幼き頃の想い出

上村松園




     古ぼけた美

 東京と違って、京都は展覧会を観る機会も数も少のうございますが、私は書画や骨董の売立のようなものでも、出来るだけ見逃さないようにして、そうした不足を満たすように心掛けて居ます。そうして、そのような売立なぞを観に参りまして、特に興味を惹かれますのは、評判の呼び物は勿論でございますが、それよりも片隅に放擲されて、参観者の注視から逸して淋しくうずくまって居る故も解らぬ品物でございます。そこに私はゆくりなく慎ましい美を発見するのでございます。たとえばその昔女郎の足にまとわって居た下駄だとか、或いは高家の隠居が愛用して居た莨入たばこいれだとか、そういったトリヴィアルなものに、特殊な床しい美が発見されるのです。そこにも又尊い芸術の光、古典の命が潜んで居ます。適切に申せばそれらは「古ぼけた美」とでもいうべきでございましょう。

     菊安のことども

 そうしたことにつけても思い出されるのは、私の幼い日のことどもでございます。私がまだ尋常三年生かそこらの頃、私達一家は四条の河原町の近くに住居を持って居りましたが、その河原町の四条下った東側に菊安という古本屋がございました。明治二十年過ぎのことでございますから、その菊安の店に並べられて居る古本類には徳川時代の版刻物、絵本や読本の類が数多く占めて居ました。
 そうした版刻物の中には、曲亭馬琴の小説類が殊に多うございました。たとえば水滸伝だとか、八犬伝だとか、弓張月だとか、美少年録だとか、馬琴のものならほとんど総べて揃って居たように記憶します。そうしてその※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵には殊に葛飾北斎のものが多く、その他当時の浮世絵師の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵が豊かに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさまれて居ました。
 私の母は非常に絵画趣味や、文学趣味に富んで居て、その血が私に遺伝したわけでございますが、何しろ菊安が家の近くだったものでございますから、母は屡※(二の字点、1-2-22)その菊安へ駆けつけて、そうした馬琴の読本やいろんな絵本を一束ずつ買って来たものでございます。そうして母子してその読本を翻しながら、絵を眺めることに非常な享楽を得たものでございます。殊に私はそれ等の版画をその儘、手当り次第に模写するのが、子供心の非常な感興でもありましたし、それが少女時代の重要な生活の一つになり、離すことの出来ない習慣性にもなりました。そうして屡※(二の字点、1-2-22)私から母にせがんで、菊安へ買い求めに行って貰ったものでございます。その中には有名な「北斎漫画」などもございましたが、その時代のことですから、非常な廉価で買い得られたわけで、何しろ小銭をちょっとひと握りして行けば、そうした古書を一束抱えて帰ることが出来たほどですから、実に安価だったわけでございます。

     馬琴と北斎の想い出

 何分にも少女時代のことですから、馬琴が何か、北斎が何か、確実な理解も持たずに、享楽し、且つ執着して居たわけでございますが、後年成長して馬琴と北斎との※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵に絡まるエピソードを知るようになって、一層私は少女時代の絵本類に懐かしい追憶をたかめました。
 今更私が解き出すまでもありませんが、それは恰度「新編水滸伝」の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の時の出来事でございます。※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵家の北斎に対して、著者の馬琴があまり神経質にいろんな執筆上の注文を頻発するものですから、自我の強い北斎は到頭爆発してしまい、断然※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵を拒絶しましたが、北斎の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の方が人気があったせいか否か、書肆の丸屋甚助は、水滸伝の翻訳を高井蘭山に転替しました。が、どう和解したものか、その翌年北斎は須原屋市兵衛出版にかかる馬琴著の「三七全伝南柯の夢」の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵を引受けました。ところがまたこの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵でも北斎がその天才的な創作力に依ってあまりに新意を出し過ぎるものですから、遂に二人は再度衝突し、馬琴が末段の方の一つの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の削除を主張したのに対し、北斎は※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵全部の返却を強要して、又々書肆を板挾みの苦しみに陥れました。が、書肆の死物狂いの奔走で、辛うじて両方のつむじ曲りを調停させたということでございます。
 芸術家は天才になればなるほど、芸術的自我の熾烈なものであり、そこに彼等の価値もあれば、尊さもあるわけでございますが、そうした優れた芸術家の歴史に有名な逸話の実際の結晶である絵本類がそのように容易たやすく、今日の古雑誌を購うのと同様に買い取れたかと思うと、世知辛くなかったその時代のことが一層懐かしまれるではありませんか。





底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「塔影」
   1933(昭和8)年5月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年7月9日作成
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