黙々静観

勝海舟




 一個人の百年は、ちやうど国家の一年位に当るものだ。それ故に、個人の短い了見を以て、余り国家の事を急ぎ立てるのはよくないよ。徳川幕府でも、もうとても駄目だと諦めてから、まだ十年も続いたではないか。
 時に古今の差なく、国に東西の別はない、観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。生麦、東禅寺、御殿山。これ等の事件は、皆維新前の蛮風だと云ふけれども、明治の代になつても、矢張り、湖南事件や、馬関騒動や、京城事変があつたではないか。今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ。
 此頃元勲とか何とか、自分でもえらがる人達に、かういふ歌を詠んで遣つたよ。
時ぞとて咲きいでそめしかへり咲
      咲くと見しまにはやも散なん
あれ等に分るか知らん、自分で豪傑がるのは、実に見られないよ、おれ等はもう年が寄つた。
たをやめの玉手さしかへ一夜ねん
      夢の中なる夢を見んとて
 政治家も、理窟ばかり云ふやうになつては、いけない、徳川家康公は、理窟はいはなかつたが、それでも三百年続いたよ。それに、今の内閣は、僅か卅年の間に幾度代つたやら。
 全体、今の大臣等は、維新の風雨に養成せられたなどと大きな事をいふけれども、実際剣光砲火の下を潜つて、死生の間に出入して、心胆を練り上げた人は少ない、だから一国の危機に処して惑はず、外交の難局に当つて恐れないといふほどの大人物がないのだ。先輩の尻馬に乗つて、そして先輩も及ばないほどの富貴栄華を極めて、独りで天狗になるとは恐れ入つた次第だ。先輩が命がけで成就した仕事を譲り受けて、やれ伯爵だとか、侯爵だとかいふ様な事では仕方がない。
 世間の人には、もすこし大胆であつて貰ひたいものだ。政治家とか、何んとかいつても、実際骨のあるものは幾らもありはしない。大きく見積つても六百位のものサ。然るに、今の大臣などは、この六百人ばかりを相手にわい/\騒いで居るではないか。この弱虫のおれでさえ、昔は三百諸侯を相手に、角力を取つたこともある位だのにナ。
 政治をするには、学問や智識は、二番めで、至誠奉公の精神が、一番肝腎だ。と云ふことは、屡※(二の字点、1-2-22)話す通りであるが、旧幕時代でも、田沼といふ人は、世間では彼是いふけれども、矢張り人物サ。兎に角政治の方針が一定して居つたよ。この時分について、面白い話があるが、この頃、聖堂がひどく壊れて居たから、林大学頭から修理の事を申し出たが、その書面の中に、「文宣公の廟云々」といふことがあつた。すると右筆等は集まつて、文宣公とは、どんな神様であらうかと色々評議をしたけれども、時の智者を集めた右筆仲間で、文宣公を知つて居るものがなかつた。そこで、文宣公とは何処の神だ、と附箋をして書面を返却した。大学頭は直ぐに文宣公とは、唐土の仲尼の事だといつてやつたけれども、それでもまだ分らない。そこで大学頭もたまらず、仲尼とは、子曰はくの孔夫子の事だといつた。それで右筆もやうやく合点が行たといふことだ。
 この話は旧平戸藩で明君と聞えた静山公が、儒者を集めて、種々の話をさせて、それを筆記した『甲子夜話』といふ随筆で見たが、なか/\面白い。全体その時分の真面目は正史よりも、却つてこんな飾り気のない随筆などで分るものだ。
 この話は、実に面白いではないか、右筆といえば、今の秘書官だが、宰相の片腕ともなるべきこの右筆が、孔子の名さえ知らないといえば、その人の学問も大抵は知れる。之に較べると、今の秘書官などは、外国の語も二つや三つは読めるし、やれ法律とか、やれ経済とか、何一つとして知らないものはない。然るに、不思議のことは、孔子の名さえ知らない右筆を使つた時の政治より、万能膏の秘書官を使ふ時の政治が、格別優つても居ないといふ事だ。畢竟これも政治の根本たる、至誠奉公といふ精神の関係だらうよ。





底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
   1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「亡友帖・清譚と逸話 〔復刻原本=海舟全集第十巻〕」原書房
   1968(昭和43)年4月20日
入力:ふろっぎぃ
校正:浅原庸子
2006年2月16日作成
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