最近某大学の卒業論文口頭試問の席へ
「理窟は抜きにして、ディツケンスの何んなとこを面白く感じましたか、コンラツドの何んなとこに興味を覚えましたか」と訊くと、
「一向に面白くありません、少しも興味を感じません、論文を書く為めに、唯一生懸命に勉強しただけです」と云ふ。
「では、三年間に、別に何か読みましたか」と訊くと、別に何も読んでゐないといふ、如何にも頼りない返事である。これは一つには学生諸氏の英語の読書力の薄いのに依るのであらうけれど、一つにはまた、今日の若い人達の間に如何に趣味として読書が閑却されてゐるかを示すものである。
今日ほど読書に不利な時代はない。自動車は走り、飛行機は飛び、映画、トオキイは全盛、音楽でもヂヤズや音頭の騒々しいもののみが幅を利かしてゐるので、人々は一刻も静かに落ち著いてゐる暇がない。若い人達が手軽にその閑を消される喫茶店なるものの流行もまた、少からずこの読書の妨げをなしてゐる。この頃本の売れないのは、全くこの喫茶店の跋扈に由来するのである。今まで若い人達が書物に費してゐた小遣銭の大半は、この喫茶店なる安価で、便利な、時にはいかがはしい青年社交倶楽部に奪ひ去られて仕舞つてゐるのである。出版家連がもつと本を売らうといふなら、彼等は宜しく同盟して、この青年倶楽部撲滅を計るべきだと思ふ。
自分はこの
彼は好んでレクリエーシヨン、即ち、楽しみ乃至趣味といふことを説いてゐる。我々は今日快楽追求時代に住んでゐると云ふが、我々は快楽発見時代には住んでゐないやうである。到る処に不平、不満の声を聞くのみである。斯くて、この生を幸福にする楽しみといふものが重要になつて来る。生を幸福にする要素は少くとも四つある。第一にそれは、我々の行動を支配する道徳的標準である。第二は家族、また姻戚との親善な関係といふ形式に於ける、多少とも満足な家庭生活である。第三は、国家に対して我々の存在を恥ぢず、我等をして善良の市民たらしむべき、何かの形式の仕事である。第四は或る程度の
書物こそは――彼は云つてゐる――最も偉大な、また最も心ゆく楽しみである。
詩は最も偉大な文学であり、詩に於ける快楽は文学的快楽中最も偉大な快楽であると前提して、我々がまだ若いうちに、少くとも三十五の春秋を重ねぬうちに、実際自分の為めに歌つてくれたと思はれる、一人、或は二三の大詩人を是非目つけなければならない。して、自分自身の体験で感じたことを歌つてゐるやうに思へる、もしくは、それが詩に於て表現されてゐるのを見るまでは気づかずにゐた我々の内部生命そのものを示現してゐるやうに思へる一人の詩人でも幸ひにこれを見出すことが出来れば、それこそ我々は一大資産を手にしたも同じである。青年時代に湧いて来た、斯かる詩に対する愛著は、決して年老ゆると共に消え去るものではない、それは我々自身の存在の緊密な一部として永久に留存し、力と慰安と快楽の確保された資源となるのであらうと彼は喝破してゐる。して、子爵自身に就いて云へば、この詩の方面に於ては、キーツ、テニソン、ブラウニングに精通し、特にウワアヅウワアスに至つては、早くからこれを愛誦し、その一言一句をも諳んじて、折に触れ事に接してこれを想ひ起し、回想記にも雑講にも随処にこれを引用してゐる。
哲学に就いては、それと名指してはゐないが、バルフオア卿とホルデエン卿をいつてゐるやうに思はれる、政治上に活躍してゐる二知人が、趣味としてこれを読み、また始終これを筆にしてゐるのは実に奥床しき限りと賞揚してゐる。自分も牛津大学在学時代にプレトオを読まされたが、今は楽しみとして折々これを開くことがある。プレトオには到底他の哲人に見出し得ざる快楽を自分に供してくれると云つてゐる。彼が愛読の書は何といつても自然に関するものであつたらうが、それも青年時代には主としてキングスレエのものなど耽読してゐたが、年を取るに従つて、例のウオルトンの『釣魚大全』やホワイトの『セルボオン博物志』を味ひ深く感じるに至つたといふことである。
書物は何といつても各時代のテストを経て、その評価の定まつたものに限ると云つて古典の美を彼は賞揚してゐるが、さうした物のうちでは、ベエコン卿のエッセイなど最も愛読のものであつたらしい。国家枢要の位置に据つて、専らその体験から割り出した、あの処世観が最も強く子爵の胸に訴へたのも自然のことで、卿に就いては一と言も云はず唯随処にあの金言、警句を引用し、暗黙のうちにこれを推賞してゐるのも面白い。前代の大事件、また大思想を扱つた最も偉大な書物の一つとして、彼はギボンの『羅馬衰亡史』を挙げ、斯かる書は我々に快楽と慰安を与へるのみでなく、また実に我等をして静かに現代の事変に接し、高処よりこれを達観せしむる高邁の識見を供するものであると云つてゐるが、全欧大動乱の中に立つての、