青年男女には粂の平内と六地蔵と観音裏とにその趣味を見出すべく、すなわち其処には願がけの縁結びと男を呼ぶ女と、女に買わるる男と、銘酒屋と新聞縦覧所と楊弓店と、更には大金と一直と草津とがある。独り老男老女に取っては伝法院と一寸八分の観世音菩薩と淡島様とに彼の趣味を伴う。ここには説法と利生とあらたかとが存する。
もしそれ三社様に至っては、浜成、武成の兄弟と仲知とが遠く推古帝の御宇、一日宮戸川に網して一寸八分の黄金仏(観世音菩薩)を得たという詩のような伝説、吾儕は敢えて彼これその詮索をなすを欲せず、かばかりにロマンティックな語りぐさをいつまでも保全して、徒なる解釈をこれに試みたくないと思う。
更に今一つの伝説を語らば、二タ昔以前に掘り出された洗手池畔の六地蔵である。伝え聞くに小野小町が工人に命じて作らしめたところ、六角の灯籠にしてその各面に地蔵尊六体を彫む。一夜この六地蔵、木萱も眠る丑満つ時に脱け出でて池畔に相会し、久しい間背中合せの逢いたくても逢われずにいたことを
浅草の趣味は絵画的である。浅草の趣味は詩歌的である。浅草の趣味はロマンティックである、人は彼に酔い、それに魅せられ、そしてまたここに興がるのである。
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八百善料理
某県選出衆議院議員何誰と恐ろしく厳めしい名刺を出して、新橋に指おりの大料理店に上り込み、お定りの半会席を一円にまけとけなぞと遠慮会釈ものう御意遊ばす代議士殿のござる世に、八百善料理の粋を紹介しても、真に
浅草詣での帰るさ、界隈の料理では腹の虫が承知せぬちょう食道楽の一人、さるは八百善にてと態々歩を
食道楽近頃の希望を満足して先ず高麗焼の小皿に盛られた浸しものを弄味し、更には鋏して鉢植えの茄子をちぎり、大方はそれと察して一ト口して見ると、案ずる如くに頃あいの漬き加減。さて食事をおえてこれで勘定をと十円紙幣一枚を投げ出すに、待てど暮らせど釣銭を持って来ず、如何な八百善でも浸しものに鉢植えの漬茄子で十円はとて、段々に糺して見ると、亭主自ら出て来て云々の説明、いわれを聞いては成程と大通も赤面して引きさがったとか。
「左様でございます、お高いか存じませんが手前どもでもムザとはお客様からお鳥目を頂戴は致しませぬ。実はさっぱりしたものでお茶づとの御意にございましたので、あれこれと吟味いたしまして、盆栽の蘭に持ちました花を浸しものに用いましたので……就きましては蘭の儀はお邪魔にございませねば万望お持ち帰りを……」
亭主の言は実に
そんじょそこらの通がりが江戸ッ児を真似て、聞いた風なことを召さると得てこうした失敗は免かれぬ。
八百善の料理に一汁二菜の真価を解するに至らば、江戸ッ児の気分――その趣味をも了解するはいと容易なこと、かくてぞ吾儕は残されたる江戸趣味を人々と共に保護し、やがては再興をも図ろうと思うもの、さらば八百善料理の今も存するは、江戸ッ児にとってこの上もない僥倖なのである。
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風鈴と釣忍
夏の景趣を恣にして江戸ッ児の雅懐をやるもの風鈴と釣忍またその一つか。
彼の、午後の日ざしやがての暑さを想わするほど、赤、青、黄、紫、白、いろいろに彩られた玻璃製の風鈴幾つとも数知れぬほど左右の荷につけて担い来る風鈴売りの巷を行くに、チリチリと折からの微風に涼しげな音して美しき玻璃と玻璃との触れあうを聞けば、誰も吾が家の軒端にとその一つを掲げて愛らしき夏の音楽に不断の耳を楽しまそうとは思い立つことどもだ。
さるからにこの風鈴一つ値いを払うて軒端につるせば、また一つそこに欲しきもの出で来て、夕べの縁日に釣忍たずぬるはこれも江戸ッ児のお約束ごととでもいおうか。
永き日の読書にも倦んじて、話すべき友も傍にはおらず、かかるとき肱を枕にコロリとなれば、軒の風鈴に緑を吹き来る風の音
かくてぞ漸くに暮れ行く空の、コバルトの色
「なぜ風鈴の一つも下げないのだな」
もしくは――
「ここの処へ忍でも釣るしたらなァ」
これらの言葉が江戸ッ児によって繰返さるることは、強ち稀らしくないことで、かれらはお世辞でも、いきあたりばったりでもなく、そう感じてそういうのだ。
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井戸がえ
山の手の井戸は一体に底も深く、したがって湧出る水も清冽だ。さるをその井戸、水道という便利なものが出来て、次第に取こぼたれ、今はその数も尠うなったので、初夏の午前に、五、七人の井戸やして太やかな縄に纏わり、井に降り立った男の中からの合図につれ、滑車を
「ほゥてよ※[#小書き片仮名ン、110-2]………ほゥ………」
繰りかえさるるその懸け声の度々に、ザァザッという水音、かくて替えつくされた井戸には、盃に三杯の清酒を撒いて塩ばなを振り、残れるを井戸やども盃に受けて呑む。
さあれこの井戸がえというもの上下貴賤にけじめなく、華族様のお屋敷でも、素町人どもの裏長屋でも、同じ懸け声に同じ賑わい、井戸やが撒く清酒も塩ばなも、
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箱庭と灯籠
稗蒔の穂延びして漸く趣薄うなり行くにつれ、江戸ッ児の愛自然心は更に箱庭に馳せて、やがて尺寸の天地を新たに劃する。
されば縁日の露店に箱庭の人形、家、橋、船、家畜の類、実生の苗木と共に売行よく、植木職が小器用にしつらえたものより、各自に手づくりするを楽しみとし、船板の古びたるなぞで頃あいの箱をものし、半日の清閑をその造営に費やす、いと興あることどもかな。
江戸ッ児はまた好んで歌舞伎灯籠をもつくる。
夏の絵草紙屋に曾我の討入り、忠臣蔵、狐忠信、十種香などの切抜絵を購い来て、予め用意した遠見仕立の灯籠に書割といわず、大道具小道具すべてをお誂え向きにしつらえ、雪には綿、雨には糸とそれぞれに工夫して切抜絵をよきところに按排し、夜はこれに灯を入れて吾れ人の慰みとする。かれらの趣味は自然にも人事にも適する如く、詩を解すると共に、劇をも解し、自らその好むところに従って一場の演伎を形づくる。
読者よ、乞う吾儕の既に語りしところに顧み、江戸ッ児の天才が如何に多趣多様なるかを攷えたまえ、そして更に、かくも普遍的なかれらの趣味が、現代に適せぬ所以なく、畢竟はその埋もれて世に認められざるがために、漸く忘れ果てられたを頷きたまえや。
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定斎と小使銭
江戸ッ児に定斎と小使銭とはいつもないことに言われておるが、実際江戸ッ児は定斎と小使銭を持合せたことがない。
定斎の持合せがないのは、それだけによくこの薬を常用するがためで、凡そ腹痛下痢はさらなり、頭痛、
彼の炎天に青貝入りの薬箱を担ぎ、
この定斎、それほどに利くか利かぬかは
故にかれらは己の病いにもこれを応用し、兼ねては人にもよく頒つがため、いつもその持合なき時が多く、小使銭に至っては宵越しさせぬというだけに、いつとても懐にあった例がないのだ。
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青簾
新築の二階家若葉の梢を凌いで聳え、葺きたての瓦美しと仰ぎ見る欄干のあなた、きのう今日掲げたと思わるる青簾のスラリと垂れて、その中より物の音静かに聞え初むる、なかなかに風情の深きものである。
吾れ人の家の夏は、青簾かけそめて初めて趣致を添え、涼意自ら襟懐を
人の子の綿入を袷に脱ぎかえて、更衣の新たなるを欣ぶこころは、家に青簾掲げて棲心地の改まると同じく、別けても山の手は近郊に接するほど、簾かかげて
吾儕は
君よ、青簾の中なる美しき人の姿を見んとて朝な夕なの
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夏祭り
江戸ッ児の気勢は祭りに於て最も遺憾なく発揮される。殊に祭りは春よりも秋よりも夏に重なるが多きぞ嬉しい。
大江戸以来の三大祭礼といえば日枝神社すなわち山王様、深川八幡、神田明神の三つで、他は赤坂の氷川神社、牛込の築土八幡、四谷の須賀神社、佃島の住吉神社、芝の愛宕神社、浅草の浅草神社すなわち三社様など、数えたらまだ幾らもある。
中で山王の祭りは六月十五日、昔は神田明神と祭礼の競い合いをして、何がさて負け嫌いの江戸ッ児同士だけに、血の雨を降らしたことも幾度か数知れず、ためにその筋から双方隔年に大祭をすることに定められ、日枝神社が本祭りなら神田明神が陰祭り、神田明神が本祭りなら山王が陰祭りと、否応なしにされてしまって、大きな喧嘩だけはなくなったが、山王の本祭りに山車が幾台出て、赤坂芸者が奴姿で繰出したとあれば、神田明神の本祭りには山車の数を何台増して獅子舞を出すとか、手古舞に出るとか、こればかりは維新後の四十年来、今に江戸からの競いを捨てず、近年また電車の通る中を山車も曳き出せば、縮緬の揃い衣を奮発するなぞ、大分昔に盛りかえしてきたもおかしい。
されば祭りになけなしの身代傾けて、あすが日からは三度の食事にも差支ゆる者、今でも時々に聞くことで、深川八幡の祭礼に永代の橋が墜ちて人死にが出来たほどな、往時の賑盛はなくとも、いまだに大したもので、木場を
凡そ江戸ッ児として、大若小若の万灯、樽天王を見て
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心太と白玉
真夏真昼の炎天を、どこやらに用達しての帰るさ、路ばたの柳蔭などに荷おろして客を待つ
立ちよって一ト皿を奮発すれば冷たい水の中から幾本かを取出して、小皿に白滝を突き出し、これに酢醤油かけて箸を添えて出す。啜りこむ腹に冷たきが通りゆくを覚ゆるばかり、口熱のねばりもサラリと拭い去られて、心地限りなく清々しい。
江戸ッ児はその刹那の清々しさを買うに、決して懐銭を読む悠長をもたぬのである。
かれらはまた同じ心で夕暮の散歩に、氷屋が店なる「白玉」のビラを横目に見て通りあえぬ。紅白の美しい寒晒粉を茹上げた玉幾つ、これに氷を交えて三盆白をふりかけた奴を匙で口にした気持ち、それが食道を通って胃腑におちいた時には骨の髄までも冷さが沁入るようで、夏の暑さもサラリと忘れたよう、何が旨い彼が好いと言ってからが、この味いはまた格別。それにこうして胆ッ玉まで冷やすところなざァ江戸ッ児に持ってこいの
更にまた退いて考うるに、江戸ッ児の趣味は何処までいっても俳諧の風雅に一致しておる。三昧に入らずして既に禅定の機を悟り、ザックバランでもよくその気分を貴ぶ。蓋し江戸ッ児は終始この間に生き、この間に動き、そしてこの間にかれらの存在の意義を語りつつあるのである。
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川開き
両国の川開きは年々の隅田川夕涼みの
然るをこの花火、玉屋は火を過って遂にその株を失い、今では鍵屋が独り占めながら、揚げられた花火の賞美には相変らず「玉屋ァい」が多く、殊に口惜しきはかかる類にまで広告に利用して、仕掛花火にビールの広告があらわるるなぞ、何ぼう殺風景の限りだか知れぬ。
両国の川開きもこうなってはお仕舞いだとケチった連中もあるが、これだけは滅ぼしたくないものだ。
それからこの川開きがすむと、続いて芝浦にも花火の催しがある。これはまださのみは古いことでなく、土地の料理店などが、家の寂れを苦にしての思立ちだけに、両国のほど開放的ではないが、それでも澄み切った夏の夜空に、勇ましい響きを聞く時は、何となく心も誘られて悪い気持ちはしない。
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草市と盂蘭盆
魂まつりということ、釈迦の教えに基づいて年々の盂蘭盆に、精霊壇へ百味五果を供え、以て祖先の霊を招くは江戸ッ児のザックバランにも合する振舞いで、その魂まつる日の数々の供物など、草市の商いは陰気でどこかうら淋しい感じはするが、それでも商うどの出店は、数も歳の市に多くは譲らぬ。殊におかしきはその場所までが大方は歳の市のそれと同じで、世俗の人儀が盆暮に於けると彼此相通ぜるは、不思議なような当りまえの事実で、あたりまえのような不思議なことどもだ。
さて魂むかえの夕べは家々の門に迎火の光り淋しく、法衣着た人々の棚経に忙しきも何やらん意味ありげだ。
さて魂送りの夕べになると、大路小路に籠を提げたる貧の子幾たり、「お迎えお迎えお迎え」と精霊壇の供物などを申受け、何がしかの送り銭を得てこれを一宵の稼ぎとする。菜瓜のなお腐らぬは漬物屋に持ちゆいて数銭のお鳥目にかえ、よくよく物の用に立たぬを引汐にサラリと沖へ流して、送り火の行衛はいずこ、すべては型ばかりに流しはしたが、それで別段苦にもしなければ、真面目に厳かに御先祖のお祭りはしたつもり。さりとは気安くもまた罪のないことどもではないか。
さあれ
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灯籠流し
川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。
それにつけてもいとど嬉しいは八百松が灯籠流しを再興したことで、この催し、いつの頃よりか廃れて誰企つる者もなかったのを、先年隅田川の寂れとてこの催しを世におこし、大川筋に名物一つ加えたは何よりのことどもである。
さてその灯籠というは、形を都鳥の水に浮寝せる姿とし、これに灯を入れて流れの上より下へ行くにまかせて放ちやるにて、岸の遠近、船よりも楼よりも眺めはいずれ趣深く、遠く遠く流れゆく灯影の小さくなるを送るほどの心、情景ともにかのうて忘機の三昧に入るを得べし。
都の夏を懼れて暑を山海の地に避くる人々の、かえって喧噪と雑沓と没趣味とに苦しめられて、しかもそれらに対して高価な支払をなしたを
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蒲焼と蜆汁
土用に入っての夏の食いものに、鰻と蜆とは江戸ッ児の真先に計えあげる一つで、つづいては泥鰌、浅蜊のたぐいである。
鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆屋、奴なぞ、それぞれの老舗を看板に江戸前を鼻にかけてはおるが、今でも真に旨いのを喰わせる店、山谷の重箱を第一に算うべく、火加減、蒸しのかけ具合、たれ醤油の
勿論、従来の江戸前といった鰻、今も大川尻から品川の海にかけて獲れはするが、紡績や、川蒸汽船の石炭殻を流しこむので、肉の味ゲッソリおちて、食通の口に適せず、妻沼、手賀沼あたりからのを随一とするに至っては、火加減、蒸し加減が何よりで、
彼のチリリと皮の縮れて、焼加減な大串中串を箸にした気持ち、早くも舌めが味いたがって、無遠慮に催促するもおかしい。
蜆はこれも大川のを第一とするが、これとて石炭殻に味いをそがれ、今は処を択らねば上物は得るに難い。
この貝は味噌汁の一種に限ったもので、白味噌を赤味噌に混えたを最上としてある。
ついでに泥鰌も味噌汁に限ることを言っておこう、駒形の名物泥鰌に浮れ込み、いやに江戸がって骨抜きせぬのをとりよせ、丸煮の鍋に白い腹を出してるのを見て、
浅蜊は澄まし汁最もよく、豆腐にあしらったも悪くはない。されど宵越しのを勿体ながって避病院へ送られぬが肝要。まさか江戸ッ児はそんな意地汚しもしまいとは思うが、すべてはさッぱりと……オオさッぱりといえば、これの塩むしもいいものだ。
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丑べに
紅というもの、若い女の唇に少しばかりものしたが、かえって愛でたく、上瞼に薄っすら刷いたも風情のあるものだ。
この紅、土用と寒の丑の日に刷かすをよしとして、当日は小間物やが店先に「本日うし」と筆太に記されたビラの掲げらるるを例とするが、寒中の丑の日に刷いたは、切り傷、皮膚のあれによろしく、土用なるは毒けし、虫よけに用いる。
されば創傷唇のあれに寒べに附けたるを見る如く、夏の手料理にこの色ざしを好み、手足の爪に丑べにをさすこと、今も年よりの心する家の子供には、
丑べにで思出したは、この頃でも時々、この日の紅買いに土製木彫りなんどの臥牛を景物とする店、昔のように残れることで、これも江戸趣味の、なお滅びざる俤の一つとして、吾儕はまたなく愛するものである。
京の女は厚化粧、白粉を頸筋にまで用いて、べには唇にばかりではなく、目じり目がしら、引眉にもこれを加うとぞいうが、江戸ッ児は女でも瀟洒たるもの、好んで多摩川の水にみがき上げた素顔素肌を誇り、強ては白粉を用いず、ただ紅のみは下唇にチョと目立たぬくらい、それも態とらしきは吾から避けて用いぬようにしている。
女の口紅はこうしてこそ趣も深く、なかなかに捨てがたく思わるるのを、徒にコッテリと唇いっぱいにつけて、折角の愛らしい口元を、子鬼の笑ったようにしてしまうもの多きは、寧ろ天性の麗質を損ずるもの、吾儕が生粋の江戸ッ児には憚んながらそんな女は一人もいないはずだ。
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朝顔と蓮
松樹千年の緑を誇ろうよりも、槿花一日の栄えを本来の面目とする江戸ッ児には、旦々に花新たなる朝顔を愛し、兼ねては汚泥を出でて露の白玉を宿す蓮の清新を賞する、洵にあらそい難きことどもである。
その朝顔、入谷なるを本場とし、丸新、入又、植惣なんど、黎明より客足しげく、昔ながらの朝顔人形、どこまでも江戸ッ児は芝居気があっておかしい。
芝居気といえば、朝顔の夏を入谷なる何がしの寺で、態々かけだしをものしての伝道布教、麦湯のふるまいに浮き足になりながらでも聴聞してゆく人の多いは、これも一碗の恩恵に折からの渇を医し得た義理ゆえもあろうが、場所だけに何やらん面白い感じがする。
さて朝顔は、ここを本場とはするものの、育ちは亀戸で、さるは恰も田舎人が漸く都会の生活になれて、やがては東京ッ児となりおおするにも似てはいまいか。亀戸の植木屋はとんだ九太夫役を承ったものだ。
蓮は花の白きをこそ称すれ、彼の朝靄に包まれて姿朧なる折柄、東の空に旭の初光チラと見ゆるや否、ポッ! ポッ! と静かなる音して、今まで蕾なりし花の唇
朝の不忍に池畔のそぞろ歩きすれば、この種の趣致は思うままに味われる。江戸ッ児は常にこの趣致を愛する、然りただそれこれを愛する、余には深い意味も何もあったものではない。
蓮はなお芝公園にも浅草公園にもある、されど最も憾むべきはお濠の中なるがあとなくなったことだ。
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滝あみ
那智、華厳、養老、不動なんど、銀河倒懸三千尺の雄大なるは見難きも、水に親しむ夏には江戸ッ児も滝あみを思立つが多く、近年は専ら権現の滝、不動の滝なぞ足場がよいからか王子などに行く人多く、大方は朝顔を入谷に見て不忍の蓮をも賞し、忍川、あげだしさては鳥又、笹の雪と思い思いの家に朝茶の子すまし、早ければ道灌山を飛鳥山に出て、到る処に緑蔭の清風を貪り、さていい加減汗になって滝浴みという順序だが、横着には汽車を利して王子までを一ト飛び、滝の川に臨める水亭に帯くつろげて汗を入れ、枝豆、衣かつぎの茹加減なを摘み塩つけて頬張った上、さてそろそろ滝壺へおり立って九夏の炎塵を忘るる。
この滝、王子なるも何処なるも女滝男滝にわかれて、殊に当節は
滝の名所はここ王子なるを初めに、
しかし江戸ッ児にはただその雄大なる姿を賞するのみでは承知が出来ず、どうしても素裸の褌一つになり、飛下する水に五体を打たせねばジッとしていられぬ性とて、高雄山なるは浴みもされるが、金刀比羅の滝、
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虫と河鹿
松虫、鈴虫、
さあれ人間が手づくりの虫は命も短く、地体が達者でもないために、うかと水でもかけてやろうものなら、即得往生、新しくやった胡瓜の半ばをもつくさで諸足縮めて固くなっておるに、吾れ人ともに無常を感ぜざるを得ぬ。
かくて野生の虫、近郊に鳴きすだく頃には、人工の虫は元の古巣に、蟄竜の嘆を恣にする。さても有為転変の世のこれも是非なき一つであろうか。
有為転変といえば、今は野に鳴く虫も態々ゆいて聞く人尠く、したがって虫択みなどいう娯しみは、いつか廃れ果てて、江戸ッ児にも風雅心は薄らぎ、縁日の露店に屑虫を売りつけられてただ安かったのを喜ぶ、実は少々情なくてならぬ。
されば詩経の草木、万葉の草木なんど、菊塢翁の昔から凝りやをうりものの、向島百花園、三、五年この方、吉例を再興して虫放ちの催しをなし、残された江戸趣味の普及をとて同好を語らい招く。当夜に来合したほどの人に話せねえ手合は一人もないが、殊に嬉しいは同趣味の人々聞き伝え、語りあわして、それからそれへと来衆の数をますことで、さてこうなって見ると案外に話せる御仁もまだ大分世にはござると、園の老主人ではないが、大いに人意を強うした。
河鹿は縁日もの、振り売りの手合いからは決して買わぬもの、これも三歳以下なはまだ籠なれずして鳴きも歌わず、どうかすると姿ばかりがよく似た蛙めを掴まされることさえある。
飼うには素人にも骨が折れず、生き虫と時々の新しき水を怠らねば誰れにもそそうはなく、鳴きも然るべき鳥屋が売ったのなら請合いである。
行いて聞くには汐入の渡しを綾瀬の流れに入って、溯ることしばし、そこに月影の砕くる瀬ありて、彼の愛すべき声を賞すべし。半宵船をもやいて、ここらあたりに月と河鹿を賞するの風雅人、果して都に幾たりを算え得ることであろうか。
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走り鮎
鮎は当歳の走りを別して賞美する事、必ずしも江戸ッ児ならずともだが、今では蕃殖を保護するというので、七月十五日までは禁漁とあり、旁名物の多摩川ものはそれ以後でなくば魚河岸にも現れず、二子に赴いても網一つ打つことならねば、江戸ッ児には酷い辛抱ながら、解禁の日よりは河岸にも籠をつむことあり、それまで幅を利かしていた秩父もの、国府津ものなど、漸く片隅に退けられて、これより一しきり、鮎は多摩川に限らるるもおかしい。
凡そ鮎の真味は、その肉よりも骨にあるので、噛みしむる口に芳脂の舌ざわり快く、歯に何の骨折り一つさせぬようなを殊に好しとしてある。さるは江戸ッ児の産湯する多摩川の水に産するを随一とし、秩父の渓流に育つも味は劣れりというではないが、多摩川のに比して骨の硬いが難だ。国府津ものは酒匂川にとれるを一番の上味とし、山北の鮎鮨で東海道を上下するほどの人々は予て馴染だが、これとても骨は硬い。
畢竟若鮎の走りを賞すること、たとえばピンとはねて瀬をも流れをも溯るべく、兼ねては水の清冽なるを愛して、濁りに棲まぬその性にある。
余の人々は如何あろうか、吾儕元よりその意を知らず、ただ江戸ッ児に至っては、ひたぶるにその性を愛して自ら彼の清きにおらんとするからである。
さるにても近頃の多摩川漁夫、或は密漁を企て、生洲飼いをなし、客を見て獲物の多寡を加減するなぞ、江戸ッ児には癪にさわることばかり、これでは折角の鮎が估券を堕しはせぬかと、そんじょそこらの兄哥がいい心配をしておる。
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縁日と露店
縁日趣味、露店趣味は江戸ッ児にして初めてこれを完全に解し得るもの。月の三十日が間、唯の一日都大路の何処にも縁日がないという晩はなく、
露店趣味は縁日の以外にもこれを捜ぬるを得べく、上野、浅草の広小路、銀座南北の大通りを東側の人道なぞ、ここには一年三百六十五日、雨の日と風の強い日をさえ除けば、大方の縁日の二つがけ三つがけの出店、殊に夏の涼み時と冬の師走月とは客足も繁くして、露店の数も多きを加え、耳を病みて詰薬した爺さん、眼をわずらって黒眼鏡かけた中年増、若い神さんらしいのもあれば、
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新内と声色
秋は月の夜更けに、都の大路小路を流しゆく新内の三味線、澄み切った空に余音を伝えて妙に心を
さればぞこの哀愁を帯びた旋律に誘われて、浮世物憂く、心わびしと思う折柄には、女の小さな胸一つに何事もおさめかねて、心中を思立つもの、廓の秋にはいとど多しとか聞く。
鼻ッぱりは強くても情に脆い江戸ッ児には、こうした女から一緒に死んでくれえと言われては後へも退かず、ツイ一夜を仮初めの契りしたばかりに死出三途の道伴れまでして命惜しいとも思わぬ、これまでにされては心ぞ可愛い男とも女はそのとき初めて感じもするであろう。
さるはまた廓の夜でなくもあれ、遠くより近づき来て再び遠ざりゆくテンツルツンテン、ツンテンツンテンの響き、或は低く、或は高く、夜の空気を揺るがせて余音の嫋々を伝うるとき寒灯の孤座に人知れず泣く男の女房に去られてと聞いてもその
声色は春の夜の朧月にも相応わしいが、夏より秋にかけての夜ごとに聞く銅鑼の音、「ええ、御贔負様如何? お二階の旦那! 何ぞ御贔負様を……」と又一つボーン!
「あ、こりゃァ、才助とやらァ……近うまいって下物いたせ」と、声もかからぬ中から二階を見あげて、「大盃」の一節をチョッピリ、折から通りかかった若者が景気をつけて、「川崎屋ァ!」とか何とか呼びかけると、本人得意になってグッと反り身になり、「そのさかなには此方に望みがある。そちが額の眉間の傷ゥ、この場の下物に物語りいたしえェ……」と、抑揚を際立つほどに川崎屋でゆき「ウウウこの傷はァ、ずぶろくぐでんに……いやなに、めいていな仕りまして、石に跪き倒れし折柄……」と高島屋とのかけ合いにまで及び、「あいや才助ェ、そちゃこの直高を愚昧と思うか、やさ、盲目と見たかァ……千軍万馬の中往来なし、刀傷か槍傷かァ、それ見わけのつかぬ直高と思うやッ!」……と、まで来ればお二階の旦那なるもの御贔負様を一つ何々と御意遊ばさぬことはない。よし旦那にして御意遊ばさぬとしてからが、ねえ貴方や! と、おねだりの出るのは定で、いずれにしてもその続きか然らずは音羽屋の弁天小僧、成田屋の地震加藤なんど、どのみち一つ二つの仰せは承わられる。芸が身を喰う生業なればか、ここに至って本人無上の光栄に感じ、慾徳を離れての熱心は買ってやるところなるべし。
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十五夜と二十六夜
秋の月見は八月の十五夜、今も都は芋芒を野にもとむるに及ばず、横丁の八百屋におさんを走らすれば、穂芒の多少は好み次第、里芋も衣かつぎ芋も、栗も、枝豆も、走りを賞する人々が客なる商売物、何一つ揃わぬことなく、月見団子の餅の粉まで、乾物屋へ廻らずともなので、宵には万の供物もととのい、二階座敷に打ちつどうての月待ち、武蔵野の月は昔に瓦屋の唐草を出て唐草に入るまで、さ霧の立ちこむる巷に灯影淡く、折々は人を休むる雲の光りを奪うとも、一楼の明月に雨はじめて晴ればれと、且つ語り且つ喰うて枝豆をつくし、栗を殻ばかりにして、衣かつぎ芋の
「オヤ、ま随分だわねえ。もう皆んなよ」と娘まず驚けば、「そんなに喰べて、お嫁にでもいってたら離縁ものだよ」なぞと母親もまだ何かに手を出しそう。
「僕なんかお嫁に行くんじゃなし、大丈夫だァ」と男の児の手はなお残りの団子に及ぶ。蓋し江戸ッ児には花にも月にも団子なるべきかな。
二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあかして、更くるに遅い長夜も早や二時を過ぎ、三々五々たる人影いよいよ群をなして、かかる
何がさて、今の若き人々の飯ごとなる恋というもの、江戸ッ児にはただ危っかしくてあぶなっかしくてよそごとながらいろいろ思うとは、頭の禿げた江戸の残党が口癖のようにいうこと。それもこれも畢竟は苦労が足らぬからのことで、かくての取締り故に様々な御法度が出来て、江戸趣味を滅ぼしゆかんこと、何ぼうの憾みか知れないことだ。
然り今の有様では二十六夜待ちの禁止も、あるいはまた出まいものでもなし。恋というもの、するならばするで、せめてそれらしい恋をしては下さるまいか、つまらぬことで江戸趣味をなくしたくないものだて!
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細見と辻占売り
都は夜の巷に細見売りの姿を見ること、今はほとほと少うなった。たとえば月待つほどの星の宵に、街灯の光りほの暗い横丁をゆく時、「新吉原ァ細見。
その声を最も多く耳にしたは浅草の千束町から竜泉寺筋、余は浅草の広小路にも上野の山下にも折々に見聞きしたものだが、近頃は大門を入ってからでなくば容易に姿すら見かけず、神田から九段下、牛込見附界隈にこれをまのあたりせんことは最早過ぎし夢となり果てた。さるにてもこの細見売りというもの、当時は何処に何を生業とすることやら……。
聞けば今の絵葉書売りというもの、その一部は昔細見を売りあるいた男とやらで、如何に流行なればとて、縁日の露店に、実はよりどり五厘から一銭二銭の安絵葉書商うだけでは、腹も懐も温くはならず、さればその懐に忍ばせたもの、懐炉温石のたぐいにあらずして十二枚一組の極彩色、中なるは手易くあけて見せずに、客を択っても怪しい笑顔「へえ如何です」なぞは五十歩百歩かは知らぬが下りはてたもの、変れば変るものだと昔の若い人が妙に感心していた。
「河内瓢箪山稲荷辻占」恋の判断を小さな紙に記して、夜長の
彼の辻占売りあるく男の、チラと見た怪し姿に、一声高く「恋のゥ辻占ァ――」と呶鳴っておいて、俄に変る股だち腕まくり、新派にはよくある型だが、曾ては刑事のこれ化けたも真実にあるとか、人間というもいつも芝居ッ気を放れぬところが頼もしいと此方とらは思う。
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おさらい
長唄、清元、常磐津、さては歌沢、振り事など、歌舞の道にお師匠さんたるもの、互いに己が弟子の上達を誇りに、おさらいというもの、多くは秋の長夜を利して催すが例である。
設けの席は弟子の多寡にもよるべく、貸席、しもた家、乃至はまたお師匠さん自身の家、招く人の数に準じて座敷幾つかを打ちぬきにし、緋毛氈に飾られた高座を正面に、紫の幔幕結いまわし、それへかけつらねたビラ幾十枚、それもこれも数の多いが自慢で、若い娘達の

秋のおさらいは昼よりも灯する頃より夜と共に興
弾き語りもすんで、立唄、立三味線、高座にずらりと並居てのおさらいは、その日の呼び物だけにグッと景気づき、後見にまわったお師匠さんの気の張りも強くなる。
こうして一わたりすむと中入りには菓弁寿の御馳走、娘達はお世辞の言いくらやら、申訳のしあいやらで、小鳥の
それよりして千秋楽までは代稽古するほどの腕前揃い、ツイその撥に咽喉に魅せられて帰るさは酔ったよう。勿論おみきの利目も少しは手伝っておることと知るべきだ。
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常磐津、清元、歌沢
江戸趣味の音楽として、吾儕は先ず常磐津をその一つに数え、次いで清元、歌沢をあげたいと思う。
長唄は植木店の家元といい、分家の岡安一派まで、いずれ江戸ッ児ならぬはないが、趣味の上からは、チト野暮なを如何せん。
さるにても常磐津といい清元といい、年々に名人の病衰して亡びゆくこと、時にとっての何ぼうの損失であるよう……。
昔者は霜白き旦、さては風冴ゆる夕べの火の見などに出て、温めねば鼓さえ凍るほどなを、手に覚えのなくなるまでも寒稽古励んで腕を研き、互いに名人の域に達せねば止まじと振舞うたので、この道の達者世に続出して、自ずとこうした趣味の普及もなりはしたが、今はさばかりに芸道に出精の者もなく、趣味も漸く廃れゆくこそ
歌沢とても芝金の一派、寅右衛門の一派など両々腕を競えど、未だ技の
入神の妙技はさて措くとしても、これも残された江戸趣味の一つとして見れば、実はここらからその復興を企てて、新しい江戸を東京の今にものしたいものだと、まァさ、折角そんなに思っているので、こちとらは随分椽の下の力持ちもしてえる奴さ。どうですえ、親方とか太夫とか、乃至は師匠とか言われてござる御仁、もちっと、何と骨を折って見てくれる気はねえものか知らんて!
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お会式
毎年陰暦十月十三日、祖師日蓮の忌日を卜して執行の法会をお会式とはいい、宗徒は又おめいこうとて本山に参籠する。池上の本門寺、堀内のお祖師様など、江戸以来の霊場で、遠くは中山の法華経寺へも出かける。
この御会式、
それ江戸ッ児の気勢いは御祭り騒ぎにしくものなく、妙法蓮華経の功力心願、それもこれも団扇太鼓の音、大万灯の賑わいに誘われてのこと、とばかりでは一向有難味も薄うなる勘定だが、案外に江戸ッ児は正直なところもあって、堂に詣って数珠爪繰る時には、一ト通りの敬虔と尊崇と帰依とを有し、南無妙法蓮華経の唱名も殊勝である。
但し往くさ来るさの講中の気勢、団扇太鼓の拍子どりして歩む時には、ただそれ無我夢中で、遠い路が苦になるでもない。
殊におかしいは他宗他門の人々、このお会式にも見物を怠らず、本門寺への沿道はかかる群にも賑わって、さて本堂前の賽銭箱には、同じく喜捨のお鳥目を
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菊と紅葉
菊は赤坂御苑なるを最とし、輪も大きく類も多いが、一般衆庶の拝観をゆるされず、したがって上下貴賤の区別なく、誰をでも千客万来、木戸銭取って自由に見せるのは相も変らず団子坂。今も活人形の大道具大仕掛けに、近年は電気応用という至極手数のかかった甘いことが流行り出して、一幹千輪の珍花よりも、舞鶴、千代の里、白楽天などの銘花よりも、歌舞伎好みが百人向きで、染井の植木屋が折角の骨おりも何の役に立たず、花の君子なるものと賞された菊も、徒に瓦礫の間に余生を送る姿、なんぼう口惜しい限りだろうか。
紅葉は吹上御苑の霜錦亭より眺むるもの、大江戸以来随一とせられておるが、これとても一般の拝観は思いもよらず、次いで新宿の御苑、赤坂の離宮なるも色渥丹の如く頗る賞すべきか。その他では麹町の山王、靖国神社、小石川の後楽園、芝の山内などで、その余に人々のゆくとしてゆくのは王子の滝の川最も近く、品川の海晏寺なるは温暖の南を受けて至極よさそうだが、存外に色づきが遅い。
しかし紅葉は如何なことにも負けおしみして力んではいられず、塵埃に汚れたドス黯いのを見ようよりは遠く秩父の渓間か、高雄山にこれを探るによろしく、これだけは大自慢の江戸ッ児全体が
かくいう某も実はその残念におもう一人で、京の女にはさのみも驚かなんだが、紅葉だけは何故ああした美しい色に出ぬのかと、
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酉の市
酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩
こうして帰るさは吉原病院の非常門から花の江戸町、京町や柳桜の仲の町、いつか物いう花のチリツテシャン、呑めや唄えの大陽気に、財布の紐も心と共に解けはてて、掻き込めかきこめの鷲掴み、とうとう一文なしに掴みどりされて、気がついた時にはお預りの熊手一つ、お近い中にと親切そうに言われて、二の酉に裏をかえす連中、これでも慾の皮がつッ張っているのかと思うと可笑くておかしくてならない。
されば酉の市は先様がとりの市、こっちはとられまちで、どの道金に縁の薄い江戸ッ児には、宵越しをさせたくもこの始末なので及びもつかぬこと、それでも一かどの福運を得る気で、眼前とられにゆくを甘んずるなどはとうてい江戸ッ児以外の人には馬鹿気切ってて嘘にも真似の出来たものではない。
殊には熊手の腹に阿多福のシンボル、そもそも誰が思いついての売りはじめやら、勿体らしく店々の入口、さては神棚の一部に飾られたこれら江戸ッ児の象徴を見る時は、情ないよりは寧ろその稚気を愛すべきだ。
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鍋焼饂飩と稲荷鮨
霜夜の鐘の凍るばかりに音冴えて、都の巷に人影のいよいよ疎なる時、折々の按摩が流しの笛につれて、遠くより聞え来るもの、「鍋焼ァき饂飩※[#小書き片仮名ン、198-4]、え饂飩やァい――」と、「稲荷ァりさん、え、いなァりさん――」の声なるべし。
もしそれこの合の手として犬の遠吠えを加うれば、冬の情景ここにつくされて、限りなき淋しさを味うことが出来る。
されば夜なべの気も惓んじた頃、戸外に一度この声を聞く時は、狐窓から呼び止めて熱いのをと幾つか誂える。心得て枝炭新たにさしくべ、パタパタと急しく渋団扇ものせば、忽ちにパチパチと勇ましい音して、お誂えの数は揃う。
凡そ鍋焼饂飩は吹きふき喰べるような熱いのを最も賞美する。故に立ちのぼる湯の気の中に顔をうずめて箸を運ぶ時、三ッ葉あり蒲鉾あり、化粧麩、花がつおなど、いろいろの種物にまじわれば、丸三の安饂飩も存外に旨く味われて、食通も時に舌鼓を打つぞおかしい。
稲荷鮨は元来がおこんこ様好み。麻の実、萱の実、青昆布などの
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からッ風
武蔵野は筑波
大江戸以来の名物も数多い中に、このからッ風は今に毛ほども相変らずで、しかもこの風時々に悪戯をなすこと限りなく、通りすがりの若い女の裳を弄び、おこそ頭巾の後れ髪を苛むなぞはまだしものこと、ややともすればジャアンと打ッつかったが最後、大江戸を唯一呑みと赤い舌を吐いて、ペロリペロリそこら中を嘗めまわす。江戸の花だと気勢う連中も、災の我身に及ぶ時は敢えてそうした呑気ばかり言ってはおれず、それというより死力を尽してこれと闘わねばならないので、夜々のからッ風に火の元を用心し、向島は秋葉神社の護符を拝受して台所の神棚に荒神様と同居させるなぞ、明暦以来は一層懲りに懲りているので、用意周到行きわたらざる隈もない。
「ああ又いやに吹きやァがるじゃねえか。今夜あたり、ジャンと来なきゃァいいが」なぞと言う晩には妙に神経も昂ってきて、器物の音にも耳を聳てる。
されば向島の秋葉様は十月の十七、十八という、そろそろ人の
しかしながら半鐘の音という奴、いつ聞いても余り気味のいいものでなく、正月の消防出初式に打つのでも、それと知りつつ妙に気が噪いでくる。江戸ッ児の好くのはただこの興奮一つからで、火事場の弥次馬も全く噪ッ気からとはさもそうずさもあるべきである。
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納豆と朝湯
霜のあしたを黎明から呼び歩いて、「納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ」と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、「オウ、一つくんねえ」と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、「先ず有難え」と漸く安心して寝衣のままに
それよりして熊さん八公の常連ここに落合えば、ゆうべの火事の話、もてたとかもてなかったとか、大抵問題はいつもきまったものだ。
次いで幾許もなく寄席仕込みの都々逸、端唄、鏡板に響いて平生よりは存外に聞きよいのを得意にして、いよいよ唸りも高くなると、番頭漸く
とかくして、浴後の褌一つに、冬をも暑がってホッホッという太息、見れば全身
「どうでえ、よく茹りやがッたなァ」
「てめえだってそうじゃねえか。これで肥ってりゃァ差向き金時の火事見めえて柄だけどなァ――」
「金時なら強そうでいいや」
「へん、その体で金時けえ――」
肚の綺麗なわりに口はきたなく、逢うとから別れるまで悪口雑言の斬合い。そんなこんなで存外時間をつぶし、夏ならばもうかれこれ納豆売りが出なおして金時を売りにくる時分だ。
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歳の市
深川八幡に始まって、浅草観音、神田明神、芝の愛宕、平河天神などを歳の市の数え場所とし、他は西両国の広小路、銀座通り、四谷伝馬町、赤坂一ッ木など、最寄りもよりになお幾つもある。
江戸ッ児は何につけても担ぐとて嗤いたもうな。ケナせば元来が門松だの飾り藁だのというもの、実はあってもなくてものもので、そを縁起まで祝うて年迎えのしるしとせんことは、理屈や議論ではとうていお話にならぬこと、ただそれその心持ちが第一である。
さればいずれの歳の市にも、ダラダラの大晦日まで続いたところが、門松だけは二十九日までに遅くとも立ててしまい、一夜飾りはせぬものと老人の注意を、誰しも正直に守って疑わず、どういうわけと念を押すなぞは決しておくびにも出さない。
「めんどくせえやな、悪りいてえから悪るけりゃしねえまでよ、なァ、人の嫌がることをしねえたて、こちとらァそれでよゥく日も経ッてかァな」
江戸ッ児の気分はただそれ
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大晦日
年の瀬の流れながれていよいよおしつもった大晦日、三百六十五日の最終の日にのぞんで、ああまた空しく一年を過ぐしたと嘆ずるは愚痴、そらほどなら毎度のことでもあり、先の先まで見えすいておることを、今更の後悔でもあるまいと、江戸ッ児はそんなことより年忘れ、まず何はともあれの、一杯機嫌で、御厄払いましょう、厄払いになにがしかを包んで、諸々のまがつみを西の海! それで気もサラリとして払いも掛けも勘定万端を早ァくにすませ、朝でなくとも熱いピリリとする奴に一風呂入って、
されば夜に入っては梅の一鉢も冷かしてきて、福寿草の根じめに植えたるを択び、搗きたてのおすわりと共に床の間に飾り込み、今更におすわりの大なるを喜んで、今年のは去年のよりも一寸からあると北叟笑む時には、天下これより快なることはなく、心ひそかに来るべき年の福運を祝して有難てえやと軽く額をたたく。
「オイ、おッかァ! 福茶がへえったら持って来や!」
とはいつにない優しい声、女房も
こうして歳の大晦日はいつも夜あかし、明けがたにトロトロと
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見附と御門
三百六十五日の年中行事に因んで、江戸趣味のあれこれをそこはかとなく漁って見た後で、まだ何やらん残っているように思って考え出したのはこの見附と御門、これこそ大江戸随一の形見とも称すべきで、さて見附は山下見附、赤坂見附、四谷、牛込の二、三ヶ所をこれに加うべく、それらいずれも多少の俤はとどめてあるも、今は昔の名残りを偲ぶにもよすが少い。殊に山下なるは殆んどあるかなきかで、これより常盤橋内なるがまだ遥かにその趣はある。
御門は桜田と半蔵と、田安とが最もよく昔のままをあらわし、次いで和田倉門(辰の口)も殆んどそのままだ。他には竹橋御門なおその影を止め、爾余のは馬場先門にしろ、日比谷見附にしろ、今はその趾さえ
されば今僅にその悌を存する以上の見附と御門とも、いつ全く失われつくすか、滅びゆく江戸の俤を偲ぶ時、吾儕はいとど哀惜の情に堪えぬものがある。
さるにても「時」の力の恐ろしくも又いみじきことよ、蓋しかれはすべてに対してその破壊者であると共に、又やがてその建造者である。故にかれや常にこれを破壊して、また常にこれを建造する。彼の児童が持ちあいた玩具を片端から破壊し去って、いつかその破片をつづくり、別に珍奇の玩具をものして欣ぶと一斑で、吾儕は不断に「時」の力に圧迫せられ、威嚇せられて、しかもその制肘を脱する能わざるのだ。
人もし残されたる江戸趣味を捜ねて、最後にこの見附と御門とに至らば、必ずや吾儕とその感を同じゅうするであろう。……ホイ、これはしたり、とんだ
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江戸芸者と踊子
今のシャに深川芸者の粋と意気地なく、素袷に素足の伊達は競わずもあれ、せめてその気分だけでも享けついで、も一度江戸趣味を東京に復興さして見たいのが吾儕の望み。されば好い加減に引込めと大向うから呶鳴られぬ前、長えは毒と一旦筆を擱きはしたが、
――さて江戸芸者の濫觴は、宝暦年中、吉原の遊女扇屋歌扇というが、年あけ後に廓内で客の酒席に侍り、琴三味線を弾きもて酔興をたすけたに因みし、それより下っては明和安永の頃からである。当時の吉原細見に、「芸者何誰外へも出し申候」とあるのに見ても、それは明らかだ。
但し、これまでの名称は踊子とて、これは寛文頃京坂に始まり、江戸では天和貞享の頃からで、その時までは白拍子、遊女などに酒興を
勿論芸者なる呼び名は、必ずしもこの時に始まったのでもないが、そは男女いずれにも称えられたことで、したがって踊子が今の芸者すなわちソレシャに相当するわけで、なお今一つ、現在の芸者によく類しておることは、芸一方で客の席へ出たのでなかったことだ。
元禄二年五月二十一日の町触に、この踊子の屋敷方はいうに及ばず、いずれへも出入法度たるべく取締られたのは、全く私娼を営んで、風俗を紊乱したからで、して見ると落語家のいい草じゃないが、女ならでは夜のあけぬ国だけに、いつの時世にも女で苦労することが多いのかも知れぬ。
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人情本と浮世絵
江戸芸者の詮索ついでに、それが風俗を捜ぬべく、人情本と浮世絵とから拾って見ると、為永春水の作に次の如く書いてある。
「……上田太織の鼠の棒縞、黒の小柳に紫の山繭縞の縮緬を鯨帯とし、下着はお納戸の中形縮緬、お高祖頭巾を手に持ちて乱れし鬢の島田髷……」
これで見ると太織だの山繭縮緬、普通の縮緬などを多く用いたらしく、色合は鼠だの紫がかったもの、お納戸色などがその好みだったらしい。
また、ソレシャ社会の驕奢を穿って、同じ人がこうも書いている。
「……極上誂織の白七子をお納戸の紋附に染め、江戸褄模様に翻 れ梅、紅白の上絵彩色銀糸にて松葉を散らしに縫わせ……英泉の筆意を頼み、下着は縮緬鼠のさや形、帯は花色勝山に色糸を以て阿蘭陀模様を竪縞の如く縫わせたらば類なくてよかろうか。黒の呉絽服に雨竜の飛形を菅ぬいにさせたらば如何だろう……」
それより溯って百五十年も以前の風俗になると、衣服は縞銘仙の小袖、飛白の帷子といった類、履物は吾妻下駄で、それを素足につっかけ、髪は若衆髷に結うなど、すべてが歌舞伎役者をそのままで、恐らくは態々それを擬していたのでもあろう。
次に深川芸者の風俗を一書にたずねて詳にしたには、つぶし島田に前髪へ四本、後へ一本の簪をさし、俎板形の大きやかな櫛をさして飛白帷子に襦袢、帯は一つ結びにして扇は後ろに挟み、塗
転じて浮世絵にこれを見ると、歌麿の両国川開きの絵に、屋形船なる芸者の片足を立膝して、杯を流れに
それから衣服はどれも裾長に着て、舳へ立っている女の姿に鑑みると、足は内わで、襟を厭味でない抜き衣紋にしている。
尤もこのぬき衣紋ということは、襟白粉をつけるからの起りで、京坂に始まって後、江戸にも及んだものだが、態とらしくないのはよいものだ。
で、この風俗は、江戸芸者にばかりではなく、一般に行われたことは、その頃の浮世絵なり、絵本草双紙の類に
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見番と箱屋と継ぎ棹
芸者見番というものが江戸に出来たそもそもは、宝暦以後大黒屋秀民に始まり、その以前にはこれに類似のものすらなかった。
また箱屋のはじまりは、「江戸職人づくし」によると、突込髪にした婆が三味線箱を背負い、前帯に褄をはしょり、素足に下駄を突っかけて片手には小丸提灯、夜道を照らしつつ先立ちして歩いておる。
尤も、この時代には箱屋というのではなく、単にそうした傭女なり老母なりが送り迎えをしたに過ぎない。けれども、濫觴をたずぬればこれがそもそも箱屋の因みをなし、百年この方にいつとなく箱屋なるものが一つの生業として出来たのである。
次に三味線の継ぎ棹というものは、寛政以後に出来たもので、その前は一本棹のものしかなく、傭女や老母なぞがそれを提げて、前にいったような身なりで先達すると、そのあとから裾模様の紋附ものか何かを着、帯を一つ結びのダラリと下げて、お高祖頭巾を被った芸者姿の美しいのが随いてゆく。
ところが、その風俗如何にも際立って目につくので、寛政の改革があってからは、棹を三つ継ぎにして途中は箱で持ちあるき、嵩張りもせず、表立ちもせぬようにしたので、今にこの継ぎ棹世に行わるるに至った。
ついでに言っておくが、芸者の途中を眼立たぬようにすることは、一時町芸者の流行いと盛大して、遂に遊廓の衰靡を来たしたので、時の幕府に哀訴して