芸術三昧即信仰

生きることに悶えた四十代

上村松園




 人は苦しまなければいけない、苦しんでこそ初めて生まれるものが有る。わたしはひと頃異常に生きていることに疑問を感じたことがあった。何のために生きているのだろう。画を描くことによって画名を揚げてさて何になるのだろう。むしろ死んだ方がいいのじゃないかと悶えたことがあった。四十歳前後のことで、考えてみればはや二十年ばかりも前のことである。
 そんな時分にはよくわたしは貧民街を歩いたりした。そして画を描いて苦しんでいるよりも、こうした人達が何となく喜んでいる生活をうらやんだものである。
 その当時わたしは建仁寺の黙雷禅師の法話を聴きに行ったことがある。年ははっきり覚えませんが、日は四月の二十二日だった。しとしとと春雨の降る日、つとにおきて僧堂に禅師を訪ねました。有り余るなやみを胸に抱いて禅師の教えを乞いに参じたところ、詰所の人が禅師はお休みだからと断るようでした。わたしは「では一時間でも二時間でもお眼ざめまで待っているから」と言って、やがて起き出られた禅師をお待ちしました。そして凡そ二時間余り別にこれと言ってなやみを打ち明けるでもなく禅師の法話をお聴きしているうちに、すーと雲が引くようになごやかな気になったのです。芸術家として芸術上の悩みに突出る度に、わたしはその後芸術三昧のうちに、信仰を抱いていくようになった。それにわたしの母が熱心な仏教信者で普門品ふもんぼんなどを誦しているうちに、今では全部覚えてしまいました。だからと言ってわたしは、他人に信心を強いることはない。信心はわたしの狭い気持ちのうちでは、自分自身で築いて行くべきものだと思っている。そして又、それがどんな形になって来たところで己れの打ち込んで行く己れ自身の境地があったら、それは宗教と呼んでもいいと思っている。これが間違っているかどうか、わたしはその間違いを指摘されたところで今更改めようとは思わない。
 わたしはよく保養旅行に出る。その旅行の途中神社や仏閣があれば廻り道でもお参りすることにしている。そうするとわたしの気持ちが和やかになるのである。わたしの芸術がわたしのものであるのと同様に、ここではわたしの信仰もまたわたしのものである。引っくるめて言えば、わたしにおいては芸術三昧即信仰三昧なんであろう。
(昭和十一年)





底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
   1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「京都日日新聞」
   1936(昭和11)年3月30日夕刊
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年5月5日作成
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