七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。
青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一階下の別のアパートに住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっているおかみの台所わきを、いやでも通らなければならなかった。そしてそのつど、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な
もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいら立たしい、張りつめた気分になっていた。すっかり自分というものの中に閉じこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿のおかみのみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。彼は貧乏におしひしがれていた。けれども、この
とはいえ、今度は通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのをかくまで恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。
『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ……そうだ……いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ……これはもう確かに原理だ……ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ……だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なんにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。これはおれが先月ひと月、夜も昼もあの隅っこにごろごろしていて……昔話みたいな事を考えてるうちに、しゃべることを覚えたのだ。それはそうと、なんだっておれは今ほっつき歩いてるんだろう、いったいあれが俺にできるのだろうか? そもそも、あれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。
通りは恐ろしい暑さだった。その上、息苦しさ、雑踏、いたるところに行き当たる石灰、建築の足場、
彼はなんともいえない見すぼらしいなりをしていて、ほかの者なら、かなり慣れっこになった人間でも、こんなぼろを着て昼日なか通りへ出るのは、気がさすに相違ないほどである。しかしこの界隈ときたら、
「おれもそんなことだろうと気がついてたんだ!」と彼はどぎまぎしてつぶやいた。「おれもそう思っていたんだ! これが一番いけないんだ。こんな愚にもつかない、ちょいとしたくだらないことが、よく計画をぶちこわすものだ! そうだ、この帽子は目に立ち過ぎる、おかしいから目に立つんだ……おれのこのぼろ服には、どうあっても、たといどんな古いせんべいみたいなやつでも、学生帽でなくちゃいけない、こんなお化けじみたものじゃ駄目だ。こんなのは誰もかぶっちゃいないや。十町先からでも目について、覚えられてしまう……第一いけないのは、後になって思い出されると、それこそ立派な証拠だ。今はできるだけ人目に立たぬようにしなくちゃ……小事、小事が大事だ! こういう小事が、往々万事を
道のりはいくらでもなかった。彼は家の門口から何歩あるかということまで知っていた――きっかり七百三十歩。いつだったか空想に熱中していた時、一度それを数えてみたのだ。そのころ彼はまだ自分でも、この空想を信じていなかった。そしてただ醜悪な、とはいえ魅力の強い大胆不敵な妄想で、自分をいらいらさせるばかりだった。それがひと月たった今では、もう別の目で見るようになった。そして、自分の無気力と不決断に対して、あらゆる
彼は心臓のしびれるような感じと、神経性の
「ラスコーリニコフですよ、大学生の。ひと月ばかり前に伺ったことのある……」もっと愛想よくしなくてはいけないと思い出したので、青年はちょっと軽く会釈して、こうつぶやいた。
「覚えてますよ、よく覚えてますよ。あなたのみえたことは」と老婆はやはり彼の顔から、例の物問いたげな目を離さないで、はっきりと言った。
「そこでその……また同じような用でね……」ラスコーリニコフは老婆の
『しかし、この
老婆は何か考え込んだように、ちょっと黙っていたが、やがて脇の方へ身をひくと、中へ通ずるドアを指さして、客を通らせながらこう言った。
「まあおはいんなさい」
青年の通って行ったあまり大きくない部屋は、黄色い壁紙をはりつめて、窓に幾鉢かのぜにあおいを載せ、
家具類はひどく古びた黄色い木製品で、ぐっと曲ったもたれのある大きな長椅子と、その前に置かれた
「で、ご用は?」と老婆は部屋へはいると、いかつい調子で尋ねた。そして、客の顔をまともに見ようとして、さっきのように彼のまんまえに突っ立った。
「質を持ってきたんですよ、これを!」
彼はポケットから古い平ったい銀時計を出した。
「でも、
「じゃ、一月分利を入れます。もう少し辛抱してください」
「さあね、辛抱するとも、すぐに流してしまうとも、そりゃこっちの勝手だからね」
「時計の方は奮発してもらえますかね、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」
「ろくでもないものばかり持ってくるね、おまえさん、こんなものいくらの値うちもありゃしないよ。この前あんたにゃ指輪に二枚も出してあげたけれど、あれだって宝石屋へ行けば、新しいのが一枚半で買えるんだものね」
「四ルーブリばかり貸してくださいな。受け出しますよ、おやじのだから。じき金が来るはずになってるんです」
「一ルーブリ半、そして利子は天引き。それでよければ」
「一ルーブリ半!」と青年は叫んだ。
「どうともご勝手に」
老婆はそういって、時計を突っ返した。青年はそれを受け取った。彼はすっかり向かっ腹を立てて、そのまま帰ろうとしかけたが、この上どこへ行く当てもなし、それにまだほかの用もあって来たのだと気がつき、すぐに思い返した。
「貸してもらおう!」と彼はぶっきらぼうに言った。
老婆はポケットへ手を突っ込んで
老婆は引っ返してきた。
「さてと――一か月十カペイカとして、一ルーブリ半で十五カペイカ、ひと月分天引きしますよ。それから前の二ルーブリの口も同じ割で、もう二十カペイカ差し引くと、都合みんなで三十五カペイカ、そこで、今あの時計でおまえさんの手にはいる金は、一ルーブリ十五カペイカになる勘定ですよ。さあ、受け取んなさい」
「へえ! それじゃ今度は一ルーブリ十五カペイカなんですか!」
「ああ、その通りですよ」
青年は争おうともせず、金を受け取った。彼はじっと老婆を見つめながら、まだ何か言う事かする事でもあるように、急いで帰ろうともしなかった。もっとも、その用事がなんであるのか、自分で知らないらしい様子だった。
「事によるとね、アリョーナ・イヴァーノヴナ、近いうちにもう一品もってくるかもしれませんよ……銀の……立派な……巻煙草入れ……今に友だちから取り返してきたら……」
彼はへどもどして、口をつぐんだ。
「まあ、それはまたその時の話にしましょうよ」
「じゃ、さようなら……ときに、おばあさんはいつも一人なんですね、妹さんは留守ですか?」控室へ出ながら、できるだけざっくばらんに、彼はこう尋ねた。
「おまえさん妹に何かご用かね?」
「いや別に何も。ちょっと聞いてみただけですよ。だのにもうお婆さんはすぐ……さよなら、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」
ラスコーリニコフはすっかりまごついてしまって、そこを出た。この惑乱した気持はしだいに激しくなっていった。階段をおりながら、彼は突然なにかに打たれたように、いくども立ち止まったほどである。やっと通りへ出てから、彼はとうとう口に出して叫んだ。
『ああ、実に! なんという汚らわしい事だろう! いったい、いったいおれが……いや、これは
けれど、彼はことばでも叫びでも、自分の興奮を現わすことができなかった。もう老婆の所へ出かけた時から、そろそろ彼の心を圧迫し
彼はあたりを見回して、とある酒場の傍に立っている自分に気がついた。そこへはいって行くには、歩道から石段を下り、地下室へおりるようになっていた。戸口からは、ちょうどこのとき二人の酔漢が出て来て、たがいにもたれ合ってののしり合いながら、通りへ登ってきた。長くも思案しないで、ラスコーリニコフは、そこへおりて行った。これまで一度も酒場へはいったことはなかったけれど、今はめまいがする上に、焼けつくような渇きに悩まされていたので、冷たいビールをあおりたくてたまらなくなった。その上、突然襲ってきた疲労の原因を、空腹のためと解釈したからでもある。彼は暗いきたない片隅のねばねばするテーブルの前に陣取ってビールを命じ、むさぼるように最初の一杯を飲みほした。と、たちまち気持がすっかり落ち着いて考えがはっきりしてきた。『こんなことは何もかも馬鹿げてる』と彼はある希望を感じながらひとりごちた。『気に病むことなんかちっともありゃしない! ただ体の具合がわるくなってるだけなんだ! わずか一杯のビールと、乾パンひと切れで――もうこの通り、たちまち頭は確かになる、意識ははっきりする、意志も強固になる! ちょっ、何もかも実に馬鹿げてるわい!……』が、こうして馬鹿にしたような
この時酒場にはあまり人がいなかった。階段で出会ったあの二人の酔漢の後ろから、女を一人連れて手風琴を携えた五人組の連中が一時にどやどやと出て行ったので、あとは静かにゆったりとなった。あとに残ったのは――ビールを前に腰かけているほろ酔いの町人
まるまる一年、女房を可愛がったよう……
まあるまる一年、女房を可愛がったよう!……
まあるまる一年、女房を可愛がったよう!……
かと思うと、急にまた目をさまして、
ポジャーチェスカヤを歩いていると
もとの馴染 に出会った……
もとの
けれど、誰一人彼の幸福に共鳴するものはなかった。無口な連れの男は、こうした感興の突発をむしろ敵意ありげなうさんくさい目つきでながめていた。そこにはもう一人、退職官吏らしい男がいた。瓶を前に控えて、ときどきぐっと一口飲んではあたりを見回しながら、一人ぽつねんと座をしめている。彼もどうやら興奮しているようであった。
ラスコーリニコフはがやがやした所に慣れていなかったので、前にも述べた通り、なべて
店の亭主は別室にいたが、どこからか段々を伝わって、ちょいちょい店の方へおりてきた。そのたびに、まず何よりも先に、大きな折り返しつきの、墨をてかてか塗った
この世には、一面識もない人でありながら、口もきかぬ先から急に一目みただけで興味を感じ出すという、一風変わった
「ぶしつけですが、あなた一つ私の話相手になっていただけますまいか? お見受けしたところ、ご様子はあまりぞっとしておいでにならんが、私の年の功でもって、あなたが教育のある人で、酒類にはあまり慣れておられんように想像しますが。私も常々から、誠意を兼ね備えた教養を尊重しているもので、九等官マルメラードフ――こういう姓なんで。九等官ですよ。あなたは、失礼ですが、お勤めですかな?」
「いや、勉強中です……」と青年は答えた。相手の一種特別なくだくだしい話しぶりと、あまりまともに押し強く呼びかけられたのに、いささか面くらって、つい今が今まで、どんな人とでも話してみたいと思っていたにもかかわらず、さていよいよ本当にことばをかけられると、たちまちいつもの不愉快な、いら立たしい嫌悪の情に襲われた。それは彼の個性に触れるか、あるいは触れようとする、すべての他人に対して感じるものであった。
「してみると、学生さんですね、大学生上がり!」と官吏は叫んだ。「私もそう思いましたよ! 年の功、長い間の年功ですて!」と彼は得意そうに額へ指を一本あてた。「あなたは大学生だったのか、でなけりゃ、一通り学問をしてきた
彼は立ち上がって、よろよろっとしながら、自分の瓶とコップを引っつかみ、青年の傍へやってきて、ややはすかいに座をしめた。彼は酔っていたが、雄弁に元気よくしゃべった。ただ時々いくらかまごついて、ことばを伸ばしたくらいなものである。彼はなんだかむさぼるようにラスコーリニコフにからんできた。やはりまるひと月も、人と話をしなかったようなあんばいだった。
「なあ、書生さん」と彼はほとんど勝ち誇ったような調子で始めた。「貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。私も酔っぱらうのが徳行でないのは、百も承知しとります。いや、その方が一そう真理なくらいですて。ところで、洗うが如き赤貧となるとね、書生さん、洗うが如き赤貧となると――これは不徳ですな。貧乏のうちは、持って生まれた感情の高潔さというものを保っておられるが、
「いや、ありませんよ」とラスコーリニコフは答えた。「そりゃどういうことです?」
「実は……私はそこからやって来たんで、もう五晩めですよ!」
彼はコップに一杯ついでそれを飲みほすと、考え込んでしまった。実際、彼の服ばかりか髪にさえも、そこここにこびりついている乾草の葉が見分けられた。彼が五日のあいだ着替えもせず、顔も洗わないでいたことは明白すぎるくらい。ことに爪の黒くなった、脂じみてどす赤い手は、ひどくきたならしかった。
彼の物語は一同の注意をひいたらしい。もっとも、物臭そうな注意ではあった。小僧たちは帳場の向こうでひひひと笑い出した。亭主はわざわざ上の部屋から、『
「愛嬌者!」と大きな声で亭主は言った。「だが、お前もお役人なら、なんだって働かねえんだい、なんだって勤めに出ねえんだい?」
「なぜ勤めに出ないって? ねえ、書生さん」とマルメラードフは、おもにラスコーリニコフの方へ向きながら答えた――あたかも彼がこの質問を出したかのように。「なぜ勤めに出ないって? いったいわしがなんの働きもなく、のらくらしていながら、一向けろりとしておるとでもおっしゃるんですかい? ひと月前に、レベジャートニコフ氏が家内をぶった時にも、わしは酔っ払って寝ておったが、そのわしが平気でいたと思いますかね? 失礼ながら、書生さん、あんたにこんなことはなかったかね……その……まあ早い話が、当てのない借金をしようとなさったことが?」
「ありましたよ……でもつまり、どう当てがないのです?」
「つまり、てんで当てがないので。前からどうにもならないのを承知でやるんですな。たとえば誰それは――その、思想堅固な公民で国家有用の材といわれる誰それは、こんりんざい金なんか貸さんということが、前もってよくわかっている。だって、あんた、なんのために貸すわけがありますね、一つ伺いたいもんで? 先方じゃ、わしが返さんことを承知しとるんですからなあ。
「なんのために出かけるんです?」とラスコーリニコフはことばをはさんだ。
「だって、誰のところへも行く当てがないとしたら、どこへもほかに行く先がないとしたら! どんな人間にしろ、せめてどこかしら行く所がなくちゃ、やり切れませんからな。全く、ぜひともどこかへ行かにゃならんというような、そうした場合があるもんでがすよ! わしの一人娘が初めて黄色い鑑札(淫売婦の鑑札)をもって出かけて行ったとき、その時わしもやっぱり出かけましたよ……(というのは、娘は黄色い鑑札で食ってるんで!)」と彼は一種不安らしい目つきで青年を見ながら、
青年は一言も答えなかった。
「さて」と部屋の中に再び起こったいひひ笑いの終わるのを待って、弁者は更に一倍の尊厳さえ帯びた調子で、どっしりとことばを続けた。「さて、わしは豚でしさいはないが、あれは貴婦人ですよ! わしは獣の相を帯びておるが、家内のカチェリーナ・イヴァーノヴナは――佐官の娘に生まれた、教育のある婦人ですぞ。わしはやくざものでしさいはない、しさいはないとしても、あれは立派な魂をもっておって、教育で高められた感情にあふれておる。とはいうものの……ああ、あれが、もう少しわしを可哀想に思ってくれたらなあ! なあ、書生さん、どんな人間にだって、よしんばただのひとところだけでも、
「でなくってさ!」とあくびまじりに亭主が口をはさんだ。
マルメラードフは決然たる態度で、どんと一つ
「これがわしの性根なんだ。どうです、あなた、びっくりしちゃいけませんよ、わしは家内の靴下まで飲んでしまったんですぜ! 靴なんかは、まだいくらか定式通りという気がしますが、靴下まで、女房の靴下まで飲んじまったんですからなあ! それから、
「書生さん」彼はまた頭を上げことばを続けた。「わしはあんたの顔に、何やら悲しそうな色が読めるんですがね。はいってこられたとたんにそれが読めたから、でまあ、さっそく話しかけたようなわけですて。なんせ、あなたに自分の身の上話をしたのも、今さら言わずとも知り抜いているそこらの
マルメラードフは、まるで声を断ち切られでもしたように、急に口をつぐんだ。それからふいに、急いで一杯ついで飲みほすと、一つ
「その時からというもの」と彼はしばらく無言の後ことばを続けた。「その時からね、あんた、ちょっとしたばつの悪い事があったのと、不心得な連中の密告のために――とりわけダーリヤ・フランツォヴナが張本人だったのでがす。つまり、あの女に相当の敬意を示さなかったというわけでな――その時から、娘のソフィヤ・セミョーノヴナは、黄色い鑑札を受けにゃならんことになって、それ以来もうわしどもとも一緒におれなくなりました。というのは、かみさんのアマリヤ・フョードロヴナが、どうしても承知せんのでがす(そのくせ、前には、自分からダーリヤ・フランツォヴナに差し金までしたので)。それにも一つレベジャートニコフ氏……さよう……あの男とカチェリーナとのいきさつも、つまりはソーニャのことがもとなんでがすよ。最初は自分がソーネチカをねらっておったくせに、こうなると急にもったいぶって、『おれのような文明開化の人間が、かりにもそんな女と一つ屋根の下で暮らせるものか?』などと言い出した。ところが、カチェリーナが承知しないで、先生に食ってかかった……そうして、おっ始まったことなんでがす……このごろはソーネチカも、たいてい日暮れ方にやってくるようになりました。カチェリーナの手助けをしたり、できるだけの仕送りをしたりしましてな……ところで、あの子は仕立屋のカペルナウモフの家に同居しておるのでがす、そこの部屋を借りましてな。カペルナウモフというのはびっこで、どもりで、そのうえ大勢の家族がまたどもり、女房もやはりどもりなのでがす……それが一間でごっちゃに暮らしておると、ソーニャは仕切りで別室を作っておるので、ふむ、さよう……貧乏で、しかもどもりの一家でがす……さよう……ところが、その朝わしは目がさめると、例のぼろをひっかけましてな、両手を差し上げて天に祈ったあとで、イヴァン・アファナーシッチ閣下の所へ出かけましたよ……イヴァン・アファナーシッチ閣下、ご存じかな?……ご存じない?……へえ、あの善人をご存じないとは! あの方はまるで
マルメラードフはまた激しい興奮のていで口をつぐんだ。そのとき通りから、もういい加減酔っぱらった酔漢の一隊がはいってきた。入り口では、どこからか引っ張られてきた流しの手風琴の響きと、『田舎家』をうたう七つばかりの子供の、ひびのはいったようなかん高い声が聞こえた。あたりが騒然としてきた。亭主とボーイたちは、新来の連中に気を取られてしまった。マルメラードフは、はいってきた連中には目もくれず、物語の続きにかかった。もう大分参っているらしかったが、酔が回れば回るほど、ますます口まめになってきた。最近の出来事である就職成功の思い出が、一段と彼を活気づけたらしく、それが一種の輝きとなって顔に映るくらいだった。ラスコーリニコフは注意深く耳を傾けた。
「それは、あなた、五週間前のことでしたよ。さよう……あれたち二人が――カチェリーナとソーネチカが、それと知るが早いか、わしは一足とびに天国へ行ったようなあんばいでがしたよ。それまでは、牛か馬のようにごろごろしておって、悪態を聞かされるばかりだったのが、今度は――みんな
マルメラードフはことばを休めて、にやりと笑おうとしたが、突然その
「書生さん、なあ、書生さん!」とマルメラードフは気をとり直して叫んだ。「ああ、あんたにしても、ほかの連中同様に、こんな話はただの笑い草にすぎんでしょう。こんな家庭生活のみじめな打ち明け話や愚痴話は、あんたにゃさぞ迷惑なばかりだったでしょうが、わしにとってはなかなか笑いごとどころじゃない! わしにはそれが一つ一つ胸にこたえるのですからな……ところで、そのわしの生涯を通じて天国みたいな一日と、それからその晩ひとばんじゅう、こういうわしも浮き浮きした空想に時を過ごしましたよ――つまり、何もかもうまく片をつけて、子供たちにも着物を着せてやり、あれにも楽をさせてやろう、そして一粒種の娘も泥水稼業から家庭のふところへ引戻してやろうなどと……まあ、いろいろさまざまなことを空想しましたよ……無理もがせんよ、なあ、あんた」とマルメラードフは、突然ぶるっと身震いでもするような様子をして頭を上げ、じっと穴のあくほど聞き手を見つめた。「ところがその翌日、そんな風の空想をしたすぐあとで(つまり、それは五日前のことでがした)、夕景ちかく、わしは
マルメラードフは、
「今日はソーニャのところへ行って、迎え酒の代をねだってきましたよ! へへへ!」
「で、くれたかい?」と傍の方から、今来た連中の一人がわめいた。わめいて、のどいっぱいに笑い出した。
「ほら、この角瓶が娘の金で買ったやつでがすよ」とマルメラードフは特にラスコーリニコフの方を向いて言った。「三十カペイカ出してくれました。自分の手で、なけなしの金をありったけはたいてね……わしがこの目で見たんでがすよ……娘はなんにも言えずにな、ただ黙ってわしの顔を見ましたっけ……こうなると、もうこの世のものじゃごわせん、あの世のものだ……人のことをくよくよして、泣いてばかりいて、それでとがめ立てをせん。ちっともとがめ立てをせんのでがす! だが、かえってこの方がわしにゃつらい、とがめられんとかえってつらい!……三十カペイカ、さよう。ところが、あれだっていま金はいろうじゃがせんか、え? あんたどうお考えですな、書生さん? 今あれは、さっぱりした身なりということに気をつけにゃならんのでがす。そのさっぱりしたというのも特別なやつで、金がかかるんでがすよ。な、おわかりかな? おわかりかな? まあ早い話が、ポマードも買わにゃならん。だって、ポマードなしじゃ済まされんじゃごわせんか。そのほか、
彼はまた注ごうとしたが、酒はもうなかった。瓶は空だった。
「なんだってお前なんかを気の毒がることがあるんでえ?」また彼らの傍へやってきた亭主が、大きな声でこう言った。
笑い声がどっと起こった。口ぎたなくののしる声さえ聞こえた。話を聞いていたものも、聞いていなかったものも、ただ退職官吏のていたらくを見たばかりで、笑いながら悪態をつくのであった。
「気の毒がる! なんのためにわしを気の毒がるんだ!」とマルメラードフは、まるでこのことばを待ち構えていたように、極度に興奮した様子で、片手を前へ突き出して立ち上がりながら、ふいにわめき立てた。「なんのために気の毒がることがあるんだ? そうとも! わしを気の毒がるわけなんか毛頭ないとも! わしなんか
こう言い終わると、彼はぐったりと力つきて、まるで周囲のことを忘れ果てたように、誰の顔も見ず深くもの思いに沈みながら、ベンチの上へぐたぐたとくずおれた。彼のことばは一種の感銘を与えた。ややしばらく沈黙があたりを領したが、やがてまもなく先ほどと同じ笑いと
「へん、ひと理屈こねやがったな!」
「どうも吹いたもんだ!」
「よう官員さん!」
等、等。
「書生さん、行こう」とふいにマルメラードフは顔を上げて、ラスコーリニコフにことばをかけた。
「わたしを送ってくださらんか……コーゼルの家、裏庭の方でさ。もう潮どきだ……カチェリーナのとこへ帰る……」
ラスコーリニコフはすでにとうからここを出て行きたかったのだ。それに、この男を送ってやることは自分でも前から考えていた。マルメラードフは、口より足の方がはるかに弱っていたので、しっかりと青年にもたれかかった。道のりは二、三百歩くらいあった。当惑と恐怖は、わが家へ近づくにしたがって、しだいに激しく酔漢を領していった。
「今わしが恐れとるのは、カチェリーナじゃがせん」と彼はわくわくした様子でつぶやいた。「あいつがわしの髪の毛をむしるだろうということでもがせん。髪がなんだ!……髪なんかなんでもありゃせん! 全くでがす! もし引きむしりにかかってくれれば、その方がまだしもなくらいだ。わしが恐れるのはそれじゃない……わしは……あれの目を恐れるのだ……さよう……目をな……それからほっぺたの赤いしみもやっぱり恐ろしい……それからまだ……あれの息が恐ろしい……あの病気にかかったものの息づかいを君は見たことがあるかい……ことに
彼らは裏庭からはいって、四階へ上った。階段は先へ行けば行くほど、だんだん暗くなった。もう十一時近かった。ペテルブルグではこの季節に本当の夜はないのだが、階段の上はことに暗かった。
一番上の階段のはずれに、小さなすすけたドアが明けっ放しになっていた。
ラスコーリニコフは、すぐカチェリーナ・イヴァーノヴナを見分けた。それはかなり背の高い、すらりと格好のととのった、まだつややかな
マルメラードフは部屋へはいらないで、いきなり戸口に膝を突きラスコーリニコフを前の方へ押し出した。女は見知らぬ人を見て、ぼんやりその前に立ち止まったが、とっさの間にわれに返り、なんのためにこんな男がはいって来たのかと、思いめぐらす風であった。けれどすぐさま、自分たちの部屋は通り抜けになっているから、ほかの部屋へ行く人なのだとでも考えたのであろう、彼女は青年に注意を向けないで、出入り口をしめに戸口の方へ歩いて行った。敷居の上にひざまずいている夫を見つけ、いきなり声を上げた。
「ああ!」と彼女はわれを忘れてどなった。「帰って来た! この極道め! 畜生! お金はどこにあるの? ポケットに何があるか出して見せなさい! それに服も変わっている! あんたの服はどこにあるんです? 金はどこ? おっしゃい!……」
彼女はこう言いながら、飛びかかって調べ始めた。マルメラードフは、身体検査に骨がおれないようにと、素直におとなしく両手を広げた。金は一カペイカもなかった。
「いったい金はどこにあるの?」と彼女は叫んだ。「ああ、みんな飲んでしまったのかえ? トランクの中には十二ルーブリも残っていたのに!……」
こう言うと、やにわに狂気のようになって、彼女は夫の髪をひっつかみ、部屋の中へ引きずり込んだ。マルメラードフはおとなしく後ろから膝でいざりながら、自分で妻の骨折りを軽くしてやった。
「これもわしにとっては快楽だ! 苦痛じゃない、快……楽だよ、君」彼は髪をとって引きずられながら、一度は床に額さえ打ちつけて、こんなに叫ぶのであった。
床の上に寝ていた女の子は、目をさまして泣き出した。片隅にいた男の子は、たまらなくなったように震え出し、わっとばかりに声を上げると、ほとんど発作ともいうべき極度の恐怖に襲われ、思わず姉にしがみついた。上の娘はなかば夢ごこちで、木の葉のように震えた。
「飲んじまった! すっかり飲んじまった!」と不幸な女は絶望したようにわめいた。「それに、服も変わっている! みながかつえてるのに、みながかつえてるのに!(こう言って、彼女は両手をもみしだきながら、子供たちを指さした)ああ、なんていう浅ましい暮らしだ! それにお前さんも、お前さんも恥ずかしくないのかえ!」とふいに彼女はラスコーリニコフに食ってかかった。「酒場から来たんだろう! お前さんもあの人と飲んだろう? 一緒に飲んだんだ! 出て行っとくれ!」
青年は一言も口をきかず、急いでそこを立ち去った。その上、奥の間へ通ずる戸口がいっぱいにあけ放されて、物見だかい人たちの顔がいくつかのぞいていた。巻煙草だのパイプだのをくわえたのや、
『なんでおれは馬鹿な真似をしたもんだ』と彼は考えた。『彼らにはソーニャというものがいる。ところが、おれ自身困っているのじゃないか』けれど、今さら取り返すわけにも行かないし、またそんなことはともかくとして、けっきょくとり返しなどしやしないのだ――こう思って、彼はどうだっていいというように手を一振りし、自分の住まいへ足を向けた。『ソーニャだってポマードがいるっていうんだからな』彼は通りを歩きながら、毒々しい微笑を浮かべて考え続けた。『このさっぱりというやつには金がいるんだとさ……ふむ……しかし、ソーネチカだって、今日が日にも破産するかもしれやしない。何分あいつはいい毛皮の猛獣狩……金鉱捜しなどと同じ冒険なんだからな……すると、あの一家はみんなおれの金がなかったら、明日にもあがきがつかなくなるわけだ……ああえらいぞ、ソーニャ! だがなんといういい井戸を掘りあてたものだ! しかも、ぬくぬくとそれを利用している! 平気で利用してるんだからな! そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。人間て卑劣なもので、なんにでも慣れてしまうものだ』
彼は考えこんだ。
「だが待てよ、もしおれが間違っているとしたら」と彼はわれともなくふいにこう叫んだ。「もし本当に人間が、人間が全体に、つまり一般人類が卑劣漢でないとしたら、ほかのことはすべて偏見だ、つけ焼き刃の恐怖だ。そして、もういかなる障害もない。それは当然そうあるべきはずだ!……」
彼は翌日、不安な眠りの後に、遅くなってから目をさました。しかし、眠りも彼に力をつけなかった。彼はむしゃくしゃといら立たしい意地わるな気持で目をさますと、さも憎々しそうに自分の小部屋を見回した。それは奥ゆき六歩ばかりのちっぽけな
これ以上に身を落として引き垂れるのはいささか難儀なくらいだった。けれど、ラスコーリニコフにとっては――彼の今の心持からいえば、それがかえって痛快に思われた。彼は亀が甲羅へ引っ込むように、徹頭徹尾すべての人から身を隠していたので、彼の用を足すのが務めになっていて、時々彼の部屋をのぞく女中の顔すら、彼には
「起きなさいよ、いつまで寝坊してるのさ!」と彼女は下宿人の頭のま上でどなりつけた。「もう九時すぎよ。お茶を持って来てあげたよ。お茶いらないの! さぞお腹が細ったろうに?」
下宿人は目をあけて身震いすると、ナスターシャに気がついた。
「お茶はかみさんがよこしたのかい、え?」と彼は病的な表情で長椅子の上に起き直りながら、のろのろと尋ねた。
「なんのおかみさんが!」
彼女は下宿人の前に、出がらしの茶を入れたひびのいった自前の
「ねえ、ナスターシャ、ご苦労だがこれを持って」と彼はポケットを探って(彼は服を着たまま眠ったので)、銅貨を一つかみ取り出しながら言った。「一走り行ってパンを買ってきてくれ。それから腸詰屋でソーセージを少し、安いところをな」
「パンはすぐ持って来てあげるけれど、腸詰の代わりにキャベツ汁はどう? いいおつゆだよ、昨日の残り。わたし昨日からとっといてあげたんだけど、あんたの帰りが遅いもんだから。そりゃあいいおつゆだよ」
キャベツ汁が来て、彼がそれに手をつけると、ナスターシャは傍の長椅子に腰をおろして、おしゃべりを始めた。田舎出の女で、いたって口まめなたちだった。
「かみさんがあんたの事を警察に願うちってたよ」と彼女は言った。
彼はきっと
「警察へ? なんのために!」
「お金も払わないし、越しても行かないからさ。なんのためって、わかり切ってるでないか」
「ちょっ、まだこの上に」と彼は歯がみをしながらつぶやいた。「いや、これは今おれにとって……少々都合がわるいて……ばかだな、あいつは!」と彼は大きな声で言いたした。「今日かみさんの所へ行って、談じなくちゃ」
「かみさんも馬鹿は馬鹿だよ。わたしとおんなじに馬鹿だけれど、いったいあんたはどうしたのさ、それでもりこう者のすることなの? 毎日、袋みたいにごーろごろして、仕事してるとこなんて、見たくも見られやしない。
「おれはしているよ!……」ラスコーリニコフはいやいやそうにきびしい調子で答えた。
「なら何してるんだね?」
「仕事をさ……」
「どんな仕事を?」
「考えてるのよ!」やや無言の後、彼はまじめに答えた。
ナスターシャはいきなり笑いこけてしまった。笑い
「考えてどっさりお金でもこさえたの?」と彼女はやっとこれだけ言った。
「靴なしじゃ子供を教えにも行かれない。それに、あんな仕事なんかぺっぺっだ」
「あんたわが身を養う井戸に
「子供を教えたって、どうせお礼は目くされ金さ。そんなはした銭で何ができる?」まるで自分自身の想念に答えるように、彼はいやいやことばをつづけた。
「じゃ、あんたは一度にひと
彼は妙な目つきで彼女を見やった。
「そうだ、一度にひと身上いるんだ」しばらく無言ののち、彼はしっかりした調子で答えた。
「あれ、もっと静かに言いなさいよ。びっくりするでないかね。とっても恐ろしい目をしてさ。いったい、パンはとってくるのかね。それとももういいの?」
「どうでも」
「あっ、忘れてたっけ! 昨日あんたんとこへ留守の間に手紙が来たよ」
「手紙! おれに! どこから?」
「どこからだか知らない。わたし郵便配達に三カペイカ自腹切っておいたよ。返してくれるかね、え?」
「じゃ持ってきてくれよ。お願いだから。持ってきてくれ!」急にそわそわしながら、ラスコーリニコフは叫んだ。「ああ、それは!」
しばらくして手紙が来た。はたせるかな、R――県の母から来たものであった。彼はそれを受け取りながら、さっと顔いろを変えたほどである。彼はもう久しく手紙というものを受け取らなかった。しかし、今はそれ以外に何かある別なものが、急に彼の心臓を締めつけたのである。
「ナスターシャ、行ってくれ、お願いだから、さあ、これがお前の三カペイカだ。早く行ってくれよ!」
手紙は彼の手の中で震えていた。彼は女中の前で封を切りたくなかった――この手紙をもって、早く一人になりたかったのである。ナスターシャが出て行くと、彼は素早く手紙を唇に押しあてて
「なつかしいわたしのロージャ(ロジオンの愛称)」と母は書いていた。「お前と手紙でお話をしなくなってから、もうかれこれ二月の余になります。それを思うと、わたしも心が苦しくて、時には気がかりのあまり夜もおちおち眠れないほどです。けれども、この心にもないわたしのごぶさたを、お前はきっと責めはなさらぬことと思います。わたしがどのようにお前を愛しているかは、お前もご承知のはずです。お前は
ピョートル・ペトローヴィッチがペテルブルグへ立つ準備をしている事は、もう先ほど書きましたが、その人はそちらにいろいろ大切な用向きがあって、ペテルブルグに弁護士の事務所を開こうという考えなのです。もう長らくいろんな訴訟事件を扱っていられ、三、四日前もある大きな訴訟に勝ったばかりです。ペテルブルグへぜひ出かけなければならぬというのも、大審院に大切な用があるからなのです。ねえ、ロージャ、かようなわけゆえ、その人は何かにつけてお前のためにもなる人らしいのです。わたしとドゥーニャは、もうお前に今日の日からでも今後の方針をしっかりと立てて、自分の運勢がすっかりきまったものと考えてもらいたいと、ずっと前から勝手に決めております。ああ、もし本当にそうなったら! それこそ神様がわたしたちにじきじきに授けてくだされたお慈悲に違いない、それよりほかに考えようがないくらいの仕合せです。ドゥーニャはただそればかりを空想しております。わたしたちはそれについて、もう思い切ってピョートル・ペトローヴィッチに、二言三言話してみました。すると先方は大事を取りながら、もちろん自分にも秘書がなくてはならぬから、給料なども当然他人に払うより、身内に払う方がよいに決まっている。ただ当人にそういう仕事ができさえすれば(まあ、お前にそれができなくってどうしましょう!)とこういうのです。しかし、大学の仕事もあるから、事務所で働く余暇はあるまい、というような懸念も漏らしていました。その時は話もそれ切りになりましたが、ドゥーニャは今その事よりほか何一つ考えておりません。あの子はここ四、五日というもの夢中になって、やがてお前が訴訟事件でピョートル・ペトローヴィッチの片腕、いえ、仲間にさえなって働くというような事を考えて、もはやすっかり細かい計画を立ててしまいました。それにはちょうどお前が法科においでなのだから、なおさら好都合だというのです。なつかしいロージャ、わたしもそれにはしごく同意で、あの子の計画や希望を十分確かと見て、同じように楽しんでいます。今のところ、ピョートル・ペトローヴィッチも
終身かわらぬおん身の母
プリヘーリヤ・ラスコーリニコヴァ」
手紙を読みにかかったそもそもの初めから、読み終わるまでずっと通して、ラスコーリニコフの顔は涙でぐっしょりになっていた。けれどいよいよ読み終わった時、その顔は
母の手紙は彼を苦しめた。しかし、一ばん根本の重大な点に関しては、まだ手紙を読んでるうちから、一瞬の間も疑惑や動揺を感じなかった。事件の最大眼目たる中心点は、彼の頭の中で決定されていた。断然なんの
『だって事情は見え透いてるじゃないか』と彼は薄笑いを漏らし、自分の決心の成功に今から意地悪く勝ち誇りながらつぶやくのであった。『だめですよ、お母さん、だめだよ、ドゥーニャ、お前たちにこのおれがだませるものか!……そのくせ、おれの意見を聞かなかった事や、おれをのけ者にして決めてしまった事を、あやまっているんだからなあ! そりゃそうだろうともさ! あの二人は、今さらこわすわけにいかないと思ってるが、いくかいかないか、見てみようじゃないか! なんと立派な言いわけだろう。「あの人は実務の人ですから――どうして中々実際的な人ですから、駅つぎ馬車の中か、それともまかり間違えば汽車の中ででも、結婚せねばならぬので、それよりほかに仕方がない」だとさ。いや、ドゥーネチカ、何もかも見え透いてるぞ。お前がおれにたくさん話したい事があるというのも、どういう事かおれにはよくわかっている。お前が夜通し部屋を歩き回って、何を一生懸命に考えたか、お母さんの寝室に据えているカザンの聖母の前で、いったい何を祈ったか、おれはちゃんと知ってるぞ。そりゃゴルゴタへ上るのは苦しいさ。ふむ……じゃつまり、きっぱりと決めたわけなんだな……え、アヴドーチャ・ロマーノヴナ(ドゥーニャの本名)、実務の人で、思慮分別のある自分の財産をもっている(もう自分の財産を持っていると、こいつは中々重みがあって、ずっと人聞きがいいて)ふた所に勤めて、新しき世代の確信をもわかつもので(これはお母さんの言い草だ)しかもドゥーニャ自身の観察によれば、善良らしい男の所へ
『……だが、なんだってお母さんは「新しき世代」の事なんか書いてよこしたんだろう? 単に当人の性格描写のためか、あるいはもっとほかに目的があるのか? つまり、ルージン氏をよく思わせるために、おれを
『いや……まあお母さんはそれでもいいさ、かまわないとしよう。もともとそういう人なんだから。だが、ドゥーニャはどうしたもんだ? ドゥーネチカ、可愛いい妹、おれはお前をよく知っているぞ! 一ばん最後にお前と会った時、お前はもう二十だった。そしてもうその時、お前の性格はよくわかった。お母さんは「ドゥーネチカはなんでも忍ぶことができる」と書いている。それはおれも知っていた。二年半も前からちゃんと承知していた。そして、その時から二年半というもの、おれはそのことを考えていた。つまり、「ドゥーネチカはなんでも忍ぶことができる」って事だ。スヴィドリガイロフ氏と、それから生じた多くの結果さえも忍びおおせたのだから、事実なにごとでも忍びうるわけだ。そこで今度はお母さんと一緒に、貧乏人からもらわれて夫に恩を着せられた女房の長所
彼はふいにわれに返って、足を止めた。
『させない? じゃ、そうさせないために、お前はいったいどうするつもりだ? さし止めるのか? どうしてお前にその権利がある? そういう権利を持つために、お前は自分の方で何を彼らに約束することができるのだ? 大学を卒業して地位を得た時に、自分の運命全部を、自分の未来いっさいを、彼らにささげるというのか? いや、それはもう聞きあきた。だって、それはまだ第二段じゃないか。だが今は? いま現に何かしなければならんじゃないか、いったいそれがわかっているのか? それだのにお前は、今何をしていると思う? お前はかえって彼らから
こうして彼は自分をさいなんだ。そして一種の快感を覚えながら、こうした自問自答でおのれを
「でなければ、ぜんぜん人生を拒否するんだ!」突如、彼は狂憤にかられて叫んだ。「あるがままの運命を従順に生涯かわることなく受け入れて、活動し、生き、愛するいっさいの権利を断念し、自己内部のいっさいを圧殺してしまうんだ!」
『わかりますかな、あなた、わかりますかな、もうこの先どこへも行き場のないという意味が?』ふいに昨日のマルメラードフの質問が、彼の心に浮かんだ。『だって人間は誰にもせよ、たといどんな所でも、行くところがなくちゃ駄目でがすからな……』
ふいに彼はぎくりとした。これもやはり昨日と同じである一つの想念が、またしても彼の頭をひらめき過ぎたのである。しかし、彼がぎくりとしたのは、この想念がひらめいたからではない。つまり、彼はこの想念が必ず『ひらめく』に相違ないのを、ちゃんと知っていたからである。予感していたからである。むしろそれを待ち設けていたほどである。それにこの想念は、ぜんぜん昨日のものとはいえなかった。ただその
彼は急いであたりを見回した。彼は何かを求めていた。腰をおろしたくなったので、ベンチをさがしているのだった。おりしもその時、彼はK
彼はベンチを見つけ出そうとしているうちに、前の方二十歩ばかりのところを歩いて行く少女の姿を認めた。しかし初めはその女にも、今まで眼前にちらつくいっさいの事物と同様、彼はなんの注意も払わなかった。今までも彼は家まで歩いて帰りながら、通って来た道筋をてんで覚えないというような事も一度や二度ではなかった。もうそういう風に歩くのがくせになっていたので。けれど、いま歩いて行く女には、ひとめ見た瞬間から、どことなく変なところのあるのが目についた。で、彼の注意はしだいにその方へ吸いつけられていった――最初は気のりせぬ風で、なんとなく
ラスコーリニコフは腰もかけず、立ち去ろうともしないで、思い惑う体で娘の前に立っていた。この並木通はふだんでもおおむねがらんとしていたが、今この日盛りの二時すぎには、ほとんど人影一つ見えなかった。ところが、十五歩ばかり離れた並木通のはずれに、一人の紳士が立ち止まって、いかにも何か
「おい、君、スヴィドリガイロフ! 君はここに何用があるんです?」と彼は
「そりゃいったいなんのこってす?」と紳士は眉をしかめて、高慢ちきな驚きの色を浮かべながら、いかめしい調子で問い返した。
「ここからとっとと行きなさい、とこういうわけなんです!」
「何を生意気な、この野郎!」
そういって、彼はステッキを振り上げた。ラスコーリニコフは、このでっぷりした紳士なら、自分のような男の二人くらい、わけなく始末できるということさえ考えず、拳をふり上げて飛びかかった。が、その瞬間、誰やら後ろから彼をしっかりと抱きしめた――二人の間に巡査が割ってはいったのである。
「二人ともおよしなさい、往来で
「僕はちょうど君に来てもらいたかったのだ」彼は巡査の手をつかみながらどなり返した。「僕はもとの大学生で、ラスコーリニコフというものです……それはあなたにもわかるはずです」と彼は紳士の方へふり向いた。「君、一緒に行こうじゃありませんか、見せるものがある……」
こう言って、巡査の手を引っつかむと、彼はベンチの方へ連れて行った。
「まあ、ごらんなさい、すっかり酔っぱらっています。つい今しがたこの並木通を歩いて来たんです――どうした娘だかわかりませんが、商売人とは思われない。きっとどこかで飲まされた上、だまされた……らしいんです……はじめて……ね、おわかりでしょう。そして、そのまま往来へほうり出されたものなんです。ごらんなさい、この服の破れていることを。ごらんなさい、この服の着ざまを。だって、これは着せられたもので、この娘が自分で着たんじゃありませんよ。慣れない手で、つまり男の手で着せたんですよ。それは見え透いている。ところで、今度はこっちをごらんなさい――僕がいま喧嘩をしようとしたこの
巡査はすぐに万事を飲み込んで、頭をひねった。太った紳士の件は明白だったから、残るのは娘のことばかりである。警官はもっとよく見定めようと、彼女の上へかがみ込んだ。と、その顔には偽りならぬ同情が現われた。
「ああ、実に可哀想だ!」と彼は頭を振りながら言った。
「まだまるでねんねえなんだが、だまされたのだ。それは間違いなしだ。もしもし、娘さん」と巡査は女に声をかけた。「あなたのお住まいはどちらです!」
娘は疲れて鉛色になった目を開き、問いかける人々の顔を鈍い表情でながめると、面倒くさそうに片手を振った。
「ちょっと」とラスコーリニコフは言った。「ほら(と彼はポケットを探って二十カペイカつかみ出した。ちょうど持ち合わせがあったので)。これで
「お嬢さん、お嬢さん!」巡査は金を受け取って、また呼び始めた。「すぐ馬車を雇って、家まで送ってあげましょう。どちらです? え? どこに住まっておいでです!」
「あっちけ!……うるさいね……」と娘はつぶやき、またしても片手を振った。
「いや、はや、どうもよくないなあ! えっ、若いお嬢さんの身そらで、そんなことはずかしいじゃありませんか、なんて恥さらしだ!」と彼は自分でも恥じたり、あわれんだり、憤慨したりしながら、またもや頭を振った。「どうも困ったなあ!」と彼はラスコーリニコフの方をふり向いたが、その拍子にまた彼の風体を足の
「あなたは遠くから二人を見つけられたんですか?」と巡査はラスコーリニコフに尋ねた。
「僕そういってるじゃありませんか、この娘はついその並木通で、僕の前をよろよろしながら歩いてたんです。それがベンチへ着くが早いか、いきなりぶっ倒れてしまったんですよ」
「いやはやどうも、当節の世の中は、なんたる醜態が行なわれるようになったことか! これという変哲もない娘のくせに、もう酔っ払ってるんですからなあ! 誘惑されたんだ、そりゃ一目
彼はまた娘の上へかがみ込んだ。
あるいは彼自身にも、この年ごろの娘があるのかもしれない――『まるでお嬢さんのようにきゃしゃな育ちらしい』、上流の見よう見まねで流行をうのみにすることの好きな娘が……
「何よりも第一に」とラスコーリニコフは一人やきもきした。「どうかしてあの悪党に渡さないことです! そりゃもうわかり切ってる、やつはまたこの娘に
ラスコーリニコフは声高にこういって、まともに男を手でさした。相手はそれを聞くと、また怒りかけたが思い直して、ただ
「あの人に渡さないようにすることはできるです」と下士あがりは考え深そうに答えた。「ただ、どこへ届けたらいいか、それさえ言ってくれるといいんだがなあ、でないと……お嬢さん、もし、お嬢さん!」と彼はまたかがみこんだ。
娘はふいに目をいっぱいに開いて、じっと注意深く見つめていたが、やがて何か合点したらしく、ベンチから立ち上がって、もと来た方へ帰りかけた。
「ちょっ、恥知らずめが、まだうるさくつきまとってる!」と彼女はまた片手を振ってつぶやいた。
そして、すたすたと歩き出したが、前のようにひどくよろよろしていた。洒落者は並木通の反対側を歩きながら、娘から目を放さずあとをつけて行った。
「ご心配にゃ及びません、けっして渡しゃせんです」とひげの巡査は断固たる調子で言って、二人のあとを追いかけた。
「いやはや、なんたる堕落した世の中になったものだ!」と彼は嘆息しながら、また声に出してくり返した。
この瞬間ラスコーリニコフは、何かにちくりと刺されたような気がした。とっさの間に、彼の気持はがらりと引っくり返ったようなあんばいだった。
「おーい、もしもし!」と彼は後ろからひげの巡査に声をかけた。こちらは振り返った。
「よしたまえ! それが君にとってなんだというんです? うっちゃっておきたまえ! 勝手に楽しませとくさ」と彼は洒落者をさして言った。「君になんの関係があるんです?」
巡査はわけがわからず、目をいっぱいに見はりながら彼を見つめた。ラスコーリニコフは笑い出した。
「ちょっ!」巡査は片手をぐんと振ってこういうと、洒落者と娘のあとから駆け出した。多分ラスコーリニコフを気ちがいか、あるいはそれ以下のものと思ったらしい。
「おれの二十カペイカを持って行っちまやがった」一人になった時、ラスコーリニコフは毒々しくつぶやいた。「まあ、あいつからも取るがいいんだ。そして娘をあいつに渡してやるさ、それでけりだ……なんだっておれは
こうした奇怪なことばにもかかわらず、彼は苦しくてたまらなくなった。彼は取り残されたベンチに腰をおろした。頭に浮かぶ考えはとりとめがなく……それに概して、この時は何ごとにもあれ、考えるということが苦しかった。できるなら、すっかり無意識状態になりたかった。すべてを忘れてしまって、それから目をさまし、きれいさっぱり新規まき直しにしたかった……
「可哀想な娘だ!」がらんとしたベンチの片隅をながめながら、彼はつぶやくのであった。「正気に戻る、少々ばかり泣く、やがて母親が知る……初めはちょっぴりぶつだけだが、しまいには
「だが、おれはいったいどこへ行ってるんだ?」とふいに彼は考えた。「おかしいぞ。おれは何か用があって出て来たんだぞ。手紙を読んでしまうと、出かけたんだ……あ、そう、ヴァシーリエフスキイ島のラズーミヒンのところへ出かけたんだっけ。そう、今こそ……思い出した。だが、なんの用であの男んとこへ! どうして今度に限って、ラズーミヒンの所へ行こうという考えが、おれの頭に舞い込んだんだろう? これは不思議だ」
彼はわれながら驚いた。ラズーミヒンはもと大学時代の友だちの一人だった。ここに注意すべきは、ラスコーリニコフが大学にいた時分、友だちというものをほとんど持たなかった事である。彼はすべての人を避けて、誰の所へも行かず、人を迎えるのもおっくうがった。もっともほかの連中も、じきに彼から顔をそむけてしまった。彼は一般の会合にも、仲間同士の会話や楽しみにも、いっさい関係しなかった。彼は骨身を惜しまず必死に勉強した。そのためにみんな彼を尊敬したが、誰一人好く者はなかった。彼は非常に貧乏でありながら、なんとなく
しかし、ラズーミヒンとはどういうわけか、うまが合った。うまが合ったというよりも、ほかの誰より遠慮がなく、打解け合っていた。もっともラズーミヒンとは、それ以外の関係を持つわけにいかなかったのである。それは珍しく快活で、さっぱりした、単純なくらい善良な青年だった。とはいうものの、この単純の下に、深みと尊敬が隠れていた。彼の親友は皆それを了解して、彼を愛していた。彼は実際時々お人よしめく事もあったが、なかなかのりこう者だった。
『そうだ、おれは全くついこの間もラズーミヒンのとこへ、仕事を頼みに行こうとしたっけ。教師の口か、それとも何かほかの事でも見つけてもらおうと思って……』とラスコーリニコフは考えた。
『だが今となって、あの男の力でどうしておれが助けられるというんだ! よし仮りに
彼が今なんのためにラズーミヒンのもとへ出かけたかという疑問は、彼自身の感じたよりも、ずっと激しく彼を困惑させたのである。彼は不安の念を感じながら、この一見きわめて平凡な行為の中に、自分にとって凶兆となるようなある意味を探り出そうとした。
『ふん、いったいおれはラズーミヒン一人だけの力で、万事を回復しようとしたのか、いっさいの解決をラズーミヒンに求めていたのか!』と彼は驚いて自問した。
彼は考え込んで、額をこすった。すると不思議にも、長い沈思の後に、偶然、思いがけなく、ほとんどひとりでに、一つの奇怪千万な想念が頭に浮かんだ。
『ふむ……ラズーミヒンのとこへ……』と彼はふいに、最後の断案といったような調子で、すっかり落ち着き払った調子で言った。『ラズーミヒンのとこへは行こう、それはむろんだ……しかし――今じゃない……やつのところへは……あれを済ました翌日行こう、あれが片付いてしまった時、何もかも新規まき直しになった時……』
と、ふいにはっとわれに返った。
『あれの後で!』ベンチからはね上がりながら、彼は叫んだ。『しかし、本当にあれをやるのだろうか? 実際あれができるのだろうか?』
彼はベンチを捨てて歩き出した。ほとんど駆け出した。彼はもと来た方へ引っ返そうとしたが、家へ帰るのが急にたまらなくいやになって来た――あの片隅で、あの恐ろしい押入れみたいな小部屋の中で、もう一か月以上もあれが成熟していったのだ。彼は足の向くままに歩き出した。
彼の神経性のおののきは熱病的な
夢というものは、病的な状態にある時には、並みはずれて浮き上がるような印象と、くっきりしたあざやかさと、なみなみならぬ現実との類似を特色とする、そういう事がたびたびあるものである。時とすると、奇怪な場面が描き出されるが、この場合、夢の状況や過程全体が、場面の内容を充実さす意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外的な
ラスコーリニコフの見たのは恐ろしい夢だった。まだ田舎の小さな町にいたころの幼年時代を夢に見たのである。彼は七つばかりで、祭の日の夕方、父とふたり郊外を散歩していた。灰色の時刻でむし暑い日、場所は彼の記憶に残っているのと全然同じものだった。いや、むしろその記憶の方が、いま夢に現われたより、
「そんねえなやせ馬で、引いて行けると思うけえ!」
「おい、ミコールカ、わりゃぜんたい正気けえ? そんねえなやせ馬に、こうしたでっけえ車をつけてよ!」
「おい、皆の衆、この葦毛のやつあ、もうきっと
「さあ、乗れえ、みんな連れてってやらあ!」とミコールカはまっさきに馬車へ飛び乗りながら、またもやこう叫ぶと、手綱を取って、背いっぱいに御者台の上へすっくと立った。「栗毛のやつあ、さっきマトヴェイと出かけた」と彼は馬車の中から言った。「ところがこの
彼は葦毛を引っぱたくのを楽しむように、鞭を手に取った。
「乗ったらええでねえか、どうしただ!」と群衆の中で大勢の高笑いが起こった。「聞いたかい、飛ばして見せるだとよ!」
「あの馬はもう十年このかた、飛んだこたあねえだ」
「飛ばして見せるだあ!」
「構うこたあねえ、皆の衆、みんな鞭を持って、したくしなせえ!」
「そこだそこだ! 引っぱたいてやれ!」
みんな大声に笑ったり、
「そうれ」という声が聞こえるとやせ馬は力限りぐんぐん引き出したが、飛ぶどころの段でなく、並み足で進むのさえおぼつかなく、ただ足を細かく交互に動かすばかりで、豆粒のように背中へ浴びせられる三本の鞭に、うめきながら
「皆の衆、おれも乗せてくんろよ」一人の若者が食指動いた風に、群衆の中からそう叫んだ。
「乗るがええ! みんな乗るがええ!」とミコールカはわめく。「みんな連れてってやらあ。うんと引っぱたいてやるべえ!」
こういいながら、ぴしぴしと打ち続けるうちに、しまいには夢中になって前後を忘れ、この上なんで打ってやったらいいか、わからないような風だった。
「お父さん、お父さん!」とラスコーリニコフは父を呼んだ。
「お父さん、あの人たちは何してんの! お父さん、可哀想な馬をぶってるよ!」
「行こう、行こう!」と父は言った。「酔っぱらい共が悪ふざけしてるんだよ。馬鹿なやつらだ。さあ行こうよ、見るのをおよし!」と父は言いながら、彼を連れて行こうとした。けれども、彼は父の手を振り払い、われを忘れて馬の方へ走り寄った。しかし、哀れな馬はもうすっかり弱り果てていた。
馬はあえいで立ち止まり、また一しゃくりしたと思うと、あやうく倒れそうになった。
「死ぬまでうちのめせ!」とミコールカはいきり立った。「もうこうなりゃ仕方がねえ。思いきりたたきのめしてやるべえ!」
「いったいわりゃ十字架もってねえだか、この悪党め!」と群衆の中から一人の老人が叫んだ。
「こんねえな馬に、こんねえした重い荷ひかせるなんて、見たことも聞いたこともねえだよ」ともう一人が言い足した。
「いじめ殺しちまうだ!」とさらに一人がどなる。
「ぐずぐず言うでねえ! おらのもんだから、おらの好きなようにするだあ! もっと乗らねえか! みんな乗らっせえ! おらアどうしても飛ばさねえば承知なんねえ!」
ふいにどっとくずれるような笑声が起こって、すべてをおおいつくした――牝馬は激しい続け打ちに得堪えず、力なげに後ろ足で
群衆の中からまた二人の若者が、両脇から馬を引っぱたこうと、めいめい鞭を手にして駆け寄った。二人はそれぞれ左右から走って行った。
「鼻っ面をひっぱたけ、目の上を、目んとこをくらわすだ!」とミコールカは叫んだ。
「歌をやれや、皆の衆!」と誰かが馬車の上から叫んだ。すると車の中の連中が、声をそろえてうたい出した。猥雑な歌が響き渡って、
……ラスコーリニコフは、馬の傍へ走って行った。彼は前の方へ駆け抜けて、馬が目を、目の真上を打たれるのを見た! 彼は泣いた。心臓の鼓動は高まり、涙が流れた。一人の振った鞭が彼の顔をかすめたが、それでも彼は感じない。彼は手をもみしだいて叫びながら、頭を振り振りこのできごとに対する非難の意を表しているひげの白い白髪の老人にすがりついた。一人の女房が彼の手をつかんで、連れて行こうとした。けれども彼はそれを振り放して、再び馬の方へ走り寄った。馬はもう息もたえだえになっていたが、それでももう一度足で蹴り始めた。
「ええ、こん畜生、こうしてくれる!」とミコールカは猛然としてどなった。彼は鞭を投げ捨てて腰をかがめると、馬車の底から大きな太い
「やっつけちまうぞ!」という叫び声がまわりに起こった。
「殺してしまうだ!」
「おらのもんだあ!」とミコールカは叫んで力まかせに轅を打ちおろした。重々しい打撃の音が響いた。
「ひっぱたけ、ひっぱたけ! 何ぼんやりしてるだ!」と群衆の中からこういう声々が響いた。
ミコールカは二度目に轅を振り上げた。と、第二の打撃が、不運なやせ馬の背にあたった。馬はぺったり尻を落としたが、またはね上がり、車を引き出そうと最後の力をふるいながら、ぐんぐんしゃくるように四方へはねた。しかし、どちらへ向いても、六本の鞭が待ち構えている。それに轅がまた振り上げられて、三度目の打撃がおりてくる。やがて四度目五度目と規則ただしく、力まかせにくり返される。
「中々粘り強えぞ!」とまわりでわめき立てた。
「なに、もうすぐぶっ倒れちまうに
「いっそ
「ええっ、うるせえ! どけろ!」とミコールカは狂暴な調子でわめいて轅を捨て、またもや馬車の中へかがみ込むと、今度は
「息の根を止めろ!」とミコールカは叫びながら、無我夢中で馬車から飛び下りた。同じように酔っぱらって、まっかになった幾人かの若い者も、鞭、棒、轅と、手当たりしだいのものをつかんで、息も絶え絶えの牝馬のそばへ駆け寄った。ミコールカは脇の方に位置を定め、鉄槓で馬の背中をめった打ちに打ち始めた。やせ馬は
「とうとうやっつけやがった!」という叫びが群衆の中で聞こえた。
「だって駆け出さなかっただもん!」
「おらのもんだあ!」とミコールカは手に鉄槓を持ったまま、血走った目つきでどなった。そして、もう何も打つもののないのが残り惜しそうに、突っ立っていた。
「本当にわりゃ十字架もってねえだな!」と、もうだいぶ大勢の声々が群衆の中から叫んだ。けれど哀れな少年は、すでにわれを忘れてしまった。彼は叫び声を上げながら、群衆をかきわけて葦毛のそばへより、息の通わぬ血まみれの鼻面をかかえながら、その目や唇に
「行こう、行こう!」と父は言った。「お
「お父さん! なんだってあいつら……可哀想な馬を……殺しちゃったの!」と彼はしゃくり上げたが、息がつまって、ことばは
「酔っぱらいが……わるふざけをしてるんだよ……坊やの知った事じゃない。行こう、行こう!」と父は言う。彼は両手で父に抱きついたが、胸が苦しくて苦しくてたまらない。息をついて、叫ぼうとすると――目が覚めた。
彼は全身汗ぐっしょりになって、目をさました。髪は汗でじっとり
「いいあんばいに、夢だった!」と彼は木の下に起き直り、深く息をつぎながらひとりごちた。「だが、これはいったいどうしたんだろう! もしや熱病でも始まってるんじゃないかな――こんないやな夢を見るなんて!」
彼は全身うち砕かれたような気がした。心の中は
「ああ」と彼は叫んだ。「いったい、いったいおれはほんとうに斧をふるって、人の脳天をたたき割るつもりなんだろうか。あれの
彼はそうつぶやきながら、木の葉のように身を震わした。
「いったいおれはまあどうしたというんだろう!」と彼はまた身を起こしながら、深い
「いや、おれには持ち切れない、とても持ち切れない! たとい、よしたといこの計算になんの疑惑がないとしても――この一か月に決めたいっさいの事が、日のように
彼は立ち上がって、きょろきょろとあたりを見回した。それはこんな所へ来たことを、驚いたような風でもあった。やがて彼はT橋の方へ歩き出した。その顔は青ざめ、両眼は燃え、四肢はぐったりしていた。けれど、急に呼吸が楽になったような気がした。これまであの長い間、自分を圧していた恐ろしい重荷を、もうさっぱり捨ててしまったように感じて、心は急に軽々と穏やかになった。『神さま!』と彼は祈った。『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。わたくしはこの呪わしい……妄想を振り捨ててしまいます!』
橋を渡りながら、彼は静かに落ち着いた気持でネヴァ河をながめ、あざやかな赤い太陽の沈みゆく様をながめた。体が衰弱しているにもかかわらず、なんの疲労も感じなかった。それは心臓の中で一か月も
後になって、彼がこの時のこと――この二、三日の間に彼の身辺に起こったいっさいのことを、一刻一刻、一点一点、一画一画と、細大もらさず想起した時、ある一つの事情が、ほとんど迷信に近いくらい、彼の心を
ほかでもない――彼はへとへとに疲れ切っていたので、もっとも近いまっすぐな道筋をとって帰るのが、一ばん得策だったにもかかわらず、なんのために、遠回りの
彼が
「ねえ、あんた、リザヴェータ・イヴァーノヴナ、ご自分の考えで決めた方がよろしゅうございますよ」と町人は大声で言った。「明日七時にいらっしゃいよ、あの衆もやって来るから」
「明日?」リザヴェータはまだ腹がきまらない様子で、ことば
「まあ、あんたはアリョーナ・イヴァーノヴナに、すっかり脅しつけられてしまったもんですねえ!」と元気な町人の女房が早口にしゃべり出した。「あんたをつくづく見ていると、まるでちっちゃな赤ちゃんみたいですよ。あの人はあんたにとって親身じゃなくて、義理の姉さんというだけじゃありませんか? それだのにまあ、すっかりあんたを自由にしてしまってさ」
「ねえ、あんた、今度の事はアリョーナ・イヴァーノヴナに、いっさい言わない方がよろしゅうがすよ」と亭主がさえぎった。
「わっしがおすすめしますがね、家へは断わらないでおいでなさい。何しろうまい口なんだからね。姉さんだってあとになりゃわかってくれまさあ」
「じゃ行くとしようかね?」
「七時ですぜ、明日ね、あっちからもやって来ますよ。一つ自分で腹をおきめなさい」
「サモワールでも出しましょうよ」と女房は口を添えた。
「ええ、じゃ行きますわ」やはりまだ考え込みながら、リザヴェータはこう答えた。
そして、のろのろとその場を動き出した。
そのとき、ラスコーリニコフはもう店を通り越していたので、その先はよく聞こえなかった。彼は一語も聞き漏らすまいと努めながら、そっと目だたぬように通り過ぎた。彼の最初の驚愕はしだいしだいに、恐怖の念と変わっていった。彼はさながら背筋に冷水を浴びせられたような気がした。彼は偶然、全く思いがけなく知った――明日の晩きっかり七時に、老婆の唯一の
彼の下宿まではわずかに数歩を余すのみだった。彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋へはいった。何一つ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただ突然、自己の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意志もない、すべてがふいに最後の決定を見たのだ、という事を直感した。
もちろん、かりにもし彼がこの計画をいだいて、幾年も好機を待っていたにもせよ、いまたまたま与えられたような、これ以上に確実な、明瞭疑いなき計画成就の第一歩を期待することは、とうていできなかったに相違ない。いずれにしても、明日これこれの時刻に、陰謀の
その後ラスコーリニコフは何かの拍子で、町人夫婦がリザヴェータを招いた入り訳を知った。それはごくありふれたことで、べつだんなんの変わったこともなかった。よそから来て窮迫したある一家が、道具や、衣類や、その他すべて女持ちの品を売ることになったが、市場へ出すのは損なので、彼らは女の売り子をさがしていた。しかるに、リザヴェータはちょうどそれを仕事にしていた。彼女は手数料を取って、用を足すのであったが、いたって正直で、いつもぎりぎりの値段を言ってしまい、一たん言った値を少しも負けないので、得意をたくさん持っていた。全体に無口で、前にも言ったように、ごくおとなしい
しかし、ラスコーリニコフは近ごろ迷信的になっていた。その
ほとんど彼と並んだ隣りのテーブルには、彼のまるで知らない見覚えもない一人の大学生と、若い将校が陣どっていた。彼らは玉突を終わって、茶を飲みかけたところだった。そのとき大学生が将校に向かって、十四等官未亡人の金貸しアリョーナ・イヴァーノヴナの事を話して、その住所を教えているのが、ふと耳にはいった。もうそれだけでも、ラスコーリニコフにはなんとなく不思議に思われた。今しがたそこから出て来たばかりなのに、ここでもまたその噂をしているではないか。もちろん、偶然である。けれど彼はいま現に、あるきわめて異常な印象から気持をもぎ離すことができないでいるのに、ちょうど誰かが彼の世話を焼いてでもいるようなあんばいだった。大学生は思いがけなく友人に向かって、このアリョーナ・イヴァーノヴナのことで、いろいろ詳細な情報を提供し始めた。
「あれはなかなかいい婆さんだよ」と彼は言った。「あいつんとこへ行けば、いつだって金が
それから大学生は、彼女がどんな意地悪で
「え、これもちょっと類のない話じゃないか!」と大学生は言って、からからと笑った。
それから、彼らはリザヴェータのことを話し出した。彼女のことは大学生も、一種とくべつ満足らしい調子で話しながら、終始あはあは笑っていた。将校の方も非常な興味をもって耳を傾け、そのリザヴェータを洗濯物の繕いによこしてもらいたいと、大学生に頼みこみなどした。ラスコーリニコフは一句も聞き漏らさなかった。そして、一時に何もかも合点した――リザヴェータは老婆にとって義理の(腹違いの)妹で、年はもう三十五だった。彼女は姉のために夜昼なく働いた。家では料理女と洗濯女の代わりをしている上、内職に裁縫もやれば、床洗いにまで雇われて、しかも稼いだものをすっかり姉に渡す。姉の許可なしにはどんな注文でも、けっして引受けるようなことがなかった。老婆はもう遺言状を作っていたが、それで見ると、家財道具や椅子類のほか、一文もリザヴェータには譲らないことになっており、リザヴェータ自身もそれを承知していた。金は全部N県のある僧院へ、死後の永代供養に寄付することに決めてあった。リザヴェータは官吏でなく、町人の娘だった。顔も体も恐ろしくふつりあいな女で、むやみに背が高く、長い曲がったような足に、いつも踏みへらした
「だが、君は不器量だといったじゃないか!」と将校が注意した。
「そう、色がばかに浅黒くって、仮装会の兵隊さ。しかしね、けっして不器量じゃないよ。その女は実に善良な顔と目をしているんだ。すばらしくいいといってもいいくらい。その証拠には大勢の人に好かれるんだからね。静かで、おとなしくて、すなおで人に逆らうってことがない、なんでもはいはいときく
「じゃ、君も御意に召してるんだな?」と将校は笑い出した。
「風がわりの味だね。いや、それより君に一つ話すことがある。僕はあのいまいましい婆あを殺して、有金すっかりふんだくっても、誓って良心に恥ずるところはないね」と大学生は熱くなって言い足した。
将校はまたからからと笑った、ラスコーリニコフはぎくっとした。なんというこれは不思議なことか!
「そこで僕は君に一つまじめな問題を提供したいと思うんだ」と大学生はいよいよ熱くなった。「僕が言ったのはむろん冗談だ。が、いいかい――一方には無知で無意味な、何の価値もない、意地悪で病身な婆あがいる――誰にも用のない、むしろ万人に有害な、自分でもなんのために生きているかわからない、おまけに明日にもひとりで死んで行く婆あがいる。いいかい? わかるかね?」
「うん、わかるよ」熱した友だちをじっと見据えながら、将校は答えた。
「ところで、先を聞いてくれたまえ。するとまた一方には、財力の援助がないばかりに空しく
「むろん、そいつは生きてる価値がないな」と将校は言った。「しかし、そこには自然の法則というものもあるから」
「なんの、君。だって人間は自然を修正し、指向してるじゃないか。それがなかったら、偏見の中に沈没してしまわなきゃならんことになるよ。でなかったら、一人の大人物も出なかったはずだよ。人はよく『義務だ、良心だ』という――僕は何も義務や良心に対して、とやかく言おうと思わない――だが、われわれはそれをいかに解釈していると思う? 待ちたまえ、僕は君にもう一つ問題を提出する。いいかね」
「いや、君こそ待ちたまえ。僕の方から君に問題を出すから。いいかい!」
「よし!」
「君は今とうとうと熱弁をふるったが、しかしどうだね、君は自分で婆あを殺すかどうだ?」
「もちろん、否だ! 僕は正義のためになにするので……あえて僕に関係したことじゃないよ……」
「だが、僕に言わせると、君が自ら決行するのでなけりゃ、正義も何もあったもんじゃない!――さあ行って、もう一勝負やろう!」
ラスコーリニコフは異常な興奮に襲われた。もちろんこれらはすべて、形式や題目こそ違っているけれど、彼も再三聞いたことのある、きわめてありふれた、平凡な、青年者流の議論であり、意見であった。けれど彼自身の頭にも……正に同じような思想が生まれたばかりの今この時、なぜ特にこんな話、こんな意見を聞く巡り合わせになったのだろう? また彼がたったいま老婆のところから、自分の思想の
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彼は常になく長い間、夢も見ないで熟睡した。翌朝十時に、彼の部屋へはいってきたナスターシャは、やっとの事で彼をゆすぶり起こした。彼女は茶とパンとを持ってきたが、茶はまたもや出がらしで、やはり彼女の自前の
「よくまあ寝ること!」と彼女は憤慨に堪えぬというように怒鳴った。「いつもいつも寝てばかりいてさあ!」
彼はやっとのことで身を起こした。頭がずきずきと痛んだ。立ち上がって、小部屋の中でぐるりと一つ向きを変えると、また長椅子の上へ倒れてしまった。
「また寝るの!」とナスターシャは叫んだ。「いったいあんた病気なのかい、え?」
彼はなんとも答えなかった。
「お茶はいらんかね?」
「あとで」彼はまた目を閉じて、壁の方へ向きながら、やっとの思いでこう言った。
ナスターシャはしばらく彼のそばに突っ立っていた。
「ほんとうに病気かもしれないよ」彼女はこう言うと、くるりと向きを変え、出てしまった。
彼女はまた二時に、スープを持ってはいってきた。彼は前と同じように寝ていた。茶は手つかずだった。ナスターシャはとうとうむっとして、意地ずくでゆすぶり始めた。
「なんだってぐうたら寝てるの!」忌まわしそうに彼をにらみながら彼女はどなった。
彼は身を起こしてすわったが、一言も口をきかず、床を見つめていた。
「あんばいが悪いの、どうなの?」とナスターシャはきいたが、またなんの返事もなかった。「ちっと外へ出てみたらどう」と、しばらく黙っていたあとで、彼女は言った。「少し風にでも吹かれてくるといいに。何か食べる、え?」
「あとで」と弱々しい声で彼は言った。「もう行ってくれ!」と手を振った。
彼女はなおしばらく立ったまま、気の毒そうに彼を見つめていたが、とうとう出て行った。
幾分かたったとき、彼は目を上げて、長いこと茶とスープとを見つめていた。やがてパンを取り、
彼は食欲なしにほんの少しばかり、三さじか四さじ、機械的に食べた。頭痛は少し薄らいだ。食事を終えると、また長椅子の上に長くなったが、もう眠ることはできず、うつぶした顔を枕に突っ込んだまま、身動きもしないで横になっていた。彼の目には絶えず幻が見えた。それが皆じつに奇妙な夢だった。一番よく見たのは、どこかしらアフリカかエジプトの、オアシスめいた所にいる夢だった。隊商が休息して、ラクダがおとなしく寝そべっている。あたりには
それを終わってから、彼は指を例の『トルコ式』長椅子と、床板との間の小さな隙間へ突っ込んで、ちょっと左の隅の辺を探っていたが、やがてずっと前から用意して隠しておいた質草を引出した。もっとも、それはけっして質草でもなんでもなく、ただ銀の巻煙草入かとも思われるほどの大きさと厚味を計って、滑らかに削られた板切れにすぎなかった。この板切れを彼はたまたま近所の横町のとある裏庭、何かちょっとした工場になっている離れの中で見つけたのである。その後、やはりこれもそのとき往来で見つけた、すべすべした薄い鉄板を――たぶん何かの切れっ端だろう――その板に重ねた。鉄板の方が木のより小さかったが、彼はその二つを一緒にして、糸でしっかり十文字にしばった。それから念入りにきれいな白い紙で体裁よく包んで、解くのが少々やっかいなように
「六時はとうに回ったぜ!」
「とうに! さあ大変だ!」
彼は戸口へ駆け寄って、聞き耳を立てると、帽子をひっつかんで、猫みたいに用心深く足音を忍び、いつもの十三段の階段をおり始めた。一ばんかんじんな仕事――台所から斧を盗み出すということが、まだ目前に控えていた。仕事は斧でなければ駄目だとは、ずっと前から決定されていたのである。彼は折り込み式になっている庭師用のナイフを持っていたが、小さなナイフや――ことに自分の力には、望みをつなぐことができなかった。で結局、斧ということにきっぱり決めてしまったのである。なおついでに、この事件で彼がとったすべての最後的決心について、ある特殊な点を指摘しておこう。彼の決心は一つの奇体な特質を持っていた。ほかでもない、計画が断固たる性質を帯びれば帯びるほど、彼の目にはますます醜悪な、ますます愚劣なものに映じるのであった。そして、限りなく悩ましい心内の闘争にもかかわらず、彼はこの間じゅうかつてただの一瞬間も、自分の計画が実現しうるものとは、信ずることができなかった。
だから、たとえいつか何かの偶然で、すべてが最後の一点まで解剖され、最後的に決定されて、もはやなんの疑惑も残らなくなったにもせよ――その時になっても彼はその全計画を愚劣なこと、醜怪なこと、不可能なこととして、断念してしまったかもしれない。けれど未解決の点と疑惑とは、まだ山ほど残っていた。斧をどこで手に入れるか、というようなことに至っては、てんで問題にもならないような
しかし、それはまだ
初めのうち――といっても、もうかなり前のことだが――一つの疑問が彼の心を領していた。なぜほとんどすべての犯罪はああやすやすとかぎ出されて、真相を暴露してしまうのだろう? なぜほとんどすべての犯罪者の足跡は、ああも
かかる結論に達した彼は、次のように断定した――自分一個の仕事には、こうした病的な変化は断じて起こり得ない。理性と意志は計画遂行の間じゅう、厳然と保持されるに相違ない。それはただただ、自分の企てた事が『犯罪ではない』という理由によるものである……しかし、彼が最後の決心に到達した全道程は省略することとしよう。それでなくても、ちと先回りをし過ぎたのだから……ただ一つ付記しておくが、この仕事に付随する実際的な、純物質的な困難は、彼の頭脳の中でおおむね第二義的な役割しか勤めていなかった。『なに、これしきの困難などは、自分の意志と理性を完全に保持してさえいれば、仕事のあらゆるデテールを微に入り細を
ある一つのとるに足らぬ事情が、まだ階段をおり切らぬうちに、彼をはたと当惑させた。いつもの通りあけっ放しになっているおかみの台所口まで来ると、彼はそっと横目を投げて、ナスターシャはいなくとも、かみさん自身がそこにいはしまいか、たといいないにもせよ、
『いったい何からおれは割り出したんだろう?』と門の下へとおりて行きながら彼は考えた。『あの女が今きっといないなんて、何から割り出したんだろう? なぜ、なぜ、なぜおれはそうと決めてたんだろう?』彼は粉みじんにたたきつぶされ、踏みにじられたような気がした。彼は腹立ちまぎれに、自分で自分を冷笑したかった……鈍い野獣めいた
彼は思案に暮れながら、門の下に立ち止まった。ちょっと見せかけのために、町へ散歩に出るのも
彼はいっさい嫌疑を招かないよう、ゆっくりもったいらしく急がずに歩いて行った。彼はあまり通行人を見なかった。というより、できるだけ目立たないように、人の顔をいっさい見ないように苦心した。と、急に帽子のことが思い出された。『やっ、しまった! 一昨日なら金があったのに、学生帽を買うことに気がつかなかったとは!』のろいのことばが思わず胸をついて出た。
ふと小店の中を横目にのぞいてみると、そこの柱時計はもう七時十分過ぎになっている。急がねばならない。しかも同時に回り道をして、反対側から当の家へ近づかなければならない……
以前この計画がおりふし頭に浮かんだ時には、いざとなれば非常に
『きっと刑場に引かれて行くものもこんな風に、途中で出会うもののすべてに考えを吸いつけられるに相違ない』こういう想念が彼の頭にひらめいたが、それは稲妻のように、ただひらめいたばかりだった。彼は自分で急いでこの想念を打ち消した……しかし、もうそろそろ間近になった。もうあの家だ、もう門だ。どこかで時計が一つ打った。『なんだあれは、もう七時半だって! そんなはずはない、きっとあれは進んでるんだ!』
彼にとって幸いにも、門はまた無事に済んだ。のみならず、まるであつらえたように、この瞬間大きな乾草車が、彼より先に門へ乗り込んで、彼が門下を通り抜ける間、すっかり彼を隠してくれた。で、荷車が門から庭へはいるが早いか、彼はつるりと右の方へすべり込んだ。車の向こう側では、いくたりかの声がどなったり、言い争ったりしているのが聞こえたが、誰も彼に気づいたものはなかったし、出会うものもなかった。この大きな四角形の内庭に面したたくさんの窓は、おりからあけ放しになっていたが、彼は首を上げても見なかった――その気力がなかったのである。老婆の住いへ行く階段は、門からすぐ右手にあった。彼はもう階段の口へかかっている……
息をついで、どきどきする心臓を手で抑えると同時に、ちょっと斧にさわってみて、もう一度位置を直すと、それから用心深く、絶えず耳をそばだてながら、彼はそっと階段をのぼって行った。けれどこの時は、階段もがらんとしていて、戸という戸はみんなしまっていた。誰一人出くわすものはなかった。もっとも、二階目に一つ空いたアパートがあって、すっかりあけっぴろげにされ、中でペンキ屋が働いていたが、その連中も彼の方をふり向きもしなかった。彼はちょっと立ち止まって考えてから、また先へ進んだ。『そりゃむろん、ここにあいつらがまるでいなかったら、一層うまかったんだが、しかし……まだ上に二階あるからな』
やがてもう四階である。早くも戸口まで来た。もう向かい合わせのアパートだ。それは空き家になっている。三階でも老婆の住まいの真下に当たるアパートは、すべての兆候から推してやはり空き家らしかった――戸口へ
しかし、動悸は中々やまなかった。それどころか、まるでわざとのように、さらに激しく、もっと激しく、いよいよ激しく打った……彼は我慢し切れなくなり、そろそろと呼鈴へ手を伸ばして、がらがらと鳴らした。三十秒ばかりたってまた鳴らした。今度は少し強く。
返事はなかった。むやみに鳴らしても仕方がないし、彼には似合わしくないことだ。老婆はむろんうちにいたのだが、彼女は疑り深い上に、今は一人きりだ。彼も多少は彼女の習慣を知っていた……で、もう一度ぴったり耳をドアに押しあてた。彼の感覚が鋭くとぎすまされていたのか(そういうことは概して想像が困難だけれど)、あるいは実際によく聞こえたのか、とにかく彼は錠前のハンドルに用心深く触れる手のかさかさいう音と、ドアに当たるきぬずれの響きらしいものを聞き分けた。何者か錠前のすぐ傍に立って、彼がこちらでしているように、中からも同様、いきを潜めながら、様子をうかがっていたに相違ない。そして、やはりドアに耳を当てているらしい……
彼はわざと身じろぎして、隠れているなどとは
ドアはいつかのように、ほんの糸すじほど開かれて、またしても鋭いうさん臭そうな二つの目が闇の中からじっと彼にそそがれた。その時ラスコーリニコフはまごついて、危く重大なあやまちをしでかそうとした。
ラスコーリニコフは、自分たち二人きりなのに老婆がぎょっとするだろうと危ぶみもしたし、また自分の見かけが彼女を安心させるという自信も持てなかったので、老婆が二度としめ切る気にならないように、ドアに手をかけてぐいと手前へ引いた。老婆はそれを見て、ドアを引戻そうとはしなかったが、錠前のハンドルを放さなかったので、彼はほとんどドアと一緒に老婆まで、階段口へ引出しそうになった。それでも老婆が戸口に立ちはだかって、彼を通すまいとするのを見て、彼は老婆へのしかかるように、ぐんぐん進んで行った。彼女はおびえて飛びのきながら、何か言いたそうにしたが、どうしてか声が出ず、目をいっぱいに開いて彼を見つめた。
「今晩は、アリョーナ・イヴァーノヴナ」と彼はできるだけ砕けた調子で口を切ったが、声はいうことをきかないで、とぎれたり、震えたりした。「僕はお宅へ……品物を持ってきたんですが……どうです、あっちへ行きませんか……明るい方へ……」
こう言って、老婆をおき去りにしながら、案内も待たずに、つかつかと部屋の中へ通った。老婆はそのあとから駆け出した。彼女の舌はやっとほぐれた。
「まあ! いったいあなた何ご用?……ぜんたいどなたですか? ご用はどういうことなんで?」
「冗談じゃありませんよ、アリョーナ・イヴァーノヴナ……もうご存じの人間ですよ……ラスコーリニコフ……ほら、いつかお約束した質を持ってきたんですよ……」と、彼は老婆の前へ質草を差し出した。
老婆はちらと質草を見やったが、すぐまたこの招かれざる客の
「なんだってそんなに見るんです、まるで僕に見覚えないように?」と彼も同じく毒々しい調子で、急にこう言い出した。
「よかったらとってください。もしいけなけりゃ――ほかへ持って行きます、急ぐんだから」
こんなことを言おうなどとは、考えてもいなかったのに、ふいとひとりでに口から出てきたのである。
老婆はわれに返った。客のはっきりした調子が、どうやら彼女を安心させたらしい。
「なんですよ、お前さん、あんまり不意なもんだから……いったいなんですね?」と質草を見ながら、彼女は尋ねた。
「銀の巻煙草入れですよ。この前話しておいたじゃありませんか」
彼女は手を差し伸べた。
「まあ、お前さんなんだかしらないが、たいそう顔色の悪いこと? そら、手もそんなに震えて、何かおびえでもしなさったの?」
「熱があるんですよ」と彼は引っちぎったように答えた。「いやでも青くなりまさあ……食うものもなしでいりゃあね」彼はやっと一語一語を発音しながら、こう言い足した。気力がまたしても彼を見捨てそうになってきた。けれど、この答はまことしやかに思われた。老婆は質草を取り上げた。
「いったいなんですね?」もう一度じろりとラスコーリニコフを見回して、手で質草の
「ちょっとしたもの……巻煙草入れですよ……銀の……まあ見てください」
「だって、どうやら銀らしくないがね……まあ、恐ろしく縛ったもんだねえ」
「まあ、なんだってこんなにからみつけたもんだろう!」と、老婆はいまいましそうに言い、彼の方へちょっと身を動かした。
もう一瞬も猶予していられなかった。彼は斧をすっかり引出すと、はっきりした意識もなく、両手で振り上げた。そして、ほとんど力を入れず機械的に、老婆の頭上へ斧のみねを打ちおろした。その時力というものがまるで無いようだったが、一たび斧を打ちおろすやいなや、たちまち彼の身内に力が生まれてきた。
老婆はいつものように素頭だった。
彼は斧を死体の傍の
彼はやたらにせかせかして、鍵をつかむといきなり、またもやいじくり回しにかかったが、なぜかどうもうまくいかない――鍵が錠前の穴にはまらなかった。手がそれほどひどく震えるわけでもないのに、のべつ間違えてばかりいた――たとえば、合い鍵でなくて、違っているのを見ながら、やはりそれを押し込んでいるという風である。そのうちにふと気がついて考え合せた――ほかの小さい鍵に交ってぶらぶらしている、ぎざぎざのついた大きな鍵は確かに箪笥のではなく(これは前の時にも彼の頭に浮かんだことなのだ)、きっと長持類の鍵に相違ない。そして、その長持の中にこそ、すべてなんでもはいっているらしく想像される。彼は箪笥を捨てて、すぐ寝台の下へはい込んだ。年寄りというものは、長持類をたいてい寝台の下へ入れて置くのを知っていたからだ。はたせるかな、そこには長さ一アルシン(約七十センチメートル)以上もあって、そり
けれど、彼がごみごみした切れ類をほんのちょっと動かすと、ふいに毛皮の外套の下から、金時計がすべり出た。彼はいきなり中を引っくり返しにかかった。案の定、切れ類の間には
ふいに老婆の倒れている部屋で、人の歩く音が聞こえた。彼は手を止めて、死人のように息をひそめた。しかし、あたりはひっそりとした。してみると、空耳だったのだ。ふいにかすかな叫び声、というよりも、誰かが低く引きちぎったようにうなって、すぐ黙ったらしいのが、まざまざと聞こえた。それからまた、死のような静寂が一、二分続いた。彼はトランクの傍にうずくまり、ほとんど息もしないで待っていたが、急におどり上がって斧をつかむと、寝室から走り出た。
部屋のまんなかには、大きな包みを手にしたリザヴェータが棒立ちになって、全身
恐怖は刻々に強く彼をつかんだ。わけても、この全く思いも設けなかった二回目の凶行の後は、もう堪え難いまでになった。少しも早くここから逃げ出したかった。もし彼がこの瞬間、より正確に見、かつ判断することができたら――目下の状態の困難と、絶望と、醜悪さと、愚劣さを思い合わすことができたら――ここをのがれ出てから家へ着くまでには、まだこの上さまざまな困難に打ち勝ち、場合によっては、悪事さえ遂行せねばならぬということを想像できたら、彼は何もかもうっちゃらかして、すぐさま自首に出かけたに違いない。それも自分を案ずる恐れのためではなく、ただおのれの行為に対する恐怖と嫌悪のためばかりである。わけても嫌悪の念がこみ上げてきて、彼の心中に一刻一刻成長するのであった。今はもはやどんなことがあっても、トランクの傍はおろか、奥の部屋へすら引っ返せそうもなかった。
けれど、一種の放心状態というか、物思いというか、そうしたものが、しだいに彼を領していった。ともすれば彼は我を忘れて、というよりはかんじんなことを忘れて、
彼は棒立ちになって、じっと見つめたが、われとわが目を信ずることができなかった。ドア――入り口の間から階段へ通ずる外側のドア――先ほど彼がベルを鳴らしてはいったそのドアが、開いたままになっていて、手がゆっくりはいるほどの隙間をつくっていた。錠もおろさず、栓もささずに、ずうっと、あの間ずうっと開いていたのだ! 老婆はもしかしたら、用心のために
彼は戸口に駆け寄って、栓をさした。
『いや。そうじゃない、また見当違いをやってる! 逃げなくちゃならんのだ、逃げなくちゃ……』
彼は栓をはずして、ドアをあけ、階段の様子をうかがい始めた。
彼は長い間耳をすましていた。どこか遠くずっと下の方で、たぶん門の下あたりだろう、誰か二人の声が高いきいきいした調子で、わめいたり、言い争ったり、
この足音はよほど遠く、まだ階段のとっつきあたりに聞こえたけれど、彼はすぐにその時どうしたわけか、最初の響きを聞くと同時に、これは確かにここへ――四階の老婆の住まいへ来るに相違ない、という疑いをいだいた。彼はその後もこのことを非常にはっきりと、よく覚えていた。それはなぜだろう? 何かそれほど特殊な、意味ありげな足音ででもあったのか? それは重々しく、規則ただしい、ゆったりとした足音だった。ああ、もう男は一階を通り過ぎた、ああ、また上ってくる。しだいしだいにはっきりしてくる! 上ってくる男の重々しい息ぎれの声が聞こえ出した。やがていよいよ三階へかかった……ここへ来るのだ! すると、彼はにわかに化石でもしたような思いであった。さながら夢で人が自分を殺そうと追っかけてくるのに、こちらは根が生えたようになって、手を動かすこともできない、そういったような感じだ。
いよいよ客がもう四階へ上り始めた時、その時初めて、彼はふいにぶるぶるっと全身を震わし、つるりとすばしっこく控室の部屋へすべりこみ、やっと
客は幾度か大きな息をふっとついた。『きっとふとった大きなやつに相違ない』手に斧を握りしめながら、ラスコーリニコフは考えた。実際、いっさいがまるで夢のようだった。客は呼鈴の
呼鈴のブリキめいた音ががらがらと響くやいなや、彼はふいに、部屋の中で誰かが身じろぎしたような気がした。幾秒かの間、彼は真剣に耳を澄ました。誰とも知れぬ男はもう一度呼鈴を鳴らして、しばらく待ってみたが、急に我慢しきれなくなったらしく、力まかせにドアのハンドルを引っ張り始めた。ラスコーリニコフは
「いったいどうしたってんだ、やつらぐうたら寝てやがるのか、それとも誰かに絞め殺されでもしたのか? こーんちきしょう!」と彼は
それからまたもやかんしゃくまぎれに、たてつづけに十ぺんばかり、力いっぱいに呼鈴をしゃくった。もちろん男は、この家で勢力のあるじっこんな人間に相違ない。
ちょうどこの時、ふいに小刻みなせかせかした足音が、ほど近い階段の上に聞こえた。また誰かがやって来る。ラスコーリニコフは初めのうち、その音に気もつかないでいた。
「いったい誰もいないんですか?」と近寄ってきた男は、やはり呼鈴を鳴らし続けている先客に向かって、いきなり声高に快活な調子で話しかけた。「今日は、コッホ君」
『声でみたところ、きっと若い男に違いない』とふいにラスコーリニコフは考えた。
「いや、何がなんだかわけがわからん。危く錠前をぶち壊さないばかりさ」とコッホは答えた。「ところで、君はどうして僕をご存じです?」
「これはどうも! 一昨日ハムブリヌースで球を突いて、続けざまに三度もあなたを負かしたじゃありませんか!」
「ああ、なある……」
「で、二人とも留守なんですか? 変ですね。だが、実に馬鹿げた話ですね。あの婆さんどこに行く所があるんでしょう! ぼく用があるんだけど」
「いや、僕だって、君、用があるんですよ!」
「だが、どうしたもんでしょう? つまり、引っ返すんですかな? ええっ! 僕は金を手に入れるつもりできたのに!」と若い男は叫んだ。
「むろん引っ返さなくちゃ。だが、なんだって時間まで決めておくんだ! 鬼婆め、自分で時間を決めやがったんですよ。僕にゃ回り道になるんですぜ。いったいあいつどこをほっつき回る所があるんだろう、合点がいかない。鬼婆め、年じゅううちにすわったきり、足が痛むとかってくすぶってやがるくせに、今ごろ急に遊びに出るなんて!」
「庭番にきいたらどうですかね?」
「何を?」
「どこへ行ったか、そしていつ帰ってくるか?」
「ふむ……いまいましい、きいてみるかな……だが、あの婆さんけっして出かけることなんかないんだがなあ……」と彼はもう一度ドアのハンドルを引っ張った。「ちくしょう、仕方がない、行ってみよう!」
「ちょっと待ってください!」と若い方が急に叫んだ。「ごらんなさい。引っ張るとドアが動くじゃありませんか?」
「で?」
「つまり、ドアには鍵がかかっているのじゃなくて、栓が、かけ金が掛かってるだけなんですよ! 聞いてごらんなさい、栓がことこといってるでしょう?」
「で?」
「いったいどうしておわかりにならないんです? つまり、二人のうち誰かが家にいるんですよ。もしみんな出て行ったのなら、外から鍵をかけるべきで、中から栓をさすわけがないじゃありませんか。ところがね――聞いてごらんなさい、栓がことこといってるでしょう? 中から栓をさすにゃ、家にいなくちゃならんはずじゃありませんか、そうでしょう? してみると、家にいるくせにして、あけやがらないんだ!」
「やっ、なるほど! その通りだ!」と驚いてコッホは言った。「じゃ、あいつら
こう言って、彼は猛然とドアを引っ張り始めた。
「お待ちなさい!」とまた若い方が叫んだ。「引っ張るのをおよしなさい! これには何か変な事があるんですよ……だって、あなたが呼鈴を鳴らしたり、引っ張ったりなさるのに、あけようとしないんでしょう。してみると、二人とも気絶でもしてるか、でなければ……」
「なんですって?」
「ね、こうしましょう! 庭番を呼んで来ようじゃありませんか。あいつに二人を起こさせましょう」
「名案だ!」
二人はおりて行きかけた。
「待ってください! あなたはここに残っててくれませんか。僕はひとっ走り庭番を呼んで来ますから」
「なぜ残るんです?」
「だって、何が起こるかしれませんものね……」
「それもそうだな……」
「実はね、ぼく予審判事になる準備中なんですよ! これは確かに、たあしかに何か変なことがあるんです!」と若い方は熱くなって叫びながら、駆足で階段をおりて行った。
コッホはあとに残って、もう一度そっと呼鈴を動かしてみた。すると呼鈴は一つがらんと鳴った。それから、頭をひねったり検査したりするような具合に、そっとドアのハンドルを動かし始めた。ドアが栓だけでしまっているのかどうか、もう一度確かめるためらしく、引いたり放したりするのであった。やがて、ふうふう息をはずませながら、かがみ込んで、
ラスコーリニコフはじっと立ったまま、
「それにしても、あの野郎いまいましいやつだ……」
時は過ぎていった、一分、二分――誰も来なかった。コッホはもぞもぞし始めた。
「ちょっ、ばかばかしい!……」ふいに彼はこう叫ぶと、我慢しきれないで張り番をうっちゃらかし、急がしげに、階段を長靴でことこと鳴らしながら、同じようにおりて行った。やがて足音は聞こえなくなった。
『ああ、どうしたもんだろう!』
ラスコーリニコフは栓を抜いて、ドアを細目にあけた――何も聞こえない。とふいに、もう全くなんにも考えないで外へ出ると、できるだけぴったり戸をしめて、下へおりて行った。
彼がもう階段を三つおりた時、ふいに下の方で騒々しい物音が聞こえた――どこへ身を隠そう! どこにも隠れる場所はない。彼はまた老婆の住まいへ駆け戻ろうとした。
「やい、こんちくしょう、生意気な! 待ちやがれ!」
この叫び声とともに、誰やらどこか下の方の部屋から飛び出して、駆けおりるというよりも、階段をころげるようにおりて行きながら、
「ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ふざけると承知しねえぞ!」
やがて叫びは高い金切り声になってしまい、最後の響きはもう外で聞こえた。あたりはしんと静まりかえった。けれどその瞬間に、いくたりかの人が大声にがやがや話しながら、騒々しく階段を上って来た。三人か四人らしかった。彼は例の若い男のよく響く声を聞き分けた。『あの連中だ!』と彼は思った。
もうすっかりやけになって、彼はまっすぐに彼らの方へ向かって進んだ――どうにでもなるようになれ! 呼び止められたら万事休すだ。うまく通り過ぎたところで、やはり万事休すだ。顔を見覚えられる。すでに彼らはもう両方から近づいていた。彼らの間には、もう階段一つ余すばかりだった――と、思いがけない救いが現われた! 幾段かへだてて右の方に、あけ放しになった空のアパートがあった。例のペンキ屋が仕事をしていた二階の住まいで、今しも
階段には誰もいなかった! 門の下も同様だった。彼はすばやく門の円天井の下を抜けて、往来を左へ曲がった。
彼はよく知りぬいていた。この瞬間、彼らがもう老婆の住まいにはいっていることも、たった今までしまっていたドアが開いているのを見て、びっくり仰天していることも、彼らがもう
彼の頭の中はごっちゃごちゃになっていた。やがて、ついに横町まで来た。彼は半ば死んだ人のように、そこへ曲った。ここまで来れば、もう半分助かったようなものである。彼にもそれがわかっていた。嫌疑も少ないし、それにここは往来が激しかったから、彼は砂粒のように人混みへまぎれ込んでいった。けれど、こうしたさまざまな苦しみが、心身の力を奪いつくしたので、彼はやっとの思いで体を運んでいた。玉の汗がぽたぽた流れて、首筋はぐっしょりぬれていた。『どうだ、あの酔っぱらってるざまは!』彼が掘割へ出たとき、誰かがこうどなりつけた。
彼は今もうはっきりした意識がなかった。先へ進めば進むほど、ますますいけなかった。とはいえ、思いがけなく掘割通へ出た時、彼は人通りの少ないのに
彼はやはり完全な意識を持たないままで、自分の家の門をくぐった。やっと階段口までさしかかったとき、初めて斧のことを思い出した。考えてみると、なかなか大問題が前に控えているのだった。ほかでもない、できるだけ目につかぬように、斧をもとへ戻して置くことである。もちろん、その斧をもとへ戻さないで、いつかあとでもいいから、どこかよその裏庭へでもほうり込む方が、はるかにいいのかもしれないということを、考え合わすだけの力もなかったのである。
しかし、万事は好都合に済んだ。庭番小屋の戸はしまってはいたが、鍵は掛かっていなかった。してみると門番が家にいることは確からしかったが、彼はぜんぜん思考の能力を失っていたので、いきなり庭番小屋へ近づいて、さっと戸をあけた。もし庭番が『なんの用か?』と尋ねたら、彼はいきなり斧を渡したかもしれない。が、庭番はまたぞろいなかった。で、彼はまんまと斧を元どおり、
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こうして、彼はずいぶん長い間横になっていた。時おりふっと目がさめるらしく、もうとっくに深夜が訪れているのに気づくこともあったが、起きようなぞという考えは頭に浮かばなかった。とうとう彼は、もう昼間の明りになっているのに気がついた。先ほどからの忘却状態で、硬直したようになったまま、長椅子の上で仰向けに寝ていた。通りの方から恐ろしい、やけ半分みたいな
最初の瞬間、彼は気が違うのだと思った。恐ろしい
もっとも、彼は品物など最初から考慮に入れてなかった。ただ金だけしか頭になかったので、前もって場所を用意しておかなかったのである。『いったい、いま、いまおれは何をあんなに喜んだのだ?』と彼は考えてみた。『こんな隠し方をするやつがどこにあるものか? 全くおれは理性に見放されてるのだ!』彼はぐったりと長椅子に腰を落とした。と、たちまち堪え難い悪寒がまたしても彼の体をゆすぶり始めた。彼は傍のテーブルの上にあった
五分もたつかたたぬかに、彼はまたもやはね起きた。そして、すぐさま夢中になって、自分の服の方へ飛んで行った。『ああ、またしてもよく寝られたもんだ。まだなにもできちゃいないじゃないか! はたしてそうだ、はたしてそうだ。
するとその時奇怪な想念が、彼の頭に浮かんできた――もしかすると、自分の服はすっかり血まみれなのかもしれない、しみだらけなのかもしれない。ところが、判断力が鈍って、ばらばらになって……知力が曇っているので……自分だけそれが見えもせねば、気もつかずにいるのかもしれない……と、ふいに、財布にも血がついていたことを思い出した。『やっ! してみると、ポケットにも血がついてるに相違ない。あの時まだべたべたの財布をねじこんだから!』彼は即座にポケットを裏返してみた。と――はたせるかな――ポケットの裏にも血痕があった。しみ! 『してみると、まだぜんぜん理性に見放されたわけでもないな。自分で気がついて察したくらいだから、つまり、判断力も記憶も確かにあるんだ!』と彼は勝ち誇ったような思いで、深く胸いっぱいに吐息を漏らしながら、喜ばしげに考えた。『あれはただ熱病性の衰弱だ。ちょっと熱に浮かされただけだ』そこで、彼はズボンの左のポケットから裏をすっかり引きちぎった。その時太陽の光線が左の長靴を照らした。とたん、長靴の中からのぞいていた靴下に、何やら証跡らしいものが見えたような気がした。彼は靴を脱いだ。『はたして証跡だ! 靴下の
彼はそれをすっかり両手へかき集めて、部屋のまんなかに突っ立っていた。『ストーブの中へ隠すかな? しかし、ストーブの中はまっ先に捜すだろう。焼いてしまうか? だが、何で焼くんだ? マッチもないじゃないか。いや、それよりどこかへ行って、みんな捨てちまう方がいい。そうだ! 捨てちまう方がいい!』また長椅子に腰をおろしながら、彼は考えた。『すぐ、今すぐ、猶予なしに!……』けれどそうする代わりに、彼の頭はまたしても、枕の上へ傾いてしまった。またしても堪え難い悪寒が体を氷のようにしてしまった。彼はまた外套を引っかぶった。こうして長いこと幾時間も幾時間も、絶えず一つの想念がちぎれちぎれに彼の夢を訪れた。『今すぐにも、猶予なしにどこかへ行って、何もかも捨ててしまおう、二度と人の目にはいらぬように、少しも早く、一刻も早く!』彼は幾度も長椅子から身をもぎ放して、起き上ろうとしたけれど、すでにそれはできなかった。激しくドアをたたく音がやっと完全に彼の目をさました。
「あけなさいってばよ、生きてるの、死んでるの? いつもぐうたらぐうたら寝てばかしいてさ」
「いねえのかもしんねえぜ」と男の声が言った。
『やっ、あれは庭番の声だ……なんの用だろう?』
彼はがばとはね起き、長椅子の上にすわった。心臓が痛いほど
「だって、この鍵は誰がかけたの?」とナスターシャは言い返した。「まあ、鍵なんかかけるようになってさ! ご当人が盗まれそうで心配なのかしら! あけなさいよ、この
『やつら何用があるんだろう? なんだって庭番なんか? 何もかもわかっちまったんだ。抵抗したものか、あけたものか? ええ、どうともなれ……』
彼は半ば身を起こして、前の方へ身をかがめ、鍵をはずした。
彼の部屋は、ベッドから起きなくても鍵がはずせるくらいの広さだった。
はたせるかな、庭番とナスターシャが立っていた。
ナスターシャは、何やら妙な顔をして、彼をじろりと見回した。彼はいどむような自暴自棄の表情で庭番を見た。こちらは無言のまま、二重に折って
「差し紙でがす、役所から」と彼は紙を渡しながら言った。
「なんの役所だい?……」
「つまり、警察から呼んでるんでさ、役所へね。なんの役所って、わかり切ってまさあ」
「警察へ?……なんのために?……」
「そんなこと、わしの知ったこってすかい。来いというんだから、行きゃいいんでさ」
庭番はじろじろ彼を見て、あたりを見回した後、くびすを返して行こうとした。
「なんだかほんとの病人になっちまったようだね?」ラスコーリニコフから目を放さないで、ナスターシャはこう言った。庭番もちょっと振り返った。「昨日から熱があるんだからね」とナスターシャは言い足した。
彼は返事をしないで、まだ封も切らない紙ぎれを手に持っていた。
「そんならもう起きない方がいいよ」と、彼が長椅子から足をおろそうとするのを見て、哀れを催したナスターシャはことばを続けた。「病気なら行かないがいいよ――大丈夫だあね。あんた、その手に持ってるものいったいなあに?」
彼は何ごころなく見ると、右の手に例の房の切れっぱしと、靴下の先と、引きちぎったポケットの裏を握っていた。こうしてそのまま寝ていたのだ。もう後になってこのことを考えたとき、彼は熱に浮かされながらも夢うつつに、それを手の中に固くしっかと握りしめながら、また眠りに落ちて行ったのが思い出された。
「ちょっ、こんなにぼろっきれを集めてさ、まるでお宝みたいに抱いて寝てるんだよ……」
こう言ってナスターシャは、例の病的な神経性の笑い声を高々と立てるのであった。
彼はすばやくそれを外套の下へ押し込んで、じっと食い入るように彼女を見つめた。そのとき彼は十分に理路整然と、ものを判断することができなかったけれど、人を逮捕に向かう時には、こんな風に扱うものでないと直感した。『しかし……警察へ来いとは?』
「お茶でも飲んだら! ほしいかね? 持って来てあげるよ。残ってるから……」
「いや……僕は行ってくる。これからすぐ出かける」と彼は立ち上がりながらつぶやいた。
「どうも、階段さえおりられそうもないね?」
「行ってくるよ……」
「じゃ、好きにするがいい」
彼女は庭番のあとについて行ってしまった。彼はやにわに明るい方へ飛んで行って、靴下とズボンの切れ端を調べにかかった。『しみはあるが、しかし大して目に立ちゃしない。すっかりよごれて、こすれてしまって、色がさめてるからな。前もって知らない者には――てんで見分けなんかつきゃしない。してみると、ナスターシャもあれだけ離れてたから、なんにも気がつきゃしなかったろう、しめた!』その時、彼は胸をおどらせながら呼出状の封を切って読み始めた。長いことかかって読んだ後、ようやく意味がわかった。それは今日九時三十分に、区の警察署へ出頭せよという普通の呼出状だった。
『いったいいつこんな例があったろう? おれは警察に用なんかいっさいないんだがなあ! しかも、折もおり今日に限ってどうしたわけだ?』と、彼は悩ましい疑惑に包まれながら、とつおいつ考えた。『ああ、神さま、もうこうなったら、とにかく早く済みますように!』彼はいきなりひざまずいて祈ろうとしかけたが、われながら笑い出してしまった――それは
階段の上に立ったとき、彼はふと、いっさいの品をあのまま壁紙の穴へ残して来たことも思い出した。『これはもしかすると、わざとおれのいないうちに、家宅捜索をやるのかもしれないぞ』と気がつき、彼は足を止めた。けれど極度の自暴自棄と、極度の(もしこういいうるならば)滅亡の
『ただ一刻も早くすんでくれ……』
通りは相変わらず堪え難い暑さだった。この四、五日の間に、雨の一滴も降らばこそ、相変わらずの埃、相変わらずの
昨日の町へ曲がる角まで来ると、彼は悩ましい不安を感じながら、その方を、あの家の方を見やったが……すぐに目をそらしてしまった。
『もし尋ねたら、おれは言ってしまうかもしれない』と彼は、警察へ近づきながら考えた。
警察は彼の家から、四分の一露里ばかりの所にあって、新しい建物の四階に移転したばかりだった。もとの事務所へは、彼もいつかちょいと行ったことがあったが、それもずっと前の事である。門の下をくぐるとき、右手に階段が見えた。帳簿を持った百姓が一人、その階段をおりてくる。『庭番だな、つまり、してみると、あすこが役所なんだ』こう考えて、彼はあてずっぽうにのぼり始めた。何によらず人にものを聞く気になれなかったのだ。
『はいって行ったら、いきなり
階段は狭くて急で、一面にきたない水がこぼれていた。建物いったいのアパートは、台所口が全部この階段に向かっていて、しかもほとんど
「お前なに用だ?」
彼は呼出状を出して見せた。
「君は大学生ですか?」呼出状をちらと見て、相手はこう尋ねた。
「そうです。もとの大学生」
けれど、書記は一こう好奇心らしいものも示さず、じろじろ彼を見回した。それは、なんだかこう特別に髪をぼうぼうさした男で、目つきに何か
『こんなやつに聞いたって何もわかりゃしまい。こんなやつの知った事じゃないんだからな』とラスコーリニコフは考えた。
「あっちへ行きなさい、事務官の方へ」と筆生は言って、一番はずれの部屋を指でさして見せた。
彼は、順番からいうと四つめに当たる、この狭い部屋へはいった。部屋は人でいっぱいになっていたが、皆これまでの部屋部屋にいた連中よりは、いくらか気のきいた
彼はほっとした気持で息をついた。『こりゃ確かに違う!』彼はだんだん元気づいてきた。元気を出せ、正気に返れと、懸命に自分で自分に言って聞かせるのであった。
『何かちょっと馬鹿なことをしても、何かちょっとした
彼は総身に恐ろしい混乱を感じた。自分で自分を支配しえないのが恐ろしかった。彼は何かにすがりつこう、なんでもいい、ぜんぜん無関係な事を考えようと努めたが、それはどうしてもうまくいかなかった。にもかかわらず、事務官はひどく彼の興味をひいた――彼はその顔つきで何かを読み取り、最後の判断を下したくてたまらなかった。それはまだ二十二ぐらいの
「ルイザ・イヴァーノヴナ、あなたお掛けになったら」と彼は軽い調子で、けばけばしい身なりをしたあから顔の婦人に声をかけた。こちらは、椅子がすぐ傍にありながら、勝手に掛けるのを遠慮するように、ずっと立っていたのである。
「
喪服の女はやっと用を済まして、立ちにかかった。するととたんに、かなり騒々しい音をさせて、一足毎になんだか一種特別な肩の振り方をしながら、一人の警部がだんぜん景気よくはいってきて、
「なんだお前は?」と彼は叫んだ。このぼろ男が、稲妻のような彼のまなざしを受けて、こそこそ隠れようともしないのに、どうやら驚いたらしい。
「出頭を命じられたんです……呼出状で……」とラスコーリニコフはどうやらこうやら返辞をした。
「それはその男から、大学生から金を取り立てる件です」事務官は書類から目を放して、せかせかと口を入れた。「そら、これです!」と彼は帳簿をラスコーリニコフの方へ投げて、場所を示した。「読んでごらんなさい!」
『金? なんの金だろう?』とラスコーリニコフは考えた。『しかし……してみると、もうたしかにあれじゃない!』彼はうれしそうにぶるっと身震いした。彼の心は急にどかっと、ことばに尽くせないほど軽くなった。すっかり重荷が肩からおりた思いだった。
「いったい君は何時に出頭を命じられてるんだね、君?」警部はどうしたのか、いよいよ侮辱を感じながら、こうどなりつけた。「九時と書いてあるのに、もう十一時過ぎておるじゃないか」
「僕はつい十五分ばかり前にこれを受け取ったのです」とラスコーリニコフは同じくふいに、自分でも思いがけないくらいむらむらとなって、しかもそれに一種の満足さえ
「どなるのはよしてもらいましょう!」
「僕はどなってなんかいやしません。きわめて平静に言ってるんです。かえってあなたの方こそ、僕をどなりつけてるんじゃありませんか。僕は大学生です、どなりつけられて黙っているわけにいきません」
副署長はすっかり逆上してしまって、しばらくは口をきくこともできず、ただ口からしぶきのようなものを飛ばすばかりだった。彼は席からおどり上がった。
「おーだーまんなさい! 君は
「あなただって官衙にいるんじゃありませんか」とラスコーリニコフは
こう言い切ると、ラスコーリニコフはなんともいえぬ快感を覚えた。
事務官は微笑を含んで、二人をながめていた。短気な警部はどうやら
「それは君の知ったこっちゃない!」とうとう彼は、なんとなく不自然に大きな声で叫んだ。「さあ、そこで、君は要求されている答弁をしてくれたまえ。アレクサンドル・グリゴーリッチ、この男に見せてやってくれたまえ。君は告訴されてるんですぞ。借金を踏み倒そうなんて! ふん、どうも大した美丈夫ぶりだ!」
けれど、ラスコーリニコフはもう聞いていなかった。そして、少しも早く謎を解こうと、むさぼるように紙切れをつかんだ。一度読んで、また二度めに読んだが、かいもくわからなかった。
「いったいこれはなんですか?」と彼は事務官に尋ねた。
「借用証書によって、あなたから返金を請求しているんです、支払の督促です。あなたは科料その他の諸費用をこめて借金を支払うか、それともいつ支払いうるかということを、書面で答えなければならないのです。それと同時に、支払を済ますまでは、首都から外へ出ないこと、財産を売却もしくは
「でも僕は……誰にも借金なんかありません」
「それはもはやわれわれの知ったことじゃない。われわれの方へはこの通り、債務取立の告訴が提出されてるんです。つまり九か月前に、あなたが八等官未亡人ザルニーツィナに渡した百五十ルーブリの借用証書です。これがその後ザルニーツィナから、七等官チェバーロフの手へ渡っているが、もう期限がきれて不渡り手形になっている。こういったわけで、あなたに答弁を要求しているんです」
「ああ、そりゃ下宿のかみさんじゃありませんか?」
「下宿のかみさんならどうしたんです!」
事務官は『どうだい、お前、今どんな気持がするね?』とでも言いたげな様子で、今みんなから包囲攻撃を受け始めたばかりの新参者に対するような
「ええ、この……女!」と彼はふいにありたけの
ラスコーリニコフは、思わず手から書類を取落としたほどである。彼はけうとい目つきで、かくも無遠慮にやっつけられているけばけばしい婦人をながめていたが、やがてまもなく事のなんたるやに考え及んだ。と、すぐさまいっさいのいきさつが、大いに愉快にさえなってきた。彼は喜んで耳を傾けた。彼はありたけの声で笑って、笑って、笑い抜きたいような気持さえもした……ありたけの神経がむやみにおどり狂っていた。
「イリヤー・ペトローヴィッチ」と事務官は気づかわしげに言いかけたが、時機を待つことにしてことばをやめた。
一方けばけばしい婦人の方はどうかというと、はじめのうちこそ、その霹靂に震え上がっていたが、不思議なことには、警部の
「どういたしまして、署長さま、わたくしどもではけっして騒ぎも喧嘩もいたしませんですよ」急に彼女は豆でもまきちらすように、達者なロシア語ではあるけれど猛烈なドイツなまりのアクセントで、べらべらまくし立て始めた。「けっして、けっして不体裁なことはござあません、あの人たちが酔っぱらって来られましたんです。すっかり詳しいことを申し上げますが、署長さま、わたくしが悪いのじゃござあません……わたしどもはお上品な家でしてねえ、署長さま、お客あしらいも上品なのでござあます、署長さま。そしてねえ、わたしだっていついかなる時にも、けっして不体裁をしでかしたくないと心掛けております。それだのに、あの人たちがすっかり酔っぱらって来られましてね、やがてまたお酒を三本ご注文になったんでござあますよ。それから、一人が足を上げて、足でピアノをひき出すんですからねえ。こんなことは上品な家では、全くよくないことでござあます。こうしてとうとう、その馬鹿者がひどくピアノをこわしてしまいました。まるで作法も何もあったものじゃござあませんよ。それでわたしがそう言ってやりますと、そいつ瓶をつかんで、みんなを後ろから突き出すじゃござあませんか。そこでわたしは、急いで庭番を呼びましたので、カルルがやってきました。すると、そいつめ、カルルをつかまえて目をたたきました。ヘンリエットもやはり目をたたかれました。わたしはほっぺたを五へんも打たれましたよ。こんなことは上品な家じゃぶしつけでござあますものねえ、署長さま。で、わたしはどなってやりました。するとそいつは
「すると、そいつは文士なんだな?」
「はい、署長さま、全くほんとうに下品なお客でございます、署長さま、お上品な家に来て……」
「うむ、よし、よし! たくさんだ! おれはもう貴様にさんざん言って聞かしておいた。よく言ってあるじゃないか……」
「イリヤー・ペトローヴィッチ」と事務官はまた意味ありげに言い出した。
警部はちらとその方を振り返った。事務官は軽くうなずいて見せた。
「……さあ、名誉あるラヴィーザ・イヴァーノヴナ、これが貴様に聞かしてやるおれの最後のお説教だ。それこそほんとに最後だぞ」と警部は続けた。「今後もし貴様の上品な家で、たとい一度でも不体裁をしでかしたら、それこそおれは貴様の首に
ルイザ・イヴァーノヴナは、気ぜわしない
「またぞろ天地
「いや、なに!」とおうように無造作な調子で副署長は言った。(「なに」とさえはっきりいわず「や、なあん!」といった風に聞こえた)。そして、何かの書類を持って、ほかのテーブルへ移りながら、一歩毎に気取った格好で肩をゆすって行った。一足前へ出すと、肩が一緒について出るので。「これです、ごらんください――この著述家先生、いや、違った、大学生、といって、もとの大学生がですね、金を払わん代わりに手形をむやみと出して、部屋はあけんというわけで、当人に対してのべつ訴えがくるんですよ。それでいて、わたしが先生の前で煙草を吸ったからといって、ご憤慨あそばすんですよ! 自分は、ひ、卑劣きわまるまねをしながら、どうです、やつを見てやってください、あの通りすてきな格好をしているじゃありませんか!」
「貧は不善にあらずさ、君。いやどうも仕方がないて! 君は有名な火薬なんだから、侮辱を忍ぶことはできなかったでしょうよ。しかし、君もきっと何かこの人に腹を立てて、我慢がしきれなかったんでしょう」とニコジーム・フォミッチは、愛想よくラスコーリニコフの方へふり向きながら、ことばを続けた。「しかし、それは間違いですよ。君――この人はじーつーに高潔な男です。それはわたしが誓います。ただ火薬なんです! 癇癪もちなんです! ぱっと爆発して、ぐらぐらっと沸き立って、燃えてしまうと――それでおしまいなんです! それで何もかもすんでしまって、結局、黄金のごとき心だけが残るんです! この人は連隊時代にも、『火薬中尉』とあだ名されていたんですからなあ……」
「しかもその連隊ときたら!」と、副署長は署長にうまくくすぐられたので大恐悦のくせに、まだふくれ
ラスコーリニコフは突然みんなの者に、何かうんと愉快なことを言ってやりたくなった。
「いや、とんでもない、署長」ふいに彼はニコジーム・フォミッチの方へふり向きながら、恐ろしくくだけた調子で言い出した。「僕の身にもなってみてください……もし何か僕の方に失礼なことがあったら、僕はあの人に謝罪してもいいと思ってるくらいです。僕は貧しい病身な学生です。貧乏にへしつけられて(彼は全く「へしつけられて」と言ったのである)いる男です。僕はもとの大学生です。つまり学資がないからです。でも、金はきます……僕には母と妹が××県におりまして……それが送金してくれるはずです。そしたら僕……返済します。うちのかみさんはいい人なんですが、僕が
「だが、そんな話はこっちの知ったことじゃない……」とまた事務官が注意しようとした……
「ちょっと、ちょっと、それはそうですが、僕にも釈明さしてください」とラスコーリニコフはまたことば尻を抑えて、事務官ではなく、依然としてニコジーム・フォミッチを相手にしながらそう言ったが、同時に、副署長にも話しかけるようにしようと、一生懸命に努力するのであった。ところが、こちらは書類をかき回して、お前などに注意も向けてやらないぞとばかり、
「われわれはそんな立ち入った打明け話を、君から要求してるんじゃない。それに暇もない」と副署長はいけぞんざいな調子で、
「いや、失礼ですが、失礼ですが、多少なりと完全に釈明さしてください……どういう事情でこうなったか……僕の方でも……もっとも……こんなことをしゃべるのは余計なことでしょう、そりゃおっしゃる通りですが――しかしともあれ、この娘は一年前にチブスで死んでしまったけど、僕はやはり下宿人として残っていました。今の住まいへ移った時に、かみさんはこう言いました……しかも、隔てのない態度で言ったのです……わたしはあなたを十分信用しています、
「そんなセンチな事情なんか、君、われわれには関係のないことですよ」と副署長は横柄にさえぎった。「君は答弁を書いて宣誓をしなくちゃならん。君が誰かにお惚れ遊ばしたとか、そんな
「いや、どうも君は……ちとひどすぎるよ……」とニコジーム・フォミッチはテーブルについて、同じく書類のサインを始めながら、こうつぶやいた。なんとなくきまりが悪くなったのである。
「さあ、書きなさい」と事務官はラスコーリニコフに言った。
「何を書くんです?」と彼はなんだか格別ぞんざいに問い返した。
「わたしがいま口授します」
ラスコーリニコフは、今の打明け話をしてから、事務官が自分に対して前より
事務官は、こういう場合の答弁にありふれた書式を、彼に口授し始めた。つまり、即刻返済しかねるから、いついつまでには(あるいはそのうちいつか)支払う、当市からは離れない、所有品を売却したり人に贈与したりしない、等々である。
「おや、あなたは字が書けないんですね、ペンが手から落ちそうですよ」と事務官は、不思議そうにラスコーリニコフに見入りながら、こう注意した。「病気なんですか?」
「そうです……頭がぐらぐらして……さあ、先を言ってください!」
「いや、それだけです。署名なさい」
事務官は紙を取上げて、ほかの仕事にかかった。
ラスコーリニコフはペンを返したが、立ち上がって出て行こうともせず、
『しかし、たとい一分間でも、よく考えた方がいいのじゃなかろうか?』こういう考えが彼の頭にひらめいた。『いや、なんにも考えないで、ひと思いに肩の荷をおろした方がいい!』けれどふいに、彼は釘づけにされたように立ち止まった。ニコジーム・フォミッチが何やら熱くなって副署長に話している、そのことばが彼の耳にまではいってきたのである。
「そんなことはあるはずがない、二人とも放免になるさ! 第一、何もかも矛盾してるじゃないか。考えてみたまえ――もしこれが彼らの仕業なら、なんのために庭番を呼ぶ必要があるのだ? 自分で自分を告発するためとでもいうのかね? あるいは
「しかし、失礼ですが、どうして彼らの言うことにあんな矛盾が生じたんでしょう? はじめは自分たちがたたいたとき、戸はしまっていた、と自分で断言してるでしょう。それが、わずか三分たって、庭番と一緒に来た時には、ドアがあいていたなんて?」
「そこのところにいわくがあるのさ。犯人はきっと中にいて、栓をさしていたんだ。だから、もしコッホがばかなまねさえしなけりゃ――自分で庭番を呼びに行ったりしなかったら、きっとその場でつかまえてしまったに相違ない。つまりやつはそのわずかな隙に、うまく階段をおりて、どうかして皆の傍をすりぬけたのだ。コッホのやつ両手で十字を切りながら、『もしわたしがそこに残っていたら、奴はいきなり飛び出して来て、きっとわたしを
「だが、誰も犯人を見たものはないじゃありませんか?」
「どうして見られるもんですかね? あの家はノアの
「事件は
「いや、きわめて不明瞭ですよ」と副署長は釘をさした。
ラスコーリニコフは帽子を取ってドアの方へ歩き出した。が、彼は戸口まで行きつかなかった……
気がつくと、彼は椅子に腰をかけて、右の方から一人の男にささえられているのに気がついた。左の方にはもう一人の男が、黄色い液を満たした黄色いコップを持って立っていた。ニコジーム・フォミッチは、彼の前に突っ立って、じっと彼を見つめている。彼は椅子から立ち上がった。
「これはどうしたことです、病気なんですかね?」かなりきっとした口調で、ニコジーム・フォミッチは尋ねた。
「この人は署名する時にも、やっとのことでペンを動かしていたほどですからね」と事務官は自席について、また書類に取りかかりながら言った。
「もう前から病気なのかね?」と副署長も同じように書類を繰りながら、自席からどなった。
もちろんかれも、ラスコーリニコフが気絶している間は、やはり病人を観察していたのだが、正気に返ると、すぐそばを離れたのである。
「昨日から……」とラスコーリニコフはつぶやくように答えた。
「きのう外出しましたか?」
「しました」
「病気なのに?」
「病気なのに」
「何時ごろ?」
「晩の七時すぎです」
「そしてどこへ、失礼ながら?」
「通りへ」
「簡単明瞭だね」
ラスコーリニコフは布のように真青な顔をして、その黒い燃えるような
「この人は立っているのもやっとなんだよ、それを君は……」とニコジーム・フォミッチは言った。
「いや、べーつーに」と副署長は何かこう特別な語調で言った。
ニコジーム・フォミッチは、まだ何か言い足そうと思ったが、やはりじっと穴のあくほど彼を見つめている事務官を見ると、口をつぐんでしまった。みな急に黙りこくった。何やら変なぐあいだった。
「いや、よろしい」と副署長は結んだ。「もうお引止めはせんですよ」
ラスコーリニコフは外へ出た。後ろで急に、がやがやと勢い込んだ会話が始まったのを、彼は聞き分けることができた。中でも、ニコジーム・フォミッチの質問を帯びた声が、一番よく響いていた……彼は通りへ出ると、すっかりわれに返った。
『捜索、捜索、すぐ家宅捜索だ!』と彼は帰りを急ぎながら、心の中でくり返した。『あの強盗めら! 疑ってやがるぞ』先ほどの恐怖がまたしても彼の全身を、足の先から頭のてっぺんまでわしづかみにしてしまった。
『だが、もう家宅捜索をやられてしまってたら? ちょうど家に帰ってみて、やつらが来ていたら?』
が、もう自分の部屋だ。何事もない、誰もいない。誰一人のぞいて行ったものもない。ナスターシャさえも手をつけていなかった。それにしても、まあなんということだ? どうして先ほどあの品々をそっくりこの穴に打っちゃって行けたのだろう?
彼は片隅へ飛んで行って、片手を壁紙の下へ差し込むと、例の品々を引っ張り出して、それをポケットへねじ込み始めた。全部で八品あったが、耳輪か何か、そんな物のはいった小箱が二つ――彼はろくすっぽ見もしなかった――それから小さなキッド皮のサックが四つと、ただ新聞にくるんだだけの鎖が一本と、ほかにまだ何やら新聞紙にくるんだものがあった。どうやら勲章らしい!……
彼はこれをすっかり方々のポケットへ入れた。
彼は早いしっかりした足どりで歩いた、全身が打ちくじかれたようになっているのを覚えたが、意識はちゃんとしていた。彼は追跡を恐れた。三十分後、いや、十五分後に、彼に対する尾行命令が出はしないかと恐れた。したがって、どんなことがあろうとも、それまでに証跡を
それはもうずっと前から決めていたことである。『何もかも堀の中へ投げ込んで、証跡を消してしまうんだ。そうすれば万事かたがついてしまう』彼はもうゆうべ熱にうかされながら、いくどか起き上がって出かけようともがいた瞬間に(彼はそれを覚えている)こんな風に決したのである。『早く、少しも早くみんな捨ててしまうんだ』けれど捨ててしまうということも、案外なかなか難かしいとわかった。
彼はエカチェリーナ運河の河岸通を、もう三十分か、あるいはそれ以上もぶらぶらして、いくどか水ぎわへおりる口を見つけて、下をのぞいてみた。ところが、目算を実行するのは、考えも及ばないことだった。ある所では、
とうとうしまいに、いっそネヴァ河へ行った方がよくないかという考えが頭に浮かんだ。あすこなら人通りも少ないし、ここほど目に立たないから、いずれにしても好都合だ、それに一番うまいのは、この辺からだいぶ離れていることだ。すると、彼は急にわれながら驚いた――いったいなんのために、こんな危険な場所を、憂愁と不安に悩まされながら、三十分もうろつき回って、これしきのことをもっと早く思いつけなかったのだろう? こんな無鉄砲な仕事にまるまる三十分もつぶしたのは、要するに、夢の中で熱に浮かされながら決めたことだからである! 彼は恐ろしくぼんやりして、忘れっぽくなっていた。そして、自分でもそれを知っていた。もう断然急がなければならない!
彼はV通をネヴァ河さして歩き出した。けれど、途中でふと別な考えがわいてきた! 『なぜネヴァへ行くんだ? なぜ水の中へほうり込むんだ? いっそどこかずっと遠いところ、たとえば島の方へでも行って、どこかその辺の
とはいえ、島へも行かないで済むめぐり合せになっていた。まるで別な風になってしまったのである。V通から広場へ出ながら、彼はふと左手に当たって、窓一つない殺風景な壁にとり囲まれた裏庭へはいる口を見つけた。右側には、門をはいると庭の奥へかけて、隣りの四階家の荒壁が続いていた。左側には、その荒壁に平行して、同じく門からすぐ板塀になっており、二十歩ばかりも奥へはいると、そこで初めて左へ折れていた。それは全くがらんとした、外界から隔離された空地で、何か建築材料などの置き場になっていた。ずっと先の奥の方には、一見して何かの工場の一部らしい、低いすすけた石造の物置の一角が板塀の陰からのぞいていた。そこはたしか馬車製造所か、鉄工所か、何かそんな風なものに相違ない。門の入り口からそこら一面に、石炭の
『ここに立ち止まること無用』(小便無用の意)してみると、ここへはいって立ち止まっていても、なんの嫌疑もあり得ないから、むしろ好都合である。『ここでどこかその辺へみんな一まとめに捨ててしまって、そのまま逃げ出してやれ!』
いま一度あたりを見回してから、彼はもう片手をポケットへ突っ込んだ。そのとたんに、外側の壁のすぐ傍で、やっと一アルシンばかりしかない門と樋の間に、大きな割り放しの石が目についた。およそ一プード半(約二十三キログラム)も目方のありそうなもので、通りに面した石壁のすぐわきにあった。この塀の向こうは往来の歩道で、この辺にいつもかなり多い通行人の、あちこちする足音が聞こえていた。しかし、門外からは誰も彼を見つけることはできないはずである。ただ誰か往来からはいってくる時は別問題で、それも大きにありそうなことだ。したがって、急がなければならない。
彼は石へ身をかがめて、その上の端にしっかり両手を掛け、ありたけの力をしぼって、石をひっくり返した。石の下にはちょっとしたくぼみができていた。彼はすぐポケットからいっさいがっさい取出して、その中へほうり込み始めた。財布は一ばん上になったが、それでもくぼみにはまだ余地があった、それから、彼はまた石に手をかけ、一ころがしでもとの側へ向けた。石はかっきり元の位置に落ち着いた。ただほんの心持高く思われるくらいのものである。けれど彼は土をかきよせて、まわりを足で踏みつけた。もうなんにも目立たなくなった。
さて彼はそこを出て、広場の方へ足を向けた。とまたもや、先ほど警察で経験したと同じような、強い堪え難いほどの喜びが、ほんの一瞬間、彼の全幅を領した。『もうこれで始末はついた! この石の下を捜そうなんて考えが、いったい誰の頭に浮かぶものか? あの石は、家を建てた時のそもそもからあすこにころがってるんで、これから先も同じくらいの間は、あのままころがっているだろう。よしまた見つけたところで――誰がおれに嫌疑をかけるものか? もういよいよ片付いた! 証拠がないんじゃないか!』こう考えて、彼は思わず笑い出した。そうだ、彼は後々までも覚えていたが、それは神経的な、はてしのない小刻みな、人には聞こえないほどの笑い方だった。そして、広場を通り抜ける間も、ずっと笑い続けていたのである。が、おととい例の少女に出会ったK
彼はそわそわした意地悪い目つきで、あたりを見回しながら歩いた。彼のすべての思考力は、今ある重大な一点の周囲をどうどうめぐりしていた――そして、実際それが非常に重大な点であることを、自分でも感じていた。今という今こそ、彼はこの重大な点に面と面とつき合せた――しかも、それはこの二か月以来初めてのことだとさえいえる。
『ええ、こんなことみんなどうなとなってしまえ!』ふいに彼は、はかり難い
突如、彼は歩みを止めた。まるで思いがけない、新しい、しかもいたって単純な疑問が、一時に彼を真底からまごつかせ、手痛い
『もし実際あのことがふらふらした衝動でなく、意識的に行なわれたものとすれば――しんじつ、貴様に一定の確固たる目的があったものとすれば、なぜ今まで財布の中をのぞきもしないで、自分の手に入れたものを知らずにいるのだ。いったい貴様はなんのためにかほどの苦痛を一身に引受けたのだ? なんのためにあんな陋劣な、けがらわしい、卑しい行為を意識して断行したのだ? 貴様はたった今あの財布をほかの品と一緒に(ほかの品だってやはり調べて見やしなかった)、水の中へほうり込もうとしたじゃないか…これはいったいなんとしたことか?』
そうだ、その通りだ、何もかもその通りだ。もっとも、これは彼も前から心づいていることで、けっして新しい疑問ではない。すでに昨夜それを決めた時から、なんの動揺も反問もなく、あたかもそれが当然のことで、ほかにはなんともしようがないかのように、思い込んでいたのである……そうだ、彼はそれを意識していた、何もかもわかっていた。それはきのう彼が、トランクの上にかがみ込んで、サックなどを引っ張り出していた瞬間から、ほとんどそう決めていたとさえいえる……全くその通りではないか!
『これはつまり、おれがひどい病気にかかっているせいだ』とうとう彼は気むずかしげに断定した。『おれは我とわが身を苦しめて、へとへとにさいなみながら、自分で自分のしていることがわからないのだ……昨日も、一昨日も、いや、ずっとこの間じゅうから、自分で自分をさいなんでいたのだ……健康さえ回復したら……自分で自分を苦しめるようなこともしなくなるだろう……だが、もしまるで回復しなかったら! ああ、もうこんなことつくづくいやになった!……』彼は立ち止まろうともせず、歩き続けていた。なんとかして気をまぎらしたいと思ったが、どうしたらいいか、どんなことを始めたらいいか、見当がつかなかった。ただどうもこうもならない一つの感触が、ほとんど一刻ましに強く強く、彼の心を領して行った。それは目に触れる周囲のすべてに対する、限りない嫌悪の情であった。それはほとんど生理的なものといっていいほどで、
ヴァシーリエフスキイ島にある小ネヴァ河の河岸通の、とある橋の
彼はラズーミヒンの住まいをさして、五階へ上って行った。
当人は家にいた。ちょうどそのとき自分の小部屋で、何やら書き物をしていたので、自分でドアをあけてくれた。二人は
「君どうしたんだい?」はいって来た友を、頭から
「いったいそんなにまでひどいことになっているのかい? いや、君、それは我々仲間の
「君はよっぽど体が悪いらしいぜ、君自身でそれを知ってるかい?」
彼は友の脈を見ようとした。ラスコーリニコフはその手をもぎ放した。
「よせ」と彼は言った。「僕が来たのは……こういうわけさ。僕いま
「おい、君、君はうわ言をいってるんだぞ!」じっと相手を観察していたラズーミヒンは、そう注意した。
「いいや、うわ言なんかいってやしない……」
ラスコーリニコフは長椅子から立ち上がった。彼は、ラズーミヒンの所へ上ってくる途中も、この友だちと顔を突き合わさねばならないということを、考えもしなかったのである。ところが、いま彼は一瞬の間に、この場合世界中の誰であろうとも、人と顔を突き合わすなどという気分にはまるでなっていないのを、実地の経験で悟ったのである。体内にありったけの
「失敬!」と彼はだしぬけに言って、戸口の方へ歩き出した。
「おい、待てよ、君、待てというのに、変人だなあ!」
「いいよ……」こちらはまた手を振り放しながら、こうくり返した。
「ふん、それくらいなら、貴様なんのためにやって来やがったんだ! 血迷いでもしたのか! だってそれは……ほとんど侮辱じゃないか。僕はこのまま帰しゃしないよ」
「じゃ、聞きたまえ――僕が君んとこへ来たのは、つまり君以外に僕を助けて……始めさしてくれる人を、誰も知らないからなんだ……だって、君は世間の誰よかも一ばん善良で、というより一ばん
「まあ、ちょっと待て、この煙突掃除め! まるで気ちがいだ! 僕の言うことを聞いてから、あとはなんとでも勝手にしろ。実はね、出稽古の口は僕にもない。それに、そんなものくそくらえだ。ところがさ、
ラスコーリニコフは無言のまま、ドイツ語の論文を取り上げ、三ルーブリを手にすると、一言も口をきかないで、ぷいと出てしまった。ラズーミヒンはあっけにとられ、そのあとを見送っていた。が、一丁目のところまで来ると、ラスコーリニコフは急にくびすを返し、またラズーミヒンのところへのぼって行った。そて、ドイツ語のテキストと三ルーブリをテーブルの上へ置くと、またもや一言も口をきかずに、さっさと出てしまった。
「君はいったい脳炎でもやってるのかい!」とうとうラズーミヒンは、かんかんにおこり出して、どなりつけた。「なんだってそんな道化芝居を打ってみせるんだ! 僕でさえ面くらわされるじゃないか……それくらいなら、なぜやって来たんだ、ちくしょう?」
「いらない……翻訳なんか……」と、ラスコーリニコフはもう階段をおりながら、こうつぶやいた。
「じゃ、いったい貴様は何がいるんだい?」とラズーミヒンは上からどなった。
こちらは黙々と階段をおりつづけた。
「おおい! 君はいったいどこにいるんだ!」
答えはない。
「ちょっ、そんなら勝手にしやがれ!……」
しかし、ラスコーリニコフはもう通りへ出ていた。ニコラエフスキイ橋の上で、きわめて不愉快な一事件のために、彼はもう一度はっきりわれに返った。ほかでもない、ある
「いい気味だ!」
「どっかのやくざ野郎よ」
「わかり切ってらあな、酔っぱらいのまねをして、車の下に敷かれてよ、さあどうしてくれる、ってやつなんさ」
「それが商売なんでさ、お前さん、それが商売なんでさ……」
けれどその時、彼はまだ依然として欄干のかたわらに立ったまま背中をさすりながら、しだいに遠ざかって行く馬車のあとを無意味な毒々しい目つきで見送っていたが、ふと誰かが手に金をつかませるのに気がついた。見ると、それは
彼は二十カペイカ銀貨を手に握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はほとんどコバルト色をしていた。それはネヴァ河として珍しいことだった。寺院の
彼はもう夕方になって家へたどりついた。してみると、みんなで六時間も歩き回ったわけである。どこをどう歩いて帰ってきたのか――彼はさっぱり覚えがなかった。服を脱ぐと、へとへとに追い使われた馬のように、全身をわなわなふるわせながら、長椅子の上へ横になって、
たそがれの色がすっかり濃くなったころ、彼は恐ろしい叫び声で我に返った。大変、いったいなんとした叫び声だろう! こんな不自然な物音や、こんな
ラスコーリニコフはぐったりと長椅子の上に倒れたが、もう目をふさぐことはできなかった。かつて経験したこともないような、限りない恐怖の堪え難い感じと名状し難い苦痛の中に、三十分ばかりぶっ倒れていた。ふいにあざやかな光線が彼の部屋をぱっと照らした――ナスターシャが
「おおかた昨日から何も食べなかったんだろうね。一日ほっつき歩いてさ、しかもおこりで体じゅうふるわしてるんだからね」
「ナスターシャ……どうしてかみさんはぶたれたんだい?」
彼女は穴のあくほど彼を見つめた。
「誰がかみさんをぶったの?」
「今しがた……三十分ばかり前に、イリヤー・ペトローヴィッチが、警察の副署長が、階段の上で……なぜあの男があんなにおかみさんを打ちのめしたんだい! そして……なんのために来たんだい?」
ナスターシャは黙って
「ナスターシャ、なんだって黙ってるんだい?」とうとう彼は弱々しい声で、おずおずと言った。
「それは血だよ」やがて彼女は小さな声で、ひとり言のように答えた。
「血!……なんの血だ!……」彼はさっと青くなって、壁の方へじりじりさがりながら、こうつぶやいた。
ナスターシャは無言のまま彼をながめつづけた。
「誰もかみさんをぶちゃしないよ」彼女はまたもや、いかつい、きっぱりとした調子で言い切った。
彼はほとんど息もしないで彼女を見つめていた。
「おれはこの耳で聞いたんだ……おれは寝てやしなかった……腰かけていたんだ」と彼は前よりさらにおずおずと言った。
「おれは長いこと耳を澄ましていたよ……副署長がやって来て……みんなが駆け出して、階段の方へ集まったじゃないか。どの住まいからも……」
「誰も来やしないよ。それはあんたの体の中で血が暴れているせいだよ。血の出所がなくなって、
彼は返事をしなかった。ナスターシャは彼の枕もとにたたずんだまま、じいっとその顔を見つめながら、出て行こうともしなかった。
「飲むものをくれ……ナスターシュシュカ」
彼女は下へおりて行ったが、二分ばかり立って、安物の
とはいえ彼は病気の間じゅう、まるまる人事不省だったわけでもない。それは夢魔と半意識の入りまじった、熱病的な状態だった。彼は後になっていろいろな事を思い起こした。どうかすると、まわりに大勢の人が集まって、彼をつかまえてどこかへ連れて行こうとする。そして、彼のことをそうぞうしく議論したり、争ったりしているような気がした。かと思うと、今度は急にみんな外へ出てしまって、彼一人きり部屋の中にいる、人々は彼を恐れて、時たまほんのぽっちりドアをあけて様子をうかがい、彼をおどすまねをしたり、自分たち同士で何やら打ち合わせをしたり、笑ったり、からかったりしている。ナスターシャがしょっちゅう傍にいたのも、彼はよく覚えている。それから、もう一人の男も見分けることができた。なんだか知合いらしくもあるが、はたして誰なのか――どうしても想像がつかないので、彼はそれがじれったくって泣いたくらいである。どうかすると、もう一月もふせっているような気もしたが、また時には、やはり同じ日が続いているようにも思われた。しかし、あの事は――あの事件はとんと忘れてしまっていた。その代わり、何かしら忘れてならない事を忘れている、ということを絶えず思い起こすのであった――そして、思い出してはもだえ苦しみ、うめき声を立て、もの狂おしい憤りか、さもなくば身も世もあらぬほど堪え難い恐怖にとらわれる。そのような時、彼は飛び上がって駆け出そうとしたが、いつも誰かが力ずくで引きとめる。で、彼はまたしても力がぬけ、人事不省に陥るのであった。やがてようよう全く正気に返った。
それは午前十時ごろのことだった。朝のこの時刻になると、晴れた日ならば、太陽はいつも長い
「これは誰だい、ナスターシャ?」と彼は若者を指さしながらたずねた。
「ああら、気がついたよ!」と彼女は言った。
「気がついたね」組合労働者も応じた。
戸口からのぞいていたおかみは、彼が気のついたのを察すると、すぐにドアをしめて姿を隠した。彼女はいつも引っ込み思案のたちで、こみ入った話や掛合いがつらくてたまらない方だった。彼女は年ごろ四十格好、黒い目に黒い眉をした、ふとって脂ぎった女で、肥満と不精のために人が好かった。そして、器量もなかなか踏める方だったが、度外れにはにかみやなのであった。
「君は……誰です?」今度は当の組合労働者に向かって、彼はまた問いかけた。
けれど、この時ふたたびドアがさっとあけ放されて、背が高いので少しかがむようにしながら、ラズーミヒンがはいって来た。
「まるで船室だ」とはいって来ながら彼は叫んだ。「いつもおでこをぶっつけちまうんだ。これでもやはり住まいと称してるんだからなあ! 君、気がついたってね! 今パーシェンカ(主婦の名)から聞いたよ」
「たったいま気がついたんだよ」とナスターシャが言った。
「たったいま気がつかれたんで」と組合労働者も、微笑を浮かべながらあいづちを打った。
「ところで、そういう君はどなたでいらっしゃるんですね?」突然彼の方へ向き直りながら、ラズーミヒンは尋ねた。「僕はごらんの通り、ヴラズーミヒンです。皆さんはラズーミヒンとおっしゃるが、実はそうじゃなくてヴラズーミヒンです。大学生で、士族の
「わっしは労働組合の事務所にいるもんですが、商人のシェラパーエフの使いでこちらへ伺ったんで、用がありましてね」
「どうぞこの椅子にお掛けください」テーブルの反対側から、ほかの椅子に腰をおろしながら、ラズーミヒンは言った。「でも、君、気がついてくれてよかったなあ」と彼はラスコーリニコフの方へ向きながらことばを続ける。「もうこれで四日というもの、ほとんど飲まず食わずなんだからなあ、実際、お茶をさじで飲ませてたんだぜ。僕はここへゾシーモフを二度も引っ張ってきたよ。ゾシーモフを覚えてるかい? 先生、綿密に君を診察したが、すぐになんでもない、何かちょっと脳にさわったんだろう、とこう言ったよ。ごくつまらない神経症だそうだ。まかないの方が悪くって、ビールとわさびが足りなかったもんだから、それで病気も出たわけだが、なに大丈夫、今に自然となおるそうだよ。ゾシーモフのやつ、なかなかえらいぜ! 堂々たる治療ぶりを見せるようになったよ。いや、しかしもうお話の邪魔はいたしません」と彼は再び組合労働者の方へ振り向いた。「どういうご用ですか、一つ説明を願えませんでしょうかね? 注意しておくがね、ロージャ、このお方の事務所から使いがみえたのは、もうこれで二度目なんだぜ。もっとも、
「あれはきっと
「ですが、あの人は君より多少ものわかりのいい方じゃないでしょうか、いかがお考えですな?」
「さよう、確かにずっとしっかりしております」
「これは感心な心がけだ。さあ、話の続きを願います」
「実は、アファナーシイ・イヴァーヌイチ・ヴァフルーシン、多分たびたびお聞き及びのことと思いますが、あの
「そう……覚えてる……ヴァフルーシン……」とラスコーリニコフは考え深そうに言った。
「どうです、この男は商人のヴァフルーシンを知っていますよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「これがどうして正気がないんだ? もっとも今になって気がついたが、君もやはりものわかりのいい人間だ。いや、どうも! 賢い人の話というものは聞いていても気持がいいですよ」
「つまりその
「いや、『匆々頓首』は一番の傑作だ。『あなたのおふくろさん』
「わっしなんかどうでもかまいませんよ。ただ受取りさえきちんとしてればけっこうなんで」
「どうにかこうにか書くだろう! 君の方じゃなんですかね、帳簿にでもなってる?」
「帳簿なんで。この通り」
「こっちへもらいましょう。さあ、ロージャ、起きろよ。僕がささえてるから。
「いらない」とペンを押しのけながら、ラスコーリニコフは言った。
「いらないとは、そりゃまたどうしたことだ?」
「署名なんかしないよ」
「ちょっ、こんちくしょう、受取りを書かないでどうするんだ?」
「いらない……金なんか……」
「えっ、金がいらないって! おい、君、そりゃでたらめだよ、僕が証人だ!――どうかご心配なく、こりゃ先生ただちょっくら……まだ夢の国をうろついているもんだから。もっとも、この先生はうつつでも、時々こういうことがあるんでね……ねえ、君は分別のある方だから、一つ二人がかりで、この男を指導してやろうじゃありませんか。といって何も造作はない、この男の手を持って動かしてやる。すると、この男が署名したわけですよ。さあ、とっかかろうじゃありませんか……」
「ですが、わっしはまた出直して参りましょう」
「いやいや、そんなご心配にゃ及びませんよ。君は分別のある人だから……さ、ロージャ、あんまりお客さんをひっぱっとくもんじゃないよ……見たまえ、待っておられるじゃないか」こう言って、彼はまじめにラスコーリニコフの手を持ってやる身構えをした。
「いいよ、自分でする……」と言うなり、ラスコーリニコフはペンを取って、帳簿に署名した。組合の男は金を置いて、出て行った。
「しめた! ところで、今度は何か食べたくないか?」
「食べたい」とラスコーリニコフは答えた。
「君んとこにスープあるかい?」
「昨日のだよ」さっきからずっとこの場に立っていたナスターシャが、そう答えた。
「じゃがいもとひきわり米のはいったのか?」
「じゃがいもとひきわりのはいったのよ」
「ちゃんとそらで知ってらあ。じゃ、スープをよこせよ。そして、お茶を持って来てくれ」
「もって来るよ」
ラスコーリニコフは深い驚きと鈍い無気味な恐怖をいだきながら、始終の様子をながめていた。彼はいっさい沈黙を守って、このさき何があるか待つことに心を決めた。
『どうもおれは熱に浮かされているのじゃないらしい』と彼は考えた。『どうもこれは本当のことらしい……』
二分ばかりたつと、ナスターシャがスープを持って引っ返した。そして、すぐに茶もくると告げた。スープにはさじが二本と皿が二枚、ほかに付属食器が全部――塩入れ、こしょう瓶、牛肉用のからし入れなどがついている。こんなにきちんとそろったことは、絶えて久しくないことである。テーブル・クロースも洗いたてだった。
「なあ、ナスターシュシュカ、おかみさんがビールを二本ばかりよこしてくれると、悪くないんだがな。一杯やりたいんでね」
「まあ、この
ラスコーリニコフはけうとい緊張した目つきで、凝視を続けていた。その間に、ラズーミヒンは長椅子に席を移して、彼と並んで腰をおろし、当人は一人で起きることもできたのに、熊よろしくの無骨な格好で、左手に彼の頭をかかえ、右手にスープのさじを持ち、病人が口を焼かないように、あらかじめ幾度も吹いてから、彼の口へ持っていってやった。けれど、スープはわずかに暖かいというだけであった。ラスコーリニコフはむさぼるように一さじのむと、つづいて二さじ、三さじと飲みほした。けれどもいくさじか口へ運んだのち、ラズーミヒンはふいに手を止めて、これ以上はゾシーモフに相談してからでなければと言った。
ナスターシャがビールを二本もってはいってきた。
「お茶はいらないかい?」
「ほしいよ」
「ナスターシャ、お茶も早く頼むぜ。お茶の方は、医科先生に相談しなくてもかまわんだろうからな。だが、いよいよビールがきた!」と彼は自分の椅子に席を移して、スープと牛肉を手もとへ引寄せると、まるで三日も食わなかったような勢いで、さもうまそうに食い始めた。
「僕はね、君、ロージャ、このごろ毎日君んところで、こういう食事をしてるんだぜ」牛肉をいっぱいつめこんだ口の許す範囲内で、彼はむにゃむにゃと言った。「これはみんなパーシェンカ、君んとこのおかみが
「ええ、ふざけるでないよ!」
「じゃ、お茶は?」
「お茶はもらってもいいけど」
「つぎたまえ。いや、待てよ。おれが手ずからついでやろう。テーブルの前にかけたまえ」
彼はさっそく手順をつけて一杯ついだのち、また別の茶碗に一杯つぐと、朝飯をおっぽり出して、また長椅子に帰った。彼は前と同じように、左手で病人を抱いて、少し持ち上げるようにし、またぞろ一生懸命にひっきりなく吹きながら、茶さじから茶を飲ませ始めた。まるでこのさじを吹くという手順の中に、健康回復上もっとも重大な回生の要点が含まれている、とでもいうようなようすであった。ラスコーリニコフは誰の手を借りなくとも、長椅子の上に身を起こして、じっとすわっているだけの力は十分あるし、さじや茶わんを持つくらい手の自由がきくのみか、歩くことさえできるかもしれないと感じてはいたけれど、じっとおし黙って逆らおうともしなかった。一種不思議な、ほとんど野獣めくほど
「パーシェンカに今日さっそく木いちごのジャムをよこしてもらおう。この男の飲むものを作ってやらなくちゃ」ラズーミヒンは自分の席へ戻って、またスープやビールに取っかかりながら言い出した。
「おかみさんがなんでお前さんなんかに、木いちごを取ってくれるもんかね?」五本の指をひろげた上に受け皿をのせ、口に含んだ砂糖で茶をこして飲みながら、ナスターシャはこう言った。
「木いちごはな、お前、店へ行ってとってきてくれるよ。ロージャ、実はこんど君の知らない間に、大した事件があったんだよ。君があんなかたり同然のやり口で、居所もいわずに僕のところから逃げ出したとき、僕はいまいましくっていまいましくってたまらなかったので、君をさがし出して制裁してやろうと決心したのさ。そして、すぐその日から着手して、歩いたわ歩いたわ、たずねたわ、たずねたわ! 今のこの住まいを僕は忘れてたのさ。もっとも初手から知らなかったんだから、覚えていないのがあたりまえよ。だがね、君の前の住まいは覚えていた――
「書き留めてある?」
「そうともさ。ところが、カベリョーフ将軍という人は、僕もそばで見ていたが、どうしても捜し出せなかったんだからな。いや、話せばずいぶん長いことだがね。僕はここへ乗り込むとすぐさま、君に関係した事件をすっかり聞かされちゃったよ。すっかりだぜ、君、僕はもうなんでも知ってるよ。この女も知ってるよ。僕はニコジーム・フォミッチとも知り合いになれば、イリヤー・ペトローヴィッチ(副署長)にも紹介してもらった。それから庭番とも、ザミョートフ氏――ほら、あのアレクサンドル・グリゴーリッチ、つまりここの警察の事務官とも、それから最後にパーシェンカとも知り合いになった――これなんかは全く僕の功労に対する
「うんと砂糖をきかせたもんだでね」と狡猾そうににやにや笑いながら、ナスターシャがつぶやいた。
「じゃ、お茶に入れて召し上ったら、ナスターシャ・ニキーフォロヴナ」
「まあ、このおす犬め!」だしぬけにナスターシャはこう叫びながら、ぷっと吹き出した。「だって、わたしのお父さんはピョートルですもの、ニキーフォロヴナじゃないでないか」とまたふいに笑いやめて彼女はつけ足した。
「いや、おことば
ラスコーリニコフは不安らしい視線を、一刻も相手から放さなかったが、じっとおし黙っていた。そして、今もしゅうねく彼を
「むしろ非常にといっていいくらいさ」ラズーミヒンは彼の沈黙に根っから困る風もなく、相手から受け取った返事にあいづちを打つような調子でしゃべりつづけた。「むしろきわめてけっこうだよ、あらゆる点において」
「まあ、なんて野郎だろう!」とナスターシャがまたしても叫んだ。見たところこの会話は、ことばにつくし難い幸福感を彼女に与えるらしい。
「ただ困るのは、君が最初のそもそもから、この事件をうまくあしらう腕を持っていなかったことだ。あの女にはああいうやり方じゃいけなかったのさ。全くあの女は、なんというか、意想外千万な性格の所有者なんだからね! まあ、性格のことなんかあとでいい……ただ君はどういうわけで、たとえばさ、あの女が君に食事もよこさないなんて、そんな生意気なことをするように仕向けたんだい? またたとえばだ、あの手形はなんだい? いったい君は気でも違ったのかい、手形に署名するなんて! それからまた、娘のナタリヤ・エゴーロヴナが生きてた時分に、約束のできていた縁談さ……僕は何もかも知ってるぜ! いや、もっとも、これはデリケートな胸の琴線に関することで、この方面については僕はろば同然らしい。僕はあやまるよ。だがついでに一つばかげた話だが、君はなんと思う? 実際プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ(おかみ)は、ちょっと見ほどばかじゃないだろう、え?」
「うん……」とラスコーリニコフはそっぽをながめながらも、この話をもう少し続けさせる方が有利だと悟ったので、ことばを歯の間から押し出すように言った。
「そうじゃないか?」と、返事をしてもらったのがいかにもうれしそうに、ラズーミヒンは叫んだ。「だが、全くりこうという方じゃないだろう、え? 実に、実に意想外な性格だ! 僕は正直のところ、いささかまごつかされてるんだよ……あいつ確か四十になるだろう。ところが、自分じゃ三十六と言ってるんだ。もっとも、そういうだけの資格は十分あるね。しかし、誓っていうが、僕あの女についてはむしろ知的に、ただ形而上学のみで判断してるんだ。今われわれの間には、君の代数学も手をくだしようのない、どえらい
「それは僕が卑劣なために言ったことなんだ……僕の母はほとんど自分で
「そうだ、それは君、りこうなやりくちだったのさ。ただ問題は、七等官チェバーロフ氏という事件屋が、そこへひょっこり登場したことだ。この男がいなかったら、パーシェンカはおそらく、なんにも考えつきはしなかったろう。全く恐ろしいはにかみやだからね。ところが、事件屋はけっしてはにかみやじゃないから、まず第一番に、はたしてこの手形を生かす見込みがあるやいなや、という問題を提起した。ところでその答えは、確かにあると出た。なぜって見たまえ、君には母親というものがあって、たとい自分は食わないでも、可愛いいロージェンカだけは、百二十五ルーブリという年金の中からくめんして、救わずにはおかないし、また兄のためには身を売ってもかまわないというような、妹があるじゃないか。先生、ここに計算の土台をすえたわけだ……君、何をもぞもぞするんだい? 僕はね、君、今こそ君の内幕を知りぬいてるんだよ。君がパーシェンカとまだ親類づきあいをしていたころに、打明け話をしたのがたたったのさ。もっとも、いま僕は君を愛すればこそ言うんだがね……ねえ、つまりそこのとこなんだよ――正直で感じやすい人間は、何げなしに打明け話をするが、事件屋はそれを聞いて食い物にする。そして、最後には骨までしゃぶってしまうのさ。そこであの女は、金を払ってもらった
ラズーミヒンは借用証書をテーブルの上へのせた。ラスコーリニコフは、ちらとそれを見やったが、一言も口をきかないで、壁の方へくるりと向いてしまった。これにはさすがのラズーミヒンもむっとしたほどである。
「なるほどそうか」一分ばかりして彼は言った。「僕はまた馬鹿な役回りを勤めちゃったんだ。罪のないおしゃべりで君の気をまぎらして、慰めてやろうと思ったんだけど、ただ
「僕は熱に浮かされているとき、君の顔の見分けがつかなかったかね?」同様に一分間ばかり黙っていた後、ラスコーリニコフは顔を振り向けようともせずにたずねた。
「つかなかったとも、そのために気ちがいみたいにおこり出したほどだよ。ことに僕が一度ザミョートフを連れて来た時など、そりゃ大変だったぜ」
「ザミョートフを?……事務官を?……なんのために?」ラスコーリニコフは急に振り返って、きっとラズーミヒンに目を据えた。
「おい、何を君はそんなに……なんだってそう心配そうな顔をするんだい? 君と近づきになりたいと言い出したんだよ。あの男が自分から言い出したんだ。それってのがね、二人で君のことを色々話したからさ……でなくて、誰から君の事がこう詳しく知れると思う? 君、あれは実にいい男だよ、全くすてきな人間だ……もっとも、むろん、それもある意味においてだがね。で、今じゃ僕らは親友同士の間がらで、ほとんど毎日のように会ってるんだ。だって、僕はこの方面へ引っ越して来たくらいだもの。君はまだ知らないんだね? つい最近引っ越したばかりなんだ。ラヴィーザの所へも、あの男と二度ばかり行って見たよ。ラヴィーザを覚えてるかね、ラヴィーザ・イヴァーノヴナを?」
「僕なにかうわ言を言ったかね?」
「言わなくってさ! まるで君の体が君のものでなかったんだもの」
「どんなうわ言を言った?」
「へえ、これはこれは! どんなうわ言を言ったかって? どんなことかわかり切ってらあね……さあ、君、もうこの上時間をつぶさないように、用件にかかろうじゃないか」
彼は椅子から立って、帽子に手を掛けた。
「どんなうわ言を言ったよう?」
「ええっ、一つ覚えみたいに何いってるんだ! それとも何か秘密でもあって、それを心配してるのかい! ご念にゃ及びません。伯爵夫人のことなんか、なんにもいやしなかったよ。ただどこかのブルドッグがどうとか、やれ耳輪がなんだとか、やれ鎖がどうのと言ってたっけ。それからクレストーフスキイ島のことだの、どこかの門番のことだの、ニコジーム・フォミッチのことだの、副署長のイリヤー・ペトローヴィッチのことだの、いろいろしゃべってたよ。ああ、そのほか君ご自身の靴下のことが、たいそう気がかりのご様子でしたよ、たいそうね! それこそほんとうに哀願するような調子で、靴下をくれ、靴下をくれと、ただその一点ばりさ。でも、ザミョートフが自分で隅々を
「おかみさんのことをパーシェンカだなんて! なんて厚かましい男だろう」とナスターシャはうしろから追っかけるように言った。それからドアをあけて耳を澄まし始めたが、辛抱し切れなくなって、自分も下へ駆け出した。
彼女はラズーミヒンが下でかみさんと何を話してるか、知りたくてたまらなかったのである。それに全体からみて、彼女はどうやらラズーミヒンにぼうっとなっているらしかった。
彼女の出たあとのドアがしまるが早いか、病人は毛布をはね飛ばして、気ちがいのように寝床からおどり上がった。彼は焼けつくようなけいれんに近い焦燥の念をいだきながら、一刻も早く二人のものが出て行って、その留守に仕事にかかれる時が来るのを、今か今かと待ち設けていたのである。しかし、それはなんだろう、どんな仕事だろう?――彼はまるでわざとのように、それをど忘れしたのだ。
『おお神様、たった一言聞かせてください――みんなはもう何もかも知っているのか、それともまだ知らないのか? もし知っていながら、僕の寝ている間だけ空っとぼけて、いい加減からかったあげく、いきなりここへやって来て、もう何もかもとっくに知れていたんだが、ただちょっと知らないような振りをしていただけだ……なんて言い出したら、どうだろう? いったいこれからどうするんだったっけ? ひょいと忘れてしまった、まるでわざとねらったように、急にど忘れしてしまった。つい今しがたまで覚えていたのに!』
彼は部屋のまんなかに突っ立って、悩ましい疑惑に包まれながら、あたりを見回した。やがて、戸口へ近寄ってドアをあけ、じっと耳を澄ましたが、これも見当ちがいだった。と、ふいに思い出したように、彼は例の壁紙に穴のあいている片隅へ飛んで行き、一生懸命に調べてみたり、手を突っ込んでかき回したりしたが、これもやっぱりそうではなかった。彼はストーブの方へ行って、その戸をあけ灰の中をかき回してみた。と、ズボンの裾の切れっ端や、引きちぎったポケットのぼろぼろになったのが、あのとき投げ込んだままでころがっていた。してみると、誰も見なかったわけだ! その時ふと彼は、今しがたラズーミヒンの話した靴下のことを思い出した。実際それは長椅子の上に掛けた
『やっ、ザミョートフ!……警察!……だがなんのためにおれを警察へ呼ぶんだ? どこに出頭命令があるんだ? やっ!……おれはごっちゃにしてた……あれはあのとき召喚されたんだっけ! あの時もやっぱり靴下を調べていた。ところで、今は……今おれは病気なのだ。が、ザミョートフは何用でやって来たんだろう? ラズーミヒンはなんのために、あんな男を連れて来たんだろう?……』再び長椅子に腰をおろしながら、彼は力なげにつぶやいた。『これはいったいどうしたんだろう? やっぱりうわ言の続きかしら? それとも本当なのか? どうも本当らしい……ああ、思い出した、逃亡だ。早く逃げるんだ。ぜひ、ぜひとも逃げるんだ! だが……どこへ! おれの服はどこにある? 靴もない! 片づけちゃった! 隠しやがったんだ! わかってらあ! ああ、ここに
彼はまだコップ一杯分ほど残っているビールのびんを取って、まるで胸の中の火を消そうとでもするように、さも心地よげに一息に飲みほした。けれど、一分もたたぬうちに、もうビールが頭へずきんときて、軽いむしろこころよい悪寒が背筋を流れた。彼は横になって蒲団を引っかぶった。それでなくても病的なとりとめのない彼の思想はしだいしだいにごっちゃになって行き、間もなく軽いこころよい眠りが彼を包んでしまった。彼は陶然たる気持で頭で枕当りのいい所をさがしあて、今までの破れ外套の代りに、いつの間にやら掛かっている柔らかい綿のはいった蒲団にしっかりくるまると、静かに吐息をついて、ぐっすりと深い眠りに落ちた。それは治癒の力を持った眠りである。
誰かのはいってくる物音を聞いて、彼は眠りから覚めた。目をあけて見ると、ラズーミヒンがドアをさっとあけ放したまま、はいったものかどうかと思いまどうように、敷居の上に突っ立っていた。ラスコーリニコフはすばやく長椅子の上に起き直って、何やら思い起こそうと努めるもののように、じっとその顔を見つめていた。
「おや、寝てないんだね? 僕もう帰って来たよ! ナスターシャ、包みをここへ持って来てくれ!」とラズーミヒンは下へ向かって呼んだ。「今すぐ計算書を渡すよ……」
「何時だい?」と不安げにあたりを見回しながら、ラスコーリニコフはたずねた。
「いや、すごく寝たもんだ。もう外は夕景だよ。かれこれ六時ごろだろうよ。六時間あまりも寝たわけだ」
「たいへんだ! 僕はなんだってそんなに!……」
「それがどうしたのさ! ようこそお休みじゃないか! どこへ急ぐんだい? あいびきにでも行こうってのかい? 今こそ時間が完全に我々のものになった。僕はもう三時間ばかりも君を待ってたんだよ。二度も来てみたけれど、君が寝てるもんだから。ゾシーモフのところも二度ばかりのぞきに行ったが、留守、留守の一点ばりさ。だが、大丈夫、やがて来るよ!……やっぱり用事で家を明けたんだから。僕じつは今日引っ越したよ。すっかり引っ越しちゃったんだ、
「僕は健康だよ、病気じゃない……ラズーミヒン、君は前からここにいたのかい?」
「三時間待ち通したって、言ってるじゃないか」
「じゃない、その前のことさ」
「なんだ、前って?」
「いつごろからここへ通っているんだい?」
「だって、ついさっき君にすっかり話したじゃないか。それとも、もう覚えてないかい?」
ラスコーリニコフは考え込んだ。さっきの事が夢のように彼の頭にひらめいた。が、一人では思い出せなかったので、彼は問いかけるようにラズーミヒンをながめた。
「ふむ!」とこっちは言った。「忘れたんだね。僕はどうもさっきから、君がまだ十分……その、なにになってない、というような気がしてたよ……だが、今は一寝入りしたおかげで、すっかりよくなった……実際、顔色がずっとはっきりしてきたよ。えらいぞ! さて、いよいよ用件にかかろう! なに、すぐ思い出せるよ。一つこっちを見たまえな、君」
彼は気になってたまらなかったらしい包みを解きにかかった。
「これはね、君、全くのところ、とくべつ僕の気にかかってたんだよ。なぜって、君を人間らしくしなくちゃならないものね。さあ、着手しよう。上から始めるんだね。君ひとつこの帽子を見てくれ」と包みの中からかなり小ぎれいな、と同時にいたってありふれた、安物の学生帽を取出しながら、彼はしゃべり始めた。「ちょっと頭に合わさせてくれ」
「あとで、こんど」気むずかしそうにその手を払いのけながら、ラスコーリニコフは言った。
「いや、君、ロージャ、もう逆らわないでくれ。あとじゃ遅くなり過ぎるんだから。それに寸法を取らずに、当てずっぽうで買って来たんだから、ぼく今夜一晩じゅう寝られないじゃないか。ちょうどかっきりだ!」と彼は頭に合わせてみて、勝ち誇ったように叫んだ。「ちょうどあつらえたようだ! 頭飾りというやつは、君、服装の中でも一番に位するもので、一種の看板みたいなもんだからね。僕の友人のトルスチャコーフなんか、いつも公開の席へ出るたびに、ほかの者は帽子をかぶっているのに、やっこさん必ずかぶり物を脱ぐんだ。みんなはね、奴隷根性のせいだと思っているが、あに図らんや、ただ鳥の巣同然な帽子が恥かしいからに過ぎんのさ。どうも恐ろしいはにかみやでね! さてと、ナスチェンカ、ここに帽子が二つあるが、お前どっちがいいと思う――このパルメルストンか(と彼は片隅から、ラスコーリニコフの見る影もない丸い帽子を取り出した。彼はなぜか知らないが、これをパルメルストンと命名したので)、それともこの珠玉の如き絶品か! ロージャ、一つ値を踏んでみたまえ、いくら出したと思う? ナスターシュシュカは?」相手が黙っているのを見て、彼は女中の方へふり向いた。
「大方二十カペイカくらいなもんだろう」とナスターシャは答えた。
「二十カペイカ? ばか!」と彼は憤慨してどなりつけた。「今どき二十カペイカそこいらじゃ、お前だって買えやしないよ――八十カペイカだよ! それも、少し使ったものだからさ。もっとも、条件つきなんだ――これがかぶれなくなってしまったら、来年はまた一つ別なのをただでよこすってよ、ほんとうだよ! さあ、今度はアメリカ合衆国にかかろう。ほら。中学時代にそういってたじゃないか。断っておくが、このズボンは僕の自慢なんだよ!」と彼は軽い夏地の毛織で作った鼠色のズボンを、ラスコーリニコフの前へひろげて見せた。「穴もなければ、しみ一つない。出物とは言い条、なかなか悪くないだろう……それから同じくチョッキ、流行の要求する通り共色だ。古物という点だが、これは実際のところ、かえっていいんだよ。柔かくってしなやかだからな……考えてもみたまえ、ロージャ、社会へ出て成功しようというにゃ、僕に言わせると、常にシーズンを守りさえすりゃたくさんなんだ。正月にアスパラガスを求めるようなことをしなけりゃ、金入れには何ルーブリかの金がしまっておけるわけだよ。この買物にしてもその通りで、今は夏のシーズンだから、僕も夏の買物をしたんだ。なぜって、秋に向かうと、シーズンがまだ暖かい生地を要求するから、こんなものは捨ててしまわなくちゃならなくなるからね……それに、ましてやそのころになれば、こんなものはひとりでに破けてしまうさ。
「でも、足に合わないかもしれないよ!」とナスターシャが注意した。
「合わない! じゃ、これはなんだい!」と彼はポケットから、古い化けて出そうな、穴だらけの上にかわいた泥が一面にこびりついている、ラスコーリニコフの靴を片足取出した。「僕はちゃんと用意して出かけたんだ。この化物然たるやつで本当の寸法を調べてもらったのさ。僕は何もかも誠心誠意やったんだからね。シャツのことはかみさんと話し合いをつけた。ほら、第一ここにシャツが三枚ある、並み麻ものだが流行風の襟がついてる……さて、そこでと、帽子が八十カペイカ、二ルーブリ二十五カペイカが衣類いっさい、合わせて三ルーブリ五カペイカだ。それから一ルーブリ五十カペイカが靴――だって、全く上物だからな――しめて四ルーブリ五十五カペイカさ、それから五ルーブリが肌着いっさい――談判して卸し値にさせたんだよ――いっさいで合計九ルーブリ五十五カペイカさ。四十五カペイカのおつりだが、みんな五カペイカ玉だよ。さあ、お受け取りください――とまあ、こういったわけで、君もいよいよ
「よせ! いやだ!」ラズーミヒンの衣類調達に関する緊張した、しかも冗談まじりの報告を、嫌悪の色を浮かべて聞いていたラスコーリニコフは、さもうるさそうに振り払った……
「君、そりゃだめだよ。じゃ僕、なんのために足をすりこぎにしたんだい!」とラズーミヒンは屈しなかった。「ナスターシュシュカ、何も恥かしがることはないから、手を貸してくれ――そうだそうだ!」
ラスコーリニコフが抵抗するのもかまわず、彼はとにかくシャツをとりかえてやった。こちらは枕の上にぶっ倒れて、二分間ばかりは一言も口をきかなかった。
『まだなかなか離れてくれそうにもないぞ』と彼は考えた。
「どういう金でこんなにいろんなものを買ったんだい!」と壁を見つめながら彼はたずねた。
「どういう金? こいつああきれた! 君自身の金じゃないか、さっき労働組合のものが来たろう、ヴァフルーシンの使いで、お母さんが送ってよこしたんじゃないか。それとも、こんなことまでも忘れたのかい?」
「やっと思い出した……」長い気むずかしげな物思いの後に、ラスコーリニコフはこう言った。
ラズーミヒンは
ドアが開いて、背の高いでっぷりした男がはいって来た。見たところ、どうやらラスコーリニコフにも多少見覚えがあるらしかった。
「ゾシーモフ! やっとのことで!」ラズーミヒンは喜んでこう叫んだ。
ゾシーモフは背の高い脂肪質らしい男で、きれいにそり上げてはいるが、ややむくみのある色つやの悪い青白い顔をして、亜麻色の髪はすんなりとして癖がなかった。眼鏡をかけているほか、脂肪でふくれたように見える指に大きな金指輪をはめている。年ごろは二十七見当らしかった。彼はゆったりとしたハイカラな外套を着、薄色の夏ズボンをはいていた。概して彼の身についているものは、すべてゆったりしたハイカラな仕立おろしばかりだった。肌着も非の打ちどころのないもので、時計の鎖もどっしりとしている。身のこなしはゆっくりしていて、なんとなくのろくさく見えるが、同時にこしらえもののらいらくといったようなところがあった。しかし尊大な気取りが、つとめて隠してはいるものの、のべつちらちら顔をのぞける。彼を知っているすべての人は、いやな付き合いにくい男のようにいっていたが、しかし自分の職務には明るいという評もあった。
「僕はね、君んとこへ二度も寄ったんだぜ……見たまえ、気がついたよ!」とラズーミヒンは言った。
「わかってるよ、わかってるよ。お気分はいかがですな、え?」と、じっとラスコーリニコフの顔に見入りながら、ゾシーモフは彼の方へふり向いた。そして、彼の長椅子に腰をおろし、病人の足の辺に尻を落ち着けると、すぐさまできるだけ体をくつろげた。
「始終ヒポコンデリイばかり起こしてるんだよ」とラズーミヒンはことばを続けた。「今シャツを取りかえてやったんだが、もう泣き出さないばかりさ」
「それは無理もないことだ。当人が望まなければ、シャツなんかあとでもよかったんだ……脈は上等。頭痛はまだいくらかしますか、え?」
「僕は健康です、僕は全く健康体です!」ふいに長椅子の上に身を起こして、目をぎらぎら光らせながら、強情ないらいらした調子でラスコーリニコフはそう言ったが、すぐに枕の上へどうと倒れ、壁の方へ向いてしまった。
ゾシーモフはじっと彼を注視していた。
「たいへんけっこう……何もかも順調にいってます」と彼はだるそうに言った。「何かあがりましたかね?」
ラズーミヒンは様子を話して、何をやったらいいか尋ねた。
「なに、もう何を食べさせてもいいさ……スープ、茶……きのこやきゅうりなんかはむろんいけないがね。それからと、牛肉もやっぱりいけない。そして……いや、この際なにもぐずぐず言うことはない!」彼はラズーミヒンと目くばせした。「水薬はいらない、なんにもいらない。あす僕が見るから……もっとも、今日だっていいんだが……いや、まあ……」
「明日の晩は、僕この男を散歩に連れて行くぜ!」とラズーミヒンは一人で決めてしまった。「ユスーポフ公園あたりへ。それから『
「明日はまだ病人に身動きもさせない方がいいんだが、しかし……少々は……いや、まあも少したってみればわかるさ」
「そいつは残念だなあ。今日は僕の引っ越し祝いでね。ここからたった一足なんだ。この男も来てくれるといいんだが。せめて僕たちの
「行ってもいい、ちと遅くなるがね。いったいどんなしたくをしたんだい?」
「いや、別に何も。茶、ウォートカ、にしん。それに肉まんじゅうが出るはずだ。内輪の連中だけの集まりだから」
「といって、誰々だい?」
「なに、みんなこの近くのひとで、ほとんど新しい顔ばかりさ。もっとも――年とった
「どんな人だい?」
「一生地方の郵便局長をじみにやって……わずかな恩給をもらっている六十五の
「あれも何か君の
「ごく遠い何かに当たるんだよ。いったい、君、なんだってそんなしかめっ
「僕はあんなやつ
「そりゃ何よりだ。それからあとは――大学の連中に、教師と官吏が一人ずつ、音楽家が一人、警部、ザミョートフ……」
「君、一つきかしてもらうがね、君やこの人と」とゾシーモフはラスコーリニコフをあごでしゃくった。「それからあのザミョートフなんて男と、いったいどんな共通点があるんだね?」
「いやはや、どうもしちむずかしい男だなあ! 主義信条の一点ばりだ!……君はまるでぜんまいみたいにすっかり主義で固まってて、自分の意志じゃ体の向き一つ変えることもできないんだからな。僕に言わせると、人物さえよければ、それで理屈が通るのさ。それ以上なんにも知ろうとは思わない。ザミョートフは実にすばらしい男だよ」
「そして、内々ふところを暖めてる」
「内々ふところを暖めたって、我々の知ったことじゃないじゃないか! いったいふところを暖めてりゃどうしたというんだい!」なんとなく不自然にいらいらしながら、ラズーミヒンは叫んだ。「あの男がふところを暖めているのを、僕が賛美したとでもいうのかい? 僕はただあの男のことを、ある意味においていい人間だと言ったまでだよ! 端的に言ったら、あらゆる点において完全に善良な人物なんて、どれだけも残りゃしないよ! まあ、僕なんか確信してる――そうなれば、僕なんぞは
「そりゃ安すぎる。僕なら君には二つくらい出すよ……」
「僕は君に一つきゃ出さない! さあ、もっと
「聞きたいもんだね」
「といって、やっぱり例の塗り職人、つまりペンキ屋の一件さ……われわれはきっとあいつを救い出してみせる! もっとも、今じゃもう少しも困ることはないんだ。事件はきわめて、きわめて明白なんだからね! ただもう少し我々が
「いったいそのペンキ屋ってなんだい?」
「ええ、君に話さなかったかい? そう、話さなかったっけなあ? そうだ、今初めて君に話しかけたばかりじゃないか……ほら、官吏の後家で小金を貸してた婆さんの殺人事件さ……それに今度ペンキ屋が引っかかってるんだよ……」
「ああ、あの殺人事件なら、僕の方が君よりさきに聞いたんだ。そして、この事件に興味さえいだいてるくらいだよ……まあ、多少だがね……ある偶然の機会で新聞でも読んだよ! それで……」
「リザヴェータまで殺してしまったんだからねえ!」ラスコーリニコフの方へ向きながら、ナスターシャが
彼女は始終ずっとそこに残って、ドアにぴったり身を寄せたまま、聞いていたのである。
「リザヴェータ?」やっと聞こえるほどの声で、ラスコーリニコフはつぶやいた。
「リザヴェータよ、あの古着屋の。お前さん知らないのかい? 下へもよく来てたよ。お前さんのシャツをつくろってくれたことがあるじゃないか」
ラスコーリニコフはくるりと壁の方へ向いてしまった。そして白い花模様のついている汚れた黄色い壁紙の上に、何か茶色の線で飾られた不格好な白い花を一つ選び出し、それに弁が何枚あって、弁にぎざぎざがいくつあり、線が何本あるかをしさいに点検しはじめた。彼は手も足もしびれてしまって、まるでいうことをきかなくなったような気がしたが、身じろぎ一つしてみようともせず、強情に花を見つめていた。
「で、そのペンキ屋がどうしたんだい?」何やらかくべつ不機嫌な様子で、ゾシーモフはナスターシャの
こちらはほっと吐息をついて、口をつぐんだ。
「やっぱり犯人とにらまれたのさ!」とラズーミヒンは熱くなってことばを続けた。
「何か証拠でもあるのかい?」
「証拠なんかあってたまるもんか! もっとも、つまり証拠があればこそなんだが、この証拠が証拠になっていないのだ。そこを証明しなくちゃならんわけさ! それはね、最初警察があの連中……ええと、なんといったっけ……コッホとペストリャコフ、あの二人を引っ張っていって嫌疑をかけたのと、寸分たがわず同じ筆法さ。ぺっ! こういうことは実に愚劣きわまるやり口で、人ごとながら胸くそが悪くなるくらいだ! ペストリャコフの方は、もしかすると、きょう僕んとこへ寄るかもしれない。時に、ロージャ、君はもうこの一件を知ってるだろうな。病気になる前の出来事だから。ちょうど君が警察で卒倒した前の晩さ。あの時あすこでその噂をしてたはずだ……」
ゾシーモフは好奇の目を向けてラスコーリニコフを見やったが、こちらは身じろぎもしなかった。
「ねえ、ラズーミヒン! こうしてみていると、君はずいぶんおせっかいだなあ」とゾシーモフが口をはさんだ。
「それだってかまわないさ。とにかく救い出してやらなくちゃ」とラズーミヒンは
「まあ、そうむきになるなよ。あの二人はただちょっと拘留しただけなんだもの。それをしないわけにゃいかないよ……時に、僕はそのコッホに会ったよ。聞いてみると、どうだい、やつはあの婆さんのところで流れ質の買占めをやってたんだぜ! え?」
「うん、何かそんな風のいんちき野郎さ! やつは手形の買占めもやってるよ。抜け目のない男さ。だが、あんなやつなんか勝手にしやがれだ! いったい僕が何を憤慨してるか、君わかるのかい? 警察の時代おくれな、俗悪な、古ぼけて干からびた、月並みなやり口を憤慨してるんだぜ……この事件については、ただこの事件一つだけでも、大した新しい道を開拓することもできるんだからね。ただ心理的材料だけでも、いかにして真の証跡を突きとめるべきかということを、証明することができるんだからね。『われわれの方には事実が上がっている!』なんて言ってるが、しかし事実は全部じゃないからね。少なくとも事件の半ばまでは、事実を取扱う腕にあるんだ!」
「じゃ、君にゃ事実を取扱う腕があるんだね?」
「だって、事件に一
「だから、ペンキ屋の話を待ってるんじゃないか」
「あっ、そうだっけね! じゃ、まあ事の
「そうでなくってさ!……」とゾシーモフは言った。
「まあ待ってくれ! しまいまで聞くもんだ! そこでもちろん全力をあげてミコライの捜索に取りかかった。ドゥーシュキンは拘留して、家宅捜索をやった。ミトレイも同様さ。それから、荷足船の連中もちょっとばかり引っ張られた。――こうしてやっとおととい当のミコライを拘引したんだ。見付け付近の
「そう、だが、しかし、証拠にはなってるね」
「いや、僕が今いってるのは証拠の事じゃなくて、尋問そのもののことだ。彼らがその本質をいかに解釈しているか、それを論じてるんだ! まあ、あんな連中なんかどうでもいいや!……彼らはミコライを責めて、責めて、ぎゅうぎゅういうほどしめつけたので、とうとう白状してしまった。『歩道で拾ったんじゃありません。実は、ミトレイと二人で壁を塗っていた、あのアパートで見つけましたんで』『どんな風にして見つけた?』『へえ、それはこんな風でございました。わっしはミトレイと二人で、いちんち八時ごろまで仕事をして、帰りじたくをしておりますと、ミトレイのやつがいきなりわっしの面へ、ペンキをさっと
「ドアの外かい? ドアの外にあったのかい? ドアの外に?」ふいにラスコーリニコフは、おびえたようなどんよりしたまなざしで、ラズーミヒンを見ながら叫んで、片手をつきながら、ぱっと長椅子の上に起き直った。
「うん……だが、どうしたんだい? 君はいったいどうしたんだい? なんだって君はそんな?」
ラズーミヒンは同じく席から身を起こした。
「なんでもない!……」とラスコーリニコフはまた枕の上へ身を落として、再び壁の方へ向きながら、やっと聞こえるくらいの声で答えた。一同はしばらく黙っていた。
「きっと、うとうとしかけたところを、ねぼけて言ったんだよ」もの問いたげにゾシーモフの顔を見ながら、とうとうラズーミヒンはそう言った。
こちらは軽く頭を横に振った。
「まあ、話を続けたまえ」とゾシーモフは言った。「それから?」
「それからも何もあるものか! やっこさんは耳輪を見ると、たちまちアパートのことも、ミトレイのことも忘れてしまって、帽子をひっつかむなり、ドゥーシュキンの所へ駆けつけたのさ。そして先刻ご承知の通り、歩道で拾ったと嘘をついて、一ルーブリ受け取ると、その足で遊びに出かけちゃったんだ。が、殺人事件については、前と同じように言い張ってるんだ。『いっこうに存じません、夢にも知りません、やっと三日目に聞いたばかりなんで』『じゃ、なぜ今まで出て来なかったか?』『こわかったからなんで』『なぜ首なんかくくろうとしたか?』『思案にくれたからで』『どんな思案に?』『裁判に引っ張り出されそうで』さあ、これが一部始終の
「何も考えるがものはありゃしない、罪跡はあるんじゃないか。よしそれがいかなるものにもせよさ。そうとも。君がいくら騒いだって、そのペンキ屋を無罪放免にするわけにいかないじゃないか?」
「だって、やつらはもう今じゃ頭から、真犯人にしてしまってるんだよ! もうなんの疑念も持ってないんだぜ……」
「なに、そりゃ嘘だ。君はあまり熱し過ぎてるよ。じゃ、耳輪はどうしたというんだい? 君自身だって同意せずにいられないだろう――同じ日の同じ時刻に、婆さんのトランクの中の耳輪が、ミコライの手へはいったとすれば――ね、わかるだろう、何かの方法で手にはいったに相違ないじゃないか? こういう事件の審理に際して、この事実はけっして
「どうして手にはいったかって! どうして手にはいったかって?」とラズーミヒンは絶叫した。「ねえ、ドクトル、君は、君は第一に人間を研究すべき職務の人じゃないか、他の
「神聖この上ない事実だって! しかし先生自身も、初めは嘘を言ったと白状してるじゃないか!」
「まあ、僕の言うことを聞きたまえ、よく耳をほじくって聞きたまえ――庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もう一人の庭番も、第一の庭番の女房も、庭番小屋にいた女も、ちょうどその時
「もちろん、変だ。むろん不可能な話だ、がしかし……」
「いや、しかしじゃないよ。もし同じ日の同じ時刻にミコライの手にはいった耳輪が、実際かれにとって不利な、重大な物的証拠になるとすれば――もっともその証拠は、彼の陳述によっても釈明がつくんだから、したがってまだ争う余地のある証拠だが――もしそうとすれば、一方の弁護的事実をも、考慮に入れるべきじゃないか。ましてそれは拒み難い事実なんだからね。ところで、君はどう思う。わが国の法律学の性質上、そうした事実を――単に心理的不可能性とか、精神状態とかに基礎をおいている事実を――拒み難い事実として受け入れるだろうか? よしんばいかなるものであろうとも、有罪を肯定するいっさいの物的証拠をくつがえしてしまうような事実として、受け入れてくれるだろうか、いや、受け入れるだけの雅量を持ってるだろうか? なんの、受け入れるものか、こんりんざい受け入れやしない。箱は見つかったし、当人は
「うん、そりゃ君が熱くなってるのは、ちゃんとわかってるよ。だが待てよ、僕はきくのを忘れてたが、耳輪のはいった箱がほんとうに婆さんのトランクから出たものだってことは、なんで証明されたんだね?」
「それは証明されてるさ」とラズーミヒンは
「そりゃまずいな。じゃ、もう一つ――コッホとペストリャコフが上って行った時に、誰かミコライを見たものはなかったのか。その点を何かで証明できないのかい?」
「そこなんだよ、君、誰も見たものがないんだ」とラズーミヒンはいまいましそうに答えた。「そいつが全く困るんだ。コッホとペストリャコフですら、上へのぼって行くとき、二人に気がつかなかったんだからね。もっとも、彼らの証言は、この場合大した意義を持ち得ないんだがね。『あの住まいのあいているのは見ました、たしかその中で仕事をしていたのでしょう。が、通り過ぎる時、別に注意しなかったので、職人が中にいたかどうか、覚えがありません』とこう言うんだ」
「ふむ!……してみると、弁解の方法といっては、ただお互いになぐり合って、きゃっきゃっ笑っていたということだけだね。まあ、仮りにそれが有力な証拠だとしよう。しかし……じゃまたきくがね――君自身はこの事実全体をどう説明する? 耳輪を拾ったのをなんと説明するね? 全く彼が陳述どおり拾ったものとして」
「どう説明するって? 何も説明するがものはないじゃないか――わかりきった話だ! 少なくとも、事件を
「うまい! いや、君、実にうまい。だが、それはあまりうま過ぎるね!」
「どうして、え、どうしてだい?」
「だってさ、何もかもあんまり
「ちょっ、君は!」とラズーミヒンは一声叫んだが、ちょうどこの時ドアが開いて、そこに居合わせたものが誰一人知らない、新顔の男がはいって来た。
それはもうさして若くない、鼻もちのならないほど澄まし返った紳士で、用心深い気むずかしそうな顔をしていた。彼はまず隠し切れない不快な驚きを示しながら、あたりを見回して『これはいったいなんという所へ飛び込んだものだ?』と目顔できくような表情をしながら、戸口のところに立ち止まった。彼は本当にならないような一種の驚き、というより憤慨の色をわざわざ見せつけながら、天井の低い狭苦しいラスコーリニコフの『船室』をじろじろ見回した。それから同じ驚きの表情で、着物もろくすっぽ身につけず、髪をおどろに振り乱し、顔も洗わないで、みすぼらしいよごれた長椅子の上に横になったまま、やはりじっと彼を見回している当のラスコーリニコフに目を移し、そのままひたと見つめていた。それから、座を立とうともせず、同じくうさん臭そうな人を食った態度で、まともに彼の目を見すえているラズーミヒンの、ひげも
「大学生の、いや、もと大学生だったロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ氏は、こちらでしょうか?」
ゾシーモフはやおら身を動かした。そして、おそらくその返事をしたはずだったろうに、まるで問いかけられもしないラズーミヒンが、やにわに先を越してしまった。
「そらあすこに、長椅子の上に寝ていますよ! いったいあなた何用です?」
このなれなれしげな『あなた何用です?』が、気取り紳士の出鼻をくじいた。彼は危くラズーミヒンの方へふり向こうとしたが、どうやらうまく自制して、また大急ぎでゾシーモフの方へ向き直った。
「あれがラスコーリニコフです!」ゾシーモフは病人の方を
当のラスコーリニコフは、しじゅう黙って仰向きにねたまま、いっさいなんという考えもなく、はいって来た紳士をじっと見つめていた。今しも壁紙の興味津々たる花模様からふり向けられた彼の顔は、すごいほど真っ青で、たったいま苦しい手術を受け終わったか、それとも拷問から放されて来たばかりとでもいったような、なみなみならぬ苦痛の色を現わしていた。けれども、はいって来た紳士はしだいに彼の注意を喚起して、それがやがて疑惑となり、不信となり、遂には
「そうです! 僕がラスコーリニコフ! 何ご用です?」
客は注意深く目を据えて、おしつけるような調子で言った。
「わたしはピョートル・ペトローヴィッチ・ルージンです。わたしの名前はあなたにとって、まんざら初耳ではないと信じますが」
けれども、全然べつの事を期待していたラスコーリニコフは、鈍いもの思わしげな目つきで、じっと相手を見つめるのみで、そんな姓名は全く初耳だというように、なんの答えもしなかった。
「え! いったいあなたはまだ今日が日まで、なんの知らせもお受け取りにならなかったのですかね?」いささかむっとした
ラスコーリニコフは、その返事がわりに悠々と枕の上に身を横たえ、両手を頭の下にかって、じっと天井をながめにかかった。ルージンの顔には、悩ましげな色が現われてきた。ゾシーモフとラズーミヒンは一そう好奇心をそそられたらしく、彼の様子を見回し始めた。とうとう彼はてれてしまった。
「わたしは当てにしていたのです、そのつもりでおったのです」と彼は口の中でもぐもぐ言い出した。「もう十日あまりも前に、いや、かれこれ二週間も前に出した手紙だから……」
「ねえ、あなた、どうもそんなに、戸口に突っ立ってばかりもいられますまい?」とふいにラズーミヒンがさえぎった。「もし何かお話があるんなら、お掛けになったらいいじゃありませんか。そこはナスターシャと二人じゃ狭いでしょうに。ナスターシュシュカ、ちょっとわきへ寄って、通り道をあけてあげるんだ! どうぞこちらへ、さあ、これが椅子です。ここまで! ずっと割り込んでください!」
彼は自分の椅子をテーブルから少し片寄せて、テーブルと自分の
「ですが、何も当惑なさることはありません」とラズーミヒンはいきなりまっこうから言ってのけた。
「ロージャはもう五日も病気で寝ていましてね、三日ばかりうわ言ばかり言ってたんです。しかし、今ではやっと正気に返って、食欲も出てきましてね、喜んで食事をしたくらいです。ここにいるのはドクトルで、今ちょうど診察してくれたばかりなんです。僕はロージャの友人で、やはり前の大学生、今はこの通り先生のお守りをしてるわけです。だから、どうぞわれわれには
「いや、ありがとう。しかし、わたしがここにすわって話をしたんじゃ、ご病人にさわりゃしますまいかね?」とルージンはゾシーモフの方へふり向いた。
「い、いや」とゾシーモフは口の中でもぐもぐ言った。「かえって気晴らしになるかもしれませんよ」こう言ってからまたあくびをした。
「なに、先生はもうずっと正気でいるんですよ、朝っから!」とラズーミヒンは続けた。この男のなれなれしさには、偽りならぬ純朴さが見えたので、ルージンはちょっと考えて、だんだん元気づいてきた。それはこの厚かましいぼろ書生が、自分でいち早く大学生と名乗ったことも、一部の原因だったかもしれない。
「あなたのお母さまは……」とルージンは切り出した。
「ふむ!」ラズーミヒンは大きな声でこうやった。
ルージンはけげんそうにその顔を見た。
「いや、なんでもありません。僕はただちょっと。どうかお続けください……」
ルージンはひょいと肩をすくめた。
「……あなたのお母さんは、わたしがあちらでご一緒にいた間に、あなた宛の手紙を書きかけておられたのです。で、わたしはこっちへ着いてからも、わざと四、五日訪問を遅らしたのです。万事あなたのお耳へはいったのが十分まちがいなしという時に、お伺いしようと思ったものですからね。ところが、いま伺えば、意外にも……」
「知ってます、知ってます!」ふいにラスコーリニコフはなんとも言えないじりじりした、いまいましそうな表情で口を切った。「じゃ、あなたがそうなんですか? 花婿なんですね? 知ってます!……だからもうたくさん!……」
ルージンはすっかり腹を立てたらしかったが、押し黙っていた。彼はこれらいっさいの事が何を意味するのか、少しも早く思い合わそうと一生懸命にあせった。一分ばかり沈黙が続いた。
その間にラスコーリニコフは、返事をする時、ちょっと彼の方へ体を向けたままでいたが、急にまた目を凝らして、何かしら特殊な好奇の色を浮かべながら、じっと相手の観察にかかった。それは先ほどよく見定める暇がなかったか、それとも何かはっとするような新しいものを発見したのか、その点は
「あなたがこうした状態でいられるのを、深く深く残念に思います」彼は努めて沈黙を破ろうとしながら、改めて口を切った。「ご病気と知っていたら、もっと早く伺うところでした。しかし、どうも多忙なもんで……それに、弁護事務の方も、大審院にきわめて重大な事件をかかえているものですから。その上、ご賢察の取り込みについては、あらためて、申し上げるまでもありません。ご家族の方、といって、つまりご母堂とご令妹のおいでを、今か今かとお待ちしているわけで……」
ラスコーリニコフはやや身を動かして、何か言いだそうとした、その顔はなんとなく興奮の色を現わした。ルージンはことばを休めて待っていたが、一向なにも出そうにないので、また先を続けた。
「……今か今かとね。で、まずさし向きの用意として、宿所を捜しておきました……」
「どこに?」と弱々しい声でラスコーリニコフは尋ねた。
「ここからごく近くです。バカレーエフの持家なんで……」
「ああそれはヴォズネセンスキイ通りだ」とラズーミヒンがさえぎった。「貸間専門の二階建で、ユーシンという商人が経営してるのさ。ちょくちょく行ったことがあるよ」
「さよう、貸間ですよ……」
「とてもひどい所さ――きたなくって、臭くって、それに怪しげな家なんだ。ときどき変な騒ぎが持ち上がるよ。およそどんな連中だって、あそこに巣を食っていないやつはないぜ!……僕も一度ある騒動で引っ張り出されたことがある。もっとも、安いにゃ安いよ」
「わたしは、自分からして土地不案内なものですから、それほど詳しい事情を調べ上げるわけにはいきませんでしたが」とルージンは
「で、今その方を修繕中なんで。わたしもその間、貸間できゅうくつな目をしているわけなんです。ここからほんの一足、リッペヴェフゼル夫人の家でしてな、わたしの若い友人アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの住まいに同居しているのです。バカレーエフの家もこの男が教えてくれたので……」
「レベジャートニコフ?」何やら思い出したらしく、ラスコーリニコフはゆっくりと言った。
「さよう、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフ、ある省に勤めている、ご存じですか?」
「ええ……いや……」とラスコーリニコフは答えた。
「これは失礼、わたしはあなたが問い返された口ぶりで、そんな気がしたものですから。わたしはいつかその男の後見をやったことがありましてな……きわめて愛すべき青年です……いつも新しい思想に留意してる男で……いったいわたしは若い人に接するのが好きなんですよ――若い人からは、新しい思想がどんなものか、知ることができますからね」
ルージンはある希望を抱きながら、一座の人々をひとわたり見渡した。
「それはどういう意味です!」とラズーミヒンが尋ねた。
「もっともまじめな意味です。いわば、事の本質そのものといったところです」とルージンは、質問されたのがさもうれしそうに、すぐこう受けた。「わたしなどは、なんですよ、ペテルブルグへはもう十年も来なかったです。いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうしたものは、田舎住まいの我々には触れないことはないが、それを確実に見るためには、いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルグにいなければいけません。まあ、わたしの意見はこうです――いろいろと多くの事を認識するのには、何よりもわが新しき世代を観察するのが一番ですて。で、わたしは実のところ、大いにうれしかったです……」
「何がです?」
「あなたの質問はあまり範囲が広すぎますね。あるいは、わたしの考えが違っているかもしれませんが、若い人にはより
「それは本当ですよ」とゾシーモフが歯と歯の間から押し出すように言った。
「でたらめだ。実際的精神なんかありゃしないよ」とラズーミヒンが割り込んだ。「実際的精神なんてものは、そうやすやすと得られやしないよ。天から降って来やしまいしさ。われわれロシヤ人はいっさいの活動から遠ざかって、仕事を忘れてしまってから、もうかれこれ二百年もたつんだからね……もっとも、思想は
「あなたのご意見にはどうも同意しかねますなあ」といかにもうれしそうな様子で、ルージンは
「ばかの一つ覚えだ! 自己推賛をやってやがる」とふいにラスコーリニコフが言った。
「なんですと?」とルージンは、よく聞こえなかったので問い返したが、返事はなかった。
「お説ごもっともですな」とゾシーモフが急いで口をはさんだ。
「そうでしょう?」いい気持そうにゾシーモフに視線を投げながら、ルージンはことばを続けた。「あなたもご同意のことと思いますが」今度はラズーミヒンの方を向いてそう言ったが、もう多少勝ち誇ったような優越の色を見せて、あぶなく『え、お若いの』とでも言いそうだった。「現代は長足の進歩、今のことばでいうと、プログレスを遂げておりますよ。少なくとも、科学や、経済上の真理の名においても……」
「月並みですよ!」
「いや、月並みじゃありません! たとえば、今日まで『隣人を愛せよ』と言われておりましたが、もしわたしがやたらに他人を愛したとすれば、その結果はどうなったでしょう?」とルージンはことばを続けた。あるいは、少々せきこみ過ぎたかもしれない。「その結果は、わたしが上着を二つに裂いて隣人に分けてやる、そして二人とも裸になってしまうのです。つまりロシアのことわざでいう『二兎を
「失礼ですが、僕もやはり機智に富んだ方じゃないから」とことば鋭くラズーミヒンはさえぎった。「もう打ち止めにしようじゃありませんか。実のところ僕は目的があって口を切ったんだが、そんなひとりよがりの、いつ終わるともしれぬはてしのない陳腐なおしゃべりは、もう三年の間に、いやになるほど聞き飽きちゃった。自分で口にするのは愚か、自分のいる所で人が言い出すのですら、全く顔が赤くなるくらいだ。あなたはむろん一刻も早く、自分の知識をひけらかしたかったんでしょう。それは大いに酌量すべきことで、僕も別にとがめ立てしません。ただ僕は今あなたがどんな人か、ちょっと知りたかっただけなんですよ。なぜといってね、おわかりでしょう。近ごろは一般の福祉なるものに、いろいろ様々な事業家がからみついて、手を触れるものをなんでもかでも、利得のためにゆがめ傷つけたので、まるで何もかも打ち壊しになってしまったから。だが、もうたくさんだ!」
「あなた!」なみなみならぬ威厳を見せて、ぐっとそり返りながら、ルージンは言いかけた。「あなたがそう無遠慮な口のきき方をされるとすれば、わたしも……」
「いや、とんでもない、とんでもない……僕にそんな失礼なことができますか!……が、とにかくもうたくさんです!」とラズーミヒンは断ち切るように言って、さっきの話を続けるために、くるりとゾシーモフの方へ向いてしまった。
ルージンはこの釈明を信じるだけの
「さて、今日の初対面のお近づきが」と彼はラスコーリニコフに話しかけた。「ご全快の後は、ご存じの通りの関係ですから、ますます深くなるように期待しております……特にご自愛を祈ります……」
ラスコーリニコフは頭もふり向けなかった。ルージンは椅子から腰を持ち上げにかかった。
「確かに質を置きに行ったやつが殺したんだよ!」と断定的な調子でゾシーモフが言った。
「確かに質を置きに行ったやつだ!」とラズーミヒンもあいづちを打った。「ポルフィーリイは自分の考えを漏らさないが、それでも入質人を尋問してるよ……」
「入質人を尋問してる?」とラスコーリニコフは大きな声で尋ねた。
「ああ、それがどうしたんだい?」
「いや、なんでもない」
「先生どこからそんな者を見つけ出すんだろう?」とゾシーモフはきいた。
「コッホが教えたのもあれば、質物の上包みに名を書いてあったのもあるし、話を聞きつけて自分からやって来たものもある……」
「いや、どうも巧妙な慣れきった悪党に違いないね! なんて大胆な! なんて思い切ったやり口だ!」
「ところがどっこい、そうでもないんだ!」とラズーミヒンはさえぎった。「つまり、そこがみんなをまごつかすんだよ。僕に言わせると――巧妙でもない、慣れてもいない。あれは確かに初めての仕事だ! 考えぬいた予定の行動、巧妙な悪党という想像をすると、つじつまが合わない。ところが、不慣れなやつとして見れば、単なる偶然がやつを災厄から救い出した、とこう
「それは、どうやらこのごろやかましい、官吏未亡人の老婆殺しの話らしいですな」とルージンはゾシーモフの方へ向きながら口をはさんだ。もう帽子と手袋を手にして立っていたが、帰る前に少しばかり気のきいたことを言いたかったのである。
見かけたところ、彼は有利な印象を与えようと腐心して、
「そう。お聞きになりましたか?」
「そりゃもう、ほとんど隣のことですから……」
「詳しいことをご承知ですか?」
「そうまでは申しかねますが、しかしこの事件については別な事情が、つまり一つの大きな問題が、わたしの興味をそそるんですよ。最近五年間に、下層社会に犯罪が増加したことや、またいたるところにひんぴんとして起こる強盗や放火については、今さらいうまでもないとして、何より奇怪千万なのは、上流社会でも同様に、いわば平行的に、犯罪が増加して行くことです。どこそこでは大学生あがりが大道で郵便物を
「経済上の変化が激烈ですからね……」とゾシーモフは応じた。
「どう説明したらですって?」ラズーミヒンがからみついてきた。「つまり、病い
「というと、つまり?」
「ほかでもない、モスクワで万国史の講師が言ったことですよ。なぜ債券贋造をしたかという尋問に対して、『みんないろいろの方法で金持になっているから、わたしも手っとり早く金持になりたかったのです』と答えた。正確なことばは覚えていないが、要はたしか、骨を折らないで手っとり早く
「しかし、なんといっても、道徳というものがあるでしょう? その、なんというか、戒律が……」
「いったいあなたは何を気をもんでるんです?」と思いがけなくラスコーリニコフが割ってはいった。「あなたの理論通りになってるじゃありませんか!」
「どうしてわたしの理論通りに?」
「あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、人を
「とんでもない!」とルージンは叫んだ。
「いや、それはそうじゃない!」とゾシーモフが応じた。
ラスコーリニコフは上唇をぴくぴく震わせながら、まっさおな顔をして横になったまま、苦しそうに息をついていた。
「物にはすべて程度というものがあります」とルージンは尊大な調子でことばを続けた。「経済上の思想は、まだ殺人の勧誘にはなりませんよ。だから、もし仮りに……」
「それから、あれはほんとうですか、君が」ふいにまたラスコーリニコフは、
「もし!」ルージンはかっとなって、少なからずまごつき気味ながら、毒のあるいらいらした声で叫んだ。「あなたが……そうまで意味を曲解するなんて! 失礼ながら、こちらも言わせてもらいましょう。あなたのお耳へはいった――いや、あるいは吹き込まれたといった方がいいかもしれない――その噂は、
「よく聞きたまえ!」枕の上に身を持ち上げ、刺すようにぎらぎら光る目でじっと相手をにらみつけながら、ラスコーリニコフはこう叫んだ。「よく聞きたまえ!」
「なんです?」
ルージンはことばを止めて、腹立たしいいどむような顔つきで、じっと待っていた。幾秒かの間、沈黙が続いた。
「ほかでもない、もし君がもう一度……たった一口でも……母をあしざまに言ったら……僕は君を階段から突き落とすぞ!」
「君どうしたんだ!」とラズーミヒンは叫んだ。
「ははあ、そうなのか!」とルージンは青くなって唇を噛んだ。「実はね、君」と彼は一生懸命に腹の虫を抑えながら、ゆっくり間を置いて言い出したが、それでも息ははずませていた。「わたしはもう先刻から、一歩踏み込んだ瞬間から、君がわたしに敵意を持っておられることは察していました。しかし、もっとよく知っておきたいと思って、わざとここに残っておったのです。病人ではあり、
「僕は病気じゃない!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ではなおさら!」
「とっとと出て行け!」
けれどルージンは言うべきことも言い終わらないで、またテーブルと椅子の狭い間をすり抜けながら、もう自分の方から出かけていた。ラズーミヒンも、今度は彼を通してやるために席を立った。ルージンは誰にも目をくれず、もうだいぶ前から、病人にかまわないでくれと、かぶりを振って合図をしているゾシーモフにも、会釈のしるしにうなずこうともしないで、用心ぶかく肩の辺まで帽子を持ち上げながら出て行った。戸口を出る時には、ちょっと背をかがめさえした。その背のかがめ具合にまで、恐ろしい
「あんな法ってあるかい、あんな法って?」ラズーミヒンは頭を振りながら
「うっちゃっといてくれ、みんな僕をかまわないでくれ!」とラスコーリニコフは、前後を忘れたようにどなった。「全く、いつになったらうっちゃってくれるんだい? まるで拷問役人だ! 僕は君らなんか恐れやしない! もう今は誰一人、誰一人こわくない! 僕のそばを離れてくれ! 僕は一人でいたいんだ、一人で、一人で!」
「行こうじゃないか!」ラズーミヒンに
「とんでもない、これを一人うっちゃっといていいものかね」
「行こうってば!」とゾシーモフはがんこにくり返して、さっさと出てしまった。
ラズーミヒンはちょっと考えたが、すぐあとを追って駆け出した。
「病人の言うことを聞かなかったら、どんなことになったか知れやしない」もう階段まで出てから、ゾシーモフはこう言った。「いらいらさしちゃいけないんだ……」
「あの男いったいどうしたんだろう?」
「何かちょっとした、いい具合の衝動がありさえすればいいんだがなあ! さっきなんか、あんなに元気だったんだもの……ねえ、君、あの男なんだか心に屈託があるんだよ! 何かしらじっと凝って動かない重苦しいようなものが……僕はこいつを非常に恐れてるんだ! きっとそうに違いない!」
「ねえ、ひょっとしたらあの紳士、ほら、ルージン氏のためじゃなかろうか! 話の模様で見ると、先生あの男の妹と結婚するんだよ。そのことについて、ロージャは病気の直前に手紙を受け取っているらしい……」
「そう。折の悪い時に来やがったもんだよ。全く、あのやっこさんが何もかも打ち壊してしまったのかもしれないな。ところで、君は気がついたかい――ラスコーリニコフはほかの事にはいっさい
「そうだ、そうだ!」とラズーミヒンはあいづちを打った。「気がついたとも! ばかに興味を持って、びくびくしているんだ。あれは病気の起こった当日、警察署長のところで初めて聞いてびっくりしたからさ。卒倒までしたんだからね」
「君、その話は晩にもっとくわしく聞かしてくれないか。その上で僕も話すことがあるから。この病人は実に興味があるよ! 三十分もしたらまた寄ってみる……ただし、炎症などは起こるまいがね」
「ありがとう! じゃ、僕はその間パーシェンカのとこで待っていながら、時々ナスターシャにのぞかせて、視察するとしよう……」
ラスコーリニコフは一人きりになると、じれったそうな悩ましげな目つきでナスターシャを見やった。こちらはまだ出て行くのをためらっていた。
「もうお茶ほしくない?」と彼女は尋ねた。
「あとで! おれは眠いんだ! うっちゃっといてくれ……」
彼はけいれん的な身ぶりで壁の方へくるりと向いてしまった。ナスターシャは出て行った。
けれど、彼女が出て行くが早いか、彼は起き上がってドアに
それは八時ごろで、日は沈みかかっていた。依然たるむし暑さだったが、彼はこの悪ぐさい
古くからの習慣でいつもの散歩の道筋をたどり、彼はまっすぐに
「君は大道芸人の歌が好きですか?」とラスコーリニコフは、一緒に並んで手回し風琴のそばに立っている浮浪人風の、あまり若くもない男をつかまえて、だしぬけに話しかけた。こちらはきょとんとした目つきで彼を見つめながら、びっくりしたような顔をした。「僕は好きですよ」とラスコーリニコフは続けたが、それはまるで大道芸人の事を話してるのではないような調子だった。「僕はね、寒くて暗い湿っぽい秋の晩――それはどうしても湿っぽい晩でなくちゃいけない――通行人の顔がみんな青白く病的に見えるような時、手回し風琴に合わして歌っているのが大好きですよ。でなければ、いっそぼた雪が風もなくまっすぐに降っている時でもいい、わかるでしょう? 雪を通してガス灯が光ってる……」
「わかりませんな……ごめん……」質問も質問だが、ラスコーリニコフの奇妙な風体にぎょっとした男は、口の中でもぐもぐ言うと、往来の向こう側へ行ってしまった。
ラスコーリニコフはまっすぐに歩いて行って、あの時リザヴェータと話していた町人夫婦がいつも屋台店を出している、
「ここの隅で、町人風の夫婦づれが商売してるだろう、え?」
「みな商売してまさあ」若者は高慢ちきな様子でラスコーリニコフをじろじろ見回しながら、こう答えた。
「その男の名はなんというのだろう?」
「洗礼を受けた通りの名でさあ」
「君はザライスクの人間じゃないかね? いったい何県から来たい?」
若者はもう一度ラスコーリニコフを見つめた。
「わっしらの方は、お前さま、県じゃなくって区といいます。兄貴は方々旅をしましたがね、わっしゃ家にばかりいたもんで、なんにも存じませんよ……まあ、お前さま、もうこれくらいでかんべんしていただきたいもんで」
「あれはめし屋かね、二階の方のは?」
「ありゃ飲み屋ですよ。玉突きもあります。それに姫ごぜ達もいますぜ……にぎやかなもんでさあ!」
ラスコーリニコフは広場を横切って行った。向こうのとある片隅に、黒山のような人だかりがしている。百姓ばかりである。彼は人々の顔をのぞき込みながら、一番こみ合っているまんなかへ割り込んだ。彼はなぜかしら、誰とでも話がしたくてたまらなかった。が、百姓たちは彼などには目もくれず、幾つかの小さいかたまりにわかれながら、てんでに何かしらがやがや言っていた。彼はしばらく立っていたが、ちょっと考えてから、右へ方角をとり、歩道づたいにV通へ足を向けた。広場を通りぬけると、ある横町へはいり込んだ。
彼は前にも、広場からサドーヴァヤ通へ通ずる鉤の手になったこの短い横町を、よく通ったものである。ことに最近は、いやでたまらなくなった時など、『もっと厭な気持になりやがれ』といったような反抗心から、わざわざこの付近をぶらついたくらいである。しかし今はなんにも考えないではいって行った。そこには、建物全体が酒場その他の飲食店で
彼はなぜか下の方の歌声や、がたがたいう物音や、騒々しい人声に心をひかれた……そこからは、くずれるような笑い声と叫びの合い間に、細い裏声の恐ろしくいなせな歌と、ギターに合わせて誰かが
『そさまはわたしの大事な殿ご
『あだにわたしを打たんすな!――
『あだにわたしを打たんすな!――
こういう歌い手の細い声が流れてきた。ラスコーリニコフは、まるでいっさいがそれにかかっているかのように、いま歌っていることが聞きたくなった。
『はいってみようかな?』と彼は考えた。『笑ってやがる! 酔ってるんだ。ええっ、一つへべれけになるまで飲んでやろうか?』
「ちょいと寄ってらっしゃらなくって、かわいい
それはまだ若くて、いやらしくない女だった――群れの中の一人である。
「よう、べっぴんだね!」彼はわずかに身を起こして、女を見ながらそう言った。
女はにっこりした、彼のお世辞がひどく気に入ったので。
「ご自分だってずいぶんいい男だわ」と女は言った。
「まあ、やせてらっしゃること!」もう一人がバスで言った。
「病院からでも出なすったばかりかしら!」
「ちょっと見は将軍様の令嬢だが、鼻が皆ぺちゃんこだあ!」そばへやって来た百姓が、ふいに一杯機嫌で
「なんと面白そうだなあ!」
「おはいりよ、来たくらいなら!」
「はいるよ! さあ、うめえぞ」
こう言って、男はころがるように下へおりた。
ラスコーリニコフは先へ歩き出した。
「ちょいと、旦那?」と娘がうしろから声をかけた。
「なんだい?」
女はちょっとてれた。
「ねえ、かわいい旦那、わたしあんたとなら、いつでも喜んで一緒に遊ぶわ。だけど、今はなんだか気がさして
ラスコーリニコフは手に当たるだけつかみ出した。五カペイカ玉が三つだった。
「あら、まあ、なんて気前のいい旦那でしょう!」
「お前なんていうんだい?」
「ドゥクリーダとたずねてちょうだい」
「だめよ、まあなんてえこったろう」と、ふいに群れの中の一人の女が、ドゥクリーダに向かって頭を振りながら口を出した。「そんな風にねだったりしてさ、なんてったらいいかわかりゃしないわ! わたしなんか恥かしくて、穴へでもはいりたいぐらいだわ……」
ラスコーリニコフは、しゃべっている女を珍らしそうにながめた。それは三十がらみのあばた
『なんだっけかなあ』とラスコーリニコフはまた歩き出しながら考えた。『あれはなんで読んだのだったかなあ。一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことを言うか、考えるかしたって話だ――もし自分がどこか高い山のてっぺんの岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう? まわりは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この方尺の地に百年も千年も、
彼は次の通りへ出た。『やっ! これは「水晶宮」だ! さっきラズーミヒンが「水晶宮」の話をしていたっけ! だが、ええと、おれはなんのつもりだったのかな? そうだ、新聞を読むことだ!……ゾシーモフが新聞で読んだと言ったんだ……』
「新聞あるかい?」かなり広々とした、小ざっぱりした酒場にはいりながら、彼は尋ねた。部屋はいくつかあったが、あまり客はなかった。二、三人の客が茶を飲んでいて、そのほか遠く離れた一間に、四人ばかりの一団が陣どって、シャンペンを飲んでいた。ラスコーリニコフの目には、その中にザミョートフがいるように思われた。もっとも、遠いのでよくは見分けられなかったが。
『なに、かまうもんか!』と彼は考えた。
「ウォートカを差し上げますか?」と給仕が尋ねた。
「いや、お茶をもらおう。それから、新聞を持って来てくれ、古いのを。そうだな、五日ばかり前からそろえて。君には祝儀をあげるからね」
「かしこまりました。これが今日の分でございます。それから、ウォートカを召しあがりますか?」
古い新聞とお茶が来た。ラスコーリニコフは、すわり具合のいいように腰を落ち着けて、捜しにかかった。『イーズレル――イーズレル――アツテーキ――アツテーキ――イーズレル――バルトーラ――マッシーモ――アツテーキ――イーズレル――……ちょっ、畜生! あっ、ここに雑報がある――女が階段から落っこちた――町人が一人酔っぱらって死んだ――ペスキイの火事――ペテルブルグ区の火事――も一つペテルブルグ区の火事――またぞろペテルブルグ区の火事――イーズレル――イーズレル――マッシーモ――あっ、これだ……』
彼はついに捜し当てて読みにかかった。活字は目の中でおどったが、それでも彼は『報道』をすっかり読み終わると、むさぼるように次の号をめくり、新しい追加記事を捜し始めた。頁をくって行く彼の手はけいれんするようなもどかしさに震えた。ふいに誰やら彼の傍へ来て、テーブルの向こうに腰をかけた。ふと見ると、――ザミョートフだった。ポマードをつけた黒い巻き毛に分け目をくっきりと見せ、ハイカラなチョッキに、いくらかすれたフロックをまとい、あまり真っ白でないシャツを着込み、金鎖をたらして、金指輪をいくつもはめた、いつもに変わらぬザミョートフである。彼は愉快そうだった。少なくとも、大いに愉快らしく、人のよさそうな微笑をたたえていた。その浅黒い顔は、一杯やったシャンペンのために、ほんのりと赤くなっている。「えっ! あなたはこんなところへ?」彼はさも百年の知己といった調子で、けげんそうに口を切った。「つい昨日ラズーミヒンが、あなたは引続き正気でないって話してたのに。どうも変ですね! 僕もあなたのとこへ行ったんですよ……」
ラスコーリニコフは、彼がそばへ来るのを覚悟していた。彼は新聞をわきへ押しやって、ザミョートフの方へふり向いた。彼の唇には冷笑が浮かんだ。その冷笑の中には何かしら新しい、いらだたしげな焦燥がのぞくのであった。
「知ってますよ、おいでになったことは」と彼は答えた。「聞きましたよ。靴下を捜してくれたそうですね……ときに、ラズーミヒンは君に夢中ですよ。君はあの男と一緒に、ラヴィーザ・イヴァーノヴナの所へ行ったそうですね。ほら、あの時君が気をもんで、火薬中尉に目くばせしても、先生いっこう気がつかなかった、覚えてるでしょう――あの女のところへ? こりゃもうわからないはずはないんだがなあ――はっきりした話だのに……え?」
「どうもあの男も暴れんぼだな!」
「火薬がですか?」
「いや、君の友人ですよ、ラズーミヒンですよ……」
「君の生活は結構なもんですね、ザミョートフさん。ああいう愉快この上ない所へ木戸御免なんて! いま君にシャンペンをご
「あれはみんなで……飲んだんですよ……で、まあ、ご馳走したんですな!」
「報酬ってやつですな! なんでも利用しますね!」とラスコーリニコフはからからと笑い出した。
「いや、なんでもないさ、わが愛すべき少年よ、なんでもないさ!」ザミョートフの肩をぽんとたたいて、彼は言い足した。「僕は何も当てつけて言ってるんじゃない。『つまり仲がいいもんだから、面白半分に』言ってるんですよ。これは、ほら、例のペンキ屋の職人が、ミトレイをなぐった時に言った事ですよ。例の老婆殺しの件で」
「君はどうして知ってるんです?」
「そりゃ僕だって、君より詳しいかもしれませんよ」
「君はなんだかちと変ですね……きっとまだよっぽど悪いんですぜ。外出なんかしたのは乱暴でしたね……」
「君の目には僕がへんに見えますか?」
「見えますね。ときに、君それはなんです、新聞を読んでるんですか?」
「新聞です」
「やたらに火事のことが出ていますね」
「いや、僕が読んだのは、火事のことなんかじゃありませんよ」こう言って、彼は謎めいた表情でザミョートフを見やった。
「ちっとも知りたかない、ただ、ちょっときいてみただけですよ。いったいきいちゃいけないんですか? なんだって君はのべつ……」
「ねえ、君は立派な教養のある、文学的な人ですね、え?」
「僕は中学を六年までやったきりです」ある威厳を見せながら、ザミョートフは答えた。
「六年まで! いや、君は実にかわいい
こう言ってラスコーリニコフは、神経的な笑いをザミョートフの顔へまともに浴びせかけた。ザミョートフは思わず一足たじたじと後ろへしさった。これは腹を立てたというよりも、すっかり面くらった形である。
「ちょっ、なんという変な人だ!」とザミョートフはまじめにくり返した。「どうやら君はまだ熱に浮かされているようですね」
「熱に浮かされてる? ばかを言っちゃいけない、小雀君!……じゃ、僕は変ですかね? ふむ、それで僕は君にとって興味があるでしょう、え? 興味があるでしょう?」
「ありますね」
「というのは、つまり僕が新聞で何を読んだか、何を捜したかってことでしょう? だって、こんなに古い分をしこたま持って来させたんだからね? うさん臭いでしょう、え?」
「まあ、言ってごらんください」
「
「何がいったい喉から手なんです?」
「何が喉だか、あとで言いますよ。ところで今はね、わが愛すべき好青年、こう声明しよう……いや、いっそ『白状しよう』だ……いや、これもぴったりしない。『陳述するから、お書きとりください』――そう、これだ! そこで陳述すると、僕が読み、興味を持ち、捜し……かつ
ザミョートフも、自分の顔を相手の顔から引こうとしないで、身動きもせずに、ひたと彼を見た。あとでザミョートフが何より不思議に感じたのは、このときちょうどまる一分間、二人のあいだに沈黙が続いて、ちょうどまる一分間、たがいににらみ合っていたことである。
「ちょっ、それがどうしたんです、その記事を読んだのが?」ふいに彼はけげんと焦燥の念にかられて叫んだ。「いったいそれが僕になんの関係があるんです! それがどうしたというんです?」
「ほらあの例の婆さんですよ」とラスコーリニコフは、ザミョートフの叫び声に身動きもせず、同じくささやくようにことばを続けた。「覚えてるでしょう、あの時警察で話が出て、僕が卒倒した、あの婆さんですよ。どうです、もうわかったでしょう?」
「いったいなんのことです? 何が……『わかったでしょう』です?」とザミョートフはほとんど不安そうな様子で言った。
ラスコーリニコフのじっと据わって動かぬまじめな顔つきは、一瞬の間にがらりと変わってしまった。突如彼は、まるで自分で自分を制する力がないように、またもや先ほどと同じ神経的な
「君は気がちがったのか、それとも……」とザミョートフは言いかけて――ことばを止めた。とつぜん心にひらめいた想念に打たれたかのように。
「それとも? 何が『それとも』です? さあ、なんです? さあ、言ってごらんなさい!」
「なんでもありません!」ザミョートフはむっとして答えた。
「みんなくだらない事です!」
二人とも黙ってしまった。思いがけない発作的な笑いの爆発が終わると、ラスコーリニコフはまた急にもとの物思わしげな沈んだ様子になった。彼はテーブルに
「なぜお茶を飲まないんです? さめてしまうじゃありませんか」とザミョートフが言った。
「え? なに? お茶……それもそうだな……」
ラスコーリニコフは、コップの茶を一口がぶりと飲んで、パンを一切れ口へ入れた。それから、ザミョートフの顔をちょっと見ると、ふいにいっさいを思い出したらしく、おもわずぴくりと身震いするような格好をした。彼の顔はその瞬間、はじめと同じ嘲笑的な表情を浮かべた。彼は茶を飲み続けた。
「近ごろは実にああした凶行がふえてきましたね」とザミョートフは言った。「ついこの間も、『モスクワ報知』で読みましたが、大規模の紙幣
「ああ、それはもうずっと前の事でしょう! 僕一月も前に読みましたよ」とラスコーリニコフは落ち着いて答えた。「じゃ、あなたにいわせれば、あんなのが悪党なんですかね?」と彼は薄笑いしながら言い足した。
「悪党でなくってどうします?」
「あれが? あれは子供ですよ、青二才ですよ、悪党なんかじゃありません! あんな仕事をするのに五十人からの人間が寄り合うなんて! そんなのってありますか。三人でも多いくらいだ。それも、お互い同士を自分以上に信用してる場合に限りますよ! さもなければ、中の一人が酔っぱらってうっかりしゃべったら、それでもう万事がらがらといってしまうんですからね! 青二才ですよ!
「手が震えたのがなんです?」とザミョートフは引きとった。「なに、それはありがちの事ですよ。いや、僕は全然ありうると信じますね。どうかすると、持ちこたえられませんよ」
「それしきのことが?」
「そりゃ君なら、あるいは持ちこたえられるかもしれませんね? いや、僕だったら持ちこたえられない! 百ルーブリやそこいらの礼金で、そんな恐ろしいことをするなんて! 贋造紙幣を持って――しかも所もあろうに――それで苦労をしぬいて銀行へ行くなんて――いや、僕なんかてれてしまいますよ、君は平気ですか?」
ラスコーリニコフは急にまた、『舌をぺろりと出して』やりたくなった。
「僕ならそんなやり方はしませんね」と彼は遠まわしに始めた。「僕ならこんな風に両替しますよ。まず最初の千ルーブリは、一枚一枚にあらためながら、あっちからもこっちからも四度くらい数えて、それから次の千ルーブリにかかる。数え始めて、半分どころまでくると、どれか五十ルーブリ紙幣を一枚抜き出して、明りに透かしながら引っくりかえしてみて、もう一度――にせじゃないかと明りにすかしてみる。そして『僕は気になるんですよ。このあいだも親戚の女が、この手で二十五ルーブリしてやられましたのでね』てなことを言って、そこでさっそくその一部始終を物語るんです。それから三千ルーブリ目の勘定にかかったとき、『いや失礼、僕さっき二千ルーブリ目を勘定するとき、七百ルーブリの所を数えそこなったようだ、どうもそんな気がする』といって、三千ルーブリ目の勘定をやめ、もう一度二千ルーブリ目の勘定にかかる――まあ、こんな風にして、五千ルーブリみんな数えてしまうんですよ。そしてぜんぶ数え終わると、また五束目と二束目から一枚ずつ抜き出して、また明りに透かしながら、またいかにも気がかりらしい顔をして、『どうかこれを取り換えてくださいませんか』――こんな調子で銀行員がへとへとになって、悲鳴を上げるまでやるんです。もうどうしたら僕をやっかいばらいができるか、途方にくれてしまうまでね! で、やっと片づけて出て行く段になって、戸をあけると――『いや、いけない、ちょっと失礼』と、もう一度ひっ返すんです。そして何か問いを持ちかけて説明を求める――とまあ、僕ならこんな風にやりますね?」
「へえ、君はなんて恐ろしいことを言う人でしょう!」とザミョートフは笑いながら言った。「しかし、それは口先ばかりで、実行となったら、きっとつまずきますよ。そんな場合には、僕に言わせれば、君や僕ばかりでなく、どんな海千山千の向こう見ずでも、自分で自分がどうなるか、けっして保証できるもんじゃありませんよ。何も回りくどい話をするまでもない、現にこういう例があります。僕らの管内で老婆が一人殺されましたが、あれこそ白昼あんな冒険をやってのけて、ほんの奇跡で助かったというだけの不敵きわまる凶漢らしいが、それでもやっぱり手が震えたんですよ。その証拠には、盗む方の仕事はまるでできなかったんですからね。持ちこたえられなかったんですな。仕事のやり口で見え透いてますよ……」
ラスコーリニコフはむっとしたような表情になった。
「見え透いてる? じゃ一つつかまえてごらんなさい、今すぐ」と彼は意地わるい喜びの声で、ザミョートフを扇動するように叫んだ。
「そりゃもうつかまえますとも」
「誰が? 君が? 君につかまりますか? くたびれもうけですよ! 君がたの、一ばん奥の手は、金づかいが荒いかどうか、くらいのもんでしょう? 今まで一文なしでいたやつが、急に金をつかい出すと――それこそ犯人だとくる。そんなことじゃ、子供でもその気にさえなれば、君がたをだますのはわけありませんぜ」
「ところがね、やつらはみんなそれをやるんですよ」とザミョートフは答えた。「殺す方は
ラスコーリニコフは眉をひそめて、じっとザミョートフを見つめた。
「君はどうやら味をしめて、その場合に僕がどう立ち回るか、知りたくてたまらないようですね?」と彼は不満げな調子で尋ねた。
「知りたいもんですね」こちらはきっぱりと、まじめに答えた。彼はなんとなくあまりまじめすぎるくらいに口をきき、まじめすぎるくらいの顔つきになった。
「非常に?」
「非常に!」
「よろしい。僕ならこんな風に立ち回りますね」またもや自分の顔を、やにわにザミョートフの顔へ近づけて、じっと穴のあくほど相手を見つめながら、ラスコーリニコフはささやくような声で言い出した。今度はザミョートフも思わずぴくりと身震いした。「僕ならこんな風にしますね。まず金と品物を取って、そこを出たら、すぐその足でどこへも寄らずに、どこか
「君は気ちがいです」ザミョートフもなぜか同様ささやくように言った。そして、なぜか急にラスコーリニコフから身を引いた。
こちらは目をぎらぎら光らせた。顔色が恐ろしいほど青くなって、上唇がぴくりとしたと思うとそのままひくひくおどり出した。彼はできるだけ近くザミョートフの方へかがみこんで、少しも声を出さずに唇を動かし始めた。それは三十秒ばかり続いた。彼は自分のしている事を意識しながら自制ができなかった。ちょうどあの時のドアの栓のように、恐ろしい一言が彼の唇でおどって、今にも飛び出しそうだった。ただもう一息、それを口から出しさえすれば! ただもう音に発しさえしたら!
「ねえどうです、もし僕があの婆さんとリザヴェータを殺したのだったら?」と彼はだしぬけに口を切って――はっとわれに返った。
ザミョートフはけうとい目つきで彼の顔を見ると、布きれにまがうばかり真っ青になった。その顔は微笑でゆがんだ。
「いったいそんな事があっていいもんか?」彼はやっと聞こえるくらいの声でこう言った。
ラスコーリニコフは毒々しい目つきで、じろりと彼を見やった。
「白状なさい、君ならそれを信じたでしょう?……」とついに彼は冷やかな
「まるっきり違います! 今という今こそ、今までよりもっと信じませんよ!」とザミョートフはあわてて叫んだ。
「とうとう引っかかった! 小雀君を捕まえたぞ。してみると『今までよりもっと信じない』と言われる以上、以前は信じてたんでしょう?」
「ええ、けっしてそんな事はないというのに!」とザミョートフはいかにも
「それじゃ信じないんですね? では、あの時僕が警察を出たあとで、君らはなんの話を始めたんです。なぜ火薬中尉は、卒倒した後まで僕を尋問したんです? おい、君!」と彼は立ち上がりながら、帽子をつかんで給仕を呼んだ。「勘定はいくらだい?」
「みんなで三十カペイカいただきます」と給仕は駆けよりながら答えた。
「さあ、二十カペイカは君にチップだ。どうだ、大した金じゃありませんか!」と彼は
彼は一種野性的な、ヒステリイじみた、しかもたまらないほどの快感を交えた感触に、全身震えおののきつつ外へ出た。――けれども
ザミョートフは一人になると、同じ所に腰かけたまま、長い間もの思いに沈んでいた。ラスコーリニコフは突如として、例の件に関する彼の考えをすっかり
『イリヤー・ペトローヴィッチは、まぬけだ!』と彼はきっぱり決めてしまった。
ラスコーリニコフが表のドアをあけると、外からはいって来るラズーミヒンに、思いがけなく入り口の階段でぶっつかった。二人はつい一足手前まで互いに気がつかなかったので、ほとんど危く鉢合せするところだった。しばらくの間、二人は互いに相手をじろじろ見回していた。ラズーミヒンは、非常な驚きに打たれた様子であったが、ふいに
「貴様はこんなところへ来ていたのか!」と、彼はのども裂けよと叫んだ。「寝床から抜け出しやがって? 僕は長椅子の下まで捜したぞ! 屋根裏まで捜しに行ったぞ! 君のお
「そのわけはほかでもない、君たちがうるさくてやり切れなくなったから、一人きりになりたかったのさ」とラスコーリニコフは落ち着き払って答えた。
「一人きりで? 歩くこともできないくせに、まだ布のような青い面をして、息を切らせているくせに。ばか! いったい君は『水晶宮』なんかで何をしていたんだ? 白状しなきゃ承知しないぞ!」
「放せ!」ラスコーリニコフは言って、そのまま通り抜けようとした。
これでいよいよラズーミヒンは我を忘れてしまった。彼はぐっと相手の肩をつかんだ。
「放せだ? 『放せ』なんてよくも言えたな! 僕が君をこれからどうしようと思ってるか、わかるか? 羽がいじめにして、ふん縛ってよ、小脇にかかえて連れて帰るんだ、錠をおろして閉じ込めてやるんだ!」
「なあ、ラズーミヒン!」とラスコーリニコフは静かに、落ち着き払って言い出した。「僕が君の親切をいやがってるのが、君はいったいわからないのかね? せっかくの親切に
ラズーミヒンは突っ立ったまま、しばらく考えていたが、やがて彼の手を放した。
「じゃ、勝手にどこなとうせやがれ!」と彼は低い声で、ほとんどもの思わしげに言った。「待て」ラスコーリニコフがその場を動こうとしたとき、彼はだしぬけにこうどなった。「まあ、僕の言うことを聞け。僕は宣言するが、君たちは一人のこらず、やくざなおしゃべりか、ほら吹きばかりだ! 君たちはほんのちょっと苦しい事ができると、まるでめんどりが卵をかかえ込んだように、そいつを背負い回るんだ! しかも、そんな時にまで、他人の作品を
「いやだ!」
「嘘をつけえーえ!」ラズーミヒンはじれったそうにわめいた。「どうして貴様にそれがわかるもんか? 自分で自分の行為に責任の持てない男じゃないか! それに、君にゃこの
「そんな風だと、なんですね、ラズーミヒン氏、おそらくあなたは親切を尽くしたいという満足感のために、他人に自分を打つことさえ許しておやりになるでしょうね」
「誰を? 僕を? そんなことを考えただけでも、そいつの鼻柱をひん曲げてやるよ! ポチンコフの持家だよ、四十七号で、バーブシキンという官吏の住まいだ……」
「僕は行かないよ、ラズーミヒン!」とラスコーリニコフはくびすを転じて、さっさと歩き出した。
「僕は
「あすこだ」
「会ったかい?」
「会った」
「話をしたかい?」
「した」
「なんの話を? いや、君なんか勝手にしろだ、言わなくてもいいや。ポチンコフの持家、四十七号のバーブシキンだ。覚えておけよ」
ラスコーリニコフはサドーヴァヤ通りまで行きつくと、町角を曲ってしまった。ラズーミヒンはその後をもの思わしげに見送っていた。とうとう
『ええ、くそ、いまいましい!』と彼はほとんど声に出して言った。『しゃべることは筋道が通っている。だがまるで……しかし、おれも馬鹿だな! 気ちがいだって、筋道の通った話をしないとも限らないじゃないか? どうやらゾシーモフも、これを多少恐れているらしかった!』と彼は指で額をこつんとたたいた。『だが、どうしたもんだろう、もし……あいつを一人で勝手にさせる法はない! 身投げくらいするかもしれん……ああ、こりゃしまったぞ! いけない!』こう考えて、彼はまたあとへ引っ返し、ラスコーリニコフのあとを追って駆け出した。けれど、もう影も形も見えなかった。彼はぺっと唾を吐いて、一時も早くザミョートフに様子をきこうと、急ぎ足で『水晶宮』へ引っ返した。
ラスコーリニコフは真っ直ぐに橋まで行って、そのまんなかの
「身投げだ! 身投げだ!」と幾十人かの声が叫んだ。人だかりがして来て、両側の河岸通は見物人が垣のように続いた。橋の上のラスコーリニコフのまわりにも、群衆がうしろから押したり突いたりしながら、黒山のようにたかってきた。
「あれえ、まあ、あれは隣りのアフロシーニュシカじゃないか!」どこかその辺で泣くような女の叫び声が聞こえた。「皆さん、助けてくださいよう! 誰か引き揚げてくださいよう!」
「ボートだ! ボートだ!」と群衆の中でわめく声がした。
けれど、もうボートはいらなかった。一人の巡査が河岸の石段を駆けおりて、
「酒が過ぎてこんなことになったんですよ、皆さん、酒が過ぎて」今度はもうアフロシーニュシカの傍で、例の女の声がこういった。「こないだも首をくくろうとしたのを、やっと
群衆は散じ始めた。巡査らはまだ身投げ女の世話をやいていた。誰やら警察がどうとかわめいた。……ラスコーリニコフはすべての事を妙に冷淡な、無関心な感じでながめていた。彼は忌まわしくなってきた。『いや、そんな事は汚らわしい……水は……いけない』と彼は心の中でつぶやいた。『何事もありゃしない』と彼は言い足した。『何も待つことはない。警察がどうとかいったが、あれはなんだろう……ザミョートフはなぜ警察にいないんだ? 警察は九時過ぎから開いているのに……』彼は欄干の方へ背を向けて、あたりを見回した。
『ふん、それがどうしたというんだ! それもいいじゃないか!』彼は断固たる調子でこう言うと、橋から離れ、警察の方角をさして歩き出した。彼の心はうつろで、がらんとしていた。何を考える気もしなかった。憂愁までも消えうせて、『何もかも片づけてしまう』ために家を出た、あの先ほどの意気込みも跡かたすらなかった。そして、深い無関心な気持がそれに代わった。
『なに、これだってやはり結末だ!』濠端の通りを歩きながら、彼は静かにものうく考えた。『とにかく片づけてしまう、そうしたいんだから……だがしかし、ほんとうに結末かな? いや、どうだって同じことだ! 方尺の空間はあるだろう――へっ! しかし、いったいなんの終末なんだろう! いったいほんとうの終末だろうか? おれはやつらに言ってしまうだろうか、どうだろう? ええ……くそっ! 第一、それにおれは疲れてるんだ。どこでもいいから、少しも早く横になるか、すわるかしたいんだ! 何よりも恥かしいのは、すべてがあまりばかばかしすぎるってことだ。だが、それもくそくらえだ。ええっ、なんてくだらない事がよくも頭へ浮かんでくるもんだ……』
警察署へはどこまでも真っ直ぐに行って、二つ目の曲がり角を左へ取らなければならなかった――警察はそこから一足だった。けれど、最初の曲がり角まで来ると、彼は立ち止まってちょっと考えた後、横町へそれてしまった。そして、通りを二つ越して、まわり道をしながら先へ進んだ――これは何も当てなしだったのかもしれないが、あるいはほんの一分でも先へ延ばして、余裕を作ろうとしたのかもしれない。彼は地面ばかり見て歩いた。ふと誰か耳もとで何やらささやいたような気がした。彼は頭を持ち上げてみると、いつの間にかあの家のそば、しかも門のすぐ前に立っていた。あの晩からこっち、彼は、ここへ来たこともないし、傍を通ったこともなかったのだ。
ことばであらわせない欲求が、彼をいやおうなしにぐんぐん引っ張って行った。彼は家の中へはいって、門の下を通りぬけ、それから右手にある最初の入り口をくぐって、
この住まいもやはり新しく修繕されていた。中には職人がはいっていたが、それがまた彼をぎょっとさせたような形だった。彼はなぜかこの住まいが、あのとき見捨てて行った状態とそっくりそのままで、
職人はみなで二人きり、どちらも揃って若い者で、一方は少し年かさ、一方はずっと若かった。彼らは以前の黄色いぼろぼろのよごれた壁紙の代わりに、薄紫色の花模様のついた新しい白い紙で壁を貼っていた。ラスコーリニコフはなぜかそれがひどく気に入らなかった。こんなに何もかも変えられてしまうのを惜しむように、彼は敵意を持った目でその新しい壁紙をにらんでいた。
職人たちは大分ぐずぐずしていたとみえて、いま急いで紙を巻き収め、帰りじたくをしているらしかった。ラスコーリニコフが現われたのも、彼らの注意をひかなかった。二人は何か話し合っていた。ラスコーリニコフは腕組みをして、耳を傾け始めた。
「あの女がな、ある朝おれんとこへやって来たんだ」と年かさの方が若い方に言った。「べらぼうに早く、大めかしにめかし込んでよ。『なんだってお前、人の前でそうでれでれしやがるんだい。なんだってそうべたべたしやがるんだい?』とおれが言うと、やつめ『あのね、チート・ヴァシーリッチ、わたしこれから先ずっとお前さんの自由になりたいと思うのよ』ときやがった。まあ、こういうわけなのよ! ところで、そのめかしようといったら、雑誌だ、なんのこたあない雑誌だよ!」
「そりゃなんの事だい、おっさん、その雑誌って?」と若い方が聞いた。彼は見たところ、『おっさん』にいろいろな事を習っているらしかった。
「雑誌てえのはな、お前、つまり色を塗ったきれいな絵のことさ。ここの仕立屋へ土曜ごとに、外国から郵便で来るんだ。つまりな、男でも女でも誰がどんな服を着たら似合うかってんだ。つまり、見本絵さ。男の方はたいてい外套を着てるが、女の方になるてえと、手前がありだけのものをほうり出しても、まだ足りないくれえどえらい
「このペテルにゃ、なんだってないものはないのだねえ!」と若い方は夢中になって言った。「お袋と親父のほかにゃなんだってあらあ!」
「それだけをのけたら、なあ兄弟、どんなもんでもあらあな!」と年かさの方は教訓めいた調子で言った。
ラスコーリニコフは立ち上がって、もと長持、寝台、
「なんのご用ですね?」ラスコーリニコフの方へふり向きながら、彼はいきなりこう尋ねた。
返事をする代わりに、彼は立ちあがって控室へ出て行き、呼鈴の
「いったいなんの用なんだい? お前は何者なんだ?」彼の傍へ出て来ながら、職人はきめつけた。
ラスコーリニコフは再びドアの中へはいった。
「家を借りようと思って」と彼は言った。「見てるんだよ」
「夜家を借りに来る人はありませんや。おまけにそれなら、庭番と一緒に来なくちゃ駄目ですよ」
「
「血ってなんですね?」
「ほら、ここで婆さんが妹と一緒に殺されたじゃないか。ここはまるで血の海だったのさ」
「お前はいったいなにものだい?」と職人は不安げに叫んだ。
「僕かい?」
「そうさ」
「お前それが知りたいのか?……じゃ一緒に警察へ行こう、そこで聞かしてやるから」職人たちはけげんそうに、しばらく彼を見つめていた。
「もう帰らなくちゃならねえ。すっかり手間どっちゃった。行こうよ。アリョーシカ。戸じまりをしなくちゃ」と年かさの職人が言った。
「うん、行こう!」とラスコーリニコフは無関心な調子で答えて、先に立って部屋を出ると、ゆるゆる階段をおり始めた。
「おい、庭番!」門の所まで来ると、彼は声高に呼んだ。
五、六人のものが入り口のすぐそばで、ぼんやり往来の人を見ながら立っていた。それは二人の庭番と、一人の女と、部屋着をきた町人と、その他一、二のものだった。ラスコーリニコフはいきなりそのそばへよった。
「何ご用で?」と庭番の一人が応じた。
「警察へ行って来たかい?」
「いま行って来ました。あなた何ご用で?」
「向こうには皆いるかい?」
「いますよ」
「副署長もいたかい?」
「ちょっと来ていました。あなた何ご用で?」
ラスコーリニコフはそれには答えず、考え込みながら、一同と並んでたたずんだ。
「住まいを見に来たんだとよ」と年かさの方の職人が傍へ来ながら言った。
「どの住まいを?」
「おれたちが仕事している所さ。『なんだって血を洗ってしまったのだ? ここじゃ人殺しがあったじゃないか。ところで、おれは借りに来たんだ』なんてよ。それから、呼鈴を鳴らして、まるで綱を引きちぎらないばかりだったよ。それから警察へ行こう、そこで何もかも話してやる、とかなんとかいって、うるさくからんできたのさ」
庭番は合点の行かぬ顔をして、
「あなたはいったいどなたですね?」と彼はやや声を励まして問いかけた。
「僕はもと大学生だった、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフというもので、ここからあまり遠くない横町にある、シールの持家の十四号にいるんだよ。庭番に尋ねてくれ……知ってるから」ラスコーリニコフは相手の方を見向きもせず、薄暗くなった通りをじっと見つめながら、大儀そうな物思わしげな調子で、これだけの事を言った。
「が、なんだってあなたは部屋の中へはいったんです?」
「見るためにさ」
「何を見るものがあります?」
「いっそふんづかまえて、警察へ突き出しちまえ!」とふいに町人が口を出したが、すぐ黙ってしまった。
ラスコーリニコフは肩ごしに町人を尻目にかけて、注意ぶかくじっと見つめていたが、ものうげな低い調子で言った。
「じゃ、行こう!」
「そうだ、突き出しちまえ!」と町人は元気づいて、相手のことばを引取った。「なんだってこの男はあの事を言い出したんだ? いったいなにを腹に隠してるんだ、うん?」
「酔ってるか、酔ってねえか、わかったもんじゃねえ」と職人はつぶやいた。
「本当になんの用なんですね?」そろそろ本気に腹を立てながら、庭番はまたもやどなりつけた。「何をいつまでもへばりついてるんだ?」
「警察へ行くのがこわくなったのかい?」とラスコーリニコフは冷笑を浮かべながら言った。
「何がこわいんだい? 手前こそ何を人にからんできやがるんだ?」
「かたりめ!」と女がどなった。
「何もこんな野郎を相手にぐずぐずいう
こう言うなり、ラスコーリニコフの肩をつかんで、往来へ突き飛ばした。こっちは危くもんどり打ちそうになったが、どうにか踏みこたえて倒れなかった。身づくろいして、無言のまま見物一同を見やったが、やがてまた先の方へ歩き出した。
「
「近ごろは梃妙来なやつが多くなったのさ」と女が言った。
「やっぱり警察へ突き出しゃよかったんだ」と町人は言い足した。
「何もかかり合いになる事あねえよ」と大男の庭番が言った。「全くのかたりさ! あの通り、自分から行きたがってるんだから、いいじゃねえか。うっかりかかり合ってみろ! それこそ抜けられやしねえから……ちゃんと知ってらあな!」
『さて、行ったものか、やめたものか?』ラスコーリニコフは
通りのまんなかには、二頭立の
「なんという災難だろう! ああ、どうもとんだ災難だ!」
ラスコーリニコフはできるだけ前へ割り込んで、この騒ぎと人だかりの原因をやっとのことで見定めた。地面には今しがた馬に踏まれたばかりの男が、全身血まみれになって倒れていた。見たところ、いかにもみすぼらしいが、『
「皆さん!」と御者はくどくどと訴えた。「どうしてこれがよけられましょう! そりゃもうわっしが馬を追い立てたとか、声をかけなかったとかいうなら格別だが、けっして急いだんじゃなくて、並み足でやって来たんでございますからな。皆さん方も見てござりましたが――人間は粗相をしやすいもので、わっしもその一人でございますよ。酔っ払いはご承知の通り、
「全くそれに違いない!」と誰かの証明する声が群衆の中で響いた。
「声をかけた、そりゃ本当だ、三度も声をかけたんだ」ともう一人の声が応じた。
「かっきり三度だ、みんな聞いてた!」と第三の声が叫んだ。
もっとも、御者はさほどしょげても、びくびくしてもいなかった。見うけたところ、馬車の持主は富裕な名士で、今はどこかで馬車の来るのを待っているらしい。巡査はいうまでもなく、この点がうまくいくようにと、少なからず気をもんでいた。とにかく、
その間にラスコーリニコフは人ごみを押し分けて、なおも近く身をかがめた。ふと角灯の光りがこの不幸な男の顔をはっきり照らし出した。彼はその男を見分けた。
「これは僕が知ってる、知ってる!」と彼はすっかり前へ出て行きながら叫んだ。「これは官吏です。退職の九等官で、マルメラードフという! すぐ近所のコーゼルの持家に住んでいます……医者を早く! 費用は僕が払います、この通り!」
彼はポケットから金を取り出して、巡査に見せた。彼はむやみに興奮していた。
巡査たちは怪我人の身もとがわかったので満足した。ラスコーリニコフは自分の姓名と住所を告げ、まるで生みの父親の事かなんぞのように一生懸命になり、人事不省のマルメラードフを一刻も早くその住まいへ運ぶように主張した。
「ほら、あすこです、この三軒さき」と彼は一人でやきもきした。「コーゼルの持家です。金持のドイツ人の……この人はきっと酔っ払って、家へとぼとぼ帰るところだったんです。僕はこの人を知っていますが……大酒飲みなんでね……家には家族がある。細君に、子供に、それから娘が一人いるんです。病院へつれて行くまでに応急手当てを、あの家にもきっと医者が住まっているから! 払いは僕がします、僕がします!……なんといっても肉親の看護だから、早く手当てができる。でなかったら病院へ行くまでに死んでしまう……」
彼は巡査の手にこっそりとなにがしかの金を握らせさえもした。それに、事件はわかり切った当然のことである。いずれにしても、その方が手当ては早いに決まっていた。怪我人はかつぎ上げられ、運んで行かれた。手伝い人もいくたりか出て来た。コーゼルの家までは三十歩ばかりしかなかった。ラスコーリニコフはそっと大事に頭をささえながら、あとからついて行き、道案内をした。
「こっちだ、こっちだ! 階段をのぼるときは、頭を上にしなくちゃいけない。ぐるっと回った……そうだ、そうだ。僕が駄賃を払うから、礼をするから」と彼は言った。
カチェリーナ・イヴァーノヴナはいつものくせで、ちょっとでも暇があればすぐに両手をしっかり胸に組み合わせて、何かひとりごとを言っては、ごほんごほん
「お前はとてもほんとうにできないだろう、考えてみることもできないだろう。ねえ、ポーレンカ」と彼女は部屋を歩きながら言った。「おじいさまのおうちにいるころ、わたしたちはどんなに面白く華やかに暮していたか。それを、あの酔っ払いがわたしを破滅さしてしまった上に、お前たちまで破滅させようとしているんだよ! おじいさまは五等官だから、軍人なら大佐で、まあいわば知事様みたいだったんだよ。もうほんの一息で知事様というところだったのよ。だから、みんながおじいさまのところへ来ては、『わたしどもはあなたを知事さま同様に思っているのでございます、イヴァン・ミハイルイチ』なんていったものさ。わたしがね……ごほん! わたしが……ごほん、ごほん……ああ、つくづくいやになってしまう!」と彼女はたんを吐き出して胸を抑えながら、叫ぶように言った。「わたしがね……ああ一番おしまいの舞踏会の時……貴族会長さんのお宅の舞踏会の時……ベズゼメーリナヤ公爵夫人がね――これはあとでわたしがお前のお父さんと結婚した時に、祝福してくだすった方だよ、ポーレンカ――この方がね、わたしを見るとすぐ『卒業式の時にショールをもって踊ったかわいいお嬢さんは、あの人じゃなかったかしら?』とおききになったんだよ。(ああ、ほころびを縫わなくちゃ。さ、早く針を持って来て、わたしが教えた通りにつくろってごらん。でないと、明日は……ごほん! 明日は……ごほん、ごほん、ごほん! もっとひどく裂けてしまうから)」と苦しげに身もだえしながら、彼女は叫んだ。「そのときね、ペテルブルグからいらっしたばかりのシチェゴリスコイ公爵という侍従武官が……わたしとマズルカをお踊りになって、その翌日わたしに結婚の申し込みをなすったんだよ。その時、わたしは自分でごく丁寧にお礼を申し上げて、わたしの心はもうほかの人にささげているからと、お断わりしたの。そのほかの人というのが、つまり、お前のお父さんだったのよ、ポーリャ。するとおじいさまがたいへん腹をお立てになってね……あ、お湯はできたかえ? さあ、肌着をおよこし、そして靴下は?……リーダや」と彼女は下の娘を呼びかけた、「お前今夜は仕方がないから、肌着なしでおやすみよ。どんなにかしてね……靴下は傍へ出しておおき……一緒に洗うんだから……なんだってあの飲んだくれは帰らないんだろうね! 肌着を
「いったいこりゃどこへ置いたもんだろう?」
「長椅子! 長椅子へじかに置いてくれたまえ、ほら、こっちを頭にして」とラスコーリニコフが指図した。
「往来でひかれたんだよ! 酔っ払ってるところを!」と控室から誰やらが叫んだ。
カチェリーナは真っ青になって突っ立ったまま、さも苦しげに息をしていた。子供たちは仰天してしまった。小さいリードチカはきゃっと叫んで、ポーレンカにとびかかり、姉にひしとしがみついて、全身をわなわな震わした。
マルメラードフを寝かすと、ラスコーリニコフはカチェリーナのそばへ駆け寄った。
「どうか後生ですから、落ち着いてください、びっくりしないでください!」と彼は早口に言った。「ご主人は往来を横切ろうとして、馬車にひかれなすったんですが――心配はいりません。今に気がつきますから。僕がここへかついで来るようにいいつけたんです……僕一度伺ったことがあります、覚えていらっしゃるでしょう……大丈夫、気がつきますよ。金は僕が払います!」
「ああ、とうとう本望を達したんだ!」カチェリーナは絶望的な叫びを一声たてると、夫のそばへ駆け寄った。
ラスコーリニコフは、彼女が気絶して倒れるような女でないことを、やがて間もなく見てとった。不幸な老人の頭の下には、今まで誰一人気のつかなかった枕が当てがわれた。カチェリーナは夫の服を脱がせ、傷をあらためにかかった。自分のことは忘れてしまって、震える唇をきっとかみしめ、今にも胸からほとばしり出ようとする叫びを抑えながら、一生懸命にまめまめしく働いて、取り乱した風もなかった。
ラスコーリニコフはその間に、医者へ人を走らせた。医者は一軒おいて隣りに住んでいることがわかった。
「ぼく医者を呼びにやりました」と彼はくり返しくり返し、カチェリーナに言った。「ご心配はいりません、僕が払いますから。水はありませんか?……そしてナプキンでもタオルでも、なんでもいいから早くください。
カチェリーナは窓の方へ飛んで行った。その片隅のぺちゃんこになった椅子の上に、子供や夫の肌着を夜中に洗濯するために用意された、大きなたらいが据えてあった。カチェリーナはこうした夜中の洗濯を、少なくとも週に二度、時にはそれ以上、自分の手でするのであった。家の者の肌着が一人に一枚ずつしかなく、着がえすらもないほどの落ちぶれ方ではあったが、彼女は不潔なことが大嫌いなので、家の中によごれ物をほうって置くよりは、力にあまる無理な仕事でわが身を苦しめても、夜みんなが寝ている間に洗濯して、それを張り渡した縄にかけて朝までに干しあげ、皆にさっぱりしたものを着せようとするからであった。彼女はラスコーリニコフの求めに応じて、たらいを持って行こうと手をかけたが、危うくその重荷と一緒に倒れそうになった。けれどラスコーリニコフはその間にもうタオルを見つけて、それを水に浸し、血まみれになったマルメラードフの顔をふき始めた。カチェリーナは痛みをこらえるように息をつぎながら、両手で胸を抑えてその場に突っ立っていた。彼女自身にも手当てが必要なくらいであった。ラスコーリニコフは、ここへ怪我人をかつぎ込むようにすすめたのは、自分の失策だったかもしれぬということが、だんだんわかってきた。巡査もやはり思い惑うような顔つきで立っていた。
「ポーリャ!」とカチェリーナは叫んだ。「ソーニャのところへ駆け出しておいで、大急ぎで。もし家にいなくっても、やっぱりそう言っておきなさい――お父さんが馬車にひかれたから、帰ってきたら、すぐお
「いっちょ懸命に駆け出しといでよ!」と弟がふいに椅子の上から叫んだ。けれどこれだけ言うと、すぐまた前のように目をまんまるく見張り、踵を前に爪先を開いたまま、黙り込んで椅子の上にちんとすわり続けていた。
その間に部屋は人で埋まりつくして、りんご一つ落とす隙間もなくなってしまった。巡査は引き揚げたが、ただ一人だけ残って、階段からわいわい押しかけてくる群衆を、また階段へ追い返すのに骨折っていた。その代わり奥の方の部屋部屋から、リッペヴェフゼル夫人の借間人どもが、ほとんど総出でばらばら飛んで来た。初めのうちこそ、ただ入り口で押し合っているばかりだったが、やがてどやどやと部屋の中までなだれ込んできた。カチェリーナは前後を忘れてしまった。
「せめて死ぬだけでも、静かに死なしてやってくれたらよさそうなもんだ!」と彼女は群衆に向かってどなった。「見世物じゃあるまいし! 煙草なんかくわえてさ! ごほん、ごほん、ごほん! いっそ帽子もかぶってくるがいい……まあ、本当にひとり帽子をかぶったのがいるよ!……出て行け! 死んだ者にくらい礼儀を守りなさい!」
戸の向こうでは、病院へやったらとか、ここでむだに騒いでも仕方がない、とかいうような声が聞こえた。
「ここで死んじゃいけないというの!」とカチェリーナは叫んだ。そして、みんなに大雷を破裂さしてやろうと、戸をあけに飛び出しかけたが、あたかも戸口のところで、今しがた不幸を聞きつけるなり処置をつけにかけつけたリッペヴェフゼル夫人にぶっつかった。
これはいたって物のわからない、やっかい千万なドイツ女だった。
「どうも、まあまあ!」と彼女は両手を打鳴らした。「
「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ! どうか考えてものを言ってください」とカチェリーナは高飛車に切り出した。(彼女はおかみに向かうと必ず、相手が『身のほどを知る』ように高飛車な調子で口をきくのであった。で、今のような場合にも、やっぱりその快感を味わずにいられなかったのである)「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
「わたしはもう前に、ちゃんと断わっておいたじゃありませんか――けっしてわたしの事をアマリヤ・リュドヴィーゴヴナなどと言っちゃいけませんて、わたしはアマリ・イヴァンですよ!」
「あなたはアマリ・イヴァンじゃありません、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナです。わたしはね、いま現に戸の向こうで笑っているレベジャートニコフみたいな、汚らわしいおべっか使いの仲間じゃありませんから(戸の向こうでは実際どっと笑う声と、『さあ、取っ組んだぞ!』という叫びが響き渡った)、いつでもあなたのことを、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼びますよ。もっとも、こう呼ぶのがなぜあなたのお気に入らないのか、わたし一向にわかりませんがね。あなたもご自分で見ておわかりでしょう――セミョーン・ザハールイチはどんなことになりました? あの人は死にかかっているんですよ。どうかお願いですから、今すぐその戸を閉めて、誰もここへ入れないようにしてください。せめて死ぬだけでも静かに死なしてやってください! でないと明日にもあなたの仕打ちが、総督さまのお耳にはいりますよ。公爵はわたしの娘時分からご存じで、主人にもたびたびお目をかけてくださいましたので、ようっく覚えていらっしゃいます。主人に大勢のお友達や保護者があったことは、誰でもみんな知っています。ただあの人があまり潔白で誇りが強いものだから、自分の因果な癖をつくづく感じたので、自分からその人たちを捨ててしまったんです。けれど今度は(と彼女はラスコーリニコフを指さした)、お金もご身分もあるこの親切な方が――主人がお小さい時から存じ上げている方が、わたしたちを助けてくださるんですよ。本当ですとも、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
彼女はこれだけの事を恐ろしく早口に弁じ立てた。しかも、先へ進めば進むほど、それが一そう早くなるのであった。けれど、咳が彼女の雄弁を一時に断ち切ってしまった。と、ちょうどその時、
「ああ、どうしよう! 胸がすっかりつぶれてる! まあ、この血、なんて血だろう!」と彼女は絶望したように言った。「上着をすっかりとってしまわなくちゃ! 少し横になってちょうだい。セミョーン・ザハールイチ、もし無理でなかったら」と彼女は大きな声で言った。
マルメラードフは妻の顔を見分けた。
「坊さんを!」と彼はしゃがれ声で言った。
カチェリーナは窓の方へ身を引き、窓枠に額を押し当てながら、絶望の叫びを発した。
「ああ、情ない世の中だ!」
「坊さんを!」瀕死の病人は一分ばかり無言ののち再びこう言った。
「もう迎えに行きましたよう!」とカチェリーナはどなりつけるように答えた。彼はその叫びに服して口をつぐんだ。そして、おどおどした悩ましげな目つきで、妻を捜し求めた。彼女はまた夫の方へ帰って、その枕もとに立った。彼は少し落ち着いたが、それも長くはなかった。
やがて彼の視線は、片隅で発作でも起こしたように震えながら、子供らしく見張ったびっくりしたような目でじっと父を見つめている小さいリードチカ(彼の秘蔵っ子)の上に止まった。
「あ……あ……」と彼は気づかわしげに彼女の方を目で教えた。
彼は何か言いたかったのである。
「それからまだ何ですの?」カチェリーナが叫んだ。
「はだしだ! はだしだ!」と彼はうつけのようなまなざしで、娘の素足をさしながらつぶやいた。
「だまんなさい!……」と
「ありがたい、医者だ!」とラスコーリニコフはうれしそうに叫んだ。
「こりゃもう一度正気に返ったのが、不思議なくらいですよ」と医者はそっとラスコーリニコフにささやいた。
「で、いったいどうなんでしょう?」とこちらは問い返した。
「もうほんのちょっとです」
「まるで望みがないんですか?」
「全然ありません! もう息をしているというだけですよ……それに、頭の方もなかなかの重傷ですからな……さよう……放血をやってみてもいいが……しかし……それも無駄でしょう。五分か、せいぜい十分で最期ですな」
「じゃとにかく、放血をやっていただこうじゃありませんか!」
「そう……しかし、前もってお断わりしておきますが、それはぜんぜん徒労ですよ」
この時また足音が聞えて、控室の群衆が左右にわかれた。と、敷居の上に、用意の
ラスコーリニコフは医者に向かって、せめて今少し残っていてくれと、むりやりに頼んだ。医者はひょいと肩をすくめて、居残ることにした。
皆は後ろへ引きさがった。式はごく簡単に終わった。死に行く人はほとんど何一つわからなかったらしい。彼はただとぎれとぎれに、
ちょうどこのとき、姉を迎えに行ったポーレンカが、群衆を押し分けながらすばやくはいってきた。あまり急いで走ったので、はあはあ息を切らしていたが、はいるといきなり
「この子供たちをどうしたらいいのでしょう?」と彼女は鋭いいらいらした調子で、幼いものたちを指さしながら言った。
「神様はお慈悲ぶかい、主のお恵みにすがりなさい」と僧は言いかけた。
「ええ! お慈悲ぶかくっても、それはわたしたちにゃ届きません!」
「そのような事をいうのは罪です。奥さん、罪ですよ!」と僧は頭を振りながら注意した。
「じゃ、これは罪じゃないんですの?」と臨終の夫を指さしながら、カチェリーナは叫んだ。
「それは思わぬ惨事の原因となった人が、あなたに賠償をしてくれるでしょう。収入を失ったという点だけでもな……」
「あなたはわたしの言うことがおわかりにならないんです!」とカチェリーナは片手を一振りして、いら立たしげにさえぎった。「なんのために賠償なんかしてもらうんです? だってあの人が自分で酔っ払って、馬の足もとへ倒れ込んだんじゃありませんか! それに、収入とはなんですの? あの人は収入どころか、ただ苦労の種を作ってくれたばかりです。あの飲んだくれったら、何もかもお酒にしてしまったんです。わたし達のものを盗み出しちゃ、居酒屋へ持って行ったんです、子供たちやわたしの生涯を、居酒屋でめちゃめちゃにしてしまったんです! 死んでくれてありがたいくらいだ! かえって損が少なくなるくらいです!」
「臨終の時には許してあげにゃなりませんて。そんなことは罪ですぞ、奥さん、そんな気持は大きな罪ですぞ!」
カチェリーナは夫の傍で小まめに何くれと世話をした。水を飲ませたり、頭の汗や血をふいてやったり、枕を直してやったりしながら、ときどき仕事の合間に僧の方へふり向いては、何かと話をしていたのであるが、この時は急に前後を忘れたようになって、彼に食ってかかった。
「ええ、神父さん! それはただのことばです。ことばだけです! 許すなんて! 今日だってもしひかれなかったら、ぐでんぐでんになって帰って来るんです。一枚看板の着古したシャツの上にぼろを重ねて、そのまま正体なく寝倒れてしまうんですよ。ところが、わたしは夜明けまでも水をじゃぶじゃぶやって、あの人や子供たちの着古しを洗ったり、それを窓の外へ干したりして、さて夜が白みかけると、今度はすわり込んでほころびをつくろわなければならない。これがわたしの夜なんです!……これでも許すなんて事がいえますか! もういい加減わたしは許してきましたよ!」
と、恐ろしいほど激しい
僧は頭をたれて、一口も物を言わなかった。
マルメラードフは
「黙ってらっしゃい! 言わなくてもいい! 何を言いたいのか、わかっていますよう……」
で、病人は口をつぐんだ。しかしその時、頼りない視線が戸口へ落ちると、彼はソーニャを見つけた。
この時まで彼は娘に気づかなかった。彼女は片隅の物かげに立っていたのである。
「あれは誰だ? あれは誰だ?」と彼はふいに息ぎれのするしゃがれ声で言った。全身に不安の色を現わし、恐ろしそうな目で娘の立っている戸口をさし示しながら、身を起こそうともがいた。
「寝てなさい! 寝てなさいよう!」とカチェリーナは叫んだ。
けれども彼はほとんど超自然的な力で
「ソーニャ! 娘! 許してくれ!」と彼は叫んで、手を差し伸べようとしたが、ささえを失ってぐらっとしたかと思うと、うつぶしに長椅子から床へどうと落ちた。人々は駆けよって抱き起こし、もとの長椅子に寝かしたが、その時彼はもう息を引取っていた。ソーニャは弱々しくあっと叫んで、いきなり傍へ走りより、父を抱きしめたと思うと、そのまま気が遠くなってしまった。彼は娘の腕の中で死んだのである。
「とうとう本望を達した!」カチェリーナは夫の
ラスコーリニコフはカチェリーナの傍へ寄った。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナ」と彼は言い出した。「つい先週、亡くなられたご主人が僕に自分の身の上話と、お家の様子を話して聞かせてくださいました……誓っていいますが、ご主人はあなたの事を、感激に近い尊敬の念をもって話しておられました。ご主人が皆さんに献身的な愛情をささげ、ことにあのお気の毒な病癖を持っていられたにもかかわらず、あなたを尊敬しかつ愛しておられることを伺ったその晩から、僕はご主人の親友になったのです……そこで、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、失礼ですが、いま僕に……友人の義務を尽くすことを許してくださいませんか。ここに……たしか二十ルーブリあるはずです――もしこれが何かのお役に立ちましたら……そしたら……僕は……いや、なに、いずれまた伺います――きっと伺います……僕さっそく明日にも伺うかもしれません……では、さようなら!」
彼はすばやく部屋を出て、人ごみを押し分けながら、急いで階段の方へ行った。けれど群衆の中で、警察署長のニコジーム・フォミッチにぱったり出会った。彼はこの不慮の災厄を聞くと、すぐ親しくその処置を講じようと思い立ったのである。署での一幕以来、二人はそれきり会わなかったが、ニコジーム・フォミッチは彼を見分けた。
「ああ、あなたですか?」と彼はラスコーリニコフに声をかけた。
「死にました」とラスコーリニコフは答えた。「医者も来、坊さんも来て、万事ちゃんと
「それにしても、君はだいぶ血まみれのようですな」
「ええ、よごしました……僕は血だらけです!」何かしら一種特別な表情をして、ラスコーリニコフはこう言った。それからにやっと笑い、一つうなずくと、階段をおりて行った。
彼は体じゅうおこりにでも襲われたような気持で、静かに階段をおりて行った。自分ではそれと意識しなかったけれど、張り切った力強い生命が波のように寄せてきて、その限りない偉大な新しい感覚が、彼の全身にみちあふれた。この感覚は、一たび死刑を宣告されたものが、急に思いもよらず特赦を受けたような感じに似ている、とでもいうことができよう。階段の中ほどで、家路に向かう僧が彼に追いついた。ラスコーリニコフは無言の会釈を交わし、黙ってそれをやり過ごした。しかし最後の幾段かをおりようとした時、突然うしろに急がしげな足音が聞こえた。誰か彼を追っかけて来たのである。それはポーレンカだった。彼女は後ろから走って来ながら、彼を呼んでいた。
「ねえ、ちょっと! ねえ、ちょっと!」
彼はふり向いた。娘は最後の階段をかけおりると、彼より一つ上の段に立ち止まって、ぴったり彼に顔を突き合せた。ぼんやりした明りが、裏庭からさし込んできた。ラスコーリニコフは、やせてはいるが愛くるしい少女の顔をつくづくと見た。彼女は楽しげににこにこしながら、無邪気に彼を見守っている。見たところ、彼女は自身でもすこぶる気に入っていることづけを持って、駆けつけたものらしい。
「ねえ、ちょっと、あなたの名前なんていうの?……それからも一つ――お家はどこ?」と彼女はせきこんで、はあはあ息を切らしながら尋ねた。
彼はその肩に両手をおいて、何かしら幸福な感じをいだきながら、じっと彼女を見た。この女の子を見ているのがなんともいえずこころよい――どういうわけか、それは彼自身にもわからなかった。
「誰が君をよこしたの?」
「ソーニャ姉さんにいいつかったの」少女はひとしお楽しげにほほえみながらそう答えた。
「僕もそう思ったよ――ソーニャ姉さんがよこしたんだろうと」
「母さんも行けって言ったのよ。ソーニャ姉さんが行けってった時に、母さんもそばへ来て、そう言ったのよ。『急いで駆け出しておいでよ、ポーレンカ!』って」
「君ソーニャ姉さんが好き?」
「ええ、誰よかも一等すき!」なんだかこう特別力をこめて、ポーレンカは言った。と、その微笑が急にまじめくさってきた。
「僕も好きになってくれる?」
返事の代わりに、彼は自分の方へ近づいてくる少女の顔を見た。ふっくりした唇が、
「お父さんが可哀想だわ!」しばらくたってから、彼女は泣きはらした顔を上げ、両手で涙をふきながら言い出した。「このごろこんな不仕合せなことばかり続くんですもの」彼女はことさらしかつめらしい顔つきをして、だしぬけにこう言い足した。それは子供が急に『大人』のような口をきこうとするとき、一生懸命にとりつくろう表情なのである。
「お父さんは君を可愛いがった?」
「お父さんはリードチカを一ばん可愛いがってたわ」と彼女は大まじめに、にこりともしないで、もうすっかり大人口調でことばを続けた。「あの子は小さいから、可愛いがってもらえたの。それに病身だったから。あの子にはいつでもお土産を持って帰ってらしたわ。あたし達はお父さんにご本を読むことを習ったの。あたしは文法と聖書のお講義」と彼女は澄まして言い添えた。「お母さんはなんにも言わなかったけど、それを喜んでらしたのは、あたし達もわかってたわ。そして、お父さんも知ってらしたわ。お母さんはあたしにフランス語を教えてやるとおっしゃったのよ。あたしもう教育を受ける年ごろなんですもの」
「君お祈りができる?」
「ええ、そりゃできなくってさ! もう
「ポーレンカ、僕の名はロジオンていうんだよ。いつか僕のこともお祈りしてちょうだい。『
「あたしこれから一生、あなたのことをお祈りするわ」と彼女は熱心にいった。そして急に笑い出して飛びつくと、再び彼をしっかりと抱きしめた。
ラスコーリニコフは彼女に自分の名と、住所をいって聞かせ、明日は必ず寄るからと約束した。彼女はすっかり有頂天になって帰って行った。彼が通りへ出た時は、もう十時をまわっていた。それから五分の後、彼は橋の上に立っていた。先ほど女が身を投げたちょうどその場所である。
『もうたくさんだ!』と彼は勝ち誇ったようにきっぱりと言った。『
『……今おれはひどく衰弱しているようだが、しかし……病気はすっかりなおってしまったらしい。さっきあの家を出る時に、なおるだろうと感じていたんだ。ときに、ここからポチンコフの家はほんの一足だ。どうしたって、もうラズーミヒンのとこへ行かなくちゃならん――よしんば一足でなくっても、
『しかし、
彼はわけなくラズーミヒンを捜し当てた。ポチンコフの家では、もう新しい借間人を知っていて、庭番がすぐに道を教えてくれた。もう階段の中ほどから、いかにも大きな会合らしい騒ぎと、いきいきした話し声を聞き分けることができた。階段へ向かった戸はいっぱいにあけ放されていて、わめき声や争論が聞こえていた。ラズーミヒンの部屋はかなり大きい方で、集まった人数は十五人ばかりだった。ラスコーリニコフは入り口の控室に立ち止まった。すぐそこの仕切り板の陰で、おかみの使っている女中が二人、二つの大きなサモワールや、おかみの台所から運んできた菓子、
「実はね」とラスコーリニコフは急いで言った。「僕がやって来たのは、君が賭に勝ったということと、実際どんな人でも、自分がどうなるかわからないものだってことを、一口君に言いたかったからなんだよ。僕ははいるわけにゆかない。ひどく衰弱してね、今にもぶっ倒れそうなんだ。だから、今日はこれで失敬する! あす僕の方へ来てくれないか……」
「じゃね、僕が君を家まで送ろう! 君が自分でそんなに弱ってるというくらいだから……」
「だって客をどうするんだい? あの縮れ毛の男は誰だい、ほら、今こっちをのぞいて見た?」
「あれ? あんなやつ知るもんか! きっと
ゾシーモフは何かむさぼるような表情で、ラスコーリニコフに飛びかかった。彼の顔には一種特別な好奇の色がうかがわれた。やがて間もなくその顔は晴れやかになった。
「ぜひ寝なくちゃいけませんよ」彼は患者をできるだけ丁寧に見た後、きっぱりとこう言った。
「そして夜ねる前に、一つ飲むといいんだがなあ。飲みますか? もうさっきこしらえておきましたが……ちょっとした散薬を一服」
「二服でもけっこう」とラスコーリニコフは答えた。
散薬はその場で服用された。
「そりゃ非常にいい、君自身が送って行こうというのは」とゾシーモフはラズーミヒンに言った。「明日はどうなるか別として、今日のところはなかなか悪くないですな。さっきと比べると著しい変化です。人生は永久の研究だなあ……」
「ねえ君、いま出しなにゾシーモフが、たいへんなことを僕に耳打ちしたんだぜ」ラズーミヒンは通りへ出ると、いきなりぶっつけに言った。「君、あいつらは馬鹿だから、僕も君に何もかもをありのままに話してしまうがね。ゾシーモフは僕にこんな事をいいつけたんだよ。みちみち君とおしゃべりをして、君にもしゃべるように仕向けてさ。それをあとですっかり聞かせてくれって。というのは、やつに一つの観念があるからなんだ……つまり、君が……気ちがいか、あるいはそれに近いものだっていうのさ。まあ、君考えてもみたまえ! 第一に、君はやつよか二倍も三倍もりこうだし、第二に、君が気ちがいでなければ、やつの頭にそんな馬鹿げた考えがあろうとあるまいと、君にとって
「ザミョートフが君に何もかも話したのかい」
「ああ、何もかも。そして、話してくれてよかったよ。で、僕はいま底の底までわかったんだ。ザミョートフもわかったよ……で、まあ、一言にしていえばさ、ね、ロージャ……要するに……僕今ほんのぽっちり酔ってるがね……しかし、こんなことはなんでもないさ……要するにあの疑念は……わかるだろう? 実際あいつらの頭にこびりついてたんだ、わかるだろう? といって、やつらも誰一人それを口に出して言うものはないんだ。あまり馬鹿げきった考えだからね。ことにあのペンキ屋がつかまって以来、妄想がすべて一時に崩壊し永久に消えてしまったんだからな。だが、なんだってやつらはあんな馬鹿なんだろう? 僕はその時ザミョートフを少しぶんなぐってやったよ。しかしこれはこの場きりの話だからね、君、知ってるなんてことは、素振りにも出さないでくれよ、いいかね。僕は気がついたんだが、やつは神経質な人間なんだね。ラヴィーザのところであったことなんだ――しかし、今日という今日こそ、すべてが明瞭になった。一番いけないのは、あの副署長さ! やつは君があの時署で卒倒したのを、さっそく種にしやがったんだ。しかしあとでは、自分でも恥かしくなったんだがね。僕はちゃんと知ってるよ……」
ラスコーリニコフはむさぼるように聞いていた。ラズーミヒンは酔ったまぎれに、ぺらぺらしゃべり立てた。
「あの時は息苦しくて、それにペンキの臭いがしたので卒倒したのさ」とラスコーリニコフは言った。
「まだいいわけしてるよ! それに、ペンキばかりじゃないよ。炎症がまる一月も徐々に進行していたんだ。現にゾシーモフが証人だ! だが、今あの青二才がどんなにしょげてることか、君、想像もできないくらいだぜ! 『わたしはあの人の小指ほどの値うちもない』といってるよ。つまり、君の小指のさ。しかしあの男だってどうかすると、善良な感情を持つこともあるよ。だが今日の『水晶宮』であったことは、やつにとっていい教訓だった。あれは完成の極致だ! だって、君は初めてやつをびっくりさせて、震え上がらせたそうじゃないか! 君はまたやつにあの忌まわしい無意味な想像を、ほとんど完全に信じさせておいてさ、それからふいに――舌をぺろりと出して、『へん、どうだ、うまくいったか!』なんて、実に
「ああ……あの男なんか……だが、なんだって人を気ちがい扱いにしたんだい?」
「といって、気ちがいじゃないのさ。いや、僕はどうやらしゃべり過ぎたようだな……つまり、あの一つの点に君が興味をいだいてるってことが、さっきゾシーモフに異常な印象を与えたんだよ……だが今では、なぜ興味を抱くか
三十秒ばかり二人は黙っていた。
「おい、ラズーミヒン」とラスコーリニコフは口を切った。「僕、君にまっすぐに言ってしまいたい。僕はいま死人の傍にいたんだ、ある官吏が死んだんだ……僕はそこでありたけの金をやってしまった……のみならず、そこである一人のものが僕に
「君どうしたんだ……どうしたんだい?」とラズーミヒンは不安げに尋ねた。
「少しめまいがするんだ。しかし問題はそんなことじゃない。問題はただむやみに気が沈むことなんだ。むやみに気が沈むんだ! まるで女のくさったみたいに……全く! おや、あれはなんだ? 見ろ! 見ろ!」
「なんだ、いったい?」
「あれが見えないかい? 僕の部屋にあかりがついてるじゃないか? 隙間からさしてるだろう……」
彼らはもうおかみの戸口と並んだ最後の階段の前に立っていた。はたして、ラスコーリニコフの小部屋にあかりのついているのが、下からも見えていた。
「変だな! ナスターシャかもしれんぞ」とラズーミヒンは言った。
「いや、いま時分あれが僕の部屋へ来ることはないんだ。それに、あいつはもうとっくに寝てるよ。しかし……どうだっていいや! じゃ失敬!」
「何をいうんだ? 僕は君を送って来たんじゃないか、一緒にはいろうよ!」
「一緒にはいることは知っている。だが、僕はここで君の手を握って、ここで君と告別したいんだ。さあ、手を出したまえ、失敬!」
「君どうしたんだい、ロージャ」
「なんでもないよ……じゃ行こう……君は目撃者になるがいいさ……」
二人は階段を登り始めた。ラズーミヒンの頭には、ひょっとしたらゾシーモフのいうことが本当かもしれない、という想念がひらめいた。「ちぇっ! おれはあまりしゃべりすぎて、先生の頭をめちゃめちゃにしてしまった!」と彼はひとりごちた。二人が戸口に近づいたとき、思いがけなく部屋の中に人声が聞こえた。
「いったいなにごとだ?」とラズーミヒンは叫んだ。ラスコーリニコフは一番に戸に手をかけて、さっといっぱいにあけ放した。あけたと思うと、いきなり敷居の上で棒立ちになった。
そこには母と妹が長椅子に腰かけて、もう一時間半も彼を待っていたのである。なぜ彼は二人を全然予期もしなければ、まるっきり二人のことを考えもしなかったのだろう? しかも彼は今日も重ねて、二人がすでに向こうを出発して、間もなく到着という報に接していたのではないか。この一時間半のあいだ二人は先を争って、ナスターシャにいろいろ根ほり葉ほりきいた。ナスターシャは今も二人の前に立ってい、もう何もかもあけすけに話してしまったのである。彼が病気のくせに『きょう家を飛び出して行った』と聞いた時、二人は驚きのあまり
喜ばしげな感きわまった叫びが、ラスコーリニコフの出現を迎えた。二人は彼に飛びかかった。にもかかわらず彼は死人のように突っ立っていた。ふいに襲った堪え難い意識が、雷のように彼を撃った。それに、二人を抱擁しようにも、彼の手は上がらなかった。上げられなかったのである。母と妹は彼をしっかと抱きしめて、接吻したり、笑ったり、泣いたりした……彼は一足ふみ出したと思うと、ぐらぐらっとなり、気を失ったまま床の上にどうと倒れた。
混乱、恐怖の叫び、
「大丈夫、大丈夫!」と彼は母と妹にいった。「ただ気絶しただけです、つまらん事です! つい今しがたも医者がもう非常によくなった、もうほとんど健康体だと、言ったばかりです! 水を! ほら、もう正気に返りかけています、さあ、もう気がつきました……」
こう言いながら、彼はドゥーネチカの手を、関節がはずれそうなほど引っつかんで『もう気がついた』のを見せるために、ぐっと下へかがめた。母も妹も、感動と感謝のこもった目で、ラズーミヒンを神の如くに仰ぎ見た。二人はもうナスターシャの口から、この『気さくな若い人』が自分たちのロージャにとって、その病中ずっといかなる役を勤めていてくれたか、ちゃんと聞いて知っていた。『気さくな若い人』とは、この晩ドゥーニャと隔てのない話をした間に、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコヴァが、自分でラズーミヒンにつけた名であった。
[#改ページ]
ラスコーリニコフは身を起こして、長椅子の上にすわった。
彼はラズーミヒンに手を一振りして、母と妹に対するとりとめのない熱心な慰めのことばを中止させた後、二人の手をとって、二分ばかり無言のまま、かたみに二人の顔に見入った。母は彼のまなざしにぎょっとした。このまなざしには苦しいほど強烈な感情があったが、同時にまた何かしら凝り固まったような、むしろもの狂おしくさえ感じられるような、あるものが透いて見えた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはさめざめと泣き出した。
アヴドーチャ・ロマーノヴナは青ざめた顔をしていた。彼女の手は兄の手の中でわなわな震えた。
「もう帰ってください……この男と一緒に」と彼はラズーミヒンを指しながら、きれぎれな声でいった。「あすまた。あす何もかも……もうだいぶ前に着いたんですか?」
「夕方だったよ、ロージャ」とプリヘーリヤは答えた。「汽車が大変遅れてね。だけどロージャ、わたしは今どんなことがあっても、お前の傍を離れやしないよ! わたしはここに泊まります。お前の傍に……」
「僕を苦しめないでください!」と彼はうるさそうに片手を振り、いら立たしげに言った。
「僕がそばに残りますよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「一刻も離れやしません。うちの客なんかどうとも勝手にしやがれだ! あっちの方は
「まあ、なんとお礼を申していいやら!」またラズーミヒンの手を握りながら、プリヘーリヤは言いかけたが、ラスコーリニコフがまたもやそれをさえぎった。
「たまらない、たまらない!」と彼はいら立たしげにくり返した。「僕を苦しめないでください! もうたくさんです、帰ってください……たまらない……」
「行きましょうよ、お母さん、ちょっと部屋の外へだけでも」ドゥーニャはおびえたようにささやいた。「わたしたちは兄さんを苦しめてるのよ、それは様子でわかるわ」
「じゃ、しみじみ顔も見られないのかね、三年も別れていたのに!」とプリヘーリヤは泣き出した。
「待ってください!」と彼はまた二人を呼び止めた。「みんな邪魔ばかりするものだから、頭がごっちゃになってしまう……ルージンに会いましたか?」
「いいえ、ロージャ、まだよ。でも、あの人はわたしたちの着いたことを、もう知っているんだよ。聞けば、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィッチがご親切に、今日お前を訪ねてくだすったそうだね」いくらかおずおずした調子で、プリヘーリヤはこういい足した。
「そう……ご親切に……ねえ、ドゥーニャ、僕はさっきルージンに、階段から突き落とすぞと言ってやったよ。そして、おととい来いと追い出しちゃった……」
「ロージャ、なにを言うのお前は? きっと……お前はその……言いたくないんだろう」と驚きのあまりプリヘーリヤは言いかけたが、ドゥーニャの顔を見ると口をつぐんだ。
アヴドーチャは兄の顔をじっと見入りながら、その先を待っていた。二人は早くもナスターシャの口から、彼女の判断で伝えうる限り、この衝突のことを聞かされていたので、疑惑と期待の念にさんざん心を痛めたところであった。
「ドゥーニャ」とラスコーリニコフは苦しげにことばを続けた。「僕はこの結婚に不賛成だ。だから、お前もあす第一番にルージンを断わってしまえ、あいつのにおいも家の中にしないように」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
「兄さん、あなた何を言ってらっしゃるか、まあ考えてごらんなさい……」とアヴドーチヤは[#「アヴドーチヤは」はママ]かっとなって言いかけたが、すぐに自分を抑えた。「兄さんは今そんなこと考えられないんだわね。疲れてらっしゃるのよ」と彼女はつつましやかに結んだ。
「熱に浮かされてるって? ちがう……お前は僕のためにルージンと結婚しようとしてるんだ。だが、僕はそんな犠牲を受け入れるわけにいかない。だから明日までに手紙を書け……拒絶の手紙を……そして朝ぼくに読ませてくれ、それで片付くんだ!」
「そんなことできませんわ、わたし!」と妹はむっとして言った。「いったいどんな権利があって……」
「ドゥーネチカ、お前も気が短いね、およしよ、明日のことだよ……お前いったいあれが見えないの……」と母はドゥーニャの方へ駆け寄りながら、びっくりしてこう言った。「ああ、いっそ早く帰ろうよ!」
「うわ言を言ってるんですよ!」と酔の回ったラズーミヒンがどなった。「でなきゃ、どうしてあんなむちゃがいえるもんですか! 明日になりゃ、あんな馬鹿げた気まぐれはふっ飛んじまいますよ……もっとも、今日あの人を追い出したのは本当なんです。それはその通りです。ところが、先方でも怒りましたね……それから一場の演説をして、自分の知識を見せびらかしたが、結局、しっぽを巻いて帰っちまいましたよ……」
「じゃ、あれは本当なんですね?」とプリヘーリヤは叫んだ。
「では、兄さん、明日またね」とドゥーニャは同情をおもてに現わしながら言った。「行きましょう、お母さん……さよなら、ロージャ!」
「いいかい、ドゥーニャ」と彼は最後の力をふるいながらくり返した。「僕は熱に浮かされてるんじゃないよ、この結婚は卑劣だ。たとい僕は卑劣漢にもせよ、お前はそうなっちゃいけない……二人のうちどちらか一人だ……僕は卑劣漢だが、そんな妹は妹と思わないぞ。僕を取るか、ルージンを取るかだ! さあ、もう行くがいい……」
「いったいきさま、気でも狂ったのか、暴君め!」とラズーミヒンはどなりつけた。
けれど、ラスコーリニコフはもう返事しなかった。事によったら、答える力がなかったのかもしれない。彼は長椅子の上へ倒れると、ぐったり壁の方へ向いてしまった。アヴドーチャは好奇のまなざしでラズーミヒンを見つめた。彼女の黒い
「わたしどうしても帰るわけにいきません!」と彼女はほとんど絶望の調子でラズーミヒンにささやいた。「わたしはここに残ります、どこかそこいらに……あなたドゥーニャだけ送ってくださいましな」
「それじゃ何もかもぶちこわしですよ!」とわれを忘れてラズーミヒンは同じくささやくように言った。「せめて階段までも出ましょう。ナスターシャ、あかりをお見せ! 僕ちかっていいますが」もう階段の上へ出てから、彼は半ばささやくような声で続けた。「実は先生さっきもわたしたちを、僕とドクトルとを、なぐりつけないばかりだったんですよ! え、おわかりですか! 医者でさえそうなんですよ! で、医者は興奮させちゃいけないといって、帰ってしまいました。僕は下で番していたところ、先生その間に着がえをして、すべり抜けてしまったんです。だから今でも、あまりいらいらおさせになると、またすべり抜けて行って、よる夜なか何をしでかすかしれませんよ……」
「まあ、何をおっしゃるんですの!」
「それに、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしても、あなたがいらっしゃらなくては、一人で下宿にいられやしませんよ! が、考えてもごらんなさい、あなた方は、なんて所に泊まっていらっしゃるんでしょう! あの恥しらずのルージンて男も、あなた方のためにもう少しどうかした宿が捜せなかったものかなあ……いや、もっともごらんの通り、僕少し酔ってますから……つい悪口をつきましたが、どうかお気になさらないで……」
「でも、わたしはここのおかみさんのところへ行って来ます」とプリヘーリヤは言い張った。「わたしとドゥーニャを今晩だけ、どんな隅っこへでも泊めてくれるように、一生懸命たのんでみます。わたしはあれをこのままおいて行かれません、どうあっても!」
こんな話をしながら、彼らは階段の上の踊り場に立っていた。それはおかみの住まいの入り口のすぐ前だった。ナスターシャは一段下から彼らに
半時間前、ラスコーリニコフを送って来た時は、自分でも白状した通り、余計なことにおしゃべりだったが、この晩のんだ酒がおびただしい量であったにもかかわらず、恐ろしく元気で、ほとんどしらふ同然だった。しかるに今の彼の心理状態は、何かまるで歓喜とでもいうべきものに似通っていた。と同時に、これまで飲んだ酒がすっかり、新たに倍加された力をもって、一時に頭へ上ったような具合だった。彼は二人の婦人と並んで立ちながら、二人の手をつかまえて、どうかして説き伏せようと、驚くばかり打ち明けた調子で、いろいろ理由を並べて見せた。しかも、一そうそれを確かめるためだろう、ほとんど一語ごとに、二人の手をぐいぐいと、締め木にでもかけるように、痛いほど握りしめた。そして一こう遠慮する風もなく、アヴドーチャ・ロマーノヴナをむさぼるように見つめるのであった。二人は痛さのあまり、ときおり彼の大きな骨ばった手の中から、その手を振りほどこうとしたが、彼はなんの事か気がつかなかったのみならず、かえって一そう強く引寄せるのであった。もし今二人が彼に向かって、自分たちのために階段からまっさかさまに飛べといったら、彼はいささかも疑おうとせず、文句なしに、早速それを実行したに相違ない。ロージャのことが心配で気が気でないプリヘーリヤは、ひどく常規を逸したこの青年が、むやみにぎゅうぎゅう手を締めつけるのに気づいてはいたが、彼女にはこの男が神さまのように感じられたので、そうした突飛な動作を気に止めたくなかった。けれど、同じ不安に苦しめられていながら、アヴドーチャの方は、さして気の小さい方でもなかったけれど、この荒々しい火に燃える兄の友のまなざしを、驚きというよりむしろ恐怖の感じをもって迎えた。ナスターシャの話で吹き込まれたこの不思議な男に対する無限の信頼がなかったら、母の手を引っ張って傍を逃げ出したに相違ない。とはいえ彼女は、自分たちがこの男から逃げ出すわけにいかないことも、やはり悟っていた。やがて十分もたつと、彼女は目に見えて落ち着いてきた。ラズーミヒンは、どんな気分でいる時でも、自分のすべてを一瞬の間に表明する特性を持っていた。で、誰でもがすぐ相手の人となりを見抜くのだった。
「おかみさんのところなんか駄目ですよ、それこそ愚の骨頂です!」プリヘーリヤを説き伏せようとして、彼は叫ぶのであった。「よしあなたがお母さんであるにもせよ、ここに残っていらっしゃると、ロージャを気ちがい同様にしてしまいますよ。そうなったら、どんなことになるかしれたもんじゃない! どうです、僕こうしましょう。今さしずめ、あすこにナスターシャをつけといて、僕があなた方をお送りしましょう。二人きりで町をお歩きになるわけにゃいきません。このペテルブルグってところは、そういう点では……いや、そんな事はどうでもいい! それから、あなた方のところからすぐここへ引っ返して、十五分もたったら、誓ってまたあなた方のところへ報告を持って行きます。ロージャがどんな風か? ねむっているかどうか? そういったようなことをね。それから、いいですか、それから一っ走り僕の家へ行って――なにしろ家には客がいて、みな酔っ払ってるんですから――そして、ゾシーモフを引っ張って行きます。これはロージャを診ている医者ですよ。今僕んとこにいるんですが、酔っちゃいませんから。この男は酔いません。この男はけっして酔いませんよ! で、この男をロージャのところへ引っ張って行って、それからすぐもう一度あなた方のとこへ飛んで来ます。つまり、あなた方は一時間のうちに、ロージャについて二つの報告を受け取られるわけです――医者の報告もね。いいですか、主治医の報告ですよ。これはもう僕なんかの報告とはわけが違いますからな! もし病人が悪ければ、僕誓ってあなた方をここへご案内します。がいいようだったら、そのままゆっくりおやすみなさい。僕は一晩ここに、入り口の間に泊まりますよ。ロージャは気がつきゃしません。そして、ゾシーモフは、おかみさんのところへ泊まらせます。手近にいてもらうためにね。さあ、どうです、この際あなた方と医者と、どちらがいいでしょう? ね、医者の方が役に立つでしょう、役に立つでしょう。だから、これでお帰んなさい! おかみさんのとこへは駄目です。僕はいいけれど、あなた方は駄目です。入れてくれやしません。というのは……というのは、あの女が馬鹿だからです……あの女はアヴドーチャ・ロマーノヴナのことで、僕を
「帰りましょうよ、お母さん」とアヴドーチャは言った。「この方はきっと約束通りにしてくださるわ。だって、現に兄さんを生き返らせてくだすったんですもの。それに、もしお医者さまが本当に泊まるのを承知してくださるなら、それに越したことはないじゃありませんか?」
「そうだ、あなたは……あなたは……僕を理解してくださる。あなたは――天使だから!」とラズーミヒンは有頂天になって叫んだ。「行きましょう! ナスターシャ! 大急ぎで上って行って、病人の傍についててくれ、
プリヘーリヤはまだ十分納得しなかったが、それ以上反対もしなかった。ラズーミヒンは二人に腕をかして階段をつれておりた。とはいえ、彼は母親に不安を感じさせた。『そりゃ気さくないい人だけれど、約束した事がみんな実行できるかしら? だってこんなに酔っ払ってるんだもの……』
「ああ、わかった、あなたは僕がこんなていたらくなのを、気にしていらっしゃるんですね!」ラズーミヒンはそれと察して、彼女の懸念をさえぎった。彼は持ちまえの並みはずれた
「え、なんとおっしゃるんです!」と母は叫んだ。
「ほんとうにお医者が自分でそうおっしゃったんですの?」とアヴドーチャもぎょっとして尋ねた。
「いいました。しかし、それは見当ちがいです、まるで見当ちがいです。先生その、ちょっとした薬を飲ましたんですよ、散薬をね。ぼく見て知っています。そこへあなた方がいらしたんですよ……ああ……あなた方は明日いらっしゃるとよかったんだがなあ! しかし、われわれが引き上げたのは、いい事をしましたよ。一時間すると、ゾシーモフがあなた方にいっさいを報告します。こいつはそれこそ酔ってませんからね! 僕もその時分にゃさめていますよ……だが、どうして僕はあんなにがぶがぶやったんだろう? ほかでもない、あのいまいましい連中が、議論に引っ張り込んだからだ! 議論なんかしないと誓いを立てたのになあ! 実に途方もないことを言いやがるもんだから! 危うくなぐり合いをしかねないところでしたよ! 僕はあそこへ伯父を残してきました、議長としてね……まあ、どうでしょう、やつらはぜんぜん没人格を要求して、そこに最大の意義を発見して喜んでるんですからね! どうかして自分が自分でなくなるように、どうかして自分が自分に似なくなるように苦心する、それがやつらの間では最高の進歩とされてるんですよ。せめて自己流にでたらめでもいうならまだしも、それどころか……」
「あの、ちょっと」とおずおずした口調でプリヘーリヤはさえぎった。
けれど、それはただ相手の熱を高めるばかりだった。
「ああ、あなたはこんなことを考えていらっしゃるんでしょう?」ひときわ声を高めながら、ラズーミヒンは叫んだ。「僕が
「ああ、どうしたらいいのだろう、わたしよくわかりません」可哀想にプリヘーリヤはこうつぶやいた。
「そうですわ、そうですわ……もっとも、あなたのおっしゃることに、皆がみな賛成じゃありませんけど」とアヴドーチャは口を添えた。と、たちまちあっと悲鳴をあげた。彼が今度という今度、思い切り強く彼女の手を握りしめたので。
「そうですって? あなたはそうだとおっしゃるんですね? さあ、こうなるとあなたは……あなたは……」と彼は歓喜のあまり叫びを発した。「あなたは、善と、純潔と、
彼はいきなり歩道の真中に
「まあ、よしてください、後生ですから。ほんとうにあなたは何をなさるんです?」とプリヘーリヤはことごとく
「お立ちなさいよ、お立ちなさいってば!」とドゥーニャも笑いながら、同時に気をもむのであった。
「いや、どうしてどうして、お手をくださらないうちは! そうです、そうです。これでたくさん。ほら、立ちました。行きましょう! 僕は不幸にも馬鹿なまぬけ男です。僕はあなた方に価いしません。この通り酔っ払って、それを恥じ入っています……僕はあなた方を愛する資格はありませんが、あなた方の前に
「もし、ラズーミヒンさん、あなたはお忘れになりましたね……」とプリヘーリヤは言いかけた。
「そうです、そうです、おっしゃる通りです、僕は前後を忘れていました。面目ありません!」とラズーミヒンはわれに返った。「しかし……しかし……こんなことを言ったからって、あなた方は僕をお怒りになっちゃいけません! 僕は誠心誠意言ってるんで、けっしてその、なんです……ふむ! それだったら陋劣な話です。手っとり早く言えばですね、何も僕があなたに……その……ふむ!……いや、もうよしましょう、必要がない、なぜだかそのわけは言いますまい、勇気がないです!……とにかく、われわれ一同はさっきあの男がはいって来た時に、これはわれわれの仲間じゃないな、と悟ったんです。それは何もあの男が床屋へ行って、髪をちぢらせてきたからじゃありません。またあの男が急いで自分の知識をひけらかそうとした、そのせいでもありません。要はあの男が回し者で山師だからです。ユダヤ人でまやかし者だからです、それはちゃんと見え透いています。あなた方はあれを賢いと思っておられますか? どうして、あれは馬鹿ですよ、馬鹿ですとも! ねえ、あんな男があなたの配偶たる価値がありますか? ああ、なんということだ! ねえ、わかってください」もう部屋へ通ずる階段を上りながら、彼はだしぬけに立ち止まった。「いま僕のところにいる連中は、残らず酔っ払いですが、その代わりみな正直です。われわれはでたらめを言います。だって僕もやはりでたらめを言うんですからね。しかし、そのうちいつか真実に達することもありますよ。われわれは潔白な道に立ってるんですからね。ところが、ルージンは潔白な道に立っていません。僕は今、家にいる連中をくそみそに罵倒したけれど、でもあの連中を一人残らず尊敬していますよ。ザミョートフでさえ、ぼく尊敬はしないが、愛していますよ。犬っころですからね! それから、ゾシーモフの畜生でさえそうです。正直で、自分の仕事をわきまえてるから……いや、しかし、もうたくさん、すっかり言うだけの事は言ったし、許してもいただいた。ね、許していただいたんでしょう? そうでしょう? さあ、参りましょう。僕はこの廊下を知っていますよ、来たことがあるから。そら、あの三号室で、スキャンダルがあったんですよ……ところで、あなた方はどこです? なん号です? 八号? じゃ、夜お休みになる時はちゃんと
「ああ、ドゥーネチカ、これはどうなることだろうね!」とプリヘーリヤは、不安げなおどおどした調子で、娘に話しかけた。
「安心していらっしゃいよ、お母さん」帽子とマントを脱ぎながら、ドゥーニャはそう答えた。
「あの人は全くめちゃ飲みの席からいきなりみえたらしいけど、あれは神様がわたしたちを助けによこしてくだすったんだわ。あの方は頼りになる人よ、わたし受け合うわ。それに、あの方が今まで兄さんのためにしてくだすった事は、みんな……」
「でも、ドゥーネチカ、あの人が来てくれるかどうか、わかったものじゃないよ! どうしてわたしは、ロージャをおいて来る気になれたろう! ほんとに、ほんとに、あんな風で会おうとは、思いもそめなかった! あの子のぶっきらぼうなことといったら、まるでわたしたちの来たのがうれしくないようなんだもの……」
彼女の目には涙がにじんだ。
「いえ、それは違っててよ、お母さん。お母さんは泣いてばかりいらしって、よくごらんにならなかったんだわ。兄さんは大病で、ひどく頭が乱れてらっしゃるのよ――何もかもそのせいよ」
「ああ、その病気がねえ! いったいどうなることだろう、いったいどうなることだろう! それに、お前にだってなんという口のききようだったろう、え、ドゥーニャ!」と母は言いながら、おずおずと娘の目をのぞき込み、その気持を読もうとした。けれど、ドゥーニャがロージャをかばうのを見て、これならもう兄を許しているに違いないと、もう半分くらい安心していたのである。
「でも明日になれば、あの子もきっと考え直すだろう、わたし確かにそう思うよ」あくまで相手の心をさぐろうとしてこうことばを添えた。
「ところが、わたしそう確信しているわ――兄さんは明日になっても、やっぱり同じことをおっしゃるに相違なくってよ……あのことについてはね」とアヴドーチャは断ち切るようにいった。それはもうむろん、一本さし込んだ
もちろん、ラズーミヒンが酔ったまぎれに思いもかけず、アヴドーチャに激しい愛情を燃え立たしたのは
もっとも、彼がさきほど階段の上で酔ったまぎれに、ラスコーリニコフに部屋を貸している変わり者のプラスコーヴィヤが、アヴドーチャばかりでなく母のプリヘーリヤに対してまで、彼の事で
ラズーミヒンが帰ってからちょうど二十分たったとき、低いけれどあわただしいノックの音が二つ響いた。ラズーミヒンが引っ返したのである。
「入りませんよ、そうしていられないから!」ドアが開かれたとき、彼はせかせかと言った。「寝てますよ、それこそ正体なしに。ぐっすり、静かに寝ています。どうか十時間ばかり寝かせたいものですね。傍にはナスターシャがついています。僕が行くまで離れないように、いいつけときました。今度ゾシーモフを引っ張って来ます。あの男が報告しましょう。それから、あなた方もゆっくりお休みになれますよ。へとへとにおなりになったようですね、お見うけしたところ、精も根もないほど……」
こういったと思うと、彼は二人の傍を離れて廊下づたいに駆け出した。
「また、なんという気さくな、そして……頼もしい人だろう!」プリヘーリヤは無上にうれしくなってこう叫んだ。
「どうやらいい人らしいわね!」やや熱のこもった調子でアヴドーチャは答えた――またしても部屋の中をあちこちと歩きながら。
かれこれ一時間ばかりすると、廊下に足音がひびいて、さらにノックの音が聞えた。二人の女は今度こそ十分に、ラズーミヒンの約束を信じて待っていた。案の定、彼はもうゾシーモフを連れて来たのである。ゾシーモフは即座に酒宴を見捨てて、ラスコーリニコフを見に行くことに同意した。しかし、二人の婦人の所へは、酔っ払ったラズーミヒンが信用できないので、だいぶ疑念をいだきながら、いやいややって来たのである。ところが、彼の自尊心はすぐ落ち着かされたのみならず、うれしくさえなって来たほどである。実際、自分が
「話は明日のことにしましょう。今夜はお休みなさい、これからすぐ、ぜひとも!」ゾシーモフと一緒に出かけながら、ラズーミヒンは念を押した。「明日はできるだけ早く、報告を持ってあがります」
「だが、あのアヴドーチャ・ロマーノヴナは、なんてすばらしい娘さんだろう!」二人が外へ出た時、ゾシーモフは、ほとんど舌なめずりしないばかりに言った。
「すばらしい? きさますばらしいと言ったな!」とラズーミヒンはほえるように叫んだかと思うと、ふいにゾシーモフに飛びかかって、
「おい、放せよ、この飲んだくれめ!」とゾシーモフは身をもがいた。そして、相手が手を放してから、しばらくじっとその顔を見ていたが、急に腹をかかえて笑い出した。ラズーミヒンは両手をだらりと下げて、
「むろん、おれはまぬけだよ」雨雲のように陰鬱な顔をして、彼はこうくり返した。「しかし……君だって……やっぱり……」
「いや、違うよ、君、けっしてやっぱりじゃない。僕はそんな妄想は起こさないからね」
彼らは黙って歩いた。やっとラスコーリニコフの下宿近くまで来たとき、ラズーミヒンが恐ろしく気づかわしそうな様子で、急に沈黙を破った。
「ときに」と彼はゾシーモフに言った。「君は愛すべき若者だが、しかし君には、いろんなけがらわしい性質以外に、まだ女ずきというやつがある。しかも、とりわけ醜悪な方だ。僕は知ってるよ。君は神経質で、ひ弱な意気地なしだ。気まぐれやだ。脂ぶとりにふとってきて、節制なんかみじんもできやしない――これはもう醜悪と呼ばれるべきだ。だって必ず醜悪におちいるに決まってるんだからね。君はすっかり体を甘やかしてしまってるんだ。
「僕は何も考えてやしないよ」
「あれは、君、はにかみやで、無口で、引っ込み思案で、その上驚くばかり童貞心を持ってるんだ。しかも、それらいっさいにかてて加えて――悩ましいため息をつきつき、
ゾシーモフはいっそうおかしそうに、からからと笑い出した。
「ちょっ、すっかり酔いが回りやがって! いったいなんだって僕があの女を?」
「大丈夫、大して面倒はないよ。何かいい加減なことをでれでれ言ってりゃいいんだ。ただ傍にいてしゃべってさえいりゃいいんだ。それに君は医者だから、何かの療治を始めてやるんだな。大丈夫、後悔するようなことはないよ。あいつのところにゃピアノがある。君も知ってる通り、僕は少しばかりぱらぱらやれるんだ。僕は『熱き涙に泣きぬれて』という純ロシア風の
「じゃ何かい、君はあの女に何か約束でもしたんだね? 正式の契約書でも書いて? 婚約くらいしたのかも知れないな?……」
「どうして、どうして、そんなことは全然ない! それに、あれはけっしてそんな女じゃないよ。あの女にはチェバーロフが……」
「そんなら、ただ捨てちまったらいいじゃないか!」
「ただ捨てるわけにはいかないよ!」
「いったいなぜ捨てられない?」
「いや、その、なんだかそうはできないんだ、それっきりさ! そこには、君、なんだかこう、引きずり込まれるような所があるんだ」
「じゃ、なぜ君はあの女を迷わせたんだい?」
「いや僕はちっとも迷わせなんかしないよ。事によると、僕こそもちまえの馬鹿な性分で、迷わされたかもしれないくらいだ。だが、あの女から見ると、君だって僕だって絶対に同じ事だよ。ただ誰かがそばにいて、ため息をついてさえいりゃいいのさ。そこには、君……さあ、なんといったらいいかなあ、そこには――うん、そうだ、君は数学が得意だろう。そして、今でもまだやってるだろう、ちゃんと知ってるよ……そこで、君があいつに積分計算を教えてやるんだ。ほんとうだ、けっして冗談じゃない。まじめな話なんだよ。あの女にはなんだって同じだもの。あの女は君を見て、ため息をついてりゃいいのさ。そうして一年くらい続けるんだ。僕なんかもいつだったか、だらだら長く二日もぶっ通しで、プロシアの上院の話をしたもんだ。(だって、あの女と何を話したらいいんだい?)――それでも、あの女はただため息をつきながら、ぼうっとなってるんだ! ただ恋の話だけはしかけないがいいよ。震え上がるほどはにかみやだからね。――傍が離れられんというような顔だけしていたまえ――それで沢山なんだ。とにかく、めっぽう居心地がいいよ。まるで家にいるも同然だ――読んだり、すわったり、寝たり、書いたりしていたまえ……
「いったいなんのためにあの女が僕にいるんだ?」
「ええっ、どうしてもうまく説明ができない! ねえ、こうなんだよ。君たち二人はおたがいにぴったりはまってるよ! 僕は前にも君のことを考えたくらいだ……どうせ君は結局そういう事で終わる人だよ! してみると、おそかろうが早かろうが、同じことじゃないか? あそこには、君、なんていうか、羽根蒲団的要素が充満してるんだよ――いや! 単に羽根蒲団的要素ばかりじゃない! あすこには人を引きずり込むような所がある。あすこは世界の果てだ、
心づかいでいっぱいになった真剣な気分で、ラズーミヒンは翌朝七時過ぎに目をさました。新しい予期しなかったやっかいな問題がいろいろと、この朝おもいがけなく彼の身辺に起こった。いつかこんなあんばいで眠りからさめることがあろうとは、以前考えてもみなかったのである。彼は昨日のことを、一つ一つ細かい点まで思い起こして、自分の身に何か容易ならぬことが持ち上がったのを悟った。今までかつて知らなかった、これまでのものとは似ても似つかぬ、ある一つの印象を感受したのを自覚したのである。と同時に、彼は自分の脳裏に燃え始めた空想の、絶対に実現し難いことをも意識した――それはあまりにも実現し難いことなので、恥かしくさえなってきた。で、彼は急いであの『呪うべき昨日の日』以来残っている目前の問題と疑惑に移っていった。
彼にとって何よりも恐ろしい思い出は、自分が昨日たまらなく『卑屈な忌まわしい』行為をした、ということである。それは単に酔っていただけではなく、処女の前でその頼りない境遇を利用して、愚かにも気早な
『もちろん』しばらくしてから、一種自卑の感情にかられながら、彼はつぶやいた。『もちろん、今となっては、このさんざんな不始末は清めようも、償いようもない……とすれば、この事はもう考えるまでもない。だから、なんにも言わずに二人の前へ出て……自分の義務だけを尽くすんだ……やっぱりなんにも言わずに……謝罪もせず、何一つ言わないことだ……もう、もちろん、今は希望もすべて滅びたのだ!』
にもかかわらず、彼は服をつけるときいつもより念入りに自分の衣装をあらためた。着がえなどは一枚もなかったし、またあったにもせよ、彼はそれは着なかったろう――『意地にだって着やしない』しかし、いずれにしても、わざと礼儀を無視したようなかっこうや、薄ぎたない引きったれですましているわけにはゆかない。彼とても、他人の感情を侮辱する権利は持っていないはずだ。ましてその他人が、自分の方から彼を必要とし、自分の方から彼を招いているのであってみれば、なおさらのことである。彼はていねいに服を
この朝、彼は念入りに
『それに、……それにかんじんな問題は、おれががさつで、じじむさくて、物腰が居酒屋じみてることだ。よしんば……よしんば仮りに、おれが自分をほんの少しばかりでも、人間らしい人間だと承知しているにもせよ……人間らしい人間だってことが、いったいなんの自慢になるんだ? 人間は誰しも人間らしい人間でなけりゃならない。それどころか、もそっと気のきいたのでなくちゃならん。それに……なんといっても(おれはそれを覚えてる)、おれにはちょいちょいした変な事がある……何も破廉恥というほどじゃないが、しかしそれでも!……ところで、腹で考えた事に至っては大変だ! ふむ……これを全部アヴドーチャ・ロマーノヴナに並べて見せたらどうだろう! ええっ、くそ! かまうものか! なに、わざときたならしい、脂じみた、居酒屋式なかっこうをしてやれ。平気だい! これ以上の風だってしてやるぞ!』
彼がこうした独白を並べているところへ、プラスコーヴィヤの客間に泊まったゾシーモフがはいって来た。彼は家へ帰りがけに、ちょっと病人をのぞいてみようと、急いでいるところだった。ラズーミヒンは、病人が野鼠のように寝ていると告げた。ゾシーモフは、ひとりでに目のさめるまで起こさないように指図をした。そして、十時過ぎにまた来ると約束した。
「ただ家にさえいてくれればいいんだが」と彼は言い足した。「ちょっ、いまいましい! 自分の患者さえままにならないんだからな、これでどう治癒のしようがあるってんだ! ときに、君知らないかい――こっちから二人のところへ出向くのか、それとも二人がここへ来るのか?」
「二人の方がだろう、と思うな」と質問の意味を察して、ラズーミヒンは答えた。「そして、もちろん、内輪の話が始まるだろう。僕ははずすよ。しかし、君は医者だから、僕よりよけい権利があるわけだ」
「僕だって坊主じゃないからね。来たら帰るよ。あの人たちのほかにも、用事はたくさんあるんだ」
「僕一つ気になることがあるんだよ」と
「君はきのう婦人連にまで、その事をしゃべってしまったね」
「いや、馬鹿げていた。自分でもつくづくそう思うよ! なぐられても文句はない! だが、どうなんだね、君は実際それについて、確たる考えがあったのかね?」
「くだらない話だと言ってるじゃないか。確たる考えも何もあるもんか! 君の方こそ、僕を初めてやつの所へ引っ張って行ったとき、
「いったい誰に話したんだい? 君と僕くらいなものじゃないか?」
「それからポルフィーリイにも」
「ポルフィーリイにしゃべったっていいじゃないか!」
「ときに、君はあの人たち――おふくろと妹を左右する力を、いくらか持ってるだろうね? 今日は先生との応対に気をつけさしてくれたまえ……」
「一騒ぎやるだろうよ!」とラズーミヒンは気乗りのしない調子で答えた。
「だが、なんだって先生あのルージンにああ食ってかかるんだろう? 金はあるらしいし、あの娘もまんざら嫌いではなさそうだし……だって、先生たちまるっきり無一物なんだろう? え?」
「君はなんだってそう根ほり葉ほりきくんだい?」とラズーミヒンはいら立たしげに叫んだ。「無一物か無一物でないか、僕の知ったことじゃないよ! 勝手に自分できくがいい、そしたらわかるだろうよ……」
「ちょっ、君はどうかすると手のつけられない馬鹿になるぜ! 昨日の酔いがまだ残ってるんだろう。じゃ、失敬。プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナに、よく一夜の宿の礼を述べといてくれたまえ。戸に
かっきり九時に、ラズーミヒンはバカレーエフの下宿を訪ねた。二人の婦人はもうよほど前から、ヒステリイじみるほどじりじりしながら、彼の訪問を待っていた。二人とも七時か、それよりもっと前から起きていたのである。彼は夜を欺く暗い顔をしてはいって行くと、無器用そうに会釈をして、そのためにすぐ腹を立ててしまった――もちろん、自分自身にである。しかし、それは相手なしの一人相撲だった。プリヘーリヤはいきなり彼に飛びかかって、その両手を握りしめ、ほとんどそれに
『病人はまだ目をさまさない』けれど、『経過はきわめていい』と聞いて、プリヘーリヤはその方がかえって好都合だといった。『なぜって、前もってぜひともご相談しておかねばならぬことがありますから』それから、お茶はどうかという質問に続いて、一緒に飲もうという招待があった。二人ともラズーミヒンを待っていたので、まだ飲まずにいたのである。アヴドーチャはベルを鳴らした。するとそれに応じて、きたならしいごろつきみたいな男が現われた。で、それに茶を命じると、そのうちにやっと茶道具が並べられたが、それは二人の婦人が赤面するほどきたならしい、不体裁なものだった。ラズーミヒンはこっぴどく下宿を罵倒しかけたが、ふとルージンのことを思い出したので、口をつぐんでまごまごしてしまった。で、プリヘーリヤがやみ間なく質問の雨を浴びせ出したので、すっかりうれしくなってしまった。
彼はひっきりなく腰を折られたり、問い返されたりしながら、それらの質問に答えて、ものの四十五分間もしゃべり通した。そして、最近一年間のラスコーリニコフの生活について、知っている限りのおもだった必要な事実を逐一話した上、今度の病気の詳細な報告で話を結んだ。それでも、彼はまだいろいろ省略を要する点を省略した。ことに警察での一条や、それから生じたいっさいの結果は黙っていた。二人はその話をむさぼるように聞いた。そして、彼が話を終わって、聞き手を満足さしたことと思った時も、二人はまだ始まったばかりのように思っているのであった。
「ねえ、ねえ、一つ聞かせてくださいまし、あなたはなんとお考えになります……ああ、ごめんなさい、わたしはまだあなたのお名前を伺いませんでしたね」とプリヘーリヤはせき込んで言った。
「ドミートリイ・プロコーフィッチです」
「それでですね、ドミートリイ・プロコーフィッチ、わたしはたいへん、たいへん……知りたくてたまらないんですの。全体に……あの子は今どんな考え方でいるんでしょう? つまり、その、おわかりになりますかしら、なんと申し上げたらいいんでしょう。つまり平ったくいいますと、あの子は何が好きで、何が嫌いなんでしょう? いつもあんなにいらいらしているのでしょうか? あの子はいったいどんな望みを持ってるんでしょう、つまり、言ってみれば、何を空想しているんでしょう? 何が今あれの気持を動かすような、特別な力を持っているのでしょう? 一口に言えば、わたしが知りたいのは……」
「まあ、お母さんたら、そんな一時におっしゃったら、返事なんかできやしないじゃありませんか」とドゥーニャが注意した。
「ああ、情ない、だってわたしは全く、あの子があんな風になっていようとは、夢にも思いがけなかったですもの、ドミートリイ・プロコーフィッチ」
「そりゃ実際ごもっとも千万ですよ」とドミートリイ・プロコーフィッチは答えた。「僕には母がありませんでしてね、その代わり、
「ああ、ほんとにそうありたいものです!」ラズーミヒンの試みた最愛のロージャの
ラズーミヒンはとうとう思い切って、アヴドーチャにやや大胆な視線を向けた。彼は話の間にも何度となく、彼女の顔をちらちらと見やったが、それはほんのちょっとの間で、すぐ目をそらしてしまうのであった。アヴドーチャはテーブルに向かって、じっと注意深く聞いているかと思うと、ふいに立ち上がっていつものくせで手を組み合せ、唇をきっと結んで、部屋の中を隅から隅へと歩き回る。そして、時おり歩みをやめずに質問を発して、考え込んでしまうのであった。彼女も人の話をしまいまで聞かぬくせがあった。彼女は軽い生地で作った黒っぽい服を着て、首には透き通るような白いショールをかけていた。ラズーミヒンはいろんな点から、二人の女の身のまわりがいかにも貧しいのを見てとった。もしアヴドーチャが女王にまごう装いをしていたら、かえって彼は彼女を恐れなかったろう。ところがいま彼女はこんなに見すぼらしいなりをしていて、しかも彼がその貧しい様子に気づいたためでもあろうか、彼の心には恐怖の念が食い込んで、一言一句をも慎しむようになった。これはもちろん彼のような、それでなくても自分に信用のおけない人間にとっては、かなり窮屈なことだった。
「あなたは兄の性質について、いろいろ面白いことをお話しくださいました……しかも公平無私にね。それはけっこうな事ですわ。わたしね、あなたは兄を崇拝しきっていらっしゃるのかと、そう思ってましたの」アヴドーチャは微笑を含んで言った。「でも、なんですか、兄には女の人がついているのに相違ないということも、本当じゃないかと思われますのよ」彼女はもの思わしげに言い足した。
「そんなことは僕は言いませんでしたが、しかし、あるいはおっしゃる通りかもしれません、ただ……」
「なんですの?」
「だって、ロージャは誰も愛しちゃいないんですよ。また今後もけっして愛するなんてことはないでしょう」とラズーミヒンはきっぱり言い切った。
「つまり、兄には愛する素質がないんですの?」
「ねえ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、あなたも実に兄さんそっくりですね。何から何まで!」彼はふいに、自分自身でも思いがけなく、ついずばりと言ってしまった。けれどもすぐに、たったいま彼女に話した兄の批評を思い出すと彼はえびのようにまっかになり、恐ろしく照れてしまった。
アヴドーチャはそれを見ると、からからと笑い出さずにはいられなかった。
「ロージャのことについては、二人とも考え違いしておいでかもしれないよ」とプリヘーリヤはややむっとしたらしく口をはさんだ。「わたしは今のことをいうのじゃないよ。ドゥーネチカ。ピョートル・ペトローヴィッチがこの手紙に書いておよこしになったこと……わたし達が二人で推量したようなことは、もしかすると本当じゃないかもしれないけれど、ねえ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、あなたはあの子がどんな突飛な、さあ、なんといったらいいでしょう、つまり気まぐれな人間だか、とても想像がおつきになりますまい。まだやっと十五くらいの時でさえ、わたしあの子の気性には、ちっとも安心ができませんでしたよ。あの子は今でも、ほかの人では考えることもできないようなことをふいにしでかすかもしれないと、わたし思い込んでおります……そう、古いことは言わなくても、一年半ばかり前、ほら、あなたご承知かどうかしりませんけれど、ザルニーツィナ――下宿のおかみさんの娘と結婚するなんか言い出しましてね、どんなにわたしを困らせて、心配させたことでしょう。あれにはほとほとてこずってしまいましたよ」
「あなた、あの事で、何かくわしく知っていらっしゃいます?」とアヴドーチャは尋ねた。
「あなたなどはそうお思いになるでしょう」プリヘーリヤは熱くなってことばを続けた。「あの時わたしの涙が、わたしの嘆願が、わたしの病気が、わたしのもだえ死にが、家の貧乏が、あの子を思い止まらせたろうと、そうお思いでしょう? ところがどうして、あの子はどんな障害でも、平気で踏み越えて行ったに相違ありません。それであなた、それであの子がわたしたちを愛していないと、お思いになりまして?」
「ロージャは一度もその話を僕にしませんでしたが」とラズーミヒンは用心深く答えた。「けれど、僕は当のザルニーツィナから、少々ばかり聞いております。もっとも、この女だってあまり口数の多い方じゃないんですがね。しかし聞いたことは、なんだか少し変な話でしたよ」
「何を、何をお聞きになりました?」と二人の女は一時に尋ねた。
「もっとも、かくべつ変わったことは何もありませんがね。ただ僕の聞いたところでは、この結婚はもうすっかり話がととのっていたのに、花嫁が死んだばかりに成立しなかったのですが、母親のザルニーツィナさえあまり気に染まなかったということです。……そのほか、人の話では、花嫁もいい器量ではなかった、つまり、むしろ不器量なくらいで……それに病身で……変な娘だったそうですよ……もっとも、どこかにいいとこがあったらしいです。いや、きっと何かいいとこがあったに相違ないです。でなけりゃ、わけがわかりませんものね……持参金もまるでなかった。それにロージャは、持参金など当てにするような人間じゃありませんし……概してこうした事は、簡単にとやかく言えないものですよ」
「きっとその方は、立派な娘さんだったに相違ありませんわ」とアヴドーチャはことば短かに言った。
「でもねえ、まことに済まないことだけど、あの時わたしは娘さんが死んだのを、ほんとに心から喜びましたよ。もっとも、あの子が娘を台なしにするか、娘さんがあの子を台なしにするか、どっちがどっちかわからないけれどね」とプリヘーリヤはことばを結んだ。それから、用心深く控え目な調子で、絶えずドゥーニャの顔をぬすみ見ながら(見うけたところ、こちらはそれが
この一件は察するところ、彼女にとって身震いの出るほど、何よりも恐ろしい心配の種らしかった。ラズーミヒンは改めて一部始終を物語ったが、今度は自分の結論をつけ加えた。つまり前から
「これは病気の前から考えていたんですよ」彼は言い足した。
「わたしもそう思いますよ」とプリヘーリヤは、打ちのめされたような風であいづち打った。
けれど彼女を驚かしたのは、今度ラズーミヒンがルージンのことを言うのに、慎重な態度をとったばかりか、敬意さえ示しているらしい事だった。それはアヴドーチャをも驚かしたほどである。
「ではあなた、ピョートル・ペトローヴィッチには、そういうご意見を持っていらっしゃるのですか?」とプリヘーリヤはきかずにいられなかった。
「ご令嬢の将来の夫たるべき人ですもの、ほかの意見などあろうはずがありません」とラズーミヒンはきっぱりと、熱のこもった調子で答えた。「しかし、単に世間並みのお義理で言うのじゃありません。その……その……つまり、アヴドーチャ・ロマーノヴナが、ご自分の意志でお選びになったからです。もし昨日、僕があの人の棚おろしでもしたようでしたら、それは僕が見苦しく酔っ払って……しかもその上、まるで夢中だったからです。そうです、夢中だったんです、のぼせあがっていたんです、すっかり気がちがってたんです、今日になってみると、いまさら
彼は赤くなって口をつぐんだ。アヴドーチャもぱっと顔を赤らめたが、沈黙は破らなかった。彼女はルージンの話が出た瞬間から、一言も口をきかなかったのである。
その間にプリヘーリヤは娘の助言を失って、見るからに思い惑っている様子だった。とうとう彼女は、ひっきりなしに娘の顔を見ながら、口ごもりがちに、今ある一つのことが気にかかってたまらないと言い出した。
「こうなんですよ、ドミートリイ・プロコーフィッチ」と彼女は口を切った。「この方には何もかも打明けてしまうからね、ドゥーネチカ?」
「そりゃ、当たり前ですとも、お母さん」とアヴドーチャは力のこもった声で答えた。
「こういうわけなんですよ」苦労を打明けてもいいという許可を得て、重荷をおろしたような風で、彼女は急いで言い出した。「実は今朝早く、ピョートル・ペトローヴィッチから手紙が参りました。きのう着いたことを知らせてやった、その返事なんでございます。実のところ、あの人は停車場まで出迎えに来てくれる約束だったのに、それをしないで、何かボーイ風の男に下宿の宛名を持たせて、道案内によこしたんですの。そして、自分はきょう朝のうちに伺うからと、そういうことづてでございました。ところが今日になっても、本人が来る代わりに、この手紙が参りました……お話するよりも、いっそこれを読んでいただきましょう。その中に一つたいへん心配になることがありまして……それが何かって事は、すぐおわかりになります。そして……腹蔵なくご意見を聞かせてくださいませんか、ドミートリイ・プロコーフィッチ! あなたは誰よりも一番、ロージャの性質はよくご承知なんですから、一等いい分別を貸していただけようと思いますの。お断わりしておきますが、ドゥーネチカはもう初めっから、すっかり決心しているんですけれど、わたしは……わたしはまだどうしたものか、途方に暮れておりますので……それで……それであなたのお
ラズーミヒンは昨日の日付になっている手紙を開いて、次のように読み下した。
『プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、拝啓
P・ルージン』
「こうなってみると、いったいどうしたものでしょうね、ドミートリイ・プロコーフィッチ?」とプリヘーリヤは泣かないばかりに言った。「どうしてわたしの口から、ロージャに来るななんてことが言い出せましょう? あれは昨日もあんなにやかましく、ピョートル・ペトローヴィッチを断わってしまえと言ってたのに、こちらはまた部屋へ通すな、なんて言ってよこすんですもの! いえ、あれはこんな事を聞いたら、それこそ意地でも来るに違いありません……そしたらまあ、どうなるでしょう?」
「なに、アヴドーチャ・ロマーノヴナのご決心どおりになすったらいいでしょう」とラズーミヒンは落ち着き払って、即座に答えた。
「まあ、とんでもない! 娘が言うのは……娘はまた途方もないことを言い出すんですの、しかもわけも話さないで! この子が申しますには、ロージャにも今日の八時にわざと来てもらって、二人を同席させた方がいいんですって。いえ、その方がいいというわけじゃありませんけれど、なぜか是非ともそうしなくちゃいけないんですって……ですけれど、わたしロージャにはこの手紙を見せたくないんですの。そして、あなたにもお力を拝借した上、なんとかうまくごまかして、あれを来させないようにしたいと思うんですよ……だってね、あの子はあんなかんしゃくもちなんでしょう……それに、わたし何が何やら、ちっともわけがわかりませんの……いったいどんな酔っ払いが死んだのやら、娘が何ものやら、どういうわけであの子がその娘になけなしの金を皆やってしまったやら……だってあの金は……」
「並みたいていの苦労でできたものじゃないんですからね、お母さん」とアヴドーチャが言い添えた。
「あの男はきのう正気じゃなかったんですよ」考え込んだような調子で、ラズーミヒンは言い出した。「あなた方はご存じないですが、きのう料理屋でロージャのしたことなんていったら! もっとも、頭のいいには驚きますがね……全くのところ、どこかの死人のことや娘のことは、きのう一緒に家へ帰る途中でも、何か言ってましたっけ。ですが、僕さっぱりわからなかったんです……もっとも、昨日は僕自身も……」
「それよかお母さん、こちらから兄さんの方へ出かけて行った方がいいじゃありませんか。そうすれば、どうしたらいいかってことも、すぐわかってしまいます。わたし受け合うわ。それにもう時間ですもの。あらまあ! もう十時過ぎよ!」首にかけていた自分の時計をちらと見て、彼女はこう叫んだ。それは細いヴェニス式の鎖をつけた、
『
「あっ、ほんとに時間だ……時間だよ、ドゥーネチカ、時間だよ!」とプリヘーリヤは急にあわてて騒ぎ出した。「おまけに、こういつまでもぐずぐずしてると、昨日のことで怒ってる、と思うかもしれない。ああ、たいへんだ!」
こう言いながら、彼女は
『女王』と彼は腹の中で考えた。『あの
「ああ、なさけない!」とプリヘーリヤは声を上げた。「ほんとにわたしは現在のわが子に、かわいいかわいいロージャに会うのを、こんなにまでこわがるだろうなんて、そんなこと夢にも考えたことがないのに、わたしなんだかこわいんですよ、ドミートリイ・プロコーフィッチ!」彼女はおずおずと相手を見上げながら、こう言い足した。
「こわがることないわ、お母さん」とドゥーニャは母に
「ああ、どうしよう! わたしも信じているんだよ。だけど、昨夜は一晩じゅう眠れなかったんだもの!」と哀れな婦人は叫んだ。
彼らは外へ出た。
「ねえ、ドゥーネチカ、わたし明け方になって、少しとろとろすると、思いがけなく亡くなったマルファ・ペトローヴナが夢枕に立ったんだよ……何もかもまっ白な着物を着てね……わたしの傍へ来て手をとりながら、かぶりを振って見せるんだよ。それはこわい顔をしてね、まるでわたしを責めでもするように……これはいいしらせだろうかねえ! ああ、そうそう、ドミートリイ・プロコーフィッチ、あなたはまだご存じないでしょう。マルファ・ペトローヴナが亡くなったんですよ?」
「ええ、知りません、いったいマルファ・ペトローヴナって誰です?」
「急なことでねえ! まあ、どうでしょう……」
「あとになさいよ、お母さん」とドゥーニャが口を入れた。「だってまだこのかたは、マルファ・ペトローヴナがどういう人か、ご存じないじゃありませんか」
「おや、ご存じないんですって? わたしはまたね、何もかもご存じだと思っていましたの。どうぞごめんくださいましね、ドミートリイ・プロコーフィッチ。わたし、この二、三日、気が
「ええ、ぶっつけたんです」とラズーミヒンはすっかり幸福になってつぶやいた。
「わたしはどうかすると、あまり本気になってお話するもんですから、いつもドゥーニャに直されるんですの……ああ、それはそうと、
「もし顔でもしかめるようでしたら、あまりうるさくいろんな事を尋ねないようにするんですね。ことに体のことを聞いちゃいけませんよ、いやがりますから」
「ああ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、母親というものはなんてつらい役目でしょう! ですが、もう階段です……なんという恐ろしい階段だろう!」
「お母さん、顔色まで青くなってることよ。落ち着いてちょうだいよ」とドゥーニャは母にすりよって言った。「兄さんたら、お母さんに会うのを喜ばなくちゃならないはずだのに、かえってお母さんの方がそんなに気苦労なさるなんて」両眼をぎらぎら光らせながら、彼女はそう言いたした。
「ちょっと待ってください、起きたかどうか、僕さきに見て来ますから」
二人の婦人は、先に立って行くラズーミヒンについて、そろそろのぼって行った。もう四階まで上って、おかみの部屋の戸口へさしかかったとき、ドアがごく細目にあいていて、すばしっこい二つの黒い目が、闇の中から二人をうかがっているのに気がついた。けれど、双方の目がぱったり出会うと、ドアはいきなりぱたんと閉まった。それはプリヘーリヤが驚きのあまり、危うく叫び声を立てそうになるほど、猛烈な勢いだった。
「元気です、元気です!」はいってくる二人の婦人を出迎えて、ゾシーモフは浮き浮きした調子で叫んだ。
彼は十分ばかり前に来て、昨日と同じ長椅子の片隅に腰かけていたのである。ラスコーリニコフは近ごろ珍らしく、ちゃんと服を着て、おまけに念入りに顔まで洗い、髪をとかして、反対の端に腰かけていた。部屋は一度にいっぱいになったが、それでもナスターシャは、客のあとからはいって来て、一座の話に耳をすまし始めた。
なるほどラスコーリニコフは、もうほとんど健康といってよかったが(ことに昨日と比べたらなおさらだった)、ただ非常に顔色がわるく、ぼんやりした様子で、気むずかしそうだった。外から見たところ彼は
もしこのうえ手にほうたいでもしているか、指に
もっとも、この青ざめた気むずかしい顔も、母と妹がはいってきた時には、せつな何かの光りに照らされたようになったが、これもただ前の悩ましげな放心の表情に、一そう凝結したような
「ええ、僕はもう自分でも、ほとんど健康体になったのがわかりますよ」愛想よく母親と妹を接吻しながら、ラスコーリニコフは言った。この一言で、プリヘーリヤの顔は見る間に輝き渡った。
「しかも、これは昨日の流儀で言ってるんじゃないよ」彼はラズーミヒンの方へ向いて、親しげにその手を握りながら、こう言い足した。
「いや、僕も今日はこの人を見て、面くらったくらいですよ」もう十分ばかりの間に、患者との話に継ぎ穂を失っていたゾシーモフは、三人がはいって来たのに大喜びで言い出した。「この調子で行けば、三、四日後には、それこそすっかりもともと通りになりますよ。つまり一月前、いや二月……あるいは三月前と言った方がいいかな? だって、この病気はだいぶ前からきざして、潜伏期が長かったんですからね……え、どうです? 今となったら白状なさい、もしかしたら、君自身にも責任があるんじゃないですか?」まだ何かで患者をいら立たせてはと心配するように、彼は用心深い微笑を浮かべて、言い足した。
「大きにそうかもしれません」とラスコーリニコフは冷やかに答えた。
「僕もその意味で言ってるんですよ」とゾシーモフは自分の成功に味をしめて、ことばを続けた。「これから君が完全に回復されるのは、ただ心の持ちようしだいなんですよ。今こうして、君とお話ができるようになってみると、ぜひこれだけの事をよく合点していただかなきゃなりません――つまり、君の病的状態の発生にもっとも多く影響した最初の、いわば、根本的原因を除かなければならないのです。そうすれば本当に回復されます。が、さもないと、かえって悪くなってしまいますからね。この根本的原因は僕にこそわからないけれど、君にはよくわかっているはずです。君は
「そうです。そうです。おっしゃる通りです……そのうちに、僕もなるべく早く大学へ復校しましょう。そうすれば万事……とんとん拍子にいくでしょう……」
一つは婦人たちの前で当たりを取ろうというつもりで、こういった賢明な忠告を始めたゾシーモフも、ことばを終わってから、聞き手の顔をちらと見やり、その顔にまざまざと
「えっ、この人が夜中に訪ねたんですって?」とラスコーリニコフは、はっとしたらしい様子で尋ねた。「してみると、お母さん達は旅づかれのあとを、ろくろく寝なかったんですね?」
「いえ、なに、ロージャ、それはほんの二時ごろまでの話なんだよ。家にいる時だって、わたしもドゥーニャも、二時より早く寝たことなんかついぞ無いんだから」
「僕もやはりこの人に、どうしてお礼したらいいかわからないんです」とラスコーリニコフは急に眉をしかめて、うなだれながらことばを継いだ。「金の問題は別として――こんな事なんか口に出して失礼ですが(と彼はゾシーモフの方へふり向いた)、僕はどうしてあなたから、こうした特別なご親切を受けるんだか、ほとほと合点がいきません。ただもうわからないんですよ……で……で、僕にはそのご親切が苦しいくらいです。だって、不可解なんですものね。僕は遠慮なしに言わせてもらいます」
「まあ、君そういらいらしないでください」とゾシーモフは無理に苦しそうな笑いを立てた。「まあ、君が僕にとって初めての患者だ、とでも想像していただくんですな。全く、開業早々のわれわれ医師仲間は、最初の患者をわが子同様に可愛いがるもんですからね。中には、ほとんどほれこんでしまうのがいるくらいですよ。何しろ、僕もまだ患者があり余る方じゃないので」
「あの男のことは、今さら言っても仕様がない」ラスコーリニコフはラズーミヒンをさしながらつけ加えた。「あの男は、僕から侮辱と面倒よりほかには、何一つ受け取ったことがないくせに」
「何を馬鹿言ってるんだい! 君は今日はセンチな気分になってるとでもいうのかい?」とラズーミヒンはどなった。
けれど、もし彼にも少し鋭い観察力があったら、それはけっしてセンチメンタルな気分どころでなく、何かしらぜんぜん正反対のものだと気づいたはずである。しかし、アヴドーチャはそれに気がついた。彼女は不安げにじっと兄を注視していた。
「お母さん、あなたの事になると、僕はもう申しわけなどする勇気もないくらいです」まるで朝から暗記した宿題のような調子で、彼はことばを続けた。「僕は今日になって、お母さんたちが昨日ここでどんなにか気をもみながら、僕の帰りを待っておられただろうと、やっといくらかお察しできたような始末なんです」こう言いながら、彼は急に無言のまま、微笑を含んで妹に手を差し伸べた。この微笑の中には、今度こそ作りものでない真実な感情がひらめいた。ドゥーニャはすぐさま差し伸べられた手を握って、さもうれしそうに、感謝の熱意をこめて握りしめた。これが昨日の争論以後、初めて妹に示した態度なのである。兄と妹のこうした無言の固い和解を見て、母親の顔は歓喜と幸福に輝いた。
「これだから僕はこの男が好きなんだ!」なんでも誇張する癖のあるラズーミヒンは、椅子のまま勢いよく体をふり向けながらささやいた。「あの男はよくああした含蓄のある動作を見せますよ!……」
『まあ、あの子のすることは、なんでも感じよくうまくいくこと!』と母は心の中で考えた。『ほんとになんという奥床しい心意気だろう! あのきのう以来の妹とのわだかまりを、なんとまあああも無造作に、しかも優しくといてしまったことだろう――ただひょいと手を伸ばして、優しい目つきを見せただけだもの……それに、あの子の目の美しいこと、そして顔全体の美しいこと! ドゥーネチカよりも器量がいいくらいだ……でも、まあ、あの服はなんということだろう、なんてひどい身なりをしているんだろう! アファナーシイ・イヴァーヌイチの店にいる小僧のヴァーシャだって、まだましなかっこうをしている!……ああ、一思いにあれに飛びついて抱きしめてやりたい……そして、泣いてみたいんだけれど――でも何かこわい、こわくって仕様がない……あの子がなんだかこう……ああ、情けない! ちょっと見れば、あんなに優しく話しているのに、それでもわたしはこわい! まあ、いったい何がこわいんだろう?……』
「ああ、ロージャ、お前はとても本当にできまいがね」彼女はわが子のことばに答えを急いで、いきなりこう引きとった。「ドゥーネチカもわたしも昨日はどんなに……不仕合せだったか! でも、今はもう何もかもすんで、おしまいになったから、わたしたちはまた仕合せになったんだよ――だからもう話してもかまわないね。まあ、考えてもおくれ、早くお前を抱きしめたいと思って、汽車をおりるとすぐ、ここへ駆けつけて来てみると、あの女中さんが――ああ、そこにいますね! こんにちは、ナスターシャ! あの人がいきなりだしぬけに、お前は脳病系の熱で寝ていたのに、つい今しがたお医者にかくれて、熱に浮かされながら外へ飛び出してしまったので、みんな捜しに駆け出したっていうじゃないか。その時のわたしたちの心持は、お前にゃとてもわかりゃしないよ! わたしはすぐ家で懇意にしていたポタンチコフ中尉――ほら、お前のお父さんのお友達さ――あの人の非業の最期が思い出されたんだよ。お前はもう覚えていないだろうが、やっぱり脳病系の熱でね、同じような風に外へ飛び出して、裏庭の井戸へ落っこちてしまったんだよ。やっとあくる日になって引き上げたような始末なのさ。だからお前、わたしたちはいうまでもない、なおのことおおぎょうに考えるだろうじゃないか。せめてピョートル・ペトローヴィッチにでも力を借りようと思って、すんでのことにあの人を捜しに飛び出すところだったよ……だってお前、わたしたち二人っきりなんだものね、まるで
「そう、そう……それはもちろん……不本意千万なことでした……」とラスコーリニコフは返事がわりにつぶやいたが、それがいかにも放心したような、ほとんど注意もしていないような様子だったので、ドゥーネチカは驚きのあまり、じっと彼の顔を見つめた。
「ええと、まだ何か言いたいことがあったっけ」一生懸命に思い出そうと努めながら、彼はことばを続けた。「そうだ――どうぞね、お母さん、それからドゥーネチカ、お前も――きょう僕の方が先にあなた方の所へ出かけるのがいやで、こちらへまず来てくださるのを待っていたなんて、そんなことを思わないでください」
「まあ、何をいうの、ロージャ!」プリヘーリヤも同じように驚いて叫んだ。
『まあ、いったいこの人はお義理に返事をしているのかしら?』とドゥーネチカは考えた。『仲直りするのも、わびるのもまるでお勤めでもするか、学課の暗唱でもしてるようだわ』
「僕は目がさめると、さっそく出かけようと思ったんですが、着物の事で引っかかったのです。昨日あれに……ナスターシャに言うのを忘れたもんですから……血を洗い落としてくれというのを……で、今やっと着がえしたばかりなんですよ」
「血! なんの血なの?」とプリヘーリヤはぎょっとした。
「なに、なんでもないんです……ご心配なく、お母さん。その血というのはこういうわけです。きのう少し熱に浮かされ気味で、町をうろつき歩いていたとき、馬車にひかれた男にぶっつかったんです……ある官吏です……」
「熱に浮かれてた? だって、君は何もかもすっかり覚えてるじゃないか」とラズーミヒンがさえぎった。
「それはほんとうだ」何か特別気づかわしげな調子で、ラスコーリニコフはそれに答えた。「何もかも覚えてるよ。ごくごく微細な点まで。ところがね――なぜ、あんなことをしたか、なぜあんなところへ行ったか、なぜあんなことを言ったか? という段になると、もうよく説明ができなくなるんだ」
「そりゃわかり過ぎるくらいわかりきった徴候ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「仕事の実行はどうかすると巧妙を極めて、
『いや、この男がおれをほとんど狂人扱いにするのは、あるいは好都合かもしれないぞ』とラスコーリニコフは考えた。
「でもそれは、健康な人にだってあることかもしれませんわ」不安げにゾシーモフらを見ながら、ドゥーネチカは注意した。
「かなり
得意な話題で調子に乗ったゾシーモフが、うっかりすべらした『狂人』ということばに、みんな思わず
「さあ、それでどうしたい、その馬車にひかれた男は? ぼく話の腰を折ってしまったが!」とラズーミヒンは急いでこう叫んだ。
「何?」こちらは目がさめたように問い返した。「そう……それでつまり、その男を家までかついで行く手伝いをしたとき、血まみれになったんだ……ときにお母さん。僕はきのう一つ申しわけないことをしちゃったんで。実際、正気じゃなかったんですね。お母さんが送ってくださった金を、昨日すっかりやっちゃったんです……その男の細君に……葬式の費用として。今はやもめになった、肺病やみの、みじめな女なんです……小さいみなしごが三人ひもじい腹をかかえていて……家の中はがらんどう……まだ外に娘が一人いるんですが……全くそれをごらんになったら、お母さんだっておやりになったかもしれませんよ……もっとも、僕にそんな権利はなかったんです。ことに、お母さんがどうして調達してくだすったか、それを知ってるんですからね。人を助けるには、初めにまずその権利を得なくちゃなりません。でないと、Crevez chiens, si vous n'tes pas contents(ひもじけりゃ犬でも殺せ)ですからね!」彼はからからと笑い出した。「そうじゃないか、ね、ドゥーニャ?」
「いいえ、そうじゃないわ」ドゥーニャはきっぱりと言った。
「へえ! じゃお前も……何か思わくあってだな!……」彼はほとんど憎悪のまなざしで彼女を見やり、あざけるような微笑を浮かべながらつぶやいた。「僕もそれを思い合わさなくちゃならなかったんだ!……ま、いいさ、けっこうなことだ。つまりお前のためになるよ……そして、ある一線まで行きつくさ。それはね、踏み越さなければ不幸になるが、踏み越しても、一そう不幸になるかもしれない、そういった一線なのだ……もっとも、こんなことは皆くだらない話だ!」つい心にもなく夢中になったのを、いまいましく思いながら、彼はいら立たしげに言い添えた。「僕はただお母さんに許していただきたいと、そう言いたかっただけなんです」彼は角のあるきれぎれな調子でこう結んだ。
「もういいよ、ロージャ、わたしはね、お前のすることなら、なんでも立派だと信じてるんだから!」母はさもうれしそうに言った。
「信じない方がいいんですよ」微笑に口をゆがめて、彼はさえぎった。
沈黙がそれに続いた。すべてこうした会話にも、沈黙にも、和解にも、許容にも、なんとなく緊張したものがあった。そして、誰も彼もがそれを感じていた。
『どうも、まるでみんなおれを恐れてるようだ』上目づかいに母と妹を見ながら、ラスコーリニコフは腹の中で考えた。事実プリヘーリヤは、黙っていればいるほど、いよいよおじ気づくのであった。『別れてる間は、おれも二人に深い愛情をいだいていたようだったのに』こういう考えが彼の頭にひらめいた。
「あのね、ロージャ、マルファ・ペトローヴナが亡くなられたよ!」とふいにプリヘーリヤが口を出した。
「マルファ・ペトローヴナって誰です?」
「あら、まあ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナさ! ついこの間の手紙で、あんなにいろいろ知らせてあげたじゃないか」
「あーあ、覚えています……じゃ、死んだんですか? え、ほんとに?」彼は急に目がさめたように、突然身震した。「いったいほんとに死んだんですか? なんで?」
「それがねえ、急だったんだよ!」とプリヘーリヤは、彼が興味を持ってきたのに元気づいて、せきこみながら言った。「ちょうどわたしがお前に手紙を出した、あの時だったんだよ、ちょうどあの日に! 世間の噂だと、あの恐ろしい男が、どうやらそのもとになったらしいんだよ。あの男がたいへんひどく奥さんを
「じゃ、その夫婦はいつもそんな風だったのかい?」と彼は妹の方を向いて尋ねた。
「いいえ、まるで反対なくらいよ。あの人は奥さんにはいつも我慢づよくて、ていねいなくらいだったわ。たいていの場合、奥さんの気性を大目に見過ぎるくらいだったのよ、まる七年の間……それはどうしたのか急に堪忍袋の緒を切らしたの」
「してみると、七年も辛抱したのなら、それほど恐ろしい男でもないじゃないか! ドゥーネチカ、お前はあの男を弁護してるようだね?」
「嘘よ、嘘よ、あれはほんとに恐ろしい人なの! あれ以上恐ろしいものは、わたし想像もできないくらいだわ」とドゥーニャは震え上がらんばかりの様子で言い、眉をしかめたまま考え込んだ。
「それは朝のうちの出来事だったんだよ」とプリヘーリヤはせかせかとことばを続けた。「そのあとで奥さんは、昼の食事をすますとすぐ、町へ行く馬車のしたくをいいつけたの。だって、あの人はそんな時、きまって町へ行くことにしていたもんだからね。食事の時なんか、たいへんおいしくいただいたという話だった……」
「なぐられたばかりで?」
「もっとも、あの人にはいつもそうした……癖があったんだね。で、昼の食事をすますとすぐ、町へ行くのが遅くならないように、さっそく水浴び場へ行ったそうだよ……実は、あの人は何かそんな水浴療法をしていたそうだから。あすこには冷たい泉があってね。あの人はそれへ毎日きまってはいってたんだそうだよ。ところが、水へはいるとたんに、いきなり発作が起こったんだね!」
「そりゃそうでしょうとも!」とゾシーモフが言った。
「で、あの男はひどく細君をなぐったんですか?」
「そんなこと、どうでもいいじゃありませんか」とドゥーニャが口を入れた。
「ふむ! しかし、お母さんはいい物好きですね、こんなくだらない話をするなんて」とふいにラスコーリニコフはいら立たしげに、つい口がすべったという調子で言った。
「まあ、お前、わたしもう何を言ったらいいか、わからなかったもんだからね」とプリヘーリヤは思わず口をすべらした。
「いったいどうしたんです、あなた方はみんな僕をこわがってでもいるんですか?」と、ひん曲がったような微笑を浮かべて、彼は言った。
「そりゃ全くほんとよ」ドゥーニャはいかつい目つきでまともに兄を見ながら、こう言った。「お母さんは階段を上る時から、びくびくして十字を切ってらしたくらいですもの」
彼の顔はけいれんでもしたようにゆがんだ。
「ああ、ドゥーニャ、お前何を言うんだね? ロージャ、後生だから、怒らないでね。ドゥーニャ、なんだってお前はあんなことを!」とプリヘーリヤはまごまごして言った。「そりゃ全く、わたしはこっちへ来る途中も、汽車の中でずっと考えてばかりいたんだよ――お前に会った時の事だの、お互いにいろんな話をし合う模様だのをね……そう思うと、わたしはうれしくてうれしくて、道中の長いことも忘れるくらいだったよ! まあ、わたしは何を言ってるんだろう! わたしは今でも仕合せなのに、ドゥーニャほんとにお前は余計なことを……わたしはもうお前の顔を見ているだけでも、もうもううれしくてたまらないんだよ、ロージャ……」
「もういいですよ、お母さん」母の方を見ないで、その手を握りしめながら、彼は当惑したようにつぶやいた。「まだ話はいくらでもできますよ!」
こう言ったかと思うと、彼は急にどぎまぎして、さっと顔色を変えた。またしてもこの間のあの恐ろしい感覚が、死のように冷たく彼の胸を走り過ぎたのである。またしても自分がいま恐ろしい嘘を言ったことが、突然はっきり合点がいったのである。今はもうけっしてゆっくり話ができるどころか、どんな問題についても、誰とも話をすることができないのだ。この苦しい想念の印象があまりに強かったので、彼は一瞬間ほとんど我を忘れて席を立つと、誰の方も見ずいきなり部屋を出て行きかけた。
「どうしたんだ、君は?」とラズーミヒンは彼の手をつかんで、声高に叫んだ。
彼は再び席に戻って、無言のままあたりを見回し始めた。一同はけげんの表情を浮かべて彼をながめていた。
「いったいあなた方はみんななんだって、そうつまらなさそうに黙りこんでるんです!」彼は突然、全く思いがけなくこう叫んだ。「何か話したらいいじゃありませんか! 実際こんなにぼんやりすわってたって仕様がない! さあ、何かお話しなさいよ! 話そうじゃありませんか……せっかく集まったのに、黙りこくって……さあ、何か!」
「ああ、ありがたい! また昨日のようなことが、始まるのかと思って!」とプリヘーリヤは十字を切りながらつぶやいた。
「いったいどうなさったの、兄さん?」とドゥーニャは疑わしげに尋ねた。
「いや、なんでもない、ちょっとした事を思い出したんだ」と彼は答えて、急にからからと笑い出した。
「いや、ちょっとしたことならけっこうです! 実は僕ももしやと思ったくらいでした……」と長椅子から立ち上がりながら、ゾシーモフは言った。「ときに、わたしはもうおいとましなくちゃなりません。また後ほどお寄りするかもしれません……もしお目にかかれたら……」
彼は会釈をして、立ち去った。
「なんて立派な方だろう!」とプリヘーリヤは言った。
「ああ、立派な、よくできた、教育のある、りこうな男ですよ……」急にラスコーリニコフは、それまでにない生き生きした調子で、何かしら思いがけないほど早口に言った。「病気になる前にどこで会ったろう、どうも一向に覚えがないが……どこかで会ったような気がする……それから、これもやはりいい男ですよ!」と彼はラズーミヒンを
「ええ、たいへん」とドゥーニャは答えた。
「ちょっ、きさまは……くだらんことを言う男だな!」恐ろしくてれてまっかになったラズーミヒンは、そう言いながら椅子から立ち上がった。
プリヘーリヤは軽くほほえんだ。ラスコーリニコフはからからと爆笑した。
「おい、君はどこへ行くんだ?」
「僕もやっぱり……用が」
「君に用があってたまるかい、じっとしていたまえ! ゾシーモフが行ったから、それで君も用ができたのかい。行っちゃいけない……ときに、何時だろう? 十二時かね? おや、ドゥーニャ、すてきな時計を持ってるじゃないか! だが、なぜまたみんな黙ってしまったんです? 僕ばかりに、僕一人にばかりしゃべらしてさ!……」
「これはマルファ・ペトローヴナにいただいたのよ」とドゥーニャは答えた。
「それもたいそう高い品なんだよ」とプリヘーリヤが口を添えた。
「ははあ! だが、なんという大きな時計だ。まるで女持ちのようじゃない」
「わたしはこんなのが好きなのよ」とドゥーニャは言った。
『してみると、
「僕はまたルージンの贈物かと思った」とラスコーリニコフは言った。
「いいえ、あの人はまだドゥーネチカに何一つ贈物をしないんだよ」
「ははあ! ときに、お母さん覚えてるでしょう、僕が一度恋をして、結婚しようとしたことを」と母親の顔を見ながら、彼はだしぬけに言い出した。こちらは思いがけない話題の転換と、それを言い出した息子の調子に打たれて、どぎもを抜かれた。
「ああ、お前、そうだったね!」
プリヘーリヤは、ドゥーネチカとラズーミヒンに
「ふむ……そう! だが、何を話したものかなあ! もうあまり覚えていないくらいだ。それは病身な娘でしたよ」彼はまた急に考え込んで、目を伏せながら、ことばを続けた。「全くの病身でした。
「いいえ、それは春の夢ばかりじゃないわ」とドゥーネチカは感情のこもった調子で言った。
彼は注意深く、緊張した表情で妹を見つめていたが、その言葉はよく聞き分けられなかったか、それとも了解できなかったらしい。それから、深いもの思いのていで立ち上がり、母の傍へ寄って
「お前はまだ今でもその娘を愛しているの?」とプリヘーリヤは感動したさまで言った。
「その女を? 今でも? ああ、そう……お母さんはあの娘のことを言ってるんですね! いや、今じゃそんなことはもう、なんだかあの世のことみたいで……そしてずっと前のような気がします。それにまわりのことが何もかも、この世の出来事ではないようです……」
彼は注意深く一同の顔を見た。
「現にお母さんたちだって……まるで千里も手前から見ているような気がする……ちょっ、だが、いったいなんだってこんな話をしてるんだろう! なんのためにくどくどきくんだ!」と彼はいまいましげな調子で言い足して、口をつむぐと、爪をかじりかじり、また考え込んでしまった。
「まあ、お前の部屋ったらなんてひどい所だろうね、ロージャ、まるで棺のようじゃないか」重苦しい沈黙を破りながら、ふいにプリヘーリヤが言った。「お前がそんな
「部屋?……」と彼は放心したように答えた。「そう、部屋もだいぶん手伝っていますよ……僕もやはりそう思いましたよ……だが、お母さん、今あなたがどんな妙なことを考え出されたか、自分でもご存じないでしょう」と彼は急にこう言いだして、奇怪な薄笑いを漏らした。
もうちょっとしたら、この
「ねえ、ドゥーニャ」と彼はまじめなそっけない調子で口を切った。「昨日のことはむろん僕があやまるけれど、根本はけっして譲歩しないから、それだけは自分の義務として、もう一度お前に断わっておく。僕か、ルージンか、二人に一人だ。僕は卑劣漢でもかまわないが、お前はいけない。どっちか一人だ。もしお前がルージンのところへ行けば、僕はその場かぎりお前を妹と思わないぞ」
「ロージャ、ロージャ、それでは! お前、昨日とまるで同じことじゃないか!」とプリヘーリヤは情なさそうに叫んだ。「どうしてお前はしじゅう自分のことを卑劣漢だなんていうの、わたしは聞いていられない! 昨日だってそうです……」
「兄さん」とドゥーニャは同じくそっけない調子で、きっぱりと答えた。「この事では、兄さんの方に間違いがあるんですわ。わたしは昨夜一晩じゅう考えてみて、その間違いを見つけましたの。つまり問題はこうなの。どうやら兄さんは、わたしが誰かに、誰かのために、自分を犠牲にささげていると、こう想像してらっしゃるけれど、そんなことはけっしてありません。わたしはただ自分のために結婚するんですの。だって、わたし自身が苦しいんですもの。もっともそのほかに、もし自分が身内のためになるようなら、うれしいと思いますわ、けれど、わたし、それが根本の動機で決心したんじゃありません……」
『嘘をついてる!』と彼は、むしゃくしゃ腹で爪をかみながら、心の中で思った。『気位の高い女だ! 恩を着せたがっていながら、本音をはくのが
「一口に言えば、わたしはピョートル・ペトローヴィッチと結婚します」とドゥーネチカはことばを続けた。「そのわけは、つらいことが二つあれば、少しでも軽い方を選びたいからですの。わたしはあの人が期待していることを、何もかも忠実に履行するつもりですから、つまりあの人をだますことにはなりません……兄さん、なぜ今にやりとお笑いになったの?」
彼女も同じようにかっとなった。その目には
「何もかも履行する?」毒々しい薄笑いを漏らしながら、彼は問い返した。
「ある程度まではね。ピョートル・ペトローヴィッチの求婚の仕方と形式で、あの人が何を要求しているのか、すぐわかりましたもの。あの人は自分というものを、あまり高く評価しているかもしれません。でもその代わり、わたしも相当に認めてくれるだろうと、それを期待しているんですの……何をまた笑ってらっしゃるの?」
「お前はまた何を赤くなるんだい? お前は嘘をついてる。お前はわざと嘘をついてるんだ。ただ女らしい強情で、おれに我を張り通したいもんだからさ……お前はルージンを尊敬することなんかできやしない。僕はあの男と会いもし、話もしたんだよ。してみると、お前は金のために自分を売ってるのだ、してみると、いずれにしても卑劣な行為だ。僕はね、お前が少なくともまだ赤くなれる、それだけでも喜んでいるよ!」
「そんなことないわ、嘘なんか言やしません!……」ドゥーネチカはしだいに冷静を失いながら、こう叫んだ。「わたしだって、あの人がわたしを認めてもくれ、大切にもしてくれると確信しなかったら、結婚なんかしやしませんわ。またわたし自身も、あの人を尊敬できるという確信がなかったら、けっして結婚なんかするものですか。幸いわたしは、今日さっそくその確信を得ることができるんですの。こうした結婚は兄さんのおっしゃるように卑劣なことじゃありませんわ! また、たとい兄さんのおっしゃることが本当で、わたしが全く卑劣な決心をしたのだとしても――そうまでにおっしゃるのは、兄さんとしてもあまり残酷じゃなくって? なんだって兄さんは自分にもない……かもしれないような勇気を、わたしに要求なさるんですの? それはあまり横暴だわ、圧制だわ! もしわたしが誰か他人の一生を破滅させるとでもいうのならともかく、ただわたし自身の事じゃないの。わたしはまだ人を殺したことなんかなくってよ!……なんだってそんな目をしてわたしをごらんになるの? どうしてそんなに真っ青になるの? ロージャ、どうしたの? ロージャ、兄さんてば……」
「ああ、どうしよう! また気絶してしまった!」とプリヘーリヤは叫んだ。
「いや、いや……くだらない、なんでもありゃしない!……少しめまいがしただけで、気絶でもなんでもありゃしません……気絶気絶って一つ覚えみたいに!……ふむ! そこでと……何を言うつもりだったっけ? そうだ。お前は今日にもさっそく、お前があの男を尊敬することができ、あの男が……お前を認めてくれてるという確信を得ると言ったが、いったいそりゃどういうわけだい? ねえ、そう言ったろう? お前は確かに今日と言ったようだが? それとも僕の聞き違えだったか?」
「お母さん、兄さんにピョートル・ペトローヴィッチの手紙を見せてあげてくださいな」とドゥーネチカは言った。
プリヘーリヤは震える手で手紙を渡した。彼は非常な好奇心をもってそれを受け取ったが、広げて見る前に、彼は突然何かに驚いたような顔つきで、ドゥーネチカを見つめた。
「おかしい」突然何か新しい想念に打たれでもしたように、彼はゆっくりした語調で言った。「おれはなんだってこんなに気をもんでるんだろう? 何をこんなにわめいたり騒いだりしてるんだろう? 勝手に誰とでも好きな男と結婚するがいい!」
彼はひとり言のように言ったが、声はかなり高かった。そしてしばらくの間、どぎもを抜かれたような顔をして、妹を見つめていた。
彼は依然として驚きの表情を残したまま、やっと手紙をひらいた。それから、ゆるゆると注意深く読み始め、二度まで読み返した。プリヘーリヤはかくべつ不安に悩まされていた。それにほかの者も、みんなある特殊なものを期待していた。
「これは驚いた」ややしばらく考えた後で、手紙を母親に返しながら、彼は誰に向いてともなく口を切った。「あの男は弁護士で、しじゅう訴訟事件を扱ってるから、話だってやはり特別な……癖があるけれど――書く方となると、まるで無学ものじゃないか」
一座は少しざわざわとした。彼らはまるで違ったことを期待していたので。
「だってああいう連中は、皆こんな風に書くんだよ」とラズーミヒンがきれぎれな声で注意した。
「じゃ君は読んだのか!」
「うん」
「わたしたちがお目にかけたんだよ、ロージャ。わたしたちは……先ほどご相談したんだよ」とプリヘーリヤはまごまごしながら言い出した。
「それはつまり裁判所式の文体なんだよ」とラズーミヒンはさえぎった。「裁判所の文書は今でもそういう風に書いてるんだよ」
「裁判所式? そうだ、裁判所式なんだ、事務家風なんだ……まるっきりの無学というのでもないが、非常に文学的というのでもない。つまり事務家風なんだ!」
「ピョートル・ペトローヴィッチは、ご自分が貧しい教育を受けてきたことを、隠してなんかいらっしゃいません。かえって、独力で自分の道をひらいたのを、誇りとしていらっしゃるくらいですわ」兄の新しい調子にむっとして、アヴドーチャは注意した。
「けっこうだ、誇りにしてるとすりゃ、それだけの理由があるんだろうよ――僕は反対なんかしないよ。ねえ、ドゥーニャ、僕がこの手紙に対して、こんな
「い、いいえ」とドゥーネチカは活気づきながら答えた。「わたしもよくわかったわ――この手紙の書き方はあまり知恵がなさすぎるけれど、ただ文章がへたなだけかもしれないって……全く兄さんの批評はうまかったわ。思いがけないくらい……」
「これは裁判所式の書き方だ。ところが、裁判所式にやると、こうよりほかには書けないんだから、ことによると、あの男が自分で思ったより以上、無作法になったのかもしれない。しかし、僕はも少しお前の迷いを解いてやらなくちゃならない。この手紙の中にはまだ一つ問題がある。それは僕に対する
ドゥーネチカは返事をしなかった。決心はもうさっきからついていたので、彼女はただ夜が来るのを待つばかりであった。
「で、ロージャ、お前はいったいどう決めるつもりなの?」思いがけない彼の新しい事務的な口調に、いよいよ不安を増したプリヘーリヤはこう問いかけた。
「そりゃなんです、『どう決める』って?」
「だってほら、ピョートル・ペトローヴィッチがこの通り、今晩お前が来ないように……もし来れば、すぐ帰ってしまうと書いているじゃないの。だからお前どうします……来るつもり?……」
「それはもうむろん、僕の決めるべきことじゃなく、第一に、あなたの決めるべきことですよ。もしルージンのそうした要求を、侮辱とお思いにならなければね。それから第二には、ドゥーニャの心しだいです。もしやはり侮辱を感じなければ。僕はあなた方のお好きなようにしますから」と彼はそっけない調子で言い足した。
「ドゥーネチカはもうちゃんと決心してね、わたしもそれに同意なんだよ」とプリヘーリヤは急いで口をはさんだ。
「わたしはね。ロージャ、ぜひともその席へ兄さんに来ていただくように、折り入ってお願いしようと決心したのよ」とドゥーニャは言った。「来てくれて?」
「行こう」
「わたしあなたにもお願いしますわ。今夜八時にわたしどもへいらしてくださいませんか」と彼女はラズーミヒンに向かって言った。「お母さん、わたしこの方にも来ていただきますわ」
「けっこうだとも、ドゥーネチカ。さあ、これでお前たちの相談が決まったから」とプリヘーリヤは言い添えた。「思い切ってそういうことにしてしまおうよ。わたしもその方が楽だから。わたしは
そのときドアが静かに開いて、一人の娘がおずおずとあたりを見回しながら、部屋の中へはいって来た。一同は驚きと好奇の念を抱きながら、その方へふり向いた。ラスコーリニコフは一目見たとき、彼女が誰かわからなかった。それはソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァであった。彼は昨日この娘を初めて見たのだけれど、ああいう時ではあり、ああいう環境でもあり、また当人もああいう身なりをしていたために、彼の記憶にはまるで違った顔かたちが印象されていた。いま見ると、彼女はむしろみすぼらしいくらいじみな
「ああ……あなたですか!……」ラスコーリニコフはなみなみならぬ驚きのさまでこう言ったが、急に自分でもまごまごしてしまった。
彼はすぐその時、母や妹がルージンの手紙によって、『いかがわしき生業を営む娘』の存在を、多少なりとも知っているはずだということを、ふと思い浮かべた。彼はたった今ルージンの誹謗を
「あなたがいらっしゃろうとは、思いもかけなかった」と、目で彼女を引き止めながら、ラスコーリニコフはせきこんで言った。「どうぞおかけください。きっとカチェリーナ・イヴァーノヴナのお使いでしょう。どうぞ、そこじゃない、こちらへお掛けください……」
ラスコーリニコフの三つしかない椅子の一つに腰をかけ、戸口のすぐ傍に座を占めていたラズーミヒンは、ソーニャがはいって来ると一緒に、彼女に道を与えるために席を立った。初めラスコーリニコフは、ゾシーモフの掛けていた長椅子の一隅をすすめようとしたが、ふとそれではあまり慣れ慣れし過ぎる、それは自分の寝台にもなるものだと気づき、急いでラズーミヒンの椅子をさしたのである。
「君はこっちへかけてくれ」と彼は言ってゾシーモフの掛けていた片隅へラズーミヒンをすわらせた。
ソーニャは恐怖のあまり、わなわな身を震わさないばかりの有様で、ようやく席に着くと、
「わたし……わたし……ほんのちょっとあがりましたので。おじゃまいたしまして申しわけありません」と彼女は口ごもりながら言い出した。「わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナの使いであがりました。ほかに誰も人がないものでございますから……カチェリーナ・イヴァーノヴナが、明日のお葬式にぜひいらしていただくように、折り入ってお願いしてこいと申しました。……朝、
ソーニャはいいよどみ口をつぐんだ。
「なるべく必ず……必ず伺います……」ラスコーリニコフも同様に立ちあがって、同様にいいよどみことばを濁しながら、こう答えた。「どうぞお掛けください」と彼はだしぬけに言った。「僕ちょっとお話したいことがあるんです。どうぞ、お急ぎかもしれませんが――お願いですから、僕のために二分ばかりさいてください……」
そういって、彼女に椅子をすすめた。ソーニャは再び腰をおろして、またしてもおずおずと途方にくれたように、急いでちらと二人の婦人を見たが、急に目を伏せてしまった。
ラスコーリニコフの青白い顔はかっと赤くなった。彼はまるで全身をけいれんに縛られたようになり、目はぎらぎらと燃え出した。
「お母さん」と彼はしっかりした押しつけるような調子で言った。「この方がソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァです。もうさっきお話したマルメラードフ氏、きのう僕の目の前で馬のひづめにかけられた、あの不幸な人の娘さんです……」
プリヘーリヤはソーニャをちらと見て、心持目を細めた。ロージャの
「あなたに伺おうと思ってたんですが」とラスコーリニコフは急いで彼女に話しかけた。「今日お宅ではどんな風に片がつきました? うるさい事はありませんでしたか?……たとえば警察の方なんか」
「いいえ、すっかり片づきました……だって亡くなった原因が、わかり過ぎるぐらいわかっているものですから、別段うるさい事はございませんでした。ただ同じ家の借家人たちが腹を立てまして」
「なぜです?」
「
「じゃ今日ですね?」
「母はあす教会のお葬式に、あなたもお出向きくださいますようと申しております。それからあとで宅の方へも、法事にお寄りを願いたいって」
「お母さんは法事をなさるんですか?」
「ええ、ほんのお口よごしですけど。母はくれぐれも、昨日お助けくださいましたお礼を申すようにとのことで……全くあなたがお見えにならなかったら、お
とふいに、彼女の唇とおとがいがぴくぴくとおどり始めた。けれど、彼女は急いで目を落とし、じっと我慢して押しこらえた。
話の間に、ラスコーリニコフはしさいに彼女を観察した。それはやせた、全くやせこけた、青白い、割合に輪郭の整わない、どことなくとがった感じのする顔で、小さな鼻とおとがいもとがっていた、彼女は美人とは言いにくいくらいであったが、その代わり、青い目が透き通るように澄み切って、それが生き生きしてくると、誰しもついひきつけられてしまうくらい、顔の表情がなんともいえず善良な無邪気な感じになってくるのであった。その上彼女の顔にもその姿全体にも、一つきわ立った特色があった。それは彼女がもう十八というにもかかわらず、その年よりもずっと若く、まるでほんの小娘――というよりむしろ子供のように見えることであった。そして、それがどうかするとおかしいほど彼女の動作に現われるのであった。
「ですが、いったいカチェリーナ・イヴァーノヴナは、あれっぽっちの金で万事を始末して、おまけにご
「だって、棺も粗末なのでございますし……それに何もかも手軽にいたしますから、いくらもかかりませんの……さっきカチェリーナ・イヴァーノヴナと二人で、すっかり勘定をしてみましたら、法事をするくらい余りました……カチェリーナ・イヴァーノヴナはぜひそうしたいと申しますの。だって、やはりそういたしませんでは……母にはそれがせめてもの慰めなんでございます……ご存じの通りの人でございますから……」
「わかりますとも、わかりますとも……そりゃもちろんです……なんだってあなたはそんなに僕の部屋を、じろじろごらんなさるんです? さっきもこの母が、棺に似てるなんて言ったところですよ」
「あなたは昨日わたしどもに、お持合せをすっかりくだすったんですわね!」ソーネチカはふいにしっかりした早口で、ささやくように言いながら、急にまた深くうなだれてしまった。
彼女の唇とおとがいは、またしてもおどり出した。彼女はもう先ほどから、ラスコーリニコフの貧しい住まいのさまに胸を打たれていたので、ふとわれしらずこんなことばが口を出たのである。一座を沈黙が襲った。ドゥーネチカの目は妙に輝いてきた。プリヘーリヤは愛想よくソーニャをながめた。
「ロージャ」と彼女は席を立ちながら言った。「わたしたちはむろんあとで一緒に、ご飯をいただくことになってるんだよ。ドゥーネチカ、帰りましょうよ……ねえ、ロージャ、お前少し散歩してね、それからしばらく横になって休むがいい。その上でなるべく早く来ておくれ……でないと、わたしたちはお前を疲れさせたようで、気がかりだからね……」
「ええ、ええ、行きますとも」と彼は立ち上がりながら、気ぜわしげに答えた。「しかし、僕は用事があるから……」
「え、いったい君たちはみな別々に食事をするつもりなのかい?」びっくりしてラスコーリニコフを見ながら、ラズーミヒンは叫んだ。「君それは何を言うんだ?」
「ああ、ああ、行くとも、むろん……だが、君はちょっと残ってくれないか。お母さん、この男はいま入り用じゃないでしょう? それとも、僕が横取りするようになりますかしら?」
「いいえ、そんなことありゃしないよ! じゃ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、どうぞあなたも食事にいらしてくださいまし、ね?」
「どうぞぜひいらしてくださいましな」とドゥーニャも一緒に頼んだ。
ラズーミヒンはおじぎをして、満面えみ輝いた。ちょっとの間、急に誰もがなんとなく妙にきまりの悪い思いをした。
「ではさようなら、ロージャ。いえ、そうじゃない、また後ほどね。わたし『さようなら』と言うのが嫌いでね。さようなら、ナスターシャ……あら、また『さようなら』なんて言ってしまった!……」
プリヘーリヤはソーネチカにも
けれど、アヴドーチャは順番を待ってでもいたように、母に続いてソーニャの傍を通りながら、心のこもったいんぎんな低い会釈で挨拶した。ソーネチカはどぎまぎし、おびえたようにあわてて会釈を返した。アヴドーチャが自分のことも忘れずに、いんぎんな態度を示してくれたのが、彼女にはつらく切なく感ぜられるかのように、その顔には病的な感じが反射したほどである。
「ドゥーニャ、じゃさようなら!」とラスコーリニコフはもう控室へ出てから、そう叫んだ。「さあ、手をおくれ!」
「あら、いま上げたじゃありませんか、忘れたの?」優しくきまり悪げに、兄の方へふり向きながら、ドゥーニャは答えた。
「なに、いいじゃないか、もう一度おくれよ!」
こう言って、彼は堅く妹の指を握りしめた。ドゥーネチカはにっと微笑して見せて、ぼうっと顔を赤らめた。そして、すばやく自分の手を引くと、母のあとを追って行ってしまった。やはりなぜか幸福に満ちた様子で。
「さあ、これでよし!」と自分の部屋へ帰ると、はればれしい目でソーニャを見ながら、彼は口を切った。「神よ、死者に平安を与え、生けるものになお生くることを許したまえ! そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? ね、そうじゃありませんか?」
ソーニャはあっけにとられながら、にわかに明るくなった彼の顔をながめた。彼はしばらく無言のまま、じっと彼女を見つめていた。亡くなった父のマルメラードフの彼女に関する物語が、この瞬間そっくり彼の記憶によみがえった……
「やれやれ、ドゥーネチカ!」表へ出るやいなや、プリヘーリヤはすぐに言い出した。「今こうして出て来たのが、わたしゃなんだかうれしいみたいな気がする、妙に気が楽になったようでね。でもねえ、きのう汽車の中では、まさかこんなことをうれしがろうとは、思いも寄らなかったのに!」
「また同じことを言うようですけどね、お母さん、兄さんはまだよっぽど悪いのよ。あれがお母さんにはわからなくって? もしかしたら、わたしたちのことを苦にして、体をこわしたのかもしれなくってよ。わたしたちはもっと
「だってお前は斟酌してあげなかったじゃないか!」とプリヘーリヤはすぐさま熱くなって、一生懸命にさえぎった。「ねえ、ドゥーニャ、わたしはお前たち二人をつくづく見ていたが、お前は兄さんとそっくりそのままだよ、顔立ちというよりか、気性の方がね! お前たちは二人とも陰気な気むずかしやで、怒りっぽくて、気位が高くて、しかも二人ながら心が広いんだよ……だって、あの子が利己主義だなんて、そんなことはあるはずがないじゃないの、え、ドゥーネチカ?……ああ、今晩みなが集まってからのことを考えると、わたしゃもう胸が縮み上がりそうだ!」
「そんなに心配なさらない方がいいわ、お母さん。どうせ、なるようにしかならないんですから」
「ドゥーネチカ! 今わたしたちがどんな羽目になっているか、お前もちっと考えてごらんよ! ピョートル・ペトローヴィッチに断わられたら、まあどうなると思って?」と哀れなプリヘーリヤは、ついうっかり口をすべらした。
「もしそうだったら、あんな人になんの値うちがあって!」とドゥーネチカは鋭く、吐き出すように答えた。
「でも、わたしたちはいま出て来て、いいことをしたね」とプリヘーリヤはせっかちに相手のことばをさえぎった。「ロージャは、どこかへ急な用があると言ってたが、ちょっとは外を歩いて、新しい空気でも吸うといいんだよ……ほんとにあの部屋の息苦しいことったら、恐ろしいよう……だけどここじゃ、どこへ行けばいい空気が吸えるんだろう? ここじゃ通りでも、通風口のない部屋の中にいるのと同じだもの! ああ、ほんとになんて町だろう……ちょっと少しわきへお寄り、つぶされてしまうよ。なんだかかついで来たから! あら、ピアノを運んで来たんだよ、ほんとに……なんてやたらにぶっつかるんだろう……わたしはね、あの娘もやはり恐ろしくって仕様がないよ……」
「娘って誰、お母さん?」
「ほら、あれさ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今来ていた……」
「どうして?」
「わたしなんだか虫が知らせるようでね、ドゥーニャ。まあ、お前は本当にするともしないとも勝手だけれど、あの娘がはいって来たとたんに、わたしはそう思ったよ――つまりここにこそ本当の
「なんにも曰くなんかありゃしないわ!」とドゥーニャはいまいましげに叫んだ。「お母さんの虫の知らせも困ったものね! 兄さんは昨日はじめてあの娘さんに会ったばかりで、はいって来た時も、誰だか気がつかなかったくらいじゃありませんか」
「じゃ、まあ見ておいで! わたしはあの娘のことが気になって仕様がないんだよ。まあ、今に見ておいで、見ておいで! わたしはほんとにびっくりしてしまったよ。わたしの方を一生懸命に見るその目つきったら、わたしは椅子の上にじっと居たたまらないほどだったよ。覚えておいでかい、あれが紹介を始めた時さ? わたし変な気がしたよ――ピョートル・ペトローヴィッチがあんなことを書いてるのに、ロージャはあの娘をわたしたちに、しかもお前にまで引合せるんだもの! だからつまり、大切な人なんだよ!」
「あの人がいろんな事を書くのは、何も珍しかありませんわ! わたしたちのことだって、世間ではやはり噂したり、書いたりしたじゃありませんか。いったいお忘れになったの? わたしあの娘さんは……立派な人で、そんな陰口は皆でたらめに違いないと思うわ!」
「そうであってくれればね!」
「ピョートル・ペトローヴィッチはやくざな金棒引きよ」とふいにドゥーネチカはずばりと言った。
プリヘーリヤは鳴りをひそめた。会話はぷつりと切れた。
「ねえ君、君にちょっと話があるんだ……」とラスコーリニコフは、ラズーミヒンを小窓の方へ引っ張って行きながら、こう言った……
「では、カチェリーナ・イヴァーノヴナに、いらしてくださいますと申し伝えますから……」ソーニャはそわそわと帰りじたくをして、会釈しながら言った。
「ただ今すぐ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、僕たちの話は何も秘密じゃないんですから、けっしてかまいませんよ……僕はまだあなたに一言言いたいことがあるんです……」と言い終わらないうち、彼は急にぷっつり断ち切ったように、ラズーミヒンの方へふり向いた。「あのね、君、君は知ってるんだろう、あのほらなんといったっけな!……ポルフィーリイ・ペトローヴィッチさ?」
「知らなくってさ! 親類だもの、それがどうしたんだい?」こちらはこみ上げて来る好奇心にかられて、こう言い足した。
「だって、あの男が今あの事件を……ほら、例の殺人事件さ……ねえ、きのう君らが話していた……あれを扱ってるって?」
「うん……それで?」とラズーミヒンは急に目をみはった。
「あの男が入質人を調べたそうだが、実は僕も置いたものがあるんだ。なに、つまらないものだがね、でも僕がこっちへ出て来る時に、妹が記念にくれた指輪と、親父の銀時計なんだ。皆で五、六ルーブリの
「警察なんか絶対に駄目だ、どうしてもポルフィーリイのところだな!」ラズーミヒンはなぜか非常に興奮して叫んだ。「いや、そいつは愉快だ! 何もぐずぐずしてることはない。すぐ出かけよう。ほんの一足だ。きっと家にいるよ!」
「そうだな……行ってもいい……」
「あの男も君と近づきになるのは、非常に、非常に、非常に喜ぶよ! 僕も君のことはあの男に、もうたびたび話したよ、いろんな時にね……現に昨日も話したんだぜ。行こう!……じゃ、君はあの婆さんを知ってたんだね? そいつはけっこうだ!……これは、実にうまい都合になって来たぞ!……あっ、そうだ……ソフィヤ・イヴァーノヴナ……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナだよ」とラスコーリニコフは訂正した。「ソフィヤ・セミョーノヴナ、これは僕の友人で、ラズーミヒンといいます。いい男ですから……」
「これからお出かけになるんでしたら……」まるでラズーミヒンの方を見ないで、ソーニャはこう言ったが、そのためよけいにまごまごしてしまった。
「じゃ、一緒に出かけましょう!」とラスコーリニコフは話を決めた。「今日にもさっそく僕あなたのところへお寄りします、ただね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、どこへお住まいですか、それを聞かしてくれませんか?」
彼はまごついたというほどではないが、なんとなくせきこんだ様子で、彼女の視線を避けるようにした。ソーニャは自分の居所を教えたが、その時また赤くなった。三人は一緒に出かけた。
「
「一度もかけたことはないよ!……もっとも、もう二年ばかりというもの、しょっちゅう錠を買いたいとは思ってるんだがね」と彼は無造作にいい足した。「鍵をかける必要のない人間は、幸福なもんですね?」と彼は笑いながら、ソーニャに話しかけた。
やがて三人は表へ出て、門口で立ち止まった。
「あなたは右へですね、ソフィヤ・セミョーノヴナ? ときに、あなたはどうして僕を捜し当てました?」何かまるで別なことを言いたそうなようすで、彼は彼女に尋ねた。彼は絶えず彼女の落ち着いた、澄んだ目を見たかったけれど、なぜかそれができなかった……
「だって昨日ポーレチカに、お住まいをおっしゃったじゃありませんか」
「ポーリャ? ああ、そう……ポーレチカ! あの……小さい女の子……あれはあなたの妹さんでしたね? 僕あの子に住所を教えたかしら?」
「まあ、お忘れになったんですの?」
「いや……覚えています……」
「それに、あなたの事はなくなった父からも、あの当時お噂を伺ったことがありますの……もっとも、その時はまだお名前を存じませんでしたし、父もやはりそうでした……ただいま参りましたとき……昨晩ご名字を伺いましたので、ラスコーリニコフ様のお住まいはどちらかと、尋ねましたのですけれど……あなたがやはり間借りしていらっしゃるとは、思いも寄りませんでした……では、失礼いたします……わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ……」
彼女は、やっと二人に別れたのがうれしくてたまらなかった。彼女は目を伏せて、急ぎ足に歩いた。一刻も早く二人の目から隠れて、次の通りへ曲る右角までの二十歩を、一刻も早く通り過ぎ、一人きりになってゆっくり歩きながら、誰の顔も見ず、何一つ気にもとめないで、いま話した一つ一つのことば、一つ一つの状況を考えたり、思い出したり、考え合せたりしたかったのである。彼女はこれまでかつて一度もこんな感じを経験したことがなかった。大きな新しい世界がいつともなく、ぼうっと彼女の心にはいりこんだのである。彼女はふと、ラスコーリニコフが今日訪ねたいと言ったことを思い出した。もしかしたら朝のうちに、ことによると今すぐにも!
「ただ今日だけはいらっしゃらないように、どうぞ今日でないように!」まるで小さい子供がおびえたとき哀願するように、彼女は胸のしびれるような思いでつぶやいた。「ああ、どうしよう! わたしのところへ……あの部屋へ……あの方がごらんになる……ああ、どうしよう!」
で、彼女はその時、一人の見知らぬ男がすぐあとから、根気よくつけてくるのに、もちろん気のつくはずがなかった。男は彼女が門を出るとすぐ、つけていたのである。ラズーミヒンと、ラスコーリニコフと、彼女が三人そろって、歩道の上で立ち話をしていたちょうどその折、この通行人は傍を通りすがりに、思いがけなく小耳にはさんだ『ラスコーリニコフ様のお住まいはどちらかと尋ねました』というソーニャのことばに、思わずぴくりとしたのである。彼はすばやくしかも注意して三人を、ことにソーニャが話しかけていたラスコーリニコフを見回し、それから家をじろりとながめて、記憶にとめた。これはすべて一瞬時のことで、歩きながらのことだった。それから男は、何くわぬ顔をして通り過ぎ、少し先へ行ってから、何か待ち受けるように足をゆるめた。彼はソーニャを待っていたのである。別れを告げているのも、ソーニャがすぐどこか自分の家へ帰って行くらしいのも、彼はすっかり見てとったのである。
『だが、いったいどこへ帰って行くんだろう? あの顔はどこかで見たような気がする』と彼はソーニャの顔を思い出しながら考えた。『一つ突き止めなきゃ』
曲がり角まで行き着くと、彼は通りの反対側へ移って、振り返って見た。すると、ソーニャは後ろから同じ道を、なんにも気がつかないで歩いて来る。曲がり角まで来ると、ちょうど彼女も同じ方へ曲がった。彼は反対側の歩道から、目を離さないようにしてつけて行った。五十歩ばかり行くと、彼はまたソーニャの歩いている側へ移って、そばまで追いつき、五歩ばかり間隔をおいてあとをつけた。
それは年のころ五十ばかり、丈は中背よりもやや高く、幅の広い怒り肩のために、いくらか猫背のように見える、体格のいい男であった。彼はハイカラな着ごこちよげな服装をし、いかにも堂々たる紳士らしい
ソーニャが
「あなたはカペルナウモフのところにお住まいですかい!」と彼はソーニャを見て笑顔で言った。「昨日わたしはあの男に、チョッキを直してもらいましたよ。わたしはついお隣のマダム・レスリッヒ――ゲルトルーダ・カールロヴナのところに下宿してるんですよ。妙な事があればあるものですなあ!」
ソーニャはじっと注意深く彼を見つめた。
「お隣同士ですな」と彼は何かかくべつ愉快らしく話し続けた。「わたしはペテルブルグへ来てからやっと三日めなんです。では、またお目にかかりましょう」
ソーニャは答えなかった。ドアが開くと、彼女は自分の部屋へすべり込んだ。なぜか恥かしくなり、なんとなくおじ気づいたような風情だった……
ラズーミヒンは、ポルフィーリイのところへ案内する道みち、かくべつ興奮したような気分になっていた。
「いや、君、じつによかったよ」と彼は幾度もくりかえした。「僕もうれしい! 僕もうれしいよ!」
『いったい何がそんなにうれしいんだ?』とラスコーリニコフは腹の中で考えた。
「だって僕は、君もあの婆さんのところに質を置いてたなんて、まるで知らなかったよ。で……で……それはよほど前かね? つまり、もうだいぶ前にあすこへ行ったのかね?」
『ちょっ、なんて頭の単純な馬鹿だ!』
「いつって?……」とラスコーリニコフは考えながら立ち止まった。「そう、殺された三日ばかり前に行ったかなあ。しかし、僕はいま代物を受け出しに行ってるんじゃないよ」と彼は妙にせき込みながら、かくべつ品物のことが気になるという風で、あわてて言い直した。「だって、僕は一ルーブリしか持ってないんだからね……あの昨日のいまいましい夢遊病のおかげでさ!」
彼は夢遊病ということばを、特に力を入れて発音した。
「うん、そうだ、そうだ、そうだ!」ラズーミヒンはせき込みながら、何やらしきりにあいづちを打った。「ああ、つまりそれでだな、あの時どうして君が……あんなに
『へえ! あいつらの頭にそんな考えがしみ込んでるんだな! この男なんかおれのためには、十字架にだって掛けられるのもいとわないほどなんだが、それですらも、おれが指輪のことをうわ言に言ったわけが、はっきりしたといって喜んでやがる! どうもすっかりこいつが根を張ってたとみえる!……』
「だが、いま行って会えるだろうかな?」と彼は声に出して尋ねた。
「会えるとも、会えるとも」とラズーミヒンは急いで言った。「あれは、君、いい男だよ、今にわかるがね! もっとも、少し無骨なところもあるがね。といって、世慣れた人間なんだけれど、僕は別の意味で無骨だというんだよ。なかなかりこうだ、全くりこうだ、目から鼻へ抜けるくらいなのだが、ただ考え方に何か特殊なところがある……なかなか人を信じなくて、懐疑派で、皮肉屋で……一杯くわすことが好きなんだ。いや一杯くわすというよりか、つまり、人を
「なんだってまた非常にだい?」
「つまり、別に何も……実はね、近ごろ病気になってから、僕が話のついでによく君のことをしゃべったもんだから、先生も聞いてたわけさ……それにあの男はね、君が法科にいたけれど、事情があって卒業できないでいるのを知って、なんという気の毒なことだ、などと言ったこともあるよ。で、僕は結論したんだ……つまり、こんなことがみんな原因になってるんで、これ一つだけじゃない……昨日もザミョートフが……ねえ、ロージャ、僕は昨日君を家へ送りながら、酔ったまぎれに何かしゃべったろう……で、僕はね、君が大仰に考えやしないかと、心配しているんだよ。実は……」
「それはなんだい? 皆が僕を気ちがい扱いにしてるってことかい? なに、本当かもしれないさ」
彼は緊張したような薄笑いを漏らした。
「そ、そうなんだ……なに、ばかな、そんなことじゃない!……まあつまり、僕の言ったことはみんな……(あの時言ったほかの事もひっくるめて)あれは皆でたらめだ、酒の上のことだ」
「何を君はそんなに言いわけしてるんだい! 僕そんなことにはもうあきあきした!」とラスコーリニコフは大げさにいらだたしげな顔をして叫んだ。
もっとも、多少は芝居でもあった。
「いいよ、いいよ、わかったよ、口にするも恥かしいくらいだ……」
「恥かしいなら言わないがいい!」
二人は口をつぐんだ。ラズーミヒンは夢中というより以上の喜び方だった。ラスコーリニコフは嫌悪の念をいだきながら、それを感じたのである。ラズーミヒンが今ポルフィーリイについて言ったことも、やはり彼に不安を与えた。
『あの判事もやはり泣き落としにかけなくちゃならないかな』彼は青くなり、胸をどきどきさせながら、こう考えた。『できるだけ自然にやるんだ。しかし、何も言わないのが一ばん自然だ。一生懸命に何一つ口説かないようにすることだ! しかし、一生懸命となると、また不自然になってしまう……まあ、向こうの出方しだいだ……みてみよう……今すぐだ……だが、今こうして行ってるのは、いいことか悪いことか? 飛んで火に入る夏の虫じゃないかな。胸がどきどきする、これがいけないんだ!……』
「この灰色のうちん中だ」とラズーミヒンは言った。
『何より一ばんかんじんなのは、昨日おれがあの鬼ばばあの家へ行って、血のことをきいたのを、ポルフィーリイが知っているかどうかってことだ。はいるとすぐまっさきに、この事を一目で見破らなくちゃならん。相手の顔つきで読まなけりゃならん。でないと……いや、たとい身の破滅になっても探ってみせる!』
「ときに、君」とふいに彼はラズーミヒンに向かい、ずるそうな微笑を浮かべながら言った。「僕はきょう君が朝から、どうも恐ろしく興奮しているのに気がついたが、当たったろう?」
「どう興奮してるんだい? 別に何も興奮なんかしてないよ」ラズーミヒンはぎくっとした。
「いや。君、まったく目についたよ。さっき椅子に掛けてる様子だって、いつもとまるで違ってたぜ。いやに端っこの方にちょこんと乗っかって、のべつけいれんでも起こしてるようだったぜ。わけもないのに飛び上がったり、へんに怒りっぽいかと思うと、ふいにどうしたのか、甘い甘い氷砂糖のようなご面相になったり、おまけに赤い顔までしたじゃないか。ことに食事に招かれた時なんか、恐ろしくまっかになったぜ」
「そんなことがあるもんか、嘘いえ! いったいなんだってそんなことを言うんだ?」
「じゃ、君はなんだって小学生みたいにもぞもぞするんだよ! ちょっ、こんちくしょう、また赤くなりやがった!」
「きさまはなんて恥しらずだろう、実に!」
「じゃ、なぜ君ははにかむんだい? ロメオ! まあ待ってろ、おれは今日どこかですっぱぬいてやろう、は、は、は! 一つおふくろを笑わせてやろう……それからまたほかの誰かも……」
「まあ聞いてくれ、聞いてくれ、聞いてくれったら、だってこりゃまじめなことなんだよ、これは実際……そんなことをしたら、いったいどうなると思う、くそっ!」とラズーミヒンは恐ろしさに
「いよう、もういよいよ春のばらという風情だ! またそれの君によく似合うこと、ちょっと君に見せてやりたいよ。六尺ゆたかのロメオときた! だが君、今日はうんとみがき上げたもんだな、爪まで掃除してるじゃないか、え? 今までいつそんなことがあったい? おや、こりゃポマードまでつけてるぞ! 頭をかがめて見せろよ!」
「こんちくしょう!」
ラスコーリニコフはもう抑えきれないほど笑いころげた。そして、笑いながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチの住まいへはいった。つまりラスコーリニコフには、これが必要だったのである。彼らが笑いながらはいって来て、控室でもまだ高笑いしているのが、中から聞こえるようにしたかったのである。
「ここで一言でも言ったら承知せんぞ、でなけりゃきさまを……たたきつぶすぞ!」ラスコーリニコフの肩をつかみながら、ラズーミヒンは狂気のようにわめいた。
が、こちらはもう部屋の中へ足を踏みこんでいた。彼はどうかして吹き出すまいと、精いっぱいこらえているような顔つきではいって行った。そのあとから、すっかり
「ちぇっ、こんちくしょう!」と彼は片手をひと振りして
何もかも一度にけし飛んで、がらがらと凄まじい音を立てた。
「諸君、いったいなんだって椅子を壊すんです、国庫の損害じゃありませんか!」(ゴーゴリ『検察官』の中の有名なせりふ)とポルフィーリイ・ペトローヴィッチは愉快そうに叫んだ。
その場の光景は、まずこういったぐあいであった――ラスコーリニコフは、自分の手を主人の手の中におき忘れて、腹に足りるほど笑い抜いたが、しかしほどというものを心得ているので、少しも早くなるべく自然に切り上げる
『こいつはまた頭に入れとかなくちゃならんぞ!』と彼は思った。
「どうも失礼しました」大げさにもじもじしながら彼は口を切った。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、お近づきになれて実に愉快です。それに、あなた方もたいへん愉快そうにはいって来られましたね……だが、いったいどうしたんだ、あの男は
「いや、全くのところ、どうしてああ気ちがいみたいに怒るんだか、わけがわからないんですよ。僕はただ途中で、あの男がロメオに似てると言って、そして……それを証明しただけなんですよ。ただそれだけで、ほかには何もなかったように思うんですが」
「この恥しらず!」とラズーミヒンはふり向きもしないで叫んだ。
「ふん、たった一言でそんなに腹を立てるところを見ると、何か非常に真剣な原因が伏在してるわけですね」とポルフィーリイはからからと笑った。
「なんだ、きさまは! どこまでも予審判事根性だな!……ええ、きさまたちはどいつもこいつも勝手にしやがれ!」とラズーミヒンは断ち切るように言った。
と、急に自分でからからと笑いながら、何事もなかったように愉快そうな顔をして、ポルフィーリイの傍へ寄った。
「もうこれで打ち止めだ! 君たちはみんな馬鹿さ。それよりも用件にかかろう。これは僕の友人のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフだ。第一には、いろいろ君の話を聞いて、近づきになりたいというし、第二には、君にちょっとした用があって来たんだ。おや! ザミョートフ! 君はどうしてここにいるんだね? いったい君らは知りあいなのかい? もう前っから懇意なのかい?」
『こりゃまたなんということだ!』とラスコーリニコフは胸を騒がせながら考えた。
ザミョートフもちょっとまごついたらしかったが、さほどではなかった。
「きのう君んとこで近づきになったのさあ」と彼はくだけた調子で言った。
「じゃうまく紹介料をもうけたわけだな。実はね、ポルフィーリイ、先週この男が、どうかして君に紹介してもらいたいって、僕にやかましくせがんだんだよ。ところが、君らは僕を出しぬいて慣れ合っちまってさ……ときに、煙草はどこにあるかい?」
ポルフィーリイ・ペトローヴィッチは、ガウンの下にさっぱりしたシャツを着込み、はきくずした上靴という、くつろいだ
ポルフィーリイは、客が自分に『ちょっとした用』を持っていると聞くが早いか、すぐさま彼を長椅子に招じて、自身も一方の端に腰を掛け、即刻用件の説明を待ち受けながら、一生懸命にまじめな注意を払って客の顔を凝視した。こうした注意は初めのあいだ、特に初対面の時など、相手の心持を窮屈にして、ばつの悪い感じを与えるもので、とりわけ自分の用件がさほど大仰な注意を払われるほどのものでない、と思っているような場合にはなおさらなのである。けれどラスコーリニコフは、簡単な要領のよいことばで、自分でも満足するくらい
『ばか!』とラスコーリニコフは腹の中でののしった。
「それは警察へ届けをお出しにならなきゃいけませんな」ときわめて事務的な調子で、ポルフィーリイは答えた。「自分はこれこれの事件、つまりあの殺人事件を承知したので、事件の審理を担当した予審判事に対して、これこれの品が自分のものであるから、それを受け出したいと申し出た……とかなんとか……もっとも警察で適当に書いてくれますよ」
「つまり、そこなんですよ。僕は今」ラスコーリニコフはできるだけ当惑らしい様子をした。「実は金の余裕があまりないので……それくらいのはした金もくめんできない始末なんです……実のところ、今はただあの品は自分のものであるが、金のできた時に……ということだけを届けたいんですが……」
「それはどちらでも同じことです」とポルフィーリイは、財政に関する彼の説明を冷やかに聞き流して、そう答えた。「もっとも、なんなら、直接わたしに書面をお出しくださってもよろしい、やはり同じ意味のね。つまり、かくかくの事件を聞いて、これこれの品が自分のものだということを届け出るとともに、かくかくのお願いがあ……」
「それは普通の用紙でいいんでしょうね?」またしてもふところの方を気にしながら、ラスコーリニコフは急いでさえぎった。
「ええ、ほんとうのありふれた紙でけっこうです!」
こう言ってふいにポルフィーリイは、いかにも人を小馬鹿にしたような様子で目を細め、ぽちりと
『知ってやがる!』こういう考えが電光のように、彼の頭にひらめいた。
「どうかごめんください、こんなくだらないことでお手数をかけまして」と彼はいくらかへどもどしながら、ことばを続けた。「僕の品物というのは、金にすればわずか五ルーブリくらいのものですが、僕にとっては、それをくれた人の
「道理で、僕が昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが入質人を調べてるって、うっかり口をすべらしたとき君があんなにぎくっとしたんだな!」いかにも思わくありげに、ラズーミヒンが口を入れた。
これはもう我慢しきれなかった。ラスコーリニコフはこらえかねて、
「君はまた僕をなぶるつもりだな!」たくみにいらだたしさを装いながら、彼はラズーミヒンの方へふり向いて、「そりゃ僕だって異存ないさ――全く君の目から見れば、あんなくだらないもののために、気をもみ過ぎたかもしれないよ。しかし、このために僕をエゴイストだの、欲ばりだのというわけにゃいかないぜ。僕の身になってみれば、このつまらない二品だって、けっしてくだらなかないんだからね。もうさっき君に話した通り、あの三文の値うちもない銀時計は、父の
「いや、けっしてそうじゃないよ! 僕はけっしてそんな意味で言ったんじゃないよ! まるっきりあべこべだ!」とラズーミヒンはさも情なさそうに叫んだ。
『あれでよかったかな? 自然らしく聞こえたかな? 誇張し過ぎやしなかったかな?』とラスコーリニコフは内心ひそかにはらはらした。『なぜ「何ぶん女だから」なんて言ったんだろう?』
「お母さんが見えたんですって?」なんのためかポルフィーリイは聞き直した。
「そうです」
「それはいつのことでした?」
「昨日の夕方です」
ポルフィーリイは何やら思いめぐらすように、しばらく黙っていた。
「あなたの品物はどんなことがあっても、なくなるはずはなかったんですよ」と彼は落ち着き払って冷やかに続けた。「何しろわたしはだいぶ前から、あなたのおいでを待ってたんですからね」
彼はこう言いながら、一向なんでもないようなようすで、容赦なく煙草の灰で
「なんだってえ? 待ってた! いったい君は知ってたのかい、この男があすこへ質を置いてたのを?」とラズーミヒンは叫んだ。
ポルフィーリイはまともにラスコーリニコフの方へふり向いた。
「あなたの二品は、指輪も時計も、あの女のところで一つの紙包みになっていました。そして紙の上には、あなたの名前が鉛筆ではっきり書いてありました。それからあなたから、その品を預った日付も同じように……」
「あなたは実によくお気がつきますね!……」ラスコーリニコフは特に相手の目をまともに見ようと努めながら、いかにもまずい薄笑いを漏らしたが、やはりがまんし切れなくなり、ふいにこう言い足した。「僕がこんなことを言ったのは、つまり入質人はきっとたくさんだったでしょうに……それを全部記憶していらっしゃるのは、容易じゃなかろうと思ったからなんです……ところが、あなたはそれどころか、一人一人はっきり覚えてらっしゃるし、それに……それに……」
『ばかげてる! 力がない! なんだってこんなことをくっつけたんだろう!』
「なに、入質人はもう今じゃたいていみんなわかってるんです。だから、あなた一人くらいなもんですよ、今までおいでにならなかったのは」やっと見えるか見えないかの
「僕すこし不快だったものですから」
「それも承知していました。それどころか、何かでたいへん頭を悩ましておられたことも聞きました。今でもなんだか顔色がお悪いようですね?」
「顔色なんかちっとも悪かありません……それどころか、すっかり健康ですよ!」とラスコーリニコフは急に調子を変えて、ぞんざいな毒々しい口ぶりで、断ち切るように言った。
憤怒の念は彼の身内で煮えたぎった。彼はそれを抑えることができなかった。
『腹を立てると、うっかり口をすべらすぞ!』こういう考えが再び頭にひらめいた。『だが、なんだってやつらは俺を苦しめるんだろう!……』
「少し不快だった?」とラズーミヒンはことば
「へえ、まるっきり夢中で? それはどうも!」なんとなく女じみた身ぶりで、ポルフィーリイはかぶりを振った。
「ええっ、ばかなことを! あなた
けれどポルフィーリイはこの奇怪なことばを、よく聞き分けなかったようである。
「だって夢中でなけりゃ、どうして出かけたんだい?」とラズーミヒンは急に熱くなった。「なぜ出て行ったんだ? なんのために?……なぜわざわざ秘密にしてさ? え、いったいあの時の君に健全な理性があったのかい? もう今ではいっさい危険が去ってしまったから、僕はあえて
「昨日はやつらがうるさくて、うるさくてたまらなかったんだよ」ラスコーリニコフはずうずうしいいどむような微笑を含んで、急にポルフィーリイの方へふり向いた。「で、僕は貸間を捜そうと思って、人のそばから逃げ出したんです。もう二度と見つけ出されないように、金をしこたま引っつかんで出たわけです。ほら、あのザミョートフ氏がその金を見ていますよ。ねえ、ザミョートフ君、きのう僕は正気だったか、それとも夢中だったか、一つ争論を解決してくれませんか」
彼はこの瞬間、ザミョートフを絞め殺しもしかねないような気持がした。彼の目つきと沈黙が、いかにも気に食わなかったのである。
「僕に言わせると、君の話しっぷりはきわめて理性的で、むしろずるいくらいでしたよ。ただあまりいらいらしすぎるところはありましたがね」とザミョートフはそっけなく言い切った。
「きょう署長のニコジーム・フォミッチから聞いたんですが」とポルフィーリイは口を入れた。「昨日もうだいぶ遅くなって、馬に踏み殺されたある官吏の家で、あの男があなたに出合ったとかって……」
「さあ、現にその官吏のことだってさ!」とラズーミヒンはことば尻を抑えた。「ねえ、君はその官吏の家でしたことだって、いったい気ちがいざたじゃなかったのかい? なけなしの金をはたき上げて、葬式の費用に後家さんにくれてしまったじゃないか! そりゃ、助けてやろうと思ったら――十五ルーブリか二十ルーブリもやればいいじゃないか。まあなんにしても、せめて三ルーブリくらいは自分に残しておくべきはずなのに、二十五ルーブリそっくりほうり出してしまうなんて!」
「だが、もしかしたら、僕はどこかで埋めた宝でも見つけたのを、君が知らないのかもわからんぜ! 現に昨日もあの通り、大尽ぶりを見せたんだからな……ほら、あのザミョートフ氏も、僕が宝を見つけたのをご存じだ! あなた、どうぞごめんください」彼は唇をふるわせながら、ポルフィーリイの方へふり向いた。「こんなくだらない
「とんでもない、それどころですか、それどころですか! あなたがどれくらいわたしに興味を感じさせなさるか、恐らく想像もおつきにならんでしょう。見ていても、聞いていても、実に面白いんですよ……で、正直なところ、とうとうあなたがおいでくだすったのが、私は非常にうれしいんです……」
「だが、せめて茶でもくれないか!
「いいことに気がついた! 諸君もつき合ってくださるだろう。だが、どうだね……もっと実のあるものをやったら、茶の前に?」
「早くとっとと行くがいい!」
ポルフィーリイは茶を言いつけに出て行った。
さまざまな想念が旋風のように、ラスコーリニコフの頭の中を渦巻いた。彼はむやみにいらいらしていた。
『問題は何よりも、やつらが隠しもしなければ、遠慮しようともしないことだ! もしまるっきりおれのことを知らなければ、どういうわけで署長とおれの話なんかするんだ? これで見ると、やつらはもう犬の群れみたいに、おれのあとをつけ回しているのを、隠そうとも思ってないんだ! もうあけすけに、面と向かって
こうしたいっさいの想念が、稲妻のごとく彼の頭をひらめき過ぎた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィッチはすぐ引っ返した。彼はなんだか急にうきうきしてきた。
「僕はね、昨日の君の宴会以来どうも頭が……それに体じゅうがなんだかぜんまいがゆるんだようなぐあいでね」と彼は全然べつな調子で、笑いながらラズーミヒンに口を切った。
「で、どうだった、面白かったかい? 何しろ僕はちょうど興の乗ったところで抜けちゃったもんだから! で、誰が勝ったい?」
「もちろん、誰も勝ちゃしないさ。永遠無窮の問題ととっくんで、天空を駆けたばかりだ」
「おい、ロージャ、昨日われわれはどんな問題ととっくんだと思う? 犯罪の有無という問題なんだぜ。しまいには、とてつもない迷論になっちゃったのさ!」
「何も不思議はないじゃないか? ありふれた社会問題だよ」とそわそわした調子でラスコーリニコフは答えた。
「問題はそんな形をとっていたんじゃないよ」ポルフィーリイは注意した。
「形は多少ちがう、それは正にそうだ」ラズーミヒンはいつものくせでせき込んで熱しながら、すぐにこう同意した。「いいかね、ロージャ、一つ聞いて、意見を聞かしてくれ。ぜひ所望なんだ。きのう僕は彼らを相手に苦心
「またでたらめを言ってる!」とポルフィーリイは叫んだ。
彼は目に見えて活気づいてきた。そして、ひっきりなしに笑いながら、ラズーミヒンの顔を見ては、一そう彼をたきつけるのであった。
「いーっさい受けつけないんだ!」とラズーミヒンはやっきとなってさえぎった。「でたらめじゃないよ!……なんならあの連中の本でも見せてやる。あの連中に言わせると、なんでも『環境にむしばまれた』がためなんだ――それ以外には何もありゃしない! 十八番の紋切型さね! それをまっすぐに推して行くと、もし社会がノーマルに組織されたら、すべての犯罪も一度に消滅してしまう。なぜなら、抗議の理由がなくなって、すべての人がたちまち義人になってしまうから、とこういう結論になるのさ。自然性なんか勘定に入れられやしない。自然性は迫害されてるんだ。無視されてるんだ。彼らに言わせると、人類は歴史的の生きた過程を踏んで、最後まで発展しつくすと、ついにおのずからノーマルな社会となるのじゃなく、その反対に、何かしら数学的頭脳から割り出された社会的システムがただちに全人類を組織してさ、一瞬の間に、あらゆる生きた過程に先だって、生きた歴史的過程などいっさいなしに、それを正しい罪のない社会にするんだそうだ! だからこそ、彼らは本能的に歴史というものが嫌いなのだ。『歴史なんてみんな醜悪で愚劣なものだ』そう言って、すべてを愚劣一点張りで説明している! だからこそ、人生の生きた過程を好まないで、生きた魂などはいらないと言うのだ! 生きた魂は生命を要求する、生きた魂は機械学に従わない、生きた魂はうさんくさい、生きた魂は
「さあ、暴れ出したぞ、
「昨夜もやはりこの通りだったんですよ、六人が声をそろえて……しかもその前にポンス酒を飲んでるんですからね――たいてい想像がつきましょう?――ところで、君、そりゃ違うよ、でたらめだ。『環境』というものは、犯罪に重大な意義を持ってるよ。これは僕が証明してみせる」
「重大な意義を持ってるくらいのことは、僕だって知ってるよ。じゃ一つ、僕の質問に答えてみたまえ。四十男が十になる女の子を
「なに、そりゃ厳密な意味でいえば、やはり環境だとも言えるさ」と驚くほどものものしい口調で、ポルフィーリイはこう言った。「一少女に対するその種の犯罪は、もちろん、もちろん『環境』で説明ができるよ」
ラズーミヒンはもう危うく夢中になりそうだった。
「よし、お望みなら、今すぐにでも論証してやるぞ」と彼はわめき立てた。「君のまつ毛の白いのはほかでもない、ただイヴァン大帝(クレムリン内にある大鐘の異名)の高さが三十五間あるがためにすぎないってわけを、明快に、的確に、進歩的に、いやそれどころか、リベラリズムの陰影さえつけて論証してみせよう? いいか、やるぞ! なんなら、
「よしきた! ね、どんな風に論証するか、一つ聞こうじゃありませんか!」
「ええ、くそっ、どこまでも白っぱくれやがる、こんちくしょう!」とラズーミヒンは叫んで、おどり上がりざま片手を一振りした。「ちょっ、きさまなんかと議論する価値はないや! あれはね、君、みんなわざとやってるんだよ、ロージャ、君はまだよくこの男を知らないんだ! 昨日もこいつはみんなを
「ほら、でたらめだ! 服はその前にこしらえたんだよ。新調の服ができたについて、君らをかついでやろうという考えが起こったのさ」
「実際あなたは、そんなに白っぱくれる名人なんですか?」とラスコーリニコフは無造作に尋ねた。
「あなたはそうじゃないと思ったんですか? 待ってらっしゃい、今にあなたも一杯くわしてあげますから――は、は、は! いや、なんですよ、あなたにすっかり本当の事を言ってしまいましょう。犯罪とか、環境とか、女の子とか、すべてそういう問題に関連して、今ふと思い出したんですが――いや、今までもずっと興味を持っていたんですが、あなたの書かれたちょっとした論文なんです。犯罪に就いて……とかなんとかいいましたね、題はよく記憶しませんが、二月ばかり前に『
「僕の論文? 『定期新聞』で?」とラスコーリニコフは驚いて問い返した。「僕はじっさい半年ばかり前、大学をよす時に、ある本のことで論文を一つ書きましたが、そのとき僕はそれを『
「ところが、『定期新聞』にのったんですよ」
「ああ、全く『週刊新聞』が廃刊したので、そのとき掲載されなかったんです……」
「それはそうに違いありませんが、『週刊新聞』は廃刊すると同時に、『定期新聞』と合併したので、あなたの論文も二月前に『定期新聞』にのったわけです。いったいご存じなかったんですか?」
ラスコーリニコフは事実少しも知らなかった。
「冗談じゃない、あなたは原稿料を請求することもできるくらいなのに! だが、あなたもなんというご気性でしょう! 直接自分に関係したことまでご存じないほど、世間ばなれのした生活をしておられるんですね。だって、それは事実ですよ」
「えらいぞ、ロージャ! 僕もやっぱり知らなかったよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「さっそくきょう図書館へ行って、その号を借りて見よう! 二月前だね? 日はいつだろう? いや、まあ、どうでもいい、捜し出してやるから! こいつぁ面白い! それでいて、なんにも言わないんだからなあ!」
「でも、あれが僕のだということが、どうしておわかりになりました? ぼく頭字だけしか署名してなかったのに」
「ふとしたことでね、しかもつい二、三日まえですよ。編集者から聞いたんです。知合いなもんですから……非常な興味を感じましたよ」
「たしか僕は、犯罪遂行の全過程における、犯罪者の心理状態を検討したようにおぼえていますが」
「そうです。そして犯罪遂行の行為は、常に疾病を伴なうものだと、主張していらっしゃる。実に、実に独創的な意見ですな。しかし……わたしが興味を抱かされたのは、あなたの論文のこの部分じゃなくて、結末の方にちょっと漏らしてあった一つの感想なんです。けれど、残念なことに、そこはただ暗示的に書かれてるだけなので、明瞭でないんです……一口に言えば、お覚えですかどうですか、つまり世の中には、あらゆる不法や犯罪を行ない得る人……いや、行ない得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい――とこういう事実に対する暗示なのです」
ラスコーリニコフは、この故意に誇張した自分の思想の曲解に、にやりと薄笑いを漏らした。
「ね、なんだって? 犯罪に対する権利だって? じゃ『環境にむしばまれた』からじゃないんだね」と何かしらおびえたような表情さえ浮かべながら、ラズーミヒンは尋ねた。
「いや、いや、そうばかりでもないよ」とポルフィーリイは答えた。「問題はだね、この人の論文によると、あらゆる人間が『凡人』と『非凡人』にわかれるという点なのさ。凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。だって、その、彼らは凡人なんだからね。ところが非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行ない、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている、たしかそうでしたね、わたしが誤解していないとすれば?」
「いったいどうしてそんなことになるんだ? そんなことはあるわけがない!」とラズーミヒンは合点がいかぬという風で、こうつぶやいた。
ラスコーリニコフはまたにやりと笑った。彼はどこへ自分を釣り出そうとしているのか、相手の真意は
「僕が書いたのは、全然そうでもないんですよ」と彼は率直なつつましい調子で言い出した。「もっとも、正直なところ、あなたはほとんど正確にあの内容を叙述してくだすった。いや、なんなら、ぜんぜん正確にといってもいいくらいです。(……彼はぜんぜん正確だと承認するのが、真実いい気持だったのである)。ただ唯一の相違というのは、ほかでもありません、僕はけっしてあなたがおっしゃったように、非凡な人は常に是が非でも、あらゆる不法を行なわなければならぬ、必ずそうすべきものだと主張したのじゃありません。そんな論文は発表を許されなかったろう、とさえ思われるくらいです。僕はただただ次のようなことを暗示しただけなんです。すなわち『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている……といって、つまり公けの権利というわけじゃありませんがね。ただし、それは自分の思想――時には全人類のために救世的意義を有する思想の実行が、それを要求する場合にのみ限るのです。あなたは僕の論文が明瞭を欠くようにおっしゃいましたね。それなら、できるだけ
「じゃあなたはなんといっても、新しきエルサレムを信じていらっしゃるんですか?」
「信じています」ときっぱりした声でラスコーリニコフは答えた。こう言いながらも彼は今までずっと、あの長広舌の初めからしまいまで、
「そ、そ、それで、神も信じていらっしゃる? ものずきな質問で失礼ですが」
「信じています」目をポルフィーリイの顔へ上げながら、ラスコーリニコフはくり返した。
「ラザロの復活も信じますか?」
「しーんじます。なぜそんなことをお聞きになるんです?」
「文字通りに信じますか?」
「文字通りに」
「ははあ……いや、ちょっと物ずきにおたずねしたまでで。失礼しました。ところで、一つ伺いますが――またさっきの話に戻りますよ――非凡人はいつも必ず罰せられるとは限りますまい。中にはかえって……」
「生きながら
「自分で人を罰し始める、ですか?」
「必要があれば。いや、なに、大部分そうなるでしょう。全体に、あなたの観察はなかなか警抜ですよ」
「ありがとう。ところで、もう一つどうか。いったいどういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです? 生まれる時に何か
「ああ、それは実によくあるやつです! このあなたのご観察は、前のより更に警抜なくらいですよ……」
「どうもありがとう……」
「どういたしまして。しかし、こういう事を考慮に入れていただきたいのです。そうした誤解は、ただ第一の範疇つまり『凡人』(これははなはだまずい呼び方だったかもしれませんが)の側にのみ起こりうるものですからね。服従に対する生来の傾向にもかかわらず、
「いや、少なくともその方面では、多少わたしを安心さしてくだすったが、しかしまだここにもう一つ困ったことがあるんですよ。一つ伺いますが、いったいその他人を殺す権利を持ってる連中、つまり『非凡人』は大勢いるんでしょうか、もちろん、わたしはその前に
「ああ、その心配もご無用です」とやはり同じ調子でラスコーリニコフは続けた。「概して新しい思想を持った人は、いや、それどころか、ほんのやっと何か新しいことを言いうるだけの人でも、ごくごく少数しか生まれてきません。不思議なくらいなんです。ただ一つ
「いったい君らは二人とも冗談を言い合ってるのかい?」とうとうラズーミヒンがこう叫んだ。「君らはお互いにごまかしっこでもしているのかい、いったい? 二人ともすわり込んで、お互いになぶりっこしてるじゃないか! ロージャは、まじめなのかい?」
ラスコーリニコフは無言のまま彼の方へ、青ざめたほとんどもの悲しげな顔を上げたが、なんとも答えなかった。この静かなもの悲しげな顔と並んで、ポルフィーリイの隠しても隠し切れない、ずうずうしい、いらいらした、無作法な
「ねえ、君、もし実際それがまじめなら……そりゃむろん君の言う通りだ、これは別に新しいものじゃない、われわれが幾度となく読んだり聞いたりしたものに、似たり寄ったりだ。しかし、その中で実際の創見、まぎれもなく君一人にのみ属している点は、恐ろしいことだが、とにかく君が良心に照らして血を許していることだ……失敬だが、そこには狂信的なところさえある……したがって、つまりこの点に君の論文の根本思想が含まれているわけだよ。ところが、この良心に照らして血を許すということは、それは……それは、僕に言わせると、血を流してもいいという公けの、法律上の許可よりも恐ろしい……」
「全くそうだ、その方がもっと恐ろしい」とポルフィーリイが応じた。
「いや、君はどうかして釣り込まれたんだ! そこには考え違いがある。ぼく読んでみよう……君は自分で釣り込まれながら書いたんだ! 君がそんなことを考えるはずがない……ぼく読んでみよう」
「論文の中にはこんなことはまるでありゃしない。あれには暗示があるだけだ」とラスコーリニコフは言った。
「そうです、そうです」ポルフィーリイはじっと座に落ち着いていられない様子だった。「あなたが犯罪に対してどんな見解を抱いておられるか、今こそほぼ明瞭になりましたよ。しかし……どうもはなはだうるさいようで相済みませんが(全くご迷惑な話で、自分ながら気がさすくらいです!)実はですね、先刻の
ふいに隅の方で、ザミョートフがぷっと吹き出した。が、ラスコーリニコフはその方をふり向いて見ようともしなかった。
「それは僕も同意せざるを得ません」と彼は落ち着き払って答えた。「実際、そういう場合があるに違いありません。馬鹿なやつや見栄坊などは、えてこの誘惑にかかるんです。ことに青年がね」
「ね、そうでしょう。そこで、いったいどうなんです」
「なに、どうもしませんさ」とラスコーリニコフはにやりと笑った。「それは何も僕の責任じゃありませんからね。それは現在もそうだし、将来も常にそうです。現にあの男も(と彼はラズーミヒンをあごでしゃくった)、今しがた僕が血を許すって言いましたが、そんなことがいったいなんです? 人間社会は流刑や、監獄や、予審判事や、懲役などで、十分すぎるくらい保証されてるじゃありませんか――何を心配することがあります? 遠慮なく泥棒を捜したらいいでしょう!……」
「じゃ、もし捜し出したら?」
「当人の自業自得です」
「とにかく論理的ですね。ところで、その男の良心はどうなります?」
「そんなことはあなたの知った話じゃないでしょう?」
「なに、ただちょっと人道的感情でね」
「良心のある人間なら、自分の過失を自覚した以上、自分で勝手に苦しむがいい。これがその男に対する罰ですよ――懲役以外のね」
「じゃ、ほんとうに天才的な人間は」
「なぜこの場合ならないなんてことばを使うんだ? そこには許可も禁止もありゃしない。もし犠牲を
彼は目を上げて、思い沈んだように一同を見回し、微笑をもらして帽子をとった。彼は先ほどはいって来た時に比べると、あまり落ち着きすぎるくらいであった。彼自身もそれを感じていた。一同は立ち上がった。
「どうも、お叱りを受けるかどうか、お腹立ちになるかどうかしりませんが、わたしはどうしてもがまんしきれないんです」と再びポルフィーリイは口を切った。「どうかもう一つちょっとした質問を許していただきたいのです(いやはや、たいへんご迷惑をかけますね)、実は一つちょいとした着想を発表したかったのです、ただほんの忘れないために……」
「よろしい、あなたの着想を言ってごらんなさい」ラスコーリニコフはまじめな青ざめた顔をして待ちもうけるように彼の前に立っていた。
「それはこうなんです……いや、なんと言ったら少しでもうまく現わせるかな……どうもその着想があまりふざけた……心理的なものなんで……実はこうです。あなたがあの論文をお書きになった時に、まさかそんな事はないはずに決まっていますが、あなたが自分自身をですな、へ、へ! たといほんのこれっから先でも『非凡人』であり、新しいことばを発する人間だと、お考えにはならなかったでしょうか――つまり、あなたのおっしゃる意味でですよ……え、そうじゃありませんか?」
「大きにそうかもしれません」とラスコーリニコフはさげすむような調子で答えた。
ラズーミヒンは身じろぎした。
「もしそうだとすれば、あなたもそんな事を決行されはしないでしょうかね。まあ、言ってみれば、何か生活上の失敗、窮迫のためとか、あるいは全人類に対する貢献のためとか、そういったような理由で――障害を踏み越えはなさらないでしょうかね……さよう、たとえば、人を殺して盗みをするといったようなことを……」
こう言って、彼はふいにまた左の目で、彼に合図でもするように、ぽちりと一つまばたきした。そして、
「よし僕が踏み越したとしても、もちろんあなたになんか言わないでしょうよ」いどみかかるような
「いや、これはただちょっと伺っただけなんです。つまり、あなたの論文をよく
『ふう、なんという見え透いたずうずうしいやり口だ!』と嫌悪の情を感じながら、ラスコーリニコフは考えた。
「失礼ですがお断わりしておきます」と彼はそっけない調子で答えた。「僕は自分をマホメットだとも、ナポレオンだとも……すべて誰にもせよ、そうした種類に属する人間だと思っていませんから、したがって、そういう人間でない僕が、今言われたような場合、いかなる行動をとるかについて、ご満足のいくような説明を与えることはできかねます」
「いやご冗談でしょう、
その声の調子にすら、今度はもう特に
「先週わがアリョーナ・イヴァーノヴナを
ラスコーリニコフは無言のまま、しっかり目を据えてポルフィーリイをみつめた。ラズーミヒンは眉をしかめて、暗い顔をしていた。彼はもう先ほどから、何かある想念に打たれていたのである。彼は腹立たしげにあたりを見回した。暗い沈黙の一分間が過ぎた。ラスコーリニコフは身を転じて、出て行こうとした。
「もうお帰りですか!」と思いきり愛想よく彼の方へ手を差しのべながら、優しい調子でポルフィーリイは言った。「お近づきになって実に、実に愉快です。ご依頼の件については、けっしてご心配なく。わたしが言った通り、そのまま書いてお出しください。いや、それより直接わたしの役所へ寄ってくださるのが一番いい……二、三日のうちに……なんなら明日にでも。わたしは、さよう、十一時にはあちらへ行っております、間違いなく。何もかもすっかり片をつけましょう……そして、お話しましょう……あなたはあすこへ行った最後の一人だから、何か話してくださることもおできになるでしょうからね……」と彼はこの上もない
「あなたは正式に僕を調べるつもりなんですか、すっかり道具立てをそろえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? 今のところそんな必要はありませんよ。あなたははきちがえなすったんです。もっとも、わたしは機会を逃したくないんでしてね……それでたいていの入質人とはもう会って話したんです……中には口供を取ったのもあります……で、あなたも最後の一人として……ああ、ちょうどいいついでだ!」と彼はふいに何やらうれしそうに叫んだ。「いいところで思い出した、おれもいったいどうしたんだろう!……」と彼はラズーミヒンの方をふり向いた。「ねえ、例のニコライのことで、君はあの時耳にたこのできるほどやいやい言ったっけね……なに、あれはわかってるよ、ちゃんとわかってるよ」彼はまたラスコーリニコフの方へ向き直った。「あの男はきれいなもんだ。だが、どうも仕様がないから、ミーチカも調べなくちゃならん仕儀になったんです……で、つまり用というのはこれなんですよ。要点はですね、あなたはあのとき階段を通りすがりに……失礼ですが、あなたが行かれたのは七時過ぎだったようですね!」
「七時過ぎです」とラスコーリニコフは答えたが、同時に、こんなことは言わなくてもよかったのにと、すぐ不快に感じた。
「で、七時過ぎに階段をお通りになったとき、せめてあなたくらいごらんにならなかったですかね――二階のあけ放しになったアパートの中に――ね、覚えておいででしょう? 二人の職人がいたのを――あるいはその中の一人だけでも? そこでペンキを塗っていたんですが、気がつきませんでしたか? これは彼らにとって、ごくごく重大なことなんですがね!……」
「ペンキ屋! いや、見ませんでした……」とラスコーリニコフは記憶をかき回すように、ゆるゆる答えた。と同時に、自分の全力を緊張させながら、少しも早くわなのあるところを看破しなければならぬ、何か見のがしはしないかと、苦痛に心臓のしびれる思いがした。「いや、見ませんでした。それに、そんなあけっ放したアパートなんて、なんだか気がつきませんでしたよ……ああ、そうだ、四階のところで(彼はもう完全にわなを見破って、
「おい、君は何を言ってるんだ」ラズーミヒンはわれに返って、事情を考え合せたという風に、いきなりこう叫んだ。「だって、ペンキ屋が塗っていたのは、殺人の当日じゃないか? ところが、この男の行ったのは三日前だぜ。君は何をきいてるんだ?」
「ふう! すっかりごっちゃにしてしまった!」ポルフィーリイは額をたたいた。「いまいましい、僕はこの事件で頭の調子が狂ってしまったよ!」と彼は謝罪でもするように、ラスコーリニコフの方へふり向いた。「わたしはただもう誰かあのアパートで、七時過ぎに二人を見た者はないかと、そればかり一生懸命に考えてるもんだから、あなたにきいたらわかりゃしないかと、ついそんな気がしたようなわけで……すっかりごっちゃにしてしまった!」
「そんなら、もっと気をつけなくちゃだめだよ」ラズーミヒンは気むずかしげに注意した。
最後の会話は、もう控室で交わされたのであった。ポルフィーリイはいたって愛想よく、彼らを戸口まで見送った。二人は陰鬱な気むずかしい顔をして通りへ出、幾足かの間一言も口をきかなかった。ラスコーリニコフはほっと深く息をついた……
「……僕は信じない! 信じられない!」すっかりどぎもを抜かれてしまったラズーミヒンは、一生懸命にラスコーリニコフの推理をくつがえそうと努めながら、こうくり返すのであった。
彼らは早くもバカレーエフの下宿近くまで来ていた。そこではプリヘーリヤとドゥーニャが、先ほどから待ちかねているのであった。ラズーミヒンは、彼らがこのことを初めて口に出したということで、もうすっかりまごつき興奮してしまっていたので、話に夢中になっては、のべつ道のまんなかに立ち止まった。
「信じないがいいさ!」とラスコーリニコフは冷たい、無造作な薄笑いを浮かべて答えた。「君は例によって、なんにも気がつかなかったらしいが、僕は一言一言
「君は
「一晩のうちに考えを変えたのさ」
「いや、そりゃ反対だ、そりゃ反対だよ! もしやつらにそんなばかげた考えがあるのなら、それこそ全力をあげてそれを隠してさ、自分のカルタを伏せておこうと骨折るはずだ。あとで急所を抑えるためにさ……ところが今は――あんなやり方はずうずうしくて、不注意すぎるよ!」
「もし彼らが事実を、つまり正真正銘の事実をつかんでいるか、あるいはいくらかでも根拠のある嫌疑を持っていたら、更に大きな勝利を得ようという期待から、本当に勝負を秘密にしたかもしれないさ(もっとも、本当ならずっと前に家宅捜索をしてるはずだ!)ところが、彼らには事実がない、一つもない――すべてが
「全く侮辱だ、侮辱だ! 君の気持はよくわかる! しかし……僕らはもう今はっきり言い出したんだから(とうとうはっきり言い出したのは、実にいいことだ、僕は喜んでるよ!)、だから今こそ僕も率直にぶちまけていうが、僕はずっと前から、やつらがそんな考えをいだいているのに、気がついてたんだ、ずっとこの間じゅうからね。もちろん、ほんのあるかなしの疑念で、かすかにうごめいている程度なんだがね。しかし、うごめいている程度にもせよ、いったいなぜだろう? どうしてそんな失敬な考えを起こしたんだろう! どこに、どこにそんな根拠がひそんでるんだろう? それで僕がどんなに憤慨したか、君にはとても想像ができないくらいだよ! いったいなんてえことだ? 貧乏とヒポコンデリイに悩み抜いてる不遇な大学生が、熱に浮かされ通しの恐ろしい大病になる前日、ことによると、もう病気が始まっていたかもしれない時にさ、(いいかい!)この疑り深くって自尊心の強い、おのれの真価をわきまえている男が、もう半年も前から自分の部屋に閉じ
『だが、こいつなかなかうまく説明したぞ』とラスコーリニコフは考えた。
「なんのくそだって? だが、明日はまた尋問だぜ!」と彼は悲痛な調子で言った。「あんなやつらに弁解じみたことを言わなくちゃならんのかなあ? 僕は昨日あの酒場で、ザミョートフ輩を相手に自ら卑しゅうしたのさえも、心外なくらいだよ……」
「ちくしょう! 僕自分でポルフィーリイのところへ行ってやろう! そして、親戚としてやつの胸ぐらを抑えつけて、何もかもすっかりぶちまけさしてやろう! ザミョートフなんかもう……」
『やっと気がつきやがった!』とラスコーリニコフは考えた。
「待てよ!」突然彼の肩を抑えながら、ラズーミヒンは叫んだ。「待てよ! 君は間違ったことを言ったんだ! 僕よく考えてみたが、君は間違ったことを言ってる! だって、あれがなんのトリックなもんか? 君は職人
「もし僕があれをやったとすれば、きっと職人もアパートも見たと言うね」目に見えて嫌悪の色を浮かべながら、いやいやそうにラスコーリニコフは答弁を続けた。
「でも、なんだって自分に不利なことを言うんだい?」
「なぜって見たまえ、尋問のときに何もかもいっさい合切、知らぬ存ぜぬの一点ばりで押し通すのは、ただ百姓かずぶ無経験な新米のすることだよ! 多少でも教養があり経験のある人間なら、必ずできるだけやむを得ない外面的な事実を、すっかり自白しようと努めるに相違ない。ただ別な原因を捜し出して、事実にすっかり違った意味を与え、全然べつな光りに照らし出して見せるような、何かこう思いもよらぬ特性をちょっとはさみ込むのだ。ポルフィーリイも、僕が必ずそういう答弁の仕方をして、本当らしく思わせるために見たと答えた上、説明の意味で何かちょっとはさむだろうと、それを当てにしてたに違いないんだ……」
「だってあの男はすぐその場で、二日前あそこに職人がいるわけはないから、したがって、君はどうしても凶行のあった日の七時すぎに、あそこにいたに相違ないと、こう言いそうなはずじゃないか。つまり、つまらんことでつり出して尻尾を抑えたろうよ!」
「そうなのさ、やつはつまりそれを当て込んでたのさ。僕がよく考える暇がなく、少しでもまことしやかに答えようとあせって、二日前に職人のいるはずのないことを、忘れるだろうというわけさ」
「どうしてそんなことが忘れられるんだ!」
「大きにありがちなこったよ! そういうごくつまらないことで、
「もしそうだとすりゃ、あいつは卑劣漢だ!」
ラスコーリニコフは笑い出さずにいられなかった。がそれと同時に、彼は最後の説明を試みた時、ああまで活気づいて乗り気になったのが、不思議に思われた。それまでの会話は気むずかしい嫌悪の気持で、仕方なしに続けていたのではないか。
『おれもある点では、調子に乗るんだな!』と彼は腹の中で考えた。
しかしそれとほとんど同じ瞬間に、思いもよらぬ不安な想念に打たれたかのように、彼は急に落ち着きがなくなった。不安はしだいに増してきた。二人はもうバカレーエフの下宿の入り口まで来ていた。
「君一人で行っててくれないか」とだしぬけにラスコーリニコフは言った。「僕すぐ引っ返して来るから」
「どこへ行くんだ? もう来てしまったんじゃないか!」
「僕ちょっと、ちょっと、用があるんだ……三十分たったらやってくる……二人にそう言っといてくれないか」
「じゃ、勝手にしたまえ、僕も一緒について行くから!」
「なんだい、君まで僕を苦しめたいのか!」と彼はなんともいえぬ悲痛な焦燥と、この上もない絶望を声に響かせながら叫んだので、ラズーミヒンはもうあきらめてしまった。ラズーミヒンはしばらく入り口の階段に立って、ラスコーリニコフが自分の横町の方角へ足早に歩いて行くのを、むずかしい顔をしてながめていたが、ついに歯を食いしばり
ラスコーリニコフが自分の家までたどり着いた時――こめかみは汗でびっしょりぬれ、息づかいはさも苦しそうであった。彼は急いで階段をのぼり、あけ放しになっている自分の部屋へはいると、そのまま
彼はもの思わしげな様で、じっと立っていた。恥かしめられたような、半ば無意識な怪しい微笑が、その唇にただよっていた。とうとう彼は帽子をとり上げ、そっと部屋を出て行った。彼の頭はこんがらかっていた。彼は物思わしげに門の下へおりて行った。
「ほら、ちょうどその人が見えましたよ!」と高い声でこう叫ぶものがあった。
彼は頭を上げた。
庭番が自分の小部屋の戸口に立って、誰やらあまり背の大きくない男に、彼をさして見せていた。それは部屋着のような服にチョッキを着込み、遠目には女のように見える、一見して町人ていの男だった。脂じみた帽子をかぶった頭は下の方へがっくりとたれ、全体の姿もなんだか背中が曲がっているような感じだった。ひねて
「なんだね?」と庭番の方へ近寄りながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
町人は額ごしに横目を使って、彼をじっと注意深く落ち着き払って見つめた。それから、ゆっくりとくびすを返して、ひと口も物を言わずに門の中から通りへ出て行った。
「いったいどうしたんだ!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「誰だか知りませんが、あの男があんたの名を言って、ここにこういう大学生がいるか、誰のところに下宿してるか、なんて尋ねるんですよ。そこへあんたがおりて見えたから、わたしが指で教えてやったら、さっさと行っちまうじゃありませんか。ほんになんてこった」
庭番もやはりいくらかけげんそうな様子だったが、大したことでもなく、またちょっと小首をひねった後、くるりと向きを変え、自分の小部屋へ引っ込んでしまった。
ラスコーリニコフは、町人のあとを追って駆け出すと、すぐにその男を見つけた。相変わらず規則ただしい悠々とした足どりで、じっと足もとをみつめながら、何やらしきりに考えるらしく、通りの向こう側を歩いて行く。彼は間もなく男に追いついたが、しばらく後ろからついて行った。とうとうその
「あなたは僕をお尋ねになったんですね……庭番のところで?」とうとうラスコーリニコフは口を切ったが、なぜかばかに小さい声だった。
町人はなんの返事もしなければ、ふり返ろうともしない。二人はまた黙りこんでしまった。
「あなたはいったいどうしたというんです……人を尋ねて来ながら……黙ってるなんて……いったいなんてことです?」
ラスコーリニコフの声はとぎれ勝ちで、ことばはどうしたものか、はっきり発音されたがらないような感じだった。
町人も今度は目を上げて、気味のわるい
「人殺し」とふいに男は、低いけれど
ラスコーリニコフは男のかたわらを歩いていた。彼の足は急に恐ろしく力抜けがし、背中がぞうっと寒くなった。心臓は一瞬間、まるでかけてあった鉤がはずれたように、いきなりどきんとした。こうして二人はまた百歩ばかり、全く無言のまま並んで行った。
町人は彼を見もしない。
「何を言うんです……何を……誰が人殺しなんです?」やっと聞きとれるほどの声で、ラスコーリニコフはつぶやいた。
「お前が人殺しだ」男は一そうはっきり句を切りながら、腹の底までしみ込むような声で言った。それは憎々しげな勝利の微笑を帯びているような風だった。そして、またしてもラスコーリニコフの真っ青な顔と、その死人のような目をひたとみつめた。
二人はその時四つ角へ近づいた。町人は左手の通りへ曲がって行くと、後ろも見ずにすたすた歩き出した。ラスコーリニコフはその場にたたずんだまま、長い間その後ろを見送っていた。男は五十歩ばかり行ったころ、くるりと振り返って、みじろぎもせずに立っているラスコーリニコフをながめた。それは彼の目にも見えた。ラスコーリニコフは、はっきり見分けることはできなかったけれど、今度も男があの冷たい憎しみにみちた、勝ち誇ったような微笑で、にやりと笑ったような気がした。
ぐったりとしたような静かな足どりで、
彼は何も考えなかった。ただほんの何かの想念、というより想念の断片か、それとも幻想めいたものが、秩序も連絡もなく頭をかすめるだけであった――以前子供の時分に見たか、あるいは、どこかでたった一度会ったばかりで、とても思い出しそうになかった人たちの顔や、V教会の鐘楼や、料理屋の玉突台や、玉突台のそばにいた士官や、どこかの地階にある
ふとラズーミヒンの忙しそうな足音と、その声を聞きつけたので、彼は目を閉じて、寝たふりをした。ラズーミヒンはドアを開けて、しばらく思案でもするように、しばらく敷居の上に立っていた、やがて、そっと部屋の中へ一足踏み込んで、用心深く長椅子に近づいた。ナスターシャのささやきが聞こえた。
「さわらないどきなさい。ぐっすり寝かしといた方がいいよ。あとで食がすすむから」
「そりゃそうだ」とラズーミヒンは答えた。
二人は用心深く外へ出て、ドアを閉めた。また三十分ばかりたった。ラスコーリニコフは目を開いた。そして、両手を頭のうしろにかって、再び仰向けに寝返り打った。……
『あの男は何者だろう? あの地の底からわき出たような男は、いったい何者だ? どこにいて何を見たんだろう? あいつは何もかも見ていたんだ、それはもう間違いない。それにしても、いったいあの時どこに立って、どこから見ていたんだろう? それならなぜ今になって、床の下からわいたように出て来たんだ? それに、どうして見ることができたんだろう――そんなことができるだろうか?……ふむ……』
ぞっとする悪寒に身を震わせながら、ラスコーリニコフは考え続けた。『またミコライがドアのかげで見つけたサック、これだってもあり得べきことだろうか? 証拠になる? 十万分の一ほどの小さなものでも、見落としたら最後――エジプトのピラミッドくらいの証拠になるんだ! はえが一匹飛んでいたが、あれでも見たのか! そんなことがあってたまるものか?』
と、彼はにわかに自分が力抜けのしたことを――肉体的に力抜けのしたことを感じて、嫌悪の念を覚えた。『おれはこれを知ってなければならなかったのだ』と彼は苦い薄笑いをもらしながら考えた。『どうしておれは自分自身を知っていながら、自分自身を予感していながら、
時々彼はある想念の前に、身じろぎもせずに立ち止まった。
『いや、ああいう人間は作りが違うんだ。すべてを許されている真の主権者は、トゥーロンを廃墟にしたり、パリで大虐殺を行なったり、エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征に五十万の大兵を消費したりしたあげく、ヴィリナではいっさいをしゃれのめして平気でいる。しかも死んだ後では、みんなで彼を偶像に祭り上げるんだからなあ――してみると、すべてが許されてるんだ。いやこうした人間の体は肉じゃなくて、青銅でできてるらしい!』
ある思いがけない見当違いの想念が、ふいに彼を笑い出させないばかりだった。
『ナポレオン、ピラミッド、ワーテルロー――それから一方には、寝台の下に赤皮の長持を入れている、やせひょろけたきたならしい小役人の後家の金貸し
時々瞬間的に、彼は熱に浮かされているような気がした。彼は熱病的な歓喜の気分に落ちた。
『婆あなどはくだらない
髪の毛は汗でぐっしょりになり、わななく唇はからからに乾き、じっとすわった目は天井にそそがれていた。
『母、妹、おれはどんなに二人を愛していたか! それなのに、どうして今は二人が憎いのだろう? そうだ、おれは二人が憎いのだ。肉体的に憎いのだ。そばにいられるのがたまらないのだ……さっきもおれはそばへ寄って、母に
彼は前後不覚になってしまった。で、いつの間にどうして往来のまんなかに立っているのか、覚えのないのが不思議に感じられた。もう夕方もだいぶ遅いころだった。たそがれの色も濃くなり、満月が刻々に
彼は苦しげに息をついた――けれど不思議なことには、夢が依然として続いているように思われた。部屋のドアはあけ放されて、敷居の上にはかつて見たことのない男が立ったまま、じっと彼を見まもっているではないか。
ラスコーリニコフは、まだ十分目を開く間もなく、すぐにまた閉じてしまった。彼は仰向きになったまま、身じろぎもしなかった。
『これは夢の続きかな、違うかな?』と彼は考えた。そして、一目だけ見ようと思って、ごくわずかだけ気づかれぬように、もう一度まつ毛を上げて見た。見知らぬ男はまだ元の所にたたずみ、彼の方をうかがい続けている。
ふいに男は用心深く敷居をまたいで、うしろ手にそろっとドアを閉め、テーブルへ近寄って、一分ばかり待っていた――その間ずっとラスコーリニコフから目を放さなかったので――それから静かに、音のしないように、長椅子の傍の椅子に腰をかけた。帽子をわきの床において、両手をステッキの上に重ね、その上へあごをのせた。見うけたところ、長く待つ用意らしい。ラスコーリニコフがしばたたくまつ毛を通して見分け得た限りでは、この男はすでに若い方でなく、ほとんど真っ白なくらい薄色の濃いひげをはやした、肉づきのいい男であった……
十分ばかりたった。まだ明るくはあったが、もうそろそろ暮れに近い。部屋の中は森閑と静まり返っている。階段の方からも、物音一つ聞えてこなかった。ただ一匹の大きなはえが、勢いよく飛んだはずみに、窓ガラスにぶっつかっては、ぶんぶん鳴いているだけであった。とうとう、そうしているのがたまらなくなってきた。ラスコーリニコフはいきなり身を起こし、長椅子の上へすわった。
「さあ、言ってください、いったいあなたは何用なんです?」
「いや、わたしもあなたが眠っていらっしゃるのじゃなく、ただ寝たふりしていられるのを、ちゃんと知っていましたよ」と見知らぬ男は落ち着き払って笑いながら、奇妙な調子で答えた。「自己紹介をお許しください。わたしはアルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」
[#改ページ]
『いったいこれは夢の続きだろうか?』もう一度ラスコーリニコフの頭にこんな考えが浮かんだ。
用心深い信じかねるような目つきで、彼はこの思いがけない客に見入った。
「スヴィドリガイロフ? 何をばかばかしい! そんなことがあってたまるものか!」彼はとうとういぶかしさに堪えかね、声に出してこう言った。
客はこの叫び声にも、いっこう驚いた様子はなかった。
「わたしは二つの理由があってお訪ねしたのです。第一には、もうよほど前からあなたのことを、あなたにとってきわめて有利な方面から、いろいろ聞かされていたので、親しくお近づきになりたいと思ったわけです。第二には、お妹さんのアヴドーチャ・ロマーノヴナに直接利害関係のある一つのことについて、あるいはあなたも援助を拒みはなさらんかもしれないと、こんな空想を持っているからです。わたしが一人で紹介もなしに行ったら、お妹さんはある先入見のために、庭先へも入れてくださらないかもしれません。ところが、あなたのお口添えがあれば、その反対に……とこう目算しましてね……」
「悪い目算ですよ」とラスコーリニコフはさえぎった。
「ちょっと伺いますが、おふたりはつい昨日お着きになったばかりでしょうな?」
ラスコーリニコフは答えなかった。
「昨日です、知っていますよ。わたしも実はおととい着いたばかりなんで。そこで、ね、ロジオン・ロマーヌイチ、あの件については、あなたにこう申し上げようと思うのです。弁解は無用だとは思いますが、これだけのことは言わしてもらいます。いったいあのことについては、あの一件については、全くのところ、わたしの方にそれほど犯罪めいたものがあるでしょうか? 偏見を抜きにして、良識で判断してですな?」
ラスコーリニコフは無言のまま、いつまでも彼をじろじろ見回していた。
「自分の家で頼りない娘を追っかけ回して、『けがらわしい申し出でその娘をはずかしめた』ということですか――そうですか? (どうも自分の方から先回りしますな!)――しかし、わたしだって人間です、そして nihil humanum(すべて人間的なものには無関心でない)……一口に言えば、わたしも人並に誘惑を感じて、
「いや、問題はまるでそんなことじゃありませんよ」と嫌悪の表情でラスコーリニコフはさえぎった。「僕はただもうあなたがいやでたまらないんです。あなたが本当だろうと間違っていようと、お近づきになるのもいやなんです。さ、こうして追い立ててるんだから、帰ったらいいでしょう!……」
スヴィドリガイロフはふいに大きな声でからからと笑った。
「どうもあなたはなかなか……あなたはなかなかごまかしがきかない!」思い切りあけっ放しな笑い方をしながら、彼はそう言った。「わたしは細工で物にしようと思ったんだが、あなたはすっかり本当の足場に立っておしまいになった!」
「ところが、今そういいながら、あなたはまだ小細工を続けている」
「それがどうしたんです? それがどうしたんです?」とスヴィドリガイロフはあけすけに笑いながらくり返した。「だって、これはいわゆる bonne guerre(正々堂々たる戦い)で、立派に許さるべき小細工ですからね!……しかし、なんにしても、あなたは話の腰を折っておしまいなすった。で、もう一度念をおしますが、例の庭先の一件さえなかったら、なんにも不快なことはなかったんですよ。マルファ・ペトローヴナが……」
「そのマルファ・ペトローヴナだって、やはりあなたがなぐり殺したそうじゃありませんか?」とラスコーリニコフは無作法に口を入れた。
「あなたもその話をお聞きでしたか? もっとも、お耳にはいらずにゃいないわけですなあ……さて、このご質問に対しては、全くなんと申し上げたらいいかわかりませんよ。もっとも、自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものですがね。といって、このことでわたしが何か心配していたように、思ってくだすっちゃ困りますよ。あれはごくごくあたり前な、正確無比な状態のもとに起こった事なんですからな。臨検の警察医も、酒をほとんど一びんもやっつけて、飯をたらふく食って、すぐ水にはいったために起こった卒中だ、とこう診断しましたよ。それに、ほかの原因なんか、けっして出てくるはずがないんですからね……いやね、それよりわたしはしばらくの間、ことにこんど汽車に乗ってくる途中、こういうことを考えたんですよ。自分はあの……不幸を、何かのはずみで間接に招来したのじゃないか? 何か精神的刺激とか、そんな風の原因でね。ところが、わたしは自分で結論しましたよ。それさえ断じてあろうはずがないって」
ラスコーリニコフは笑い出した。
「そんなに心配するなんて、いい物好きですね!」
「いったい何をお笑いになるんです? まあ考えてもみてください。わたしは前後を通じてたった二度、
一時ラスコーリニコフは立ち上がって部屋を出てしまい、それでこの会見を打切ろうかと、ちょっと考えてみたけれど、多少の好奇心と一種の打算ともいうべきものが、ほんの一瞬間彼を引止めた。
「あなたは
「いや、大して」とスヴィドリガイロフは落ち着き払って答えた。「マルファとだってほとんど一度も、つかみ合いなんかしたことはありませんよ。わたしどもはごく
こう言って、スヴィドリガイロフはまただしぬけに笑い出した。ラスコーリニコフの目にはもう疑う余地もなかった。この男は何か堅く決心して、胸に一物ある男に相違ない。
「あなたはきっと五、六日の間ぶっ通しに、誰とも口をきかずにいたんでしょう?」と彼は尋ねた。
「まあそうですね。それがどうしたんです。わたしがこんな調子のいい人間なので、あなたはきっとびっくりなすったんでしょう?」
「いや、あなたがあまり調子がよすぎるのに、驚いてるんです」
「つまり、あなたの無作法な質問に腹を立てなかったからですか? そうなんですか? しかし……何も腹を立てることはありませんからね。あなたがお尋ねになったとおりに、こちらも返事をしているんで……」不思議なほど素朴な表情をして、彼はこう言い足した。「実のところ、わたしはなんにもこれという興味を持たない男なんですよ、じっさい」彼はなんとなくもの思わしげな調子で、ことばを続けた。「ことに今はそれこそ、なあんにもしていない……もっともあなたとしては、何か当てあってとり入ろうとしているのだ、とそうお思いになっても無理じゃありません。ことにあなたの妹さんに用があるなどと、自分で明言したんですからね。しかし、露骨に言ってしまいますが、わたしは非常に退屈なんです! 特にこの三日というものはね。だから、あなたに会ったのがうれしくてたまらないくらいなんですよ……悪く思ってもらっちゃ困りますがね、ロジオン・ロマーヌイチ、あなただってわたしの目には、なぜかどうも恐ろしく妙な人のように見えますよ。なんとおっしゃっても、どうもあなたには何かあるようだ。ことに今ね――といって、今のこの瞬間をいうのじゃありません、全体にこのごろ……いや、いやもう言いません、もう言いません、そんなに顔をしかめないでください! これでわたしだって、あなたの思っておられるような、そんな熊男じゃありませんからね」
ラスコーリニコフは
「それどころか、あなたはまるで熊男じゃないかもしれませんよ」と彼は言った。「僕の見たところでは、あなたは上流社会の人か、少なくとも場合によっては、立派な紳士になれる人です」
「いや、なに、わたしは別だん誰の評価にも興味を持っちゃいないんですよ」そっけない、いくらかごうまんな影を帯びた調子で、スヴィドリガイロフは答えた。「だから、時には俗物になったって、いいわけじゃありませんか。だって、この俗物という着物が、わが国の気候では着ごこちがいいし、それに……自分でもそれに対して、生来の傾向を持っているとすればね」と彼はまた笑いながら言い足した。
「でも、僕の聞いたところでは、君はここに大勢知人を持っておられるそうじゃありませんか。いわゆる『相当縁故や
「それはおっしゃる通りです、知己はあります」とかんじんな点には答えないで、スヴィドリガイロフは引きとった。「もうちょくちょく出会いましたよ。もうこれで三日ぶらつき歩いていますからね。で、こっちも気がつけば、先方でもこっちに気がつく様子です。そりゃあもちろん、わたしも身なりはきちんとしていますし、全体に貧乏な方じゃありません。だって、農奴解放もわたしの方には大したこともなくてすんだんですからね。森林や河沿いの草場などが主で、収入は少しも減らなかったわけなんです。しかし……わたしはそんな連中のとこへは行きません。前からもうあきあきしていましたからね。これでもう三日も出歩いていますが、誰にも声をかけないくらいですよ……それにまたこの街! まあ、いったいどうしてこんなものがロシアにできたんでしょうなあ、あきれたもんじゃありませんか! 役人どもとあらゆる種類の神学生の街ですからなあ! もっとも、八年ばかり前に、ここでぶらぶらしていた時分には、ずいぶんいろいろ気のつかないこともありましたがね……ただ一つ解剖にだけは、今でも望みを託していますよ、全く!」
「解剖学って?」
「が、いろんなクラブとか、デュッソートだとか、諸君の好きな
「あなたは、いかさまカルタ師までやったんですか?」
「どうしてそれをせずにいられます? 八年ほど前、われわれはこの上もない立派な仲間を作って、時を過ごしていたもんですよ。それがね、みんな態度や押し出しの堂々たる人間ばかりで、詩人もいれば、資本家もいるという有様でした。それに全体わがロシアの社会では、もっとも洗練された態度や作法は、ちょいちょいやられたことのある連中に属しているものなんですよ――あなたそれにお気がつきましたかね? わたしがこのとおりなりふりかまわなくなったのは、このごろ田舎に
「もしその証文がなかったら、あなたは逃げ出しましたかね?」
「それはなんともご返事に困りますね。わたしはそんな証文なんかにはほとんど束縛されてなかった。自分でどこへも出て行きたくなかったんですね。マルファは、わたしがつまらなさそうにしているのを見て、自分から二度も外国行きをすすめてくれたものです。しかし、そんなことをしたって仕様がないじゃありませんか! 外国へは前にもちょくちょく行ったことがありますが、いつもいやあな気がするばかりでした。いやな気がするというのとも違うが、朝、東が白むころ、ナポリ湾の海を見ていると、なんとなく気がめいってくるのです。分けてもいやでたまらないのは、実際、何か気の
「じゃなんですか、あなた飛ぶつもりなんですか?」
「わたしが? いいや……ただちょっと……」スヴィドリガイロフは真剣に考え込んだ様子で、こうつぶやいた。
『いったいこの男はどうなんだろう、本気なのかしらん?』とラスコーリニコフは考えた。
「いいや、証書なんかに束縛されたんじゃありませんよ」とスヴィドリガイロフは物思わしげにことばを続けた。「わたしは自分の勝手で村から外へ出なかったのです。それに、もうかれこれ一年になりますが、わたしの命名日にマルファはその借用証書を返してくれて、おまけにまとまった金まで添えてくれました。あれはなかなか財産家だったんですよ。そして『わたしがどんなにあなたを信じているか、これでわかりましょう、アルカージイ・イヴァーヌイチ』って――ほんとうにあれはこのとおりなことばを使っていったんですよ! しかしあなたは、あれがこんなことばを使っていったなんて、ほんとうになさらないんでしょうな? それはとにかく、わたしは村で押しも押されもせぬひとかどの地主になって、近在でも人に知られるようになったんですよ。書籍などもやはり取り寄せて読みました。マルファは初めそれに賛成してくれましたが、しまいにはあまり勉強に凝りすぎはせぬかと、心配するようになりました」
「なんだかなくなったマルファ・ペトローヴナが、しきりに懐しく思い出されるようですね!」
「わたしが? そうかもしれません。いや、大きにそうかもしれません。ときに、ついでですが、あなたは幽霊の存在をお信じですか?」
「どんな幽霊です?」
「どんなって、普通の幽霊ですよ!」
「じゃ、あなたは信じますか?」
「さあ、もしなんでしたら、信じないといってもいいかもしれませんな……でも、信じないというのとも違うかな……」
「じゃ、出てくるわけなんですか、え?」
スヴィドリガイロフはなんだか妙な目つきで彼を見やった。
「マルファ・ペトローヴナが時おりご来訪あそばすんです」と、なんとなく奇妙な微笑に口をゆがめながら彼は言った。
「ご来訪あそばすって、どうなんです?」
「なに、もう三度もやって来たんですよ。最初は葬式の当日、墓場から帰って一時間ばかり後で、あれに会った。それはこちらへ向けて
「夢でなくうつつに?」
「うつつですとも。三度ながらうつつなんです。やって来て、一分ばかり話をすると、戸口から帰っていくんです。いつも決まって戸口から出ていくんです。足音まで聞こえるようでした」
「いったいどういうわけだろう、君には必ず何かそんな風なことがあるに相違ないと、僕は初めからちゃんと考えてたんですよ!」とふいにラスコーリニコフは言った。
と、同時に、そんなことを口走ったのにわれながらびっくりした。ひどく興奮していた。
「へーえ? あなたはそんなことをお考えになったんですか?」と驚いてスヴィドリガイロフは尋ねた。「いったいほんとうですか? だからそう言ったじゃありませんか、われわれ二人にはどこか共通点があるって、ね?」
「そんなことはけっしておっしゃりゃしませんよ!」やっきとなってことばするどく、ラスコーリニコフはこう答えた。
「申しませんでしたか?」
「そうですとも」
「なんだか言ったような気がしますがね。さきほどはいって来たとき、あなたが目をつむって横になったまま、寝たふりをしておられるのを見て――わたしはこうひとりごとをいったようなしだいです、『これがあの男だな!』と」
「それはいったいなんのことです、あの男とは? いったいそれはなんの話です?」とラスコーリニコフはどなりつけた。
「なんの話ですって? 全くのところ、なんの話やら、わたしも知らないんですよ……」自分でもいささかまごつき気味で、スヴィドリガイロフは心底からそうつぶやいた。
ちょっとの間、二人はだまりこんだ。二人とも目をいっぱいに見張って、たがいに見合っていた。
「こんなことはみんな愚にもつかぬことだ!」といまいましそうにラスコーリニコフは叫んだ。「いったい奥さんは出てきて、どんな話をするんです?」
「
「しかし、いい加減なことを言っておられるのかもしれませんね」とラスコーリニコフは応じた。
「わたしはめったに嘘をつきません」とスヴィドリガイロフは物思わしげに答え、質問の無作法なのにまるで気もつかない様子だった。
「じゃ以前、それまでに、幽霊をごらんになったことは、一度もなかったんですか?」
「いーいや、見ましたよ。生まれてからたった一度、六年前のことでした。わたしどもにフィーリカという
「医者に見ておもらいなさい」
「そりゃおっしゃるまでもなく、ちゃんと承知しとります。正直、どこが悪いかわからないけど、健康でないことだけは確かですな。が、わたしに言わせれば、わたしの方があなたより確かに五倍は丈夫ですよ。わたしがお尋ねするのは、幽霊の出現を信じなさるかどうか、というのじゃありません。わたしがお尋ねしたのは、幽霊の存在をお信じになるかどうか、ということなんです」
「いや、断じて信じません!」声に一種の
「だって、普通なんて言っています?」スヴィドリガイロフはそっぽを見ながら、頭を少し傾けて、ひとり言のようにつぶやいた。「世間のものは『お前は病気だ、したがってお前の目に見えるものは、ただ現存せざる幻にすぎない』といいます。がそれには厳密な論理がないじゃありませんか。なるほど、幽霊はただ病人にだけ現われるものだ、ということにはわたしも同意です。しかしこれは単に、幽霊は病人以外のものには現われない、ということを証明するだけで、幽霊そのものが存在しない、ということにはなりませんからね」
「もちろん存在しませんよ!」とラスコーリニコフはいらだたしげに言いはった。
「存在しない? あなたはそうお考えですか?」スヴィドリガイロフはゆっくり彼を見やりながら、ことばを続けた。「では、こういう風に考えたらどうです(一つ知恵を貸してください)。『幽霊はいわば他界の断片であり、その要素である、もちろん健康な人間には、そんなものなど見る必要もない。なぜなら、健康な人間はもっとも地上的な人間だから、したがって充実と秩序のために、この世の生活のみで生きなければならん。ところが、ちょっとでも病気をして、肉体組織が少しでもノーマルな地上的秩序を冒されると、たちまち他界の可能性が現われ始める。そして、病気が進むにつれて、他界との接触がいよいよ多くなってくる。で、すっかり死んでしまうと、たちまち他界へ移ってしまう』わたしはこのことをだいぶ前から考えていたのです。もし来世というものを信じておられるのでしたら、この考え方も信じていいわけですよ」
「僕は来世など信じやしません」とラスコーリニコフは言った。
スヴィドリガイロフは物思わしげにじっとすわっていた。
「どうでしょう、もしそこには
『こいつは気ちがいだな』とラスコーリニコフは考えた。
「われわれは現にいつも永遠なるものを不可解な観念として、何か大きな大きなもののように想像しています! が、しかし、なぜ必ず大きなものでなくちゃならないんでしょう? ところが、あにはからんや、すべてそういったようなものの代わりに、いなかの湯殿みたいなすすけたちっぽけな部屋があって、その隅々に蜘蛛が巣を張っている、そして、これがすなわち永遠だと、こう想像してごらんなさい。実はね、わたしはどうかすると、そんな風のものが目先にちらつくことがあるんですよ」
「いったい、いったいあなたの頭には、それよりもちっと気安めになるような、もちっと公平な考えは浮かばないんですか!」と、病的な感じを声に響かせながら、ラスコーリニコフは叫んだ。
「もちっと公平な? そりゃわかりませんよ。ことによったら、これがあなたのおっしゃる公平なのかもしれませんからね。それにわたしは必ず、わざとでもそうしたいんですよ!」なんともつかぬ微笑を浮かべながら、スヴィドリガイロフは答えた。
この醜怪な答えを聞くと、ラスコーリニコフは一種の
「いや、こりゃ実にどうしたことでしょう」と彼は叫んだ。「つい三十分ばかり前までは、われわれお互いにまだ顔を知らないでいたんだし、今でも敵同士のように思っていて、しかも二人の間には片づかない用事があるんですよ、ところが、われわれは用事をそっちのけにして、こんな文学談をおっ始めたんですからね! え、わたしが言ったのはほんとうじゃありませんか、われわれは一つ森の獣だって?」
「どうかお願いですから」とラスコーリニコフはいらいらしてことばをついだ。「失礼ですが、早く用件をおっしゃってくださいませんか。何用でご
「承知いたしました、承知いたしました。さて、お妹さんのアヴドーチャ・ロマーノヴナは、ルージン氏と結婚なさるんですね。ピョートル・ペトローヴィッチと?」
「どうかして妹に関する問題はいっさい避けて、あれの名を口にしないようにしていただけないでしょうか? あなたが僕の目の前で、よくもあれの名を口に出されると思って、僕はそれが不思議なくらいです――もしあなたが本当にスヴィドリガイロフだったら?」
「だって、わたしはあのひとのことを話しに来たんですもの、口に出さずにゃいられませんよ!」
「じゃよろしい。お話しください。しかし、なるたけ手っとり早く!」
「実は家内の
「あなたとしてそれはあまり無邪気すぎますね。いや、ごめんなさい、僕はついずうずうしすぎると言いかけましたよ」とラスコーリニコフは言った。
「というのは、つまりわたしが自分の利益のためにあくせくしてる、というご解釈なんですね。ご心配には及びませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もしわたしが自分の利益のためにあくせくしてるんでしたら、こうまともに言やしません。わたしだって、まんざらばかじゃありませんからね。このことについて一つの心理的不思議をあなたに打明けてお目にかけましょう。先刻わたしはアヴドーチャ・ロマーノヴナに対する愛を弁解するとき、自分の方が犠牲だったと言いました。で、はっきり申し上げますが、現在わたしは愛など少しも感じていません、絶対に。だから、わたし自身不思議なくらいなんです。だって実際あの当時は、何かしら感じていたんですからなあ……」
「遊惰と
「実際わたしは淫蕩無為の人間です。しかしお妹さんは、いろいろ多くのすぐれた点をもっておいでになるので、わたしだってある種の印象に対して、抵抗ができなかろうじゃありませんか。だが、こんなことは皆くだらないことだ、今では自分でもそれがわかりますよ」
「よほど前からおわかりでしたか?」
「わかりかけたのはもう前からですが、いよいよそうと確信したのは、一昨日ペテルブルグへ着いた瞬間でした。もっともモスクワでは、まだアヴドーチャ・ロマーノヴナの愛を求めて、ルージン氏と競争する気でいたのです」
「話の腰を折ってすみませんが、お願いですから、話を少しはしょって、いきなりご来訪の用向きに移っていただけませんか。僕急ぐんですから、ちょっと外出したいんですから……」
「かしこまりました。わたしはここへ着いてから、今度ある……航海をしようと決心したので、その前に種々必要な処置をつけてしまいたい、という気になったのです。わたしの子供たちは
「あなたはほんとうに、ほんとうに気ちがいです!」ラスコーリニコフは腹が立つというよりも、むしろあきれてこう叫んだ。「よくもそんなことが言えますね!」
「あなたにどなられることは、わたしもちゃんと覚悟していましたよ。が、第一ですね、わたしは金持というではありませんが、この一万ルーブリはあってもなくてもいい金なんです。というより、わたしにはぜんぜん不用なんです。もしアヴドーチャ・ロマーノヴナが納めてくださらなければ、わたしはおそらくいっそうばかげたことにつかってしまうでしょう。これが一つとして、二つには、わたしとして良心にやましいところは毛頭ありません。つまり、いっさいなんの思わくもなしに、この金を提供するのだからです。まあ、ほんとうになさろうとなさるまいと、いずれあなたにしろ、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしろ、わかってくださる時がありますよ。問題はすべて、わたしが尊敬すべきあなたのお妹さんに苦労をかけたり、不快な思いをおさせしたりした点なのです。だから、いま衷心から悔悟して、誠心誠意こう思い込んでいるのです――といって、何も金で帳消しにしようとか、自分の加えた不快に対して賠償しようとか、そう言った意味じゃありません。唯々あの方のために、何かご利益になることをしたい、というにすぎないのです。つまりわたしだってほんとうに、何も悪いことばかりする専売特許を握ったわけじゃない、という点を基礎にして申し出たしだいです。もしわたしのこの申し出に、百万分の一でも打算が含まれていたら、わたしはこうまともに言い出すはずがないし、またわずか一万ルーブリやそこいらの金を提供などしません。現につい五週間前も、ずっと多額の金をお妹さんに提供したんですからな。のみならず、ことによると、わたしはごく近々ある娘と結婚するかもしれないのです。してみれば、アヴドーチャ・ロマーノヴナに野心を持っているのじゃないか、というようなお疑いは、いっさい自然に消滅するはずでしょう。結論として申しますが、アヴドーチャ・ロマーノヴナはルージン氏と結婚されても、この程度の金はおとりになるわけですよ。ただ出どころが違うだけでね――まあ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたも腹をお立てにならないで、落ち着いて冷静によく考えてください」
こういうスヴィドリガイロフ自身も、しごく冷静に落ち着き払っていた。
「お願いですから、それで切り上げてください」とラスコーリニコフは言った。「なんにしても、許すべからざる暴言です」
「けっして、けっして。そんなことをおっしゃったら、人間はこの世でおたがい同士、くだらない世間的な形式のために、ただ悪いことばかりし合って、いいことはこれから先もできないことになってしまう。それはばかばかしいじゃありませんか。では、もしかりにわたしが死んで、それだけの金をお妹さんに遺言で残したとしても、それでもやはりお妹さんは拒絶なさるでしょうか?」
「そりゃ大きにありそうなことです」
「いや、それはどうも違いますよ。もっとも、だめならだめでいい、そういうことにしときましょう。しかし、一万ルーブリの金はいざという時、なかなか悪いものじゃありませんがね。いずれにしても、今お話ししたことを、アヴドーチャ・ロマーノヴナにお伝え願います」
「いや伝えません」
「そういうことでしたら、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはやむをえず、自分で無理にも会見の機会を求めます。つまり、ご迷惑をかけることになりますよ」
「じゃ、僕が伝言すれば、あなたは会見を強要しませんか?」
「さあ、なんと申し上げたらいいか、ちょっと困りますね。一度だけはぜひお目にかかりたいと思うんですが」
「あてになさらない方がいいでしょう」
「残念ですなあ。もっとも、あなたはわたしをよくご存じない。やがても少し意気投合するようになるでしょう」
「あなたは、われわれが意気投合するなんて、考えてるんですか?」
「なぜそうならないと言い切れます?」スヴィドリガイロフはにやりと笑ってこう言うと、立ち上がって帽子を取った。「わたしも実は、是が非でもあなたをわずらわそうという気はなかったのです。で、こっちへ来る道々も、さほどあてにしてはいませんでしたよ。もっとも、今朝ほどあなたの顔を見て、はっと思うには思ったのですがね……」
「今朝どこで僕をごらんになったんです?」とラスコーリニコフは不安げに尋ねた。
「偶然のことでね……わたしはどうもあなたを見てると、何か自分に似通ったところがあるような、そんな気がしてならないんです……しかし、どうかご心配なく。わたしはしつこい人間じゃありませんから。いかさまカルタの仲間ともうまを合わすことができるし、遠い親戚にあたるスヴィルベイ公爵という高官にもうるさがられなかったし、ラファエルのマドンナに関する感想をプリルーコヴァ夫人のアルバムに書く腕もあったし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも、七年間ひと足も村を出ないで
「まあ、いいです、ときに、伺いますが、あなたはじき旅へお発ちになるんですか?」
「旅って?」
「ほら、あの『航海』ですよ……あなた自分で言ったじゃありませんか」
「航海? あっ、そうだ!……ほんとうにわたしは航海の話をしましたっけ……いや、それは広範な問題ですよ……だが、もしあなたの尋ねていらっしゃることが、どういうことだかおわかりになったらなあ!」と彼は言い添え、だしぬけに大きな声で引っちぎったように笑った。「わたしは事によると、航海の代わりに結婚するかもしれないんです。縁談を世話する人がありましてね」
「ここで?」
「そうです」
「いつそんな暇があったんです?」
「それにしても、アヴドーチャ・ロマーノヴナには、ぜひ一度お目にかかりたいと思っています。まじめなお願いです。では、さようなら……あ、そうだ! だいじなことを忘れていたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、どうかお妹さんにお伝えください。あの方はマルファの遺言で、三千ルーブリもらえることになっていらっしゃるんですよ。これは全く確かな話なんです。マルファは死ぬ一週間前に、わたしの見てるところで、その処置をしたんですから。二、三週間たったら、アヴドーチャ・ロマーノヴナはその金をお受け取りになれるはずです」
「あなたそれはほんとうですか?」
「ほんとうですとも。どうぞお伝えください。ではごきげんよう。実はわたしの泊まってる所は、ここからごく近いんですよ」
スヴィドリガイロフは出しなに、戸口でラズーミヒンにぱったり出会った。
もうかれこれ八時だった。二人はルージンより先に行きつこうと、バカレーエフの下宿へ急いだ。
「おい、いったいありゃ何者だい?」通りへ出るとすぐラズーミヒンは尋ねた。
「あれはスヴィドリガイロフだ。妹が家庭教師を勤めているとき、侮辱を加えた例の地主さ。あいつが妹の
「守る? あんなやつがアヴドーチャ・ロマーノヴナに対して、何をすることができるものかい? いや、ロージャ、そういう風に言ってくれてありがとう……よし、よし、大いに守るとも!……だが、どこに住んでるんだい」
「知らない」
「なぜきかなかったんだ? ちょっ、惜しいことをしたなあ! もっとも、僕がすぐに探り出してやらあ!」
「君はあの男を見たのかい?」ややしばらく沈黙の後ラスコーリニコフは尋ねた。
「うん、見た。しっかり頭へ入れといた」
「君はあの男を正確に見たのかい? はっきり見たのかい?」とラスコーリニコフは追及した。
「うん、そりゃはっきりと覚えてるよ。千人からいる中でも見分けられる。僕は人の顔を覚えるのが得意なんだからね」
二人はまたちょっと黙っていた。
「ふむ!……そうだそうだ……」とラスコーリニコフはつぶやいた。「ねえ、君……僕ちょいとそんな考えが浮かんだんだ……ぼく始終そんな気がするんだが……あれは事によったら、幻想かもしれないな」
「そりゃいったいなんのことだい? 僕は君のいうことがはっきりわからないよ」
「だって、君らはみんなそう言ってるじゃないか」とラスコーリニコフは、薄笑いに口をねじ曲げてことばを続けた。「おれのことを気ちがいだってさ。ところが、いま僕自分でもふいとそういう気がしたんだよ――もしかすると、僕はほんとうに気ちがいで、ただ幻を見ただけかもしれない」
「いったい君それはどうしたというんだ?」
「だって、それは誰にもわからないじゃないか! 実際、僕は気ちがいかもしれないさ。そして、この二、三日の間にあったことは、何もかも想像の産物にすぎないかもしれないよ……」
「ああ、ロージャ! 君はまた頭をめちゃめちゃにされたな!……いったいあの男は何を言ったんだ。何用でやって来たんだ?」
ラスコーリニコフは答えなかった。ラズーミヒンはちょっとしばらく考えていた。
「まあ、一つ僕の報告を聞いてくれよ」と彼は口を切った。「僕は君のところへ寄ったが、君は寝ていた。それから食事をすまして、ポルフィーリイのところへ出かけたんだ。ザミョートフはやはりまだあそこにいるんだ。僕はすぐあの話を持ち出そうとしたが、根っからうまくいかないんだ。どうしてもほんとうにちゃんと話せないのさ。やつらは、まるで話がわからない、合点がいかない、というようなようすなんだ。が、いっこうまごついたらしいようすもない。僕はポルフィーリイを窓の方へ呼んで、話を始めてみたが、またどうしたわけか、とんちんかんになってしまうのだ。あの男がそっぽを見てると、僕もそっぽを見てるといった風でね。とうとう僕はやつの鼻先へ
「もちろんそうさ!」とラスコーリニコフは答えた。
『明日になったらなんというつもりだい?』と彼は腹の中で考えた。不思議なことに、『わかった時には、ラズーミヒンはどう思うだろう?』という考えは、今まで一度も彼の頭に浮かばなかったのである。今ふとそれを考えると、ラスコーリニコフはじっと相手の顔をながめた。ポルフィーリイ訪問に関する今のラズーミヒンの報告には、彼はほんのちょっとした興味しか持たされなかった。あれ以来、彼の利害を左右する事情に、あまり多くの増減があったのである!……
彼らは廊下でぱったりルージンと出会った。ルージンはきっかり八時にやって来て、部屋をさがしているところなので、三人はそろってはいって行ったが、たがいに顔も見合わなければ、会釈もしなかった。青年二人はずんずん先へ通ったが、ルージンは作法を守って、控室で
ルージンは部屋へはいると、かなり愛想のいい態度ではあったが、前にもまして容態ぶりながら、婦人たちに挨拶した。もっとも、ちょっとへどもどして、なんといっていいかわからないような様子だった。プリヘーリヤはなんとなく照れた形で、サモワールのたぎっている
ほんの一瞬間、沈黙が襲った。ルージンは香水のぷんぷんにおう麻のハンケチを
「道中べつにおさしさわりもなかったことと存じますが」と彼は改まった口調で、プリヘーリヤに話しかけた。
「おかげさまでね、ピョートル・ペトローヴィッチ」
「何よりけっこうなことで。アヴドーチャ・ロマーノヴナもお疲れにはならなかったですか?」
「わたしは若くって丈夫ですから、疲れなんかいたしませんが、母はよほどつらかったようですわ」とドゥーネチカは答えた。
「どうもいたし方がありませんな。お国名物の道がばか長いんですから。いわゆる『母なるロシア』は偉大なものと相場が決まっておりますので……昨日はお出迎いに行きたいのは山々でしたが、どうしても間に合わせかねましたしだいです。しかし、まあ大した面倒もなくすんだことと思いますが」
「いいえね、ピョートル・ペトローヴィッチ。わたしたちはもうもう、がっかりしてしまったんでございますよ」特別声に力を入れながら、プリヘーリヤは急いで言った。「もし神様が昨日このドミートリイ・プロコーフィッチを、わたしたちのところへおつかわしくださらなかったら、二人は全く途方に暮れてしまうとこだったんでございますよ。この方が、そのドミートリイ・プロコーフィッチ・ラズーミヒンさんですの」と言いそえて、彼をルージンに紹介した。
「もうお知合いになったようです……昨日」いまいましげにラズーミヒンをしり目にかけて、ルージンはこうつぶやいた。そして
いったいルージンは人中にいるとき、見かけはきわめて愛想らしく、また愛想のいいのを得意にしているくせに、ちょっとでも気に食わぬことがあると、たちまち取っときの手をすっかりなくしてしまい、座を
「あの、マルファ・ペトローヴナがおなくなりになりましたねえ。あなたはお聞きになりましたか?」例の取っときの種をまた持ち出しながら、彼女は口を切った。
「そりゃ聞きましたとも。まっさきに聞いて承知しております。それどころか、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフが、奥さんの葬式をすますとすぐ、急いでペテルブルグへ向けて出発したことも、お知らせしようと思ってあがったんですよ。少なくとも、わたしの受け取った確実無比な情報によると、そうなんで」
「ペテルブルグへ? ここへ?」とドゥーネチカは不安らしく問い返して、母親と目を見合した。
「たしかにそうです。そして、出発のあまり急なことや、その前のことを考慮に入れてみると、もちろん何か当てあってのことですよ」
「まあ! あの人はまたここでも、ドゥーネチカを困らせるんでしょうかねえ?」とプリヘーリヤは叫んだ。
「わたしが思うには、あなたにしろ、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしろ、何も格別ご心配なさることはありませんよ。それはむろんあなたが、あの男と何かの関係をつけよう、という考えさえお出しにならなければですな。わたし自身としても気をつけて、今でもあの男がどこに泊まっているか、捜しておるしだいです……」
「ああ、ピョートル・ペトローヴィッチ、あなたが今どんなにわたしをびっくりおさせになったか、とてもおわかりにならないくらいですよ!」とプリヘーリヤはことばをついだ。「わたしはあの人をたった二度見たきりですけれど、恐ろしい、恐ろしい人のように思われましたよ。なくなったマルファ・ペトローヴナも、あの人が殺したに違いないと、わたしは思い込んでいるほどですの」
「その点はそうばかりも決められないんです。わたしは正確な情報を手に入れていますがね。そりゃあの男が、いわば侮辱というような精神的な影響で、あの事態を早めたかもしれない、その点はわたしもあえて争いはしません。何しろ、あの人物の平素の行状や道徳的傾向に至っては、仰せのとおりですからな。あの男はいま財産を持っているかどうか、マルファ・ペトローヴナがあの男にどれだけのものを残していったか、そこはわたしも知りません。もっともそれはごく短期間にわたしの耳へはいりますがね。けれど、もちろんこのペテルブルグへ来たら、たとえわずかの金でも持っているでしょうから、あの男はたちまち前と同じことをやり出すに相違ありません。あの男はすっかり堕落しきって、道楽に身を持ちくずした随一人なんですからね! わたしは確たる根拠をもっていうのですが、運悪くも八年前にあの男に
「まあ、なんということでしょう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
ラスコーリニコフは注意深く聞いていた。
「あなた正確な情報を握っていらっしゃるって、それはほんとうですの?」ドゥーニャは相手の腹にこたえるような、きびしい調子で尋ねた。
「わたしはただなくなったマルファ・ペトローヴナから、自分の耳で秘密に聞いたことを言ってるだけなんです。お断りしておきますが、法律上の見地からすると、この事件はすこぶるあいまいなものです。当地にレスリッヒといいまして、小金を貸したり、外の商売にも手を出したりしている外国女がいた、いや、今でもいるらしいのです。このレスリッヒなる女と、スヴィドリガイロフ氏は、昔から一種きわめて親密な、しかも神秘な関係を持っていたんです。この女のところに遠縁の娘、たしかおしでつんぼだったと思いますが、年のころ十五か、ひょっとすると十四くらいかもしれない、
「わたしの聞いたのはまるっきり違います。フィリップは自分で首をくくったんだそうですわ」
「それは正にそうです。しかしそれは、スヴィドリガイロフ氏の絶え間のない虐待やせっかんが、あの男にそういう不自然な死に方をさせた、いや、もっと適切に言えば、死ぬるようにしむけたわけなんですよ」
「わたしそんなことは存じません」とドゥーニャはそっけなく答えた。「わたしはただなんだか妙な噂を聞いたばかりですの。つまり、そのフィリップという男は、
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、お見うけしたところなんだかあなたは、急にあの男を弁護なさりたくなったご様子ですね」あいまいな微笑に口をゆがめながら、ルージンはこう言った。「実際、あの男は女にかけたら煮ても焼いても食えない男ですよ。それには、あの奇怪な最後をとげたマルファ・ペトローヴナが、悲しむべき実例ですからね。わたしはただ、疑いもなくあなた方の眼前に迫っている、やつの新しい計画について、あなたとお母さんにご注意申し上げて、お役に立とうと思ったまでです。わたし一個としては、あの男はまた債権者から監獄へぶちこまれるに違いないと固く信じております。マルファ・ペトローヴナは子供の将来を思って、あの男に何か所有権を移してやろうなんて考えは、毛頭もっちゃおりませんでした。だから、たとえあの男に何か残していったにしろ、それはただ必要かくべからざる程度のものだけで、大した価値もない一時のものに違いないから、ああいう習慣をもっている男なら一年ともたないに決まっておりますよ」
「ピョートル・ペトローヴィッチ、どうぞお願いですから」とドゥーニャは言った。「スヴィドリガイロフさんのお話は、もうこれきりにしようじゃありませんか。そんな話を伺ってると、いやあな気がしてまいりますから」
「あの男はつい今し方、僕んとこへ来てたんだよ」ふいにラスコーリニコフは初めて沈黙を破った。
四方から叫び声が起こった。一同は彼の方へひとみを向けた。ルージンさえわくわくし出した。
「一時間半ばかり前、僕が寝ているところへはいってきて、僕を起こして名乗りを上げたんだ」とラスコーリニコフはことばを続けた。「かなりくだけた態度で、愉快そうな風だったよ。そしてなんだか、そのうちに僕と意気投合するものと、すっかり一人であてこんでいたっけ。いろいろ話のあった中で、あの男はしきりにお前と会いたがってね、ドゥーニャ、僕にその仲介をしてくれと頼むんだ。あの男はお前にあることを申し入れたいといって、その内容を僕に打明けたよ。そのほかにね、ドゥーニャ、あの男は確実な話として、マルファ・ペトローヴナが死ぬ一週間前に遺言して、お前に三千ルーブリ残してくれたと、僕に報告したよ。そして、その金はごく近いうちに、お前の手にはいるだろうという話だった」
「まあ、ありがたいこと!」とプリヘーリヤは叫んで、十字を切った。「あの人のためにお祈りしてあげなさいよ、ドゥーニャ、お祈りして!」
「それは全く本当です」とルージンはつい口をすべらした。
「で、で、それからどうだったの?」とドゥーネチカはせきたてた。
「そう、それからあの男のいうには、自分も大して金持じゃない、財産は全部、いま伯母のところにいる子供たちに渡ってしまうのだ。それから、どこか僕の近くに泊まってるとか言ったが、どこだか知らない。聞かなかった……」
「でも、あの人はいったい何を、何をドゥーニャに申し入れるんだろうね?」とプリヘーリヤはおびえ上がって尋ねた。「お前に話したって?」
「ええ、話しました」
「なんなの?」
「あとで言いましょう」
ラスコーリニコフは口を閉じて、茶の方へ手を伸ばした。
ルージンは時計を出して見た。
「わたしは仕事の都合で、おいとましなくちゃなりません。そうすればおじゃまにもならないし」彼はいささかむっとしたような顔つきで、こう言いたしながら、椅子から腰を浮かしかけた。
「いらっしゃらないでくださいまし、ピョートル・ペトローヴィッチ」とドゥーニャは言った。「あなたは一晩じゅういるつもりで、いらしってくだすったんじゃありませんか。それにあなたはご自分で、何やら母と話したいことがあるって、そう書いていらっしゃるじゃありませんか」
「それは正にさようです。アヴドーチャ・ロマーノヴナ」とルージンは再び椅子に腰をおろしながら、相手に思い知らせるような調子で言ったが、帽子は手に持ったままだった。「わたしは、おっしゃる通り、あなたともご母堂とも、よくお話ししたい考えでおりました。しかも、ごく重要な件に関するお話です。けれどご令兄が、わたしの前ではスヴィドリガイロフ氏の申し出をいうわけにはゆかないとおっしゃる、それと同じりくつで、わたしも……ほかの人の前では……きわめて重要な二、三の件についてお話ししたくもありませんし、またできもしないわけです。それに、あれほど堅くお願いしといたかんじんな点が、実行されていないような始末ですから……」
ルージンは苦い顔をして、しかつめらしく口をつぐんだ。
「兄が、この会見に同席しないようにという、あなたのご希望を実行しなかったのは、ほかでもありません、わたしがそれを主張したからでございますの」とドゥーニャは言った。「あなたは兄に侮辱されたとかって、お手紙に書いていらっしゃいましたが、それなら猶予なく事情をはっきりさして、お二人に仲直りしていただかなければならないと、こう考えましたの。もしロージャがほんとうにあなたを侮辱したのでしたら、兄はあなたに謝罪しなければなりませんし、またするだろうと思います」
ルージンはとたんに元気づいてきた。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、この世の中には、いかに善良な意志をもっていても、忘れられない侮辱があります。何事にも一定の限界があって、それを踏み越えるのは危険な
「わたしが申し上げたのは、その事じゃございませんの、ピョートル・ペトローヴィッチ」と少しじれったそうにドゥーニャはさえぎった。「ようくお考えになってくださいまし。わたしたちの将来というものは、この問題ができるだけ早くはっきりして、円満に解決するかどうか、それだけで決まるんじゃありませんか。わたしは遠慮なくぶっつけに申しますが、そうするよりほか考えようがないのでございます。もしあなたがいくらかでも、わたしを大切に思ってくださいますなら、むずかしいことではありましょうけれど、この話は今日にもすぐ片づけてしまわなければなりません。もう一度申しますが、もし兄に失礼がございましたら、兄がお
「あなたがそんな風に問題をおとりになるとは、驚きましたね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」とルージンはしだいにいらいらしてきた。「わたしはあなたを大切に思い、かつ尊敬してはおりますけれど、それと同時に、ご家族のうちの誰かを愛しないということは、きわめてありうべき事柄ですよ。
「ああ、そんなに了見の狭いことはよしてくださいまし、ピョートル・ペトローヴィッチ」とドゥーニャは情のこもった調子でさえぎった。「そして、わたしがいつも信じていたように、また信じたいと願っているように、あのよく物のわかった上品な人になってくださいまし。わたしはあなたに大切なお約束をいたしました。わたしはあなたの
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ」ルージンはむっとして言った。「あなたのおことばはわたしにとってあまりにも意味深長です。いや、もっと突っ込んでいいますが、あなたに許していただいているわたしの位置から見て、むしろ心外千万なくらいです。わたしとこの……高慢ちきな青年を同列に扱おうとなさる、心外千万な合点の行かぬ対照のなさり方は、今さら申し上げないとしても、今のおことばでみると、あなたはわたしになすった約束を、破棄する可能を認めておいでなさるわけです。あなたは『わたしか兄さんか』とおっしゃる。してみれば、わたしがあなたにとって大した意味を持っていないことを、思い知らせていらっしゃるわけです……わたしは、おたがいの間に存在している関係からいっても……義務からいっても……そういうことは断じて許容するわけにいきません」
「なんですって!」とドゥーニャはかっとなって「わたしはあなたの利害を、今までわたしにとって大切であったもの、わたしの生活全部だったものと、同列に見なしているんですよ。それだのに、わたしがあなたを十分尊重しないといって、急に腹をお立てになるんですのね!」
ラスコーリニコフは無言のまま、皮肉ににやりと笑った。ラズーミヒンは全身をぴくっとさせた。が、ルージンはこの
「やがて生涯の伴侶になろうという人、つまり夫に対する愛は、兄弟に対する愛を
「わたしはもう覚えておりませんので」とプリヘーリヤはへどもどした。「わたしは自分で伺ったとおりに書いてやりましたので、ロージャがあなたになんとお伝えしたか存じませんが……ことによったら、あれがほんとうに何か大げさに申したかもしれません」
「しかし、あなたの暗示がなかったら、ご子息も誇張なさるわけにいかないはずですよ」
「ピョートル・ペトローヴィッチ」とプリヘーリヤはきっとなった。「わたしとドゥーニャとが、あなたのおことばを大して悪い方へとらなかったのは、わたしたちのここへ来ている事が証拠でございます」
「そうだわねえ、お母さん!」と賛成するようにドゥーニャは言った。
「してみると、このこともやはりわたしが悪いわけなんですな!」とルージンはむっとした。
「ピョートル・ペトローヴィッチ、あなたはそういう風に、何もかもロージャをお責めになりますけれど、あなただって、先刻のお手紙に、あれのことで嘘を書いていらっしゃるじゃありませんか」とプリヘーリヤは急に元気づいて、こう言いたした。
「わたしが何か嘘を書いたなんて、そんな覚えはありませんな」
「あなたはこう書いておられるのです」ルージンの方をふり向こうともせず、ラスコーリニコフはずけずけと言い出した。「僕がきのう金をやったのは、まさに
「失礼ですが」憤怒に身を震わせながら、ルージンは答えた。「あの手紙であなたの性格や行為にまで言い及んだのは、ただそれによって、ご令妹とご母堂の依頼を履行したまでです。つまり、あなたをお訪ねした時の模様はどうだったか、あなたがわたしにどんな印象を与えられたか、そういうようなことを細かく知らせてほしいとのことだったのです。ところで、いま指摘された手紙の文面に関しては、そこに一行でも事実相違の点があったら、見せていただきましょう。つまり、あなたが金を使われなかったかどうか、あの家族はたとえ不仕合せだとはいい条、汚らわしい人間は一人もいなかったかどうか、というような点に関してですな」
「が、僕に言わせると、あなたなんかありたけの美点をかき集めても、あなたがいま石を投げているあの不幸な娘の、小指だけの価値もありゃしない」
「すると、あなたはあの女をご母堂や、ご令妹と一座させるだけの決心がおありですな?」
「それはもう実行しましたよ、もし知りたいとおっしゃれば申しますがね。僕は今日あの娘を、母とドゥーニャと並んですわらせましたよ」
「ロージャ!」とプリヘーリヤは叫んだ。
ドゥーネチカは顔を赤らめ、ラズーミヒンは眉を寄せた。ルージンは毒々しく、高慢ちきににやっと笑った。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ」と彼は言った。「ごらんのとおりですから、これじゃ話の折り合うわけがありません。わたしはもうこれで永久に万事了したもの、事情闡明したものと考えさしていただきます。もはやこの上親子兄妹対面のお楽しみや、秘密ご伝達のおじゃまをしないように、遠慮することといたしましょう(と彼は椅子から立ち上がって、帽子を取った)。けれど、帰りがけにあえて注意させていただきますが、こんな出会い、いや、あいまいな妥協は、ごめんこうむりたいものですな。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、あなたには特にこの点をお願いしておきます。ましてあの手紙はほかの誰でもない、あなたに宛てたものなんですからな」
プリヘーリヤも少々むっとした。
「あなたはなんですか、わたしたちをご自分の権力で、自由にしようとしていらっしゃるようですね、ピョートル・ペトローヴィッチ。どうしてお望みどおりにしなかったかというわけは、もうドゥーニャが申し上げました。あれはいい考えを持っていたのでございます。それにあなたのお手紙は、まるで命令でもなさるような書き方ですもの。いったいわたくしどもはあなたのお望みを、一々命令のように守らなくてはならないでしょうか? それどころじゃありません、わたしはっきり申し上げますけれど、あなたは今わたしどもに対しては、かくべつ優しく寛大にしてくださらなければならないはずです。だって、わたしたちは何もかも振り捨てて、ただあなたを頼りにここまで出て来たんですもの。してみれば、それでなくても、大方あなたの権力内におかれてるわけじゃありませんか」
「いや、そうばかりでもありませんよ、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ。ことに今しがた、マルファ・ペトローヴナの遺言状に書かれた、三千ルーブリのご披露があった後ですからな。しかもそれはわたしに対するお話し振りの変わったのから見ても、たいへんいい折だったらしいご様子で」と彼は毒々しく言い足した。
「そのおことばからみますと、ほんとうにわたしどもの頼りない身の上を当てにしていらしったものと、想像してもよさそうですね」といらだたしげにドゥーニャは言った。
「けれども今は少なくとも、そんなことを当てにするわけにいきません。ことにアルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフ氏の秘密な申し出を伝達される、おじゃまをしたくもありません。あの男はご令兄にその全権を委任したわけなんでしょう。わたしの見るところでは、その申し出はあなたにとって重大な意味、いや事によったら、きわめて愉快な意味を持っているのかもしれないようですな」
「まあ、なんということを!」とプリヘーリヤは叫んだ。
ラズーミヒンは椅子にじっとしていられなかった。
「お前これでも恥ずかしくないのかい、ドゥーニャ?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「恥ずかしいわ、兄さん」とドゥーニャは言った。「ピョートル・ペトローヴィッチ、とっとと出て行ってください!」彼女は憤怒にさっと青ざめながら、彼の方へふり向いた。
ルージンもこうした結末になろうとは、夢にも思いがけなかったらしい。彼はあまりに自分自身と、自分の権力と、二人の犠牲の頼りない境遇に、希望をかけすぎていたのである。今でもまだ本当にならないほどであった。彼は真っ青になり、唇がわなわなと震え出した。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、わたしが今こんなはなむけをもらって、この戸口から出てしまったら、その時には――どうか覚悟してください――わたしはもう二度と帰っては来ませんから。ようっくお考えなさい! わたしの言ったことに
「なんてずうずうしい!」ドゥーニャはすっくと席を立ちながら叫んだ。「えええ、わたしもあなたに帰って来ていただきたくありません!」
「えっ? なるほどそうですか!」最後の瞬間までこうした大団円を信じていなかったルージンも、今はまるでつぎ穂を失って、思わずこう叫んだ。「なあるほど、そうですか! しかし、いいですか、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、わたしは抗議することだってできますよ」
「あなたはどんな権利があって、娘にそんなことをおっしゃるんです!」とプリヘーリヤは熱くなって割ってはいった。「いったいどんな抗議がおできになるんですの? いったいどんな権利を持ってらっしゃるんですの? ふん、あなたのような人に可愛いドゥーニャを上げましょうかい? さ、出て行ってください、わたしたちにかまわないでいただきましょう! もともとわたしたち自分の方が悪いんです。こんな間違ったことを思い切ってしようとしたんですからね。とりわけわたしが一ばん悪かったのです……」
「しかし、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」とルージンは狂憤のあまり夢中になってしまった。
「あなたはああした約束で、わたしを縛っておきながら、今さらそれを破棄するなんて……そして、そして、おまけに……おまけにわたしはおかげで、余計な失費をさせられたじゃありませんか……」
この最後の抗議は、あまりにもルージンの性格にはまっていたので、憤怒の発作とそれを押える努力のために、真っ青になっていたラスコーリニコフも、急にがまんし切れなくなり、からからと笑い出した。けれど、プリヘーリヤは思わずわれを忘れてしまった。
「失費ですって? それはいったいどんな失費なんですの? まさかあなたは、わたしたちのトランクのことをおっしゃるんじゃありますまいね? だって、あれは車掌があなたにただで乗せてくれたんですよ。まあ、なんてことでしょう、わたしたちがあなたを縛ったんですって! まあ正気になってくださいよ、ピョートル・ペトローヴィッチ、それはね、あなたの方がわたしたちの手足を縛ったので、わたしたちがあなたを縛ったのじゃありませんよ」
「もうたくさんよ、お母さん、後生だからもうよして!」とドゥーニャは哀願した。「ピョートル・ペトローヴィッチ、どうぞお願いですから、出て行ってくださいまし!」
「出て行きますとも。ただ最後にたった一言いっておきます!」もうほとんど自制力を失って、彼は叫んだ。「ご母堂はもうすっかり忘れてしまわれたようですが、わたしはあなたのああした風評が、近所近在一円にひろがったにもかかわらず、あなたをもらおうと決心したんですよ。わたしはあなたのために
「この野郎、頭が二つあるとでもいうのか!」ラズーミヒンは椅子からおどり上がって、今にも制裁を加えようと身構えながら、こうどなりつけた。
「あなたは卑劣な、意地の悪い人です!」とドゥーニャは言った。
「何もいうな! 何もするな!」と、ラズーミヒンを押し止めながら、ラスコーリニコフは叫んだ。それから、ぴったり顔を突き合わさないばかりに、ルージンの傍へ進み寄った。「さあ、とっとと出て行ってください!」と彼は低い声で、はっきりことばを分けながら言った。「もう一言も口をきかないで、さもないと……」
ルージンはややしばらく、憤怒にゆがんだ真っ青な顔をして、じっと彼を見つめていたが、やがてくるりとくびすを転じて、そのまま出て行った。今この男がラスコーリニコフにいだいたほどの憤怒と憎悪は、誰しもめったに感じることがなかったに相違ない。彼はラスコーリニコフを、彼一人のみを、いっさいの原因にしてしまったのである。しかし、ここに特筆しなければならないのは、もう階段をおりて行きながらも、事はまだぜんぜん
何よりかんじんなのは、最後の瞬間までこうした結末を、夢にも予期しなかったことである。彼はいよいよのどんづまりまで、赤貧洗うがごとき頼りない二人の女が、自分の勢力下から脱出するかもしれないなどと、そうした可能性を想像もしていなかったので、
今さっき彼がドゥーニャに向かって、自分は悪い風評があるにもかかわらず彼女をめとろうと決心したのだと、悲痛な語調でほのめかしたのは、あくまでまじめな気持で言ったのであった。それどころか、ああした「浅ましい忘恩のふるまい」に対して、深い
ドゥーニャは彼にとって、もうそれこそなくてならぬものだった。彼女を思い切るなどとは、思いも及ばないことである。もう長い間、五、六年このかた、彼は結婚という事を楽しい空想にしながら、それでも絶えず金をちびちび
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「いいえ、わたしが、わたしが一ばん悪いんだわ!」母を抱きしめて
「神様が救ってくだすったのだよ! 神様が救ってくだすったのだよ!」プリヘーリヤは、いま起こったいっさいのことが、まだはっきり
一同はたがいに喜び合った。五分もたつと、笑い出しさえもした。ただ時々ドゥーネチカが、始終のことを思い浮かべながら、青い顔をして
「スヴィドリガイロフは兄さんになんと言って?」とドゥーニャは彼の傍へ近よった。
「あっ、そう、そう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
ラスコーリニコフは頭を上げた。
「あの男はどうしても、お前に一万ルーブリ贈りたいというのだ。それについて僕も立会いの上で、一度お前に会いたいというのだ」
「会いたい! そんなことはこんりんざいできません!」とプリヘーリヤは叫んだ。「よくもこの子にお金を贈りたいなんてそんなことが言えたものだ!」
それからラスコーリニコフは(かなりそっけない調子で)、スヴィドリガイロフと会見の
「で、兄さんはどう返事をなすったの?」とドゥーニャは尋ねた。
「はじめ、お前に伝言などしないと言った。するとあの男は、あらゆる手段を講じて直接会見の目的を達すると声明するのだ。彼の断言するところによると、お前に対する狂気の
「兄さん自身は、あの人をどう解釈なすって? どんな風にお思いになって?」
「正直、なんにもわけがわからないんだ、一万ルーブリ提供するというかと思えば、自分は金持じゃないという。どこかへ行ってしまうつもりだと言うかと思えば、十分もたたぬうちに、そういったことを忘れてるんだ。それからまた急に、結婚しようと思っている、相手も世話する者がある、とも言ったっけ……もちろん、何か目的はあるに違いない。そして十中八九、ろくなことじゃないだろう。が、それにしても、もしあの男がお前に対して、よくないもくろみを持ってるとすれば、あんなとんまなやり方をしようなんて、ちょっと想像しかねるし……もっとも、僕はお前に代わって、その金はきっぱり断わっといてやったよ。概してあの男は、僕の目には妙に思われたよ……いや、むしろ……発狂の徴候があるようにさえ思われた。しかし、僕だって間違ってないとも限らない。ことによると、それは単に独自なごまかしにすぎないかもしれん。しかし、マルファ・ペトローヴナの死んだことは、あの男にもがんと来たらしい……」
「おお、神様、どうぞあの
ドゥーニャはスヴィドリガイロフの申し出に、よほどショックを受けたらしく、じっと考えに沈んだまま、いつまでも立ちつくしていた。
「あの人は何か恐ろしいことを考え出したんだわ!」彼女はほとんど震え上がらんばかりに、ささやくような声でひとりごちた。
ラスコーリニコフはこの並々ならぬ恐怖に気づいた。
「なんだか僕はまだちょいちょい、あいつと会いそうな気がする」と彼はドゥーニャに言った。
「あいつに気をつけてやりましょう! 僕が居どころを突きとめてやる!」とラズーミヒンは元気よく叫んだ。「ちょっとも目を放すことじゃありませんよ! ロージャが僕に許可してくれたんですからね。ロージャ自身がさっき僕に『妹を守ってくれ』ってそう言ったんですよ。ねえ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、あなたもお許しくださるでしょうね?」
ドゥーニャはにっこり笑って、彼に手を差し伸べたが、心痛の色はその顔から去らなかった。プリヘーリヤはおずおずと彼女の顔を盗み見ていた。とはいえ、三千ルーブリは明らかに彼女を安心させたらしい。
十五分の後には、一同はおそろしくはずんだ調子で話していた。ラスコーリニコフさえも、自分は話こそしなかったが、しばらくの間は熱心に耳を傾けていた。さかんに熱弁をふるっているのは、ラズーミヒンだった。
「いったいなぜ、なぜあなた方はお帰りにならなきゃならないんです!」彼は陶酔したような風で、歓喜にあふれることばをとうとうと吐き出すのであった。「それに、いなか町で何をなさろうというのです? 何よりかんじんなのは、あなた方がここで一緒にいらっしゃるということです、お互い同士が役に立ち合うってことです――全くどれだけ力になるか、まあ考えてもごらんなさい! まあ、たとえしばらくの間でもね……そして、どうか僕を友人にしてください。話相手にしてください。そうすれば、嘘じゃありません、それこそすばらしい仕事が始められますよ。まあ、こうなんです、聞いてください、そいつをすっかり詳しくお話ししましょう――その計画をね! まだ今朝の事で、まだなんにも起こらない前に、僕はふいと頭に浮かべたんですよ……実はこういうわけです。僕には
ここでラズーミヒンは、自分の計画の説明に移った。そして、ほとんどすべての書籍や出版業者が、自分の商品の性質をよくわきまえていないから、したがって普通に出版業は成功しないと相場を決められているが、しっかりしたものさえ出せば、必ず収支つぐなって、利潤をあげるばかりか、時々は相当な
「どうして、どうしてこの好機を逸するわけにゃゆきません。だって、一ばんかんじんな資本の一つ――つまり、自分の金がちゃんとあるんですもの!」とラズーミヒンは熱くなって言った。「もちろん、たいへんな努力が必要です、しかしわたしたちは働こうじゃありませんか。あなたとね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、それから僕とロジオンと……出版業者の中には、いま非常にいい成績をあげてるのがあるんですからね! ところで、この事業の根本の基礎となるのは、結局何を訳せばいいか、それをよく知ることなんです。僕らは翻訳もすれば、出版もやり、勉強もやる、何もかも一緒なんです。今なら僕も役に立ちますよ。経験があるんですからね。何しろもう二年も方々の出版屋を歩き回って、やつらの内幕は知り抜いているんです。
ドゥーニャの目は輝いた。
「あなたのおっしゃることは、わたしたいへん気に入りましたわ、ドミートリイ・プロコーフィッチ」と彼女は言った。
「わたしはこういう話になると、むろん何もわかりませんけれど」とプリヘーリヤは応じた。「それはけっこうなことかもしれませんが、これも先の事は誰にもわかりませんでね。なんだか新しいことだものだから、不安心なようでね。もっとも、わたしたちはどうしたって、ここに残らなければなりません、当分の間だけでもね……」
彼女はロージャを見やった。
「兄さんどうお思いになって?」とドゥーニャは言った。
「僕も非常にいい考えだと思うよ」と彼は答えた。「会社を作るなんてことは、もちろん、前から空想すべきことじゃないが、五、六冊の本の出版なら、実際必ず成功さすことができるよ。僕も間違いなく売れる本を一つ知っている。ところで、この男が経営をうまくやってゆくということは、少しも疑いがないね。仕事の頭があるから……もっとも、まだよく相談する暇はあるさ……」
「
「まあ、ロージャ、お前もう帰るの?」プリヘーリヤはほとんどぎくりとしたていでこうきいた。
「しかも、こういう時をねらって!」とラズーミヒンは叫んだ。
ドゥーニャは
「なんだかみんなまるで僕の野辺送りをするか、永久の別れでも告げてるようだね」なんとなく奇怪な調子で、彼はこう言った。
にやりと笑ったようでもあったが、それはまた微笑でないようでもあった。
「僕たちが顔を見るのも、これが最後かもしれないからね」と彼はさりげない様子で言い足した。
彼はこれをふと心の中で考えたのだが、どうしたはずみか、つい口へ出てしまったのである。
「まあ、お前はどうしたの!」と母は叫んだ。
「兄さん、あなたどこへいらっしゃるの?」なんとなく妙な調子で、ドゥーニャはこう尋ねた。
「ちょっと、僕どうしても行かなきゃならないんだ」自分の言おうとしたことに動揺を感じるらしい様子で、彼は漠然と答えた。が、その青ざめた顔には、一種きっぱりした決心の色が現われていた。
「僕そう言おうと思ったんです……ここへ来る道々……そう言おうと思ってたんです、お母さん、あなたにも……それからドゥーニャ、お前にも。つまり、僕たちはしばらく別れていた方がいいんです。……僕は気分がすぐれない、心が落ち着かないんです……僕そのうちに来ます、自分で来ます、もし……そうしていい時が来たら。僕はあなた方を忘れやしません。愛しています……どうか僕にかまわないでください! 僕を一人きりにしといてください! 僕はそう決心したんです、もう前から……それは堅く決心したことなんです……たとえ僕の一身にどんなことがあろうとも、破滅してしまうようなことがあろうとも、僕は一人でいたいんです。僕のことはすっかり忘れてください。その方がいい……僕のことなど問い合せないでください。必要があれば、ぼく自分で来るか……あなた方を呼ぶかします。事によったら、何もかも復活するかもしれません!……けれど、いま僕を愛していらっしゃる間は、どうか思い切ってください……でないと僕はあなた方を憎みます、僕それを感じてるんです……さようなら!」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
母と妹は激しい
「ロージャ、ロージャ! 仲直りしておくれ、昔通りになろうよ!」と哀れな母親は絶叫した。
彼はのろのろと戸口の方へくびすを転じ、のろのろと部屋から出て行った。ドゥーニャはそのあとを追った。
「兄さん! いったいお母さんをどうするつもりなんですの!」憤りに燃える目で兄を見つめながら、彼女はささやいた。
彼は重苦しい視線で妹を見た。
「なんでもない、僕はまた来るよ、ちょいちょいやって来るよ!」自分が何を言おうとしているのか、よく意識していないように、彼は小声でこうつぶやくと、ぷいと出てしまった。
「
「あれは――き、ち、が、いです、情なしじゃありません! あれは発狂してるんです! いったいあなたはそれがわかりませんか? それじゃ、あなたの方が情なしです!……」ラズーミヒンは彼女の手を堅く握りしめながら、その耳もとへ口を寄せ、熱した声でささやいた。
「僕すぐ来ますから!」死人のようになっているプリヘーリヤに叫び捨てて、彼は部屋の外へ駆け出した。
ラスコーリニコフは、廊下のはずれで彼を待ち受けていた。
「君が駆け出してくることは、僕もちゃんと知っていたよ」と彼は言った。「二人のところへもどって行って、あれたちと一緒にいてくれ……明日も来てやってくれ……そしていつも。僕は……また来るかもしれない……もしできたら。じゃ失敬!」
こう言うなり、手も差し伸べないで、彼はどんどん離れて行った。
「いったい君はどこへ行くんだい? 君どうしたんだ? いったいこれはなんとしたことなんだい? そんなのってあるかい!……」ラズーミヒンはすっかり途方に暮れてつぶやいた。
ラスコーリニコフはもう一度立ち止まった。
「これを最後に言うが、もうけっして何事も僕にきいてくれるな。僕は何も君に答えることなんかないんだから……僕んとこへ来ちゃいけないよ。もしかすると、僕がやって来るかもしれない……僕を打っちゃっといてくれ……だが、あれたちは見すてないでくれ、わかったかい?」
廊下は暗かった。二人はランプのそばに立っていた。一分ばかり、彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺し貫くような視線は、あたかも一刻毎に力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識を貫くようであった。ふいにラズーミヒンはびくっとした。何か奇怪なものが二人の間をかすめたような感じだった……ある想念が、まるで暗示のようにすべり抜けたのである。何かしら恐ろしい醜悪なものが、突如として双方に会得された……ラズーミヒンは死人のようにさっと青くなった。
「今こそわかったろう?」ふいにラスコーリニコフは、病的にゆがんだ顔をして言った……「ひっ返して、あれたちのところへ行ってくれ」彼は急に言い足してくるりとくびすを返すと、家から外へ出てしまった……
この晩プリヘーリヤのもとであった事の顛末は、今さららしく書きたてまい。ラズーミヒンはひっ返して来ると、二人のものを慰めて、ロージャは病ちゅう静養が必要だ、あれは必ずやって来る、毎日やって来る、彼は非常に健康を害しているから、いらいらさせてはいけない、自分ラズーミヒンは彼によく気をつけて、一流のいい医者をつれて来てやる、それどころか、大勢の医者に立会診察をさせてやる、
ラスコーリニコフはいきなりその足でソーニャの住まっている
「誰、そこにいるのは?」と不安らしい調子で女の声が問いかけた。
「僕です、あなたのところへ」とラスコーリニコフは答えて、思いきり小さな入り口の間へはいって行った。
そこには、ぺちゃんこになった椅子の上に、ひん曲がった銅の
「あなたでしたの! まあ!」とソーニャは弱々しい声で叫び、
「あなたの部屋はどう行くんです? こっちですか?」
こう言ってラスコーリニコフは、彼女の方を見ないようにしながら、大急ぎで部屋へ通って行った。
しばらくたって、ソーニャもろうそくを持ってはいってきた。そして、ろうそくを下へ置くと、思いがけない彼の訪問に驚かされたらしく、名状し難い興奮のていで、途方にくれたように彼の前に立っていた。と、にわかに
それは広いけれどいたって天井の低い部屋で、カペルナウモフが貸しに出している唯一の部屋だった。左手の壁に、その住まいへ通ずるしめきりの戸口があった。反対の側に当たる右手の壁には、いつもぴったりしめきりになっている、もう一つの戸口があった。そこはもう番号の違った隣りの住まいである。ソーニャの部屋はなんとなく物置きじみていて、恐ろしく不揃いな四辺形をしていたが、それがこの部屋に一種不具的な感じを与えるのであった。掘割に面した窓の三つある壁は、部屋を斜めに横切っているので一方の隅はひどい鋭角をなし、鈍い
ソーニャは無言のまま、注意深く無遠慮に部屋をじろじろ見回す客を、じっとながめていたが、しまいにはまるで裁判官か、自分の運命を決する人の前にでも立っているように、恐ろしさのあまりわなわな震え始めた。
「僕こんなに遅く……もう十一時でしょう?」やはり彼女の顔へは目を上げず、彼は尋ねた。
「ええ」とソーニャはつぶやいた。「あっ、そう、そうですわ!」まるでこの一言に救いがあるように、彼女は急にあわてて言った。「いま仕立屋さんのところで時計が打ちましたわ……わたし自分で聞きましたから……そうでございます」
「僕があなたのところへ来るのはこれが最後です」ここへ来たのは今が初めてなのに、ラスコーリニコフは気むずかしげな調子でことばをついだ。「僕はもしかすると、もうあなたにお目にかかれないかもしれません……」
「どこかへ……いらっしゃいますの?」
「わかりません……何もかも明日の事です……」
「では、明日カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、いらしってくださいませんの?」ソーニャの声はぴくりと震えた。
「わかりません。何もかも明日の朝です……いや、しかし問題はそんなことじゃない。僕は一こと言いたいことがあって来たんです……」
彼は彼女の方へ物思わしげな視線を上げた。と、急に初めて、自分は腰をかけているのに、相手はまだずっと立ちどおしでいることに、ふと気がついた。
「なんだって立ってらっしゃるんです? おかけなさいよ」彼は急に調子を変えて、穏やかな優しい声でそう言った。
彼女は腰を下ろした。彼は愛想のいい同情のこもったまなざしで、一分ばかり彼女を見つめていた。
「あなたはなんてやせてるんでしょう! あなたのまあ、この手はどうでしょう! まるで透き通るようだ。さわったらまるで死人のようだし」
彼は女の手をとった。ソーニャは弱々しげににっこりほほえんだ。
「わたしいつもこうでしたの」彼女は言った。
「家にいる時から?」
「ええ」
「いや、そりゃむろんだ!」彼はちぎれちぎれにこう言った。と、その顔の表情も声の響きも、また急に変わってしまった。
彼はもう一度あたりを見回した。
「この部屋はカペルナウモフから借りてらっしゃるんですか?」
「さようでございます……」
「それはあちらに、ドアの向こう側にあるんですか?」
「ええ……あちらにもやっぱりこれと同じ部屋がございますの」
「みんな一つ部屋に?」
「ええ、一つ部屋に」
「僕はこんな部屋にいたら、夜はさぞこわいだろうと思いますね」と気難かしげな調子で彼は言った。
「うちの人はそれはいい人たちですから。それはそれは優しい」まだなんとなくわれに返りかねて、よく前後が考え合されない様子で、ソーニャは答えた。「それに道具もみんな、何もかも……何もかも仕立屋さんのものですの。みんなたいへんいい人で、子供たちもしょっちゅうわたしのところへ遊びにまいりますの……」
「それはどもりの子供でしょう?」
「ええ……亭主はどもりでびっこでございます。おかみさんもやはり……どもるというほどでもないんですけど、なんだかすっかり皆まで言わないようなぐあいですの。おかみさんはそれはそれはいい人ですわ。主人はもと地主の
「あの時あなたのお父さんが、すっかり僕に話してくだすったのです……お父さんはあなたのこともみんな話してくれましたよ……あなたが六時に出かけて行って、八時過ぎに帰って来たことも、カチェリーナ・イヴァーノヴナがあなたの寝台のかたわらに
ソーニャはどぎまぎした。
「わたし今日あの人を見たような気がしましたの」と彼女は思い切り悪そうにささやいた。
「誰を?」
「父ですの。わたし通りを歩いていました。すぐ近所の角のところで、九時過ぎでしたわ。すると、父が前の方を歩いてるようなんですの。それがまるで父そっくりなんですもの。わたし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ行こうかと思ったくらいですわ……」
「あなたは散歩してたんですか?」
「ええ」とソーニャはまたどぎまぎして目を伏せながら、引っちぎったように答えた。
「だってカチェリーナ・イヴァーノヴナは、ほとんどあなたを打たないばかりだったそうじゃありませんか、お父さんのところにいる時分?」
「まあ、とんでもない、まああなた何をおっしゃいますの、違いますわ!」とソーニャは何やらおびえたように、彼の顔をみつめた。
「じゃ、あなたはあの人を愛してるんですか?」
「あのひとを? ええ、そりゃあ――もう!」突然切なそうに両手を組み合せながら、ソーニャは哀れっぽくことばじりをひいた。「ああ! あなたはあのひとを……もしあなたがあのひとをご存じでしたら。だってあの人はまるで子供なんですもの……だってあのひとはまるで頭が狂ったみたいになってるんですもの……苦労しすぎたせいで。まあ、もとはどんなに賢い人だったでしょう……どんなに気持の広い人だったでしょう……どんなに優しい人だったでしょう! あなたはなんにも、なんにもご存じないんですわ……ああ!」
ソーニャはまるで絶望したもののように、わくわくして身をもだえ、手をもみしだきながら、これだけのことを言った。彼女の青白い頬はまたぱっと燃えて、目には苦痛の色が現われた。察するところ、彼女の心の琴線にいろいろ激しくふれることがあって、何かを表現し、物語り、弁護したくてたまらないらしかった。何かしら飽くことを知らぬ同情が(もしこういう表現が許されるなら)、突然彼女の顔の輪郭にくまなく描き出された。
「ぶったなんて! いったいあなたは何をおっしゃるんですの! まあ、ぶったなんて! またかりにぶったにしても、それがなんですの? ねえ、それがなんですの? あなたはなんにも、なんにもご存じないんですわ……あの人はそりゃ不仕合せな人ですの。ああ、なんて不仕合せな人でしょう! しかも病身なんですもの……あのひとは公平ってものを求めているんですわ……あのひとは清い人なんですの。あのひとは、何事にも公平というものがなくちゃならないと信じ切って、それを要求しているんですの……たとえあのひとはどんなに苦しい目にあっても、曲がったことなんかいたしません。あのひとはね、世の中のことが何もかも正しくなるなんて、そんなわけにゆかないってことに、自分じゃてんで気がつかないで、そしていらいらしてるんですの……まるで子供ですわ、まるで子供ですわ! けども、あのひとは正しい人ですわ、正しい人ですわ!」
「ですが、あなたはどうなるんです?」
ソーニャは反問するような目つきで相手を見た。
「あの人たちはみんなあなたの肩へかかってきたわけじゃありませんか。もっとも、そりゃ前だってあなたにかかっていたにゃ相違ない。それに、なくなったお父さんも酒代をねだりに、あなたのところへちょいちょい来たという話ですからね。ねえ、そこでこれからどうなるんです?」
「わかりませんわ」とソーニャは沈んだ調子で答えた。
「皆あそこにずっと続けているんですか?」
「さあわかりませんわ、あの家には
「どうしてあのひとはそんなにいばってるんです? あなたを当てにしてるんですか?」
「ああ、いけません、そんな風におっしゃらないでくださいまし!……わたしたちは一つ家のもので、一緒に暮らしてるんですもの」ソーニャは急にまた興奮し、いらいらさえしてきた。それはちょうどカナリヤか何か、そうした小鳥が、腹を立てたらこうもあろうかと思われるようなぐあいだった。「それに、あのひとはどうしたらいいのでしょう! どうしたら、いったいどうしたらいいのでしょう?」と彼女は熱くなって興奮しながら、たたみかけて尋ねた。「それに今日だっても、あのひとはどんなに泣いたことでしょう! あのひとは頭がめちゃめちゃになっていってるんですの。あなたはそれにお気がつきませんでした? 頭がめちゃめちゃになっているんですの。明日は何もかも
「そりゃそのはずですよ、あなた方が……そういう暮らしをしておられる以上……」とラスコーリニコフは、苦い薄笑いを浮かべて言った。
「まあ、いったいあなたは可哀想じゃないんですの? 可哀想じゃないんですの?」とソーニャはまたもや椅子からおどり上がるようにした。「だってあの時あなたは、まだなんにもごらんにならないうちから、ありたけのお金を恵んでくだすったじゃありませんか。ですもの、もし何もかもごらんになったら、ああそれこそどうでしょう! わたしは幾度、ほんとに幾度、あの人を泣かせたことでしょう! つい先週だってそうでしたわ! ああ、わたし、なんて人間でしょう! 父のなくなるつい一週間前のことでした。わたしはむごたらしい仕打ちをしましたの! それは幾度、幾度、したかわからないくらいですわ。ああ、今日も今日とてそれを思い出して、一日どんなに苦しかったかしれませんわ!」
ソーニャは思い出の苦しさにたえかねて、こういいながら両手をもみしだいた。
「それはあなたがむごたらしい人だとおっしゃるんですか?」
「ええ、わたしですわ、わたしですわ! わたしがその時参りますと」と彼女は泣きながらことばを続けた。「なくなった父がこう申しますの。『ソーニャ、わしに本を読んで聞かせてくれんか。なんだか頭痛がして仕方がない。読んでくれ……ほら、この本だよ』といって何かの本を出しました。それはすぐ隣りに住んでいるアンドレイ・セミョーヌイチのところで――レベジャートニコフのところで借りてきたんですの、いつもそんな
「あの古着屋のリザヴェータを知ってますか?」
「ええ……では、あなたもご存じでしたの?」やや驚いたさまで、ソーニャは問い返した。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナは肺病です、しかも
ラスコーリニコフはしばらく無言の後、彼女の質問には答えないでそう言った。
「いいえ、違います、違います、違います!」
こう言って、ソーニャは無意識に彼の両手を握った。それは、どうかそんなことのないようにしてくれと、哀願でもするような
「だって、その方がいいじゃありませんか、なくなった方が」
「いいえ、よかありません、よかありません、けっしてよかありませんわ!」と彼女はおびえたように、口を突いて出るままくり返した。
「だが、子供たちは? もしそうなったら、あなたはどこへ子供らをやるつもりです、あなたのところでないとすると?」
「ああ、わたしもうわかりませんわ!」とほとんど絶望の調子でソーニャは叫ぶと、いきなり両手で頭をかかえた。
察するところ、この考えはもう幾度も幾度も、彼女自身の頭にひらめいたもので、彼はただそれをまたつっつき出したのにすぎないらしかった。
「したが、もしあなたが、今まだカチェリーナ・イヴァーノヴナの生きてるうちに、病気にかかって病院送りになったら、その時はどうします?」と彼は容赦なく問いつめた。
「ああ、あなたは何をおっしゃるんですの、何をおっしゃるんですの! そんなことこそあろうはずがありませんわ!」
こう言ったソーニャの顔は、恐ろしい
「どうしてあろうはずがないんです?」とラスコーリニコフは残酷な薄笑いを浮かべながら、ことばをついだ。「あなただって保証されてるわけじゃないでしょう? もしそうなったら、あの人たちはどうなるんです? 一家族ぞろぞろ往来へ物乞いに出かける。あのひとはごほんごほん
「ああ、違います……そんなことは神様がおさせになりません!」しめつけられたソーニャの胸からやっとこれだけのことばがほとばしり出た。
彼女はことばに出さぬ哀願に両手をあわせ、まるでいっさい彼の意志で左右されることであるかのごとく、祈るような目つきで彼の顔を見ながら、じっと聞いていた。
ラスコーリニコフは立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。一分ばかり過ぎた。ソーニャは恐ろしい悩みに、手と首とをぐったりたれたまま、そこに立ちつくしていた。
「貯金することはできないですか? 万一の時の用意にのけておくことは?」ふいに彼女の前に立ち止まりながら、彼はこう尋ねた。
「いいえ」とソーニャはささやいた。
「もちろん、だめでしょう! しかし、ためしてみたことがありますか?」と彼は心もちあざけるような調子で言い足した。
「やってみましたわ」
「そして、もち切れなかったんですね! いや、そりゃ知れきった話だ! 聞いてみるがものはありゃしない!」
彼はまた部屋の中を歩き出した。また一分ばかり過ぎた。
「毎日もらうわけじゃないんでしょう?」
ソーニャは前よりいっそうどぎまぎした。
「いいえ」彼女はせつない努力をしながら、ささやくように答えた。
「ポーレチカもきっと同じ運命になるんだろうな」と彼はだしぬけにこう言った。
「いいえ! いいえ、そんなことのあろうはずがありません、違います!」とソーニャは死にもの狂いの様子で、まるで誰かふいに刀で切りつけでもしたかのように叫んだ。「神様が、神様がそんな恐ろしい目にはおあわせになりません!」
「だって、ほかの人にはあわせてるじゃありませんか」
「いいえ、いいえ! あの子は神様が守っていてくださいます、神様が!……」と彼女はわれを忘れてくり返した。
「だが、もしかすると、その神様さえまるでないかもしれませんよ」一種の意地悪い快感を覚えながら、ラスコーリニコフはそう言って笑いながら、相手の顔を見やった。
ふいにソーニャの顔には恐ろしい変化が生じ、その上をぴりぴりとけいれんが走った。ことばに現わせない非難の表情で、彼女はじっと彼を見つめた。何かものいいたげな様子だったけれど、一言も口をきくことができないで、ただ両手で顔を隠しながら、なんともいえぬ悲痛なすすり泣きを始めた。
「あなたは、カチェリーナ・イヴァーノヴナの頭がめちゃめちゃになりかかってるとおっしゃったが、あなたご自身の頭だって、めちゃめちゃになりかかってるんですよ」しばらく無言の後に、彼はこう言った。
五分ばかり過ぎた。彼は絶えず無言のまま、彼女の方は見ないようにしながら、あちこち歩き回っていた。やがてついに彼女の傍へ近づいた。彼の目はぎらぎらと光った。彼は両手で女の肩を押えて、ひたとその泣き顔に見入った。彼のまなざしはかさかさして、しかも燃えるように鋭く、唇はわなわなと激しく震えていた……突然彼はすばやく全身をかがめて、床の上へ体をつけると、彼女の足に接吻した。ソーニャは
「あなたは何をなさるんです、何をなさるんです? わたしなんかの前に!」と彼女は真っ青になってつぶやいた。と、急に彼女の心臓は痛いほど強く強くしめつけられた。
彼はすぐ立ち上がった。
「僕はお前に頭を下げたのじゃない。僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ」彼はなんとなくけうとい声で言い、窓の方へ離れた。「実はね」一分ばかりたって、また彼女の傍へもどって来ながら、彼はつけ足した。「僕さっきある無礼なやつに言ってやったよ。そいつなんかは、お前の小指一本の値打ちもないって……それからまた、きょう僕が妹をお前と並んですわらせたのは、妹に光栄を与えたわけだって」
「まあ、あなたは何をおっしゃいましたの! しかもお妹さんの前で?」とソーニャはおびえたように叫んだ。「わたしと並んでかけるのが! 光栄ですって! だってわたしは……けがれた女じゃありませんか……ああ、あなたはまあ何をおっしゃったんでしょう!」
「僕はお前の不名誉や、罪悪に対してそういったのじゃない、お前の偉大なる苦痛に対していったのだ。ところで、お前が偉大なる
「じゃ、あの人たちはどうなりますの?」とソーニャは悩ましげに、けれど同時に、彼のこうした提議にべつだん驚いた様子もなく、相手をちらと見上げて、弱々しい声でこう問い返した。
ラスコーリニコフは不思議な顔をして彼女を見やった。
彼はいっさいのことを、彼女のまなざし一つに読んだのである。してみると、この考えはじっさい彼女自身にも前からあったのだ。事によったら、彼女はもう幾度も絶望のあまり、どうしたらひと思いに片づけることができようかと、真剣に考えたのかもしれない。いま彼のことばを聞いても、かくべつ驚くこともないくらい、真剣に考えたのかもしれない。彼女は相手のことばの残酷なことにすら、気がつかなかったのである(彼の非難の意味にも、彼の汚辱に対する彼女の特殊な見方の意味にも、彼女はもちろん気がつかなかった。そして、それは彼にもわかっていた)。けれど、この浅ましい恥ずべき境遇を思う心が、もう以前から悪夢のように激しく彼女を苦しめ、さいなんでいたことは彼も十分に了解した。今日の日まで、一思いに死のうという、彼女の決心をひかえさす力を持っているのは、はたしてなんであるか? それを彼は考えた。と、その時初めて、あの哀れな幼いみなし児たちと、半気ちがいのようになって頭を壁へぶっつけたりする、あのみじめな肺病やみのカチェリーナが、彼女にとっていかなる意味を持っているかを悟ったのである。
しかしそれにしても、これだけの気性をそなえ、曲がりなりにも教育を受けているソーニャが、どんなことがあろうとも今のままでいられないのは、彼も
『彼女の取るべき道は三つある』と彼は考えた。『
『しかし、いったいそれが真実なのだろうか』と彼は心の中で叫んだ。『今だに心の清浄を保って来たこの少女も、はたして最後にはあの汚らわしい悪臭に満ちた穴の中へ、意識しながら引き込まれてゆくのだろうか! いったいその緩慢な堕落はすでに始まっているのだろうか? そして、彼女が今までそれをがまんしていられたのも、この悪行がそれほどいとわしいものに思われなくなったからだろうか? いや、いや、そんなことがあろうはずはない!』と彼は先ほどソーニャが叫んだ通りに、心の中でこう叫んだ。『いや、今まで身投げから彼女を引き止めていたのは、罪という観念だ。そしてあの人たちだ……もし彼女が今まで気が狂っていないのなら……しかし、彼女の気が狂っていないなんて、そもそも誰が言った? いったい彼女は健全な判断力を持っているだろうか? 健全な判断力を持っていて、さっきいったような、あんなことがいえるだろうか? いったい彼女の持っているあんな考え方ができるだろうか? 滅亡の
彼はしつようにこの想念を守ろうとした。この結論は何よりも彼の気に入った。彼は一そう目をこらして彼女の顔に見入った。
「で、ソーニャ、お前は一心に神様にお祈りをするのかい?」と彼は尋ねた。
ソーニャは黙っていた。彼はその傍に立って、返事を待っていた。
「もし神様がなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」と彼女は力をこめて早口にささやきながら、急にきらきら輝いてきた目をちらと男に投げ、その手をぎゅっと堅くにぎった。
『ああ、やっぱりそうだった!』と彼は考えた。
「で、神様はその
ソーニャは答えかねるように、長い間黙っていた。その弱々しい胸は興奮のために波打った。
「どうか黙っててください! きかないでください! あなたにそんな資格はありません!……」いかつい腹立たしげな目つきで彼を見据えながら、彼女は急に叫んだ。
『そうだったのだ! そうだったのだ!』と彼は
「なんでもみんなしてくださいます!」また目を下へ伏せて、彼女は早口にささやいた。
『これが解決だ! これが解決の説明なんだ!』むさぼるような好奇心をいだいて、しげしげと彼女を見ながら、彼は一人で心に決めてしまった。
新しい、不可思議な、ほとんど病的な感情をいだきながら、彼はその青白くやせて輪郭のふぞろいなこつこつした顔や、ああいう激しい火に燃え立ったり、
『狂信者だ! 狂信者だ!』と彼は心の中でくり返した。
たんすの上に何やら本が一冊のせてあった。彼はあちこち歩きながらその前を通るたびに気づいていたが、とうとう手にとってみた。それは露訳の新約聖書であった。古い手ずれのした皮表紙の本である。
「これはどこで手に入れたの?」と彼は部屋の端から声をかけた。
彼女はテーブルから三歩ばかり離れた同じ場所に、やはりじっと立っていた。
「人が持ってきてくれましたの」彼女は気の進まぬ調子で、彼の方を見ずに答えた。
「誰が持ってきたの?」
「リザヴェータが持ってきてくれましたの、わたしが頼んだものですから」
『リザヴェータ! 奇妙だなあ!』と彼は考えた。
ソーニャの持っているすべてのものが、彼にとって一刻一刻、いよいよ奇怪に不可思議になって行く。彼は本をろうそくの傍へ持ってきて、ページをめくり始めた。
「ラザロのことはどこにあるだろう?」と彼はだしぬけに尋ねた。
ソーニャは執拗くうつ向いたまま、返事をしなかった。彼女はテーブルへややはすかいに立っていた。
「ラザロの復活はどこ? ソーニャ、捜し出してくれないか」
彼女は横目に彼を見やった。
「そんなところじゃありませんわ……第四福音書です!……」彼の方へ寄ろうともしないで、彼女はきびしい声でつぶやいた。
「捜し出して、読んで聞かせておくれ」と彼は言って腰をおろし、テーブルに
『三週間もたったら、別荘の方へおいでを願いますよ。どうやら僕自身もそちらへ行ってるらしいんだから――もしそれ以上悪いことさえなければ』と彼は腹の中でつぶやいた。
ソーニャは会得のゆきかねるような風で、ラスコーリニコフの不思議な望みを聞きおわると、思い切り悪そうにテーブルへ近づいたが、それでも、本を取り上げた。
「いったいあなたはお読みにならなかったんですの?」彼女はテーブルの向こう側から、上目づかいに、相手を見ながら、こう尋ねた。彼女の声はしだいしだいにいかつくなってきた。
「ずっと前……中学校の時分に。さあ読んで!」
「教会でお聞きにならなかったんですの?」
「僕は……行ったことがないんだ。お前はしょっちゅう行くの?」
「い、いいえ」とソーニャはささやくように答えた。
ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「そうだろう……じゃ、明日お父さんの葬式にも行かないの?」
「行きますわ。わたし先週も行きました……ご法事に」
「誰の?」
「リザヴェータ。あのひとは
彼の神経はしだいに強くいらだってきた。頭がぐらぐらし始めた。
「リザヴェータとは仲がよかったの?」
「ええ……あれは心の真っ直ぐな人でした……ここへも来ましたわ……たまにね……たびたびは来られなかったんですもの……わたしはあのひとと一緒に読んだり、そして……話したりしましたわ。あのひとは親しく神を見るでしょうよ」
こうした書物めいたことばが、彼の耳には異様に響いた。のみならず、リザヴェータとの秘密な会合や、二人とも狂信者であるという事実も、やはり耳新しく感じられた。
『こんな所にいると、自分も狂信者になってしまいそうだ! 感染力を持っている!』と彼は考えた。
「さあ、読んでくれ!」と彼は突然強情らしい、腹立たしげな調子で叫んだ。
ソーニャはいつまでもちゅうちょしていた。彼女の心臓はどきどき鼓動した。なんとなく彼に読んで聞かせるのがためらわれたのである。彼はこの『不幸な狂女』を、ほとんど苦しそうな表情で見つめていた。
「あなたに読んであげたって、仕様がないじゃありませんの? だって、あなたは信者じゃないんでしょう?……」と彼女は小さな声で、妙に息を切らせながらささやいた。
「読んでくれ! 僕はそうしてもらいたいんだ!」と彼は言いはった。「リザヴェータにゃ読んでやったんじゃないか」
ソーニャはページをめくって、その場所を捜し出した。彼女は手が震えて声が出なかった。二度も読みかけたけれど、最初の一句がうまく発音できなかった。
「ここに病める者あり、ラザロといいてベタニアの人なり……」と彼女は一生懸命にやっとこれだけ読んだ。が、突然第三語あたりから声が割れて、張り過ぎた弦のようにぷっつり切れた。息がつまって、胸が苦しくなったのである。
ラスコーリニコフは、なぜソーニャが自分に読むのをちゅうちょするのか、そのわけが多少わかっていた。しかし、そのわけがわかればわかるほど、彼はますますいらだって、ますます無作法に朗読を迫った。彼女はいま自分の持っているものを、何もかもさらけ出してしまうのが、どんなにかつらかったのだろう。それは彼にわかりすぎるほどわかっていた。彼女のこうした感情は実際むかしから、事によったらまだほんの子供の時分から、不幸な父と悲嘆のあまり気のふれた継母の傍で、飢餓に迫っている子供たちや、聞くにたえぬ叫声や
「多くのユダヤ
ここで彼女はまたことばを切った。またしても声が震えてとぎれるだろうという恥ずかしさを、予感したからである……
「イエス彼女に言いけるは、なんじの兄弟は
(ソーニャはさも苦しげな息をつぎ、句読ただしく力をこめて読んだ。それはさながら全世界に向かって、説教でもしているような風であった。)
「主よ、しかり! 我なんじは世に
彼女はちょっと朗読をやめて、ちらとすばやく彼の顔へ目を上げたが、大急ぎで自己を制し、さらに先を読み続けた。ラスコーリニコフは腰をかけたまま、その方をふり向こうともせず、テーブルに
「マリア、イエスのところに来り、彼を見て、その足もとに伏して言いけるは、主よ、なんじもし此処にいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。イエス彼女の
ラスコーリニコフは彼女の方をふり向いて、胸をおどらせながらその顔を見た。そうだ、はたしてそうだった! 彼女はすでにまぎれもなく本当の熱病にかかったように、全身をぶるぶる震わせていた。彼はそれを期待していたのである。彼女は偉大な前後
「イエスまた心を痛ましめて墓に至る。墓は
彼女はことさらこの四日ということばに力を入れた。
「イエス彼女に言いけるは、なんじもし信ぜば神の栄を見るべしと、われなんじにいいしにあらずや。ついに石を死せし者を置きたる所より取り除けたり。イエス天を仰ぎて言いけるは、父よ、すでにわれに
(彼女はさながら自分がまのあたり見たもののように、感激にふるえて
「……布にて手足をまかれ、顔は
「その時マリアと共に来りしユダヤ人イエスのなせしことを見て多く彼を信ぜり」
彼女はもうその先を読まなかった。また読めなかったのである。彼女は本を閉じて、つと椅子から身を起こした。
「ラザロの復活はこれだけです」と彼女はきれぎれに、きびしい調子でこう言うと、彼の方へ目を上げるのを恥じるかのように、わきの方へくるりと体を向けて、身動きもせずにじっと立っていた。彼女の熱病的な
「僕は用があって、その話に来たんだ」ラスコーリニコフは
こちらは無言で彼の方へ目を上げた。彼のまなざしはことに
「僕はきょう肉親を捨ててしまった」と彼は言った。「母と妹を。僕はもうあれたちのところへは行かないのだ。あっちですっかり縁を切ってきた」
「なぜですの?」とソーニャはどぎもを抜かれたように尋ねた。
先ほど彼の母と妹に会見したことは、自身でこそはっきりしないけれど、彼女に並々ならぬ印象を残していた。彼女は親子兄弟絶縁の報告を、ほとんど恐怖に近い気持で聞いた。
「今の僕にはお前という人間があるばかりだ」と彼は言い足した。「一緒に行こうじゃないか……僕はわざわざお前のところへ来たのだ。僕らはお互いにのろわれた人間なのだ。だから一緒に行こうじゃないか!」
彼の目は輝いた。『まるで半分きちがいだ!』とソーニャは考えた。
「どこへ行くんですの?」と彼女は恐ろしそうに尋ねて、思わず一歩あとへしさった。
「僕がどうして知ってるもんか? ただ同じ道づれだということが、わかっているだけだ。それだけはたしかに知っている――ただそれだけなんだ。目あては一つだ!」
ソーニャは彼をじっと見てはいたが、何一つわからなかった。彼女はただ彼がこの上なく、限りなく不幸だということだけ了解した。
「お前があいつらに話をしたって、誰一人わかってくれるものはない」と彼はことばを続けた。「ところが、僕はわかった。お前は僕にとって必要なんだ。だから、僕お前のところへやって来たんだよ」
「わかりませんわ……」とソーニャはささやいた。
「そのうちにわかるよ。お前だって僕と同じことをしたじゃないか。お前もやっぱり、踏み越えたんだよ……踏み越えることができたんだよ。お前は自分で自分に手をくだした。お前は一つの生命を滅ぼしたんだ……自分の生命を(それはどっちだって同じだからな!)お前は精神と理性で生きていける人間なんだよ、しかし結局
「なぜ? なぜそんなことばかりおっしゃるの!」彼のことばに怪しくとどろく胸を騒がせながら、ソーニャはそう言った。
「なぜだって? なぜといって、いつまでもこうしてはいられないからだ――これがそのわけなのさ。それに第一、子供みたいに泣いたり、神様が許さないなどとわめいたりしてないで、真剣に端的に分別しなくちゃならないんだよ! もし明日にでもお前がほんとうに病院送りになったら、いったいどうなると思う? 半きちがいの肺病やみは、やがて死んでしまうだろうが、子供はどうする? いったいポーレチカが身を滅ぼさずにすむと思う? お前は町の角々で、母親のために
「どうしたら、いったいどうしたらいいんでしょう?」ソーニャはヒステリックな泣き声をあげ、両手を、もみしだきながらくり返した。
「どうしたらいいかって? 破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。そして苦痛を一身に負うのだ! え? わからないかい? あとでわかるよ……自由と権力、ことに権力だ! 震えおののくうぞうむぞうに対して、
ソーニャは驚きのあまりぴくりと身を震わした。
「まあ、いったいあなたは誰が殺したのか、知っていらっしゃるの?」恐怖のあまり氷のようになり、けうとい目つきで相手を見つめながら、彼女はこう尋ねた。
「知ってる、だから言って聞かせるんだ……お前に、お前一人だけに! 僕はお前を選んだのだ。僕はお前のところへ許しを請いにくるんじゃない、ただ言いに来るだけなんだよ。僕はずっと前から、初めてお父さんがお前の話をした時から、僕はこのことを聞かせる人にお前を選んでいたのだ。リザヴェータがまだ生きてる時から、それを考えていたのだ。さよなら。手を出さないでくれ。では明日!」
彼は出て行った。ソーニャは気ちがいでも見るように、彼を見送っていた。けれど、彼女自身もまるで気ちがいのようであった。そして、自分でもそれを感じた。彼女はめまいがしていた。『ああ! あの人はどうしてリザヴェータを殺した下手人を知ってるのだろう? あのことばはどういう意味なんだろう? 恐ろしい!』けれどこの瞬間、そうした想念は彼女の頭に浮かばなかった。夢にも、夢にも浮かばなかった!……『ああ、あの人は恐ろしく不仕合せなのに違いない!……お母さんや妹さんを捨ててしまったって、なぜだろう? 何があったんだろう? そしてあの人は何をもくろんでいるのだろう? いったいあの人はわたしに何を言ったんだろう? あの人はわたしの足に
ソーニャは一夜を熱と悪夢の中に過ごした。彼女は時おりはね起きて、泣いたり、両手をもみしだいたりするかと思うと、また熱病やみのような眠りに前後を忘れた。そして夢にポーレチカや、カチェリーナや、リザヴェータや、福音書を読んだことや、それから彼……青ざめた顔をして、目を燃えるように輝かしているラスコーリニコフなどを見た。彼は彼女の足に接吻して、泣いている……おお、神よ!
右手のドア、ソーニャの部屋をゲルトルーダ・カールロヴナ・レスリッヒの住まいとへだてているドアの向こう側には、同じくレスリッヒ夫人の住まいに属する中間の部屋があって、もう長いこと空き間になっていた。それは貸しに出されているので、その広告が門口や、掘割に面した窓ガラスなどにはりつけてあった。ソーニャはずっと前から、この部屋には人が住まっていないものと思い込んでいた。ところが、その空き間のドアの傍には、スヴィドリガイロフ氏がその間ずっとたたずんで、息をこらしながら、立聞きをしていたのである。ラスコーリニコフが出て行ったとき、彼はしばらく立って考えたのち、
翌朝きっかり十一時に、ラスコーリニコフが警察の予審部へはいって行って、ポルフィーリイに取次ぎを頼んだ時、彼はあまり長く通してくれないのに、むしろ驚いたくらいだった。彼が呼ばれるまでには、少なくとも十分くらいたった。彼の目算によると、いきなり向こうから飛びかかって来なければならぬはずだった。それにもかかわらず、彼が控室に立っていると、見うけたところ、彼などになんのかかわりもなさそうな人々が、彼の傍をしきりにあちこちしていた。事務室らしい次の間には、幾人かの書記が控えて、書きものをしていたが、そのうちの誰一人として、ラスコーリニコフが何者でどういう人物なのか、そんなことはかいもく知らないらしかった。落ち着きのない疑わしげな目つきで、彼は周囲を見回しながら、その辺に誰か看守のような者がいはしないか、彼がどこかへ行ってしまわぬように監視を命ぜられた何かの秘密な目はないか、見つけ出そうとした。しかし、そんなものはいっこうなかった。彼はただこせこせと忙しげな事務の連中の顔と、ほかにいくたりかの人を見たばかりで、よしんば彼が今すぐ勝手にどこへ飛び出しても、誰一人それを問題にする者はなかった。で、もしあの謎のような昨日の男が――あの地からわき出したような幻がほんとうにいっさいのことを見、いっさいのことを知っているとしたら――いま彼ラスコーリニコフにこうして立って、悠々と待っているようなことを、させておくはずがない――こういう想念が、だんだん彼の頭の中に固まってきた。それに、彼が十一時ころになって、自分の都合でやっと足を運んで来るまで、のんべんだらりと待っているはずがなかろうじゃないか? してみると、あるいはあの男がまだ何も密訴していないのか……あるいはやっぱりなんにも知らないので、自分の目ではまるきり何も見なかったのか、二つに一つである(そうだ、どうしてやつに見ることができるものか?)としてみれば、きのう彼ラスコーリニコフの身に起こったいっさいのことは、またぞろ例のいらいらした病的な想像に誇張された幻影にすぎなかったのだ。こうした推測はまだ昨日、もっとも激しい不安と絶望のただ中に、彼の心中に固まりかけていたのである。今これらすべてのことを思い返し、新しい闘争の心構えをしながら、彼は突然自分の体が震えているのを感じた――あの憎んでも余りあるポルフィーリイを恐れて震えているのだと思うと、彼の心中には
「ああ、これは
ラスコーリニコフは、相手から目を放さないで、腰をおろした。
『こんな遠路をはるばると』だの、慣れ慣れしさの謝罪だの、tout court などというフランス語だの、――すべてこういったものは、特殊な徴候であった。『だが、この男はおれに両手を差し出しておきながら片手も握らせないで、うまくひっ込めてしまいやがった』こういった想念が彼の頭にうさんくさくひらめいた。二人は互いに様子をうかがい合ったけれど、双方の目が出会うやいなや、二人は稲妻のような早さで、それをそらすのであった。
「僕は届を持って来たんです……例の時計のことで……これなんですが、書式はこれでいいでしょうか、それともまた書き直さなくちゃいけないでしょうか?」
「なんですって? 届ですか? いいです、いいです、ご心配なく、それでけっこうです」ポルフィーリイはまるでどこかへ急いででもいるように、せかせかとこう言ったが、言ってしまってから届を手にとり、それに目を通した。「そうです、これでけっこうです。ほかに何もいりません」と彼は同じ早口でくり返して、紙をテーブルの上においた。
それから、一分ばかりたった時、何かほかのことを話しながら、またそれをテーブルから取り上げて、自分の傍の
「あなたは確かきのう僕に……あの……殺された老婆との関係を……正式に……尋ねたいと、おっしゃったようですね?」とラスコーリニコフはまた言いだした。
『ちょっ、なんだっておれは確かなんてよけいなことを入れたんだろう?』という考えが、電光のように彼の頭をかすめた。『ちょっ、またなんだっておれは、この確かを入れたことを、気にしてるんだろう?』とすぐにほかの考えが電光のようにひらめいた。
と、彼はふいに直覚した――彼の
「そう、そう、そうです! ご心配にゃ及びません! 時間はたっぷりあります、時間はたっぷりあります」テーブルのまわりをあちこち歩きながら、ポルフィーリイはつぶやいた。けれど、別になんの目的があるという様子もなく、窓の方へつかつかと行ったかと思うと、
その時彼のふとった小さな丸々した姿が、まりのようにあちこち飛んで行って、四方の壁や隅々からすぐはね返って来るのが、なんともいえず奇怪に感じられた。
「間に合いますとも、間に合いますとも!……ときに、煙草をおやりになります? お持ち合わせですかな? さあ、お一つ」と彼は紙巻煙草をすすめながら、ことばを続けた……「実は、今ここへお通ししておりますが、わたしの住まいはすぐそこの仕切り板の向こうにあるんです……官舎がですね、今は私宅におります。当分の間だけ。ちょっと修繕をしなくちゃならないもんですから。もうほとんどでき上がりましたよ……官舎ってものは、いやはや、ありがたいものですて――え? あなたどうお考えですな?」
「さよう、ありがたいものですよ」ほとんど
「ありがたいものです、ありがたいものです……」急に何かほかのことを考え出したような調子で、ポルフィーリイはこうくり返した。「さよう、ありがたいものです!」彼はふいにラスコーリニコフに視線を投げて、彼から二歩ばかりのところに立ち止まりながら、とうとうほとんど叫ぶような声で言った。この官舎はありがたいものだという馬鹿げたことばの反覆は、その俗悪な点からいって、彼がいま客の方へそそいでいるまじめな、意味ありげな、
しかし、それがラスコーリニコフの憤怒を、いやが上にもわき立たせた。で、彼はかなり不用意な冷笑的な挑戦を、もうがまんすることができなかった。
「ときに、どうでしょう」彼はほとんど不敵な目つきで相手を見つめ、その不敵さに一種の喜びを感じながら、ふいに問いかけた。「こういう場合には――あらゆる種類の検察官にとって――一種の司法的原則というか法律家的方法というか、そんなものがあるようですね。つまり最初は遠廻しにごくくだらないことか、それとも、よしまじめな問題にもせよ、まるで関係のない事から始めて、それでもって被
「すると、すると……あなたはなんですか、わたしが官舎の話をしたのも、やはりその、なにだと……え?」
こういって、ポルフィーリイは目を細め、ぱちりとまたたきした。何やら愉快そうな
彼はさっそくいきなり用件に取りかかろうと、席から立ち上がって、帽子をつかんだ。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ」断乎たる口調ではあったが、かなり
「とんでもない! いったいあなたは何をおっしゃるんです! 何をあなたに尋問することなんかありましょう?」ポルフィーリイは急に笑うのをやめて、調子も顔つきも改めながら、まるでめんどりが鳴くような声でせかせかと言い出した。「まあ、どうぞご心配なく」またしても四方八方へひょこひょこ歩き出したかと思うと、今度はふいにラスコーリニコフを席に着かせようと世話を焼いたりしながら、彼はあたふたやり出した。「時間はたっぷりありますよ、時間はたっぷりありますよ。それに、こんなことはなんでもありません! それどころか、あなたがとうとういらしってくだすったのを、非常に喜んでいるくらいです……あなたをお客様として迎えているんですからね。もっとも、さっきのいまいましい無作法な笑いに対してはロジオン・ロマーヌイチ、お許しを請わなくちゃなりません。ロジオン・ロマーヌイチ、たしかそうでしたね、あなたの
ラスコーリニコフは依然として腹立たしげに眉をしかめたまま、黙って相手のことばを聞きながら、じっと観察していた。もっとも、彼は腰をおろしたけれど、まだ帽子は手から離さなかった。「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしは自分のことを、いわば性格の説明として申し上げておきましょう」部屋の中を気ぜわしなげに歩きながら、相変わらず客と視線を合わすのをさけるような風で、ポルフィーリイはことばを続けた。「実はわたしは独身者で、社交界というものを知らない、名もない一介の人間です。しかもそれでいて、もうでき上がってしまった人間、固まってしまった人間で、もう種になりかかっているんです。で……で……で、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはお気づきかどうか知りませんが、わがロシアでは、とりわけこのペテルブルグの社会では、お互いにかくべつ深い知合いではないが、両方で尊敬し合っている二人の
ラスコーリニコフは帽子をおいたが、依然として無言のまま、まじめに眉をしかめながら、ポルフィーリイの空虚な、とりとめのない
「コーヒーは別に差し上げません、場所が場所ですから。しかし、五分やそこいら友人と対談して、気晴しをやるのがいけないというわけはありますまい」とポルフィーリイはのべつしゃべり立てた。「何しろ、こうしたいろんな職務上の仕事というやつは……ですが、あなた、わたしがこう始終あちこちと歩き回るのを、どうかお腹立ちにならんでください。失礼ですが、わたしはあなたの気を悪くしやしないかとはらはらしてるんですが、運動というやつはわたしにとって、なんとしても必要なんでしてね。年じゅう腰をかけどおしなもんですから、五分間でも歩き回れるのが、うれしくてたまらないんですよ……
ポルフィーリイはちょっと息をついだ。彼は少しも疲れる様子がなく、やたらにまくし立てた。無意味な空虚な文句を並べているかと思うと、急に何か謎めいたことばを漏らしたり、かと思うと、すぐまた無意味な饒舌に落ちてゆきながら、とうとうと
『やつ何か待ってでもいるんだろうか?』
「いや、実際あなたのおっしゃったことは、全く真理です」とまたもやポルフィーリイはさも愉快げに、並みはずれて気さくな様子でラスコーリニコフを見ながら(そのためこちらはぷるっと身震いして、一瞬間に心構えをした)、こうことばをついだ。「実際あなたが法律上の形式に対して、あの鋭い嘲笑を加えられたのは、ぜんぜん正鵠を穿っております。へ、へ! どうもあの(もちろん、全部ではないが)、意味深長な心理的方法というやつは、いやはや
「ええ、そのつもりでしたが……」
「でしょう、だから一つあなたに、いわば将来のご参考として――しかし、わたしは生意気にあなたをつかまえて、講義をするなんて思ってくだすっちゃ困ります。とんでもない、あなたはああいう堂々とした犯罪論を発表していらっしゃるんですからなあ! とんでもない、わたしはただ一つの事実としてちょっとした例をご参考に供するだけなんです――そこで、仮りにわたしが、たとえば甲なり乙なり丙なりを犯人と考えたとしましょう。で二つ伺いますが、その場合よしんば多少の証拠を手に入れたにせよ、時機の熟さぬうちに当人を騒がせる必要がどこにあります? もっとも、中には一刻も早く捕縛しなければならん相手もある。ところが、また中には別な性質の人間もありますよ、全く。そんなのに対しては、しばらくの間街を歩き回らしたっていいじゃありませんか、へ、へ! しかしどうやら、あなたはよくおわかりにならんらしいですね。じゃ、もう少しはっきり説明しましょう。たとえばですね、もしわたしがその男をあまり早くから未決へぶち込むと、それによって、わたしはその男に、いわば精神的支点を与える事になるかもしれませんから、へ、へ! あなたは笑っておいでですな? (ラスコーリニコフは笑おうなどとは考えてもいなかった。彼は唇を堅く結んで、燃えるような視線をポルフィーリイから放さず、じっと腰をかけていた)。しかし、実際ある種の連中に対しては、ことにそうなんですよ。人間は多種多様ですが、実地応用の方法は誰に対しても一つしかありません。たった今あなたは証拠といわれました。そりゃまあ、仮りに証拠は必要だとしてもいいですが、しかし証拠というやつは、あなた、大部分両方に
ラスコーリニコフは返事をしなかった。彼は始終おなじ緊張した表情で、ポルフィーリイの顔を見つめながら、真っ青な顔をして、身動きもせず腰をかけていた。
『けっこうなお説教だ!』彼は全身に寒さを覚えながら考えた。『こうなると昨日のように、猫が鼠をおもちゃにしてるどころの話じゃない。まさかこの男はおれに意味もなく自分の力を示して……助言してくれてるわけじゃあるまい。そんなへまをするには、この男少しりこうすぎるて……これには何かほかに目当てがあるんだが、いったいそれはなんだろう? ちぇっ、ばかばかしい、きさまはおれをおどかして、裏をかこうとしてるんだろう! ところが、きさまにはなんの証拠もないんだし、昨日の男だってこの世にいやしない! ただきさまはおれをまごつかせた上、早まっていらいらさせておき、その隙にぱっさりいこうという魂胆だろう。ご冗談でしょうよ、しくじるに決まってる、しくじるに決まってるとも! だがなぜ、いったいなぜ、これほどまでに入れ知恵をするんだろう?……おれの病的な神経をねらってでもいるんだろうか!……なあに、だめなこった、きさまがどんな小細工をしたって、しくじるに決まってるんだ……まあ、一つ見てやろうよ、きさまがどんな細工をしているか』
こう考えた彼は、恐ろしい測りしれぬ
「いや、お見受けするところ、あなたは本当になさらんらしい。そして、まだわたしが何か罪のない冗談でも並べているように、思っていらっしゃるらしい」ポルフィーリイはますます愉快そうな様子になり、満足のあまり絶えずひひひと笑いながら、こうわれとわがことばを引きとって、またもや部屋の中をぐるぐる回り出した。「そりゃもちろんごもっともなしだいです。わたしはもうこの風体からして、人に滑稽な感じしか起こさせないように、神様から創られてるんですからな。ずんぐり男ですよ。しかし、わたしはこう申し上げたいのです。もう一度くり返して申しますが、ロジオン・ロマーヌイチ、どうか老人の差し出口をお許しください。あなたはまだお若くて、いわば青春の花ともいうべき時期にある人です。だから一般に若い人の例に漏れず、人知というものを何より尊重しておいでになる。遊戯的な機知の発露や理知の抽象的な
「いや、どうかご心配なく」ラスコーリニコフはこう叫ぶと、だしぬけにからからと笑い出した。「どうかご心配なく!」
ポルフィーリイは彼に向かい合って立ち止まり、しばらく待っていたが、やがて続いて自分でも急にからからと笑い出した。ラスコーリニコフはその純発作的な笑いを急にぷつりと切り、長椅子から立ち上がった。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ!」彼はわなわなと震える足で、ようやく立っていたにもかかわらず、声高にきっぱりと言った。「僕はとうとうはっきりわかりました。あなたはあの老婆と妹リザヴェータの殺害者として、間違いなく僕に嫌疑をかけておられるのです。僕は自分の方として声明しますが、僕はもうずっと前から、そういう事にはあきあきしてしまいました。もしあなたが法律によって僕を調べる権利があると考えておられるのなら、どうか調べてください。捕縛するなら、捕縛なさい。しかし、僕を面と向かって
ふいに彼の唇は震え出して、双の目は狂憤に燃え、今まで押えていた声がりんりんと響き出した。
「許すわけにいきません!」と彼はだしぬけに叫ぶと、力いっぱい
「こりゃどうも、あなたはまた何をおっしゃる!」すっかりおびえ上がった様子で、ポルフィーリイは叫んだ。「あなた、ロジオン・ロマーヌイチ! え! しっかりなさい! いったいどうなすったんです?」
「許すわけにいきません!」とラスコーリニコフはもう一度叫ぼうとした。
「あなた、もう少し静かに! 人が聞きつけて、やって来るじゃありませんか! そうしたらなんと言います、考えてもごらんなさい!」ポルフィーリイは自分の顔をラスコーリニコフの顔の、すぐ傍へすり寄せながら、さも恐ろしそうにささやいた。
「許すわけにいきません、許すわけに!」とラスコーリニコフは機械的にくり返したが、急にこれも全くのひそひそ声になってしまった。
ポルフィーリイはすばやく身をひるがえして、窓をあけに駆け出した。
「新しい空気を入れなくっちゃ! そして、あなた、水でも少し上がるといい。何しろこれは発作ですからね!」
こう言って、彼は水をいいつけに戸口の方へ飛んで行こうとしたが、折よくすぐそこの片隅に、水のはいったびんがあった。
「さあお飲みなさい」びんを持ってラスコーリニコフの傍へとんで来ながら、彼はささやくように言った。「ちっとはよくなるかもしれません……」
ポルフィーリイの
「ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ! ほんとにそんな風にしていらっしゃると、自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますよ、ほんとうに、ええっ! ああっ! お飲みなさい! ね、少しでもいいからお飲みなさい!」
彼は無理やりに水のはいったコップを彼の手に持たせた。こちらは機械的にそれを唇まで持って行ったが、ふと気がついて、嫌悪の表情を浮かべながら、テーブルの上に置いた。
「そうです、あれは発作だったんですよ! そんなことをしていると、あなた、また以前の病気をぶり返してしまいますよ」とポルフィーリイは親身の同情を帯びた調子で、例のめんどりが鳴くような声をたて始めたが、しかしまだなんとなく途方に暮れたような顔つきをしていた。「ああ! あなたはなぜそう自分の体を大切になさらないんです? 昨日もラズーミヒンがやって来ましてね――もっとも、わたしの性分が皮肉でよくないってことは、自分でも異存ありませんさ、異存ありませんとも。しかし、あの連中はそれからどんな結論を引出したと思います!……ああ、やりきれない! あの男、昨日あなたの帰られた後でやって来て、一緒に食事をしましたが、先生しゃべるわしゃべるわ。わたしはただ両手を広げて、あきれ返るばかりでしたよ! やれやれまあまあ……と思いましてね! いったいあの男はあなたの使者で来たんですか? まあ、あなた、おかけなさい、ちょっと腰をおろしてください、お願いですから!」
「いや、僕の使者じゃありません! だが、あの男がお宅へ伺ったことも、なんのために伺ったかということも、ちゃんと知っていました」とラスコーリニコフはきっぱりと答えた。
「知っておられたんですって?」
「知っていました。で、それがどうしたというんです?」
「ほかでもありません、ロジオン・ロマーヌイチ。わたしはあなたのご行跡は、まだこれどころじゃない、大したものを知っておりますよ。何もかも承知しております! もう日が暮れて夜近いころに、あなたが貸間を捜しにお出かけになって、呼鈴を鳴らしたり、血のことをきいたりして、職人や庭番どもを煙にまかれたことまで、ちゃんと知ってるんですからね。そりゃその時のあなたの精神状態はわたしだってわかっております……が、それにしても、あんな事をしていたら、それこそ自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますぜ、全くのところ! 頭がぐらぐらしてきますよ! あなたの内部にはさまざまな侮辱――第一には運命から、次には警察の連中から受けた侮辱のために、高潔な
ラスコーリニコフは腰をおろした、
「さよう、ちょうどそれと同じような心理的事件が、われわれの扱った裁判事件の中にありましたよ。そういう病的な事件がね」とポルフィーリイは早口に続けた。「やはりある男が自分で自分に殺人罪を塗りつけてしまったんですが、しかもその妄想の程度がひどいんですよ。自分の見た幻覚を引っ張り出して、事実は具陳する、その場の状況は詳述するという風で、みんな誰も彼もことごとく煙にまかれてしまっている、とまあどうでしょう! その男は全く偶然に意識せずして、多少殺人の原因になったとはいうものの、全く多少という程度にすぎないんです。ところがその男は、自分が殺人の導因を与えたと知ってから、急にくよくよし出し、頭の調子が変になり、いろんな妄想に悩まされ出して、すっかり気ちがいみたいになってしまいましてね、あげくの果てに自分を犯人と思いこんだわけなのです! しかし、結局大審院が事件を
一瞬間、ラスコーリニコフの周囲のものが、ぐるぐると回り出した。
『いったい、いったいいまもこの男は嘘をついてるんだろうか?』という想念が彼の頭にひらめいた。『それはあり得ない、あり得ないことだ!』と彼はこの想念を追いのけるようにした。彼はこの想念が自分をいかなる狂憤におとしいれるかわからない、またそうした狂憤の結果、発狂さえしかねないということを、あらかじめ感じたからである。
「あれは熱に浮かされてしたのじゃありません、あれは正気だったのです!」ポルフィーリイの戦術を見抜こうと、あらん限りの理知の力を緊張させながら、彼はそう叫んだ。「正気だったのです、正気だったのです! おわかりですか?」
「いや、わかっていますよ、聞いていますよ! あなたは昨日も、熱に浮かされちゃいないとおっしゃって、なんだか特別それを強調なすった! あなたの言われそうなことは、みなよくわかっていますよ! ええ、どうしてどうして!……しかし、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、一つこれだけでも聞いてください。もし仮りにあなたが、じじつ、本当に罪があるとか、あるいはあの忌まわしい事件になんらかの関係があるとかすれば、ね、あなたは何もかも夢中でやったのじゃない、完全に意識してやったのだなんて、冗談じゃない、そんなことを自分で言い張ったりなさるでしょうか? しかも、格別それを強調する、強情なくらいに強調する、ねえ、いったいそんなはずがあるでしょうか? ねえ、全く、そんな理屈ってあるものでしょうか、考えてもごらんなさい! わたしに言わせると、全然その反対です。だって、もしあなたに何か後ろめたいことがあれば、あなたはどうしたって『たしかに夢中だった!』と主張なさらなけりゃならんはずです。そうじゃありませんか? ね、そうでしょう?」
この問いの中には、何かしら悪ごすい感じのするものが響いていた。ラスコーリニコフはかがみ込んでくるポルフィーリイを避けて、長椅子の背へ身をもたせた。そして無言のまま、思い惑うようにじいっと相手を見つめていた。
「それからまた、あのラズーミヒン君のことにしてもそうです。つまり、あの男が昨日わたしのところへ話しに来たのは、自分の意志から出たことか、それとも、あなたの
ラスコーリニコフは、けっしてそんなことを主張した覚えがなかった。悪寒が彼の背筋を走って通った。
「あなたは嘘ばかり吐いていらっしゃる」彼は病的な微笑に唇をゆがめながら、弱々しい声でのろのろと言った。「あなたはまたしても、僕の戦術をすっかり見抜いている、僕の答えを全部あらかじめ承知している、というような顔がして見せたいんですね」自分でももうことばの選択に対して、当然の注意を払っていないと感じながら、彼はこう言ってしまった。「あなたは僕をおどかそうとしていらっしゃるんです……でなけりゃ、ただもう僕を
彼はそう言いながら、いつまでもひた押しに相手をじっと見つめていた。と、ふいにまた限りなき憎悪が彼の目にひらめいた。
「あなたは嘘ばかりいってるんです!」と彼は叫んだ。「あなたは自分でもよく知っていらっしゃるでしょう――犯人にとって一番いいごまかしの方法は、隠さないでもいいことはできるだけありのままを言うことなんです……できるだけ。僕はあなたを信用しない!」
「あなたはなんというひねくれ者だ!」ポルフィーリイはひひひと笑った。「あなたにゃ手こずってしまいますよ。どうもあなたには何か
ラスコーリニコフの唇はわなわなと震え出した。
「そうです、願ってるんです。ですから、はっきり言いますがね」ラスコーリニコフの手を
「それがあなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれをご存じなんです? なんのためにそんなことに興味をお持ちになるんです? してみると、あなたは僕を監視しておられるんだな。そしてそれを見せつけようとしてらっしゃるんだ!」
「とんでもない! それはみんなあなたから、あなた自身から聞いたことじゃありませんか! あなたは興奮のあまりご自分で、わたしやほかの人たちに、先走りしてお話しなすったのに、お気がつかないんですね。ラズーミヒン君――ドミートリイ・プロコーフィッチからも、昨日いろいろ興味のある詳細な話を聞きましたよ。いや、あなたはわたしの話の腰をお折りになった。で、続けて言いますがね、あなたはその
ラスコーリニコフはぴくりと全身を震わせたので、ポルフィーリイは明瞭すぎるほど明瞭にそれを見て取った。
「あなたはやはり嘘をいってるんです!」と彼は叫んだ。「あなたのねらっていることは、何かわからないけれど、あなたは嘘ばかりついているんです……さっきあなたが言われたのは、そんな意味じゃなかった。ぼく誤解なんかするはずがない……あなたは嘘をついてるんです!」
「わたしが嘘をついてる?」とポルフィーリイはかっとしたらしく、ことばじりを押えたが、例の愉快らしい
ラスコーリニコフは
「一口に言えば」彼は立ち上がりながら、その拍子にポルフィーリイを少しばかり突きのけ、どこまでも主張するような調子で声高く言った。「一口に言えば、あなたは僕を絶対に嫌疑の余地のないものと思っていらっしゃるのか、あるいはそうでないのか、それを僕は知りたいんです。どうか聞かしてください。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、はっきりと決定的に言明してください、さあ早く、今すぐ!」
「いやはや、こりゃどうもやっかい千万な! やれやれ、あなたを相手にするのは実にやっかいですなあ」とポルフィーリイは愉快らしい、
「くり返して言いますが」とラスコーリニコフは狂暴な勢いで叫んだ。「僕はもうこの上我慢ができません!……」
「何がです? 未知の不安というやつがですか?」とポルフィーリイはさえぎった。
「毒口をきくのはよしてください! 僕はもういやだ!……もういやだと言ってるんですよ!……我慢ができない、いやです!……わかりましたか! わかりましたか!」また
「まあ静かに、静かに! 人に聞こえるじゃありませんか! わたしはまじめにご注意しますが、自分というものをだいじになさい。わたしは冗談言ってるのじゃありませんぞ!」とポルフィーリイはささやくような声で言ったが、今度はさっきのような女じみた善良さも、おびえたような表情もその顔に浮ばなかった。それどころか、いま彼は
けれど、それはほんの
「僕はおめおめと人に苦しめられなんかしませんぞ!」と彼は急にさっきと同じ調子でささやいたが、命令に従わずにいられない自分自身を、苦痛と憎悪の念とともに稲妻のように意識した。そして、その意識のために、一そう激しい狂憤のとりこになったのである。「僕を逮捕してください、家宅捜索をしてください。しかし、いっさいの行動を正式にやってもらいましょう。人をおもちゃにするのはよしてください! そんな失敬なまねは承知しません……」
「いや、形式のことはご心配に及びませんよ」ポルフィーリイは以前の狡猾そうな微笑を浮かべ、満足そうな様子さえ見せて、ラスコーリニコフの狂憤に見とれながら、そのことばをさえぎった。「わたしは今日あなたを家庭的にお招きしたので、つまりまあ、ぜんぜん友人関係なんですよ!」
「僕はあなたの
彼は帽子をつかんで、戸口の方へ行きかけた。
「ときに、一つ思いがけない贈物があるんですが、見たかありませんかね?」またもや彼の肘の少し上をつかんで、戸口で引止めながら、ポルフィーリイはひひひと笑った。
彼は目に見えてますます愉快げな、遊戯的な気分になって行った。そのためにラスコーリニコフはすっかり前後を忘れてしまった。
「思いがけない贈物とはなんです? どんなものだ?」彼はふいに立ち止まって、おびえたようにポルフィーリイを見やりながら尋ねた。
「思いがけない贈物は、そら、あすこに、ドアの向こうのわたしの住まいの方にいますよ。へ、へ、へ! (と彼は自分の官舎へ通ずる、仕切り壁に設けたしまった戸口を指さした)。逃げて行かないように、
「いったいなんです? どこに? 何ものです?……」
ラスコーリニコフはそのドアへ歩み寄り、あけようとしたが、ドアには鍵がかかっていた。
「かかってるんです、さあ鍵!」
と言いながら、ほんとうに彼はポケットから鍵を取り出して、それをラスコーリニコフに見せた。
「きさまはのべつ嘘ばかりついてやがる!」ラスコーリニコフはもうこらえきれなくなって、怒号を始めた。「でたらめを言うな、このいまいましい道化め!」彼はこうわめきながら、ドアの方へあとずさりしてはいたものの、いささかも
「おれは何もかもみんなわかったぞ!」と彼はポルフィーリイの傍へ駆けよった。「きさまは嘘ばかりついてるんだ、おれに尻尾を出させようと思って、人をからかってるんだ……」
「いや、もうそのうえ
「嘘をつけ、何があるもんか! 人を呼ぶなら呼ぶがいい! きさまはおれの病気を知ってるものだから、人を夢中になるまでからかって、尻尾を押えようと思ってるんだ。それがきさまの魂胆なんだ! そんな手はだめだ、証拠を出せ! おれは何もかもわかったぞ! きさまにゃ証拠なんかありゃしない。ただザミョートフ式の愚にもつかぬ、くだらない邪推があるだけなんだ!……きさまはおれの性格を知ってるもんだから、おれを夢中になるほどおこらした上、ふいに牧師や陪審員などを引張って来て、どぎもを抜くつもりだったんだろう……きさまはその連中を待ってるんだろう? おい? 何を待ってるんだ? どこにいるんだ? 出して見せろ!」
「どうも、あなた、こんなところに陪審員なんかいてたまるもんですか! 人間ってとんでもない妄想を起こすもんだ! そんな風じゃ、あなたのおっしゃるように、正式にやることも何もできやしませんよ。あなたはその辺のことをなんにもご存じないんだ……正式にはどこへも逃げやしませんよ。今に自分でおわかりになりますよ!……」と、ドアの方へ耳をそばだてながら、ポルフィーリイはつぶやいた。
実際この瞬間、次の間のすぐ戸口のところで、何かしら物音らしいものが聞こえた。
「あっ、来たぞ」とラスコーリニコフは叫んだ。「きさまはあいつらを呼びにやったんだな!……きさまはあいつらを待ってたんだろう? きさまは思わくがあったんだ……さあ、そいつらをみんなここへ出せ。陪審員でも、証人でもなんでも好きなものを……さあ出せ! おれも用意ができてるぞ! 用意が!」
けれども、その時奇怪なことが持ち上がった。それこそラスコーリニコフはもちろん、ポルフィーリイでさえも、こんな大団円は予期することができなかったくらい、普通の場合では思いがけないでき事である。
後になってラスコーリニコフが、この瞬間のことを思い出すたびに、すべてが次のような形で浮かんでくるのであった。
ドアの向こう側で聞こえていた物音は、とたんにたちまち大きくなって行き、ドアが細目に開かれた。
「どうしたんだ、いったい?」とポルフィーリイはいまいましそうに叫んだ。「前からちゃんと注意しといたじゃないか……」
その瞬間、答えはなかったが、察するところ、ドアの向こうには四、五人の人がいて、誰かを突きのけようとしているらしかった。
「おい、どうしたんだよ?」とポルフィーリイは不安そうにくり返した。
「未決囚のニコライをつれてまいりました」という誰かの声が聞こえた。
「いけない! 向こうへ連れて行け! もうしばらく待つんだ!……なんだってあいつこんな所へのこのこ来たんだ! だらしのない!」戸口の方へ飛んで行きながらポルフィーリイはこうどなった。
「でも、こいつが……」とまた同じ声が言いかけたが、急にとぎれてしまった。
二秒ばかり(それより長くはなかった)、戸の外では本物の格闘が続いた。それからふいに、誰かが誰やらを力まかせに突き飛ばしたらしい気配がした。と、続いて誰か真っ青な顔をした男が、いきなりポルフィーリイの書斎へつかつかとはいってきた。
男は見るからに奇妙な様子をしていた。彼は真っ直ぐに前の方を見ていたが、誰の顔も目に入らないような風である。目には決心の色がひらめいていたが、同時に、まるで刑場にでも引かれて行く人のように、死のような青みがその顔をおおい、血の気を失った白い唇は軽くおののいていた。
それは、平民らしい服装をして、頭を短かくおかっぱに刈りこみ、妙に乾いたような細い顔の輪郭をした、やせぎすで中背の、まだいたって若い男だった。思いがけなく突き飛ばされた男は、彼のあとから第一番に部屋へ飛び込んで、その肩をつかまえた。それは看守だった。がニコライは手をぐいとしゃくって、またもや振りほどいてしまった。
戸口の所には、いくたりかの物見だかい連中が集まった。あるものは、部屋の中まではいりこもうとしていた。以上のことはほとんど一瞬時に起こったのである。
「あっちへ行け、まだ早い。こっちから呼ぶまで待っておれ!……なんだって先へ連れてくるんだ?」とポルフィーリイはやや度を失った形で、いまいましくてたまらないというようにつぶやいた。
ニコライはいきなりぱたりと
「なんだおまえ?」とポルフィーリイは驚いてこうどなった。
「悪うございました! あれはわっしの仕業なので! わっしは人殺しでございます!」とふいにニコライは、いくらか息をはずませてはいたが、かなり高い声で言った。
十秒ばかりの間、沈黙が続いた。一同はあきれてものが言えないというような風だった。看守さえ思わず一歩後ろへたじろいで、もうニコライの傍へ寄ろうともせず、機械的に戸口の方へあとずさりして棒立ちになった。
「なんだって?」つかの間の
「わっしは……人殺しでございます……」ほんの心もち無言でいた後、ニコライはまたくり返した。
「なんだって……お前が!……どうして……誰を殺したのだ?」
ポルフィーリイは明らかに
「アリョーナ・イヴァーノヴナと、妹さんのリザヴェータ・イヴァーノヴナを、わっしが……殺しました……
彼はその間ずっと膝をついていた。
ポルフィーリイはややしばらく、思いめぐらすように立っていたが、急にまたおどり上がり、呼ばれもしないのに集まった証人連に手を振って見せた。こちらはすぐに姿を消してドアはぴったりしまった。それから彼は片隅に立ったまま、けうとい目つきでニコライをながめているラスコーリニコフをちらと見て、その方へ足を向けようとしたが、急にまた立ち止まり、彼を見やったと思うと、すぐさま視線をニコライの方へ移した。それから、またラスコーリニコフとニコライを見比べたが、急に夢中になったようなようすで、またもやニコライの方へ飛んで行った。
「なんだってきさまは魔がさしたなんかって、出しゃばったまねをするんだ?」と彼はほとんど憎々しげにどなりつけた。「お前に魔がさしたかささないか、おれはまだ尋ねちゃおらんじゃないか、さあ言え……お前が殺したのか?」
「わっしが
「ちょっ! なんで殺したんだ?」
「斧でございます。前から用意しておいたんで」
「ちょっ! 先ばかり急いでやがる! 一人でか?」
ニコライは問いがわからなかった。
「一人で殺したのか?」
「一人なんで。ミーチカにゃ罪はありません。あの男はまるっきりこれにかかわり合いがないんで」
「ミーチカのことなんかあわてて言わなくてもいい! ちょっ!……じゃ、お前はどうして、どうしてお前はあの時階段を走っておりたのだ? だって、庭番がお前たち二人に出会ったじゃないか?」
「あれはみんなの目をくらますためなんで……そのためにその時……ミーチカと一緒に走っておりたんで」ニコライはせき込みながら、前から用意しておいたらしくこう答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」と憎々しげにポルフィーリイは叫んだ。「腹にもないことを言ってるんだ!」と彼はひとり言のようにつぶやいたが、ふいにまたラスコーリニコフが目についた。
察するところ、彼はニコライのことにすっかり気を取られて、ちょっとの間ラスコーリニコフのことをほとんど忘れていたらしい。で、いま急にわれに返ると、きまり悪そうな様子さえ見せた……
「ロジオン・ロマーヌイチ! 失敬しました」と彼はラスコーリニコフの方へ飛んで行った。「それじゃいけません……どうぞ、失礼ですが……あなたはここにおられても仕様がありませんから……わたし自身も……ごらんのとおり、どうもこういう思いがけない贈物なんでして!……さあどうぞ!……」
彼はラスコーリニコフの手をとって、戸口を指さして見せた。
「あなたもどうやら、こんなこととは予期なさらなかったようですね?」とラスコーリニコフはもちろん、まだ何一つはっきりわからないなりに、もうこの間にかなり元気づいて問い返した。
「あなただって思いがけなかったでしょう。ほうら、手が、こんなに、震えている! へ、へ!」
「それにあなたも震えていらっしゃいますね、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ」
「わたしも震えていますよ。あまり意外だったもんですからね!……」
彼らはもう戸口のところに立っていた。ポルフィーリイは、ラスコーリニコフが出て行くのを、じれったそうに待っていた。
「ところで、思いがけない贈物は、結局、見せてくださらないんですか?」だしぬけにラスコーリニコフは、あざけるような調子で言った。
「とはおっしゃるが、そのご当人の口の中じゃ、歯の根が合わずがちがちいってるじゃありませんか、へ、へ! あなたも皮肉な人ですな! ではまた、いずれ改めて」
「僕はもうこれでさようならだろうと思いますが!」
「何事も神さまの
事務室を通り抜けるとき、ラスコーリニコフは、大勢のものがじっと自分の方をみつめているのに心づいた。控室の群衆の中で彼は目ざとく、あの時夜中に警察へ行けといったあの家の庭番二人を見分けた。彼らは立って、何かを待っていた。けれど、彼が階段へ出るが早いか、ふいにまた自分のうしろに、ポルフィーリイの声を聞きつけた。振り返ってみると、ポルフィーリイがはあはあ息を切らしながら、追っかけて来るのであった。
「もう一言だけ、ロジオン・ロマーヌイチ。ああしたいろんなことは、みんな神さまの思召しですが、しかしやっぱり正式に、なんとかお尋ねしなくちゃならんことになるでしょう……そういったわけで、またお目にかかれるはずですな、そうでしょう!」
こう言って、ポルフィーリイは微笑を含みながら、彼の前に立ち止まった。
「そういったわけですな」と彼はもう一度言い足した。
彼はもっと何か言いたかったのだが、なんとなく、言い出しにくいらしい、とも想像ができた。
「いや、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、どうか先ほどのことは何分お許しを願います……少々とりのぼせたものですから」ちょっとからいばりがしてみたいという欲望を抑えかねるほど、もうすっかり元気を回復したラスコーリニコフは、こんな風なことを言いかけた。
「どうしまして、どうしまして」とほとんどうれしそうな調子で、ポルフィーリイは引きとった。「わたしもご同様ですよ……わたしはどうも皮肉な性分でしてな、
「そして、徹底的にお互い同士を認識しあいますかね?」とラスコーリニコフは引きとった。
「そう、徹底的にお互い同士を認識しあいましょう」とポルフィーリイはおうむ返しに言った。そして、目を細めながら、まじめくさって彼をじろりと見た。「これから命名日の祝に?」
「葬式です」
「ああ、そうだったっけ、葬式にね! まあ、お体を大切に、お体を」
「どうも、僕の方からはなんと申し上げたらいいやら、見当がつきません!」もう階段をおりかけたラスコーリニコフは、こう相手のことばを受けたが、ふいにくるりとポルフィーリイの方へ振り返って、「まあ、今後いっそうのご成功をお祈りする、とでも申しましょうか。だが、なんですね、あなた方の職務も実に
「なぜ滑稽なんです?」同じく帰りかけていたポルフィーリイは、たちまち耳をそばだてた。
「だって、そうじゃありませんか。ほら、あの可哀想なミコールカ(ニコライ)を、あなたはずいぶん責めさいなんだことでしょうね。心理的に、あなた一流のやり方で、あの男が白状するまで、ね。昼も夜も『きさまは人殺しだ、きさまは人殺しだ……』と言っていじめつけなすったに相違ない。ところで今度あの男が白状してしまうと、あなたはまた、『嘘つけ、きさまは人殺しじゃない! きさまにそんなことのできるはずがない! 腹にもないことを言ってやがる!』なんて体じゅうの骨がみしみしいうほど痛めつけようとなさる。ねえ、これでも滑稽な職務じゃないでしょうか?」
「へ、へ、へ! 今わたしがニコライに『腹にもないことばかり言ってやがる』といったのに、ちゃんとお気がついたんですね?」
「どうして気がつかないでいられます?」
「へ、へ! なかなか敏感ですね、実に敏感だ。なんにでも気がおつきになる! 全くユーモアの天分を持っていらっしゃる! 滑稽の真髄を把握なさるんですからな……へ、へ! 作家の中ではゴーゴリが、こういう天分をきわめて豊富に持っていたそうですな?」
「そう、ゴーゴリがね」
「さよう、ゴーゴリがね……じゃいずれまた」
「いずれまた……」
ラスコーリニコフは真っ直ぐに家路へ向かった。彼はすっかり頭が混乱して、何が何かわからなくなってしまったので、家へ着くが早いか、いきなり長椅子に身を投げて、やっと体を休めながら、いくらかでも考えをまとめようと努めながら、十五分間ばかりじっとしていた。ニコライのことに至っては、とかくの判断に取りかからないことにした。彼は激しい衝動を受けたのを感じていた。ニコライの自白の中には、今の彼にはどうしても理解することのできない、説明の仕様もない、驚くべきものがひそんでいる。しかし、ニコライの自白は厳然たる事実であった。この事実の結果は、彼にとってたちまち
とはいえ、それはどの程度だろう? 状況は段々はっきりしてきた。ポルフィーリイとの先刻の一幕を、ざっと荒筋だけ拾って思い出したとき、彼は恐怖のあまり、もう一度
ポルフィーリイは自分の作戦を、ほとんど全部見せてしまった。もちろんそれは冒険だったに相違ないが、とにかく見せてしまった。もし実際ポルフィーリイに何かあれ以外の計画があったとすれば、それをも出して見せたに相違ない(ラスコーリニコフはどうもそう思われて仕方がなかった)、いったいあの『思いがけない贈物』とはなんだろう? ただの
彼は頭を垂れて膝に
彼はなんとなく、少なくも、きょう一日だけはほとんど絶対に安全と見なしていい、そういう予感がした。ふいに心の中でほとんど喜びに近い感じを覚えた。彼は少しも早くカチェリーナのとこへ行きたくなった。葬式にはむろん遅れてしまったが、法事には間に合うだろう。そうすれば、そこですぐソーニャに会える。
彼は立ち止まって、ちょっと考えた。病的な微笑がその唇に押し出された。
『今日だ! 今日だ!』と彼は口の中でくり返した。『そうだ! どうしても今日だ! きっとそうしなくちゃ……』
彼がドアをあけようとしたとたん、急にそのドアがひとりでに開き始めた。彼は思わず震え出し、あとへ飛びしさった。ドアはそろそろと静かに開いて、ふいに人の姿が現われた――あの大地からわき出たような昨日の男である。
男はしきいの上に立ち止まって、無言のままラスコーリニコフをちらと見た後、部屋の中へ一足踏み込んだ。彼は昨日と寸分違わぬ身なりをし、同じような格好をしていたが、顔と目つきには著しい変化が生じていた。今彼はなんとなくしょげた様子で、しばらくじっとたたずんでいたが、やがてほっと深いため息をついた。もしこのうえ掌を片頬におしあてて、首を一方に傾けさえすれば、まるで百姓女そのままという形だった。
「なんの用です?」ラスコーリニコフは生きた心地もなくこう尋ねた。
男はしばらく黙っていたが、急に低く腰を曲げて、ほとんど床に届くほどの会釈をした。すくなくとも、右手の指は床に触れた。
「君どうしたんです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「わっしが悪うございました」と男は低い声で言った。
「何が?」
「悪い
二人はたがいに顔を見合せていた。
「いまいましくなったんでございます。あの時あなたがあそこへおいでになって、たぶん酔っておられたのではありましょうが、庭番に警察へ行けといったり、血のことを尋ねたりなさいましたね、それをぼんやり酔っ払いだと思って、うっちゃっておいたのが、いまいましくなりましたんで。あんまりいまいましくって、夜の目も寝られないようになりました。で、わっしゃあなたの所番地を覚えておりましたんで、昨日ここへ来て尋ねましたようなわけで!……」
「誰が来たんです?」ラスコーリニコフは瞬間的に記憶を呼びさましながら問い返した。
「わっしでございます。つまり、あなたにゃ申し訳のない事をしましたんで」
「じゃ、君はあの家にいるんですか?」
「へい、あすこなんで。わっしゃあの時みんなと一緒に、門の下に立っておったんですが、それとももうお忘れになりましたかね? わっしどもはもうずっと昔からあすこに仕事場を持っておりますんで。わっしどもは毛皮屋商売の町人で、家で注文仕事をしておりますんですが……なんともいえないほどいまいましくなりまして……」
ふいにラスコーリニコフは、一昨日の門下の情景がはっきり思い出された。あの時そこに庭番のほか、まだいくたりかの男と、女も二、三人立っていたことが、思い合わされた。あの時いきなり警察へ突き出せといった一人の声を思い起こした。その顔は思い出せないし、いま会っても気がつくまいけれど、自分がその時そっちを向いて、何やら答えたことが頭に残っている……
してみると、これで昨日のあの恐怖は、すっかり解消したわけである。今かんがえてみてさえ何よりも恐ろしいのは、こんなつまらないことのために、危うく破滅に
「じゃ、今日ポルフィーリイに話したのは君なんですね……僕が行ったということを話したのは?」思いがけない想念に打たれて、彼は叫んだ。
「ポルフィーリイって?」
「予審判事ですよ」
「わっしが話しました。あのとき庭番が行かなかったので、わっしが出かけました」
「今日?」
「あなたのお見えになるほんのちょっと前でございます。そして、あの人があなたをいじめてるところを、すっかり聞いておりましたよ」
「どこで? 何を? いつ?」
「なに、やはりあすこでございますよ。あの仕切り壁のかげで。わっしゃ、ずっとあすこにおりましたんで」
「えっ? じゃ、君があの思いがけない贈物だったんだな? どうしてそんなことができたんだろう? ああ!」
「実はこういうわけなんで」と町人は語り始めた。「わっしゃね、庭番たちがわっしのいうことを聞かないで、もう時刻が遅いから、かえって今ごろなにしに来たと叱られる、なんかって、警察へ行こうとしないんでね、もういまいましくって、夜の目もおちおち寝られないようになりましたので、いろいろと調べにかかりました。昨日すっかり調べ上げたんで、きょうは出かけて行ったわけでございます。初め行ったとき、あの方はお留守でした。一時間ほどしてから行ってみたら、今度は会ってくださいませんでした。三度目に行って、やっと通されましたんで。そこでわっしは何もかも、ありのまま申し上げました。するとあの方は、部屋の中をあちこち歩き出しなすって、
「君の前でニコライを尋問したのかい?」
「あなたを送り出すと、わたしもすぐに出してしまって、それからニコライの尋問を始めました」
町人はことばを切って、ふいにまた指が床に着くほど頭を下げた。
「どうかわっしが
「神様が許してくださるさ」とラスコーリニコフは答えた。
彼がこのことばを発するやいなや、町人は今度は床まででなく、帯の辺まで頭を下げて、ゆっくりくびすを転じ、そのまま部屋から出て行った。『何もかも両端に
『さあ、これからまだ闘うんだ』彼は階段をおりながら、憎々しげな薄笑いを浮かべてそう言った。その憎悪は自分自身に関するものであった。彼は
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ドゥーネチカとプリヘーリヤの親子を相手に、運命を左右するような談判をしたその翌朝は、さすがのルージンも酔いのさめたような気がした。彼がこの上なく不快に感じたのは、実際できてしまったこととはいいながら、昨日のうちはまだ夢みたいな、ありうべからざるもののように思っていたあのでき事を、しだいにとり返しのつかぬ既定の事実として、受け入れなければならなくなってくることだった。傷つけられた自負心の黒い
『まさか家具のために、わざわざ結婚するわけにもいくまい!』とルージンは腹の中で歯ぎしりした。が、それと同時に、彼の頭にはもう一度死にもの狂いの希望がひらめいた。『いったい、いったいあの話はほんとうにもうあれきりとり返しのつかぬほど
『失策はまだこればかりではない。あの二人に金をまるでやらなかったことだ』レベジャートニコフの小部屋へ、沈んだ気持で帰って来ながら、彼はそう考えた。『なんだって、くそいまいましい、おれはこうユダヤ人じみてしまったのかなあ? それじゃまるで先の見とおしがなかったというものだ! おれはあの二人にも少し不自由さしておいて、おれを神様のように思わしてやろう、とこう考えていたのだが、どっこい、あの始末だ!……ちょっ……いや、もしおれが二人にこの間じゅうから
ルージンはまたもや歯がみをしながら、自分で自分をばかと言った――もちろん、腹の中だけで。このような結論に到達すると、彼は出がけより二倍も毒々しい、いらいらした気持で帰ってきた。カチェリーナの部屋で行なわれている法事のしたくは、いくらか彼の好奇心をひきつけた。彼はもう昨日のうちから何かの拍子で、この式の話を聞いていたのみか、なんだか自分も招待されているような覚えさえあった。が、自分の用にまぎれて、ほかの事はいっさい聞き流していたのである。墓地の方へ行っているカチェリーナの留守を預って、食事の用意にかかったテーブルのまわりを、忙しそうにしているリッペヴェフゼル夫人のところへ、彼は急いで尋ねに行き、法事が盛大にとり行なわれるはずで、同じ家に住んでいるものがほとんど全部招待されていることを知った。その中には、故人と一面識もない人まではいっていて、カチェリーナと
レベジャートニコフはどうしたわけか、この朝ずっと家に引きこもっていた。この男とルージンの間には一種奇体な、しかしある点から見れば自然な関係が、ちゃんとできあがっていた。ルージンはここに移って来たそもそもの日から、むしょうやたらに彼を
もちろん彼は、レベジャートニコフが恐ろしく単純な俗人であるということを、早くも見わけてしまった。しかし、この事実も、いっこうにルージンの迷いを解きもしなければ、元気をつけもしなかった。たとえ進歩主義者が一人のこらず、同じような馬鹿者であると確信しても、なお彼の不安は静まらなかったに相違ない。実のところ、そうした教理とか、思想とか、
このレベジャートニコフはどこかの勤め人だが、
もっとも、レベジャートニコフはごくのお人よしだったにもかかわらず、自分の同居人であり昔の後見人であるルージンが、こっちでもやはりいやでたまらなくなりかかっていた。それは双方からとつぜん相互的に起こったことなのである。レベジャートニコフがいかに単純でも、ルージンが自分をだましていることも、内心ひそかに軽蔑していることも、『実際はけっしてそんな人間じゃない』ということも、だんだん少しずつ見抜いたのである。彼はルージンにフーリエの教義や、ダーウィンの理論などを説いて聞かそうと試みたが、こちらは特に近ごろになって、なんだかあまり冷笑的な態度でそれを聞くようになったのみか、最近は悪口までつくようになった。それはほかでもない、ルージンが本能的に相手の正体を見抜くようになったからである。つまり、レベジャートニコフは平凡な薄馬鹿であるばかりか、もしかすると嘘つきで、自分のサークルでさえ、少し重立ったところとはなんの関係もなく、ただまた聞きで少しばかり知っているにすぎない。のみならず、話のしどろもどろになり勝ちなところから見ても、自分の宣伝事業すらろくすっぽ知らないらしいから、暴露家などにはどうしてどうしてなれそうもない! ついでにちょっと言っておくが、ルージンはこの一週間半ばかり(ことに最初の間は)、レベジャートニコフから妙な賛辞を受けていた。といって、つまり別に抗議をしないで、黙って聞いていたのである。たとえば、間もなくどこか
この朝、どういうわけか、五分利つきの証券をなん枚か両替してきたルージンは、テーブルに向かって紙幣や債券の束を勘定していた。今までほとんど金というものを持ったことのないレベジャートニコフは、部屋の中を歩き回りながら、この
レベジャートニコフはルージンをつかまえて、新しい特殊な『共産団』の建設という、
「いったいあすこじゃ、あの……あの後家さんのとこじゃ、どんな法事があるんです?」レベジャートニコフのことばを一ばんかんじんなところでさえぎりながら、ルージンはふいにこう問いかけた。「まるでご存じないような口ぶりですね。つい昨日わたしがそのテーマについて話をした上、すべてこうした宗教的儀式に関する思想を発展さしたじゃないですか……それに、あの女はあなたも招待したじゃありませんか。わたしは、聞きましたよ。あなたはご自分で昨日あの女とお話しなすったし……」
「僕はまさかあのばかな
「わたしもご同様行かないつもりです」とレベジャートニコフは言った。
「そりゃそうだろうとも! 自分が手を下してなぐったんだからね。気がさすのはわかりきってるさ。へへ!」
「誰がなぐったんですって? 誰を?」とレベジャートニコフは急にどきっとして、顔まで赤くした。
「なに君がですよ、カチェリーナ・イヴァーノヴナをね、ひと月ばかり前に、どうです! 僕は聞いたんだからね、昨日……つまりこれが君らの信念というやつなんですよ!……それじゃ婦人問題の議論だって怪しいもんだ、へ、へ、へ!」これで気休めになったらしく、ルージンはまたそろばんをはじきにかかった。
「そんなことは皆でたらめの
「へ、へ、へ!」とルージンは意地の悪そうな笑い方を続けた。
「あなたは自分が腹が立って、むしゃくしゃするものだから、わざと突っかかってくるんでしょう……あんなのくだらない話で、婦人問題なんかにはけっして少しもふれちゃいません! あなたの解釈は間違っています。わたしはこう考えたんですよ。もし婦人が万事につけて、体力までも男子と同等だとすれば(このことはもう肯定されていますよ)、そうすればしたがって、あの場合だっても平等でなくちゃならんはずです。もっとも、後でよく考察した結果、そんな問題は本質的に存在すべきでない、と論結しました。なぜかといえば、
「というと、つまり
「いや、けっして唾を引っかけるのじゃありません、ただ抗議をするんです。わたしは有益な目的をいだいて行くんです。開発と宣伝を間接に助けうるわけなのです。人は誰でも開発し、宣伝する義務があります。それも
「そのテレビヨーワってのは、君がいつか三度目の自由結婚をやったとかいってた、あの女じゃありませんか?」
「いや、厳密に判断すれば、やっと二度目ですよ! しかし、よしんば四度目であろうと、十五度目であろうと、そんなことはくだらない枝葉の問題ですよ! わたしなんか、いつか自分の両親が死んだのを悔んだことがあるとすれば、それはもういうまでもなく今です。もしもまだ両親が生きていたら、それこそプロテストでもって、うんと心胆を寒からしめてやったものをと、そんなことをなん度空想したかもしれないくらいです! わざとでもそうしたはずですよ……子供はいわゆる『切り離されたパンのきれ』で、親のふところへ戻りっこないなんて、ちょっ、そんな旧式の消極主義はだめです! わたしは親たちに思い知らせてやったんだがなあ! びっくりさせてやったんだがなあ! まったく、誰もいないのが残念ですよ!」
「びっくりさせるためにですか? へ、へ、それはどうでもお好きなように」とルージンはさえぎった。「それより、一つお尋ねしたいことがある。あなたはあのなくなった役人の娘を知ってるでしょう、あの貧相なひ弱そうな女! あの娘のことでみんなが言ってるのは、全く事実なんですかね、え?」
「それがいったいどうしたんです? わたしに言わせると、つまりわたし一個の確信によると、あれは女としてもっともノーマルな状態ですよ。なぜあれがいけないんでしょう? つまり distinguons(特性)なんですものね。現在の社会では、そりゃもちろん、全然ノーマルとはいえません。現在は強制的なものですからね。しかし未来の社会では完全にノーマルなものになります。なぜなら、自由行為なんですもの。それに、今だってあの娘はその権利を持っていたんです。あの娘は苦しんだが、それはあの女の基金、つまり資本で、あの娘はそれを自由にする権利があったんですよ。もちろん、未来の社会では、基金も不必要になるでしょうが、あの娘の役割は別の意味を付せられるようになり、整然とした合理的な条件を与えられるでしょう。ところで、ソフィヤ・セミョーノヴナ一個に関しては、現在わたしは彼女の行為を社会制度に対する勇敢な、具象化された
「だが、この家からあの娘をいびり出したのは、ほかでもない君だってことを聞きましたぜ?」
レベジャートニコフは猛烈な勢いで怒り出した。
「そらまた中傷だ!」と彼は絶叫した。「真相はまるで、まるで違っています! それこそ話が違いますよ! それはみなカチェリーナ・イヴァーノヴナが何もわからないもんだから、あの時でたらめを言ったんです! それに、わたしはけっしてソフィヤ・セミョーノヴナをねらったことなんかない! わたしは全くそういう野心なしに、ただもうあの女に
「じゃ、共産団へでもはいれとすすめたんですかね!」
「あなたは始終ひやかしてばかりいらっしゃる。しかも、それがはなはだまずいんですよ。失礼ながらご注意しときます。あなたはなんにもおわかりにならないんです! 共産団にはそんな役割はありません。共産団はそんな役割をなくするために設立されてるんですよ。共産団になると、この役割は現在の本質をすっかり変えてしまいます。そして、ここで愚劣だったものも、あちらでは賢明なものになる。ここで、現在の状態では不自然なものも、あちらではきわめて自然なものになる。万事はすべて、人間がいかなる状況の中に、いかなる環境の中にいるか、で左右されるものです。すべては、環境のいかんにかかっているので、人間そのものは問題じゃないのです。ソフィヤ・セミョーノヴナとわたしは、今でも円満に交際していますが、これで見ても、彼女がまだ一度もわたしを自分の敵だとか、侮辱者だとかいう風に思わなかった、立派な証拠じゃありませんか。わたしは彼女に共産団入りをすすめていますが、ただしそれはぜんぜん、ぜんぜん別な基礎の上に立つ共産団です! あなた何がおかしいんです? 今われわれは従前のものよりいっそう広い基礎の上に、自分自分の特殊な共産団を創立しようとしているのです。われわれは信念の点からいって、さらに一歩進んでいるのです。われわれはさらに多くを否定するものです! もしドブロリューボフが棺の中からよみがえってきたら、わたしは彼と一論争したでしょう! ベリンスキイなんか一ぺんでやっつけてやりますよ! がまあさしあたり今のところ、ソフィヤ・セミョーノヴナの啓発を続けますよ。あれは実に実に美しい性質の持主です!」
「ふん、つまりその美しい性質を利用しようってんでしょう、え? へ、へ!」
「けっして、けっして! けっしてそんな! まるで反対です!」
「ふん、まるで反対もすさまじい! へ、へ、へ! よく言ったもんだね!」
「ほんとうですというのに! いったいどんな理由があって、あなたに隠す必要があるんでしょう、まあ考えてもごらんなさい! それどころか、わたしは自分でも不思議なくらいなんですよ――わたしとさし向かいになると、彼女はなんだかとくべつ固くなって、恐怖に近いほど純潔なはにかみやになるんですからね!」
「それで君が大いに啓発してるわけなんでしょう……へ、へ! まあ、そういう
「まるで違います! まるで違います! あなたはまあなんてがさつに、なんて愚劣に――いや、これは失礼――啓発という語を解釈していらっしゃるんでしょう! あなたはなあんにもおわかりにならないんだ! ああ、驚いた、あなたは実にまだ……できていないんですねえ! 我々は女性の自由というものを求めているのに、あなたの頭にあるのはただ……わたしは女性の純潔とか羞恥とかいう問題は、それ自体無益な偏見だと思うから、頭から問題にしないことにしていますが、彼女がわたしに対して純潔な態度を持しているのは、十分に十分に認めてやります。なぜって、そこに彼女の意志と権利の全部があるからです。もちろん、もし彼女が自分からわたしに向かって『あなたと一緒になりたい』と言えば、わたしは自分を非常な幸運児と考えるでしょう。わたしはあの娘がとても気に入ってるんですからね。しかし今のところ、少なくとも今までは、わたし以上に礼儀ただしくいんぎんに彼女に対し、彼女の価値に尊敬を示した人間は、かつて一人だってありゃしませんよ……わたしは待っているんです、望みをかけてるんです――ただそれだけです!」
「君それより何かあの女に贈物をしたらいいでしょう。僕は
「今も言ったことだが、あなたはなあんにもわからないんですね! そりゃもちろん、彼女の境遇はそういったものに違いないです。しかし――これは別問題ですよ! ぜんぜん別問題ですよ! あなたはてんからあの女を侮蔑していらっしゃる。あなたは侮蔑に値すると誤認した事実だけを見て、人間そのものに対してまで、人道的な見方を拒もうとしていらっしゃるんです。あなたはまだあの女がどんな性質を持っているか、よくご存じないんだ! ただ一つ非常に残念なのは、彼女が近ごろどうしたのか、すっかり読書をやめてしまって、わたしのところへも本を借りにこなくなったことです。もとはよく借りてたんですがね。それからもう一つ残念なのは、
「それはまたいったいなんのことです」
「最近われわれ仲間でこういう問題を討論したんです。つまり共産団の団員は、他の団員の部屋へ、それが男であろうと女であろうと、いつでもはいる権利があるや否やの問題ですが……結局、あるということに決議されました……」
「じゃ、もしその時その男なり女なりが、欠くべからざる要求の遂行中だったら、どうするんです、へ、へ!」
レベジャートニコフは腹を立ててしまった。
「あなたはいつもそんなことばかり! あなたは唯もうそんなことばかり、そんないまいましい『要求』なんてことばかり言っていたいんですね!」と彼は憎々しげに叫んだ。「ちょっ、わたしはあなたに
「そしてより高尚なんでしょう、より高尚なんでしょう、へ、へ、へ!」
「より高尚とはいったいなんですか? 人間の活動を定義する意味において、そんな表現はわたしにはわからないです。『より高尚』とか、『より寛大』とかいうような、そんなことはことごとく無意味です、愚劣です、わたしの否定している古い偏見にとらわれたことばです! 人類にとって有益なものはすべて高尚なんです! わたしはただ有益という一語を解するのみです! まあ、いくらでもひひひ笑いをなさい。しかしそれはそうなんですから!」
ルージンはむしょうに笑った。彼はもう勘定をすまして金をしまっていた。けれど、その中のいくらかは、なぜかそのままテーブルの上に残しておいた。この『下水溜めの問題』は、下劣きわまる性質を有しているにもかかわらず、もう幾度となく、ルージンとその若い友人の間で、不和と反目の原因になっていた。何よりもばかげているのは、レベジャートニコフがむきになって腹を立てると、ルージンはそれをいい腹いせにしていることだった。ことにいま彼は、特別にレベジャートニコフを怒らしてみたかったのである。
「あなたは昨日の失敗が
「まあ、それよりこういうことを聞きたいんですがね」とルージンは高飛車な調子でいまいましそうに言った。「君にできるかしらん……いやそれより、こういった方がいいかな――君はほんとうに今いった若い娘とそれだけ親密なんですか? なら、今すぐちょっとここへ、この部屋へ呼んでもらいたいんですがね。もうみんな墓地から帰ったらしい……なんだか騒々しい足音が聞こえてきたから……僕は、一つあの女に会って話したいことがあるんだけれど、あの娘とね」
「あなたいったいなんの用で?」とレベジャートニコフはびっくりして尋ねた。
「なに、ちょっと用があるんでね。僕は今日明日にもここを立つつもりだから、ちょっとあの女に知らせておきたいことがあるんですよ……もっとも君もその話の間ここにいてさしつかえありませんよ。いや、むしろいてもらいたいくらいだ。でないと、君はどんなことを考えるかわかりゃしないからね」
「わたしはけっして何も考えやしませんよ……ただちょっと聞いてみただけですよ。もし用があるんでしたら、あの女を呼び寄せるくらい造作もないこってす。すぐに行って来ましょう。が、ご安心なさい、あなたのじゃまなんかしませんからね」
はたして五分ばかりたつと、レベジャートニコフはソーネチカを連れて帰ってきた。ソーニャはさも驚いたらしい様子で、いつものくせでおどおどしながらはいってきた。彼女はこういう場合いつもおどおどして、新しい顔、新しい知己を極端に恐れるのであった。以前まだ子供の時分からそうだったのが、このごろではいっそうひどくなっていた……ルージンは『優しくいんぎんに』彼女を迎えたが、そこにはなんとなく浮わついたなれなれしさがあった。もっともそれは、ルージンの意見によると、彼のように名誉もあれば重みもある男が、彼女ごとき年の若い、ある意味において興味のある女に対するには、ふさわしいものなのであった。彼は急いで彼女を『元気づかそう』と努めながら、自分とさし向かいにテーブルに着かせた。ソーニャは腰をおろし、あたりを見回して――レベジャートニコフから、テーブルの上においてある金に、それからまたちらとルージンに目を移した。そして、まるで
「あのラスコーリニコフは、あすこにいますかね? 来ていましたかね?」と彼はささやくように尋ねた。
「ラスコーリニコフ? いましたよ。それがどうしたんです? ええ、あすこにいますよ……いまはいって来たばかりです。わたしは見ましたよ……それがどうしたんです?」
「いや、だからこそ僕は特にここに残って、われわれと一緒にいてくれたまえと頼むんですよ。僕があの……娘さんと二人きりになってしまわないようにね。話はくだらないことだけれど、それがためにどんな
「あ、わかりました、わかりました!」とレベジャートニコフは急に察しがついた。「そうだ、あなたはその権利がある……もっとも、わたし一個の信ずるところによると、むろんあなたの心配はちとおおげさすぎますがね、しかし……それでもあなたには権利がある。よろしい、わたしは残りましょう。ここの窓の傍に立っていて、あなたのじゃまをしないようにします……わたしの意見では、あなたはその権利があります……」
ルージンは長椅子へ戻って、ソーニャの向い側に腰をおろし、じっと穴のあくほど彼女を見つめていたが、ふいに、恐ろしくしかつめらしい、いくらかいかついくらいの顔つきをした。それは『お前だって何か変なことを考えるんじゃないよ』とでもいうような風だった。ソーニャはすっかりまごついてしまった。
「第一に、ソフィヤ・セミョーノヴナ、あなたのお母さんにあやまっていただきたいんです……確かそうでしたね? カチェリーナ・イヴァーノヴナは、あなたにとってお母さん代わりですね?」とルージンは大いにしかつめらしい、とはいえ、かなり愛想のいい調子で口をきった。
彼がきわめて
「ええ、そのとおりでございます。そのとおりですわ。母がわりなので」とソーニャは早口に、おどおどした調子で答えた。
「ところで、実はわたしはやむを得ない事情のために、失礼しなければならないので、そのことをお母さんにお断わりしてくださいませんか。せっかくご親切に招待してくだすったのですが、僕はお宅のお茶の会に……いや、法事に出られなくなったんで」
「は……そう申します……今すぐ」ソーネチカはあわただしく椅子からとび上がった。
「まだそれだけじゃないんですよ」ルージンは彼女がうすぼんやりで作法を知らないのを見、にやりと笑いながら、彼女を押し止めた。「あなたは私をよくご存じないんですね、ソフィヤ・セミョーノヴナ。わたしがこんなつまらない、自分一人に関したことで、あなたのような方をわざわざお呼び立てしてご迷惑をかけるなんて、そんなことを考えてくだすったら困ります。わたしの目的はもっと他にあるんですよ」
ソーニャは急いで腰をおろした。テーブルの上におきっ放しにしてある灰色(二十五ルーブリ)や
「わたしは昨日ふと通りがかりに、お気の毒なカチェリーナ・イヴァーノヴナと、一言二言口をきき合ったんですが、その一言二言でも、あの人が不自然な状態におられることを承知するのに、十分なくらいでした――もしこうしたいい方ができるとすればですね……」
「そうでございます……不自然な」とソーニャはあわててあいづちを打った。
「あるいはもっと簡単に、もっとわかりやすく言えば――病的状態ですな」
「はあ、もっと簡単に、わかりやすく……そうですわ、病気なのですわ」
「そうですよ。そこでわたしは、あのひとのさくべからざる運命を見通して、人道的な感情――そのう、いわば同情の念に堪えないので、何かお役に立ちたいと思うのです。どうやらあの気の毒千万な家族一同は、今もうあなた一人を命の綱にしているようですな」
「失礼でございますが」と急にソーニャは立ち上がった。「昨日あなたは母に年金がいただけるかもしれないと、お話しになったそうでございますね? で、母はもう昨日からわたしをつかまえて、あなたが年金のおりるように骨折ってくださるって、そう申しておりました。いったいそれは本当でございましょうか?」
「いや、けっして。ある意味からいうと、そんなことはばかげているくらいですよ。わたしはただ服職中に死んだ官吏の未亡人に支給される、一時金のことをそれとなしにお話ししたまでです――それもひきがあればという話なんですよ――ところが、たしかあなたのご
「そうでございますわ、年金のことなんか……というのも、つまりあのひとが信じやすい、いい人だからでございますの。人がいいために、なんでも本当にするのでございます。そして……そして……そして……そして……頭があんな風な……そうですの……では、ごめんくださいまし」とソーニャは言って、また出て行きそうに立ち上がった。
「失礼ですが、あなたはまだすっかりお聞きにならないんですよ」
「はあ、すっかり伺いませんでしたわ」とソーニャはつぶやいた。
「ですから、おかけなさいよ」
ソーニャは恐ろしくどぎまぎして、また三度めに腰をおろした。
「あのひとが不仕合せな幼い子たちをかかえて、ああしている様子を見ると、わたしは――今もお話しした通り――何か力相応なことで、お役に立ちたいと思うんです。つまり力相応のことで、それ以上じゃありませんがね。たとえば、あのひとのために
「はあ、けっこうでございますわ……きっと神様があなたを……」じっとルージンを見つめながら、ソーニャはあいまいな調子でいった。
「できますとも。しかし……それはまたあとで……いや、今日でも始めようと思えば始められることです。晩にお目にかかって、ご相談の上、いわゆる基礎を作ることにしましょう。そうですな、七時ころにここへ、わたしのところへ来てください。多分アンドレイ・セミョーヌイチも、われわれの仲間にはいってくれるでしょう……しかし、ここに一つ前もって、ようく申し上げておかなければならないことがあるんです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、つまりそのためにわざわざあなたをお呼び立てして、ご迷惑をかけたわけなんです。ほかでもありませんが、わたしの意見はこうです――金をカチェリーナ・イヴァーノヴナの手へ渡すのはいけません、第一危険ですからね。その証拠は――今日のあの法事です。いわば明日の日なくてはならぬパンの一きれもなければ……はきものとかその他、何もかも不自由な身の上でありながら、今日はやれヤマイカのラム酒だの、やれマデイラの赤ぶどう酒だの、やれ……コーヒーだのと買い込むんですからな。わたしは通りすがりにちょっと見ましたよ。ところが明日はまた、パンの一きれのことまで、あなたの細腕にかかって来る始末でしょう。それはもうばかげた話ですよ。だからその義金募集にしても、わたし一個の考えによると、あの不幸な未亡人には金のことは知らさないで、ただあなただけに含んでいてもらうようにしなければなりません。わたしのいう通りでしょう?」
「わたしにはよくわかりません。でも、母があんなのはただ今日だけなんですの……何分生涯に一度きりのことですから……母はもうちゃんと供養がしたい、立派にあとを祭りたい、法事がしたいの一心でして……でも、母はたいへん賢い人なんですの。もっとも、それはもうどちらでもおよろしいように。わたしほんとうに、ほんとうに……あの人たちも皆あなたに……神様もあなたを……そして父のない子供たちも……」
ソーニャはしまいまで言い終わらず、泣き出した。
「さよう。では、そのお含みで。ところで、さしむき当座のために、わたし一個人として分相応の額を、とりあえずお納めください。それにつけて、くれぐれもお願いしますが、わたしの名は出さないでください。さあ……自分にもその、いろいろ心配があるので、これだけしかできませんが……」
こう言って、ルージンは十ルーブリ紙幣を念入りにひろげ、ソーニャに差し出した。ソーニャは受け取ると、ぱっと顔を赤くして、おどり上がった。そして何やらもぞもぞ言いながら、急いで別れの
「わたしは何もかも聞きました、何もかも見ました」特に最後のことばに力を入れながら、彼はこう言った。「あれは実に高潔です。いや、そうじゃない、わたしは人道的と言おうと思ったんです! あなたは感謝を避けようとなさいましたね、わたしは見ましたよ! 実を言えば、わたしは主義として個人的慈善には同感できない、なぜならば、慈善は悪を根本的に絶滅しないばかりでなく、かえってそれを培うようなものだからです。がそれでも、あなたの行為を見て満足を感じたことを、白状しずにいられません――そうです、大いにわが意を得たりです」
「なあに、つまらんことですよ!」と、いくらか興奮した様子で、何かレベジャートニコフの方をうかがうようにしながら、ルージンはつぶやいた。
「いや、つまらなかありません! あなたのように、昨日の事件で侮辱され、憤慨させられていながら、同時に他人の不幸を考えることのできる人――そういう人は……たとえ自分の行為で社会的に過失を犯しているにもせよ――それでもとにかく……尊敬に値いしますよ! わたしはね、ピョートル・ペトローヴィッチ、あなたにこんなことができようとは、思いもよらなかったですよ。まして、あなたの物の見方から推してゆけばね、ああ! あなたの物の見方が、どれくらいあなたのじゃまをしていることでしょう! たとえば、あの昨日の失敗が、どんなにあなたを興奮させていることか」とお
「それはほかでもない、君のありがたがる自由結婚なんかして、
彼は何かしら非常に気がかりなことがあって、考え込んでいる様子だった。
「子供? あなたは子供の問題にふれましたね」進軍ラッパを聞きつけた軍馬のように、レベジャートニコフはぶるっと身震いした。「子供――これはもっとも重大な社会問題です。それはわたしも同感です。しかし、子供に関する問題は別様に解決されねばなりません。ある人々は子供というものを家庭の暗示として、根本から否定しています。が、子供のことはあとで話すことにして、今は
ルージンはそれを聞きながら、ひひひと笑った。しかしかくべつ身を入れている様子はなかった。それどころか、ろくすっぽ聞いてもいなかった。彼は実際なにか他のことを考えていたのである。とうとうレベジャートニコフもそれに気がついた。ルージンは興奮の
いったいどうしたわけでカチェリーナの混乱した頭に、こうした無意味な法事の計画が生まれたのか、その原因を明確に説明するのはむずかしいことである。実際そのために、マルメラードフの葬儀費用として、ラスコーリニコフからもらった二十ルーブリなにがしのうち、ほとんど十ルーブリ近くの金が注ぎ込まれたのである。事によったら、カチェリーナは間借り人一同、わけてもアマリヤ・イヴァーノヴナ(リッペヴェフゼル)に、故人が『彼らと比べてけっして劣らなかったばかりか、もしかすると、ずっとすぐれていたかもしれない』、したがって、彼らの誰一人として、故人を見下す権利を持っていないということを思い知らせるために、『型の如く』彼の供養をするのが、故人に対する義務だと考えたのかもしれない。あるいはまたそこには特別な貧者の誇りが、何より影響していたのかもしれない。この心理のために多くの貧民は、ただもう他人に『ひけをとらない』ために、他人に『うしろ指をさされない』ために、最後の力をふり絞って、今の生活習慣であらゆる人々に必要かくべからざるものとなっている社会的儀式などに、なけなしの貯金をはたいてしまうのである。それからまたカチェリーナは、世の中のすべてから見放されたような気のする今この時、これを機会として、『とるに足らぬけがらわしい間借り人たち』に、彼女が『世の中のしきたりや接待の仕方』を知っているばかりでなく、第一こうした境遇を送るために育てられたのとはまるで違う『立派な、貴族といってもいいくらいな大佐の家庭』に人となったので、自分で床を掃いたり夜中に子供のぼろを洗濯したりするように、しつけられてきたのではないということを、見せつけてやりたいと思った――こういう解釈も真実に近いような気がする。こうした
酒類は複数で現わすように、いろいろ種類があったわけでもない。マデイラ酒も同様である。それは誇張にすぎないが、しかし酒はあった。ウォートカ、ラム酒、リスボンぶどう酒などで、品質は思いきり下等なものながら、量はいずれも十分にあった。食い物の方は、聖飯のほかに二、三の料理があったが(その中にはプリンも交じっていた)、それはみなリッペヴェフゼルの台所から運ばれたのである。その上に食後の茶とポンス酒のために、サモワールが一時に二つも用意された。買出しの方はカチェリーナ自身がどういうわけか、リッペヴェフゼル夫人のところに
いったいカチェリーナの性分は、誰でも彼でも手当たりしだいの人をつかまえて、この上もなく立派な輝かしい色に塗り上げ、人によってはきまり悪くなるほど性急に
実際、何もかも立派に準備ができた。テーブルはさっぱりとクロースでおおわれた。食器、フォーク、ナイフ、杯、コップ、
それからいま一つの不快な事情も、カチェリーナをいらだたせる一部の原因をなしていた。ほかでもない、葬式の場には墓地までついてきたポーランド人をのけると、招かれた間借り人たちが誰一人顔を出さなかったくせに、法事には、つまり振舞の方には、ごくつまらない貧乏たらしい、まるで人並みでないようなかっこうをしたやくざな連中が、ぞろぞろやってきたことである。しかも、彼らの中で少しは年功もあり、地位もあるような連中は、申し合せたように、みんなすっぽかしてしまった。たとえば、間借り人の中で一ばん地位のありそうな、ピョートル・ペトローヴィッチ・ルージンなどが、顔を出していなかった。しかもカチェリーナは昨日の晩、世界じゅうの人を向こうに回して、つまりアマリヤだの、ポーレチカだの、ソーニャだの、ポーランド人だのをつかまえて、あの高潔無比で寛大この上もない紳士は、もと彼女の先夫の友人だった人で、彼女の父の家に出入りしたこともあり、広く各方面に縁故があるので、彼女に相当な年金がさがるように、あらゆる手段を講じてやると約束してくれたと、さんざんふいちょうしたのである。ここで注意しておくが、カチェリーナはよし他人との関係や、状況を自慢するようなことがあっても、それはいっさいなんの利害観念も利己的打算もあるのではなく、全くの無心無欲で、いわば感情のあふれ出るままに、ただもう人のことをよく言いたい、そして相手に一段の価値を添えたいという、そうした喜びから出ていたのである。ルージンに続いては、多分『そのまねをした』のだろう『あのいやなやくざ者のレベジャートニコフ』も顔を出さなかった。この男などはいったい自分をなんと心得ているのだろう? この男こそほんのお慈悲で招待してやったのではないか。それもルージンと同じ部屋に住んで、その知合いでもあるので、招待しないのも具合が悪かったからというまでのことだ。それから、とうのたった娘を連れているやせた夫人も来なかった、それはアマリヤの貸間へ来てから、やっと二週間にしかならないのに、マルメラードフ一家の部屋で――ことに故人が酔っ払って帰って来た時に――起こる騒ぎや叫び声に対して、もうなん度か苦情を持ち込んだことがある。この話はむろんもうとっくにアマリヤを通じて、カチェリーナの耳にはいっていた。というのは、彼女がカチェリーナと口論して、家族全部を追い出してやるとおどしたついでに、お前さん一家が『お前さんたちなど足もとにも及ばぬ立派な間借り人』に迷惑をかけて困ると、ありったけの声でわめいたことがあったからである。それでカチェリーナはいまわざわざ、自分など『足もとにも及ばぬ』この夫人と娘を招待したのである。ことにこれまで偶然出会うたびに、その夫人が高慢らしく顔をそむけていたのだから、なおさらのことである――つまり、彼女はその夫人に、『自分たちは考え方も感情もあなた方より高尚で、恨みを忘れて招待する』ということを思い知らせ、またカチェリーナがこうした生活に慣れた人間でないことを、見せつけてやろうというのであった。この点は食事の間に、亡父の知事
要するに、出席したのはただポーランド人と、脂じみた
一口に言えば、カチェリーナはわれともなく常にもまして尊大な、むしろごうまんといってもいいくらいの態度で、一同を迎えなければならなかった。中でも二、三のものには、まずいかつい目つきでじろじろ見回した後、高飛車に着席を請うた。カチェリーナはどういうわけか、すべての不参者に対する責任はことごとくアマリヤが負うべきものと考えたので、急にひどく彼女にぞんざいな態度を取り出した。すると、こちらはすぐにそれを
「何もかもこのかっこう鳥のせいでございますよ。わたしが誰のことを言ってるかおわかりになりまして? あの女のことですよ、あの女の!」とカチェリーナはおかみの方をあごでしゃくって見せた。「まあ、あれをごらんなさい。あんな大きな目をして、わたしたちであの女のことを話してると感づいたんですよ。でも、なんのことだかわからないものだから、目の玉ばかりむき出してるんですよ、ちょっ、ふくろうだ! は、は、は!……ごほん、ごほん、ごほん! いったいあの女はあの帽子がどうだというんだろう! ごほん、ごほん、ごほん! あなた気がおつきになりまして? あの女はね、しじゅう自分がわたしを保護してるので、この席に出るのはわたしにとって光栄なのだ、とこういう風に皆さんに思われたくってたまらないんですよ。わたしはあの女をしっかりした人だと思ったものですから、少しは気のきいた人たちを、つまり故人の知合いだけを招待してくれと頼んだのに、まあごらんなさい、なんて連中を引っ張ってきたんでしょう! なんだか道化みたいな者ばかり! 汚らわしいったらありゃしない! ちょっと、あの薄ぎたない顔をした男をごらんなさい。二本足を生やしたかさぶたのお化けじゃありませんか! それからあのポーランド人たち……は、は、は! ごほん、ごほん、ごほん! 誰一人、誰一人、あんな者を一度もここで見た人はないんですよ。わたしだって、あとにも先にも見たことはありゃしない。ねえ、いったいなんだってあんな連中がやって来たんでしょうね。本当にお尋ねしたいくらいですよ。お行儀よく並んですわってること。
その時またもやこの笑いは絶え入るような咳にさえぎられ、それが五分も続いた。ハンカチには血の
「まあどうでしょう、わたしはあの女に、あの奥さんと娘を呼んでくれるようにって(誰のことかおわかりになるでしょう)、いわばごくデリケートな使者を頼んだんですよ。何しろそういう場合には、それこそデリケートな態度で、うんと
ソーニャはさっそく大急ぎで、みんなに聞こえるように苦心しながら、自分が当人に代わってこしらえ上げて、しかもその上に修飾を施したよりぬきの鄭重なことばづかいで、ルージンの謝辞を彼女に伝えた。それからまた、ルージンがじきじき差し向かいで用件の話もしたり、今後とるべき方法について打合せもしたいしするから、暇ができしだいさっそくお訪ねするという、伝言をも申し添えた。
ソーニャは、この報告がカチェリーナの心をやわらげ、落ち着かせるばかりでなく、その自尊心を喜ばせ、かつ何よりもその誇りを満足させるにちがいないということを、よく承知していた。彼女はラスコーリニコフの傍に腰をおろすと、あわただしく彼におじぎをして、ちらと好奇の視線を投げた。もっとも、それから後はずっとしまいまで、彼の方を見ることも口をきくことも、妙にさけるようにしていた。彼女はカチェリーナのきげんをとるために、その顔ばかり見ていたが、なんとなく放心したような様子だった。彼女もカチェリーナも、着物の持ち合わせがないために、喪服をつけていなかった。ソーニャは何やら
「こういうわけですからね、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたがこんなていたらくなのもおいといなく、こんな心ばかりのおもてなしをこころよく受けてくださいましたのを、格別ありがたく存じているのでございますよ」と彼女はかなり大きな声で言い添えた。「もっとも、あの気の毒な主人とああまで親しくしてくだすったればこそ、お約束を守ってくださいましたこととは存じますが」
それから彼女はもう一度ごうぜんと品位にみちた態度で、客一同を見回したが、ふいにとくべつ主婦らしい心づかいを見せながら、テーブルごしにつんぼの老人の方へ向いて、『焼肉をあがりませんか、リスボン酒はおつぎしましたかしら?』と大きな声で問いかけた。老人は返事をしなかった。隣席の人たちが面白半分に傍からつついたりしたけれど、何を問われたのか長いこと合点がゆかなかった。彼は口をぽかんとあけたまま、あたりを見回すばかりだった。それがまたよけい一座のうきうきした気分に油をかけた。
「まあなんてとんまだろう! ごらんなさい! いったいなんのためにあんな人を引っ張ってきたんでしょう? ところで、ピョートル・ペトローヴィッチのことは、わたしいつも信用しきっていたんですよ」とカチェリーナはラスコーリニコフに向かってことばを続けた。「そりゃむろん比べものになりませんさ……」彼女はこう鋭く声高にいって、ふいに恐ろしくいかつい顔をしながら、アマリヤの方へ向き直った。こちらはそのけんまくにおじけづいたくらいだった。「まったくあの二人みたいなお高くとまったお引きずりとは、比べものになりゃしませんよ。だいたいあの
「さよう、一杯やるのがお好きでしたな。これが好物でしたな。なかなかいける方で!」と、十二杯目のウォートカをほしながら、
「なくなった主人は、なるほどそういう欠点を持っておりました。それはもう世間にも知れていることです」とカチェリーナはいきなりその男に食いさがった。「けれど、主人は人がよくて潔白な性質で、自分の家族を愛しもし、尊敬もしておりました。ただ一ついけなかったのは、人がいいためにそんじょそこらの
「にわーとーり? あなた、にわーとーりとおっしゃったんですか」と糧秣官吏がどなった。
カチェリーナはそれにはてんで返事もしてやらなかった。彼女は何やら考えこみ、ほっとため息をついた。
「ねえ、あなたもやはりみんなと同じように、わたしがあの人をきびしく扱いすぎたとお考えなさるでしょうね」と彼女はラスコーリニコフに向かってことばを続けた。「ところが、それは間違いなんでございますよ! 主人はわたしを尊敬してくれました、それはそれは尊敬してくれました! 優しい心の人でしたからねえ! ですからどうかすると、あの人が気の毒でたまらなくなることがありました! よくじっと腰かけたまま、隅っこの方からわたしの顔色を見ておりましたが、そんな時には気の毒でたまらなくなって、優しくしてあげようかとも思いますけれど、すぐ心の中で、『いやいや優しくしたら、また酔いつぶれてしまうだろう』と思い直したものです。ただやかましく言っておれば、多少でも引きしめることができたんでね」
「さよう、よく横びんをむしられたことがありましたなあ、一度や二度でなく」とまたもや糧秣官吏はわめいて、ウォートカをもう一杯口の中へ流しこんだ。
「横びんをむしるどころじゃありません、どうかしたばか者なんか、ほうきで始末してやった方が、よっぽど為になりますよ。ですが、これはもう主人のことを言ってるんじゃありませんよ!」とカチェリーナは断ち切るように糧秣官吏に一矢むくいた。
彼女の頬の赤いしみはますます濃くなり、胸は大きく波うっていた。いま一分もしたら、彼女はもうひと騒動もち上げかねない有様だった。多くの者はひひひひと笑った。彼らはそれが面白いらしかった。みんなは糧秣官吏を突っついて、何やら彼の耳へささやき出した。明らかに二人をかみ合わそうというたくらみらしい。
「なあんですって、あなたはいったい誰のことをおっしゃるんです?」と糧秣官吏はやり出した。「つまり、誰の……誰さまのことをあてつけて……あなたは今……だが、まあ、どうでもいい! くだらないことだ! 後家さんなんだからな! 未亡人なんだからな! 許してやろう……
こう言って、彼はまたウォートカをごくりとあおった。
ラスコーリニコフは黙って腰かけたまま、
「ほら、まったくふくろうでしょう!」カチェリーナは浮かれ出さないばかりの様子で、すぐまたラスコーリニコフにささやき始めた。「あの女は、手をポケットに入れて歩いてた、と言いたかったんですが、手を人のポケットに突っこんで回ったことになっちまったんですよ、ごほん、ごほん! ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなた気がおつきになりませんか? このペテルブルグにいる外国人、といって、つまりおもに、どこから集まってくるんだか得体のしれないドイツ人なんですけれど、そろいもそろってわたしたちよりばかばかりなんですよ! 必らずきまってそうなんですの。ねえ、そうじゃありませんか、『薬屋のカルルが恐ろしくって、心臓を突き刺された』だの、その男が(鼻たれ小僧が!)御者をふん縛ってやろうともしないで、『手を合わせました、泣きました、たいへん頼みました』なんて、お話にもならないじゃありませんか。ちょっ、なんておたんちんでしょう! そのくせ当人は、これがとても面白い話みたいに思って、自分がどんな大ばかか、夢にも考えてみないんですからね! わたしに言わせると、この酔っ払いの糧秣官吏の方が、まだしもずっとりこうですよ。とにかく、なけなしの分別まで飲んでしまった道楽者だってことが、ちゃんとわかってますからね。ところで、あの連中のそろいもそろってお行儀がよくって、まじめなこと……おや、ふくろうさんがつんとして、目を丸くしている。怒ってるんだ! 怒ってるんだ! は、は、は! ごほん、ごほん、ごほん!」
すっかり浮かれてしまったカチェリーナは、すぐにいろいろ詳しい身の上話を夢中で始めたが、ふとだしぬけに、年金が手にはいったら、それを元手に必らず故郷の町で、良家の女子を収容する寄宿学校を創立するつもりだ、と言い出した。このことはまだカチェリーナ自身の口から、ラスコーリニコフに話してなかったので、彼女は魅力に富んださまざまなデテールに、すっかり夢中になってしまった。いつの間にどうしてだかわからないが、例の『賞状』が彼女の手に現われた。それはなくなったマルメラードフが、いつぞや酒場でラスコーリニコフをつかまえて、妻のカチェリーナが学校を卒業する時、『知事やその他の人たちの前で』ヴェールの舞をまったことを話した時、彼にふいちょうした賞状なのである。この賞状はいうまでもなく、こんど寄宿学校を設立するに当たって、カチェリーナの資格を証明することになるわけらしかった、が、何よりかんじんなのは、『
ちょうどこの時、誰の話にもてんで仲間入りができず、自分のいうことを誰にも聞いてもらえなかったので、すっかり憤慨してしまったアマリヤが、ふいに最後の試みとして一つの冒険を企てた。彼女はカチェリーナに向かって、こんど出来る寄宿学校では、
「ピョートル・ペトローヴィッチ!」と彼女は叫んだ。「せめてあなたでも、わたしの味方をしてください! あのばか女に言い聞かせてやってください。不幸にあった潔白な婦人をあんなふうに扱う法はない、そんな事をすると裁判にかかるぞといって……わたしは総督さまへじきじき……あの女はその報いを受けるんです……どうぞ父のお尽ししたことをおぼし召して、みなし児たちを守ってやってください」
「まあ、まあ、奥さん……まあ、失礼ですが、ちょっと、奥さん」ルージンは両手で払いのけた。「あなたのお父さんとは、ご存じのとおり、わたしはまだ一度もお目にかかる光栄を得なかったんですから……まあ、ちょっと、奥さん! (誰やら大きな声で笑った)それに、わたしはあなたとアマリヤ・イヴァーノヴナの際限のない喧嘩に、かかりあうつもりはありませんよ……わたしは自分の用で来たんですから……さっそくあなたの
ルージンは体を横にして、カチェリーナを避けながら、ソーニャのいる反対側の隅をさして行った。カチェリーナは雷にでも打たれたように、そのままそこに立ちすくんだ。彼女は、どうしてルージンが父の
「せっかくのお楽しみの腰を折ることになるかもしれませんが、その段はおゆるしを願います。しかし事柄はかなり重大なものなんです」とルージンは特に誰に向かうともなく、漠然とした調子で口を切った。「わたしはむしろ皆さんがご列席なさるのを好都合なくらいに思います。アマリヤ・イヴァーノヴナ、あなたは家主という意味で、これから始まるわたしとソフィヤ・イヴァーノヴナとの話を、注意して聞いてくださるように折り入ってお願いします。ソフィヤ・イヴァーノヴナ」と彼は驚き惑っているソーニャの方を向いてことばを続けた。「わたしの友人アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの部屋であなたがお訪ねくだすったすぐあとで、わたしの所有にかかる百ルーブリ紙幣がわたしのテーブルの上から一枚なくなったのです。もしどうかしてあなたがそれをご存じで、それが今どこにあるのか教えてくだすったら、わたしは名誉にかけて、またここにおられる皆さんを証人として、あなたに誓っていいますが、事はそれで済んでしまうのです。が、もしそうでなかった場合には、わたしはやむを得ず非常手段に訴えなければならなくなる。その時には……あなたはもう自分を恨むより仕方がありませんよ」
部屋の中がしんとなってしまった。泣いていた子供までが黙りこんだ。ソーニャは死人のように青い顔をして立ったまま、ルージンの顔を見つめるだけで、一言も返事ができなかった。彼女はまだ話がよく飲み込めないらしい。幾秒か過ぎた。
「さあ、それで、いったいどうなんです?」ひたと彼女を見つめながら、ルージンは問いかけた。
「わたし存じません……わたし少しも存じません……」やっとソーニャは弱々しい声で答えた。
「知らないんですって? ご存じない?」とルージンは問い返したが、また幾秒間か黙っていた。「よく考えてごらんなさい。マドモアゼーユ」厳格ではあるが、それでもまだなんとなく
「わたし、あなたのものを何もとった覚えはございません」とソーニャはぞっとしたように小声で言って、「あなたはわたしに十ルーブリくださいました。さあ、どうぞお受け取りくださいまし」
ソーニャは、ポケットからハンカチを取り出し、結び目をさがしてそれを解き、十ルーブリ紙幣を抜き出すと、その手をルージンの方へ差し伸べた。
「すると、そのほかの百ルーブリのことは白状しないんですな」その紙幣は受け取ろうともせず、彼は責めるようにいっこくな調子で言った。
ソーニャはあたりを見回した。誰もかれもが恐ろしい、いかめしい、あざけるような、にくにくしげな顔つきをして、彼女をみつめていた。彼女はちらとラスコーリニコフをながめた……彼は腕を十字に組んだまま壁ぎわに立ち、火のようなまなざしで彼女を見つめていた。
「ああ、なさけない!」という叫びがソーニャの胸をほとばしり出た。
「アマリヤ・イヴァーノヴナ、警察へ知らせなけりゃならないから、どうかご面倒ですが、さしずめ庭番を呼びにやってくださらんか」と静かな愛想のいい調子でルージンは言った。
「
「あなたもちゃんと知ってたんですって?」とルージンはことばじりを押えた。「すると、以前からもうそんな風に推定する根拠が、多少なりとあったんですね。じゃ、アマリヤ・イヴァーノヴナ、お願いですから今おっしゃったことを覚えていてください。もっとも、証人も大勢いることですがね」急に四方からがやがやと話し声が起こった。一座はざわついてきた。
「な、な、なんですって!」カチェリーナはわれに返って、ふいにこう叫んだ。そして――まるで鎖が切れたように――ルージンの方へ飛びかかった。「なんですって! あなたはこの
こう言って、彼女はソーニャの方へ駆け寄ると、しめ木にでもかけるように、やせ細った手で彼女を抱きしめた。
「ソーニャ! よくもお前はあんな人から、十ルーブリもらってこられたねえ! ああ、ばかな
カチェリーナはソーニャの手から紙幣をひったくり、手でもみくちゃにすると、すぐその手を返してまともにルージンの顔へ叩きつけた。丸められた紙玉はルージンの目にあたって、はね返りながら床の上に落ちた。アマリヤは飛んで行って金を拾い上げた。ルージンは火のように怒り出した。
「この気ちがい女を押えろ!」と彼はわめいた。
この時戸口には、レベジャートニコフと並んで、四、五人の顔が並んでいた。その中には、例の田舎から出て来た婦人親子ものぞいていた。
「なんだって! 気ちがい女? それはわたしが気ちがい女だというんだね? ばかあ!」とカチェリーナは金切り声を上げた。「お前こそ馬鹿だ、三百代言だ、
カチェリーナは夢中になって、ルージンをソーニャの方へしょびきながら、こづき回した。
「わたしは覚悟しております、責任を負いますとも……しかし、まあ気を静めてください、奥さん、気を静めて! あなたがきかない気性なことは、わかりすぎるほどわかりましたよ!……これは……これは……これはいったいどうしたもんでしょうな?」とルージンはまごまごして言った。「それは警察が立会いの上でなくちゃ……もっとも、今でも証人は多すぎるくらいだから……わたしはそのつもりでいますよ……しかし、いずれにしても男にはやりにくいですよ……性の関係があるから……もしアマリヤ・イヴァーノヴナにでも手を貸していただけば……もっとも、そういうやり方はないし……これはいったいどうしたものかな?」
「誰でもよござんす! 誰でもやりたい人は勝手に調べるがいい!」とカチェリーナは叫んだ。「ソーニャ、あいつらにポケットをひっくり返して見せておやり! ほら、ほら! 見るがいい、悪党、ほら、
カチェリーナはもう裏返すどころでなく、両のポケットを一つ一つ外へ引っ張り出して見せた。ところが、つぎの右かくしから、ふいに紙ぎれが一つ飛び出して、空中に放物線を描き、ルージンの足もとに落ちた。一同はそれを見た。多くのものはあっと叫んだ。ルージンはかがみ込んで、二本指で紙ぎれを床からつまみ上げ、みなに見えるように差し上げて、ひろげて見せた。それは八つにたたんだ百ルーブリ紙幣であった。ルージンは手をぐるぐると振り回しながら、みんなに紙幣を見せた。「女泥棒! さあ出て行け!
叫喚の声が四方八方から飛び始めた。ラスコーリニコフはソーニャから目を離さなかったが、時々ちらとルージンの方へ視線を転じながら、じっと押し黙っていた。ソーニャは意識を失ったように、同じところに立ちつくしていた。彼女はほとんど驚くのを通りこしていたのである。と、ふいに紅がその顔にさっとみなぎった。彼女は一声叫び上げて、両手で顔をおおった。
「いいえ、それはわたしじゃありません! わたしは、とった覚えはありません! わたしは知りません!」彼女ははらわたのちぎれるような叫び声と共に、カチェリーナに身を投じた。
こちらは彼女を引っかかえ、我とわが胸ですべての人から守ろうとするように、ひしとばかり抱きしめた。
「ソーニャ! ソーニャ! わたしは本当にしやしないよ! ごらん、わたしは本当にしてやしないから!」カチェリーナは(
哀れな肺病やみの、みなしご同然なカチェリーナの嘆きは、一同に深い感銘を与えたらしかった。この苦痛にゆがめられた、骨と皮ばかりの肺病やみらしい顔、この
「奥さん! 奥さん!」と彼は
ルージンは横目でラスコーリニコフをちらと見た。二人の視線はぴったり出会った。ラスコーリニコフの燃えるようなまなざしは、彼を焼き尽くさんばかりであった。けれど一方、カチェリーナはもうなんにも耳にはいらぬ様子だった。彼女は狂気のようにソーニャを抱いて接吻していた。子供たちも同じように小さな手で、四方からソーニャにとりすがっていた。ポーレチカはまだよくわからないながら、
「なんという卑劣なことだ!」この時ふいに戸口のところで、大きな声が響きわたった。
ルージンはすばやく振り返った。
「なんという卑劣なことだ!」じっと彼の目を見つめながら、レベジャートニコフはまたくり返した。
ルージンはぴくりと身震いさえしたような風だった。一同はそれに気がついた(あとで人々はこのことを思い出したのである)。レベジャートニコフは一歩部屋の中へはいってきた。
「あなたはよくもずうずうしく、わたしを証人に立てるなんて言いましたね!」ルージンの傍へ歩みよりながら、彼はそう言った。
「いったいそれはなんの意味です、アンドレイ・セミョーヌイチ! 君はいったい、なんのことを言ってるんです?」ルージンはへどもどしながらつぶやいた。
「ほかでもない、あなたが……
「もし君が僕にそんな……」と彼はどもりながら言い出した。「いったい君はどうしたんです? 気でも狂ったんじゃありませんか!」
「僕はちゃんと正気だが、あなたこそかえって……悪党だ! ああ、なんという卑劣なことだろう! 僕は何もかも聞いていました。僕は万事とっくり了解しようと思って、わざと今まで待っていたんです。というのも、白状すると、今だに十分論理的でないくらいなんだから……いったいあなたはなんのためにこんな事をしたんです……わけがわからない」
「僕が何をしたというんです! 君はそんな愚にもつかないなぞなぞ話を、いいかげんにしてよすつもりはないんですか! それとも、一杯きこし召してるんじゃないかな」
「それはあなたみたいな下劣な人間なら、酔っぱらうこともあるだろうが、僕はそんなことなんかしやしません! 僕はウォートカなんかかつて口にしたこともない。つまり信念に反するからです。どうでしょう皆さん、あの男は、あの男は自分自身の手で、この百ルーブリ紙幣をソフィヤ・セミョーノヴナにやったんです――僕が見ていました、僕が証人です、僕は宣誓でもします! この男です、この男です!」レベジャートニコフは一人一人に向かって、こうくり返すのであった。
「ほんとに君は気でも違ったのか、どうです、この青二才」とルージンは黄色い声でわめいた。「その当人が君の前に、ちゃんと目の前にいるんだ――その女が現在ここで、いま皆の前で、白状したじゃないか――十ルーブリよりほかに僕から何も受け取りゃしないって。してみれば、どうして僕がそれを渡せたというんだ?」
「僕が見たんだ、僕が見たんだ!」とレベジャートニコフはくり返し叫びつづけた。「こんなことは僕の主義に反するけれど、僕は今すぐにでも裁判所へ出て、どんな宣誓でも立てる。だって、あなたがそっと
ルージンは青くなった。
「何を君はでたらめばかり言うのだ!」と彼はずうずうしくどなりつけた。「君は……窓のそばに立っていたのに、どうして
「いいや、目の迷いじゃありません! 僕は離れて立ってたけれど、何もかもすっかり見たんです。もっとも窓のそばからでは、実際紙幣を見分けることはむずかしい――それはおっしゃるとおりです――けれども僕は特別な事情があって、それが百ルーブリ紙幣に違いないことを、確かに知ったんです。というのは、あなたがソフィヤ・セミョーノヴナに十ルーブリ紙幣を渡そうとなすった時――僕はちゃんと見ていたが――その時あなたがテーブルの上から、百ルーブリ紙幣を取ったからです(僕はその時そばに立っていたのでちゃんと見定めました。それに、その時僕の頭にある考えが浮かんだので、あなたの手に紙幣のあることを忘れなかったのです)。あなたはそれをたたんで、手に握りしめたまま、ずっと持っていたんです。それから、僕はほとんどそのことを忘れていたんだけど、あなたが立ち上がりながら、それを右から左の手へ持ちかえて、危うく落っことそうとした。僕はそこでまた思い出したんです。なぜって、僕の頭にはまた先と同じ考え――つまりあなたは僕に隠して、そっとあのひとに慈善をしてやるつもりだな、という考えが浮かんだからです。それがしかもどうでしょう。僕は特に気をつけていたところ、あなたが首尾よくあのひとのポケットへ押しこんだのを見届けました。僕は見ました、ちゃんと見ました。宣誓してもいいくらいです!」
レベジャートニコフはほとんど息を切らさないばかりだった。四方からいろいろな叫び声――何よりも一番に
「アンドレイ・セミョーヌイチ! わたしはあなたを誤解していました! どうぞあの
こう言いながらカチェリーナは、ほとんど自分のしている事もわきまえず、いきなり彼の前に
「世迷い言だ!」気ちがいじみるほど
「なんのために? つまりそれが僕にわからないんです。しかし、僕が正真正銘の事実を話してるのは、そりゃもう確かです! つまりこれがために、僕はあの時すぐあなたに感謝して、あなたの手を握りながらも、この疑問が僕の頭に浮かんだのを、今でもちゃんと覚えているほどですもの、間違えたりなんかするわけがないじゃありませんか。ほんとうにあなたはなんという汚らわしい、罪の深い人だろう。その時僕が不思議に考えたのは、なんのためにあなたはあのひとのポケットへ、そっと金を入れたのだろう? つまり、そのそっと入れたのはなぜだろう? ということでした。それともただ、僕が常々慈善反対の信念を持っていて、根本的には悪をいやし得ない個人的慈善を否定しているのを、あなたがちゃんと知っておられるので、僕に自分の行為を隠したかったからにすぎないのか? という風に考えて、結局これはあんな大金を恵むのが僕に対してきまりが悪かったのだ、とこう解釈しました。またそのほかに、もしかすると、あなたはあのひとに
レベジャートニコフは、かくも論理的な帰納法を結論に応用した長広舌を終わると、ひどくがっかりしてしまって、その顔からは玉のような汗まで流れ出た。悲しいかな、彼はロシア語でさえろくすっぽ説明する能がなかったのである(もっとも、ほかのことばだって一つも知らなかったので)。彼はこの弁護士的大偉業を成就したあとで、なんとなく中身をすっかり吐き出したようなぐあいで、一時にげっそりやせたように思われた。にもかかわらず、彼の演説は非常な効果をもたらした。彼はやっきとなって、恐ろしい信念をいだきながら話したので、みんな彼のことばを信じたらしかった。ルージンは形勢かんばしからずと直感した。
「君の頭にどんなばかげた疑問が起ころうと、それが僕にとって何だというのです」と彼は叫んだ。「そんなことは証拠になりゃしない! それはみんな君が夢にでも見たんだろう、それだけの話だ! 僕は断言するが、君は嘘をついてるんです! 君は僕に何か悪意をいだいてるものだから、嘘をついて人を中傷するんです。つまり、僕が君の自由思想的な無神論的な社会思想に共鳴しなかった、その腹いせなんですよ、そうですとも」
しかしこの言いぬけはルージンになんの利益ももたらさなかった。それどころか、かえって不満の声が聞こえた。
「ええ、きさまはそんなところへ話を持っていくんだな!」とレベジャートニコフは絶叫した。「だめだよ! 巡査を呼べ、僕は宣誓でもしてやるから! ただ一つ合点がいかないのは、この男、なんのためにこんな卑劣な行為を思い切ってしたんだろう! ああ、なんてみじめな
「なんのためにこの男が、思い切ってあんな行為をしたか、それは僕が説明しましょう。もし必要とあれば、僕も宣誓していいです!」ついにラスコーリニコフがきっぱりした調子で口を切り、一歩前へ進み出た。
彼は見たところ、落ち着いてしっかりしていた。ひと目見ただけで、彼がじっさい事の真相を知っており、事件もいよいよ大団円に達したことが明白になった。
「いま僕は何もかもすっかり
こんな風に、あるいはほとんどこんな風に、ラスコーリニコフは自分の説明を終わった。もっとも彼のことばは、熱心に聞いている人々の叫び声に、しょっちゅうさえぎられはしたけれど、そうした邪魔がはいったにもかかわらず、彼は落ち着き払って、正確に明瞭に、きっぱりと鋭い語調で語り終わった。その鋭い声や、信念に満ちた語調や、きびしい顔つきなどは、一同に異常な効果をもたらしたのである。
「そうです、そうです、それはそうに違いありません!」とレベジャートニコフは有頂天になってあいづちを打った。「これはもうそうに決まっています。だってこの男は、ソフィヤ・セミョーノヴナが僕らの部屋へはいって来るが早いか、僕をつかまえて、あなたがここへ来てるかどうか? カチェリーナ・イヴァーノヴナの客の中にあなたを見かけなかったか? などと尋ねたんですもの。この男はそのために僕を窓の方へ呼んで、そこでこっそり聞いたんですからね。これで見るとこの男は、ぜひあなたにこの席にいてもらいたかったんですよ! それはその通りです、すっかりそのとおりです!」
ルージンは無言のまま、にやにやと
「ちょっと、皆さん、ちょっと。そう押さないで、通り道をあけてください!」と群衆を押し分けながら彼は言った。「そして、どうかそんなおどかしはやめてもらいましょう。わたしは断言しておきますよ。そんな事をしたって、どうなるものですか、何ができるものですか。そんなのでびくびくするような人間じゃありませんよ。それどころか、君方は暴力で刑事事件を
「もう僕の部屋にあなたのにおいもしないように、すぐどこへでも越して行ってください。それでわれわれの関係はいっさいおしまいです! ああ、思えばいまいましい、僕は一生懸命に汗水たらしながら、この男を啓発してやろうと思って、いろいろ説明してやったものだが……まる二週間も……」
「いや、アンドレイ・セミョーヌイチ、僕はさっき君がしきりに引止めた時だって、もうかならず越して行くと、ちゃんと言っておいたじゃありませんか。今はただ君がばかだということだけつけ加えておきますよ。最後に、僕は君の頭とそのしょぼしょぼ
彼は人垣を押し分けて行った。ところが糧秣官吏は、ただの
「家をあけてくれ! 今すぐ! さっさと!」
彼女はこう言いながら、カチェリーナの品物を手当たりしだいにひっつかみ、床の上へほうりつけにかかった。それでなくてさえさんざん痛めつけられて卒倒しないばかりになり、真っ青な顔をしてはあはあ息を切らしていたカチェリーナは、ぐったり寝台の上に倒れていたが、いきなりがばとはね起きて、アマリヤにおどりかかった。けれど、戦いはあまりに段が違いすぎた。アマリヤはまるで羽根でも吹き飛ばすように、彼女を突き飛ばした。
「まあ、なんてことだ! 人にあられもない
そう言ってカチェリーナは、いつかなくなったマルメラードフがくどき話の中で説明した、例の緑色したドラデダーム織りの肩掛を頭からかぶり、まだ部屋の中にひしめいている間借り人たちの、だらしない酔っぱらった群れを押し分けながら、悲鳴と涙とともに往来へ駆け出した――いますぐ即座に、どうあろうとも、どこかで正義を見つけようという、あてどもない目的をいだきながら……ポーレチカは恐怖のあまり、子供たちをつれて片隅の箱の上にちぢこまり、そこで二人をしっかと抱きしめて、全身をわなわなと震わせながら、母の帰りを待っていた。アマリヤは部屋の中を暴れ回って、泣いたりくどいたりしながら、手当りしだいのものを床へ投げつけ、狂い立てるのであった。間借り人の連中は、てんでに勝手なことをしゃべっていた――中には今のでき事を、自分の知恵相当に解釈して、結論をつける者もあった。中には
彼はソーニャの住まいへ足を向けた。
ラスコーリニコフは自分の胸の中に、あれほど恐怖と苦痛を蔵していたにもかかわらず、ルージンを向うに回して、ソーニャのために敏腕かつ勇敢な弁護士となった。彼は朝のうちあれだけ苦しみ抜いたために、いよいよ堪え難くなって来る気分を転換する意味で、あの機会が与えられたのをむしろ喜んだくらいである。しかしソーニャを助けようとする彼の意欲の中には、きわめて多量の個人的な真実感が含まれていたのはいうまでもない。のみならず、当面の問題として彼の頭にこびりつき、時には堪え難いほど激しく彼の胸を騒がしていたのは、目前に迫っているソーニャとの会見である。彼は誰がリザヴェータを殺したかを、説明しなければならなかった。彼はその恐ろしい苦痛を予感し、両手でそれを払いのけるようにしていた。で、カチェリーナのところから出がけに、『さあ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今度あなたは何を言いだすか一つ見てみよう』と叫んだ時の彼は、まだ明らかに、ルージンに対する先ほどの勝利で、外面的に興奮させられ、勇敢な挑戦的気分になっていたのである。しかるに、不思議なことが起こった。カペルナウモフの住まいまで来ると、彼はふいに力ぬけがして、心に恐怖を覚えた。彼は『誰がリザヴェータを殺したのかぜひ言わなけりゃならないだろうか?』という奇怪な疑問をいだきつつ、もの思わしげにドアの前に立ち止まった。この疑問は、げにも奇怪なものであった。なぜなら、彼はそれと同時に、単に言わずにいられないのみならず、たとえ一時にもせよ、この瞬間を延ばすことさえ不可能なのを、はっきり感じたからである。しかし、彼はまたなぜに不可能なのか知らなかった。ただそう感じただけである。そして、この必然に対して自分が無力であるという悩ましい意識が、ほとんど彼を圧倒しつくすばかりであった。もうこの上考えて苦しみたくなかったので、彼は急いでドアをあけ、しきいの上からソーニャを見た。彼女はテーブルに
「ほんとにあの時あなたがいらしてくださらなかったら、わたしはどうなっていたでしょう!」彼と部屋のまんなかで落ち合った時、彼女は早口に言った。
彼女は明らかに唯これだけの事が少しも早く言いたかったらしい。で、あとは黙って待っていた。
ラスコーリニコフはテーブルの傍へ寄り、今ソーニャが立ったばかりの椅子へ腰をおろした。彼女は昨日と寸分たがわず、彼から二歩前のところにたたずんだ。
「どうです、ソーニャ?」と彼は言ったが、ふと自分の声の震えるのに気がついた。「いっさいのことは皆、『社会的地位とそれに関連した習慣』とに根をおいているんですよ。あなたはさっきのことがわかりましたか?」
苦悩の色が彼女の顔に現われた。
「ただね、昨日のようなことを言わないでください!」と彼女はさえぎった。「どうぞもうあんなことは言い出さないで。でなくっても、いいかげんくるしいんですから……」
彼女はこんな非難めいたことを言って、もしか彼の気にさわりはしまいかと、はっとしたように、急いで笑顔を作って見せた。
「わたし無考えに、ぷいとあのまま出てしまったんですが、あちらじゃ今どうしてるでしょう? わたしこれからも一度行って見ようと思ったんですけど、いまにも……あなたがいらっしゃりそうな気がしたものですから」
彼は、アマリヤが彼女一家に立ちのきを迫ったことから、カチェリーナが『
「ああ、どうしましょう!」とソーニャは叫んだ。「さあ、早く行きましょう……」
こう言って、彼女は自分のマントをつかんだ。
「いつもいつも同じことばかり!」とラスコーリニコフはいらだたしげに言った。「あなたの頭の中には、あの人たちのことしかないんですね! 少しは僕と一緒にいてくださいよ」
「だって……カチェリーナ・イヴァーノヴナは?」
「カチェリーナ・イヴァーノヴナなら、家を駆け出してしまった以上、けっしてあなたをぬきにするわけには行きませんよ、今に自分であなたのところへ来るに決まっています」と彼は気むずかしげに言い足した。「その時あなたが留守だったら、それこそあなたが悪いことになるじゃありませんか……」
ソーニャは決しかねるていで、悩ましげに椅子へ腰をおろした。ラスコーリニコフはじっと足もとをみつめたまま、何やら一心に考えこみながら、おし黙っていた。
「まあ、さっきはルージンがそんな気を起こさなかったからいいようなものの」ソーニャの方を見ないで、彼は口を切った。「もしあの男がそんな気を起こしたら、もしそんな事がやつの計画にはいっていたら、あなたは監獄へぶち込まれたかもしれませんよ。もし僕と、それからレベジャートニコフがいあわせなかったら! え?」
「そうですわ」と彼女は弱々しい声で言った。「そうですわ!」彼女は心の落ち着かぬさまで、そわそわした調子でこうくり返した。
「だって実際、僕はいあわせなかったかもしれないんですからね! レベジャートニコフにいたっては、あの男があすこへ来たのは全くの偶然ですよ」
ソーニャは黙っていた。
「ねえ、もし監獄へでもはいったら、その時はどうなったと思います? 僕が昨日言ったことを覚えていますか?」
彼女はやはり答えなかった。こちらはしばらく待っていた。
「僕はあなたが、『ああ、言わないでください、よしてください!』とわめくだろうと思いましたよ」とラスコーリニコフは笑い出したが、それはなんとなくわざとらしかった。「どうです、また沈黙ですか?」一分間ばかりして彼は尋ねた。「だって、何か話をしなくちゃいけないじゃありませんか? 僕はね、レベジャートニコフのいわゆる一つの『問題』を、あなたがどう解決するか、それを知りたいんですがね(彼は混乱してきたらしい様子だった)。いや、実際、僕はまじめなんです。ねえ、こういうことを考えてごらん、ソーニャ。あなたがルージンのたくらみを前からすっかり知っているとしましょう。それがためにカチェリーナ・イヴァーノヴナも、それから子供たちも、おまけにあなたまで一緒に(あなたは自分をなんとも思っちゃいないからね、それでおまけなんですよ)、破滅してしまわなくちゃならないと知ってたら、つまり正確に知ってたらどうです(ポーレチカも同様ですよ……あの子もやはり同じ道をたどって行くに決まってますからね)。ねえ、そこでこういうことになるんですよ――もし万一この場合すべてがあなたの決心一つにあるとしたら――つまり、この世の中で彼と彼らと、どちらが生きていくべきであるか、ルージンが生きて汚らわしいことをなすべきであるか、またはカチェリーナ・イヴァーノヴナが死ぬべきかとこういうことになるとしたら、あなたはどう判決します? 二人のうちどちらが死ぬべきだと思います? 僕はそれが聞きたいんです」
ソーニャは不安げに彼を見つめた。このあいまいな、何か遠まわしに忍びよるようなことばの中に、ある特殊なものが響いていることを感じたのである。
「わたしもう初めから、あなたが何かそんなことをおききになりそうな気がしていましたわ」ためすような目つきで相手を見ながら、彼女はそう言った。
「そうですか、かまいません。しかし、それにしても、どう判決します?」
「あなたはなんだって、そんなできもしないことをおききになりますの?」と嫌悪の表情を浮かべながらソーニャは言った。
「してみると、ルージンが生きていって、卑劣なことをする方がいいんですね! あなたはそれさえ判決する勇気がないんですか?」
「だってわたし、神様の
「神の意志なんてものがはいってきたんじゃ、もうどうすることもできやしないさ」とラスコーリニコフは気むずかしげに言った。
「それよか、いっそ真っ直ぐに言ってください、あなたどうして欲しいんですの!」とソーニャは苦痛の表情で叫んだ。「あなたはまた何かへ話を持ってゆこうとなさるんですわ……いったいあなたは私を苦しめるために、ただそれだけのためにいらしったんですの!」
彼女はこらえかねて、ふいにさめざめと泣き出した。彼は暗い憂愁をいだきながら、じっと彼女を見つめていた。五分ばかり過ぎた。
「いや、お前の言う通りだよ、ソーニャ」彼はとうとう低い声で言いだした。
彼は突然別人のようになった。わざとらしいずうずうしさも、無力な挑戦的態度も、すべて消えてしまった。声まで急に弱々しくなった。
「きのう僕は自分で、許しを請いに来るんじゃないと言ったね。ところが今は、ほとんど許しを請うも同然なことばで話を始めてしまった……僕がルージンや神の意志のことを言ったのは、あれはつまり自分のためだったんだ……あれは僕が許しを請うたんだよ、ソーニャ」
彼はにっこり笑おうとしたけれど、その青白い微笑の中には、何かしら力ない中途半端なものが浮かび出た。彼は
とふいに、ソーニャに対する刺すような怪しい憎悪の念が、思いがけなく彼の心を走り流れた。彼はこの感情にわれながら驚きおびえたように、とつぜん頭を上げて、彼女の顔をひたとみつめた。けれども彼は、自分の上にそそがれている不安げな、悩ましいほど心づかいにみちた彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の憎悪は幻のごとく消え失せた。あれはそうではなかった。ある一つの感情をほかのものと取り違えたのだ。それはつまり、あの瞬間が来たことを意味したにすぎないのだ。
彼はふたたび両手で顔をおおい、
この瞬間はラスコーリニコフの感覚の中で、彼がかの老婆の後ろに立ち、
「どうなすったんですの?」と、すっかりおびえ上がったソーニャはこう尋ねた。
彼は一言も口がきけなかった。こんなぐあいに声明しようとは、まるで少しも予想していなかったので、今いったい自分がどうなっているのか、われながらわけがわからなかった。彼女は静かに彼に近づき、寝台の上に並んで腰をおろし、その顔から目を離さないで、じっと待っていた。彼女の心臓は激しく鼓動して、今にも
「まあ、どうなさいましたの?」やや男から身を引きながら、彼女はくり返した。
「なんでもないよ、ソーニャ。びくびくしなくったっていいよ……くだらないことだ! まったく、よく考えてみればくだらないことだ」うなされて前後を覚えない人のような風で、彼はつぶやくように言った。「なんだって僕はお前ばかり苦しめに来たんだろう?」女を見つめながら、彼はふいにこうつけ足した。「まったくなぜだろう? 僕は始終この問いを自分に発してるんだよ、ソーニャ……」
彼は事実十五分前には、この問いを自分に発していたかもしれないけれど、今は全身に絶え間なき
「ああ、あなたはどんなにか苦しんでらっしゃるんでしょうねえ!」と、彼の顔に見入りながら、彼女は同情にあふるる調子でそう言った。
「何もかもばかばかしいことさ!……ところでね、ソーニャ(彼は急になぜか青白く、力なげに、ものの二秒ばかり、にやりと笑って見せた)――きのう僕がお前に何を話そうとしたか、覚えているだろう?」
ソーニャは不安な面持で待っていた。
「僕は帰りしなに、ことによったら、これが永久の別れになるかもしれない、しかしもし明日やって来たら、そうしたらお前に……誰がリザヴェータを殺したか、聞かしてやるといったろう」
彼女はふいに全身をわなわなと震わせ始めた。
「ねえ、だから僕はそれを話しに来たんだよ」
「じゃ、ほんとにあなたは昨日……」と彼女はやっとのことでささやいた。「どうしてそれをご存じですの?」ふとわれに返った様子で、彼女は早口にこう尋ねた。
ソーニャは苦しげに息をつき始めた。顔はいよいよ青白くなってゆく。
「知ってるんだ」
彼女はしばらく黙っていた。
「見つけでもなすったの、その男を?」彼女はおずおずと尋ねた。
「いや、見つけたんじゃない」
「じゃ、どうしてあなたがそれをご存じなんでしょう?」またしても一分ばかり無言の後、また今度も聞きとれないほどの声で彼女は問い返した。
彼は女の方へくるりとふり向いて、じいっと穴のあくほどその顔をみつめた。
「あててごらん」さっきと同じひん曲がったような、弱々しい微笑を浮かべて、彼はこう言った。
と、彼女の全身をけいれんが走り過ぎた――というような風情であった。
「まあ、あなたは……わたしを……なんだってあなたはわたしをそんなに……びっくりさせようとなさるんですの?」幼い子供のような微笑を浮かべながら、彼女はつぶやいた。
「つまり、僕はその男と仲のいい友だちなんだよ……知ってる以上にね」とラスコーリニコフはもはや目を放すことができないように、彼女をどこまでも見つづけながら、ことばを続けた。「その男はあのリザヴェータを……殺そうとは思わなかったんだ……その男はあれを……ほんのはずみで殺したのだ……その男は
また恐ろしい一分間が過ぎた。二人はいつまでもたがいに顔をみつめあっていた。
「これでもあてることができない?」ふいに鐘楼からでも飛びおりるような感じで、彼はそう尋ねた。
「い、いいえ」とソーニャは聞こえるか聞こえないくらいの声でささやいた。
「ようく見てごらん」
彼がこういうやいなや、またもや先ほど覚えのある感覚が、ふいに彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た。と、せつなその顔に、リザヴェータの顔を見たような気がした。あの斧を持って近づいて行った時、あの時のリザヴェータの顔の表情を、彼はまざまざと思い浮かべた。小さな子供が急に何かに驚いた時、自分を驚かしたものをじっと不安そうに見つめて、ぐっと後ろへ身を引きながら、小さな手を前へ差し出して、今にも泣き出しそうにする――ちょうどそういったような子供らしい
「わかったね?」ついに彼はこうささやいた。
「ああ!」と彼女の胸から恐ろしい悲鳴がほとばしり出た。
彼女は頭を枕に埋めるようにしながら、ぐったり力なげに寝台の上へ倒れた。けれど、すぐにさっと身を起こして、つかつかと彼の傍へ寄ると、その両手をつかみ、しめ木にでもかけるように、その細い指でひしとばかり握りしめながら、またもや
「もういいよ、ソーニャ、たくさんだ! 僕を苦しめないでおくれ!」と彼は悩ましげに頼んだ。
彼はこんな風に彼女に打ち明けようとは、まるで夢にも思わなかった。ところが、こんな事になってしまったのである。
彼女はわれを忘れたように飛び上がって、両手をもみしだきながら、部屋のまんなかまで行ったが、すばやくくびすを転じて彼の傍へ引っ返し、ほとんど肩と肩がすれ合うほど近々と並んで腰をかけた。ふいに、彼女は刺し通されでもしたように、ぴくっと身震いして、ひと声叫びを上げると、自分でもなんのためともしらず、いきなり彼の前に
「なんだってあなたは、なんだってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」と絶望したように彼女は叫んだ。
それから急におどり上がりざま、彼の首へ飛びついて、両手で堅く堅く抱きしめた。
ラスコーリニコフは思わず一歩後ろへよろけて、わびしげな笑みを含みながら、彼女を見やった。
「お前はなんて妙な女だろう、ソーニャ――僕がこんなことを言ったのに、抱いて
「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」彼の注意など耳にも入れず、彼女は興奮の極に達したようにこう叫んだ。とふいにヒステリイでも起こったように、しゃくり上げて泣き出した。
もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のごとく
「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」ほとんど希望の念さえいだきながら、彼は女の顔を見つめてこう尋ねた。
「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャは言った。「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く! おお、神さま!……ああ、わたしは不幸な女です! なぜ、なぜわたしはもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう! なぜあなたはもっと早く来てくださらなかったの? おお、なさけない!」
「だからこのとおりやってきた」
「今! おお、今さらどうすることができましょう?……一緒に、一緒に!」と彼女は前後を忘れたように、またもや彼を抱きしめながらくり返した。「わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!」
彼は急に全身ぴりりとけいれんさせた。その唇にはさっきのにくにくしげな、ほとんど
「僕はね、ソーニャ、まだ懲役に行く気はないかもしれないよ」と彼は言った。
ソーニャはすばやく彼をながめた。
不幸な男に対する感激と苦痛に満ちた同情の発作がすむと、またしても殺人という恐ろしい観念が彼女の胸を打った。急に変わった彼のことばの調子に、彼女はふと殺人者の声を聞いた。彼女はぎょっとして彼を見やった。どういうわけで、どうして、なんのためにこんなことが行なわれたのか、彼女はまだなんにもわかっていなかったのだ。これらの疑問が一時にぱっと、彼女の意識に燃え上がった。と、彼女はまたもや本当にならなかった。『この人が、この人が人殺し! いったいそんなことがあってよいものだろうか?』
「いったいこれはどうしたことだろう! わたしはどこに立っているのだろう!」彼女はまだ我に返れない様子で、深い疑惑に悩まされながらそう言った。「どうしてあなたは、あなたはそんな……そんなことが思い切ってできたのでしょう? いったいこれはどうしたというんでしょう!」
「ふん、なに、物を
ソーニャは脳天を打ちのめされたように突っ立っていたが、ふいに声を上げて叫んだ。
「あなたは食べるものがなかったんでしょう! あなたは……お母さんを助けようと思って? ね、そうでしょう?」
「いや、ソーニャ、違う」と彼は顔をそむけてうなだれたままつぶやいた。「僕はそんなにかつえちゃいなかった……僕はじっさい母を助けてやろうと思った。しかし……それだって完全に当たっているとも言えない……もう僕を苦しめないでくれ、ソーニャ!」
ソーニャは両手をうち鳴らした。
「ではいったい、いったいこれは何もかも本当なんですの! ああ、これがどうして本当なもんですか! 誰がこんなことを本当にできましょう?……それにまたどうして、どうしてあなたはご自分から、なけなしの金を人に恵んでやりながら、物を
「違うよ、ソーニャ」と彼は急いでさえぎった。「あの金はそうじゃない、安心しておくれ! あの金は母がある商人の手を通して送ってくれたのだ。僕が病気で寝ているところへ届いたのだ。お前たちにあげた当日なのだ……ラズーミヒンが見て知っている……あの男が僕の代わりに受け取ったくらいなんだから……あの金は僕のものだ、僕自身のものだ、ほんとうの僕の金なんだ」
ソーニャはいぶかしげに彼のことばを聞きながら、一生懸命に何やら思い合わそうと苦心していた。
「ところで、その金だが……僕はそこに金があったかどうか、それさえ知らないんだ」と彼は物思わしげに低い声で言い足した。「僕はあの時、婆さんが首にかけていた財布をはずしたんだ。ぎっちりいっぱいにつまったもみ皮の財布だ……だが、僕はその中を見なかった。きっと見る暇がなかったんだろう……ところで品物は、みんな飾りボタンだのくさりだのというものだが――僕はそんなものを全部財布と一緒に、翌朝V通りのある空地の石の下へかくしてしまった……今でもやはりそこにあるだろうよ……」
ソーニャは一生懸命に聞いていた。
「まあ、それじゃなんだって……どうしてあなたは……物を
「知らない……僕はまだ腹が決まっていなかったんだ……その金を取るか、取らないか」と彼はまたもや物思わしげにそう言ったが、ふとわれに返り、ちらと短かい薄笑いを浮かべた。「ちえっ、僕はなんてばかなことを言ったもんだろう、え?」
ふとソーニャの頭には、『気違いではないだろうか?』という考えがひらめいた。けれど、彼女は即座にそれを否定し、『いや、これは何か別なことだ』彼女には何一つ、まったくわからなかった!
「ねえ、ソーニャ」とふいに彼はある感激に打たれて言い出した。「ね、僕はお前に何を言おうとしてるかわかるかい。もし僕が
ソーニャはまた何か言おうとしたが、やはり沈黙を守っていた。
「きのう僕がお前に、一緒に行ってくれと頼んだのは、僕に残ってるのはお前よりほかに何もないからだよ」
「どこへ行くんですって?」とソーニャは問い返した。
「泥棒するためでも、人を殺すためでもないから、心配しなくていいよ。そんなことじゃない」と彼は皮肉ににやりと笑った。「僕ら二人は、まるで違った人間なんだからね……ところで、ソーニャ、僕は今、ついたった今、昨日お前をどこへつれて行こうと言ったのか、はじめてわかったよ! 昨日ああいった時には、僕自身もどこかわからなかったんだ。僕が頼んだのも、ここへやって来たのも、目的はたった一つだ。お前ぼくを見捨てないでくれ。見捨てないでくれるね、ソーニャ?」
彼女は男の手をかたく握りしめた。
『ああなぜ、なぜおれはこの女に言ったのだろう、なぜこの女に打ち明けたのだろう!』限りない苦悩をいだいて彼女を見ながら、彼はしばらくしてから絶望したように叫んだ。「現にお前は僕の説明を待っている。ね、ソーニャ、お前はじっとすわって待っている、僕にはそれがちゃんとわかる。だが、僕お前に何を言えばいいのだ? お前はこの問題じゃなんにもわかりゃしない、たださんざん苦しみ抜くばかりだ……俺のために! ね、ほらお前は泣きながら、また僕を抱きしめる――え、いったいなんだってお前は僕を抱きしめるのだろう? まさか僕が自分で持ち切れなくなって、『お前も苦しむがいい、おれが楽になるから!』といったようなぐあいに、自分の苦しみを他人の肩へ背負わせにやって来た、そのお礼でもなかろうね。いったいお前はこんな卑劣な人間を愛することができる?」
「だって、あなたもやはり苦しんでらっしゃるのじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
またもや彼の胸には、さっきと同じ愛情が波のように押し寄せ、一瞬かれの心を柔らげた。
「ソーニャ、僕の心は毒を持ってるんだよ。お前それに気をつけておくれ。いろんなことがこれで説明できるんだから。僕は毒のある人間だから、それでやって来たんだよ。中には、やって来ないような連中もある。だが、僕は
彼はことばをとめて、考え込んだ。
「ええっ、僕ら二人は別々な人間なんだ!」と彼は再び叫んだ。「まるで一つにならないんだ。なんだって、なんだってここへやって来たんだろう! このことは実にわれながら許し難い!」
「いいえ、いいえ、来てくだすったのはいいことですわ!」とソーニャは叫んだ。「そりゃわたしが知ってた方がよござんすわ! ずっとよござんすわ!」
彼は苦痛の表情で彼女を見つめた。
「いや、そりゃ本当だ!」十分考え抜いたという様子で彼は言った。「まったくそのとおりなんじゃないか! つまりこうなんだよ。僕はナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ……え、それでわかるかい?」
「い、いいえ」とソーニャは無邪気に臆病らしくささやいた。「だけど……言って、言ってちょうだい。わたしわかるわ、腹ん中でわかるわ!」と彼女は一心に頼んだ。
「わかるって? いや、よろしい、一つ見てみよう!」
彼は口をつぐんで、長いこと想を練っていた。
「実はこういうわけなんだ。ある時ね、僕は自分にこんな問題を出してみた。たとえば、僕の位置にナポレオンがいたとしよう。そして、その立身の道を開くのに、ツーロンも、エジプトも、モン・ブラン越えもなく、そういう美しい
ソーニャはおかしいどころではなかった。
「あなた、それよかありのままを話してくださいな……たとえ話なんか抜きにして」彼女はいっそうおどおどして、やっと聞こえるくらいの声で頼んだ。
彼はその方へふり向いて、沈んだ目つきでその顔をながめ、その両手をとった。
「そうだ、今度もまたお前の言う通りだ、ソーニャ。これはみんなばかげたことだ。ほとんど
なんとなく力ない語調で、やっと話の終わりまでこぎつけると、彼はがっくり首をたれてしまった。
「ああ、それは違います、それは違います」とソーニャは悩ましげに叫んだ。「いったいそんなことがあっていいものですか……いいえ、それは違います、それは違います!」
「お前は自分でそんな事はないと思うんだね!……でも、僕は真剣で話したんだよ、真実を!」
「まあ、それがなんの真実なものですか! おお、神さま!」
「だって、僕はただしらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、汚らわしい、有害なしらみを」
「まあ、しらみですって!」
「そりゃ僕だって、しらみでないことは知ってるさ」と、妙な目つきで彼女を見ながら、彼は答えた。「だがもっとも、僕はでたらめを言ってるんだよ、ソーニャ」と彼は言い足した。「僕はもうずっと前からでたらめばかり言ってるんだよ……あれはみな見当ちがいだ。実際お前の言うとおりさ。そこには全然、全然、全然べつな原因があるんだ!……僕はもう長いこと、誰とも話をしなかったもんだからね、ソーニャ……ああ、僕は今やたらに頭が痛い」
彼の目は熱病やみのような火に燃えていた。彼はほとんど熱に浮かされないばかりであった。不安げな微笑がその唇の上をさまよっていた。興奮した気持の陰から、もう恐ろしい無力が顔をのぞけるのであった。彼がどんなに苦しんでいるか、ソーニャにはよくわかっていた。彼女もやはりめまいがしかけていた。それに、彼の話し振りもなんとなく奇妙だった。なんだかわかるような気もするけれど、しかし……『しかし、どうなのだろう! いったいどうなのだろう! おお、神さま!』彼女は絶望のあまり両手をもみしだいた。
「いや、ソーニャ、あれは見当ちがいだ!」突然新しい思考の屈折にショックを受けて、興奮を感じたように、彼は急に頭を上げて、また言い出した。「あれは見当ちがいだ! それよりいっそ……こんな風に想像してみてくれ。(そうだ! 実際この方がいい!)僕が自尊心の強い羨ましがりやで、意地悪で、卑劣な執念深い人間で……その上気ちがいの傾向があるとしてもいい――こういう男だと想像してみておくれ。(もういっさいがっさい、一時にひっくるめてしまえ! 発狂ということは前にも人が言っていたよ。僕気がついていた!)いま僕はお前に、大学の学資が続けられなかったと言ったろう。ところがね、ことによったら、続けられたかもしれないんだよ。大学に納めるだけのものは、母が送ってくれたろうし、靴だとか、服だとか、パンだとかを買う金は、僕自分でかせげたろうと思う。確かにかせげたよ!
ラスコーリニコフはそう言いながら、ソーニャの顔は見てはいたけれど、もう彼女にわかるかどうかということを、少しも気にかけなかった。激しい熱情がすっかり彼をとらえてしまったのである。彼は一種の暗い歓喜に包まれていた。(実際、彼はあまり長く誰とも話をしなかったのである!)ソーニャは、この
「僕はその時悟ったんだよ、ソーニャ」と彼は感激にみちた調子で語をついだ。「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、身を屈することをあえてする人にのみ与えられたのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない――あえてしさえすればいいのだ! その時僕の頭には生まれて初めて、一つの考えが浮かんだ。それは僕より前に誰一人、一度も考えた事のないものだ! 誰一人! ほかでもない、世間の人間はこれまで誰一人として、この馬鹿げたものの傍を通りながら、ちょっと
「ああ、お黙んなさい、お黙んなさい!」とソーニャは両手を打鳴らして叫んだ。「あなたは神様から離れたのです。それで神さまがあなたを懲らしめて、悪魔にお渡しになったのです!……」
「ああ、思い出したよ、ソーニャ、それは僕が暗闇の中でねていた時、のべつ頭に浮かんだことなんだよ。じゃ、あれは悪魔が僕を誘惑したのだね? え?」
「お黙んなさい! ひやかすのはおよしなさい、あなたは
「お黙り、ソーニャ。僕はちっともひやかしてなんかいやしない。僕はちゃんと自分で知っている――僕は悪魔に誘惑されたんだ。お黙り、ソーニャ、お黙り!」と彼は陰鬱な調子でしつようにくり返した。「僕は何もかも知っている。そんなことはみんなもうあの時、暗闇の中にねているとき、さんざん考え抜いて、幾度も自分で自分にささやいたことなんだ……そんなことはみんな僕がごくごく細かいところまで、自分自身で議論し抜いたことなんだ。みんな! 知ってるよ、みんな! 僕はもうその時から、こんなおしゃべりにあきあきしちゃったんだ。すっかりあき果てたんだよ! 僕は何もかも忘れて、新しく始めたかったんだよ、ソーニャ。おしゃべりがやめたかったんだよ! まさかお前は、僕が無鉄砲にばかみたいなことをした、などと思いはしないだろうね? 僕は知者として行動したんだよ。ところが、それがつまり僕を破滅さしたんだ! お前まさかこんな事を考えはしないだろうね――僕が自分で自分に向かって、おれは権力を持っているかどうか? などと自問したり反省したりする以上、つまりそれを持たないわけだという事が、僕自身にわかっていなかったのだなんて、まさかお前そんなことを考えやしないだろうね。それから『人間はしらみかどうか?』などという問いを自ら発する以上、人間は僕にとってしらみじゃない、ただこんな考えを夢にも頭に浮かべない人にとってのみ、なんら疑問なしに進みうる人にとってのみ、初めて人間はしらみであることを、僕が知らないと思っているのかい?……ああ僕は、ナポレオンならあんなことをやったかどうかという問題で、あんなに長い間悩み通したんだもの、自分がナポレオンではないことを明確に感じたわけなんだ……僕はそういった空虚な反省の苦しみを、とうとう持ちこたえたんだよ、ソーニャ。そして、そんなものをすっかり肩から振り落としたいと思った。僕はね、ソーニャ、理くつぬきで殺したくなったのだ。自分のために、ただ自分のためだけに殺したくなったのだ! 僕この事については、自分にさえ嘘を吐きたくなかったんだ! 僕は母を助けるために殺したのじゃない――ばかな! また金と権力を得て、人類の恩人になるために殺したわけでもない。ばかばかしい! 僕はただ殺したのだ、自分のために殺したのだ。自分だけのために殺したのだ。それから先は、誰かの恩人になろうと、一生涯
「人を殺す? 人を殺す権利を持ってるんですって?」とソーニャは両手をうち合した。
「ええっ、ソーニャ!」と彼はいらだたしげに叫び、何か言い返そうとしたが、急にさげすむように口をつぐんだ。「話の腰を折らないでくれ、ソーニャ! 僕はただ一つのことをお前に証明しようと思ったんだ。ほかでもない、あの時は悪魔が僕を引きずって行ったのだ。そして、悪魔のやつ、あとになってから、『お前はあんなまねをする権利を持っていなかったんだ、なぜって、お前もみんなと同じしらみにすぎないのだから』と僕に説明しやがったんだ! 悪魔が僕を
「そして殺したんでしょう! 殺したんでしょう!」
「だが、いったいどんな風に殺したと思う? 殺人てものはあんな風にするもんだろうか? 僕が出かけて行ったように、あんな風に人を殺しに行くものだろうか……僕がどんな風に出かけて行ったか、それはいつか話して聞かせよう。いったい僕は婆あを殺したんだろうか? いや、僕は自分を殺したんだ、婆あを殺したんじゃない! 僕はいきなりひと思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!……あの婆あを殺したのは悪魔だ、僕じゃない……もうたくさんだ、ソーニャ、たくさんだ! 僕をうっちゃっといてくれ」ふいに、けいれんするような悩みに身をもだえながら、彼はこう叫んだ。「僕をうっちゃっといてくれ!」
彼は
「ああ、なんという苦しみだろう!」悩ましい悲鳴がソーニャの胸からほとばしり出た。
「さあ、これから僕はどうしたらいいんだろう、言ってくれ!」急に頭を振り上げ、絶望のあまり醜くゆがんだ顔を向けて彼女を見ながら、彼はこう尋ねた。
「どうしたらいいって!」と彼女は叫ぶなり、いきなり席をおどり上がった。と、今まで涙でいっぱいになっていた彼女の目が、急にらんらんと輝き始めた。「お立ちなさい! (と彼の肩をつかんだ。彼はほとんど
彼は驚愕に打たれた、というよりむしろ、彼女の意外な感激にあっけに取られたほどである。
「お前は懲役のことでもいってるのかね、ソーニャ? 自首しろとでもいうの?」と彼は陰鬱な調子で尋ねた。
「苦しみを身に受けて、それで自分をあがなうんです、それが必要なんです」
「いや! 僕はあんな連中んとこへ行きゃしないよ、ソーニャ」
「じゃ、どうして、どうして生きていくつもりなんですの?」とソーニャは絶叫した。「そんな事がいまできると思って? ねえ、お母さんにどんな話をなさるおつもり? (ああ、あの人たちは、あの人たちは、この先どうなるんだろう!)まあ、わたしは何を言ってるんだろう! あなたはもうお母さんも、妹さんも捨てておしまいになったんですわね。もうちゃんと捨ててしまったんです、捨ててしまったんです。おお、なんてことだろう!」と彼女は叫んだ。「だって、この人はもう何もかも自分で承知してるんだもの! でもどうして、どうして人を離れて生きていけます! あんたはこの先どうなるんでしょう!」
「赤ん坊じみたことを言うのはおよし、ソーニャ」と彼は低い声で言った。「いったい僕はやつらになんの罪があるんだい? なんのために自首に行くんだ? やつらに何を言おうってんだ? そんな事はみんなただの幻でしかないよ……やつら自身からして、幾百万の人を滅ぼして、しかも善行のつもりでいるんじゃないか。やつらはごまかし者の卑劣漢だよ、ソーニャ!……僕は行かない。それに、いったい何を言うんだい? 人は殺したが、金をとる勇気がなく、石の下へ隠しました、とでも言うのかね?」と彼は皮肉な薄笑いを浮かべながらつけ足した。「そんなことをしたら、やつらの方が僕を笑って、こう言うだろう。『ばか、なんだって取らなかったんだ? 卑怯者のばかやろう!』やつらはなんにも、なんにもわかりゃしないよ、ソーニャ、わかるだけの資格がないんだよ。なんのために僕が行かなきゃならないんだ! 僕は行きゃしない。赤ん坊じみたことはおよし、ソーニャ……」
「あなたお苦しみになってよ、お苦しみになってよ」死物狂いな哀願の表情で、彼の方へ両手を差し伸べながら、彼女はくり返した。
「僕は事によったら、まだ自分で自分を中傷していたかもしれないな」と彼は物思わしげに、陰鬱な調子でいった。「もしかしたら、僕はまだ人間で、しらみじゃないかもしれない。あまり急いで自分を責めすぎたかもしれない……僕はも少し闘ってやる」
不敵な微笑が彼の唇にしぼり出された。
「まあ、そんな苦しみをもって暮らすんですの! しかも一生涯、まる一生涯!……」
「そのうちに慣れるよ……」と彼は気むずかしい、もの思わしげな調子で言った。「実はね、話があるんだ」と彼は一分ばかりして、また言い出した。「泣くのはもうたくさんだ、用事にかからなきゃ。今日ここへ来たのは、僕が今お尋ねものになって、つかまえられかかっているってことを、お前に知らせるためなのだ……」
「ああ!」とソーニャはおびえたように叫んだ。
「え、なんだってそんな声を出すんだい! お前は自分の方から、僕が懲役に行くのを望んでるくせに、今度はそんなにびっくりするなんて? だがね、お聞き、僕はあんなやつらに屈しやしないから。僕はもっと闘ってやるんだ。そうすりゃ、やつらはどうすることもできやしない。やつらには本当の証拠がないんだ。僕は昨日とても危ない羽目に落ちて、もうだめかと思ったくらいだが、今日はまた事情が一変したんだ。やつらの持っている証拠は、皆どうにでもとれるようなものばかりだ。つまりやつらの起訴材料を、僕は自分に有利なようにふり向けることができるんだ、わかったかい? ほんとうにふり向けてみせるとも。僕はもう要領を覚えちゃった……しかし、監獄へは必ずぶち込まれるだろう。もしある事件が起こらなかったら、今日はぶち込まれていたかもしれないんだ。いや、まだ今日これからぶち込まれるかもわからないんだ……だけど、そんなことはなんでもないよ、ソーニャ。しばらくいたら、また出してくれるよ……だってやつらは一つだって本当の証拠を持っていないんだから、またこれから先も出て来やしないんだから。そりゃきっと受け合うよ。ところで、今やつらの持ってるような証拠では、人間一人台なしにするわけにゆかないんだ。いや、もうたくさんだ……僕はただお前に知っていてもらおうと思って……妹や母にはなんとかして、二人が信じないように、びっくりしないようにするつもりだ。もっとも、こんど妹の身の上は保証されたらしいから……したがって母も同様だ……さあ、これでおしまい。しかしそれにしても、用心しておくれ、もし僕がぶち込まれたら、お前監獄へ面会に来てくれる?」
「ええ、行きますとも! 行きますとも!」
彼らはさながら嵐の後に、ただ二人荒涼たる岸へ打上げられた人のように、わびしげに
「ソーニャ」と彼は言った。「僕が収監されても、いっそ来てくれない方がいいな」
ソーニャは答えなかった。彼女は泣いていた。幾分か過ぎた。
「あなた十字架を持ってらっしゃる?」ふと思い出したように、思いがけなく彼女はだしぬけに問いかけた。
彼は初め問いの意味がわからなかった。
「ないでしょう、ね、ないでしょう?――さあ、これを持ってらっしゃい、
「およこし!」とラスコーリニコフは言った。彼女を落胆させたくなかったのである。けれどすぐにまた、十字架を取ろうと差し伸べた手を引っ込めた。
「今はいけない、ソーニャ。あとにした方がいい」彼女を安心させるために、彼はそう言い足した。
「そうだわ、そうだわ、その方がいいわ、その方がいいわ」と彼女は夢中になって受けた。「苦しみに行く時にね、その時かけてらっしゃい。その時わたしのところへ寄ってね、わたしが掛けて上げますから。一緒にお祈りをして行きましょう」
この瞬間、誰かが三度ドアをノックした。
「ソフィヤ・セミョーノヴナ、はいってもいいですか?」と、誰やらたしかに聞き覚えのある、ていねいな声が聞こえた。
ソーニャはおびえたように戸口へ駆け寄った。白っぽい毛をしたレベジャートニコフ氏の顔が、ぬっと部屋の中をのぞきこんだ。
レベジャートニコフは心配らしい様子をしていた。
「わたしはあなたを訪ねて来たのです、ソフィヤ・セミョーノヴナ。どうも失礼しました……僕はきっとあなたがおられるだろうと思いましたよ」と言って、彼は急にラスコーリニコフに話しかけた。「いや、なに、別になんにも考えやしなかったんですよ……そんな風なことは……しかし、僕はつまりこう考えたんです……実はお宅でカチェリーナ・イヴァーノヴナが発狂したんですよ」彼はラスコーリニコフの方はうっちゃって、突然ソーニャに向かってぶっきらぼうに言った。
ソーニャはあっと叫んだ。
「といって、つまり、少なくとも、そう思われるんです。もっとも……僕らはどうも、どうしていいかわからないもんで、つまりこういうわけなんですよ! さっきあのひとが帰って来た――というより、どこからか追い出されて来たらしい。おまけに、少しなぐられたらしいんです……少なくとも、そう思われるんですよ……あのひとは長官のセミョーン・ザハールイチのところへかけつけたんですが、主人は留守だった。長官はやはりどこかの将軍のところへ、食事に招かれたんで……ところがどうでしょう、あのひとはその食事をしているところへ飛んで行った……そのもう一人の将軍のとこへね。そして、どうでしょう――とうとう強情を張り通して、長官のセミョーン・ザハールイチを呼び出したもんです。おまけに、まだ確か食事ちゅうのところをね。それからどうなったか、すぐに想像がおつきになるでしょう。もちろん、あのひとは追っ払われたんだが、当人の話でみると、あのひとは長官をさんざん
レベジャートニコフは、もっとしゃべり続けそうだったが、ようやく息をつぎながらその話を聞いていたソーニャは、いきなり
「確かに気が狂ったんですよ!」彼は連れ立って通りへ出ながら、ラスコーリニコフにこう言った。「僕はただソフィヤ・セミョーノヴナを驚かしたくないばかりに、『らしい』と言ったんですがもう疑う余地はありません。肺病患者にはこうした小結節が、脳へ出て来るそうですからね。残念ながら僕は医学の方のことを知らないんで。もっとも、僕はあのひとをなだめる試みはやってみたんですが、何一つ耳をかそうともしないんですよ」
「あなたは結節のことをあのひとに言ったんですか」
「いや、はっきり結節といったわけでもないんですよ。それに、あのひとはなんにもわかりゃしないんですからね! しかし僕が言いたいのはこうなんです。人ってものは、本質的に何も泣くわけがないのだと、論理的に説伏してやると、泣くのをやめるものですよ。これは
「それじゃ、生きていくのがあまり楽になりすぎますよ」とラスコーリニコフは答えた。
「待ってください、待ってください。もちろん、カチェリーナ・イヴァーノヴナにはかなり了解が困難でしょう。しかし、あなたはご承知ないかもしれませんが、パリではもう単なる論理的説伏の方法で、狂人を治療しうるという学説が現われて、まじめな実験が行なわれているんですよ。最近なくなったえらい学者の某教授が、その方法で治療しうると想像したのでね。その人の説によると、狂人には特別なオルガニズムの障害があるわけじゃない、精神錯乱はいわば論理的
ラスコーリニコフはもう前から聞いてはいなかった。自分の家の前まで来ると、彼はレベジャートニコフに一つうなずいて、門内へはいってしまった。レベジャートニコフはわれに返って、あたりを見回すと、先の方へ駆け出した。
ラスコーリニコフは自分の小部屋へはいり、そのまんなかに立ち止まった。『なんのために俺はここへ帰って来たのだろう?』彼は例の黄ばんだ傷だらけの壁紙や、
彼はこれまでかつてあとにも先にも、かばかりの恐ろしい孤独を感じたことがなかった!
そうだ、彼はソーニャを前よりさらに不幸にした今となって、ほんとうに彼女を憎むようになったかもしれない、こういうことを彼はもう一度感じた。
『俺はなんのために彼女の涙をねだりに行ったのだろう? なんのために彼女の生命をむしばむのが、ああまで俺に必要だったんだろう? おお、なんという卑劣なことだ!』
「俺は一人きりになるんだ!」彼はふいにきっぱりとこう言った。「あの女も監獄へ面会になんか来やしまい!」
五分ばかりすると、彼は頭を上げて、妙ににやりと笑った。それは奇怪な想念であった。
『ことによったら、ほんとうに懲役の方がいいかもしれない』という考えがふいに浮かんだのである。
彼は、頭に群がってくる漠とした想念と相対して、どれだけの間自分の部屋にじっとしていたか、覚えがなかった。ふいにドアがあいて、ドゥーニャがはいって来た。彼女は初め立ち止まって、ちょうど先ほど彼がソーニャを見たように、しきいの上から彼をみつめていたが、やがて部屋の中へはいり、昨日自分の席となっていた椅子に、彼と向き合って腰をおろした。彼は無言のまま、なんの想念もないように、ぼんやり彼女をながめた。
「怒らないでちょうだい、兄さん、わたしちょっと寄っただけなの」とドゥーニャは言った。
彼女の顔の表情は物思わしげではあったけれど、きびしいところはなかった。そのまなざしは澄んで、落ち着いていた。彼はこの女もやはり愛をもって、自分のところへ来たのだなと悟った。
「兄さん、わたしはもう何もかも、何もかも知ってるのよ。ドミートリイ・プロコーフィッチがすっかり説明して、話してくだすったの。兄さんはばかばかしい、汚らわしい嫌疑を受けて、苦しめられてるんですってね……でも、ドミートリイ・プロコーフィッチは、何も心配な事はないのに、ただ兄さんがやたらに気にして、恐怖観念に襲われてるんだって、そうおっしゃったわ。だけど、わたしそうは思いません。兄さんがどんなに憤慨して、体じゅうの血を沸き返らせてらっしゃるか、ようくわかります。この口惜しさが永久に
彼女はくるりとくびすを返して、ドアの方へ行きかけた。
「ドゥーニャ!」とラスコーリニコフは呼びとめて立ちあがり、そのかたわらへ近づいた。「あのラズーミヒンは、ドミートリイ・プロコーフィッチは、実にいい男だよ」
ドゥーニャはぽっと
「それで!」ちょっと待ってから、彼女はこう尋ねた。
「あの男は事務家で、勤勉で、正直な、そして強く愛することのできる男だ……じゃ、さようなら、ドゥーニャ」
ドゥーニャはすっかり真っ赤になったが、やがて急に不安げな面持ちになった。
「兄さん、まあそれはなんの事ですの。いったいわたしたちはほんとに、永久に別れでもするんですの、だってわたしに……そんな遺言みたいなことを言ったりして?」
「どっちにしても同じことだ……さようなら……」
彼はくるりと背を向けると、彼女から離れて窓の方へ行った。彼女はしばらく立ったまま、心配そうに兄を見ていたが、やがて不安に胸を騒がせながら出て行った。
いや、彼は妹に冷淡だったのではない。一瞬間(いよいよ最後の瞬間)、彼は妹をひしと抱きしめて
『今おれが抱きしめたということを、あとになってあれが思い出したら、おぞけをふるうかもしれない。そして、おれが妹の接吻を盗んだというだろう!』
『ところで、あれは持ちこたえられるだろうか、どうだろう?』と彼は五、六分してから、こう心の中で言い足した。『いや、持ちこたえられまい。あんな連中には持ち切れるものじゃない! あんな連中はけっして持ち切れたためしがない』
彼はソーニャのことを考えたのである。
窓からは冷気が流れて来た。外はもはや前ほど赤々と日がさしていなかった。彼はいきなり帽子をとって、外へ出た。
彼はもちろん、自分の病的な状態をいたわることができなかったし、またいたわろうともしなかった。けれど、この絶間なき不安な内部の恐怖は、何かの結果を残さずに終わろうはずがなかった。彼がまた本当の大熱にかかって、床についてしまわないのは、つまりほかならぬこの絶間なき内部の不安が、彼の足を支え、意識を保っていたがためかもしれない。が、それはなんとなく人工的、一時的のものにすぎなかった。
彼は当てもなくさまよい歩いた。太陽は沈みかかっていた。近ごろ彼はある特殊な憂愁を覚えるようになっていた。そこには何もかくべつ刺すようなものも、焼けつくようなところもなかったが、そこからは何かしら絶間のない、永遠の感じが漂って来て、かの冷たいいっさいを死化さすような、救いなき憂愁の長い年月が予感された。『方尺の空間』における無意味な永遠性が予感された。たいていたそがれ時になると、この感触はひとしお激しく彼をさいなみ始めるのであった。
「何かしら日没などに左右されるような、この愚劣きわまる、純然たる肉体的衰弱をかかえてるんだから、よっぽど気をつけなけりゃ、どんな馬鹿をしでかすかしれやしない! ソーニャのところはおろか、ドゥーニャのところへだっても
彼を呼ぶものがあった。振り返ってみると、レベジャートニコフが飛んで来ている。
「どうでしょう、僕はあなたのところへ行ったんですよ。あなたを捜してるんです。どうでしょう、あのひとは自分の計画を実行して、子供を連れて出ちゃったんですよ! 僕はソフィヤ・セミョーノヴナと一緒に、やっとのことで捜し出したんです。見ると、自分はフライパンをたたいて、子供たちを踊らせてるんですが、子供たちはしくしく泣いてるという始末でね。四つ
「で、ソーニャは?……」とラスコーリニコフはレベジャートニコフの後ろから急ぎながら、心配そうに尋ねた。
「ただもう夢中です。いや、ソフィヤ・セミョーノヴナじゃない、カチェリーナ・イヴァーノヴナの方です。もっとも、ソフィヤ・セミョーノヴナも夢中ですがね。が、カチェリーナ・イヴァーノヴナの方は、まるっきり夢中なんです。ぼく断言しますが、全く気が狂っちゃったんですな。警察へ連れて行かれるに決まっているが、もしそうなったらどんなショックを受けるか、およそ想像がおつきでしょう……あの人たちは今××橋の傍の
橋からごく近い濠端で、ソーニャの住んでいる家から二軒とへだてぬところに、ちょっと人だかりがしていた。ことに男の子や女の子が駆け集まっていた。カチェリーナのしゃがれたかきむしるような声が、早くも橋のあたりから聞こえていた。それは実際、弥次馬連の興味をひくに足る奇怪な観物だった。いつもの古ぼけた着物をきて、ドラデダーム織の肩掛をかぶり、見苦しい塊りになって脇の方へずっている壊れた帽子を頭にのせたカチェリーナは、全く正真正銘の逆上状態になっていた。彼女は疲れて息をきらせていた。その弱り果てた肺病やみらしい顔は、ふだんよりひとしお苦しそうに見えた(それに、肺病患者というものは、家の中にいる時よりも外光の中で見る方が、ずっと病人くさく、醜く見えるものである)。けれど、彼女の興奮状態はなかなか静まらなかった。彼女は一刻一刻とますますいらだたしげになっていった。彼女は子供たちに飛びつくようにして、どなりつけたり、さとしたり、人の大勢いる前で踊り方や歌い方を教えたり、なんのためにこんな事をするのか言い聞かせたりしたが、子供たちの飲み込みが悪いのに業を煮やして、彼らをたたくのであった。それから、何かしさしにして、群衆の方へ飛んで行き、ちょっとでも小ぎれいな
「およし、ソーニャ、およし!」彼女は急ぎ込んで息を切らし、ごほんごほん
「どうぞね、あなたお願いですから、このおばかさんに言い聞かしてやってくださいな――これよりりこうなやり方はないってことを! 手風琴回しだって稼ぎがあるんですもの、わたしたちなんかすぐに見分けてもらえます。
彼女は自分でもほとんど泣かないばかりに(しかしそれでも、のべつやみ間なく早口にしゃべりたてるじゃまにはならなかった)、しくしく泣いている子供たちを彼に指さして見せた。ラスコーリニコフは帰宅をすすめようと試みながら、彼女の自尊心に働きかけるつもりで、手風琴回しと同じように町をうろつき歩くのは、立派な女学校長たるべき彼女としてはしたないことだ、とまで言ってみた。
「女学校、は、は、は! そんなおとぎ話は、いくら美しくたってだめですよ!」とカチェリーナは叫んだが、笑ったかと思うと、すぐさま激しく咳き入るのであった。「いいえ、ロジオン・ロマーヌイチ、夢はもう消えてしまいました! わたしたちはみんなに捨てられたのです!……あの将軍め……ロジオン・ロマーヌイチ、実はねえ、わたしあいつにインキ
Malborough s'en-va-t-en guerre
Ne-sait quand reviendra ……
Ne-sait quand reviendra ……
マルボルーの大将は戦争をしに行かしゃった
いつ帰りゃんすことじゃやら
いつ帰りゃんすことじゃやら
と彼女はうたいかけたが、
「いや、これよかやっぱり『
Cinq sous, cinq sous
Pour monter notre mnage……
Pour monter notre mnage……
たったの五銭、たったの五銭
それが暮しの命綱
それが暮しの命綱
ごほん、ごほん、ごほん! (彼女は身もだえしながら咳き入った)。着物を直しておやり、ポーレチカ、肩が下がったじゃないか」と彼女はようやく咳の切れ目に注意した。「こうなったら、お前たちはいっそう
Cinq sous, cinq sous
また兵隊が来たよ! いったいお前さん何用だい?」
なるほど、一人の巡査が群衆を押し分けてきた。が、それと同時に、官吏の略服に
「あなた、どうも有難うございます」と彼女は高飛車に言い出した。「わたしたちがこんなことをするようになったわけと申すのは……お金を預っておくれ、ポーレチカ。ね、ごらん、この通り不幸に沈んでいる哀れな貴婦人をさっそく助けてくださる、高潔な腹の大きい方があるもんだよ。あなた、これが由緒ただしい、貴族といってもいいくらいの家に
「往来でこんなことは禁じられておるんです、ぶていさいなことをしちゃいけません」
「お前こそ無作法ものじゃないか! わたしは手風琴回しと同じわけだよ、お前の知ったことじゃありゃしない!」
「手風琴回しなら鑑札がいります。ところが、あなたは自分勝手にそんなことをして、人だかりなんかさしているんですからな。お住まいはどちらです?」
「なに鑑札だって?」とカチェリーナはわめき立てた。「わたしは今日主人の葬式をしたばかりなんだよ。なんの鑑札どころかね!」
「奥さん、奥さん、まあ気をお落ち着けなさい」と官吏は口を入れた。「さあ行きましょう、わたしがあなた方を送ってあげます……こんなに人だかりのしている所ではぶていさいですから……あなたは体も本当でないし……」
「どういたしまして、どういたしまして、あなたはなんにもご存じないのです!」とカチェリーナは叫んだ。「わたしたちはネーフスキイ通りへ行くんですもの――ソーニャ、ソーニャ! まあ、いったいあの子はどこへ行ったんだろう? やっぱり泣いてるんだ! お前たちはみなそろいもそろってどうしたというんだね!……コーリャ、レーニャ、お前たちはどこへ行くの?」と彼女はぎょっとしたように叫んだ。「まあ、なんてばかな子供たちだろう! コーリャ、レーニャ、いったいあの子たちはどこへ行くんだろう!」
それはこうだった。往来の人だかりと、気の狂った母親の突飛なしぐさにすっかりおびえ上がっていたコーリャとレーニャは、巡査が彼らをつかまえて、どこかへ連れて行こうとするのを見ると、いきなり言い合わせたように、手に手を取って駆け出したのである。哀れなカチェリーナはけたたましい悲鳴を上げ、そのあとを追っかけて行った。息を切らせながら泣き泣き走って行く彼女の姿は、見苦しくもあれば痛ましくもあった。ソーニャとポーレチカも、続いて駆け出した。
「つれて帰っておくれ、あの子たちをつれて帰っておくれ、ソーニャ! ああ、なんてばかな、恩知らずな子供たちだろう! ポーリャ! 二人をつかまえておくれ……お前たちのためを思えばこそわたしは……」
彼女は一生懸命に走る勢いでつまずいたと思うと、どうとばかりその場へ倒れた。
「まあ、
人々ははせ集まって、そのまわりにひしめき合った。ラスコーリニコフとレベジャートニコフは、まっさきに駆けよった。官吏も同じく急いで来た。巡査もそのあとからついて来たが、事が面倒になりそうだなと直覚して、片手を振りながら、『やれやれ!』とつぶやいた。
「どいた! どいた!」と彼は四方から詰め寄る群衆を追いのけようとした。
「死にかかってるぞ!」と誰かがわめいた。
「気が狂ったんだよ!」ともう一人が言う。
「ああ、とんでもない!」と一人の女が十字を切りながら言った。「その娘っ子と
けれど、カチェリーナをよく調べてみたとき、彼女はソーニャの考えたように、石にぶっつかって怪我をしたのではなく、歩道を
「これはわたしも知っております、見たことがあります」と官吏はラスコーリニコフとレベジャートニコフに向かって、しどろもどろに言った。「こりゃ肺病ですよ。こんな風に血がどっと出て、
「こっちへ、こっちへ、わたしの家へ!」とソーニャは祈るように言った。「わたしはちょうどここに住まっているのですから!……ほら、あの家、ここから二軒目ですの……さ、わたしのところへ、早く早く!……」一同に飛びかかるようにしながら、彼女は言った。「お医者を呼びにやってください……ああ、どうしよう!」
官吏の尽力で、事はうまく運んだ。巡査までがカチェリーナを運ぶ手伝いをした。彼女はほとんど死んだような有様で、ソーニャのところへかつぎこまれ、寝台の上にねかされた。出血はまだやまなかったが、当人はだんだん正気に返りかけたらしかった。部屋の中へは、ソーニャのほかにラスコーリニコフとレベジャートニコフ、それに官吏と、群衆を追い払った巡査が、一どきにはいって来た。群衆の中の幾人かは、戸口のところまでついて来た。ポーレチカは、震えながら泣いているコーリャとレーニャの手を引いてきた。カペルナウモフの家のものも集まってきた。当の亭主はびっこで目っかちで、
医者や
その間に、カチェリーナはやや落ち着いて、
「子供たちはどこ?」と彼女は弱々しい声で尋ねた。「ポーリャ、お前二人を連れて来たかえ? ほんとにばかったらない!……え、なんだって駆け出したの……ああ!」
血はまだ彼女の乾いた唇に、いっぱいこびりついていた。彼女は調べてみるように、あたりにぐるりと目をくばった。
「なるほど、お前はこんな風に暮らしてるんだね、ソーニャ! わたしはまだ一度も来たことがなかったが……思いがけなく見られることになった」
彼女はさも苦しげにソーニャを見た。
「わたしたちはすっかりお前の生血を吸ってしまったねえ、ソーニャ……ポーリャ、レーニャ、コーリャ、ここへおいで……さあ、これでみんなだ、ソーニャ、どうぞこの子たちを引取っておくれ……手から手へ渡すよ……わたしはもうたくさんだ!……芝居もこれで幕切れだ! ああ! もうねさせておくれ、せめて死ぬだけでも静かに死なせて……」
人々は再び彼女を枕につかせた。
「え? 坊さん?……いらない……わたしたちにどうしてそんな余分なお金があるものかね?……わたしには
不安な失神状態がしだいに強く彼女を領していった。時おり彼女は身震いして、あたりを見回し、ちょっと一瞬、一同を見分けたが、すぐに意識はうわ言にかわった。彼女は苦しげにしゃがれた息をした。何か喉でごろごろいっている風だった。
「わたしはあの人に言いました。閣下……」一言ずつで息を継ぎながら、彼女は叫んだ。「あのアマリヤ・リュドヴィーゴヴナめ……ああ! レーニャ、コーリャ! お手々を腰に当てて、早く、早く、
Du hast Diamanten und Perlen ……
ダイアモンドや真珠ばかりか……
その先はどうだったけ? そうだ、これを歌ったらいいよ……
Du hast die schnsten Augen.
Mdchen was willst du mehr?
Mdchen was willst du mehr?
上なく美しい瞳 を持って
乙女よこの上なにを望むぞ?……
乙女よこの上なにを望むぞ?……
ふむ、そりゃそうでなくってさ! was willst du mehr――なんてことを考えつくものだろう、まぬけめ!……ああそうだ、まだこんなのがあったっけ。
真昼の暑さ!……ダゲスタンの!……谷間にて!……
ああ、わたしはこれがどんなに好きだったろう……わたしはこの
彼女は激しく興奮しながら身を起こそうとあせった。とうとう彼女は、一言一言叫ぶようにしては息を継ぎながら、何やら刻々募っていく
真昼の暑さ!……ダゲスタンの!……谷間にて……胸に鉛の弾丸 を持ち!……(レールモントフの詩「夢」)
「閣下!」ふいに彼女はさめざめと涙にくれながら、胸を裂くような悲鳴とともにこう叫んだ。「みなし
人々はもう一度彼女を起こした。
「たくさんだ!……もうおさらばをしていいころだ!……さようなら、ソーニャ、お前も苦労したねえ!……みんなで
彼女は再び意識を失った。けれど、この最後の
ソーニャは空しい
いつの間にどうして出たのか、例の『賞状』がふと寝台の上に、カチェリーナのそば近くころがっていた。それはすぐそこの枕もとにあった。ラスコーリニコフはそれに気がついた。
彼は窓の方へ離れて行った。レベジャートニコフがその傍へ飛んで来た。
「死にましたなあ!」とレベジャートニコフは言った。
「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたに一言申し上げなけりゃならんことがあるのですが」とスヴィドリガイロフが寄って来た。レベジャートニコフはすぐに場所を譲り、気をきかして姿を消してしまった。スヴィドリガイロフはびっくりしているラスコーリニコフを、なおも奥まった隅の方へ引っ張って行った。
「今度のいっさいの面倒は、つまり葬儀万端のことは、わたしが引受けます。なに、ただ金さえあればいいんでしょう。ところが、この前もお話しした通り、わたしにはいらない金があるんですから。わたしはこの二人の
「いったいあなたはなんの目的で、そんな慈善の大盤振舞をするんです?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「ええっ! 疑り深い人だ!」とスヴィドリガイロフは笑い出した。「そう言ったじゃありませんか、その金はわたしにゃ不用なんだって。それに、単に人道上からいっても、あなたはこれだけのことすら許さないとおっしゃるんですか、え? だってあの女は(と彼は
彼は意味ありげに目くばせでもするような、陽気ないたずらっ子らしい顔つきで、ラスコーリニコフから目も放さず、これだけのことを言い終わった。ラスコーリニコフは、ソーニャに言った自分自身のことばを聞き、みるみる真っ青になって、冷水を浴びせられたような気がした。彼はたちまち一歩後ろへよろけて、けうとい目つきでスヴィドリガイロフを見つめた。
「ど、どうして……あなたは知ってるんです?」かろうじて息をつぎながら、彼はささやくように言った。
「だって、わたしはここに、壁
「あなたが?」
「わたしが」体をゆすって笑いながら、スヴィドリガイロフはことばを続けた。「で、親愛なるロジオン・ロマーヌイチ、誓って言いますが、わたしはあなたに驚くほど興味を感じ出したんですよ。ねえ、わたしはそう言ったでしょう――われわれはきっとうまが合うだろうって、ちゃんと予言しといた――ところが、はたしてこの通りうまが合った。いや、わたしがどんなに調子のいい人間か、今におわかりになりますよ。見ておってごらんなさい、わたしとなら、なに、一緒に暮らしていけますよ……」
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ラスコーリニコフにとって、不思議な時期が襲ってきた。ちょうどふいに霧が目の前に立ちこめて、出口のない重苦しい孤独の中へ、彼を閉じ込めてしまったようなぐあいである。ずっと時がたった後で、この時期のことを思い起こしてみると、その当時意識がもうろうとしていたらしく、しかも途中いくたびか切れ目はあったものの、それが最終の破局まで続いていたのに、彼は自分でも気がついた。彼はそのころさまざまなこと、たとえば起こった事の期間とか時日とかで考え違いしていた――それを彼ははっきりと確信することができた。少なくとも、その後何かの事を思い起こして、その思い出したものを自分にはっきりさせようと努めた時、彼は多く第三者から受けた情報にたよりながら、いろいろ自分のことを知ったのである。彼は一つの事件を別の事件とごっちゃにしたり、またはある事件を
ことに彼の心を騒がせたのはスヴィドリガイロフであった。彼の心はスヴィドリガイロフの上に縛りつけられていた、と言ってもいいくらいである。カチェリーナの臨終の時、ソーニャの住まいでスヴィドリガイロフの言ったことば――彼にとってあまりにも恐ろしい、あまりにも明白に語られたことばを聞いて以来、彼の平常の思想の流れはかき乱されたようなぐあいになった。しかし、この新しい事実が極度に彼を騒がしたにもかかわらず、ラスコーリニコフはなぜか事態の闡明を急ごうともしなかった。時々彼はどこか遠くの淋しい場末で、みすぼらしい安料理屋のテーブルに向かって、一人
「いったいあなたはどうなすったんです、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで生きた空もないみたいじゃありませんか? まったく、聞きもし見もしていらっしゃるけれど、なんにもおわかりにならない様子だ。もっと元気を出しなさいよ。まあ、一つよくお話ししましょう。ただ残念なことには、用事が多くてね、人のことだの自分のことだの……ああ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼は急に言い足した。「人間は誰しも空気が必要ですよ。空気がね……それが一番ですよ!」
折からそこへ階段を上って来た司祭と補祭を通すために、彼はいきなり
彼は戸口に立ち止まった。
彼はたまらなく苦しくなった。もしこの瞬間どこかへ行ってしまって、完全に一人きりになれたら、よしやそれが一生続こうとも、彼は自分を幸福と思ったに相違ない。けれど困ったことには、このごろ彼はほとんどいつも一人でいるくせに、どうしても自分が一人だと感じられないのであった。彼はしょっちゅう郊外へ去ったり、街道へ出たり、一度などは、どこかの森の中までさまよい入ったこともあるが、淋しい場所へ行けば行くほど、何物かの間近な不安にみちた存在が、いよいよ強く意識された。それは恐ろしいというのではないにせよ、何かしら非常にいまいましい気持を呼び起こすので、彼はいつもあわてて街の方へ引っ返し、群衆の中に交じったり、安料理屋や酒場へ行ったり、古物市や
彼はカチェリーナの葬式が今日だったことを思い出して、これに参列しなかったのを喜んだ。ナスターシャが食事を運んできた。彼は飢えに近いほどの異常な食欲をもって、食いかつ飲んだ。彼の頭はいつもよりせいせいして、彼自身もこの三、四日に比べると、だいぶ落ち着いていた。そして、先ほどの矢も楯もたまらぬほどの恐怖に、われながら不思議な感じがした(もっとも、それはほんの頭の一角をかすめただけであるが)。そのときドアがあいて、ラズーミヒンがはいって来た。
「ああ! 食ってるな、してみると病気じゃないんだね!」とラズーミヒンは言いながら、椅子を取り、ラスコーリニコフに向き合ってテーブルについた。
彼は興奮している様子で、それを隠そうともしなかった。彼は明らかにいまいましそうな調子で話したが、しかし急ぎもしなければ、かくべつ声を高めるでもなかった、彼の心中には何か特殊な、容易ならぬ意向が蔵されているようにも考えられた。
「おい聞けよ」彼は断固たる調子で切り出した。「僕はもう君らのことはどうなったっていっさい知らん。僕には何もわかりっこないということを、今こそ明瞭に悟ったからだ。しかし、どうか僕が君を尋問に来たなどと思わないでくれ。くそくらえだ! こっちがごめんだよ! よし君がいま自分で秘密を全部打明けたって、僕は聞こうともしないで、
「君はよほど前に二人に会ったのかね?」
「たった今だ。ところが君はあの時以来会わないんだな? いったいどこをほっつき歩いてたんだ、お願いだから聞かせてくれ、僕はもう三度も君んとこへ寄ったんだぜ。お母さんが昨日から病気で重態なんだ。君のとこへ来る来ると言ってね、アヴドーチャ・ロマーノヴナがいくら止めても、まるで聞こうとしないんだ。『もしあの子が病気だったら、もしあの子が気でも触れてるのなら、母親でなくて誰があの子の看護をします?』とこう言うのさ。で、あの人を一人うっちゃっとくわけにもいかないから、我々はみんなでここへやって来た。この戸口へ来るまで、二人でお母さんをなだめなだめしたんだ。ところが、はいってみると、君がいない。お母さんはここんとこに腰かけておられたんだ。十分ばかりじっとすわっておられた。僕らは黙ってその傍に立っていたよ。するとお母さんは立ち上がって、『もしあの子が外へ出られるとすれば、病気ではないわけだ。そして、母親のことも忘れてしまったのだろう。そうだとすれば、わが子のしきいぎわに立って、施し物でももらうように、優しくしてくれとねだるのは、母親として不見識な恥ずかしい話だ』とおっしゃってね、家へ帰って、どっと床に就かれたのだが、いま熱が出てるんだよ。そして『わかった、あの子は自分の女のためになら暇があるんだろう』なんて言われるのさ。自分の女というのは、お母さんの腹では、ソフィヤ・セミョーノヴナのことなのさ。君の
「いったい君はいま何をしようと思ってるんだい?」
「僕がいま何をしようと思ってたって、君の知ったことじゃないよ!」
「気をつけろよ、君は無茶飲みを始めるんだろう!」
「どうして……どうして君それがわかった?」
「わからなくってさ」
ラズーミヒンはちょっと口をつぐんだ。
「君はいつも非常に思慮の深い男だった、けっして、けっして気なんか狂やしなかったんだ」と彼はふいに熱した調子で叫んだ。「まさに君の言う通り、僕は無茶飲みをやるんだ……失敬!」
こう言って、彼は出て行きそうにした。
「一昨日だったと思う、僕は妹と君の話をしたんだよ、ラズーミヒン」
「僕の話? だって……一昨日どこで君はあのひとに会えたんだい?」ラズーミヒンは急に立ち止まって、いくらか顔の色さえ青くした。
彼の心臓がその胸の中で徐々に緊張して、鼓動を始めたのが察しられた。
「あれがここへ来たのさ、一人で。ここに腰をかけて、僕と話したんだ」
「あのひとが!」
「そうだ、あれが!」
「で君は何を言ったんだね……つまりその、僕のことで?」
「僕はあれに君のことを、非常にいい、正直な、よく働く男だといった。君があれに
「自分で知ってるって?」
「そうさ! あたり前だ! たとえ僕がどこへ行こうと、僕の身に何が起ころうと――君はいつまでも二人の保護者でいてくれるだろうね。僕は、いわば君に二人を手渡しするんだよ、ラズーミヒン。僕がこんなことを言うのは、君がどんなにあれを愛しているか十分に知り抜いてる上、君の心の純潔を信じているからなんだよ。そのほかに、あれも君を愛するようになるかもしれない、いや、もしかすると、もう愛してるかもしれないのを、ちゃんと承知しているからさ。さあ、これで君自分の好きなように決めるがいい――無茶飲みをやってもいいかどうか」
「ロージカ……実はね……つまり……ええい、くそっ! だが、君はいったいどこへ行くつもりなんだい? まあ、それが秘密だというなら、それはそうでかまわないさ! しかし僕は……僕は今にその秘密を探り出すよ……そして、きっとくだらないばかばかしいことに違いないと信じてるよ。君は始終一人で何かたくらんでるんだよ。が、とにかく、君はすばらしい男だ! 実にすばらしい男だ!……」
「僕さっき言い添えようと思ったのに、君がじゃまをしたので言いそびれたが、君はさっき神秘だの秘密だの、そんなもの知る必要がないと言ったが、あれはすこぶるいい考えだよ。時の来るまではうっちゃっといてくれ、心配しないがいいよ。何もかもそのうちにわかる、つまり必要な時が来ればだ。昨日あの男が僕に向かって、人間には空気が必要だ、空気が、空気がと言ったが、僕はこれからすぐその男のとこへ行って、どういう意味か聞いてこようと思うんだ」
ラズーミヒンは、物思わしげに興奮した様子で立ったまま、何やら思い合せていた。
『これは政治上の秘密結社に関係してるんだ! てっきりそうだ! そして何か思い切った事を断行しようと考えているのだ――もうそれに違いない! ほかには全く解釈の仕方がないじゃないか。それに……それにドゥーニャもこれを知ってるんだ……』と彼は急に心の中で考えた。
「じゃ、アヴドーチャ・ロマーノヴナが君のとこへ来るんだね」一語一語に気をつけながら、彼は言った。「ところで、君自身は、もっと空気がいる。空気がと言った男に、会いに行こうてんだね。で……で、でみると、あの手紙も……あれもやはり同じ所から出たものだろうね」と彼はひとりごとのようにことばを結んだ。
「手紙って?」
「妹さんがある手紙を受け取ったんだ、今日。で、あのひとはたいへん心配そうな様子だったよ。たいへん。あまりたいへんすぎるくらいだったよ。僕が君のことを言い出すと――あのひとは黙っててくれと言ったっけ。それから……それから、ことによると、我々は遠からず別れるようになるかもしれないと言われた。それからまた、何かしら熱心に僕に礼を言ったあとで、自分の部屋へはいって、
「あれが手紙を受け取った?」考え深そうな調子で、ラスコーリニコフは問い返した。
「そう、手紙だ。じゃ君は知らなかったのかい? ふむ」
二人ともしばらく黙っていた。
「じゃ失敬するよ、ロジオン。僕はね、君……一時ちょっと……いや、しかし、さよならだ。実はね、一時ちょっと……、しかし、さよなら! 僕もやはり行かなきゃならない所があるんだ。飲みゃしないよ。今はもうやめた……なんのくそっ!」
彼は急いだ。けれども、もう外へ出ていったんほとんどドアをしめてから、ふいにまたあけて、どこかそっぽを見ながら言いだした。
「ついでにちょっと! 例の人殺しを覚えてるだろう? ほら、あのポルフィーリイさ、婆さんさ? いいかい、あの犯人がわかったんだよ、つまり自白してね、証拠をすっかり提供したのさ。それが例のペンキ屋の一人なのさ。ほら、僕があのとき弁護してやった、覚えてるだろう? どうだい、君は本当にできないだろうが、庭番と二人の証人が上がって来た時に、階段で仲間を相手に
「どうか聞かしてくれないか、いったい君はそんなことをどこから知ったんだい? そして、なぜ君はこんなことにそう興味を持つんだい?」明かに興奮の様でラスコーリニコフは尋ねた。
「あれ、あんなことをきいてるよ! なぜ僕が興味を持つかって? きいたもんだね!……ほかの人からも知ったが、ポルフィーリイの口からも知ったんだよ。もっとも、おもにポルフィーリイから一部始終を知ったんだ」
「ポルフィーリイから?」
「ポルフィーリイからよ」
「いったい何を……何をいったいあの男は?」とラスコーリニコフはおびえたように問い返した。
「あの男は実にうまく説明してくれたよ。先生一流の心理的
「あの男が説明したのかい? 自分で君に説明したのかい?」
「自分でだよ、自分でだよ。失敬! あとでまた何やかや話すとして、今は少し用があるから。いずれ……僕も実は一時そう思った事があるんだよ……が、まあ、そんなことはいいや。あとにしよう!……僕ももう飲む必要なんかない。君は酒なしで僕を酔わしてくれた。僕は酔ってるんだぜ、ロージカ! 今は酒なしで酔ってるんだよ。じゃ、失敬。またくるよ、じきに」
彼は出て行った。
『あいつは、あいつは政治上の秘密結社に関係してるんだ、確かにそうだ、それに違いない!』とラズーミヒンはゆっくり階段をおりながら、すっかり心の中で決めてしまった。『そして、妹まで引っ張り込みやがった。それはアヴドーチャ・ロマーノヴナの性質として、大きに、大きにありそうなことだ。二人はしょっちゅう会ってるんだ……そういえば、あのひともおれににおわせたことがある。あのひとのいろんなことば……ちょっとしたことばの端々や……におわすような話しっ振りから見ても、つまり、そういうことになる! だってそれ以外に、このごちゃごちゃを説明しようがないじゃないか? ふむ! 俺もちょっと一時あんな事を考えかけたが……ちょっ、いまいましい、俺はいったい何を考え出したんだろう。そうだ、あれは一時の心の迷いだった。俺はあの男に対してすまんことをした! それはあの男があの時廊下で、ランプの傍で、俺にそういう迷いを起こさせたのだ。ちょっ! あれは俺としては実に汚らわしい、無作法な、卑劣な考えだった! ミコールカのやつ、自白してくれてえらいぞ……これで以前のこともすっかり説明がつく! あの時のあの病気も、ああした奇怪な振舞いも……それから以前まだ大学にいた時分だって、いつもああいう
彼はドゥーニャのことを思い浮かべて、いろいろ心に照らし合わせていた。と、急に心臓がしびれるような気がしてきた。彼はいきなりおどり上がって、そのまま一もくさんに駆け出した。
ラスコーリニコフは、ラズーミヒンが出て行くが早いか、立ち上がって、くるりと窓の方へ向き、まるで自分の部屋の狭いのを忘れたように、隅から隅へと一、二ど歩き出したが……再び長椅子へ腰をおろした。彼はなんだか身も心も新しくなったような気がした。また、闘うんだ――それはつまり、出口が見つかったことになる。
『そうだ、つまり出口が見つかったわけだ! これまではあまり始終ぴったりしめ切って、堅く栓をしてしまっていたものだから、苦しくて圧迫に堪えなかったのだ。まったく頭が妙にぼうっとしてしまったのだ。ポルフィーリイのとこでミコールカの一件を見て以来、おれは出口もない狭くるしい中で、息がつまりそうだった。ミコールカ事件の後で、同じ日にソーニャの所でも一幕あった。おれはその一幕を、予期したのとは全然ちがった結末にしてしまった……つまり瞬間的に急激に心が弱ったのだ! 一どきに! そして、あの時おれはソーニャに同意したじゃないか。自分で同意したのだ、心底から同意したのだ。こんな事実を胸に抱いていては、とても一人で生きて行けるものではないってことに同意したのだ! ところで、スヴィドリガイロフは? スヴィドリガイロフは謎だ……スヴィドリガイロフのことは気になる。それは事実だが、なんだか方面が違うような気がする。スヴィドリガイロフとも、やはり闘わなければならんかもしれない。ことによると、スヴィドリガイロフは立派な出口になるかもしれない。しかし、ポルフィーリイは別問題だ』
『そこで、ポルフィーリイは直接ラズーミヒンに説明したんだな、心理的に説明したんだな! またしても、あのいまいましい一流の心理的方法を持ち出したのだ! あのポルフィーリイが? あのポルフィーリイが、二人の間にああいうことのあった後で、ミコールカの現われる前に二人が面と面をつき合わせて、ああいう一場を演じた後で、よしただの一分でも、ミコールカを犯人だと思い込むなんて、そんなことがあってたまるものか! あの時の出来事に対しては、正しい解釈を見いだすことはできない。ただ一つの解釈を別として(ラスコーリニコフはここ四、五日いくたびも、ポルフィーリイとのこの一幕を、きれぎれに思い出した。ひとまとまりにしては、どうしても記憶を引き出すことができなかった)。あの時二人の間には、もうこうなった以上ミコールカなどの力では、ポルフィーリイの確信の根底を動揺さすべくもないようなことばが発せられ、そうした挙動やしぐさが演ぜられ、そうした視線が交換され、そうした声である種の事が語られ、どんづまりの境目まで押して行ったのだ(ポルフィーリイはミコールカの腹の中など、最初の一言一動で、そらんずるように見抜いてしまったのさ)』
『だが、いったいなんてことだろう! ラズーミヒンまでが嫌疑をかける気になったとは! してみると、あの廊下の、ランプの傍の一場は、あの時ただではすまなかったのだ。そこで、あの男をポルフィーリイのとこへ駆けつけたわけだ……しかし、ポルフィーリイはどういうわけであの男をだましにかかったのか? ラズーミヒンの目をミコールカの方へそらせたのは、どういう目的なんだろう? いや、確かにやつは何か考え出したに違いない、これにはきっと計画がある、だがどんな計画か? もっとも、あの朝からずいぶん時日がたっている――あまり、あまりたちすぎてるくらいだ。それだのに、ポルフィーリイのことは噂も影もない。ともかく、これはむろんいいことじゃない……』ラスコーリニコフは帽子を取って、考えに沈みながら、部屋を出て行った。この間じゅうから、彼が自分で少なくも健全な意識を持っていると感じたのは今日が初めてだった。『まず、スヴィドリガイロフの片をつけなくちゃ』と彼は考えた。『どうでもこうでも、一刻も早く。あの男もきっと俺がこっちから行くのを、待っておるに違いない』と、ふいにこの瞬間、彼の疲れた心の底から、なんともいえない憎悪の念がこみ上げてきて、スヴィドリガイロフかポルフィーリイか、二人のうちどちらでも殺してしまいかねないような気がした。少なくも、もし今でなければ、いつかあとでやっつけられそうに感じた。『まあ見てみよう、見てみよう』と彼は心にくり返した。
しかし、彼が入り口の廊下へ出るドアをあけた拍子に、思いがけなく当のポルフィーリイにばったり出会った。こちらは彼の部屋へはいって来るところであった。ラスコーリニコフはちょっと一瞬間、棒立ちになってしまったが、それはほんの瞬間のことだった。不思議にも、彼はさしてポルフィーリイに驚きもしなかったし、ほとんどおびえもしなかった。彼はただぴくっとしただけで、たちまちとっさの間に心構えをした。
『ことによると、これで大団円かもしれない! だが、なんだって猫みたいに、こっそりやって来やがったんだろう? おれはちっとも気がつかなかった! まさか立聞きしていたのでもあるまい?』
「こんな来客は思いがけなかったでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ」とポルフィーリイは笑いながら叫んだ。「もうだいぶ前から一度お寄りしようと思ってたもんですから、ふとそばを通りがかって、五分ぐらいおじゃまをしたってよかろうじゃないか、とこう考えましてな。どこかへお出かけのところですね? じゃ、お暇をとらせません。ただ煙草を一本すうだけ、もしお許しくだされば」
「さあおかけなさい。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、どうぞ」もし自分で自分を見ることができたら、まったくわれながらあきれたろうと思われるほど満足らしい、親しげな様子をして、ラスコーリニコフは客に席をすすめた。
それはびんの一ばん底に残った
「いや、実際この煙草というやつは!」一本のみ終わって息をつきながら、やっとポルフィーリイは口を切った。「毒ですよ、まったく毒ですよ。ところが、どうしてもやめることができないんですからな!
「わたしは一昨日の夕方にも、一度お寄りしたんですよ。あなたはご存じありませんか」部屋の中をじろじろ見ながら、ポルフィーリイはことばを続けた。「部屋の中へ、この部屋の中へはいったんですよ。やはり今日のように、傍を通りかかったもんだから――一つ訪問してみようかなと思いましてな。はいって来ると、戸があけっ放しになっている。で、様子を見てしばらく待っていましたが、女中にも言わないで、そのまま出てしまったのです。
ラスコーリニコフの顔はいよいよ
しかし、それとほとんど同じ瞬間に、彼の顔はまじめな、気がかりらしい表情になったばかりでなく、ラスコーリニコフの驚いたことには、なんとなく一
「ロジオン・ロマーヌイチ、この前はわれわれ二人の間に、実に妙なことが起こったものですなあ。もっとも、初めてお会いした時も、われわれの間には、奇妙なことが起こったとも言えます。しかしあの時は……いや、今になってみれば、どっちもどっちですがね! そこで、わたしはあなたに対して、大いに申しわけがないのかもしれません。わたしはそれを感じております、実際、あの時のわたしたちの別れ方はどうでした、覚えていらっしゃいますか? あなたも神経がおどって
『こいついったい何を言ってるんだ、おれをなんだと思ってやがるんだ?』とラスコーリニコフは頭を上げ、目をいっぱいにみひらいて、ポルフィーリイをみつめながら、あきれてこう自問した。
「で、わたしはこう考えたんですよ――お互いにざっくばらんにやった方がよかろうって」ポルフィーリイは、以前の
「ですがそれにしても、あなたはなんだってそんな事をおっしゃるんです?」自分の質問の意味をよく考えもしないで、とうとうラスコーリニコフはこうつぶやいた。
『やつはいったいなんのことを言ってるんだろう?』と彼は内心ひそかに途方に暮れていた。『ほんとうにおれを無罪だと思ってるんだろうか?』
「なんだってこんなことを言うのかですって? 話をつけに来たんですよ。つまり、これを神聖な義務と心得ましてね。わたしは何もかも洗いざらい、あの時のいわば心の迷いを一部始終、ありのままお話ししてしまいたいのです。わたしはあなたにもずいぶんくるしい目をおさせましたね、ロジオン・ロマーヌイチ。しかし、わたしだって悪人じゃありませんからね。わたしだってわかっていますよ。いろいろの事情に
ポルフィーリイは品位を見せてことばを休めた。ラスコーリニコフは一種あたらしい
「そこで、あのとき急に起こった
「ラズーミヒンが今さき、僕にそう言いましたよ――あなたは今でもニコライを有罪と認めて、それを自分でラズーミヒンに力説なすったって……」
彼は息がつまり、しまいまで言うことができなかった。彼は相手の腹を底の底まで見破って、自分で自分を拒否した人のように、名状し難い興奮のていで、耳をすましていた。彼は信ずるのを恐れた、そして信じなかった。まだ二様にとれることばの中をむさぼるようにかき回して、何かもっと正確な、もっとはっきりしたものをつかもうとあせった。
「ラズーミヒン君ですか!」今までずっと黙り続けていたラスコーリニコフのこの質問が、さもうれしくてたまらないように、ポルフィーリイは叫んだ。「へ、へ、へ! いや、ラズーミヒン君なんかはあんな風に、わきの方へどけとかなくちゃいけなかったんですよ。
この最後のことばは、その前に語られた否定めいたことばの続きとしては、あまりに思いがけないものだった。ラスコーリニコフはまるで突き刺されたように、全身わなわなと震え出した。
「では……誰が殺したんです?……」彼はがまんし切れなくなり、あえぐような声で尋ねた。
ポルフィーリイは、まるで思いもよらぬ質問にあきれ果てたように、椅子の背へさっと身を反らした。
「え、誰が殺したかですって!……」自分の耳が信じられないように、彼はこう問い返した。「そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたがつまり殺したんです」彼はほとんどささやくような、とはいえ十分確信のこもった声で、こう言い足した。
ラスコーリニコフは椅子からおどり上がって、幾秒間か突っ立ったままでいたが、やがて
「唇がまたあの時のように震えていますぜ」とポルフィーリイは同情さえ帯びたような調子でつぶやいた。「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしのことばを見当ちがいに解釈なすったようですな」しばらく無言の後、彼はまた言い足した。「だから、そんなにびっくりなすったんです。わたしがこんにち伺ったのは、つまり何もかもすっかり言ってしまって、事柄を明らさまに運ぼうと思ったからなんです」
「あれは僕が殺したのじゃありません」何か悪いことをしている現場を押えられて、びっくりした小さい子供のような調子で、ラスコーリニコフはささやいた。
「いいや、あれはあなたです、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたです、ほかに誰もありません」いかつい確信に満ちた声で、ポルフィーリイはこうささやいた。
彼らは二人とも口をつぐんだ。沈黙は奇妙なほど長く、ものの十分ばかりも続いた。ラスコーリニコフはテーブルに
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、またあなたは古い手を出しましたね! 相も変わらず、例のあなたの手口だ! よくそれで飽きないもんですねえ、実際?」
「ええ、もうたくさんですよ、今のわたしに手口も何もあるもんですか? もしここに証人でもあれば別の話ですが、われわれは二人きり差し向かいで、内証話をしてるんじゃありませんか。ごらんの通り、わたしはあなたをうさぎのように追いかけて、つかまえに来たのじゃありません。自白をなさろうとなさるまいと――今この場合おなじことです。あなたがなんとおっしゃらなくても、わたしの腹の中でちゃんと確信してるんですから」
「それなら、なぜおいでになったんです?」とラスコーリニコフはいらだたしげに尋ねた。「僕はまた以前の質問を発しますが、もし僕を有罪と認めておられるなら、どうして収監しないんです?」
「はあ、その質問ですか! よろしい個条を追ってお答えしましょう。第一、あなたをそういきなり逮捕するのは、わたしにとって不利だからです」
「なぜ不利なんです! もしあなたが確信しておられるなら、そうしなくちゃならないはず……」
「ええっ、わたしの確信がなんです? こんな事はすべて今のところ、わたしの空想にすぎないんですからね。それに、あなたを監獄へ入れて落ち着かせる必要が、どこにあるんです? あなたは自分から要求していらっしゃるくらいだから、自分でもおわかりになるでしょう。たとえば、あなたをあの町人に突き合せたって、あなたはただこう言われるだけです。『きさまは酔っ払ってるのかどうだ? おれがきさまと一緒にいたところを誰が見た? おれはただきさまを酔っ払いと思ったんだ。それに実際、きさまは酔っ払っていたじゃないか』――さあ、その場合わたしはこれに対して、なんと言えばいいんです。まして、やつの言うことより、あなたの申し立ての方が本当らしいんですからな。だって、やつの口供は、ただ心理だけですが――そんなことはああいう面をしてちゃ、第一柄に合いませんよ――ところが、あなたの方は急所を突いてるわけですからね。何分あの野郎、大酒呑みで通っておるんですよ。それに、わたし自身がもう幾度となく、この心理主義が両方に
「さあ、それで第二の理由は?」(ラスコーリニコフはやはりまだ息を切らしていた)
「そのわけはもうさっき言ったとおり、わたしはあなたと話合いをつけるのが、自分の義務だと考えるからです。わたしはあなたに悪人と思われたくない、まして、本当になさろうとなさるまいとご勝手ですが、わたしは心からあなたに好意を持っているんですから、なおのことです。したがって第三に、わたしはいさぎよく自首なさいと、真正面から歯を
ラスコーリニコフはちょっと考えていた。
「ねえ。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、あなたは自分で心理だけだと言いながら、やっぱり数学に入りこんでおしまいになりましたね。それで、もしあなたの考え違いだったらどうします?」
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ、考え違いじゃありません。例のほんの毛筋ほどの証拠を握ってるんですからね。その毛筋ほどのやつを、わたしはあの時見つけたのです。神さまが授けてくだすったんです!」
「毛筋ほどのやつって?」
「それは言いますまい、ロジオン・ロマーヌイチ。それにどっちみち、わたしも今はもうこの上ゆうよする権利がないから、いよいよ収監します。だから、あなたもよく分別なさい――今となったら、わたしにとってはどちらでも同じことです。したがって、
ラスコーリニコフは毒々しい薄笑いを漏らした。
「こうなると、もうおかしいのを通りこしますよ。それは無恥というものです。まあ、仮りに僕が有罪だとしても(そんなことは僕けっして言やしませんが)、あなた自身がもう僕を収監して、落ち着かせてやると言っておられるのに、僕の方からわざわざ自首して出るわけがないじゃありませんか?」
「ええっ、ロジオン・ロマーヌイチ、そうことば通りにおとりなすっちゃいけませんよ。事によったら、そう落ち着くわけにいかないかもしれませんからね! だって、これはただの理論で、しかもわたしの理論なんですよ。え、わたしなんかがあなたに対して、なんの
ラスコーリニコフはもの悲しげに沈黙して、
「ええっ、いりません!」まるでポルフィーリイにかくそうともしないような調子で彼は言った。「そんなことをする価値はない! 僕は何も、あなた方に減刑してもらう必要はないんだ!」
「さあ、それをわたしは恐れていたのですよ!」ポルフィーリイは熱した調子でほとんどわれしらずといったように叫んだ。「つまり、それをわたしは恐れていたのですよ――減刑なんかしていらないというやつをね」
ラスコーリニコフはもの悲しげな、しみ入るような目で彼を見ていた。
「いや、命を粗末にしちゃいけませんよ!」ポルフィーリイはことばを続けた。「あなたはこの先まだまだありますよ。どうして減刑が不必要なんです、どうして不必要なんです! あなたは実にこらえ
「何がそんなにあるんです?」
「生活が! いったいあなたは予言者ででもあるんですか、いったいどれだけのことをご存じなんです? 求めよさらば与えられんですよ。おそらく、神もここにあなたを期待しておられるのかもしれませんからね。それに、あれだって永久なものじゃありませんしね、鎖だって……」
「減刑がある、ですかね……」とラスコーリニコフは笑い出した。
「なんです、あなたはブルジョア的な恥辱でも気にしていらっしゃるんですか? どうやらそいつをびくびくして、しかも自分で気がおつきにならんらしい――だからお若いと言うんです! が、それにしても、あなたが恐れたり、自首を恥ずかしがったりすることは、別になさそうなもんですがね」
「ええっ、ばかばかしい!」ラスコーリニコフは口をきくのもいやだという風に、嫌悪の表情でさげすむように言った。
彼はどこかへ出て行こうとでもするように、またちょっと腰を上げたが、ありありと絶望の色を面に現わして、すぐまた腰をおろしてしまった。
「それだ、それだ、それがばかばかしいなんて! あなたは信頼の念というものをなくしてしまったもんだから、わたしがあなたに見え透いた世辞でも言ってるようにお考えになる。いったいあなたはこれまでに、十分生活をしましたか? 十分物事がおわかりですか? 理論を考え出したところが、まんまとしくじって、どうもあまり平凡な結果になってしまったので、恥ずかしくなったんです! 結果は俗だった、それは事実です。しかし、あなたは望みのない卑劣漢じゃありません。けっして、そんな卑劣漢じゃない! 少なくとも、あなたはあまり長く自己
ラスコーリニコフはぴくりとなった。
「あなたはいったい何者です!」と彼は叫んだ。「いったいあなたは予言者なんですか? どんな権利があって、そう偉そうに落ち着き払って、さも高みから見おろすように、りこうぶった予言をするんです?」
「わたしが何ものかって? わたしはもうおしまいになった人間です、そりゃまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちっとは心得た人間かもしれませんが、しかしもうおしまいになった人間です。ところが、あなたは別ものです。神はあなたに生命を準備してくだすった(もっともあなたの場合だって、煙のように消えてしまって、何も残らないかもしれない、そりゃ誰にもわかりませんがね)。あなたが別な人間の部類へ移ったからって、それがなんです? まさか、あなたのような心をもっている人が、
「あなたはいつ僕を逮捕するつもりです?」
「さあ、まだ一日半か二日くらいは、あなたに散歩をさせてあげましょう。ねえ、よく考えて、神に祈っておおきなさい。それに、その方がとくですよ、全くとくですよ」
「が、もし僕が逃亡したら?」なんとなく妙ににやにやしながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、あなたは逃げやしませんよ。百姓なら逃げるでしょう、近ごろはやりの分離派教徒なら逃げるでしょう――他人の思想の奴隷なら――なぜってそんな連中は、海軍少尉補のドゥイルカみたいに、ただ指の先をちょっと見せさえすれば、なんでも好きなものを、一生涯信じさせることができるんですからな。ところが、あなたはもう自分の理論も、信じちゃいらっしゃらないんだから――何も持って逃げるものがないじゃありませんか! それに、逃亡生活に何があります? 逃亡生活はいやな苦しいものですよ。ところが、あなたにはまず第一に生活が必要です、確固たる状態が必要です、適当な空気が必要です。逃亡生活にあなたの空気があると思いますか? 一たん逃げても、また自分で帰って来ますよ、あなたはわれわれを離れちゃ、やってゆけないんです。もしわたしがあなたを牢に入れれば――ひと月なり、二月なり、三月なり暮らすうちに、あなたはふいにわたしのことばを思い出して、自分から自白にやってみえます。しかも、自分でも思いがけないくらいにね。まさか自白に行こうなんて、つい一時間前までは、自分でもわからないくらいでしょうよ。わたしは確信しておりますよ――あなたは『
ラスコーリニコフは席を立って、帽子をつかんだ。ポルフィーリイも同じく立ち上がった。
「散歩にでもお出かけですかな? 今晩はいい天気でしょうな。ただ夕立がなけりゃいいが。もっとも、その方がいいかもしれません。空気を清めてくれますからね……」
彼も同じく帽子に手をかけた。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、どうかそんなことを考えないでください」ときびしい
「いや、そりゃもう心得ております。覚えときましょう――まあ、どうだ、この震えていることは。いやご心配には及びませんよ、あなたのお心任せですよ。少し散歩していらっしゃい。ただあまり長い散歩はいけませんよ。それから万一のために、ちょいとしたお願いがあるんですが」と彼は声を落として言い足した。「それは少々言いにくいことですが、かんじんなことなんで。もし万が一(そんなことは、しかし、わたしも信じやしません、あなたがそんなことのできる人とは思っていませんからね)、もし万一――つまりその万々一の場合――この四、五十時間の間に別な方法で、何か突拍子もない方法で事件を片づけようということが、あなたの頭に浮かぶようなことがあったら――つまり自分で自分に手をかけるようなことがあったら(これはばかばかしい想像ですが、まあ一つ許してください)、その時は――短くてもいいから、要領を得た書きものを残して行ってください。ほんの一、二行、ただの一、二行でよろしい。石のことも書いてください――その方が堂々としていますからね。では、また……いいご思案と立派なご行為を祈ります!」
ポルフィーリイは妙に身をかがめて、なんとなくラスコーリニコフの視線を避けるようにしながら、出て行った。ラスコーリニコフは窓ぎわに寄り、いらいらしたもどかしい気持で、客が往来へ出て少し離れる時間を、胸の中で計りながら待っていた。それからやがて、自分もせかせかと部屋を出て行った。
彼はスヴィドリガイロフのもとへ急いだのである。この男から何を期待することができたか――それは彼自身も知らなかった。けれどこの男には、彼を支配する一種の権力が潜んでいた。一度このことを意識すると、彼はもう落ち着いていられなかった。それに、今はもうその時機が来たのである。
道々、一つの疑問が特に彼を悩ました――いったいスヴィドリガイロフはポルフィーリイの所へ行ったのだろうか?
彼が判断し得たかぎりで、何を賭けて誓ってもいいと思ったのは――いや、行ってはいない! という答えであった。彼はまたくり返しくり返し考えて、ポルフィーリイの訪問の一部始終を思い起こした上、いや、行ってはいない、もちろん行ってはいない! と推定した。
が、もしまだ行かなかったとすれば、今後ポルフィーリイを訪ねるだろうか、訪ねないだろうか? が、今のところ、訪ねないだろうという気がした。それはなぜか? 彼はそれも説明がつかなかった。けれど、よし説明がついたとしても、今の彼は特にそれで頭を悩まそうとはしなかったに相違ない。これらはすべて気にかかる事ばかりだったが、同時に彼はそれどころでないような気がした。実に奇怪な話で、誰もそんなことを信じないかもしれないが、彼は現在目前に迫った自分の運命について、ほんのぼんやりと微かな注意しか払っていなかった。何かそれ以外にずっと重大な、並々ならぬものが、彼を悩ましていたのである――それは彼自身に関したことで、ほかの誰のことでもないけれど、何か別のことで、何か重大なことである。それに、彼は限りなく精神的疲労を感じていた。もっとも、この朝はこの二、三日に比べて、彼の理性はずっと確かに働いていたけれど……
それに、ああいう事のあった今となって、こんなくだらない新しい困難を征服するために、努力を払う価値がはたしてあるだろうか? たとえば、スヴィドリガイロフがポルフィーリイを訪ねないように、努めて策略をめぐらす価値がどこにある! スヴィドリガイロフ風情のために、研究したり、調べたり、ひまをつぶしたりする価値があるものか!
ああ、こんなことはすべてたまらなくあきあきしてしまった!
が、それにもかかわらず、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。はたして彼はこの男から何か新しい暗示なり、逃げ道なりを期待しているのか? じっさい、人はわらしべにでもつかまろうとするものである! 彼ら二人を一緒にしようとするのは、宿命とでも言うのだろうか、それとも何かの本能か? 事によったら、これはただ疲労の結果かもしれない、絶望のためかもしれない。またもしかしたら、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、誰かほかの人かもしれない。スヴィドリガイロフはただ偶然そこに介在しただけかもしれぬ。ではソーニャだろうか? しかし、今なんのためにソーニャのところへ行くのだ? またしても彼女の涙をねだるためか? それに、彼はソーニャが恐ろしかった。ソーニャは彼にとって頑として動かぬ宣告であり、変わることのない決定であった。問題は――彼女の道を選ぶか、彼自身の道を進むかである。特にいま彼はソーニャに会うことはできなかった。いや、それよりスヴィドリガイロフを試みた方がよくはなかろうか。そもそも彼は何ものだろう? 彼はずっと以前から、なんとなくこの男が何かのために必要なのをひそかに自認しないわけにはいかなかった。
が、それにしても、彼らの間にいったいいかなる共通点がありうるだろう? 彼らの間では悪事すらも一様ではあり得なかった。この男はその上、あまりといえば不愉快で、この上ない
この二、三日というもの、ラスコーリニコフの頭には、絶えずある一つの想念がひらめいて、恐ろしく彼を不安にしていた。もっとも、彼はしきりにそれを追い退けようと努めていたが、それほどこの想念は彼にとって苦しかったのである! 彼は時々こんなことを考えた――スヴィドリガイロフは絶えず彼の身辺をうろうろしていた、今でもうろうろしている。スヴィドリガイロフは彼の秘密を
この考えは時々夢にさえ彼を苦しめたが、意識的にはっきりと現われたのは、今スヴィドリガイロフのところへ足を向けた、この時が初めてだった。彼はこう考えただけでも、
何はともあれ、一刻も早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ――と彼は腹の中できっぱり決心した。有難いことに、ここで必要なのは、詳しいこまごました事というよりも、むしろ事件の本質である。しかし、もし彼がそういう事をしかねない男だったら――もしスヴィドリガイロフがドゥーニャに対して、何かたくらんでいるとしたら――その時は……
ラスコーリニコフは最近、ことにこの月じゅう、ずっとへとへとに疲れ切っていたので、もはやこうした問題になると、「その時はあいつを殺してやる」という唯一の決心よりほか、どうにも解決ができなかった――彼は冷やかな絶望を覚えながらまたそれを考えた。重苦しい感じが心臓をおしつけた。彼は往来のまんなかに立ち止まり、どの道を通ってどこへ迷い込んだかと、あたりを見回し始めた。と、彼はいま通り抜けた
「さあ、さあ! よろしかったら、どうぞおはいりください。わたしはここにいますから!」と彼は窓から叫んだ。
ラスコーリニコフは料理店へ上がって行った。
彼は大広間に隣り合った、窓一つしかない、いたって小さな奥の部屋に、スヴィドリガイロフを見出した。広間では二十ばかりの小テーブルに向かって、歌うたい連の合唱を聞きながら、商人や、官吏や、その他あらゆる種類の人が茶を飲んでいた。どこからか、球を突く音が響いて来た。スヴィドリガイロフの前の小テーブルには口をあけたシャンパンの瓶と、半分ばかり酒をついだコップがおいてあった。そのほか部屋の中には、小形な楽器を持った手風琴回しの子供と、
「いや、もうたくさん!」とスヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフのはいって来るのを見て、彼女の歌をさえぎった。
娘はさっそく歌をぷつりと切って、うやうやしげな期待の格好で控えていた。彼女はその韻を踏んだ下男情調まで、やはりまじめなうやうやしい表情で歌っていたので。
「おい、フィリップ、コップだ!」とスヴィドリガイロフは叫んだ。
「ぼく酒は飲みません」とラスコーリニコフは言った。
「どうぞご勝手に、これはあなたのためじゃないんで。さあ、飲め、カーチャ! 今日はもうこれでいいよ、お帰り!」
彼は娘に酒を一杯ついでやり、黄色い一ルーブリ
「僕はあなたんとこへ行こうと思って、捜していたとこなんですが」とラスコーリニコフは口を切った。「ところが、今どうして僕は急に
「なぜあなたは率直におっしゃらないんです――これは奇跡だって!」
「なぜって、これはただ偶然にすぎないかもしれないじゃありませんか」
「いや、どうもこの人たちはなんという考え方をするんだろう!」とスヴィドリガイロフはからからと笑い出した。「腹の中じゃ奇跡を信じていたって、けっして白状しないんですからね! あなたも現に、偶然にすぎない『かもしれぬ』とおっしゃるじゃありませんか。自分自身の意見というものについて、ここの人たちがみんなどれくらい
「そのほかには何もありませんか?」
「だって、それだけでもたくさんじゃありませんか」
スヴィドリガイロフは明らかに興奮しているらしかった。が、それはほんのちょっとだった。酒はやっとコップに半分しか飲んでいなかったのである。
「だってあなたは僕のことを、あなたのいわゆる自分自身の意見を持ちうる人間だとご承知になる前に、僕のところへ見えたように覚えていますが」とラスコーリニコフは注意した。
「いや、あの時は話が別でしたよ。誰にだってそれぞれ目的がありますからね。奇跡という点で、わたしはあなたに申し上げますが、どうやらあなたはこの二、三日、眠りとおされたらしいですね。わたしは自分であなたに、この料理屋をお教えしといたんですから、あなたが真っ直ぐにここへいらっしたからって、別に奇跡なんかありゃしません。わたしは自分で道筋を詳しく説明して、この店のある場所と、ここでわたしに会える時間まで、お教えしといたんです。覚えていますか?」
「忘れました」とラスコーリニコフは驚いて答えた。
「本当でしょう。わたしはあなたに二度も言ったんですよ。だから、ここの所が機械的にあなたの記憶に刻み込まれたのです。それで、あなたも自分じゃわからないなりに、ちゃんとその指定どおり、しかも機械的にこっちへ曲がって来たんです。わたしはあの時そう言いながらも、あなたがわかってくださろうとは期待していなかった。どうもあなたはあまり自分の本性を暴露しすぎるようですな、ロジオン・ロマーヌイチ。ああ、それからついでに――わたしはこういう事を確かめました。ペテルブルグでは、歩きながらひとり言を言う人がたくさんあります。こりゃ半気ちがいの街ですよ。もしわが国に本当の科学があったら、医者も、法律家も、哲学者も、それぞれ自分の専門にしたがって、ペテルブルグを対象に極めて貴重な研究をすることができたでしょうよ。ペテルブルグほど人間の心に
「じゃ、僕が尾行されてるのをご存じなんですか?」探るような目つきで彼に見入りながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、なんにも知りませんよ」さもおどろいたような顔をして、スヴィドリガイロフは答えた。
「ふん、では僕のことはかまわんでもらいましょうか」とラスコーリニコフは眉をしかめ、つぶやくように言った。
「よろしい、あなたのことは構わんとしましょう」
「それよりも、あなたがここへよく飲みに来られ、しかも僕に来いと言って、自分で二度まで指定してくだすったのなら、なぜいま僕が通りの窓を見た時に、隠れるように行ってしまおうとなすったんです? それを聞かせてください。僕はちゃあんとそれに気がつきましたよ」
「へ、へ! ではいつぞやわたしがあなたの部屋のしきいの上に立った時、なぜあなたは目をつぶって長椅子の上に横になったまま、自分じゃまるで眠ってもいないのに、眠ったような振りをなすったんです? わたしはちゃあんとそれに気がつきましたよ」
「僕には……それだけの理由が……あったかもしれませんよ……それはご自分でおわかりのはずです」
「わたしだって、それだけの理由があったかもしれませんよ。もっとも、あなたはそれをご存じないけれど」
ラスコーリニコフは、右の
「いったい僕はまだあなたまで相手に、やっさもっさしなくちゃならないんですか」とラスコーリニコフはけいれんするみたいにじりじりしながらいきなりぶっつけに切り出した。「たとえあなたが、害を加える気になったら、非常に危険な人物であるにしても、僕はもうこの上苦労なんかしたくない。僕は今すぐあなたに証明してみせますが、僕はあなたが思っているほど、自分というものを大事にしちゃいないんですからね。ちゃんとお断わりしておきますが、僕があなたを訪ねて来たのはほかじゃありません。もしあなたが僕の妹に対して、あの以前の野心を捨てず、そのために最近知られた事実を何かに利用しようと考えているのだったら、あなたが僕を監獄へぶち込むよりも前に、僕はあなたを殺してしまうから、その事をじきじき言いに来たのです。僕の言うことは正確ですよ。僕が自分のことばを守りうる人間だってことは、あなたもご存じのはずです。第二に、もし何か僕に言明したいことがあるなら――だって、どうもこの間じゅうから、あなたは何やら僕に言明したがっておられるようだから――もしそうだったら、早く言ってください。一刻の時も大事ですからね。事によったら、もう間もなく手遅れになるかもしれないんですから」
「あなたいったいどこへそうお急ぎなんです?」好奇の目で彼をじろじろ見ながら、スヴィドリガイロフは問いかけた。
「誰にだってそれぞれ目的がありますからね」と陰鬱な調子でラスコーリニコフは気短に答えた。
「あなたはいま自分からざっくばらんな話を申し込みながら、もう第一の質問に対して返答を拒絶していらっしゃるじゃありませんか」とスヴィドリガイロフは笑顔で注意した。「あなたはいつも、わたしが何か目算を持っているように思われるので、それでわたしを疑いの目で見ておられるのです。なに、それはあなたの立場として無理もない話です。わたしはずいぶんあなたと意気相投合したいとは思っておりますが、しかしわざわざ骨折ってあなたの疑いを解こうとも思いませんな。なあに、それほど大した問題じゃありません。それに、何もそう特別なことであなたと話し合うつもりもなかったですからね」
「じゃ、なぜあの時僕があんなに必要だったんです? あなたはしきりに僕の尻を追い回していたじゃありませんか?」
「それはただ興味ある観察の対象としてですよ。あなたの状態の奇抜な点が、わたしの興味をひいた――つまりそのためなんですよ! その上あなたは、非常にわたしの興味をひいた婦人の兄さんで、しかも以前わたしはその当の婦人から、あなたのことをしょっちゅう色々と聞いていたので、あなたがその婦人に大きな勢力を持っておられる、とこう推定したわけです。これでもまだ十分でありませんかね、へ、へ、へ! もっとも、実をいえば、あなたの質問はわたしにとって、だいぶ複雑なんですよ。だから、それにお答えするのは骨なんです。だって早い話が、今あなたがわたしのとこへ見えたのも、ただ用件ばかりじゃなくて、何か新しいことを探りにいらしったんでしょう? え、そうでしょう? そうでしょう?」ずるそうな微笑を浮かべながら、スヴィドリガイロフは言いはった。「さて、そこで考えてみてください、わたし自身こっちへ来る汽車の中で、あなたという人を当てにして、あなたもやはり何か新しいことを聞かしてくださるだろう、あなたから何か借り出すことができるだろう、と思ったわけなんですよ! 我々はお互いにこういった物持なんで!」
「そりゃいったいなにを借り出そうというんです?」
「さあ、なんと言ったらいいかなあ? いったいわたしがそれを知ってると思いますか? ごらんのとおり、わたしは始終こういう安料理屋に入りびたっておりますが、わたしにゃこれがいい気持なんで。いや、いい気持っていうのじゃないが、なんということなしにですな。わたしだってどこかにすわらなきゃなりませんからね。まあ、あの可哀いそうなカーチャにしたってごらんになったでしょう?……ねえ、たとえば、仮りにわたしが食いしんぼうだとか、クラブ通いの食道楽だとか、そんな者ででもあればまだ楽なんですが、わたしときたらごらんのとおり、こんなものでも平気で食べられるんですからね! (彼は片隅を指でさして見せた。そこには小さいテーブルがあって、ばれいしょつきのひどいビフテキの残りが、ブリキ皿の上にのっかっていた)時に、あなたは食事は済みましたか? わたしはちょっと一口やったから、もう欲しくないんです。また酒だって、まるで飲みません。シャンパンのほかはいっさいなんにも。ところがそのシャンパンも一晩じゅうかかってたった一杯、しかもそれで頭痛がするんですからね。今これを言いつけたのは、ちょっと景気づけのためなんですよ。というのは、ちょっとあるところへ行こうと思ってるもんですから。だからごらんのとおり、わたしは特別のご機嫌でいるわけなんです。わたしがさっき小学生みたいに隠れたのは、あなたにじゃまされるかと思ったからなんで。しかし、多分(彼は時計を引出した)、まだ一時間くらいご一緒におられるでしょう。いま四時半ですからね。いや、全くのところ、せめてなんでもいいから、何かであるといいんですが、たとえば地主だとか、一家の父だとか、
「いったいあなたは何者で、なんのためにこっちへ出て来たんです?」
「わたしが何者かって? あなたはご存じじゃありませんか――貴族で、二年ばかり騎兵隊に勤めて、その後このペテルブルグでごろついていて、それから、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎に暮らした。これがわたしの伝記でさあ!」
「あなたはカルタ師だったようですね?」
「いや、なんのわたしがカルタ師なものですか。いかさま師でさあね――カルタ師じゃありませんよ」
「あなたはいかさまカルタ師だったんですか」
「さよう、いかさまカルタ師でもあったんで」
「どうです、なぐられた[#「なぐられた」は底本では「なぐれらた」]事もあるでしょう!」
「そんなこともありましたよ。それがどうしたんです?」
「じゃ、決闘を申し込むこともできたわけでしょう……まあ、とにかくお目ざましの種になりますね」
「お説に反対はしますまい。それに、わたしは哲学めいた事は不得手ですからな。実のところ、わたしが急いでここへやって来たのは、どちらかといえばおもに女のためなんですよ」
「マルファ・ペトローヴナの葬式をすましたばかりなのに?」
「まあ、そうですな」とスヴィドリガイロフは押しの強い、露骨な表情でほほえんだ。「で、それがどうだと言うんです? あなたはなんですな、わたしが女のことをこんな風にいうのを、どうやら悪く思っておられるようですな?」
「というと、つまり僕が
「淫蕩を? へえ、そんな風に話を持ってこられるんですか! もっとも順序として、まず女に関する問題にお答えしましょう。実はね、わたしは今おしゃべりしたい気分になってるんですよ。ねえ、いったいなんのためにわたしは自己を抑制しなくちゃならないんでしょう? もしわたしが仮りに女好きだとすれば、なぜ女色を捨てなければならないんでしょう。少なくとも、一つの仕事ですからね」
「じゃ、あなたはここでただ淫蕩だけに望みをつないでるんですか?」
「ふん、それがどうなんです! まあ、淫蕩にもつないでおりますよ! だが、あなたはよっぽど淫蕩が気になるんですね。それに、わたしは少なくとも正直な質問が好きなんで。この淫蕩ってやつの中にゃなんといっても、自然に根底を持った、空想に
「そんなことをしてみたって、何もうれしがるほどのこともないじゃありませんか? それは病気ですよ、しかも危険なやつだ」
「ああ、またあなたはそんな方へ話を持っていく! そりゃわたしだって、これが一定の尺度を越えたすべてのものと同様に、一つの病気だってことには同意です――しかも、この場合では、必ずや尺度を越えざるを得ないんですからな――がそうはいうものの、こいつは人によって、色々まちまちでしょう。これが第一だし、第二には、何事もむろん程度は守るべきで、たとえ卑屈でも何かと胸算用もしなけりゃならんでしょう。けれど、いったいそれがどうなるんです? 結局こいつがなかったら、ピストル自殺でもするよりか仕方がないじゃありませんか。そりゃわたしだって、相当な人間は退屈する義務がある、ということには賛成ですが、しかしそれでも……」
「あなたはピストル自殺ができますか?」
「ああ、また!」とスヴィドリガイロフは嫌悪の表情で、はね返すように言った。「後生ですから、そんな話をしないでください」と彼はせき込んで言い足したが、それまでずっと彼のことばに現われていた空威張りの調子がなくなり、顔つきまでが一変したようであった。「白状しますが、わたしはこの弱点を持っているんですよ。われながら勘忍ができないんだけれど、どうもいたし方がありません。わたしは死というやつが恐ろしいんで、人がそんな話をしてても厭なんです。実はね、わたしは多少神秘論者なんですよ」
「ああ、マルファ・ペトローヴナの幽霊ですか! どうです、引続き出て来ますか?」
「いや、そいつは言い出さないでください――ペテルブルグはまだ出ないんです。それに、そんなことくそくらえだ!」と彼はなんとなくいらいらした様子で叫んだ。「いや、いっそその話を……だが……しかし……ふむ! ちょっ、もう時間があまりない。もうあなたとゆっくりお話ししておられません、残念ですな! お話しすることはあるんですが」
「なんです、女でも待ってるんですか?」
「さよう、女が。なに、ちょっとした偶然のことでね……しかし、わたしが言うのは、そんな事じゃないんです」
「ふん、しかしこうした周囲の汚らわしさも、あなたはもう感じなくなってしまったんですか? あなたはもう踏みとどまる力を失ったんですか?」
「あなたは力がご注文なんですか? へ、へ、へ! あなたにゃびっくりさせられますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もっとも、そうだろうとは前から知っていましたがね。あなたは淫蕩だの美学だのっておっしゃる! してみると、あなたはシラーなんですね。理想家なんですね! もちろん、すべてそうあるべきが当然で、もしそうでなかったら、それこそ不思議なくらいだが、しかし実際となると、やっぱり妙ですな……ああ、残念なことに時間がない。けれど、あなたは実に興味のある人物ですな。ときについでですが、あなたシラーがお好きですか? わたしは恐ろしく好きなんで」
「だが、あなたは実に大したほら吹きだ!」といくらか嫌悪の語調でラスコーリニコフは言った。
「いいや、けっして、けっして!」スヴィドリガイロフはからからと笑いながら答えた。「しかし、あえて議論しません、ほら吹きなら、ほら吹きでもけっこう。しかし、かくべつ害にならなけりゃ、少しはほらを吹いたって構わんじゃありませんか。わたしは七年間、マルファ・ペトローヴナと田舎で暮らしたものだから、今あなたのように聡明な――聡明で、おまけにこの上なく興味ある人に出会うと、いきなり飛びかかっておしゃべりがしたいんですな。それに、ちょくちょく半杯ずつ飲んだ酒が、ほんのいささか頭へ回ったとこなんで。しかも何よりも第一、大いにわたしを得意にならせた事情が一つあるんだが、そのことは……まあ言いますまい。え、あなたはいったいどこへ?」急にスヴィドリガイロフは驚いたようにこう尋ねた。
ラスコーリニコフは立ち上がろうとした。彼は重苦しい、息づまるような気がして、ここへ来たのが妙にきまり悪くなったのである。スヴィドリガイロフなる人物については、もう世界じゅうでもっとも空虚なくだらない悪党だと確信してしまった。
「いいじゃありませんか! もうしばらく、も少し話していらっしゃい」とスヴィドリガイロフはしきりにすすめた。「せめてお茶でも所望してくだすったらどうです。さあ、も少しすわってください。いや、もうばかなおしゃべりはしません、つまり手前みそのおしゃべりはね。何かあなたに話してお聞かせしましょう。なんでしたら、ある女がわたしを――あなたのことばをかりていえば――『救ってくれた』
「お話しなさい。しかし改めてお断わりするまでもなく、あなたは……」
「おお、ご心配には及びません! おまけにアヴドーチャ・ロマーノヴナは、わたし如きくだらない空虚な人間にさえも、深い尊敬の念しか起こさせないような方ですからな」
「ご存じかもしれませんが(いや、わたしが自分でお話ししましたっけ)」とスヴィドリガイロフは言い出した。わたしはこの土地で大きなカルタの借金に責められて、てんから払う当てもなく、とうとう監獄へくらい込んだことがある。その時マルファが救い出してくれた顛末は、くだくだしくお話しする必要もありません。ねえ、女ってものはどうかすると、すっかり
「聞きましたよ。ルージンなども、あなたがある子供の死因にさえなっているって、あなたを責めていましたよ。いったいそれは本当ですか?」
「後生ですから、そんな汚らわしい話はやめてください」とスヴィドリガイロフは嫌悪の表情で、気むずかしそうに言った。「もしあなたがどうしても、そのばかばかしい話の顛末を知りたいとおっしゃるなら、またいつか別にお話しましょう。が、今は……」
「それから、村であなたが下男をどうとかしたって事も聞きました。それもやっぱりあなたが何か原因になっているとかで」
「後生です、もうたくさん!」とスヴィドリガイロフは目に見えてがまんのし切れない様子で、再びさえぎった。
「それは、例の、死んでからもあなたのパイプをつめに来たという、あれと同じ下男じゃないんですか……いつか自分で僕にお話しなすった?」ラスコーリニコフは、だんだんいらだたしそうな様子になった。
スヴィドリガイロフはじっと注意深くラスコーリニコフを見つめた。ラスコーリニコフは、このまなざしの中に毒々しい薄笑いが電光のようにちらとひらめいたかに思われた。とはいえ、スヴィドリガイロフはそれをおさえつけて、ごくいんぎんな調子で答えた。
「そう、同じ男です。お見受けしたところ、あなたもこういう事にたいへん興味をお持ちのようですな。まあ、せいぜい機会のありしだい、あらゆる点であなたの好奇心を滅足させることを、自分の義務と心得ております。いやはや! どうも見たところ、わたしはじっさい誰かの目にロマンチックな人物と見えるらしい。こうなってみると、マルファがわたしのことでお妹さんに、秘密めいた興味をそそるような話をうんとしてくれた事に対して、どれだけ故人に感謝しなければならぬかわからないほどです。そうじゃありませんか。自分が人に与える印象を判断することはできませんが、いずれにしても、それはわたしにとって有利でしたよ。アヴドーチャ・ロマーノヴナはわたしに対してきわめて自然な嫌悪を感じていられたにもかかわらず――またわたしがいつも
スヴィドリガイロフはたまりかねたように、げんこでとんとテーブルをたたいた。彼はすっかり真っ赤になった。ラスコーリニコフは、ちびりちびり一口ずつ
「いや、それで僕もすっかり確信しました――あなたがここへ来たのは、妹のことを頭においてなんでしょう」彼はいっそう相手をじりじりさせるために、真正面から向きつけに言った。
「ええっ、もうたくさんですよ」急に気がついたように、スヴィドリガイロフは言った。「もうちゃんとお話ししたじゃありませんか……それにお妹さんの方じゃ、わたしが
「さよう、あれが厭でたまらないのは僕も確信しています。しかし、今はそれが問題じゃありません」
「あなたは確信していらっしゃる、厭でたまらないって? (スヴィドリガイロフは目を細めて、にやりと
「今まであなたのお話に出て来たちょいちょいしたことばの端で、あなたが今でもドゥーニャに対して何か特別な思わくと、のっぴきならぬ計画を持っておられるものと認めます。もちろん卑劣きわまる計画をね」
「なんですって! わたしがそんなことばを口からすべらせましたかね?」ふいにスヴィドリガイロフは、自分の計画に冠せられた形容詞には、まるで注意を払おうともせず、きわめて正直な驚きの色を見せた。
「なに、それは今でも口からすべらせておられますよ。ねえ、たとえば、あなたは何をそう恐れてるんです? いったいどうして今そう急にびくっとしたんです?」
「わたしが恐れてるんですって? びくびくしてるんですって? あなたを恐れてるんですって? むしろあなたの方がわたしを恐れるべきですがね、cher ami(親愛なる友よ)だが、なんてばかばかしい話だ……どうもわたしは酔った、自分でもわかりますよ。またうっかり口をすべらすところだった。もう酒なんかやめだ! おーい! 水をくれ!」
彼はびんを引っつかんで、無遠慮に窓の外へほうり出した。フィリップが水を持ってきた。
「こんなことはみんなくだらない話です」スヴィドリガイロフはタオルを
「それはもう前にもお話ししておられましたよ」
「お話しした? 忘れていましたよ、しかし、あの時はまだ確かなお話はできなかったのです。何しろまだ相手の娘も見ていなかったんで、ただその意向を持っていただけなんですからね。ところが、今じゃもう相手が決まって、話がすっかりまとまってしまったんです。もしのっぴきならん用事さえなかったら、わたしはもちろんあなたをお連れして、さっそくその方へご案内するはずなんですが――なぜって、あなたのご意見が伺いたいんですからね。ええ、ちくしょう! もうあとたった十分しかない。ね、時計を見てごらんなさい。だが、やはりあなたにお話ししましょう。実際この話は、わたしの結婚はちょっと面白いんですから、もちろん、一風かわった面白さですがね――あなたはどこへ? また帰ろうと言うんですか?」
「いや、もう今となったら、僕はけっして帰りません」
「けっしてお帰りにならない? まあ、見てみましょう! わたしはあなたをそこへご案内しますよ、ほんとうに。そして花嫁をお目にかけましょう。しかし今じゃありませんよ。今はもうあなたもお出かけになる時刻でしょうからな。あなたは右とね、わたしは左。ときに、レスリッヒ夫人をご存じですか? ほらあのレスリッヒ、今わたしが下宿している――え? おわかりですか? ね、あなたはどうお考えです、ほら、娘の子が冬水ん中でなんとかしたって噂のある――ね、わかりましたか? わかりました? で、今度の話は、あの女がいっさいきり盛ってくれたんですよ――『それじゃあなたは退屈でたまらない、少し気晴しをなさるがいい』ってね。実際わたしは陰気な、うっとうしい人間なんですよ。あなたは快活な人間だと思いますか? どうして、陰気な人間なんですよ。別に悪い事はしないが、いつも隅っこにくすぶって、どうかすると三日も口をきかないくらいです。ところが、あのレスリッヒなかなかのしたたかものでね、こんな計画を胸に持っておるんですよ。つまり、わたしが飽きてきて、女房を捨ててどこかへ行ってしまう、すると女房はあの女の手にはいるから、それをまた別口へ回す――やはり我々くらいの階級だが、も少し上のところへね。あの女のいうことには、父親はある退職官吏だが、体がすっかり弱り切って、もう足かけ三年安楽椅子に腰かけたきり、自分の足では動いたことがない、母親もあるが、これは分別のしっかりした女だ。息子はどこかの県で勤めているけれど、家計を助けようとしない、娘は嫁入りしてしまって、見舞いにも来ない。しかも、自分の子供だけで足りないで、小さい
「手っとり早く言えば、その年齢と発達の恐ろしい相違が、あなたの情欲をそそったんですよ! いったいあなたはほんとうに、そんな結婚をするつもりなんですか?」
「なぜ? そりゃ是が非でも。人間て自分の事をめいめい好きなようにするもので、誰よりも一番うまく自分を
「もっとも、あなたはカチェリーナ・イヴァーノヴナの子供たちの世話を引受けなすった。しかし……しかし、それにはまたそれだけの理由があったんだ……僕はいま何もかも合点がいった」
「わたしは全体に子供が好きなんです、非常に好きなんですよ」とスヴィドリガイロフはからからと笑い出した。「これについては、きわめて興味ある一つの挿話をお話しすることができます。それは現在まだ続いてる話なんですよ。こちらへ着くとその日さっそく、わたしは方々の
「よしてください、そんなげすなきたならしい話はよしてください。なんて堕落した野卑な好色漢だろう!」
「シラーよ、シラーよ、わがシラーよ! O va-t-elle la vertu se nicher?(徳はいずくに巣くうぞ)実はね、わたしはあなたの叫びを聞きたさに、わざとこんな話を持ち出すんですよ。実に愉快だ!」
「もちろんですよ、この瞬間、僕自身がこっけいでないと思いますか?」とラスコーリニコフはにくにくしげにつぶやいた。
スヴィドリガイロフは
「ああ、だがわたしもすっかり酔払っちゃった、assez caus!(たくさんだ!)」と彼は言った。「ああ、実に愉快だ」
「もちろん、あなたが愉快を感じないはずがないさ!」ラスコーリニコフも同じく立ち上がりながら、こう叫んだ。「すっかり手ずれのした淫蕩漢にとって、――しかも、その淫蕩漢が何かしら奇怪な
「へえ、もしそうなら」やや驚きの色さえ浮かべて、ラスコーリニコフをじろじろ見ながら、スヴィドリガイロフは答えた。「もしそうなら、あなた自身もかなり
スヴィドリガイロフは安料理屋から外へ出た。ラスコーリニコフもそのあとにつづいた。もっとも、スヴィドリガイロフはさほどひどく酔っているわけでもなかった。頭へ酔いが上ったのは、ほんのつかの間で、やがてじりじりさめていった。彼は何か非常に大きな屈託があるらしく、しきりに眉をしかめていた。何かに対する期待が彼を興奮させ、不安にしているのが、まざまざと見えていた。ラスコーリニコフに対する態度は、最後の四、五分で急にがらりと変わって、一刻一刻と無作法に皮肉になっていった。ラスコーリニコフはそれに気づき、同じく不安らしい様子であった。スヴィドリガイロフなる人物が、ますますうさんくさく思われてきた。彼はそのあとからついて行こうと決心した。
「さあ、あなたは右へ、わたしは左へ。でなければ、その反対かな。とにかく、adieu, mon plaisir,(さらば、わが喜びよ)またお目にかかりましょう!」
こう言って、彼は右手の
ラスコーリニコフは彼のあとからついて行った。
「これは何ごとです!」うしろをふり向きながら、スヴィドリガイロフは叫んだ。「わたしはそう言ったはずじゃありませんか……」
「なんでもありません、僕はもうあなたのそばを離れないということです」
「なあんですと?」
彼らは二人ながら立ち止まった。ちょっと一分ばかり、二人は互いに探り合うように、じっとにらみ合っていた。
「あなたが今ならべ立てた半生酔いの話で、僕は断然見きわめました」とラスコーリニコフは断ち切るように鋭く言った。
「あなたは僕の妹に対して、例の醜悪きわまる野心を捨てないのみならず、かえって前よりずっと一生懸命に、それに没頭しておられるんです。けさ妹が何やら手紙を受けとったということも、僕はちゃんと知っています。それに、あなたは始終じっと落ち着いていられない様子だった……よし仮りにあなたが方々ふらついてる途中で、花嫁を掘り出したというのが本当だとしても、それはなんの意味もないことです。僕はそれを自分の目で突き止めたいんです……」
そういうラスコーリニコフ自身も、自分がいま何を欲し、何を親しく突き止めたいのか、はっきり決めることはほとんどできない有様であった。
「これはこれは! なんならすぐ巡査を呼びますぜ?」
「呼ぶがいい!」
二人はまた顔を突き合せながら、一分ばかり突っ立っていた。やがてスヴィドリガイロフの顔ががらりと変わった。ラスコーリニコフがいっこうおどかしに乗らないのを確かめると、彼は急に思いきり愉快らしい親しげな顔つきになった。
「どうも大したもんだ! わたしはね、好奇心が燃え立っているんだけれど、わざとあなたの事件を言い出さなかったんですよ。
「僕もさし向き家へ行きましょう、ただしあなたの住まいじゃありませんよ。ソフィヤ・セミョーノヴナの家へ、葬式に行かなかった
「それはどうでもご勝手ですが、しかしソフィヤ・セミョーノヴナは家にいませんよ。あのひとは子供たちをみんな引きつれて、わたしのずっと古くからの知合いで、ある孤児院の監督をしている、年とった貴婦人のところへ行ったんです。わたしはね、カチェリーナ・イヴァーノヴナの子供三人の養育料として金を届けたり、孤児院の方へも寄付したりして、お婆さんをすっかり丸めこんでしまったのです。それから、ソフィヤ・セミョーノヴナの身の上も、いっさい隠し立てしないで、何から何まで話して聞かせたところ、まんまと素晴しい効果を奏したわけなんです。そういうわけで、今日さっそく、ソフィヤ・セミョーノヴナは、お婆さんが別荘から出て臨時に泊まっているNホテルへ、出頭することになったんで」
「どうだって構いません、とにかく僕は寄ります」
「どうぞご随意に。だが、わたしはあなたの仲間じゃありませんからね。わたしはどうだって平気でさあ。さあ、もう家へ帰りましたよ。ときにどうでしょう、あなたがわたしをうさんくさい目で見ておられるのは、つまりわたしの方があまり遠慮し過ぎて、今までいろんな質問でご迷惑をかけなかったからだと、こうわたしは確信しているんですよ……え、わかるでしょう? あなたはこいつただでないぞ、という気がしたのでしょう。
「そして、戸口で立聞きをしなさいか!」
「ああ、あなたはそのことを言ってるんですか!」とスヴィドリガイロフは笑い出した。「いや、わたしにしたって、ああいういろんなことがあったあとで、もしあなたがこれを言わずに済まされたら、かえってびっくりしたでしょうよ。は、は! そりゃわたしもね、あなたがあの時……あそこで気ちがいじみたまねをして、ソフィヤ・セミョーノヴナに自分でぺらぺら話しておられたことは、多少合点のいった筋もありましたが、それにしても、あれはいったいなんでしょう、事によったら、わたしがまるで時代おくれの人間なために、何もわからないのかもしれませんが、後生ですから、一つ説明してくださいませんか! もっとも新しい思想で開発していただきたいもので」
「あなたに聞こえるはずがない、あなたはでたらめばかり言ってるんだ!」
「いや、わたしが言ってるのはそれじゃありませんよ、それじゃありません(もっとも、わたしも多少は聞きましたがね)。わたしが言ってるのは、あなたがしきりに嘆息していらっしゃることですよ! あなたの内部では、絶えずシラーがもだえている。だから今度は、戸の外で立聞きするな、なんてことになるんですよ。もしそうなら、出るところへ出て、これこれこうこうで、こんな事をやらかしました、理論の上でちょっとした間違いができましたと、お上の前で白状したらいいじゃありませんか。ところが、戸口で立聞きしてはならないが、自分のお道楽には、婆さんどもを手当たりしだいなもので殺してもいい、なんていう確信がおありでしたら、少しも早くどこかアメリカあたりへ逃げてお行きなさい! 逃げるんですよ、え、君! 多分まだ間に合いますよ。わたしはまじめに言ってるんですぜ。お金がないとでもいうんですか? 旅費はわたしがあげますよ」
「僕そんなことなど少しも考えていやしません」と、嫌悪の色を浮かべて、ラスコーリニコフはさえぎった。
「わかりました(もっとも、あまり無理をなさらんがいいですよ。もしなんなら、口数をおききにならなくてもいい)。わたしは現在あなたを悩ましている問題がわかりますよ。道徳的問題でしょう? 公民として、人間としての問題でしょう? なに、そんなものは唾でも引っかけておやんなさい。そんなものが今のあなたになんになるんです? へ、へ! つまりなんといっても、あなたはやはり市民であり人間であるからですか? それなら、何も出しゃばることはなかったんですよ。頼まれもしない事に手を出さなけりゃよかったんですよ。まあ、ピストル自殺ですな。どうです、それもお厭ですかね?」
「あなたは僕を追っ払いたいばかりに、わざと僕をからかってるようですね……」
「どうもあなたは変人だな。それにもう来てしまいましたよ。どうぞ階段をお上がりください。ごらんなさい。あれがソフィヤ・セミョーノヴナの部屋の入り口です。ほらね、誰もいないでしょう! あなたは本当になさらないんですか? じゃカペルナウモフにでもきいてごらんなさい。あのひとはあすこの家へいつも鍵をあずけるんだから。ああ、ちょうどあれがマダム・ド・カペルナウモフです。え? なんですって? (あの女は少しつんぼなんでね)出て行ったんですって? どこへ? さあ、今こそお聞きになったでしょう? あの人は留守なんですよ。そしてことによったら、夜遅くまで帰らないかもしれませんぜ。じゃ、今度はわたしの部屋へ行きましょう。だって、わたしのところへも寄るとおっしゃったじゃありませんか? さあ、これがわたしの部屋です。レスリッヒ夫人は家にいません。あの女は年じゅういそがしそうにしていましてね。しかしいい人ですよ、実際……あなたにもう少し分別があったら、あなたの役に立ったかもしれないんだがなあ。さあ、そこでごらんください。わたしは
スヴィドリガイロフは、もう幌馬車の中にすわっていた。ラスコーリニコフは、少なくともこの瞬間、自分の疑いが間違っていたと考えざるを得なかった。彼は一言も答えないで、くるりとくびすを返すと、もと来た
いつものくせで、彼は一人になると、ものの二十歩も歩くうちに、深いもの思いに落ちてしまった。橋の上へ上がると、彼は欄干の傍に立ち止まり、水をながめ始めた。その間にアヴドーチャ・ロマーノヴナが彼の後ろへ来て立っていた。
彼は橋の
けれど、こちらはそっと気を配りながら、近寄って来る様子だった。彼は橋へは上らずに、ラスコーリニコフに見つからぬよう一生懸命に苦心しながら、やや離れた歩道の上に立ち止まった。しかし、ドゥーニャにはもうずっと前から気がついていたので、手で彼女に合図を始めた。彼女はその合図によって、彼が兄には声をかけないで、自分の方へ来てくれと頼んでいるように思われた。
ドゥーニャはそのとおりにした。彼女はそっと兄のうしろを回って、スヴィドリガイロフに近づいた。
「さあ、早く行きましょう」とスヴィドリガイロフは彼女にささやいた。「わたしはね、ロジオン・ロマーヌイチにこの会見を知られたくないんです。前もってお断わりしておきますが、わたし達はついそこの料理屋で一緒にいたんですよ。兄さんが自分でわたしを捜し出されたので、わたしはやっとの事で、今まいて来たところなんでしてね。兄さんはどうしたわけか、わたしがあなたに差し上げた手紙のことをご存じで、何やら変に疑っておられるんです。もちろん、あなたが打明けなすったのじゃありますまいね。でも、あなたでないとすると、いったい誰でしょう?」
「さあ、わたし達はもう角を曲がりましたから」とドゥーニャはさえぎった。「もう兄に見られはしません。わたしちゃんと申し上げておきますが、もうこれから先へはご一緒には参りません。ここですっかりおっしゃってくださいまし、そんな事は往来でも言えることですもの」
「第一に、この話はどうしても往来じゃできませんし、第二に、あなたはソフィヤ・セミョーノヴナの話もお聞きになる必要があります。また第三には、二、三の書類もお目にかけようと思いますし……それに、なんです、もしあなたがわたしの所へ来るのを
ドゥーニャはけっしかねてたたずみながら、刺すような目でスヴィドリガイロフをみつめていた。
「あなたは何を恐れていらっしゃるんです!」とこちらは落ち着き払って注意した。「都会は田舎と違いますよ。それに田舎でも、わたしがあなたに仕向けたより、かえってあなたの方が余計わたしをひどいめに合わせなすったんですからね。ところでこの場合……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナは承知してらっしゃるんですか?」
「いや、あのひとにはなんにも話してありません。それに、いま家にいるかどうか、それさえ不確かなくらいですからね。しかし多分いるでしょう。あのひとも今日は自分の身うちを葬ったばかりだから、お客のところを歩き回るような日じゃありませんからね。わたしは時期が来るまで、このことを誰にも話したくないので、あなたにお知らせしたのさえ、いささか後悔してるくらいなんですよ。この際ほんのわずかな不注意でも、密告と同じになるんですからね。わたしはすぐそこにいるんです、ほらあの家に。さあもうそばまで来ました。ほら、あれがこの家の庭番です。庭番はよくわたしを知っておりますよ。ほらおじぎをしているでしょう。あの男はわたしが婦人同伴で歩いているのを見たわけだから、もうむろんあなたの顔も見覚えたでしょう、もしあなたがひどくわたしを恐れて、疑っていらっしゃるとすれば、これはあなたにとって有利なわけですよ。いや、どうかこんなにずけずけ言うのをお許しください。わたしは借家人から部屋をまた借りしているんですよ。ソフィヤ・セミョーノヴナはわたしと壁
スヴィドリガイロフの顔は、しいて卑下するような微笑にゆがんだ。しかしその実、彼はいま笑うどころの
「わたしはあなたが……
スヴィドリガイロフは、ソーニャの部屋の前に立ち止まった。
「ちょっと伺いますが、お宅でしょうか。留守だ。さあ困った! しかし、あのひとはすぐ帰って来るでしょう。わかってますよ。あのひとが出たとしたら、それはみなし
スヴィドリガイロフはかなり広い部屋を二間、家具つきで借りていた。ドゥーネチカはうさんくさそうにあたりを見回したが、部屋の飾りつけにも配置にも、かくべつ変わったものは目にはいらなかった。もっとも、スヴィドリガイロフの部屋が、ほとんど人の住んでいない二つの
「さあこちらを、この二つ目の大きな部屋をごらんください。そして、このドアに注意していただきます。これには
「あなたは立聞きなすったんですって?」
「さよう、立聞きしました。さあ、そろそろわたしの部屋へ行きましょう。ここは腰をかける所もありませんから」
彼はアヴドーチャを導き、客間に当ててあるとっつきの部屋へ引っ返し、彼女に椅子にかけさせた。そして、自身はテーブルの反対の端に、少なくとも彼女から一
「これがあなたの手紙でございます」彼女はテーブルの上において、こう切り出した。「あなたの書いていらっしゃるようなことが、いったいあっていいものでしょうか? あなたは兄が犯したという、犯罪のことをほのめかしていらっしゃいます。
ドゥーネチカはこれだけの事を、せきこんで早口に言い切った。一瞬間、彼女の顔には
「もしお信じにならないのなら、どうして一人でわたしのところへ来るなんて、そんな冒険がおできになるものですか? いったいなんのためにいらっしたんです? ただ好奇心のためですか?」
「わたしを苦しめないで、言ってください、言ってください!」
「あなたがしっかりしたお嬢さんなのは、申すまでもないことです。わたしは全くのところ、あなたがきっとラズーミヒン氏に頼んで、ここへついて来ておもらいになる事と思っていましたよ。ところが、あの人はあなたと一緒にもいなかったし、あなたのまわりにも見えなかった。わたしはよく見たんですからね。これは全く大胆ですよ。これでみると、あなたはつまりロジオン・ロマーヌイチをいたわりたかったんですね。もっとも、あなたの持っていらっしゃるものは、すべて神々しい……ところで、あなたの兄さんに関しては、この上何を話すことがありましょう? あなたは今ご自分で、あの人をごらんになったじゃありませんか。まあ、どんな格好でした?」
「あなたはまさか、それだけのことを根拠にしてらっしゃるんじゃありますまいね?」
「いや、そんな事じゃありません。あの人自身のことばが根拠ですよ。現にここへ、ソフィヤ・セミョーノヴナのところへ、あの人は二晩つづけてやって来たんですよ。二人がどこに腰かけていたか、それは先刻お目にかけたとおりです。そこで兄さんはあのひとに一部始終を告白したんですよ。兄さんは人殺しです。自分で質を置きに行っていた、ある官吏の後家さんで、質屋をしている婆さんを殺したのです。それから、婆さんの殺されたところへ偶然はいって来た、妹のリザヴェータという古着商売の女もやはり殺してしまったのです。二人とも持って行った
「そんなことがあるはずはない!」ドゥーネチカは死人のような土色に変わった唇でつぶやいた。彼女ははあはあ息を切らしていた。「そんなことがあるはずはございません。まるでなんにも、これんばかりの理由もありません、少しも原因がありません……それは嘘です、嘘です!」
「兄さんはもの取りをなすった。これがいっさいの原因です。兄さんは金と品物を取ったんですよ。もっとも自分で白状なすったとこによると、金も品物も手をつけないで、どこかの石の下へ持って行ったとかで、今でもそこにあるそうですがね。しかし、これはただ手をつける勇気がなかったからです」
「だって兄がものを盗んだり、強奪したりするなんて、そんな事があっていいものですか? 兄はそんなことなんか、考えてみることもできる人じゃありません」とドゥーニャは叫んで、椅子からおどり上がった。「だって、あなたも兄をご存じじゃありませんか。お会いになったでしょう? いったい兄に泥棒ができるとお思いになって?」
彼女はまるでスヴィドリガイロフに、嘆願でもしているような風情だった。自分の恐怖などことごとく忘れつくしていた。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、こういうことには、幾千、幾百万という
「いったいどんな……理由なんですの?」
「話せば長い事ですよ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。そこには、さあなんと言ったらいいか、一種の理論があるんですよ。つまり、こういうわけなんです。たとえば、おもな目的さえよければ、一つぐらいの悪業は許さるべきだという、あれと同じ理屈なんですね。一つの悪業と百の善行! その上に、もちろん、はかりしれないほど自尊心の強い才能のある青年にとって、たとえば、三千ルーブリかそこいらの金がありさえすれば、生活の行程も将来もすっかり別なものになってしまうはずだのに、その三千ルーブリがないと意識したら、屈辱を感ぜざるを得ないですからな。そこへもってきて、飢えと、狭苦しい部屋と、ぼろぼろの服と、自分の社会的地位のみじめさに対する明瞭な自覚と、それと同時に妹や母の境遇を思う心、こういうものから起こる焦燥を勘定に入れてごらんなさい。しかし、何よりも一番の原因は虚栄心です、自負心と虚栄心です。もっとも、こりゃあるいはいい傾向のものかもしれませんがね……わたしは何も兄さんを責めてるんじゃありませんよ。どうかそんなことを思わないでください。それにわたしの知ったことじゃないんですからね。そこにはもう一つ独特の理論があったんです――一とおりまとまった理論ですがね――それによると、いいですか、人間は単なる材料と特殊な人間に分類されるんです。そのうち後者は、生存の高い地位のお
「でも、良心の
「ああ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、現代は何もかもが
「わたしもその理論は知っています。いっさいを許されている人間を論じた兄の文章を、わたし雑誌で読みました……ラズーミヒンさんが持って来てくだすったので……」
「ラズーミヒン氏が? あなたの兄さんの論文を? 雑誌にのった? そんな論文があるんですか? わたしは知らなかった。それはきっと面白いに違いない! ですが、あなたはどこへいらっしゃるんです、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」
「わたしはソフィヤ・セミョーノヴナに会いたいんですの」とドゥーネチカは弱々しい声で言った。「あのひとのとこへは、どう行ったらいいんでしょう? もう帰ってらっしゃるかもしれませんわ。わたしはぜひ今すぐあのひとに会いたいんですの。あの人の口から……」
アヴドーチャ・ロマーノヴナはしまいまで言うことができなかった。息が文字通り切れたのである。
「ソフィヤ・セミョーノヴナは、夜までは帰りますまいよ。わたしはそう思いますね。あのひとはずっと早く帰らなきゃならんはずですが、もしそうでないとすると、うんと遅くなるでしょうよ……」
「ああ、それじゃお前は嘘をついたんだね! 今こそわかった……お前は嘘をついたんだ……お前は嘘ばかりついてたんだ! わたしはお前なんか信用しやしない! 信じない! 信じない!」とドゥーネチカはすっかり夢中になって、もの狂わしげに叫んだ。
彼女はほとんど失神したように、スヴィドリガイロフが急いで当てがった椅子の上へ倒れた。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、どうなすったんです、しっかりなさい! さあ、水です。ひと口お飲みなさい……」
彼はドゥーネチカに水を吹きかけた。彼女はぶるっと身震いして、われに返った。
「ひどくきいたもんだな!」とスヴィドリガイロフは
「悪党! まだ人をなぶってる。わたしを出してください……」
「あなたどこへ行くんです? どこへ?」
「兄のところへ。兄はどこにいます? あなたご存じでしょう? どうしてこのドアに鍵がかかってるんです? わたし達はこの戸口からはいって来たのに、それが今は鍵がかかってる。いつの間にあなたは鍵をかけたんです?」
「わたし達がここで話し合ったことを、家じゅうの部屋へ筒ぬけに聞かれちゃ困りますからね。わたしはけっしてなぶってなんかいません。
「どうして兄を救うことがおできになるんです? ほんとうに兄を救うことができるんですの?」
ドゥーニャは腰をおろした。スヴィドリガイロフはそのそばにすわった。
「それは皆あなたのお心ひとつですよ。あなたの心、あなたの心ひとつです」彼は目をぎらぎら輝かしながら、興奮のあまりほかのことばが口に出ないで、どもりどもりささやくように言った。
ドゥーニャはぎょっとして、思わず一歩後へよろめいた。彼も同じように全身を
「あなたが……わずかあなたの一言で、兄さんは救われるんです! わたしは……わたしは兄さんを救います。わたしには金と友人があります。わたしはすぐ兄さんを
彼はうわ言でも言ってるような風になってきた。それは、いきなり頭をがんと打たれた人にほうふつとしていた。ドゥーニャはおどり上がって、戸口の方へ駆け寄った。
「あけてください! あけてください!」彼女は両手でドアをゆすぶり、誰にともなく助けを求めながら扉越しにこう叫んだ。「あけてくださいったら! いったい誰もいないんですか?」
スヴィドリガイロフは立ち上がって、われに返った。毒々しい
「あっちにゃ誰もいやしませんよ」と彼は低い声で間をおきながら言った。「かみさんは留守だから、そんな大きな声をしたって無駄ですよ。ただつまらなく自分で自分を興奮させるばかりですよ」
「
「鍵はなくしてしまいました。どうしても見つかりません」
「ああ! それじゃ人を
彼女はもう叫び声こそ立てなかったが、食い入るようにひたと迫害者をみつめながら、その一挙一動を鋭く見守っていた。スヴィドリガイロフもその場を動かずに、彼女と向き合ったまま、部屋の反対側に突っ立っていた。彼は自分を統御するだけの余裕があった。少なくとも、表面だけはそう見えた。が、顔は依然として青ざめていた。嘲るような微笑は彼の顔を去らなかった。
「あなたは今『手籠め』とおっしゃいましたね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。もし暴力だとすると、わたしの処置が当を得ているのに、なるほどとお思いになりましょう。ソフィヤ・セミョーノヴナは留守だし、カペルナウモフの住まいまではずっと遠くて、しめ切った部屋が間に五つもあります。それから最後に、わたしはあなたより少なくも二倍は力が強いです。その上、わたしには何も恐れることなんかありません。なぜって、あなたはあとで訴えるってことができませんからね。何分、あなたもまさか兄さんをわたす気にはならないでしょう? それに、誰もあなたを信じる人はありませんよ。そうじゃありませんか、若い娘さんが一人で独身者の男の所へ、出かけるわけがありませんからね。だから、よし兄さんを犠牲になすったところで、結局なにも証拠だてることはできませんよ。手籠めってことは、非常に証明しにくいものですからね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」
「悪党!」とドゥーニャは憤りのささやきを漏らした。
「なんとでもおっしゃい。しかしお断わりしておきますが、わたしはただ仮定の形で言っただけですよ。わたし自身の確信から言えば、たしかにあなたのおっしゃる通りです。暴力は卑劣な行為です。ただわたしが申し上げたのは、もしあなたが……たとえもしあなたがわたしの申し出に従って、進んで兄さんを救おうという気におなりになったとしても、あなたの良心には何もやましいところは無いという、ただそれだけのことなんです。あなたは単に状況(もしそう言わなくちゃ済まないのなら、暴力と言ってもよろしい)に屈服なすったというだけの話じゃありませんか。こういうことを考えてごらんなさい――兄さんとお母さんの運命は、あなたの掌中に握られてるんですよ。しかも、わたしはあなたの奴隷になります……一生涯……わたしはここにこうして待っています……」
スヴィドリガイロフはドゥーニャから八歩ばかり隔てた長椅子に腰をおろした。彼の決心を動かすことができないのは、彼女にとって疑う余地もなかった。それに、彼女は、彼の人となりを知っていた……
ふいに彼女はポケットから
「ははあ! そういうことですか!」と彼は驚きながらも、毒々しい微笑を浮かべてこう叫んだ。「いや、それでは事件の進行が一変してしまいますな! あなたはたいへんわたしの仕事を楽にしてくださるわけですよ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ! それに、その拳銃をどうして手にお入れになりましたね? こりゃラズーミヒン氏の
「お前の拳銃じゃない、お前の殺したマルファ・ペトローヴナのじゃないか、悪党! あのひとの家の中には、お前の物なんか一つだってありゃしなかった。わたしは、お前がどんなことをするかしれない人間だと思ったから、これを取っておいたんです。一足でも踏み出してみるがいい、わたし誓ってお前を殺すから!」
ドゥーニャは半狂乱であった。彼女は拳銃を上げて身構えた。
「じゃ、兄さんはどうします? ちょっと物ずきにお尋ねしますが」やはり同じ所に立ったまま、スヴィドリガイロフは尋ねた。
「したけりゃ告訴するがいい! 一足だってそこを動いたら!
「じゃ、あなたはわたしがマルファを毒殺したと、はっきり確信していらっしゃるんですね!」
「お前だとも! お前が自分でわたしににおわしたじゃないか。お前はわたしに毒のことを話した……お前が毒を買いに町まで行って来たのを……わたしはちゃんと知っている……お前は前から用意していたのだ……それはもうお前に違いない……悪党!」
「もし仮りにそれが事実だとしても、それもお前のためなんだ……やはりお前が
「嘘をつけ! わたしはお前を憎んでいた、いつも、いつも……」
「ええっ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ! あなたは伝道熱で夢中になって、つい妙なそぞろ心になったのを、お忘れになったとみえますね……わたしはあなたの目つきでわかりましたよ。覚えてらっしゃるでしょう? あの晩、月が照らして、おまけにうぐいすまで
「嘘をつけ! (ドゥーニャの目の中にはもの狂おしい憤怒がひらめいていた)。そんなことはない、嘘つき!」
「嘘だって? いや、まあ嘘かもしれない。わたしは嘘を言いましたよ。女にこんなことを言うものじゃないんだ(と彼は薄笑いを漏らした)。おれもお前がぶっ放すのは知ってるよ、まるで可愛いい野獣だ。さあ、撃て!」
ドゥーニャは拳銃を上げた。そして、死人のようにまっさおな顔をして、血の気を失った下唇をわなわなと震わせ、
「蜂が刺した! いきなり頭をねらってやがる……なんだこれは? 血だ!」
彼は細くたらたらと右のこめかみに流れる血をふくために、ハンカチを取り出した。どうやら弾丸はちょっと上皮を掠めたばかりらしい。ドゥーニャは拳銃をおろして、恐怖というよりも、何かしらけうとい疑惑の表情で、スヴィドリガイロフをみつめていた。彼女は自分でも何をしたのやら、またそれがどうなっているのやら、いっこうわからない様子だった。
「いや、射ち損じなら仕方がない! もう一度おやんなさい、待ってますよ」とスヴィドリガイロフは低い声で言った。まだ薄笑いは依然として浮かべていたが、どことなく
「そんな事をしていると、引金をお上げになる前に、あなたをつかまえてしまうことができますぜ!」
ドゥーネチカはぴくりと身震いして、すばやく引金を上げ、再び拳銃をさし上げた。
「もう帰してください!」と彼女は絶望の調子で言った。「わたし、誓ってまた撃ちますよ……わたし……殺しますよ!……」
「いや、やむを得ません……三歩の距離じゃ殺せないわけがない。が、もし殺せなかったら……その時は……」
彼の目はぎらぎらと輝いた。彼は更に二歩すすんだ。
ドゥーネチカは引金をおろした。ただかちりといっただけである!
「
彼は二歩離れたところに立って待っていた。そして、情熱に燃える重苦しげな目つきで、野性的な決心を面に浮かべながら、彼女をみつめていた。ドゥーニャは悟った――彼は自分を手放すくらいなら、むしろ死を選ぶに相違ない。『だから……だからもうどうあっても、今度こそ二歩の距離で殺してしまわねばならぬ……』
突然、彼女は拳銃をがらりと投げ捨てた。
「捨てたな!」とスヴィドリガイロフはびっくりしたように言って、息を吐いた。
何かあるものが一度に彼の心から離れてしまったようなぐあいだった。しかも、それは死の恐怖の重荷ばかりではなかったかもしれない。それにこの瞬間、彼はほとんどそんなものを感じていなかった。それはおそらく彼自身も完全に定義できない、もっと痛ましい陰惨な別な感情からの解放であった。
彼はドゥーニャの傍へ寄り、片手を静かに彼女の腰に回した。彼女はあらがおうとしなかったが、全身を木の葉のようにおののかせながら、祈るような目で彼を見た。彼は何か言おうとしたが、ただその唇がゆがんだばかりで、一言も発することができなかった。
「帰して!」とドゥーニャは祈るように言った。
スヴィドリガイロフはぴくっと身震いした。この敬語を抜いたことばづかいには、どこやら前のとは違った響きがあった。
「じゃ、愛はないの?」と彼は小声に尋ねた。
ドゥーニャは否定するように
「そして……愛することもできない?……どうしても?」と彼は絶望したようにささやいた。
「どうしても!」とドゥーニャもささやいた。
スヴィドリガイロフの心の中では恐ろしい
また一瞬間が過ぎた。
「さあ
彼はしゅうねく窓の外を見ていた。
ドゥーニャは鍵をとろうと、テーブルに近づいた。
「早くして! 早くして!」いつまでも身動きもしなければ、ふり向こうともせず、スヴィドリガイロフはくり返した。
けれど、この『早くして』の中には、明らかに何か恐ろしい調子が響いていた。
ドゥーニャはそれを悟った。彼女は鍵をつかむと、戸口へ駆け寄って、手早く鍵をあけると、やにわに部屋から飛び出した。そして一分後には、気ちがいのように前後を忘れて、掘割通りへ走り出で、××橋の方をさして駆け出した。
スヴィドリガイロフはまだ三分ばかり窓の傍に立っていた。やがてのろのろと後ろをふり向いて、あたりを見回し、静かに手で額を
その晩、彼は十時ころまで、次から次へといろんな料理屋や、
スヴィドリガイロフは、カーチャにも、手風琴回しにも、給仕にも、どこかの書記二人にも、酒を飲ませた。この二人の書記と関係をつけたのは、ほかでもない、彼らが二人とも曲がり鼻をしていたからである。一人の鼻は右へ、一人の鼻は左の方へ曲がっていた。これがスヴィドリガイロフの目をひいたのである。二人はとうとう彼をある遊園地へ引っ張って行った。そこでは、彼はみんなに入場料を払ってやった。この遊園地には、ひょろひょろした三年もののもみの木が一本と、貧弱な植込みが三ところにあった。そのほか、実質は要するに酒場にすぎない『ホール』が設けてあった。しかし、お茶くらいは注文することができたし、その上にいくつかの緑色に塗った小卓と椅子が置いてあった。ひどい歌うたいの合唱団と、赤鼻の道化者じみた、しかしなぜか馬鹿に浮き立たない、酔っ払ったミュンヘン生まれのドイツ人が、精々見物のご機嫌を取り結んでいた。二人の書記はどこかのほかの書記連と
彼女は一人きりではなかった。カペルナウモフの小さい子供が四人、そのまわりをとり巻いていた。ソーニャに茶を飲ませてもらっていたのである。彼女は無言のまま、うやうやしくスヴィドリガイロフを迎えたが、びしょぬれになった彼の服をびっくりしたように見回した。が、一言も口はきかなかった。ところで子供たちは、筆紙に尽くし難い恐怖の体で、そうそうに逃げて行ってしまった。
スヴィドリガイロフはテーブルの前に腰をおろし、ソーニャにも傍へかけてくれと頼んだ。彼女はおずおずと聞く身構えをした。
「私はね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、ことによると、アメリカへ行ってしまうかもしれないんです」とスヴィドリガイロフは言った。「で、あなたとお目にかかるのも、多分これが最後でしょうから、何かの始末をつけておきたいと思って伺ったわけです。さて、あなたは今日あの奥さんに会いましたか? 私はあのひとがあなたに何を言ったか、ちゃんと承知しておりますから、改めて聞かせていただかなくてもいいです。(ソーニャはもじもじして、顔を赤らめた)。ああいう人たちには決まった流儀がありますからね。ところであなたの妹さんや弟さんの方は、もうほんとうに身の振り方がついたわけです。それからあの人たちに決めてあげた金は、一人ひとりべつべつに受取りをとって、確かな然るべきところへあずけておきましたから。もっとも、この証書はあなたあずかっておいてください。なに、ただ万一の場合のためですよ。さあ、お渡ししますよ! さあ、もうこれでこっちは済んだと。それから、ここに五分利つきの債券が三枚あります。すっかりで三千ルーブリです。これはあなたご自分で、ご自分のものとしてとっといてください。これは私たち二人の間だけのことにして、たとえどんな事をお聞きになっても、誰にも知られないように願います。この金はあなたのお役に立ちますよ。だって、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今までのような生活をするのは――汚らわしいことですからね。それに、もうこの先そんな必要もないんですから」
「わたし、あなたにはいろいろご恩になりまして、子供たちも、なくなった母も」とソーニャはせきこみながら言った。「それだのに、今まではろくろくお礼も申し上げないでいましたけど、それは……どうぞあしからず……」
「ええっ、もうたくさんですよ、たくさんですよ」
「で、この金は、アルカージイ・イヴァーヌイチ、まことに有難うはございますけど、わたし、今のところ差し向き入用ございませんの。わたし一人だけの
「あなたのものです、あなたのものです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、どうかもうとかくの押し問答はぬきにしてください。それに私は暇もないんですから。あなたには入用になりますよ。ロジオン・ロマーヌイチの行く道は二つしかありません――額へ
ソーニャも同様に椅子からおどり上がり、おびえたように彼を見つめていた。彼女はしきりに何か言いたい、何か尋ねたいような気がしたけれど、初め一、二分はその勇気もなかったし、それにどう口を切っていいかもわからなかった。
「どうしてあなたは……どうしてあなたは、今こんな雨の中を出ていらっしゃいますの?」
「なあに、アメリカまで行こうというものが、雨を恐れていてどうしますか、へ、へ! さようなら、可愛いいソフィヤ・セミョーノヴナ! 生きてらっしゃい、いつまでも生きてらっしゃい。あなたは他人のためになる人ですからね。ついでに……どうかラズーミヒン氏に、私からよろしくとお伝えください。どうかこのとおりに伝えてくださいませんか――アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフがよろしくって。ぜひともね」
彼はソーニャを
あとになってわかったことだが、彼はこの夜の十一時過ぎに、いま一つきわめて突飛な、思いがけない訪問をした。雨はまだやんでいなかった。彼は全身ずぶぬれになって、十一時二十分というのに、ヴァシーリエフスキイ島のマールイ通り三丁目にある
その間にスヴィドリガイロフは、ちょうど真夜中にペテルブルグスキイ区をさして、××橋を渡っていた。雨はあがったが、風がごうごう鳴っていた。彼はぶるぶる震え出した。そして、ちょっとの間ある特殊な好奇心と、疑惑の色さえ浮かべながら、
「茶はあるかい?」とスヴィドリガイロフは尋ねた。
「そりゃできます」
「それから何がある?」
「こ牛肉と、ウォートカと
「こ牛肉と茶を持って来てくれ」
「そのほかにゃ何もご注文はございませんか?」とぼろ服はけげんそうな顔をして尋ねた。
「何もない、何もない!」
ぼろ服はすっかり当てがはずれて出て行った。
『こりゃきっといい場所に相違ない』とスヴィドリガイロフは考えた。『どうして俺はこれを知らなかったろう。どうやら、俺もどこかカフェー・シャンタンの帰りで、しかも何か途中でひと騒動やったという様子をしているらしい。だがそれにしても、いったいここはどんなやつが泊まって行くのだろう、ちょっと興味があるな』
彼はろうそくをつけて、しさいに部屋を見回した。それはほとんどスヴィドリガイロフの背丈にも足りない、窓の一つしかない、小さな
茶とこ牛肉をもって引っ返したぼろ服は、いま一度『まだ何かご注文はありませんか?』と問いかけずにはいられなかったが、またもや『ない』という返辞を聞くと、もうすっかり引っ込んでしまった。スヴィドリガイロフは暖まるために、急いで茶に飛びかかった。そして、コップ一杯飲みほしてしまったが、食欲がまるでないので、料理の方は一きれも口に入れなかった。どうやら熱が出てきたらしい。彼は
彼はふいにどうしたわけか、先ほどドゥーネチカに対する計画を実行する一時間前に、ラスコーリニコフをつかまえて、妹をラズーミヒンの保護に託すがよいとすすめた、あのことが思い出された。『実際俺はあの時、何よりも自分で自分の傷をつっつくために、あんなことを言ったのかもしれないぞ。ラスコーリニコフの察した通りにな! だがそれにしても、あのラスコーリニコフはずぶといやつだ! ずいぶん大きな荷を背負って行ったものだ。あのくだらない考えが頭から飛び出したら、やがてそのうちに大した悪党になれるかもしれない。が、今はあまり生きたがりすぎる! この点にかけたら、ああした手合は卑劣漢ぞろいだ。が、まあ、あんなやつのことはどうだっていいや。勝手にしやがれ、俺の知ったことじゃない』
彼は眠れなかった。しだいしだいに、先ほどのドゥーニャの姿が目の前に立ち現われ始めた。と、ふいに
彼はもう
彼は起き上がって[#「 彼は起き上がって」は底本では「彼は起き上がって」]、窓に背を向けながら、寝台の端に腰をかけた。『もういっそ寝ない方がいい』と彼は腹を決めた。しかし窓からは、寒さと湿気が伝わってきた。彼はその場を立たないで、毛布を引き寄せてくるまった。ろうそくはつけなかった。彼は何ごとも考えなかったし、また考えようともしなかった。しかし妄想はつぎからつぎと起こって、初めもなければ終わりもなく、連絡もない思想の断片が、ちらちらとひらめき過ぎた。なんだかしだいしだいに、半ば仮睡の状態に落ちていくようだった。寒さか、闇か、湿気か、または窓の下でほえながら木々をゆすっている風か、とまれ彼の心の中に一種の
スヴィドリガイロフは目をさまして、寝台から立ち上がると、窓の傍へ歩みよった。彼は手探りで栓を見つけ窓をあけた。風はすさまじい勢いで狭い部屋へ流れ込み、まるで凍った霜のようなものを、彼の顔とシャツ一枚の胸へ吹きつけた。果して窓の下には庭のようなものがあった。しかも、やはり遊園地風のものらしかった。たぶん昼間は、ここでも歌うたいが歌をうたったり、小テーブルの上へは茶が運ばれたりしたのだろう。けれど今は立木やくさむらからしぶきが窓へ飛んでくるばかりで、穴倉のようにまっくらである。何かしらところどころに暗い
彼はしばらく細長い廊下を端から端まで、なん度も歩き回ったが、誰ひとり見つからなかったので、すんでの事に大きな声で呼ぼうとした。と、その時暗い片隅の古ぼけた戸棚とドアの間に、何か生きものらしい妙なものが目にはいった。ろうそくを持ったまま身をかがめてみると、それは一人の子供だった。五つそこそこくらいの女の子が、
『まだこんな事にかかわり合う気になってる!』と彼は突然重苦しく、毒々しい気持でそう考えた。『なんてばかばかしいことだ!』彼はいまいましそうにろうそくを取り上げて、是が非でもぼろ服を見つけ、少しも早くここを出ようと考えた。『ええ、あんな娘なんか!』もうドアをあけながら、彼はのろわしげに考えたが、もう一度娘を見に引っ返した。寝ているだろうか、どんな寝ぶりだろうか? こう思って、彼はそっと毛布を持ち上げた。娘はさも気持よさそうにぐっすり眠っていた。毛布の中であたたまったので、もう青白い頬に紅がみなぎっていた。ところが不思議なことには、その紅が普通の子供の赤みから見ると、なんだかどぎつく濃いように思われた。『これは熱の赤みだ』とスヴィドリガイロフは考えた。『これはまるで酒を飲んだ赤さだ、まるでコップに一杯も飲ませたようだ。赤い唇はかっかと燃えて、火を吹いてるようだ、いったいどうしたというのだろう?』ふと彼は娘の長い黒いまつ毛が、震えながらぽちぽちして、なんだか心もち持ち上がるような気がした。そしてその下からずるそうな、鋭い、どこか子供らしくない、合図でもするような目がのぞいた。娘は寝ているのでなく、寝たふりをしているらしく思われた。と、はたしてそうだった。娘の唇は微笑にひろがっていったが、まだがまんしようとでもするように、唇の端がかすかに震えている。けれど、やがて彼女はもうがまんするのをやめてしまった。それはもう笑いである、まがうことなき笑いである。何かしらずうずうしい挑発的なものが、まるで子供らしくないその顔に光っている。それは淫蕩である、それは
彼は同じ寝台の上に、同じように毛布にくるまっている。ろうそくはついていなかったが、窓にはもうあけ放れた朝の光が白んでいた。
『夜通し悪夢の見つづけだ!』全身たたきのめされたように感じながら、彼は毒々しい表情で身を起こした。体の節々が痛んだ。外は一面に深い霧で、何一つ見分けることができなかった。もう五時ちかい刻限である。寝過ごした! 彼は起き上がって、まだ湿っぽいジャケツと
乳のような濃い霧が、街の上一面に立ちこめていた。スヴィドリガイロフはすべっこい泥だらけの板敷歩道を小ネヴァ河の方へ向けて歩き出した。彼の頭の中には、一夜のうちに
『あっ!』と彼は考えた。『これはいい場所だ。ペトローフスキイなんか行くことはありゃしない? 少なくとも、官憲の証人がいるわけだからな……』
彼はこの新しい思いつきに、ちょっとにやりと笑って、××通りの方へ曲がった。そこには火の見やぐらのある大きな家があった。しまった大きな門の傍に、灰色の兵隊外套を着てアキレスめいた
「いったいあんたここになんの用ある?」彼は依然として身動きもしなければ、姿勢を変えようともしないでこう口を切った。
「いや、なんでもないよ、君、こんちは!」とスヴィドリガイロフは答えた。
「ここ場所ない」
「僕はね、君、これからよその国へ行こうとしてるんだよ」
「よその国へ?」
「アメリカへ」
「アメリカへ?」
スヴィドリガイロフは拳銃を取り出して、引金を上げた。アキレスは肩をつり上げた。
「いったいなにする、ここそんな冗談、場所ない!」
「どうして場所でないんだろう?」
「どうしても、場所ない」
「なあに、君、そんなことはどうでもいいんだよ。いい場所じゃないか。もし聞かれたら、アメリカへ行ったと答えときなさい」
彼は拳銃を右のこめかみへ押し当てた。
「ああ、ここいけない、ここ場所ない!」アキレスはますます大きく
スヴィドリガイロフは引金をおろした……
それと同じ日ではあるが、もう晩の六時過ぎに、ラスコーリニコフは母と妹の住まいへ近づいていた。それはラズーミヒンが世話をした例のバカレーエフの持家の中の貸間である。階段の上がり口は往来に向いていた。ラスコーリニコフははいろうかはいるまいか、と思い惑うさまで、いつまでも歩みを控え目にしながら近づいて行った。しかし、彼はどんなことがあっても、けっして引っ返しはしなかった。決心は堅くついていたのである。
『それにどっちだって同じことだ、二人はまだなんにも知らないのだから』と彼は考えた。『そしておれのことは、前から変わりもの扱いにし慣れてるんだし……』
彼の身なりは恐ろしいものだった。一晩じゅう雨に打たれたために、何もかも汚れ、方々裂け傷だらけのぼろぼろである。彼の顔に疲労と、悪天候と、肉体の
彼がノックすると、母親がドアをあけた。ドゥーネチカは家にいなかった。女中までがちょうどこの時留守だった。プリヘーリヤは初めうれしさのあまり、興奮して口もきけなかった。やがてわが子の手をとって部屋の中へ引っ張って行った。
「ああ、やっと来ておくれだったねえ!」と彼女はうれしさにどもりどもり言い出した。「ねえ、ロージャ、こんな涙なんかこぼしたり、ばかばかしいまねをするのを、怒らないでおくれね。これはわたし泣いてるんじゃなくて、笑ってるんだから。お前はわたしが泣いてるとお思いかえ? いいえ、わたしは喜んでるんだよ。わたしはどうもこういう馬鹿げたくせがあってね、すぐ涙が出るんだよ。これはね、お前のお父さんがなくなった時からで、何かというとすぐ泣けるんだよ。まあ、おかけ、お前さぞお疲れだろうね。ちゃんとわかるよ。あらまあ、なんて汚れ方だろう」
「僕きのう雨の中を歩き回ってたからですよ、お母さん……」とラスコーリニコフは言いかけた。
「なに、いいんだよ、いいんだよ!」とプリヘーリヤはわが子をさえぎりながら叫んだ。「お前はわたしが昔からの年寄りのくせで、いろんなことをうるさく尋ね出すかとお思いだろうが、心配しないでおくれ。わたしはわかったんだから、すっかりわかったんだから。わたしはもうこのごろ、こっちの風を飲み込んでしまったよ。それになるほど、ここの人の方がりこうだよ。わたしははっきり合点がいった――どうしてわたしなんかにお前の考えることがわかったり、お前にわけを尋ねたりする力があるものかね。お前には、なんだか知らないけれど、いろんな仕事や計画があるだろうし、思想とやらも頭に浮かぶんだろうからね。だもの、何を考えてるかなんて、お前の手を取ってこづきまわしたり、そんな事がどうしてできるものかね。わたしはそれでね……ああ、まあなんてことだろう! どうしてわたしはこう気ちがいみたいに、あれこれといろんなことを言い出すんだろう……わたしはね、ロージャ、あの雑誌にのったお前の論文をもう三度も読み返してるんだよ。ドミートリイ・プロコーフィッチが持って来てくださったのでね。わたしはそれを見ると、ああなるほどと思ったよ。ほんとにわたしはばかだったと、心の中で考えたのさ。あの子はこういう事をしているのだ。これで謎は解けた! 学者というものは、誰でもこうなのだ。あの子の頭にはいま何か新しい想が浮かんで、あの子はそれを考えているのかもしれない。それだのにわたしは、あの子を苦しめたり、うるさがらせたりしている、とこんなに思ったんだよ。読むには読んでもそりゃもうわからない事がたくさんある。もっとも、それは当たり前のことで、わたしなんかにわかってたまるものじゃないよ」
「ちょっと見せてくれませんか、お母さん」
ラスコーリニコフは新聞を取り上げて、自分の文章にちらと目を走らせた。彼の状態にも境遇にも矛盾した事ながら、自分の書いたものを印刷で初めて見た筆者の経験する、あの不思議な刺すような甘い気持を、彼も同様に感じたのである。それに、二十三という年齢のせいもあった。しかし、それはほんの一瞬間で、二、三行読むと、彼は顔をしかめた。恐ろしい憂愁が心臓をしめつけたのである。この二、三か月間の内部の闘争が、一時にことごとく思い起こされた。嫌悪の念をいだきながら、彼はいまいましそうに論文をテーブルの上へほうり出した。
「でもねえ、ロージャ、わたしがどんなに馬鹿でも、それでもお前が近いうちに、今の学者仲間で、よしんば一番えらい人でなくても、えらい人の一人になれるってことは、ちゃんと見分けがつくよ。それだのにあの人たちは、お前の気が狂ったなんて、よくも考えられたものだね。ほ、ほ、ほ! お前は知らないだろうけれど――でも、あの人たちはそんなことを考えたんだよ! なんの、あんな卑しい虫けらみたいな連中に、偉い人の頭がどうしてわかるもんかね! でもドゥーネチカがね、ドゥーネチカまでが、すんでのことでそれを本当にするとこだったのさ――ほんとになんということだろう! お前のなくなったお父様もね、二度ばかり雑誌へ原稿をお送りになったことがあるんだよ――初めは詩で(わたしはちゃんと原稿をしまってるから、いつかお前にも見せてあげようね)、二度めのはもうまとまった小説だった(わたしは無理にお父様にお願いして、それを清書させてもらったんだよ)。それからわたしたちは二人で、どうか載りますようにと祈ったんだけれど――載らなかったっけ! わたしはね、ロージャ、六、七日前までは、お前の身なりや、お前の住まいや、食べているものや、はいて歩くものなどを見て、どんなにつらかったかしれないんだよ。でも、今になってみると、これもやはりわたしが馬鹿だったと、合点がいったよ。だってお前はその気にさえなれば、今だってなんでも頭と腕で手に入れることができるんだものね。つまり、お前は今のところ、そんなものが欲しくないので、ずっとずっと偉いことをしているわけだわね……」
「ドゥーニャは家にいないんですか、お母さん?」
「いないんだよ、ロージャ。このごろあの子はしょっちゅう家をあけて、わたしを一人ぽっちにするんだよ。でも、有難いことに、ドミートリイ・プロコーフィッチがちょいちょい来てくだすってね、わたしの相手をしてくださるんだよ。いつもお前の話が出るが、あの人はお前を好いて、そして尊敬していらっしゃるね、ロージャ。妹の方は、大してわたしを粗末にするなんて、そういうわけじゃないんだよ。わたしは別に不足なんかありません。あの子の気性はああだし、わたしの性分はまた別なんだからね。あれには何やら秘密ができたらしいが、わたしはお前たちに隠すことは一つもありません。もっとも、わたしはドゥーニャが十分かしこい人間だってことも知っているし、おまけにわたしやお前を愛していることもよくわかってはいるがね……でも、結局これがどうなることだか、まるで見当がつかないんだよ。今もね、ロージャ、お前はこうして出かけて来て、わたしを喜ばせておくれだけれど、あの子はこのとおりふらふら出てしまった。帰って来たら、わたしそう言ってやるよ――お前の留守に兄さんが見えたが、いったいお前はどこで暇をつぶしておいでだった? ってね。でも、ロージャ、あまりわたしを甘やかさないでおくれ。お前の都合がよかったら――寄っておくれ。悪かったら――どうも仕方がない。わたしは待っているよ。だって、なんといっても、お前がわたしを愛してくれるのは、わたしも知っているから、わたしはそれでたくさんだもの。こんな風にお前の文章を読んだり、みんなからお前の噂を聞いたりしていると、そのうち、ひょっこり自分で訪ねて来てくれる。ね、それよりけっこうなことはないじゃないか! 現に今だってこの通り、お母さんを慰めに来てくれたんだものね。わたしは自分でもわかるよ……」
ここまで言うと、プリヘーリヤはふいに泣き出した。
「またわたしとしたことが! どうかわたしを、こんな馬鹿を気にかけないでおくれ! ああ、どうしよう、なんだってわたしはぼんやりすわりこんでるんだろう」いきなり席から飛び上がりながら、彼女は叫んだ。「ちゃんとコーヒーがあるのに、わたしお前にごちそうしようともしないでさ! ほんに年寄りの身勝手って方図のないものだね。すぐあげるよ、すぐ!」
「お母さん、うっちゃっといてください、僕はすぐ帰りますから。僕そんなことで来たんじゃありません。どうか僕の言うことを聞いてください」
プリヘーリヤはおずおずとわが子の傍へ寄った。
「お母さん、たとえどんなことが起ころうとも、また僕のことでどんな話をお聞きになろうとも、また僕のことで人があなたに何を言っても、お母さんは今と同じように僕を愛してくださいますか?」彼は自分のことばを考えもしなければ、細心に大事をとろうともせず、胸からあふれ出るまま、いきなりこうたずねた。
「ロージャ、ロージャ、お前どうしたの? それに、よくもお前はそんなことがきけるもんだね? 誰がお前のことをわたしにかれこれ言うものかね? わたしは誰の言うことだって信用しやしないよ。誰がやって来たって、わたしいきなり追い返してしまうから」
「僕はね、お母さん、僕がいつもお母さんを愛していたことを、はっきり知っていただくためにやって来たのです。だから、いま僕たち二人きりなのがうれしいんです。ドゥーネチカのいないのさえ、かえってうれしいくらいなんです」と彼は前と同じ興奮した調子で、ことばを続けた。「僕はお母さんにざっくばらんに言いに来たんです――たとえあなたが不幸におなりになっても、やっぱりあなたの息子は、自分自身よりもあなたを愛しているということを、承知してください。僕が冷酷な人間で、あなたを愛していないなどとお思いになるとしても、それはみんな間違いです。僕があなたを愛しなくなるようなことは、けっしてけっしてありません……さあ、もうたくさんです。僕はこういう風にして、これから始めなけりゃならないって、そういう気がしたんです……」
プリヘーリヤは無言のまま、わが子を胸に抱きしめながら、忍び
「いったいお前どうしたの、ロージャ、わたしにはわからないんだよ」とうとう彼女はこう言った。「わたしはこの間じゅうから、ただお前がわたし達をうるさがっているのだとばかり思っていたけれど、今こそいろいろのことでわかりました――お前には大きな悲しみがあって、そのためにお前は悩んでいるのです。こんなことを言い出して悪かったね、かんにんしておくれ。わたし、こんなことばかり考えてるものだから、夜もおちおち眠れないんだよ。昨夜はドゥーニャも、一晩じゅううなされていた様子で、始終お前のことを言っていたっけ。わたしも何やかや聞き分けはしたものの、いっこうなんにもわからなかった。今日も朝のうちずっと、死刑でも受けに行く前のようにそわそわして、何かしら待つような気持になっていたんだよ。虫が知らせるような風でね。ところが案のじょう、このとおり
「旅に行くんですよ」
「わたしもそうだろうと思っていた! わたしだってね、もしそうした方がよければ、お前と一緒に行ってもいいんだよ。ドゥーニャだってそうです。あの子はお前を愛していますよ、それはそれは愛していますよ。それからソフィヤ・セミョーノヴナも、なんなら一緒に連れて行ってもいいよ。わたしは喜んであの人を娘の代わりにしますよ。ドミートリイ・プロコーフィッチが一緒に出立の手伝いをしてくださるから……だが……いったいお前は……どこへ行くの?」
「では、さようなら、お母さん」
「え! 今日すぐなの!」永久にわが子を失おうとでもしているように、彼女は思わず叫んだ。「僕ゆっくりしていられないんです、僕は行かなくちゃならない。たいへんな用があるんですから……」
「わたしが一緒に行ってはいけないの?」
「いや、それよりお母さん、
「じゃ、お前に十字を切らしておくれ、お前を祝福して上げるから! これでいい、これでいい。ああ、まあいったいわたしたちは何をしているのだろう!」
そうだ、彼はうれしかった、誰もいあわさないで、母と二人きりでいられたのが、心からうれしかった。この恐ろしい一週間ばかりを通じて、彼の心は初めて一度にやわらげられたような気がした。彼は母の前に身を投げて、その足に
「ロージャ、かわいい、かわいいロージャ」と彼女はしゃくり上げながら言った。「今お前がそうしていると、お前の小さい時分そっくりだよ。お前はいつもこんな風にわたしの傍へ来て、わたしを抱いて接吻しておくれだった。まだお父さまも生きていらして、貧乏で困っていた時分、ただお前だけが、お前が一緒にいてくれるということだけで、わたしたちを慰めてくれたものです。それからお父様を見送ってからというものは――なん度いまのように、抱き合って、お墓のそばで泣いたかしれやしない。わたしが前からこんなに泣いてばかりいるのは、親心で災難の来るのがわかったからだよ。わたしはあの晩、覚えておいでだろう、わたしたちがこっちへ着くとすぐ、初めてお前を見た時に、お前の目つき一つで何もかも察したんだよ。あの時わたしの心臓は思わずどきっとしたものだ。ところが、今日もお前にドアをあけて上げて、ちょっと一目見るが早いか、いよいよ悲しい時が来たらしい、とそう思ったんだよ。ロージャ、ロージャ、でもお前は今すぐ行くんじゃないだろうね?」
「いいえ」
「お前また来ておくれだろうね!」
「ええ……来ます」
「ロージャ、腹を立てないでおくれ、わたしは別に、くどくどきこうとしやしないから。そんなことができないのは、よく承知しているんだから。でも、ちょっと、たった一言でいいから言っておくれ。お前はどこか遠いところに行くの?」
「非常に遠くです」
「すると、そこに勤め口とか、出世の道とか、何かそんな風のものでもあるの?」
「何ごとも神様の
ラスコーリニコフは戸口へ向かって歩き出した。けれど、母は彼にしがみついて、絶望のまなざしで彼の目を見つめた。彼女の顔は恐怖にゆがんでいた。
「もうたくさんですよ、お母さん」ここへ来る気になったのを、深く心に悔みながら、ラスコーリニコフは言った。
「一生の別れじゃないだろうね? まさか一生の別れじゃないだろうね? ね、お前来ておくれだろうね、明日にも来ておくれだろうね?」
「来ますよ、来ますよ、さようなら」
彼はとうとう振り切って出て行った。
それはさわやかな、はればれした、暖かい夕暮れだった。天気はもう朝から持ち直っていた。ラスコーリニコフは自分の住まいをさして歩き出した。彼は急いだ。いっさいを日没までに片づけてしまいたかったのである。で、それまでは誰にも会いたくなかった。自分の部屋へ上って行く途中、ナスターシャがサモワールの傍を離れて、じっと目をすえながら、一生懸命に自分を見送っているのに、ふと気がついた。『こりゃ誰かおれのところへ来ているのじゃないかな?』と彼は考えた。嫌悪の念と共に、ポルフィーリイの顔がちらと頭にうつった。が、自分の部屋へのぼりついて、ドアをあけると、ドゥーネチカの姿が目にはいった。彼女はたった一人ぼっちで、深い物思いに沈みながら腰かけていた。もう前から待っていたらしい。彼はしきいの上に立ち止まった。彼女はぎくっとして長椅子から腰を持ち上げ、彼の前に棒立ちになった。じっと兄の顔にそそがれた彼女の視線は恐怖の情と、かぎりない悲しみを現わしていた。このまなざしだけで、彼はたちまち妹が何もかも知っているのを悟った。
「どうだろう、お前の所へはいって行ってもいいかい、それとも出て行こうか?」と彼は疑ぐり深い調子で尋ねた。
「わたしね、きょう一日ソフィヤ・セミョーノヴナのところにいましたの。わたしたちは二人で兄さんを待ってたんですのよ。兄さんがきっとあすこへいらっしゃると思ったもんですから」
ラスコーリニコフは部屋へはいって、ぐったり椅子に腰をおろした。
「僕はなんだか精がないんだよ。ドゥーニャ。もうすっかりへとへとになったんだ。実はちょっと今だけでも十分冷静に、落ち着いていたいと思うんだけれど」
彼は疑わしげな視線をちらと妹に投げた。
「いったい兄さんは一晩じゅうどこにいらしたの?」
「よく覚えていない。ねえ、ドゥーニャ、僕はいよいよ決心しようと思って、幾度も幾度もネヴァ河の付近を歩き回ったんだ。それだけは覚えている。僕はそれでいっさいの片をつけようと思ったんだが……しかし思い切れなかった……」またもや疑わしげにドゥーニャを見ながら、彼はささやくように言った。
「まあ、よかった! わたしたちもつまりそれを心配したのよ、わたしもソフィヤ・セミョーノヴナも! してみると、兄さんはまだ生を信じてらっしゃるのね。まあ、よかった、ほんとうによかった!」
ラスコーリニコフは苦い笑いを漏らした。
「僕は信じはしなかった。だが、今お母さんと抱き合って、一緒に泣いたよ。僕は信じてはいないが、お母さんに僕のことを祈ってくださいと頼んできた。これはいったいどうなっているのか、わけがわからないよ、ドゥーネチカ。僕もそのことになると、まるで見当が立たない」
「お母さんのところへいらしたの? そして、お母さんにお話しなすったの?」とドゥーニャはぎょっとして叫んだ。「ほんとに兄さんは思い切ってお話しになったの?」
「いや、話はしなかった……ことばでは。けれど、お母さんは大分もう察しがついたよ、お母さんはね、夜中にお前の言ったうわ言を聞いたんだよ。お母さんはもう半分くらいわかっていると思うね。僕が行ったのはよくなかったかもしれない。なんのために行ったんだか、それさえわからないほどだ。僕は下劣な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間ですって、でも、苦しみを受けに行く覚悟がついてらっしゃるんでしょう! 兄さんはいらっしゃるんでしょう?」
「行くよ、今すぐ。僕はこの恥辱をのがれるために、身を投げようと思ったんだよ、ドゥーニャ。しかし、もう水の上にかがみながら立ってから、こう思ったんだ。もしおれが今まで自分を強者と思っていたんなら、今だってこんな恥辱を恐れるものかってね」と彼は先回りしながら言った。
「しかし、これはごうまんというものだろうか、ドゥーニャ?」
「ごうまんだわ、ロージャ」
彼の消沈した目の中に、火花がひらめいたように感じられた。自分がまだごうまんなのが、愉快だとでもいうようなぐあいだった。
「だが、ドゥーニャ、お前は僕が単にこれだけを恐れたのだ、などと思いはしないかい?」とみにくい微笑を浮かべて、妹の顔をのぞき込みながら彼は尋ねた。
「ああ、ロージャ、そんなことよして!」とドゥーニャは叫んだ。
二分ばかり沈黙が続いた。彼はうなだれて腰かけたまま、じっと床を見つめていた。ドゥーネチカはテーブルの反対側に立って、なやましげに兄をみつめていた。ふいに彼は立ち上がった。
「もう遅い、そろそろ時刻だ。僕はこれから自首しに行く。だが、いったいなんのために自首しに行くのか、自分でもわからない」
大粒な涙がはらはらと、彼女の頬を伝って流れた。
「ドゥーニャ、お前は泣いてるね。では、お前ぼくに手がのばされるね!」
「兄さんはそんなことまでお疑いになったの?」
彼女はしっかり兄を抱いた。
「兄さんはこれから苦しみを受けにいらっしゃるんですもの、もう半分くらい罪を洗い落としていらっしゃるんじゃなくって?」兄を抱きしめて接吻しながらも、彼女はこう叫んだ。
「罪? いったいどんな罪だい?」急に何やら思いがけない興奮のさまで彼は叫んだ。「それは僕があの汚らわしい有害なしらみを――誰の役にも立たない金貸
「兄さん、兄さん、あなた何をおっしゃるの! だって、兄さんは血を流したんじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望したように叫んだ。
「すべての人が流している血かい!」彼はほとんど前後を忘れたような調子でことばじりをとった。「世間で滝のように流されている血かい、今までたえまなく流れていた血かい? みんながシャンパンみたいに流している血かい? おおよく流したといって、下手人に
「だって、それは見当ちがいよ、まるっきり見当ちがいよ! 兄さん、それはいったい、なにをおっしゃるの!」
「ははあ! それじゃ形式が違うというんだね、審美的に気持のいい形式じゃないというんだね! だが、僕はまるっきり合点がいかないよ――大勢の人間を爆弾や、正規の包囲攻撃でやっつけるのがより多く尊敬すべき形式なんだろうか? 審美的な恐怖は、無力を示す第一の徴候だよ!……僕は一度も、まったくただの一度も、今ほどこれをはっきり意識したことはない。そして、今までにもまして、いっそう自分の犯罪理由を解しないよ! 僕は一度も、まったくただの一度も、今ほど強くなったことはない、今ほど確信を持ったことはない!……」
彼の青ざめてやつれはてた顔には、さっと
「ドゥーニャ、かわいいドゥーニャ! もし僕に罪があったら、どうか許しておくれ(もっとも、もし罪があるとしたら許すことなんかできないけれど)。じゃ、さようなら! もう議論はよそう! 出かける時だ、もう時が過ぎてるくらいだ。僕のあとからついて来ないでおくれ、後生だから。僕はまだ寄る所があるんだから……お前はこれからすぐ帰って、お母さんの傍についてておくれ。これはお前に折り入って頼む! これは僕がお前にたのむ一ばん最後の、一ばん大きなお願いだ。お母さんの傍を一刻も離れないようにしておくれ。僕はお母さんを不安の中に取り残して来たんだ。それはお母さんにとても堪えきれそうもないほどの不安なのだ。お母さんは死んでしまわなければ、気が狂うに決まってる。傍についててあげておくれ、ラズーミヒンが力になってくれるから。あの男には僕から話しておいた……僕のために泣くのはよしておくれ。僕はたとえ人殺しでも、生涯男らしい潔白な人間でいるように努力するから。事によったら、いつか僕の名を聞くことがあるかもしれないが、僕はお前のつらよごしになるようなことはしない、まあ見ていてくれ、今にそれを証明して見せるから……が、今は当分さよならだ」兄の言った最後の数語と約束を聞いたとき、またもやドゥーニャの目に現われた一種異様な表情を見てとって、彼は急いでこうことばを結んだ。
「なんだってお前はそんなに泣くの? 泣かないでおくれ、泣かないで。まだこれきり別れてしまうわけでもないんだから!……ああ、そうだ、ちょっと待っておくれ、僕は忘れていた!……」
彼はテーブルに近より、
「実はね、僕はこの女を相手に、たびたびあのことを話し合ったんだよ。ただこの女ひとりだけと」と彼は考え深そうに言った。「僕はこの女の胸へ、後になってああもみにくい実現を見たことを、いろいろと伝えたものだ。だが、心配しなくってもいいよ」と彼はドゥーニャの方へふり向いた。「この女もお前と同じように同意はしなかったよ。だから僕も、あの女が今いないのを喜んでいる。大切なことは、大切なことは、すべてがこれから新しく始まって、まず二つに屈折するということだ」急にまたしても自分の
二人はとうとう外へ出た。ドゥーニャは苦しかったが、でも彼女は兄を愛していたのである! 彼女は歩き出した。が、五十歩ばかり離れてから、もう一度彼を見ようと思って振り返った。彼の姿はまだ見えた。けれど、曲がり角まで行ったとき、彼の方でも振り返った。二人は最後の目を見かわした。しかし、妹が自分を見ているのに気がつくと、彼はじれったそうに、というよりむしろいまいましげに、行けというように片手を振って見せた。そして、自分はいきなり角を曲がってしまった。
『おれは意地悪だ、それは自分でもわかる』すぐ一分もたった時、ドゥーニャにいまいましそうな身振りなど見せたのを恥じながら、彼は心に思った。『だが、どうしてあれたちはおれをこんなに愛してくれるのだろう、俺にそれだけの価値もないのに! ああ、もしおれが一人ぼっちで、誰一人愛してくれるものもなく、また自身もけっして人を愛さないとしたら、その時はこんなことなどいっさい起こらなかったろう! だが、はたして今後十五年か二十年の間に、俺の心がすっかり折れてしまって、二言目には自分を強盗よばわりしながら、みんなの前でうやうやしく頭を下げたり、めそめそ泣いたりするようになるだろうか? こりゃ面白い問題だぞ。いやきっとそうなる、そうなるに違いない! つまりそれが目的で、やつらは今おれを流刑にしようとしてるんだ、それがやつらに必要なんだ……現にやつらはみな町をあちこちしているが、やつらは一人ひとり例外なしに、生まれながらの卑劣漢か泥棒だ。いや、それよりもっと悪い――白痴だ! ところが、もし俺が流刑を許されたら、やつらはみんな公憤を起こして、気ちがいのように騒ぐだろう! ああ、おれはやつらがどれもこれも憎くて憎くてたまらない!』
彼は深く考えこんだ。『いったいどういう経路をとって、俺がいよいよやつらすべての前に、理くつも何もなく屈従してしまうなんて、そんなことが起こりうるのだろう! 確信をもって屈従するなんてことが! だがしかし、どうして絶対にないといえるか? もちろん、そうなるに決まってる。何しろ二十年間の絶間ない圧迫が、徹底的に俺をぶちのめしてしまわないはずがない? 雨だれだって石に穴をあけるじゃないか。それならなぜ、いったいなぜこんなにしてまで生きていかなくちゃならんのだろう? それがすっかり本にでも書かれているように、必ずちゃんとそうなって、それ以外になりようがないと承知しながら、なぜ今その方へ進んでいるのだろう!』
彼は昨日の晩から、おそらくもう百ぺんくらいも、この問いを自ら発していたのだが、それでもやはりまだ足を止めなかった。
彼がソーニャの部屋へはいった時は、もうたそがれになりかかっていた。ソーニャはいちんち恐ろしい興奮の中に彼を待ち通したのである。彼女はドゥーニャと一緒に待っていた。ドゥーニャは、『ソーニャがこのことを知っている』というスヴィドリガイロフの昨日のことばを思い出して、もう朝から彼女を訪ねて行ったのである。二人の女のこまごました会話や、涙。それから、二人がどれだけへだてのない仲になったか? というようなことは、今さらここに述べ立てまい。ドゥーニャはこの会見によって、少なくとも兄は一人ではない、という一つの慰めを得た。兄は彼女ソーニャのところへ、まず第一番に
そのうちドゥーネチカは、とうとう辛抱を切らして、兄の住まいで彼を待つために、ソーニャを残して立ち去った。兄が先にそちらへ行くような気がして、仕様がなかったのである。一人になったとき、ソーニャは急に彼が本当に自殺したのではないかと、心配でたまらなくなって来た。そのことはドゥーニャも同様に恐れていた。けれど二人はいちんちじゅう、ありたけの理由を数えあげて、そんなことはあるはずがないと、お互いに一生懸命うち消し合っていた。で、二人一緒にいる間は、いくらか気が落ち着いていた。けれど、今こうして別れてみると、ふたりともただこの事ばかり考え始めた。ソーニャは昨日スヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフには二つしかとるべき道がない――ウラジーミルカか、さもなくばと言ったことばを思い出した。その上ソーニャは彼の虚栄心が強く、ごうまんで、自尊心がさかんで、無信者なのをよく知っていた。
『いったいただ小胆で、死ぬのが恐ろしいというだけのことが、あの人を無理に生きさせる力を持っているんだろうか!』彼女はついに絶望の気持でこう考えた。
そのうちに、太陽はいつしか西に沈み始めた。彼女はうれわしげに窓の前にたたずんで、じっと窓外を見つめた――けれどこの窓からは、ただ隣家の大きな荒壁が見えるばかりだった。いよいよ彼女が、不幸な男の死を完全に信じ込んだとき――当人が部屋へはいって来たのである。
よろこびの叫びが思わず彼女の胸からもれた。しかし、じっと彼の顔を見やったとき、彼女はたちまちさっと青くなった。
「ああ、そうなんだ!」とラスコーリニコフは苦笑しながら言った。「僕はお前の十字架をもらいに来たんだよ。ソーニャ。お前は自分で僕に、四つ辻へ行けと言ったじゃないか。それだのに今、いよいよ実行という段になると、急におじ気がついたのかい?」
ソーニャは
「僕はね、ソーニャ、どうもそうした方が得らしいと考えたんだよ。それには、一つの事情があって……いや、話せば長いことだし、また話したって仕様がない。ただね、何が僕の
彼はまるで心も
ソーニャは無言のまま箱の中から
「これはつまり、僕が十字架の苦しみを背負うという
とはいえ、ある感情が彼の心中に生まれ出た。彼女を見ていると、彼の心臓はしめつけられるようであった。『この女は、この女はいったいなんだろう?』と彼は心の中で考えた。『この女にとっておれは何者なんだ? なんだってこの女は泣いているのだ。なんのためにこの女は、母やドゥーニャと同じようにおれをかばおうとするのだ? おれのためにはいい乳母になるだろうよ!』
「せめてたった一度でも十字を切って、お祈りをしてくださいまし」おどおどした震え声でソーニャは願うように言った。
「ああ、いいとも、そんなことならいくらでも、お前の好きなだけやるよ! それはほんとうに心からだよ、ソーニャ、心からだよ……」
とはいえ、彼は何かほかのことが話したかったのである。
彼は幾度か十字を切った。ソーニャは
「お前どうするの! どこへ行くの? よしておくれ、よしておくれ! 僕は一人で行く」と彼は狭量ないまいましさを覚え、ほとんど腹立たしげにこう叫ぶと、戸口の方へ足を向けた。「それに、なんだってそんなお供がいるんだ!」と彼は出て行きながらつぶやいた。
ソーニャは部屋のまんなかにとり残された。彼は別れを告げようとさえしなかった。もう彼女のことさえ忘れていた。ただ毒々しい反抗的な疑惑が、心の中ににえくり返っていたのである。
『いったいこれでいいのだろうか、何もかもこれでいいのだろうか?』彼は階段をおりながら、またしてもそう考えた。『実際もう一度立ち止まって、万事をやり直すわけにいかないのだろうか……そして、自訴しないですますわけにいかないだろうか?』
しかしそれでも、彼は歩いて行った。と、ふいに彼ははっきりと、何も自分に問いを発する必要はないと感じた。通りへ出たとき、彼はソーニャに別れを告げなかったのを思い出した。彼女は彼の一喝に身動きもなし得ず、例の緑色の
『いったい俺はいまなんのために、なんの用であの女のとこへ行ったのだろう? 俺はあれに、用があって来たと言った。いったいどんな用なんだ? なんの用もありゃしなかったんだ! これから行くと断わるためか? いったいそれがなんだろう! そんな必要がどこにあるのだ! それとも、俺はあの女を愛してでもいるのだろうか? だって、そんなことはないじゃないか? そんなことはないはずだ! 現に今もあの女を、犬のように追っ払ったじゃないか。ではほんとうにあの女から十字架を、もらわねばならぬ必要があったのだろうか? ああ、どこまでおれは
彼は掘割の河岸通りを歩いていた。もう歩くところはいくらも残っていなかった。けれど、橋まで行きつくと、彼はしばし立ち止まった。と、ふいに脇へそれて橋を渡り、
彼はむさぼるように左右を見回して、一つ一つのものに緊張した視線を向けたが、何ものにも注意を集中することができなかった。何もかもすべり抜けるのであった。『今に一週間か一月たったら、俺はあの囚人馬車に乗せられてこの橋を渡り、どこかへ連れられて行くのだろう。その時俺はどんな風にこの掘割をながめるだろう――これを覚えておきたいものだ?』こういう考えが彼の頭にひらめいた。『ほら、あの看板にしても、その時俺はあの字をどんな気持で読むだろう? ああ、あすこに「会社」と書いてある。ところであのAを、Aという字を覚えておいて、一か月後にあのAの字を見たら、その時俺はどんな気持で見るだろう? その時俺はいったいなんと感じるだろう、何を考えるだろう?……だが、こんなことはみな実に下劣なものに相違ない――今の俺のこうした心配は! もちろん、これはみんな興味のあることに相違ない……一風変わったものとして……(は、は、は! いったい俺は何を考えているのだろう!)俺は子供になってしまった。俺は自分で自分に
「神さまのご守護がありますように!」こういう女
彼は急にソーニャのことばを思い出したのである。「四つ
彼は広場のまんなかに
「どうだ、酔いくらいやがって!」と彼のそばにいる一人の若者が言った。
どっと笑い声が起こった。
「こりゃエルサレムへ行くんだよ、皆の衆。子供たちや生まれ故郷に別れを告げて、世間の人たちに
「まだ
「ただの平民じゃないよ!」と誰かがもったいぶった声で言った。
「いまどき、誰が平民で誰が士族か、そんな見分けがつくもんか」
すべてこうした叫びや話し声が、ラスコーリニコフの気持を控えた。もう舌の先まで出かかっていた『わたしは人を殺しました』ということばも、そのまま消えてしまった。とはいえ、彼は落ち着き払って、こうした叫び声を聞き流しながら、あたりを見向きもせずに横町を通り抜け、まっすぐに警察をさして歩き出した。途中ある一つの幻がちらと目に映ったが、彼は別に驚きもしなかった。それはもうそうなければならぬ、と予感していたのである。彼が
彼はかなり元気よく構内へはいって行った。三階まで上らなければならなかった。『まだのぼって行く間がちょっとあるな』と彼は考えた。概して、
またしてもらせん形の階段は、依然として
総身にさっと寒けを感じながら、ほとんどおのれを意識しないほどの気持で、彼は警察の事務室のドアをあけた。今度は署内にもいたって人は少なく、ただ庭番が一人と、ほかに平民らしいのが一人いるきりだった。小使も自分の居場所になっている仕切りの陰から、顔を出そうともしない。ラスコーリニコフは次の間へ通った。『ことによると、まだ言わなくてもいいかもしれんな』という想念が彼の頭にひらめいた。そこには一人平服を着た書記らしい男が、
「どなたもおられないんですか?」とラスコーリニコフは
「誰にご用なんです?」
「や、や、や! 声も聞かず、顔も見ないが、ロシア人のにおいがする! という文句が何かの昔ばなしにありますな……忘れてしまったが、やあ、いらっしゃい!」突然聞き覚えのある声がこうどなった。
ラスコーリニコフの体はぶるぶる震え出した。彼の前に火薬中尉が立っていた。彼はだしぬけに三つ目の部屋から出て来たのである。『これはまったく運命の仕業だ』とラスコーリニコフは考えた。『なぜこの男がここにいるんだ?』
「われわれを訪ねてみえたんですか? なんのご用で?」とイリヤー・ペトローヴィッチは叫んだ(彼は見たところごくごくの上きげんで、ほんの心もち興奮しているらしかった)。「もし用で見えたのなら、まだ早すぎましたよ。こういう我輩も偶然来合わしたようなわけでね……しかし、できることならなんでも。我輩は正直なところあなたに……ええと、ええと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです」
「ああ、そう、ラスコーリニコフ! あなたはまさか、我輩が忘れたのだなんて、お考えになりゃしないでしょうな! どうかお願いですから、我輩をそんな人間とお思いなさらんように……ロジオン・ロ……ロ…… ロジオーヌイチ、確かそうでしたな?」
「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そう、そう! ロジオン・ロマーヌイチ! ロジオン・ロマーヌイチ、それを我輩もいろいろ苦心して、なん度も調べたくらいですよ。我輩は白状しますが、あの時以来、心から
「え、母と妹が」
「いや、お妹さんにはもう拝顔の光栄と幸福を得ましたよ――教養のある美しい方ですな。実をいうと、我輩はあの時あなたを相手に、ああまで興奮し合ったのを、遺憾千万に思いましたよ。変な事でしたな! あの時我輩はあなたの卒倒を一種特別な目で見ましたが――それもあとで、きわめて
「い、いや、僕はただその……僕はちょっとお尋ねしようと思って寄ったんです……ザミョートフ君が来ておられるかと思って」
「ああ、そうですか! あなた方は仲よしになられたんでしたっけね。聞きましたよ。ところが、ザミョートフはここにおりません――お気の毒さま、さよう、われわれはアレクサンドル・グリゴーリッチを失いましたよ! 昨日から現存しないわけです。転任したんで……しかも、転任して行きがけに皆と
「いや」
「ところが、我輩は読みましたよ。もっとも、このごろやたらに
「い、いいや……」
「いや、どうぞ我輩には腹蔵なくやってください、どうぞ自分一人きりのつもりで、遠慮なく話してください! 但し、
ラスコーリニコフはいぶかしげに眉を上げた。見うけたところ、つい今しがた食卓を離れたばかりらしいイリヤー・ペトローヴィッチのことばは、大部分
「我輩が言うのは、例の髪を短かく切った娘たちのことなんで」と話ずきなイリヤー・ペトローヴィッチはことばを続けた。「我輩はやつらに産婆とあだ名をつけてやったんですよ。そして、このあだ名が実によくはまってると思うんで、へ、へ! あの連中はずうずうしく大学へはいって、解剖学なんか習ってる。しかしねえ、どうでしょう、もし我輩が病気にかかるとしたら、あんな娘っ子を治療に呼べるものですかね、へ、へ!」
イリヤー・ペトローヴィッチは自分の
「そりゃまあ、文明開化に対する限りない渇望のためかもしれませんさ。しかし、開化したんだから、それでたくさんじゃありませんか。何も濫用することはないはずだ。あのやくざ者のザミョートフみたいに、何も高潔なる人格を辱しめる必要はないはずだ。なんのためにあの男は我輩を侮辱したのでしょう? 一つうかがいたいもんで。ああ、それからまたあの自殺のふえたことはどうです――とてもあなた方の想像も及ばんくらいですよ。それが皆一カペイカもなくなるまで使ってしまって、自分で自分を処決するんです。ちっぽけな娘っ子も、小僧っ子も、老人も……現につい今朝も、最近上京したある紳士のことで報告がありましたっけ。ニール・パーヴルイチ、おい、ニール・パーヴルイチ、さっき報告の来た紳士は、なんといったっけね? ほら、ペテルブルグ区で
「スヴィドリガイロフです」と誰やら隣りの部屋から、しゃがれ声でにべもなく答えた。
ラスコーリニコフは思わずぴくりとした。
「スヴィドリガイロフ! スヴィドリガイロフが自殺した!」と彼は叫んだ。
「え! あなたはスヴィドリガイロフをご存じなんですか?」
「ええ……知ってます……ついこのあいだ来たばかりです……」
「そう、このごろ上京したばかりです。細君をなくしたんだが、身持のよくない男でしてね。それが急に拳銃自殺をやったんです。しかも、お話にならないような醜態でしてな……手帳の中には、自分は正気で死ぬのだから、自分の死因で人を疑ってくれるなということが、二言三言書き残してありました。この男は金を持っておったそうですがね。どうしてあなたはご存じなんです?」
「僕は……知合いなんです……妹がその男のところへ家庭教師で住みこんでいたので……」
「おや、おや、おや……してみると、あなたはあの男のことで、何かお話しくださることがおできですね。あなたはそんな風の疑いをいだかれたことはありませんか?」
「僕は昨日あの男に会いました……酒を飲んでいましたが……僕なんにも知りません」
ラスコーリニコフは何やら上から落ちてきて、自分をおしつけたような気がした。
「あなたはまた顔色が悪くなられたようだ。ここはどうも空気の流通が悪いから……」
「ええ、僕もうお
「どういたしまして、どうぞいくらでも……おかげで愉快でした。我輩よろこんでそう言明しますよ……」
イリヤー・ペトローヴィッチは、手まで差し伸ばした。
「僕はただ……僕はザミョートフ君のところへ……」
「わかってます、わかってます。おかげで愉快でした」
「僕も……非常にうれしいです……さようなら……」ラスコーリニコフはにこりと笑った。
外へ出た。彼はよろよろしていた。頭がぐるぐる回るようだった。彼は自分が立っているのかどうか、それさえ感じなかった。右手を壁に突っぱりながら、彼は階段をおり始めた。帳簿を手に持ったどこかの庭番が、下から警察をさして上がってきながら、とんと突き当たったような気がした。犬がどこか下の階段でけたたましくほえ立てていると、一人の女がそれに
イリヤー・ペトローヴィッチはどっしりすわりこんで、何かの書類をかき回していた。その前には、今しがた階段を上りながら、ラスコーリニコフに突き当たった、例の百姓男が立っていた。
「あーあーあ! あなたはまた! 何か忘れものでもなすった?……だが、いったいあなたはどうなすったんです?」
ラスコーリニコフは血の気のうせた唇をして、目をじっとすえたまま、静かに彼の方へ近づいた。テーブルのすぐ傍まで行くと、それに片手を突っぱって、何か言おうとしたが、言えなかった。ただ何かとりとめのない響きが聞こえるばかりだった。
「あなたは気分が悪いんでしょう、おい椅子だ! さあ、この椅子へおかけなさい! おい、水!」
ラスコーリニコフは椅子の上へぐたりと腰をおろしたが、きわめて不愉快な驚きに打たれている火薬中尉の顔から少しも目を離さなかった。二人は一分間ほど互いに顔を見合わせながら待っていた。水が来た。
「あれは僕が……」とラスコーリニコフは言いかけた。
「水をお飲みなさい」
ラスコーリニコフは片手で水をおしのけ、低い声で一語一語間をおきながらもはっきりと言いきった。
「あれは僕があの時官吏の後家の婆さんと、妹のリザヴェータを斧で殺して、金や品物を強奪したのです」
イリヤー・ペトローヴィッチはあっとばかり口をあけた。四方から人々がはせ集まった。
ラスコーリニコフは自分の口供をくり返した……
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シベリア。
彼の犯罪に関する裁判は大した困難なしに終了した。犯人は事情を紛糾させることもなく、自己を有利にするために事実を曲げたり、状況をやわらげたりすることもなく、いかなる微細な点をも忘れず、きっぱりと正確明瞭に自分の口供を裏書した。彼は殺人の全過程を一分一厘も漏れなく詳述し、殺された老婆の手中に発見された質物(薄い金をはさんだ板切れ)の秘密を
とはいえ判決は、人々が犯行から推して期待していたよりは、はるかに寛大なものであった。これはまったく犯人が自己弁護をしようとしなかったばかりか、かえって自分の方から、できるだけ罪を重くしようとする気持を示したからである。そして、この事件の有している奇怪な特殊な点が、ことごとく考量にとり入れられた。犯罪遂行前の犯人の病的な痛ましい心の状態は、いささかも疑いをさしはさまれなかった。彼が贓品を利用しなかった事実は、一部は悔悟の念のきざしてきた影響と、一部は犯行当時の精神能力が十分健全でなかったためと判定された。思いがけなくリザヴェータを殺したことも、かえってこの想定を裏書する実例として役立った。二度まで殺人を行なった人間が、しかもそれと同時に、ドアのあけ放しになっているのを忘れていたのである! また最後に、意気
なおその他にまったく思いがけなく、被告にとって非常に有利な事情が、もう一つ現われたのである。もとの大学生ラズーミヒンが、どこから掘り出したのか、被告ラスコーリニコフが大学在校当時に、なけなしの財布の底をはたいて、貧しい肺病患者の一学友を補助し、ほとんど半年間も面倒を見てやったという情報をもたらして、有力な証拠を提供したのである。彼はその学友が死んでしまうと、あとにとり残された老衰している亡友の父を世話してやった(この学友はまだ十三になるやならずの時から、自分の働きで父親を養っていたのである)。そしてついにはこの老人を病院へ入れ、これも同じく死んでしまった時、弔いまでしてやったとのことである。すべてこれらの事情は、ラスコーリニコフの運命の決定にかなりよき影響を与えたのである。前の下宿のおかみで、なくなったラスコーリニコフの
まだ裁判の初めごろから、ラスコーリニコフの母は病気になった。で、ドゥーニャとラズーミヒンはこの裁判の間じゅう、彼女をペテルブルグから連れ出すことにした。ラズーミヒンは裁判の模様を細大もらさず正確に知ると同時に、できるだけ多くアヴドーチャ・ロマーノヴナと会えるように、ペテルブルグからほど遠からぬ鉄道沿線の一市街を選んだ。プリヘーリヤの病気は一種奇妙な神経病で、しかも全然とは言えないまでも、多少は精神錯乱の徴候を伴っていた。ドゥーニャが兄と最後の面会から帰ってみると、もう母親はすっかり病人になっており、熱に浮かされながらうわ言を言っていた。その日の晩に、彼女はラズーミヒンと相談して、母から兄のことを聞かれた場合、なんと答えたらよいか申し合せをして、ラスコーリニコフは、将来金と名声をもたらすべきある非公式の依頼を受けて、どこか遠い国境地方へ出立したという、一条の物語さえ母のために考え出したくらいである。けれども、二人の驚いたことには、プリヘーリヤはこの点について、当時ばかりかその後になっても、何一つ尋ねようとしなかった。それどころか、彼女自身も息子の急な出発について、一条の物語を作り上げているのであった。彼女は涙ながらに、ロージャが彼女のところへ
もっとも、二度ばかり母親の方から、今ロージャがどこにいるかを答えずにいられないようなぐあいに、話を持って行ったことがある。その返辞がいやでも応でも、あいまいな、うさんくさいものになってしまったとき、彼女は急に恐ろしく悲しげに気難かしく、黙りこんでしまい、それがいつまでも続いた。でとうとうドゥーニャは嘘をついたり、細工をしたりするのが難かしいのを悟って、二、三の点に関してはまったく沈黙を守った方がよいという、最後の結論に到着した。しかし、あわれな母親が何か恐ろしいことを疑っているのは、だんだん明瞭すぎるほど明瞭になってきた。それやこれやの間にドゥーニャは、最後の
犯人の自首から五か月たって、判決がくだった。ラズーミヒンはできうる限り牢内で彼と面会した。ソーニャも同様だった。ついに別離の時が来た。ドゥーニャは兄に向かって、この別離は永久のものでないと誓った。ラズーミヒンも同様である。ラズーミヒンの若々しく熱しやすい頭には、この三、四年の間にできる限り、せめて将来の地位の基礎だけでも作り、いくらかなり貯えをした上、あらゆる点において土地が豊穣で、働き手と資本の少ないシベリアへ移住しようという計画が堅く根を張っていた。そこでロージャのいる町に居を定め、そして……みんな一緒に、新しい生活を始めようというのである。別れぎわには誰もかれも泣いた。ラスコーリニコフは最後の三、四日間、非常に考え込んでしまって、いろいろ母親のことを根ほり葉ほり尋ね、たえず彼女の上を心配していた。あまり心配ばかりするので、ドゥーニャが不安を感じ始めたほどであった。母の病的な気分について詳しいてん末を聞いてから、彼はいっそう憂鬱になった。ソーニャとはなぜかずうっと、特に口数が少なかった。ソーニャはスヴィドリガイロフが残してくれた金で、もうとっくにすっかりしたくをすまし、やがて彼の交じって行く囚徒の隊について、出かけて行く心構えをしていた。このことは彼女もラスコーリニコフも、まだたがいに一度も話し合ったことがなかったけれど、そうなるに違いないのは二人とも承知していた。いよいよ最後の別れの時、妹とラズーミヒンが出獄後の幸福な未来を熱心に誓ったとき、彼は奇怪な微笑を漏らしながら、母の病的な状態が近く不幸に終わるだろうと予言した。彼とソーニャはついに出発した。
二か月の後に、ドゥーネチカはラズーミヒンと結婚した。結婚式はわびしい、しんみりしたものだった。もっとも、招待された人々の中には、ポルフィーリイとゾシーモフが交じっていた。最近ずっとラズーミヒンは堅く決意した人らしい様子をしていていた。ドゥーニャは、彼がいっさいの意図を実現するに相違ないと盲目的に信じ切っていた。また信じないではいられなかった。この男には鉄のごとき意志が見えていたからである。さまざまな事のある間にも、彼は大学を完全に卒業するため、また講義を聞きに通学を始めた。二人はたえず未来の計画を立てていた。五年後にはかならずシベリアへ移住しようと、二人ながら堅く決心していた。それまでは向こうにいるソーニャに望みをかけていたのである……
プリヘーリヤは喜んで娘を祝福し、ラズーミヒンとの結婚を許した。しかしこの結婚後はなんだかいっそう沈みこんでしまい、よけい心配そうな様子になった。ラズーミヒンはちょっとの間でも母を喜ばせようと、ラスコーリニコフの学友と老衰したその父親に関する一件だの、去年ロージャが二人の幼児の命を救って、身に火傷を負ったばかりか、病気にまでなった事実を話して聞かせた。この二つの報告は、それでなくとも頭の調子の狂っているプリヘーリヤを歓喜のあまりほとんど有頂天にしてしまった。彼女はのべつこの話ばかりして、町へ出てまで人をつかまえて、その話を始めるのであった(もっともいつもドゥーニャが傍についてはいたけれど)。乗合馬車の中でも店屋でも、誰でもかまわず聞き手をつかまえて、自分の息子のこと、その論文のこと、学友を援助したこと、火事で負傷をしたことなどに話を向けるのであった。ドゥーネチカはどうして母を止めたらいいかと、とほうにくれるほどであった。こうして病的に興奮した気分そのものの危険もさることながら、その上にまだ、誰かがいつか裁判事件で有名になったラスコーリニコフの姓を思い出して、それを言い出さぬとも限らないので、その方の心配があったのである。プリヘーリヤは、火の中から救い出された幼児の母親の住所までも聞き出して、ぜひとも彼女を訪ねたいと言い出した。そのうちにとうとう彼女の不安は極度に激しくなった。彼女はどうかするとふいに泣き出したり、しょっちゅう病みついては、熱に浮かされてうわ言を言ったりした。ある朝、彼女はいきなり真正面から、自分の勘定によると、ロージャはもう間もなく帰って来るはずだ、あの子はわたしと別れて行く時に、九か月たったら帰るものと思ってくれと、自分で言ったのを覚えている、とこう言明した。それから始終うちの中を片づけて、わが子を迎える準備を始め、ロージャのものと決めた部屋(つまり自分自身の居間)の飾りにとりかかり、家具を清めたり、窓掛けを洗ったり掛けかえたりするのであった。ドゥーニャは心を痛めたが、なんにも言わないで、自分でも兄を迎えるために、部屋の片づけを手伝った。たえまのない空想と、よろこばしい夢と、涙の中に不安な一日を送った後で、彼女はその夜発病したが、翌朝はもう熱が高くなり、うわ言ばかり言うようになっていた。熱病が始まったのである。こうして、二週間後に彼女は死んでしまった。うわ言の間に彼女の口から漏れたことばによると、彼女ははたで想像していたよりもずっと深く、わが子の恐ろしい運命について疑念をいだいたものと断定することができた。
ラスコーリニコフは長い間母の死を知らなかった――もっとも、彼がシベリアに落ち着いたその時から、ペテルブルグとの通信は規則的に行なわれていた。通信はソーニャを通してつづけられていたのである。彼女は毎月きちょうめんに、ラズーミヒンへあててペテルブルグへ手紙を送り、そして毎月きちょうめんにペテルブルグから返事を受け取った。ソーニャの手紙は初めのうちドゥーニャやラズーミヒンの目から見てなんとなくそっけなく、物足らぬように感じられたが、後になって彼らは二人とも、それ以上うまく書くのは不可能だと悟った。なぜなら、彼らは結局それらの手紙のおかげで、不幸な兄の運命についてこの上なく充実した、正確な観念を持つことができたからである。ソーニャの手紙はきわめて平凡な日常茶飯事と、ラスコーリニコフの獄中生活の環境に関する、いたって平凡明瞭な叙述にみたされていた。そこには彼女自身の希望の表明も、未来に対する想像も、自分自身の感情の発露もなかった。彼の精神状態とか、全体にその内面生活とか、そういうものを説明する代わりに、単なる事実の報告があるばかりだった。つまり、彼の言ったことばだとか、彼の健康状態に関する詳細な報告だとか、いついつの面会の時に彼がどういうものを望んだとか、彼女に何を頼んだとか、どういうことを委任したとか、そういった風のことである。しかも、これらの報告はすべて精密をきわめているので、結局、不幸な兄の面影が自然と浮き彫りになってき、正確明瞭に描き出された。そこには間違いなどのあろうはずがない。なぜなら、すべてが正確な事実だったからである。
しかし、ドゥーニャとその夫はこれらの報告から、ことに最初の間は、あまり多くの喜びをくみとれなかった。ソーニャはたえず、彼がいつも気むずかしく、ことば数の少ないことを報じてきた。ペテルブルグから手紙を受けとるたびに、ソーニャがいろいろの報告を伝えてやっても、彼は少しも興味を持たないとのことであった。時に母親のことをたずねていたけれど、もうほぼ真相を察しているだろうと思ってソーニャがついに母の死を告げた時、驚いたことには、彼は母親の
彼はもう久しくわずらっていた。しかし、彼の力をくじいたものは、牢獄生活の恐怖でも、労役でも、食物でも、
ではなんだろう? 彼はソーニャに対してさえも身を恥じて、そのために
現在においては、対象もなければ目的もない不安、未来においては、何ものをも与えない不断の犠牲――これがこの世で彼を待っているいっさいである。八年たっても彼はまだやっと三十二で、また生活を新規まき直しにすることができるといったって、いったいそれになんの意味があろう! なんのために生きていくのだ? 何を目標におくのだ? 何に向かって突進するのだ? 存在せんがために生きていくのか? しかし、彼はもう以前から百ぺんも千べんも、思想のため希望のために、いやそれどころか空想のためにすら、自己の存在を投げだす覚悟をしていたのではないか。単なる存在そのものは、彼にとって常に多くの意義を持たなかった。彼は常々より多くのものを欲していた。おそらく彼は単に自分の欲求の力のみで、あの当時、他人に比べてより多くのものを許された人間と、自ら思いこんでいたのかもしれない。
もし運命が彼に悔恨を送ったら! 心の臓を打ちくだき眠りを奪う焼けつくような悔恨、その恐ろしい苦痛に堪えかねて、
少なくとも、われとわが愚劣さに
『どういうわけで』と彼は考えた。『いったいどういうわけでおれの思想は、
『いったいどういうわけで彼らの目には、おれの行為がそれほどみにくく思われるのだろう?』と彼はひとりごちた。『それが悪事だからというのか? しかし、悪事とは何を意味するのだろう? おれの良心は穏かなものだ。もちろん、刑法上の犯罪は行なった。もちろん、法の条項がおかされ、血が流されたにちがいない。では、法律の条項に照らして、おれの頭をはねるがいい……それでたくさんなのだ! もちろんそうすれば、権力を継承したのではなくて、自らそれを掌握した多くの人類の恩恵者は、各々その第一歩からして、罰せられなければならなかったはずだ。しかし、それらの人々は自己の歩みを持ちこたえたがゆえに、したがって彼らは正しいのだ。ところが、おれは持ちこたえられなかった。したがって、おれはこの第一歩をおのれに許す権利がなかったのだ』
つまりこの一点だけに、彼は自分の犯罪を認めた。持ちこたえられないで自首したという、ただその点だけなのである。
彼はまたこういう思念にも苦しめられた――なぜ自分はあの時自殺しなかったのか? なぜあの時川のほとりに立ちながら、自首の方を選んだのか? いったいこの生きんとする願望の中には、かばかりの力がこもっていて、それを征服するのがかくも困難だったのであろうか? あの死を恐れていたスヴィドリガイロフでさえ、それを征服したではないか?
彼は悩ましい思いをいだきながら、始終この問いを自分自身に発したが、もうあの時川のほとりに立ちながら、自分自身の中にも自分の確信の中にも、深い虚偽を予感していたかもしれないのを、彼は了解することができなかった。またこの予感が彼の生涯における未来の転機、未来の復活、未来の新しき人生観の先駆だったかもしれないのを、彼は悟ることができなかったのである。
彼はむしろそこにただ本能の鈍い重圧のみを許容しようとした。彼はそれを引きちぎることもできなければ、またそれを踏み越えて行こうという力も、やはりなかったのである(つまり無力で意気地がないためである)。彼は獄中の仲間を見て、彼らが誰も彼も人並みに人生を愛し、かつ尊重しているのに一驚を喫した! まったく彼の感じたところによると、彼らは獄中にいる時の方が自由な時よりも、はるかに人生を愛し、尊重しているのであった。彼らの中のあるもの、たとえば浮浪漢などは、どんな恐ろしい苦痛や拷問を経験したかわからない。それにもかかわらず、たった一筋の太陽の光線や、
彼は牢獄内や、自分をとり巻いている周囲の中に、もちろん、多くのものを認めなかったし、また頭から認めようともしなかった。彼は、いわば目を伏せたような風に生活していた。彼としては見るのがいまわしく、堪えがたいのであった。しかしだんだんそのうちに、色々なことが彼を驚かすようになった。彼はいつともなく、以前ゆめにも考えてみなかったことに、気がつくようになった。概して何より彼を驚かし始めたのは、彼自身とそれらすべての人々の間に横たわっている、かの恐ろしい越え難い
彼自身はどうかというと、一同は彼をきらって、さけるようにしていた。のみならず、ついには憎むようにさえなった――なぜだろう? 彼はそれを知らなかった。一同は彼を軽蔑し、彼を
「お前は
大斎期の二週間目に、彼は同房の一同と共に精進する番になった。彼は教会へ行って、ほかのものと一緒に祈った。ある時何が原因だったか、彼自身にもわからなかったが――
「この不信心者め! 手前は神さまを信じねえんだ!」と彼らは叫んだ。「手前なんかぶち殺してやらなきゃならねえ野郎だ!」
彼は一度も神や信仰の話をしたことはなかったが、彼らは無神者として彼を殺そうとしたのである。彼は沈黙を守って、ことばを返そうとしなかった。一人の囚人はもうすっかり夢中になってしまい、彼に飛びかかろうとした。ラスコーリニコフは落ち着き払って、無言のまま待ち受けていた。彼は
彼にとってはまだ一つ、解決し難い問題があった。ほかでもない、なぜ彼らが一人のこらずソーニャを愛するようになったか、ということである。彼女は別に彼らのきげんをとるでもなかったし、また彼らもたまにしか彼女を見なかった。彼女はただ時おり一同の仕事場へ、彼に会うために、ほんのちょっとやってくるばかりであった。にもかかわらず、一同は彼女を知っていた。彼女が彼のあとを追って来たことも、彼女がどこでどう暮らしているかということも、ちゃんと知っていた。ソーニャは彼らに金を恵んだこともなければ、かくべつこれという世話を焼いてやったこともなかった。ただ一度クリスマスの時、獄の囚人全部に、肉まんじゅうと丸パンを贈っただけである。けれど、彼らとソーニャの間には、しだいに一種の近しい関係が結ばれていった。彼女は彼らのために、身内の者へ送る手紙を書いてやったり、それを郵便で出してやったりした。この街へやってきた彼らの親戚は、彼ら自身の指定に従って彼らに贈る品物ばかりか金までも、ソーニャの手に残して行った。彼らの妻や情婦たちも彼女を知って、彼女のところへやってきた。彼女がラスコーリニコフを訪ねて仕事場へ姿を現わした時とか、労役に行く囚徒の一隊と道で出会った時などは――みんな帽子をぬいで彼女におじぎをした。「ああ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、おまえはおれたちのおふくろがわりだよ。やさしい思いやりの深いおふくろだよ!」これらの荒くれた刻印つきの懲役人たちが、このちっぽけなやせこけた女に向かってこんな風に声をかけるのであった。彼女はにっこり笑いながら、会釈を返した。彼らはみんな彼女の笑顔が好きだった。その歩きぶりまでが好きだった。誰もかれもが、彼女の歩いて行く姿を見送るために、わざわざふり返って彼女をほめそやした。彼女があんな風に小柄なことをまでほめそやして、しまいには何をほめたらいいかわからないくらいだった。中には彼女のところへ、病気を直してもらいに行くものさえあった。
彼は大斎期の終わりと復活祭の一週間全部を、ずっと病院に寝てすごした。もうそろそろ回復期に向かったころ、彼はまだ熱に浮かされてうわ言ばかり言っていた時分の夢をふと思い起こした。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。アジアの奥地からヨーロッパへ向けて進む一種の恐ろしい、かつて聞いたことも見たこともないような伝染病のために、全世界が犠牲に捧げられねばならぬこととなった。いくたりかのきわめて少数な選ばれたる人々を除いて、人類はことごとく滅びなければならなかった。それは人間の肉体に食い入る一種の新しい微生物、旋毛虫が現われたのである。ところがこの生物は、理性と意志を
この無意味なうわ言が、彼の記憶にかくもうら
彼は
それはまたよく晴れたあたたかい日であった。早朝六時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。そこには一軒の小屋があって、雪花
突然、彼の傍へソーニャが現われた。ほとんど足音も立てずに近寄ると、彼と並んで腰をおろした。時刻はよほど早かった。
彼女はいつもおずおずと彼に手を差し伸べるのであった。時によると、おしのけられはしないかと恐れるように、まるで出さないことさえあった。いつも彼はさもいやらしそうにその手をとり、なんだかいまいましいという様子で彼女を迎えた。時によると、彼女が訪ねてきている間じゅう、かたくなに口をつぐんでいることもあった。で、彼女は男の気をかねてちりちりしながら、深い悲しみをいだいて帰るのであった。ところが、今は二人の手は離れなかった。彼はちらとすばやく彼女を見ただけで、なんにも言わずに目を伏せた。彼らは二人きりだった。誰も彼らを見るものはなかった。看守はちょうどこの時向こうをむいたのである。
どうしてそんなことができたか、彼は自身ながらわからなかったけれど、ふいに何ものかが彼をひっつかんで、彼女のもとへ投げつけたようなぐあいだった。彼は泣いて、彼女の
彼らは口をきこうと思ったけれど、それができなかった。二人の目には涙が浮かんでいた。彼らは二人とも青白くやせていた。しかし、この病み疲れた青白い顔には、新生活に向かう近き未来の更生、完全な復活の
彼らは隠忍して、待とうと決心した。彼らにはまだ七年の歳月が残っていた。それまでにはいかばかり堪えがたい苦痛と、限りなき幸福があるかしれない! けれども、彼はよみがえった。そして自分でもそれを知っていた。自分の更生した全存在で、それを完全に感じたのである。そして彼女は――彼女はもとよりただ彼の生活のみで生きていたのだ!
その日の夕方、はや監獄もしまった時、ラスコーリニコフは寝板の上で横になって、彼女のことを考えていた。この日は、かつて彼の敵であった囚人たち一同が、もう別な目で彼を見ているような気がした。彼は自分の方から進んで、彼らに話しかけたくらいである。すると、向こうでも優しくそれに答える。彼は今それを思い出した。しかし、それは当然そうなくてはならなかったのだ。今すべてが一変してはならぬという法はないではないか?
彼は彼女のことを考えた。自分がたえず彼女を苦しめ、彼女の心をさいなんでいたことを思い出した。彼女の青白いやせた顔を思い浮かべた。が、今ではこれらの思い出も、ほとんど彼を苦しめなかった。これからどんなに限りない愛をもって彼女のいっさいの苦痛をあがなうかを、自分で知っていたからである。
それに、こうしたいっさいの、いっさいの過去の苦痛とははたしてなんであるか! 今となってみると何もかも――彼の犯罪、宣告、徒刑さえも、この感激の突発にまぎれて、何かしら外面的な奇怪事のような、まるで人の身の上に起こったことのような気がした。とはいえ、彼はこの夕べ何ごとによらず長くみっちり考えたり、思想を集中させたりすることができなかった。いま彼は何ごとにもせよ、意識的に解決することができなかったに相違ない。彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ。したがって意識の中にも、何かまったく別なものが形成されるはずである。
彼の枕の下には福音書があった。彼は機械的にそれをとりあげた。この書物は彼女のもので、かつて彼にラザロの復活を読んで聞かせた、あの本である。彼は徒刑の初めころ、彼女が宗教談で自分を悩まし、うるさく福音を説いて、書物を押しつけるだろうと思っていた。ところが、驚き入ったことには、彼女は一度もそのような話をしないどころか、まるで福音書をすすめようとさえしなかった。とうとう彼は病気になるちょっと前に、自分から彼女に持って来てくれと頼んだ。彼女は何も言わずに本を持ってきた。しかしこの時まで、彼はそれをあけて見ようともしなかったのである。
彼はその日もそれを開かなかった、けれど、ある一つの想念が彼の頭にひらめいた。『今となったら、もう彼女の確信は同時におれの確信ではないか? 少なくとも、彼女の感情、彼女の意欲ぐらいは……』
彼女もやはりこの日いちんち興奮していたが、夜になってからまたまた病気になってしまった。けれど彼女は幸福だった、あまり思いがけなく幸福だったので、自分の幸福にほとんど恐れおびえたほどである。七年、たった七年! こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日とみなすほどの心持になった。彼は、この新生活が無報酬で得られたのではなく、まだまだ高い価を支払ってそれを買いとらねばならぬ、そのためにはゆくゆく偉大な苦行で支払いをせねばならぬ、ということさえ考えないほどだった。
しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている――一人の人間が徐々に更新してゆく物語、徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移ってゆき、今までまったく知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これはゆうに新しき物語の主題となりうるものであるが、しかし本篇のこの物語はこれでひとまず終わった。