罪と罰

フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー

米川正夫訳




第一篇



 七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。
 青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一階下の別のアパートに住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっているおかみの台所わきを、いやでも通らなければならなかった。そしてそのつど、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病おくびょうな気持を感じた。彼は自分でもその気持を恥じて、顔をしかめるのであった。下宿の借金がかさんでいたので、おかみと顔を合わすのがこわかったのである。
 もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいら立たしい、張りつめた気分になっていた。すっかり自分というものの中に閉じこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿のおかみのみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。彼は貧乏におしひしがれていた。けれども、この逼迫ひっぱくした状態すらも、このごろ彼はあまり苦にしなくなった。その日その日の当面の仕事も全然放擲ほうてきしてしまい、そんな事にかかずらう気にもならなかったのである。彼は正直なところ、どこのどのようなおかみがいかなる事を企てようと、けっして恐れなどしなかった。けれど、階段の上に立ち止まらされて、なんの役にも立たない平凡なごみごみした話や、うるさい払いの督促や、おどかしや、泣き言などを聞かされた上、自分の方でもごまかしたり、あやまったり、嘘をついたりするよりは――猫のように階段をすべりおりて、誰にも見られないように、ちょろりと姿をくらます方がまだしもなのであった。
 とはいえ、今度は通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのをかくまで恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。
『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ……そうだ……いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ……これはもう確かに原理だ……ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ……だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なんにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。これはおれが先月ひと月、夜も昼もあの隅っこにごろごろしていて……昔話みたいな事を考えてるうちに、しゃべることを覚えたのだ。それはそうと、なんだっておれは今ほっつき歩いてるんだろう、いったいあれが俺にできるのだろうか? そもそも、あれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具おもちゃだ! そう、玩具というのが本当らしいな!』
 通りは恐ろしい暑さだった。その上、息苦しさ、雑踏、いたるところに行き当たる石灰、建築の足場、煉瓦れんがほこり、別荘を借りる力のないペテルブルグ人の誰でもが知り抜いている特殊な夏の悪臭――これらすべてが一つになって、それでなくてさえ衰え切っている青年の神経を、いよいよ不愉快にゆすぶるのであった。市内のこの界隈かいわいに特におびただしい酒場の堪えがたい臭気、祭日でもないのにひっきりなしにぶっつかる酔いどれなどが、こうした情景のいとわしい憂鬱ゆううつな色彩をいやが上に深めているのであった。深い嫌悪の情が、青年のきゃしゃな顔面をちらとかすめた。ついでに言っておくが、彼は美しい黒い目に栗色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとして格好がよかった。けれど、彼はすぐに深い瞑想めいそう、というよりむしろ一種の自己忘却にちたようなあんばいで、もう周囲のものに気もつかず、また気をつけようともせず先へ先へと歩き出した。どうかすると、今しがた自分で自認した独語の癖が出て、何かしら口の中でぶつぶつ言う。この瞬間、彼は考えが時おりこぐらかって、体が極度に衰弱しているのを自分でも意識した――ほとんどもう二日というもの、全くものを食わなかったのである。
 彼はなんともいえない見すぼらしいなりをしていて、ほかの者なら、かなり慣れっこになった人間でも、こんなぼろを着て昼日なか通りへ出るのは、気がさすに相違ないほどである。しかしこの界隈ときたら、服装みなりなどで人をびっくりさせるのは、ちょっとむずかしいところだった。乾草広場センナヤに近く接している位置の関係、おびただしい木賃宿や長屋の数々、それからとりわけ、ここら中部ペテルブルグの町や横町にごみごみ集まっている職工や労働者などの群れ――こういうものが時々その辺一帯の街上風景に思い切ってひどい風体の人物を織り込むので、変わった姿に出会って驚くのは、かえって変なくらいのものだった。その上青年の心の中には、毒々しい侮蔑ぶべつの念が激しく鬱積うっせきしていたので、若々しい――時としてはあまりに若々しい神経質なところがあるにもかかわらず、彼は町中でそのぼろ洋服を恥じようなどとは、てんで考えもしなかった。もっとも、ある種の知人とか、一般に会うのを好まない昔の友人とか、そんなものに出会わすのはおのずから別問題である……とはいえ、たくましい運送馬に引かれた大きな荷馬車に乗った酔漢が、今ごろこの町中をどうして、どこへ運ばれて行くのかわからないが、通りすがりに「やあい、このドイツしゃっぽ!」といきなりどなって、手で彼を指さしながら、のどいっぱいにわめき出したとき――青年はふいに立ち止まり、痙攣けいれんしたような手つきで自分の帽子を抑えた。それは山の高い、チンメルマン製の丸形帽子だったが、もうくたびれ切ってすっかりにんじん色になり、穴だらけしみだらけで、つばは取れてしまい、その上つぶれた一方の角が、見苦しくも横の方へ突き出ている。しかし、彼を捕えたのは羞恥しゅうちの情ではなく、全く別な、むしろ驚愕きょうがくに似た気持だった。
「おれもそんなことだろうと気がついてたんだ!」と彼はどぎまぎしてつぶやいた。「おれもそう思っていたんだ! これが一番いけないんだ。こんな愚にもつかない、ちょいとしたくだらないことが、よく計画をぶちこわすものだ! そうだ、この帽子は目に立ち過ぎる、おかしいから目に立つんだ……おれのこのぼろ服には、どうあっても、たといどんな古いせんべいみたいなやつでも、学生帽でなくちゃいけない、こんなお化けじみたものじゃ駄目だ。こんなのは誰もかぶっちゃいないや。十町先からでも目について、覚えられてしまう……第一いけないのは、後になって思い出されると、それこそ立派な証拠だ。今はできるだけ人目に立たぬようにしなくちゃ……小事、小事が大事だ! こういう小事が、往々万事をちこわすのだ……」
 道のりはいくらでもなかった。彼は家の門口から何歩あるかということまで知っていた――きっかり七百三十歩。いつだったか空想に熱中していた時、一度それを数えてみたのだ。そのころ彼はまだ自分でも、この空想を信じていなかった。そしてただ醜悪な、とはいえ魅力の強い大胆不敵な妄想で、自分をいらいらさせるばかりだった。それがひと月たった今では、もう別の目で見るようになった。そして、自分の無気力と不決断に対して、あらゆる自嘲じちょう独白モノローグをくり返しながら、いつの間にやらその『醜悪』な空想をすでに一つの計画のように考え慣れてしまった、そのくせ相変わらず、自分でも自分を信じていなかったのだが……今も現にその計画の瀬踏みをするために出かけているのだ。で、彼の胸騒ぎは一歩ごとに激しくなっていった。
 彼は心臓のしびれるような感じと、神経性の戦慄せんりつを覚えながら、一方の壁はみぞに、いま一方は××町に面している、恐ろしく大きな家に近づいた。この家はすべて無数の小さなアパートになっていて、あらゆる種類の職人――仕立屋、錠前屋、料理女、さまざまなドイツ人、自分の体で生活している娘、下級官吏などが巣くっている。で、出入りのものが二か所の門の下や、二か所の内庭をうるさいほどゆききするのである。そこには三、四人の庭番が勤めていた。青年はその一人にも出会わなかったので、しごく満足のていで門からすぐ右の階段口へ目立たぬようにすべりこんだ。階段は暗くて狭い『裏梯子うらばしご』だった。が、彼はもう万事心得て研究しつくしていた。彼はこうした条件がことごとく気に入った――こんな暗闇の中だったら、好奇心の強い人の目さえ危険でない。『今からこんなにびくびくして、もしいよいよ実行という段になったら、いったいどうするのだ?……』四階目へ上りながら、彼はふとそう考えた。ここでは、ある住まいから家具を運び出す兵隊上がりの人夫が、彼の行く手をふさいだ。このアパートには家族持ちのドイツ官吏が住まっていることを、彼は前から知っていた。『ははあ、あのドイツ人引っ越すんだな。すると、四階には、この階段のこの踊り場には、当分、婆さんの住まい一つきゃふさがっていないわけだ……こいつはうまいぞ……万一の場合に』と彼はまた考えて、老婆の住まいの呼鈴を鳴らした。呼鈴は真鍮しんちゅうでなくブリキで造ったもののように、弱々しくがらんと鳴った。こうした家のこうした小さい住まいには、たいていどこでもこういった呼鈴がついている。彼はもうこの呼鈴の音を忘れていたが、今この特殊な響きが、ふいに彼にあることを思い起こさせ、はっきりと暗示を与えたようなぐあいだった……彼は思わずぴくりとなった。おりふし神経が極度に弱くなっていたのである。しばらくしてからドアがごくわずかだけ開かれて、その隙間から女あるじが、さもうさんくさそうに客を見回した。ぎらぎら光る小さな目だけが、闇の中に見える。けれど、踊り場に人が大勢いるのを見ると、彼女は元気づいてドアをいっぱいにあけた。青年は敷居をまたいで、板壁で仕切られた暗い控室へはいった。仕切りの向こうは狭い台所になっている。老婆は無言で彼の前へ突っ立ち、物問いたげに相手を見つめていた。それは意地悪そうな鋭い目と小さいとがった鼻をした、小柄なかさかさした六十格好の老婆で、頭には何もかぶっていなかった。全体に亜麻色をした、白いものの少ない髪には、油をてらてらに塗りこくっている。にわとりの足に似た細長い首にはフランネルのぼろがまきつけられ、肩からはこの暑いのに、一面にすり切れて黄色くなった毛皮の上着がだらりと下がっている。老婆はひっきりなしにせきをしたり、のどを鳴らしたりしていた。彼女を見た青年の目に何か特別な表情でもあったのだろう、とつぜん老婆の目にはまた先ほどと同じ猜疑さいぎの色がひらめいた。
「ラスコーリニコフですよ、大学生の。ひと月ばかり前に伺ったことのある……」もっと愛想よくしなくてはいけないと思い出したので、青年はちょっと軽く会釈して、こうつぶやいた。
「覚えてますよ、よく覚えてますよ。あなたのみえたことは」と老婆はやはり彼の顔から、例の物問いたげな目を離さないで、はっきりと言った。
「そこでその……また同じような用でね……」ラスコーリニコフは老婆のうたぐり深さに驚き、いささかうろたえ気味でことばを続けた。
『しかし、このばばあはいつもこんな風なのに、俺はこの前気がつかなかったのかもしれない』と彼は不快な感じをいだきながら心に思った。
 老婆は何か考え込んだように、ちょっと黙っていたが、やがて脇の方へ身をひくと、中へ通ずるドアを指さして、客を通らせながらこう言った。
「まあおはいんなさい」
 青年の通って行ったあまり大きくない部屋は、黄色い壁紙をはりつめて、窓に幾鉢かのぜにあおいを載せ、しゃのカーテンをかけてあったが、おりしも夕日を受けて、かっと明るく照らし出されていた。『その時もきっとこんな風に、日がさしこむに違いない!……』どうしたわけか、思いがけなくこういう考えがラスコーリニコフの頭にひらめいた。彼はすばしこい視線を部屋の中にあるいっさいのものに走らせて、できるだけ家の様子を研究し、記憶しようと努めた。しかし部屋の中には、何もとりたてていうほどのものはなかった。
 家具類はひどく古びた黄色い木製品で、ぐっと曲ったもたれのある大きな長椅子と、その前に置かれた楕円形だえんけいのテーブルと、窓と窓との間の壁に据えられた鏡つきの化粧台と、壁ぎわの椅子数脚と、小鳥を持っているドイツ娘を描いた黄色い額入りの安っぽい絵――これが全部であった。片隅には灯明みあかしが一つ大きからぬ聖像の前で燃えている。全体が中々こざっぱりとしてい、家具も、床も、つやの出るほどふきこまれて、何もかもてらてら光っている。『リザヴェータの仕事だな』と青年は考えた。住まい全体どこを見ても、ちりっぱ一つ見つからなかった。『因業な年寄り後家の所は、よくこんな風にきれいになってるものだて』とラスコーリニコフは腹の中で考えつづけ、次の小部屋へ通ずる戸口の前にたらしたサラサのカーテンを、好奇の念をいだきながら横目に見やった。そこには老婆の寝台と箪笥たんすが置いてあったが、彼はまだ一度もその中をのぞいたことがなかった。以上二つの部屋が住まいの全部だった。
「で、ご用は?」と老婆は部屋へはいると、いかつい調子で尋ねた。そして、客の顔をまともに見ようとして、さっきのように彼のまんまえに突っ立った。
「質を持ってきたんですよ、これを!」
 彼はポケットから古い平ったい銀時計を出した。裏蓋うらぶたには地球儀が描いてあって、鎖は鉄だった。
「でも、せんの口がもう期限ですよ。おとといで一月たったわけだから」
「じゃ、一月分利を入れます。もう少し辛抱してください」
「さあね、辛抱するとも、すぐに流してしまうとも、そりゃこっちの勝手だからね」
「時計の方は奮発してもらえますかね、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」
「ろくでもないものばかり持ってくるね、おまえさん、こんなものいくらの値うちもありゃしないよ。この前あんたにゃ指輪に二枚も出してあげたけれど、あれだって宝石屋へ行けば、新しいのが一枚半で買えるんだものね」
「四ルーブリばかり貸してくださいな。受け出しますよ、おやじのだから。じき金が来るはずになってるんです」
「一ルーブリ半、そして利子は天引き。それでよければ」
「一ルーブリ半!」と青年は叫んだ。
「どうともご勝手に」
 老婆はそういって、時計を突っ返した。青年はそれを受け取った。彼はすっかり向かっ腹を立てて、そのまま帰ろうとしかけたが、この上どこへ行く当てもなし、それにまだほかの用もあって来たのだと気がつき、すぐに思い返した。
「貸してもらおう!」と彼はぶっきらぼうに言った。
 老婆はポケットへ手を突っ込んでかぎを探りながら、カーテンに仕切られた次の間へ行った。青年は部屋の真ん中にひとり取り残されると、好奇の色を浮かべながら聞き耳を立て、あれこれと思いめぐらした。老婆の箪笥をあける音が聞こえた。『きっと上の引出しに相違ない』と彼は考えた。『してみると、鍵は右のポケットにしまってるんだ……みんな一束にして、鉄の輪に通している……あの中に、ほかのどれよりも三倍から大きい、ぎざぎざの歯をしたのが一つあるが、むろんあれは箪笥のじゃない……つまり何かほかの手箱か、長持みたいなものがあるに相違ない……ふん、こいつは面白いぞ。長持にはたいていあんな鍵がついているものだて……だが、これはまあなんというさもしいことだ……』
 老婆は引っ返してきた。
「さてと――一か月十カペイカとして、一ルーブリ半で十五カペイカ、ひと月分天引きしますよ。それから前の二ルーブリの口も同じ割で、もう二十カペイカ差し引くと、都合みんなで三十五カペイカ、そこで、今あの時計でおまえさんの手にはいる金は、一ルーブリ十五カペイカになる勘定ですよ。さあ、受け取んなさい」
「へえ! それじゃ今度は一ルーブリ十五カペイカなんですか!」
「ああ、その通りですよ」
 青年は争おうともせず、金を受け取った。彼はじっと老婆を見つめながら、まだ何か言う事かする事でもあるように、急いで帰ろうともしなかった。もっとも、その用事がなんであるのか、自分で知らないらしい様子だった。
「事によるとね、アリョーナ・イヴァーノヴナ、近いうちにもう一品もってくるかもしれませんよ……銀の……立派な……巻煙草入れ……今に友だちから取り返してきたら……」
 彼はへどもどして、口をつぐんだ。
「まあ、それはまたその時の話にしましょうよ」
「じゃ、さようなら……ときに、おばあさんはいつも一人なんですね、妹さんは留守ですか?」控室へ出ながら、できるだけざっくばらんに、彼はこう尋ねた。
「おまえさん妹に何かご用かね?」
「いや別に何も。ちょっと聞いてみただけですよ。だのにもうお婆さんはすぐ……さよなら、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」
 ラスコーリニコフはすっかりまごついてしまって、そこを出た。この惑乱した気持はしだいに激しくなっていった。階段をおりながら、彼は突然なにかに打たれたように、いくども立ち止まったほどである。やっと通りへ出てから、彼はとうとう口に出して叫んだ。
『ああ、実に! なんという汚らわしい事だろう! いったい、いったいおれが……いや、これは無意味ノンセンスだ、これは愚にもつかぬことだ!』と彼はきっぱり言い足した。『まあこんな恐ろしい考えが、よくもおれの頭に浮かんだものだ! しかし、おれの心は、何と汚らわしい事を考え出せるようにできていることか! 何よりも第一に――汚らわしい、きたない、ああ、いやだ、いやだ! しかし、おれはまるひと月……』
 けれど、彼はことばでも叫びでも、自分の興奮を現わすことができなかった。もう老婆の所へ出かけた時から、そろそろ彼の心を圧迫し溷濁こんだくさせていた、たとえようもない嫌悪の情が、今はものすごく大きな形に成長して、はっきりその正体を示してきたので、彼は悩ましさに身の置場もないような気がした。彼はまるで酔漢のように、ゆききの人に気もつかず、一人一人にぶつかりながら歩道をたどりたどって、次の通りまで来たとき、ようやくはじめてわれに返った。
 彼はあたりを見回して、とある酒場の傍に立っている自分に気がついた。そこへはいって行くには、歩道から石段を下り、地下室へおりるようになっていた。戸口からは、ちょうどこのとき二人の酔漢が出て来て、たがいにもたれ合ってののしり合いながら、通りへ登ってきた。長くも思案しないで、ラスコーリニコフは、そこへおりて行った。これまで一度も酒場へはいったことはなかったけれど、今はめまいがする上に、焼けつくような渇きに悩まされていたので、冷たいビールをあおりたくてたまらなくなった。その上、突然襲ってきた疲労の原因を、空腹のためと解釈したからでもある。彼は暗いきたない片隅のねばねばするテーブルの前に陣取ってビールを命じ、むさぼるように最初の一杯を飲みほした。と、たちまち気持がすっかり落ち着いて考えがはっきりしてきた。『こんなことは何もかも馬鹿げてる』と彼はある希望を感じながらひとりごちた。『気に病むことなんかちっともありゃしない! ただ体の具合がわるくなってるだけなんだ! わずか一杯のビールと、乾パンひと切れで――もうこの通り、たちまち頭は確かになる、意識ははっきりする、意志も強固になる! ちょっ、何もかも実に馬鹿げてるわい!……』が、こうして馬鹿にしたような唾棄だきの態度をとってはみたものの、彼は何か恐ろしい重荷から解放されたように、急に様子がはればれしてきた。そして、人なつかしげに一座の人々を見回した。しかし彼はこの瞬間でさえ、物事をよい方に取ろうとするこの感受性も、やはり病的なものだということを、かすかに予感していた。
 この時酒場にはあまり人がいなかった。階段で出会ったあの二人の酔漢の後ろから、女を一人連れて手風琴を携えた五人組の連中が一時にどやどやと出て行ったので、あとは静かにゆったりとなった。あとに残ったのは――ビールを前に腰かけているほろ酔いの町人ていの男と、スペイン風の帽子をかぶり、灰色のあごひげを生やした大柄な太った連れの男だった。連れの男はひどく酔いが回って、ベンチの上でうとうとしながら、ときどき夢うつつで急に指をぱちりと鳴らし、両手を左右に広げて、ベンチから身を起こそうともせず、上半身ではね上がるような格好をした。それと一緒に、文句を思い出そうとあせりながら、馬鹿げた歌をうたうのである。

まるまる一年、女房を可愛がったよう……
まあるまる一年、女房を可愛がったよう!……

 かと思うと、急にまた目をさまして、

ポジャーチェスカヤを歩いていると
もとの馴染なじみに出会った……

 けれど、誰一人彼の幸福に共鳴するものはなかった。無口な連れの男は、こうした感興の突発をむしろ敵意ありげなうさんくさい目つきでながめていた。そこにはもう一人、退職官吏らしい男がいた。瓶を前に控えて、ときどきぐっと一口飲んではあたりを見回しながら、一人ぽつねんと座をしめている。彼もどうやら興奮しているようであった。


 ラスコーリニコフはがやがやした所に慣れていなかったので、前にも述べた通り、なべて他人ひとと一緒になるのを避けていたし、ことに最近はそれがひどかった。ところがこの時は、突然急に人なつかしい気持になった。何か新しいものが彼の心中に起こり、それと共に、人間に対する一種の渇望が感じられたのである。彼はまる一月というもの、あの凝り固まった憂愁と暗い興奮に疲れ果てて、たとい一分間でも、どんな所であろうと、違った世界で休息したかった。で、不潔をきわめた環境にもかかわらず、彼は満足してこの酒場に腰を据えた。
 店の亭主は別室にいたが、どこからか段々を伝わって、ちょいちょい店の方へおりてきた。そのたびに、まず何よりも先に、大きな折り返しつきの、墨をてかてか塗った洒落しゃれた長靴が現われた。彼は半外套はんがいとうを着込み、恐ろしく油じみた黒じゅすのチョッキにネクタイなしでいたが、その顔全体が、油でてらてらしている鉄の錠前みたいであった。帳場の向こうには十四ばかりの小僧がいたが、ほかにもう一人、注文があると品物を運ぶ年下の子供がいた。そこには小さなきゅうりと、黒い乾パンと、小さく切った魚がおいてあって、それが恐ろしくぷんぷんにおった。店の中は息苦しく、じっとすわっていられないほどだった。それに、何もかも酒の香にしみこんで、その空気だけでも、五分もたったら酔ってしまいそうに思われた。
 この世には、一面識もない人でありながら、口もきかぬ先から急に一目みただけで興味を感じ出すという、一風変わった邂逅かいこうがあるものである。やや離れて陣どっている退職官吏らしい例の客が、ちょうどそういったような印象をラスコーリニコフに与えた。青年はその後いくたびかこの第一印象を思い起こして、それを虫の知らせだとさえ思った。彼は絶えず官吏の方をながめた。むろんそれは、先方でも彼をじっと見つめて、話がしたくてたまらないらしいのが、ありありと見えていたからでもある。そこにいあわせたほかの者に対しては(亭主をひっくるめて)、官吏は慣れっこになった様子で、さもあきあきしたというような態度をとっていた。またそれと同時に、一種傲慢ごうまん軽蔑けいべつの色さえ浮かべて、てんから相手にならぬほど低い階級の、教養に欠けた連中をあしらうような素振りを見せていた。それは五十を越した、中背の、がっしりした体格の男で、白髪頭しらがあたまに大きな禿はげがあった。年じゅう酒びたしになっているために、ふやけたようなその顔は、黄色というよりはむしろ青みがかった色をしている。はれぼったいまぶたの奥から、小さい裂けめのような、とはいえ生き生きとした赤い目が光っていた。けれど、この男には一種きわめて不可思議なところがあった。ほかでもない、彼のまなざしには感激らしいものすら輝いているのだ。――おそらく、思慮も分別もあったかもしれない――しかし、またそれと同時に、気ちがいめいたひらめきもあった。彼はぼろぼろに破れて、ボタンもとれてしまった黒の燕尾服えんびふくを着ていた。ボタンはたった一つだけ、どうにかこうにかくっついていたが、いかにもたしなみを捨ててしまうまいとするように、それをきちんとかけていた。南京木綿のチョッキの下からは、汚れてしわくたの、おまけに酒のしみだらけになったシャツの襟がはみ出している。顔は官吏風にそり上げてあったが、それもだいぶ前の事と見え、鳩羽色はとばいろこわそうな毛がもしゃもしゃと伸びかけている。それに全体の物腰には、実際どことなくどっしりした官吏風なところがあった。けれど、彼はそわそわした様子で、しきりに頭の毛をくしゃくしゃかき散らし、時々悩ましげに、ぬれてべとべとするテーブルの上にひじの抜けた両腕を突っ張るのであった。とうとう彼はまともにラスコーリニコフを見据えて、大きな声で、きっぱりとことばをかけた。
「ぶしつけですが、あなた一つ私の話相手になっていただけますまいか? お見受けしたところ、ご様子はあまりぞっとしておいでにならんが、私の年の功でもって、あなたが教育のある人で、酒類にはあまり慣れておられんように想像しますが。私も常々から、誠意を兼ね備えた教養を尊重しているもので、九等官マルメラードフ――こういう姓なんで。九等官ですよ。あなたは、失礼ですが、お勤めですかな?」
「いや、勉強中です……」と青年は答えた。相手の一種特別なくだくだしい話しぶりと、あまりまともに押し強く呼びかけられたのに、いささか面くらって、つい今が今まで、どんな人とでも話してみたいと思っていたにもかかわらず、さていよいよ本当にことばをかけられると、たちまちいつもの不愉快な、いら立たしい嫌悪の情に襲われた。それは彼の個性に触れるか、あるいは触れようとする、すべての他人に対して感じるものであった。
「してみると、学生さんですね、大学生上がり!」と官吏は叫んだ。「私もそう思いましたよ! 年の功、長い間の年功ですて!」と彼は得意そうに額へ指を一本あてた。「あなたは大学生だったのか、でなけりゃ、一通り学問をしてきたかたですな! どれ一つごめんをこうむって……」
 彼は立ち上がって、よろよろっとしながら、自分の瓶とコップを引っつかみ、青年の傍へやってきて、ややはすかいに座をしめた。彼は酔っていたが、雄弁に元気よくしゃべった。ただ時々いくらかまごついて、ことばを伸ばしたくらいなものである。彼はなんだかむさぼるようにラスコーリニコフにからんできた。やはりまるひと月も、人と話をしなかったようなあんばいだった。
「なあ、書生さん」と彼はほとんど勝ち誇ったような調子で始めた。「貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。私も酔っぱらうのが徳行でないのは、百も承知しとります。いや、その方が一そう真理なくらいですて。ところで、洗うが如き赤貧となるとね、書生さん、洗うが如き赤貧となると――これは不徳ですな。貧乏のうちは、持って生まれた感情の高潔さというものを保っておられるが、素寒貧すかんぴんとなると、誰だってそうはいきませんて。素寒貧となると、もう人間社会から棒でたたき出される段でなく、ほうきで掃き出されてしまいますよ。つまり、ひとしお骨身にしみるようにね。しかし、それが当然な話で、素寒貧となると、第一自分の方で自分を侮辱する気になりますからな。そこで、つまり酒ということになるんですて! なあ、あんた、ひと月ばかり前、手前の家内をレベジャートニコフ氏がぶちましたよ。ところが、家内は手前のような人間じゃないんです! ようがすかな! そこで、もう一つ、いわばものずき半分にお尋ねさしていただきますが――あんたはネヴァの乾草舟ほしくさぶねにおとまんなすったことがありますかな?」
「いや、ありませんよ」とラスコーリニコフは答えた。「そりゃどういうことです?」
「実は……私はそこからやって来たんで、もう五晩めですよ!」
 彼はコップに一杯ついでそれを飲みほすと、考え込んでしまった。実際、彼の服ばかりか髪にさえも、そこここにこびりついている乾草の葉が見分けられた。彼が五日のあいだ着替えもせず、顔も洗わないでいたことは明白すぎるくらい。ことに爪の黒くなった、脂じみてどす赤い手は、ひどくきたならしかった。
 彼の物語は一同の注意をひいたらしい。もっとも、物臭そうな注意ではあった。小僧たちは帳場の向こうでひひひと笑い出した。亭主はわざわざ上の部屋から、『愛嬌者あいきょうもの』の話を聞きにおりてきたらしく、けだるそうではあるが、もったいぶったあくびをしながら、少し離れて腰をおろした。察するところ、マルメラードフはここの古馴染らしかった。それに、彼の話がくだくだしくなったのも、おそらくいろいろの見も知らぬ人たちと、のべつくだを巻く習慣から来たものらしい。この習慣はある種の酒飲みにとっては、欠くべからざる要求になっている。とりわけ、家でもきびしく扱われたり虐待されたりしている連中は、なおさらそうなのである。つまりそのために、彼らは常に飲み仲間から慰謝を求めよう、できることなら尊敬さえもかち得ようと、一生懸命になるのである。
「愛嬌者!」と大きな声で亭主は言った。「だが、お前もお役人なら、なんだって働かねえんだい、なんだって勤めに出ねえんだい?」
「なぜ勤めに出ないって? ねえ、書生さん」とマルメラードフは、おもにラスコーリニコフの方へ向きながら答えた――あたかも彼がこの質問を出したかのように。「なぜ勤めに出ないって? いったいわしがなんの働きもなく、のらくらしていながら、一向けろりとしておるとでもおっしゃるんですかい? ひと月前に、レベジャートニコフ氏が家内をぶった時にも、わしは酔っ払って寝ておったが、そのわしが平気でいたと思いますかね? 失礼ながら、書生さん、あんたにこんなことはなかったかね……その……まあ早い話が、当てのない借金をしようとなさったことが?」
「ありましたよ……でもつまり、どう当てがないのです?」
「つまり、てんで当てがないので。前からどうにもならないのを承知でやるんですな。たとえば誰それは――その、思想堅固な公民で国家有用の材といわれる誰それは、こんりんざい金なんか貸さんということが、前もってよくわかっている。だって、あんた、なんのために貸すわけがありますね、一つ伺いたいもんで? 先方じゃ、わしが返さんことを承知しとるんですからなあ。惻隠そくいんの念からでも貸すだろう、とおっしゃるんですかい? なあに、新思想を追っているレベジャートニコフ氏などは、こんにち同情などというものは学問上ですら禁じられておって、経済学の発達しておる英国ではもうその通り実行しておるって、この間も説明してくれましたよ。そこで伺いますが、そうとしたら、どうしてその先生が貸してくれます? ところがです、前から貸さんことがわかっておりながら、やはりのこのこ出かけて行く……」
「なんのために出かけるんです?」とラスコーリニコフはことばをはさんだ。
「だって、誰のところへも行く当てがないとしたら、どこへもほかに行く先がないとしたら! どんな人間にしろ、せめてどこかしら行く所がなくちゃ、やり切れませんからな。全く、ぜひともどこかへ行かにゃならんというような、そうした場合があるもんでがすよ! わしの一人娘が初めて黄色い鑑札(淫売婦の鑑札)をもって出かけて行ったとき、その時わしもやっぱり出かけましたよ……(というのは、娘は黄色い鑑札で食ってるんで!)」と彼は一種不安らしい目つきで青年を見ながら、但書ただしがきといった風につけ加えた。「かまいません、あんた、かまいませんよ!」帳場の向こうで二人の小僧がぷっと吹き出し、亭主までがにやりとした時、彼はせき込みながら、しかし見かけはいかにも落ち着きすまして、こう言い切った。「なに、かまうことはありませんよ! あんな目ひきそでひきくらいに、驚きゃしませんやな! もう何もかも知られてるんだから、秘中の秘までも知れ渡ってるんだから。だから、わしは軽蔑どころか、へりくだった心持ちでそれを受けておるんですよ。かまいません! かまいません! 『これも人なり』ですて! ときに、あなた、どうです――あなたはおできになりますかな……いや、もっと強く、もっと適切にいえばですな……おできになりますかじゃない、その勇気がおありになりますかな――今このわしを見ながら、わしが豚でないと断言するだけの勇気が!」
 青年は一言も答えなかった。
「さて」と部屋の中に再び起こったいひひ笑いの終わるのを待って、弁者は更に一倍の尊厳さえ帯びた調子で、どっしりとことばを続けた。「さて、わしは豚でしさいはないが、あれは貴婦人ですよ! わしは獣の相を帯びておるが、家内のカチェリーナ・イヴァーノヴナは――佐官の娘に生まれた、教育のある婦人ですぞ。わしはやくざものでしさいはない、しさいはないとしても、あれは立派な魂をもっておって、教育で高められた感情にあふれておる。とはいうものの……ああ、あれが、もう少しわしを可哀想に思ってくれたらなあ! なあ、書生さん、どんな人間にだって、よしんばただのひとところだけでも、他人ひとからいたわってもらえるところがなくちゃなりませんからな! それだのにカチェリーナは、あれほど心の広い女でありながら、偏屈なところがあります……しかし、わしはちゃんとわかっとる……あいつがわしの髪を取って、引きずり回すのは、要するに憐憫れんびんの心から出ることにほかならん、それは自分でも承知しております。全くのところ、わしはあえて平然とくり返すが、あいつはわしの髪を取って引きずりますので」あたりのいひひ笑いを聞きつけて、さらにもったいらしい表情を加えながら彼は念を押した。「しかし、それにしても、ああ、もしあれがたとい一度でも……いや! いや! それはみんな無駄だ、今さら言うがものはない! なんにも言うがものはない……わたしの思い通りになったことも、一度や二度じゃない。人から不憫ふびんがってもらったことも一度や二度じゃない。しかし、それにしても……いや、これがわしの持って生まれた性根なんだ。わしは生まれながらの畜生なんだ!」
「でなくってさ!」とあくびまじりに亭主が口をはさんだ。
 マルメラードフは決然たる態度で、どんと一つ拳固げんこでテーブルをたたいた。
「これがわしの性根なんだ。どうです、あなた、びっくりしちゃいけませんよ、わしは家内の靴下まで飲んでしまったんですぜ! 靴なんかは、まだいくらか定式通りという気がしますが、靴下まで、女房の靴下まで飲んじまったんですからなあ! それから、山羊やぎの毛皮の襟巻も飲んじまいましたよ。以前人からもらったものだから、全くあいつのもので、わしのものじゃないんで。ところで、わしたち一家は、寒い部屋に間借りしてるので、女房はこの冬風邪をひきましてな、せきがひどく、果ては喀血かっけつするまでになった。子供は小さいのが三人おるので、カチェリーナは朝から晩まで働きづめでがす。小さい時分から身ぎれいに育てられたので、こそこそ掃除をしたり雑巾ぞうきんがけをしたり、子供に湯を使わせたりしておりますが、胸が弱い方でしてな、結核になりやすいたちなんで。わしもこれが気になるんでがすよ! これを気にせんでおられましょうかい? 飲めば飲むほど、ますます気になる。わしが酒を飲むのは、つまり酔いの中に憐憫と感傷を求めるためなんで……深く苦しみたいために飲むのですよ!」こう言いながら、彼は絶望したようにテーブルの上へ頭を伏せた。
「書生さん」彼はまた頭を上げことばを続けた。「わしはあんたの顔に、何やら悲しそうな色が読めるんですがね。はいってこられたとたんにそれが読めたから、でまあ、さっそく話しかけたようなわけですて。なんせ、あなたに自分の身の上話をしたのも、今さら言わずとも知り抜いているそこらの弥次馬やじうまどもに、おのれの恥がさらしたいためじゃございません。物に感じる心を持った教育のある人を探しているからなんで。実は、家内は由緒ある県立の貴族女学校で教育を受けましてな、卒業の時には、知事さんやその他の人たちの前でヴェールの舞をしたというので、金のメダルと賞状を貰ったくらいでがすよ。メダルの方は……さよう、メダルの方は売ってしまいました……もうとうの昔にな……ふむ!……が、賞状の方は今だにあれのトランクの中にしまってありましてな、ついこの間もかみさんに見せておりましたっけ。かみさんとはのべつ幕なしの喧嘩けんかばかりしてるんだが、それでも、あいつは誰か他人の前で一自慢して、昔の仕合せな時代をふいちょうしたかったものでがしょうよ。わしもそれをとがめ立てなどしやしません、けっしてとがめ立てはせんです。何しろ、これがたった一つ思い出の中に残っておるだけで、ほかのものは何もかも消し飛んでしまったんですからなあ! さよう、あれは癇性かんしょうで、気位が高くて、負け嫌いな女ですよ。自分で床板は洗っても、黒パンはかじっても、他人の無礼な仕打は差しおくことじゃありません。ですから、レベジャートニコフ氏にだって、無作法を許しておかなかったわけでがす。レベジャートニコフ氏があれをなぐったとき、家内はなぐられたためというより、口惜くやしさが胸にしみてどっと床についたので。もともと幼い子供を三人かかえて後家でいたのを、わしが引取ってやったのでがす。先の亭主の歩兵将校とは、好きで一緒になった仲なので、あれは男と手を取り合って親の家を駆け落ちまでしたのでがす。あれはしんから底から亭主を好いておりましたが、男はカルタ賭博とばくを始めて裁判にまでひっかかり、そんな有様で死んじまったとか。晩年には、男もあれを打ち打擲ちょうちゃくしたそうだが、あれの方も中々あまい顔ばかりしていなかったらしい。そのことは、わしもしっかりした証拠を握って確かに知っておりますがな、しかし、あれは今でも思い出すと涙ぐんで、その男と引比べてわしを責めたりします。だが、わしはむしろ喜んでおりますよ、喜んで。というのは、あれがせめて空想の中でだけでも、自分は昔仕合せだったと考えるのがうれしいのでね……そういうわけで、男の死後あれは三人の幼いものをかかえて、ある遠いへんぴな田舎に取り残された。わしは当時同じ土地に住んでおりましたが、そのみじめな有様といったら、わしも随分いろんなことを見てきたものの、とてもことばに尽くせないくらいでがしたよ。親戚にもみんな見放されてしまったのでね。ところが、あれは気位がたこうがした。人並みはずれて高うがしたよ……つまりその時、あんた、その時わしも、先の家内にできた十四の娘をかかえたやもめでしたが、あれの苦しんでおるのを見るに見かねて、こちらから結婚を申し込んだ。ところがですな、その育ちのよい教育のある家柄の女が、わしと一緒になるのを承知したところから見ても、あれの難渋がどのくらいであったか、ご判断つきましょうて! それで、とうとう一緒になりましたよ! 涙を流してしゃくり上げて、手をもみしだきながら、一緒になりました! もうどこへも行く先がなかったんですからな。え、書生さん、おわかりになりますかな? このもうどこへも行く先がないという意味が、おわかりになりますかな? いや、これはまだあなたにゃわかりますまいよ……それからまる一年、わしも後生大事とばかり立派に自分の義務を尽くして、これには(と彼は瓶をさした)手も触れませんでしたよ。つまり、感じというものを持っておりますからな。ところが、それでもご機嫌を取り結ぶことができない上に、かてて加えて失職ということになった。それも自分のしくじりではなく、定員改正のためでがす。そのときとうとうこいつに手を出してしまった!……もうかれこれ一年半も前のことになりましょうかな、わたしどもは方々流れ歩いて、さまざまな苦労を重ねたあげく、とうとうこのたくさんな記念物で飾られた華やかな首都へ流れ込みました。ここでわたしは職に有りついたが……有りついたかと思うと、また失いましたよ。お察しもつきましょうが、今度は自分のしくじりなんでがす。つまり、わしの本性が現われてきたからなんで……そこで今は、アマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の住まいで、穴のような所に暮らしておりますが、なんで暮らしを立てておるか、なんで払いをしておるのか、わしは一向に知りませんよ。そこにはわたしどものほか、まだ大勢巣をくっておりますが……まるで見るに堪えぬソドム(放縦のため天火に焼かれた町)ですな……ふむ……さよう……そうこうするうちに、先の家内にできた娘も年ごろになって来ました。その年ごろになるまでの間に、娘が継母にいじめられ通したことは、今さらくだくだしく申しますまい。それというのも、カチェリーナ・イヴァーノヴナは、腹の中はまことにきれいなものだが、ただかんが強くって、かっとなりやすい女でしてな、じき破裂してしまうんでがすよ……さよう! しかし、その事は何も今さら思い出すまでもありませんて! ソーニャは教育らしい教育なんか、お察しでもありましょうが、受けるわけにゃゆきませんでしたよ。四年ばかり前、わしが娘に地理と万国史を教えにはかかったものの、わし自身がかなり怪しいところへもってきて、人並みの参考書もなかったもんですからな。手もとにあった本といえばひどいものばかりだったが……いやはや! それさえ今はありゃしない。で、学問もそれでおじゃんになってしまいました。ペルシア王サイラスでさよならになったわけで。その後、もう年ごろになってから、娘は小説風の書物を少しばかり読みましてな、それからまたつい近ごろ、レベジャートニコフ氏からリュイスの生理学――ご存じですかな?――あれを貸してもらって、大変よろこんで読んでおりましたよ。ところどころ声を上げて、わしどもにまで読んで聞かせてくれました――まあ、これが娘にありたけの学問ですな。ところで、書生さん、今度はわたしの方から、ついでに質問を提出することにしますが――どうです、あなたのご意見は? 貧乏な、けれど純潔無垢むくな娘がですな、純潔無垢な働きで、どれだけの稼ぎができましょうぞ?……正直一方ではありながら、かくべつ腕に覚えもない小娘風情では、手も休めずに働いたところで、日に十五カペイカはむずかしいですからなあ! 五等官のクロプシュトック、イヴァン・イヴァーノヴィッチ――お聞きですかな? この人なんか、ワイシャツ半ダースの仕立代をいまだによこさんばかりか、やれ襟の寸法が違うのやれ形がゆがんでるのと難癖つけ、地だんだ踏みながら悪態までついて、あれを無法に追い返してしまいました。ところが、子供たちはひもじがっているし……カチェリーナは手も折れよとばかりもみながら、部屋じゅう歩き回っておりましてな、しかもほっぺたには赤いしみができておる――この病気にはえてありがちなやつで。カチェリーナは娘をつかまえて『このごくつぶし、お前はただで食って飲んで、ぬくぬくと澄ましているね』とやるんでがす。ところが、小さいやつらまで三日くらい、パンの皮一つ見ずにおるのに、飲むも食うもあったもんじゃごわせん! その時わしは寝ておりましたよ……いや、お体裁をいったって仕様がない! 酔っぱらって寝ておったんで――そして、ソーニャの言う事を聞いておると(それは口数の少ないでしてな、声もまことにおとなしやかな小さな声でがす……白っぽい毛をして、顔はいつも青白くやせておる)、それがこう言うのでがす。『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、わたしどうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの?』というのは、ダーリヤ・フランツォヴナといって、たびたび警察のご厄介になった性わる女が、かみさんを通じて、もう三度ばかりも口をかけてきたことがあるので。『それがどうしたのさ』とカチェリーナは鼻の先でせせら笑って、『何を大切がることがあるものかね? 大した宝ものじゃあるまいし!』という返事でがす。だが、あれを責めないでくださいよ。責めないでね、あなた、責めないで! これは落着いた頭で言ったんじゃない。感情が高ぶって、おまけに病気で、かつえた子供らの泣き立てる中で言ったことで、本当のことばの意味よりか、まあ、当てつけに言ったことなんでがすからな……なにせ、カチェリーナはそうしたたちなんで、子供たちが泣き出せば、よしんばひもじくて泣くのでも、すぐひっぱたくという風でしてな。ところで、五時過ぎになると、ソーネチカは立ち上がりましてな、ショールをかぶって、マントを引っかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻って来ました。はいるといきなり、カチェリーナの所へ行って、黙って三十ルーブリの銀貨を、その前のテーブルへ並べました。しかも、何一つ口をきかないどころか、見やりもしないで、ただ大きな緑色のドラゼダームのショールを取ったと思うと(うちには皆で共同もやいに使うショールがあったのでがす、ドラゼダームのがね)、それで頭と顔をすっぽり包みましてな、壁の方を向いて寝台へ倒れてしまいました。ただ肩と体がのべつ震えているばかり……ところでわしは、やはり前と同じていたらくで寝ておりましたが……その時わしは見ましたよ、なあ、書生さん――やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャの寝台の傍へ寄りましてな、一晩じゅうその足もとにひざをついて、足に接吻せっぷんしながら、いっかな立とうとしない――それをわしは見たんでがす。やがて二人はそのまま一緒に寝てしまいました。じっと抱き合ったままでな……二人とも……二人とも……ところがわしは……酔っ払ったままごろごろしておったので」
 マルメラードフは、まるで声を断ち切られでもしたように、急に口をつぐんだ。それからふいに、急いで一杯ついで飲みほすと、一つせき払いをした。
「その時からというもの」と彼はしばらく無言の後ことばを続けた。「その時からね、あんた、ちょっとしたばつの悪い事があったのと、不心得な連中の密告のために――とりわけダーリヤ・フランツォヴナが張本人だったのでがす。つまり、あの女に相当の敬意を示さなかったというわけでな――その時から、娘のソフィヤ・セミョーノヴナは、黄色い鑑札を受けにゃならんことになって、それ以来もうわしどもとも一緒におれなくなりました。というのは、かみさんのアマリヤ・フョードロヴナが、どうしても承知せんのでがす(そのくせ、前には、自分からダーリヤ・フランツォヴナに差し金までしたので)。それにも一つレベジャートニコフ氏……さよう……あの男とカチェリーナとのいきさつも、つまりはソーニャのことがもとなんでがすよ。最初は自分がソーネチカをねらっておったくせに、こうなると急にもったいぶって、『おれのような文明開化の人間が、かりにもそんな女と一つ屋根の下で暮らせるものか?』などと言い出した。ところが、カチェリーナが承知しないで、先生に食ってかかった……そうして、おっ始まったことなんでがす……このごろはソーネチカも、たいてい日暮れ方にやってくるようになりました。カチェリーナの手助けをしたり、できるだけの仕送りをしたりしましてな……ところで、あの子は仕立屋のカペルナウモフの家に同居しておるのでがす、そこの部屋を借りましてな。カペルナウモフというのはびっこで、どもりで、そのうえ大勢の家族がまたどもり、女房もやはりどもりなのでがす……それが一間でごっちゃに暮らしておると、ソーニャは仕切りで別室を作っておるので、ふむ、さよう……貧乏で、しかもどもりの一家でがす……さよう……ところが、その朝わしは目がさめると、例のぼろをひっかけましてな、両手を差し上げて天に祈ったあとで、イヴァン・アファナーシッチ閣下の所へ出かけましたよ……イヴァン・アファナーシッチ閣下、ご存じかな?……ご存じない?……へえ、あの善人をご存じないとは! あの方はまるでろうのような方でがす……しゅのお顔の前の蝋でがす、まるで蝋のように溶けてしまいなさるので……閣下は一部始終を聞き取りなさると、思わず涙ぐまれましてな、『ふうん! マルメラードフ、君はこれまでに一度わしの期待を裏切った人間じゃが……しかし、もう一度わしの独断で、面倒を見てあげよう。これを肝に銘じ帰って行きなさい!』とこうおっしゃった。わしは閣下のおみ足のちりをなめましたよ、心の中で。というのは、何ぶん高位高官の人ではあり、新しい国家的な文化思想を持ったお方だから、本当にそんなことをするのは、許してくださらんに決まっとりますからな。それから家へ帰って、おれはまた勤めについた、給料がとれるようになったと報告すると、ああ、その時はまあどんなでしたか!……」
 マルメラードフはまた激しい興奮のていで口をつぐんだ。そのとき通りから、もういい加減酔っぱらった酔漢の一隊がはいってきた。入り口では、どこからか引っ張られてきた流しの手風琴の響きと、『田舎家』をうたう七つばかりの子供の、ひびのはいったようなかん高い声が聞こえた。あたりが騒然としてきた。亭主とボーイたちは、新来の連中に気を取られてしまった。マルメラードフは、はいってきた連中には目もくれず、物語の続きにかかった。もう大分参っているらしかったが、酔が回れば回るほど、ますます口まめになってきた。最近の出来事である就職成功の思い出が、一段と彼を活気づけたらしく、それが一種の輝きとなって顔に映るくらいだった。ラスコーリニコフは注意深く耳を傾けた。
「それは、あなた、五週間前のことでしたよ。さよう……あれたち二人が――カチェリーナとソーネチカが、それと知るが早いか、わしは一足とびに天国へ行ったようなあんばいでがしたよ。それまでは、牛か馬のようにごろごろしておって、悪態を聞かされるばかりだったのが、今度は――みんな爪立つまだちで歩きながら、子供たちまでたしなめるじゃがせんか。『セミョーン・ザハールイチ(マルメラードフの名と父称)が、お勤めで疲れて、休んでらっしゃるんだよ。しっ!』といったような調子でな。出勤前にはコーヒーを入れる、クリームをわかす! しかも、本物のクリームを取り出したので。よろしいか? それから、どこから手に入れたものやらわしにゃわからんが、十一ルーブリ五十カペイカもする立派な身なりを整えてきましたよ。靴、キャラコのワイシャツ――しかもすてきに上等なやつで――それから制服、これを全部十一ルーブリ五十カペイカで立派に工面くめんしてくれたんでがす。初日の朝わしが勤めから帰ってくると、カチェリーナが食事を二品も用意しておる。スープと、わさびをかけた塩肉、それまでは夢にも見たことのないようなものでがす。着物なんか、カチェリーナはただの一枚も持っておらん……それこそまるっきり裸なのだが、それだのに見ると、まるでお客にでも行くように、小じゃんとしたなりをしておる。もっとも、別にこれというものがあるわけじゃない、ただちょっとしたものだけれど、無いところから作り出せるのが女の腕なんで。髪もかきつければ、何やら小ぎれいな襟を掛け、袖口そでぐちもちゃんとつけたところは、すっかり別人みたいに若返って、女ぶりさえ上がったようでがしたよ。ソーネチカは殊勝にも、ただ金をみついでくれるだけで、自分じゃ当座しばらくの間、あまりたびたび来るのは世間体もあるから、誰にも見られないように、まあ、暗くなってからでも参ります、なんていうので。え、まあ、どうでがす? そこで、昼過ぎにわしが一寝入りに帰ってくると、まあ、なんと、カチェリーナがとうとうがまんしきれなくなったでがす。かみさんのアマリヤ・フョードロヴナとはつい一週間ばかり前に、もう二度と顔を合わせないような大喧嘩おおげんかをしたくせに、コーヒーを飲みにこいと呼んだじゃがせんか。二人は二時間もぶっ通しにすわりこんで、絶え間なしにぼそぼそ話したもんでがす――『今度ね、うちの人が勤めに出て、俸給をいただくようになりましたの。実はこちらから閣下の所へ伺ったところ、閣下ご自身でお出ましになりましてね、ほかのものは誰も彼も待たせておいて、みんなを横目に見ながら、うちの人の手を取って、書斎へお通しになりましたの』え、どうでがす、どうでがすい? 『わしはもちろん、セミョーン・ザハールイチ、君の功労は忘れはせん、と閣下がおっしゃるんでございますのよ。――君には酒という弱点はあるけれど、しかしもう今後を約束したことだし、それにまた、実はわれわれの方でも、君がいなくなって困っていたので、(どうでがす、え、どうでがす!)今度は君の堅い誓いを信頼するよって、こうおっしゃいましてね』お断わりしておきますが、これは何から何まであれがいい加減に考え出したことなんでがすよ。しかし、これは女の軽はずみとか、空自慢のためじゃごわせん! いや、どうして、あれ自身がそう信じておるんで、つまり、自分の空想で自分を慰めておるわけなんで、全く! だから、わしもかれこれ申しませんよ。どうして、そんなことをかれこれ言やしませんとも……それから、六日前にわしがはつの俸給を――二十三ルーブリ四十カペイカを、そっくり持って帰りますとな、あれはわしのことを『可愛いい人』というじゃがせんか。『なんてまあ可愛いい人でしょう!』ときた。しかも、二人きりの時でがすからね、驚くじゃがせんか? いったいわしのどこに好いたらしい所があります? わしが世間並みの夫といわれますかい? それを、あいつはほっぺたをつねったりして、『なんてまあ可愛いい人でしょう!』だなんて」
 マルメラードフはことばを休めて、にやりと笑おうとしたが、突然そのあごががくがくと震え始めた。でも、彼はじっと押しこらえた。この酒場、頽廃たいはいしきった様子、乾草舟の五夜、ウォートカの瓶――しかもそれと同時に、妻と家族に対するこの病的な愛情は、青年をとまどいさせてしまった。ラスコーリニコフは緊張した、とはいえ病的な感じをいだきながら聞いていた。彼はここへ寄ったのをいまいましく思った。
「書生さん、なあ、書生さん!」とマルメラードフは気をとり直して叫んだ。「ああ、あんたにしても、ほかの連中同様に、こんな話はただの笑い草にすぎんでしょう。こんな家庭生活のみじめな打ち明け話や愚痴話は、あんたにゃさぞ迷惑なばかりだったでしょうが、わしにとってはなかなか笑いごとどころじゃない! わしにはそれが一つ一つ胸にこたえるのですからな……ところで、そのわしの生涯を通じて天国みたいな一日と、それからその晩ひとばんじゅう、こういうわしも浮き浮きした空想に時を過ごしましたよ――つまり、何もかもうまく片をつけて、子供たちにも着物を着せてやり、あれにも楽をさせてやろう、そして一粒種の娘も泥水稼業から家庭のふところへ引戻してやろうなどと……まあ、いろいろさまざまなことを空想しましたよ……無理もがせんよ、なあ、あんた」とマルメラードフは、突然ぶるっと身震いでもするような様子をして頭を上げ、じっと穴のあくほど聞き手を見つめた。「ところがその翌日、そんな風の空想をしたすぐあとで(つまり、それは五日前のことでがした)、夕景ちかく、わしはよる家に忍び込む盗人ぬすっとよろしく、カチェリーナのトランクのかぎをまんまと盗み出し、持って帰った俸給の残りを引っ張り出してしまった。全部でいくらあったか覚えておりません。さあ、みんな、わしの顔を見ておくんなさい! 家を出てから五日目だ、家じゃさぞわしを捜しておることだろう。役所の方はおさらば、制服はエジプト橋のたもとの居酒屋にころがっておる。その代わりにもらってきたのが、この代物しろものなんで!……もう何もかもおしまいだ!」
 マルメラードフは、拳固げんこで一つ自分の額をこつんとたたき、歯をくいしばり目を閉じて、しっかとテーブルにひじをついた。が一分もたつと、彼の顔は急に変わり、妙にとってつけたようなずるい表情とわざとらしく図々ずうずうしい態度をこしらえながら、ラスコーリニコフを見やった。そして、笑い出しながら言った。
「今日はソーニャのところへ行って、迎え酒の代をねだってきましたよ! へへへ!」
「で、くれたかい?」と傍の方から、今来た連中の一人がわめいた。わめいて、のどいっぱいに笑い出した。
「ほら、この角瓶が娘の金で買ったやつでがすよ」とマルメラードフは特にラスコーリニコフの方を向いて言った。「三十カペイカ出してくれました。自分の手で、なけなしの金をありったけはたいてね……わしがこの目で見たんでがすよ……娘はなんにも言えずにな、ただ黙ってわしの顔を見ましたっけ……こうなると、もうこの世のものじゃごわせん、あの世のものだ……人のことをくよくよして、泣いてばかりいて、それでとがめ立てをせん。ちっともとがめ立てをせんのでがす! だが、かえってこの方がわしにゃつらい、とがめられんとかえってつらい!……三十カペイカ、さよう。ところが、あれだっていま金はいろうじゃがせんか、え? あんたどうお考えですな、書生さん? 今あれは、さっぱりした身なりということに気をつけにゃならんのでがす。そのさっぱりしたというのも特別なやつで、金がかかるんでがすよ。な、おわかりかな? おわかりかな? まあ早い話が、ポマードも買わにゃならん。だって、ポマードなしじゃ済まされんじゃごわせんか。そのほか、のりのついたスカートだの、なるべく格好のいい靴だの……ほら、ぬかるみを飛び越す時に、ちょいと足を出した形のいきに見えるようなやつをな。え、あんた、おわかりかな? そのさっぱりしたということの意味がおわかりになりますかな! ところでわしが、現在の生みの父が、その三十カペイカをふんだくって、自分の迎え酒のしろにしたのでがす。いまこうして飲んでおるこれなんで! いや、もう飲んでしまったのだ!……さあ、わしのようなこんな人間を、誰か気の毒に思ってくれる人がありますかね? ええ? 書生さん、あんたいまこのわしが気の毒でがすかい、どうですな? さあ、言ってごらん、気の毒か、気の毒でないか? へへへへ!」
 彼はまた注ごうとしたが、酒はもうなかった。瓶は空だった。
「なんだってお前なんかを気の毒がることがあるんでえ?」また彼らの傍へやってきた亭主が、大きな声でこう言った。
 笑い声がどっと起こった。口ぎたなくののしる声さえ聞こえた。話を聞いていたものも、聞いていなかったものも、ただ退職官吏のていたらくを見たばかりで、笑いながら悪態をつくのであった。
「気の毒がる! なんのためにわしを気の毒がるんだ!」とマルメラードフは、まるでこのことばを待ち構えていたように、極度に興奮した様子で、片手を前へ突き出して立ち上がりながら、ふいにわめき立てた。「なんのために気の毒がることがあるんだ? そうとも! わしを気の毒がるわけなんか毛頭ないとも! わしなんかはりつけにせにゃならん人間だ。十字架で磔にするのが本当で、気の毒がるどころの物じゃないとも! しかしな、判事、磔にするのはいいが、磔にしてからわしを哀れんでくれ! そうすれば、わしの方から進んで罰を受けに行くわ。わしは快楽けらくに渇しておるのじゃなくって、悲しみと涙を求めておるのだからな!……やい、亭主、きさまはこの小瓶がわしの楽しみになったと思うかい? わしはこの底に悲しみを求めたのだ、悲しみと涙を求めたのだ。そして、それを見出みいだしたのだ、味わったのだ。ただ万人を哀れみ、万人万物を解する神様ばかりが、我々を哀れんでくださる。神は唯一人ゆいいつにんで、そしてさばきに当たる人だ。最後の日にやって来て、こう尋ねてくださるだろう。『意地の悪い肺病やみの継母のために、他人の小さい子供らのために、われとわが身を売った娘はどこじゃ? 地上に住んでおった時、酔っぱらいでやくざものの父親をも、その乱行をも恐れずに、気の毒がった娘はどこじゃ?』それからこうもおっしゃるだろう。『さあ来い! わしはもう前に一度お前を許した……もう一度お前を許してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も許されるぞ、お前が多く愛したそのために……』こうして娘のソーニャは許されるのだ……許されるとも、わしはもうわかっとる、きっと許されるに相違ない。わしは先ほどあののとこへ行った時、この胸ではっきりとそれを感じたのだ!……神さまは万人をさばいて、万人を許される、善人も悪人も、知恵ある者もへりくだれるものもな……そして、みんなを一順済まされると、今度は我々をも召し出されて、『そちたちも出い!』と仰せられる。『酒のみも出い、意気地なしも出い、恥知らずも出い!』そこで、我々が臆面おくめんもなく出て行っておん前に立つと、神さまは仰せられる。『なんじ豚ども! そちたちは獣の相をそのおもてしるしておるが、しかしそちたちも来るがよい!』すると知者や賢者がいうことに、『神さま、何ゆえ彼らをお迎えになりまする?』するとこういう仰せじゃ。『知恵ある者よ、わしは彼らを迎えるぞ、賢なる者よ、わしは彼らを迎えるぞ。それは彼らの中の一人として、自らそれに価すると思うものがないからじゃ……』こう言って、我々に御手みてを伸ばされる。そこで、我々はその御手に口づけして……泣き出す……そして、何もかも合点がいくのだ!……そのときこそ何もかも合点がいく!……誰も彼も合点がいく……カチェリーナも……あれも同様合点がいくのだ……主よ、なんじの王国のきたらんことを!」
 こう言い終わると、彼はぐったりと力つきて、まるで周囲のことを忘れ果てたように、誰の顔も見ず深くもの思いに沈みながら、ベンチの上へぐたぐたとくずおれた。彼のことばは一種の感銘を与えた。ややしばらく沈黙があたりを領したが、やがてまもなく先ほどと同じ笑いと罵詈ばりの声が起こった。
「へん、ひと理屈こねやがったな!」
「どうも吹いたもんだ!」
「よう官員さん!」
 等、等。
「書生さん、行こう」とふいにマルメラードフは顔を上げて、ラスコーリニコフにことばをかけた。
「わたしを送ってくださらんか……コーゼルの家、裏庭の方でさ。もう潮どきだ……カチェリーナのとこへ帰る……」
 ラスコーリニコフはすでにとうからここを出て行きたかったのだ。それに、この男を送ってやることは自分でも前から考えていた。マルメラードフは、口より足の方がはるかに弱っていたので、しっかりと青年にもたれかかった。道のりは二、三百歩くらいあった。当惑と恐怖は、わが家へ近づくにしたがって、しだいに激しく酔漢を領していった。
「今わしが恐れとるのは、カチェリーナじゃがせん」と彼はわくわくした様子でつぶやいた。「あいつがわしの髪の毛をむしるだろうということでもがせん。髪がなんだ!……髪なんかなんでもありゃせん! 全くでがす! もし引きむしりにかかってくれれば、その方がまだしもなくらいだ。わしが恐れるのはそれじゃない……わしは……あれの目を恐れるのだ……さよう……目をな……それからほっぺたの赤いしみもやっぱり恐ろしい……それからまだ……あれの息が恐ろしい……あの病気にかかったものの息づかいを君は見たことがあるかい……ことにかんが立っておる時の息づかいを? 子供の泣き声もやはり恐ろしい……だって、もしソーニャが養ってくれなかったら、それこそ……今ごろはどうなっとるか見当もつかんのだからな! 全く見当がつかんのだ! だから、ぶたれることなんか恐れはせんよ……ね、君、わしにとってはそんな打ち打擲ちょうちゃくなんか、痛いどころかうれしいくらいだ……だって、そうでもしなけりゃ、わし自身やりきれんのだからな。かえってその方がましだ。少しぶって腹の虫を収めるがいい……その方がいい……ああ、もう家だ、コーゼルの持家だ。金持のドイツ人の家だ、錠前屋の……案内を頼むよ!」
 彼らは裏庭からはいって、四階へ上った。階段は先へ行けば行くほど、だんだん暗くなった。もう十一時近かった。ペテルブルグではこの季節に本当の夜はないのだが、階段の上はことに暗かった。
 一番上の階段のはずれに、小さなすすけたドアが明けっ放しになっていた。蝋燭ろうそくの燃えさしが、奥行十歩ばかりの貧しい部屋を照らしている。部屋は入り口から一目で見渡された。何から何まで乱雑に取り散らされている中に、さまざまな子供のぼろぎれがことに目立った。奥の方の片隅に、穴だらけのシーツが幕のように引かれていたが、そのかげに寝台が据えてあるらしかった。部屋の方にはただ二脚の椅子と、ぼろぼろに裂けた模造皮張りの長椅子と、その前になんのおおいもない台所用らしい白木の松の古いテーブルが据えられているばかりだった。テーブルの端には、鉄の燭台しょくだいにさした燃え残りの蝋燭が立っていた。それで見ると、マルメラードフはよその部屋の片隅でなく、別室を借りて住まっているわけだが、しかしその部屋は通り道になっていた。アマリヤ・リッペヴェフゼルの住まいを細かく割っているいくつかの奥の小部屋、というより鳥籠とりかごへ通ずるドアは、あけっ放しになっていた。そこはがやがやと騒々しくて、人のわめき声や高笑いが聞こえた。どうやらカルタをしながら、お茶でも飲んでいるらしかった。ときおり聞くに堪えぬことばが漏れてきた。
 ラスコーリニコフは、すぐカチェリーナ・イヴァーノヴナを見分けた。それはかなり背の高い、すらりと格好のととのった、まだつややかな暗色あんしょくの髪をした、恐ろしくやせ細った女で、なるほどしみに見えるほど真っ赤な頬をしていた。彼女は胸に両手を押し当てたまま、干からびた唇をして、神経質らしくとぎれとぎれに息をしながら、大きくもない部屋の中をあちこち歩きまわっていた。目は熱病やみのように輝いていたが、そのまなざしは鋭く、じっと据わって動かなかった。この興奮した結核性の顔は、消えなんとする蝋燭のちらちらふるえる光を受けて、病的な印象を与えるのであった。ラスコーリニコフの見たところでは、彼女は三十そこそこらしかった。そして、実際マルメラードフには過ぎものだった……彼女は人のはいってきた物音を耳にもしなければ、その姿も目にはいらなかった。彼女はいま一種の放心状態に落ちていて、何一つ見も聞きもしないらしい風であった。部屋の中は息苦しかったけれど、彼女は窓をあけていなかった。階段の方からは臭気が漂ってくるのに、階段へ向いたドアは閉めてなかった。奥の部屋からは、あけさしの戸口をくぐって、煙草の煙が波のように流れてくるので、しきりにせきが出るにもかかわらず、彼女は戸をぴっしゃりてようともしなかった。六つばかりの末の娘は、妙にちぢこまってすわりながら、長椅子に頭を押しつけゆかの上に眠っていた。一つ年上の男の子は、片隅でぶるぶる震えながら泣いている。おそらくたった今ぶたれたばかりなのだろう。九つくらいらしい、マッチのように細くて背の高い上の娘は、方々破れた粗末なシャツを一枚着て、古ぼけたドラゼダームのマントをあらわな肩に引っかけていたが、ひざまでも届かない所を見ると、多分二年も前に仕立てたものらしい。彼女は片隅にたたずみ、マッチのようにやせた細長い手で弟の首を抱いていた。彼女は弟をすかしてでもいるらしく、何やらひそひそささやいていた。どうかして弟がまたしくしく泣き出さないようにと一生懸命に抑えつけていたが、それと同時に、大きな大きな暗い目に恐怖の色を浮かべながら、母を見守っていた。その目はおびえたようなやせた顔つきのせいで、一そう大きく思われるのであった。
 マルメラードフは部屋へはいらないで、いきなり戸口に膝を突きラスコーリニコフを前の方へ押し出した。女は見知らぬ人を見て、ぼんやりその前に立ち止まったが、とっさの間にわれに返り、なんのためにこんな男がはいって来たのかと、思いめぐらす風であった。けれどすぐさま、自分たちの部屋は通り抜けになっているから、ほかの部屋へ行く人なのだとでも考えたのであろう、彼女は青年に注意を向けないで、出入り口をしめに戸口の方へ歩いて行った。敷居の上にひざまずいている夫を見つけ、いきなり声を上げた。
「ああ!」と彼女はわれを忘れてどなった。「帰って来た! この極道め! 畜生! お金はどこにあるの? ポケットに何があるか出して見せなさい! それに服も変わっている! あんたの服はどこにあるんです? 金はどこ? おっしゃい!……」
 彼女はこう言いながら、飛びかかって調べ始めた。マルメラードフは、身体検査に骨がおれないようにと、素直におとなしく両手を広げた。金は一カペイカもなかった。
「いったい金はどこにあるの?」と彼女は叫んだ。「ああ、みんな飲んでしまったのかえ? トランクの中には十二ルーブリも残っていたのに!……」
 こう言うと、やにわに狂気のようになって、彼女は夫の髪をひっつかみ、部屋の中へ引きずり込んだ。マルメラードフはおとなしく後ろから膝でいざりながら、自分で妻の骨折りを軽くしてやった。
「これもわしにとっては快楽だ! 苦痛じゃない、快……楽だよ、君」彼は髪をとって引きずられながら、一度は床に額さえ打ちつけて、こんなに叫ぶのであった。
 床の上に寝ていた女の子は、目をさまして泣き出した。片隅にいた男の子は、たまらなくなったように震え出し、わっとばかりに声を上げると、ほとんど発作ともいうべき極度の恐怖に襲われ、思わず姉にしがみついた。上の娘はなかば夢ごこちで、木の葉のように震えた。
「飲んじまった! すっかり飲んじまった!」と不幸な女は絶望したようにわめいた。「それに、服も変わっている! みながかつえてるのに、みながかつえてるのに!(こう言って、彼女は両手をもみしだきながら、子供たちを指さした)ああ、なんていう浅ましい暮らしだ! それにお前さんも、お前さんも恥ずかしくないのかえ!」とふいに彼女はラスコーリニコフに食ってかかった。「酒場から来たんだろう! お前さんもあの人と飲んだろう? 一緒に飲んだんだ! 出て行っとくれ!」
 青年は一言も口をきかず、急いでそこを立ち去った。その上、奥の間へ通ずる戸口がいっぱいにあけ放されて、物見だかい人たちの顔がいくつかのぞいていた。巻煙草だのパイプだのをくわえたのや、頭巾ずきんをかぶったのや、無作法な嘲笑ちょうしょうを浮かべた頭が、そこからにょきにょき突き出された。寝間着姿のもの、ボタンを全部はずしているもの、はしたないほどの夏ごしらえをしたもの、中には手にカルタを持った姿さえ見えた。マルメラードフが髪をつかんで引きずられながら、快楽だと叫んだ時、みんなは特別面白そうに高笑いした。彼らは部屋の中まで押し込んで来た。やがて不吉な金切り声が起こった――それはアマリヤ・リッペヴェフゼルが、自己流に処置をつけるために、これまでもう幾十ぺんとなくくり返した命令――明日にもすぐ立ちのけという悪態まじりの命令で、この不幸な婦人をおどかそうと、一同を押し分けながら前へ出て来たのだった。ラスコーリニコフは帰りがけに、大急ぎでポケットへ手を入れ、酒場でくずした一ルーブリの残りの銅貨を、手に当たっただけつかみ出すと、そっと小窓の上へ載せた。そのあとで、もう階段へ出てから、考え直して引っ返そうかと思った。
『なんでおれは馬鹿な真似をしたもんだ』と彼は考えた。『彼らにはソーニャというものがいる。ところが、おれ自身困っているのじゃないか』けれど、今さら取り返すわけにも行かないし、またそんなことはともかくとして、けっきょくとり返しなどしやしないのだ――こう思って、彼はどうだっていいというように手を一振りし、自分の住まいへ足を向けた。『ソーニャだってポマードがいるっていうんだからな』彼は通りを歩きながら、毒々しい微笑を浮かべて考え続けた。『このさっぱりというやつには金がいるんだとさ……ふむ……しかし、ソーネチカだって、今日が日にも破産するかもしれやしない。何分あいつはいい毛皮の猛獣狩……金鉱捜しなどと同じ冒険なんだからな……すると、あの一家はみんなおれの金がなかったら、明日にもあがきがつかなくなるわけだ……ああえらいぞ、ソーニャ! だがなんといういい井戸を掘りあてたものだ! しかも、ぬくぬくとそれを利用している! 平気で利用してるんだからな! そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。人間て卑劣なもので、なんにでも慣れてしまうものだ』
 彼は考えこんだ。
「だが待てよ、もしおれが間違っているとしたら」と彼はわれともなくふいにこう叫んだ。「もし本当に人間が、人間が全体に、つまり一般人類が卑劣漢でないとしたら、ほかのことはすべて偏見だ、つけ焼き刃の恐怖だ。そして、もういかなる障害もない。それは当然そうあるべきはずだ!……」


 彼は翌日、不安な眠りの後に、遅くなってから目をさました。しかし、眠りも彼に力をつけなかった。彼はむしゃくしゃといら立たしい意地わるな気持で目をさますと、さも憎々しそうに自分の小部屋を見回した。それは奥ゆき六歩ばかりのちっぽけなおりで、方々壁から離れてぶら下っている埃まみれの黄色い壁紙のために、いかにもみすぼらしく見えた。その低いことといったら、少し背の高い人なら息がつまりそうな気がして、始終いまにも天井へ頭をぶっつけそうに思われるほどだった。家具も部屋に相応していた。あまりきちんとしていない三脚の古椅子と、幾冊かのノートや本をのせて片隅に置かれているペンキ塗りのテーブル。すべてが埃まみれになっているのから見ても、もう長いこと人の手の触れないことがわかった。それから最後にもう一つ、ほとんど壁面全体と部屋を半ば占領している粗末な大形の無格好な長椅子、かつてはサラサばりだったのが、今はすっかりぼろぼろになって、ラスコーリニコフのために寝台の役を勤めていた。彼はいつも服さえ脱がず、着のみ着のままでその上へ横になった。シーツもなしで、古色蒼然こしょくそうぜんとした学生外套がいとうにくるまり、頭には小さい枕がたった一つ、その枕を高くするために、持っているだけの肌着を、きれいなのも着よごしたのも、残らずその下へ突っこんだ。長椅子の前には小さいテーブルが置いてある。
 これ以上に身を落として引き垂れるのはいささか難儀なくらいだった。けれど、ラスコーリニコフにとっては――彼の今の心持からいえば、それがかえって痛快に思われた。彼は亀が甲羅へ引っ込むように、徹頭徹尾すべての人から身を隠していたので、彼の用を足すのが務めになっていて、時々彼の部屋をのぞく女中の顔すら、彼には癇癪かんしゃく痙攣けいれんの種であった。それは、あまりものに凝り過ぎたある種の偏執性モノマニアによくあることなのである。下宿のおかみが食事をよこさなくなって、もう二週間からにもなるのに、彼はこうして物も食わずにいながら、まだ今だに掛け合いに行くことさえも考えていない。おかみの置いているたった一人の女中であり料理女であるナスターシャは、下宿人のそうした気分を多少よろこんでいる気味で、部屋の片付けも掃除も、てんでしなくなってしまった。ただ週に一度くらい、どうかすると思い出したようにほうきを手に持つくらいのものだった。そのナスターシャが、いま彼を呼び起こしたのである。
「起きなさいよ、いつまで寝坊してるのさ!」と彼女は下宿人の頭のま上でどなりつけた。「もう九時すぎよ。お茶を持って来てあげたよ。お茶いらないの! さぞお腹が細ったろうに?」
 下宿人は目をあけて身震いすると、ナスターシャに気がついた。
「お茶はかみさんがよこしたのかい、え?」と彼は病的な表情で長椅子の上に起き直りながら、のろのろと尋ねた。
「なんのおかみさんが!」
 彼女は下宿人の前に、出がらしの茶を入れたひびのいった自前の茶碗ちゃわんを置き、黄色い砂糖のかたまりを二つのせた。
「ねえ、ナスターシャ、ご苦労だがこれを持って」と彼はポケットを探って(彼は服を着たまま眠ったので)、銅貨を一つかみ取り出しながら言った。「一走り行ってパンを買ってきてくれ。それから腸詰屋でソーセージを少し、安いところをな」
「パンはすぐ持って来てあげるけれど、腸詰の代わりにキャベツ汁はどう? いいおつゆだよ、昨日の残り。わたし昨日からとっといてあげたんだけど、あんたの帰りが遅いもんだから。そりゃあいいおつゆだよ」
 キャベツ汁が来て、彼がそれに手をつけると、ナスターシャは傍の長椅子に腰をおろして、おしゃべりを始めた。田舎出の女で、いたって口まめなたちだった。
「かみさんがあんたの事を警察に願うちってたよ」と彼女は言った。
 彼はきっとまゆをひそめた。
「警察へ? なんのために!」
「お金も払わないし、越しても行かないからさ。なんのためって、わかり切ってるでないか」
「ちょっ、まだこの上に」と彼は歯がみをしながらつぶやいた。「いや、これは今おれにとって……少々都合がわるいて……ばかだな、あいつは!」と彼は大きな声で言いたした。「今日かみさんの所へ行って、談じなくちゃ」
「かみさんも馬鹿は馬鹿だよ。わたしとおんなじに馬鹿だけれど、いったいあんたはどうしたのさ、それでもりこう者のすることなの? 毎日、袋みたいにごーろごろして、仕事してるとこなんて、見たくも見られやしない。せんにゃ子供を教えに行くって出かけたけれど、この節どうして何もしないのさ?」
「おれはしているよ!……」ラスコーリニコフはいやいやそうにきびしい調子で答えた。
「なら何してるんだね?」
「仕事をさ……」
「どんな仕事を?」
「考えてるのよ!」やや無言の後、彼はまじめに答えた。
 ナスターシャはいきなり笑いこけてしまった。笑い上戸じょうごなので、人に笑わされると、声も立てないで体じゅうゆすぶりながら、気分が悪くなるまで笑いつづけるのだ。
「考えてどっさりお金でもこさえたの?」と彼女はやっとこれだけ言った。
「靴なしじゃ子供を教えにも行かれない。それに、あんな仕事なんかぺっぺっだ」
「あんたわが身を養う井戸につばを吐くようなこというもんでないよ」
「子供を教えたって、どうせお礼は目くされ金さ。そんなはした銭で何ができる?」まるで自分自身の想念に答えるように、彼はいやいやことばをつづけた。
「じゃ、あんたは一度にひと身上しんしょうこさえてしまわなくちゃ承知できないの?」
 彼は妙な目つきで彼女を見やった。
「そうだ、一度にひと身上いるんだ」しばらく無言ののち、彼はしっかりした調子で答えた。
「あれ、もっと静かに言いなさいよ。びっくりするでないかね。とっても恐ろしい目をしてさ。いったい、パンはとってくるのかね。それとももういいの?」
「どうでも」
「あっ、忘れてたっけ! 昨日あんたんとこへ留守の間に手紙が来たよ」
「手紙! おれに! どこから?」
「どこからだか知らない。わたし郵便配達に三カペイカ自腹切っておいたよ。返してくれるかね、え?」
「じゃ持ってきてくれよ。お願いだから。持ってきてくれ!」急にそわそわしながら、ラスコーリニコフは叫んだ。「ああ、それは!」
 しばらくして手紙が来た。はたせるかな、R――県の母から来たものであった。彼はそれを受け取りながら、さっと顔いろを変えたほどである。彼はもう久しく手紙というものを受け取らなかった。しかし、今はそれ以外に何かある別なものが、急に彼の心臓を締めつけたのである。
「ナスターシャ、行ってくれ、お願いだから、さあ、これがお前の三カペイカだ。早く行ってくれよ!」
 手紙は彼の手の中で震えていた。彼は女中の前で封を切りたくなかった――この手紙をもって、早く一人になりたかったのである。ナスターシャが出て行くと、彼は素早く手紙を唇に押しあてて接吻せっぷんした。それからなおしばらく宛名の筆跡――彼にとって親しくなつかしい、こまかい斜めな文字に見入った。それは以前彼に読み書きを教えた母の手跡である。彼は躊躇ちゅうちょした。彼は何かを恐れさえもするような風であった。やがてついに封を切った――手紙は目方六、七匁もある、長い、こまごまとしたものだった。大きな書簡箋しょかんせん二枚にびっしりと一面に細かく書いてある。

「なつかしいわたしのロージャ(ロジオンの愛称)」と母は書いていた。「お前と手紙でお話をしなくなってから、もうかれこれ二月の余になります。それを思うと、わたしも心が苦しくて、時には気がかりのあまり夜もおちおち眠れないほどです。けれども、この心にもないわたしのごぶさたを、お前はきっと責めはなさらぬことと思います。わたしがどのようにお前を愛しているかは、お前もご承知のはずです。お前はうちの一人息子、わたしにとってもドゥーニャにとっても、お前はこの世のすべてです、つえとも柱とも頼むほどです。お前が学資を続ける方法がないために、もう幾月も大学をやめてしまい、出稽古でげいこその他の口もなくなったと知った時、わたしの気持はどんなだったでしょう! 年に百二十ルーブリやそこいらの扶助料で、どうしてお前を助けてあげることができましょう? 四か月前、お前に送った十五ルーブリも、ご承知の通り、この年金を抵当かたにして、当地の商人ヴァシーリイ・イヴァーヌイチ・ヴァフルーシンから借りたものです。あの方は親切な人で、父上ご存生時代のお友だちでしたが、あの方に年金を受け取る権利を譲ったので、わたしはその借金がすんでしまうまで待たなければならなかったのです。それがやっといま戻ったばかりなので、この間じゅうはどうしてもお前に送金ができなかったしだいです。けれど今こそは、ありがたいことに、少々ぐらいは送れそうです。それに全体から言っても、わたしたちは自分の運勢をふいちょうしてもよさそうですから、それを早くお前に知らせたく思います。第一には、お察しでもあろうけれど、お前の妹はもう一月半ばかり、わたしと一緒に暮らしております。そしてわたしたちはもうこの先わかれないですむのです。おかげで、あの子の苦労もおしまいになりました。けれど万事がどんな風であったか、今までわたしたちが何をお前に隠していたか、初めからすっかりわかるように、何もかも順序を立ててお話しましょう。お前は二月前に、ドゥーニャがスヴィドリガイロフ家で無作法な仕打を受けて、いろいろ憂い目をみているという話を聞いて、詳しい事を問い合わせておよこしだったが――わたしはその時なんと返事を書いてあげたらよかったのでしょう? もしわたしがありようを残らず書いてあげたら、お前はきっと何もかも打ち捨てて、たとい歩いてでも帰っておいでだったに違いない。わたしはお前の気性も心もよく知り抜いています。お前は自分の妹に恥をかかせて、黙っているはずがありません。何しろ、わたしでも気が狂いそうだったんですもの。それかといって、何分にも仕方がありませんでした。第一その時はわたし自身も、事の入りわけを十分知らなかったのです。何よりも一ばん困ったのは、ドゥーネチカが昨年あの家へ家庭教師にはいるとき、俸給から月々差し引いて返すとの約束で、百ルーブリ前借をしたことです。この借金が抜けてしまわないうちは、勤めをやめるわけに行きません。このお金をドゥーネチカが借りたのは(今こそ何もかも残らず打ち明けて話しますが)、ちょうどその時お前がどうしても入用と申しこされたので、昨年わたしたちの手から間に合わせて上げた六十ルーブリ、あれをお前に送りたいがおもなのでした。あの時わたしたちはお前をだまして、ドゥーニャの以前の貯金から出したと申しておきましたが、その実そうではありません。実はこんど神様のお慈悲で、万事が急によい方へ向いてきたので、ドゥーニャがどれほどお前を思い、どれほど立派な美しい心を持っているかを、ぜひお前に知ってもらいたいと考えて、今こそお前に事情をすっかり打ち明けることにします。全くスヴィドリガイロフ氏は、初めあのに無作法を働きまして、食事の時にもいろいろ失礼なことを言ったり、からかったりされたのです……けれど、もはやなにもかも過ぎ去った今となって、お前の心を騒がすのも無益なわざゆえ、こんな聞き苦しい話をくだくだしく書くのはよしましょう。で、かいつまんで申せば、スヴィドリガイロフ氏の奥さま、マルファ・ペトローヴナはじめ家の方々は、みんな親切によくしてくだすったけれど、ドゥーネチカはどうもいづらかったらしゅうございます。とりわけスヴィドリガイロフ氏が、むかし軍隊にいたころのくせで酒神バッカスの魔法にかかっている折などは、わけても辛かったと申します。けれどあとでわかってみると、どうでしょう、あきれるではありませんか、この半気ちがいのわからずやは、ずっと前からドゥーニャに思いをかけていたのですが、それを乱暴な仕打や馬鹿にしたような素振りで隠していたのです。ひょっとしたらあの人も、自分が相当の年輩であり一家の父でもありながら、そうした軽はずみな望みを起こしたのを、われながら恥ずかしく恐ろしいことに思って、それがためについ心ならずも、ドゥーニャに向かっ腹を立てたのかもしれません。またもう一つ事によったら、あのに無作法をしたりからかったりして、他人の目から真相を隠そうとしたのかもしれません。けれども、いよいよ辛抱がし切れなくなり、あからさまにドゥーニャに向かって、いやらしいことを言いかけたのです。色々な報酬を約束した上、何もかも捨てて、あの子と二人でほかの村へ移るか、それとも外国へ行ってしまってもかまわない、などと申しましたとのこと、あの子の苦しみがどんなであったか、よろしくお察しを願います! すぐ暇をとるということも、借金があるためばかりでなく、マルファ・ペトローヴナをかばう気持もあって、そうたやすくはできかねたのです。そうすれば奥さまは急に不審を起こし、したがって家内に不和の種をまく道理です。それにドゥーネチカにしても、まことに世間体のわるい話で、けっして無傷ですむわけがありません。そのほか、まだ色々な事情があって、ドゥーニャはまる六週間というもの、この恐ろしい家から逃げ出す見込みなど、まるでなかったのです。言うまでもなく、お前はドゥーニャをよく知っておいでのはず、あの子がどんなにりこう者で、どんなに気性がしっかりしているか、ちゃんとご承知でしょう。ドゥーネチカはたいていの事なら辛抱します、そしてよくよくの時にでも、落ち着きをなくさないだけの腹があります。あの子はわたしにさえも、余計な心配をさせまいと思って、しじゅう手紙のやりとりをしていながら、何一つ書いてよこさなかったくらいです。そのうちに、思いがけなく大団円がやってきました。というのは、マルファ・ペトローヴナがはからずも、庭でドゥーネチカを口説いている夫のことばを立ち聞きしてしまったのです。そして何もかも反対にとって、何もかもあの子のせいとばかり思い込み、一も二もなくあの子を科人とがにんにしてしまったのです。すぐにその庭先で恐ろしい騒ぎが持ち上がりました――マルファ・ペトローヴナはドゥーニャを打ち打擲ちょうちゃくまでして、何一つ耳をかそうとしません。まる一時間もわめき通したあげく、あの子の持ち物や肌着や衣類を手当たりしだい、たたみもせねば荷造りもしないで、百姓馬車の中へたたき込み、それにすぐドゥーニャを乗せて、わたしの手もとへ送りつけてしまえといいつけたのです。その時おり悪しく、抜けるような大雨が降り出したので、さんざん辱しめられたドゥーニャは、すごすご百姓男と一緒に雨の中を、屋根のない荷馬車で、十七露里(一露里は約一キロメートル)からの道を乗ってこなければならなかったのです。かようなわけゆえまあ察してもみてください。二月前におくれだった手紙の返事に、なんとお前に書いてあげられよう? どんな事を書けばよかったと思います? わたし自身がもう情なくてたまらないでいたのに、ありのままをお前に書いてあげる事など、しょせん思い切ってできるものではありません。なぜといって、お前がこの上なく不仕合せな気持になって、嘆いたり立腹したりしたあげく、何をしでかすかもしれないと心配したればこそです。ひょっとしたら、身の破滅になるようなことをするかもしれないし、それにドゥーネチカも止めるのです。といって、あれほどの悲しみを胸にいだいている時に、つまらないよそごとやいいかげんなことで手紙をうずめるのも、とてもできないことでした。ところが、それからまる一か月、当地ではこの事件であられもない噂が町中に広がり、はては皆がさげすむような目つきで人を見たり、ひそひそ耳こすりをしたりするので、わたしやドゥーニャは教会へも行けなくなったくらい、中にはわたしたちを目の前に据えて、聞こえよがしに話し合う人もあるのです。知った人たちも皆わたしたちから遠のいて、挨拶あいさつもしなくなってしまいました。わたしは確かに突き止めましたが、商家の手代や役所の書記などが、家の門にコールタールを塗って、わたしたちに外聞の悪い恥をかかせようとしました。そんなこんなで、家主はわたしたちに立ちのきを迫ってくる始末。これというのもみんな、一軒一軒歩き回って、ドゥーニャの悪口を言いふらしたマルファ・ペトローヴナのおかげなのです。この町の人をたいてい軒別に知っているので、今月はひっきりなしにここへ通ったものですが、少々おしゃべりの方でして、自分の内輪話をするのはまだしも、どうも困ったことには、夫のあくぞもくぞを相手かまわず洗い立てる事が好きなので、またたくうちにそのできごとが町ばかりか、郡一円にすっかり知れ渡ってしまったのです。わたしはとうとう病気になってしまいましたが、ドゥーネチカの方はわたしよりしっかりしていました。あの子が何事もじっと我慢して、わたしを慰めたり、励ましたりしてくれたのを、ちょっとお前に見せたいような気がします! あの子は全く天使です! けれども神様のお慈悲で、わたしたちはこの苦しみを縮めていただきました。ほかでもないスヴィドリガイロフ氏が考え直して、懺悔ざんげしてくれたのです。多分はドゥーニャを可哀想に思ったのでしょう。マルファ・ペトローヴナの前にドゥーネチカの身の潔白を明かすいやおうのない確かな証拠を出して見せたのです。それは、まだマルファ・ペトローヴナが二人を庭で見つけない先に、ドゥーニャがあの人の強いる逢引あいびきや密談を断わるために、やむなく書いてあの人に渡した手紙で、それがドゥーネチカの出発後、スヴィドリガイロフ氏の手もとに残っていたのです。この手紙は、マルファ・ペトローヴナに対するあの人の道にはずれた行ないを責め、人の子の父親であり一家の主人あるじでありながら、それでなくても不仕合せな頼りない娘を苦しめたり、不幸にしたりするのは、どれほど見下げはてた振舞かということを、はっきり指摘したもので、憤りの情にみちた激越な文章でした。つづめていえば、その手紙の書き方はいかにも健気けなげないじらしいもので、わたしは読みながらしゃくり上げて泣いてしまいました。今でも涙をこぼさないでは読むことができないくらいです。そればかりでなく、しまいには、こういう場合いつもよくある事で、ドゥーニャの弁解に召使たちが証言あかしをしてくれました。この人たちは、スヴィドリガイロフ氏が思ったよりずっとよく、何もかも知っていたのです。マルファ・ペトローヴナはすっかり度肝を抜かれてしまいました。あの人が自分でもわたしたちに白状したように『二度がんとやられた』わけなのです。でもその代わり、ドゥーネチカの無実を心底から信じ切って、さっそくあくる日ちょうど日曜だったので、いきなり町の中央公会堂へ乗りつけると、ばったり床にひざを突き、どうかこの新しい試みに堪えて、自分の務めを果たすことのできますよう、力を与えてくださいましと、涙ながら聖母マリア様に祈りました。それが済むと、会堂からどこへも寄らずまっすぐに家へやって来て、わたしたちに一部始終の話をした上、よよとばかり泣き出すではありませんか。そして、心から後悔してドゥーニャを抱きしめながら、許してくれと一生懸命に頼むのでした。それから、明日ともいわずさっそくその朝、一分の猶予もなく、うちを出るとすぐその足で、街じゅうの家を一軒一軒回り歩いて、涙を流しながらあの娘の無実を証明した上、ドゥーニャのためにこの上もない立派なことばで、あの娘の潔白な心と気高い行ないをほめそやしました。そればかりか、ドゥーネチカからスヴィドリガイロフ氏に送った手紙まで人に見せて、声を上げて読んで聞かせ、はては手紙の写しまで取らせたくらいです(これはわたしに言わせれば、ちと余計な事のように思われますが)。そんなわけで、あのひとは五、六日ぶっ続けに、街中の知り人を回って歩かなければなりませんでした。中には、どこそこを先にしたなどと、気を悪くする人ができたので、とうとう順をきめる事にしたのです。かような次第で、いついつにマルファ・ペトローヴナが、どこそこでその手紙を読むということが、どこの家でも知れ渡って、心待ちにするようになりました。その朗読会のたびに、もう幾度も自分の宅やら知合いの家やらで順番に読んで聞かされた人までが、またぞろ集まって来るほどでした。わたしの考えでは、あんまり色々とやり過ぎたように思いますけれど、それがどうもマルファ・ペトローヴナの気性なのです。何はともあれ、ドゥーネチカの名誉だけは申し分なく回復してくれました。そして、この事件の忌まわしいところは、本当に事を引き起こしたあのひとの夫の上にぬぐうことのできない汚辱となって落ちかかったので、わたしはかえって気の毒になったくらいです。気ちがいじみた人間とは言い条、あまりきびしくさばき過ぎたような気がします。ドゥーニャにはすぐ五、六軒の家から、出稽古でげいこに来てくれと申し込まれましたが、あの子は断わりました。全体にみんなが急にあの子に特別尊敬を払うようになりました。けれど何よりも肝要なのは、こうしたいろいろな事のお蔭で、思いがけない話が持ち上がり、わたしたちの運が開けることになった次第です。大切なわたしのロージャ、それはほかでもありません、ある人がドゥーニャに結婚を申し込んで、ドゥーニャももう承諾の返事をしてしまったので、それをお前にもとり急ぎお知らせするわけです。この話はお前に相談もなくできてしまった事ながら、多分お前はわたしに対しても、ドゥーニャに対しても、不服はない事と思います。それというのは、右に述べた事情で推察してもおくれだろうけれど、お前の返事が来るまでべんべんと待ったり、延引したりするわけにはいかなかったのです。それにお前にしても、自分の目に見ないでは、万事を間違いなく判断することはできますまいからね。事情はこういう次第なのです。その相手というのは、ピョートル・ペトローヴィッチ・ルージンという文官七等からの身分の人で、マルファ・ペトローヴナの遠縁に当たるのです。ですから、マルファ様もこの話については、いろいろ尽力してくださいました。ご当人はマルファ様を通して、わたしどもと近づきになりたいというのが初めで、わたしたちもちゃんと恥ずかしくないだけの招待をして、コーヒーなど振舞いましたところ、翌日さっそく手紙をよこして、ごく鄭重ていちょうなことば使いで結婚の申し込みを述べ、なるべく快答をほしいと申し越されたのです。その方は実務の人で忙しい体ですから、今も現にペテルブルグへ急いでおられます。かようなわけで一刻の時もあだやおろそかになりません。初めはこちらもあまり思いがけない急なことなので、もうもうびっくりしてしまいました。わたしたち二人はその日一日、いろいろと頭をひねって考えました。その人は立派に頼りになる確かな人で、ふた所に勤めも持っていられ、もはや相当の財産もできているとの事です。もっとも年はもう四十五ですけれど、かなり男前もよく、まだまだ女に好かれるだろうと思います。それに全体、大変どっしりした立派な人物です。ただ少し気むずかしく、高慢らしい所はありますけれど、これはちょっと見てそう思われただけかもしれません。で、お前にも前もって注意しておきますが、ペテルブルグでその人とお会いの節(それはごく近いうちのことと思います)、一目見て何か変に思われるふしがあったにせよ、お前のいつもの流儀で、あまり性急に気短かな判断をなさらぬように願います。あの方ならお前にもたしかよい印象を与えることと信じておりますけれど、ついでにちょっと申し添えておきます。そればかりではありません、誰によらず人を知ろうというには、あとでなかなか容易に直せない考え違いや早合点の毛嫌いをしないように、長い目で気をつけて見ねばなりません。何はともあれ、ピョートル・ペトローヴィッチは、いろいろな点から見て、ごくごく立派な紳士です。初めてたずねて見えた時、あの人はわたしたちに向かって、自分は実証的な人間だが、しかし多くの点において(あの人のことばで言うと)、『わが国の新しき世代の確信』をわかつもので、あらゆる偏見の敵だと申されました。そのほかまだまだいろんな事を申されました。というのは、元来虚栄心の強い方らしく、人に話を聞いてもらうのがひどく好きらしい様子です。でもお前、これくらいの事は大して欠点というほどでもありませんからね。わたしはむろんよくわからなかったけれど、ドゥーニャがわたしにいって聞かせてくれた所だと、この人はあまり教育の高い方ではないが、しかしりこうで善良な人らしいとの事です。ロージャ、お前は妹の性質を知っておいででしょうが、あの子は中々しっかりもので、分別もあり、辛抱強くもあり、激しい性質でありながら、度量の広い娘です。それはわたしがよく見抜いています。もちろん、この縁談にはあの子の方からいっても、またあの人の方からいっても、特別な愛情というものはありません。けれどもドゥーニャは、りこうな娘というほかに――天使のように高潔な娘ゆえ、夫を幸福にすることを自分の義務と心得てるに違いありません。そうすれば夫の方でも自然の道理として、あの子の幸福を心配してくれるはずです。このドゥーニャの幸福という事については、正直あんまり急にまとまった話だけれど、わたしたちとしてはさほど気にかける理由もありませんからね。それに、あの人は大変さきざきの見通しのきく人ですから、自分の夫としての幸福は、ドゥーネチカが幸福になればなるほど、一層確かになるということくらい、もちろん自分でも心得ることと思います。もっとも、性質が少しくらい違っていることや、古い習慣や、意見の違いや、そういう事は多少ありましょうが(こういう例は、ずいぶんむつまじい夫婦の間にも避けることのできないものです)、それについては、ドゥーネチカが自信を持っていると、自分でわたしに申しました。そして、何も心配することはない、これから先の関係が潔白に公平に続いてゆきさえすれば、あの子はたいていの事は辛抱できると申しています。人間の見かけはまことに当てにならないもので、たとえばあの人はわたしなどにも、最初はなんとなくとげとげしい感じがしました。けれどそれはつまり、あの人があまり一本すぎるからでしょう。いえ、きっとそうに違いありません。早い話が、二度目に訪ねて来た時に、もう承知の返事を受け取ってから、よもやまの話の間にその人の申しますには、まだドゥーニャを知らない前から、潔白なという事は必要だけれど、しかし持参金などもっていない、そして一度は必ず苦しい境涯をくぐった事のある娘を、めとりたいと思っていたとの事です。それはつまり、ご当人の説明するところによると、夫が女房に少しも恩を着る事がなく、妻の方だけが夫を恩人と思うようにしたいからだ、とこういうのです。断わっておきますが、その人はわたしが書いているよりか、もう少し柔かい優しい言い回しを使ったのです。わたしは本当の言い方を忘れてしまって、ただ意味だけを覚えているのですから。それに、けっして前から用意していったのではなく、つい話に実がはいって、うっかり口をすべらしたに違いありません。だから、あとで言い直したり、ことばを濁そうとしたくらいです。けれども、それでもわたしには、やはりことばが過ぎるような気がしたので、あとでドゥーニャにそういったら、ドゥーニャはかえっていまいましそうな顔をして『ただ言っただけなら本当にそうしたのと違います』と申しました。それはむろんその通りです。いよいよの返事をする前に、ドゥーネチカは夜っぴて眠りませんでした。あの娘はわたしがもう寝ているものと思って、床から起き出し、夜通し部屋をあちこち歩き回っていましたが、しまいには聖像の前に膝をつき、長いこと熱心に祈っていました。そしてあくる朝、わたしに向かって心を決めたと申しました。
 ピョートル・ペトローヴィッチがペテルブルグへ立つ準備をしている事は、もう先ほど書きましたが、その人はそちらにいろいろ大切な用向きがあって、ペテルブルグに弁護士の事務所を開こうという考えなのです。もう長らくいろんな訴訟事件を扱っていられ、三、四日前もある大きな訴訟に勝ったばかりです。ペテルブルグへぜひ出かけなければならぬというのも、大審院に大切な用があるからなのです。ねえ、ロージャ、かようなわけゆえ、その人は何かにつけてお前のためにもなる人らしいのです。わたしとドゥーニャは、もうお前に今日の日からでも今後の方針をしっかりと立てて、自分の運勢がすっかりきまったものと考えてもらいたいと、ずっと前から勝手に決めております。ああ、もし本当にそうなったら! それこそ神様がわたしたちにじきじきに授けてくだされたお慈悲に違いない、それよりほかに考えようがないくらいの仕合せです。ドゥーニャはただそればかりを空想しております。わたしたちはそれについて、もう思い切ってピョートル・ペトローヴィッチに、二言三言話してみました。すると先方は大事を取りながら、もちろん自分にも秘書がなくてはならぬから、給料なども当然他人に払うより、身内に払う方がよいに決まっている。ただ当人にそういう仕事ができさえすれば(まあ、お前にそれができなくってどうしましょう!)とこういうのです。しかし、大学の仕事もあるから、事務所で働く余暇はあるまい、というような懸念も漏らしていました。その時は話もそれ切りになりましたが、ドゥーニャは今その事よりほか何一つ考えておりません。あの子はここ四、五日というもの夢中になって、やがてお前が訴訟事件でピョートル・ペトローヴィッチの片腕、いえ、仲間にさえなって働くというような事を考えて、もはやすっかり細かい計画を立ててしまいました。それにはちょうどお前が法科においでなのだから、なおさら好都合だというのです。なつかしいロージャ、わたしもそれにはしごく同意で、あの子の計画や希望を十分確かと見て、同じように楽しんでいます。今のところ、ピョートル・ペトローヴィッチも曖昧あいまいな返事しかしないけれども、それは全く無理のない話です(つまりまだお前を知らないからです)。でもドゥーニャは、さきざき夫のかじをうまくとっていけば、何事も遂げられると固く信じております。もちろん、わたしたちもこんな先々の空想については、とりわけ、お前が事務所仲間になるなどという事は、ピョートル・ペトローヴィッチには心して口をすべらしなどしません。なにぶん実証家のことゆえ、すげなくあしらわれてしまうかもしれません。一概につまらない空想と思われるに違いありませんからね。また同様に、わたしもドゥーニャも、お前が大学においでの間、学費を助けてもらいたいという二人の深い望みについては、一言もまだその人に打ち明けてはありません。それを言わないわけは、第一、そんな事はおいおい自然にできることで、その上、こっちから余計な口をきかなくとも、先方から言い出すに違いないと思うからです(どうしてあの人がこれしきなドゥーニャの頼みを、きかずにおかれましょう!)まして、お前は仕事の上で立派にあの人の片腕になってあげることができるのだから、もう恩を着るのではなく、自分で稼いだ俸給ということになるのであってみれば、なおさら話のまとまりが早いでしょう。ドゥーネチカもそういう風にしたいと願っていますし、わたしもそれに大賛成です。次に、わたしたちがこの話をあの人に持ち出さなかった第二のわけは、近々お前たち二人が顔を合わす時に、ぜひお前をその人と対等の位置に立たせたかったからです。ドゥーニャがお前の事を夢中になってほめた時に、ピョートル・ペトローヴィッチは、誰にもせよ人を判断するには、自分で親しくその人を見ねばならぬと答えました。だから、お前という人物について意見をまとめるのは、お前と会った上で自分で勝手にする、というわけなのです。それからね、大切なロージャ、わたしはいろいろ考えることがあるので(といっても、それはけっしてピョートル・ペトローヴィッチに関係した事でなく、ただほんのわたしだけの年寄りじみたわがままなのでしょうが)――わたしは二人の婚礼が済んでからも、二人と一緒でなく、今までどおり一人でいた方が、よくはないかと思われるのです。あの人は思いやりの細かい立派な紳士ゆえ、自分の方からわたしを呼び寄せて、このさき娘と別れないようにいってくれるだろうと、わたしも信じています。今まで言い出さないのも、それはいわずとも当然な話だからです。けれどわたしは辞退します。今までの経験で一度ならず気づいた事ですが、しゅうとめというものはむこにとって、あまり面白くないのが常ですからね。わたしはたとい誰にもせよ、いささかでも人の迷惑になりたくないばかりか、手もとにわずかたりとも自分の食べるものがあり、お前やドゥーネチカという子供がいる間は、できるだけ自由な身でいたいと思います。ただできることなら、お前たち二人の近くに住みたいものです。実はね、ロージャ、わたしは何よりうれしい事を、わざと手紙の終わりにとっておきました。さあ、いよいよ教えてあげましょう、たぶん近いうちにわたしたちみんな一緒に落ち合って、かれこれ三年ぶりに、三人互いに抱き合うことができるのです! もうほとんど確実に、わたしとドゥーニャはペテルブルグへ出かけます。いつという事はまだわからないけれど、いずれにしてもごくごく近いうちで、もしかすると来週かもしれないくらいです。何事もピョートル・ペトローヴィッチの指図しだいで、あの人はペテルブルグで用事の目鼻がつくと、すぐさまこちらへ知らせてくれるはずになっております。あの人は何やかやの都合で、できるだけ結婚式を急ぎたいとかで、なろうことならこの四旬斎の中に、もしそれが早急すぎて間に合わなかったら、聖母昇天祭後には、どうでもすぐ式をあげたいと言っています。ああ、お前をこの胸に抱きしめるとき、わたしはどんなに幸福に感じるでしょう! ドゥーニャもお前と会ううれしさに、すっかりわくわくしてしまって、一度などは冗談に、ただこれだけのためにでも、ピョートル・ペトローヴィッチと結婚してもいいと申しました。あの子は天使です! あの子は今は何も書き添えないけれど、たくさんたくさんお前に話す事があって、とてもいま筆をとる勇気が出ない、五行や六行ではなんにも書くことができなく、ただ自分で自分をいらいらさせるばかりだから、とこう伝えるように頼みました。なお堅く堅くお前を抱きしめて、数限りない接吻せっぷんを送ってくれとの事でした。それにしても、わたしたちは間もなくじきじき会える事とは思いますけれど、わたしはやはり近いうちにできるだけたくさん、お前にお金を送ってあげます。ドゥーネチカがピョートル・ペトローヴィッチと結婚する事を、みんなが知ってしまったので、今度わたしの信用が急に増してきました。で、商人のヴァフルーシンも今なら年金の抵当で、七十五ルーブリぐらいまでは融通してくれるに違いないと思っています。だからお前にも二十五ルーブリか、三十ルーブリはお送りできるかもしれません。も少し余計に送りたいのですが、道中の費用も心配しなくてはなりません。もっとも、ピョートル・ペトローヴィッチは親切にも、ペテルブルグ行きの旅費の一部を引受けてくれました。つまり私たちの荷物や大トランクを、自分の手で送ってくれることになっておりますが(誰か知った人を通じて送るらしいのです)、けれど、わたしたちはペテルブルグへ着いてからの事も考えなくてはなりません。たとい初めの二、三日分だけにもせよ、多少の金を握っていなければ、顔を出すこともできませんからね。もっとも、わたしはドゥーネチカと二人で、すっかりこまごました事まで計算して見たところ、路用はほんのわずかで済むことがわかりました。家から汽車まではたった九十露里、それはいざという場合を見越して懇意な百姓の馬車屋に頼みました。それから先は、三等で楽々と一飛びに参ります。そうすればお前に二十五ルーブリでなく、きっと三十ルーブリやりくりして送れるだろうと思っています。でも、もうたくさん、二枚の紙にいっぱい書きつめて、もう余白がありません。どうも大変な長物語で、いろんなできごとがうんとたまったものだからね! さあ、それではなつかしいロージャ、近き再会の日を楽しみにお前を抱きしめましょう。そして母の祝福をお前に送ります。ロージャ、たった一人の妹ドゥーニャを可愛がっておくれ。あの子がお前を愛しているように、お前もあれを愛しておやり。あの子がお前を限りなく、自分自身よりも愛している事を、心に止めておくれ。あの子は天使です。ところがお前は、大事なロージャ、お前はわたしのすべてです――わたしたちの希望の全部です。お前さえ幸福でいてくれれば、わたしたちもやはり幸福です。わたしのロージャ、お前は以前のように神様にお祈りをしていますか? われらを造り給いしあがないの主たる神のおん恵みを信じていますか? わたしは当節はやりの不信心が、お前までも見舞いはせぬかと、心ひそかに案じております。もしそうなら、わたしはお前のために祈りましょう。思い出しておくれ、ロージャ、まだお前が幼いころ、お父様の生きていらした時分、わたしのひざの上に抱かれながら、回らぬ舌でお祈りをした時分の事を。そのころのわたしたちはどんなに幸福だったでしょう! ではさようなら、いえそれよりも、お目もじまでと申しましょう。お前を堅く堅く抱きしめて、数限りなく接吻します。
終身かわらぬおん身の母
プリヘーリヤ・ラスコーリニコヴァ」

 手紙を読みにかかったそもそもの初めから、読み終わるまでずっと通して、ラスコーリニコフの顔は涙でぐっしょりになっていた。けれどいよいよ読み終わった時、その顔は蒼白そうはくに変わり、痙攣けいれんのためにゆがんでさえも見えた。そして唇には重苦しい、いらいらした、意地わるげな微笑が蛇のようにうねっていた。彼は古ぼけたぺしゃんこになった枕に顔を埋めて、じっと考えた。長い間考えた。心臓は激しく鼓動し、思いは千々ちぢに乱れ騒いだ。とうとう彼は、戸棚か箱同様なこの黄色い小部屋の中が狭苦しく、息がつまりそうになってきた。視覚も思想も広々とした所を求める。彼は帽子をとった、今度こそもう階段で人に出会うのを危ぶむような事もなく、外へ出て行った。そんなことなど忘れていたのだ。彼はV通りを横切って、さながら用事があって急ぐ人のように、ワシーリエフスキイ島の方向へ足を向けた。しかしいつものくせで、道筋には一向気のつかぬ様子で、何やらぶつぶつつぶやいたり、時には大声にひとり言を言ったりしながら、歩いて行った。それがひどく往来の人を驚かすのであった。多くの者は彼を酔っぱらいだと思った。


 母の手紙は彼を苦しめた。しかし、一ばん根本の重大な点に関しては、まだ手紙を読んでるうちから、一瞬の間も疑惑や動揺を感じなかった。事件の最大眼目たる中心点は、彼の頭の中で決定されていた。断然なんの躊躇ちゅうちょもなく決定されていた。『おれが生きているうちは、こんな結婚をさせるもんか。ルージン氏なんかくそ食らえだ!』
『だって事情は見え透いてるじゃないか』と彼は薄笑いを漏らし、自分の決心の成功に今から意地悪く勝ち誇りながらつぶやくのであった。『だめですよ、お母さん、だめだよ、ドゥーニャ、お前たちにこのおれがだませるものか!……そのくせ、おれの意見を聞かなかった事や、おれをのけ者にして決めてしまった事を、あやまっているんだからなあ! そりゃそうだろうともさ! あの二人は、今さらこわすわけにいかないと思ってるが、いくかいかないか、見てみようじゃないか! なんと立派な言いわけだろう。「あの人は実務の人ですから――どうして中々実際的な人ですから、駅つぎ馬車の中か、それともまかり間違えば汽車の中ででも、結婚せねばならぬので、それよりほかに仕方がない」だとさ。いや、ドゥーネチカ、何もかも見え透いてるぞ。お前がおれにたくさん話したい事があるというのも、どういう事かおれにはよくわかっている。お前が夜通し部屋を歩き回って、何を一生懸命に考えたか、お母さんの寝室に据えているカザンの聖母の前で、いったい何を祈ったか、おれはちゃんと知ってるぞ。そりゃゴルゴタへ上るのは苦しいさ。ふむ……じゃつまり、きっぱりと決めたわけなんだな……え、アヴドーチャ・ロマーノヴナ(ドゥーニャの本名)、実務の人で、思慮分別のある自分の財産をもっている(もう自分の財産を持っていると、こいつは中々重みがあって、ずっと人聞きがいいて)ふた所に勤めて、新しき世代の確信をもわかつもので(これはお母さんの言い草だ)しかもドゥーニャ自身の観察によれば、善良らしい男の所へいらっしゃるんですね。このらしいが何よりすてきだて! そしてあのドゥーネチカは、このらしいと結婚しようというのだ!……結構なことだ! 結構なことだ!
『……だが、なんだってお母さんは「新しき世代」の事なんか書いてよこしたんだろう? 単に当人の性格描写のためか、あるいはもっとほかに目的があるのか? つまり、ルージン氏をよく思わせるために、おれを籠絡ろうらくしようというのか? ああなんという策士たちだろう! それから、もう一つの事情も知っておきたいものだな――いったい母たち二人はその日も、その晩も、それからずっと先も、どの程度まで互いに打明け合ったのだろう? 二人の間にはすべてのことばが、歯にきぬきせず言われたのだろうか、それとも二人は互いの心持や考えを悟り合って、何もそんな事を口に出して、かれこれいう必要がないどころか、ことばを漏らすのも無駄なくらいだったのか? 大方そんな事も多少あったろう。手紙を見てもわかり切っている。お母さんは、あの男が少々とげとげしいように思われた。ところが、お母さんは人がいいものだから、自分の観察を馬鹿正直にドゥーニャに話した。妹はもちろん腹を立てて、「いまいましそうに答えた」わけだ。当たり前じゃないか! ばか正直な問いなんか持ちかけなくても、生地きじはわかり過ぎるほどわかっていて、今さら何もいうがものはないとすれば、誰しも癇癪かんしゃくを起こそうじゃないか。それからお母さんはなんて事を書いてるんだろう。「ドゥーニャを可愛がっておくれ、ね、ロージャ。あの子はお前を自分自身よりも余計に愛しているのだから」だとさ。息子のために娘を犠牲にする事を承知したので、自分でも内心ひそかに良心の呵責かしゃくを感じているのだろうか。「お前はわたしたちの希望です、わたしたちのすべてです!」だと、おお、お母さん、なんという事でしょう!』憤怒ふんぬの念はいよいよ激しく彼の心に煮え立った。もし今ルージン氏に出会わしたら、彼はこの男を殺してしまったかもしれない! 『ふむ……もっともそれだけは本当だ』旋風のように頭の中をぐるぐる回る想念を追いながら、彼はこう考え続けた。『それだけは本当だ、「人間を知るには長い目で気をつけて見ねばなりません」しかし、ルージン氏は見え透いている。何よりも第一、「事業家で、善良な人らしい」のだ――馬鹿にしてる、荷物を引受けた、大トランクを自分の手で届けてくれる! いやはや、全く善良でないとは言えまいよ。だが、あの人たち二人は、花嫁と母親とは、百姓男をやとって、むしろを屋根にした荷馬車に乗って行くんだよ!(おれもそいつによく乗ったものだ!)なに、平気さ! たった九十露里だからな。「それから先はらくらく三等で一気に飛んで行く」さ。千露里の道中をな。まあいい分別だ――何ごとも身分相応ということがかんじんだからなあ。だが、ルージン氏、あなたはどうしたもんですね? だってあれは君の花嫁じゃありませんか……それにまた、おふくろが年金を抵当に旅費を前借りしようとしているのを、ご存じないはずはないでしょう? もっとも、そいつはあなたがた共同の商取引きで、もうけも山わけなら、費用も半々というところですかな。下世話にも、ご馳走ちそうは一緒でも煙草はめいめい持ちといいますからね。だが、ここでも実務家先生、二人を少々ごまかしているんだ――荷物は旅費よりも安くつくからな。事によると、まるまるただでいくのかもしれない。どうして二人のものはそれがわからないんだろう。あるいは、わざと気のつかないふりをしているのかな? とにかく満足してる、満足し切っているのだ! しかしこれはほんの三番叟さんばそうで、本当の芝居はこれからなんだから、考えただけでもぞっとする! 実際この事件でかんじんなのは――やつのしみったれでもなければ、欲っぱりでもない。万事につけてそうした調子なんだ。だってこれが結婚後ずっと先々までの調子なのだから、つまり予言だ……それにお母さんはなんだってそんな散財をするのだろう? 何を懐にしてペテルブルグ三界へ来るんだろう? ルーブリ銀貨三つか「おさつ」の二枚も持ってか(これはあいつの言い草だ……あのばばあの)……ふむ! それに、お母さんはゆくゆくペテルブルグで、どうして暮らしていくつもりだろう? 結婚の後は、ほんの当座しばらくでさえも、ドゥーニャと一緒に暮らせないのを、何かのわけでもう気がついたんじゃないか! あの優しい紳士が、きっと何げなく口をすべらして、自分の腹をにおわせたに相違ない。もっとも、お母さんは両手を振って、「わたしの方からご辞退します」とは言っているけれど、いったいお母さんは誰を当てにしているのだろう――アファナーシイ・イヴァーヌイチの借金を差引いた百二十ルーブリの年金か? それから冬は老いの目を悪くしながら、襟巻を編んだり、袖口そでぐち刺繍ししゅうをしたりする。だが編物や刺繍は、例の百二十ルーブリにせいぜい年二十ルーブリも増すくらいな事だ。おれはよく承知している。すると、つまり、やはりルージン氏の男気を当てにしているわけだ――「自分の方からいい出して、どうぞと頼んでくるだろう」というつもりでな。だが、ご用心、ご用心! こういう事は、ああしたシラー式の美しい心をもった連中によくあるやつだからな――いよいよという土壇場まで孔雀くじゃくの羽毛で相手を飾ってさ、最後のどんづまりまでいい事ばかり頼みにして、悪い方を見ないようにする。そして物事に裏のあることは感じていながら、どうしても前もって本当のことを自分に言って聞かそうとしない――そんな事は考えただけでも、内心ぎっくりとなる方だ。結局、美しく飾り立てられたやっこさんが、自分の方から正直者をお笑い草にするまで、一生懸命に真相を打ち消しているのだ。それはそうと、ルージン氏は勲章を持ってるだろうか? きっとボタン穴に「アンナ」があるに違いない、けでもしてみせる。やつはそれを、請負師や商人仲間の宴会につけて行くのだろう。自分の結婚式にもつけるに相違ない! だが、あんなやつの事はどうでもいい!……
『いや……まあお母さんはそれでもいいさ、かまわないとしよう。もともとそういう人なんだから。だが、ドゥーニャはどうしたもんだ? ドゥーネチカ、可愛いい妹、おれはお前をよく知っているぞ! 一ばん最後にお前と会った時、お前はもう二十だった。そしてもうその時、お前の性格はよくわかった。お母さんは「ドゥーネチカはなんでも忍ぶことができる」と書いている。それはおれも知っていた。二年半も前からちゃんと承知していた。そして、その時から二年半というもの、おれはそのことを考えていた。つまり、「ドゥーネチカはなんでも忍ぶことができる」って事だ。スヴィドリガイロフ氏と、それから生じた多くの結果さえも忍びおおせたのだから、事実なにごとでも忍びうるわけだ。そこで今度はお母さんと一緒に、貧乏人からもらわれて夫に恩を着せられた女房の長所云々うんぬんという法則を明言した、しかもほとんど初対面早々からそれを明言したルージン氏をも、忍ぶことができるだろうと想像したわけだ。まあかりに、やつが分別のある人間のくせに、「つい口をすべらした」ものとしよう(もっとも、まるっきり口をすべらしたのじゃなくて、かえって少しも早く態度を明らかにしようと思ったかもしれぬ)。だがドゥーニャは、ドゥーニャはどうしたというのだ? あれには男の人となりがはっきりわかっているんじゃないか、だって、一生ともに暮らす男だからな。あれは黒パンをかじって水を飲んでも、自分の心は売りやしない。楽がしたさに精神的自由を売るような女じゃない。ルージン氏などは愚か、シュレスヴィッヒ・ホルスタイン全国をやるといわれたって、売るような事はしやしない。いや、ドゥーニャは、おれが知っている限りでは、そんな女じゃなかった、そして……まあ、もちろん、今だって変わっちゃいないだろう!……いや、何もいう事はない! スヴィドリガイロフ夫婦もつらい! 生涯二百ルーブリの家庭教師で、県から県を回って歩くのもつらい。しかし、それでもおれは知っている。おれの妹は、我身一つの利益だけのために、尊敬もしていなければ、なんとも相手にならない男と、永久に運命を結びつけて、自分の魂や道徳的感情を俗化するよりは、植民地の農園主のところへ奴隷になって行くか、バルチック州のドイツ人の所へ下女に行く方が、まだしもだと考えるたちの女だ。そして、よしんばルージン氏が純金か、ダイヤモンドでできた人間であるにもせよ、ルージン氏の合法的めかけになるのを、承知するわけがない! では、なぜ今度それを承諾したのか? いったいそのあやはなんだろう? この謎のかぎはどこにあるのだ? わかり切った事だ――自分のため、自分の安逸のため、いや、それどころか、わが身を死地から救うためにでも、自分を売るような事はしないが、人のためには、これ、この通り売ろうとしているのだ! 愛する人のため、敬慕する人のためには売ってしまう! ここに手品の種があるんだ――兄のため、母のために売ろうというのだ! 何もかも売ってしまう! おお、場合によっては、自分の道徳的感情をも抑えつけてしまおうし、自由も、安逸も、はては良心までも、何もかもいっさいがっさいぼろ市へ持ち出してしまうのだ! 自分の一生はどうともなれ! ただ愛する人が幸福になりさえすればいい。のみならず、自分で勝手なりくつをこしらえて、ジェスイット派そこのけの研究をつむ。「これはそうしなければならないのだ、実際、善良な目的のためには、そうしなければならないのだ」などと、たといほんの一時いっときだけでも、自分を慰めもし説教もするだろう。われわれはだいたいこんな者だ。万事は火を見るごとく明らかだ。またこの事件で、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが関係者で、しかもその主役だということも明瞭めいりょうだ。いや、それもよかろう。兄の幸福を図ることもできるし、大学を続けさせることもできるし、法律事務所の共同経営者にもしてやれるし、一生の運命を保証することもできる。そして、後にはおそらく名誉に包まれて、人から尊敬される金満家になるかもしれない。あるいは結構な人間として生涯を終わるかもしれないのだ! したが、お母さんは? けれど問題はロージャなのだ、かけがえのないロージャ、総領息子のロージャなのだ! さあ、こういう総領息子のためなら、たといあんなすばらしい娘でも、犠牲にしてならぬという法がどこにある! おお、二人ともなんといういじらしい、とはいえ間違った心だろう! いや、なんのことはない、これではわれわれも、ソーネチカの運命を拒むことができなくなる! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードヴァ、世の続く限り永遠に尽きぬソーネチカ! あなたがた二人は犠牲ということを、犠牲というものの深さを、十分に測ってみましたか? どうです! 手に合いますか? 得になりますか? 合理的ですか? ねえ、ドゥーネチカ、お前はわかっているかい? ソーネチカの運命は? ルージン氏と結びつけるお前の運命に比べて、すこしも汚らわしいことはないのだよ。「あれには愛情などあろうはずがない」とお母さんは書いている。え、もし愛情のほかに尊敬すらもないとしたら、いやそれどころか、嫌悪と侮蔑ぶべつがあるとしたら、その時はどうするのだ? そうなると、ここでもまた「さっぱりとした身なりという事に気をつけねば」ならぬ事になる。そうじゃないか、え? ところで、おわかりですかね、あなた様にはおわかりですかね――そのさっぱりした身なりというのが、何を意味するのか? おわかりですかね――ルージン夫人のさっぱりした身なりは、ソーネチカのさっぱりした身なりと同じだという事が? いや、事によったらもっと悪い、もっと汚らわしい、もっと卑しいものかもしれないのだよ。なぜといってごらん、ドゥーネチカ、お前の方はなんといっても、多少楽をしようという目算も潜んでいるが、一方はそれこそもう飢え死するかしないかという問題なんだからな! 「このさっぱりした身なりというやつは高いものにつくんだよ、ドゥーネチカ、高いものに」ところで、もしあとで力及ばず後悔するようになったら? その悲しみはどれほどか――嘆き、呪い、人しれず流す涙は、どれくらいかしれやしない! だってお前はマルファ・ペトローヴナとは違うからな。いったい、その時母さんはどうなるのだ? だって、お母さんはもう今から不安を感じて、煩悶はんもんしているのだもの。万事がはっきりわかった暁はどうだろう? それにまたおれはどうなるのだ!……本当にお前たちはおれのことをなんと考えたのだ? ドゥーネチカ、おれはお前の犠牲なんかほしくない。お母さん、僕はいやです! 僕の目の黒い間は、そんな事をさせやしない、断じてさせるものか、させるものか! 承知するわけにいかん!』
 彼はふいにわれに返って、足を止めた。
『させない? じゃ、そうさせないために、お前はいったいどうするつもりだ? さし止めるのか? どうしてお前にその権利がある? そういう権利を持つために、お前は自分の方で何を彼らに約束することができるのだ? 大学を卒業して地位を得た時に、自分の運命全部を、自分の未来いっさいを、彼らにささげるというのか? いや、それはもう聞きあきた。だって、それはまだ第二段じゃないか。だが今は? いま現に何かしなければならんじゃないか、いったいそれがわかっているのか? それだのにお前は、今何をしていると思う? お前はかえって彼らから掠奪りゃくだつしているじゃないか。だって彼らの金は百ルーブリの年金かスヴィドリガイロフ家の苦しみかを、抵当にして借りたものじゃないか? スヴィドリガイロフや、あのアファナーシイ・イヴァーヌイチ・ヴァフルーシンなどのような連中から、お前はどうして彼らを守りおおせるつもりだい? おい、未来の百万長者、彼らの運命をつかさどるゼウスの神どの! 十年もしたらというのか? ふん、十年もたつうちには、お袋は襟巻の内職か、それとも涙のためにでも盲目になってしまうだろう。いや、それどころか、栄養不良でミイラになってしまうだろうよ。ところで、妹は? 十年たってから、いや、この十年の間に、妹の身はどうなっているか、一つ考えてみるがいい。どうだ、わかったか?』
 こうして彼は自分をさいなんだ。そして一種の快感を覚えながら、こうした自問自答でおのれを嘲笑ちょうしょうし、愚弄ぐろうするのであった。もっとも、すべてこれらの問題は目新しいものでもなければ、とつぜん起こったものでもなく、ずっと以前から内訌ないこうしている古いものであった。もう久しい前から、これらの問題は彼を悩まし始めて、今では彼の心をずたずたに引裂いてしまった。現在のこうした憂悶ゆうもんが彼の心に生まれたのは、もうずっとずっと前の事で、それがしだいに生長し、積もり積もって、最近に至っては、恐ろしい、奇怪な、ありうべからざる疑問の形をとって、完全に成熟し凝結したのである。この疑問はいやおうなく解決を要求しながら、彼の感情をも知性をもへとへとに悩み疲らせたのだ。こんど来た母の手紙は突然雷のように彼を打った。もう今は明瞭に、問題の解決難のみを考えて、受動的に苦しんだり、悩んだりしている時でない。是非ともなにかしなければならぬ。しかも今すぐ、一刻も早く。是が非でも決行しなければならぬ、でなければ……
「でなければ、ぜんぜん人生を拒否するんだ!」突如、彼は狂憤にかられて叫んだ。「あるがままの運命を従順に生涯かわることなく受け入れて、活動し、生き、愛するいっさいの権利を断念し、自己内部のいっさいを圧殺してしまうんだ!」
『わかりますかな、あなた、わかりますかな、もうこの先どこへも行き場のないという意味が?』ふいに昨日のマルメラードフの質問が、彼の心に浮かんだ。『だって人間は誰にもせよ、たといどんな所でも、行くところがなくちゃ駄目でがすからな……』
 ふいに彼はぎくりとした。これもやはり昨日と同じである一つの想念が、またしても彼の頭をひらめき過ぎたのである。しかし、彼がぎくりとしたのは、この想念がひらめいたからではない。つまり、彼はこの想念が必ず『ひらめく』に相違ないのを、ちゃんと知っていたからである。予感していたからである。むしろそれを待ち設けていたほどである。それにこの想念は、ぜんぜん昨日のものとはいえなかった。ただそのかんの相違は、一月前まで、いやつい昨日までも、それはただの空想だったのが、今では……今では急に空想でなく、何か新しい、すご味のある、まるでかつて覚えのない形で現われた事である。そして、彼自身も忽然こつぜんとしてそれを意識した……彼は頭をがんと打たれたような気がして、目の中が暗くなった。
 彼は急いであたりを見回した。彼は何かを求めていた。腰をおろしたくなったので、ベンチをさがしているのだった。おりしもその時、彼はK並木通ブールヴァールを通っていたので、ベンチは百歩ばかり先の方に見えた。彼はできるだけ急いで歩いた。けれどもその途中、ちょっとした事が彼の身辺に起こって、しばらくの間彼の注意をすっかりひきつけてしまった。
 彼はベンチを見つけ出そうとしているうちに、前の方二十歩ばかりのところを歩いて行く少女の姿を認めた。しかし初めはその女にも、今まで眼前にちらつくいっさいの事物と同様、彼はなんの注意も払わなかった。今までも彼は家まで歩いて帰りながら、通って来た道筋をてんで覚えないというような事も一度や二度ではなかった。もうそういう風に歩くのがくせになっていたので。けれど、いま歩いて行く女には、ひとめ見た瞬間から、どことなく変なところのあるのが目についた。で、彼の注意はしだいにその方へ吸いつけられていった――最初は気のりせぬ風で、なんとなくしゃくなようにさえ感じられたが、やがておもむろに強い注意に変わっていった。この女の変なところはいったいなんであるか、それを急に突き止めたくなった。第一、彼女はまだ若いはずなのに、この炎天に帽子もかぶらず、洋傘も持たず、手袋もはめないで、なんとなく奇妙に両手を振りながら歩いていた。彼女は軽い絹地の(いわゆる『やわらかもの』の)服を着ていたが、これもやっぱりひどく妙ちきりんな着方で、どうにかこうにかいい加減にボタンをかけ、おまけに後ろの腰のあたり、スカートのつけ根へんが、ひどく破れていた。髪が一かたまり離れて、ぶらぶら揺れながら下がっていた。小さい襟巻があらわな首に巻かれていたが、それもゆがんで脇の方へずっている。かてて加えて、娘はひょろひょろとつまずいたり、あちらこちらとよろめきながら、危なっかしい足どりで歩いていた。ついにこの邂逅かいこうは、ラスコーリニコフの注意を完全に呼びさました。彼はベンチのすぐ傍で娘に追いついたが、彼女はベンチへたどり着くやいなや、いきなりその片隅へどうと倒れて、背に頭を投げかけ、いかにも疲れ切った様子で目を閉じた。そのさまをじっと見入った時、娘がひどく酔っ払っている事を、彼はたちまち察してしまった。こうした現象を見るのは、不思議でもあれば奇怪でもあった。彼は見当違いではないかとさえ思った。彼の前にあるのはいたって若々しい顔で――せいぜい十六か、もしかしたら十五かとも思われる――小さな、白っぽい髪をした、美しい顔であったが、それでも燃え立つように赤くなって、どこやらはれぼったい顔だった。娘はもう意識がもうろうとしているらしく、片方の足をいま一方の足へのせていたが、その上げ方が普通なみよりもずっと高かった。あらゆる点から見て、往来にいることさえも意識していないらしい。
 ラスコーリニコフは腰もかけず、立ち去ろうともしないで、思い惑う体で娘の前に立っていた。この並木通はふだんでもおおむねがらんとしていたが、今この日盛りの二時すぎには、ほとんど人影一つ見えなかった。ところが、十五歩ばかり離れた並木通のはずれに、一人の紳士が立ち止まって、いかにも何か目的あてがあるらしく、しきりに娘の方へ近づこうとしている様子だった。どうやら彼も遠くから彼女を見つけて、あとをつけて来たのだけれど、ラスコーリニコフが邪魔になるらしかった。彼は相手に気取けどられまいと苦心しながら、ラスコーリニコフの方へ意地わるげな視線を投げ、いまいましい貧乏男が行ってしまって、自分の番の来るのをじれったそうに待っている。それはもう明白だった。くだんの紳士は年ごろ三十そこそこ、でっぷりと脂ぶとりに太った男で、血の中に牛乳でも交ったような色つやをし、ばら色の唇の上には小さな口ひげをたくわえ、恐ろしく洒落しゃれた身なりをしていた。ラスコーリニコフはむやみに腹が立ってきた。彼はだしぬけに、どうかしてこの脂ぎった洒落者を怒らしてやりたい気が起こった。彼はちょっと娘をうっちゃって、紳士の方へ近づいた。
「おい、君、スヴィドリガイロフ! 君はここに何用があるんです?」と彼はこぶしを固めて、憤怒ふんぬのあまり泡立つ唇に冷笑を浮かべながら、こうどなりつけた。
「そりゃいったいなんのこってす?」と紳士は眉をしかめて、高慢ちきな驚きの色を浮かべながら、いかめしい調子で問い返した。
「ここからとっとと行きなさい、とこういうわけなんです!」
「何を生意気な、この野郎!」
 そういって、彼はステッキを振り上げた。ラスコーリニコフは、このでっぷりした紳士なら、自分のような男の二人くらい、わけなく始末できるということさえ考えず、拳をふり上げて飛びかかった。が、その瞬間、誰やら後ろから彼をしっかりと抱きしめた――二人の間に巡査が割ってはいったのである。
「二人ともおよしなさい、往来で喧嘩けんかなんかしちゃいけません。いったいどうしたというんです? 君はいったい何者だ?」ラスコーリニコフのぼろ服を見かけると、巡査はきっと彼の方へふり向いた。ラスコーリニコフはその顔を注意ぶかくながめた。それは半白の口ひげと頬ひげのある、物わかりのよさそうな目つきをした、たくましい兵隊型の男だった。
「僕はちょうど君に来てもらいたかったのだ」彼は巡査の手をつかみながらどなり返した。「僕はもとの大学生で、ラスコーリニコフというものです……それはあなたにもわかるはずです」と彼は紳士の方へふり向いた。「君、一緒に行こうじゃありませんか、見せるものがある……」
 こう言って、巡査の手を引っつかむと、彼はベンチの方へ連れて行った。
「まあ、ごらんなさい、すっかり酔っぱらっています。つい今しがたこの並木通を歩いて来たんです――どうした娘だかわかりませんが、商売人とは思われない。きっとどこかで飲まされた上、だまされた……らしいんです……はじめて……ね、おわかりでしょう。そして、そのまま往来へほうり出されたものなんです。ごらんなさい、この服の破れていることを。ごらんなさい、この服の着ざまを。だって、これは着せられたもので、この娘が自分で着たんじゃありませんよ。慣れない手で、つまり男の手で着せたんですよ。それは見え透いている。ところで、今度はこっちをごらんなさい――僕がいま喧嘩をしようとしたこの気障男きざおとこは、僕の知らない初対面の人間ですが、いま道々、酔っ払って正体のないこの娘に目をつけて――娘がこんな有様でいるもんだから――これから娘に近づいて、うまく手に入れたくってうずうずしている――どこかへ引っ張り込むつもりでね……そりゃもうきっとそれに違いないです。大丈夫、僕の考え違いじゃありませんから。僕はちゃんとこの目で見たんだが、先生この娘を観察して、じっと目を放さずにいたのです。ただ僕が邪魔していたものだから、僕が行ってしまうのを、さっきからずっと待っていたのです。ふん、やつは今少し脇へ離れて、煙草を巻くようなふりをしてやがる……どうかしてこの娘をやつの手に渡さないようにしたいものですな、どうかしてこの娘を家まで送り届けてやりたいものですな――一つ考えてくれませんか!」
 巡査はすぐに万事を飲み込んで、頭をひねった。太った紳士の件は明白だったから、残るのは娘のことばかりである。警官はもっとよく見定めようと、彼女の上へかがみ込んだ。と、その顔には偽りならぬ同情が現われた。
「ああ、実に可哀想だ!」と彼は頭を振りながら言った。
「まだまるでねんねえなんだが、だまされたのだ。それは間違いなしだ。もしもし、娘さん」と巡査は女に声をかけた。「あなたのお住まいはどちらです!」
 娘は疲れて鉛色になった目を開き、問いかける人々の顔を鈍い表情でながめると、面倒くさそうに片手を振った。
「ちょっと」とラスコーリニコフは言った。「ほら(と彼はポケットを探って二十カペイカつかみ出した。ちょうど持ち合わせがあったので)。これで辻馬車つじばしゃでも雇って、家まで送っておもらいなさい。ただ住所だけわかればいいんだがなあ」
「お嬢さん、お嬢さん!」巡査は金を受け取って、また呼び始めた。「すぐ馬車を雇って、家まで送ってあげましょう。どちらです? え? どこに住まっておいでです!」
「あっちけ!……うるさいね……」と娘はつぶやき、またしても片手を振った。
「いや、はや、どうもよくないなあ! えっ、若いお嬢さんの身そらで、そんなことはずかしいじゃありませんか、なんて恥さらしだ!」と彼は自分でも恥じたり、あわれんだり、憤慨したりしながら、またもや頭を振った。「どうも困ったなあ!」と彼はラスコーリニコフの方をふり向いたが、その拍子にまた彼の風体を足の爪先つまさきから頭の上まで、じろじろと見まわした。こんなぼろを着ているくせに、自分から金を出したのが、きっと不思議だったに違いない。
「あなたは遠くから二人を見つけられたんですか?」と巡査はラスコーリニコフに尋ねた。
「僕そういってるじゃありませんか、この娘はついその並木通で、僕の前をよろよろしながら歩いてたんです。それがベンチへ着くが早いか、いきなりぶっ倒れてしまったんですよ」
「いやはやどうも、当節の世の中は、なんたる醜態が行なわれるようになったことか! これという変哲もない娘のくせに、もう酔っ払ってるんですからなあ! 誘惑されたんだ、そりゃ一目瞭然りょうぜんだ! やあ、この服の裂けてることは……ああ、なんという堕落した世の中になったものか!……生まれは良さそうだが、きっと落ちぶれた家の子だろう……近ごろはこんなのがざらにふえてきた。様子を見るときゃしゃな育ちらしい、どうやらお嬢さんだがなあ」
 彼はまた娘の上へかがみ込んだ。
 あるいは彼自身にも、この年ごろの娘があるのかもしれない――『まるでお嬢さんのようにきゃしゃな育ちらしい』、上流の見よう見まねで流行をうのみにすることの好きな娘が……
「何よりも第一に」とラスコーリニコフは一人やきもきした。「どうかしてあの悪党に渡さないことです! そりゃもうわかり切ってる、やつはまたこの娘に凌辱りょうじょくを加えるに決まってる! やつが何をたくらんでるか、ちゃんとそらで見え透いている。どうです、あの悪党、どこうともしやがらない!」
 ラスコーリニコフは声高にこういって、まともに男を手でさした。相手はそれを聞くと、また怒りかけたが思い直して、ただ軽蔑けいべつするような目を投げただけで我慢した。それから、ゆっくり十歩ばかり脇へどいてから、また立ち止まった。
「あの人に渡さないようにすることはできるです」と下士あがりは考え深そうに答えた。「ただ、どこへ届けたらいいか、それさえ言ってくれるといいんだがなあ、でないと……お嬢さん、もし、お嬢さん!」と彼はまたかがみこんだ。
 娘はふいに目をいっぱいに開いて、じっと注意深く見つめていたが、やがて何か合点したらしく、ベンチから立ち上がって、もと来た方へ帰りかけた。
「ちょっ、恥知らずめが、まだうるさくつきまとってる!」と彼女はまた片手を振ってつぶやいた。
 そして、すたすたと歩き出したが、前のようにひどくよろよろしていた。洒落者は並木通の反対側を歩きながら、娘から目を放さずあとをつけて行った。
「ご心配にゃ及びません、けっして渡しゃせんです」とひげの巡査は断固たる調子で言って、二人のあとを追いかけた。
「いやはや、なんたる堕落した世の中になったものだ!」と彼は嘆息しながら、また声に出してくり返した。
 この瞬間ラスコーリニコフは、何かにちくりと刺されたような気がした。とっさの間に、彼の気持はがらりと引っくり返ったようなあんばいだった。
「おーい、もしもし!」と彼は後ろからひげの巡査に声をかけた。こちらは振り返った。
「よしたまえ! それが君にとってなんだというんです? うっちゃっておきたまえ! 勝手に楽しませとくさ」と彼は洒落者をさして言った。「君になんの関係があるんです?」
 巡査はわけがわからず、目をいっぱいに見はりながら彼を見つめた。ラスコーリニコフは笑い出した。
「ちょっ!」巡査は片手をぐんと振ってこういうと、洒落者と娘のあとから駆け出した。多分ラスコーリニコフを気ちがいか、あるいはそれ以下のものと思ったらしい。
「おれの二十カペイカを持って行っちまやがった」一人になった時、ラスコーリニコフは毒々しくつぶやいた。「まあ、あいつからも取るがいいんだ。そして娘をあいつに渡してやるさ、それでけりだ……なんだっておれは義侠ぎきょうぶって、余計な口出しをしたのだろう! おれなどが人を助けるがらかい? おれに助ける権利があるのか? なあに、やつらはお互いに生きながら食い合うがいいのさ――それがおれにとってなんだ? それに、なんだっておれはあの二十カペイカをやってしまったんだろう、罰あたり。いったいあれがおれの金かい?」
 こうした奇怪なことばにもかかわらず、彼は苦しくてたまらなくなった。彼は取り残されたベンチに腰をおろした。頭に浮かぶ考えはとりとめがなく……それに概して、この時は何ごとにもあれ、考えるということが苦しかった。できるなら、すっかり無意識状態になりたかった。すべてを忘れてしまって、それから目をさまし、きれいさっぱり新規まき直しにしたかった……
「可哀想な娘だ!」がらんとしたベンチの片隅をながめながら、彼はつぶやくのであった。「正気に戻る、少々ばかり泣く、やがて母親が知る……初めはちょっぴりぶつだけだが、しまいにはむちで小っぴどく性根にこたえるほど恥ずかしい折檻せっかんをした上、ことによったら、家まで追い出すかもしれない。よし追い出さなくても、どうせダーリヤ・フランツォヴナ(ぜげん女)といった連中がぎつけて、やがて娘はあちらこちらと出没し出す……そのあげくはたちまち病院行きだ(こういうのは、ごく潔癖な母親の傍で暮らしながら、こそこそ悪戯いたずらをする連中にえてあるやつだ)。さてその次は……その次はまた病院だ……酒だ……酒場だ……それからもう一度病院だ……二、三年たつと――片輪、それで彼女の生涯は合計十九か、十八がやまやまだ……おれは今までにそんなのをいくたりも見た、彼らはどうしてそうなったのだろう? なに、みんなそれ、あんな風でそうなるんだ……ちぇっ! 勝手にしろだ! それは必然の事なんだそうだからな。年々それくらいのパーセンテージは、こういうのが出なければならないんだ……なんのために? 悪魔にでも食われるためなんだろう、ほかの者を浄化して、邪魔をしないためなんだろうよ。パーセンテージ! 全くうまいことばだ――それはおよそ気安めになることばで、科学的だ。パーセンテージ、こう一言いっておけば、もう心配することはない。これがもしほかのことばだったら、そりゃまあ……多少心配かもしれないが……しかし、もしかドゥーネチカが、そのパーセンテージにはいったら!……この方でなければ、別の方のパーセンテージに?」
「だが、おれはいったいどこへ行ってるんだ?」とふいに彼は考えた。「おかしいぞ。おれは何か用があって出て来たんだぞ。手紙を読んでしまうと、出かけたんだ……あ、そう、ヴァシーリエフスキイ島のラズーミヒンのところへ出かけたんだっけ。そう、今こそ……思い出した。だが、なんの用であの男んとこへ! どうして今度に限って、ラズーミヒンの所へ行こうという考えが、おれの頭に舞い込んだんだろう? これは不思議だ」
 彼はわれながら驚いた。ラズーミヒンはもと大学時代の友だちの一人だった。ここに注意すべきは、ラスコーリニコフが大学にいた時分、友だちというものをほとんど持たなかった事である。彼はすべての人を避けて、誰の所へも行かず、人を迎えるのもおっくうがった。もっともほかの連中も、じきに彼から顔をそむけてしまった。彼は一般の会合にも、仲間同士の会話や楽しみにも、いっさい関係しなかった。彼は骨身を惜しまず必死に勉強した。そのためにみんな彼を尊敬したが、誰一人好く者はなかった。彼は非常に貧乏でありながら、なんとなく傲慢ごうまんで、非社交的で、心に何か隠しているようだった。一部の友人たちには、彼が仲間一同を子供扱いにして、高い所から見おろしているように思われた。そして全体の発達も、識見も、信念も、彼らのすべてをぬきんでているかのように、彼らの信念や趣味を何か低級扱いにしているらしく感じられた。
 しかし、ラズーミヒンとはどういうわけか、うまが合った。うまが合ったというよりも、ほかの誰より遠慮がなく、打解け合っていた。もっともラズーミヒンとは、それ以外の関係を持つわけにいかなかったのである。それは珍しく快活で、さっぱりした、単純なくらい善良な青年だった。とはいうものの、この単純の下に、深みと尊敬が隠れていた。彼の親友は皆それを了解して、彼を愛していた。彼は実際時々お人よしめく事もあったが、なかなかのりこう者だった。風采ふうさいは非常に特色があった――やせて背が高く、髪が真黒で、いつも無精ひげをのばしていた。彼はときどき乱暴をやり、しかも力持で通っていた。一度などはある夜の宴会で、六尺豊かな大男の巡査を、一撃の下に打倒したことがある。酒は方図なしに飲めたが、しかしまるで飲まずにいることもできた。時には勘忍ならぬほどの悪ふざけをしたが、まるで悪ふざけをしないでいることもできた。それからもう一つラズーミヒンの特徴は、どんな失策をしてもびくともしない事と、どんなに困っても閉口しない事であった。彼はたとい屋根の上にでも住まうことができるし、地獄のような飢餓も、法外の寒さも忍ぶことができた。彼は恐ろしく貧乏だった。そして全くの独力で、何か得体のしれぬ仕事をやって金をもうけながら、自分の生活をささえていた。彼は働きさえすればくみ出すことのできる財源を、いくらでも知っていた。ある年などは、一冬じゅう自分の部屋を暖めないで、寒い方がよく眠れるからこの方がかえって気持がいいと揚言した。現在かれは余儀なく大学を去っているが、それも長い間のことでなく、また学業を続けることができるように、事態を回復すべく懸命にあせっていた。ラスコーリニコフはもう四月よつきも彼のところへ行かなかったし、ラズーミヒンの方は、彼の下宿さえ知らない始末であった。ある時、二月ばかり前に、彼らは往来で出会ったが、ラスコーリニコフはそっぽを向いて、相手に見つからないように、わざわざ反対側へ移った。ラズーミヒンの方でも気がついたけれど、親友を騒がすまいと、そのまま素通りしてしまった。


『そうだ、おれは全くついこの間もラズーミヒンのとこへ、仕事を頼みに行こうとしたっけ。教師の口か、それとも何かほかの事でも見つけてもらおうと思って……』とラスコーリニコフは考えた。
『だが今となって、あの男の力でどうしておれが助けられるというんだ! よし仮りに出稽古でげいこの口が見つかって、やつの手もとに一カペイカでもあれば、その最後の一カペイカまで分けてくれるとしよう。それで、出稽古に行く靴も買えようし、服も直せるとしよう……ふむ……ところで、その先は? わずかな端た金でいったい何ができるんだ? 今のおれに必要なのはそんなものだろうか? いや、ラズーミヒンのところなんかへ行こうとしたのは、全く滑稽こっけいのさただ』
 彼が今なんのためにラズーミヒンのもとへ出かけたかという疑問は、彼自身の感じたよりも、ずっと激しく彼を困惑させたのである。彼は不安の念を感じながら、この一見きわめて平凡な行為の中に、自分にとって凶兆となるようなある意味を探り出そうとした。
『ふん、いったいおれはラズーミヒン一人だけの力で、万事を回復しようとしたのか、いっさいの解決をラズーミヒンに求めていたのか!』と彼は驚いて自問した。
 彼は考え込んで、額をこすった。すると不思議にも、長い沈思の後に、偶然、思いがけなく、ほとんどひとりでに、一つの奇怪千万な想念が頭に浮かんだ。
『ふむ……ラズーミヒンのとこへ……』と彼はふいに、最後の断案といったような調子で、すっかり落ち着き払った調子で言った。『ラズーミヒンのとこへは行こう、それはむろんだ……しかし――今じゃない……やつのところへは……あれを済ました翌日行こう、あれが片付いてしまった時、何もかも新規まき直しになった時……』
 と、ふいにはっとわれに返った。
あれの後で!』ベンチからはね上がりながら、彼は叫んだ。『しかし、本当にあれをやるのだろうか? 実際あれができるのだろうか?』
 彼はベンチを捨てて歩き出した。ほとんど駆け出した。彼はもと来た方へ引っ返そうとしたが、家へ帰るのが急にたまらなくいやになって来た――あの片隅で、あの恐ろしい押入れみたいな小部屋の中で、もう一か月以上もあれが成熟していったのだ。彼は足の向くままに歩き出した。
 彼の神経性のおののきは熱病的な戦慄せんりつに変わった。彼は悪寒おかんをさえ感じた。この暑さに寒くなってきた。彼はある内部の必然な要求にかられて、ほとんど無意識に行き会うものごとを、さも骨が折れるといった様子で注視し始めた。それは無理に気のまぎれるものを求めるような風だったが、あまりうまくいかなかった。彼は刻々深い物思いに沈んで行った。けれどまたもや、ぎくっとしながら頭を上げて、辺りを見回すと、いま何を考えていたのか、どこを通っていたのか、それさえもたちまち忘れてしまうのであった。こんな有様で、彼はヴァシーリエフスキイ島を通り過ぎ、小ネヴァの河畔かはんへ出ると、橋を渡って群島オストロヴァへ歩みを向けた。木々の緑とさわやかな空気は初めちょっと、街のほこりや、石灰や、きゅうくつに押しつけるような大きな家並みを見慣れた疲れた目に、快く感じられた。そこにはむし暑さも、悪臭も、居酒屋もなかった。しかし、こうした目新しい、こころよい感触も、すぐ病的ないら立たしい気分に変わってしまった。時々彼は、緑の中にけばけばしく塗り立てた別荘の前に歩みを止め、囲いの中をのぞきこんだり、遠くバルコンや露台テラスの上にいる派手な身なりをした女たちや、庭をかけずり回っている子供たちに目を放った。わけても花が彼のひとみをひいて、それをもっとも長くながめた。また立派な馬車だの、騎馬の紳士や貴婦人などに出会った。彼は好奇の目をもって見送ったが、まだ視界から消えてしまわないうちに、早くもそれを忘れてしまった。一度彼は立ち止まって、有金を数えてみたら、三十カペイカばかりあった。『巡査のやつに二十カペイカ、ナスターシャに郵便代三カペイカ――してみると昨日マルメラードフの家へ四十七カペイカか、五十カペイカおいてきたわけだな』なんのためやら胸算用しながら、彼はこう考えた。けれどもさっそくそのそばから、なんのためにポケットから金を出したか、それすら忘れてしまった。安料理屋風のとある飲食店の傍を通りかかった時、ふとそれを思い出し、何か食べたい要求を感じた……料理屋へはいるとすぐ、彼はウォートカを一杯あおって、何やらつめた肉饅頭ピローグを一つ食った。そして、再び道路へ出てから、その残りを食い終わった。ずいぶん久しくウォートカを口にしなかったので、たった一杯飲んだだけで、たちまち利目ききめが見えてきた。彼の足は急に重くなって、ひどく眠気を催してきた。彼は家の方へ足を向けた。けれど、ペトローフスキイ島まで来ると、すっかりへとへとになって立ち止まり、道からおりてやぶの中へ分け入り、草の上に倒れると同時に、たちまち眠りに落ちた。
 夢というものは、病的な状態にある時には、並みはずれて浮き上がるような印象と、くっきりしたあざやかさと、なみなみならぬ現実との類似を特色とする、そういう事がたびたびあるものである。時とすると、奇怪な場面が描き出されるが、この場合、夢の状況や過程全体が、場面の内容を充実さす意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外的な詳細デテールを持っている。それは、たとい夢を見た当人がプーシキンや、ツルゲーネフほどの芸術家でも、うつつには考え出せないほどである。こうした夢、こうした病的な夢は、いつも長く記憶に残って、攪乱かくらんされ興奮した人間の組織オルガニズムに、強烈な印象を与えるものである。
 ラスコーリニコフの見たのは恐ろしい夢だった。まだ田舎の小さな町にいたころの幼年時代を夢に見たのである。彼は七つばかりで、祭の日の夕方、父とふたり郊外を散歩していた。灰色の時刻でむし暑い日、場所は彼の記憶に残っているのと全然同じものだった。いや、むしろその記憶の方が、いま夢に現われたより、はるかにぼやけていたくらいである。田舎町はたなごころをさす如く、あたりに一本のポプラもなく、あけっ放しに見透かされていた。どこか遠い空の一ばん端っこに、小さな森が黒ずんでいた。町の一番はずれの菜園から五、六歩はなれた所に、大きな酒場があった。父親と散歩しながらそばを通り過ぎるたびに、いつも彼に不快きわまる印象、というより、恐怖さえも与える酒場だった。そこにはいつも人がうようよいて、やたらにわめいたり、大声に笑ったり、ののしり合ったり、しゃがれ声で猥雑わいざつな歌をうたったり、しょっちゅう喧嘩けんかまでしていた。酒場の回りには、いつもぐでんぐでんに酔っ払った、恐ろしい顔がうろついていた……この連中に出会うと、彼はしっかりと父にしがみついて、全身をぶるぶる震わすのであった。酒場の傍の街道は村道で、いつも埃っぽかったが、その埃がいつも真っ黒なのである。道は先へ先へとうねりながら続いて、三百歩ばかりの所で、町の墓地について右へ折れていた。墓地の中央には、緑色の円屋根をいただいた石造の教会が立っていた。彼はそこへ年に二度くらい、ずっと昔に死んで一度も見た事のない祖母の法事の営まれるたびに、父母に連れられて祈祷式きとうしきに行った。そのとき両親はいつも、白い皿に聖飯を盛ったのを、ナプキンに包んで持って行ったものである。聖飯は砂糖入りで、米の中へ干しぶどうを十字形に押し込んであった。彼はこの教会と、中に安置された大部分飾りのない古い聖像と、頭をぶるぶる震わす老僧が好きだった。平たい墓石の据わっている祖母の墓のかたわらに、生後六月で死んだ弟の小さい墓があった。その弟も彼はまるっきり知らなかったので、思い出しようもなかった、けれど、弟のあった事は聞かされていたので、彼は墓地へもうでるたびに、宗教的な気持でこの墓にうやうやしく十字を切り、おじぎをして接吻せっぷんした。さて彼がいま夢に見たのはこうである――父親と墓地へ歩いて行きながら、酒場のそばへさしかかると、彼は父の手をつかんで、恐ろしげにその方を見やった。と、一種特別な光景が彼の注意をひきつけた――折から、そこにはお祭でもあるらしく、着飾った町人の女房や、百姓のかかあやその亭主連や、ありとあらゆる有象無象うぞうむぞうが集まっていたが、みな酔っ払って、歌をうたっていた。酒場の入り口階段の傍には一台の荷馬車が立っていたが、奇体な荷馬車である。それは大きな挽馬ひきうまをつけて、荷物や酒樽さかだるを運ぶ大型な荷馬車の一つである。こういう長いたてがみと太い脚を持った大きな馬が、荷物のないよりかえってある方が楽だとでもいいたげに、山のような荷物を悠々と、正しい足どりで、いささかの無理もなく引いて行くのを見ると、彼はいつも好もしい気がした。ところが、いまは不思議にも、そうした大きな荷馬車に、やせた小さな、葦毛あしげの百姓馬がつけてあった。それは――彼もよく見かけたものだが――ときにはまきや乾草などを高く積み上げた荷を引いて、特に車がぬかるみやわだちの跡へはまりでもしようものなら、一生懸命に空もがきをするようなやくざ馬の一つである。しかも百姓はこっぴどく、時には鼻面や目の上までむちでなぐりつける。彼はそれを見ると、可哀想で可哀想でたまらず、あやうく泣き出しそうになるので、いつも母親が窓のそばから引離すのであった。と、ふいにあたりがむやみに騒々しくなって、赤や青のシャツの上へ百姓外套がいとうをひっかけ、ぐでんぐでんに酔いつぶれた大きな百姓が、酒場の中からわめいたり、うたったり、バラライカを鳴らしたりしながら、どやどやと出てきた。「さあ、乗れ、みんな乗れえ!」と首の太くたくましい、にんじんのように赤い肉つきのいい顔をした、まだ若い男がこう叫んだ。「みんな連れてってやらあ、乗れえ!」けれど、すぐさま高笑いと叫び声が響き渡った。
「そんねえなやせ馬で、引いて行けると思うけえ!」
「おい、ミコールカ、わりゃぜんたい正気けえ? そんねえなやせ馬に、こうしたでっけえ車をつけてよ!」
「おい、皆の衆、この葦毛のやつあ、もうきっと二十はたちからになるぞ?」
「さあ、乗れえ、みんな連れてってやらあ!」とミコールカはまっさきに馬車へ飛び乗りながら、またもやこう叫ぶと、手綱を取って、背いっぱいに御者台の上へすっくと立った。「栗毛のやつあ、さっきマトヴェイと出かけた」と彼は馬車の中から言った。「ところがこの牝馬めすうまめときたら、ひとに業を煮やさせるきりだあ。ほんとに打殺してやりてえくれえだよ、このごくつぶしめ。さあ、乗れっていうに! うんと飛ばしてくれべえ! 飛ばして見せるだよ!」
 彼は葦毛を引っぱたくのを楽しむように、鞭を手に取った。
「乗ったらええでねえか、どうしただ!」と群衆の中で大勢の高笑いが起こった。「聞いたかい、飛ばして見せるだとよ!」
「あの馬はもう十年このかた、飛んだこたあねえだ」
「飛ばして見せるだあ!」
「構うこたあねえ、皆の衆、みんな鞭を持って、したくしなせえ!」
「そこだそこだ! 引っぱたいてやれ!」
 みんな大声に笑ったり、洒落しゃれをいったりしながら、ミコールカの馬車へ乗った。六人ばかり乗り込んだが、まだすわる余地があった。一行はふとった赤ら顔の女を一人連れこんだ。女は紅木綿の服を着て、南京玉で飾り立てた冠のように高い帽子キーチカをかぶり、足には長靴をはいて、くるみをかりかりいわせながら笑っている。まわりの群衆も同じように笑っていた。実際、このみじめな牝馬が、これだけの重荷を引いて走ろうというのだもの、どうして笑わずにいられよう! 馬車の中では二人の若者が、ミコールカに手を貸そうと、てんでに鞭を取り上げた。
「そうれ」という声が聞こえるとやせ馬は力限りぐんぐん引き出したが、飛ぶどころの段でなく、並み足で進むのさえおぼつかなく、ただ足を細かく交互に動かすばかりで、豆粒のように背中へ浴びせられる三本の鞭に、うめきながらひざをつきそうになる。馬車の中と群衆の笑い声は、前にも倍して高くなった。ミコールカは向かっ腹を立てて、ほんとうに馬が駆け出すものと信じているように、いよいよしげく勢い鋭く牝馬を打ちすえた。
「皆の衆、おれも乗せてくんろよ」一人の若者が食指動いた風に、群衆の中からそう叫んだ。
「乗るがええ! みんな乗るがええ!」とミコールカはわめく。「みんな連れてってやらあ。うんと引っぱたいてやるべえ!」
 こういいながら、ぴしぴしと打ち続けるうちに、しまいには夢中になって前後を忘れ、この上なんで打ってやったらいいか、わからないような風だった。
「お父さん、お父さん!」とラスコーリニコフは父を呼んだ。
「お父さん、あの人たちは何してんの! お父さん、可哀想な馬をぶってるよ!」
「行こう、行こう!」と父は言った。「酔っぱらい共が悪ふざけしてるんだよ。馬鹿なやつらだ。さあ行こうよ、見るのをおよし!」と父は言いながら、彼を連れて行こうとした。けれども、彼は父の手を振り払い、われを忘れて馬の方へ走り寄った。しかし、哀れな馬はもうすっかり弱り果てていた。
 馬はあえいで立ち止まり、また一しゃくりしたと思うと、あやうく倒れそうになった。
「死ぬまでうちのめせ!」とミコールカはいきり立った。「もうこうなりゃ仕方がねえ。思いきりたたきのめしてやるべえ!」
「いったいわりゃ十字架もってねえだか、この悪党め!」と群衆の中から一人の老人が叫んだ。
「こんねえな馬に、こんねえした重い荷ひかせるなんて、見たことも聞いたこともねえだよ」ともう一人が言い足した。
「いじめ殺しちまうだ!」とさらに一人がどなる。
「ぐずぐず言うでねえ! おらのもんだから、おらの好きなようにするだあ! もっと乗らねえか! みんな乗らっせえ! おらアどうしても飛ばさねえば承知なんねえ!」
 ふいにどっとくずれるような笑声が起こって、すべてをおおいつくした――牝馬は激しい続け打ちに得堪えず、力なげに後ろ足でり始めた。老人さえもたまりかねて、にたりと笑った。実際、このみじめな牝馬が、まだ生意気に蹴ろうとしているのだ!
 群衆の中からまた二人の若者が、両脇から馬を引っぱたこうと、めいめい鞭を手にして駆け寄った。二人はそれぞれ左右から走って行った。
「鼻っ面をひっぱたけ、目の上を、目んとこをくらわすだ!」とミコールカは叫んだ。
「歌をやれや、皆の衆!」と誰かが馬車の上から叫んだ。すると車の中の連中が、声をそろえてうたい出した。猥雑な歌が響き渡って、羯鼓かっこがじゃらじゃらと鳴り、はやし拍子には口笛がはいった。例の女はくるみをかみ割りながら笑っている。
 ……ラスコーリニコフは、馬の傍へ走って行った。彼は前の方へ駆け抜けて、馬が目を、目の真上を打たれるのを見た! 彼は泣いた。心臓の鼓動は高まり、涙が流れた。一人の振った鞭が彼の顔をかすめたが、それでも彼は感じない。彼は手をもみしだいて叫びながら、頭を振り振りこのできごとに対する非難の意を表しているひげの白い白髪の老人にすがりついた。一人の女房が彼の手をつかんで、連れて行こうとした。けれども彼はそれを振り放して、再び馬の方へ走り寄った。馬はもう息もたえだえになっていたが、それでももう一度足で蹴り始めた。
「ええ、こん畜生、こうしてくれる!」とミコールカは猛然としてどなった。彼は鞭を投げ捨てて腰をかがめると、馬車の底から大きな太いながえを取り出し、両手にその端を握って、力いっぱい葦毛に振り上げた。
「やっつけちまうぞ!」という叫び声がまわりに起こった。
「殺してしまうだ!」
「おらのもんだあ!」とミコールカは叫んで力まかせに轅を打ちおろした。重々しい打撃の音が響いた。
「ひっぱたけ、ひっぱたけ! 何ぼんやりしてるだ!」と群衆の中からこういう声々が響いた。
 ミコールカは二度目に轅を振り上げた。と、第二の打撃が、不運なやせ馬の背にあたった。馬はぺったり尻を落としたが、またはね上がり、車を引き出そうと最後の力をふるいながら、ぐんぐんしゃくるように四方へはねた。しかし、どちらへ向いても、六本の鞭が待ち構えている。それに轅がまた振り上げられて、三度目の打撃がおりてくる。やがて四度目五度目と規則ただしく、力まかせにくり返される。
「中々粘り強えぞ!」とまわりでわめき立てた。
「なに、もうすぐぶっ倒れちまうにちげえねえ。もうやがておしめえだよ、皆の衆!」と群衆の中から一人の弥次馬やじうまが言った。
「いっそおのでやったらどうだべ、え! 一思いに片づけちまえや」とさらに一人が叫んだ。
「ええっ、うるせえ! どけろ!」とミコールカは狂暴な調子でわめいて轅を捨て、またもや馬車の中へかがみ込むと、今度は鉄槓かなてこを引出した。「あぶねえぞ!」と叫びざま、彼は力限りに鉄槓を振りかぶって、哀れな馬に打ちおろした。当たりははずれて砕けた。馬はよろめいて、腰を落とし、また一はねしようとしたが、鉄槓が更に力いっぱい背をどやしつけたので、馬は四本の足を一度になぎ払われたように、どっと地べたへ倒れた。
「息の根を止めろ!」とミコールカは叫びながら、無我夢中で馬車から飛び下りた。同じように酔っぱらって、まっかになった幾人かの若い者も、鞭、棒、轅と、手当たりしだいのものをつかんで、息も絶え絶えの牝馬のそばへ駆け寄った。ミコールカは脇の方に位置を定め、鉄槓で馬の背中をめった打ちに打ち始めた。やせ馬は鼻面はなづらをさし伸べ、苦しげに息をついて、死んでしまった。
「とうとうやっつけやがった!」という叫びが群衆の中で聞こえた。
「だって駆け出さなかっただもん!」
「おらのもんだあ!」とミコールカは手に鉄槓を持ったまま、血走った目つきでどなった。そして、もう何も打つもののないのが残り惜しそうに、突っ立っていた。
「本当にわりゃ十字架もってねえだな!」と、もうだいぶ大勢の声々が群衆の中から叫んだ。けれど哀れな少年は、すでにわれを忘れてしまった。彼は叫び声を上げながら、群衆をかきわけて葦毛のそばへより、息の通わぬ血まみれの鼻面をかかえながら、その目や唇に接吻せっぷんした……と、不意にがばとはね起きざま、われを忘れて小さなこぶしを固め、ミコールカに飛びかかった。その瞬間、さっきから彼のあとを追っていた父親が、やっとの事でひっつかまえ、群衆の中から連れ出した。
「行こう、行こう!」と父は言った。「おうちへ帰ろうよ!」
「お父さん! なんだってあいつら……可哀想な馬を……殺しちゃったの!」と彼はしゃくり上げたが、息がつまって、ことばはせばめられた胸の中から、ただの叫びとなってほとばしり出るのであった。
「酔っぱらいが……わるふざけをしてるんだよ……坊やの知った事じゃない。行こう、行こう!」と父は言う。彼は両手で父に抱きついたが、胸が苦しくて苦しくてたまらない。息をついて、叫ぼうとすると――目が覚めた。
 彼は全身汗ぐっしょりになって、目をさました。髪は汗でじっとりれ、はあはあ息ぎれがした。彼はぞっとして身を起こした。
「いいあんばいに、夢だった!」と彼は木の下に起き直り、深く息をつぎながらひとりごちた。「だが、これはいったいどうしたんだろう! もしや熱病でも始まってるんじゃないかな――こんないやな夢を見るなんて!」
 彼は全身うち砕かれたような気がした。心の中は混沌こんとんとして暗黒だった。彼は膝の上へひじをついて、両手に頭をのせた。
「ああ」と彼は叫んだ。「いったい、いったいおれはほんとうに斧をふるって、人の脳天をたたき割るつもりなんだろうか。あれ頭蓋骨ずがいこつを粉々にするつもりなんだろうか……ねばねばする暖い血の中をすべりながら、錠前をこわして、盗みをするんだろうか? そしてぶるぶる震えながら、全身血まみれの体を隠すんだろうか……斧を持って……ああ、ほんとうにそんな事をするんだろうか!」
 彼はそうつぶやきながら、木の葉のように身を震わした。
「いったいおれはまあどうしたというんだろう!」と彼はまた身を起こしながら、深い驚愕きょうがくに襲われたもののように、ことばを続けた。「あれがおれに持ち切れないのは、ちゃんとわかっていたじゃないか。それだのに、いったいなんのためにおれは今まで、自分を苦しめていたんだろう! 現につい昨日も、昨日もあの……瀬踏みに出掛けた時、とても持ち切れないということを、はっきりと合点したんじゃないか……それだのに、おれはいま何をしてるんだ! 何を今まで疑ってたんだ! 現にきのう階段をおりながら、おれは自分にそういったじゃないか――これは卑劣な事だ、忌まわしい事だ、卑しいことだ、といったじゃないか……ただその事を正気で考えただけでも、おれは胸が悪くなり、ぞっとするのじゃないか……」
「いや、おれには持ち切れない、とても持ち切れない! たとい、よしたといこの計算になんの疑惑がないとしても――この一か月に決めたいっさいの事が、日のように明瞭めいりょうであり、算術のように正確だとしても、ああ! しょせんおれは決行できやしない! おれには持ち切れない、とうてい持ちきれない……それだのになんだって、いったいなんだって今まで……」
 彼は立ち上がって、きょろきょろとあたりを見回した。それはこんな所へ来たことを、驚いたような風でもあった。やがて彼はT橋の方へ歩き出した。その顔は青ざめ、両眼は燃え、四肢はぐったりしていた。けれど、急に呼吸が楽になったような気がした。これまであの長い間、自分を圧していた恐ろしい重荷を、もうさっぱり捨ててしまったように感じて、心は急に軽々と穏やかになった。『神さま!』と彼は祈った。『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。わたくしはこの呪わしい……妄想を振り捨ててしまいます!』
 橋を渡りながら、彼は静かに落ち着いた気持でネヴァ河をながめ、あざやかな赤い太陽の沈みゆく様をながめた。体が衰弱しているにもかかわらず、なんの疲労も感じなかった。それは心臓の中で一か月も化膿かのうしていた腫物はれものが、急につぶれたような思いだった。自由、自由! 今こそ彼はああしたまよわしから、魔法から、妖力ようりきから、悪魔の誘惑から解放されたのである。
 後になって、彼がこの時のこと――この二、三日の間に彼の身辺に起こったいっさいのことを、一刻一刻、一点一点、一画一画と、細大もらさず想起した時、ある一つの事情が、ほとんど迷信に近いくらい、彼の心を震撼しんかんするのであった。もっとも、それは実際のところ、異常なことでもなんでもないのだけれど、後になって、いつも何か運命の予定のように感じられるのであった。
 ほかでもない――彼はへとへとに疲れ切っていたので、もっとも近いまっすぐな道筋をとって帰るのが、一ばん得策だったにもかかわらず、なんのために、遠回りの乾草広場センナヤを通って帰ったのか、われながらどうしても合点が行かず、説明がつき兼ねるのであった。回り道は大したものではなかったが、しかしそれはあまりにも明瞭で、かつ、ぜんぜん不必要なことであった。むろん、彼が通った町筋を覚えないで、わが家へ帰って来ることは、これまでにも何十ぺんかあった。しかし彼は後になって、いつも自問するのであった――どうしてあんなに重大な、彼の全運命を決するような、と同時にごくごく偶発的な乾草広場センナヤ(しかも行くべき用もなかった)における遭遇が、ちょうどおりもおり彼の生涯のこういう時、こういう瞬間に、その上特に彼の気分がああした状態になっていた時に、ことさらやって来たのだろう? しかもその時の状況は、この遭遇が彼の運命に断乎だんこたる、絶対的な影響を及ぼすのに、唯一無二ともいうべき場合だったではないか? それはまるでこの遭遇が、ここでことさら待ち伏せしていたようである!
 彼が乾草広場センナヤを通りかかったのは、かれこれ九時ごろだった。テーブルや、丸盆や、屋台や、小店などで商売している商人たちは、それぞれ自分の職場をしめたり、商品をまとめて片付けたり、買手と同じように家々へ散って行ったりしている。地下室に巣くう小料理屋の付近、乾草広場センナヤの家々の悪ぐさいきたならしい裏庭、殊に酒場の近くには、ありとあらゆる職人やぼろ服の連中が、大勢うようよぞろぞろしていた。ラスコーリニコフはあてなしに町へ出る時には、どこよりも一番この界隈かいわいと、付近一帯の横町をさ迷うのが好きだった。そこで彼のぼろも、誰にじろじろ高慢ちきな目で見られることもなく、誰のおもわくもはばからず、勝手な服装なりをして歩けたからである。K横町のとっつきの片隅に、夫婦づれの町人がテーブルを二つ並べ、糸だの、ひもだの、更紗さらさ頭巾ずきんだの、そういった風の雑貨を商っていた。彼らもやはり帰りじたくをしていたが、立ち寄った知合いの女との話に手間どっていた。その女というのは、昨日ラスコーリニコフが時計を持って瀬踏みに行った、十四等官未亡人で金貸の老婆、アリョーナ・イヴァーノヴナの妹、リザヴェータ・イヴァーノヴナ、世間一般の呼び方によると、ただリザヴェータであった。彼はずっと前からこのリザヴェータの事を、何もかも知り抜いていたが、彼女の方でもうすうすは彼を知っていた。それは背の高い不格好な、臆病でおとなしい三十五の行かず後家で、姉の奴隷みたいな境遇に甘んじて、夜昼となく働きつめながら、姉の前ではちりちりして、うち打擲ちょうちゃくさえも受けている、馬鹿といっていいくらいな女だった。彼女は包みをさげて、思案顔に町人夫婦の前に立ったまま、彼らのことばをじっと聞いていた。夫婦は何やらかくべつ熱心に、彼女にすすめている様子だった。ラスコーリニコフがふと彼女の姿を見た時、この邂逅かいこうに別段なんの不思議もなかったにもかかわらず、突然ある深い驚愕に似た奇妙な感じが、彼の全幅を領したのである。
「ねえ、あんた、リザヴェータ・イヴァーノヴナ、ご自分の考えで決めた方がよろしゅうございますよ」と町人は大声で言った。「明日七時にいらっしゃいよ、あの衆もやって来るから」
「明日?」リザヴェータはまだ腹がきまらない様子で、ことばじりをひきながら、もの思わしげに答えた。
「まあ、あんたはアリョーナ・イヴァーノヴナに、すっかり脅しつけられてしまったもんですねえ!」と元気な町人の女房が早口にしゃべり出した。「あんたをつくづく見ていると、まるでちっちゃな赤ちゃんみたいですよ。あの人はあんたにとって親身じゃなくて、義理の姉さんというだけじゃありませんか? それだのにまあ、すっかりあんたを自由にしてしまってさ」
「ねえ、あんた、今度の事はアリョーナ・イヴァーノヴナに、いっさい言わない方がよろしゅうがすよ」と亭主がさえぎった。
「わっしがおすすめしますがね、家へは断わらないでおいでなさい。何しろうまい口なんだからね。姉さんだってあとになりゃわかってくれまさあ」
「じゃ行くとしようかね?」
「七時ですぜ、明日ね、あっちからもやって来ますよ。一つ自分で腹をおきめなさい」
「サモワールでも出しましょうよ」と女房は口を添えた。
「ええ、じゃ行きますわ」やはりまだ考え込みながら、リザヴェータはこう答えた。
 そして、のろのろとその場を動き出した。
 そのとき、ラスコーリニコフはもう店を通り越していたので、その先はよく聞こえなかった。彼は一語も聞き漏らすまいと努めながら、そっと目だたぬように通り過ぎた。彼の最初の驚愕はしだいしだいに、恐怖の念と変わっていった。彼はさながら背筋に冷水を浴びせられたような気がした。彼は偶然、全く思いがけなく知った――明日の晩きっかり七時に、老婆の唯一の同棲者どうせいしゃたる妹リザヴェータが家にいない、したがって、老婆は晩の正七時には必ず一人きり家に残るということを、思いもよらず聞き込んだのである。
 彼の下宿まではわずかに数歩を余すのみだった。彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋へはいった。何一つ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただ突然、自己の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意志もない、すべてがふいに最後の決定を見たのだ、という事を直感した。
 もちろん、かりにもし彼がこの計画をいだいて、幾年も好機を待っていたにもせよ、いまたまたま与えられたような、これ以上に確実な、明瞭疑いなき計画成就の第一歩を期待することは、とうていできなかったに相違ない。いずれにしても、明日これこれの時刻に、陰謀の寝刃ねたばを向けられている当の老婆が、全く一人ぼっちでいるという事を、すぐその前日この上なく確実に、いっさい危険な質問や探索なしに突き止めるのは、およそ困難なことに相違ない。


 その後ラスコーリニコフは何かの拍子で、町人夫婦がリザヴェータを招いた入り訳を知った。それはごくありふれたことで、べつだんなんの変わったこともなかった。よそから来て窮迫したある一家が、道具や、衣類や、その他すべて女持ちの品を売ることになったが、市場へ出すのは損なので、彼らは女の売り子をさがしていた。しかるに、リザヴェータはちょうどそれを仕事にしていた。彼女は手数料を取って、用を足すのであったが、いたって正直で、いつもぎりぎりの値段を言ってしまい、一たん言った値を少しも負けないので、得意をたくさん持っていた。全体に無口で、前にも言ったように、ごくおとなしい臆病おくびょうなたちであった……
 しかし、ラスコーリニコフは近ごろ迷信的になっていた。その痕跡こんせきは後々までも長く残って、ほとんど消し難いものになってしまった。この事件全体に関しても、彼はその後いつも一種の不可思議性、神秘性を感じた。そして特殊な力の作用と、さまざまな偶然の一致が存在するように感じた。ついこの冬のこと、友人の大学生ポコリョフがハリコフへ立つ時、なにかの話のついでに、万一質でも置くようなことがあったらといって、アリョーナ婆さんの住所を教えてくれた。その時は出稽古でげいこの口があったし、それにどうにかこうにか口すぎしていたので、彼は婆さんのところへ行かなかった。ところが一月半ばかり前に、その住所を思い出した。彼の手もとには質草になりそうな品が二つあった。一つは父譲りの古い銀側時計で、いま一つは妹から別れの時に記念として贈られた、何やら赤い石の三つ入った小さな金指輪である。彼は指輪を持って行くことにきめた。老婆の住まいを捜し当てた時、彼女についてはまだいっこうこれという事も知らないのに、ひと目見ただけで、どうにも抑えきれない嫌悪を感じた。彼は二枚の『おさつ』を受け取って、帰り道にある一軒のちゃちな安料理屋へ寄った。彼は茶を命じて、そこに腰をおろすと、すっかり考え込んでしまった。と、奇怪な想念が、まるで卵からかえるひなのように、彼の脳底をつっ突き回り、彼はたちまちそのとりこになってしまった。
 ほとんど彼と並んだ隣りのテーブルには、彼のまるで知らない見覚えもない一人の大学生と、若い将校が陣どっていた。彼らは玉突を終わって、茶を飲みかけたところだった。そのとき大学生が将校に向かって、十四等官未亡人の金貸しアリョーナ・イヴァーノヴナの事を話して、その住所を教えているのが、ふと耳にはいった。もうそれだけでも、ラスコーリニコフにはなんとなく不思議に思われた。今しがたそこから出て来たばかりなのに、ここでもまたその噂をしているではないか。もちろん、偶然である。けれど彼はいま現に、あるきわめて異常な印象から気持をもぎ離すことができないでいるのに、ちょうど誰かが彼の世話を焼いてでもいるようなあんばいだった。大学生は思いがけなく友人に向かって、このアリョーナ・イヴァーノヴナのことで、いろいろ詳細な情報を提供し始めた。
「あれはなかなかいい婆さんだよ」と彼は言った。「あいつんとこへ行けば、いつだって金が工面くめんできるんだ。ユダヤ人そこのけの金持でね、一度に五千ルーブリでも貸されるんだが、一ルーブリの質草だっていやだとはいわない。われわれの仲間でも、あいつの所へ出入りした人間は、どうしてたいへんな数だぜ。ただ恐ろしい鬼婆おにばばだがね……」
 それから大学生は、彼女がどんな意地悪で我儘者わがままものであるかを、こまごまと話し出した。たった一日でも期限を遅らしたが最後、品物はどんどん流してしまうし、すべて品物の値段の四分の一しか貸さず、利子は月に五分から七分取るなどという。大学生はさんざんしゃべりぬいたあげく、そのほか老婆にはリザヴェータという妹があるが、あの小さな薄ぎたない老婆が、その妹を絶えず打擲して、少なくとも五尺六寸もある大女のリザヴェータを、まるで小さな子供か何ぞのように、すっかり奴隷あつかいにしている、という話をした。
「え、これもちょっと類のない話じゃないか!」と大学生は言って、からからと笑った。
 それから、彼らはリザヴェータのことを話し出した。彼女のことは大学生も、一種とくべつ満足らしい調子で話しながら、終始あはあは笑っていた。将校の方も非常な興味をもって耳を傾け、そのリザヴェータを洗濯物の繕いによこしてもらいたいと、大学生に頼みこみなどした。ラスコーリニコフは一句も聞き漏らさなかった。そして、一時に何もかも合点した――リザヴェータは老婆にとって義理の(腹違いの)妹で、年はもう三十五だった。彼女は姉のために夜昼なく働いた。家では料理女と洗濯女の代わりをしている上、内職に裁縫もやれば、床洗いにまで雇われて、しかも稼いだものをすっかり姉に渡す。姉の許可なしにはどんな注文でも、けっして引受けるようなことがなかった。老婆はもう遺言状を作っていたが、それで見ると、家財道具や椅子類のほか、一文もリザヴェータには譲らないことになっており、リザヴェータ自身もそれを承知していた。金は全部N県のある僧院へ、死後の永代供養に寄付することに決めてあった。リザヴェータは官吏でなく、町人の娘だった。顔も体も恐ろしくふつりあいな女で、むやみに背が高く、長い曲がったような足に、いつも踏みへらした山羊皮やぎがわの靴をはいていたが、なかなか身ぎれいにしていた。しかし、大学生が驚きかつ笑うかんじんかなめな事実は、リザヴェータが年中はらんでいることであった……
「だが、君は不器量だといったじゃないか!」と将校が注意した。
「そう、色がばかに浅黒くって、仮装会の兵隊さ。しかしね、けっして不器量じゃないよ。その女は実に善良な顔と目をしているんだ。すばらしくいいといってもいいくらい。その証拠には大勢の人に好かれるんだからね。静かで、おとなしくて、すなおで人に逆らうってことがない、なんでもはいはいときくたちだね。それに、にっこり笑った時なんかすてきだよ」
「じゃ、君も御意に召してるんだな?」と将校は笑い出した。
「風がわりの味だね。いや、それより君に一つ話すことがある。僕はあのいまいましい婆あを殺して、有金すっかりふんだくっても、誓って良心に恥ずるところはないね」と大学生は熱くなって言い足した。
 将校はまたからからと笑った、ラスコーリニコフはぎくっとした。なんというこれは不思議なことか!
「そこで僕は君に一つまじめな問題を提供したいと思うんだ」と大学生はいよいよ熱くなった。「僕が言ったのはむろん冗談だ。が、いいかい――一方には無知で無意味な、何の価値もない、意地悪で病身な婆あがいる――誰にも用のない、むしろ万人に有害な、自分でもなんのために生きているかわからない、おまけに明日にもひとりで死んで行く婆あがいる。いいかい? わかるかね?」
「うん、わかるよ」熱した友だちをじっと見据えながら、将校は答えた。
「ところで、先を聞いてくれたまえ。するとまた一方には、財力の援助がないばかりに空しく挫折ざせつする、若々しい新鮮な力がある。しかも、それがいたる所ざらなんだ! 僧院へ寄付と決まった婆あの金さえあれば、百千の立派な事業や計画を成就したり、復活したりすることができるんだ。それによって数百数千の生活が、正しい道に向けられるかもしれないんだ。貧困、腐敗、破滅、堕落、花柳かりゅう病院などから幾十の家族が救われるかもしれない――それが、皆あいつの金でできるんだ。やつを殺して、やつの金を奪う、ただしそれはあとでその金を利用して、全人類への奉仕、共同の事業への奉仕に身をささげるという条件つきなのさ。どうだね、一個のささいな犯罪は、数千の善事で償えないものかね? たった一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われるんだぜ。一つの死が百の生にかわるんだ――え、これは算術からいっても明瞭めいりょうじゃないか! あの肺病やみの、愚劣で、意地悪な婆あの命が、社会一般のはかりにかけてどれだけの意味があると思う? しらみか油虫の生命となんの選ぶ所もない、いや、それだけの値うちすらもない。だって婆あの方は有害だからね。あれは他人の生命をむしばむやつだ。この間も腹だちまぎれにリザヴェータの指に食いついて、すんでのことにかみ切ってしまうところだったぜ!」
「むろん、そいつは生きてる価値がないな」と将校は言った。「しかし、そこには自然の法則というものもあるから」
「なんの、君。だって人間は自然を修正し、指向してるじゃないか。それがなかったら、偏見の中に沈没してしまわなきゃならんことになるよ。でなかったら、一人の大人物も出なかったはずだよ。人はよく『義務だ、良心だ』という――僕は何も義務や良心に対して、とやかく言おうと思わない――だが、われわれはそれをいかに解釈していると思う? 待ちたまえ、僕は君にもう一つ問題を提出する。いいかね」
「いや、君こそ待ちたまえ。僕の方から君に問題を出すから。いいかい!」
「よし!」
「君は今とうとうと熱弁をふるったが、しかしどうだね、君は自分で婆あを殺すかどうだ?」
「もちろん、否だ! 僕は正義のためになにするので……あえて僕に関係したことじゃないよ……」
「だが、僕に言わせると、君が自ら決行するのでなけりゃ、正義も何もあったもんじゃない!――さあ行って、もう一勝負やろう!」
 ラスコーリニコフは異常な興奮に襲われた。もちろんこれらはすべて、形式や題目こそ違っているけれど、彼も再三聞いたことのある、きわめてありふれた、平凡な、青年者流の議論であり、意見であった。けれど彼自身の頭にも……正に同じような思想が生まれたばかりの今この時、なぜ特にこんな話、こんな意見を聞く巡り合わせになったのだろう? また彼がたったいま老婆のところから、自分の思想の胚種はいしゅをいだいて出て来たばかりの今この時、なぜねらったように老婆の話に行きあたったのか?……彼はこの事情の一致がいつも不思議に思われた。このつまらない安料理屋の無駄話が、事件の将来の発展と共に、非常な影響を投げかけたのである。それは、実際そのところに一種の宿命、一種の啓示があったような具合である……
 ……………………………………………………………………………………………………
 乾草広場センナヤから帰ると、彼は長椅子の上に身を投げ出したまま、まる一時間くらい、身動きもせず腰かけていた。やがてそのうちに暗くなった。彼の部屋には蝋燭ろうそくがなかったけれど、あかりをつけようという考えも浮かばなかった。彼はその時何か考えていたのかどうか、その後どうしても思い出せなかった。ついに彼は先ほどと同じ熱気と悪寒を感じた。そして、長椅子の上には横になることもできるのだと気づき、うれしくてたまらなかった。間もなく重い鉛みたいな眠りが、まるで押しつぶすように襲ってきた。
 彼は常になく長い間、夢も見ないで熟睡した。翌朝十時に、彼の部屋へはいってきたナスターシャは、やっとの事で彼をゆすぶり起こした。彼女は茶とパンとを持ってきたが、茶はまたもや出がらしで、やはり彼女の自前の急須きゅうすに入れてあった。
「よくまあ寝ること!」と彼女は憤慨に堪えぬというように怒鳴った。「いつもいつも寝てばかりいてさあ!」
 彼はやっとのことで身を起こした。頭がずきずきと痛んだ。立ち上がって、小部屋の中でぐるりと一つ向きを変えると、また長椅子の上へ倒れてしまった。
「また寝るの!」とナスターシャは叫んだ。「いったいあんた病気なのかい、え?」
 彼はなんとも答えなかった。
「お茶はいらんかね?」
「あとで」彼はまた目を閉じて、壁の方へ向きながら、やっとの思いでこう言った。
 ナスターシャはしばらく彼のそばに突っ立っていた。
「ほんとうに病気かもしれないよ」彼女はこう言うと、くるりと向きを変え、出てしまった。
 彼女はまた二時に、スープを持ってはいってきた。彼は前と同じように寝ていた。茶は手つかずだった。ナスターシャはとうとうむっとして、意地ずくでゆすぶり始めた。
「なんだってぐうたら寝てるの!」忌まわしそうに彼をにらみながら彼女はどなった。
 彼は身を起こしてすわったが、一言も口をきかず、床を見つめていた。
「あんばいが悪いの、どうなの?」とナスターシャはきいたが、またなんの返事もなかった。「ちっと外へ出てみたらどう」と、しばらく黙っていたあとで、彼女は言った。「少し風にでも吹かれてくるといいに。何か食べる、え?」
「あとで」と弱々しい声で彼は言った。「もう行ってくれ!」と手を振った。
 彼女はなおしばらく立ったまま、気の毒そうに彼を見つめていたが、とうとう出て行った。
 幾分かたったとき、彼は目を上げて、長いこと茶とスープとを見つめていた。やがてパンを取り、さじを取って、食事にかかった。
 彼は食欲なしにほんの少しばかり、三さじか四さじ、機械的に食べた。頭痛は少し薄らいだ。食事を終えると、また長椅子の上に長くなったが、もう眠ることはできず、うつぶした顔を枕に突っ込んだまま、身動きもしないで横になっていた。彼の目には絶えず幻が見えた。それが皆じつに奇妙な夢だった。一番よく見たのは、どこかしらアフリカかエジプトの、オアシスめいた所にいる夢だった。隊商が休息して、ラクダがおとなしく寝そべっている。あたりには椰子やしがびっしり丸くなって茂っている。みんなは食事をしているのに、彼はそばをさらさらと流れている小川にいきなり口をつけて、絶えず水をがぶがぶ飲んでいる。なんともいえないほど涼しい。そして、すばらしいコバルト色をした冷たい水は、色さまざまな石や、金をちりばめた清らかな砂の上を走っている……ふいに、時計の打つのがはっきりと聞こえた。彼は身震いしてわれに返った。頭を持ち上げて、窓を見ながら時刻を考え合わせた。と、すっかり正気づいて、まるで誰かに引きむしられたように、いきなり長椅子からはね起きた。それから、爪先つまさき立ちで戸口へ近づき、ドアをそっとあけて、下の階段に聞き耳を立てた。彼の心臓は恐ろしいほど鼓動した。けれど階段は、誰も彼も寝てしまったように、しんとしている。彼は昨日からこんなに他愛なく眠りこけ、まだなんにもせず、なんの準備もしないでいられたのが、不思議なありうべからざる事に思われた……しかも、時計はもう六時を打ったのかもしれない……と、急に突拍子もない熱病やみのような、妙にあわただしい活動性が、眠気と自己忘却に代わって彼をひっつかんだ。もっとも、準備といっても大したことはない。彼は万事をとくと考え合わして何一つ忘れないように、ありたけの力を緊張さした。しかし、心臓はいつまでも激しく鼓動して、息をするのも苦しいほどである。まず第一にさを作って、それを外套がいとうへ縫いつけなければならなかった――が、これはわずか一分ばかりの仕事である。彼は枕の下へ手を突っ込んで、その下につめ込んである肌着類の中から、ひどくぼろぼろになった洗濯もしていない古シャツを一枚さがし出した。そのぼろから幅一寸、長さ八寸ぐらいのひもを裂きとると、その紐を二重に合わせ、分厚な木綿で作ったゆったりした夏外套(それは彼の持っているたった一枚のコートだ)を脱いで、内側の左腋下ひだりわきしたへ紐の両端を縫いつけにかかった。縫いつけながらも、彼の手はわなわなと震えたが、彼は自分で自分を抑えつけて、再び外套を着込んだ時、そとからは何も見えないようにすることができた。針と糸はすでにずっと前から用意されていたのが、紙に包んでテーブルの上にころがっていたのである。輪さの方はといえば、これはきわめて巧妙な彼自身の思いつきで、おののために工夫されたものだった。斧を手に下げて町を歩くわけにはいかないし、外套の下へ隠すとしても、やはり手で抑えなければならない。が、それは人目に立ちやすい。ところが、今はこの輪さがあるから、それへ斧の刃を差し込みさえすれば、斧は内側の腋の下に、途中ずっと安全にぶら下っているわけだ。それに、手を外套の脇かくしへ突っ込んでいれば、斧がぶらぶらしないように、柄の端を抑えることもできる。それは外套がまるで粉袋のように恐ろしくだぶだぶにできているから、何かポケットの中で抑えているとは、外側から気づかれるはずはない。この輪さも同じくもう二週間から前に考えついたものである。
 それを終わってから、彼は指を例の『トルコ式』長椅子と、床板との間の小さな隙間へ突っ込んで、ちょっと左の隅の辺を探っていたが、やがてずっと前から用意して隠しておいた質草を引出した。もっとも、それはけっして質草でもなんでもなく、ただ銀の巻煙草入かとも思われるほどの大きさと厚味を計って、滑らかに削られた板切れにすぎなかった。この板切れを彼はたまたま近所の横町のとある裏庭、何かちょっとした工場になっている離れの中で見つけたのである。その後、やはりこれもそのとき往来で見つけた、すべすべした薄い鉄板を――たぶん何かの切れっ端だろう――その板に重ねた。鉄板の方が木のより小さかったが、彼はその二つを一緒にして、糸でしっかり十文字にしばった。それから念入りにきれいな白い紙で体裁よく包んで、解くのが少々やっかいなようにゆわえた。これは老婆が結び目を解きにかかった時、しばらく彼女の注意をそらせておき、その間に隙をねらうためだった。鉄の板ぎれは、老婆がたとい最初だけでも、『品物』が木だと気づかないよう、目方をつけるために加えたのである。こうしたすべてのものは、時機の来るまで長椅子の下に隠してあったのだ。彼が質草を取り出したとたんに、裏庭のどこかで誰かの叫び声が聞こえた。
「六時はとうに回ったぜ!」
「とうに! さあ大変だ!」
 彼は戸口へ駆け寄って、聞き耳を立てると、帽子をひっつかんで、猫みたいに用心深く足音を忍び、いつもの十三段の階段をおり始めた。一ばんかんじんな仕事――台所から斧を盗み出すということが、まだ目前に控えていた。仕事は斧でなければ駄目だとは、ずっと前から決定されていたのである。彼は折り込み式になっている庭師用のナイフを持っていたが、小さなナイフや――ことに自分の力には、望みをつなぐことができなかった。で結局、斧ということにきっぱり決めてしまったのである。なおついでに、この事件で彼がとったすべての最後的決心について、ある特殊な点を指摘しておこう。彼の決心は一つの奇体な特質を持っていた。ほかでもない、計画が断固たる性質を帯びれば帯びるほど、彼の目にはますます醜悪な、ますます愚劣なものに映じるのであった。そして、限りなく悩ましい心内の闘争にもかかわらず、彼はこの間じゅうかつてただの一瞬間も、自分の計画が実現しうるものとは、信ずることができなかった。
 だから、たとえいつか何かの偶然で、すべてが最後の一点まで解剖され、最後的に決定されて、もはやなんの疑惑も残らなくなったにもせよ――その時になっても彼はその全計画を愚劣なこと、醜怪なこと、不可能なこととして、断念してしまったかもしれない。けれど未解決の点と疑惑とは、まだ山ほど残っていた。斧をどこで手に入れるか、というようなことに至っては、てんで問題にもならないような些事さじであった。これほど容易なことはなかったからである。というのは、ナスターシャがのべつ家をあけて、ことに晩には近所となりや、店屋などへ駆けだして行く、そしてドアはいつもいっぱいあけ放しなのである。おかみはそれだけがもとで、しょっちゅう彼女と言い合っていた。こういうわけで、時機が来たら、そっと台所へはいって斧を持ち出し、それから一時間もたって(もう万事おわった後に)またはいりこみ、もとへ置いとくまでのことである。しかし、ぜんぜん懸念がないでもない。もしかりに彼が一時間たって戻ってきたとき、ちょうどおりあしくナスターシャが帰ったとしたら? もちろん何げなく通り過ぎて、彼女が再び出て行くまで、待たなければならない。だが、もしその間に斧のないことに気がついて、捜しにかかったり、わめき声を立てたりしたら、それこそ嫌疑がかかってくる、少なくとも嫌疑を招くもとだ。
 しかし、それはまだ瑣末さまつなことで、彼はそのようなことなど考え始めようともしなかった。またそんな暇もなかった。彼は、もっとも主な点だけ考えていたので、瑣末な点は、自分が万事に確信を得るまで、預けて置くことにした。けれど、その確信を得るということは、絶対に実現されそうもない気がした。少なくとも彼自身にはそう思われた。たとえば彼は、いつか自分が考える方を片づけて立ち上り――平気であすこへ出掛けて行くことがあろうとは、なんとしても想像ができなかった。現に、昨日の瀬踏み(つまり、徹底的に現場を調べておくつもりで試みた訪問)すら、彼はただちょっとやってみただけで、けっして真剣ではなかった。『どれ、一つ行ってためしてみよう、空想してばかりいたって仕様がない!』といったような気持だった――ところが――すぐさま我慢し切れなくなり、自分自身に対する堪え難い忿懣ふんまんを心にいだきながら、愛想づかしのつばをぺっと吐いて、そのまま逃げ出してしまったではないか。もっとも問題の道徳的解決という意味では、いっさいの分析はもう遂げられているはずだった。彼の心是非論カズイズチック剃刀かみそりのごとくとぎすまされて、もはや自分自身の内部に意識的な駁論ばくろんを見出すことができなかった。けれど、いざという段になると、彼はただもう自分を信じることができなかった。そして、何者かが彼を強制して、その方へ引っ張っていくように、奴隷じみた卑屈な態度で、あらゆる所にしゅうねく弁駁べんぱくを求めながら、手探りで進んで行った。ところが、ああして思いがけなくやってきて、万事を即座に解決してしまった最後の日は、ほとんど機械的に彼に作用したのである。さながら何者かが彼の手をとって、いやおうなしに、盲目的に、超自然的な力で無理やりに引っ張っていくようなあんばいだった。それはまるで、着物の端を機械の車輪にはさまれて、その中へじりじり巻き込まれていくのと同じであった。
 初めのうち――といっても、もうかなり前のことだが――一つの疑問が彼の心を領していた。なぜほとんどすべての犯罪はああやすやすとかぎ出されて、真相を暴露してしまうのだろう? なぜほとんどすべての犯罪者の足跡は、ああも明瞭めいりょうに残るのだろう? 彼はしだいしだいに多趣多様な興味ある結論に到達した。彼の意見によると、もっともおもな原因は、犯罪を隠蔽いんぺいする物質的の不可能性というよりも、むしろ犯罪者自身の中に含まれているのである。つまり、犯罪者自身がほとんど一人の例外もなく、犯罪の瞬間に意志と理性の喪失ともいうべき状態に陥って、その代わりに、子供じみた異常な小心浅慮のとりことなるからである。しかも、それは理性と細心をもっとも必要とする瞬間である。彼の確信するところによると、この理性の混迷と意志の喪失は、病魔のごとく人を襲って、しだいしだいに力を増し、犯罪の遂行の直前に極度に達する。そして、そのままの状態で犯罪の瞬間まで、なお人によっては犯罪後も、しばらく継続する。けれどいっさいの病気がえると同じように、やがてその状態も過ぎてしまう。しかし、病気が犯罪を生むのか、あるいは犯罪そのものが固有の特質として、常に病気に類した何物かを伴なうのか?――という疑問にいたっては、彼もまだ解決する力がなさそうに感じた。
 かかる結論に達した彼は、次のように断定した――自分一個の仕事には、こうした病的な変化は断じて起こり得ない。理性と意志は計画遂行の間じゅう、厳然と保持されるに相違ない。それはただただ、自分の企てた事が『犯罪ではない』という理由によるものである……しかし、彼が最後の決心に到達した全道程は省略することとしよう。それでなくても、ちと先回りをし過ぎたのだから……ただ一つ付記しておくが、この仕事に付随する実際的な、純物質的な困難は、彼の頭脳の中でおおむね第二義的な役割しか勤めていなかった。『なに、これしきの困難などは、自分の意志と理性を完全に保持してさえいれば、仕事のあらゆるデテールを微に入り細を穿うがって究めていくうちに、すべての困難はおのずと征服されるのだ……』けれど仕事は着手されそうもなかった。彼は自分の最後的決心を、依然いささかも信じていなかったので、いよいよその時が来た時には、すべて何もかも具合が違って、まるで何かのはずみのような、ほとんど意想外といったような感じだった。
 ある一つのとるに足らぬ事情が、まだ階段をおり切らぬうちに、彼をはたと当惑させた。いつもの通りあけっ放しになっているおかみの台所口まで来ると、彼はそっと横目を投げて、ナスターシャはいなくとも、かみさん自身がそこにいはしまいか、たといいないにもせよ、おのを取りにはいる時に、彼女が何かの拍子でのぞくようなことはないか、彼女の居間へ通ずるドアがうまくしまっているかどうか、それをあらかじめ見さだめようとした。ところが、彼の驚きはどんなだったろう! ふと見ると、その時に限ってナスターシャは台所にいるばかりか、まだ何やら仕事をしているではないか! 彼女は洗濯物をかごから出して綱にかけているのだった。ラスコーリニコフをみると、彼女は干しものの手を止めて、後ろを振り返り、彼の通り過ぎてしまうまで、じっと見送っていた。彼はつと目をそらし、なんにも気づかないふりをして、そのまま通り過ぎた。しかし、もう万事休した――斧は手にはいらない! 彼はがんとやられたような気がした。
『いったい何からおれは割り出したんだろう?』と門の下へとおりて行きながら彼は考えた。『あの女が今きっといないなんて、何から割り出したんだろう? なぜ、なぜ、なぜおれはそうと決めてたんだろう?』彼は粉みじんにたたきつぶされ、踏みにじられたような気がした。彼は腹立ちまぎれに、自分で自分を冷笑したかった……鈍い野獣めいた憤怒ふんぬが、胸の中で煮えたぎった。
 彼は思案に暮れながら、門の下に立ち止まった。ちょっと見せかけのために、町へ散歩に出るのもいやだったし、家へ引っ返すのはなおさら忌まわしかった。『ああ、せっかくの好機を永久に逸してしまった!』門の下で、同じくあけ放しになっている暗い庭番小屋とまともに向き合って、ぼんやり突っ立ったまま、彼はこうつぶやいた。と、ふいに彼はぴくっとした。二足ばかり離れた庭番小屋の中から、床几しょうぎの右手下に当たって、何かぴかりと彼の目を射たものがある……彼はあたりを見回した――誰もいない。そっと爪立つまだちで庭番小屋へ近づき、段々を二つおりて弱い声で庭番を呼んだ。『はたして留守だ! もっとも、ドアがあけっ放しになっているところをみると、どこか屋敷内の近間にいるんだ』彼はしゃにむに斧に飛びついた(それは斧だったのである)。そして、二本のまきの間にころがっているのを、床几の下から引出すと、外へ出ないうちにすぐその場で、例の輪さに引っかけて、両手をポケットへ突っ込み、庭番小屋を出た。誰もそれには気がつかなかった! 『理性でなければ、つまり悪魔の仕業だ!』と奇妙な薄笑いを浮かべながら彼は考えた。この偶然は一方ひとかたならず彼を元気づけた。
 彼はいっさい嫌疑を招かないよう、ゆっくりもったいらしく急がずに歩いて行った。彼はあまり通行人を見なかった。というより、できるだけ目立たないように、人の顔をいっさい見ないように苦心した。と、急に帽子のことが思い出された。『やっ、しまった! 一昨日なら金があったのに、学生帽を買うことに気がつかなかったとは!』のろいのことばが思わず胸をついて出た。
 ふと小店の中を横目にのぞいてみると、そこの柱時計はもう七時十分過ぎになっている。急がねばならない。しかも同時に回り道をして、反対側から当の家へ近づかなければならない……
 以前この計画がおりふし頭に浮かんだ時には、いざとなれば非常におくしそうな気がした。ところが、いま彼はあまり恐ろしくなかった。いな、むしろまったく恐れなかった。この瞬間、かえってまるで関係のない別な想念が彼の心を領した。けれどそれも皆ほんのちょっとの間ではあった。ユスーポフ公園のそばを通りかかった時、彼はあらゆる広場広場に高い噴水を設けたら、いかばかり空気をさわやかにすることかと考えて、その着想に没頭しかけたくらいだった。それから夏の園レートニイ・サード軍神原マルソオ・ポーレにかけて拡張した上、さらにミハイロフスキイ帝室遊園地と合併したら、街のためにきわめて立派な、きわめて有益なことだろうといったような確信へ、しだいしだいに移っていった。その時ふと、すべて大きな都会では、人間がただに必要に迫られるばかりでなく、特に何かの理由によって、公園もなければ噴水もなく、汚穢おわいや、悪臭や、その他あらゆる醜悪事に満ちた部分に住んだり、巣を作ったりする傾向のあるのは、いったいどうしたことか、という問題に興味をいだきはじめた。すると、乾草広場センナヤを中心とする自分自身の散歩が思い出されて、彼はつかの間われに返った。『なんだ愚にもつかないことを』と彼は考えた。『いや、いっそまるで何も考えない方がいい!』
『きっと刑場に引かれて行くものもこんな風に、途中で出会うもののすべてに考えを吸いつけられるに相違ない』こういう想念が彼の頭にひらめいたが、それは稲妻のように、ただひらめいたばかりだった。彼は自分で急いでこの想念を打ち消した……しかし、もうそろそろ間近になった。もうあの家だ、もう門だ。どこかで時計が一つ打った。『なんだあれは、もう七時半だって! そんなはずはない、きっとあれは進んでるんだ!』
 彼にとって幸いにも、門はまた無事に済んだ。のみならず、まるであつらえたように、この瞬間大きな乾草車が、彼より先に門へ乗り込んで、彼が門下を通り抜ける間、すっかり彼を隠してくれた。で、荷車が門から庭へはいるが早いか、彼はつるりと右の方へすべり込んだ。車の向こう側では、いくたりかの声がどなったり、言い争ったりしているのが聞こえたが、誰も彼に気づいたものはなかったし、出会うものもなかった。この大きな四角形の内庭に面したたくさんの窓は、おりからあけ放しになっていたが、彼は首を上げても見なかった――その気力がなかったのである。老婆の住いへ行く階段は、門からすぐ右手にあった。彼はもう階段の口へかかっている……
 息をついで、どきどきする心臓を手で抑えると同時に、ちょっと斧にさわってみて、もう一度位置を直すと、それから用心深く、絶えず耳をそばだてながら、彼はそっと階段をのぼって行った。けれどこの時は、階段もがらんとしていて、戸という戸はみんなしまっていた。誰一人出くわすものはなかった。もっとも、二階目に一つ空いたアパートがあって、すっかりあけっぴろげにされ、中でペンキ屋が働いていたが、その連中も彼の方をふり向きもしなかった。彼はちょっと立ち止まって考えてから、また先へ進んだ。『そりゃむろん、ここにあいつらがまるでいなかったら、一層うまかったんだが、しかし……まだ上に二階あるからな』
 やがてもう四階である。早くも戸口まで来た。もう向かい合わせのアパートだ。それは空き家になっている。三階でも老婆の住まいの真下に当たるアパートは、すべての兆候から推してやはり空き家らしかった――戸口へくぎづけにされていた名刺がとれていたから――引っ越して行ったに違いない!……彼は息が詰まってきた。瞬間、『帰ってしまおうか!』という考えがひらめいた。しかし、彼はそれに答を与えないで、老婆の住まいの気配に聞き入った。死のような静けさだ。それから、彼は再び階段の下に耳をすました。長いあいだ注意深く聞き耳を立てた……やがて最後にもう一度あたりを見回して、心を引きしめ、身づくろいして、改めて輪さにかけた斧を手でさわってみた。『青い顔をしてやしないか……ひどく?』[#「ひどく?』」は底本では「ひどく?」」]と彼は考えた。『あまり興奮してやしないかな? あいつはうたぐり深いから……もう少し待つ方がよくないかしらん……動悸どうきの止まるまで?……』
 しかし、動悸は中々やまなかった。それどころか、まるでわざとのように、さらに激しく、もっと激しく、いよいよ激しく打った……彼は我慢し切れなくなり、そろそろと呼鈴へ手を伸ばして、がらがらと鳴らした。三十秒ばかりたってまた鳴らした。今度は少し強く。
 返事はなかった。むやみに鳴らしても仕方がないし、彼には似合わしくないことだ。老婆はむろんうちにいたのだが、彼女は疑り深い上に、今は一人きりだ。彼も多少は彼女の習慣を知っていた……で、もう一度ぴったり耳をドアに押しあてた。彼の感覚が鋭くとぎすまされていたのか(そういうことは概して想像が困難だけれど)、あるいは実際によく聞こえたのか、とにかく彼は錠前のハンドルに用心深く触れる手のかさかさいう音と、ドアに当たるきぬずれの響きらしいものを聞き分けた。何者か錠前のすぐ傍に立って、彼がこちらでしているように、中からも同様、いきを潜めながら、様子をうかがっていたに相違ない。そして、やはりドアに耳を当てているらしい……
 彼はわざと身じろぎして、隠れているなどとはにも見せないように、何やら大きな声でひとり言を言った。やがて彼は三度目に呼鈴を鳴らしたが、静かに重みをもたせて、かりにもじれったそうな様子など見せなかった。後日このことを思い出すたびに、この瞬間がくっきりとあざやかに、永久にかれの心中に刻みつけられていた。あの、思考力が時々瞬間的に曇って、自分の肉体さえ感じられなかったような場合に、そもそもどこからあれだけの狡智こうちを得てきたのか、彼はわれながら合点がいかなかった……とすぐに、戸締まりの栓を抜く音が聞こえた。


 ドアはいつかのように、ほんの糸すじほど開かれて、またしても鋭いうさん臭そうな二つの目が闇の中からじっと彼にそそがれた。その時ラスコーリニコフはまごついて、危く重大なあやまちをしでかそうとした。
 ラスコーリニコフは、自分たち二人きりなのに老婆がぎょっとするだろうと危ぶみもしたし、また自分の見かけが彼女を安心させるという自信も持てなかったので、老婆が二度としめ切る気にならないように、ドアに手をかけてぐいと手前へ引いた。老婆はそれを見て、ドアを引戻そうとはしなかったが、錠前のハンドルを放さなかったので、彼はほとんどドアと一緒に老婆まで、階段口へ引出しそうになった。それでも老婆が戸口に立ちはだかって、彼を通すまいとするのを見て、彼は老婆へのしかかるように、ぐんぐん進んで行った。彼女はおびえて飛びのきながら、何か言いたそうにしたが、どうしてか声が出ず、目をいっぱいに開いて彼を見つめた。
「今晩は、アリョーナ・イヴァーノヴナ」と彼はできるだけ砕けた調子で口を切ったが、声はいうことをきかないで、とぎれたり、震えたりした。「僕はお宅へ……品物を持ってきたんですが……どうです、あっちへ行きませんか……明るい方へ……」
 こう言って、老婆をおき去りにしながら、案内も待たずに、つかつかと部屋の中へ通った。老婆はそのあとから駆け出した。彼女の舌はやっとほぐれた。
「まあ! いったいあなた何ご用?……ぜんたいどなたですか? ご用はどういうことなんで?」
「冗談じゃありませんよ、アリョーナ・イヴァーノヴナ……もうご存じの人間ですよ……ラスコーリニコフ……ほら、いつかお約束した質を持ってきたんですよ……」と、彼は老婆の前へ質草を差し出した。
 老婆はちらと質草を見やったが、すぐまたこの招かれざる客のひとみをひたと見据えた。彼女は注意深い、毒々しげな、うさん臭そうな目つきでながめた。一分ばかり過ぎた。彼女はもう万事を見とおしてしまったように、何かしら嘲笑ちょうしょうめいたものがその目の中に浮かんだような気持さえした。彼は自分が途方に暮れかかっているのを感じ、恐ろしくなってきた。もしこんな風に、彼女がいま三十秒も口をきかないで、じっと見つめていたら、彼はおそらく自分の方から逃げ出したろうと思われるほど、恐ろしくなったのである。
「なんだってそんなに見るんです、まるで僕に見覚えないように?」と彼も同じく毒々しい調子で、急にこう言い出した。
「よかったらとってください。もしいけなけりゃ――ほかへ持って行きます、急ぐんだから」
 こんなことを言おうなどとは、考えてもいなかったのに、ふいとひとりでに口から出てきたのである。
 老婆はわれに返った。客のはっきりした調子が、どうやら彼女を安心させたらしい。
「なんですよ、お前さん、あんまり不意なもんだから……いったいなんですね?」と質草を見ながら、彼女は尋ねた。
「銀の巻煙草入れですよ。この前話しておいたじゃありませんか」
 彼女は手を差し伸べた。
「まあ、お前さんなんだかしらないが、たいそう顔色の悪いこと? そら、手もそんなに震えて、何かおびえでもしなさったの?」
「熱があるんですよ」と彼は引っちぎったように答えた。「いやでも青くなりまさあ……食うものもなしでいりゃあね」彼はやっと一語一語を発音しながら、こう言い足した。気力がまたしても彼を見捨てそうになってきた。けれど、この答はまことしやかに思われた。老婆は質草を取り上げた。
「いったいなんですね?」もう一度じろりとラスコーリニコフを見回して、手で質草の目方めかたをひきながら彼女は尋ねた。
「ちょっとしたもの……巻煙草入れですよ……銀の……まあ見てください」
「だって、どうやら銀らしくないがね……まあ、恐ろしく縛ったもんだねえ」
 ひもを解こうと努めながら、彼女は明りのさす窓の方へふり向いた(この蒸し暑いのに、窓が皆しめ切ってあった)。彼女は幾分間か、全く彼を打っちゃらかして、くるりとうしろ向きになった。彼は外套がいとうのボタンをはずし、おのを輪さからはずしたが、まだすっかりは取り出さないで、服の下から右手で抑えていた。が、その手は恐ろしく力抜けがして、一瞬ごとにしびれていき、こわばっていくのが自分にもわかった! 彼は斧を取りはずして、落としはしないかと恐ろしかった……と、ふいに頭がぐらぐらっとしたような気がした。
「まあ、なんだってこんなにからみつけたもんだろう!」と、老婆はいまいましそうに言い、彼の方へちょっと身を動かした。
 もう一瞬も猶予していられなかった。彼は斧をすっかり引出すと、はっきりした意識もなく、両手で振り上げた。そして、ほとんど力を入れず機械的に、老婆の頭上へ斧のみねを打ちおろした。その時力というものがまるで無いようだったが、一たび斧を打ちおろすやいなや、たちまち彼の身内に力が生まれてきた。
 老婆はいつものように素頭だった。白髪しらがまじりのまばらな薄色の髪は、例の癖で油をこてこてにつけて、ねずみのしっぽみたいに編み、角櫛つのぐしのかけらで止めてあるのが、うしろ頭に突っ立っていた。斧はちょうど脳天に当たった。それは彼女が小背だからであった。彼女はきゃっと叫んだが、ごく弱々しい声だった。そして、両手を頭へ上げるには上げたものの、ふいに床の上へぐたぐたとくずおれた。片手にはまだ質草を持ったままである。その時彼は力まかせに、もう一、二度みねの方ばかりで、やはり脳天を打続けた。血はコップをぶちまけたようにほとばしり出た。そして、体は仰向けに倒れた。彼は一歩身を引いて、倒れさせた後、すぐ老婆の顔の上へかがみ込んだ。彼女はもう死んでいた。目は今にも飛び出しそうにむき出され、額と顔全体はしわだらけになって、けいれんのためにひん曲がっている。
 彼は斧を死体の傍のゆかに置き、流れる血で汚れないように気をつけながら、いきなり彼女のポケットに手を突っ込んだ――彼女がこの前、かぎを取り出した右ポケットである。彼の理性は今は完全に働いて、もはや混迷もめまいも感じなかった。が、手はやはり震え続けていた。後になって思い出したが、この時彼はきわめて注意深く細心になってい、絶えず身を汚すまいと苦心していた。……鍵はすぐ取り出した。全部あの時のようにはがねの輪に通して、一まとめになっていた。彼はそれを持って、すぐ寝室へ駆け込んだ。それはいたって小さな部屋で、聖像を安置した大きな厨子ずしがあり、反対の壁ぎわには、絹の小ぎれをはぎ合わせて作った綿入れ蒲団ふとんのかかっている、大形なさっぱりした寝台が据えてある。いま一方の壁ぎわには箪笥たんすがあった。不思議なことには、鍵を箪笥に合せようとして、そのじゃらじゃらという音を聞くが早いか、けいれんが彼の身内を走るような思いがした。彼はふいにまたもや何もかもうっちゃって、そのまま逃げ出したくなった。しかし、それはほんの一瞬間だった。逃げ出すにはもう遅かった。で、突然さらに一つの不安な想念が彼の頭を襲った時など、彼は自分で自分をあざけるように、にたりと笑いさえもした。ほかでもない、ことによったら、まだ老婆が生きていて、再び正気づくかもしれないという気が、ふいとしたのである。彼は鍵と箪笥をうっちゃって、死骸しがいの方へ駆け戻ると、斧を引っつかんで、もう一度老婆の上に振りかざしたが、打ちおろしはしなかった。死んでいるのは疑う余地がなかった。ちかぢかとかがみこんで、なおもしさいに老婆をあらためて見ると、頭蓋骨ずがいこつが粉砕されて、おまけに少し脇の方へずっているのが、明瞭めいりょうに見わけられた。彼は指で触れてみようとしたが、大急ぎで手を引っ込めた。そんな事をしなくとも、一見明瞭だった。その間に血は大きな水溜みずたまりのようになっている。ふと彼は老婆の首に紐がかかっているのに気づき、ぐっと引っぱってみたが、堅くてなかなかちぎれない。それに、血でべとべとになっていた。で、そのまま懐から引出そうとしてみたが、何か邪魔をして引っかかる。彼はじれったくなって再び斧を振り上げ、死骸の肌を台に紐をたたき切ろうとしたが、そうする勇気もなく、二分間ばかりごそごそした後、斧を死骸に触れないのに、手と斧とを血だらけにしたあげく、紐を切り放してはずした。はたして彼の想像は誤らなかった――財布だ。紐には木製と銅製の十字架が二つと、ほかにエナメル製の聖像がついていた。そして、それらのものと一緒に、鋼の縁と小さなのついているキッド皮の、脂じみた小さな財布が下げてあった。財布はぎっしりつまっていた。ラスコーリニコフは調べもしないで、それをポケットにねじこみ、十字架を老婆の胸へ投げつけると、今度は斧を引っつかんで、寝台へ駆け戻った。
 彼はやたらにせかせかして、鍵をつかむといきなり、またもやいじくり回しにかかったが、なぜかどうもうまくいかない――鍵が錠前の穴にはまらなかった。手がそれほどひどく震えるわけでもないのに、のべつ間違えてばかりいた――たとえば、合い鍵でなくて、違っているのを見ながら、やはりそれを押し込んでいるという風である。そのうちにふと気がついて考え合せた――ほかの小さい鍵に交ってぶらぶらしている、ぎざぎざのついた大きな鍵は確かに箪笥のではなく(これは前の時にも彼の頭に浮かんだことなのだ)、きっと長持類の鍵に相違ない。そして、その長持の中にこそ、すべてなんでもはいっているらしく想像される。彼は箪笥を捨てて、すぐ寝台の下へはい込んだ。年寄りというものは、長持類をたいてい寝台の下へ入れて置くのを知っていたからだ。はたせるかな、そこには長さ一アルシン(約七十センチメートル)以上もあって、そりぶたがつき、キッドの赤革を張って、鋼鉄のびょうを一面に打ってある、かなり立派なトランクが置いてあった。ぎざぎざのある鍵はぴったり合って、すぐ開いた。上の方には白いシーツの下に、赤い表のついた兎の毛皮外套がはいっていた。その下には絹の着物、そのまた下にはショール、それから底の方はごみごみした衣類ばかりらしかった。彼はまず一番に、自分の血まみれの手を、外套の赤い表でふこうとしかけた。「赤と……うん、赤の上なら血も目立つまい」と彼は考えたが、急にわれに返った。『――ああ、おれは気でも違うんじゃないか?』彼は思わずぎょっとしてそう考えた。
 けれど、彼がごみごみした切れ類をほんのちょっと動かすと、ふいに毛皮の外套の下から、金時計がすべり出た。彼はいきなり中を引っくり返しにかかった。案の定、切れ類の間にはきんの品が入れこになっていた――多分みな質物の流れに出たのや、まだ期間前のものだろう――腕輪、鎖、耳輪、ピンなどが、あるものはサックに入れて、あるものはただ新聞紙に包まれていたが、しかし几帳面きちょうめんに綿密にしてあって、紙は二重になっており、くるくる紐がかけてあった。彼は一刻も猶予せず、包み紙やサックをあけてもみないで、それをズボンと外套のポケットへつめ込み始めた。が、そうたくさん取り込む暇はなかった……
 ふいに老婆の倒れている部屋で、人の歩く音が聞こえた。彼は手を止めて、死人のように息をひそめた。しかし、あたりはひっそりとした。してみると、空耳だったのだ。ふいにかすかな叫び声、というよりも、誰かが低く引きちぎったようにうなって、すぐ黙ったらしいのが、まざまざと聞こえた。それからまた、死のような静寂が一、二分続いた。彼はトランクの傍にうずくまり、ほとんど息もしないで待っていたが、急におどり上がって斧をつかむと、寝室から走り出た。
 部屋のまんなかには、大きな包みを手にしたリザヴェータが棒立ちになって、全身麻痺まひしたように、殺された姉をながめていたが、布をあざむくばかり真っ白になり、叫ぶ力もないらしかった。走り出た彼の姿を見ると、彼女は木の葉のように小刻みに震え始め、痙攣けいれんが顔一面に走った。彼女は片手を少し上げて、口を開こうとしたが、それでもやはり声は出なかった。ひたと真正面まともに彼を見ながら、のろのろとあとずさりに隅の方へさがり出したが、叫ぼうにも空気が足りないように、声は少しも立てなかった。彼は斧を振るっておどりかかった――彼女の唇はさも情なさそうにゆがんだ。あたかもごく小さな子供がものにおびえかかった時、恐ろしいものをじっと見つめながら、今にも泣き出しそうにするのと、同じような具合だった。その上、この不幸なリザヴェータはあまりにもお人好しで、すっかりいじめつけられて、いじけ切った女なので、手を上げて顔を防ごうともしなかった。しかも、斧は彼女の頭上へ振り上げられたのだから、そうすることはこの瞬間もっとも必要、かつ自然な動作だったのである。彼女はただあいている右手を、ほんの心持差し上げたが、それも顔よりずっと下の方であった。そして凶漢を押しのけようとでもする格好で、のろのろとその手を彼の方へ突き出した。斧の刃はちょうど頭蓋骨へまっすぐに突っ立って、立ちどころに額の上部を完全に、ほとんどこめかみまで打割った。彼女はそのままどうと倒れた。ラスコーリニコフはすっかりまごついてしまって、彼女の包みを引っつかんだが、またそれをほうり出して入口の控室へ駆け出した。
 恐怖は刻々に強く彼をつかんだ。わけても、この全く思いも設けなかった二回目の凶行の後は、もう堪え難いまでになった。少しも早くここから逃げ出したかった。もし彼がこの瞬間、より正確に見、かつ判断することができたら――目下の状態の困難と、絶望と、醜悪さと、愚劣さを思い合わすことができたら――ここをのがれ出てから家へ着くまでには、まだこの上さまざまな困難に打ち勝ち、場合によっては、悪事さえ遂行せねばならぬということを想像できたら、彼は何もかもうっちゃらかして、すぐさま自首に出かけたに違いない。それも自分を案ずる恐れのためではなく、ただおのれの行為に対する恐怖と嫌悪のためばかりである。わけても嫌悪の念がこみ上げてきて、彼の心中に一刻一刻成長するのであった。今はもはやどんなことがあっても、トランクの傍はおろか、奥の部屋へすら引っ返せそうもなかった。
 けれど、一種の放心状態というか、物思いというか、そうしたものが、しだいに彼を領していった。ともすれば彼は我を忘れて、というよりはかんじんなことを忘れて、瑣末さまつなことにかかずらうのであった。しかし、ふと台所をのぞいて、半分水のはいったバケツを床几しょうぎの上に見つけたとき、彼は手と斧を洗うことに気がついた。彼の手は血みどろになり、ねばねばしていた。彼は斧の刃の方をいきなり水へ突っ込んで、小窓の上にのっている欠け皿から、石鹸せっけんのかけらをつかみ出して、じかにバケツの中で手を洗い始めた。手を洗い終わってから、彼は斧を引出し、まず鉄の部分を洗い終わると、長いことものの三分間もかかって、石鹸で血痕けっこんの有無さえ試みながら、血のこびりついた柄を洗いにかかった。それから、台所いっぱいに張り渡した縄に干してある洗濯物で、きれいにふき取った上、長い間窓ぎわで注意深く斧を調べてみた。もう血のあとは残っていなかった。ただ柄がまだ湿っているばかりだ。彼は綿密に斧を外套の裏の輪さにさした。それから、薄暗い台所の光の許す限り、外套や、ズボンや、靴を調べてみた。ちょっと外から見たくらいでは、どうやら何もなさそうである。ただ靴にしみがついていた。彼はぼろを湿して、靴をふいた。しかし、彼は自分でよく見分けがつかないのを知っていたので、こちらでは気づかないけれど、人の目にはすぐはいるようなものがあるかもしれない、と考えた。彼はもの思いに沈みながら、部屋のまんなかに突っ立った。悩ましく暗澹あんたんたる想念が彼の心中にわき上がった――自分は気が狂いかけているので、この瞬間ものを判別することも、自分を守ることもできず、もしかすると、今自分のしている事は、まるで見当ちがいかもしれない……『やっ大変だ! 逃げなきゃならないのだ、逃げなきゃ!』と彼はつぶやいて、控室へ飛び出した。が、そこではまた、かつて経験したことのないような恐怖が、彼を待ち受けていた。
 彼は棒立ちになって、じっと見つめたが、われとわが目を信ずることができなかった。ドア――入り口の間から階段へ通ずる外側のドア――先ほど彼がベルを鳴らしてはいったそのドアが、開いたままになっていて、手がゆっくりはいるほどの隙間をつくっていた。錠もおろさず、栓もささずに、ずうっと、あの間ずうっと開いていたのだ! 老婆はもしかしたら、用心のためにかぎをかけなかったかもしれないが、しかしなんということだ! 彼はそのあとでリザヴェータを見たではないか! それをどうして、彼女がどこからはいってきたかということに気づかずにいられたのだろう! まさか壁をもぐってはいったとも思わなかったろうに!
 彼は戸口に駆け寄って、栓をさした。
『いや。そうじゃない、また見当違いをやってる! 逃げなくちゃならんのだ、逃げなくちゃ……』
 彼は栓をはずして、ドアをあけ、階段の様子をうかがい始めた。
 彼は長い間耳をすましていた。どこか遠くずっと下の方で、たぶん門の下あたりだろう、誰か二人の声が高いきいきいした調子で、わめいたり、言い争ったり、ののしったりしている。『何をやつらは言ってるんだろう……』彼は辛抱づよく待っていた。とうとう、まるでずばりと断ち切ったように、何もかも一時に静まった。二人は別れてしまったのだ。彼はいよいよ出かけようと思った。と、ふいに一階下あたりで、階段へ向かったドアが騒々しくあいて、誰やら何かの節を鼻歌風に歌いながら、下の方へおりて行き始めた。『なんだってこんなにのべつ騒いでやがるんだろう!』こういう考えがちらと彼の頭をかすめた。彼はまたもや後手うしろでにドアをしめて、じっと待っていた。ついにすべては静まり返り、人の気配もしなくなった。で、彼がもう階段へ一歩踏み出そうとしたとたん、またもやふいに新しく誰かの足音が聞こえた。
 この足音はよほど遠く、まだ階段のとっつきあたりに聞こえたけれど、彼はすぐにその時どうしたわけか、最初の響きを聞くと同時に、これは確かにここへ――四階の老婆の住まいへ来るに相違ない、という疑いをいだいた。彼はその後もこのことを非常にはっきりと、よく覚えていた。それはなぜだろう? 何かそれほど特殊な、意味ありげな足音ででもあったのか? それは重々しく、規則ただしい、ゆったりとした足音だった。ああ、もうは一階を通り過ぎた、ああ、また上ってくる。しだいしだいにはっきりしてくる! 上ってくる男の重々しい息ぎれの声が聞こえ出した。やがていよいよ三階へかかった……ここへ来るのだ! すると、彼はにわかに化石でもしたような思いであった。さながら夢で人が自分を殺そうと追っかけてくるのに、こちらは根が生えたようになって、手を動かすこともできない、そういったような感じだ。
 いよいよ客がもう四階へ上り始めた時、その時初めて、彼はふいにぶるぶるっと全身を震わし、つるりとすばしっこく控室の部屋へすべりこみ、やっと後手うしろでにドアをしめることができた。それから栓をつかんで、そっと音のしないように、※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)ほぞへ差し込んだ。本能が手伝ったのだ。これだけすっかり済ますと、彼は息を殺して、ドアのすぐ傍に身をひそめた。知らない男もやはりすでに戸口に立っていた。彼らはいま互いに相対して立っているのだった。ちょうど先ほど、彼が老婆とドアを隔てて向き合いながら、耳を澄ましていたのと同じように。
 客は幾度か大きな息をふっとついた。『きっとふとった大きなやつに相違ない』手に斧を握りしめながら、ラスコーリニコフは考えた。実際、いっさいがまるで夢のようだった。客は呼鈴のひもをつかんで、激しく引鳴らした。
 呼鈴のブリキめいた音ががらがらと響くやいなや、彼はふいに、部屋の中で誰かが身じろぎしたような気がした。幾秒かの間、彼は真剣に耳を澄ました。誰とも知れぬ男はもう一度呼鈴を鳴らして、しばらく待ってみたが、急に我慢しきれなくなったらしく、力まかせにドアのハンドルを引っ張り始めた。ラスコーリニコフは慄然りつぜんとして、※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)の中でおどり回る栓のかぎを見つめながら、今にも栓がはずれるかと、鈍い恐怖をいだいて待っていた。事実、それはありうべきことに思われた――それほど引っ張り方が激しかったのである。彼は手で栓を抑えようかと思ったが、それでは男に悟られる恐れがあった。彼は途方に暮れた。また目が回りそうになった。『今にもぶっ倒れるぞ!』こんな考えがひらめいた。けれど、誰とも知れぬ男がしゃべり出したので、彼はたちまちわれに返った。
「いったいどうしたってんだ、やつらぐうたら寝てやがるのか、それとも誰かに絞め殺されでもしたのか? こーんちきしょう!」と彼はたるの中から出るような声でどなりだした。「おおい、アリョーナ・イヴァーノヴナ、鬼婆おにばばあ! リザヴェータ・イヴァーノヴナ、絶世の美人! あけてくれたまえ! ええ、いまいましい、やつら寝てやがるのかな?」
 それからまたもやかんしゃくまぎれに、たてつづけに十ぺんばかり、力いっぱいに呼鈴をしゃくった。もちろん男は、この家で勢力のあるじっこんな人間に相違ない。
 ちょうどこの時、ふいに小刻みなせかせかした足音が、ほど近い階段の上に聞こえた。また誰かがやって来る。ラスコーリニコフは初めのうち、その音に気もつかないでいた。
「いったい誰もいないんですか?」と近寄ってきた男は、やはり呼鈴を鳴らし続けている先客に向かって、いきなり声高に快活な調子で話しかけた。「今日は、コッホ君」
『声でみたところ、きっと若い男に違いない』とふいにラスコーリニコフは考えた。
「いや、何がなんだかわけがわからん。危く錠前をぶち壊さないばかりさ」とコッホは答えた。「ところで、君はどうして僕をご存じです?」
「これはどうも! 一昨日ハムブリヌースで球を突いて、続けざまに三度もあなたを負かしたじゃありませんか!」
「ああ、なある……」
「で、二人とも留守なんですか? 変ですね。だが、実に馬鹿げた話ですね。あの婆さんどこに行く所があるんでしょう! ぼく用があるんだけど」
「いや、僕だって、君、用があるんですよ!」
「だが、どうしたもんでしょう? つまり、引っ返すんですかな? ええっ! 僕は金を手に入れるつもりできたのに!」と若い男は叫んだ。
「むろん引っ返さなくちゃ。だが、なんだって時間まで決めておくんだ! 鬼婆め、自分で時間を決めやがったんですよ。僕にゃ回り道になるんですぜ。いったいあいつどこをほっつき回る所があるんだろう、合点がいかない。鬼婆め、年じゅううちにすわったきり、足が痛むとかってくすぶってやがるくせに、今ごろ急に遊びに出るなんて!」
「庭番にきいたらどうですかね?」
「何を?」
「どこへ行ったか、そしていつ帰ってくるか?」
「ふむ……いまいましい、きいてみるかな……だが、あの婆さんけっして出かけることなんかないんだがなあ……」と彼はもう一度ドアのハンドルを引っ張った。「ちくしょう、仕方がない、行ってみよう!」
「ちょっと待ってください!」と若い方が急に叫んだ。「ごらんなさい。引っ張るとドアが動くじゃありませんか?」
「で?」
「つまり、ドアには鍵がかかっているのじゃなくて、栓が、かけ金が掛かってるだけなんですよ! 聞いてごらんなさい、栓がことこといってるでしょう?」
「で?」
「いったいどうしておわかりにならないんです? つまり、二人のうち誰かが家にいるんですよ。もしみんな出て行ったのなら、外から鍵をかけるべきで、中から栓をさすわけがないじゃありませんか。ところがね――聞いてごらんなさい、栓がことこといってるでしょう? 中から栓をさすにゃ、家にいなくちゃならんはずじゃありませんか、そうでしょう? してみると、家にいるくせにして、あけやがらないんだ!」
「やっ、なるほど! その通りだ!」と驚いてコッホは言った。「じゃ、あいつら内部なかで何してやがるんだ!」
 こう言って、彼は猛然とドアを引っ張り始めた。
「お待ちなさい!」とまた若い方が叫んだ。「引っ張るのをおよしなさい! これには何か変な事があるんですよ……だって、あなたが呼鈴を鳴らしたり、引っ張ったりなさるのに、あけようとしないんでしょう。してみると、二人とも気絶でもしてるか、でなければ……」
「なんですって?」
「ね、こうしましょう! 庭番を呼んで来ようじゃありませんか。あいつに二人を起こさせましょう」
「名案だ!」
 二人はおりて行きかけた。
「待ってください! あなたはここに残っててくれませんか。僕はひとっ走り庭番を呼んで来ますから」
「なぜ残るんです?」
「だって、何が起こるかしれませんものね……」
「それもそうだな……」
「実はね、ぼく予審判事になる準備中なんですよ! これは確かに、たあしかに何か変なことがあるんです!」と若い方は熱くなって叫びながら、駆足で階段をおりて行った。
 コッホはあとに残って、もう一度そっと呼鈴を動かしてみた。すると呼鈴は一つがらんと鳴った。それから、頭をひねったり検査したりするような具合に、そっとドアのハンドルを動かし始めた。ドアが栓だけでしまっているのかどうか、もう一度確かめるためらしく、引いたり放したりするのであった。やがて、ふうふう息をはずませながら、かがみ込んで、鍵穴かぎあなをのぞきにかかった。けれど、それには内側から鍵が差し込んであったので、何も見えなかったはずである。
 ラスコーリニコフはじっと立ったまま、おのを握りしめていた。彼はまるで熱に浮かされているようだった。もし彼らがはいって来たら、二人と戦おうとさえも覚悟したほどである。二人がドアをたたいたり、申し合せしたりしていた時など、彼は一時にすべてを解決するため、戸の中から彼らをどなりつけてやろうかという考えが、ふいに幾度となく頭に浮かんだほどである。ともすると、二人がドアをあけてしまうまで、彼らとののしり合ったり、からかってやったりしたくてたまらなかった。『もう早くなんとかなっちまえ!』こんな感じが彼の頭にひらめいた。
「それにしても、あの野郎いまいましいやつだ……」
 時は過ぎていった、一分、二分――誰も来なかった。コッホはもぞもぞし始めた。
「ちょっ、ばかばかしい!……」ふいに彼はこう叫ぶと、我慢しきれないで張り番をうっちゃらかし、急がしげに、階段を長靴でことこと鳴らしながら、同じようにおりて行った。やがて足音は聞こえなくなった。
『ああ、どうしたもんだろう!』
 ラスコーリニコフは栓を抜いて、ドアを細目にあけた――何も聞こえない。とふいに、もう全くなんにも考えないで外へ出ると、できるだけぴったり戸をしめて、下へおりて行った。
 彼がもう階段を三つおりた時、ふいに下の方で騒々しい物音が聞こえた――どこへ身を隠そう! どこにも隠れる場所はない。彼はまた老婆の住まいへ駆け戻ろうとした。
「やい、こんちくしょう、生意気な! 待ちやがれ!」
 この叫び声とともに、誰やらどこか下の方の部屋から飛び出して、駆けおりるというよりも、階段をころげるようにおりて行きながら、のどいっぱいにわめくのであった。
「ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ふざけると承知しねえぞ!」
 やがて叫びは高い金切り声になってしまい、最後の響きはもう外で聞こえた。あたりはしんと静まりかえった。けれどその瞬間に、いくたりかの人が大声にがやがや話しながら、騒々しく階段を上って来た。三人か四人らしかった。彼は例の若い男のよく響く声を聞き分けた。『あの連中だ!』と彼は思った。
 もうすっかりやけになって、彼はまっすぐに彼らの方へ向かって進んだ――どうにでもなるようになれ! 呼び止められたら万事休すだ。うまく通り過ぎたところで、やはり万事休すだ。顔を見覚えられる。すでに彼らはもう両方から近づいていた。彼らの間には、もう階段一つ余すばかりだった――と、思いがけない救いが現われた! 幾段かへだてて右の方に、あけ放しになった空のアパートがあった。例のペンキ屋が仕事をしていた二階の住まいで、今しもあつらえたように、みんな出て行ったのである。たった今、わめきながら駆けおりて行ったのは、きっと彼らにちがいない。床板はちょうど塗り上がったばかりのところで、部屋のまんなかには小さなおけと、ペンキと刷毛はけのはいった欠け皿が置いてあった。刹那せつな、彼はあけ放たれたドアの中へすべり込んで、壁の陰に身をひそめた。それは真に危機一髪で――もうその時彼らは踊り場に立っていた。それから一同は上の方へ曲がって、傍を通りぬけ、声高に話し合いながら、四階をさして行った。彼はそれをやり過ごして、爪立つまだちで外へ出ると、そのまま下へ駆けおりた。
 階段には誰もいなかった! 門の下も同様だった。彼はすばやく門の円天井の下を抜けて、往来を左へ曲がった。
 彼はよく知りぬいていた。この瞬間、彼らがもう老婆の住まいにはいっていることも、たった今までしまっていたドアが開いているのを見て、びっくり仰天していることも、彼らがもう死骸しがいを見ていることも、一分とたたないうちに、たった今までそこにいた犯人がどこかへ隠れて、彼らの傍をすべりぬけ、まんまと逃げおおせたのだと、想像をめぐらして推定するに相違ないということも、彼らが階上へのぼって行く間に、犯人が空のアパートにいたことも、彼らはおそらく気づくに相違ない――これらすべてのことを、彼は立派に承知していたのである。それにもかかわらず、彼はどうしてもあまり足を早めることができなかった。しかも、最初の曲がり角までは、ほんの百歩ばかりにすぎなかったのだ。『どこかの門下へ忍び込むか、それともどこか知らない家の階段で待つとするかな? 駄目だ、弱ったぞ! ところで、どこかへ斧を捨てた方がいいかな! 辻馬車つじばしゃを雇うか? 大変だ! 大変だ!』
 彼の頭の中はごっちゃごちゃになっていた。やがて、ついに横町まで来た。彼は半ば死んだ人のように、そこへ曲った。ここまで来れば、もう半分助かったようなものである。彼にもそれがわかっていた。嫌疑も少ないし、それにここは往来が激しかったから、彼は砂粒のように人混みへまぎれ込んでいった。けれど、こうしたさまざまな苦しみが、心身の力を奪いつくしたので、彼はやっとの思いで体を運んでいた。玉の汗がぽたぽた流れて、首筋はぐっしょりぬれていた。『どうだ、あの酔っぱらってるざまは!』彼が掘割へ出たとき、誰かがこうどなりつけた。
 彼は今もうはっきりした意識がなかった。先へ進めば進むほど、ますますいけなかった。とはいえ、思いがけなく掘割通へ出た時、彼は人通りの少ないのに愕然がくぜんとして、ここは人目につきやすい、横町へ引っ返そう、と思ったのを覚えている。ほとんど倒れそうだったにもかかわらず、それでもやはりまわり道をして全く反対の方角から家へ帰った。
 彼はやはり完全な意識を持たないままで、自分の家の門をくぐった。やっと階段口までさしかかったとき、初めて斧のことを思い出した。考えてみると、なかなか大問題が前に控えているのだった。ほかでもない、できるだけ目につかぬように、斧をもとへ戻して置くことである。もちろん、その斧をもとへ戻さないで、いつかあとでもいいから、どこかよその裏庭へでもほうり込む方が、はるかにいいのかもしれないということを、考え合わすだけの力もなかったのである。
 しかし、万事は好都合に済んだ。庭番小屋の戸はしまってはいたが、鍵は掛かっていなかった。してみると門番が家にいることは確からしかったが、彼はぜんぜん思考の能力を失っていたので、いきなり庭番小屋へ近づいて、さっと戸をあけた。もし庭番が『なんの用か?』と尋ねたら、彼はいきなり斧を渡したかもしれない。が、庭番はまたぞろいなかった。で、彼はまんまと斧を元どおり、床几しょうぎの下へ置くことができたのみか、前と同様にまきで端を隠しさえもした。彼はそこから自分の部屋まで、誰にも、それこそ猫の子一匹にも出会わなかった。おかみの戸口もしまっていた。自分の部屋へはいると、彼は着のみ着のままで、長椅子の上へ身を投げ出した。眠りこそしなかったが、自己忘却の状態に陥っていた。もしもその時誰か部屋へはいって来たら、彼はすぐさまはね起きて叫び声をあげたに相違ない。何かわけのわからぬ想念の断片や破片が、やたらに頭の中をうようよしていたが、彼はいかに努力しても、その一つさえつかむことができなかったし、その中のどれにも頭を集中させることができなかった。
[#改ページ]


第二篇



 こうして、彼はずいぶん長い間横になっていた。時おりふっと目がさめるらしく、もうとっくに深夜が訪れているのに気づくこともあったが、起きようなぞという考えは頭に浮かばなかった。とうとう彼は、もう昼間の明りになっているのに気がついた。先ほどからの忘却状態で、硬直したようになったまま、長椅子の上で仰向けに寝ていた。通りの方から恐ろしい、やけ半分みたいな叫喚きょうかんが鋭く彼の耳にまで伝わってきた。もっとも、それは毎晩二時過ぎに、窓の下あたりでよく聞いたものである。つまり、この音が今も彼の目をさましたのである。『ああ、もう酔っぱらいどもが酒場から出て来たな』と彼は心に思った。『二時過ぎだ』こう思うと彼はいきなり、まるで誰かにもぎ離されでもしたように、長椅子からがばとはね起きた。『やっ! もう二時過ぎだ!』彼は長椅子の上にすわった――と、その時初めていっさいを思い出した! 突如として一瞬の間に、何もかも思い出したのである!
 最初の瞬間、彼は気が違うのだと思った。恐ろしい悪寒おかんが全身を包んだ。もっともその悪寒は、まだ寝ているうちから起こっていた熱のせいである。ところが、今はふいに激しい発作となって襲ってきたので、歯は抜けておどり出さんばかりにがちがちと鳴り、体じゅうがわなわな震え始めた。彼はドアをあけて耳を澄ました。家の中は何もかもしんと寝静まっている。彼は愕然として自分の体と、部屋全体を見回し、ほとほと合点がいかなかった――昨夜はいって来るなり、ドアにかぎもかけず、服も脱がないのはまだしも、帽子までかぶったまま、長椅子の上へぶっ倒れるなんて、どうしてそんなことができたのだろう? 帽子はすべり落ちて、すぐそこの床の上に、枕と並んでころがっている。『もし誰かはいって来たら、いったいなんと思ったろう? 酔っぱらっているとでも思ったかな、しかし……』彼は窓の傍へ飛んで行った。光線はもうかなり十分だった。で、彼は何か痕跡こんせきはないかと、急いで自分の全身を頭から足の先まで見回し始めた。服もずっと一通り調べてみた。けれども、着たままではうまくいかないので、彼は悪寒のために震えながら、身につけたものを残らず脱ぎ捨てて、再び万遍なく調べにかかった。彼はあらゆるものを糸一本、切れっぱし一つ残さぬように引っくり返してみたが、それでも自分に信用がおけなくて、三度ばかりも検査をくり返した。けれど、何も痕跡はないように思われた。ただズボンがすその方で裂けて房のようにぶら下っているあたり、その房の上に凝結した血のあとが濃くついていた。彼は折り込みになった大形ナイフを取って、その房を切り取った。そのほかには、もう何もないらしかった。ふと老婆のところで、トランクの中から引きずり出した品物や財布が今だにそっくり方々のポケットにはいっていたのを思い出した! 彼は今までそれを取り出して、隠すことも考えなかったのだ! 今服を調べている時でさえ、思い出さなかった! いったいなんとしたことだろう?……彼はいきなりそれをつかみ出して、テーブルの上へほうり出しにかかった。すっかり取り出した上、まだ何か残っていないかと、ポケットを裏返してまで見た。彼はその一かたまりをそっくり片隅へ持って行った。そこには一ばん隅っこの下の方に壁紙が裂けてふわふわしている所が一つあった。彼はすぐさまその穴へ、壁紙の下へ品物を押し込み始めた。『うまくはいった! これでもう目ざわりにならない、財布も同様だ!』彼は腰を上げて、その片隅の一しおふくれあがった穴を、鋭い目つきで見つめながら、さもうれしそうに考えた。と、ふいに彼は恐怖のあまり愕然とした。『なんということだ』と彼は絶望したようにつぶやいた。『おれはいったいどうしたのだろう? いったいこれで隠したつもりなのか? こんな隠し方を誰がするものか?』
 もっとも、彼は品物など最初から考慮に入れてなかった。ただ金だけしか頭になかったので、前もって場所を用意しておかなかったのである。『いったい、いま、いまおれは何をあんなに喜んだのだ?』と彼は考えてみた。『こんな隠し方をするやつがどこにあるものか? 全くおれは理性に見放されてるのだ!』彼はぐったりと長椅子に腰を落とした。と、たちまち堪え難い悪寒がまたしても彼の体をゆすぶり始めた。彼は傍のテーブルの上にあった外套がいとう――暖かくはあるが、もうまるでぼろぼろになっている昔の学生時代の冬外套を機械的に引寄せ、それを頭から引っかぶった。すると、睡魔と混迷がまたもや一時に彼を襲った。彼は前後不覚に陥った。
 五分もたつかたたぬかに、彼はまたもやはね起きた。そして、すぐさま夢中になって、自分の服の方へ飛んで行った。『ああ、またしてもよく寝られたもんだ。まだなにもできちゃいないじゃないか! はたしてそうだ、はたしてそうだ。わきの下の輪さだって今まで取ってないんだ! 忘れてる、こんなかんじんなことを忘れてるんだ! たいへんな証拠じゃないか!』彼は輪さをちぎって、急いでそれをずたずたに引裂きながら、枕の下の洗濯物の中へぐいぐい押し込んだ。『ぼろの切れくずならどんなことがあったって、嫌疑の種になる気づかいはない。そういったわけらしい、そういったわけらしい!』と彼は部屋のまんなかに突っ立ったままそうくり返した。そして、痛いまでに注意を緊張させながら、何かまだ忘れたものはないかと、再び床の上から隅々までもあたりを見回しにかかった。すべて何もかもが、記憶や単純な判断力までが、自分を見捨てようとしているのだと確信すると、たまらないほど苦しくなってきた。『どうしたんだ、もうそろそろ始まってるんだろうか? これはもう罰がやってきてるんだろうか? それ、それ、この通りじゃないか!』実際、彼がズボンから切り放した房の切れ端が、そのまま部屋のまんなかの床の上にころがっていた。誰かはいって来たらすぐ見られてしまう! 『ああ、いったいおれはどうしたんだろう?』彼はまた途方に暮れたようになり、思わずこう叫んだ。
 するとその時奇怪な想念が、彼の頭に浮かんできた――もしかすると、自分の服はすっかり血まみれなのかもしれない、しみだらけなのかもしれない。ところが、判断力が鈍って、ばらばらになって……知力が曇っているので……自分だけそれが見えもせねば、気もつかずにいるのかもしれない……と、ふいに、財布にも血がついていたことを思い出した。『やっ! してみると、ポケットにも血がついてるに相違ない。あの時まだべたべたの財布をねじこんだから!』彼は即座にポケットを裏返してみた。と――はたせるかな――ポケットの裏にも血痕があった。しみ! 『してみると、まだぜんぜん理性に見放されたわけでもないな。自分で気がついて察したくらいだから、つまり、判断力も記憶も確かにあるんだ!』と彼は勝ち誇ったような思いで、深く胸いっぱいに吐息を漏らしながら、喜ばしげに考えた。『あれはただ熱病性の衰弱だ。ちょっと熱に浮かされただけだ』そこで、彼はズボンの左のポケットから裏をすっかり引きちぎった。その時太陽の光線が左の長靴を照らした。とたん、長靴の中からのぞいていた靴下に、何やら証跡らしいものが見えたような気がした。彼は靴を脱いだ。『はたして証跡だ! 靴下の爪先つまさきがまるで血だらけじゃないか』きっとあの時、うっかり血溜ちだまりへ踏み込んだものに違いない……『だが、今度はこいつをどうしたものかなあ? この靴下や、房の切れっぱしや、ポケットをどこへやったものだろう?』
 彼はそれをすっかり両手へかき集めて、部屋のまんなかに突っ立っていた。『ストーブの中へ隠すかな? しかし、ストーブの中はまっ先に捜すだろう。焼いてしまうか? だが、何で焼くんだ? マッチもないじゃないか。いや、それよりどこかへ行って、みんな捨てちまう方がいい。そうだ! 捨てちまう方がいい!』また長椅子に腰をおろしながら、彼は考えた。『すぐ、今すぐ、猶予なしに!……』けれどそうする代わりに、彼の頭はまたしても、枕の上へ傾いてしまった。またしても堪え難い悪寒が体を氷のようにしてしまった。彼はまた外套を引っかぶった。こうして長いこと幾時間も幾時間も、絶えず一つの想念がちぎれちぎれに彼の夢を訪れた。『今すぐにも、猶予なしにどこかへ行って、何もかも捨ててしまおう、二度と人の目にはいらぬように、少しも早く、一刻も早く!』彼は幾度も長椅子から身をもぎ放して、起き上ろうとしたけれど、すでにそれはできなかった。激しくドアをたたく音がやっと完全に彼の目をさました。
「あけなさいってばよ、生きてるの、死んでるの? いつもぐうたらぐうたら寝てばかしいてさ」こぶしでドアをたたきながら、ナスターシャがわめいた。「毎日毎日朝から晩まで、犬みたいに寝てばかしいるんだ! 全く犬だよ! いい加減にあけなさいってば! 十時過ぎよ」
「いねえのかもしんねえぜ」と男の声が言った。
『やっ、あれは庭番の声だ……なんの用だろう?』
 彼はがばとはね起き、長椅子の上にすわった。心臓が痛いほど動悸どうきを打ち始めた。
「だって、この鍵は誰がかけたの?」とナスターシャは言い返した。「まあ、鍵なんかかけるようになってさ! ご当人が盗まれそうで心配なのかしら! あけなさいよ、この唐変木とうへんぼく、起きなさいよう!」
『やつら何用があるんだろう? なんだって庭番なんか? 何もかもわかっちまったんだ。抵抗したものか、あけたものか? ええ、どうともなれ……』
 彼は半ば身を起こして、前の方へ身をかがめ、鍵をはずした。
 彼の部屋は、ベッドから起きなくても鍵がはずせるくらいの広さだった。
 はたせるかな、庭番とナスターシャが立っていた。
 ナスターシャは、何やら妙な顔をして、彼をじろりと見回した。彼はいどむような自暴自棄の表情で庭番を見た。こちらは無言のまま、二重に折って安封蝋やすふうろうで封印した灰色の紙切れを彼の方へ差し出した。
「差し紙でがす、役所から」と彼は紙を渡しながら言った。
「なんの役所だい?……」
「つまり、警察から呼んでるんでさ、役所へね。なんの役所って、わかり切ってまさあ」
「警察へ?……なんのために?……」
「そんなこと、わしの知ったこってすかい。来いというんだから、行きゃいいんでさ」
 庭番はじろじろ彼を見て、あたりを見回した後、くびすを返して行こうとした。
「なんだかほんとの病人になっちまったようだね?」ラスコーリニコフから目を放さないで、ナスターシャはこう言った。庭番もちょっと振り返った。「昨日から熱があるんだからね」とナスターシャは言い足した。
 彼は返事をしないで、まだ封も切らない紙ぎれを手に持っていた。
「そんならもう起きない方がいいよ」と、彼が長椅子から足をおろそうとするのを見て、哀れを催したナスターシャはことばを続けた。「病気なら行かないがいいよ――大丈夫だあね。あんた、その手に持ってるものいったいなあに?」
 彼は何ごころなく見ると、右の手に例の房の切れっぱしと、靴下の先と、引きちぎったポケットの裏を握っていた。こうしてそのまま寝ていたのだ。もう後になってこのことを考えたとき、彼は熱に浮かされながらも夢うつつに、それを手の中に固くしっかと握りしめながら、また眠りに落ちて行ったのが思い出された。
「ちょっ、こんなにぼろっきれを集めてさ、まるでお宝みたいに抱いて寝てるんだよ……」
 こう言ってナスターシャは、例の病的な神経性の笑い声を高々と立てるのであった。
 彼はすばやくそれを外套の下へ押し込んで、じっと食い入るように彼女を見つめた。そのとき彼は十分に理路整然と、ものを判断することができなかったけれど、人を逮捕に向かう時には、こんな風に扱うものでないと直感した。『しかし……警察へ来いとは?』
「お茶でも飲んだら! ほしいかね? 持って来てあげるよ。残ってるから……」
「いや……僕は行ってくる。これからすぐ出かける」と彼は立ち上がりながらつぶやいた。
「どうも、階段さえおりられそうもないね?」
「行ってくるよ……」
「じゃ、好きにするがいい」
 彼女は庭番のあとについて行ってしまった。彼はやにわに明るい方へ飛んで行って、靴下とズボンの切れ端を調べにかかった。『しみはあるが、しかし大して目に立ちゃしない。すっかりよごれて、こすれてしまって、色がさめてるからな。前もって知らない者には――てんで見分けなんかつきゃしない。してみると、ナスターシャもあれだけ離れてたから、なんにも気がつきゃしなかったろう、しめた!』その時、彼は胸をおどらせながら呼出状の封を切って読み始めた。長いことかかって読んだ後、ようやく意味がわかった。それは今日九時三十分に、区の警察署へ出頭せよという普通の呼出状だった。
『いったいいつこんな例があったろう? おれは警察に用なんかいっさいないんだがなあ! しかも、折もおり今日に限ってどうしたわけだ?』と、彼は悩ましい疑惑に包まれながら、とつおいつ考えた。『ああ、神さま、もうこうなったら、とにかく早く済みますように!』彼はいきなりひざまずいて祈ろうとしかけたが、われながら笑い出してしまった――それは祈祷きとうを笑ったのではなく、自分自身を笑ったのである。彼は急いで着替えにかかった。『破滅するなら破滅するでいいさ、同じこった! この靴下をはいてってやれ!』こんな考えが急に彼の頭にわいた。『もっとほこりの中でこすれたら血のあとも消えてしまうだろう』しかし、それをはくが早いか、またすぐ嫌悪と恐怖の念に襲われ、引きむしるように脱ぎ捨てた。が、脱ぎ捨てはしたものの、代わりのないことを思うと、また取り上げてはいてしまった。そして、またからからと笑い出したのである。『こんなことはすべて条件的だ、何もかも相対的だ。こんなことはすべて形式にすぎないんだ』と彼はちらと、ほんの頭のはじっこだけで考えた。けれど、そう考えながらも、同時に体じゅうが震えるのであった。『ほら、この通りはいてしまったぞ――見ろ、結局はいてしまったじゃないか』とはいえ、たちまち笑いは絶望に変わった。『いや、とても力に及ばない……』という考えが自然にわいて出る。彼の足はぶるぶる震えた。『恐怖のせいだ』と彼は一人でつぶやいた。頭はぐらぐらして、熱のためにずきんずきん痛んだ。『これはだ! これはやつらが策略でおれをおびきよせて、不意打ちに面くらったところを完全に抑えてしまおうというんだ』と彼は階段へ出ながら、ひとり言を続けた。『何よりいけないのは、おれがほとんど熱に浮かされていることだ……何かうっかりへまな口をすべらすかもしれやしないぞ』
 階段の上に立ったとき、彼はふと、いっさいの品をあのまま壁紙の穴へ残して来たことも思い出した。『これはもしかすると、わざとおれのいないうちに、家宅捜索をやるのかもしれないぞ』と気がつき、彼は足を止めた。けれど極度の自暴自棄と、極度の(もしこういいうるならば)滅亡の自嘲心シニズムが、ふいに彼を領してしまった。彼は片手を一つ振って、そのまま先へ進んで行った。
『ただ一刻も早くすんでくれ……』
 通りは相変わらず堪え難い暑さだった。この四、五日の間に、雨の一滴も降らばこそ、相変わらずの埃、相変わらずの煉瓦れんがや石や石灰、相変わらず安店や酒場から出る臭気、相変わらずひっきりなしに出会う酔漢、ポーランドの行商人、半分こわれかかったような辻馬車つじばしゃの御者。太陽はぎらぎらと彼の目を射て、物を見るのが痛いくらい、頭はすっかりぐらぐらになってしまった――それは、強く太陽の照る日突然町へ出た熱病患者に、普通ありがちの感じだった。
 昨日の町へ曲がる角まで来ると、彼は悩ましい不安を感じながら、その方を、あの家の方を見やったが……すぐに目をそらしてしまった。
『もし尋ねたら、おれは言ってしまうかもしれない』と彼は、警察へ近づきながら考えた。
 警察は彼の家から、四分の一露里ばかりの所にあって、新しい建物の四階に移転したばかりだった。もとの事務所へは、彼もいつかちょいと行ったことがあったが、それもずっと前の事である。門の下をくぐるとき、右手に階段が見えた。帳簿を持った百姓が一人、その階段をおりてくる。『庭番だな、つまり、してみると、あすこが役所なんだ』こう考えて、彼はあてずっぽうにのぼり始めた。何によらず人にものを聞く気になれなかったのだ。
『はいって行ったら、いきなりひざを突いて、何もかも話してしまおう……』と彼は四階へ上りながら心に思った。
 階段は狭くて急で、一面にきたない水がこぼれていた。建物いったいのアパートは、台所口が全部この階段に向かっていて、しかもほとんどいちあけ放されているので、むんむんするようないきれが立ちこめていた。小脇に帳簿をかかえた庭番や、巡査や、種々雑多な男女の外来者などが、上ったりおりたりしている。警察の入口のドアもやはりあけ放しになっていた。彼は中へはいって、控室に立ち止まった。そこには何やら百姓体の連中が立って待っていた。ここの息苦しさも並み一通りでなく、その上新しく塗られた部屋部屋の、腐った油で溶いたペンキが、まだかわききらないで、胸の悪くなるほど鼻をついた。しばらく待った後、彼はさらに先へ進んで、隣室まではいって行こうと思案を決めた。どれもこれもちっぽけな、天井の低い部屋だった。恐ろしい焦燥が、彼をなおも先へ先へと引っ張って行った。誰も彼に気のつくものはなかった。次の部屋には、彼よりも少しはましかと思われるくらいの服装なりをした、書記らしい連中が控えて、せっせと書き物をしていた。見たところみんなへんてこな人間ばかり。彼はその中の一人に近よった。
「お前なに用だ?」
 彼は呼出状を出して見せた。
「君は大学生ですか?」呼出状をちらと見て、相手はこう尋ねた。
「そうです。もとの大学生」
 けれど、書記は一こう好奇心らしいものも示さず、じろじろ彼を見回した。それは、なんだかこう特別に髪をぼうぼうさした男で、目つきに何か固定観念イデー・フィクスみたいなものを浮かべていた。
『こんなやつに聞いたって何もわかりゃしまい。こんなやつの知った事じゃないんだからな』とラスコーリニコフは考えた。
「あっちへ行きなさい、事務官の方へ」と筆生は言って、一番はずれの部屋を指でさして見せた。
 彼は、順番からいうと四つめに当たる、この狭い部屋へはいった。部屋は人でいっぱいになっていたが、皆これまでの部屋部屋にいた連中よりは、いくらか気のきいた服装なりをしていた。外来者の中には、婦人が二人まじっていた。一人はみすぼらしい喪服を着て、事務官とさし向かいにテーブルの前に腰をかけ、何やら口授されながら書いていた。いま一人は恐ろしくふとった婦人で、紫色に見えるほど赤い顔にしみがあったけれど、なかなか立派な押し出しで、なんだか恐ろしくけばけばしい服装なりをして、胸には茶わんの受け皿ほどもあるブローチをさしている。これはちょっと脇の方に立って、何やら待っていた。ラスコーリニコフは事務官に呼出状を突きつけた。こちらはちらと見て、『ちょっと待ちなさい』といっただけで喪服の女の仕事を続けた。
 彼はほっとした気持で息をついた。『こりゃ確かに違う!』彼はだんだん元気づいてきた。元気を出せ、正気に返れと、懸命に自分で自分に言って聞かせるのであった。
『何かちょっと馬鹿なことをしても、何かちょっとした些細ささいな不用意をやっても、おれは自分でしっぽを出してしまいそうだ! ふむ!……どうもここは空気の流通が悪いからつらいな』と彼は心の中でつけ足した。『息苦しい……頭がぐらぐらしてくる……思考力だってそうだ』
 彼は総身に恐ろしい混乱を感じた。自分で自分を支配しえないのが恐ろしかった。彼は何かにすがりつこう、なんでもいい、ぜんぜん無関係な事を考えようと努めたが、それはどうしてもうまくいかなかった。にもかかわらず、事務官はひどく彼の興味をひいた――彼はその顔つきで何かを読み取り、最後の判断を下したくてたまらなかった。それはまだ二十二ぐらいの生若なまわかい男だったが、よく動く浅黒い顔つきは、年よりも老けて見えた。流行のハイカラ扮装いでたちで、ポマードをしこたまつけ、櫛目くしめをきちんと立てた髪はうしろ頭まで分け目を見せ、刷毛はけでみがき上げた白い指にはさまざまな指輪をでこでこにはめ、チョッキには金鎖を光らしていた。彼は居合わせた外国人の一人とフランス語で二言ばかり話したが、それも相当のものになっていた。
「ルイザ・イヴァーノヴナ、あなたお掛けになったら」と彼は軽い調子で、けばけばしい身なりをしたあから顔の婦人に声をかけた。こちらは、椅子がすぐ傍にありながら、勝手に掛けるのを遠慮するように、ずっと立っていたのである。
ありがとうイッヒ・ダンケ」と女は言って、きぬずれの音を立てながら、静かに椅子へ腰をおろした。白いレースの飾りのついた薄い空色の服は、軽気球みたいに椅子のまわりへ広がって、ほとんど部屋を半分がた占領してしまった。香水がぷんぷんにおい出した。けれど婦人は、自分が部屋を半分も占領して、香水のにおいをぷんぷんさせるのが、いかにも済まない様子で、臆病おくびょうらしいくせにずうずうしいところもあるような微笑を浮かべていたが、とにかく明らかに不安らしい風だった。
 喪服の女はやっと用を済まして、立ちにかかった。するととたんに、かなり騒々しい音をさせて、一足毎になんだか一種特別な肩の振り方をしながら、一人の警部がだんぜん景気よくはいってきて、徽章きしょうのついた制帽をテーブルの上へほうり出すと、安楽椅子に腰をおろした。けばけばしい婦人はその姿を見ると、いきなり椅子からおどり上がって、一種特別な歓喜の色を浮かべて、小腰をかがめにかかった。けれど、警部がいささかの注意も向けようとしなかったので、婦人はもう彼の前で腰をおろすのを遠慮してしまった。これは区の副署長で、両方へ水平にはねている赤みがかった口ひげを生やし、一種のあつかましさを除いては別段なんの表情もない、いかにも浅薄な顔の輪郭をしている。警部はいささか憤慨のていで、横目にラスコーリニコフを見やった。彼の服装があまりひどかったし、しかも、そうした零落ぶりにもかかわらず、なりに似合わぬ尊大な態度を持していたからである。ラスコーリニコフはついうっかりして、あんまり長いことまともに彼を見つめたので、警部はとうとう向かっ腹を立ててしまった。
「なんだお前は?」と彼は叫んだ。このぼろ男が、稲妻のような彼のまなざしを受けて、こそこそ隠れようともしないのに、どうやら驚いたらしい。
「出頭を命じられたんです……呼出状で……」とラスコーリニコフはどうやらこうやら返辞をした。
「それはその男から、大学生から金を取り立てる件です」事務官は書類から目を放して、せかせかと口を入れた。「そら、これです!」と彼は帳簿をラスコーリニコフの方へ投げて、場所を示した。「読んでごらんなさい!」
『金? なんの金だろう?』とラスコーリニコフは考えた。『しかし……してみると、もうたしかにあれじゃない!』彼はうれしそうにぶるっと身震いした。彼の心は急にどかっと、ことばに尽くせないほど軽くなった。すっかり重荷が肩からおりた思いだった。
「いったい君は何時に出頭を命じられてるんだね、君?」警部はどうしたのか、いよいよ侮辱を感じながら、こうどなりつけた。「九時と書いてあるのに、もう十一時過ぎておるじゃないか」
「僕はつい十五分ばかり前にこれを受け取ったのです」とラスコーリニコフは同じくふいに、自分でも思いがけないくらいむらむらとなって、しかもそれに一種の満足さえ見出みいだしながら、肩越しに大きな声で答えた。「それに僕は病人で、熱を押して出て来たんですから、それだけでもたくさんでしょう」
「どなるのはよしてもらいましょう!」
「僕はどなってなんかいやしません。きわめて平静に言ってるんです。かえってあなたの方こそ、僕をどなりつけてるんじゃありませんか。僕は大学生です、どなりつけられて黙っているわけにいきません」
 副署長はすっかり逆上してしまって、しばらくは口をきくこともできず、ただ口からしぶきのようなものを飛ばすばかりだった。彼は席からおどり上がった。
「おーだーまんなさい! 君は官衙かんがにいるんですぞ。ぼ……ぼうげんを吐くんじゃない!」
「あなただって官衙にいるんじゃありませんか」とラスコーリニコフは大喝だいかつ一声した。「ところが、あなたはどなるばかりじゃない、煙草までふかしておいでになる。それは僕ら一同を蔑視べっしすることになります」
 こう言い切ると、ラスコーリニコフはなんともいえぬ快感を覚えた。
 事務官は微笑を含んで、二人をながめていた。短気な警部はどうやら荒胆あらぎもをひしがれたらしい。
「それは君の知ったこっちゃない!」とうとう彼は、なんとなく不自然に大きな声で叫んだ。「さあ、そこで、君は要求されている答弁をしてくれたまえ。アレクサンドル・グリゴーリッチ、この男に見せてやってくれたまえ。君は告訴されてるんですぞ。借金を踏み倒そうなんて! ふん、どうも大した美丈夫ぶりだ!」
 けれど、ラスコーリニコフはもう聞いていなかった。そして、少しも早く謎を解こうと、むさぼるように紙切れをつかんだ。一度読んで、また二度めに読んだが、かいもくわからなかった。
「いったいこれはなんですか?」と彼は事務官に尋ねた。
「借用証書によって、あなたから返金を請求しているんです、支払の督促です。あなたは科料その他の諸費用をこめて借金を支払うか、それともいつ支払いうるかということを、書面で答えなければならないのです。それと同時に、支払を済ますまでは、首都から外へ出ないこと、財産を売却もしくは隠匿いんとくしないということもね。債権者は、あなたの所有品を売却することも自由だし、あなたに対しては、法によって制裁を下すこともできるんです」
「でも僕は……誰にも借金なんかありません」
「それはもはやわれわれの知ったことじゃない。われわれの方へはこの通り、債務取立の告訴が提出されてるんです。つまり九か月前に、あなたが八等官未亡人ザルニーツィナに渡した百五十ルーブリの借用証書です。これがその後ザルニーツィナから、七等官チェバーロフの手へ渡っているが、もう期限がきれて不渡り手形になっている。こういったわけで、あなたに答弁を要求しているんです」
「ああ、そりゃ下宿のかみさんじゃありませんか?」
「下宿のかみさんならどうしたんです!」
 事務官は『どうだい、お前、今どんな気持がするね?』とでも言いたげな様子で、今みんなから包囲攻撃を受け始めたばかりの新参者に対するような憐愍れんびんと、同時にある勝利感を含んだ寛容の微笑を浮かべながら、彼を見つめていた。しかし、今の彼にとって借用証書がなんだろう。支払命令がなんだろう! これしきなことに現在の自分として、いささかなりとも心配する価値があろうか、いな、多少なりと注意に値いしようか! 彼は突っ立ったまま、読んだり、聞いたり、答えたり、自分の方から質問までしたが! それはすべて機械的だった。自衛の勝利と、心を圧迫する危険からのがれたという感じ――ただそれだけが、いま彼の全存在を満たしているのだった。予見もなければ、分析もなく、未来に対する想像もなければ、推察もなく、疑惑もなければ、問題もない。それはきわめて本然的な、純動物的な歓喜の瞬間だった。けれど、ちょうどこの時事務所の中では、青天の霹靂へきれきともいうべき事件が起こった。さきほど受けた不敬の侮辱に、まだ腹の底までにえくり返るような気持で、ことごとくまっかになって怒っていた警部は、傷つけられた尊厳を回復しようと考えたらしく、彼がはいってきた時から、にたにたと馬鹿げきった微笑を浮かべながら彼を見つめていた例の『けばけばしい婦人』をつかまえて、可哀想に、頭から雷でも落ちたように、がみがみ食ってかかった。
「ええ、この……女!」と彼はふいにありたけの雑言ぞうごんを並べながら、のども裂けよとばかりどなりつけた。(喪服の婦人はもう帰っていた)。「ゆうべ貴様んとこのていたらくは、いったいなんというざまだ? あん? またしても、町内中に恥さらしな大乱ちきを持ち上げやがって、またぞろ喧嘩けんかにへべれけ騒ぎだ。懲治監ちょうじかんへでもくらい込みたいのか! おれはもうちゃんと貴様に言っておいたじゃないか、もう十ぺんから注意しといたじゃないか――十一ぺんめには断じて許さんからって! それを貴様はまたしても、またしても! ええ、この……め!」
 ラスコーリニコフは、思わず手から書類を取落としたほどである。彼はけうとい目つきで、かくも無遠慮にやっつけられているけばけばしい婦人をながめていたが、やがてまもなく事のなんたるやに考え及んだ。と、すぐさまいっさいのいきさつが、大いに愉快にさえなってきた。彼は喜んで耳を傾けた。彼はありたけの声で笑って、笑って、笑い抜きたいような気持さえもした……ありたけの神経がむやみにおどり狂っていた。
「イリヤー・ペトローヴィッチ」と事務官は気づかわしげに言いかけたが、時機を待つことにしてことばをやめた。たけり立った警部を押し静めるには、手を抑えるよりほかに方法のないことを、これまでの経験で知っていたからで。
 一方けばけばしい婦人の方はどうかというと、はじめのうちこそ、その霹靂に震え上がっていたが、不思議なことには、警部の罵言ばげんがますます激しくなり、ことば数が多くなればなるほど、彼女の顔つきはいよいよ愛想がよくなり、ものすごい警部に向けられた微笑は、ひとしお魅惑を増してきた。彼女は立ったままその場で小刻みに足を動かし、のべつぺこぺこ腰をかがめながら、いよいよ自分のことばをさしはさむ機会のくるのを、もどかしげに待っていたが、とうとうその機会をつかんだ。
「どういたしまして、署長さま、わたくしどもではけっして騒ぎも喧嘩もいたしませんですよ」急に彼女は豆でもまきちらすように、達者なロシア語ではあるけれど猛烈なドイツなまりのアクセントで、べらべらまくし立て始めた。「けっして、けっして不体裁なことはござあません、あの人たちが酔っぱらって来られましたんです。すっかり詳しいことを申し上げますが、署長さま、わたくしが悪いのじゃござあません……わたしどもはお上品な家でしてねえ、署長さま、お客あしらいも上品なのでござあます、署長さま。そしてねえ、わたしだっていついかなる時にも、けっして不体裁をしでかしたくないと心掛けております。それだのに、あの人たちがすっかり酔っぱらって来られましてね、やがてまたお酒を三本ご注文になったんでござあますよ。それから、一人が足を上げて、足でピアノをひき出すんですからねえ。こんなことは上品な家では、全くよくないことでござあます。こうしてとうとう、その馬鹿者がひどくピアノをこわしてしまいました。まるで作法も何もあったものじゃござあませんよ。それでわたしがそう言ってやりますと、そいつ瓶をつかんで、みんなを後ろから突き出すじゃござあませんか。そこでわたしは、急いで庭番を呼びましたので、カルルがやってきました。すると、そいつめ、カルルをつかまえて目をたたきました。ヘンリエットもやはり目をたたかれました。わたしはほっぺたを五へんも打たれましたよ。こんなことは上品な家じゃぶしつけでござあますものねえ、署長さま。で、わたしはどなってやりました。するとそいつはほりの方へ向いた窓をあけてね、そこに立ちはだかって、豚の子みたいにわめくんでございます。ほんとに恥さらしな、どうしたらまあ往来へ向いた窓で、豚の子みたいに鳴けるのでしょう? フイ、フイ、フイ、フイってね! それで、カルルがうしろからそいつの燕尾服えんびふくをつかんで、窓から引きずりおろしました。もっとも、その時、これは本当でござあますが、署長さま、上着のゼインロックが破れましたんで。するとそいつめ、弁償金を十五ルーブリ払えってわめくんで、わたくしは自分でそのゼインロックの弁償金に五ルーブリ払ったんでござあます。ほんとうに下品なお客ったら、署長さま、ありったけの不体裁をしでかして! それでどうでしょう――おれは貴様のことを長い滑稽こっけい小説に作ってやるぞ、どの新聞にもみんな貴様のことを書いてやれるんだから、なんか言いまして」
「すると、そいつは文士なんだな?」
「はい、署長さま、全くほんとうに下品なお客でございます、署長さま、お上品な家に来て……」
「うむ、よし、よし! たくさんだ! おれはもう貴様にさんざん言って聞かしておいた。よく言ってあるじゃないか……」
「イリヤー・ペトローヴィッチ」と事務官はまた意味ありげに言い出した。
 警部はちらとその方を振り返った。事務官は軽くうなずいて見せた。
「……さあ、名誉あるラヴィーザ・イヴァーノヴナ、これが貴様に聞かしてやるおれの最後のお説教だ。それこそほんとに最後だぞ」と警部は続けた。「今後もし貴様の上品な家で、たとい一度でも不体裁をしでかしたら、それこそおれは貴様の首にツグンデルをかけてやるぞ、高尚なことばで言えばだ。わかったか! すると何かな、文士が……作者が『上品な家』で、裾の弁償に五ルーブリ取ったんだな? いや、作者なんて、えてそうしたもんだ!」こう言って、彼は軽蔑に満ちた視線をラスコーリニコフに投げた。「一昨日も居酒屋でやはり似たりよったりの事件があった。昼食はしたが金を払おうとせん。そして、『おれはその代わりにこの家の事を滑稽小説に書いてやる』と言うんだ。ある汽船の中でも、先週同じようなことがあった。れっきとした五等官の家族、つまり細君と令嬢が、聞くにたえない下等なことばで罵倒ばとうされたのだ。この間もさる喫茶店から突き出されたやつがある。まあ、みなこういう風なんだ、作者だの、文士だの、大学生だの、新聞記者だのというやつらは……ぺっ! おい、貴様はもう帰れ! いまにおれが自分で行ってやる!……その時は気をつけるがいいぞ! わかったか?」
 ルイザ・イヴァーノヴナは、気ぜわしない愛嬌あいきょうをふりまき、四方八方へ小腰をかがめながら、戸口まであとずさりして行った。ところが、ドアの所であけっ放しのすがすがしい顔に、ふさふさとしたみごとな亜麻色の頬ひげを生やした、一人の立派な警察官にしりをぶっつけた。それは署長のニコジーム・フォミッチその人だった。ルイザ・イヴァーノヴナはあわてて床につくほど低く会釈し、小股こまたにちょこちょこと飛び上がるようにしながら、事務所から駆け出して行った。
「またぞろ天地晦瞑かいめい、雷鳴、稲妻、竜巻、颶風ぐふうというわけですな!」と愛想のいい親しげな調子で、ニコジーム・フォミッチは副署長に向かってこう言った。「また癇癪かんしゃくを起こして、自分で心臓を悪くしたんですな! 階段のところまで聞こえましたぜ」
「いや、なに!」とおうように無造作な調子で副署長は言った。(「なに」とさえはっきりいわず「や、なあん!」といった風に聞こえた)。そして、何かの書類を持って、ほかのテーブルへ移りながら、一歩毎に気取った格好で肩をゆすって行った。一足前へ出すと、肩が一緒について出るので。「これです、ごらんください――この著述家先生、いや、違った、大学生、といって、もとの大学生がですね、金を払わん代わりに手形をむやみと出して、部屋はあけんというわけで、当人に対してのべつ訴えがくるんですよ。それでいて、わたしが先生の前で煙草を吸ったからといって、ご憤慨あそばすんですよ! 自分は、ひ、卑劣きわまるまねをしながら、どうです、やつを見てやってください、あの通りすてきな格好をしているじゃありませんか!」
「貧は不善にあらずさ、君。いやどうも仕方がないて! 君は有名な火薬なんだから、侮辱を忍ぶことはできなかったでしょうよ。しかし、君もきっと何かこの人に腹を立てて、我慢がしきれなかったんでしょう」とニコジーム・フォミッチは、愛想よくラスコーリニコフの方へふり向きながら、ことばを続けた。「しかし、それは間違いですよ。君――この人はじーつーに高潔な男です。それはわたしが誓います。ただ火薬なんです! 癇癪もちなんです! ぱっと爆発して、ぐらぐらっと沸き立って、燃えてしまうと――それでおしまいなんです! それで何もかもすんでしまって、結局、黄金のごとき心だけが残るんです! この人は連隊時代にも、『火薬中尉』とあだ名されていたんですからなあ……」
「しかもその連隊ときたら!」と、副署長は署長にうまくくすぐられたので大恐悦のくせに、まだふくれつらをしながら叫んだ。
 ラスコーリニコフは突然みんなの者に、何かうんと愉快なことを言ってやりたくなった。
「いや、とんでもない、署長」ふいに彼はニコジーム・フォミッチの方へふり向きながら、恐ろしくくだけた調子で言い出した。「僕の身にもなってみてください……もし何か僕の方に失礼なことがあったら、僕はあの人に謝罪してもいいと思ってるくらいです。僕は貧しい病身な学生です。貧乏にへしつけられて(彼は全く「へしつけられて」と言ったのである)いる男です。僕はもとの大学生です。つまり学資がないからです。でも、金はきます……僕には母と妹が××県におりまして……それが送金してくれるはずです。そしたら僕……返済します。うちのかみさんはいい人なんですが、僕が出稽古でげいこの口をなくして、四月ごし払いをしないので、かんかんにおこってしまって、食事もよこしてくれないようになりました……それから、手形がどうとかいうんですが、僕にはさっぱりわけがわかりません! いまかみさんはこの借用証書で僕に請求してるんです。しかし、今のところどうして払えましょう、ご賢察を願います!……」
「だが、そんな話はこっちの知ったことじゃない……」とまた事務官が注意しようとした……
「ちょっと、ちょっと、それはそうですが、僕にも釈明さしてください」とラスコーリニコフはまたことば尻を抑えて、事務官ではなく、依然としてニコジーム・フォミッチを相手にしながらそう言ったが、同時に、副署長にも話しかけるようにしようと、一生懸命に努力するのであった。ところが、こちらは書類をかき回して、お前などに注意も向けてやらないぞとばかり、軽蔑けいべつの態度を見せていた。「まあ、僕にも今度は事情を述べさせてください。僕はあの女の所に、もうかれこれ三年も暮らしているんです。国を出てここへ着くとすぐにずっと。そして以前……以前……なに、僕の方でもすっかり白状してしまったってかまわないでしょう。僕は最初から、かみさんの娘と結婚しようと約束したんです。もっとも、それはぜんぜん自由な口約束だったんですが……この娘は……もっとも、僕はその娘が気に入ってたくらいなんです……もっとも、れていたわけじゃありませんが……一口に言えば、若かったんですね。いや、つまり僕が言いたいのはこうなんです。かみさんはそのために、当時多額に信用貸しをしてくれたので、僕も多少その、気楽な暮らしをしていました……僕は実に軽はずみだったんです……」
「われわれはそんな立ち入った打明け話を、君から要求してるんじゃない。それに暇もない」と副署長はいけぞんざいな調子で、威猛高いたけだかにさえぎろうとしたが、ラスコーリニコフは、熱くなってそれを抑えた。もっとも、急に口をきくのがたまらないほど苦しくなったのだけれど……
「いや、失礼ですが、失礼ですが、多少なりと完全に釈明さしてください……どういう事情でこうなったか……僕の方でも……もっとも……こんなことをしゃべるのは余計なことでしょう、そりゃおっしゃる通りですが――しかしともあれ、この娘は一年前にチブスで死んでしまったけど、僕はやはり下宿人として残っていました。今の住まいへ移った時に、かみさんはこう言いました……しかも、隔てのない態度で言ったのです……わたしはあなたを十分信用しています、云々うんぬん……だが、今まであなたに貸してあげた百五十ルーブリに対して、借用証書を一本入れてもらえますまいか、とこうなんです。まあ聞いてください――かみさんは全くこう言ったのです――あなたが証書を入れてさえくだされば、今後またいくらでも立て替えてあげます。それから自分の方としては、けっして――これはかみさんのことばそのままです――あなたが自分で払うまで、この証書に物をいわすようなことはしませんって……それをどうです、いま僕が出稽古の口をなくして、食うものもなくなっている時に、こんな告訴をするなんて……これで僕、なんと言ったらいいんです?」
「そんなセンチな事情なんか、君、われわれには関係のないことですよ」と副署長は横柄にさえぎった。「君は答弁を書いて宣誓をしなくちゃならん。君が誰かにお惚れ遊ばしたとか、そんな愁嘆話しゅうたんばなしなんか、われわれになんの関係もありゃしない」
「いや、どうも君は……ちとひどすぎるよ……」とニコジーム・フォミッチはテーブルについて、同じく書類のサインを始めながら、こうつぶやいた。なんとなくきまりが悪くなったのである。
「さあ、書きなさい」と事務官はラスコーリニコフに言った。
「何を書くんです?」と彼はなんだか格別ぞんざいに問い返した。
「わたしがいま口授します」
 ラスコーリニコフは、今の打明け話をしてから、事務官が自分に対して前より無頓着むとんじゃくに、横柄になったような気がした――けれど、不思議なことには――彼自身も突然、誰がなんと思おうと同じことだ、という気持になった。この変化は実に一瞬の間に、一刹那いっせつなに生じたことである。もし彼がちょっとでも物を考える気になったら、つい一分前に、どうして彼らとあんな話をした上、自分の感情まで押し売りする気になったかと、むろん驚きあきれたに違いない。それに、いったいどこからあんな感情がわいてきたのだろう? ところが、今はその反対に、もしこの部屋が急に警察官でなく、もっとも親しい友人でいっぱいになったとしても、彼は自分の親友のために、何一つ人間的なことばを考えつくこともできなかったろう。それほど彼の心は急にがらんとしてしまったのである。悩ましい無限の孤独感と暗い逃避の念が、突然意識的に彼の心に現われてきた。彼の心をかくも急に転向させたのは、副署長を相手にした打明け話の陋劣ろうれつさでもなければ、また彼に対する中尉の勝利の下劣さでもない。ああ、いま彼にとって自分の卑劣さや、およそこういった連中の自尊心や、火薬中尉や、ドイツ女や、告訴や、警察や、そんなものになんのかかわりがあろう! 彼はよしこの瞬間、火あぶりを宣告されたにしろ、びくともしなかったに相違ない。おそらく宣告さえも注意して聞かなかったろう。彼の内部には何かしら全く覚えのない、新しい、思いがけない、かつてためしのないあるものが成就したのである。彼はそれを了解したというよりも、感覚の持ちうるありたけの力で感じたのである――さっきのような、感傷的な、長たらしい、愚痴まじりの打明け話はもちろんのこと、どんな話であろうと、もはやこれ以上警察の事務室で、この連中に話しかけるのは不可能だということを、はっきり感じたのである。これがたといみんな警察官でなく兄弟姉妹であるにしても、今後生涯のいかなる場合においても、彼らに話しかける必要はないのだ。彼はこの瞬間までかつて一度もこうした奇怪な恐ろしい感じを経験したことがなかった。そして、彼にとって何より苦しかったのは、これが意識とか観念とかいうよりもむしろ感触だった一事である。それは、今までの生活で経験したあらゆる感触の中でもっとも端的な、もっとも悩ましい感触だった。
 事務官は、こういう場合の答弁にありふれた書式を、彼に口授し始めた。つまり、即刻返済しかねるから、いついつまでには(あるいはそのうちいつか)支払う、当市からは離れない、所有品を売却したり人に贈与したりしない、等々である。
「おや、あなたは字が書けないんですね、ペンが手から落ちそうですよ」と事務官は、不思議そうにラスコーリニコフに見入りながら、こう注意した。「病気なんですか?」
「そうです……頭がぐらぐらして……さあ、先を言ってください!」
「いや、それだけです。署名なさい」
 事務官は紙を取上げて、ほかの仕事にかかった。
 ラスコーリニコフはペンを返したが、立ち上がって出て行こうともせず、両肘りょうひじをテーブルの上について、両手で頭を引っつかんだ。まるで脳天へくぎでも打ち込まれているような感じだった。奇怪な想念が突如として彼の頭にわいた。ほかでもない、これからすぐ立ち上がって、ニコジーム・フォミッチの傍へ行き、昨日の事を細大漏らさずくわしく話した上、それから家へ一緒に案内して行って、隅っこの穴に隠してある品々を見せてやりたくなったのである。この衝動はきわめて強烈なもので、彼はそれを実行するために、本当に腰を持ち上げたほどである。
『しかし、たとい一分間でも、よく考えた方がいいのじゃなかろうか?』こういう考えが彼の頭にひらめいた。『いや、なんにも考えないで、ひと思いに肩の荷をおろした方がいい!』けれどふいに、彼は釘づけにされたように立ち止まった。ニコジーム・フォミッチが何やら熱くなって副署長に話している、そのことばが彼の耳にまではいってきたのである。
「そんなことはあるはずがない、二人とも放免になるさ! 第一、何もかも矛盾してるじゃないか。考えてみたまえ――もしこれが彼らの仕業なら、なんのために庭番を呼ぶ必要があるのだ? 自分で自分を告発するためとでもいうのかね? あるいは瞞着まんちゃく手段なのか? いや、それはあまりたくらみ過ぎるよ! また最後にこういうことが言える――大学生のペストリャコフは、二人の庭番と町人の女房に、門をはいって行くところを見られたんだぜ。この男は三人の友だちと一緒に来て、門の所で別れたんだが、まだ友だちのいる前で、庭番に住まいを尋ねてたということだ。ねえ、もしそんな計画をいだいて来たものなら、まさか住まいを尋ねもしなかろうじゃないか? またコッホの方だが、これは婆さんの所へ行く前に、階下したの銀細工屋に三十分もすわり込んで、かっきり八時十五分前に、そこから婆さんの所へ上って行ったんだ。そこで考えてみたまえ……」
「しかし、失礼ですが、どうして彼らの言うことにあんな矛盾が生じたんでしょう? はじめは自分たちがたたいたとき、戸はしまっていた、と自分で断言してるでしょう。それが、わずか三分たって、庭番と一緒に来た時には、ドアがあいていたなんて?」
「そこのところにいわくがあるのさ。犯人はきっと中にいて、栓をさしていたんだ。だから、もしコッホがばかなまねさえしなけりゃ――自分で庭番を呼びに行ったりしなかったら、きっとその場でつかまえてしまったに相違ない。つまりやつはそのわずかな隙に、うまく階段をおりて、どうかして皆の傍をすりぬけたのだ。コッホのやつ両手で十字を切りながら、『もしわたしがそこに残っていたら、奴はいきなり飛び出して来て、きっとわたしをおので殺してしまったに違いありません』と言ってやがる。ロシア式の感謝祈祷きとうでもやりかねない勢いだぜ――は、は……」
「だが、誰も犯人を見たものはないじゃありませんか?」
「どうして見られるもんですかね? あの家はノアの方舟はこぶねですからな」自席から耳を傾けていた事務官が、こう口をさしはさんだ。
「事件は明瞭めいりょうだ、すこぶる明瞭だ!」とニコジーム・フォミッチは熱心にくり返した。
「いや、きわめて不明瞭ですよ」と副署長は釘をさした。
 ラスコーリニコフは帽子を取ってドアの方へ歩き出した。が、彼は戸口まで行きつかなかった……
 気がつくと、彼は椅子に腰をかけて、右の方から一人の男にささえられているのに気がついた。左の方にはもう一人の男が、黄色い液を満たした黄色いコップを持って立っていた。ニコジーム・フォミッチは、彼の前に突っ立って、じっと彼を見つめている。彼は椅子から立ち上がった。
「これはどうしたことです、病気なんですかね?」かなりきっとした口調で、ニコジーム・フォミッチは尋ねた。
「この人は署名する時にも、やっとのことでペンを動かしていたほどですからね」と事務官は自席について、また書類に取りかかりながら言った。
「もう前から病気なのかね?」と副署長も同じように書類を繰りながら、自席からどなった。
 もちろんかれも、ラスコーリニコフが気絶している間は、やはり病人を観察していたのだが、正気に返ると、すぐそばを離れたのである。
「昨日から……」とラスコーリニコフはつぶやくように答えた。
「きのう外出しましたか?」
「しました」
「病気なのに?」
「病気なのに」
「何時ごろ?」
「晩の七時すぎです」
「そしてどこへ、失礼ながら?」
「通りへ」
「簡単明瞭だね」
 ラスコーリニコフは布のように真青な顔をして、その黒い燃えるようなひとみを副署長の視線から放さず、ちぎれちぎれな声で鋭く答えた。
「この人は立っているのもやっとなんだよ、それを君は……」とニコジーム・フォミッチは言った。
「いや、べーつーに」と副署長は何かこう特別な語調で言った。
 ニコジーム・フォミッチは、まだ何か言い足そうと思ったが、やはりじっと穴のあくほど彼を見つめている事務官を見ると、口をつぐんでしまった。みな急に黙りこくった。何やら変なぐあいだった。
「いや、よろしい」と副署長は結んだ。「もうお引止めはせんですよ」
 ラスコーリニコフは外へ出た。後ろで急に、がやがやと勢い込んだ会話が始まったのを、彼は聞き分けることができた。中でも、ニコジーム・フォミッチの質問を帯びた声が、一番よく響いていた……彼は通りへ出ると、すっかりわれに返った。
『捜索、捜索、すぐ家宅捜索だ!』と彼は帰りを急ぎながら、心の中でくり返した。『あの強盗めら! 疑ってやがるぞ』先ほどの恐怖がまたしても彼の全身を、足の先から頭のてっぺんまでわしづかみにしてしまった。


『だが、もう家宅捜索をやられてしまってたら? ちょうど家に帰ってみて、やつらが来ていたら?』
 が、もう自分の部屋だ。何事もない、誰もいない。誰一人のぞいて行ったものもない。ナスターシャさえも手をつけていなかった。それにしても、まあなんということだ? どうして先ほどあの品々をそっくりこの穴に打っちゃって行けたのだろう?
 彼は片隅へ飛んで行って、片手を壁紙の下へ差し込むと、例の品々を引っ張り出して、それをポケットへねじ込み始めた。全部で八品あったが、耳輪か何か、そんな物のはいった小箱が二つ――彼はろくすっぽ見もしなかった――それから小さなキッド皮のサックが四つと、ただ新聞にくるんだだけの鎖が一本と、ほかにまだ何やら新聞紙にくるんだものがあった。どうやら勲章らしい!……
 彼はこれをすっかり方々のポケットへ入れた。外套がいとうのポケットと、残ったズボンの右ポケットへ、なるべく目立たないようにと苦心しながら納めてしまった。財布もやはり一緒に取出した。それから部屋を出たが、今度はすっかりあけっぴろげにして置いた。
 彼は早いしっかりした足どりで歩いた、全身が打ちくじかれたようになっているのを覚えたが、意識はちゃんとしていた。彼は追跡を恐れた。三十分後、いや、十五分後に、彼に対する尾行命令が出はしないかと恐れた。したがって、どんなことがあろうとも、それまでに証跡を湮滅いんめつしなければならない。そして、まだいくらかでも気力と判断力の残っているうちに、うまく処理しなければならない――だが、どこへ行ったものだろう?
 それはもうずっと前から決めていたことである。『何もかも堀の中へ投げ込んで、証跡を消してしまうんだ。そうすれば万事かたがついてしまう』彼はもうゆうべ熱にうかされながら、いくどか起き上がって出かけようともがいた瞬間に(彼はそれを覚えている)こんな風に決したのである。『早く、少しも早くみんな捨ててしまうんだ』けれど捨ててしまうということも、案外なかなか難かしいとわかった。
 彼はエカチェリーナ運河の河岸通を、もう三十分か、あるいはそれ以上もぶらぶらして、いくどか水ぎわへおりる口を見つけて、下をのぞいてみた。ところが、目算を実行するのは、考えも及ばないことだった。ある所では、いかだがおり口のすぐそばにあって、その上で洗濯の女たちが肌着類を洗っていたり、ある所ではボートがもやってあったりして、どこもかしこも人がうようよしていた。それに、河岸通からでも、どこからでも見とおしなので、男がわざわざ水ぎわへおりて行って、そこにしばらく立ち止まり、何やら水の中へほうり込むのに気がついたら、変に思うに相違ない。その上、もしサックが沈まないで、流れ出したらどうする? またそうなるに違いない。すれば、誰の目にだって止まるわけだ。それでなくてさえ、みんな出会いがしらにじろじろ見たり、振り返ったりするではないか。まるで、彼一人だけに用でもあるような具合だ。『なぜこうなんだろう? それとも、おれにそんな気がするだけなのかしら』と彼は考えた。
 とうとうしまいに、いっそネヴァ河へ行った方がよくないかという考えが頭に浮かんだ。あすこなら人通りも少ないし、ここほど目に立たないから、いずれにしても好都合だ、それに一番うまいのは、この辺からだいぶ離れていることだ。すると、彼は急にわれながら驚いた――いったいなんのために、こんな危険な場所を、憂愁と不安に悩まされながら、三十分もうろつき回って、これしきのことをもっと早く思いつけなかったのだろう? こんな無鉄砲な仕事にまるまる三十分もつぶしたのは、要するに、夢の中で熱に浮かされながら決めたことだからである! 彼は恐ろしくぼんやりして、忘れっぽくなっていた。そして、自分でもそれを知っていた。もう断然急がなければならない!
 彼はV通をネヴァ河さして歩き出した。けれど、途中でふと別な考えがわいてきた! 『なぜネヴァへ行くんだ? なぜ水の中へほうり込むんだ? いっそどこかずっと遠いところ、たとえば島の方へでも行って、どこかその辺のさびしい場所で――森の中かやぶのかげにでもこんな物をすっかり埋めてしまい、立木を目じるしにしておいた方が、よくはないだろうか?』彼はこの瞬間、はっきりした健全な判断力がないのを自覚してはいたものの、この考えは違っていないような気がした。
 とはいえ、島へも行かないで済むめぐり合せになっていた。まるで別な風になってしまったのである。V通から広場へ出ながら、彼はふと左手に当たって、窓一つない殺風景な壁にとり囲まれた裏庭へはいる口を見つけた。右側には、門をはいると庭の奥へかけて、隣りの四階家の荒壁が続いていた。左側には、その荒壁に平行して、同じく門からすぐ板塀になっており、二十歩ばかりも奥へはいると、そこで初めて左へ折れていた。それは全くがらんとした、外界から隔離された空地で、何か建築材料などの置き場になっていた。ずっと先の奥の方には、一見して何かの工場の一部らしい、低いすすけた石造の物置の一角が板塀の陰からのぞいていた。そこはたしか馬車製造所か、鉄工所か、何かそんな風なものに相違ない。門の入り口からそこら一面に、石炭のくずで真っ黒になっていた。『こここそいっさいの物をほうり込んで逃げ出すのにくっきょうな所だ!』という想念がふいに彼の頭に浮かんだ。裏庭には人影もなかったので、彼はちょろりと門内へすべり込んだ。と、すぐ気がついた。門のかたわらの板塀に沿ってといが取りつけてある(それは職工や、組合労働者や、辻馬車屋つじばしゃやなどのたくさん住んでいる、こんな風の家によく設けてある種類のものだ)。樋の上の板塀にはこうした場所につきものの落書がチョークで書いてあった。
『ここに立ち止まること無用』(小便無用の意)してみると、ここへはいって立ち止まっていても、なんの嫌疑もあり得ないから、むしろ好都合である。『ここでどこかその辺へみんな一まとめに捨ててしまって、そのまま逃げ出してやれ!』
 いま一度あたりを見回してから、彼はもう片手をポケットへ突っ込んだ。そのとたんに、外側の壁のすぐ傍で、やっと一アルシンばかりしかない門と樋の間に、大きな割り放しの石が目についた。およそ一プード半(約二十三キログラム)も目方のありそうなもので、通りに面した石壁のすぐわきにあった。この塀の向こうは往来の歩道で、この辺にいつもかなり多い通行人の、あちこちする足音が聞こえていた。しかし、門外からは誰も彼を見つけることはできないはずである。ただ誰か往来からはいってくる時は別問題で、それも大きにありそうなことだ。したがって、急がなければならない。
 彼は石へ身をかがめて、その上の端にしっかり両手を掛け、ありたけの力をしぼって、石をひっくり返した。石の下にはちょっとしたくぼみができていた。彼はすぐポケットからいっさいがっさい取出して、その中へほうり込み始めた。財布は一ばん上になったが、それでもくぼみにはまだ余地があった、それから、彼はまた石に手をかけ、一ころがしでもとの側へ向けた。石はかっきり元の位置に落ち着いた。ただほんの心持高く思われるくらいのものである。けれど彼は土をかきよせて、まわりを足で踏みつけた。もうなんにも目立たなくなった。
 さて彼はそこを出て、広場の方へ足を向けた。とまたもや、先ほど警察で経験したと同じような、強い堪え難いほどの喜びが、ほんの一瞬間、彼の全幅を領した。『もうこれで始末はついた! この石の下を捜そうなんて考えが、いったい誰の頭に浮かぶものか? あの石は、家を建てた時のそもそもからあすこにころがってるんで、これから先も同じくらいの間は、あのままころがっているだろう。よしまた見つけたところで――誰がおれに嫌疑をかけるものか? もういよいよ片付いた! 証拠がないんじゃないか!』こう考えて、彼は思わず笑い出した。そうだ、彼は後々までも覚えていたが、それは神経的な、はてしのない小刻みな、人には聞こえないほどの笑い方だった。そして、広場を通り抜ける間も、ずっと笑い続けていたのである。が、おととい例の少女に出会ったK並木通ブールヴァールへさしかかった時、その笑いはぴたりと止まった。別な想念が彼の頭に忍びこんできた。あの時かの少女が立ち去った後で、彼が腰をかけて、さまざまに思いめぐらしたベンチの傍を通り過ぎるのが、とつぜん恐ろしく忌まわしいことに思われたのである。そして、例の二十カペイカくれてやったひげの巡査にもう一度出会うのも、やはり苦しくてたまらないだろうと思われてきた。『くそ、あんなやつ勝手にしやがれ!』
 彼はそわそわした意地悪い目つきで、あたりを見回しながら歩いた。彼のすべての思考力は、今ある重大な一点の周囲をどうどうめぐりしていた――そして、実際それが非常に重大な点であることを、自分でも感じていた。今という今こそ、彼はこの重大な点に面と面とつき合せた――しかも、それはこの二か月以来初めてのことだとさえいえる。
『ええ、こんなことみんなどうなとなってしまえ!』ふいに彼は、はかり難い憤怒ふんぬの発作にかられながら考えた。『ふん、始まったことは始まったことに違いない、あんなばばあや新生活なんか、くそくらえだ! ああ、実になんという愚劣なことか!……おれは今日どれだけ嘘をついたり、卑劣なまねをしたもんだろう! さっきも、あの胸くその悪くなるような警部風情の鼻息をうかがったり、ごきげんをとったりしたが、なんという陋劣ろうれつなざまだ! もっとも、それだってやはりくだらないことだ! あんなやつらはみんなつばでもひっかけてやればいいんだ! それから、おれが鼻息をうかがったとか、ごきげんをとったとかいうことも、やはりご同様だ! そんなことはまるで見当ちがいさ、まるで見当ちがいさ!……』
 突如、彼は歩みを止めた。まるで思いがけない、新しい、しかもいたって単純な疑問が、一時に彼を真底からまごつかせ、手痛い驚愕きょうがくを感じさせたのである。
『もし実際あのことがふらふらした衝動でなく、意識的に行なわれたものとすれば――しんじつ、貴様に一定の確固たる目的があったものとすれば、なぜ今まで財布の中をのぞきもしないで、自分の手に入れたものを知らずにいるのだ。いったい貴様はなんのためにかほどの苦痛を一身に引受けたのだ? なんのためにあんな陋劣な、けがらわしい、卑しい行為を意識して断行したのだ? 貴様はたった今あの財布をほかの品と一緒に(ほかの品だってやはり調べて見やしなかった)、水の中へほうり込もうとしたじゃないか…これはいったいなんとしたことか?』
 そうだ、その通りだ、何もかもその通りだ。もっとも、これは彼も前から心づいていることで、けっして新しい疑問ではない。すでに昨夜それを決めた時から、なんの動揺も反問もなく、あたかもそれが当然のことで、ほかにはなんともしようがないかのように、思い込んでいたのである……そうだ、彼はそれを意識していた、何もかもわかっていた。それはきのう彼が、トランクの上にかがみ込んで、サックなどを引っ張り出していた瞬間から、ほとんどそう決めていたとさえいえる……全くその通りではないか!
『これはつまり、おれがひどい病気にかかっているせいだ』とうとう彼は気むずかしげに断定した。『おれは我とわが身を苦しめて、へとへとにさいなみながら、自分で自分のしていることがわからないのだ……昨日も、一昨日も、いや、ずっとこの間じゅうから、自分で自分をさいなんでいたのだ……健康さえ回復したら……自分で自分を苦しめるようなこともしなくなるだろう……だが、もしまるで回復しなかったら! ああ、もうこんなことつくづくいやになった!……』彼は立ち止まろうともせず、歩き続けていた。なんとかして気をまぎらしたいと思ったが、どうしたらいいか、どんなことを始めたらいいか、見当がつかなかった。ただどうもこうもならない一つの感触が、ほとんど一刻ましに強く強く、彼の心を領して行った。それは目に触れる周囲のすべてに対する、限りない嫌悪の情であった。それはほとんど生理的なものといっていいほどで、執拗しつような、意地わるい、憎しみに満ちたものである。彼は行き会うすべての人が忌まわしかった。彼らの顔、歩き振り、挙動までが忌まわしかった。もし誰かが話しかけでもしようものなら、彼はいきなりその男に唾でも吐きかけるか、かみつきでもしたかもしれない……
 ヴァシーリエフスキイ島にある小ネヴァ河の河岸通の、とある橋のたもとへ出た時に、彼は突然立ち止まった。『ああここにあの男が住んでいるんだ、この家に』と彼は考えた。『これはどうしたんだ、どうやらおれは自分から、ラズーミヒンのとこへやって来たらしいぞ! またあの時と同じようなことになっちゃった……だが、なかなか面白いぞ――おれはわざわざ自分でやって来たのか、それともただ歩いているうちに、ここへ来て来たのか? まあ、どうでもいいや。おれは自分でそういったじゃないか……そうだ、一昨日のことだ……あれが済んだらその翌日、やつの所へ出かけようって。なに、ぐずぐずいうことはない、行ってやれ! まるで今はもう、あの男のところは寄れないかなんぞのようにさ……』
 彼はラズーミヒンの住まいをさして、五階へ上って行った。
 当人は家にいた。ちょうどそのとき自分の小部屋で、何やら書き物をしていたので、自分でドアをあけてくれた。二人は四月よつきも会わなかったのである。ラズーミヒンは、ぼろぼろになるまで着古した部屋着をまとって、素足に上靴を引っかけ、ひげもあたらなければ顔も洗わず、ぼうぼう頭のままでいた。彼の顔には驚きの表情が現われた。
「君どうしたんだい?」はいって来た友を、頭から爪先つまさきまでじろじろ見回しながら、彼はこう叫んだ。それからしばらく無言の後、ひゅうと口笛を鳴らした。
「いったいそんなにまでひどいことになっているのかい? いや、君、それは我々仲間の上手うわてをいってるぜ」ラスコーリニコフのぼろを見回しながら、彼は言い足した。「さあ、掛けろよ、どうやら疲れているようだね!」そして、こちらが彼自身のよりもっとひどい、模造皮張りのトルコ式長椅子デイヴァンに、どっかり身を投げ出したとき、ラズーミヒンはふいと客が病気なのに気がついた。
「君はよっぽど体が悪いらしいぜ、君自身でそれを知ってるかい?」
 彼は友の脈を見ようとした。ラスコーリニコフはその手をもぎ放した。
「よせ」と彼は言った。「僕が来たのは……こういうわけさ。僕いま出稽古でげいこの口がまるでないんだ……で、なんとかして……もっとも、出稽古の口なんかちっともほしかないが……」
「おい、君、君はうわ言をいってるんだぞ!」じっと相手を観察していたラズーミヒンは、そう注意した。
「いいや、うわ言なんかいってやしない……」
 ラスコーリニコフは長椅子から立ち上がった。彼は、ラズーミヒンの所へ上ってくる途中も、この友だちと顔を突き合わさねばならないということを、考えもしなかったのである。ところが、いま彼は一瞬の間に、この場合世界中の誰であろうとも、人と顔を突き合わすなどという気分にはまるでなっていないのを、実地の経験で悟ったのである。体内にありったけの癇癪かんしゃくがむらむらとこみ上げてきた。彼はラズーミヒンの家の敷居をまたいだということだけで、そうした自分自身に対する腹立たしさのあまり、ほとんどむせ返りそうな気がした。
「失敬!」と彼はだしぬけに言って、戸口の方へ歩き出した。
「おい、待てよ、君、待てというのに、変人だなあ!」
「いいよ……」こちらはまた手を振り放しながら、こうくり返した。
「ふん、それくらいなら、貴様なんのためにやって来やがったんだ! 血迷いでもしたのか! だってそれは……ほとんど侮辱じゃないか。僕はこのまま帰しゃしないよ」
「じゃ、聞きたまえ――僕が君んとこへ来たのは、つまり君以外に僕を助けて……始めさしてくれる人を、誰も知らないからなんだ……だって、君は世間の誰よかも一ばん善良で、というより一ばん聡明そうめいで、物を判断する力を持っているからさ……けれど今は、なんにもいらないことがわかった、いいかい、まるっきりなんにもいらないんだ、誰の助けもかかり合いもいらない……僕は自分……一人で……いやもうたくさんだ! 僕にかまわないでくれ!」
「まあ、ちょっと待て、この煙突掃除め! まるで気ちがいだ! 僕の言うことを聞いてから、あとはなんとでも勝手にしろ。実はね、出稽古の口は僕にもない。それに、そんなものくそくらえだ。ところがさ、古物市場トルクーチィの本屋で、ヘルヴィーモフという男がいる。これがまあ一種の口なんだ。今じゃ僕は、商人の家の出稽古を五つぐらい持って来たって、こいつととっかえっこしないよ。この男は怪しげな出版をやっていてね、通俗科学の本なんかも出してるんだ――ところが、それがすてきにはけるじゃないか! 標題だけでも大した値うちもんだからね! ほら、君はいつも僕を馬鹿にきめていたが、全くのところ、君、僕に上こす馬鹿がいるぜ! 近頃じゃやっこさん、人並みに傾向がどうとかってなことを言い出したんだからなあ。自分じゃなんにもわからないくせにさ。だが、僕はもちろん、大いに奨励してやってるよ。で、ここにドイツ語の原文が二台分の余あるが――僕に言わせりゃ、ばかげ切った山師論文さ――手っとり早くいえば、女は人間なりや否やという問題を研究して、最後にはもちろん堂々たる論法で、人間なりと証明しているのさ。ヘルヴィーモフはこいつを婦人問題の本に仕立てようてんで、僕が翻訳を引受けたわけさ。先生この二台半ばかりの代物しろものを六台くらいに引のばして、ページ半分も埋まるようなでかでかの標題をつけて、五十カペイカで売り出すんだ。それで立派に立ちいくんだぜ! 僕は翻訳料[#「翻訳料」は底本では「翻訳科」]として一台分六ルーブリもらうから、つまり全部で十五ルーブリ手にはいる勘定だが、もう六ルーブリは前借りしちゃった。これが済むと、鯨の本の翻訳を始めるんだ。それから『懺悔録コンフェッション』の第二部の中からも、思い切ってくだらない無駄話をえり出しておいたから、これもそのうちに訳すわけだ。誰だったかヘルヴィーモフをつかまえて、ルソーは一種のラジーシチェフ(十九世紀の初頭に現われたロシアの先駆的思想家、農奴制度に世人の注意を喚起した第一人者)だなんて言ったからさ。僕はむろん反対なんかしない。あんなやつどうだって勝手にしやがれだ! そこで、君も『女は人間なりや』の一台目を訳してみないか? やる気があったら、今すぐテキストを持っていきたまえ。ペンも紙も持っていくがいい――みんな官費だからね――そして、三ルーブリも持ってっていいよ。僕は第一台の分と、二台目の分も、すっかり前借りしちゃったから、三ルーブリは当然君のものになるわけさ。その一台分を済ますと、また三ルーブリ受け取れるぜ。ああ、それからね、これは僕が君に何か恩でもかけてるなんて、そんなことを考えないでくれよ。それどころか、僕は君がはいってくるが早いか、こいつは僕にとって、ありがたい人になるなと、心の中で決めたんだよ。第一に、僕は正字法が得意でないし、第二には、ドイツ語の方だって全然へなちょこだから、まあどっちかといえば、自分で創作する方が多くなるんだ。もっとも、その方がかえってよくなるもんだから、それを慰藉いしゃにしてはいるがね。しかし、ことによったら、よくならないで、悪くなってるかもしれん。そんなことは誰にもわかりっこなしさ……君、引受けるかどうする?」
 ラスコーリニコフは無言のまま、ドイツ語の論文を取り上げ、三ルーブリを手にすると、一言も口をきかないで、ぷいと出てしまった。ラズーミヒンはあっけにとられ、そのあとを見送っていた。が、一丁目のところまで来ると、ラスコーリニコフは急にくびすを返し、またラズーミヒンのところへのぼって行った。そて、ドイツ語のテキストと三ルーブリをテーブルの上へ置くと、またもや一言も口をきかずに、さっさと出てしまった。
「君はいったい脳炎でもやってるのかい!」とうとうラズーミヒンは、かんかんにおこり出して、どなりつけた。「なんだってそんな道化芝居を打ってみせるんだ! 僕でさえ面くらわされるじゃないか……それくらいなら、なぜやって来たんだ、ちくしょう?」
「いらない……翻訳なんか……」と、ラスコーリニコフはもう階段をおりながら、こうつぶやいた。
「じゃ、いったい貴様は何がいるんだい?」とラズーミヒンは上からどなった。
 こちらは黙々と階段をおりつづけた。
「おおい! 君はいったいどこにいるんだ!」
 答えはない。
「ちょっ、そんなら勝手にしやがれ!……」
 しかし、ラスコーリニコフはもう通りへ出ていた。ニコラエフスキイ橋の上で、きわめて不愉快な一事件のために、彼はもう一度はっきりわれに返った。ほかでもない、ある幌馬車ほろばしゃの御者が、三度も四度もどなりつけたにかかわらず、彼が危く馬の首の下へはいってきそうになったので、むちでぴしっと背中をどやしつけたのである。鞭の打撃は、彼の心に激しい憤怒ふんぬを呼び起こした。彼は欄干らんかんの方へ飛びのいて(なぜ歩道でなく、車道になっている橋のまんなかを歩いていたのか、それはまるでわからない)憎々しげに歯を食いしばって、きりきりと鳴らした。あたりにはいうまでもなく、どっと笑い声が起こった。
「いい気味だ!」
「どっかのやくざ野郎よ」
「わかり切ってらあな、酔っぱらいのまねをして、車の下に敷かれてよ、さあどうしてくれる、ってやつなんさ」
「それが商売なんでさ、お前さん、それが商売なんでさ……」
 けれどその時、彼はまだ依然として欄干のかたわらに立ったまま背中をさすりながら、しだいに遠ざかって行く馬車のあとを無意味な毒々しい目つきで見送っていたが、ふと誰かが手に金をつかませるのに気がついた。見ると、それは頭巾ずきんをかぶって山羊皮ヤンピーの靴をはいたもう年配の商家の女房で、そばには帽子をかぶって緑色のパラソルを持った女の子がいた。たぶん娘なのだろう。『とっておくんなさいよ、お前さん、クリストさまのためにね』彼は受取った。二人はそのまま通り過ぎた。金は二十カペイカ銀貨だった。身なりと全体の様子で、二人は彼を全くの乞食こじき、街頭における本物の袖乞そでごいと思い込んだらしい。大枚二十カペイカ奮発したのも、あの鞭が女に惻隠そくいんの情を起こさせたからに違いない。
 彼は二十カペイカ銀貨を手に握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はほとんどコバルト色をしていた。それはネヴァ河として珍しいことだった。寺院の円屋根ドームはこの橋の上からながめるほど、すなわち礼拝堂まで二十歩ばかり隔てた辺からながめるほど鮮やかな輪郭を見せる所はない。それがいまさんらんたる輝きを放ちながら、澄んだ空気を透かして、その装飾の一つ一つまではっきりと見せていた。鞭の痛みは薄らぎ、ラスコーリニコフは打たれたことなどけろりと忘れてしまった。ただ一つ不安な、まだよくはっきりしない想念が、いま彼の心を完全に領したのである。彼はじっと立ったまま、長い間ひとみを据えてはるかかなたを見つめていた。ここは彼にとって特別なじみの深い場所だった。彼が大学に通っている時分、たいていいつも――といって、おもに帰り道だったが――かれこれ百度ぐらい、ちょうどこの場所に立ち止まって、しんに壮麗なこのパノラマにじっと見入った。そして、そのたびにある一つのばくとした、解釈のできない印象に驚愕きょうがくを感じたものである。いつもこの壮麗なパノラマがなんともいえぬうそ寒さを吹きつけてくるのだった。彼にとっては、この華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に満ちているのであった……彼はそのつど、われながらこの執拗しつような謎めかしい印象に一驚をきっした。そして、自分で自分が信用できないままに、その解釈を将来へ残しておいた。ところが、いま彼は急にこうした古い疑問とけげんの念を、くっきりとあざやかに思い起こした。そして、今それを思い出したのも、偶然ではないような気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止まったという、ただその一事だけでも、奇怪なありうべからざることに思われた。まるで、以前と同じように思索したり、つい先ごろまで興味をもっていたのと同じ題目や光景に、興味をもつことができるものと、心から考えたかのように……彼はほとんどおかしいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸がしめつけられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足もとに、こうした過去いっさいが――以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何もかもが見え隠れに現われたように感じられた……彼は自分がどこか高いところへ飛んで行って凡百のものがみるみるうちに消えていくような気がした……彼は思わず無意識に手をちょっと動かしたはずみに、ふとこぶしの中に握りしめていた二十カペイカを手に感じた。彼は拳を開いて、じっと銀貨を見つめていたが、大きく手をひとふりして、水の中へ投げ込んでしまった。それからくびすを転じて、帰途についた。彼はこの瞬間かみそりか何かで、自分というものをいっさいの人と物から、ぶっつり切り放したような思いがした。
 彼はもう夕方になって家へたどりついた。してみると、みんなで六時間も歩き回ったわけである。どこをどう歩いて帰ってきたのか――彼はさっぱり覚えがなかった。服を脱ぐと、へとへとに追い使われた馬のように、全身をわなわなふるわせながら、長椅子の上へ横になって、外套がいとうを引っかぶると、たちまちなんにもわからなくなった。
 たそがれの色がすっかり濃くなったころ、彼は恐ろしい叫び声で我に返った。大変、いったいなんとした叫び声だろう! こんな不自然な物音や、こんな咆哮ほうこうや、悲鳴や、歯がみや、哀泣あいきゅうや、乱打や、罵詈雑言ばりぞうごんは、いままでついぞ一度も聞いたことも、見たこともない。こんな獣のような暴行ざた、こんな激しい憤怒の発作は、想像することさえできなかった。彼は恐ろしさに身を起こして、ひっきりなしに肝を消したり、悩みもだえたりしながら、寝床の上にすわっていた。しかし、つかみ合いの音や、悲鳴や、ののしる声は、ますます激しくなっていく。やがて、驚き入ったことに、彼はふとこの家のおかみの声を聞き分けた。彼女はうなったり、金切り声で叫んだり、なにやらしきりにかきくどいている。あわててせきこんで、ことばをぬかしたりしながら、祈るような調子でしゃべっているので、何をいってるのやら聞き分けられなかったが――それはもちろん、階段で情容赦なくぶたれているのだから、ぶつのをよしてくれと、祈っているに相違ない。ぶっている男の声は、憎悪と憤怒のために聞くも恐ろしいほどで、ただしゃがれたおんを出すばかりだったが、それでもやはりせきこんで咽喉のどをつまらせながら、何かしら早口にわけのわからぬことをしゃべっていた。と、ふいにラスコーリニコフは、木の葉のようにわななき始めた――彼はその声に気がついたのである。それは副署長の声であった。イリヤー・ペトローヴィッチがここに来ていて、おかみをぶっているのだ! 足蹴あしげにしたり、頭を段々へぶっつけたりしている――それは明瞭めいりょうだ。物音や、悲鳴や、打擲ちょうちゃくの音でわかる! ぜんたいこれは何事だ、世界がひっくり返りでもしたのか? どの階にも、どの階段にも、群衆の集まってくるのが聞こえる。人声や叫びが聞こえてくる。階段をのぼってくる、靴をごとごと鳴らす、ドアをばたんばたんいわせる。方々からかけ集まってくる。『しかし、ぜんたいなんのためだ、なんのためにあんなことをするのだ? どうしてあんなことができるのだろう?』もう真剣に自分は気ちがいになったと考えながら、彼はこうくり返した。しかしそんなはずはない、あんまりまざまざと聞こえ過ぎる……してみると、もしそうだとすると、ここへもすぐやってくるに相違ない。『だって……確かにこれはあのことから……昨日のことから起こったんだもの……さあたいへんだ!』彼は戸にかぎをかけようとしたけれど、手が上がらなかった……それにまたむだなことだ! 氷のような恐怖は彼の魂を包み彼を悩まし抜いたあげく、彼の身体を化石同然にしてしまった……けれどもやがて、まるまる十分間から続いたこの騒動も、ようやくだんだん静まっていった。おかみはため息をついたり、うなったりしているし、副署長はまだやはりおどしたり、ののしったりしていたが……やがて、いよいよ彼も鳴りを静めたらしい。ああ、もう彼の声も聞こえない。『本当に行ってしまったんだろうか! ありがたい!』そうだ、現におかみも相変わらずうなったり、泣いたりしながら、引取っていく……さあ、とうとう居間のドアがぱたんとしまった……見物の群衆も階段を引上げて、それぞれの住まいへ散っていく――ため息をついたり、いい争ったり、叫びかわしたりしていたが、その声はわめき声に近いほど高くなるかと思うと、ささやくように低くなるのであった。てっきり、うようよ集まったに相違ない。ほとんど建物じゅうの人が駆けつけたものらしい。『だが、どうも、これは実際ありうべきことだろうか! それにどうして、どうしてあいつがここへやってきたのだ!』
 ラスコーリニコフはぐったりと長椅子の上に倒れたが、もう目をふさぐことはできなかった。かつて経験したこともないような、限りない恐怖の堪え難い感じと名状し難い苦痛の中に、三十分ばかりぶっ倒れていた。ふいにあざやかな光線が彼の部屋をぱっと照らした――ナスターシャが蝋燭ろうそくとスープの皿を持ってはいって来たのである。彼女は注意深く彼を見回して、眠っていないのを見定めると、蝋燭をテーブルの上に置き、持ってきた物を並べ始めた――パンと、塩と、皿と、さじだ。
「おおかた昨日から何も食べなかったんだろうね。一日ほっつき歩いてさ、しかもおこりで体じゅうふるわしてるんだからね」
「ナスターシャ……どうしてかみさんはぶたれたんだい?」
 彼女は穴のあくほど彼を見つめた。
「誰がかみさんをぶったの?」
「今しがた……三十分ばかり前に、イリヤー・ペトローヴィッチが、警察の副署長が、階段の上で……なぜあの男があんなにおかみさんを打ちのめしたんだい! そして……なんのために来たんだい?」
 ナスターシャは黙ってまゆをひそめながら、じろじろ彼を見回した、いつまでも見つめているのであった。彼はこの長い凝視のために、不愉快でたまらなくなった、それどころか、恐ろしくさえなった。
「ナスターシャ、なんだって黙ってるんだい?」とうとう彼は弱々しい声で、おずおずと言った。
「それは血だよ」やがて彼女は小さな声で、ひとり言のように答えた。
「血!……なんの血だ!……」彼はさっと青くなって、壁の方へじりじりさがりながら、こうつぶやいた。
 ナスターシャは無言のまま彼をながめつづけた。
「誰もかみさんをぶちゃしないよ」彼女はまたもや、いかつい、きっぱりとした調子で言い切った。
 彼はほとんど息もしないで彼女を見つめていた。
「おれはこの耳で聞いたんだ……おれは寝てやしなかった……腰かけていたんだ」と彼は前よりさらにおずおずと言った。
「おれは長いこと耳を澄ましていたよ……副署長がやって来て……みんなが駆け出して、階段の方へ集まったじゃないか。どの住まいからも……」
「誰も来やしないよ。それはあんたの体の中で血が暴れているせいだよ。血の出所がなくなって、うつして濃くなってくると、いろんなものが見えたり聞こえたりするのだよ……ご飯はどう、食べるかね?」
 彼は返事をしなかった。ナスターシャは彼の枕もとにたたずんだまま、じいっとその顔を見つめながら、出て行こうともしなかった。
「飲むものをくれ……ナスターシュシュカ」
 彼女は下へおりて行ったが、二分ばかり立って、安物の陶器せとの水飲みに、水を入れて引っ返した。が、彼はその先どうなったか、もう覚えていなかった。ただ覚えているのは、冷たい水を一口のんで、水飲みから胸へ水をこぼしたことだけである。それから人事不省になってしまったのである。


 とはいえ彼は病気の間じゅう、まるまる人事不省だったわけでもない。それは夢魔と半意識の入りまじった、熱病的な状態だった。彼は後になっていろいろな事を思い起こした。どうかすると、まわりに大勢の人が集まって、彼をつかまえてどこかへ連れて行こうとする。そして、彼のことをそうぞうしく議論したり、争ったりしているような気がした。かと思うと、今度は急にみんな外へ出てしまって、彼一人きり部屋の中にいる、人々は彼を恐れて、時たまほんのぽっちりドアをあけて様子をうかがい、彼をおどすまねをしたり、自分たち同士で何やら打ち合わせをしたり、笑ったり、からかったりしている。ナスターシャがしょっちゅう傍にいたのも、彼はよく覚えている。それから、もう一人の男も見分けることができた。なんだか知合いらしくもあるが、はたして誰なのか――どうしても想像がつかないので、彼はそれがじれったくって泣いたくらいである。どうかすると、もう一月もふせっているような気もしたが、また時には、やはり同じ日が続いているようにも思われた。しかし、あの事は――あの事件はとんと忘れてしまっていた。その代わり、何かしら忘れてならない事を忘れている、ということを絶えず思い起こすのであった――そして、思い出してはもだえ苦しみ、うめき声を立て、もの狂おしい憤りか、さもなくば身も世もあらぬほど堪え難い恐怖にとらわれる。そのような時、彼は飛び上がって駆け出そうとしたが、いつも誰かが力ずくで引きとめる。で、彼はまたしても力がぬけ、人事不省に陥るのであった。やがてようよう全く正気に返った。
 それは午前十時ごろのことだった。朝のこの時刻になると、晴れた日ならば、太陽はいつも長いしまをなして、部屋の右手の壁にすべり抜け、戸口の片隅を照らした。ベッドのかたわらにはナスターシャと、いま一人一面識もない男が、物珍しそうに彼を見回しながら立っていた。それは長外套カフタンを着、あごひげをたくわえた若者で、見たところ組合の労働者らしかった。半ば開いた戸口からは、おかみが顔をのぞけていた。ラスコーリニコフは身を起こした。
「これは誰だい、ナスターシャ?」と彼は若者を指さしながらたずねた。
「ああら、気がついたよ!」と彼女は言った。
「気がついたね」組合労働者も応じた。
 戸口からのぞいていたおかみは、彼が気のついたのを察すると、すぐにドアをしめて姿を隠した。彼女はいつも引っ込み思案のたちで、こみ入った話や掛合いがつらくてたまらない方だった。彼女は年ごろ四十格好、黒い目に黒い眉をした、ふとって脂ぎった女で、肥満と不精のために人が好かった。そして、器量もなかなか踏める方だったが、度外れにはにかみやなのであった。
「君は……誰です?」今度は当の組合労働者に向かって、彼はまた問いかけた。
 けれど、この時ふたたびドアがさっとあけ放されて、背が高いので少しかがむようにしながら、ラズーミヒンがはいって来た。
「まるで船室だ」とはいって来ながら彼は叫んだ。「いつもおでこをぶっつけちまうんだ。これでもやはり住まいと称してるんだからなあ! 君、気がついたってね! 今パーシェンカ(主婦の名)から聞いたよ」
「たったいま気がついたんだよ」とナスターシャが言った。
「たったいま気がつかれたんで」と組合労働者も、微笑を浮かべながらあいづちを打った。
「ところで、そういう君はどなたでいらっしゃるんですね?」突然彼の方へ向き直りながら、ラズーミヒンは尋ねた。「僕はごらんの通り、ヴラズーミヒンです。皆さんはラズーミヒンとおっしゃるが、実はそうじゃなくてヴラズーミヒンです。大学生で、士族のせがれです。そして、この男は僕の友人と。さてところで、君はいったいどなたですね?」
「わっしは労働組合の事務所にいるもんですが、商人のシェラパーエフの使いでこちらへ伺ったんで、用がありましてね」
「どうぞこの椅子にお掛けください」テーブルの反対側から、ほかの椅子に腰をおろしながら、ラズーミヒンは言った。「でも、君、気がついてくれてよかったなあ」と彼はラスコーリニコフの方へ向きながらことばを続ける。「もうこれで四日というもの、ほとんど飲まず食わずなんだからなあ、実際、お茶をさじで飲ませてたんだぜ。僕はここへゾシーモフを二度も引っ張ってきたよ。ゾシーモフを覚えてるかい? 先生、綿密に君を診察したが、すぐになんでもない、何かちょっと脳にさわったんだろう、とこう言ったよ。ごくつまらない神経症だそうだ。まかないの方が悪くって、ビールとわさびが足りなかったもんだから、それで病気も出たわけだが、なに大丈夫、今に自然となおるそうだよ。ゾシーモフのやつ、なかなかえらいぜ! 堂々たる治療ぶりを見せるようになったよ。いや、しかしもうお話の邪魔はいたしません」と彼は再び組合労働者の方へ振り向いた。「どういうご用ですか、一つ説明を願えませんでしょうかね? 注意しておくがね、ロージャ、このお方の事務所から使いがみえたのは、もうこれで二度目なんだぜ。もっとも、せんはこの男じゃなくて、別なのだったよ。僕はその男と話していたんだ。あれはどなたでしたかね、あなたの前にみえたのは?」
「あれはきっと一昨日おとついのことでございましたろう、確かにそうです。アレクセイ・セミョーヌイチがお伺いしたので。やはりわっしどもの事務所に勤めていますんで」
「ですが、あの人は君より多少ものわかりのいい方じゃないでしょうか、いかがお考えですな?」
「さよう、確かにずっとしっかりしております」
「これは感心な心がけだ。さあ、話の続きを願います」
「実は、アファナーシイ・イヴァーヌイチ・ヴァフルーシン、多分たびたびお聞き及びのことと思いますが、あのかたの手を通して、あなたのおふくろさんの振り出しなさった為替かわせが、わっしどもの事務所へ参っておりますので」と男は直接ラスコーリニコフに向かって言い出した。「で、あなたが物のわきまえがつくようになられたら、三十五ルーブリお渡しするはずになっておりますので。つまり、おふくろさんが為替を振り出しなさったことにつきまして、セミョーン・セミョーヌイチがアファナーシイ・イヴァーヌイチの手から、前々どおりの方法で通知を受け取られたのでございます。ご承知でいらっしゃいますか?」
「そう……覚えてる……ヴァフルーシン……」とラスコーリニコフは考え深そうに言った。
「どうです、この男は商人のヴァフルーシンを知っていますよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「これがどうして正気がないんだ? もっとも今になって気がついたが、君もやはりものわかりのいい人間だ。いや、どうも! 賢い人の話というものは聞いていても気持がいいですよ」
「つまりそのかたなんで、ヴァフルーシンさん、アファナーシイ・イヴァーヌイチなんでございます。この人があなたのおふくろさんご依頼で、前にも一度同じようなあんばい式で、こちらへ送金なさいましたが、今度もいなやをおっしゃらないで、一両日前あちらからセミョーン・セミョーヌイチのところへ、三十五ルーブリの金をあなたに渡してくれ、匆々頓首そうそうとんしゅと、こういう通知があったのでございます」
「いや、『匆々頓首』は一番の傑作だ。『あなたのおふくろさん』云々うんぬんも悪くなかった。ところで、君のご意見はどんなもんでしょう、この人はすっかり正気に返ってるでしょうか、それとも返っていないでしょうか――え?」
「わっしなんかどうでもかまいませんよ。ただ受取りさえきちんとしてればけっこうなんで」
「どうにかこうにか書くだろう! 君の方じゃなんですかね、帳簿にでもなってる?」
「帳簿なんで。この通り」
「こっちへもらいましょう。さあ、ロージャ、起きろよ。僕がささえてるから。やっこさんに『ラスコーリニコフ』と一筆ふるってやれよ。ペンを持ちたまえ。だって、君、今のわれわれにゃ金はみつ以上だからね」
「いらない」とペンを押しのけながら、ラスコーリニコフは言った。
「いらないとは、そりゃまたどうしたことだ?」
「署名なんかしないよ」
「ちょっ、こんちくしょう、受取りを書かないでどうするんだ?」
「いらない……金なんか……」
「えっ、金がいらないって! おい、君、そりゃでたらめだよ、僕が証人だ!――どうかご心配なく、こりゃ先生ただちょっくら……まだ夢の国をうろついているもんだから。もっとも、この先生はうつつでも、時々こういうことがあるんでね……ねえ、君は分別のある方だから、一つ二人がかりで、この男を指導してやろうじゃありませんか。といって何も造作はない、この男の手を持って動かしてやる。すると、この男が署名したわけですよ。さあ、とっかかろうじゃありませんか……」
「ですが、わっしはまた出直して参りましょう」
「いやいや、そんなご心配にゃ及びませんよ。君は分別のある人だから……さ、ロージャ、あんまりお客さんをひっぱっとくもんじゃないよ……見たまえ、待っておられるじゃないか」こう言って、彼はまじめにラスコーリニコフの手を持ってやる身構えをした。
「いいよ、自分でする……」と言うなり、ラスコーリニコフはペンを取って、帳簿に署名した。組合の男は金を置いて、出て行った。
「しめた! ところで、今度は何か食べたくないか?」
「食べたい」とラスコーリニコフは答えた。
「君んとこにスープあるかい?」
「昨日のだよ」さっきからずっとこの場に立っていたナスターシャが、そう答えた。
「じゃがいもとひきわり米のはいったのか?」
「じゃがいもとひきわりのはいったのよ」
「ちゃんとそらで知ってらあ。じゃ、スープをよこせよ。そして、お茶を持って来てくれ」
「もって来るよ」
 ラスコーリニコフは深い驚きと鈍い無気味な恐怖をいだきながら、始終の様子をながめていた。彼はいっさい沈黙を守って、このさき何があるか待つことに心を決めた。
『どうもおれは熱に浮かされているのじゃないらしい』と彼は考えた。『どうもこれは本当のことらしい……』
 二分ばかりたつと、ナスターシャがスープを持って引っ返した。そして、すぐに茶もくると告げた。スープにはさじが二本と皿が二枚、ほかに付属食器が全部――塩入れ、こしょう瓶、牛肉用のからし入れなどがついている。こんなにきちんとそろったことは、絶えて久しくないことである。テーブル・クロースも洗いたてだった。
「なあ、ナスターシュシュカ、おかみさんがビールを二本ばかりよこしてくれると、悪くないんだがな。一杯やりたいんでね」
「まあ、この長脛ながすねったら!」とナスターシャはつぶやいて、命を果たすために出て行った。
 ラスコーリニコフはけうとい緊張した目つきで、凝視を続けていた。その間に、ラズーミヒンは長椅子に席を移して、彼と並んで腰をおろし、当人は一人で起きることもできたのに、熊よろしくの無骨な格好で、左手に彼の頭をかかえ、右手にスープのさじを持ち、病人が口を焼かないように、あらかじめ幾度も吹いてから、彼の口へ持っていってやった。けれど、スープはわずかに暖かいというだけであった。ラスコーリニコフはむさぼるように一さじのむと、つづいて二さじ、三さじと飲みほした。けれどもいくさじか口へ運んだのち、ラズーミヒンはふいに手を止めて、これ以上はゾシーモフに相談してからでなければと言った。
 ナスターシャがビールを二本もってはいってきた。
「お茶はいらないかい?」
「ほしいよ」
「ナスターシャ、お茶も早く頼むぜ。お茶の方は、医科先生に相談しなくてもかまわんだろうからな。だが、いよいよビールがきた!」と彼は自分の椅子に席を移して、スープと牛肉を手もとへ引寄せると、まるで三日も食わなかったような勢いで、さもうまそうに食い始めた。
「僕はね、君、ロージャ、このごろ毎日君んところで、こういう食事をしてるんだぜ」牛肉をいっぱいつめこんだ口の許す範囲内で、彼はむにゃむにゃと言った。「これはみんなパーシェンカ、君んとこのおかみがまかなってくれたんだよ。あの女、一生懸命に僕にちやほやしてくれるのさ。むろん、僕はかくべつ主張もしないが、拒絶もしないんだ。さあ、ナスターシャがお茶を持ってきた。どうも機敏な女だなあ! ナスチェンカ、ビールはどうだね」
「ええ、ふざけるでないよ!」
「じゃ、お茶は?」
「お茶はもらってもいいけど」
「つぎたまえ。いや、待てよ。おれが手ずからついでやろう。テーブルの前にかけたまえ」
 彼はさっそく手順をつけて一杯ついだのち、また別の茶碗に一杯つぐと、朝飯をおっぽり出して、また長椅子に帰った。彼は前と同じように、左手で病人を抱いて、少し持ち上げるようにし、またぞろ一生懸命にひっきりなく吹きながら、茶さじから茶を飲ませ始めた。まるでこのさじを吹くという手順の中に、健康回復上もっとも重大な回生の要点が含まれている、とでもいうようなようすであった。ラスコーリニコフは誰の手を借りなくとも、長椅子の上に身を起こして、じっとすわっているだけの力は十分あるし、さじや茶わんを持つくらい手の自由がきくのみか、歩くことさえできるかもしれないと感じてはいたけれど、じっとおし黙って逆らおうともしなかった。一種不思議な、ほとんど野獣めくほど狡猾こうかつな本能から、しばらくある時期まで自分の力を隠してじっと息をひそめ、必要に応じてあまりはっきり意識のないさまを装いながら、その間に周囲の情勢がどうなっているか、聞き耳を立てて探り出してやろうという考えが、とつぜん彼の頭にわいたのである。とはいえ、心内の嫌悪感を抑えることはできなかった。十さじばかりも茶をすすると、彼はふいに頭を振り放して、気まぐれな様子でさじを突き戻すと、また枕の上へ身を倒した。彼の頭の下には、今では本物の枕が置いてあった――さっぱりとしたおおい布のかかった羽根枕である。彼はこれにもやはり気がついて、考慮に入れておいた。
「パーシェンカに今日さっそく木いちごのジャムをよこしてもらおう。この男の飲むものを作ってやらなくちゃ」ラズーミヒンは自分の席へ戻って、またスープやビールに取っかかりながら言い出した。
「おかみさんがなんでお前さんなんかに、木いちごを取ってくれるもんかね?」五本の指をひろげた上に受け皿をのせ、口に含んだ砂糖で茶をこして飲みながら、ナスターシャはこう言った。
「木いちごはな、お前、店へ行ってとってきてくれるよ。ロージャ、実はこんど君の知らない間に、大した事件があったんだよ。君があんなかたり同然のやり口で、居所もいわずに僕のところから逃げ出したとき、僕はいまいましくっていまいましくってたまらなかったので、君をさがし出して制裁してやろうと決心したのさ。そして、すぐその日から着手して、歩いたわ歩いたわ、たずねたわ、たずねたわ! 今のこの住まいを僕は忘れてたのさ。もっとも初手から知らなかったんだから、覚えていないのがあたりまえよ。だがね、君の前の住まいは覚えていた――五辻ピャーチウグロフでハルラーモフの家と、それだけ記憶に残っている。で、僕はこのハルラーモフの家をさんざんさがし回ったね――ところが、あとでわかったんだが、ハルラーモフの家じゃなくって、ブッフの家だったのさ――どうもおんというやつは間違いやすいもんでね! とうとう僕は癇癪かんしゃくを起こしちゃった。癇癪を起こしてさ、あくる日また、むだでもなんでもかまわん気で、警察の住所係へ出かけたんだ。ところが、まあどうだ、一分か二分の間に君の名を見つけてくれたんだ。君の名は警察にちゃんと書き留めてあるぜ」
「書き留めてある?」
「そうともさ。ところが、カベリョーフ将軍という人は、僕もそばで見ていたが、どうしても捜し出せなかったんだからな。いや、話せばずいぶん長いことだがね。僕はここへ乗り込むとすぐさま、君に関係した事件をすっかり聞かされちゃったよ。すっかりだぜ、君、僕はもうなんでも知ってるよ。この女も知ってるよ。僕はニコジーム・フォミッチとも知り合いになれば、イリヤー・ペトローヴィッチ(副署長)にも紹介してもらった。それから庭番とも、ザミョートフ氏――ほら、あのアレクサンドル・グリゴーリッチ、つまりここの警察の事務官とも、それから最後にパーシェンカとも知り合いになった――これなんかは全く僕の功労に対する月桂冠げっけいかんだね。現にこの女も知ってるが……」
「うんと砂糖をきかせたもんだでね」と狡猾そうににやにや笑いながら、ナスターシャがつぶやいた。
「じゃ、お茶に入れて召し上ったら、ナスターシャ・ニキーフォロヴナ」
「まあ、このおす犬め!」だしぬけにナスターシャはこう叫びながら、ぷっと吹き出した。「だって、わたしのお父さんはピョートルですもの、ニキーフォロヴナじゃないでないか」とまたふいに笑いやめて彼女はつけ足した。
「いや、おことば玩味がんみいたしますでございます。そこで、君、むだは抜きにして、僕は初め、この土地におけるすべての偏見を根絶するために、いたるところへ電波を放とうかと思ったんだ。ところが、パーシェンカの説が勝ったもんだから。僕はね、君、あの女があれほど……味を持っていようとは……さらに思いがけなかったよ、え? 君はどう思う?」
 ラスコーリニコフは不安らしい視線を、一刻も相手から放さなかったが、じっとおし黙っていた。そして、今もしゅうねく彼を見守みまもり続けていた。
「むしろ非常にといっていいくらいさ」ラズーミヒンは彼の沈黙に根っから困る風もなく、相手から受け取った返事にあいづちを打つような調子でしゃべりつづけた。「むしろきわめてけっこうだよ、あらゆる点において」
「まあ、なんて野郎だろう!」とナスターシャがまたしても叫んだ。見たところこの会話は、ことばにつくし難い幸福感を彼女に与えるらしい。
「ただ困るのは、君が最初のそもそもから、この事件をうまくあしらう腕を持っていなかったことだ。あの女にはああいうやり方じゃいけなかったのさ。全くあの女は、なんというか、意想外千万な性格の所有者なんだからね! まあ、性格のことなんかあとでいい……ただ君はどういうわけで、たとえばさ、あの女が君に食事もよこさないなんて、そんな生意気なことをするように仕向けたんだい? またたとえばだ、あの手形はなんだい? いったい君は気でも違ったのかい、手形に署名するなんて! それからまた、娘のナタリヤ・エゴーロヴナが生きてた時分に、約束のできていた縁談さ……僕は何もかも知ってるぜ! いや、もっとも、これはデリケートな胸の琴線に関することで、この方面については僕はろば同然らしい。僕はあやまるよ。だがついでに一つばかげた話だが、君はなんと思う? 実際プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ(おかみ)は、ちょっと見ほどばかじゃないだろう、え?」
「うん……」とラスコーリニコフはそっぽをながめながらも、この話をもう少し続けさせる方が有利だと悟ったので、ことばを歯の間から押し出すように言った。
「そうじゃないか?」と、返事をしてもらったのがいかにもうれしそうに、ラズーミヒンは叫んだ。「だが、全くりこうという方じゃないだろう、え? 実に、実に意想外な性格だ! 僕は正直のところ、いささかまごつかされてるんだよ……あいつ確か四十になるだろう。ところが、自分じゃ三十六と言ってるんだ。もっとも、そういうだけの資格は十分あるね。しかし、誓っていうが、僕あの女についてはむしろ知的に、ただ形而上学のみで判断してるんだ。今われわれの間には、君の代数学も手をくだしようのない、どえらい表徴エムブレームが生じてるんだからね! 何がなんだかわけがわからないのさ! いや! こんなことはみんなくだらん話だ。ただあの女は、君がもう大学生でもなくなり、出稽古でげいこの口にも離れ、衣類までもなくしてしまった上にさ、娘が死んでしまったので、もう君を親類あつかいする必要もないと気がついて、急にどきっとしたわけだ。また君は君で隅っこへすっ込んで、一向に以前の約束を履行しない。そこであの女は、君をここから追い出そうという了見を起こしたのさ。もう以前からその計画をいだいていたのだが、手形が惜しくなってきたし、そのうえ君自身も、お袋が払ってくれるなんて言ったから……」
「それは僕が卑劣なために言ったことなんだ……僕の母はほとんど自分で袖乞そでごいしないばかりの有様なんだもの……僕はこの下宿に置いてもらって……食わしてもらいたさに、嘘をついたんだ」とラスコーリニコフは大きな声で、はっきりと言った。
「そうだ、それは君、りこうなやりくちだったのさ。ただ問題は、七等官チェバーロフ氏という事件屋が、そこへひょっこり登場したことだ。この男がいなかったら、パーシェンカはおそらく、なんにも考えつきはしなかったろう。全く恐ろしいはにかみやだからね。ところが、事件屋はけっしてはにかみやじゃないから、まず第一番に、はたしてこの手形を生かす見込みがあるやいなや、という問題を提起した。ところでその答えは、確かにあると出た。なぜって見たまえ、君には母親というものがあって、たとい自分は食わないでも、可愛いいロージェンカだけは、百二十五ルーブリという年金の中からくめんして、救わずにはおかないし、また兄のためには身を売ってもかまわないというような、妹があるじゃないか。先生、ここに計算の土台をすえたわけだ……君、何をもぞもぞするんだい? 僕はね、君、今こそ君の内幕を知りぬいてるんだよ。君がパーシェンカとまだ親類づきあいをしていたころに、打明け話をしたのがたたったのさ。もっとも、いま僕は君を愛すればこそ言うんだがね……ねえ、つまりそこのとこなんだよ――正直で感じやすい人間は、何げなしに打明け話をするが、事件屋はそれを聞いて食い物にする。そして、最後には骨までしゃぶってしまうのさ。そこであの女は、金を払ってもらったていにして、チェバーロフに手形を譲渡したんだ。するとこっちは、正式の手続で金を請求したのさ。きまりなんか悪がりゃせんからね。僕はこのいきさつを知るや否や、ただちょっと、良心に対する義務をはたすくらいのつもりで、この男にもやはり電波を通じてやろうと思った。ところが、ちょうどそのころ、僕とパーシェンカとの間に一種のハーモニイが生じたので、僕は君が必ず払うからと保証して、この事件を大きくならない前に、きれいに中止しろとあの女に命じたんだ。おい、君、僕は君のことを保証したんだぜ、いいかい? そこで、チェバーロフを呼んで、十ルーブリほおっぺたへたたきつけてさ、手形を取り戻したわけだ。さあ、この通りつつしんで君に捧呈する――もう口約だけで信用しとくよ――さ、受け取ってくれ。僕がちゃんと、しかるべく端を破いといたからね」
 ラズーミヒンは借用証書をテーブルの上へのせた。ラスコーリニコフは、ちらとそれを見やったが、一言も口をきかないで、壁の方へくるりと向いてしまった。これにはさすがのラズーミヒンもむっとしたほどである。
「なるほどそうか」一分ばかりして彼は言った。「僕はまた馬鹿な役回りを勤めちゃったんだ。罪のないおしゃべりで君の気をまぎらして、慰めてやろうと思ったんだけど、ただかんの虫を起こさせたばかりらしい」
「僕は熱に浮かされているとき、君の顔の見分けがつかなかったかね?」同様に一分間ばかり黙っていた後、ラスコーリニコフは顔を振り向けようともせずにたずねた。
「つかなかったとも、そのために気ちがいみたいにおこり出したほどだよ。ことに僕が一度ザミョートフを連れて来た時など、そりゃ大変だったぜ」
「ザミョートフを?……事務官を?……なんのために?」ラスコーリニコフは急に振り返って、きっとラズーミヒンに目を据えた。
「おい、何を君はそんなに……なんだってそう心配そうな顔をするんだい? 君と近づきになりたいと言い出したんだよ。あの男が自分から言い出したんだ。それってのがね、二人で君のことを色々話したからさ……でなくて、誰から君の事がこう詳しく知れると思う? 君、あれは実にいい男だよ、全くすてきな人間だ……もっとも、むろん、それもある意味においてだがね。で、今じゃ僕らは親友同士の間がらで、ほとんど毎日のように会ってるんだ。だって、僕はこの方面へ引っ越して来たくらいだもの。君はまだ知らないんだね? つい最近引っ越したばかりなんだ。ラヴィーザの所へも、あの男と二度ばかり行って見たよ。ラヴィーザを覚えてるかね、ラヴィーザ・イヴァーノヴナを?」
「僕なにかうわ言を言ったかね?」
「言わなくってさ! まるで君の体が君のものでなかったんだもの」
「どんなうわ言を言った?」
「へえ、これはこれは! どんなうわ言を言ったかって? どんなことかわかり切ってらあね……さあ、君、もうこの上時間をつぶさないように、用件にかかろうじゃないか」
 彼は椅子から立って、帽子に手を掛けた。
「どんなうわ言を言ったよう?」
「ええっ、一つ覚えみたいに何いってるんだ! それとも何か秘密でもあって、それを心配してるのかい! ご念にゃ及びません。伯爵夫人のことなんか、なんにもいやしなかったよ。ただどこかのブルドッグがどうとか、やれ耳輪がなんだとか、やれ鎖がどうのと言ってたっけ。それからクレストーフスキイ島のことだの、どこかの門番のことだの、ニコジーム・フォミッチのことだの、副署長のイリヤー・ペトローヴィッチのことだの、いろいろしゃべってたよ。ああ、そのほか君ご自身の靴下のことが、たいそう気がかりのご様子でしたよ、たいそうね! それこそほんとうに哀願するような調子で、靴下をくれ、靴下をくれと、ただその一点ばりさ。でも、ザミョートフが自分で隅々をくまなくさがして、やっとのことで見つけた上、オーデコロンで洗い上げて指輪をいくつもはめた手で、そのぼろを君に渡したんだ。その時はじめてご安心あそばして、まる一昼夜、そのぼろっくずを両手に握りしめていらっしったっけ。もぎ放すこともできないくらいさ。きっとまだどこか毛布の下にころがってるだろう。かと思うと、今度はまたズボンの切れっ端をねだり出すんだが、ほんとうに涙を流さないばかりなのさ! 僕らはいろいろ頭をひねってみたが、いったいぜんたいどんな切れっ端やら、とんと見当がつかなかったよ……さあ、そこでいよいよ用件に取りかかろう! ここに三十五ルーブリあるから、このうち十ルーブリだけ持ってくよ。二時間もたったら、計算書をこしらえて君に提出する。その間に、ゾシーモフにも知らせてやろう。もっともそうしないでも、あの男もうとっくに来てなくちゃならんはずだがな。もう十一時過ぎだもの。ところで、君、ナスチェンカ、僕の留守中せいぜいのぞいてみてやってくれ、飲みものとか、そのほかなんでも欲しいというものをやるように。パーシェンカには僕が自分で必要な事は言っとくから。じゃ失敬!」
「おかみさんのことをパーシェンカだなんて! なんて厚かましい男だろう」とナスターシャはうしろから追っかけるように言った。それからドアをあけて耳を澄まし始めたが、辛抱し切れなくなって、自分も下へ駆け出した。
 彼女はラズーミヒンが下でかみさんと何を話してるか、知りたくてたまらなかったのである。それに全体からみて、彼女はどうやらラズーミヒンにぼうっとなっているらしかった。
 彼女の出たあとのドアがしまるが早いか、病人は毛布をはね飛ばして、気ちがいのように寝床からおどり上がった。彼は焼けつくようなけいれんに近い焦燥の念をいだきながら、一刻も早く二人のものが出て行って、その留守に仕事にかかれる時が来るのを、今か今かと待ち設けていたのである。しかし、それはなんだろう、どんな仕事だろう?――彼はまるでわざとのように、それをど忘れしたのだ。
『おお神様、たった一言聞かせてください――みんなはもう何もかも知っているのか、それともまだ知らないのか? もし知っていながら、僕の寝ている間だけ空っとぼけて、いい加減からかったあげく、いきなりここへやって来て、もう何もかもとっくに知れていたんだが、ただちょっと知らないような振りをしていただけだ……なんて言い出したら、どうだろう? いったいこれからどうするんだったっけ? ひょいと忘れてしまった、まるでわざとねらったように、急にど忘れしてしまった。つい今しがたまで覚えていたのに!』
 彼は部屋のまんなかに突っ立って、悩ましい疑惑に包まれながら、あたりを見回した。やがて、戸口へ近寄ってドアをあけ、じっと耳を澄ましたが、これも見当ちがいだった。と、ふいに思い出したように、彼は例の壁紙に穴のあいている片隅へ飛んで行き、一生懸命に調べてみたり、手を突っ込んでかき回したりしたが、これもやっぱりそうではなかった。彼はストーブの方へ行って、その戸をあけ灰の中をかき回してみた。と、ズボンの裾の切れっ端や、引きちぎったポケットのぼろぼろになったのが、あのとき投げ込んだままでころがっていた。してみると、誰も見なかったわけだ! その時ふと彼は、今しがたラズーミヒンの話した靴下のことを思い出した。実際それは長椅子の上に掛けた蒲団ふとんの下にはいっていたが、あのとき以来もうすっかりもみくたになって、汚れくさっていたので、ザミョートフもむろん、何ひとつ見分けることができなかったに相違ない。
『やっ、ザミョートフ!……警察!……だがなんのためにおれを警察へ呼ぶんだ? どこに出頭命令があるんだ? やっ!……おれはごっちゃにしてた……あれはあのとき召喚されたんだっけ! あの時もやっぱり靴下を調べていた。ところで、今は……今おれは病気なのだ。が、ザミョートフは何用でやって来たんだろう? ラズーミヒンはなんのために、あんな男を連れて来たんだろう?……』再び長椅子に腰をおろしながら、彼は力なげにつぶやいた。『これはいったいどうしたんだろう? やっぱりうわ言の続きかしら? それとも本当なのか? どうも本当らしい……ああ、思い出した、逃亡だ。早く逃げるんだ。ぜひ、ぜひとも逃げるんだ! だが……どこへ! おれの服はどこにある? 靴もない! 片づけちゃった! 隠しやがったんだ! わかってらあ! ああ、ここに外套がいとうがある――見落としやがったな! ほい、金もテーブルの上にのっかってる、ありがたい! ここに手形もある……おれはこの金を持って逃げ出そう。そして、ほかの住まいを借りよう。やつらに捜し出せるものか……だが、住所係は? 見つける。ラズーミヒンは見つけ出すに違いない。いっそ本当に逃げてしまおう……うんと遠方へ……アメリカへでも。そうすれば、あいつらなんかくそくらえだ! 手形も持って行こう……向こうで何かの役に立つかもしれない。それからほかに何を持って行くかな! あいつらはおれを病気だと思っていやがる! おれの歩けることを知らないんだ、へ、へ、へ! おれはちゃんと目つきで読んだ、あいつらは何もかも知ってるんだ! ただ階段をおりさえすりゃ! だが、もし下に見張り巡査が立っていたら! や、これはなんだ、茶か! おや、ビールも残っている、びんに半分ほど、冷たいぞ!』
 彼はまだコップ一杯分ほど残っているビールのびんを取って、まるで胸の中の火を消そうとでもするように、さも心地よげに一息に飲みほした。けれど、一分もたたぬうちに、もうビールが頭へずきんときて、軽いむしろこころよい悪寒が背筋を流れた。彼は横になって蒲団を引っかぶった。それでなくても病的なとりとめのない彼の思想はしだいしだいにごっちゃになって行き、間もなく軽いこころよい眠りが彼を包んでしまった。彼は陶然たる気持で頭で枕当りのいい所をさがしあて、今までの破れ外套の代りに、いつの間にやら掛かっている柔らかい綿のはいった蒲団にしっかりくるまると、静かに吐息をついて、ぐっすりと深い眠りに落ちた。それは治癒の力を持った眠りである。
 誰かのはいってくる物音を聞いて、彼は眠りから覚めた。目をあけて見ると、ラズーミヒンがドアをさっとあけ放したまま、はいったものかどうかと思いまどうように、敷居の上に突っ立っていた。ラスコーリニコフはすばやく長椅子の上に起き直って、何やら思い起こそうと努めるもののように、じっとその顔を見つめていた。
「おや、寝てないんだね? 僕もう帰って来たよ! ナスターシャ、包みをここへ持って来てくれ!」とラズーミヒンは下へ向かって呼んだ。「今すぐ計算書を渡すよ……」
「何時だい?」と不安げにあたりを見回しながら、ラスコーリニコフはたずねた。
「いや、すごく寝たもんだ。もう外は夕景だよ。かれこれ六時ごろだろうよ。六時間あまりも寝たわけだ」
「たいへんだ! 僕はなんだってそんなに!……」
「それがどうしたのさ! ようこそお休みじゃないか! どこへ急ぐんだい? あいびきにでも行こうってのかい? 今こそ時間が完全に我々のものになった。僕はもう三時間ばかりも君を待ってたんだよ。二度も来てみたけれど、君が寝てるもんだから。ゾシーモフのところも二度ばかりのぞきに行ったが、留守、留守の一点ばりさ。だが、大丈夫、やがて来るよ!……やっぱり用事で家を明けたんだから。僕じつは今日引っ越したよ。すっかり引っ越しちゃったんだ、伯父おじと一緒にね。今僕んとこには伯父が来てるんだよ……いや、そんなことどうでもいいや、用件にかかろう! 包みをこっちへくれ、ナスチェンカ。さあ、これから二人で……ときに、君、気分はどうだね!」
「僕は健康だよ、病気じゃない……ラズーミヒン、君は前からここにいたのかい?」
「三時間待ち通したって、言ってるじゃないか」
「じゃない、その前のことさ」
「なんだ、前って?」
「いつごろからここへ通っているんだい?」
「だって、ついさっき君にすっかり話したじゃないか。それとも、もう覚えてないかい?」
 ラスコーリニコフは考え込んだ。さっきの事が夢のように彼の頭にひらめいた。が、一人では思い出せなかったので、彼は問いかけるようにラズーミヒンをながめた。
「ふむ!」とこっちは言った。「忘れたんだね。僕はどうもさっきから、君がまだ十分……その、なにになってない、というような気がしてたよ……だが、今は一寝入りしたおかげで、すっかりよくなった……実際、顔色がずっとはっきりしてきたよ。えらいぞ! さて、いよいよ用件にかかろう! なに、すぐ思い出せるよ。一つこっちを見たまえな、君」
 彼は気になってたまらなかったらしい包みを解きにかかった。
「これはね、君、全くのところ、とくべつ僕の気にかかってたんだよ。なぜって、君を人間らしくしなくちゃならないものね。さあ、着手しよう。上から始めるんだね。君ひとつこの帽子を見てくれ」と包みの中からかなり小ぎれいな、と同時にいたってありふれた、安物の学生帽を取出しながら、彼はしゃべり始めた。「ちょっと頭に合わさせてくれ」
「あとで、こんど」気むずかしそうにその手を払いのけながら、ラスコーリニコフは言った。
「いや、君、ロージャ、もう逆らわないでくれ。あとじゃ遅くなり過ぎるんだから。それに寸法を取らずに、当てずっぽうで買って来たんだから、ぼく今夜一晩じゅう寝られないじゃないか。ちょうどかっきりだ!」と彼は頭に合わせてみて、勝ち誇ったように叫んだ。「ちょうどあつらえたようだ! 頭飾りというやつは、君、服装の中でも一番に位するもので、一種の看板みたいなもんだからね。僕の友人のトルスチャコーフなんか、いつも公開の席へ出るたびに、ほかの者は帽子をかぶっているのに、やっこさん必ずかぶり物を脱ぐんだ。みんなはね、奴隷根性のせいだと思っているが、あに図らんや、ただ鳥の巣同然な帽子が恥かしいからに過ぎんのさ。どうも恐ろしいはにかみやでね! さてと、ナスチェンカ、ここに帽子が二つあるが、お前どっちがいいと思う――このパルメルストンか(と彼は片隅から、ラスコーリニコフの見る影もない丸い帽子を取り出した。彼はなぜか知らないが、これをパルメルストンと命名したので)、それともこの珠玉の如き絶品か! ロージャ、一つ値を踏んでみたまえ、いくら出したと思う? ナスターシュシュカは?」相手が黙っているのを見て、彼は女中の方へふり向いた。
「大方二十カペイカくらいなもんだろう」とナスターシャは答えた。
「二十カペイカ? ばか!」と彼は憤慨してどなりつけた。「今どき二十カペイカそこいらじゃ、お前だって買えやしないよ――八十カペイカだよ! それも、少し使ったものだからさ。もっとも、条件つきなんだ――これがかぶれなくなってしまったら、来年はまた一つ別なのをただでよこすってよ、ほんとうだよ! さあ、今度はアメリカ合衆国にかかろう。ほら。中学時代にそういってたじゃないか。断っておくが、このズボンは僕の自慢なんだよ!」と彼は軽い夏地の毛織で作った鼠色のズボンを、ラスコーリニコフの前へひろげて見せた。「穴もなければ、しみ一つない。出物とは言い条、なかなか悪くないだろう……それから同じくチョッキ、流行の要求する通り共色だ。古物という点だが、これは実際のところ、かえっていいんだよ。柔かくってしなやかだからな……考えてもみたまえ、ロージャ、社会へ出て成功しようというにゃ、僕に言わせると、常にシーズンを守りさえすりゃたくさんなんだ。正月にアスパラガスを求めるようなことをしなけりゃ、金入れには何ルーブリかの金がしまっておけるわけだよ。この買物にしてもその通りで、今は夏のシーズンだから、僕も夏の買物をしたんだ。なぜって、秋に向かうと、シーズンがまだ暖かい生地を要求するから、こんなものは捨ててしまわなくちゃならなくなるからね……それに、ましてやそのころになれば、こんなものはひとりでに破けてしまうさ。奢侈しゃしの増加のためでなければ、内在的な不備のためにね。さあ、値を踏んでみたまえ! 君の目には幾らに見える?――二ルーブリ二十五カペイカよ! そして、覚えときたまえ、これも同じ条件なんだから――こいつをはき破ったら、来年べつのをただでくれるんだ。フェジャーエフの店では、その方法でしきゃ商売しないんだよ――一度金を払っといたら、生涯それで済むのさ。なぜって、買手の方でも二度と出かけやしないからね。さあ、今度は靴の番だ――どうだい? 一度はいたものってことはすぐわかるが、二月ぐらいのご用は勤めてくれるよ。だって外国製だもの、舶来ものだぜ。イギリス大使館の書記が、先週古着市場トルクーチイへ出したんだよ。たった六日はいたきりでさ。急場の金に困ったもんだからね。値段は一ルーブリ五十カペイカ。うまいだろう?」
「でも、足に合わないかもしれないよ!」とナスターシャが注意した。
「合わない! じゃ、これはなんだい!」と彼はポケットから、古い化けて出そうな、穴だらけの上にかわいた泥が一面にこびりついている、ラスコーリニコフの靴を片足取出した。「僕はちゃんと用意して出かけたんだ。この化物然たるやつで本当の寸法を調べてもらったのさ。僕は何もかも誠心誠意やったんだからね。シャツのことはかみさんと話し合いをつけた。ほら、第一ここにシャツが三枚ある、並み麻ものだが流行風の襟がついてる……さて、そこでと、帽子が八十カペイカ、二ルーブリ二十五カペイカが衣類いっさい、合わせて三ルーブリ五カペイカだ。それから一ルーブリ五十カペイカが靴――だって、全く上物だからな――しめて四ルーブリ五十五カペイカさ、それから五ルーブリが肌着いっさい――談判して卸し値にさせたんだよ――いっさいで合計九ルーブリ五十五カペイカさ。四十五カペイカのおつりだが、みんな五カペイカ玉だよ。さあ、お受け取りください――とまあ、こういったわけで、君もいよいよ衣裳いしょうがすっかりできあがった。だって君の外套がいとうは、僕の意見によると、まだ役に立つばかりか、特殊の風韻ふういんさえ帯びているからね――シャルメルの店なんかへ注文したら、たいへんなもんだぜ。靴下やその他の物に至っては、君に一任しておこう。金はまだ二十五ルーブリ残っているよ。パーシェンカのことや下宿料のことは心配無用、さっきもいった通り、無限の信用があるんだからね。ときに、君、シャツを一つかえさせてくれたまえ。でないと、病気のやつがちょうどシャツの中に隠れているかもしれないから……」
「よせ! いやだ!」ラズーミヒンの衣類調達に関する緊張した、しかも冗談まじりの報告を、嫌悪の色を浮かべて聞いていたラスコーリニコフは、さもうるさそうに振り払った……
「君、そりゃだめだよ。じゃ僕、なんのために足をすりこぎにしたんだい!」とラズーミヒンは屈しなかった。「ナスターシュシュカ、何も恥かしがることはないから、手を貸してくれ――そうだそうだ!」
 ラスコーリニコフが抵抗するのもかまわず、彼はとにかくシャツをとりかえてやった。こちらは枕の上にぶっ倒れて、二分間ばかりは一言も口をきかなかった。
『まだなかなか離れてくれそうにもないぞ』と彼は考えた。
「どういう金でこんなにいろんなものを買ったんだい!」と壁を見つめながら彼はたずねた。
「どういう金? こいつああきれた! 君自身の金じゃないか、さっき労働組合のものが来たろう、ヴァフルーシンの使いで、お母さんが送ってよこしたんじゃないか。それとも、こんなことまでも忘れたのかい?」
「やっと思い出した……」長い気むずかしげな物思いの後に、ラスコーリニコフはこう言った。
 ラズーミヒンはまゆをしかめて、不安げに彼をながめていた。
 ドアが開いて、背の高いでっぷりした男がはいって来た。見たところ、どうやらラスコーリニコフにも多少見覚えがあるらしかった。
「ゾシーモフ! やっとのことで!」ラズーミヒンは喜んでこう叫んだ。


 ゾシーモフは背の高い脂肪質らしい男で、きれいにそり上げてはいるが、ややむくみのある色つやの悪い青白い顔をして、亜麻色の髪はすんなりとして癖がなかった。眼鏡をかけているほか、脂肪でふくれたように見える指に大きな金指輪をはめている。年ごろは二十七見当らしかった。彼はゆったりとしたハイカラな外套を着、薄色の夏ズボンをはいていた。概して彼の身についているものは、すべてゆったりしたハイカラな仕立おろしばかりだった。肌着も非の打ちどころのないもので、時計の鎖もどっしりとしている。身のこなしはゆっくりしていて、なんとなくのろくさく見えるが、同時にこしらえもののらいらくといったようなところがあった。しかし尊大な気取りが、つとめて隠してはいるものの、のべつちらちら顔をのぞける。彼を知っているすべての人は、いやな付き合いにくい男のようにいっていたが、しかし自分の職務には明るいという評もあった。
「僕はね、君んとこへ二度も寄ったんだぜ……見たまえ、気がついたよ!」とラズーミヒンは言った。
「わかってるよ、わかってるよ。お気分はいかがですな、え?」と、じっとラスコーリニコフの顔に見入りながら、ゾシーモフは彼の方へふり向いた。そして、彼の長椅子に腰をおろし、病人の足の辺に尻を落ち着けると、すぐさまできるだけ体をくつろげた。
「始終ヒポコンデリイばかり起こしてるんだよ」とラズーミヒンはことばを続けた。「今シャツを取りかえてやったんだが、もう泣き出さないばかりさ」
「それは無理もないことだ。当人が望まなければ、シャツなんかあとでもよかったんだ……脈は上等。頭痛はまだいくらかしますか、え?」
「僕は健康です、僕は全く健康体です!」ふいに長椅子の上に身を起こして、目をぎらぎら光らせながら、強情ないらいらした調子でラスコーリニコフはそう言ったが、すぐに枕の上へどうと倒れ、壁の方へ向いてしまった。
 ゾシーモフはじっと彼を注視していた。
「たいへんけっこう……何もかも順調にいってます」と彼はだるそうに言った。「何かあがりましたかね?」
 ラズーミヒンは様子を話して、何をやったらいいか尋ねた。
「なに、もう何を食べさせてもいいさ……スープ、茶……きのこやきゅうりなんかはむろんいけないがね。それからと、牛肉もやっぱりいけない。そして……いや、この際なにもぐずぐず言うことはない!」彼はラズーミヒンと目くばせした。「水薬はいらない、なんにもいらない。あす僕が見るから……もっとも、今日だっていいんだが……いや、まあ……」
「明日の晩は、僕この男を散歩に連れて行くぜ!」とラズーミヒンは一人で決めてしまった。「ユスーポフ公園あたりへ。それから『水晶宮パレー・ド・クリスタル』へも寄るんだ」
「明日はまだ病人に身動きもさせない方がいいんだが、しかし……少々は……いや、まあも少したってみればわかるさ」
「そいつは残念だなあ。今日は僕の引っ越し祝いでね。ここからたった一足なんだ。この男も来てくれるといいんだが。せめて僕たちので、長椅子の上にでも寝ててくれるとなあ! 君はもちろん来るだろう?」と、ラズーミヒンは急にゾシーモフの方へ向いて言った。「忘れちゃいけないぜ、いいかい、約束したんだからな」
「行ってもいい、ちと遅くなるがね。いったいどんなしたくをしたんだい?」
「いや、別に何も。茶、ウォートカ、にしん。それに肉まんじゅうが出るはずだ。内輪の連中だけの集まりだから」
「といって、誰々だい?」
「なに、みんなこの近くのひとで、ほとんど新しい顔ばかりさ。もっとも――年とった伯父おじだけは例外だがね。しかしこれだって、やはり新顔といっていいんだ。――昨日ちょっとした用向きで、ペテルブルグへやって来たばかりだからね、僕は五年に一度くらい会ってるのさ」
「どんな人だい?」
「一生地方の郵便局長をじみにやって……わずかな恩給をもらっている六十五の老爺ろうやで、問題にする価値はないよ……もっとも、僕は好きなんだ。それからポルフィーリイ・ペトローヴィッチも来る――ここの予審判事で……法律家さ。ねえ、君も知ってるはずじゃないか」
「あれも何か君の親戚しんせきかい?」
「ごく遠い何かに当たるんだよ。いったい、君、なんだってそんなしかめっつらをするんだい? 一度あの男と喧嘩けんかしたことがあるからね。じゃ、君はたぶん来てはくれまいね?」
「僕はあんなやつとも思ってやしない……」
「そりゃ何よりだ。それからあとは――大学の連中に、教師と官吏が一人ずつ、音楽家が一人、警部、ザミョートフ……」
「君、一つきかしてもらうがね、君やこの人と」とゾシーモフはラスコーリニコフをあごでしゃくった。「それからあのザミョートフなんて男と、いったいどんな共通点があるんだね?」
「いやはや、どうもしちむずかしい男だなあ! 主義信条の一点ばりだ!……君はまるでぜんまいみたいにすっかり主義で固まってて、自分の意志じゃ体の向き一つ変えることもできないんだからな。僕に言わせると、人物さえよければ、それで理屈が通るのさ。それ以上なんにも知ろうとは思わない。ザミョートフは実にすばらしい男だよ」
「そして、内々ふところを暖めてる」
「内々ふところを暖めたって、我々の知ったことじゃないじゃないか! いったいふところを暖めてりゃどうしたというんだい!」なんとなく不自然にいらいらしながら、ラズーミヒンは叫んだ。「あの男がふところを暖めているのを、僕が賛美したとでもいうのかい? 僕はただあの男のことを、ある意味においていい人間だと言ったまでだよ! 端的に言ったら、あらゆる点において完全に善良な人物なんて、どれだけも残りゃしないよ! まあ、僕なんか確信してる――そうなれば、僕なんぞは臓腑ぞうふぐるみほうり出したって、焼いた玉ねぎ一つくらいにしか、値ぶみしてくれやしない。それも君をおまけにつけてさ!……」
「そりゃ安すぎる。僕なら君には二つくらい出すよ……」
「僕は君に一つきゃ出さない! さあ、もっと洒落しゃれのめしてみたまえ! ザミョートフはまだ小僧っ子だから、僕はやつを少々いじめてやるんだ。だがね、あの男は突っ放してしまわないで、ひきつけておく必要があるのさ。人間てものは、突き放すことによって、匡正きょうせいできるもんじゃないからね。ことに小僧っ子においてはなおしかりさ。小僧っ子に対しては一倍の慎重さが必要だ。や、どうも君のような進歩的鈍物ときたら、何ひとつわからないんだからね! 他人を尊重しないで、しかも自分を侮辱してるんだもの……もし君が聞きたいというなら、話してもいいがね、実は僕らの間には、共通の一事件が始まりかかってるらしいのさ」
「聞きたいもんだね」
「といって、やっぱり例の塗り職人、つまりペンキ屋の一件さ……われわれはきっとあいつを救い出してみせる! もっとも、今じゃもう少しも困ることはないんだ。事件はきわめて、きわめて明白なんだからね! ただもう少し我々が尻押しりおししてやればいいんだ」
「いったいそのペンキ屋ってなんだい?」
「ええ、君に話さなかったかい? そう、話さなかったっけなあ? そうだ、今初めて君に話しかけたばかりじゃないか……ほら、官吏の後家で小金を貸してた婆さんの殺人事件さ……それに今度ペンキ屋が引っかかってるんだよ……」
「ああ、あの殺人事件なら、僕の方が君よりさきに聞いたんだ。そして、この事件に興味さえいだいてるくらいだよ……まあ、多少だがね……ある偶然の機会で新聞でも読んだよ! それで……」
「リザヴェータまで殺してしまったんだからねえ!」ラスコーリニコフの方へ向きながら、ナスターシャがやぶから棒にこう言った。
 彼女は始終ずっとそこに残って、ドアにぴったり身を寄せたまま、聞いていたのである。
「リザヴェータ?」やっと聞こえるほどの声で、ラスコーリニコフはつぶやいた。
「リザヴェータよ、あの古着屋の。お前さん知らないのかい? 下へもよく来てたよ。お前さんのシャツをつくろってくれたことがあるじゃないか」
 ラスコーリニコフはくるりと壁の方へ向いてしまった。そして白い花模様のついている汚れた黄色い壁紙の上に、何か茶色の線で飾られた不格好な白い花を一つ選び出し、それに弁が何枚あって、弁にぎざぎざがいくつあり、線が何本あるかをしさいに点検しはじめた。彼は手も足もしびれてしまって、まるでいうことをきかなくなったような気がしたが、身じろぎ一つしてみようともせず、強情に花を見つめていた。
「で、そのペンキ屋がどうしたんだい?」何やらかくべつ不機嫌な様子で、ゾシーモフはナスターシャの饒舌じょうぜつをさえぎった。
 こちらはほっと吐息をついて、口をつぐんだ。
「やっぱり犯人とにらまれたのさ!」とラズーミヒンは熱くなってことばを続けた。
「何か証拠でもあるのかい?」
「証拠なんかあってたまるもんか! もっとも、つまり証拠があればこそなんだが、この証拠が証拠になっていないのだ。そこを証明しなくちゃならんわけさ! それはね、最初警察があの連中……ええと、なんといったっけ……コッホとペストリャコフ、あの二人を引っ張っていって嫌疑をかけたのと、寸分たがわず同じ筆法さ。ぺっ! こういうことは実に愚劣きわまるやり口で、人ごとながら胸くそが悪くなるくらいだ! ペストリャコフの方は、もしかすると、きょう僕んとこへ寄るかもしれない。時に、ロージャ、君はもうこの一件を知ってるだろうな。病気になる前の出来事だから。ちょうど君が警察で卒倒した前の晩さ。あの時あすこでその噂をしてたはずだ……」
 ゾシーモフは好奇の目を向けてラスコーリニコフを見やったが、こちらは身じろぎもしなかった。
「ねえ、ラズーミヒン! こうしてみていると、君はずいぶんおせっかいだなあ」とゾシーモフが口をはさんだ。
「それだってかまわないさ。とにかく救い出してやらなくちゃ」とラズーミヒンは拳固げんこでテーブルをたたいて叫んだ。「ねえ、やつらのすることでもっともしゃくにさわるのはなんだと思う? それはあいつらがでたらめを言ってることじゃない。でたらめは許すことができる。でたらめは愛すべきものだ。なぜなら、それは真実へ導く一つの道程だからね。僕がいまいましくてたまらないのは、やつらがでたらめをいいながら、しかも自分のでたらめを跪拝きはいしていることなんだ。僕もポルフィーリイ(予審判事)は尊敬している。しかしだ……たとえば、警察のやつらをまずのっけからとまどいさせてしまったのは、いったいなんだと思う? ほかでもない、初めドアがしまっていたのに、二人が庭番を連れて来てみると、ちゃんと開いていた、だからコッホとペストリャコフが殺したのだ! これがやつらの論理なんだからなあ」
「まあ、そうむきになるなよ。あの二人はただちょっと拘留しただけなんだもの。それをしないわけにゃいかないよ……時に、僕はそのコッホに会ったよ。聞いてみると、どうだい、やつはあの婆さんのところで流れ質の買占めをやってたんだぜ! え?」
「うん、何かそんな風のいんちき野郎さ! やつは手形の買占めもやってるよ。抜け目のない男さ。だが、あんなやつなんか勝手にしやがれだ! いったい僕が何を憤慨してるか、君わかるのかい? 警察の時代おくれな、俗悪な、古ぼけて干からびた、月並みなやり口を憤慨してるんだぜ……この事件については、ただこの事件一つだけでも、大した新しい道を開拓することもできるんだからね。ただ心理的材料だけでも、いかにして真の証跡を突きとめるべきかということを、証明することができるんだからね。『われわれの方には事実が上がっている!』なんて言ってるが、しかし事実は全部じゃないからね。少なくとも事件の半ばまでは、事実を取扱う腕にあるんだ!」
「じゃ、君にゃ事実を取扱う腕があるんだね?」
「だって、事件に一の力を貸すことができるのを感じながら、手さぐりにそれを感じてるのに、黙ってるわけにいかんじゃないか! ただもし……ええ、くそっ! 君はこの事件をくわしく知ってるのかい?」
「だから、ペンキ屋の話を待ってるんじゃないか」
「あっ、そうだっけね! じゃ、まあ事の顛末てんまつを聞きたまえ。凶行があってからちょうど三日目の朝、警察のやつらがコッホとペストリャコフを相手にさ、二人とも自分の行動の経路を証明して、無罪は一見して明白になっているのに、なおくどくどうるさくやってたと思いたまえ――そこへ突然意外千万な事実がわいて出た。というのは、例の家と向かい合せに居酒屋を出してる百姓出のドゥーシュキンという男が、警察へ出頭してさ、きんの耳輪のはいった洒落たサックを差し出して、まるで一編の小説ともいうべき話を陳述したんだ。『実は手前どもへ一昨日の晩、かれこれ八時まわったころでもござりましょうか』――この日日ひにちと時刻、よく聞いてるね、君?――『その日も昼間に一度やって来たペンキ職人のミコライという男が、金の耳輪と宝石類のはいったこの箱を持って参りまして、それを抵当に二ルーブリ貸してくれと申します。手前がどこで手に入れた? と尋ねますと、歩道で拾ったと申します。で、手前もそれ以上は根掘り葉掘りいたしませんでした』とドゥーシュキンが言うんだ。先生さらにいわくさ。『さつを一枚出してやりやした』――つまり一ルーブリのことだね――『それというのは、手前どもで取らなけりゃ、わきへ持って行く、で、どのみち飲んじまうんだから、まあ品物は手もとへ置いておけ、よっくだいじにしまっといた方が、出す時に好都合だ、もし変な事でもあるとか、何か噂でも立つようだったら、さっそく、お届けすればいいとこう思いましたので』いや、もちろん口から出まかせの嘘八百で、まるで夢のような話なのさ。僕はこのドゥーシュキンをよく知ってるが、自分が小金貸しで、臓品なんか取って隠してるやつさ。今の話の三十ルーブリかの貴金属だって、うまくミコライからかたり取ったんで、けっして『お届けする』つもりなんかありゃしない。ただおじ気がついたので出頭しただけなんだよ。だが、まあ、そんなことはどうだっていいや、あとを聞きたまえ。ドゥーシュキンのやつ、つづけて曰くさ。『手前は、そのミコライ・デメンチエフを幼い時分から存じております、同県のザライスク郡の百姓でござります。実は手前どもリャザン生れでござりますので、ミコライは酒飲みと申すほどじゃござりませんが、ちょっくらやります方で。ところが、やつが例のあの家でミトレイと一緒にペンキ塗りの仕事をしておったことは、手前どもも承知しておりました。ミトレイというのも、やはり同じ村の出でござります。そこで、野郎はさつを握ると、すぐにそいつをくずして、いっときにコップ二杯ひっかけて、つりをつかんで行ってしまいました。その時ミトレイは一緒じゃござりませんでした。さてところがそのあくる日、アリョーナ・イヴァーノヴナと、妹のリザヴェータ・イヴァーノヴナが、おのでやられたって話を聞きました。手前ども、あの二人を知っておりましたんで、すぐ例の耳輪のことを臭いぞと感づきました――と申しますのは、故人が品物を抵当に金を貸しておったのを、承知してたからでござります。手前はやつの働いておる家へ行って、そっとけどられぬようにかぎ出してやろうといたしました。まず第一に尋ねましたのは、ミコライが来ておるかどうかということなので。ところが、ミトレイの申しますには、ミコライのやつは夜遊びを始めて、夜明けごろに酔っぱらって宿へ帰って来たが、十分ばかりいたっきりで、またぞろ出てしまい、それからてんで姿を見せないもんだから、ミトレイが一人で仕事を片づけておるところだと、こういうわけでござります。仕事と申しますのは、人殺しのあった住まいと同じ階段つづきになっている、二階の部屋なんでござります。手前はそれだけ聞きまして、その時は誰にも何一つしゃべりませんでした』これはドゥーシュキンが言うことなんだよ。『それから人殺しのことにつきましては、いろいろできるだけのことを聞き込みまして、やはり初めと同じ疑念をもったままで、家へ帰って参りました。ところが、今朝八時のことでござります』つまり三日目のことなんだよ、わかるね。『ミコライが、手前どもへはいって参りました。しらふでもござりませんが、大して酩酊めいていしてもおりませず、話はわかるのでござります。床几しょうぎに腰をおろしたまま、黙り込んでおります。ちょうどその時、店の中には、やつのほかによその男が一人と、別な床几の上でもう一人、馴染なじみの客が寝ているだけで、あとは家の小僧二人きりでござりました。――そこで「ミトレイに会ったかい?」と尋ねますと、「いや会わねえ」とこう申します。「家へも来なかったね?」「一昨日から来なかった」とこうなんで。「ゆうべどこで泊まった?」「ペスキイの荷足船にたりぶねの上さ」と申しやす。「ときにあの耳輪はどこから持って来たんだい?」といいますと、「歩道で拾ったんだ」と申しましたが、なんだかいかにもばつが悪そうで、人の顔を見ようともいたしません。で、手前は、「あの晩あの時刻に、あの階段つづきで、これこれのことがあったのを聞いたか?」と申しますと、「いんや、聞かねえ」とは言ったけれど、目を丸くして、人の話を聞きながら、みるみる死人のようにまっさおになりました。手前はそこでこれこれこうと話しながら、様子を見ておりますと、やつめ帽子をつかんで、腰を浮かすじゃござりませんか。そのとき手前はやつを抑えようという気を起こしまして、「まあいいじゃねえか、ミコライ、一杯やらねえか?」と言いながら、小僧にドアを抑えてろと目くばせしておいて、帳場から出て行きますと、野郎はいきなり、手前どもから通りへ飛び出して、いちもくさんに横町へ駆け込んじまいました――あっという間もござりません。そこで、手前の疑っておったことが、間違いないと決まりました。確かにやつの仕業に相違ござりません……』
「そうでなくってさ!……」とゾシーモフは言った。
「まあ待ってくれ! しまいまで聞くもんだ! そこでもちろん全力をあげてミコライの捜索に取りかかった。ドゥーシュキンは拘留して、家宅捜索をやった。ミトレイも同様さ。それから、荷足船の連中もちょっとばかり引っ張られた。――こうしてやっとおととい当のミコライを拘引したんだ。見付け付近の旅籠屋はたごやで取り抑えたのさ。やつはその家へ行くと、銀の十字架をはずして、それで一合くれと言うんだ。そこで飲ませてやった。しばらくたって、女房が牛小屋へ行って、何げなく隣の納屋を隙間からのぞくと、やつは小屋のはりへ帯をかけて、輪さを作ってさ、丸太の切れ端に乗っかって、その輪さを首へかけようとしているじゃないか。女房はびっくりして、声を限りにわめき立てたので、たちまち大勢集まって来た。『お前はいったい何者だ!』と聞くと、『わっしをこれこれの警察へ連れてってくれ、残らず白状する』と言うんだ。そこで相当の手続をして、これこれの警察、つまりここの警察へ突き出したのさ。さあ、それから、姓名は、職業は、年齢は、『二十二歳』、云々うんぬん、云々があって、さてそのあとで尋問だ。『お前は、ミトレイと仕事をしている時に、誰か階段を上って来たものを見かけなかったか、時刻はこれこれだ』答えて曰く、『それゃきっと通って行ったに違いありますまいが、わっしたちは気がつきませんでした』『では、何か変わった物音のようなものを聞かなかったか?』『別に変わった物音も聞きませんでした』『では、ミコライ、お前はその当日、これこれの日の、これこれの時刻に、これこれの寡婦やもめが妹と一緒に殺害されて、金品を強奪された事は知らなかったか?』『一向に存じません。夢にも知りません。わっしは三日目に初めてアファナーシイ・パーヴルイチの居酒屋で、亭主から聞いたばかりでござります』『ではどこで耳輪を取って来た?』『歩道で拾いましたので』『なぜあの翌朝ミトレイと一緒に仕事に出なかったか?』『実は、その、遊んだもんでございますから』『どこで遊んだ?』『これこれこういう所で』『なぜドゥーシュキンの所から逃げ出したか?』『あの時にゃなんだかやたらむしょうにおっかなかったもんで』『何がこわかったのか?』『裁判所へ引っ張られそうで』『もし自分で何も悪い事をした覚えがないのなら、何もこわがる筋はないじゃないか』……ところで、ゾシーモフ君は本当にするかどうか知らんが、こんな問いが提出されたんだぜ。この通りの言い回しでさ。僕は確かに知ってるんだ。正確に聞かしてもらったんだから! まあどうだね、どうだね?」
「そう、だが、しかし、証拠にはなってるね」
「いや、僕が今いってるのは証拠の事じゃなくて、尋問そのもののことだ。彼らがその本質をいかに解釈しているか、それを論じてるんだ! まあ、あんな連中なんかどうでもいいや!……彼らはミコライを責めて、責めて、ぎゅうぎゅういうほどしめつけたので、とうとう白状してしまった。『歩道で拾ったんじゃありません。実は、ミトレイと二人で壁を塗っていた、あのアパートで見つけましたんで』『どんな風にして見つけた?』『へえ、それはこんな風でございました。わっしはミトレイと二人で、いちんち八時ごろまで仕事をして、帰りじたくをしておりますと、ミトレイのやつがいきなりわっしの面へ、ペンキをさっと一刷毛ひとはけなすりつけました。こんなあんばいに、わっしの面へペンキをべたっとつけて、逃げ出しやがったんで、わっしもそのあとを追っかけて行きました。追っかけながら、ありったけの大きな声でわめきました。ところが、階段から門へ出る口で――いきなりはずみで、庭番と旦那がたにぶっつかりましたんで。旦那がたがいくたりいられたか、覚えがございません。すると、庭番がわっしをどなりつけました。もう一人の庭番も同じようにどなりました。そこへまた庭番のかかあが出て来て、これもやっぱりわっしたちをどなりつけやがるんで、そんなところへ、奥さん連れの旦那が門の中へはいって来て、やはりわっしたちをお叱りになりました。わっしとミトレイが道幅いっぱいにころがってたからなんで。わっしがミトレイの髪の毛をつかんで、引きずり倒してぶんなぐると、ミトレイも下からわっしの髪の毛をつかんで、ぶんなぐるのでございます。もっとも、二人とも本気で怒ったんじゃなくって、つまり仲がいいもんだから、面白半分にやったんで。そのうちに、ミトレイのやつが振りほどいて、通りの方へ逃げ出したので、わっしはまたあとを追っかけましたが、追いつけなかったので、一人でアパートへ戻って来ました――あと片づけをしなきゃなりませんからね。わっしは片づけながら、ミトレイが今くるかくるかと待っておるうちに、入り口の部屋のドアの傍で、小壁のかげの片隅に、ふいとこの箱を踏んづけましたんで。見ると、紙にくるんだものが落っこってる。紙をとって見ると、こんなちっぽけなかぎがついてるんで、その鉤をはずしてみたら、箱の中に耳輪が……』」
「ドアの外かい? ドアの外にあったのかい? ドアの外に?」ふいにラスコーリニコフは、おびえたようなどんよりしたまなざしで、ラズーミヒンを見ながら叫んで、片手をつきながら、ぱっと長椅子の上に起き直った。
「うん……だが、どうしたんだい? 君はいったいどうしたんだい? なんだって君はそんな?」
 ラズーミヒンは同じく席から身を起こした。
「なんでもない!……」とラスコーリニコフはまた枕の上へ身を落として、再び壁の方へ向きながら、やっと聞こえるくらいの声で答えた。一同はしばらく黙っていた。
「きっと、うとうとしかけたところを、ねぼけて言ったんだよ」もの問いたげにゾシーモフの顔を見ながら、とうとうラズーミヒンはそう言った。
 こちらは軽く頭を横に振った。
「まあ、話を続けたまえ」とゾシーモフは言った。「それから?」
「それからも何もあるものか! やっこさんは耳輪を見ると、たちまちアパートのことも、ミトレイのことも忘れてしまって、帽子をひっつかむなり、ドゥーシュキンの所へ駆けつけたのさ。そして先刻ご承知の通り、歩道で拾ったと嘘をついて、一ルーブリ受け取ると、その足で遊びに出かけちゃったんだ。が、殺人事件については、前と同じように言い張ってるんだ。『いっこうに存じません、夢にも知りません、やっと三日目に聞いたばかりなんで』『じゃ、なぜ今まで出て来なかったか?』『こわかったからなんで』『なぜ首なんかくくろうとしたか?』『思案にくれたからで』『どんな思案に?』『裁判に引っ張り出されそうで』さあ、これが一部始終の顛末てんまつだ。そこで、君はどう思う、彼らはこれからいかなる結論を引出したか?」
「何も考えるがものはありゃしない、罪跡はあるんじゃないか。よしそれがいかなるものにもせよさ。そうとも。君がいくら騒いだって、そのペンキ屋を無罪放免にするわけにいかないじゃないか?」
「だって、やつらはもう今じゃ頭から、真犯人にしてしまってるんだよ! もうなんの疑念も持ってないんだぜ……」
「なに、そりゃ嘘だ。君はあまり熱し過ぎてるよ。じゃ、耳輪はどうしたというんだい? 君自身だって同意せずにいられないだろう――同じ日の同じ時刻に、婆さんのトランクの中の耳輪が、ミコライの手へはいったとすれば――ね、わかるだろう、何かの方法で手にはいったに相違ないじゃないか? こういう事件の審理に際して、この事実はけっして些細ささいなものじゃないよ」
「どうして手にはいったかって! どうして手にはいったかって?」とラズーミヒンは絶叫した。「ねえ、ドクトル、君は、君は第一に人間を研究すべき職務の人じゃないか、他の何人なんぴとよりも、人間の性情を研究する機会を多く持ってる人じゃないか――その君がこれだけの材料を持ちながら、このミコライがどういう性情の人間か、全体それがわからないのかい? 彼の陳述が一見しただけで、神聖この上ない事実だってことがわからないのかい? 全く彼が申し立てた通り、間違いなくその通りの順序で手にはいったんだよ。箱を踏んづけて、拾い上げたのさ!」
「神聖この上ない事実だって! しかし先生自身も、初めは嘘を言ったと白状してるじゃないか!」
「まあ、僕の言うことを聞きたまえ、よく耳をほじくって聞きたまえ――庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もう一人の庭番も、第一の庭番の女房も、庭番小屋にいた女も、ちょうどその時辻馬車つじばしゃからおりて女と腕を組みながら門の下へはいって来た七等官のクリュコフも――誰も彼も、つまり八人ないし十人の証人が口をそろえて証言してるんだ。ミコライがミトレイを地べたへ押しつけて、その上へのしかかってぶんなぐってると、こっちもやつの髪を引っつかんで、同じように相手をなぐりつけていたそうだ。二人は道幅いっぱいにころがって、往来の邪魔をしているので、四方八方から二人をどなりつけるんだが、二人はまるで、『小さな子供みたいに』――これは証人のことばそのままだよ――上になり下になりして、きゃっきゃっわめいたりなぐり合ったり、われ劣らじと大声に笑ったりして、滑稽こっけいきわまるつらつきをしてるじゃないか。そして、子供みたいに互いに追っかけっこをしながら、通りへ駆け出して行ったんだよ。いいかい? そこで一つしっかり考えてみたまえ――四階の上にはまだぬくもりの残った死体がころがってるんだぜ。発見された時には、まだ暖か味があったんだ! もし彼らが、あるいはミコライ一人が、殺人犯をおかして、しかもその際トランクをこわして強盗を働いたとか、あるいは何かで強盗の幇助ほうじょをしたとすれば、一つ、たった一つだけ君に質問さしてもらいたい――いったいぜんたい今いった心理状態が、つまりきゃっきゃっわめいたり、大声で笑ったり、門の下で子供らしいつかみ合いをするというようなことが、おのだの、血だの、凶暴無比な悪知恵だの、ああした細心の注意だの、強奪などというものと、はたして一致するものかどうか? たったいま人を殺したばかりで、せいぜい五分か十分しかたたないのに――だってそういうことになるだろう、まだ死体が暖かいんだからね――急に死体もおっぽり出したうえ、部屋をあけっ放しにしといて、今そちらへ向けて人がぞろぞろ通って行ったのを承知しながら、獲物をほうり出したまま、道のまんなかで子供のようにころげ回ったり、げらげら笑ったり、みんなの注意をひいたりする。しかも、それには陳述の一致した証人が十人もいるんだからね!」
「もちろん、変だ。むろん不可能な話だ、がしかし……」
「いや、しかしじゃないよ。もし同じ日の同じ時刻にミコライの手にはいった耳輪が、実際かれにとって不利な、重大な物的証拠になるとすれば――もっともその証拠は、彼の陳述によっても釈明がつくんだから、したがってまだ争う余地のある証拠だが――もしそうとすれば、一方の弁護的事実をも、考慮に入れるべきじゃないか。ましてそれは拒み難い事実なんだからね。ところで、君はどう思う。わが国の法律学の性質上、そうした事実を――単に心理的不可能性とか、精神状態とかに基礎をおいている事実を――拒み難い事実として受け入れるだろうか? よしんばいかなるものであろうとも、有罪を肯定するいっさいの物的証拠をくつがえしてしまうような事実として、受け入れてくれるだろうか、いや、受け入れるだけの雅量を持ってるだろうか? なんの、受け入れるものか、こんりんざい受け入れやしない。箱は見つかったし、当人は縊死いししようとしたんだもの、『自分に悪事をした覚えがなけりゃ、そんなことをするはずがない!』というわけさ。つまり、これが僕を熱くならせる重大問題なんだ! 少しはわかってくれよ!」
「うん、そりゃ君が熱くなってるのは、ちゃんとわかってるよ。だが待てよ、僕はきくのを忘れてたが、耳輪のはいった箱がほんとうに婆さんのトランクから出たものだってことは、なんで証明されたんだね?」
「それは証明されてるさ」とラズーミヒンはまゆをひそめて、何やら進まぬ調子で答えた。「コッホがその代物しろものに見覚えがあって、質入主を教えたのさ。すると、その男が確かに自分のだと、きっぱり証明したんだ」
「そりゃまずいな。じゃ、もう一つ――コッホとペストリャコフが上って行った時に、誰かミコライを見たものはなかったのか。その点を何かで証明できないのかい?」
「そこなんだよ、君、誰も見たものがないんだ」とラズーミヒンはいまいましそうに答えた。「そいつが全く困るんだ。コッホとペストリャコフですら、上へのぼって行くとき、二人に気がつかなかったんだからね。もっとも、彼らの証言は、この場合大した意義を持ち得ないんだがね。『あの住まいのあいているのは見ました、たしかその中で仕事をしていたのでしょう。が、通り過ぎる時、別に注意しなかったので、職人が中にいたかどうか、覚えがありません』とこう言うんだ」
「ふむ!……してみると、弁解の方法といっては、ただお互いになぐり合って、きゃっきゃっ笑っていたということだけだね。まあ、仮りにそれが有力な証拠だとしよう。しかし……じゃまたきくがね――君自身はこの事実全体をどう説明する? 耳輪を拾ったのをなんと説明するね? 全く彼が陳述どおり拾ったものとして」
「どう説明するって? 何も説明するがものはないじゃないか――わかりきった話だ! 少なくとも、事件を進捗しんちょくさすべき経路は明瞭めいりょうで、ちゃんと証明されてるよ。つまり、箱がそれを証明したのさ。ほかでもない、真犯人がその耳輪を落として行ったのだ。犯人は、コッホとペストリャコフがドアをたたいていた時には、四階のあの住まいにいて、栓をさして息をこらしてたんだ。ところが、コッホがあほうな真似をして下へおりて行ったので、そのとき犯人はいきなり飛び出して、同じく下へ駆けおりたんだ。だって、ほかに逃げ道がないものね。それからやつは階段の途中で、コッホとペストリャコフと庭番の目をさけて、空いたアパートに隠れたんだ。それはちょうど、ミトレイとミコライが駆け出して行った時なのさ。そこで犯人は、三人が上へ行ってしまう間、ドアの陰に立っていてさ、足音の消えるのを待って、悠々と下へおりて行った。それはちょうどミトレイとミコライが通りへ駆け出したあとで、居合せた人は散ってしまって門の下には誰もいなかった時なんだ。もっとも、見た人はあったかもしれないが、かくべつ気にもとめなかったろう。人が通るのは珍しいことじゃないんだからね。箱は、そいつがドアのかげに立っているうちにポケットから落としたんだが、落としたのは気がつかなかったんだ。それどころじゃないんだからな。つまりその箱こそ、犯人がそこに立ってたことを、明白に証明してるじゃないか。そこが手品の種なのさ!」
「うまい! いや、君、実にうまい。だが、それはあまりうま過ぎるね!」
「どうして、え、どうしてだい?」
「だってさ、何もかもあんまり平仄ひょうそくが合い過ぎる……あんまりしっくり過ぎる……まるで芝居のようじゃないか」
「ちょっ、君は!」とラズーミヒンは一声叫んだが、ちょうどこの時ドアが開いて、そこに居合わせたものが誰一人知らない、新顔の男がはいって来た。


 それはもうさして若くない、鼻もちのならないほど澄まし返った紳士で、用心深い気むずかしそうな顔をしていた。彼はまず隠し切れない不快な驚きを示しながら、あたりを見回して『これはいったいなんという所へ飛び込んだものだ?』と目顔できくような表情をしながら、戸口のところに立ち止まった。彼は本当にならないような一種の驚き、というより憤慨の色をわざわざ見せつけながら、天井の低い狭苦しいラスコーリニコフの『船室』をじろじろ見回した。それから同じ驚きの表情で、着物もろくすっぽ身につけず、髪をおどろに振り乱し、顔も洗わないで、みすぼらしいよごれた長椅子の上に横になったまま、やはりじっと彼を見回している当のラスコーリニコフに目を移し、そのままひたと見つめていた。それから、座を立とうともせず、同じくうさん臭そうな人を食った態度で、まともに彼の目を見すえているラズーミヒンの、ひげもってなければ、髪もとかしてないぼうぼう姿を、ゆっくりじろじろながめ始めた。緊張した沈黙が一分ばかり続いたが、やがて当然予期された通り、場面に小さな変化が生じた。あれやこれやの徴候によって、(もっとも、それはかなりはっきりした徴候だったが)、くだんの紳士はこの『船室』の中では、誇張したいかめしい態度をとったところで、なんの効果もないと気がついたのだろう、いくらか気色を柔らげて、多少しかつめらしい調子がないでもなかったが、いんぎんにゾシーモフの方へ向いて、一言一言はっきり区切りながら問いかけた。
「大学生の、いや、もと大学生だったロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ氏は、こちらでしょうか?」
 ゾシーモフはやおら身を動かした。そして、おそらくその返事をしたはずだったろうに、まるで問いかけられもしないラズーミヒンが、やにわに先を越してしまった。
「そらあすこに、長椅子の上に寝ていますよ! いったいあなた何用です?」
 このなれなれしげな『あなた何用です?』が、気取り紳士の出鼻をくじいた。彼は危くラズーミヒンの方へふり向こうとしたが、どうやらうまく自制して、また大急ぎでゾシーモフの方へ向き直った。
「あれがラスコーリニコフです!」ゾシーモフは病人の方をあごでしゃくって、口の中でむしゃむしゃと言った。そして、やたらに大きく口をあけてあくびをすると、やたらに長くそのまま口をあけていた、それからのろのろとチョッキのポケットへ手を伸して、胴のふくらんだ恐ろしく大きな両蓋りょうぶたの金時計を引っ張り出し、蓋をあけてちょっと見ると、また同じく大儀そうにのろのろと、もとの所へしまい込んだ。
 当のラスコーリニコフは、しじゅう黙って仰向きにねたまま、いっさいなんという考えもなく、はいって来た紳士をじっと見つめていた。今しも壁紙の興味津々たる花模様からふり向けられた彼の顔は、すごいほど真っ青で、たったいま苦しい手術を受け終わったか、それとも拷問から放されて来たばかりとでもいったような、なみなみならぬ苦痛の色を現わしていた。けれども、はいって来た紳士はしだいに彼の注意を喚起して、それがやがて疑惑となり、不信となり、遂には危惧きぐの念とさえなった。ゾシーモフが彼を指さして、『あれがラスコーリニコフです』と言った時、彼はやにわにおどり上がらんばかりの勢いですばやく身を起こし、ベッドの上にすわった。そして、まるでいどみかかるような、とはいえきれぎれな、弱々しい声でこう言った。
「そうです! 僕がラスコーリニコフ! 何ご用です?」
 客は注意深く目を据えて、おしつけるような調子で言った。
「わたしはピョートル・ペトローヴィッチ・ルージンです。わたしの名前はあなたにとって、まんざら初耳ではないと信じますが」
 けれども、全然べつの事を期待していたラスコーリニコフは、鈍いもの思わしげな目つきで、じっと相手を見つめるのみで、そんな姓名は全く初耳だというように、なんの答えもしなかった。
「え! いったいあなたはまだ今日が日まで、なんの知らせもお受け取りにならなかったのですかね?」いささかむっとしたていで、ルージンは尋ねた。
 ラスコーリニコフは、その返事がわりに悠々と枕の上に身を横たえ、両手を頭の下にかって、じっと天井をながめにかかった。ルージンの顔には、悩ましげな色が現われてきた。ゾシーモフとラズーミヒンは一そう好奇心をそそられたらしく、彼の様子を見回し始めた。とうとう彼はてれてしまった。
「わたしは当てにしていたのです、そのつもりでおったのです」と彼は口の中でもぐもぐ言い出した。「もう十日あまりも前に、いや、かれこれ二週間も前に出した手紙だから……」
「ねえ、あなた、どうもそんなに、戸口に突っ立ってばかりもいられますまい?」とふいにラズーミヒンがさえぎった。「もし何かお話があるんなら、お掛けになったらいいじゃありませんか。そこはナスターシャと二人じゃ狭いでしょうに。ナスターシュシュカ、ちょっとわきへ寄って、通り道をあけてあげるんだ! どうぞこちらへ、さあ、これが椅子です。ここまで! ずっと割り込んでください!」
 彼は自分の椅子をテーブルから少し片寄せて、テーブルと自分のひざとの間にわずかな余地を作り、やや緊張した姿勢で、客がこの隙間へ『割り込む』のを待っていた。あまりうまい瞬間をねらってつかまえられたので、客はどうしても断わり切れなくなり、急いだりつまずいたりしながら、その狭い隙間をすりぬけた。そして、やっと椅子にたどり着くと、それに腰をおろして、うさん臭そうにラズーミヒンを見やった。
「ですが、何も当惑なさることはありません」とラズーミヒンはいきなりまっこうから言ってのけた。
「ロージャはもう五日も病気で寝ていましてね、三日ばかりうわ言ばかり言ってたんです。しかし、今ではやっと正気に返って、食欲も出てきましてね、喜んで食事をしたくらいです。ここにいるのはドクトルで、今ちょうど診察してくれたばかりなんです。僕はロージャの友人で、やはり前の大学生、今はこの通り先生のお守りをしてるわけです。だから、どうぞわれわれには御斟酌ごしんしゃくなく、かまわずお続けください。いったいなんのご用です」
「いや、ありがとう。しかし、わたしがここにすわって話をしたんじゃ、ご病人にさわりゃしますまいかね?」とルージンはゾシーモフの方へふり向いた。
「い、いや」とゾシーモフは口の中でもぐもぐ言った。「かえって気晴らしになるかもしれませんよ」こう言ってからまたあくびをした。
「なに、先生はもうずっと正気でいるんですよ、朝っから!」とラズーミヒンは続けた。この男のなれなれしさには、偽りならぬ純朴さが見えたので、ルージンはちょっと考えて、だんだん元気づいてきた。それはこの厚かましいぼろ書生が、自分でいち早く大学生と名乗ったことも、一部の原因だったかもしれない。
「あなたのお母さまは……」とルージンは切り出した。
「ふむ!」ラズーミヒンは大きな声でこうやった。
 ルージンはけげんそうにその顔を見た。
「いや、なんでもありません。僕はただちょっと。どうかお続けください……」
 ルージンはひょいと肩をすくめた。
「……あなたのお母さんは、わたしがあちらでご一緒にいた間に、あなた宛の手紙を書きかけておられたのです。で、わたしはこっちへ着いてからも、わざと四、五日訪問を遅らしたのです。万事あなたのお耳へはいったのが十分まちがいなしという時に、お伺いしようと思ったものですからね。ところが、いま伺えば、意外にも……」
「知ってます、知ってます!」ふいにラスコーリニコフはなんとも言えないじりじりした、いまいましそうな表情で口を切った。「じゃ、あなたがそうなんですか? 花婿なんですね? 知ってます!……だからもうたくさん!……」
 ルージンはすっかり腹を立てたらしかったが、押し黙っていた。彼はこれらいっさいの事が何を意味するのか、少しも早く思い合わそうと一生懸命にあせった。一分ばかり沈黙が続いた。
 その間にラスコーリニコフは、返事をする時、ちょっと彼の方へ体を向けたままでいたが、急にまた目を凝らして、何かしら特殊な好奇の色を浮かべながら、じっと相手の観察にかかった。それは先ほどよく見定める暇がなかったか、それとも何かはっとするような新しいものを発見したのか、その点は明瞭めいりょうでなかったけれど、とにかく彼はそのためにわざわざ枕から身を起こしさえした。実際ルージンの風采ふうさいには全体として、どことなく一風変わったところが目についた。それはつまり、たったいま無遠慮に与えられた『花婿』という名称を裏書するような、一種のあるものだった。第一、ルージンが首都におけるこの数日を懸命に利用して、花嫁を待つ間にお洒落しゃれをし、男振りを上げようとあせったのは、見えすいているというより、むしろ目だち過ぎるくらいだった。もっとも、こんなのはきわめて罪のない話で許されうべきことである。それどころか、自分は前より美しくなったという、その快い変化を思うあまりにうぬぼれ過ぎた自意識すら、こうした場合には許さるべきものかもしれない。何しろルージンは、目下許婿いいなずけという身分なのである。彼の服装はすべていま仕立屋から届いたばかりで、何から何まで立派なものずくめだった。ただしいていえば、何もかもあまりに新し過ぎて、あまりに一定の目的を暴露し過ぎている、まあ、それくらいなものだろう。ハイカラなま新しい丸形帽子も、その目的を証明していた。ルージンはそれをさもうやうやしげに扱って、さも大事そうに両手で捧げていた。本物のジュネーブできらしい、見事なライラック色の手袋まで、それをはめようとせず、ただ飾りのために手に持っている。ただその事一つだけでも、やはり同じ目的を証明しているのであった。ルージンの服装には明るい、若ごのみな色が勝っていた。彼が身につけていたのは、薄茶色の気取った夏の背広と、薄色の軽快なズボンと共色のチョッキと、買いたての細地のシャツと、ばら色のすじのはいったごく軽い上麻のネクタイである。しかし何よりなことには、これらがすべてルージンに似合うのだった。彼の顔はまだいたって水々しく、美しいといってもいいくらいで、そのままにしておいても、四十五という年よりははるかに若く見えた。まっ黒な頬ひげが、カツレツを二つ並べたように、両側からこころよく顔をくまどって、きれいにり上げたなめらかな顎のあたりで、一段と美しく深い影をつけていた。ほんの心持白いものの交った髪の毛も、理髪師の手ですき上げられ、カールまでしてあったけれど、それがためになんとなく間がぬけて滑稽こっけいに見えるようなことはなかった。というのは、普通カールをした髪というものは、いやでもおうでも、結婚式に臨むドイツ人めいた類似を、その顔に与えるものだからである。もしこの美しい立派な容貌の中に、何か不愉快な反感をそそるものがあるとすれば、それはたしかに別な原因によるものだった。ラスコーリニコフはルージン氏を無遠慮に観察し終わると、毒々しい冷笑を浮かべて、またもや枕の上に身を横たえ、前のように天井をにらみ始めた。けれどルージン氏はじっと我慢した。そして、すべてこうした奇怪な態度も、ある時期までは気にとめまいと覚悟をきめたらしい。
「あなたがこうした状態でいられるのを、深く深く残念に思います」彼は努めて沈黙を破ろうとしながら、改めて口を切った。「ご病気と知っていたら、もっと早く伺うところでした。しかし、どうも多忙なもんで……それに、弁護事務の方も、大審院にきわめて重大な事件をかかえているものですから。その上、ご賢察の取り込みについては、あらためて、申し上げるまでもありません。ご家族の方、といって、つまりご母堂とご令妹のおいでを、今か今かとお待ちしているわけで……」
 ラスコーリニコフはやや身を動かして、何か言いだそうとした、その顔はなんとなく興奮の色を現わした。ルージンはことばを休めて待っていたが、一向なにも出そうにないので、また先を続けた。
「……今か今かとね。で、まずさし向きの用意として、宿所を捜しておきました……」
「どこに?」と弱々しい声でラスコーリニコフは尋ねた。
「ここからごく近くです。バカレーエフの持家なんで……」
「ああそれはヴォズネセンスキイ通りだ」とラズーミヒンがさえぎった。「貸間専門の二階建で、ユーシンという商人が経営してるのさ。ちょくちょく行ったことがあるよ」
「さよう、貸間ですよ……」
「とてもひどい所さ――きたなくって、臭くって、それに怪しげな家なんだ。ときどき変な騒ぎが持ち上がるよ。およそどんな連中だって、あそこに巣を食っていないやつはないぜ!……僕も一度ある騒動で引っ張り出されたことがある。もっとも、安いにゃ安いよ」
「わたしは、自分からして土地不案内なものですから、それほど詳しい事情を調べ上げるわけにはいきませんでしたが」とルージンはしりくすぐったそうに言い返した。「しかし、ごくごくきれいな部屋を二間とっときましたよ。何しろほんの短期間ですからね……わたしはもう本当の、つまりわれわれの今後の住まいも、ちゃんと見つけておいたんですよ」と彼はラスコーリニコフの方へふり向いた。
「で、今その方を修繕中なんで。わたしもその間、貸間できゅうくつな目をしているわけなんです。ここからほんの一足、リッペヴェフゼル夫人の家でしてな、わたしの若い友人アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの住まいに同居しているのです。バカレーエフの家もこの男が教えてくれたので……」
「レベジャートニコフ?」何やら思い出したらしく、ラスコーリニコフはゆっくりと言った。
「さよう、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフ、ある省に勤めている、ご存じですか?」
「ええ……いや……」とラスコーリニコフは答えた。
「これは失礼、わたしはあなたが問い返された口ぶりで、そんな気がしたものですから。わたしはいつかその男の後見をやったことがありましてな……きわめて愛すべき青年です……いつも新しい思想に留意してる男で……いったいわたしは若い人に接するのが好きなんですよ――若い人からは、新しい思想がどんなものか、知ることができますからね」
 ルージンはある希望を抱きながら、一座の人々をひとわたり見渡した。
「それはどういう意味です!」とラズーミヒンが尋ねた。
「もっともまじめな意味です。いわば、事の本質そのものといったところです」とルージンは、質問されたのがさもうれしそうに、すぐこう受けた。「わたしなどは、なんですよ、ペテルブルグへはもう十年も来なかったです。いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうしたものは、田舎住まいの我々には触れないことはないが、それを確実に見るためには、いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルグにいなければいけません。まあ、わたしの意見はこうです――いろいろと多くの事を認識するのには、何よりもわが新しき世代を観察するのが一番ですて。で、わたしは実のところ、大いにうれしかったです……」
「何がです?」
「あなたの質問はあまり範囲が広すぎますね。あるいは、わたしの考えが違っているかもしれませんが、若い人にはより明晰めいせきな見解、つまり、なんと言いますか、より多くの批判精神があるように思えるのです。より多くの実際的精神……」
「それは本当ですよ」とゾシーモフが歯と歯の間から押し出すように言った。
「でたらめだ。実際的精神なんかありゃしないよ」とラズーミヒンが割り込んだ。「実際的精神なんてものは、そうやすやすと得られやしないよ。天から降って来やしまいしさ。われわれロシヤ人はいっさいの活動から遠ざかって、仕事を忘れてしまってから、もうかれこれ二百年もたつんだからね……もっとも、思想は醗酵はっこうしているかもしれません」と彼はルージンの方へふり向いた。「それから、子供らしいものではあるけれど、善に対する願望もあります。また山師に類した連中がうようよぞろぞろ出ては来たけれど、それでもまだ潔白な精神さえも見出みいだすことができましょう。しかし、実際的精神は依然としてありません! 実際的精神はざらにその辺にころがっちゃいない」
「あなたのご意見にはどうも同意しかねますなあ」といかにもうれしそうな様子で、ルージンは弁駁べんぱくした。「もちろん、一時の気紛きまぐれから出た軽薄な熱中もあれば、間違ったこともあります。しかし、多少は大目に見てやらなくちゃいかんです。夢中になるということは、つまり仕事に対する熱意と、仕事を取巻いている外的状況の不正を証明するものです。もしまだいくらも仕事ができていないとすれば、それはつまり時間も少なかったというわけです。方法に関しては今なにも申しますまい。わたし一個の見解に従えば、すでに多少の成果が上げられている、とこういうことさえできるくらいです。まず新しい有益な思想が普及しています。以前の空想的な、ロマンチックなものの代わりに、いろいろ新しい有益な著述が普及されています。文学はより成熟した陰影を帯びてきましたし、多くの有害な偏見が除かれ、完全に嘲笑ちょうしょうされてしまいました……一言にして尽せば、われわれは完全に過去と絶縁してしまったのですな。このことは、わたしに言わせると、すでに一つの事業ですて……」
「ばかの一つ覚えだ! 自己推賛をやってやがる」とふいにラスコーリニコフが言った。
「なんですと?」とルージンは、よく聞こえなかったので問い返したが、返事はなかった。
「お説ごもっともですな」とゾシーモフが急いで口をはさんだ。
「そうでしょう?」いい気持そうにゾシーモフに視線を投げながら、ルージンはことばを続けた。「あなたもご同意のことと思いますが」今度はラズーミヒンの方を向いてそう言ったが、もう多少勝ち誇ったような優越の色を見せて、あぶなく『え、お若いの』とでも言いそうだった。「現代は長足の進歩、今のことばでいうと、プログレスを遂げておりますよ。少なくとも、科学や、経済上の真理の名においても……」
「月並みですよ!」
「いや、月並みじゃありません! たとえば、今日まで『隣人を愛せよ』と言われておりましたが、もしわたしがやたらに他人を愛したとすれば、その結果はどうなったでしょう?」とルージンはことばを続けた。あるいは、少々せきこみ過ぎたかもしれない。「その結果は、わたしが上着を二つに裂いて隣人に分けてやる、そして二人とも裸になってしまうのです。つまりロシアのことわざでいう『二兎をうものは一兎をも得ず』というあれですな。ところが科学はこういいます――まず第一におのれ一人のみを愛せよ、なんとなれば、この世のいっさいは個人的利益に基づけばなり。おのれ一人のみを愛すれば、おのが業務をも適宜に処理するを得、かつ上着も無事なるを得ん、とこうです。しかも経済上の真理は更にこう付言しています――この世の中というものは整頓せいとんした個人的事業、すなわち無事な上着が多ければ多いほど、ますます強固な社会的基礎が築かれ、同時に一般の福祉もますます完備されるわけだとね。かようなわけで、ただただ自分一個のために利益を獲得しながら、それによって万人のためにも獲得してやることになる。そして、隣人だってちぎれた上着よりは、多少ましなものを得ることができるようにと、心掛けております。しかも、それはもはや単なる個人的慈善のためじゃなくて、社会全般の進歩によるのですからな。この思想はきわめて単純なものですが、不幸にも、感激性と空想癖におおわれて、あまりにも長くわれわれを訪れなかったのです。これを語るには大して機智もいらなさそうなものですが……」
「失礼ですが、僕もやはり機智に富んだ方じゃないから」とことば鋭くラズーミヒンはさえぎった。「もう打ち止めにしようじゃありませんか。実のところ僕は目的があって口を切ったんだが、そんなひとりよがりの、いつ終わるともしれぬはてしのない陳腐なおしゃべりは、もう三年の間に、いやになるほど聞き飽きちゃった。自分で口にするのは愚か、自分のいる所で人が言い出すのですら、全く顔が赤くなるくらいだ。あなたはむろん一刻も早く、自分の知識をひけらかしたかったんでしょう。それは大いに酌量すべきことで、僕も別にとがめ立てしません。ただ僕は今あなたがどんな人か、ちょっと知りたかっただけなんですよ。なぜといってね、おわかりでしょう。近ごろは一般の福祉なるものに、いろいろ様々な事業家がからみついて、手を触れるものをなんでもかでも、利得のためにゆがめ傷つけたので、まるで何もかも打ち壊しになってしまったから。だが、もうたくさんだ!」
「あなた!」なみなみならぬ威厳を見せて、ぐっとそり返りながら、ルージンは言いかけた。「あなたがそう無遠慮な口のきき方をされるとすれば、わたしも……」
「いや、とんでもない、とんでもない……僕にそんな失礼なことができますか!……が、とにかくもうたくさんです!」とラズーミヒンは断ち切るように言って、さっきの話を続けるために、くるりとゾシーモフの方へ向いてしまった。
 ルージンはこの釈明を信じるだけの聡明そうめいさを持っていた。もっとも、彼はもう二分もたったら、帰ろうと決心したので。
「さて、今日の初対面のお近づきが」と彼はラスコーリニコフに話しかけた。「ご全快の後は、ご存じの通りの関係ですから、ますます深くなるように期待しております……特にご自愛を祈ります……」
 ラスコーリニコフは頭もふり向けなかった。ルージンは椅子から腰を持ち上げにかかった。
「確かに質を置きに行ったやつが殺したんだよ!」と断定的な調子でゾシーモフが言った。
「確かに質を置きに行ったやつだ!」とラズーミヒンもあいづちを打った。「ポルフィーリイは自分の考えを漏らさないが、それでも入質人を尋問してるよ……」
「入質人を尋問してる?」とラスコーリニコフは大きな声で尋ねた。
「ああ、それがどうしたんだい?」
「いや、なんでもない」
「先生どこからそんな者を見つけ出すんだろう?」とゾシーモフはきいた。
「コッホが教えたのもあれば、質物の上包みに名を書いてあったのもあるし、話を聞きつけて自分からやって来たものもある……」
「いや、どうも巧妙な慣れきった悪党に違いないね! なんて大胆な! なんて思い切ったやり口だ!」
「ところがどっこい、そうでもないんだ!」とラズーミヒンはさえぎった。「つまり、そこがみんなをまごつかすんだよ。僕に言わせると――巧妙でもない、慣れてもいない。あれは確かに初めての仕事だ! 考えぬいた予定の行動、巧妙な悪党という想像をすると、つじつまが合わない。ところが、不慣れなやつとして見れば、単なる偶然がやつを災厄から救い出した、とこう平仄ひょうそくが合ってくる。偶然てやつは、何をしでかすかわかりゃしないよ! 考えてもみたまえ、やつは邪魔がはいるなんてことは、てんで予想もしていなかったらしいじゃないか! しかも、そのやり口はどうだ! わずか十ルーブリか二十ルーブリくらいの品を取り出して、それをポケットへねじ込んでさ、女物のはいった長持の中でぼろっきれを引っかき回しただけなんだ。ところが箪笥たんすの上の引出しには、手箱の中にしまった金が、証券類をのけて現金ばかりでも、千五百ルーブリから出てきたんだからね! だから、盗むすべも知らないで、ただ殺すことだけはうまく仕おおせたのさ! 初めての仕事だよ、君、初めての、まるで動顛どうてんしちゃったんだもの! 予定の行動じゃなくて、偶然のおかげでうまく逃げたんだよ!」
「それは、どうやらこのごろやかましい、官吏未亡人の老婆殺しの話らしいですな」とルージンはゾシーモフの方へ向きながら口をはさんだ。もう帽子と手袋を手にして立っていたが、帰る前に少しばかり気のきいたことを言いたかったのである。
 見かけたところ、彼は有利な印象を与えようと腐心して、見栄みえぼうの本性が分別を圧倒したらしい。
「そう。お聞きになりましたか?」
「そりゃもう、ほとんど隣のことですから……」
「詳しいことをご承知ですか?」
「そうまでは申しかねますが、しかしこの事件については別な事情が、つまり一つの大きな問題が、わたしの興味をそそるんですよ。最近五年間に、下層社会に犯罪が増加したことや、またいたるところにひんぴんとして起こる強盗や放火については、今さらいうまでもないとして、何より奇怪千万なのは、上流社会でも同様に、いわば平行的に、犯罪が増加して行くことです。どこそこでは大学生あがりが大道で郵便物を掠奪りゃくだつしたという噂があるかと思えば、またどこそこでは社会的地位からいっても第一線に立っている人々が贋造がんぞう紙幣を作っている。かと思えばモスクワでは、最近発行の割増つき債券を贋造する連中の一団が検挙されたが――その首謀者の中には、万国史の講師が一人いたとか。それからまた海外駐在の書記官が、何か金のことらしいけれど、謎のような原因のために暗殺されています……で、もし今この金貸しの老婆殺しの犯人が、より高級な社会から出ているとしたら(なぜなら、百姓は金属品など質に入れませんからね)、社会の文化的階級のかかる腐敗堕落をなんと説明したらいいでしょう?」
「経済上の変化が激烈ですからね……」とゾシーモフは応じた。
「どう説明したらですって?」ラズーミヒンがからみついてきた。「つまり、病い膏肓こうこうに入った非実際性のため、と言えば説明がつくでしょうね」
「というと、つまり?」
「ほかでもない、モスクワで万国史の講師が言ったことですよ。なぜ債券贋造をしたかという尋問に対して、『みんないろいろの方法で金持になっているから、わたしも手っとり早く金持になりたかったのです』と答えた。正確なことばは覚えていないが、要はたしか、骨を折らないで手っとり早くれ手であわもうけがしたいというんです! みんな据えぜん目当ての生活をしたり、人のふんどしで相撲を取ったり、んでもらったものを食うといったようなことに慣れてしまったんですね。ところで、いま偉大なる時が訪れたので、一人一人がその正体を暴露してしまった……」
「しかし、なんといっても、道徳というものがあるでしょう? その、なんというか、戒律が……」
「いったいあなたは何を気をもんでるんです?」と思いがけなくラスコーリニコフが割ってはいった。「あなたの理論通りになってるじゃありませんか!」
「どうしてわたしの理論通りに?」
「あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、人をり殺してもいい、ということになりますよ……」
「とんでもない!」とルージンは叫んだ。
「いや、それはそうじゃない!」とゾシーモフが応じた。
 ラスコーリニコフは上唇をぴくぴく震わせながら、まっさおな顔をして横になったまま、苦しそうに息をついていた。
「物にはすべて程度というものがあります」とルージンは尊大な調子でことばを続けた。「経済上の思想は、まだ殺人の勧誘にはなりませんよ。だから、もし仮りに……」
「それから、あれはほんとうですか、君が」ふいにまたラスコーリニコフは、憤怒ふんぬに震える声でさえぎった。その声には一種侮辱の喜びとでもいうものが響いていた。「君が婚約の花嫁に向かって……しかも彼女が君に承諾の返事をしたその時に……あれが貧乏人なのが……何よりもうれしいと言ったのは、ほんとうですか……貧乏人の娘を細君にもらうのは得だ。結婚後細君に権威をふるうのに好都合だから……自分の恩を鼻にかけて、じりじり締めつけるのに都合がいいからって、そうですか?……」
「もし!」ルージンはかっとなって、少なからずまごつき気味ながら、毒のあるいらいらした声で叫んだ。「あなたが……そうまで意味を曲解するなんて! 失礼ながら、こちらも言わせてもらいましょう。あなたのお耳へはいった――いや、あるいは吹き込まれたといった方がいいかもしれない――その噂は、ごうも確実な根拠を持っちゃおりません……で、わたしは……誰の仕業か……一口に言えば……この毒矢は一口に言えばご母堂が……それでなくてもあの方は――もっとも、実に立派なご気質を備えてはいらっしゃるが、考え方に多少うわついた、ロマンチックな陰影を持っておられる……ような気がしておったです……しかし、それにしてもあの方が、そんな空想で歪曲わいきょくされた形でもってこのことを解釈したり、考えたりしておられようとは、重々意外千万でしたよ……しかも、その上……その上……」
「よく聞きたまえ!」枕の上に身を持ち上げ、刺すようにぎらぎら光る目でじっと相手をにらみつけながら、ラスコーリニコフはこう叫んだ。「よく聞きたまえ!」
「なんです?」
 ルージンはことばを止めて、腹立たしいいどむような顔つきで、じっと待っていた。幾秒かの間、沈黙が続いた。
「ほかでもない、もし君がもう一度……たった一口でも……母をあしざまに言ったら……僕は君を階段から突き落とすぞ!」
「君どうしたんだ!」とラズーミヒンは叫んだ。
「ははあ、そうなのか!」とルージンは青くなって唇を噛んだ。「実はね、君」と彼は一生懸命に腹の虫を抑えながら、ゆっくり間を置いて言い出したが、それでも息ははずませていた。「わたしはもう先刻から、一歩踏み込んだ瞬間から、君がわたしに敵意を持っておられることは察していました。しかし、もっとよく知っておきたいと思って、わざとここに残っておったのです。病人ではあり、親戚しんせきではあるしするから、たいていのことは我慢する気だったが、もう今は……断じて……」
「僕は病気じゃない!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ではなおさら!」
「とっとと出て行け!」
 けれどルージンは言うべきことも言い終わらないで、またテーブルと椅子の狭い間をすり抜けながら、もう自分の方から出かけていた。ラズーミヒンも、今度は彼を通してやるために席を立った。ルージンは誰にも目をくれず、もうだいぶ前から、病人にかまわないでくれと、かぶりを振って合図をしているゾシーモフにも、会釈のしるしにうなずこうともしないで、用心ぶかく肩の辺まで帽子を持ち上げながら出て行った。戸口を出る時には、ちょっと背をかがめさえした。その背のかがめ具合にまで、恐ろしい凌辱りょうじょくを背負っている、とでもいうような感じが現われていた。
「あんな法ってあるかい、あんな法って?」ラズーミヒンは頭を振りながら度胆どぎもを抜かれたように言った。
「うっちゃっといてくれ、みんな僕をかまわないでくれ!」とラスコーリニコフは、前後を忘れたようにどなった。「全く、いつになったらうっちゃってくれるんだい? まるで拷問役人だ! 僕は君らなんか恐れやしない! もう今は誰一人、誰一人こわくない! 僕のそばを離れてくれ! 僕は一人でいたいんだ、一人で、一人で!」
「行こうじゃないか!」ラズーミヒンにあごをしゃくって見せながら、ゾシーモフは言った。
「とんでもない、これを一人うっちゃっといていいものかね」
「行こうってば!」とゾシーモフはがんこにくり返して、さっさと出てしまった。
 ラズーミヒンはちょっと考えたが、すぐあとを追って駆け出した。
「病人の言うことを聞かなかったら、どんなことになったか知れやしない」もう階段まで出てから、ゾシーモフはこう言った。「いらいらさしちゃいけないんだ……」
「あの男いったいどうしたんだろう?」
「何かちょっとした、いい具合の衝動がありさえすればいいんだがなあ! さっきなんか、あんなに元気だったんだもの……ねえ、君、あの男なんだか心に屈託があるんだよ! 何かしらじっと凝って動かない重苦しいようなものが……僕はこいつを非常に恐れてるんだ! きっとそうに違いない!」
「ねえ、ひょっとしたらあの紳士、ほら、ルージン氏のためじゃなかろうか! 話の模様で見ると、先生あの男の妹と結婚するんだよ。そのことについて、ロージャは病気の直前に手紙を受け取っているらしい……」
「そう。折の悪い時に来やがったもんだよ。全く、あのやっこさんが何もかも打ち壊してしまったのかもしれないな。ところで、君は気がついたかい――ラスコーリニコフはほかの事にはいっさい無頓着むとんじゃくで、何を言っても黙っているが、ただ一つ興奮して夢中になることがある。それは例の殺人事件だ……」
「そうだ、そうだ!」とラズーミヒンはあいづちを打った。「気がついたとも! ばかに興味を持って、びくびくしているんだ。あれは病気の起こった当日、警察署長のところで初めて聞いてびっくりしたからさ。卒倒までしたんだからね」
「君、その話は晩にもっとくわしく聞かしてくれないか。その上で僕も話すことがあるから。この病人は実に興味があるよ! 三十分もしたらまた寄ってみる……ただし、炎症などは起こるまいがね」
「ありがとう! じゃ、僕はその間パーシェンカのとこで待っていながら、時々ナスターシャにのぞかせて、視察するとしよう……」
 ラスコーリニコフは一人きりになると、じれったそうな悩ましげな目つきでナスターシャを見やった。こちらはまだ出て行くのをためらっていた。
「もうお茶ほしくない?」と彼女は尋ねた。
「あとで! おれは眠いんだ! うっちゃっといてくれ……」
 彼はけいれん的な身ぶりで壁の方へくるりと向いてしまった。ナスターシャは出て行った。


 けれど、彼女が出て行くが早いか、彼は起き上がってドアにかぎをかけた。そして、先ほどラズーミヒンが持って来て、さらに包み直した服の包みを解いて、着がえを始めた。不思議なことに、彼はすっかり平静になったような気がした。さっきの気ちがいじみたうわ言もなければ、このごろじゅうのようにいても立ってもいられぬほどの恐怖もなかった。それは一種不可思議な思いがけない平静の、最初の瞬間だった。彼の動作は正確明晰めいせきで、その中には固い意図がのぞいていた。『今日だ、いよいよ今日だ!……』と彼はつぶやいた。もっとも、まだ衰弱しているとは、自分でも知っていた。しかし平静の域にまで、固定観念の域にまで達した強い心の緊張が、彼に力と自信を与えた。まさか往来で倒れるようなことはあるまいと、それを彼は心だのみにしていた。すっかり新しいものに着替えてから、テーブルの上にのっている金を見て、ちょっと考えたのち、それをポケットへ入れた。金は二十五ルーブリあった。それから、ラズーミヒンが衣類代に払って来た十ルーブリの釣銭、幾つかの五カペイカ玉もつかんだ。やがて、そっと鉤をはずして部屋を出ると階段をおり、あけ放してある台所をのぞいてみた――ナスターシャは彼の方へしりを向けて、かがみ込みながら、おかみのサモワールをふうふう吹いている。彼女はなんにも聞きつけなかった。それに誰にもせよ、彼が出て行こうなどと、どうして想像ができよう! 一分の後には、彼はすでに往来へ出ていた。
 それは八時ごろで、日は沈みかかっていた。依然たるむし暑さだったが、彼はこの悪ぐさいほこりだらけな都会に毒された空気をむさぼるように吸い込んだ。彼はかすかにめまいを覚えた。ふいに何かしら野性的なエネルギーが、その燃えるような両眼とやせ衰えた青黄色い顔に輝き出した。彼はどこへ行くのか、それさえ知らなかった。また考えようともしなかった。彼の頭にはたった一つのことしかなかった。ほかでもない、『こんな事は今日すっかり一ぺんに、これからすぐ片づけてしまわなければならぬ。さもなくば家へは帰るまい。こんな風で生きていくのはいや』だが、どんな風に片づけるのだ? 何をして片づけるのだ? 彼はそれについてなんの考えも持っていず、また考えようともしなかった。彼は一つの想念を追いのけていた。その想念が彼を責めさいなむのであった。彼はただいっさいのことが、どんな風にもあれ、とにかく転換してしまわねばならぬということだけを、感じもし悟ってもいた。『たといどんな変わりようだってかまうもんか』と彼は自暴自棄的な、凝り固まった自信と決心をもって、そうくり返した。
 古くからの習慣でいつもの散歩の道筋をたどり、彼はまっすぐに乾草広場センナヤへ方向をとった。広場の少し手前にある一軒の小店の前の車道で、髪の黒い若い手回し風琴ふうきんやが立って、何やらひどく感傷的な小唄ロマンスを鳴らしていた。それは、前の人道に立っている十五ばかりの少女の歌につける伴奏であった。少女はお嬢さま然と大きく張ったペチコートをはき、婦人外套マンチリヤを着て、手には手袋をはめ、火のような色をした羽飾りつきの麦わら帽子をかぶっていたが、それらはみな古ぼけて、くたびれ切っていた。彼女は大道芸人特有のかん高い、とはいえかなり感じのいい力のある声で、小店のなかから二カペイカ投げてくれるのを待ちながら、小唄ロマンスをうたっていた。ラスコーリニコフは、二、三人の聞き手と並んで立ち止まり、しばらく耳を傾けたのち、五カペイカ玉を取り出して少女の手に握らせた。こちらは急に一ばん調子の高いかんじんなところで、断ち切るように歌をやめて、風琴回しに大きな声でずかりと言った。『もうたくさん!』そして、二人はのろのろと次の店へ移って行った。
「君は大道芸人の歌が好きですか?」とラスコーリニコフは、一緒に並んで手回し風琴のそばに立っている浮浪人風の、あまり若くもない男をつかまえて、だしぬけに話しかけた。こちらはきょとんとした目つきで彼を見つめながら、びっくりしたような顔をした。「僕は好きですよ」とラスコーリニコフは続けたが、それはまるで大道芸人の事を話してるのではないような調子だった。「僕はね、寒くて暗い湿っぽい秋の晩――それはどうしても湿っぽい晩でなくちゃいけない――通行人の顔がみんな青白く病的に見えるような時、手回し風琴に合わして歌っているのが大好きですよ。でなければ、いっそぼた雪が風もなくまっすぐに降っている時でもいい、わかるでしょう? 雪を通してガス灯が光ってる……」
「わかりませんな……ごめん……」質問も質問だが、ラスコーリニコフの奇妙な風体にぎょっとした男は、口の中でもぐもぐ言うと、往来の向こう側へ行ってしまった。
 ラスコーリニコフはまっすぐに歩いて行って、あの時リザヴェータと話していた町人夫婦がいつも屋台店を出している、乾草広場センナヤの例の一隅へ出た。が、今度は夫婦ものはいなかった。その場所を見分けると、彼は立ち止まりあたりを見回した。そして、粉倉の入り口でぽかんとしている赤シャツの若者に声をかけた。
「ここの隅で、町人風の夫婦づれが商売してるだろう、え?」
「みな商売してまさあ」若者は高慢ちきな様子でラスコーリニコフをじろじろ見回しながら、こう答えた。
「その男の名はなんというのだろう?」
「洗礼を受けた通りの名でさあ」
「君はザライスクの人間じゃないかね? いったい何県から来たい?」
 若者はもう一度ラスコーリニコフを見つめた。
「わっしらの方は、お前さま、県じゃなくって区といいます。兄貴は方々旅をしましたがね、わっしゃ家にばかりいたもんで、なんにも存じませんよ……まあ、お前さま、もうこれくらいでかんべんしていただきたいもんで」
「あれはめし屋かね、二階の方のは?」
「ありゃ飲み屋ですよ。玉突きもあります。それに姫ごぜ達もいますぜ……にぎやかなもんでさあ!」
 ラスコーリニコフは広場を横切って行った。向こうのとある片隅に、黒山のような人だかりがしている。百姓ばかりである。彼は人々の顔をのぞき込みながら、一番こみ合っているまんなかへ割り込んだ。彼はなぜかしら、誰とでも話がしたくてたまらなかった。が、百姓たちは彼などには目もくれず、幾つかの小さいかたまりにわかれながら、てんでに何かしらがやがや言っていた。彼はしばらく立っていたが、ちょっと考えてから、右へ方角をとり、歩道づたいにV通へ足を向けた。広場を通りぬけると、ある横町へはいり込んだ。
 彼は前にも、広場からサドーヴァヤ通へ通ずる鉤の手になったこの短い横町を、よく通ったものである。ことに最近は、いやでたまらなくなった時など、『もっと厭な気持になりやがれ』といったような反抗心から、わざわざこの付近をぶらついたくらいである。しかし今はなんにも考えないではいって行った。そこには、建物全体が酒場その他の飲食店でふさがっている、一軒の大きな家があった。それらの店からは、帽子もかぶらず着物を一枚ひっかけたきりで、『ちょっと近所を』往来するような身なりをした女どもが、ひっきりなしに駆け出していた。女たちは歩道の上に二、三か所、ことに地下室へおりる口の所に、群をなして集まっていた。そこから二段ばかりおりると、いろいろ面白い所へ行かれるのだった。そういった場所の一つから、この時がたがたいう音と騒々しい人声が往来いっぱいに流れ出して、ギターが響き、歌が聞こえて、恐ろしくにぎやかだった。入り口には女が黒山のようにたかっている。あるものは階段に腰をかけ、あるものは歩道にすわり、またあるものは立ったまましゃべっている。そのかたわらの車道では、酔っぱらった一人の兵隊が何やら大声にののしりながら、巻煙草をくわえてふらふらしていた。見たところ、どこかへはいろうと思いながら、それがどこだったか忘れたような風である。一人のぼろ男が、もう一人のぼろ男と何やら罵り合っていると、その傍では死人のように酔いつぶれた男が、往来のまんなかにごろごろしている。ラスコーリニコフは、女たちの大勢あつまっている傍に立ち止まった。みんなしゃがれ声でしゃべっていた。誰も彼もサラサの服に、山羊皮ヤンピーの靴をはき、帽子なしの素頭だった。中には四十を越したのもいたが、また十七くらいのもい、みんなほとんど目の縁に打身をこしらえていた。
 彼はなぜか下の方の歌声や、がたがたいう物音や、騒々しい人声に心をひかれた……そこからは、くずれるような笑い声と叫びの合い間に、細い裏声の恐ろしくいなせな歌と、ギターに合わせて誰かがかかとで拍子をとりながら、やけに踊っているのが聞こえた。彼は入り口にかがんで、もの珍らしげに歩道から玄関をのぞき込みながら、陰鬱いんうつな物思わしげな表情で、じっとそれに聞き入った。

『そさまはわたしの大事な殿ご
『あだにわたしを打たんすな!――

 こういう歌い手の細い声が流れてきた。ラスコーリニコフは、まるでいっさいがそれにかかっているかのように、いま歌っていることが聞きたくなった。
『はいってみようかな?』と彼は考えた。『笑ってやがる! 酔ってるんだ。ええっ、一つへべれけになるまで飲んでやろうか?』
「ちょいと寄ってらっしゃらなくって、かわいい旦那だんな?」と女の一人がかなり響きのいい、まだそんなに嗄れていない声で言った。
 それはまだ若くて、いやらしくない女だった――群れの中の一人である。
「よう、べっぴんだね!」彼はわずかに身を起こして、女を見ながらそう言った。
 女はにっこりした、彼のお世辞がひどく気に入ったので。
「ご自分だってずいぶんいい男だわ」と女は言った。
「まあ、やせてらっしゃること!」もう一人がバスで言った。
「病院からでも出なすったばかりかしら!」
「ちょっと見は将軍様の令嬢だが、鼻が皆ぺちゃんこだあ!」そばへやって来た百姓が、ふいに一杯機嫌で横槍よこやりを入れた。粗ラシャの外套がいとうをあけっぴろげにして、醜い顔にずるそうな笑いを浮かべている。
「なんと面白そうだなあ!」
「おはいりよ、来たくらいなら!」
「はいるよ! さあ、うめえぞ」
 こう言って、男はころがるように下へおりた。
 ラスコーリニコフは先へ歩き出した。
「ちょいと、旦那?」と娘がうしろから声をかけた。
「なんだい?」
 女はちょっとてれた。
「ねえ、かわいい旦那、わたしあんたとなら、いつでも喜んで一緒に遊ぶわ。だけど、今はなんだか気がさして駄目だめなの。ねえ、いい男、一杯飲むんだから、六カペイカばかしちょうだいな?」
 ラスコーリニコフは手に当たるだけつかみ出した。五カペイカ玉が三つだった。
「あら、まあ、なんて気前のいい旦那でしょう!」
「お前なんていうんだい?」
「ドゥクリーダとたずねてちょうだい」
「だめよ、まあなんてえこったろう」と、ふいに群れの中の一人の女が、ドゥクリーダに向かって頭を振りながら口を出した。「そんな風にねだったりしてさ、なんてったらいいかわかりゃしないわ! わたしなんか恥かしくて、穴へでもはいりたいぐらいだわ……」
 ラスコーリニコフは、しゃべっている女を珍らしそうにながめた。それは三十がらみのあばたづらの女で、打ち身だらけになっており、上唇を少しはらしていた。女は落ち着いたまじめな口調で、さかんに非難するのだった。
『なんだっけかなあ』とラスコーリニコフはまた歩き出しながら考えた。『あれはなんで読んだのだったかなあ。一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことを言うか、考えるかしたって話だ――もし自分がどこか高い山のてっぺんの岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう? まわりは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この方尺の地に百年も千年も、永劫えいごう立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。ただ生きたい、生きたい、生きていきたい! どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!……この感想はなんという真実だろう! ああ、全く真実の声だ! 人間は卑劣漢にできている!……またそう言った男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ』一分ばかりたってから、彼は更にこうつけ加えた。
 彼は次の通りへ出た。『やっ! これは「水晶宮」だ! さっきラズーミヒンが「水晶宮」の話をしていたっけ! だが、ええと、おれはなんのつもりだったのかな? そうだ、新聞を読むことだ!……ゾシーモフが新聞で読んだと言ったんだ……』
「新聞あるかい?」かなり広々とした、小ざっぱりした酒場にはいりながら、彼は尋ねた。部屋はいくつかあったが、あまり客はなかった。二、三人の客が茶を飲んでいて、そのほか遠く離れた一間に、四人ばかりの一団が陣どって、シャンペンを飲んでいた。ラスコーリニコフの目には、その中にザミョートフがいるように思われた。もっとも、遠いのでよくは見分けられなかったが。
『なに、かまうもんか!』と彼は考えた。
「ウォートカを差し上げますか?」と給仕が尋ねた。
「いや、お茶をもらおう。それから、新聞を持って来てくれ、古いのを。そうだな、五日ばかり前からそろえて。君には祝儀をあげるからね」
「かしこまりました。これが今日の分でございます。それから、ウォートカを召しあがりますか?」
 古い新聞とお茶が来た。ラスコーリニコフは、すわり具合のいいように腰を落ち着けて、捜しにかかった。『イーズレル――イーズレル――アツテーキ――アツテーキ――イーズレル――バルトーラ――マッシーモ――アツテーキ――イーズレル――……ちょっ、畜生! あっ、ここに雑報がある――女が階段から落っこちた――町人が一人酔っぱらって死んだ――ペスキイの火事――ペテルブルグ区の火事――も一つペテルブルグ区の火事――またぞろペテルブルグ区の火事――イーズレル――イーズレル――マッシーモ――あっ、これだ……』
 彼はついに捜し当てて読みにかかった。活字は目の中でおどったが、それでも彼は『報道』をすっかり読み終わると、むさぼるように次の号をめくり、新しい追加記事を捜し始めた。頁をくって行く彼の手はけいれんするようなもどかしさに震えた。ふいに誰やら彼の傍へ来て、テーブルの向こうに腰をかけた。ふと見ると、――ザミョートフだった。ポマードをつけた黒い巻き毛に分け目をくっきりと見せ、ハイカラなチョッキに、いくらかすれたフロックをまとい、あまり真っ白でないシャツを着込み、金鎖をたらして、金指輪をいくつもはめた、いつもに変わらぬザミョートフである。彼は愉快そうだった。少なくとも、大いに愉快らしく、人のよさそうな微笑をたたえていた。その浅黒い顔は、一杯やったシャンペンのために、ほんのりと赤くなっている。「えっ! あなたはこんなところへ?」彼はさも百年の知己といった調子で、けげんそうに口を切った。「つい昨日ラズーミヒンが、あなたは引続き正気でないって話してたのに。どうも変ですね! 僕もあなたのとこへ行ったんですよ……」
 ラスコーリニコフは、彼がそばへ来るのを覚悟していた。彼は新聞をわきへ押しやって、ザミョートフの方へふり向いた。彼の唇には冷笑が浮かんだ。その冷笑の中には何かしら新しい、いらだたしげな焦燥がのぞくのであった。
「知ってますよ、おいでになったことは」と彼は答えた。「聞きましたよ。靴下を捜してくれたそうですね……ときに、ラズーミヒンは君に夢中ですよ。君はあの男と一緒に、ラヴィーザ・イヴァーノヴナの所へ行ったそうですね。ほら、あの時君が気をもんで、火薬中尉に目くばせしても、先生いっこう気がつかなかった、覚えてるでしょう――あの女のところへ? こりゃもうわからないはずはないんだがなあ――はっきりした話だのに……え?」
「どうもあの男も暴れんぼだな!」
「火薬がですか?」
「いや、君の友人ですよ、ラズーミヒンですよ……」
「君の生活は結構なもんですね、ザミョートフさん。ああいう愉快この上ない所へ木戸御免なんて! いま君にシャンペンをご馳走ちそうしたのは、ありゃ誰です?」
「あれはみんなで……飲んだんですよ……で、まあ、ご馳走したんですな!」
「報酬ってやつですな! なんでも利用しますね!」とラスコーリニコフはからからと笑い出した。
「いや、なんでもないさ、わが愛すべき少年よ、なんでもないさ!」ザミョートフの肩をぽんとたたいて、彼は言い足した。「僕は何も当てつけて言ってるんじゃない。『つまり仲がいいもんだから、面白半分に』言ってるんですよ。これは、ほら、例のペンキ屋の職人が、ミトレイをなぐった時に言った事ですよ。例の老婆殺しの件で」
「君はどうして知ってるんです?」
「そりゃ僕だって、君より詳しいかもしれませんよ」
「君はなんだかちと変ですね……きっとまだよっぽど悪いんですぜ。外出なんかしたのは乱暴でしたね……」
「君の目には僕がへんに見えますか?」
「見えますね。ときに、君それはなんです、新聞を読んでるんですか?」
「新聞です」
「やたらに火事のことが出ていますね」
「いや、僕が読んだのは、火事のことなんかじゃありませんよ」こう言って、彼は謎めいた表情でザミョートフを見やった。あざけるような薄笑いがまたもや彼の唇をゆがませた。「いや、火事のことじゃありません」と、意味ありげにまばたきしながら、彼はくり返した。「さあ、白状したまえ、わが愛すべき青年、君は僕がなんの記事を読んだか、それが知りたくてたまらないんでしょう」
「ちっとも知りたかない、ただ、ちょっときいてみただけですよ。いったいきいちゃいけないんですか? なんだって君はのべつ……」
「ねえ、君は立派な教養のある、文学的な人ですね、え?」
「僕は中学を六年までやったきりです」ある威厳を見せながら、ザミョートフは答えた。
「六年まで! いや、君は実にかわいい小雀こすずめさんだ! 髪をきちんと分けて、指輪なんかいっぱいはめて――金持は違ったものだ! へっ、なんと愛すべき少年なるかなだ!」
 こう言ってラスコーリニコフは、神経的な笑いをザミョートフの顔へまともに浴びせかけた。ザミョートフは思わず一足たじたじと後ろへしさった。これは腹を立てたというよりも、すっかり面くらった形である。
「ちょっ、なんという変な人だ!」とザミョートフはまじめにくり返した。「どうやら君はまだ熱に浮かされているようですね」
「熱に浮かされてる? ばかを言っちゃいけない、小雀君!……じゃ、僕は変ですかね? ふむ、それで僕は君にとって興味があるでしょう、え? 興味があるでしょう?」
「ありますね」
「というのは、つまり僕が新聞で何を読んだか、何を捜したかってことでしょう? だって、こんなに古い分をしこたま持って来させたんだからね? うさん臭いでしょう、え?」
「まあ、言ってごらんください」
のどから手が出るというやつですね?」
「何がいったい喉から手なんです?」
「何が喉だか、あとで言いますよ。ところで今はね、わが愛すべき好青年、こう声明しよう……いや、いっそ『白状しよう』だ……いや、これもぴったりしない。『陳述するから、お書きとりください』――そう、これだ! そこで陳述すると、僕が読み、興味を持ち、捜し……かつ詮索せんさくしたのは……」ラスコーリニコフは目を細めて、ちょっと待った。「詮索して――そのためにわざわざここへ寄ったのは――官吏未亡人の老婆殺しの件ですよ」自分の顔を思い切りザミョートフの顔に近よせて、彼はついにほとんどささやくようにそう言った。
 ザミョートフも、自分の顔を相手の顔から引こうとしないで、身動きもせずに、ひたと彼を見た。あとでザミョートフが何より不思議に感じたのは、このときちょうどまる一分間、二人のあいだに沈黙が続いて、ちょうどまる一分間、たがいににらみ合っていたことである。
「ちょっ、それがどうしたんです、その記事を読んだのが?」ふいに彼はけげんと焦燥の念にかられて叫んだ。「いったいそれが僕になんの関係があるんです! それがどうしたというんです?」
「ほらあの例の婆さんですよ」とラスコーリニコフは、ザミョートフの叫び声に身動きもせず、同じくささやくようにことばを続けた。「覚えてるでしょう、あの時警察で話が出て、僕が卒倒した、あの婆さんですよ。どうです、もうわかったでしょう?」
「いったいなんのことです? 何が……『わかったでしょう』です?」とザミョートフはほとんど不安そうな様子で言った。
 ラスコーリニコフのじっと据わって動かぬまじめな顔つきは、一瞬の間にがらりと変わってしまった。突如彼は、まるで自分で自分を制する力がないように、またもや先ほどと同じ神経的な哄笑こうしょうを爆発させた。その瞬間、おのを手にしてドアの陰に立っていたあの数日前の一刹那いっせつなが、恐ろしいほどはっきりした実感として記憶によみがえった。栓ががたがたおどって、表では二人の男がののしったり、ドアを押したりしている。と、ふいに彼は二人をどなりつけて、悪態を浴びせかけ、舌をぺろりと出して彼らを嘲笑ちょうしょうしたあげく、ありったけの声で笑って、笑って、笑いぬいてやりたくなったあの刹那!
「君は気がちがったのか、それとも……」とザミョートフは言いかけて――ことばを止めた。とつぜん心にひらめいた想念に打たれたかのように。
「それとも? 何が『それとも』です? さあ、なんです? さあ、言ってごらんなさい!」
「なんでもありません!」ザミョートフはむっとして答えた。
「みんなくだらない事です!」
 二人とも黙ってしまった。思いがけない発作的な笑いの爆発が終わると、ラスコーリニコフはまた急にもとの物思わしげな沈んだ様子になった。彼はテーブルにひじづきし、手に頭をのせた。ザミョートフの事などきれいに忘れてしまったような風だった。沈黙はかなり長く続いた。
「なぜお茶を飲まないんです? さめてしまうじゃありませんか」とザミョートフが言った。
「え? なに? お茶……それもそうだな……」
 ラスコーリニコフは、コップの茶を一口がぶりと飲んで、パンを一切れ口へ入れた。それから、ザミョートフの顔をちょっと見ると、ふいにいっさいを思い出したらしく、おもわずぴくりと身震いするような格好をした。彼の顔はその瞬間、はじめと同じ嘲笑的な表情を浮かべた。彼は茶を飲み続けた。
「近ごろは実にああした凶行がふえてきましたね」とザミョートフは言った。「ついこの間も、『モスクワ報知』で読みましたが、大規模の紙幣贋造団がんぞうだんが検挙されましたね。まるで一会社くらいの人数だったそうです。紙幣を贋造してたんですよ」
「ああ、それはもうずっと前の事でしょう! 僕一月も前に読みましたよ」とラスコーリニコフは落ち着いて答えた。「じゃ、あなたにいわせれば、あんなのが悪党なんですかね?」と彼は薄笑いしながら言い足した。
「悪党でなくってどうします?」
「あれが? あれは子供ですよ、青二才ですよ、悪党なんかじゃありません! あんな仕事をするのに五十人からの人間が寄り合うなんて! そんなのってありますか。三人でも多いくらいだ。それも、お互い同士を自分以上に信用してる場合に限りますよ! さもなければ、中の一人が酔っぱらってうっかりしゃべったら、それでもう万事がらがらといってしまうんですからね! 青二才ですよ! さつを銀行で両替させるのに、あてにもならない男を雇うなんて――これほどの仕事を、行き当たりばったりの人間に任せるって法がありますか? まあ、仮りに青二才連中でもうまくいったとしましょう。そして、てんでに百万ルーブリずつも両替したとする、ね、ところで、それからあとはどうなるんです? 一生涯のあいだ? それこそ一人一人が一生涯、お互い同士制肘せいちゅうを受けるわけじゃありませんか! それなら、いっそ首をくくった方がましなくらいだ! しかも、やつらは両替することもできなかったんですからね。銀行へ行って両替を頼み、五千ルーブリの金を受け取ると、手がぶるぶる震え出した。四千ルーブリまでは数えたけれど、五千ルーブリ目は数えもしないで受け取って、そのままポケットへねじ込むと、あたふた逃げ出してしまった。そこで、嫌疑を招くことになり、たった一人のばか者のおかげで、万事がらがらといってしまった! え、いったいこんな話ってあるもんですか?」
「手が震えたのがなんです?」とザミョートフは引きとった。「なに、それはありがちの事ですよ。いや、僕は全然ありうると信じますね。どうかすると、持ちこたえられませんよ」
「それしきのことが?」
「そりゃ君なら、あるいは持ちこたえられるかもしれませんね? いや、僕だったら持ちこたえられない! 百ルーブリやそこいらの礼金で、そんな恐ろしいことをするなんて! 贋造紙幣を持って――しかも所もあろうに――それで苦労をしぬいて銀行へ行くなんて――いや、僕なんかてれてしまいますよ、君は平気ですか?」
 ラスコーリニコフは急にまた、『舌をぺろりと出して』やりたくなった。悪寒おかんがときどき瞬間的に彼の背筋を走って流れた。
「僕ならそんなやり方はしませんね」と彼は遠まわしに始めた。「僕ならこんな風に両替しますよ。まず最初の千ルーブリは、一枚一枚にあらためながら、あっちからもこっちからも四度くらい数えて、それから次の千ルーブリにかかる。数え始めて、半分どころまでくると、どれか五十ルーブリ紙幣を一枚抜き出して、明りに透かしながら引っくりかえしてみて、もう一度――にせじゃないかと明りにすかしてみる。そして『僕は気になるんですよ。このあいだも親戚の女が、この手で二十五ルーブリしてやられましたのでね』てなことを言って、そこでさっそくその一部始終を物語るんです。それから三千ルーブリ目の勘定にかかったとき、『いや失礼、僕さっき二千ルーブリ目を勘定するとき、七百ルーブリの所を数えそこなったようだ、どうもそんな気がする』といって、三千ルーブリ目の勘定をやめ、もう一度二千ルーブリ目の勘定にかかる――まあ、こんな風にして、五千ルーブリみんな数えてしまうんですよ。そしてぜんぶ数え終わると、また五束目と二束目から一枚ずつ抜き出して、また明りに透かしながら、またいかにも気がかりらしい顔をして、『どうかこれを取り換えてくださいませんか』――こんな調子で銀行員がへとへとになって、悲鳴を上げるまでやるんです。もうどうしたら僕をやっかいばらいができるか、途方にくれてしまうまでね! で、やっと片づけて出て行く段になって、戸をあけると――『いや、いけない、ちょっと失礼』と、もう一度ひっ返すんです。そして何か問いを持ちかけて説明を求める――とまあ、僕ならこんな風にやりますね?」
「へえ、君はなんて恐ろしいことを言う人でしょう!」とザミョートフは笑いながら言った。「しかし、それは口先ばかりで、実行となったら、きっとつまずきますよ。そんな場合には、僕に言わせれば、君や僕ばかりでなく、どんな海千山千の向こう見ずでも、自分で自分がどうなるか、けっして保証できるもんじゃありませんよ。何も回りくどい話をするまでもない、現にこういう例があります。僕らの管内で老婆が一人殺されましたが、あれこそ白昼あんな冒険をやってのけて、ほんの奇跡で助かったというだけの不敵きわまる凶漢らしいが、それでもやっぱり手が震えたんですよ。その証拠には、盗む方の仕事はまるでできなかったんですからね。持ちこたえられなかったんですな。仕事のやり口で見え透いてますよ……」
 ラスコーリニコフはむっとしたような表情になった。
「見え透いてる? じゃ一つつかまえてごらんなさい、今すぐ」と彼は意地わるい喜びの声で、ザミョートフを扇動するように叫んだ。
「そりゃもうつかまえますとも」
「誰が? 君が? 君につかまりますか? くたびれもうけですよ! 君がたの、一ばん奥の手は、金づかいが荒いかどうか、くらいのもんでしょう? 今まで一文なしでいたやつが、急に金をつかい出すと――それこそ犯人だとくる。そんなことじゃ、子供でもその気にさえなれば、君がたをだますのはわけありませんぜ」
「ところがね、やつらはみんなそれをやるんですよ」とザミョートフは答えた。「殺す方は狡猾こうかつにやっつけて、命をまとの冒険をしながら、その後ではもうすぐに、居酒屋へとび込んで引っかかってしまう。つまり、金づかいで皆やられるんですよ。みながみな君のように、狡猾なのばかりじゃありませんからね。君なら、もちろん、居酒屋なんかへ行かないでしょうね?」
 ラスコーリニコフは眉をひそめて、じっとザミョートフを見つめた。
「君はどうやら味をしめて、その場合に僕がどう立ち回るか、知りたくてたまらないようですね?」と彼は不満げな調子で尋ねた。
「知りたいもんですね」こちらはきっぱりと、まじめに答えた。彼はなんとなくあまりまじめすぎるくらいに口をきき、まじめすぎるくらいの顔つきになった。
「非常に?」
「非常に!」
「よろしい。僕ならこんな風に立ち回りますね」またもや自分の顔を、やにわにザミョートフの顔へ近づけて、じっと穴のあくほど相手を見つめながら、ラスコーリニコフはささやくような声で言い出した。今度はザミョートフも思わずぴくりと身震いした。「僕ならこんな風にしますね。まず金と品物を取って、そこを出たら、すぐその足でどこへも寄らずに、どこかさびしい塀ばかりで、人っ子一人いないような場所――野菜畑か何か、そいった風なところへ行く。そこにはもう前からちゃんと何かの石を見つけておくんです。目方一プード(約十五キログラム)か一プード半もあるやつで、どこか隅っこの塀の傍にでもころがっている、建築用の残りとでもいった石をね。その石を起こすと――下にはくぼみがあるに違いない――そのくぼみへ金も品物も、何もかも入れてしまう。入れてしまってから、もとの通りに石をのっけて、足で踏んづけておき、悠々とそこを立ち去るのです。こうして、一年か二年、あるいは三年くらいも、手をつけないでおくんですよ――さあ、これで一つ捜してごらんなさい! これで捜し当てたらえらいもんだ!」
「君は気ちがいです」ザミョートフもなぜか同様ささやくように言った。そして、なぜか急にラスコーリニコフから身を引いた。
 こちらは目をぎらぎら光らせた。顔色が恐ろしいほど青くなって、上唇がぴくりとしたと思うとそのままひくひくおどり出した。彼はできるだけ近くザミョートフの方へかがみこんで、少しも声を出さずに唇を動かし始めた。それは三十秒ばかり続いた。彼は自分のしている事を意識しながら自制ができなかった。ちょうどあの時のドアの栓のように、恐ろしい一言が彼の唇でおどって、今にも飛び出しそうだった。ただもう一息、それを口から出しさえすれば! ただもう音に発しさえしたら!
「ねえどうです、もし僕があの婆さんとリザヴェータを殺したのだったら?」と彼はだしぬけに口を切って――はっとわれに返った。
 ザミョートフはけうとい目つきで彼の顔を見ると、布きれにまがうばかり真っ青になった。その顔は微笑でゆがんだ。
「いったいそんな事があっていいもんか?」彼はやっと聞こえるくらいの声でこう言った。
 ラスコーリニコフは毒々しい目つきで、じろりと彼を見やった。
「白状なさい、君ならそれを信じたでしょう?……」とついに彼は冷やかなあざけるような調子で言った。「そうでしょう? ね、そうでしょう?」
「まるっきり違います! 今という今こそ、今までよりもっと信じませんよ!」とザミョートフはあわてて叫んだ。
「とうとう引っかかった! 小雀君を捕まえたぞ。してみると『今までよりもっと信じない』と言われる以上、以前は信じてたんでしょう?」
「ええ、けっしてそんな事はないというのに!」とザミョートフはいかにも狼狽ろうばいしたらしく言った。「じゃ君はつまりここへ引っ張って来るために、僕をおどかしたんですね?」
「それじゃ信じないんですね? では、あの時僕が警察を出たあとで、君らはなんの話を始めたんです。なぜ火薬中尉は、卒倒した後まで僕を尋問したんです? おい、君!」と彼は立ち上がりながら、帽子をつかんで給仕を呼んだ。「勘定はいくらだい?」
「みんなで三十カペイカいただきます」と給仕は駆けよりながら答えた。
「さあ、二十カペイカは君にチップだ。どうだ、大した金じゃありませんか!」と彼はさつを持った震える手をザミョートフの前へ差し伸べた。「赤札青札で二十ルーブリ、どこから出てきたと思います? この新しい服はどこから出てきたんでしょう? だって君は、僕が一文なしだったのを知ってるでしょう! もう恐らくかみさんを尋問したでしょう……いや、もうたくさん! こんな事はたくさんだアッセー・コーセー! さようなら、またそのうち……」
 彼は一種野性的な、ヒステリイじみた、しかもたまらないほどの快感を交えた感触に、全身震えおののきつつ外へ出た。――けれども陰鬱いんうつな、恐ろしく疲れはてたような表情をしていた。彼の顔は、何かの発作のあとみたいにゆがんでいた。疲労感がみるみるうちに大きくなっていった。気力は妙に興奮して、ちょっとした衝動、ちょっとしたいら立たしい感情に会っても、すぐ波のように高まったが、その感情の弱まるにつれ、またすぐ弱まっていくのである。
 ザミョートフは一人になると、同じ所に腰かけたまま、長い間もの思いに沈んでいた。ラスコーリニコフは突如として、例の件に関する彼の考えをすっかり顛倒てんとうさせ、いよいよ意見を固めさせたのである。
『イリヤー・ペトローヴィッチは、まぬけだ!』と彼はきっぱり決めてしまった。
 ラスコーリニコフが表のドアをあけると、外からはいって来るラズーミヒンに、思いがけなく入り口の階段でぶっつかった。二人はつい一足手前まで互いに気がつかなかったので、ほとんど危く鉢合せするところだった。しばらくの間、二人は互いに相手をじろじろ見回していた。ラズーミヒンは、非常な驚きに打たれた様子であったが、ふいに憤怒ふんぬの色が――それこそもうほんとうの憤怒の色が、すさまじく彼の目に燃えはじめた。
「貴様はこんなところへ来ていたのか!」と、彼はのども裂けよと叫んだ。「寝床から抜け出しやがって? 僕は長椅子の下まで捜したぞ! 屋根裏まで捜しに行ったぞ! 君のおかげで、ナスターシャまで引っぱたかないばかりだったぞ……それだのに、ご当人はこんな所へ来てやがる! ロージャ! いったいこれはどうしたわけだ、すっかりありのままを話せ! 白状しろ、おい!」
「そのわけはほかでもない、君たちがうるさくてやり切れなくなったから、一人きりになりたかったのさ」とラスコーリニコフは落ち着き払って答えた。
「一人きりで? 歩くこともできないくせに、まだ布のような青い面をして、息を切らせているくせに。ばか! いったい君は『水晶宮』なんかで何をしていたんだ? 白状しなきゃ承知しないぞ!」
「放せ!」ラスコーリニコフは言って、そのまま通り抜けようとした。
 これでいよいよラズーミヒンは我を忘れてしまった。彼はぐっと相手の肩をつかんだ。
「放せだ? 『放せ』なんてよくも言えたな! 僕が君をこれからどうしようと思ってるか、わかるか? 羽がいじめにして、ふん縛ってよ、小脇にかかえて連れて帰るんだ、錠をおろして閉じ込めてやるんだ!」
「なあ、ラズーミヒン!」とラスコーリニコフは静かに、落ち着き払って言い出した。「僕が君の親切をいやがってるのが、君はいったいわからないのかね? せっかくの親切につばをひっかけるような人間に親切ぶりを見せるなんて、ずいぶん物好きな話じゃないか? しかも、相手は苦しい思いをしながら、それを我慢してるんだぜ!……どうして君は病気の初めに僕を捜し出したんだい? 僕は事によったら、大いに死ぬのを喜んでたかもしれないんだよ? 君は僕を苦しめてる、僕は君が……うるさいんだと、今日もずいぶん言ったはずだが、あれでもまだ足りないのかい? 実際、人を苦しめるなんて! いいもの好きじゃないか! 全くのところ、こうしたいろいろの事が、ひどく僕の回復を邪魔してるんだよ。だって、ひっきりなしに僕をいらいらさせるからさ。見たまえ、ゾシーモフだって、僕をいらいらさせないために、さっき帰って行ったじゃないか! 後生だから、君も僕をかまわないでくれ! 君はいったいどんな権利があって、僕を力づくで止めたりなんかするのだ? 君はわからないのかい――完全に正気で言ってるんだぜ。君一つ教えてくれ――いったいなんといって頼んだら、どういう風に哀願したら、君は僕につきまとったり、親切を尽くしたりするのを、よしてくれるんだろう? 僕は恩知らずだってかまわない、卑劣漢だってかまわない。ただ後生だから、僕にかまわないでくれ! かまわないでくれ! かまわないでくれ! かまわないでくれ!」彼は初めのうちこそ、これから吐き出そうとしている癇癪かんしゃくに、前から喜びを感じながら、落ち着き払って言い出したが、結局、先ほどルージンに対した時と同様激昂げきこうしてしまい、息を切らせながらことばを結んだ。
 ラズーミヒンは突っ立ったまま、しばらく考えていたが、やがて彼の手を放した。
「じゃ、勝手にどこなとうせやがれ!」と彼は低い声で、ほとんどもの思わしげに言った。「待て」ラスコーリニコフがその場を動こうとしたとき、彼はだしぬけにこうどなった。「まあ、僕の言うことを聞け。僕は宣言するが、君たちは一人のこらず、やくざなおしゃべりか、ほら吹きばかりだ! 君たちはほんのちょっと苦しい事ができると、まるでめんどりが卵をかかえ込んだように、そいつを背負い回るんだ! しかも、そんな時にまで、他人の作品を剽窃ひょせつ[#ルビの「ひょせつ」はママ]するんだからな。じっさい君たちには、独立した生活なんてものは、これっから先もないんだ! 君たちはまるで鯨油げいゆでできた人間だ。血の代わりにチーズを絞った残りの汁が流れてるんだ! 僕は君たちの仲間を一人も信用しやしない! 君たちの第一の仕事は、どんな場合でも、どうかして人間らしくなるまいという苦心なんだ! おうい、待て!」ラスコーリニコフがまたもや逃げ出しそうに動くのを見て、彼は前に倍した憤怒のていで叫んだ。「しまいまで聞けといったら! 君も知ってるだろう、僕のところではきょう引っ越し祝いに人が集まるんだ。もうそろそろ来てるかもしれない。それに伯父おじをおいてきぼりにしてるんだ――さっき駆けつけてくれたのさ――お客の接待に。そこで、もし君が馬鹿でないなら、俗物の阿呆あほうでないなら、はしにも棒にもかからない大たわけでないなら、外国種の翻訳でないならばだ……いや実はね、白状するが、君は愛すべき聡明そうめいな男だ。が、それでも馬鹿なんだよ――そこでだ、もし君が馬鹿でないなら、むだに靴をはきつぶすより、僕のところへ来て、一晩いっしょに過ごしたらどうだい。もういったん外へ出たのなら、まあ仕方がないさ! 僕は一つ君にすてきな、柔かい安楽椅子を持って来てやろう、家主の所にあるんだ……まあ、茶話会だな……それがいやなら、ちゃんと円榻オットマンに寝かしてやるよ――とにかく、われわれの間に寝てなきゃいけない……ゾシーモフも来るよ。承知かい、え?」
「いやだ!」
「嘘をつけえーえ!」ラズーミヒンはじれったそうにわめいた。「どうして貴様にそれがわかるもんか? 自分で自分の行為に責任の持てない男じゃないか! それに、君にゃこのかんの消息はわからないんだ……僕は千べんもこんな風に人と喧嘩けんかわかれをしたが、いつもすぐ仲直りをしたもんだ……きまりが悪くなってきて、また相手のところへのこのこ帰って行くんだ! じゃ、覚えておいてくれ、ポチンコフの家の三階だよ……」
「そんな風だと、なんですね、ラズーミヒン氏、おそらくあなたは親切を尽くしたいという満足感のために、他人に自分を打つことさえ許しておやりになるでしょうね」
「誰を? 僕を? そんなことを考えただけでも、そいつの鼻柱をひん曲げてやるよ! ポチンコフの持家だよ、四十七号で、バーブシキンという官吏の住まいだ……」
「僕は行かないよ、ラズーミヒン!」とラスコーリニコフはくびすを転じて、さっさと歩き出した。
「僕はかけでもする、きっと来ずにはいないから!」とラズーミヒンはあとから追っかけるように叫んだ。「でなければ、貴様……でなければもう絶交だ! おうい、待て! ザミョートフはあすこにいるか?」
「あすこだ」
「会ったかい?」
「会った」
「話をしたかい?」
「した」
「なんの話を? いや、君なんか勝手にしろだ、言わなくてもいいや。ポチンコフの持家、四十七号のバーブシキンだ。覚えておけよ」
 ラスコーリニコフはサドーヴァヤ通りまで行きつくと、町角を曲ってしまった。ラズーミヒンはその後をもの思わしげに見送っていた。とうとうあきらめたように手を振って、家の中へはいりかけたが、また階段の途中で立ち止まった。
『ええ、くそ、いまいましい!』と彼はほとんど声に出して言った。『しゃべることは筋道が通っている。だがまるで……しかし、おれも馬鹿だな! 気ちがいだって、筋道の通った話をしないとも限らないじゃないか? どうやらゾシーモフも、これを多少恐れているらしかった!』と彼は指で額をこつんとたたいた。『だが、どうしたもんだろう、もし……あいつを一人で勝手にさせる法はない! 身投げくらいするかもしれん……ああ、こりゃしまったぞ! いけない!』こう考えて、彼はまたあとへ引っ返し、ラスコーリニコフのあとを追って駆け出した。けれど、もう影も形も見えなかった。彼はぺっと唾を吐いて、一時も早くザミョートフに様子をきこうと、急ぎ足で『水晶宮』へ引っ返した。
 ラスコーリニコフは真っ直ぐに橋まで行って、そのまんなかの欄干らんかん近くたたずんだ。そして両肘りょうひじをその上にもたせ、遠くかなたをながめ始めた。ラズーミヒンと別れると、彼ははなはだしい衰弱感を覚えて、ここまでたどりつくのもやっとであった。往来でもかまわない、どこかへすわるか、横になるかしたかった。彼は水の上へかがみ込んで、ばら色をした夕日の最後の反映や、じりじりと濃くなっていく黄昏たそがれの中に黒ずんで見える家並みや、左側の河岸通にある屋根部屋らしいものの中で、たった一瞬間なげつけられた太陽の最後の光線を反映して、さながら火焔かえんに包まれたように輝いている遠い小窓や、さてはくろずんできた運河の水を、機械的にながめていたが、とりわけこの水を注意深く、じっと見入っているようであった。ついにそのうち、目の中で赤い輪みたいなものがぐるぐる回り始め、家々が左右に動き出し、通行人も、河岸通も、馬車も……すべてがぐるぐる回転し、踊り始めた。ふいに彼はぶるっと身震いした。それはある一つの奇怪な見苦しい光景のおかげで、再度の卒倒から救われたのかもしれない。彼は何者か自分の右手へ来て、並んで立ったような気がした。目を上げて見ると、黄色いやせた面長な顔と、どす赤くくぼんだ目をした、背の高い、頭に布片きれをかぶった女の姿が映じた。彼女はまともにひたと彼を見つめていたが、その実なにも目に止まらず、誰一人見分けなかったらしい。ふいに彼女は右手の欄干にもたれ、右足を持ち上げて、格子の外へさっと出したかと思うと、続いて左足も同様にして、やにわにほりの中へ身をおどらせた。きたない水がさっと開いて、瞬間にその犠牲を飲んだが、一分ばかりすると、身投げ女は浮き上がり、静かに下の方へと流れて行った。頭と足は水に隠れ、背中だけを上に見せながら、ずれたスカートを枕のように、ふわりと水面へふくらましている。
「身投げだ! 身投げだ!」と幾十人かの声が叫んだ。人だかりがして来て、両側の河岸通は見物人が垣のように続いた。橋の上のラスコーリニコフのまわりにも、群衆がうしろから押したり突いたりしながら、黒山のようにたかってきた。
「あれえ、まあ、あれは隣りのアフロシーニュシカじゃないか!」どこかその辺で泣くような女の叫び声が聞こえた。「皆さん、助けてくださいよう! 誰か引き揚げてくださいよう!」
「ボートだ! ボートだ!」と群衆の中でわめく声がした。
 けれど、もうボートはいらなかった。一人の巡査が河岸の石段を駆けおりて、外套がいとうと長靴をぬぎ捨てると、いきなり水の中へ飛び込んだ。仕事はまるで造作なかった――身投げ女は石段から二歩ばかりのところを流れていたので、彼は右手で女の着物をつかみ、左手で同僚の差し出す竿さおをすばやくつかんだ。こうして女はすぐ引き上げられ、石段の花崗みかげ舗石ほせきの上に置かれた。彼女は間もなく正気に返って身を起こし、べったりすわって、両手で無意味にぬれた着物をこすりながら、くしゃみをしたり、鼻をふんふん鳴らしたりし始めた。彼女はなんにも口をきかなかった。
「酒が過ぎてこんなことになったんですよ、皆さん、酒が過ぎて」今度はもうアフロシーニュシカの傍で、例の女の声がこういった。「こないだも首をくくろうとしたのを、やっとなわからおろしたんですよ。わたしはいま店へ買物に行ってたもんですから、娘っ子をそばへつけて見張らせといたんだけど――もうこんな間違いをしでかしちまって! 町内の人なんですよ、すぐこの近所に住んでおります、端から二軒目の、ほらあそこんとこ……」
 群衆は散じ始めた。巡査らはまだ身投げ女の世話をやいていた。誰やら警察がどうとかわめいた。……ラスコーリニコフはすべての事を妙に冷淡な、無関心な感じでながめていた。彼は忌まわしくなってきた。『いや、そんな事は汚らわしい……水は……いけない』と彼は心の中でつぶやいた。『何事もありゃしない』と彼は言い足した。『何も待つことはない。警察がどうとかいったが、あれはなんだろう……ザミョートフはなぜ警察にいないんだ? 警察は九時過ぎから開いているのに……』彼は欄干の方へ背を向けて、あたりを見回した。
『ふん、それがどうしたというんだ! それもいいじゃないか!』彼は断固たる調子でこう言うと、橋から離れ、警察の方角をさして歩き出した。彼の心はうつろで、がらんとしていた。何を考える気もしなかった。憂愁までも消えうせて、『何もかも片づけてしまう』ために家を出た、あの先ほどの意気込みも跡かたすらなかった。そして、深い無関心な気持がそれに代わった。
『なに、これだってやはり結末だ!』濠端の通りを歩きながら、彼は静かにものうく考えた。『とにかく片づけてしまう、そうしたいんだから……だがしかし、ほんとうに結末かな? いや、どうだって同じことだ! 方尺の空間はあるだろう――へっ! しかし、いったいなんの終末なんだろう! いったいほんとうの終末だろうか? おれはやつらに言ってしまうだろうか、どうだろう? ええ……くそっ! 第一、それにおれは疲れてるんだ。どこでもいいから、少しも早く横になるか、すわるかしたいんだ! 何よりも恥かしいのは、すべてがあまりばかばかしすぎるってことだ。だが、それもくそくらえだ。ええっ、なんてくだらない事がよくも頭へ浮かんでくるもんだ……』
 警察署へはどこまでも真っ直ぐに行って、二つ目の曲がり角を左へ取らなければならなかった――警察はそこから一足だった。けれど、最初の曲がり角まで来ると、彼は立ち止まってちょっと考えた後、横町へそれてしまった。そして、通りを二つ越して、まわり道をしながら先へ進んだ――これは何も当てなしだったのかもしれないが、あるいはほんの一分でも先へ延ばして、余裕を作ろうとしたのかもしれない。彼は地面ばかり見て歩いた。ふと誰か耳もとで何やらささやいたような気がした。彼は頭を持ち上げてみると、いつの間にかあの家のそば、しかも門のすぐ前に立っていた。あの晩からこっち、彼は、ここへ来たこともないし、傍を通ったこともなかったのだ。
 ことばであらわせない欲求が、彼をいやおうなしにぐんぐん引っ張って行った。彼は家の中へはいって、門の下を通りぬけ、それから右手にある最初の入り口をくぐって、馴染なじみの階段を四階へと上り始めた。狭い急な階段はひどく暗かった。彼は一つ一つの踊り場に立ち止まって、もの珍しげにあたりを見回した。一階目の踊り場では、窓框まどわくがすっかり取りはずしてあった。『あの時はこんな事はなかった』と彼は考えた。と、間もなく、ミコライとミトレイが仕事をしていた、例の二階のアパートがあらわれた。『しまってるな。そして戸も新しく塗りあがってる。つまり、いよいよ貸しに出したんだな』やがてもう三階……それから四階になった……『ここだ!』と、けげんの念が彼を捕えた。中へ通ずるドアがいっぱいにあけ放されて、中には人がいるらしく、話し声が聞こえていた。これは彼のぜんぜん予期しないことだった。しばらく躊躇ちゅうちょした後、彼は最後の幾段かを上って、住まいの中へはいって行った。
 この住まいもやはり新しく修繕されていた。中には職人がはいっていたが、それがまた彼をぎょっとさせたような形だった。彼はなぜかこの住まいが、あのとき見捨てて行った状態とそっくりそのままで、死骸しがいすら床の上で同じ位置にころがっているに相違ないような気がしていた。ところが今はいってみると、壁はま裸で、家具は一つもない。なんだか変な感じだ! 彼は窓の方へ行き、窓じきりに腰をかけた。
 職人はみなで二人きり、どちらも揃って若い者で、一方は少し年かさ、一方はずっと若かった。彼らは以前の黄色いぼろぼろのよごれた壁紙の代わりに、薄紫色の花模様のついた新しい白い紙で壁を貼っていた。ラスコーリニコフはなぜかそれがひどく気に入らなかった。こんなに何もかも変えられてしまうのを惜しむように、彼は敵意を持った目でその新しい壁紙をにらんでいた。
 職人たちは大分ぐずぐずしていたとみえて、いま急いで紙を巻き収め、帰りじたくをしているらしかった。ラスコーリニコフが現われたのも、彼らの注意をひかなかった。二人は何か話し合っていた。ラスコーリニコフは腕組みをして、耳を傾け始めた。
「あの女がな、ある朝おれんとこへやって来たんだ」と年かさの方が若い方に言った。「べらぼうに早く、大めかしにめかし込んでよ。『なんだってお前、人の前でそうでれでれしやがるんだい。なんだってそうべたべたしやがるんだい?』とおれが言うと、やつめ『あのね、チート・ヴァシーリッチ、わたしこれから先ずっとお前さんの自由になりたいと思うのよ』ときやがった。まあ、こういうわけなのよ! ところで、そのめかしようといったら、雑誌だ、なんのこたあない雑誌だよ!」
「そりゃなんの事だい、おっさん、その雑誌って?」と若い方が聞いた。彼は見たところ、『おっさん』にいろいろな事を習っているらしかった。
「雑誌てえのはな、お前、つまり色を塗ったきれいな絵のことさ。ここの仕立屋へ土曜ごとに、外国から郵便で来るんだ。つまりな、男でも女でも誰がどんな服を着たら似合うかってんだ。つまり、見本絵さ。男の方はたいてい外套を着てるが、女の方になるてえと、手前がありだけのものをほうり出しても、まだ足りないくれえどえらい衣裳いしょうだぜ!」
「このペテルにゃ、なんだってないものはないのだねえ!」と若い方は夢中になって言った。「お袋と親父のほかにゃなんだってあらあ!」
「それだけをのけたら、なあ兄弟、どんなもんでもあらあな!」と年かさの方は教訓めいた調子で言った。
 ラスコーリニコフは立ち上がって、もと長持、寝台、箪笥たんすなどの置いてあった、次の間へはいって行った。家具を取り払った部屋は、恐ろしく小さく見えた。壁紙はすっかりもとのままで、その片隅には聖像龕おずしの据えてあった場所がくっきりあとを残している。彼は一わたり見回してから、もとの窓へ引っ返した。年かさの方の職人が、横目でちらと彼を見た。
「なんのご用ですね?」ラスコーリニコフの方へふり向きながら、彼はいきなりこう尋ねた。
 返事をする代わりに、彼は立ちあがって控室へ出て行き、呼鈴のひもをぐいと引いた。あの時の呼鈴、あの時と同じブリキのような響き! 彼は再び三たびそれを引いた。彼は耳をすまして、追憶をたぐり出した。以前の悩ましく恐ろしく醜悪な感覚が、だんだん明らかに生々と、記憶によみがえってきた。彼はひと引きごとにぴくり、ぴくりと震え上がった。しかもそれと同時に、だんだんいい気持になってきた。
「いったいなんの用なんだい? お前は何者なんだ?」彼の傍へ出て来ながら、職人はきめつけた。
 ラスコーリニコフは再びドアの中へはいった。
「家を借りようと思って」と彼は言った。「見てるんだよ」
「夜家を借りに来る人はありませんや。おまけにそれなら、庭番と一緒に来なくちゃ駄目ですよ」
ゆかも洗っちまったな。ペンキを塗るのかい?」とラスコーリニコフは続けた。「血はもうないかい?」
「血ってなんですね?」
「ほら、ここで婆さんが妹と一緒に殺されたじゃないか。ここはまるで血の海だったのさ」
「お前はいったいなにものだい?」と職人は不安げに叫んだ。
「僕かい?」
「そうさ」
「お前それが知りたいのか?……じゃ一緒に警察へ行こう、そこで聞かしてやるから」職人たちはけげんそうに、しばらく彼を見つめていた。
「もう帰らなくちゃならねえ。すっかり手間どっちゃった。行こうよ。アリョーシカ。戸じまりをしなくちゃ」と年かさの職人が言った。
「うん、行こう!」とラスコーリニコフは無関心な調子で答えて、先に立って部屋を出ると、ゆるゆる階段をおり始めた。
「おい、庭番!」門の所まで来ると、彼は声高に呼んだ。
 五、六人のものが入り口のすぐそばで、ぼんやり往来の人を見ながら立っていた。それは二人の庭番と、一人の女と、部屋着をきた町人と、その他一、二のものだった。ラスコーリニコフはいきなりそのそばへよった。
「何ご用で?」と庭番の一人が応じた。
「警察へ行って来たかい?」
「いま行って来ました。あなた何ご用で?」
「向こうには皆いるかい?」
「いますよ」
「副署長もいたかい?」
「ちょっと来ていました。あなた何ご用で?」
 ラスコーリニコフはそれには答えず、考え込みながら、一同と並んでたたずんだ。
「住まいを見に来たんだとよ」と年かさの方の職人が傍へ来ながら言った。
「どの住まいを?」
「おれたちが仕事している所さ。『なんだって血を洗ってしまったのだ? ここじゃ人殺しがあったじゃないか。ところで、おれは借りに来たんだ』なんてよ。それから、呼鈴を鳴らして、まるで綱を引きちぎらないばかりだったよ。それから警察へ行こう、そこで何もかも話してやる、とかなんとかいって、うるさくからんできたのさ」
 庭番は合点の行かぬ顔をして、まゆをしかめながら、ラスコーリニコフをじろじろ見回した。
「あなたはいったいどなたですね?」と彼はやや声を励まして問いかけた。
「僕はもと大学生だった、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフというもので、ここからあまり遠くない横町にある、シールの持家の十四号にいるんだよ。庭番に尋ねてくれ……知ってるから」ラスコーリニコフは相手の方を見向きもせず、薄暗くなった通りをじっと見つめながら、大儀そうな物思わしげな調子で、これだけの事を言った。
「が、なんだってあなたは部屋の中へはいったんです?」
「見るためにさ」
「何を見るものがあります?」
「いっそふんづかまえて、警察へ突き出しちまえ!」とふいに町人が口を出したが、すぐ黙ってしまった。
 ラスコーリニコフは肩ごしに町人を尻目にかけて、注意ぶかくじっと見つめていたが、ものうげな低い調子で言った。
「じゃ、行こう!」
「そうだ、突き出しちまえ!」と町人は元気づいて、相手のことばを引取った。「なんだってこの男はあの事を言い出したんだ? いったいなにを腹に隠してるんだ、うん?」
「酔ってるか、酔ってねえか、わかったもんじゃねえ」と職人はつぶやいた。
「本当になんの用なんですね?」そろそろ本気に腹を立てながら、庭番はまたもやどなりつけた。「何をいつまでもへばりついてるんだ?」
「警察へ行くのがこわくなったのかい?」とラスコーリニコフは冷笑を浮かべながら言った。
「何がこわいんだい? 手前こそ何を人にからんできやがるんだ?」
「かたりめ!」と女がどなった。
「何もこんな野郎を相手にぐずぐずいうこたあねえ」と、もう一人の庭番が口を出した。粗ラシャの外套がいとうの前をはだけて、帯にかぎをぶらさげた大男である。「出てうせろ!……本当にかたり野郎め……うせろ!」
 こう言うなり、ラスコーリニコフの肩をつかんで、往来へ突き飛ばした。こっちは危くもんどり打ちそうになったが、どうにか踏みこたえて倒れなかった。身づくろいして、無言のまま見物一同を見やったが、やがてまた先の方へ歩き出した。
梃妙来てこみょうらいなやつだな」と職人が言った。
「近ごろは梃妙来なやつが多くなったのさ」と女が言った。
「やっぱり警察へ突き出しゃよかったんだ」と町人は言い足した。
「何もかかり合いになる事あねえよ」と大男の庭番が言った。「全くのかたりさ! あの通り、自分から行きたがってるんだから、いいじゃねえか。うっかりかかり合ってみろ! それこそ抜けられやしねえから……ちゃんと知ってらあな!」
『さて、行ったものか、やめたものか?』ラスコーリニコフは四辻よつつじの車道のまんなかに立ち止まって、誰かから最後の言葉でも待つように、あたりを見回しながら考えた。が、どこからも何一つ応じてくるものはなかった。すべては、彼の踏んでいる石のように、がらんとして死んでいた。彼にとって、ただ彼だけにとって、死んでいるのであった……ふとはるかかなた、二百歩ばかり隔てた通りのはずれ、深くなりまさる闇の中に、彼は一かたまりの群衆を見分け、がやがやという話し声や叫び声を聞き分けた……群衆のまんなかには一台の馬車が立っていた……通りの中ほどで、小さな火が一つちらちらし始めた。『何ごとだろう?』とラスコーリニコフは右へ取って、群衆の方へ歩いて行った。なんにでもかかり合ってみようとしているような風だ、そう思って、自分で冷たい微笑を漏らした。警察行きを固く決心したので、すぐに万事片づくと確信していたからである。


 通りのまんなかには、二頭立の葦毛あしげ逸物いちもつをつけた紳士用のぜいたくな四輪馬車が立っていたが、乗り手はいなかった。御者は御者台からおりて傍に立っているし、馬はくつわを取って抑えられている……まわりには大勢の人がひしひしとつめかけ、一ばん前にはいくたりかの巡査が立っていた。中の一人は角灯を手にかがみ込んで、車輪のすぐ傍の舗道の上にある何ものかを照らしていた。人々はがやがや言ったり、わめいたり、嘆息したりしていた。御者は合点のいかぬような顔をして、時々こうくり返していた。
「なんという災難だろう! ああ、どうもとんだ災難だ!」
 ラスコーリニコフはできるだけ前へ割り込んで、この騒ぎと人だかりの原因をやっとのことで見定めた。地面には今しがた馬に踏まれたばかりの男が、全身血まみれになって倒れていた。見たところ、いかにもみすぼらしいが、『旦那だんならしい』服装をしている。顔からも血が流れ、額は一面に傷だらけで、皮ははげ、目も当てられぬ相好そうごうをしていた。並みたいていの踏まれ方でないことが、一見して明瞭めいりょうだった。
「皆さん!」と御者はくどくどと訴えた。「どうしてこれがよけられましょう! そりゃもうわっしが馬を追い立てたとか、声をかけなかったとかいうなら格別だが、けっして急いだんじゃなくて、並み足でやって来たんでございますからな。皆さん方も見てござりましたが――人間は粗相をしやすいもので、わっしもその一人でございますよ。酔っ払いはご承知の通り、蝋燭ろうそくを立てたりなんかしやしませんからね!……見るとこの人が、ひょろひょろぶっ倒れそうな格好で、通りを突っ切ろうとしている……わっしは一度、二度、三度まで声をかけて、おまけに手綱を締めましたが、この人は真っ直ぐに馬の足もとへ倒れたんで! いったいわざとそうしたのか、それともうんと酔っ払っていたのかしりませんがね……馬が若くて驚きやすいときてるから、一つがんとやったところ、この人がきゃっと大きな声を立てたので、馬のやつはなおのこと……それでとうとうこんなことになっちまって」
「全くそれに違いない!」と誰かの証明する声が群衆の中で響いた。
「声をかけた、そりゃ本当だ、三度も声をかけたんだ」ともう一人の声が応じた。
「かっきり三度だ、みんな聞いてた!」と第三の声が叫んだ。
 もっとも、御者はさほどしょげても、びくびくしてもいなかった。見うけたところ、馬車の持主は富裕な名士で、今はどこかで馬車の来るのを待っているらしい。巡査はいうまでもなく、この点がうまくいくようにと、少なからず気をもんでいた。とにかく、怪我人けがにんを分署なり、病院なりへ収容しなければならなかった。が、誰一人彼の名を知っているものがない。
 その間にラスコーリニコフは人ごみを押し分けて、なおも近く身をかがめた。ふと角灯の光りがこの不幸な男の顔をはっきり照らし出した。彼はその男を見分けた。
「これは僕が知ってる、知ってる!」と彼はすっかり前へ出て行きながら叫んだ。「これは官吏です。退職の九等官で、マルメラードフという! すぐ近所のコーゼルの持家に住んでいます……医者を早く! 費用は僕が払います、この通り!」
 彼はポケットから金を取り出して、巡査に見せた。彼はむやみに興奮していた。
 巡査たちは怪我人の身もとがわかったので満足した。ラスコーリニコフは自分の姓名と住所を告げ、まるで生みの父親の事かなんぞのように一生懸命になり、人事不省のマルメラードフを一刻も早くその住まいへ運ぶように主張した。
「ほら、あすこです、この三軒さき」と彼は一人でやきもきした。「コーゼルの持家です。金持のドイツ人の……この人はきっと酔っ払って、家へとぼとぼ帰るところだったんです。僕はこの人を知っていますが……大酒飲みなんでね……家には家族がある。細君に、子供に、それから娘が一人いるんです。病院へつれて行くまでに応急手当てを、あの家にもきっと医者が住まっているから! 払いは僕がします、僕がします!……なんといっても肉親の看護だから、早く手当てができる。でなかったら病院へ行くまでに死んでしまう……」
 彼は巡査の手にこっそりとなにがしかの金を握らせさえもした。それに、事件はわかり切った当然のことである。いずれにしても、その方が手当ては早いに決まっていた。怪我人はかつぎ上げられ、運んで行かれた。手伝い人もいくたりか出て来た。コーゼルの家までは三十歩ばかりしかなかった。ラスコーリニコフはそっと大事に頭をささえながら、あとからついて行き、道案内をした。
「こっちだ、こっちだ! 階段をのぼるときは、頭を上にしなくちゃいけない。ぐるっと回った……そうだ、そうだ。僕が駄賃を払うから、礼をするから」と彼は言った。
 カチェリーナ・イヴァーノヴナはいつものくせで、ちょっとでも暇があればすぐに両手をしっかり胸に組み合わせて、何かひとりごとを言っては、ごほんごほんせきをしながら、小さな部屋の中を窓から暖炉へ、暖炉から窓へと歩き続けるのであった。近ごろ彼女は、十になる姉娘のポーレンカを相手に、よくいつまでも話しこむようになった。娘はまだたくさんわからない事があったけれど、自分が母親にとって必要なものだという事だけは、十分によく飲み込んでいたので、いつもその大きなりこうそうな目で、母親のあとを追いながら、なんでもわかっているような顔をしようと、一生懸命に苦心していた。が、ちょうどこの時ポーレンカは、一日いちんち気分のすぐれなかった弟を寝かせつけようと、着物を脱がせているところだった。今夜のうちに洗っておかねばならぬシャツを、取り替えてくれるのを待つ間、子供はしかつめらしい顔をして、かかとをつけて爪先つまさきだけ開き、ぴったりそろえた両脚を前へ突き出しながら、黙って身動きもせずに、しゃんと椅子の上にすわっていた。彼は唇をとがらせ目をみはったまま、すべて一般にりこうな子供が、寝に行く前に着物を脱がせてもらう時、きまってする事になっている型どおり寸分たがわず、身動きもせずに母と姉の話を聞いていた。その下の女の子は、それこそ全くのぼろぼろ着物を着て、衝立ついたての傍に立ちながら、自分の番を待っていた。階段へ向かった戸はあけ放しになっていた。それは奥の部屋部屋から煙草の煙の波が絶えず流れ込んで、不幸な肺病やみの女をいつまでも悩ましげにき入らせるので、それを少しでも防ぐためだった。カチェリーナはこの一週間に、いっそうやせが目立ってきたようで、頬の赤いしみは、前よりずっとあざやかに燃えていた。
「お前はとてもほんとうにできないだろう、考えてみることもできないだろう。ねえ、ポーレンカ」と彼女は部屋を歩きながら言った。「おじいさまのおうちにいるころ、わたしたちはどんなに面白く華やかに暮していたか。それを、あの酔っ払いがわたしを破滅さしてしまった上に、お前たちまで破滅させようとしているんだよ! おじいさまは五等官だから、軍人なら大佐で、まあいわば知事様みたいだったんだよ。もうほんの一息で知事様というところだったのよ。だから、みんながおじいさまのところへ来ては、『わたしどもはあなたを知事さま同様に思っているのでございます、イヴァン・ミハイルイチ』なんていったものさ。わたしがね……ごほん! わたしが……ごほん、ごほん……ああ、つくづくいやになってしまう!」と彼女はたんを吐き出して胸を抑えながら、叫ぶように言った。「わたしがね……ああ一番おしまいの舞踏会の時……貴族会長さんのお宅の舞踏会の時……ベズゼメーリナヤ公爵夫人がね――これはあとでわたしがお前のお父さんと結婚した時に、祝福してくだすった方だよ、ポーレンカ――この方がね、わたしを見るとすぐ『卒業式の時にショールをもって踊ったかわいいお嬢さんは、あの人じゃなかったかしら?』とおききになったんだよ。(ああ、ほころびを縫わなくちゃ。さ、早く針を持って来て、わたしが教えた通りにつくろってごらん。でないと、明日は……ごほん! 明日は……ごほん、ごほん、ごほん! もっとひどく裂けてしまうから)」と苦しげに身もだえしながら、彼女は叫んだ。「そのときね、ペテルブルグからいらっしたばかりのシチェゴリスコイ公爵という侍従武官が……わたしとマズルカをお踊りになって、その翌日わたしに結婚の申し込みをなすったんだよ。その時、わたしは自分でごく丁寧にお礼を申し上げて、わたしの心はもうほかの人にささげているからと、お断わりしたの。そのほかの人というのが、つまり、お前のお父さんだったのよ、ポーリャ。するとおじいさまがたいへん腹をお立てになってね……あ、お湯はできたかえ? さあ、肌着をおよこし、そして靴下は?……リーダや」と彼女は下の娘を呼びかけた、「お前今夜は仕方がないから、肌着なしでおやすみよ。どんなにかしてね……靴下は傍へ出しておおき……一緒に洗うんだから……なんだってあの飲んだくれは帰らないんだろうね! 肌着を雑巾ぞうきんみたいになるまで着て、ぼろぼろに破いてしまった……二晩も立て続けに骨を折らされるのはたまらないから、みんなひとまとめに片付けたいんだけどねえ! ああ! ごほん、ごほん、ごほん、ごほん! また! あれはなんだね?」と彼女は、入り口の控室でがやがやしている群衆と、何か荷物をかついで部屋へ押し込んで来た人に気がついて、彼女は思わず叫んだ。「何ごとですの? いったいなにを持ってきたんです? まあ、どうしよう!」
「いったいこりゃどこへ置いたもんだろう?」血塗ちまみれになって正気を失っているマルメラードフが部屋の中へかつぎ込まれたとき、巡査の一人はあたりを見廻みまわしながら、こう尋ねた。
「長椅子! 長椅子へじかに置いてくれたまえ、ほら、こっちを頭にして」とラスコーリニコフが指図した。
「往来でひかれたんだよ! 酔っ払ってるところを!」と控室から誰やらが叫んだ。
 カチェリーナは真っ青になって突っ立ったまま、さも苦しげに息をしていた。子供たちは仰天してしまった。小さいリードチカはきゃっと叫んで、ポーレンカにとびかかり、姉にひしとしがみついて、全身をわなわな震わした。
 マルメラードフを寝かすと、ラスコーリニコフはカチェリーナのそばへ駆け寄った。
「どうか後生ですから、落ち着いてください、びっくりしないでください!」と彼は早口に言った。「ご主人は往来を横切ろうとして、馬車にひかれなすったんですが――心配はいりません。今に気がつきますから。僕がここへかついで来るようにいいつけたんです……僕一度伺ったことがあります、覚えていらっしゃるでしょう……大丈夫、気がつきますよ。金は僕が払います!」
「ああ、とうとう本望を達したんだ!」カチェリーナは絶望的な叫びを一声たてると、夫のそばへ駆け寄った。
 ラスコーリニコフは、彼女が気絶して倒れるような女でないことを、やがて間もなく見てとった。不幸な老人の頭の下には、今まで誰一人気のつかなかった枕が当てがわれた。カチェリーナは夫の服を脱がせ、傷をあらためにかかった。自分のことは忘れてしまって、震える唇をきっとかみしめ、今にも胸からほとばしり出ようとする叫びを抑えながら、一生懸命にまめまめしく働いて、取り乱した風もなかった。
 ラスコーリニコフはその間に、医者へ人を走らせた。医者は一軒おいて隣りに住んでいることがわかった。
「ぼく医者を呼びにやりました」と彼はくり返しくり返し、カチェリーナに言った。「ご心配はいりません、僕が払いますから。水はありませんか?……そしてナプキンでもタオルでも、なんでもいいから早くください。怪我けがはどんなだかまだわからないんですから……ご主人は怪我をしただけで、死んでるんじゃありません、本当です……ああ、医者はなんというかしらん!」
 カチェリーナは窓の方へ飛んで行った。その片隅のぺちゃんこになった椅子の上に、子供や夫の肌着を夜中に洗濯するために用意された、大きなたらいが据えてあった。カチェリーナはこうした夜中の洗濯を、少なくとも週に二度、時にはそれ以上、自分の手でするのであった。家の者の肌着が一人に一枚ずつしかなく、着がえすらもないほどの落ちぶれ方ではあったが、彼女は不潔なことが大嫌いなので、家の中によごれ物をほうって置くよりは、力にあまる無理な仕事でわが身を苦しめても、夜みんなが寝ている間に洗濯して、それを張り渡した縄にかけて朝までに干しあげ、皆にさっぱりしたものを着せようとするからであった。彼女はラスコーリニコフの求めに応じて、たらいを持って行こうと手をかけたが、危うくその重荷と一緒に倒れそうになった。けれどラスコーリニコフはその間にもうタオルを見つけて、それを水に浸し、血まみれになったマルメラードフの顔をふき始めた。カチェリーナは痛みをこらえるように息をつぎながら、両手で胸を抑えてその場に突っ立っていた。彼女自身にも手当てが必要なくらいであった。ラスコーリニコフは、ここへ怪我人をかつぎ込むようにすすめたのは、自分の失策だったかもしれぬということが、だんだんわかってきた。巡査もやはり思い惑うような顔つきで立っていた。
「ポーリャ!」とカチェリーナは叫んだ。「ソーニャのところへ駆け出しておいで、大急ぎで。もし家にいなくっても、やっぱりそう言っておきなさい――お父さんが馬車にひかれたから、帰ってきたら、すぐおうちへ来るようにって……早く、ポーリャ! ほら、この頭巾ずきんをかぶって!」
「いっちょ懸命に駆け出しといでよ!」と弟がふいに椅子の上から叫んだ。けれどこれだけ言うと、すぐまた前のように目をまんまるく見張り、踵を前に爪先を開いたまま、黙り込んで椅子の上にちんとすわり続けていた。
 その間に部屋は人で埋まりつくして、りんご一つ落とす隙間もなくなってしまった。巡査は引き揚げたが、ただ一人だけ残って、階段からわいわい押しかけてくる群衆を、また階段へ追い返すのに骨折っていた。その代わり奥の方の部屋部屋から、リッペヴェフゼル夫人の借間人どもが、ほとんど総出でばらばら飛んで来た。初めのうちこそ、ただ入り口で押し合っているばかりだったが、やがてどやどやと部屋の中までなだれ込んできた。カチェリーナは前後を忘れてしまった。
「せめて死ぬだけでも、静かに死なしてやってくれたらよさそうなもんだ!」と彼女は群衆に向かってどなった。「見世物じゃあるまいし! 煙草なんかくわえてさ! ごほん、ごほん、ごほん! いっそ帽子もかぶってくるがいい……まあ、本当にひとり帽子をかぶったのがいるよ!……出て行け! 死んだ者にくらい礼儀を守りなさい!」
 せきが彼女の息をつまらせた。しかし、おどかしは効を奏した。見うけたところ、みんなカチェリーナをいささか恐れているらしかった。借間人たちは、近親知友に突然の不幸が起こった時、もっとも親しい間柄でさえいつも認められるかの奇怪な心内の満足感をいだきながら、一人一人戸口の方へじりじりと引っ返した。実際、誰しもこういう場合、それこそ真剣な憐愍れんびんや同情を持っているにもかかわらず、このような感情が忍び込むのを、どうしてものがれ得ないものである。
 戸の向こうでは、病院へやったらとか、ここでむだに騒いでも仕方がない、とかいうような声が聞こえた。
「ここで死んじゃいけないというの!」とカチェリーナは叫んだ。そして、みんなに大雷を破裂さしてやろうと、戸をあけに飛び出しかけたが、あたかも戸口のところで、今しがた不幸を聞きつけるなり処置をつけにかけつけたリッペヴェフゼル夫人にぶっつかった。
 これはいたって物のわからない、やっかい千万なドイツ女だった。
「どうも、まあまあ!」と彼女は両手を打鳴らした。「旦那だんなさんが酔っ払って、馬に踏まれたってね。病院へやんなさい! わたしはおかみですよ」
「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ! どうか考えてものを言ってください」とカチェリーナは高飛車に切り出した。(彼女はおかみに向かうと必ず、相手が『身のほどを知る』ように高飛車な調子で口をきくのであった。で、今のような場合にも、やっぱりその快感を味わずにいられなかったのである)「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
「わたしはもう前に、ちゃんと断わっておいたじゃありませんか――けっしてわたしの事をアマリヤ・リュドヴィーゴヴナなどと言っちゃいけませんて、わたしはアマリ・イヴァンですよ!」
「あなたはアマリ・イヴァンじゃありません、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナです。わたしはね、いま現に戸の向こうで笑っているレベジャートニコフみたいな、汚らわしいおべっか使いの仲間じゃありませんから(戸の向こうでは実際どっと笑う声と、『さあ、取っ組んだぞ!』という叫びが響き渡った)、いつでもあなたのことを、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼びますよ。もっとも、こう呼ぶのがなぜあなたのお気に入らないのか、わたし一向にわかりませんがね。あなたもご自分で見ておわかりでしょう――セミョーン・ザハールイチはどんなことになりました? あの人は死にかかっているんですよ。どうかお願いですから、今すぐその戸を閉めて、誰もここへ入れないようにしてください。せめて死ぬだけでも静かに死なしてやってください! でないと明日にもあなたの仕打ちが、総督さまのお耳にはいりますよ。公爵はわたしの娘時分からご存じで、主人にもたびたびお目をかけてくださいましたので、ようっく覚えていらっしゃいます。主人に大勢のお友達や保護者があったことは、誰でもみんな知っています。ただあの人があまり潔白で誇りが強いものだから、自分の因果な癖をつくづく感じたので、自分からその人たちを捨ててしまったんです。けれど今度は(と彼女はラスコーリニコフを指さした)、お金もご身分もあるこの親切な方が――主人がお小さい時から存じ上げている方が、わたしたちを助けてくださるんですよ。本当ですとも、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
 彼女はこれだけの事を恐ろしく早口に弁じ立てた。しかも、先へ進めば進むほど、それが一そう早くなるのであった。けれど、咳が彼女の雄弁を一時に断ち切ってしまった。と、ちょうどその時、瀕死ひんしの怪我人が意識を回復して、うめき声を立てたので、彼女はその方へ駆け戻った。怪我人は目を見開いて、まだなんにもわからず、なんにも見分けられない様子で、枕もとに立っているラスコーリニコフの顔をじっと見入った。彼はさも苦しそうに、深く間遠に息をしていた。唇の両端には血がにじみ出し、額には汗が浮いている。彼はラスコーリニコフが見分けられなかったので、不安げにあたりを見回し始めた。カチェリーナはうれわしげな、とはいえいかつい目つきで夫を見つめていたが、その目からは涙が流れるのであった。
「ああ、どうしよう! 胸がすっかりつぶれてる! まあ、この血、なんて血だろう!」と彼女は絶望したように言った。「上着をすっかりとってしまわなくちゃ! 少し横になってちょうだい。セミョーン・ザハールイチ、もし無理でなかったら」と彼女は大きな声で言った。
 マルメラードフは妻の顔を見分けた。
「坊さんを!」と彼はしゃがれ声で言った。
 カチェリーナは窓の方へ身を引き、窓枠に額を押し当てながら、絶望の叫びを発した。
「ああ、情ない世の中だ!」
「坊さんを!」瀕死の病人は一分ばかり無言ののち再びこう言った。
「もう迎えに行きましたよう!」とカチェリーナはどなりつけるように答えた。彼はその叫びに服して口をつぐんだ。そして、おどおどした悩ましげな目つきで、妻を捜し求めた。彼女はまた夫の方へ帰って、その枕もとに立った。彼は少し落ち着いたが、それも長くはなかった。
 やがて彼の視線は、片隅で発作でも起こしたように震えながら、子供らしく見張ったびっくりしたような目でじっと父を見つめている小さいリードチカ(彼の秘蔵っ子)の上に止まった。
「あ……あ……」と彼は気づかわしげに彼女の方を目で教えた。
 彼は何か言いたかったのである。
「それからまだ何ですの?」カチェリーナが叫んだ。
「はだしだ! はだしだ!」と彼はうつけのようなまなざしで、娘の素足をさしながらつぶやいた。
「だまんなさい!……」と癇性かんしょうらしい声でカチェリーナはどなりつけた。「なぜはだしでいるか、自分で知っているくせに」
「ありがたい、医者だ!」とラスコーリニコフはうれしそうに叫んだ。
 几帳面きちょうめんらしい年とったドイツ人の医者が、うさん臭そうな顔つきで、きょろきょろあたりを見回しながらはいって来た。病人の傍へ寄って脈をとり、注意ぶかく頭をいじって見た後、カチェリーナの手をかりて、血ですっかりねとねとになっているシャツのボタンをはずし、病人の胸をはだけた。胸は一面に目も当てられぬほどめちゃめちゃに砕けていた。右の方の肋骨ろっこつが二、三枚折れていて、左の方は心臓の真上に、黄味がかった黒い斑点はんてんが、大きく無気味に広がっていた。むざんなひづめのあとである。医者はまゆをひそめた。巡査は医者に向かって、怪我人は車輪に引っかかったまま、舗石道を三十歩ばかり引きずられて行った、と話して聞かせた。
「こりゃもう一度正気に返ったのが、不思議なくらいですよ」と医者はそっとラスコーリニコフにささやいた。
「で、いったいどうなんでしょう?」とこちらは問い返した。
「もうほんのちょっとです」
「まるで望みがないんですか?」
「全然ありません! もう息をしているというだけですよ……それに、頭の方もなかなかの重傷ですからな……さよう……放血をやってみてもいいが……しかし……それも無駄でしょう。五分か、せいぜい十分で最期ですな」
「じゃとにかく、放血をやっていただこうじゃありませんか!」
「そう……しかし、前もってお断わりしておきますが、それはぜんぜん徒労ですよ」
 この時また足音が聞えて、控室の群衆が左右にわかれた。と、敷居の上に、用意の聖餐せいさんを捧げた僧が現われた。小がらな白髪の老人である。そのうしろから、巡査がついてきた。通りから一緒なのである。医者はすぐ僧に席をゆずり、意味ありげに目と目を見合わした。
 ラスコーリニコフは医者に向かって、せめて今少し残っていてくれと、むりやりに頼んだ。医者はひょいと肩をすくめて、居残ることにした。
 皆は後ろへ引きさがった。式はごく簡単に終わった。死に行く人はほとんど何一つわからなかったらしい。彼はただとぎれとぎれに、不明瞭ふめいりょうな音を発することができたばかりである。カチェリーナはリードチカの手を取り、男の子を椅子からおろして、片隅の暖炉の方へ引っ込み、そこにうやうやしくひざをついた。それから、子供をも自分の前にひざまずかせた。女の子はただ震えるばかりだったが、男の子はむき出しの膝を突いて、規則ただしく小さな手をあげては、大きく胸に十字を切り、床に額をこつんこつんと当てながら礼拝した。見たところ、それがかくべつ面白いらしかった。カチェリーナは唇をかみしめ涙をのんでいた。彼女も同じように祈った。時々幼いもののシャツを直してやったり、祈祷きとうを続けながら、ひざまずいたまま立ちもしないで、箪笥たんすから小さな肩掛けを取出し、あまりむき出しになっている娘の肩へかけてやったりした。その間にまた奥の部屋部屋へ通ずる戸が、時々物見高い連中の手であけられた。入り口の控室では、見物に来た各階の店子たなこたちが、あとからあとからひしひしとつめかけたが、部屋の敷居をまたぐものはない。わずか一本の蝋燭ろうそくの燃えさしが、こうしたすべての情景を照らすのであった。
 ちょうどこのとき、姉を迎えに行ったポーレンカが、群衆を押し分けながらすばやくはいってきた。あまり急いで走ったので、はあはあ息を切らしていたが、はいるといきなり頭巾ずきんをぬいで、目で母を捜し出すとその傍へ近づき、「そこに来ててよ! 途中であったの!」と言った。母親は彼女をも抑えつけて、自分のそばに膝をつかせた。と群衆の中から年ごろの娘が、おずおずと音もなく前へ進み出た。貧苦と、襤褸つづれと、死と、絶望の満ちたこの部屋の中に、彼女が突然姿を現わしたのは、不思議な思いがするほどであった。彼女もやはり貧しい衣裳いしょうを身にまとって、安っぽい服装なりをしてはいたが、ある特殊の社会に自然とできあがっている趣味と法則に合したもので、いやにけばけばしく下品な色をして、卑しい目的をむき出しにしていた。ソーニャは控室の敷居ぎわに立ち止まったが、敷居はまたがなかった。途方に暮れてしまって、何一つ意識しないようなようすである。この場合には不似合いな、長い滑稽こっけいトレーンのついた、幾人の手をくぐったかしれない華美はでな絹服のことも、戸口を一ぱいふさいでしまった途方もない大きさの腰張りクリノリンも、薄いろの靴のことも、夜は不用なパラソルを持っていることも、燃え立つようなの羽毛飾りをつけた滑稽な丸い麦わら帽子のことも、何もかも忘れ果てたようである。子供らしくあみだにかぶったこの帽子の下からは、恐怖のあまり口をあけて、目をじっとすえた、やせて青白い、おびえたような顔がのぞいていた。ソーニャは年ごろ十八ばかり、やせて背丈は小さいけれど、すばらしい青い目をした、かなり美しい明髪女ブロンドであった。彼女は寝台と僧をじいっと見つめた。やはり急いで来たので息をきらせていた。やがてようやく、群衆のひそひそ話や二、三のことばが耳へはいったらしく、彼女は目を伏せて敷居を一足またいだが、やはり戸口で止まってしまった。
 懺悔ざんげと聖餐式は終わった。カチェリーナはまた夫の床へ近づいた。僧が帰りしなに、告別と慰安のことばを述べようとして、カチェリーナの方へ向いたとたん、
「この子供たちをどうしたらいいのでしょう?」と彼女は鋭いいらいらした調子で、幼いものたちを指さしながら言った。
「神様はお慈悲ぶかい、主のお恵みにすがりなさい」と僧は言いかけた。
「ええ! お慈悲ぶかくっても、それはわたしたちにゃ届きません!」
「そのような事をいうのは罪です。奥さん、罪ですよ!」と僧は頭を振りながら注意した。
「じゃ、これは罪じゃないんですの?」と臨終の夫を指さしながら、カチェリーナは叫んだ。
「それは思わぬ惨事の原因となった人が、あなたに賠償をしてくれるでしょう。収入を失ったという点だけでもな……」
「あなたはわたしの言うことがおわかりにならないんです!」とカチェリーナは片手を一振りして、いら立たしげにさえぎった。「なんのために賠償なんかしてもらうんです? だってあの人が自分で酔っ払って、馬の足もとへ倒れ込んだんじゃありませんか! それに、収入とはなんですの? あの人は収入どころか、ただ苦労の種を作ってくれたばかりです。あの飲んだくれったら、何もかもお酒にしてしまったんです。わたし達のものを盗み出しちゃ、居酒屋へ持って行ったんです、子供たちやわたしの生涯を、居酒屋でめちゃめちゃにしてしまったんです! 死んでくれてありがたいくらいだ! かえって損が少なくなるくらいです!」
「臨終の時には許してあげにゃなりませんて。そんなことは罪ですぞ、奥さん、そんな気持は大きな罪ですぞ!」
 カチェリーナは夫の傍で小まめに何くれと世話をした。水を飲ませたり、頭の汗や血をふいてやったり、枕を直してやったりしながら、ときどき仕事の合間に僧の方へふり向いては、何かと話をしていたのであるが、この時は急に前後を忘れたようになって、彼に食ってかかった。
「ええ、神父さん! それはただのことばです。ことばだけです! 許すなんて! 今日だってもしひかれなかったら、ぐでんぐでんになって帰って来るんです。一枚看板の着古したシャツの上にぼろを重ねて、そのまま正体なく寝倒れてしまうんですよ。ところが、わたしは夜明けまでも水をじゃぶじゃぶやって、あの人や子供たちの着古しを洗ったり、それを窓の外へ干したりして、さて夜が白みかけると、今度はすわり込んでほころびをつくろわなければならない。これがわたしの夜なんです!……これでも許すなんて事がいえますか! もういい加減わたしは許してきましたよ!」
 と、恐ろしいほど激しいせきが、彼女のことばを断ち切った。彼女は片手で苦しげに胸を抑えながら、一方の手でハンカチへたんを受け、それを僧の前へ突き出して見せた。ハンカチは一面に血だらけであった。
 僧は頭をたれて、一口も物を言わなかった。
 マルメラードフは知死期ちしごの苦しみに襲われていた。彼はその目を、またかがみ込んだ妻の顔から放さなかった。何かいいたくてたまらない様子で、一生懸命に舌を動かしながら、不明瞭なことばを発して切り出そうとしたが、カチェリーナは夫が許しを請おうとしているのを察し、すぐさま命令するように叫んだ。
「黙ってらっしゃい! 言わなくてもいい! 何を言いたいのか、わかっていますよう……」
 で、病人は口をつぐんだ。しかしその時、頼りない視線が戸口へ落ちると、彼はソーニャを見つけた。
 この時まで彼は娘に気づかなかった。彼女は片隅の物かげに立っていたのである。
「あれは誰だ? あれは誰だ?」と彼はふいに息ぎれのするしゃがれ声で言った。全身に不安の色を現わし、恐ろしそうな目で娘の立っている戸口をさし示しながら、身を起こそうともがいた。
「寝てなさい! 寝てなさいよう!」とカチェリーナは叫んだ。
 けれども彼はほとんど超自然的な力で片肘かたひじを立てた。そしてしばらくの間、まるで娘が誰かわからないように、けうとい視線をじっとすえながら、その顔を見つめていた。のみならず、彼はまだこんな服装なりをしている娘を、一度も見たことがなかったのである。と、ふいに彼は娘を見分けた――虐げられ、踏みにじられた娘――けばけばしい安衣裳を恥じ入りながら、臨終の父に告別する番が来るのを、つつましげに待っている娘。限りない苦悶くもんが彼の顔に描き出された。
「ソーニャ! 娘! 許してくれ!」と彼は叫んで、手を差し伸べようとしたが、ささえを失ってぐらっとしたかと思うと、うつぶしに長椅子から床へどうと落ちた。人々は駆けよって抱き起こし、もとの長椅子に寝かしたが、その時彼はもう息を引取っていた。ソーニャは弱々しくあっと叫んで、いきなり傍へ走りより、父を抱きしめたと思うと、そのまま気が遠くなってしまった。彼は娘の腕の中で死んだのである。
「とうとう本望を達した!」カチェリーナは夫の死骸しがいを見て、こう叫んだ。「さあ、これからいったいどうしたらいいのだろう! どうしてこの人を葬ったものだろう? どうしてあれたちを、あの子たちをどうして明日から養ったらいいんだろう?」
 ラスコーリニコフはカチェリーナの傍へ寄った。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナ」と彼は言い出した。「つい先週、亡くなられたご主人が僕に自分の身の上話と、お家の様子を話して聞かせてくださいました……誓っていいますが、ご主人はあなたの事を、感激に近い尊敬の念をもって話しておられました。ご主人が皆さんに献身的な愛情をささげ、ことにあのお気の毒な病癖を持っていられたにもかかわらず、あなたを尊敬しかつ愛しておられることを伺ったその晩から、僕はご主人の親友になったのです……そこで、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、失礼ですが、いま僕に……友人の義務を尽くすことを許してくださいませんか。ここに……たしか二十ルーブリあるはずです――もしこれが何かのお役に立ちましたら……そしたら……僕は……いや、なに、いずれまた伺います――きっと伺います……僕さっそく明日にも伺うかもしれません……では、さようなら!」
 彼はすばやく部屋を出て、人ごみを押し分けながら、急いで階段の方へ行った。けれど群衆の中で、警察署長のニコジーム・フォミッチにぱったり出会った。彼はこの不慮の災厄を聞くと、すぐ親しくその処置を講じようと思い立ったのである。署での一幕以来、二人はそれきり会わなかったが、ニコジーム・フォミッチは彼を見分けた。
「ああ、あなたですか?」と彼はラスコーリニコフに声をかけた。
「死にました」とラスコーリニコフは答えた。「医者も来、坊さんも来て、万事ちゃんとかたどおりにいっています。どうか、あの不幸のどん底に落ちた婦人を、あまりわずらわさないでください。それでなくても肺病なんですから。もしできることなら、何か元気をつけてやってください……ね、あなたは親切な方でしょう、僕知っています……」相手の目にひたと見入りながら、薄笑いをふくんで彼は言い添えた。
「それにしても、君はだいぶ血まみれのようですな」ランタンの光りで、ラスコーリニコフのチョッキに生々しい血痕けっこんをいくつか見つけて、署長は注意した。
「ええ、よごしました……僕は血だらけです!」何かしら一種特別な表情をして、ラスコーリニコフはこう言った。それからにやっと笑い、一つうなずくと、階段をおりて行った。
 彼は体じゅうおこりにでも襲われたような気持で、静かに階段をおりて行った。自分ではそれと意識しなかったけれど、張り切った力強い生命が波のように寄せてきて、その限りない偉大な新しい感覚が、彼の全身にみちあふれた。この感覚は、一たび死刑を宣告されたものが、急に思いもよらず特赦を受けたような感じに似ている、とでもいうことができよう。階段の中ほどで、家路に向かう僧が彼に追いついた。ラスコーリニコフは無言の会釈を交わし、黙ってそれをやり過ごした。しかし最後の幾段かをおりようとした時、突然うしろに急がしげな足音が聞こえた。誰か彼を追っかけて来たのである。それはポーレンカだった。彼女は後ろから走って来ながら、彼を呼んでいた。
「ねえ、ちょっと! ねえ、ちょっと!」
 彼はふり向いた。娘は最後の階段をかけおりると、彼より一つ上の段に立ち止まって、ぴったり彼に顔を突き合せた。ぼんやりした明りが、裏庭からさし込んできた。ラスコーリニコフは、やせてはいるが愛くるしい少女の顔をつくづくと見た。彼女は楽しげににこにこしながら、無邪気に彼を見守っている。見たところ、彼女は自身でもすこぶる気に入っていることづけを持って、駆けつけたものらしい。
「ねえ、ちょっと、あなたの名前なんていうの?……それからも一つ――お家はどこ?」と彼女はせきこんで、はあはあ息を切らしながら尋ねた。
 彼はその肩に両手をおいて、何かしら幸福な感じをいだきながら、じっと彼女を見た。この女の子を見ているのがなんともいえずこころよい――どういうわけか、それは彼自身にもわからなかった。
「誰が君をよこしたの?」
「ソーニャ姉さんにいいつかったの」少女はひとしお楽しげにほほえみながらそう答えた。
「僕もそう思ったよ――ソーニャ姉さんがよこしたんだろうと」
「母さんも行けって言ったのよ。ソーニャ姉さんが行けってった時に、母さんもそばへ来て、そう言ったのよ。『急いで駆け出しておいでよ、ポーレンカ!』って」
「君ソーニャ姉さんが好き?」
「ええ、誰よかも一等すき!」なんだかこう特別力をこめて、ポーレンカは言った。と、その微笑が急にまじめくさってきた。
「僕も好きになってくれる?」
 返事の代わりに、彼は自分の方へ近づいてくる少女の顔を見た。ふっくりした唇が、接吻せっぷんしようとして、無邪気に前へ突き出される。ふいに、マッチのような細い手が、固く固く彼の首に巻きつき、頭がその肩へ押し当てられた。こうして、少女は次第に強く顔を彼の体に押しつけながら、しくしく泣き出した。
「お父さんが可哀想だわ!」しばらくたってから、彼女は泣きはらした顔を上げ、両手で涙をふきながら言い出した。「このごろこんな不仕合せなことばかり続くんですもの」彼女はことさらしかつめらしい顔つきをして、だしぬけにこう言い足した。それは子供が急に『大人』のような口をきこうとするとき、一生懸命にとりつくろう表情なのである。
「お父さんは君を可愛いがった?」
「お父さんはリードチカを一ばん可愛いがってたわ」と彼女は大まじめに、にこりともしないで、もうすっかり大人口調でことばを続けた。「あの子は小さいから、可愛いがってもらえたの。それに病身だったから。あの子にはいつでもお土産を持って帰ってらしたわ。あたし達はお父さんにご本を読むことを習ったの。あたしは文法と聖書のお講義」と彼女は澄まして言い添えた。「お母さんはなんにも言わなかったけど、それを喜んでらしたのは、あたし達もわかってたわ。そして、お父さんも知ってらしたわ。お母さんはあたしにフランス語を教えてやるとおっしゃったのよ。あたしもう教育を受ける年ごろなんですもの」
「君お祈りができる?」
「ええ、そりゃできなくってさ! もうせんからよ。あたしはもう大人みたいに、口ん中でお祈りするのよ。だけどコーリャとリードチカは、お母さんと一緒に声を出して唱えるわ。はじめは『聖母マリア』を唱えて、それからも一つのお祈りをするのよ。『主よ姉ソーニャを許し祝福したまえ』っていうの。そのあとでまた『主よ、われらの第二の父を許し祝福したまえ』って。それはね、先のお父さんがもう死んでしまって、今のは違うお父さんだからなの。あたしたち先のお父さんのことも、やはりお祈りしてよ」
「ポーレンカ、僕の名はロジオンていうんだよ。いつか僕のこともお祈りしてちょうだい。『奴隷しもべロジオンをも』って――それっきりでいいから」
「あたしこれから一生、あなたのことをお祈りするわ」と彼女は熱心にいった。そして急に笑い出して飛びつくと、再び彼をしっかりと抱きしめた。
 ラスコーリニコフは彼女に自分の名と、住所をいって聞かせ、明日は必ず寄るからと約束した。彼女はすっかり有頂天になって帰って行った。彼が通りへ出た時は、もう十時をまわっていた。それから五分の後、彼は橋の上に立っていた。先ほど女が身を投げたちょうどその場所である。
『もうたくさんだ!』と彼は勝ち誇ったようにきっぱりと言った。『蜃気楼しんきろうを吹っとばせ、すき好んで招いた恐怖も追っぱらえ、幻も消えてしまえ! 生命はあるんだ! いったいおれはいま生きてないのか? おれの命はあの老いぼればばあと一緒に死にはしなかったんだ! 婆さんには天国の冥福めいふくを祈っておいたら、それでたくさんだ。もうゆっくり休んでもいい時なんだ! 今は理性と光明の王国だ! そして……意志と力の……さあ、これから力くらべをしようじゃないか!』ある目に見えぬ力に向かっていどみかけでもするように、彼は昂然こうぜんとしてつけ加えた。『だっておれはもう方尺の空間にでも生きる覚悟をしたんじゃないか!』
『……今おれはひどく衰弱しているようだが、しかし……病気はすっかりなおってしまったらしい。さっきあの家を出る時に、なおるだろうと感じていたんだ。ときに、ここからポチンコフの家はほんの一足だ。どうしたって、もうラズーミヒンのとこへ行かなくちゃならん――よしんば一足でなくっても、かけはあいつに勝たしてやろう!……まあ、喜ばしといてやれ――なに、かまうものか……力だ、力がかんじんだ――力がなくては何も得られやしない。ところが、力を得るには力をもってしなくちゃならん。つまり、これをやつらは知らないんだ』と彼はごうぜんとたのむところありげに言い足した。そして、やっとのことで足を運びながら、橋を離れた。
 矜持きょうじと自信は一刻ましに彼の内部で生長して、次の瞬間には、まるで以前と違った別の人間になってしまった。とはいえ、いったい何事が起こって、かくまで彼を一変させたのか? それは彼自身にもわからなかった。わらしべにでもすがろうとしていたような彼が、突然『生きて行くことはできる、まだ生命はあるんだ。おれの命は老いぼれ婆あと一緒に死んだのじゃない』と感じたのである。もしかすると、彼はあまり結論を急ぎ過ぎたかもしれない。が、彼はそんなことを考えようともしなかった
『しかし、奴隷しもべロジオンのことを祈ってくれと頼んだじゃないか』こういう考えがふと彼の頭にひらめいた。『いや、なに、これは……万一の場合のためだ!』と彼はつけたした。そしてすぐに自分ながら、自分の子供っぽいでたらめがおかしくなり、からからと笑い出した。彼はこの上なくいいきげんになっていた。
 彼はわけなくラズーミヒンを捜し当てた。ポチンコフの家では、もう新しい借間人を知っていて、庭番がすぐに道を教えてくれた。もう階段の中ほどから、いかにも大きな会合らしい騒ぎと、いきいきした話し声を聞き分けることができた。階段へ向かった戸はいっぱいにあけ放されていて、わめき声や争論が聞こえていた。ラズーミヒンの部屋はかなり大きい方で、集まった人数は十五人ばかりだった。ラスコーリニコフは入り口の控室に立ち止まった。すぐそこの仕切り板の陰で、おかみの使っている女中が二人、二つの大きなサモワールや、おかみの台所から運んできた菓子、酒肴しゅこうなどを盛った皿や、鉢や、酒びんなどのまわりを立ち働いていた。ラスコーリニコフはラズーミヒンを呼びにやった。ラズーミヒンは有頂天になって飛んで来た。彼がいつになく酒を過ごしているのは、一目で見え透いていた。ラズーミヒンはけっして酔うということはなかったのに、この時はどこやら違ったところが見えた。
「実はね」とラスコーリニコフは急いで言った。「僕がやって来たのは、君が賭に勝ったということと、実際どんな人でも、自分がどうなるかわからないものだってことを、一口君に言いたかったからなんだよ。僕ははいるわけにゆかない。ひどく衰弱してね、今にもぶっ倒れそうなんだ。だから、今日はこれで失敬する! あす僕の方へ来てくれないか……」
「じゃね、僕が君を家まで送ろう! 君が自分でそんなに弱ってるというくらいだから……」
「だって客をどうするんだい? あの縮れ毛の男は誰だい、ほら、今こっちをのぞいて見た?」
「あれ? あんなやつ知るもんか! きっと伯父おじの知人だろう! が、もしかすると勝手にやって来たのかもしれない……とにかく、あの連中には伯父をつけとくよ。伯父は実にいい人間だぜ。君にいま紹介できないのは残念だよ。だが、あんな連中どうだってかまやしないんだ! みんな今ぼくなんかに用はないんだ。それに、僕は少し風に当たらなくちゃならない。だから、君、ちょうどいいところへ来てくれたんだよ。もう二分もいようものなら、僕はやつらとなぐり合いをはじめたかもしれないんだ、ほんとうだとも! 何しろあきれ返るようなでたらめをしゃべり出すんだからな……君、人間てどこまででたらめが言えるものか、想像もつかないだろう! だが、どうして想像ができないんだ? われわれ自身だってずいぶんでたらめをいうじゃないか? まあ、勝手にやらしとくさ、その代わりあとで言わなくなるだろうからな。ちょっと待ってくれ。今ゾシーモフを連れて来るから」
 ゾシーモフは何かむさぼるような表情で、ラスコーリニコフに飛びかかった。彼の顔には一種特別な好奇の色がうかがわれた。やがて間もなくその顔は晴れやかになった。
「ぜひ寝なくちゃいけませんよ」彼は患者をできるだけ丁寧に見た後、きっぱりとこう言った。
「そして夜ねる前に、一つ飲むといいんだがなあ。飲みますか? もうさっきこしらえておきましたが……ちょっとした散薬を一服」
「二服でもけっこう」とラスコーリニコフは答えた。
 散薬はその場で服用された。
「そりゃ非常にいい、君自身が送って行こうというのは」とゾシーモフはラズーミヒンに言った。「明日はどうなるか別として、今日のところはなかなか悪くないですな。さっきと比べると著しい変化です。人生は永久の研究だなあ……」
「ねえ君、いま出しなにゾシーモフが、たいへんなことを僕に耳打ちしたんだぜ」ラズーミヒンは通りへ出ると、いきなりぶっつけに言った。「君、あいつらは馬鹿だから、僕も君に何もかもをありのままに話してしまうがね。ゾシーモフは僕にこんな事をいいつけたんだよ。みちみち君とおしゃべりをして、君にもしゃべるように仕向けてさ。それをあとですっかり聞かせてくれって。というのは、やつに一つの観念があるからなんだ……つまり、君が……気ちがいか、あるいはそれに近いものだっていうのさ。まあ、君考えてもみたまえ! 第一に、君はやつよか二倍も三倍もりこうだし、第二に、君が気ちがいでなければ、やつの頭にそんな馬鹿げた考えがあろうとあるまいと、君にとってともない事だからなあ。第三にあの一個の肉塊先生、専門は外科のくせに、いま精神病の方へ夢中になってるもんだから、今日の君とザミョートフとの会話が、根底から奴を動顛どうてんさしてしまったんだよ」
「ザミョートフが君に何もかも話したのかい」
「ああ、何もかも。そして、話してくれてよかったよ。で、僕はいま底の底までわかったんだ。ザミョートフもわかったよ……で、まあ、一言にしていえばさ、ね、ロージャ……要するに……僕今ほんのぽっちり酔ってるがね……しかし、こんなことはなんでもないさ……要するにあの疑念は……わかるだろう? 実際あいつらの頭にこびりついてたんだ、わかるだろう? といって、やつらも誰一人それを口に出して言うものはないんだ。あまり馬鹿げきった考えだからね。ことにあのペンキ屋がつかまって以来、妄想がすべて一時に崩壊し永久に消えてしまったんだからな。だが、なんだってやつらはあんな馬鹿なんだろう? 僕はその時ザミョートフを少しぶんなぐってやったよ。しかしこれはこの場きりの話だからね、君、知ってるなんてことは、素振りにも出さないでくれよ、いいかね。僕は気がついたんだが、やつは神経質な人間なんだね。ラヴィーザのところであったことなんだ――しかし、今日という今日こそ、すべてが明瞭になった。一番いけないのは、あの副署長さ! やつは君があの時署で卒倒したのを、さっそく種にしやがったんだ。しかしあとでは、自分でも恥かしくなったんだがね。僕はちゃんと知ってるよ……」
 ラスコーリニコフはむさぼるように聞いていた。ラズーミヒンは酔ったまぎれに、ぺらぺらしゃべり立てた。
「あの時は息苦しくて、それにペンキの臭いがしたので卒倒したのさ」とラスコーリニコフは言った。
「まだいいわけしてるよ! それに、ペンキばかりじゃないよ。炎症がまる一月も徐々に進行していたんだ。現にゾシーモフが証人だ! だが、今あの青二才がどんなにしょげてることか、君、想像もできないくらいだぜ! 『わたしはあの人の小指ほどの値うちもない』といってるよ。つまり、君の小指のさ。しかしあの男だってどうかすると、善良な感情を持つこともあるよ。だが今日の『水晶宮』であったことは、やつにとっていい教訓だった。あれは完成の極致だ! だって、君は初めてやつをびっくりさせて、震え上がらせたそうじゃないか! 君はまたやつにあの忌まわしい無意味な想像を、ほとんど完全に信じさせておいてさ、それからふいに――舌をぺろりと出して、『へん、どうだ、うまくいったか!』なんて、実に完璧かんぺきというべきだ! やっこさんすっかりへこんじまって、面目だまをつぶしてしまってるよ! 君は名人だね、全く! やつらはそんな風にやっつけてやらなきゃいけないんだ! 僕がその場にいなくって残念だったよ! やつは今も君を待ちこがれていたっけ。ポルフィーリイ(予審判事)も君と近づきになりたがっているよ……」
「ああ……あの男なんか……だが、なんだって人を気ちがい扱いにしたんだい?」
「といって、気ちがいじゃないのさ。いや、僕はどうやらしゃべり過ぎたようだな……つまり、あの一つの点に君が興味をいだいてるってことが、さっきゾシーモフに異常な印象を与えたんだよ……だが今では、なぜ興味を抱くか明瞭めいりょうになった。すべての状況を知ってみると……またあの時あの事件が極端に君をいらいらさして、病気と一緒にない合わされてしまったことを知ってみるとね……ところで君、僕はいささか酔っ払ってる。しかし、なんだか知らないけれど、やつには何か考えがあるらしい……だから、僕そういうのさ……やつは精神病で夢中になっているんだよ。まあ君、つばでもひっかけておくさ……」
 三十秒ばかり二人は黙っていた。
「おい、ラズーミヒン」とラスコーリニコフは口を切った。「僕、君にまっすぐに言ってしまいたい。僕はいま死人の傍にいたんだ、ある官吏が死んだんだ……僕はそこでありたけの金をやってしまった……のみならず、そこである一人のものが僕に接吻せっぷんしてくれた。それは、たとい僕が誰かを殺したとしても、やはり……一口にいえば、僕はそこでもう一人別のある人間を見たんだ……燃えるような羽毛を帽子につけた……だが、僕はでたらめをしゃべり出した。僕非常に衰弱してるんだ。僕をささえてくれ……もうすぐ階段じゃないか……」
「君どうしたんだ……どうしたんだい?」とラズーミヒンは不安げに尋ねた。
「少しめまいがするんだ。しかし問題はそんなことじゃない。問題はただむやみに気が沈むことなんだ。むやみに気が沈むんだ! まるで女のくさったみたいに……全く! おや、あれはなんだ? 見ろ! 見ろ!」
「なんだ、いったい?」
「あれが見えないかい? 僕の部屋にあかりがついてるじゃないか? 隙間からさしてるだろう……」
 彼らはもうおかみの戸口と並んだ最後の階段の前に立っていた。はたして、ラスコーリニコフの小部屋にあかりのついているのが、下からも見えていた。
「変だな! ナスターシャかもしれんぞ」とラズーミヒンは言った。
「いや、いま時分あれが僕の部屋へ来ることはないんだ。それに、あいつはもうとっくに寝てるよ。しかし……どうだっていいや! じゃ失敬!」
「何をいうんだ? 僕は君を送って来たんじゃないか、一緒にはいろうよ!」
「一緒にはいることは知っている。だが、僕はここで君の手を握って、ここで君と告別したいんだ。さあ、手を出したまえ、失敬!」
「君どうしたんだい、ロージャ」
「なんでもないよ……じゃ行こう……君は目撃者になるがいいさ……」
 二人は階段を登り始めた。ラズーミヒンの頭には、ひょっとしたらゾシーモフのいうことが本当かもしれない、という想念がひらめいた。「ちぇっ! おれはあまりしゃべりすぎて、先生の頭をめちゃめちゃにしてしまった!」と彼はひとりごちた。二人が戸口に近づいたとき、思いがけなく部屋の中に人声が聞こえた。
「いったいなにごとだ?」とラズーミヒンは叫んだ。ラスコーリニコフは一番に戸に手をかけて、さっといっぱいにあけ放した。あけたと思うと、いきなり敷居の上で棒立ちになった。
 そこには母と妹が長椅子に腰かけて、もう一時間半も彼を待っていたのである。なぜ彼は二人を全然予期もしなければ、まるっきり二人のことを考えもしなかったのだろう? しかも彼は今日も重ねて、二人がすでに向こうを出発して、間もなく到着という報に接していたのではないか。この一時間半のあいだ二人は先を争って、ナスターシャにいろいろ根ほり葉ほりきいた。ナスターシャは今も二人の前に立ってい、もう何もかもあけすけに話してしまったのである。彼が病気のくせに『きょう家を飛び出して行った』と聞いた時、二人は驚きのあまり茫然自失ぼうぜんじしつした。話の模様でみると、必ず熱に浮かされてるに決まっている。『ああ、いったいどうしたことだろう!』二人は泣いた。二人はこの一時間半待っている間に、十字架の苦を忍んだのである。
 喜ばしげな感きわまった叫びが、ラスコーリニコフの出現を迎えた。二人は彼に飛びかかった。にもかかわらず彼は死人のように突っ立っていた。ふいに襲った堪え難い意識が、雷のように彼を撃った。それに、二人を抱擁しようにも、彼の手は上がらなかった。上げられなかったのである。母と妹は彼をしっかと抱きしめて、接吻したり、笑ったり、泣いたりした……彼は一足ふみ出したと思うと、ぐらぐらっとなり、気を失ったまま床の上にどうと倒れた。
 混乱、恐怖の叫び、呻吟しんぎん……敷居の上に立っていたラズーミヒンは、部屋の中へ飛び込んで、その力強い手に病人をかきいだいた。そして病人はすぐさま長椅子の上に寝かされた。
「大丈夫、大丈夫!」と彼は母と妹にいった。「ただ気絶しただけです、つまらん事です! つい今しがたも医者がもう非常によくなった、もうほとんど健康体だと、言ったばかりです! 水を! ほら、もう正気に返りかけています、さあ、もう気がつきました……」
 こう言いながら、彼はドゥーネチカの手を、関節がはずれそうなほど引っつかんで『もう気がついた』のを見せるために、ぐっと下へかがめた。母も妹も、感動と感謝のこもった目で、ラズーミヒンを神の如くに仰ぎ見た。二人はもうナスターシャの口から、この『気さくな若い人』が自分たちのロージャにとって、その病中ずっといかなる役を勤めていてくれたか、ちゃんと聞いて知っていた。『気さくな若い人』とは、この晩ドゥーニャと隔てのない話をした間に、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコヴァが、自分でラズーミヒンにつけた名であった。
[#改ページ]


第三篇



 ラスコーリニコフは身を起こして、長椅子の上にすわった。
 彼はラズーミヒンに手を一振りして、母と妹に対するとりとめのない熱心な慰めのことばを中止させた後、二人の手をとって、二分ばかり無言のまま、かたみに二人の顔に見入った。母は彼のまなざしにぎょっとした。このまなざしには苦しいほど強烈な感情があったが、同時にまた何かしら凝り固まったような、むしろもの狂おしくさえ感じられるような、あるものが透いて見えた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはさめざめと泣き出した。
 アヴドーチャ・ロマーノヴナは青ざめた顔をしていた。彼女の手は兄の手の中でわなわな震えた。
「もう帰ってください……この男と一緒に」と彼はラズーミヒンを指しながら、きれぎれな声でいった。「あすまた。あす何もかも……もうだいぶ前に着いたんですか?」
「夕方だったよ、ロージャ」とプリヘーリヤは答えた。「汽車が大変遅れてね。だけどロージャ、わたしは今どんなことがあっても、お前の傍を離れやしないよ! わたしはここに泊まります。お前の傍に……」
「僕を苦しめないでください!」と彼はうるさそうに片手を振り、いら立たしげに言った。
「僕がそばに残りますよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「一刻も離れやしません。うちの客なんかどうとも勝手にしやがれだ! あっちの方は伯父おじ采配さいはいを振ってくれるから」
「まあ、なんとお礼を申していいやら!」またラズーミヒンの手を握りながら、プリヘーリヤは言いかけたが、ラスコーリニコフがまたもやそれをさえぎった。
「たまらない、たまらない!」と彼はいら立たしげにくり返した。「僕を苦しめないでください! もうたくさんです、帰ってください……たまらない……」
「行きましょうよ、お母さん、ちょっと部屋の外へだけでも」ドゥーニャはおびえたようにささやいた。「わたしたちは兄さんを苦しめてるのよ、それは様子でわかるわ」
「じゃ、しみじみ顔も見られないのかね、三年も別れていたのに!」とプリヘーリヤは泣き出した。
「待ってください!」と彼はまた二人を呼び止めた。「みんな邪魔ばかりするものだから、頭がごっちゃになってしまう……ルージンに会いましたか?」
「いいえ、ロージャ、まだよ。でも、あの人はわたしたちの着いたことを、もう知っているんだよ。聞けば、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィッチがご親切に、今日お前を訪ねてくだすったそうだね」いくらかおずおずした調子で、プリヘーリヤはこういい足した。
「そう……ご親切に……ねえ、ドゥーニャ、僕はさっきルージンに、階段から突き落とすぞと言ってやったよ。そして、おととい来いと追い出しちゃった……」
「ロージャ、なにを言うのお前は? きっと……お前はその……言いたくないんだろう」と驚きのあまりプリヘーリヤは言いかけたが、ドゥーニャの顔を見ると口をつぐんだ。
 アヴドーチャは兄の顔をじっと見入りながら、その先を待っていた。二人は早くもナスターシャの口から、彼女の判断で伝えうる限り、この衝突のことを聞かされていたので、疑惑と期待の念にさんざん心を痛めたところであった。
「ドゥーニャ」とラスコーリニコフは苦しげにことばを続けた。「僕はこの結婚に不賛成だ。だから、お前もあす第一番にルージンを断わってしまえ、あいつのにおいも家の中にしないように」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
「兄さん、あなた何を言ってらっしゃるか、まあ考えてごらんなさい……」とアヴドーチヤは[#「アヴドーチヤは」はママ]かっとなって言いかけたが、すぐに自分を抑えた。「兄さんは今そんなこと考えられないんだわね。疲れてらっしゃるのよ」と彼女はつつましやかに結んだ。
「熱に浮かされてるって? ちがう……お前は僕のためにルージンと結婚しようとしてるんだ。だが、僕はそんな犠牲を受け入れるわけにいかない。だから明日までに手紙を書け……拒絶の手紙を……そして朝ぼくに読ませてくれ、それで片付くんだ!」
「そんなことできませんわ、わたし!」と妹はむっとして言った。「いったいどんな権利があって……」
「ドゥーネチカ、お前も気が短いね、およしよ、明日のことだよ……お前いったいあれが見えないの……」と母はドゥーニャの方へ駆け寄りながら、びっくりしてこう言った。「ああ、いっそ早く帰ろうよ!」
「うわ言を言ってるんですよ!」と酔の回ったラズーミヒンがどなった。「でなきゃ、どうしてあんなむちゃがいえるもんですか! 明日になりゃ、あんな馬鹿げた気まぐれはふっ飛んじまいますよ……もっとも、今日あの人を追い出したのは本当なんです。それはその通りです。ところが、先方でも怒りましたね……それから一場の演説をして、自分の知識を見せびらかしたが、結局、しっぽを巻いて帰っちまいましたよ……」
「じゃ、あれは本当なんですね?」とプリヘーリヤは叫んだ。
「では、兄さん、明日またね」とドゥーニャは同情をおもてに現わしながら言った。「行きましょう、お母さん……さよなら、ロージャ!」
「いいかい、ドゥーニャ」と彼は最後の力をふるいながらくり返した。「僕は熱に浮かされてるんじゃないよ、この結婚は卑劣だ。たとい僕は卑劣漢にもせよ、お前はそうなっちゃいけない……二人のうちどちらか一人だ……僕は卑劣漢だが、そんな妹は妹と思わないぞ。僕を取るか、ルージンを取るかだ! さあ、もう行くがいい……」
「いったいきさま、気でも狂ったのか、暴君め!」とラズーミヒンはどなりつけた。
 けれど、ラスコーリニコフはもう返事しなかった。事によったら、答える力がなかったのかもしれない。彼は長椅子の上へ倒れると、ぐったり壁の方へ向いてしまった。アヴドーチャは好奇のまなざしでラズーミヒンを見つめた。彼女の黒いひとみは輝いた。ラズーミヒンはこのまなざしに射られて、思わず身震いした。プリヘーリヤは雷にうたれたように突っ立っている。
「わたしどうしても帰るわけにいきません!」と彼女はほとんど絶望の調子でラズーミヒンにささやいた。「わたしはここに残ります、どこかそこいらに……あなたドゥーニャだけ送ってくださいましな」
「それじゃ何もかもぶちこわしですよ!」とわれを忘れてラズーミヒンは同じくささやくように言った。「せめて階段までも出ましょう。ナスターシャ、あかりをお見せ! 僕ちかっていいますが」もう階段の上へ出てから、彼は半ばささやくような声で続けた。「実は先生さっきもわたしたちを、僕とドクトルとを、なぐりつけないばかりだったんですよ! え、おわかりですか! 医者でさえそうなんですよ! で、医者は興奮させちゃいけないといって、帰ってしまいました。僕は下で番していたところ、先生その間に着がえをして、すべり抜けてしまったんです。だから今でも、あまりいらいらおさせになると、またすべり抜けて行って、よる夜なか何をしでかすかしれませんよ……」
「まあ、何をおっしゃるんですの!」
「それに、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしても、あなたがいらっしゃらなくては、一人で下宿にいられやしませんよ! が、考えてもごらんなさい、あなた方は、なんて所に泊まっていらっしゃるんでしょう! あの恥しらずのルージンて男も、あなた方のためにもう少しどうかした宿が捜せなかったものかなあ……いや、もっともごらんの通り、僕少し酔ってますから……つい悪口をつきましたが、どうかお気になさらないで……」
「でも、わたしはここのおかみさんのところへ行って来ます」とプリヘーリヤは言い張った。「わたしとドゥーニャを今晩だけ、どんな隅っこへでも泊めてくれるように、一生懸命たのんでみます。わたしはあれをこのままおいて行かれません、どうあっても!」
 こんな話をしながら、彼らは階段の上の踊り場に立っていた。それはおかみの住まいの入り口のすぐ前だった。ナスターシャは一段下から彼らにあかりを見せていた。ラズーミヒンは一方ひとかたならず興奮していた。
 半時間前、ラスコーリニコフを送って来た時は、自分でも白状した通り、余計なことにおしゃべりだったが、この晩のんだ酒がおびただしい量であったにもかかわらず、恐ろしく元気で、ほとんどしらふ同然だった。しかるに今の彼の心理状態は、何かまるで歓喜とでもいうべきものに似通っていた。と同時に、これまで飲んだ酒がすっかり、新たに倍加された力をもって、一時に頭へ上ったような具合だった。彼は二人の婦人と並んで立ちながら、二人の手をつかまえて、どうかして説き伏せようと、驚くばかり打ち明けた調子で、いろいろ理由を並べて見せた。しかも、一そうそれを確かめるためだろう、ほとんど一語ごとに、二人の手をぐいぐいと、締め木にでもかけるように、痛いほど握りしめた。そして一こう遠慮する風もなく、アヴドーチャ・ロマーノヴナをむさぼるように見つめるのであった。二人は痛さのあまり、ときおり彼の大きな骨ばった手の中から、その手を振りほどこうとしたが、彼はなんの事か気がつかなかったのみならず、かえって一そう強く引寄せるのであった。もし今二人が彼に向かって、自分たちのために階段からまっさかさまに飛べといったら、彼はいささかも疑おうとせず、文句なしに、早速それを実行したに相違ない。ロージャのことが心配で気が気でないプリヘーリヤは、ひどく常規を逸したこの青年が、むやみにぎゅうぎゅう手を締めつけるのに気づいてはいたが、彼女にはこの男が神さまのように感じられたので、そうした突飛な動作を気に止めたくなかった。けれど、同じ不安に苦しめられていながら、アヴドーチャの方は、さして気の小さい方でもなかったけれど、この荒々しい火に燃える兄の友のまなざしを、驚きというよりむしろ恐怖の感じをもって迎えた。ナスターシャの話で吹き込まれたこの不思議な男に対する無限の信頼がなかったら、母の手を引っ張って傍を逃げ出したに相違ない。とはいえ彼女は、自分たちがこの男から逃げ出すわけにいかないことも、やはり悟っていた。やがて十分もたつと、彼女は目に見えて落ち着いてきた。ラズーミヒンは、どんな気分でいる時でも、自分のすべてを一瞬の間に表明する特性を持っていた。で、誰でもがすぐ相手の人となりを見抜くのだった。
「おかみさんのところなんか駄目ですよ、それこそ愚の骨頂です!」プリヘーリヤを説き伏せようとして、彼は叫ぶのであった。「よしあなたがお母さんであるにもせよ、ここに残っていらっしゃると、ロージャを気ちがい同様にしてしまいますよ。そうなったら、どんなことになるかしれたもんじゃない! どうです、僕こうしましょう。今さしずめ、あすこにナスターシャをつけといて、僕があなた方をお送りしましょう。二人きりで町をお歩きになるわけにゃいきません。このペテルブルグってところは、そういう点では……いや、そんな事はどうでもいい! それから、あなた方のところからすぐここへ引っ返して、十五分もたったら、誓ってまたあなた方のところへ報告を持って行きます。ロージャがどんな風か? ねむっているかどうか? そういったようなことをね。それから、いいですか、それから一っ走り僕の家へ行って――なにしろ家には客がいて、みな酔っ払ってるんですから――そして、ゾシーモフを引っ張って行きます。これはロージャを診ている医者ですよ。今僕んとこにいるんですが、酔っちゃいませんから。この男は酔いません。この男はけっして酔いませんよ! で、この男をロージャのところへ引っ張って行って、それからすぐもう一度あなた方のとこへ飛んで来ます。つまり、あなた方は一時間のうちに、ロージャについて二つの報告を受け取られるわけです――医者の報告もね。いいですか、主治医の報告ですよ。これはもう僕なんかの報告とはわけが違いますからな! もし病人が悪ければ、僕誓ってあなた方をここへご案内します。がいいようだったら、そのままゆっくりおやすみなさい。僕は一晩ここに、入り口の間に泊まりますよ。ロージャは気がつきゃしません。そして、ゾシーモフは、おかみさんのところへ泊まらせます。手近にいてもらうためにね。さあ、どうです、この際あなた方と医者と、どちらがいいでしょう? ね、医者の方が役に立つでしょう、役に立つでしょう。だから、これでお帰んなさい! おかみさんのとこへは駄目です。僕はいいけれど、あなた方は駄目です。入れてくれやしません。というのは……というのは、あの女が馬鹿だからです……あの女はアヴドーチャ・ロマーノヴナのことで、僕をくに決まってます。それから、あなたに対してもそうですが……アヴドーチャ・ロマーノヴナに対して間違いなしです。あれは全く、全く意想外な性格の女ですよ! もっとも、僕だってやはり馬鹿だなあ……なに、どうだっていいや! さあ、行きましょう! あなた方は僕を信じてくださいますか? え、僕を信じてくださいますか、くださいませんか?」
「帰りましょうよ、お母さん」とアヴドーチャは言った。「この方はきっと約束通りにしてくださるわ。だって、現に兄さんを生き返らせてくだすったんですもの。それに、もしお医者さまが本当に泊まるのを承知してくださるなら、それに越したことはないじゃありませんか?」
「そうだ、あなたは……あなたは……僕を理解してくださる。あなたは――天使だから!」とラズーミヒンは有頂天になって叫んだ。「行きましょう! ナスターシャ! 大急ぎで上って行って、病人の傍についててくれ、あかりを持ってだよ。僕は十五分たったら帰ってくる……」
 プリヘーリヤはまだ十分納得しなかったが、それ以上反対もしなかった。ラズーミヒンは二人に腕をかして階段をつれておりた。とはいえ、彼は母親に不安を感じさせた。『そりゃ気さくないい人だけれど、約束した事がみんな実行できるかしら? だってこんなに酔っ払ってるんだもの……』
「ああ、わかった、あなたは僕がこんなていたらくなのを、気にしていらっしゃるんですね!」ラズーミヒンはそれと察して、彼女の懸念をさえぎった。彼は持ちまえの並みはずれた大股おおまたで、歩道をかっぽして行ったので、二人の女はやっとのことで彼のあとについて行ったが、彼はそれに気もつかなかった。「ばかばかしい! というのは……僕が間のぬけた酔っ払いづらをしてることです。しかし、問題はそんなことじゃありません。僕はなるほど酔っていますが、それは酒のせいじゃありません。これはあなた方を見たとたんに僕の頭へがんと来たんです……だが、僕のことなんかつばでも引っかけてください! 気にとめないでください。僕は口から出まかせを言っているんです。僕はあなた方に価いしない……僕はとうていあなた方に価いしない人間です! あなた方をお送りしたら、さっそくここのほりばたで、水を二桶ふたおけも頭から浴びます。そうしたらもう平気です……ああ、僕がどんなにあなた方を愛しているか、それをあなた方が知ってくだすったらなあ!……笑わないでください、そして怒らないでください! ほかの者なら誰をお怒りになってもいいが、僕は怒らないでください! 僕はロージャの友人ですから、したがってあなた方の友人です。僕はそうしたいんです……僕はそれを予期していました……去年、なんだかこう、そうした瞬間があったんです……もっとも、けっして予感なんかしたわけじゃありません。だってあなたは、まるで天から降ってきたようなんですものね。僕は今晩おそらく夜っぴて寝られないでしょう……そのゾシーモフという男も、さっきロージャが気が狂ったんじゃないかと、心配していましたっけ……ね、だからロージャをいらいらさせちゃいけないんですよ……」
「え、なんとおっしゃるんです!」と母は叫んだ。
「ほんとうにお医者が自分でそうおっしゃったんですの?」とアヴドーチャもぎょっとして尋ねた。
「いいました。しかし、それは見当ちがいです、まるで見当ちがいです。先生その、ちょっとした薬を飲ましたんですよ、散薬をね。ぼく見て知っています。そこへあなた方がいらしたんですよ……ああ……あなた方は明日いらっしゃるとよかったんだがなあ! しかし、われわれが引き上げたのは、いい事をしましたよ。一時間すると、ゾシーモフがあなた方にいっさいを報告します。こいつはそれこそ酔ってませんからね! 僕もその時分にゃさめていますよ……だが、どうして僕はあんなにがぶがぶやったんだろう? ほかでもない、あのいまいましい連中が、議論に引っ張り込んだからだ! 議論なんかしないと誓いを立てたのになあ! 実に途方もないことを言いやがるもんだから! 危うくなぐり合いをしかねないところでしたよ! 僕はあそこへ伯父を残してきました、議長としてね……まあ、どうでしょう、やつらはぜんぜん没人格を要求して、そこに最大の意義を発見して喜んでるんですからね! どうかして自分が自分でなくなるように、どうかして自分が自分に似なくなるように苦心する、それがやつらの間では最高の進歩とされてるんですよ。せめて自己流にでたらめでもいうならまだしも、それどころか……」
「あの、ちょっと」とおずおずした口調でプリヘーリヤはさえぎった。
 けれど、それはただ相手の熱を高めるばかりだった。
「ああ、あなたはこんなことを考えていらっしゃるんでしょう?」ひときわ声を高めながら、ラズーミヒンは叫んだ。「僕が罵倒ばとうするのは、彼らがでたらめを言うからだと、そう思ってらっしゃるんですね? ばかばかしい! 僕は人がでたらめを言うのが好きなんですよ! でたらめってやつは、すべてのオルガニズムに対する人間の唯一の特権です。でたらめを言ってるうちに、真理に到達するんですよ! でたらめをいうからこそ、僕も人間なんです。前に十四へん、あるいは百十四へんくらいでたらめを言わなけりゃ、一つの真理にも到達したものはない。これは一種の名誉なんですからね。ところで、僕らはでたらめを言うことだって、自分の知恵じゃできないんです! まあ、一つでたらめを言ってみるがいい、自分一流のでたらめを言ってみるがいい。そしたら、僕はそいつを接吻せっぷんしてやる。自分一流のでたらめを言うのは、人まねで一つ覚えの真理を語るより、ほとんどましなくらいです。第一の場合には人間だが、第二の場合にはたかだか小鳥にすぎない! 真理は逃げやしないが、生命はたたき殺すこともできる。そんな例はいろいろあります。しかるに、われわれは今どうです! われわれはすべて一人の例外もなく、科学、文化、思索、発明、願望、理想、自由主義、理性、経験、その他いっさい何もかも、何もかも、何もかも、何もかも、何もかもが、まだ中学予科の一年級なんです! 他人の知識でお茶を濁すのが楽でいいもんだから……すっかりそれが慣れっこになってしまった! そうじゃありませんか? 僕の言う通りじゃありませんか!」二人の婦人の手を振って締めつけながら、ラズーミヒンは叫んだ。「そうじゃありませんか?」
「ああ、どうしたらいいのだろう、わたしよくわかりません」可哀想にプリヘーリヤはこうつぶやいた。
「そうですわ、そうですわ……もっとも、あなたのおっしゃることに、皆がみな賛成じゃありませんけど」とアヴドーチャは口を添えた。と、たちまちあっと悲鳴をあげた。彼が今度という今度、思い切り強く彼女の手を握りしめたので。
「そうですって? あなたはそうだとおっしゃるんですね? さあ、こうなるとあなたは……あなたは……」と彼は歓喜のあまり叫びを発した。「あなたは、善と、純潔と、叡智えいちと、そして……完成の源泉です! お手をください、お手を……あなたもどうぞお手をください。僕はここで今すぐ、ひざまずいてあなた方の手に接吻したいのです!」
 彼はいきなり歩道の真中にひざをついた。いいあんばいに、その時あたりには誰もいなかった。
「まあ、よしてください、後生ですから。ほんとうにあなたは何をなさるんです?」とプリヘーリヤはことごとく度胆どぎもを抜かれて、こう叫んだ。
「お立ちなさいよ、お立ちなさいってば!」とドゥーニャも笑いながら、同時に気をもむのであった。
「いや、どうしてどうして、お手をくださらないうちは! そうです、そうです。これでたくさん。ほら、立ちました。行きましょう! 僕は不幸にも馬鹿なまぬけ男です。僕はあなた方に価いしません。この通り酔っ払って、それを恥じ入っています……僕はあなた方を愛する資格はありませんが、あなた方の前に跪拝きはいすること――これは全くの畜生でない限り、各人の義務です! だからぼく跪拝しました……や、もうあなた方の下宿です。このこと一つだけでも、さっきロージャがあのルージンを追い出したのは、当然な処置なんです! よくもあの男は恥かしくもなく、あなた方をこんな宿へいれられたもんだ! こりゃもう恥さらしですよ! ここはどんな者が出入りするところか、ご存じですか? だって、あなたは花嫁じゃありませんか? あなたは花嫁でしょう、そうでしょう? だから、僕はあえていいますが、あなたの未来の夫は、これで見ると陋劣漢ろうれつかんですよ!」
「もし、ラズーミヒンさん、あなたはお忘れになりましたね……」とプリヘーリヤは言いかけた。
「そうです、そうです、おっしゃる通りです、僕は前後を忘れていました。面目ありません!」とラズーミヒンはわれに返った。「しかし……しかし……こんなことを言ったからって、あなた方は僕をお怒りになっちゃいけません! 僕は誠心誠意言ってるんで、けっしてその、なんです……ふむ! それだったら陋劣な話です。手っとり早く言えばですね、何も僕があなたに……その……ふむ!……いや、もうよしましょう、必要がない、なぜだかそのわけは言いますまい、勇気がないです!……とにかく、われわれ一同はさっきあの男がはいって来た時に、これはわれわれの仲間じゃないな、と悟ったんです。それは何もあの男が床屋へ行って、髪をちぢらせてきたからじゃありません。またあの男が急いで自分の知識をひけらかそうとした、そのせいでもありません。要はあの男が回し者で山師だからです。ユダヤ人でまやかし者だからです、それはちゃんと見え透いています。あなた方はあれを賢いと思っておられますか? どうして、あれは馬鹿ですよ、馬鹿ですとも! ねえ、あんな男があなたの配偶たる価値がありますか? ああ、なんということだ! ねえ、わかってください」もう部屋へ通ずる階段を上りながら、彼はだしぬけに立ち止まった。「いま僕のところにいる連中は、残らず酔っ払いですが、その代わりみな正直です。われわれはでたらめを言います。だって僕もやはりでたらめを言うんですからね。しかし、そのうちいつか真実に達することもありますよ。われわれは潔白な道に立ってるんですからね。ところが、ルージンは潔白な道に立っていません。僕は今、家にいる連中をくそみそに罵倒したけれど、でもあの連中を一人残らず尊敬していますよ。ザミョートフでさえ、ぼく尊敬はしないが、愛していますよ。犬っころですからね! それから、ゾシーモフの畜生でさえそうです。正直で、自分の仕事をわきまえてるから……いや、しかし、もうたくさん、すっかり言うだけの事は言ったし、許してもいただいた。ね、許していただいたんでしょう? そうでしょう? さあ、参りましょう。僕はこの廊下を知っていますよ、来たことがあるから。そら、あの三号室で、スキャンダルがあったんですよ……ところで、あなた方はどこです? なん号です? 八号? じゃ、夜お休みになる時はちゃんとかぎをかけて、誰もお入れにならないがいいですよ。十五分たったら、報告をもって帰って来ます。それからまた半時間たつと、ゾシーモフを連れて来ますからね。みていらっしゃい! さよなら、一走り行って来ます!」
「ああ、ドゥーネチカ、これはどうなることだろうね!」とプリヘーリヤは、不安げなおどおどした調子で、娘に話しかけた。
「安心していらっしゃいよ、お母さん」帽子とマントを脱ぎながら、ドゥーニャはそう答えた。
「あの人は全くめちゃ飲みの席からいきなりみえたらしいけど、あれは神様がわたしたちを助けによこしてくだすったんだわ。あの方は頼りになる人よ、わたし受け合うわ。それに、あの方が今まで兄さんのためにしてくだすった事は、みんな……」
「でも、ドゥーネチカ、あの人が来てくれるかどうか、わかったものじゃないよ! どうしてわたしは、ロージャをおいて来る気になれたろう! ほんとに、ほんとに、あんな風で会おうとは、思いもそめなかった! あの子のぶっきらぼうなことといったら、まるでわたしたちの来たのがうれしくないようなんだもの……」
 彼女の目には涙がにじんだ。
「いえ、それは違っててよ、お母さん。お母さんは泣いてばかりいらしって、よくごらんにならなかったんだわ。兄さんは大病で、ひどく頭が乱れてらっしゃるのよ――何もかもそのせいよ」
「ああ、その病気がねえ! いったいどうなることだろう、いったいどうなることだろう! それに、お前にだってなんという口のききようだったろう、え、ドゥーニャ!」と母は言いながら、おずおずと娘の目をのぞき込み、その気持を読もうとした。けれど、ドゥーニャがロージャをかばうのを見て、これならもう兄を許しているに違いないと、もう半分くらい安心していたのである。
「でも明日になれば、あの子もきっと考え直すだろう、わたし確かにそう思うよ」あくまで相手の心をさぐろうとしてこうことばを添えた。
「ところが、わたしそう確信しているわ――兄さんは明日になっても、やっぱり同じことをおっしゃるに相違なくってよ……あのことについてはね」とアヴドーチャは断ち切るようにいった。それはもうむろん、一本さし込んだくぎなのであった。なぜなら、今プリヘーリヤが口に出すのを非常に恐れていた一つの点が、この中に含まれていたからである。ドゥーニャは傍へ寄って、母を接吻した。こちらは無言のまま彼女を強く抱き締めた。それからラズーミヒンの帰りを不安な思いで待ちながら、そこへ腰をおろし、同じく期待のうちに一人もの思いを続けながら、腕を組み合わせて、部屋をあちこち歩いている娘のあとを、おずおずと目で追っていた。もの思いに沈みながら、こうして隅から隅へと歩き回るのが、アヴドーチャのいつものくせだった。で、母はいつもこういう時に、娘の物思いを妨げるのを、なんとなく恐れていた。
 もちろん、ラズーミヒンが酔ったまぎれに思いもかけず、アヴドーチャに激しい愛情を燃え立たしたのは滑稽こっけいだったに相違ない。が、実際アヴドーチャを見た多くの人は、ことにいま彼女が腕を組み合わせて部屋を歩き回っている、打ち沈んだもの思わしげな姿を見た多くの人は、ラズーミヒンのふだんと違った状態を酌量するまでもなく、深く彼をとがめはしなかったであろう。アヴドーチャは全く目立って美しい娘だった――背が高くて、ほれぼれするほど姿がよく、しかもその中に強さがあり、自らたのむところありげな気持がうかがわれた――それは一つ一つの動作に現われていたが、しかしけっして彼女の物腰から柔かさと優美さを奪うような事はなかった。顔だちは兄に似ていたが、彼女の方は美人といってもいいくらいだった。髪は兄よりいくらか明るみの勝った、黒みがちの亜麻色をしていた。目はほとんど真っ黒で、プライドにみちた輝きを放っていたが、またそれと同時に、どうかすると瞬間的に、並みはずれて善良な表情になるのであった。色は青白かったが、病的な蒼白そうはくさではない。彼女の顔は新鮮さと健康に輝いていた。口はやや小さ過ぎる方で、あざやかな赤い色をした下唇は、あごと一緒に心持前へ出ていた――それがこの美しい顔に指摘される唯一の欠点であったが、でもこの顔に一種の特徴、とりわけ傲慢ごうまんらしい陰を添えている。顔の表情はいつも快活というより、むしろまじめな方で、もの思わしげであった。その代わり、この顔には微笑がまことによく似合った。たのしげな、若々しい、苦のなさそうな笑いが、なんともいえないほど似合った! 熱烈で、あけっ放しで、単純で、律義で、力士のようにたくましい、しかもかつてこういうものを見たことのない酔っ払いのラズーミヒンが、一目で夢中になったのも無理ではない。しかも機会が、まるでわざと膳立ぜんだてしたように、初めて彼にドゥーニャを見せるために、兄に会った愛と喜びの美しい瞬間を与えたのである。彼はまた引続き、兄の理不尽で無情な忘恩の命令を聞いて、彼女の下唇が憤りに震えたのを見た――そこで、彼は自制力を失ったのである。
 もっとも、彼がさきほど階段の上で酔ったまぎれに、ラスコーリニコフに部屋を貸している変わり者のプラスコーヴィヤが、アヴドーチャばかりでなく母のプリヘーリヤに対してまで、彼の事で嫉妬しっとを起こすだろうと与太を飛ばしたのは、ほんとうのことなのである。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、もう四十三になっていたが、その顔はまだ以前の美貌びぼうの名残りをとどめていた。その上、気持の朗かさと、感覚の清新と、正直で純真な心熱を老年までも失わない婦人の常として、年よりもずっと若く見えた。ついでに括弧という形で言っておくが、こうしたものを完全に保って行くのが、老後までも美貌を失わない唯一の方法である。彼女の髪はすでに白くなり、薄くなりかけて、放射状をした小じわが、もうだいぶん前から目のふちに現われ、頬は心配と悲しみのためにこけて、干乾ひからびてはいたけれど、それでもこの顔はやはり美しかった。これはドゥーネチカの顔の肖像だった。ただし、それは二十年後のもので、その上、下唇の表情を除外しての話である。彼女の下唇は娘のように前へ出ていなかった。プリヘーリヤは甘ったるい感じがするほどではないまでも、感じやすい、臆病おくびょうな、おとなしいたちだったが、それもある程度までである。彼女はたいていのことは人に譲ることもでき、同意することもできた。時としては自分の信念に逆らうような事すら譲歩した。けれど、いつも正義と戒律と信念の定まった境界があり、いかなる事情も彼女にそれを踏み越えさせることはできなかった。
 ラズーミヒンが帰ってからちょうど二十分たったとき、低いけれどあわただしいノックの音が二つ響いた。ラズーミヒンが引っ返したのである。
「入りませんよ、そうしていられないから!」ドアが開かれたとき、彼はせかせかと言った。「寝てますよ、それこそ正体なしに。ぐっすり、静かに寝ています。どうか十時間ばかり寝かせたいものですね。傍にはナスターシャがついています。僕が行くまで離れないように、いいつけときました。今度ゾシーモフを引っ張って来ます。あの男が報告しましょう。それから、あなた方もゆっくりお休みになれますよ。へとへとにおなりになったようですね、お見うけしたところ、精も根もないほど……」
 こういったと思うと、彼は二人の傍を離れて廊下づたいに駆け出した。
「また、なんという気さくな、そして……頼もしい人だろう!」プリヘーリヤは無上にうれしくなってこう叫んだ。
「どうやらいい人らしいわね!」やや熱のこもった調子でアヴドーチャは答えた――またしても部屋の中をあちこちと歩きながら。
 かれこれ一時間ばかりすると、廊下に足音がひびいて、さらにノックの音が聞えた。二人の女は今度こそ十分に、ラズーミヒンの約束を信じて待っていた。案の定、彼はもうゾシーモフを連れて来たのである。ゾシーモフは即座に酒宴を見捨てて、ラスコーリニコフを見に行くことに同意した。しかし、二人の婦人の所へは、酔っ払ったラズーミヒンが信用できないので、だいぶ疑念をいだきながら、いやいややって来たのである。ところが、彼の自尊心はすぐ落ち着かされたのみならず、うれしくさえなって来たほどである。実際、自分が予言者オラクルのように待たれていたことを、事実に合点したからである。彼はかっきり十分しかすわっていなかったが、その間にプリヘーリヤをすっかり説き伏せて、安心させてしまった。彼は深い同情をこめて話をしたが、全体に控え目で、わざとらしいほどまじめだった。それは重大な対診席上における二十七歳のドクトルといった形である。そして、本職以外のことには、一言も余分の口をきかなかったし、二人の婦人と個人的な親しい関係を結びたそうな様子も、これから先も見せなかった。部屋へはいりぎわに、アヴドーチャの光りまばゆいばかりの美貌に気がつくと、そこにいる間じゅう彼女の方をいっさい見ないように努め、ただプリヘーリヤにばかり話しかけていた。すべてこうしたことが、彼の心に無上の満足を与えたのである。病人のことについては、今のところきわめて順調にいっていると言った。彼の観察によると、この患者の病気は、最近数か月間の物質的窮乏のほかに、なお二、三の精神的原因も伴なっている。『つまりなんというか、いろいろ多くの複雑な精神上、物質上の影響や、不安や、危惧きぐや、気苦労や、ある二、三の観念や……その他そういったものの産物』である。アヴドーチャがかくべつ熱心に耳をすまし始めたのをちらと見ると、ゾシーモフはいっそうこのテーマを敷衍ふえんした。『何か多少発狂の徴候があるとか聞きましたが』というプリヘーリヤの心配らしい、おずおずとした質問に、彼は落ち着いた隔てない微笑を浮かべながら、自分のことばはやや大げさ過ぎたと答えた。もっとも、病人には一種の固定観念イデー・フィクスというか、偏執狂の潜在を示すような、あるものが認められはするが――実は、自分ゾシーモフは目下のところ、医学上とくに興味の深いこの方面に格別の注意を払っているので――しかし、病人が今までずっと熱に浮かされたような状態だったことや、それから……それからもちろん、近親者の到着が彼を力づけ、気を紛らして、よき影響を与えるだろうということも、考えに入れなければならない――『ただ新しい特殊な精神的衝動を避けることさえできたらですね』と彼は意味ありげに言い足した。それから立ち上がって、重みと愛想を兼ねた会釈をして、二人の婦人の祝福と、燃えるような感謝と、哀願と、そのうえ求めないのに差し出されたアヴドーチャの手に送られながら、彼は自分の訪問と、それにもまして自分自身にこの上なく満足して、部屋を出て行った。
「話は明日のことにしましょう。今夜はお休みなさい、これからすぐ、ぜひとも!」ゾシーモフと一緒に出かけながら、ラズーミヒンは念を押した。「明日はできるだけ早く、報告を持ってあがります」
「だが、あのアヴドーチャ・ロマーノヴナは、なんてすばらしい娘さんだろう!」二人が外へ出た時、ゾシーモフは、ほとんど舌なめずりしないばかりに言った。
「すばらしい? きさますばらしいと言ったな!」とラズーミヒンはほえるように叫んだかと思うと、ふいにゾシーモフに飛びかかって、のどに手をかけた。「もしきさまがいつかちょっとでもずうずうしいまねをしやがったら……いいか? わかったか?」相手の襟をつかんでこづき回し、壁へ押しつけながらわめいた。「わかったか?」
「おい、放せよ、この飲んだくれめ!」とゾシーモフは身をもがいた。そして、相手が手を放してから、しばらくじっとその顔を見ていたが、急に腹をかかえて笑い出した。ラズーミヒンは両手をだらりと下げて、陰鬱いんうつな真剣に思い沈んだような顔をしながら、彼の前に立っていたのである。
「むろん、おれはまぬけだよ」雨雲のように陰鬱な顔をして、彼はこうくり返した。「しかし……君だって……やっぱり……」
「いや、違うよ、君、けっしてやっぱりじゃない。僕はそんな妄想は起こさないからね」
 彼らは黙って歩いた。やっとラスコーリニコフの下宿近くまで来たとき、ラズーミヒンが恐ろしく気づかわしそうな様子で、急に沈黙を破った。
「ときに」と彼はゾシーモフに言った。「君は愛すべき若者だが、しかし君には、いろんなけがらわしい性質以外に、まだ女ずきというやつがある。しかも、とりわけ醜悪な方だ。僕は知ってるよ。君は神経質で、ひ弱な意気地なしだ。気まぐれやだ。脂ぶとりにふとってきて、節制なんかみじんもできやしない――これはもう醜悪と呼ばれるべきだ。だって必ず醜悪におちいるに決まってるんだからね。君はすっかり体を甘やかしてしまってるんだ。忌憚きたんなくいうが、そんな事をしていて、どうして立派な献身的な医者になれるか、僕にはすこぶる疑問だよ。羽根蒲団はねぶとんなんかに寝て(医者がだぜ!)それで夜中に患者のために起きて行く……ところが、三年もたつと、君は患者のために起きるようなことはなくなるよ……ちょっ、いまいましい、問題はこんなことじゃない。問題はこうだ。君は今夜かみさんの部屋へ泊まるんだぜ(僕むりやりにあの女を説きつけたんだ!)そして僕は台所で寝る。それこそ君にとって、あの女と親しく接近する絶好の機会だ! なかなか君が考えているような女じゃない! そんなところは、これっぱかりもありゃしないよ……」
「僕は何も考えてやしないよ」
「あれは、君、はにかみやで、無口で、引っ込み思案で、その上驚くばかり童貞心を持ってるんだ。しかも、それらいっさいにかてて加えて――悩ましいため息をつきつき、ろうのように溶けちゃう方だからね! 君、この世にありとあらゆる悪魔にかけて頼むが、あの女から僕を救ってくれんか! 実に一風かわった面白い女だぜ! 礼はする、誓ってするよ!」
 ゾシーモフはいっそうおかしそうに、からからと笑い出した。
「ちょっ、すっかり酔いが回りやがって! いったいなんだって僕があの女を?」
「大丈夫、大して面倒はないよ。何かいい加減なことをでれでれ言ってりゃいいんだ。ただ傍にいてしゃべってさえいりゃいいんだ。それに君は医者だから、何かの療治を始めてやるんだな。大丈夫、後悔するようなことはないよ。あいつのところにゃピアノがある。君も知ってる通り、僕は少しばかりぱらぱらやれるんだ。僕は『熱き涙に泣きぬれて』という純ロシア風の小唄こうたを知ってる……あの女は純粋なのが好きでね――つまり、そもそも小唄から始まったのさ。ところが、君はピアノにかけたら、ルビンシュタインそこのけの名手じゃないか……大丈夫、後悔するようなことはないよ……」
「じゃ何かい、君はあの女に何か約束でもしたんだね? 正式の契約書でも書いて? 婚約くらいしたのかも知れないな?……」
「どうして、どうして、そんなことは全然ない! それに、あれはけっしてそんな女じゃないよ。あの女にはチェバーロフが……」
「そんなら、ただ捨てちまったらいいじゃないか!」
「ただ捨てるわけにはいかないよ!」
「いったいなぜ捨てられない?」
「いや、その、なんだかそうはできないんだ、それっきりさ! そこには、君、なんだかこう、引きずり込まれるような所があるんだ」
「じゃ、なぜ君はあの女を迷わせたんだい?」
「いや僕はちっとも迷わせなんかしないよ。事によると、僕こそもちまえの馬鹿な性分で、迷わされたかもしれないくらいだ。だが、あの女から見ると、君だって僕だって絶対に同じ事だよ。ただ誰かがそばにいて、ため息をついてさえいりゃいいのさ。そこには、君……さあ、なんといったらいいかなあ、そこには――うん、そうだ、君は数学が得意だろう。そして、今でもまだやってるだろう、ちゃんと知ってるよ……そこで、君があいつに積分計算を教えてやるんだ。ほんとうだ、けっして冗談じゃない。まじめな話なんだよ。あの女にはなんだって同じだもの。あの女は君を見て、ため息をついてりゃいいのさ。そうして一年くらい続けるんだ。僕なんかもいつだったか、だらだら長く二日もぶっ通しで、プロシアの上院の話をしたもんだ。(だって、あの女と何を話したらいいんだい?)――それでも、あの女はただため息をつきながら、ぼうっとなってるんだ! ただ恋の話だけはしかけないがいいよ。震え上がるほどはにかみやだからね。――傍が離れられんというような顔だけしていたまえ――それで沢山なんだ。とにかく、めっぽう居心地がいいよ。まるで家にいるも同然だ――読んだり、すわったり、寝たり、書いたりしていたまえ……接吻せっぷんだってしてもいい、慎重にやりさえすれば……」
「いったいなんのためにあの女が僕にいるんだ?」
「ええっ、どうしてもうまく説明ができない! ねえ、こうなんだよ。君たち二人はおたがいにぴったりはまってるよ! 僕は前にも君のことを考えたくらいだ……どうせ君は結局そういう事で終わる人だよ! してみると、おそかろうが早かろうが、同じことじゃないか? あそこには、君、なんていうか、羽根蒲団的要素が充満してるんだよ――いや! 単に羽根蒲団的要素ばかりじゃない! あすこには人を引きずり込むような所がある。あすこは世界の果てだ、いかりだ、静かな避難所だ、地球のへそだ、三匹のくじらにささえられているこの世の基礎だ、薄餅プリンのエッセンスだ、脂っこい魚製菓子パンクレビヤーカだ、晩のサモワールや静かなため息や、暖かい女物の不断着ふだんぎや、うんといた暖炉や、そういうもののエッセンスだ――まあ、いってみれば、君は死んでいると同時に、また生きてもいる、一挙両得というもんだ! いや、君、すっかり与太を飛ばしてしまったなあ。もう寝る時刻だ! だがねえ、僕は夜中に時々起きて、病人を見に行くから。しかし、なんでもない、くだらん事だ。だから、君も心配しなくていいよ。まあ、もしなんなら、一度ぐらい行ってみてくれ。しかしね、もし少しでもうなされてるとか、熱があるとか、そんな風のことに気がついたら、さっそく僕を起こしてくれ。もっとも、そんなことあるはずがないけれど……」


 心づかいでいっぱいになった真剣な気分で、ラズーミヒンは翌朝七時過ぎに目をさました。新しい予期しなかったやっかいな問題がいろいろと、この朝おもいがけなく彼の身辺に起こった。いつかこんなあんばいで眠りからさめることがあろうとは、以前考えてもみなかったのである。彼は昨日のことを、一つ一つ細かい点まで思い起こして、自分の身に何か容易ならぬことが持ち上がったのを悟った。今までかつて知らなかった、これまでのものとは似ても似つかぬ、ある一つの印象を感受したのを自覚したのである。と同時に、彼は自分の脳裏に燃え始めた空想の、絶対に実現し難いことをも意識した――それはあまりにも実現し難いことなので、恥かしくさえなってきた。で、彼は急いであの『呪うべき昨日の日』以来残っている目前の問題と疑惑に移っていった。
 彼にとって何よりも恐ろしい思い出は、自分が昨日たまらなく『卑屈な忌まわしい』行為をした、ということである。それは単に酔っていただけではなく、処女の前でその頼りない境遇を利用して、愚かにも気早な嫉妬しっとから、彼ら同士の関係や内情はおろか、当人の人物さえよくも知らずに、婚約の夫を罵倒ばとうしたことである。ああも早計に軽はずみに、彼の人物批評をするいかなる権利を自分は持っていたのか? 誰が自分を審判者に頼んだか? またアヴドーチャのような純潔な処女が、金のためにつまらぬ男に身をまかせるはずがない! してみれば、あの男にも美点があるわけだ。が、あの下宿は? いや、あれがあんな家だということを、どうしてあの男が知っていなければならないのだ? しかも、彼氏は本当の住まいを準備しているというではないか……ちょっ、実になんという卑劣なことだ! 酔っていたからって、それがなんの弁解になろう? それはかえって一そう人格を下げる愚劣な遁辞とんじだ! 酒中に真ありというが、その真実があの通りすっかりさらけ出てしまったのだ。『つまり、自分の嫉妬深いがさつな心のきたなさを、すっかりさらけ出してしまったのだ!』いったいこんな空想がたといいくらかでも、彼ラズーミヒンに許さるべきことだろうか? いったい自分は――酔っぱらいの暴れ者は、あの昨日のだぼら吹きは、ああした処女と比べていったい何するものぞ? 『こんな無恥滑稽こっけいな対照がありうるだろうか!』ラズーミヒンはこう考えると、火が出そうなほどまっかになった。と、ふいにちょうどこの瞬間、まるでわざと当てつけるように、きのう自分が階段の上に立って、おかみがアヴドーチャのことで嫉妬を起こすだろうと、二人に話した時のことが、まざまざと思い出された……これはもう堪え得られぬことだった。彼はこぶしをふり上げて、力まかせに台所の暖炉をなぐりつけ、自分の手にも傷をつけるし、煉瓦れんがまで一つ打ち落とした。
『もちろん』しばらくしてから、一種自卑の感情にかられながら、彼はつぶやいた。『もちろん、今となっては、このさんざんな不始末は清めようも、償いようもない……とすれば、この事はもう考えるまでもない。だから、なんにも言わずに二人の前へ出て……自分の義務だけを尽くすんだ……やっぱりなんにも言わずに……謝罪もせず、何一つ言わないことだ……もう、もちろん、今は希望もすべて滅びたのだ!』
 にもかかわらず、彼は服をつけるときいつもより念入りに自分の衣装をあらためた。着がえなどは一枚もなかったし、またあったにもせよ、彼はそれは着なかったろう――『意地にだって着やしない』しかし、いずれにしても、わざと礼儀を無視したようなかっこうや、薄ぎたない引きったれですましているわけにはゆかない。彼とても、他人の感情を侮辱する権利は持っていないはずだ。ましてその他人が、自分の方から彼を必要とし、自分の方から彼を招いているのであってみれば、なおさらのことである。彼はていねいに服を刷毛はけで清めた。ワイシャツはふだんから、いつも小ざっぱりとしたものを着ていた。この点では、彼は特にきれい好きだったので。
 この朝、彼は念入りに手水ちょうずを使った――ナスターシャのところに石けんがあったので――髪から首、とりわけ両手をていねいに洗った。それから、ごわごわしたひげをろうか剃るまいかの問題になった時(プラスコーヴィヤのところには、亡夫ザルニーツィンのかたみに保存されている、上等の剃刀かみそりがあった)、その問題をえらいけんまくで否定してしまった。『なに、このままにしておけ! それこそ全く、おれが顔を剃ったのは……なにのためだと思われちゃたまらん……いや、きっとそう思うに違いない! 天地がひっくり返ったって剃るものか!』
『それに、……それにかんじんな問題は、おれががさつで、じじむさくて、物腰が居酒屋じみてることだ。よしんば……よしんば仮りに、おれが自分をほんの少しばかりでも、人間らしい人間だと承知しているにもせよ……人間らしい人間だってことが、いったいなんの自慢になるんだ? 人間は誰しも人間らしい人間でなけりゃならない。それどころか、もそっと気のきいたのでなくちゃならん。それに……なんといっても(おれはそれを覚えてる)、おれにはちょいちょいした変な事がある……何も破廉恥というほどじゃないが、しかしそれでも!……ところで、腹で考えた事に至っては大変だ! ふむ……これを全部アヴドーチャ・ロマーノヴナに並べて見せたらどうだろう! ええっ、くそ! かまうものか! なに、わざときたならしい、脂じみた、居酒屋式なかっこうをしてやれ。平気だい! これ以上の風だってしてやるぞ!』
 彼がこうした独白を並べているところへ、プラスコーヴィヤの客間に泊まったゾシーモフがはいって来た。彼は家へ帰りがけに、ちょっと病人をのぞいてみようと、急いでいるところだった。ラズーミヒンは、病人が野鼠のように寝ていると告げた。ゾシーモフは、ひとりでに目のさめるまで起こさないように指図をした。そして、十時過ぎにまた来ると約束した。
「ただ家にさえいてくれればいいんだが」と彼は言い足した。「ちょっ、いまいましい! 自分の患者さえままにならないんだからな、これでどう治癒のしようがあるってんだ! ときに、君知らないかい――こっちから二人のところへ出向くのか、それとも二人がここへ来るのか?」
二人の方がだろう、と思うな」と質問の意味を察して、ラズーミヒンは答えた。「そして、もちろん、内輪の話が始まるだろう。僕ははずすよ。しかし、君は医者だから、僕よりよけい権利があるわけだ」
「僕だって坊主じゃないからね。来たら帰るよ。あの人たちのほかにも、用事はたくさんあるんだ」
「僕一つ気になることがあるんだよ」とまゆをしかめながらラズーミヒンはさえぎった。「きのう僕は酔ったまぎれに、みちみち歩きながら、やつにいろんな馬鹿なことをしゃべってしまったんだ……いろんなことを……その中でね、やつに……発狂の傾向がありはしないかと、君が心配しているということまで……」
「君はきのう婦人連にまで、その事をしゃべってしまったね」
「いや、馬鹿げていた。自分でもつくづくそう思うよ! なぐられても文句はない! だが、どうなんだね、君は実際それについて、確たる考えがあったのかね?」
「くだらない話だと言ってるじゃないか。確たる考えも何もあるもんか! 君の方こそ、僕を初めてやつの所へ引っ張って行ったとき、偏執狂マニヤックのようにいって聞かせたじゃないか……それに、つい昨日も僕らは焚火たきびに油をかけたようなもんだ。というより、むしろ君があんな話をしたからさ……ペンキ屋のことなんか。当人がそのために気が変になったかと、思われるくらいのところへ、あんな話はちと乱暴だったぜ! もしあの時僕が知ってたら――警察署であった騒ぎや、そこでつまらない馬鹿野郎があんな嫌疑をかけて……侮辱したことを、正確に知っていたら! 全く……昨日あんな話をさせやしなかったよ。実際この偏執狂ってやつは、一滴の水を大海ほどに考えたり、ありもしない妄想をまざまざと事実に見たりするものだからな……僕の覚えてる限りでは、昨日のザミョートフの話を聞いてから、はじめて事実の真相が半分くらい明瞭めいりょうになった。いや、何もぐずぐず言うことはないさ! 僕は現にある一つの場合を知っている。四十男のヒポコンデリイ患者がね、八つになる男の子が食事のたんびに浴びせる嘲弄ちょうろうに堪え兼ねて、その子供をり殺したという話さ。ところが、今度の場合は、みすぼらしい姿に落ちぶれて、病気が起こりかけていた時に、高慢な警察官があんな嫌疑をかけたんだからね! しかも、相手は恐ろしく気の立ってるヒポコンデリイ患者でさ! そのうえ気ちがいじみるほど自尊心の激しい男だからたまらない! もしかすると病気の出発点は、全部そこにあるのかもしれないよ! まあ、どうでもいいや! ときにあのザミョートフって男は、実に愛すべき小僧っ子だね。ただその……昨日あれをすっかりぺらぺらしゃべってしまったのには困るよ。どうも恐ろしいおしゃべりだ!」
「いったい誰に話したんだい? 君と僕くらいなものじゃないか?」
「それからポルフィーリイにも」
「ポルフィーリイにしゃべったっていいじゃないか!」
「ときに、君はあの人たち――おふくろと妹を左右する力を、いくらか持ってるだろうね? 今日は先生との応対に気をつけさしてくれたまえ……」
「一騒ぎやるだろうよ!」とラズーミヒンは気乗りのしない調子で答えた。
「だが、なんだって先生あのルージンにああ食ってかかるんだろう? 金はあるらしいし、あの娘もまんざら嫌いではなさそうだし……だって、先生たちまるっきり無一物なんだろう? え?」
「君はなんだってそう根ほり葉ほりきくんだい?」とラズーミヒンはいら立たしげに叫んだ。「無一物か無一物でないか、僕の知ったことじゃないよ! 勝手に自分できくがいい、そしたらわかるだろうよ……」
「ちょっ、君はどうかすると手のつけられない馬鹿になるぜ! 昨日の酔いがまだ残ってるんだろう。じゃ、失敬。プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナに、よく一夜の宿の礼を述べといてくれたまえ。戸にかぎをかけてしまって、僕が戸の隙間から『お早うボンジュール』と挨拶あいさつしても、返事もしないんだ。自分じゃ七時にちゃんと起きてたくせに。女中がサモワールを持って、台所から廊下を通って行くのを、僕ちゃんと見たんだから……とにかく、僕は拝顔の栄を得なかったよ……」
 かっきり九時に、ラズーミヒンはバカレーエフの下宿を訪ねた。二人の婦人はもうよほど前から、ヒステリイじみるほどじりじりしながら、彼の訪問を待っていた。二人とも七時か、それよりもっと前から起きていたのである。彼は夜を欺く暗い顔をしてはいって行くと、無器用そうに会釈をして、そのためにすぐ腹を立ててしまった――もちろん、自分自身にである。しかし、それは相手なしの一人相撲だった。プリヘーリヤはいきなり彼に飛びかかって、その両手を握りしめ、ほとんどそれに接吻せっぷんしないばかりだった。彼はおずおずとアヴドーチャの方を見た。ところが、その権高い顔にも、この瞬間、感謝と友誼ゆうぎの表情と、彼の思いも設けなかった偽りならぬ尊敬が(あざけるような視線と包み切れぬ軽蔑けいべつの代りに)現われていたので彼は全く頭ごなしに罵倒ばとうされでもした方が気安いほど、かえってきまりの悪い思いをした。けれど幸い、話題がちゃんと用意してあったので、彼は急いでそれにすがりついた。
『病人はまだ目をさまさない』けれど、『経過はきわめていい』と聞いて、プリヘーリヤはその方がかえって好都合だといった。『なぜって、前もってぜひともご相談しておかねばならぬことがありますから』それから、お茶はどうかという質問に続いて、一緒に飲もうという招待があった。二人ともラズーミヒンを待っていたので、まだ飲まずにいたのである。アヴドーチャはベルを鳴らした。するとそれに応じて、きたならしいごろつきみたいな男が現われた。で、それに茶を命じると、そのうちにやっと茶道具が並べられたが、それは二人の婦人が赤面するほどきたならしい、不体裁なものだった。ラズーミヒンはこっぴどく下宿を罵倒しかけたが、ふとルージンのことを思い出したので、口をつぐんでまごまごしてしまった。で、プリヘーリヤがやみ間なく質問の雨を浴びせ出したので、すっかりうれしくなってしまった。
 彼はひっきりなく腰を折られたり、問い返されたりしながら、それらの質問に答えて、ものの四十五分間もしゃべり通した。そして、最近一年間のラスコーリニコフの生活について、知っている限りのおもだった必要な事実を逐一話した上、今度の病気の詳細な報告で話を結んだ。それでも、彼はまだいろいろ省略を要する点を省略した。ことに警察での一条や、それから生じたいっさいの結果は黙っていた。二人はその話をむさぼるように聞いた。そして、彼が話を終わって、聞き手を満足さしたことと思った時も、二人はまだ始まったばかりのように思っているのであった。
「ねえ、ねえ、一つ聞かせてくださいまし、あなたはなんとお考えになります……ああ、ごめんなさい、わたしはまだあなたのお名前を伺いませんでしたね」とプリヘーリヤはせき込んで言った。
「ドミートリイ・プロコーフィッチです」
「それでですね、ドミートリイ・プロコーフィッチ、わたしはたいへん、たいへん……知りたくてたまらないんですの。全体に……あの子は今どんな考え方でいるんでしょう? つまり、その、おわかりになりますかしら、なんと申し上げたらいいんでしょう。つまり平ったくいいますと、あの子は何が好きで、何が嫌いなんでしょう? いつもあんなにいらいらしているのでしょうか? あの子はいったいどんな望みを持ってるんでしょう、つまり、言ってみれば、何を空想しているんでしょう? 何が今あれの気持を動かすような、特別な力を持っているのでしょう? 一口に言えば、わたしが知りたいのは……」
「まあ、お母さんたら、そんな一時におっしゃったら、返事なんかできやしないじゃありませんか」とドゥーニャが注意した。
「ああ、情ない、だってわたしは全く、あの子があんな風になっていようとは、夢にも思いがけなかったですもの、ドミートリイ・プロコーフィッチ」
「そりゃ実際ごもっとも千万ですよ」とドミートリイ・プロコーフィッチは答えた。「僕には母がありませんでしてね、その代わり、伯父おじが毎年出て来ますが、来るたびに僕を見ちがえるんですよ。顔さえ見それるくらいです。しかも、相当に賢い人間なんですがね。まして、あなた方は三年も別れていらしったんですから、ずいぶん変わってしまうわけです。いや、あなた方にこんな事を言ったって仕様がありません! 僕はロジオンと一年半ぐらい知り合っていますが、気むずかしくて、陰気で、ごうまんで、気位の高い男です。ことに近ごろでは(あるいは、よほど前からかもしれませんが)、疑い深くなって、おまけにヒポコンデリイですよ。が同時に、おうようで善良です。ただ感情を外へ出すことがきらいで、真情を表面に見せるよりも、むしろ残忍な事をするといった風です。でも、どうかすると、ヒポコンデリイらしいところがまるでなくなって、ただもう冷淡で、人情味がないかと思われるほど、無感覚になることもあります。実際あの男の内部には、まるで違った二つの性格がちゃんぽんに入り交ってるようですよ。どうかすると、ひどく無口になることもあります! いつも忙しくて暇がない、いつもみんなが邪魔をする、というような様子をしながら、しかも自分はごろごろねていて、なんにもしないんですからね。皮肉屋の方じゃありませんが、何も機知が足りないからじゃなく、そんなくだらないことをしている暇がない、といった風なんです。人の話をしまいまで聞くということがない。現在みんなが面白がっていることに、けっして興味を持ったことがありません。自分を恐しく高く評価していますが、そうする権利も多少ない事はなさそうですよ。さあ、まだ何かあるかな……とにかく僕の見るところでは、あなたのご出京はあの男にとって、この上もない、いい影響を及ぼすに違いありません」
「ああ、ほんとにそうありたいものです!」ラズーミヒンの試みた最愛のロージャの月旦げったんに、堪え難い悩ましさを抱き続けたプリヘーリヤは、思わずこう叫んだ。
 ラズーミヒンはとうとう思い切って、アヴドーチャにやや大胆な視線を向けた。彼は話の間にも何度となく、彼女の顔をちらちらと見やったが、それはほんのちょっとの間で、すぐ目をそらしてしまうのであった。アヴドーチャはテーブルに向かって、じっと注意深く聞いているかと思うと、ふいに立ち上がっていつものくせで手を組み合せ、唇をきっと結んで、部屋の中を隅から隅へと歩き回る。そして、時おり歩みをやめずに質問を発して、考え込んでしまうのであった。彼女も人の話をしまいまで聞かぬくせがあった。彼女は軽い生地で作った黒っぽい服を着て、首には透き通るような白いショールをかけていた。ラズーミヒンはいろんな点から、二人の女の身のまわりがいかにも貧しいのを見てとった。もしアヴドーチャが女王にまごう装いをしていたら、かえって彼は彼女を恐れなかったろう。ところがいま彼女はこんなに見すぼらしいなりをしていて、しかも彼がその貧しい様子に気づいたためでもあろうか、彼の心には恐怖の念が食い込んで、一言一句をも慎しむようになった。これはもちろん彼のような、それでなくても自分に信用のおけない人間にとっては、かなり窮屈なことだった。
「あなたは兄の性質について、いろいろ面白いことをお話しくださいました……しかも公平無私にね。それはけっこうな事ですわ。わたしね、あなたは兄を崇拝しきっていらっしゃるのかと、そう思ってましたの」アヴドーチャは微笑を含んで言った。「でも、なんですか、兄には女の人がついているのに相違ないということも、本当じゃないかと思われますのよ」彼女はもの思わしげに言い足した。
「そんなことは僕は言いませんでしたが、しかし、あるいはおっしゃる通りかもしれません、ただ……」
「なんですの?」
「だって、ロージャは誰も愛しちゃいないんですよ。また今後もけっして愛するなんてことはないでしょう」とラズーミヒンはきっぱり言い切った。
「つまり、兄には愛する素質がないんですの?」
「ねえ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、あなたも実に兄さんそっくりですね。何から何まで!」彼はふいに、自分自身でも思いがけなく、ついずばりと言ってしまった。けれどもすぐに、たったいま彼女に話した兄の批評を思い出すと彼はえびのようにまっかになり、恐ろしく照れてしまった。
 アヴドーチャはそれを見ると、からからと笑い出さずにはいられなかった。
「ロージャのことについては、二人とも考え違いしておいでかもしれないよ」とプリヘーリヤはややむっとしたらしく口をはさんだ。「わたしは今のことをいうのじゃないよ。ドゥーネチカ。ピョートル・ペトローヴィッチがこの手紙に書いておよこしになったこと……わたし達が二人で推量したようなことは、もしかすると本当じゃないかもしれないけれど、ねえ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、あなたはあの子がどんな突飛な、さあ、なんといったらいいでしょう、つまり気まぐれな人間だか、とても想像がおつきになりますまい。まだやっと十五くらいの時でさえ、わたしあの子の気性には、ちっとも安心ができませんでしたよ。あの子は今でも、ほかの人では考えることもできないようなことをふいにしでかすかもしれないと、わたし思い込んでおります……そう、古いことは言わなくても、一年半ばかり前、ほら、あなたご承知かどうかしりませんけれど、ザルニーツィナ――下宿のおかみさんの娘と結婚するなんか言い出しましてね、どんなにわたしを困らせて、心配させたことでしょう。あれにはほとほとてこずってしまいましたよ」
「あなた、あの事で、何かくわしく知っていらっしゃいます?」とアヴドーチャは尋ねた。
「あなたなどはそうお思いになるでしょう」プリヘーリヤは熱くなってことばを続けた。「あの時わたしの涙が、わたしの嘆願が、わたしの病気が、わたしのもだえ死にが、家の貧乏が、あの子を思い止まらせたろうと、そうお思いでしょう? ところがどうして、あの子はどんな障害でも、平気で踏み越えて行ったに相違ありません。それであなた、それであの子がわたしたちを愛していないと、お思いになりまして?」
「ロージャは一度もその話を僕にしませんでしたが」とラズーミヒンは用心深く答えた。「けれど、僕は当のザルニーツィナから、少々ばかり聞いております。もっとも、この女だってあまり口数の多い方じゃないんですがね。しかし聞いたことは、なんだか少し変な話でしたよ」
「何を、何をお聞きになりました?」と二人の女は一時に尋ねた。
「もっとも、かくべつ変わったことは何もありませんがね。ただ僕の聞いたところでは、この結婚はもうすっかり話がととのっていたのに、花嫁が死んだばかりに成立しなかったのですが、母親のザルニーツィナさえあまり気に染まなかったということです。……そのほか、人の話では、花嫁もいい器量ではなかった、つまり、むしろ不器量なくらいで……それに病身で……変な娘だったそうですよ……もっとも、どこかにいいとこがあったらしいです。いや、きっと何かいいとこがあったに相違ないです。でなけりゃ、わけがわかりませんものね……持参金もまるでなかった。それにロージャは、持参金など当てにするような人間じゃありませんし……概してこうした事は、簡単にとやかく言えないものですよ」
「きっとその方は、立派な娘さんだったに相違ありませんわ」とアヴドーチャはことば短かに言った。
「でもねえ、まことに済まないことだけど、あの時わたしは娘さんが死んだのを、ほんとに心から喜びましたよ。もっとも、あの子が娘を台なしにするか、娘さんがあの子を台なしにするか、どっちがどっちかわからないけれどね」とプリヘーリヤはことばを結んだ。それから、用心深く控え目な調子で、絶えずドゥーニャの顔をぬすみ見ながら(見うけたところ、こちらはそれがいやでたまらなかったらしい)、ロージャとルージンとの間に起こった昨日の一幕について、またいろいろと質問を始めた。
 この一件は察するところ、彼女にとって身震いの出るほど、何よりも恐ろしい心配の種らしかった。ラズーミヒンは改めて一部始終を物語ったが、今度は自分の結論をつけ加えた。つまり前からたくらんで故意にルージンを侮辱したと言って、ラスコーリニコフをまっこうから非難したのである。そして、今度はあまり病気を弁解の口実にしなかった。
「これは病気の前から考えていたんですよ」彼は言い足した。
「わたしもそう思いますよ」とプリヘーリヤは、打ちのめされたような風であいづち打った。
 けれど彼女を驚かしたのは、今度ラズーミヒンがルージンのことを言うのに、慎重な態度をとったばかりか、敬意さえ示しているらしい事だった。それはアヴドーチャをも驚かしたほどである。
「ではあなた、ピョートル・ペトローヴィッチには、そういうご意見を持っていらっしゃるのですか?」とプリヘーリヤはきかずにいられなかった。
「ご令嬢の将来の夫たるべき人ですもの、ほかの意見などあろうはずがありません」とラズーミヒンはきっぱりと、熱のこもった調子で答えた。「しかし、単に世間並みのお義理で言うのじゃありません。その……その……つまり、アヴドーチャ・ロマーノヴナが、ご自分の意志でお選びになったからです。もし昨日、僕があの人の棚おろしでもしたようでしたら、それは僕が見苦しく酔っ払って……しかもその上、まるで夢中だったからです。そうです、夢中だったんです、のぼせあがっていたんです、すっかり気がちがってたんです、今日になってみると、いまさら慚愧ざんきにたえません!」
 彼は赤くなって口をつぐんだ。アヴドーチャもぱっと顔を赤らめたが、沈黙は破らなかった。彼女はルージンの話が出た瞬間から、一言も口をきかなかったのである。
 その間にプリヘーリヤは娘の助言を失って、見るからに思い惑っている様子だった。とうとう彼女は、ひっきりなしに娘の顔を見ながら、口ごもりがちに、今ある一つのことが気にかかってたまらないと言い出した。
「こうなんですよ、ドミートリイ・プロコーフィッチ」と彼女は口を切った。「この方には何もかも打明けてしまうからね、ドゥーネチカ?」
「そりゃ、当たり前ですとも、お母さん」とアヴドーチャは力のこもった声で答えた。
「こういうわけなんですよ」苦労を打明けてもいいという許可を得て、重荷をおろしたような風で、彼女は急いで言い出した。「実は今朝早く、ピョートル・ペトローヴィッチから手紙が参りました。きのう着いたことを知らせてやった、その返事なんでございます。実のところ、あの人は停車場まで出迎えに来てくれる約束だったのに、それをしないで、何かボーイ風の男に下宿の宛名を持たせて、道案内によこしたんですの。そして、自分はきょう朝のうちに伺うからと、そういうことづてでございました。ところが今日になっても、本人が来る代わりに、この手紙が参りました……お話するよりも、いっそこれを読んでいただきましょう。その中に一つたいへん心配になることがありまして……それが何かって事は、すぐおわかりになります。そして……腹蔵なくご意見を聞かせてくださいませんか、ドミートリイ・プロコーフィッチ! あなたは誰よりも一番、ロージャの性質はよくご承知なんですから、一等いい分別を貸していただけようと思いますの。お断わりしておきますが、ドゥーネチカはもう初めっから、すっかり決心しているんですけれど、わたしは……わたしはまだどうしたものか、途方に暮れておりますので……それで……それであなたのおでを、待ち兼ねておりましたようなわけで」
 ラズーミヒンは昨日の日付になっている手紙を開いて、次のように読み下した。

『プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、拝啓のぶれば、昨日はんどころなき差支えのためプラットホームまで御出迎え致すべきはずの処、その意を得ず、そのため極めて用なれたる男一名、差し向けたる次第に御座候ござそうろうしかる処また明朝も同様、大審院の方に止むを得ざる用件出来しゅったいいたしそうろう上、あなた様はじめ、アヴドーチャ・ロマーノヴナの親子兄弟、水入らずの御対面をお妨げ致すも心ぐるしく存じ候につき、拝顔の栄を断念いたす次第にこれ有り候。ついては、貴女に対する訪問及び御挨拶あいさつの儀は、明日に延期致すよりほかこれ無く、時間は午後正八時に御座候。但しこの際、ぜひぜひげて御承知願いたき一事これ有り、余の儀にはこれ無くそうらえども、明日拝顔の際にはロジオン・ロマーヌイチの御同席なきよう、御取計はからい下されたく候。実は昨日、同君を病床に御見舞い申上げ候ところ、小生に対し言語道断の無礼を働かれたるが故に御座候。なおその外、例の件に就きても、ぜひ親しく巨細こさいに御相談致し、併せて貴女の御説明をも承りたく存じ候。念のためあらかじめ御注意申上げ置き候えども、万一小生の希望に反し、明日御宿もとにてロジオン・ロマーヌイチに遭遇致すようの事これ有り候わば、小生は止むを得ず即刻退去つかまつるべく、その節は自業自得と御承知下さるべく候。かかる事を申上ぐるは、昨日御見舞致し候節、全く御病気と御見受け致し候ロジオン・ロマーヌイチが、二時間後急に御全快相成りたる次第につき、したがって御外出の節、御宿もとへも御立寄りの事もこれ有るべくと、懸念いたすために御座候。右は小生自身したしく目睹もくとして確かめたる事実にて、昨夜馬蹄ばていにかかりて非業の死を遂げたる一酔漢の寓居ぐうきょおいて、御子息はいかがわしき生業を営みおるその娘に、葬儀費用と称して二十五ルーブリを御手渡し相成候。小生はこの金子御調達に就いて、貴女の一方ならぬ御苦心を存じ居り候こととて驚き入りたる次第に御座候。末筆ながら、アヴドーチャ・ロマーノヴナへ、小生の並々ならぬ尊敬の情を御伝え下されたく、また貴女に対する恭順なる信服の念を御み取りのほど願上げ候。
匆々そうそう敬白
P・ルージン』

「こうなってみると、いったいどうしたものでしょうね、ドミートリイ・プロコーフィッチ?」とプリヘーリヤは泣かないばかりに言った。「どうしてわたしの口から、ロージャに来るななんてことが言い出せましょう? あれは昨日もあんなにやかましく、ピョートル・ペトローヴィッチを断わってしまえと言ってたのに、こちらはまた部屋へ通すな、なんて言ってよこすんですもの! いえ、あれはこんな事を聞いたら、それこそ意地でも来るに違いありません……そしたらまあ、どうなるでしょう?」
「なに、アヴドーチャ・ロマーノヴナのご決心どおりになすったらいいでしょう」とラズーミヒンは落ち着き払って、即座に答えた。
「まあ、とんでもない! 娘が言うのは……娘はまた途方もないことを言い出すんですの、しかもわけも話さないで! この子が申しますには、ロージャにも今日の八時にわざと来てもらって、二人を同席させた方がいいんですって。いえ、その方がいいというわけじゃありませんけれど、なぜか是非ともそうしなくちゃいけないんですって……ですけれど、わたしロージャにはこの手紙を見せたくないんですの。そして、あなたにもお力を拝借した上、なんとかうまくごまかして、あれを来させないようにしたいと思うんですよ……だってね、あの子はあんなかんしゃくもちなんでしょう……それに、わたし何が何やら、ちっともわけがわかりませんの……いったいどんな酔っ払いが死んだのやら、娘が何ものやら、どういうわけであの子がその娘になけなしの金を皆やってしまったやら……だってあの金は……」
「並みたいていの苦労でできたものじゃないんですからね、お母さん」とアヴドーチャが言い添えた。
「あの男はきのう正気じゃなかったんですよ」考え込んだような調子で、ラズーミヒンは言い出した。「あなた方はご存じないですが、きのう料理屋でロージャのしたことなんていったら! もっとも、頭のいいには驚きますがね……全くのところ、どこかの死人のことや娘のことは、きのう一緒に家へ帰る途中でも、何か言ってましたっけ。ですが、僕さっぱりわからなかったんです……もっとも、昨日は僕自身も……」
「それよかお母さん、こちらから兄さんの方へ出かけて行った方がいいじゃありませんか。そうすれば、どうしたらいいかってことも、すぐわかってしまいます。わたし受け合うわ。それにもう時間ですもの。あらまあ! もう十時過ぎよ!」首にかけていた自分の時計をちらと見て、彼女はこう叫んだ。それは細いヴェニス式の鎖をつけた、七宝しっぽう入りの立派な金時計で、ほかの衣裳いしょう持物と比べると、恐ろしく不調和なものだった。
花聟はなむこの贈物だな』とラズーミヒンは考えた。
「あっ、ほんとに時間だ……時間だよ、ドゥーネチカ、時間だよ!」とプリヘーリヤは急にあわてて騒ぎ出した。「おまけに、こういつまでもぐずぐずしてると、昨日のことで怒ってる、と思うかもしれない。ああ、たいへんだ!」
 こう言いながら、彼女は気忙きぜわしそうに婦人外套マンチリヤをまとい、帽子をかぶった。ドゥーネチカも身じたくをした。彼女のはめている手袋は、くたびれているというくらいのことでなく、方々に穴さえあいていた。ラズーミヒンはそれに気がついたけれど、かえってこのあまり明白な服装の貧しさが、粗末なものを上手に着こなす人によく見られる、ある特殊な奥床しさをこの親子に添えていた。ラズーミヒンは敬虔けいけんの念をもって、ドゥーネチカをながめた。そして、これから彼女と連れ立って行くのだと思うと、誇らしい思いさえするのであった。
『女王』と彼は腹の中で考えた。『あの牢屋ろうやの中で靴下をつくろったという女王は、この上なくきらびやかな儀式や出御しゅつぎょの時よりも、かえってその瞬間の方が、真の女王らしく見えたに相違ない』
「ああ、なさけない!」とプリヘーリヤは声を上げた。「ほんとにわたしは現在のわが子に、かわいいかわいいロージャに会うのを、こんなにまでこわがるだろうなんて、そんなこと夢にも考えたことがないのに、わたしなんだかこわいんですよ、ドミートリイ・プロコーフィッチ!」彼女はおずおずと相手を見上げながら、こう言い足した。
「こわがることないわ、お母さん」とドゥーニャは母に接吻せっぷんしながら言った。「それよか、兄さんを信じてらっしゃい。わたし信じるわ」
「ああ、どうしよう! わたしも信じているんだよ。だけど、昨夜は一晩じゅう眠れなかったんだもの!」と哀れな婦人は叫んだ。
 彼らは外へ出た。
「ねえ、ドゥーネチカ、わたし明け方になって、少しとろとろすると、思いがけなく亡くなったマルファ・ペトローヴナが夢枕に立ったんだよ……何もかもまっ白な着物を着てね……わたしの傍へ来て手をとりながら、かぶりを振って見せるんだよ。それはこわい顔をしてね、まるでわたしを責めでもするように……これはいいしらせだろうかねえ! ああ、そうそう、ドミートリイ・プロコーフィッチ、あなたはまだご存じないでしょう。マルファ・ペトローヴナが亡くなったんですよ?」
「ええ、知りません、いったいマルファ・ペトローヴナって誰です?」
「急なことでねえ! まあ、どうでしょう……」
「あとになさいよ、お母さん」とドゥーニャが口を入れた。「だってまだこのかたは、マルファ・ペトローヴナがどういう人か、ご存じないじゃありませんか」
「おや、ご存じないんですって? わたしはまたね、何もかもご存じだと思っていましたの。どうぞごめんくださいましね、ドミートリイ・プロコーフィッチ。わたし、この二、三日、気が顛倒てんとうしてしまってるものですから。わたしは全くあなたという人を、わたし達の救い神みたいな気がしてるものですから、あなたはなんでもご存じのこととばかり、思い込んでしまいましてねえ。わたしあなたを親身かなんぞのように思ってるんですの……わたしとしたことが、こんなことを申し上げて、どうぞ気を悪くなさらないでね。おや、まあ、あなたの右のお手はどうかなさいまして! ぶっつけでもなすったんですの!」
「ええ、ぶっつけたんです」とラズーミヒンはすっかり幸福になってつぶやいた。
「わたしはどうかすると、あまり本気になってお話するもんですから、いつもドゥーニャに直されるんですの……ああ、それはそうと、せがれはまあなんというひどい所に住まっているんでしょう! でも、もう起きているでしょうかしら? いったいあのおかみさんは、あれでも部屋だと思ってるんでしょうか? ときに、あなたそうおっしゃいましたねえ――あの子は腹にあることを外へ出して見せるのが嫌いだって。ですからわたしもしかすると……もちまえの……弱い性分で、あの子をうるさがらせはしないかと思いまして!……ねえ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、いったいあれにはどうし向けたらいいのか、教えてくださいませんか? わたしはもうごらんの通り、途方に暮れているんですから」
「もし顔でもしかめるようでしたら、あまりうるさくいろんな事を尋ねないようにするんですね。ことに体のことを聞いちゃいけませんよ、いやがりますから」
「ああ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、母親というものはなんてつらい役目でしょう! ですが、もう階段です……なんという恐ろしい階段だろう!」
「お母さん、顔色まで青くなってることよ。落ち着いてちょうだいよ」とドゥーニャは母にすりよって言った。「兄さんたら、お母さんに会うのを喜ばなくちゃならないはずだのに、かえってお母さんの方がそんなに気苦労なさるなんて」両眼をぎらぎら光らせながら、彼女はそう言いたした。
「ちょっと待ってください、起きたかどうか、僕さきに見て来ますから」
 二人の婦人は、先に立って行くラズーミヒンについて、そろそろのぼって行った。もう四階まで上って、おかみの部屋の戸口へさしかかったとき、ドアがごく細目にあいていて、すばしっこい二つの黒い目が、闇の中から二人をうかがっているのに気がついた。けれど、双方の目がぱったり出会うと、ドアはいきなりぱたんと閉まった。それはプリヘーリヤが驚きのあまり、危うく叫び声を立てそうになるほど、猛烈な勢いだった。


「元気です、元気です!」はいってくる二人の婦人を出迎えて、ゾシーモフは浮き浮きした調子で叫んだ。
 彼は十分ばかり前に来て、昨日と同じ長椅子の片隅に腰かけていたのである。ラスコーリニコフは近ごろ珍らしく、ちゃんと服を着て、おまけに念入りに顔まで洗い、髪をとかして、反対の端に腰かけていた。部屋は一度にいっぱいになったが、それでもナスターシャは、客のあとからはいって来て、一座の話に耳をすまし始めた。
 なるほどラスコーリニコフは、もうほとんど健康といってよかったが(ことに昨日と比べたらなおさらだった)、ただ非常に顔色がわるく、ぼんやりした様子で、気むずかしそうだった。外から見たところ彼は怪我人けがにんか、それとも何か激しい体の痛みでもこらえている人のような感じだった。まゆは八の字に寄せられ、唇はきっと結ばれ、目は燃えるように輝いていた。彼は何か義務でも果たすように、気のりのしない様子で、しぶしぶ口をきいたが、その挙動にはどうかすると、妙に落ち着かない気持がうかがわれた。
 もしこのうえ手にほうたいでもしているか、指に厚絹タフタのサックでもはめていたら、たとえば指がうんで激しく痛むとか、手に打身をこしらえたとか、とにかくそんな風な状態にある人に、そっくりそのままだったに相違ない。
 もっとも、この青ざめた気むずかしい顔も、母と妹がはいってきた時には、せつな何かの光りに照らされたようになったが、これもただ前の悩ましげな放心の表情に、一そう凝結したような苦悶くもんの影を加えたにすぎない。光りはすぐに消えうせたが、苦悶はそのまま残った。治療を始めたばかりの医者に特有の若人らしい熱心さで、自分の患者を観察し、研究していたゾシーモフは、肉親の来訪に接した喜びの代わりに、このさき一、二時間、のがれられない拷問を忍ぼうとする、人しれぬ重苦しい覚悟の色が彼の顔に浮かんだのを見て、驚きの念に打たれたのである。それからしばらくして、続いて起った会話のほとんど一語一語が、患者の隠している何かの傷口に触れて、それをかき回すような風に見えるのも認めたけれど、同時に、昨日はちょっとした言葉の端にも、ほとんど気ちがいじみるほど興奮したあの偏執狂が、今日はよく自己を制御して自分の感情を隠す手ぎわにも、かなり一驚をきっしたのである。
「ええ、僕はもう自分でも、ほとんど健康体になったのがわかりますよ」愛想よく母親と妹を接吻しながら、ラスコーリニコフは言った。この一言で、プリヘーリヤの顔は見る間に輝き渡った。
「しかも、これは昨日の流儀で言ってるんじゃないよ」彼はラズーミヒンの方へ向いて、親しげにその手を握りながら、こう言い足した。
「いや、僕も今日はこの人を見て、面くらったくらいですよ」もう十分ばかりの間に、患者との話に継ぎ穂を失っていたゾシーモフは、三人がはいって来たのに大喜びで言い出した。「この調子で行けば、三、四日後には、それこそすっかりもともと通りになりますよ。つまり一月前、いや二月……あるいは三月前と言った方がいいかな? だって、この病気はだいぶ前からきざして、潜伏期が長かったんですからね……え、どうです? 今となったら白状なさい、もしかしたら、君自身にも責任があるんじゃないですか?」まだ何かで患者をいら立たせてはと心配するように、彼は用心深い微笑を浮かべて、言い足した。
「大きにそうかもしれません」とラスコーリニコフは冷やかに答えた。
「僕もその意味で言ってるんですよ」とゾシーモフは自分の成功に味をしめて、ことばを続けた。「これから君が完全に回復されるのは、ただ心の持ちようしだいなんですよ。今こうして、君とお話ができるようになってみると、ぜひこれだけの事をよく合点していただかなきゃなりません――つまり、君の病的状態の発生にもっとも多く影響した最初の、いわば、根本的原因を除かなければならないのです。そうすれば本当に回復されます。が、さもないと、かえって悪くなってしまいますからね。この根本的原因は僕にこそわからないけれど、君にはよくわかっているはずです。君は聡明そうめいな方だから、もちろん、自分自身に対して観察を試みておられるでしょう。僕の見るところでは、君の健康障害の始まりは、大学を退学された時と一致しているようですね。君は仕事をしずにいちゃいけません。だから、ちゃんと規則的な仕事をして、前途に確固たる目標を定めるということが、君にはもっとも有効と思われるんですが」
「そうです。そうです。おっしゃる通りです……そのうちに、僕もなるべく早く大学へ復校しましょう。そうすれば万事……とんとん拍子にいくでしょう……」
 一つは婦人たちの前で当たりを取ろうというつもりで、こういった賢明な忠告を始めたゾシーモフも、ことばを終わってから、聞き手の顔をちらと見やり、その顔にまざまざと嘲笑ちょうしょうの色を認めた時には、多少毒気どくけを抜かれた形だった。とはいえ、それはほんのちょっとの間である。プリヘーリヤはすぐさまゾシーモフに礼を述べ、ことにきのう夜中下宿を訪問してもらったことに対して、謝辞をつらね始めた。
「えっ、この人が夜中に訪ねたんですって?」とラスコーリニコフは、はっとしたらしい様子で尋ねた。「してみると、お母さん達は旅づかれのあとを、ろくろく寝なかったんですね?」
「いえ、なに、ロージャ、それはほんの二時ごろまでの話なんだよ。家にいる時だって、わたしもドゥーニャも、二時より早く寝たことなんかついぞ無いんだから」
「僕もやはりこの人に、どうしてお礼したらいいかわからないんです」とラスコーリニコフは急に眉をしかめて、うなだれながらことばを継いだ。「金の問題は別として――こんな事なんか口に出して失礼ですが(と彼はゾシーモフの方へふり向いた)、僕はどうしてあなたから、こうした特別なご親切を受けるんだか、ほとほと合点がいきません。ただもうわからないんですよ……で……で、僕にはそのご親切が苦しいくらいです。だって、不可解なんですものね。僕は遠慮なしに言わせてもらいます」
「まあ、君そういらいらしないでください」とゾシーモフは無理に苦しそうな笑いを立てた。「まあ、君が僕にとって初めての患者だ、とでも想像していただくんですな。全く、開業早々のわれわれ医師仲間は、最初の患者をわが子同様に可愛いがるもんですからね。中には、ほとんどほれこんでしまうのがいるくらいですよ。何しろ、僕もまだ患者があり余る方じゃないので」
「あの男のことは、今さら言っても仕様がない」ラスコーリニコフはラズーミヒンをさしながらつけ加えた。「あの男は、僕から侮辱と面倒よりほかには、何一つ受け取ったことがないくせに」
「何を馬鹿言ってるんだい! 君は今日はセンチな気分になってるとでもいうのかい?」とラズーミヒンはどなった。
 けれど、もし彼にも少し鋭い観察力があったら、それはけっしてセンチメンタルな気分どころでなく、何かしらぜんぜん正反対のものだと気づいたはずである。しかし、アヴドーチャはそれに気がついた。彼女は不安げにじっと兄を注視していた。
「お母さん、あなたの事になると、僕はもう申しわけなどする勇気もないくらいです」まるで朝から暗記した宿題のような調子で、彼はことばを続けた。「僕は今日になって、お母さんたちが昨日ここでどんなにか気をもみながら、僕の帰りを待っておられただろうと、やっといくらかお察しできたような始末なんです」こう言いながら、彼は急に無言のまま、微笑を含んで妹に手を差し伸べた。この微笑の中には、今度こそ作りものでない真実な感情がひらめいた。ドゥーニャはすぐさま差し伸べられた手を握って、さもうれしそうに、感謝の熱意をこめて握りしめた。これが昨日の争論以後、初めて妹に示した態度なのである。兄と妹のこうした無言の固い和解を見て、母親の顔は歓喜と幸福に輝いた。
「これだから僕はこの男が好きなんだ!」なんでも誇張する癖のあるラズーミヒンは、椅子のまま勢いよく体をふり向けながらささやいた。「あの男はよくああした含蓄のある動作を見せますよ!……」
『まあ、あの子のすることは、なんでも感じよくうまくいくこと!』と母は心の中で考えた。『ほんとになんという奥床しい心意気だろう! あのきのう以来の妹とのわだかまりを、なんとまあああも無造作に、しかも優しくといてしまったことだろう――ただひょいと手を伸ばして、優しい目つきを見せただけだもの……それに、あの子の目の美しいこと、そして顔全体の美しいこと! ドゥーネチカよりも器量がいいくらいだ……でも、まあ、あの服はなんということだろう、なんてひどい身なりをしているんだろう! アファナーシイ・イヴァーヌイチの店にいる小僧のヴァーシャだって、まだましなかっこうをしている!……ああ、一思いにあれに飛びついて抱きしめてやりたい……そして、泣いてみたいんだけれど――でも何かこわい、こわくって仕様がない……あの子がなんだかこう……ああ、情けない! ちょっと見れば、あんなに優しく話しているのに、それでもわたしはこわい! まあ、いったい何がこわいんだろう?……』
「ああ、ロージャ、お前はとても本当にできまいがね」彼女はわが子のことばに答えを急いで、いきなりこう引きとった。「ドゥーネチカもわたしも昨日はどんなに……不仕合せだったか! でも、今はもう何もかもすんで、おしまいになったから、わたしたちはまた仕合せになったんだよ――だからもう話してもかまわないね。まあ、考えてもおくれ、早くお前を抱きしめたいと思って、汽車をおりるとすぐ、ここへ駆けつけて来てみると、あの女中さんが――ああ、そこにいますね! こんにちは、ナスターシャ! あの人がいきなりだしぬけに、お前は脳病系の熱で寝ていたのに、つい今しがたお医者にかくれて、熱に浮かされながら外へ飛び出してしまったので、みんな捜しに駆け出したっていうじゃないか。その時のわたしたちの心持は、お前にゃとてもわかりゃしないよ! わたしはすぐ家で懇意にしていたポタンチコフ中尉――ほら、お前のお父さんのお友達さ――あの人の非業の最期が思い出されたんだよ。お前はもう覚えていないだろうが、やっぱり脳病系の熱でね、同じような風に外へ飛び出して、裏庭の井戸へ落っこちてしまったんだよ。やっとあくる日になって引き上げたような始末なのさ。だからお前、わたしたちはいうまでもない、なおのことおおぎょうに考えるだろうじゃないか。せめてピョートル・ペトローヴィッチにでも力を借りようと思って、すんでのことにあの人を捜しに飛び出すところだったよ……だってお前、わたしたち二人っきりなんだものね、まるで二人ふたありっきりなんだものねーえ」と彼女は哀れっぽい声でことばじりを引いたが、ふと、『もうみんなまたすっかり仕合せになっている』にもかかわらず、ルージンのことを言い出すのは、まだかなり危険だと心づいたので、急に話の腰を折ってしまった。
「そう、そう……それはもちろん……不本意千万なことでした……」とラスコーリニコフは返事がわりにつぶやいたが、それがいかにも放心したような、ほとんど注意もしていないような様子だったので、ドゥーネチカは驚きのあまり、じっと彼の顔を見つめた。
「ええと、まだ何か言いたいことがあったっけ」一生懸命に思い出そうと努めながら、彼はことばを続けた。「そうだ――どうぞね、お母さん、それからドゥーネチカ、お前も――きょう僕の方が先にあなた方の所へ出かけるのがいやで、こちらへまず来てくださるのを待っていたなんて、そんなことを思わないでください」
「まあ、何をいうの、ロージャ!」プリヘーリヤも同じように驚いて叫んだ。
『まあ、いったいこの人はお義理に返事をしているのかしら?』とドゥーネチカは考えた。『仲直りするのも、わびるのもまるでお勤めでもするか、学課の暗唱でもしてるようだわ』
「僕は目がさめると、さっそく出かけようと思ったんですが、着物の事で引っかかったのです。昨日あれに……ナスターシャに言うのを忘れたもんですから……血を洗い落としてくれというのを……で、今やっと着がえしたばかりなんですよ」
「血! なんの血なの?」とプリヘーリヤはぎょっとした。
「なに、なんでもないんです……ご心配なく、お母さん。その血というのはこういうわけです。きのう少し熱に浮かされ気味で、町をうろつき歩いていたとき、馬車にひかれた男にぶっつかったんです……ある官吏です……」
「熱に浮かれてた? だって、君は何もかもすっかり覚えてるじゃないか」とラズーミヒンがさえぎった。
「それはほんとうだ」何か特別気づかわしげな調子で、ラスコーリニコフはそれに答えた。「何もかも覚えてるよ。ごくごく微細な点まで。ところがね――なぜ、あんなことをしたか、なぜあんなところへ行ったか、なぜあんなことを言ったか? という段になると、もうよく説明ができなくなるんだ」
「そりゃわかり過ぎるくらいわかりきった徴候ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「仕事の実行はどうかすると巧妙を極めて、老獪ろうかいとさえいえるくらいだけれど、行為の支配力、すなわち行為の根本は混乱していて、いろいろ病的な印象に左右される。まあ、夢みたいなもんですね」
『いや、この男がおれをほとんど狂人扱いにするのは、あるいは好都合かもしれないぞ』とラスコーリニコフは考えた。
「でもそれは、健康な人にだってあることかもしれませんわ」不安げにゾシーモフらを見ながら、ドゥーネチカは注意した。
「かなり正鵠せいこく穿うがったお説です」とこちらは答えた。「その意味では、全くわれわれは皆たいていの場合、ほとんど狂人みたいなものです。ただほんのちょっとした差があるだけでね。つまり『病人』はわれわれよりいくらか発狂の度がひどいんです。そこはどうしても境界をつける必要があります。完全な調和を保った人間なんか、ほとんど絶無といっていいくらいですよ。数万人の中に、いや、数十万人の中に一人もありましょうかね。しかもそれだって、おぼつかない一標本にすぎないでしょうな……」
 得意な話題で調子に乗ったゾシーモフが、うっかりすべらした『狂人』ということばに、みんな思わずまゆをしかめた。ラスコーリニコフは一向注意もしない様子で、青白い唇に妙な微笑を浮かべながら、もの思わしげにじっとすわっていた。彼は何やら考え続けているのであった。
「さあ、それでどうしたい、その馬車にひかれた男は? ぼく話の腰を折ってしまったが!」とラズーミヒンは急いでこう叫んだ。
「何?」こちらは目がさめたように問い返した。「そう……それでつまり、その男を家までかついで行く手伝いをしたとき、血まみれになったんだ……ときにお母さん。僕はきのう一つ申しわけないことをしちゃったんで。実際、正気じゃなかったんですね。お母さんが送ってくださった金を、昨日すっかりやっちゃったんです……その男の細君に……葬式の費用として。今はやもめになった、肺病やみの、みじめな女なんです……小さいみなしごが三人ひもじい腹をかかえていて……家の中はがらんどう……まだ外に娘が一人いるんですが……全くそれをごらんになったら、お母さんだっておやりになったかもしれませんよ……もっとも、僕にそんな権利はなかったんです。ことに、お母さんがどうして調達してくだすったか、それを知ってるんですからね。人を助けるには、初めにまずその権利を得なくちゃなりません。でないと、Crevez chiens, si vous n'※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tes pas contents(ひもじけりゃ犬でも殺せ)ですからね!」彼はからからと笑い出した。「そうじゃないか、ね、ドゥーニャ?」
「いいえ、そうじゃないわ」ドゥーニャはきっぱりと言った。
「へえ! じゃお前も……何か思わくあってだな!……」彼はほとんど憎悪のまなざしで彼女を見やり、あざけるような微笑を浮かべながらつぶやいた。「僕もそれを思い合わさなくちゃならなかったんだ!……ま、いいさ、けっこうなことだ。つまりお前のためになるよ……そして、ある一線まで行きつくさ。それはね、踏み越さなければ不幸になるが、踏み越しても、一そう不幸になるかもしれない、そういった一線なのだ……もっとも、こんなことは皆くだらない話だ!」つい心にもなく夢中になったのを、いまいましく思いながら、彼はいら立たしげに言い添えた。「僕はただお母さんに許していただきたいと、そう言いたかっただけなんです」彼は角のあるきれぎれな調子でこう結んだ。
「もういいよ、ロージャ、わたしはね、お前のすることなら、なんでも立派だと信じてるんだから!」母はさもうれしそうに言った。
「信じない方がいいんですよ」微笑に口をゆがめて、彼はさえぎった。
 沈黙がそれに続いた。すべてこうした会話にも、沈黙にも、和解にも、許容にも、なんとなく緊張したものがあった。そして、誰も彼もがそれを感じていた。
『どうも、まるでみんなおれを恐れてるようだ』上目づかいに母と妹を見ながら、ラスコーリニコフは腹の中で考えた。事実プリヘーリヤは、黙っていればいるほど、いよいよおじ気づくのであった。『別れてる間は、おれも二人に深い愛情をいだいていたようだったのに』こういう考えが彼の頭にひらめいた。
「あのね、ロージャ、マルファ・ペトローヴナが亡くなられたよ!」とふいにプリヘーリヤが口を出した。
「マルファ・ペトローヴナって誰です?」
「あら、まあ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナさ! ついこの間の手紙で、あんなにいろいろ知らせてあげたじゃないか」
「あーあ、覚えています……じゃ、死んだんですか? え、ほんとに?」彼は急に目がさめたように、突然身震した。「いったいほんとに死んだんですか? なんで?」
「それがねえ、急だったんだよ!」とプリヘーリヤは、彼が興味を持ってきたのに元気づいて、せきこみながら言った。「ちょうどわたしがお前に手紙を出した、あの時だったんだよ、ちょうどあの日に! 世間の噂だと、あの恐ろしい男が、どうやらそのもとになったらしいんだよ。あの男がたいへんひどく奥さんを打擲ちょうちゃくしたとかいう話でね!」
「じゃ、その夫婦はいつもそんな風だったのかい?」と彼は妹の方を向いて尋ねた。
「いいえ、まるで反対なくらいよ。あの人は奥さんにはいつも我慢づよくて、ていねいなくらいだったわ。たいていの場合、奥さんの気性を大目に見過ぎるくらいだったのよ、まる七年の間……それはどうしたのか急に堪忍袋の緒を切らしたの」
「してみると、七年も辛抱したのなら、それほど恐ろしい男でもないじゃないか! ドゥーネチカ、お前はあの男を弁護してるようだね?」
「嘘よ、嘘よ、あれはほんとに恐ろしい人なの! あれ以上恐ろしいものは、わたし想像もできないくらいだわ」とドゥーニャは震え上がらんばかりの様子で言い、眉をしかめたまま考え込んだ。
「それは朝のうちの出来事だったんだよ」とプリヘーリヤはせかせかとことばを続けた。「そのあとで奥さんは、昼の食事をすますとすぐ、町へ行く馬車のしたくをいいつけたの。だって、あの人はそんな時、きまって町へ行くことにしていたもんだからね。食事の時なんか、たいへんおいしくいただいたという話だった……」
「なぐられたばかりで?」
「もっとも、あの人にはいつもそうした……癖があったんだね。で、昼の食事をすますとすぐ、町へ行くのが遅くならないように、さっそく水浴び場へ行ったそうだよ……実は、あの人は何かそんな水浴療法をしていたそうだから。あすこには冷たい泉があってね。あの人はそれへ毎日きまってはいってたんだそうだよ。ところが、水へはいるとたんに、いきなり発作が起こったんだね!」
「そりゃそうでしょうとも!」とゾシーモフが言った。
「で、あの男はひどく細君をなぐったんですか?」
「そんなこと、どうでもいいじゃありませんか」とドゥーニャが口を入れた。
「ふむ! しかし、お母さんはいい物好きですね、こんなくだらない話をするなんて」とふいにラスコーリニコフはいら立たしげに、つい口がすべったという調子で言った。
「まあ、お前、わたしもう何を言ったらいいか、わからなかったもんだからね」とプリヘーリヤは思わず口をすべらした。
「いったいどうしたんです、あなた方はみんな僕をこわがってでもいるんですか?」と、ひん曲がったような微笑を浮かべて、彼は言った。
「そりゃ全くほんとよ」ドゥーニャはいかつい目つきでまともに兄を見ながら、こう言った。「お母さんは階段を上る時から、びくびくして十字を切ってらしたくらいですもの」
 彼の顔はけいれんでもしたようにゆがんだ。
「ああ、ドゥーニャ、お前何を言うんだね? ロージャ、後生だから、怒らないでね。ドゥーニャ、なんだってお前はあんなことを!」とプリヘーリヤはまごまごして言った。「そりゃ全く、わたしはこっちへ来る途中も、汽車の中でずっと考えてばかりいたんだよ――お前に会った時の事だの、お互いにいろんな話をし合う模様だのをね……そう思うと、わたしはうれしくてうれしくて、道中の長いことも忘れるくらいだったよ! まあ、わたしは何を言ってるんだろう! わたしは今でも仕合せなのに、ドゥーニャほんとにお前は余計なことを……わたしはもうお前の顔を見ているだけでも、もうもううれしくてたまらないんだよ、ロージャ……」
「もういいですよ、お母さん」母の方を見ないで、その手を握りしめながら、彼は当惑したようにつぶやいた。「まだ話はいくらでもできますよ!」
 こう言ったかと思うと、彼は急にどぎまぎして、さっと顔色を変えた。またしてもこの間のあの恐ろしい感覚が、死のように冷たく彼の胸を走り過ぎたのである。またしても自分がいま恐ろしい嘘を言ったことが、突然はっきり合点がいったのである。今はもうけっしてゆっくり話ができるどころか、どんな問題についても、誰とも話をすることができないのだ。この苦しい想念の印象があまりに強かったので、彼は一瞬間ほとんど我を忘れて席を立つと、誰の方も見ずいきなり部屋を出て行きかけた。
「どうしたんだ、君は?」とラズーミヒンは彼の手をつかんで、声高に叫んだ。
 彼は再び席に戻って、無言のままあたりを見回し始めた。一同はけげんの表情を浮かべて彼をながめていた。
「いったいあなた方はみんななんだって、そうつまらなさそうに黙りこんでるんです!」彼は突然、全く思いがけなくこう叫んだ。「何か話したらいいじゃありませんか! 実際こんなにぼんやりすわってたって仕様がない! さあ、何かお話しなさいよ! 話そうじゃありませんか……せっかく集まったのに、黙りこくって……さあ、何か!」
「ああ、ありがたい! また昨日のようなことが、始まるのかと思って!」とプリヘーリヤは十字を切りながらつぶやいた。
「いったいどうなさったの、兄さん?」とドゥーニャは疑わしげに尋ねた。
「いや、なんでもない、ちょっとした事を思い出したんだ」と彼は答えて、急にからからと笑い出した。
「いや、ちょっとしたことならけっこうです! 実は僕ももしやと思ったくらいでした……」と長椅子から立ち上がりながら、ゾシーモフは言った。「ときに、わたしはもうおいとましなくちゃなりません。また後ほどお寄りするかもしれません……もしお目にかかれたら……」
 彼は会釈をして、立ち去った。
「なんて立派な方だろう!」とプリヘーリヤは言った。
「ああ、立派な、よくできた、教育のある、りこうな男ですよ……」急にラスコーリニコフは、それまでにない生き生きした調子で、何かしら思いがけないほど早口に言った。「病気になる前にどこで会ったろう、どうも一向に覚えがないが……どこかで会ったような気がする……それから、これもやはりいい男ですよ!」と彼はラズーミヒンをあごでしゃくった。「お前、この人が気に入ったかい、ドゥーニャ?」と彼は妹に問いかけて、急になんと思ったか大声で笑い出した。
「ええ、たいへん」とドゥーニャは答えた。
「ちょっ、きさまは……くだらんことを言う男だな!」恐ろしくてれてまっかになったラズーミヒンは、そう言いながら椅子から立ち上がった。
 プリヘーリヤは軽くほほえんだ。ラスコーリニコフはからからと爆笑した。
「おい、君はどこへ行くんだ?」
「僕もやっぱり……用が」
「君に用があってたまるかい、じっとしていたまえ! ゾシーモフが行ったから、それで君も用ができたのかい。行っちゃいけない……ときに、何時だろう? 十二時かね? おや、ドゥーニャ、すてきな時計を持ってるじゃないか! だが、なぜまたみんな黙ってしまったんです? 僕ばかりに、僕一人にばかりしゃべらしてさ!……」
「これはマルファ・ペトローヴナにいただいたのよ」とドゥーニャは答えた。
「それもたいそう高い品なんだよ」とプリヘーリヤが口を添えた。
「ははあ! だが、なんという大きな時計だ。まるで女持ちのようじゃない」
「わたしはこんなのが好きなのよ」とドゥーニャは言った。
『してみると、花聟はなむこの贈物じゃないんだ』とラズーミヒンは考えて、なぜかしらうれしくなった。
「僕はまたルージンの贈物かと思った」とラスコーリニコフは言った。
「いいえ、あの人はまだドゥーネチカに何一つ贈物をしないんだよ」
「ははあ! ときに、お母さん覚えてるでしょう、僕が一度恋をして、結婚しようとしたことを」と母親の顔を見ながら、彼はだしぬけに言い出した。こちらは思いがけない話題の転換と、それを言い出した息子の調子に打たれて、どぎもを抜かれた。
「ああ、お前、そうだったね!」
 プリヘーリヤは、ドゥーネチカとラズーミヒンに眼交めまぜをした。
「ふむ……そう! だが、何を話したものかなあ! もうあまり覚えていないくらいだ。それは病身な娘でしたよ」彼はまた急に考え込んで、目を伏せながら、ことばを続けた。「全くの病身でした。乞食こじきに物をやる事が好きでね、しょっちゅう尼寺のことばかり空想していましたよ。そうそう、一度などは、僕にその話を始めて、涙を流して泣いたことがありましたっけ。そうだ、そうだ……覚えている……よく覚えている。器量の悪い女でしてね……全く、どうしてあの時あんな女に心をひかれたんだかわけがわからないくらいです。おそらく、いつも病気がちだったせいだろうと思います……もしそのうえびっこかせむしだったら、もっと好きになったかもしれない……(彼はもの思わしげににたりと笑った)こういうわけで……何かまるで春の夢みたいなものだったんですよ……」
「いいえ、それは春の夢ばかりじゃないわ」とドゥーネチカは感情のこもった調子で言った。
 彼は注意深く、緊張した表情で妹を見つめていたが、その言葉はよく聞き分けられなかったか、それとも了解できなかったらしい。それから、深いもの思いのていで立ち上がり、母の傍へ寄って接吻せっぷんすると、また席へ戻って腰をかけた。
「お前はまだ今でもその娘を愛しているの?」とプリヘーリヤは感動したさまで言った。
「その女を? 今でも? ああ、そう……お母さんはあの娘のことを言ってるんですね! いや、今じゃそんなことはもう、なんだかあの世のことみたいで……そしてずっと前のような気がします。それにまわりのことが何もかも、この世の出来事ではないようです……」
 彼は注意深く一同の顔を見た。
「現にお母さんたちだって……まるで千里も手前から見ているような気がする……ちょっ、だが、いったいなんだってこんな話をしてるんだろう! なんのためにくどくどきくんだ!」と彼はいまいましげな調子で言い足して、口をつむぐと、爪をかじりかじり、また考え込んでしまった。
「まあ、お前の部屋ったらなんてひどい所だろうね、ロージャ、まるで棺のようじゃないか」重苦しい沈黙を破りながら、ふいにプリヘーリヤが言った。「お前がそんな気鬱病きうつびょうになったのも、半分はこの部屋のせいだと思うよ」
「部屋?……」と彼は放心したように答えた。「そう、部屋もだいぶん手伝っていますよ……僕もやはりそう思いましたよ……だが、お母さん、今あなたがどんな妙なことを考え出されたか、自分でもご存じないでしょう」と彼は急にこう言いだして、奇怪な薄笑いを漏らした。
 もうちょっとしたら、この邂逅かいこうも、この三年ぶりに会った肉親も、それから何事にまれ語り合うことの絶対に不可能な目下の状態で用いられているこの親しげな調子も――すべてが彼にとって、ついに堪え難いものとなったに相違ない。けれども、まだ一つ、のっぴきならぬ問題が残っていた。それはどうでもこうでも、ぜひ今日きまりをつけてしまわなければならない――これは先ほど目をさました時から、決心していることだった。今彼はその問題を思い出して、いい逃路のように喜んだ。
「ねえ、ドゥーニャ」と彼はまじめなそっけない調子で口を切った。「昨日のことはむろん僕があやまるけれど、根本はけっして譲歩しないから、それだけは自分の義務として、もう一度お前に断わっておく。僕か、ルージンか、二人に一人だ。僕は卑劣漢でもかまわないが、お前はいけない。どっちか一人だ。もしお前がルージンのところへ行けば、僕はその場かぎりお前を妹と思わないぞ」
「ロージャ、ロージャ、それでは! お前、昨日とまるで同じことじゃないか!」とプリヘーリヤは情なさそうに叫んだ。「どうしてお前はしじゅう自分のことを卑劣漢だなんていうの、わたしは聞いていられない! 昨日だってそうです……」
「兄さん」とドゥーニャは同じくそっけない調子で、きっぱりと答えた。「この事では、兄さんの方に間違いがあるんですわ。わたしは昨夜一晩じゅう考えてみて、その間違いを見つけましたの。つまり問題はこうなの。どうやら兄さんは、わたしが誰かに、誰かのために、自分を犠牲にささげていると、こう想像してらっしゃるけれど、そんなことはけっしてありません。わたしはただ自分のために結婚するんですの。だって、わたし自身が苦しいんですもの。もっともそのほかに、もし自分が身内のためになるようなら、うれしいと思いますわ、けれど、わたし、それが根本の動機で決心したんじゃありません……」
『嘘をついてる!』と彼は、むしゃくしゃ腹で爪をかみながら、心の中で思った。『気位の高い女だ! 恩を着せたがっていながら、本音をはくのがいやなんだ! つまり高慢なのだ! ああ、なんてみな卑劣な根性なのだろう! やつらの愛は憎み合っているような愛だ……ああ、おれは実に……やつらが憎くってたまらない!』
「一口に言えば、わたしはピョートル・ペトローヴィッチと結婚します」とドゥーネチカはことばを続けた。「そのわけは、つらいことが二つあれば、少しでも軽い方を選びたいからですの。わたしはあの人が期待していることを、何もかも忠実に履行するつもりですから、つまりあの人をだますことにはなりません……兄さん、なぜ今にやりとお笑いになったの?」
 彼女も同じようにかっとなった。その目には憤怒ふんぬの色がひらめいた。
「何もかも履行する?」毒々しい薄笑いを漏らしながら、彼は問い返した。
「ある程度まではね。ピョートル・ペトローヴィッチの求婚の仕方と形式で、あの人が何を要求しているのか、すぐわかりましたもの。あの人は自分というものを、あまり高く評価しているかもしれません。でもその代わり、わたしも相当に認めてくれるだろうと、それを期待しているんですの……何をまた笑ってらっしゃるの?」
「お前はまた何を赤くなるんだい? お前は嘘をついてる。お前はわざと嘘をついてるんだ。ただ女らしい強情で、おれに我を張り通したいもんだからさ……お前はルージンを尊敬することなんかできやしない。僕はあの男と会いもし、話もしたんだよ。してみると、お前は金のために自分を売ってるのだ、してみると、いずれにしても卑劣な行為だ。僕はね、お前が少なくともまだ赤くなれる、それだけでも喜んでいるよ!」
「そんなことないわ、嘘なんか言やしません!……」ドゥーネチカはしだいに冷静を失いながら、こう叫んだ。「わたしだって、あの人がわたしを認めてもくれ、大切にもしてくれると確信しなかったら、結婚なんかしやしませんわ。またわたし自身も、あの人を尊敬できるという確信がなかったら、けっして結婚なんかするものですか。幸いわたしは、今日さっそくその確信を得ることができるんですの。こうした結婚は兄さんのおっしゃるように卑劣なことじゃありませんわ! また、たとい兄さんのおっしゃることが本当で、わたしが全く卑劣な決心をしたのだとしても――そうまでにおっしゃるのは、兄さんとしてもあまり残酷じゃなくって? なんだって兄さんは自分にもない……かもしれないような勇気を、わたしに要求なさるんですの? それはあまり横暴だわ、圧制だわ! もしわたしが誰か他人の一生を破滅させるとでもいうのならともかく、ただわたし自身の事じゃないの。わたしはまだ人を殺したことなんかなくってよ!……なんだってそんな目をしてわたしをごらんになるの? どうしてそんなに真っ青になるの? ロージャ、どうしたの? ロージャ、兄さんてば……」
「ああ、どうしよう! また気絶してしまった!」とプリヘーリヤは叫んだ。
「いや、いや……くだらない、なんでもありゃしない!……少しめまいがしただけで、気絶でもなんでもありゃしません……気絶気絶って一つ覚えみたいに!……ふむ! そこでと……何を言うつもりだったっけ? そうだ。お前は今日にもさっそく、お前があの男を尊敬することができ、あの男が……お前を認めてくれてるという確信を得ると言ったが、いったいそりゃどういうわけだい? ねえ、そう言ったろう? お前は確かに今日と言ったようだが? それとも僕の聞き違えだったか?」
「お母さん、兄さんにピョートル・ペトローヴィッチの手紙を見せてあげてくださいな」とドゥーネチカは言った。
 プリヘーリヤは震える手で手紙を渡した。彼は非常な好奇心をもってそれを受け取ったが、広げて見る前に、彼は突然何かに驚いたような顔つきで、ドゥーネチカを見つめた。
「おかしい」突然何か新しい想念に打たれでもしたように、彼はゆっくりした語調で言った。「おれはなんだってこんなに気をもんでるんだろう? 何をこんなにわめいたり騒いだりしてるんだろう? 勝手に誰とでも好きな男と結婚するがいい!」
 彼はひとり言のように言ったが、声はかなり高かった。そしてしばらくの間、どぎもを抜かれたような顔をして、妹を見つめていた。
 彼は依然として驚きの表情を残したまま、やっと手紙をひらいた。それから、ゆるゆると注意深く読み始め、二度まで読み返した。プリヘーリヤはかくべつ不安に悩まされていた。それにほかの者も、みんなある特殊なものを期待していた。
「これは驚いた」ややしばらく考えた後で、手紙を母親に返しながら、彼は誰に向いてともなく口を切った。「あの男は弁護士で、しじゅう訴訟事件を扱ってるから、話だってやはり特別な……癖があるけれど――書く方となると、まるで無学ものじゃないか」
 一座は少しざわざわとした。彼らはまるで違ったことを期待していたので。
「だってああいう連中は、皆こんな風に書くんだよ」とラズーミヒンがきれぎれな声で注意した。
「じゃ君は読んだのか!」
「うん」
「わたしたちがお目にかけたんだよ、ロージャ。わたしたちは……先ほどご相談したんだよ」とプリヘーリヤはまごまごしながら言い出した。
「それはつまり裁判所式の文体なんだよ」とラズーミヒンはさえぎった。「裁判所の文書は今でもそういう風に書いてるんだよ」
「裁判所式? そうだ、裁判所式なんだ、事務家風なんだ……まるっきりの無学というのでもないが、非常に文学的というのでもない。つまり事務家風なんだ!」
「ピョートル・ペトローヴィッチは、ご自分が貧しい教育を受けてきたことを、隠してなんかいらっしゃいません。かえって、独力で自分の道をひらいたのを、誇りとしていらっしゃるくらいですわ」兄の新しい調子にむっとして、アヴドーチャは注意した。
「けっこうだ、誇りにしてるとすりゃ、それだけの理由があるんだろうよ――僕は反対なんかしないよ。ねえ、ドゥーニャ、僕がこの手紙に対して、こんな瑣末さまつな批評しかしなかったので、お前はどうやら憤慨したらしいね。そして、何かいまいましさ半分にお前をいじめるつもりで、わざとこんなつまらない事を言い出した、とでも考えてるかもしれないが、それどころじゃない、この手紙の文体に関連して、この場合断じて余計なことと言えないような事が、頭に浮かんだのだ。手紙の中に一つ『自業自得』という非常に意味深長な、ことさら目立つように書かれたことばがあるじゃないか。そればかりか、僕が行けばすぐ帰ってしまうという威嚇いかくがある。この帰るという威嚇は――もし言うことを聞かなければ、お前たち二人をも捨ててしまうぞ、というのと同じことだ。ペテルブルグまで呼び出した今さらとなって、捨ててしまおうというんだよ。そこでお前はどう考える――ルージンにこんな書き方をされても、たとえばこの男か(と彼はラズーミヒンを指さした)、またはゾシーモフか、でなければ我々の中の誰かに書かれた場合と比べて、同じように腹を立てることができるかい?」
「い、いいえ」とドゥーネチカは活気づきながら答えた。「わたしもよくわかったわ――この手紙の書き方はあまり知恵がなさすぎるけれど、ただ文章がへたなだけかもしれないって……全く兄さんの批評はうまかったわ。思いがけないくらい……」
「これは裁判所式の書き方だ。ところが、裁判所式にやると、こうよりほかには書けないんだから、ことによると、あの男が自分で思ったより以上、無作法になったのかもしれない。しかし、僕はも少しお前の迷いを解いてやらなくちゃならない。この手紙の中にはまだ一つ問題がある。それは僕に対する誹謗ひぼうだ。しかもかなり陋劣ろうれつなものなんだ。僕はきのう途方に暮れているやもめに金をやった。しかし『葬儀費と称して』じゃない、じっさい葬式の費用にやったんだ。それから娘――やつのいわゆる『いかがわしき生業を営みおる女』には、僕きのう生まれて初めて会ったんだが、金はその娘の手に渡したんじゃなくて、正にやもめの手に渡したんだ。それやこれやで見ると、あの男が僕を中傷して、お前たちと仲たがいをさせようという、あまりせっかちすぎるもくろみが見え透いてる。しかも、やっぱり裁判所式な書き方なんだ。つまりあまり腹の見え透いた、せっかちな、知恵のない書き方なのさ。やつはなかなかりこうな男だが、しかしりこうに立ち回るには、りこうだけじゃ足りないよ。これだけでおよそ人物はわかってしまうから……あの男がお前を本当に認めてるとは、どうも思えないよ。こんなことを言うのも、要するに参考のためだ。つまり、心からお前のためを思えばこそだよ……」
 ドゥーネチカは返事をしなかった。決心はもうさっきからついていたので、彼女はただ夜が来るのを待つばかりであった。
「で、ロージャ、お前はいったいどう決めるつもりなの?」思いがけない彼の新しい事務的な口調に、いよいよ不安を増したプリヘーリヤはこう問いかけた。
「そりゃなんです、『どう決める』って?」
「だってほら、ピョートル・ペトローヴィッチがこの通り、今晩お前が来ないように……もし来れば、すぐ帰ってしまうと書いているじゃないの。だからお前どうします……来るつもり?……」
「それはもうむろん、僕の決めるべきことじゃなく、第一に、あなたの決めるべきことですよ。もしルージンのそうした要求を、侮辱とお思いにならなければね。それから第二には、ドゥーニャの心しだいです。もしやはり侮辱を感じなければ。僕はあなた方のお好きなようにしますから」と彼はそっけない調子で言い足した。
「ドゥーネチカはもうちゃんと決心してね、わたしもそれに同意なんだよ」とプリヘーリヤは急いで口をはさんだ。
「わたしはね。ロージャ、ぜひともその席へ兄さんに来ていただくように、折り入ってお願いしようと決心したのよ」とドゥーニャは言った。「来てくれて?」
「行こう」
「わたしあなたにもお願いしますわ。今夜八時にわたしどもへいらしてくださいませんか」と彼女はラズーミヒンに向かって言った。「お母さん、わたしこの方にも来ていただきますわ」
「けっこうだとも、ドゥーネチカ。さあ、これでお前たちの相談が決まったから」とプリヘーリヤは言い添えた。「思い切ってそういうことにしてしまおうよ。わたしもその方が楽だから。わたしはめんをかぶったり、嘘をいうのが嫌いでねえ。いっそ何もかも本当のことを言ってしまおうよ……もうこうなりゃ、ピョートル・ペトローヴィッチが怒ろうと怒るまいと、どうだっていいさ!」


 そのときドアが静かに開いて、一人の娘がおずおずとあたりを見回しながら、部屋の中へはいって来た。一同は驚きと好奇の念を抱きながら、その方へふり向いた。ラスコーリニコフは一目見たとき、彼女が誰かわからなかった。それはソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァであった。彼は昨日この娘を初めて見たのだけれど、ああいう時ではあり、ああいう環境でもあり、また当人もああいう身なりをしていたために、彼の記憶にはまるで違った顔かたちが印象されていた。いま見ると、彼女はむしろみすぼらしいくらいじみな服装なりをした、まだずぶ若い子供子供した娘で、つつましやかな礼儀ただしい物腰をして、晴れやかな、しかしどことなくおびえたようなところのある顔立ちをしていた。彼女は思い切って粗末な不断着を身につけて、頭には流行おくれの古びた帽子をかぶっていたが、手には昨日の通りパラソルを持っていた。部屋の中が思いがけなく人でいっぱいなのを見て、彼女はまごついたというよりも、すっかり度を失い、まるで小さい子供みたいにおどおどしながら、すぐ引っ返そうとするような素振りさえ見せた。
「ああ……あなたですか!……」ラスコーリニコフはなみなみならぬ驚きのさまでこう言ったが、急に自分でもまごまごしてしまった。
 彼はすぐその時、母や妹がルージンの手紙によって、『いかがわしき生業を営む娘』の存在を、多少なりとも知っているはずだということを、ふと思い浮かべた。彼はたった今ルージンの誹謗を反駁はんばくして、その娘は初めて見たばかりだと言ったのに、突然その当人がはいって来たのである。それから彼はまた、『いかがわしき生業を営む女』ということばに対しては、少しも抗弁しなかったことを思い出した。こうしたすべてのことが、はっきりとではなかったが、瞬間的に彼の頭にひらめいた。けれど、なおよく注意して見ると、娘が卑しめはずかしめられた哀れな存在であることに、急に気がついた。それはまったく可哀想なほど小さくなっていじけていた。彼女が恐怖のあまり逃げ出しそうな素振りを見せた時、彼は自分の内部で何か引っくり返ったような気がした。
「あなたがいらっしゃろうとは、思いもかけなかった」と、目で彼女を引き止めながら、ラスコーリニコフはせきこんで言った。「どうぞおかけください。きっとカチェリーナ・イヴァーノヴナのお使いでしょう。どうぞ、そこじゃない、こちらへお掛けください……」
 ラスコーリニコフの三つしかない椅子の一つに腰をかけ、戸口のすぐ傍に座を占めていたラズーミヒンは、ソーニャがはいって来ると一緒に、彼女に道を与えるために席を立った。初めラスコーリニコフは、ゾシーモフの掛けていた長椅子の一隅をすすめようとしたが、ふとそれではあまり慣れ慣れし過ぎる、それは自分の寝台にもなるものだと気づき、急いでラズーミヒンの椅子をさしたのである。
「君はこっちへかけてくれ」と彼は言ってゾシーモフの掛けていた片隅へラズーミヒンをすわらせた。
 ソーニャは恐怖のあまり、わなわな身を震わさないばかりの有様で、ようやく席に着くと、臆病おくびょうげにちらと二人の婦人を見やった。彼女を見うけたところ、どうしてこんな人たちと並んですわることができたか、自分ながら合点がいかないらしい様子だった。ふとその事を考えると、彼女はすっかりおびえ上がって、またすぐ席を立ち上がり、途方にくれる程どぎまぎしながら、ラスコーリニコフに話しかけた。
「わたし……わたし……ほんのちょっとあがりましたので。おじゃまいたしまして申しわけありません」と彼女は口ごもりながら言い出した。「わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナの使いであがりました。ほかに誰も人がないものでございますから……カチェリーナ・イヴァーノヴナが、明日のお葬式にぜひいらしていただくように、折り入ってお願いしてこいと申しました。……朝、祈祷式きとうしきがございます……ミトロファニエフスキイで……それからわたしどもで……母のところで……一口めしあがっていただけますと……光栄に存じますと……母の申しつけでございます」
 ソーニャはいいよどみ口をつぐんだ。
「なるべく必ず……必ず伺います……」ラスコーリニコフも同様に立ちあがって、同様にいいよどみことばを濁しながら、こう答えた。「どうぞお掛けください」と彼はだしぬけに言った。「僕ちょっとお話したいことがあるんです。どうぞ、お急ぎかもしれませんが――お願いですから、僕のために二分ばかりさいてください……」
 そういって、彼女に椅子をすすめた。ソーニャは再び腰をおろして、またしてもおずおずと途方にくれたように、急いでちらと二人の婦人を見たが、急に目を伏せてしまった。
 ラスコーリニコフの青白い顔はかっと赤くなった。彼はまるで全身をけいれんに縛られたようになり、目はぎらぎらと燃え出した。
「お母さん」と彼はしっかりした押しつけるような調子で言った。「この方がソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァです。もうさっきお話したマルメラードフ氏、きのう僕の目の前で馬のひづめにかけられた、あの不幸な人の娘さんです……」
 プリヘーリヤはソーニャをちらと見て、心持目を細めた。ロージャの執拗しつようないどむようなまなざしに、かなりどぎまぎしていたにもかかわらず、彼女はどうしてもこういう態度をとって、一種の快感を味わずにいられなかった。ドゥーネチカはまじめな表情で、まともに哀れな娘の顔に目を凝らし、合点がいかぬというように、彼女を点検にかかった。ソーニャはこの紹介が耳にはいると、また目を上げようとしたが、今度は前より余計どぎまぎしてしまった。
「あなたに伺おうと思ってたんですが」とラスコーリニコフは急いで彼女に話しかけた。「今日お宅ではどんな風に片がつきました? うるさい事はありませんでしたか?……たとえば警察の方なんか」
「いいえ、すっかり片づきました……だって亡くなった原因が、わかり過ぎるぐらいわかっているものですから、別段うるさい事はございませんでした。ただ同じ家の借家人たちが腹を立てまして」
「なぜです?」
死骸しがいをいつまでも置いとくって……何分この暑さで、臭いがいたすものですから……で、今日は晩の祈祷式のころに、墓地へ運んで参りまして、明日まで礼拝堂に置いていただくつもりでございます。カチェリーナ・イヴァーノヴナは、最初はなそれをいやがりましたが、今では自分でも、ほかに仕様のない事がわかったようでございます……」
「じゃ今日ですね?」
「母はあす教会のお葬式に、あなたもお出向きくださいますようと申しております。それからあとで宅の方へも、法事にお寄りを願いたいって」
「お母さんは法事をなさるんですか?」
「ええ、ほんのお口よごしですけど。母はくれぐれも、昨日お助けくださいましたお礼を申すようにとのことで……全くあなたがお見えにならなかったら、おとむらいをすることもできなかったのでございますから」
 とふいに、彼女の唇とおとがいがぴくぴくとおどり始めた。けれど、彼女は急いで目を落とし、じっと我慢して押しこらえた。
 話の間に、ラスコーリニコフはしさいに彼女を観察した。それはやせた、全くやせこけた、青白い、割合に輪郭の整わない、どことなくとがった感じのする顔で、小さな鼻とおとがいもとがっていた、彼女は美人とは言いにくいくらいであったが、その代わり、青い目が透き通るように澄み切って、それが生き生きしてくると、誰しもついひきつけられてしまうくらい、顔の表情がなんともいえず善良な無邪気な感じになってくるのであった。その上彼女の顔にもその姿全体にも、一つきわ立った特色があった。それは彼女がもう十八というにもかかわらず、その年よりもずっと若く、まるでほんの小娘――というよりむしろ子供のように見えることであった。そして、それがどうかするとおかしいほど彼女の動作に現われるのであった。
「ですが、いったいカチェリーナ・イヴァーノヴナは、あれっぽっちの金で万事を始末して、おまけにご馳走ちそうまでしようとなさるんですか?……」とラスコーリニコフはしつこく話を続けながら、こう尋ねた。
「だって、棺も粗末なのでございますし……それに何もかも手軽にいたしますから、いくらもかかりませんの……さっきカチェリーナ・イヴァーノヴナと二人で、すっかり勘定をしてみましたら、法事をするくらい余りました……カチェリーナ・イヴァーノヴナはぜひそうしたいと申しますの。だって、やはりそういたしませんでは……母にはそれがせめてもの慰めなんでございます……ご存じの通りの人でございますから……」
「わかりますとも、わかりますとも……そりゃもちろんです……なんだってあなたはそんなに僕の部屋を、じろじろごらんなさるんです? さっきもこの母が、棺に似てるなんて言ったところですよ」
「あなたは昨日わたしどもに、お持合せをすっかりくだすったんですわね!」ソーネチカはふいにしっかりした早口で、ささやくように言いながら、急にまた深くうなだれてしまった。
 彼女の唇とおとがいは、またしてもおどり出した。彼女はもう先ほどから、ラスコーリニコフの貧しい住まいのさまに胸を打たれていたので、ふとわれしらずこんなことばが口を出たのである。一座を沈黙が襲った。ドゥーネチカの目は妙に輝いてきた。プリヘーリヤは愛想よくソーニャをながめた。
「ロージャ」と彼女は席を立ちながら言った。「わたしたちはむろんあとで一緒に、ご飯をいただくことになってるんだよ。ドゥーネチカ、帰りましょうよ……ねえ、ロージャ、お前少し散歩してね、それからしばらく横になって休むがいい。その上でなるべく早く来ておくれ……でないと、わたしたちはお前を疲れさせたようで、気がかりだからね……」
「ええ、ええ、行きますとも」と彼は立ち上がりながら、気ぜわしげに答えた。「しかし、僕は用事があるから……」
「え、いったい君たちはみな別々に食事をするつもりなのかい?」びっくりしてラスコーリニコフを見ながら、ラズーミヒンは叫んだ。「君それは何を言うんだ?」
「ああ、ああ、行くとも、むろん……だが、君はちょっと残ってくれないか。お母さん、この男はいま入り用じゃないでしょう? それとも、僕が横取りするようになりますかしら?」
「いいえ、そんなことありゃしないよ! じゃ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、どうぞあなたも食事にいらしてくださいまし、ね?」
「どうぞぜひいらしてくださいましな」とドゥーニャも一緒に頼んだ。
 ラズーミヒンはおじぎをして、満面えみ輝いた。ちょっとの間、急に誰もがなんとなく妙にきまりの悪い思いをした。
「ではさようなら、ロージャ。いえ、そうじゃない、また後ほどね。わたし『さようなら』と言うのが嫌いでね。さようなら、ナスターシャ……あら、また『さようなら』なんて言ってしまった!……」
 プリヘーリヤはソーネチカにも挨拶あいさつしようとしたが、なぜかそれができなかった。で、彼女はそそくさと部屋を出てしまった。
 けれど、アヴドーチャは順番を待ってでもいたように、母に続いてソーニャの傍を通りながら、心のこもったいんぎんな低い会釈で挨拶した。ソーネチカはどぎまぎし、おびえたようにあわてて会釈を返した。アヴドーチャが自分のことも忘れずに、いんぎんな態度を示してくれたのが、彼女にはつらく切なく感ぜられるかのように、その顔には病的な感じが反射したほどである。
「ドゥーニャ、じゃさようなら!」とラスコーリニコフはもう控室へ出てから、そう叫んだ。「さあ、手をおくれ!」
「あら、いま上げたじゃありませんか、忘れたの?」優しくきまり悪げに、兄の方へふり向きながら、ドゥーニャは答えた。
「なに、いいじゃないか、もう一度おくれよ!」
 こう言って、彼は堅く妹の指を握りしめた。ドゥーネチカはにっと微笑して見せて、ぼうっと顔を赤らめた。そして、すばやく自分の手を引くと、母のあとを追って行ってしまった。やはりなぜか幸福に満ちた様子で。
「さあ、これでよし!」と自分の部屋へ帰ると、はればれしい目でソーニャを見ながら、彼は口を切った。「神よ、死者に平安を与え、生けるものになお生くることを許したまえ! そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? ね、そうじゃありませんか?」
 ソーニャはあっけにとられながら、にわかに明るくなった彼の顔をながめた。彼はしばらく無言のまま、じっと彼女を見つめていた。亡くなった父のマルメラードフの彼女に関する物語が、この瞬間そっくり彼の記憶によみがえった……
「やれやれ、ドゥーネチカ!」表へ出るやいなや、プリヘーリヤはすぐに言い出した。「今こうして出て来たのが、わたしゃなんだかうれしいみたいな気がする、妙に気が楽になったようでね。でもねえ、きのう汽車の中では、まさかこんなことをうれしがろうとは、思いも寄らなかったのに!」
「また同じことを言うようですけどね、お母さん、兄さんはまだよっぽど悪いのよ。あれがお母さんにはわからなくって? もしかしたら、わたしたちのことを苦にして、体をこわしたのかもしれなくってよ。わたしたちはもっと斟酌しんしゃくしてあげて、たいていのことは辛抱しなくちゃならないんですわ」
「だってお前は斟酌してあげなかったじゃないか!」とプリヘーリヤはすぐさま熱くなって、一生懸命にさえぎった。「ねえ、ドゥーニャ、わたしはお前たち二人をつくづく見ていたが、お前は兄さんとそっくりそのままだよ、顔立ちというよりか、気性の方がね! お前たちは二人とも陰気な気むずかしやで、怒りっぽくて、気位が高くて、しかも二人ながら心が広いんだよ……だって、あの子が利己主義だなんて、そんなことはあるはずがないじゃないの、え、ドゥーネチカ?……ああ、今晩みなが集まってからのことを考えると、わたしゃもう胸が縮み上がりそうだ!」
「そんなに心配なさらない方がいいわ、お母さん。どうせ、なるようにしかならないんですから」
「ドゥーネチカ! 今わたしたちがどんな羽目になっているか、お前もちっと考えてごらんよ! ピョートル・ペトローヴィッチに断わられたら、まあどうなると思って?」と哀れなプリヘーリヤは、ついうっかり口をすべらした。
「もしそうだったら、あんな人になんの値うちがあって!」とドゥーネチカは鋭く、吐き出すように答えた。
「でも、わたしたちはいま出て来て、いいことをしたね」とプリヘーリヤはせっかちに相手のことばをさえぎった。「ロージャは、どこかへ急な用があると言ってたが、ちょっとは外を歩いて、新しい空気でも吸うといいんだよ……ほんとにあの部屋の息苦しいことったら、恐ろしいよう……だけどここじゃ、どこへ行けばいい空気が吸えるんだろう? ここじゃ通りでも、通風口のない部屋の中にいるのと同じだもの! ああ、ほんとになんて町だろう……ちょっと少しわきへお寄り、つぶされてしまうよ。なんだかかついで来たから! あら、ピアノを運んで来たんだよ、ほんとに……なんてやたらにぶっつかるんだろう……わたしはね、あの娘もやはり恐ろしくって仕様がないよ……」
「娘って誰、お母さん?」
「ほら、あれさ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今来ていた……」
「どうして?」
「わたしなんだか虫が知らせるようでね、ドゥーニャ。まあ、お前は本当にするともしないとも勝手だけれど、あの娘がはいって来たとたんに、わたしはそう思ったよ――つまりここにこそ本当のいわくがあるって……」
「なんにも曰くなんかありゃしないわ!」とドゥーニャはいまいましげに叫んだ。「お母さんの虫の知らせも困ったものね! 兄さんは昨日はじめてあの娘さんに会ったばかりで、はいって来た時も、誰だか気がつかなかったくらいじゃありませんか」
「じゃ、まあ見ておいで! わたしはあの娘のことが気になって仕様がないんだよ。まあ、今に見ておいで、見ておいで! わたしはほんとにびっくりしてしまったよ。わたしの方を一生懸命に見るその目つきったら、わたしは椅子の上にじっと居たたまらないほどだったよ。覚えておいでかい、あれが紹介を始めた時さ? わたし変な気がしたよ――ピョートル・ペトローヴィッチがあんなことを書いてるのに、ロージャはあの娘をわたしたちに、しかもお前にまで引合せるんだもの! だからつまり、大切な人なんだよ!」
「あの人がいろんな事を書くのは、何も珍しかありませんわ! わたしたちのことだって、世間ではやはり噂したり、書いたりしたじゃありませんか。いったいお忘れになったの? わたしあの娘さんは……立派な人で、そんな陰口は皆でたらめに違いないと思うわ!」
「そうであってくれればね!」
「ピョートル・ペトローヴィッチはやくざな金棒引きよ」とふいにドゥーネチカはずばりと言った。
 プリヘーリヤは鳴りをひそめた。会話はぷつりと切れた。
「ねえ君、君にちょっと話があるんだ……」とラスコーリニコフは、ラズーミヒンを小窓の方へ引っ張って行きながら、こう言った……
「では、カチェリーナ・イヴァーノヴナに、いらしてくださいますと申し伝えますから……」ソーニャはそわそわと帰りじたくをして、会釈しながら言った。
「ただ今すぐ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、僕たちの話は何も秘密じゃないんですから、けっしてかまいませんよ……僕はまだあなたに一言言いたいことがあるんです……」と言い終わらないうち、彼は急にぷっつり断ち切ったように、ラズーミヒンの方へふり向いた。「あのね、君、君は知ってるんだろう、あのほらなんといったっけな!……ポルフィーリイ・ペトローヴィッチさ?」
「知らなくってさ! 親類だもの、それがどうしたんだい?」こちらはこみ上げて来る好奇心にかられて、こう言い足した。
「だって、あの男が今あの事件を……ほら、例の殺人事件さ……ねえ、きのう君らが話していた……あれを扱ってるって?」
「うん……それで?」とラズーミヒンは急に目をみはった。
「あの男が入質人を調べたそうだが、実は僕も置いたものがあるんだ。なに、つまらないものだがね、でも僕がこっちへ出て来る時に、妹が記念にくれた指輪と、親父の銀時計なんだ。皆で五、六ルーブリの代物しろものだが、僕にしては大切なものなんだよ、記念かたみだからね。そこで、どうしたもんだろう? 僕はそいつをなくしたくないんだ、ことに時計の方をね。さっきドゥーネチカの時計の話が出たとき、母があれを見せろと言やしないかと思って、僕はびくびくしていたんだ。何しろ親父のあとに残った唯一の記念品かたみなんだから。もしあれがなくなったら、母は病気になってしまう! 何しろ女だからね! まあ、こういったわけで、どうしたもんだろう、一つ教えてくれないか! 警察へ届けることは知ってるが、それよりいっそ、ポルフィーリイに直接の方がよくはないかと思うんだ、え? 君どう思う? なんとか早く処置をつけなくちゃ。見ていたまえ、また食事の前に、母がきっと言い出すから!」
「警察なんか絶対に駄目だ、どうしてもポルフィーリイのところだな!」ラズーミヒンはなぜか非常に興奮して叫んだ。「いや、そいつは愉快だ! 何もぐずぐずしてることはない。すぐ出かけよう。ほんの一足だ。きっと家にいるよ!」
「そうだな……行ってもいい……」
「あの男も君と近づきになるのは、非常に、非常に、非常に喜ぶよ! 僕も君のことはあの男に、もうたびたび話したよ、いろんな時にね……現に昨日も話したんだぜ。行こう!……じゃ、君はあの婆さんを知ってたんだね? そいつはけっこうだ!……これは、実にうまい都合になって来たぞ!……あっ、そうだ……ソフィヤ・イヴァーノヴナ……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナだよ」とラスコーリニコフは訂正した。「ソフィヤ・セミョーノヴナ、これは僕の友人で、ラズーミヒンといいます。いい男ですから……」
「これからお出かけになるんでしたら……」まるでラズーミヒンの方を見ないで、ソーニャはこう言ったが、そのためよけいにまごまごしてしまった。
「じゃ、一緒に出かけましょう!」とラスコーリニコフは話を決めた。「今日にもさっそく僕あなたのところへお寄りします、ただね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、どこへお住まいですか、それを聞かしてくれませんか?」
 彼はまごついたというほどではないが、なんとなくせきこんだ様子で、彼女の視線を避けるようにした。ソーニャは自分の居所を教えたが、その時また赤くなった。三人は一緒に出かけた。
かぎはかけないのかい?」二人のあとから階段をおりながら、ラズーミヒンがきいた。
「一度もかけたことはないよ!……もっとも、もう二年ばかりというもの、しょっちゅう錠を買いたいとは思ってるんだがね」と彼は無造作にいい足した。「鍵をかける必要のない人間は、幸福なもんですね?」と彼は笑いながら、ソーニャに話しかけた。
 やがて三人は表へ出て、門口で立ち止まった。
「あなたは右へですね、ソフィヤ・セミョーノヴナ? ときに、あなたはどうして僕を捜し当てました?」何かまるで別なことを言いたそうなようすで、彼は彼女に尋ねた。彼は絶えず彼女の落ち着いた、澄んだ目を見たかったけれど、なぜかそれができなかった……
「だって昨日ポーレチカに、お住まいをおっしゃったじゃありませんか」
「ポーリャ? ああ、そう……ポーレチカ! あの……小さい女の子……あれはあなたの妹さんでしたね? 僕あの子に住所を教えたかしら?」
「まあ、お忘れになったんですの?」
「いや……覚えています……」
「それに、あなたの事はなくなった父からも、あの当時お噂を伺ったことがありますの……もっとも、その時はまだお名前を存じませんでしたし、父もやはりそうでした……ただいま参りましたとき……昨晩ご名字を伺いましたので、ラスコーリニコフ様のお住まいはどちらかと、尋ねましたのですけれど……あなたがやはり間借りしていらっしゃるとは、思いも寄りませんでした……では、失礼いたします……わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ……」
 彼女は、やっと二人に別れたのがうれしくてたまらなかった。彼女は目を伏せて、急ぎ足に歩いた。一刻も早く二人の目から隠れて、次の通りへ曲る右角までの二十歩を、一刻も早く通り過ぎ、一人きりになってゆっくり歩きながら、誰の顔も見ず、何一つ気にもとめないで、いま話した一つ一つのことば、一つ一つの状況を考えたり、思い出したり、考え合せたりしたかったのである。彼女はこれまでかつて一度もこんな感じを経験したことがなかった。大きな新しい世界がいつともなく、ぼうっと彼女の心にはいりこんだのである。彼女はふと、ラスコーリニコフが今日訪ねたいと言ったことを思い出した。もしかしたら朝のうちに、ことによると今すぐにも!
「ただ今日だけはいらっしゃらないように、どうぞ今日でないように!」まるで小さい子供がおびえたとき哀願するように、彼女は胸のしびれるような思いでつぶやいた。「ああ、どうしよう! わたしのところへ……あの部屋へ……あの方がごらんになる……ああ、どうしよう!」
 で、彼女はその時、一人の見知らぬ男がすぐあとから、根気よくつけてくるのに、もちろん気のつくはずがなかった。男は彼女が門を出るとすぐ、つけていたのである。ラズーミヒンと、ラスコーリニコフと、彼女が三人そろって、歩道の上で立ち話をしていたちょうどその折、この通行人は傍を通りすがりに、思いがけなく小耳にはさんだ『ラスコーリニコフ様のお住まいはどちらかと尋ねました』というソーニャのことばに、思わずぴくりとしたのである。彼はすばやくしかも注意して三人を、ことにソーニャが話しかけていたラスコーリニコフを見回し、それから家をじろりとながめて、記憶にとめた。これはすべて一瞬時のことで、歩きながらのことだった。それから男は、何くわぬ顔をして通り過ぎ、少し先へ行ってから、何か待ち受けるように足をゆるめた。彼はソーニャを待っていたのである。別れを告げているのも、ソーニャがすぐどこか自分の家へ帰って行くらしいのも、彼はすっかり見てとったのである。
『だが、いったいどこへ帰って行くんだろう? あの顔はどこかで見たような気がする』と彼はソーニャの顔を思い出しながら考えた。『一つ突き止めなきゃ』
 曲がり角まで行き着くと、彼は通りの反対側へ移って、振り返って見た。すると、ソーニャは後ろから同じ道を、なんにも気がつかないで歩いて来る。曲がり角まで来ると、ちょうど彼女も同じ方へ曲がった。彼は反対側の歩道から、目を離さないようにしてつけて行った。五十歩ばかり行くと、彼はまたソーニャの歩いている側へ移って、そばまで追いつき、五歩ばかり間隔をおいてあとをつけた。
 それは年のころ五十ばかり、丈は中背よりもやや高く、幅の広い怒り肩のために、いくらか猫背のように見える、体格のいい男であった。彼はハイカラな着ごこちよげな服装をし、いかにも堂々たる紳士らしい風采ふうさいをしていた。彼は洒落しゃれたステッキで一歩ごとに歩道をこつこつ鳴らし、手には新しい手袋をはめていた。頬骨の高い大きな顔はかなり感じがよく、いきいきした色つやを帯びていて、ペテルブルグ人らしくなかった。髪はまだ非常に厚く、ほんのわずか白いものが見えるだけで、完全な亜麻色をしていた。シャベル形に延ばされた幅広の濃いひげは、頭の髪よりもっと薄色をしていた。空色の目は冷たく、じっと物思わしげな表情をし、唇はまっかだった。全体に彼は少しも老い込まないたちの、年よりずっと若く見える男であった。
 ソーニャが濠端ほりばたへ出たとき、歩道には彼ら二人きりであった。彼はしさいに観察しているうち、彼女が物思いに沈んで、ぼんやりしているのに気がついた。自分の家まで来ると、ソーニャは門内へはいった。彼はそのあとからついてはいったが、いささか驚いたような風だった。中庭へはいると、彼女は自分の住まいへ通ずる階段をさして、右の隅へ向かった。『おや!』と見知らぬ紳士はつぶやき、彼女の後ろから階段を上り始めた。その時ソーニャは初めて彼に心づいた。彼女は三階へ上って廊下ギャラリーを曲がり、戸に白墨で『裁縫職カペルナウモフ』と書いてある九号室のベルを鳴らした。『おや!』と見知らぬ紳士は不思議な符合に驚いて、またくり返した。そして、並びの八号室のベルを鳴らした。二つの戸口は、六歩ばかりしか隔てていなかった。
「あなたはカペルナウモフのところにお住まいですかい!」と彼はソーニャを見て笑顔で言った。「昨日わたしはあの男に、チョッキを直してもらいましたよ。わたしはついお隣のマダム・レスリッヒ――ゲルトルーダ・カールロヴナのところに下宿してるんですよ。妙な事があればあるものですなあ!」
 ソーニャはじっと注意深く彼を見つめた。
「お隣同士ですな」と彼は何かかくべつ愉快らしく話し続けた。「わたしはペテルブルグへ来てからやっと三日めなんです。では、またお目にかかりましょう」
 ソーニャは答えなかった。ドアが開くと、彼女は自分の部屋へすべり込んだ。なぜか恥かしくなり、なんとなくおじ気づいたような風情だった……
 ラズーミヒンは、ポルフィーリイのところへ案内する道みち、かくべつ興奮したような気分になっていた。
「いや、君、じつによかったよ」と彼は幾度もくりかえした。「僕もうれしい! 僕もうれしいよ!」
『いったい何がそんなにうれしいんだ?』とラスコーリニコフは腹の中で考えた。
「だって僕は、君もあの婆さんのところに質を置いてたなんて、まるで知らなかったよ。で……で……それはよほど前かね? つまり、もうだいぶ前にあすこへ行ったのかね?」
『ちょっ、なんて頭の単純な馬鹿だ!』
「いつって?……」とラスコーリニコフは考えながら立ち止まった。「そう、殺された三日ばかり前に行ったかなあ。しかし、僕はいま代物を受け出しに行ってるんじゃないよ」と彼は妙にせき込みながら、かくべつ品物のことが気になるという風で、あわてて言い直した。「だって、僕は一ルーブリしか持ってないんだからね……あの昨日のいまいましい夢遊病のおかげでさ!」
 彼は夢遊病ということばを、特に力を入れて発音した。
「うん、そうだ、そうだ、そうだ!」ラズーミヒンはせき込みながら、何やらしきりにあいづちを打った。「ああ、つまりそれでだな、あの時どうして君が……あんなに衝動ショックを感じたのか……実はね、君はあの時、熱に浮かされながら、しきりになんだか指輪のことだの、鎖のことばかりうわ言に言ってたんだよ!……うん、そうだ、そうだ……それではっきりした、今こそ何もかもはっきりした」
『へえ! あいつらの頭にそんな考えがしみ込んでるんだな! この男なんかおれのためには、十字架にだって掛けられるのもいとわないほどなんだが、それですらも、おれが指輪のことをうわ言に言ったわけが、はっきりしたといって喜んでやがる! どうもすっかりこいつが根を張ってたとみえる!……』
「だが、いま行って会えるだろうかな?」と彼は声に出して尋ねた。
「会えるとも、会えるとも」とラズーミヒンは急いで言った。「あれは、君、いい男だよ、今にわかるがね! もっとも、少し無骨なところもあるがね。といって、世慣れた人間なんだけれど、僕は別の意味で無骨だというんだよ。なかなかりこうだ、全くりこうだ、目から鼻へ抜けるくらいなのだが、ただ考え方に何か特殊なところがある……なかなか人を信じなくて、懐疑派で、皮肉屋で……一杯くわすことが好きなんだ。いや一杯くわすというよりか、つまり、人を愚弄ぐろうすることが好きなんだね……まあ、古い物質主義的方法さ……けれど、本職の方はきけるよ、なかなかきけるよ……去年も、ほとんど手がかりのなくなった殺人事件を、みごとに捜し当てたぜ! 君とは非常に、非常に近づきになりたがってるよ!」
「なんだってまた非常にだい?」
「つまり、別に何も……実はね、近ごろ病気になってから、僕が話のついでによく君のことをしゃべったもんだから、先生も聞いてたわけさ……それにあの男はね、君が法科にいたけれど、事情があって卒業できないでいるのを知って、なんという気の毒なことだ、などと言ったこともあるよ。で、僕は結論したんだ……つまり、こんなことがみんな原因になってるんで、これ一つだけじゃない……昨日もザミョートフが……ねえ、ロージャ、僕は昨日君を家へ送りながら、酔ったまぎれに何かしゃべったろう……で、僕はね、君が大仰に考えやしないかと、心配しているんだよ。実は……」
「それはなんだい? 皆が僕を気ちがい扱いにしてるってことかい? なに、本当かもしれないさ」
 彼は緊張したような薄笑いを漏らした。
「そ、そうなんだ……なに、ばかな、そんなことじゃない!……まあつまり、僕の言ったことはみんな……(あの時言ったほかの事もひっくるめて)あれは皆でたらめだ、酒の上のことだ」
「何を君はそんなに言いわけしてるんだい! 僕そんなことにはもうあきあきした!」とラスコーリニコフは大げさにいらだたしげな顔をして叫んだ。
 もっとも、多少は芝居でもあった。
「いいよ、いいよ、わかったよ、口にするも恥かしいくらいだ……」
「恥かしいなら言わないがいい!」
 二人は口をつぐんだ。ラズーミヒンは夢中というより以上の喜び方だった。ラスコーリニコフは嫌悪の念をいだきながら、それを感じたのである。ラズーミヒンが今ポルフィーリイについて言ったことも、やはり彼に不安を与えた。
『あの判事もやはり泣き落としにかけなくちゃならないかな』彼は青くなり、胸をどきどきさせながら、こう考えた。『できるだけ自然にやるんだ。しかし、何も言わないのが一ばん自然だ。一生懸命に何一つ口説かないようにすることだ! しかし、一生懸命となると、また不自然になってしまう……まあ、向こうの出方しだいだ……みてみよう……今すぐだ……だが、今こうして行ってるのは、いいことか悪いことか? 飛んで火に入る夏の虫じゃないかな。胸がどきどきする、これがいけないんだ!……』
「この灰色のうちん中だ」とラズーミヒンは言った。
『何より一ばんかんじんなのは、昨日おれがあの鬼ばばあの家へ行って、血のことをきいたのを、ポルフィーリイが知っているかどうかってことだ。はいるとすぐまっさきに、この事を一目で見破らなくちゃならん。相手の顔つきで読まなけりゃならん。でないと……いや、たとい身の破滅になっても探ってみせる!』
「ときに、君」とふいに彼はラズーミヒンに向かい、ずるそうな微笑を浮かべながら言った。「僕はきょう君が朝から、どうも恐ろしく興奮しているのに気がついたが、当たったろう?」
「どう興奮してるんだい? 別に何も興奮なんかしてないよ」ラズーミヒンはぎくっとした。
「いや。君、まったく目についたよ。さっき椅子に掛けてる様子だって、いつもとまるで違ってたぜ。いやに端っこの方にちょこんと乗っかって、のべつけいれんでも起こしてるようだったぜ。わけもないのに飛び上がったり、へんに怒りっぽいかと思うと、ふいにどうしたのか、甘い甘い氷砂糖のようなご面相になったり、おまけに赤い顔までしたじゃないか。ことに食事に招かれた時なんか、恐ろしくまっかになったぜ」
「そんなことがあるもんか、嘘いえ! いったいなんだってそんなことを言うんだ?」
「じゃ、君はなんだって小学生みたいにもぞもぞするんだよ! ちょっ、こんちくしょう、また赤くなりやがった!」
「きさまはなんて恥しらずだろう、実に!」
「じゃ、なぜ君ははにかむんだい? ロメオ! まあ待ってろ、おれは今日どこかですっぱぬいてやろう、は、は、は! 一つおふくろを笑わせてやろう……それからまたほかの誰かも……」
「まあ聞いてくれ、聞いてくれ、聞いてくれったら、だってこりゃまじめなことなんだよ、これは実際……そんなことをしたら、いったいどうなると思う、くそっ!」とラズーミヒンは恐ろしさにきもを冷やしながら、すっかりまごついてしまった。「いったい何をあの人たちに言うつもりなんだい? 僕は、君……ちょっ、きさまはなんて恥しらずだ!」
「いよう、もういよいよ春のばらという風情だ! またそれの君によく似合うこと、ちょっと君に見せてやりたいよ。六尺ゆたかのロメオときた! だが君、今日はうんとみがき上げたもんだな、爪まで掃除してるじゃないか、え? 今までいつそんなことがあったい? おや、こりゃポマードまでつけてるぞ! 頭をかがめて見せろよ!」
「こんちくしょう!」
 ラスコーリニコフはもう抑えきれないほど笑いころげた。そして、笑いながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチの住まいへはいった。つまりラスコーリニコフには、これが必要だったのである。彼らが笑いながらはいって来て、控室でもまだ高笑いしているのが、中から聞こえるようにしたかったのである。
「ここで一言でも言ったら承知せんぞ、でなけりゃきさまを……たたきつぶすぞ!」ラスコーリニコフの肩をつかみながら、ラズーミヒンは狂気のようにわめいた。


 が、こちらはもう部屋の中へ足を踏みこんでいた。彼はどうかして吹き出すまいと、精いっぱいこらえているような顔つきではいって行った。そのあとから、すっかり動顛どうてんして、見るからすさまじい面相のラズーミヒンが、しゃくやくのようにまっかになり、さも恥かしそうにのっそのっそと、へまなかっこうをしてはいって来た。その顔つきと全体の様子は、この時全く滑稽こっけいそのものだったので、ラスコーリニコフの笑いをいかにも自然に感じさせた。ラスコーリニコフはまだ紹介もされないのに、部屋のまんなかに突っ立ってけげんそうに二人を見ているあるじに会釈した後、手を差し伸べて握手したが、その間も絶えず自分の浮き浮きした気分を抑えて、せめて二口でも三口でも自己紹介のことばを述べようと、見るから一生懸命になっている様子だった。けれど、やっとのことでまじめな態度に返り、何か言い出そうとして――また何げなしといったようなぐあいに、ラズーミヒンの方を見やると、もう今度こそどうにもがまんし切れなくなった。抑えに抑えていた笑いは、今まで抑えていた度が強かっただけ、一そう激しく破裂した。また『この心底からの』笑いを聞いて、ラズーミヒンの見せたもの凄まじい形相は、この場の光景全体に、この上なく真実味に富んだ陽気な気分と、それに何より大切な自然らしさとを添えたのである。ラズーミヒンは、わざとあつらえたように、なおもこの仕事を手伝った。
「ちぇっ、こんちくしょう!」と彼は片手をひと振りして咆吼ほうこうしたが、そのはずみに、もう飲んでしまった茶のコップののっている小さな円テーブルをなぐりつけた。
 何もかも一度にけし飛んで、がらがらと凄まじい音を立てた。
「諸君、いったいなんだって椅子を壊すんです、国庫の損害じゃありませんか!」(ゴーゴリ『検察官』の中の有名なせりふ)とポルフィーリイ・ペトローヴィッチは愉快そうに叫んだ。
 その場の光景は、まずこういったぐあいであった――ラスコーリニコフは、自分の手を主人の手の中におき忘れて、腹に足りるほど笑い抜いたが、しかしほどというものを心得ているので、少しも早くなるべく自然に切り上げる機会しおを待っていた。テーブルを倒したり、コップを壊したりしたので、すっかりまごついてしまったラズーミヒンは、陰鬱いんうつな表情でコップのかけらを見やったが、いきなりぺっとつばを吐いて、くるりと窓の方へ体を向け、一座に背中を見せて立ったまま、恐ろしくむずかしい顔をして窓の外をながめていた。が、その実何ひとつ目にはいらなかったので。ポルフィーリイも笑った。そして、笑いたい気持もさることながら、しかし見うけたところ、わけを説明してもらいたいらしかった。隅の方の椅子にザミョートフがすわっていたが、客のはいって来るのを見ると、腰を持ち上げて立ったまま、微笑に口をゆるめて待っていた。とはいえ、何やら合点のいきかねる、というよりうさんくさそうな様子で、この光景をながめていた。ことにラスコーリニコフを見る目には、一種狼狽ろうばいの色さえ感じられた。思いがけないザミョートフの同席は、ラスコーリニコフに不愉快なショックを与えた。
『こいつはまた頭に入れとかなくちゃならんぞ!』と彼は思った。
「どうも失礼しました」大げさにもじもじしながら彼は口を切った。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、お近づきになれて実に愉快です。それに、あなた方もたいへん愉快そうにはいって来られましたね……だが、いったいどうしたんだ、あの男は挨拶あいさつするのもいやなのかね?」とポルフィーリイはラズーミヒンをあごでしゃくって見せた。
「いや、全くのところ、どうしてああ気ちがいみたいに怒るんだか、わけがわからないんですよ。僕はただ途中で、あの男がロメオに似てると言って、そして……それを証明しただけなんですよ。ただそれだけで、ほかには何もなかったように思うんですが」
「この恥しらず!」とラズーミヒンはふり向きもしないで叫んだ。
「ふん、たった一言でそんなに腹を立てるところを見ると、何か非常に真剣な原因が伏在してるわけですね」とポルフィーリイはからからと笑った。
「なんだ、きさまは! どこまでも予審判事根性だな!……ええ、きさまたちはどいつもこいつも勝手にしやがれ!」とラズーミヒンは断ち切るように言った。
 と、急に自分でからからと笑いながら、何事もなかったように愉快そうな顔をして、ポルフィーリイの傍へ寄った。
「もうこれで打ち止めだ! 君たちはみんな馬鹿さ。それよりも用件にかかろう。これは僕の友人のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフだ。第一には、いろいろ君の話を聞いて、近づきになりたいというし、第二には、君にちょっとした用があって来たんだ。おや! ザミョートフ! 君はどうしてここにいるんだね? いったい君らは知りあいなのかい? もう前っから懇意なのかい?」
『こりゃまたなんということだ!』とラスコーリニコフは胸を騒がせながら考えた。
 ザミョートフもちょっとまごついたらしかったが、さほどではなかった。
「きのう君んとこで近づきになったのさあ」と彼はくだけた調子で言った。
「じゃうまく紹介料をもうけたわけだな。実はね、ポルフィーリイ、先週この男が、どうかして君に紹介してもらいたいって、僕にやかましくせがんだんだよ。ところが、君らは僕を出しぬいて慣れ合っちまってさ……ときに、煙草はどこにあるかい?」
 ポルフィーリイ・ペトローヴィッチは、ガウンの下にさっぱりしたシャツを着込み、はきくずした上靴という、くつろいだ服装なりをしていた。年かっこうは三十五、六、丈は中背よりやや低く、ふとって腹のいくらか出張った男で、顔は口ひげも頬ひげも立てずきれいにり上げて、特にうしろ頭の丸く突き出した大きな丸っこい頭は、短かく刈り込まれていた。少し鼻の低めな丸いぶくぶくした顔は、病的にどす黄色い色をしていたが、かなり生き生きとして、人を食ったような表情さえ帯びていた。とはいえ、この顔は善良な感じを与えたかもしれなかったのだが、ただ誰かに目くばせでもするように、始終ぱちぱちしている白いまつ毛のかぶさった目、妙に淡い水のような光をたたえた目の表情が、なんとなくその善良な印象を邪魔するのであった。この目つきは、女らしいところさえある体全体と妙に不調和で、一目見た時に期待しうるものよりははるかにまじめなあるものを、その姿に添えているのであった。
 ポルフィーリイは、客が自分に『ちょっとした用』を持っていると聞くが早いか、すぐさま彼を長椅子に招じて、自身も一方の端に腰を掛け、即刻用件の説明を待ち受けながら、一生懸命にまじめな注意を払って客の顔を凝視した。こうした注意は初めのあいだ、特に初対面の時など、相手の心持を窮屈にして、ばつの悪い感じを与えるもので、とりわけ自分の用件がさほど大仰な注意を払われるほどのものでない、と思っているような場合にはなおさらなのである。けれどラスコーリニコフは、簡単な要領のよいことばで、自分でも満足するくらい明瞭めいりょう的確に、自分の用件を説明した。で、彼はその間にポルフィーリイの人物を、かなりよく観察するだけの余裕さえあった。ポルフィーリイもずっとその間、一度も彼から目を放さなかった。二人に相対して同じテーブルに向かっていたラズーミヒンは、絶えず二人にかわるがわる目を移しながら、性急なほど熱心にラスコーリニコフの説明を注意していたが、それはいくらか度を過ごすくらいだった。
『ばか!』とラスコーリニコフは腹の中でののしった。
「それは警察へ届けをお出しにならなきゃいけませんな」ときわめて事務的な調子で、ポルフィーリイは答えた。「自分はこれこれの事件、つまりあの殺人事件を承知したので、事件の審理を担当した予審判事に対して、これこれの品が自分のものであるから、それを受け出したいと申し出た……とかなんとか……もっとも警察で適当に書いてくれますよ」
「つまり、そこなんですよ。僕は今」ラスコーリニコフはできるだけ当惑らしい様子をした。「実は金の余裕があまりないので……それくらいのはした金もくめんできない始末なんです……実のところ、今はただあの品は自分のものであるが、金のできた時に……ということだけを届けたいんですが……」
「それはどちらでも同じことです」とポルフィーリイは、財政に関する彼の説明を冷やかに聞き流して、そう答えた。「もっとも、なんなら、直接わたしに書面をお出しくださってもよろしい、やはり同じ意味のね。つまり、かくかくの事件を聞いて、これこれの品が自分のものだということを届け出るとともに、かくかくのお願いがあ……」
「それは普通の用紙でいいんでしょうね?」またしてもふところの方を気にしながら、ラスコーリニコフは急いでさえぎった。
「ええ、ほんとうのありふれた紙でけっこうです!」
 こう言ってふいにポルフィーリイは、いかにも人を小馬鹿にしたような様子で目を細め、ぽちりとまたたきでもするように彼を見やった。もっとも、それはほんの一瞬間のことであったから、ただラスコーリニコフの気のせいだったかもしれない。が、少なくともいくらかそんな風のところがあった。ラスコーリニコフは、なんのためかはしらないが、確かにポルフィーリイは自分に瞬きしたに相違ないと、神明に誓っても主張することができた。
『知ってやがる!』こういう考えが電光のように、彼の頭にひらめいた。
「どうかごめんください、こんなくだらないことでお手数をかけまして」と彼はいくらかへどもどしながら、ことばを続けた。「僕の品物というのは、金にすればわずか五ルーブリくらいのものですが、僕にとっては、それをくれた人の記念かたみとして、かくべつ貴重なんです。で、白状しますと、その話を聞いたとき、全くぎょっとしてしまいました……」
「道理で、僕が昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが入質人を調べてるって、うっかり口をすべらしたとき君があんなにぎくっとしたんだな!」いかにも思わくありげに、ラズーミヒンが口を入れた。
 これはもう我慢しきれなかった。ラスコーリニコフはこらえかねて、憤怒ふんぬに燃える黒い目を毒々しげに、ぎらりと彼の方へ光らせた。と、すぐにはっとわれに返った。
「君はまた僕をなぶるつもりだな!」たくみにいらだたしさを装いながら、彼はラズーミヒンの方へふり向いて、「そりゃ僕だって異存ないさ――全く君の目から見れば、あんなくだらないもののために、気をもみ過ぎたかもしれないよ。しかし、このために僕をエゴイストだの、欲ばりだのというわけにゃいかないぜ。僕の身になってみれば、このつまらない二品だって、けっしてくだらなかないんだからね。もうさっき君に話した通り、あの三文の値うちもない銀時計は、父の記念かたみに残ってる唯一の品なんだからね。まあ、僕のことはいくらでも笑うがいいさ。しかし、こんど母がやって来たもんですから」と彼はふいに、ポルフィーリイの方へふり向いた。「もし母の耳へはいったら」わざと声を震わせるようにと努めながら、彼はまたもや急いでラズーミヒンの方へ向き直った。「あの時計がなくなったってことがわかったら、どんなに落胆するかしれやしない! 何ぶん女だからね!」
「いや、けっしてそうじゃないよ! 僕はけっしてそんな意味で言ったんじゃないよ! まるっきりあべこべだ!」とラズーミヒンはさも情なさそうに叫んだ。
『あれでよかったかな? 自然らしく聞こえたかな? 誇張し過ぎやしなかったかな?』とラスコーリニコフは内心ひそかにはらはらした。『なぜ「何ぶん女だから」なんて言ったんだろう?』
「お母さんが見えたんですって?」なんのためかポルフィーリイは聞き直した。
「そうです」
「それはいつのことでした?」
「昨日の夕方です」
 ポルフィーリイは何やら思いめぐらすように、しばらく黙っていた。
「あなたの品物はどんなことがあっても、なくなるはずはなかったんですよ」と彼は落ち着き払って冷やかに続けた。「何しろわたしはだいぶ前から、あなたのおいでを待ってたんですからね」
 彼はこう言いながら、一向なんでもないようなようすで、容赦なく煙草の灰で絨氈じゅうたんをよごしているラズーミヒンの方へ、小まめに灰皿を差し出した。ラスコーリニコフはぎくりとした。が、ポルフィーリイは相変わらず、ラズーミヒンの煙草に気を取られて、彼の方は見もしないらしい様子だった。
「なんだってえ? 待ってた! いったい君は知ってたのかい、この男があすこへ質を置いてたのを?」とラズーミヒンは叫んだ。
 ポルフィーリイはまともにラスコーリニコフの方へふり向いた。
「あなたの二品は、指輪も時計も、あの女のところで一つの紙包みになっていました。そして紙の上には、あなたの名前が鉛筆ではっきり書いてありました。それからあなたから、その品を預った日付も同じように……」
「あなたは実によくお気がつきますね!……」ラスコーリニコフは特に相手の目をまともに見ようと努めながら、いかにもまずい薄笑いを漏らしたが、やはりがまんし切れなくなり、ふいにこう言い足した。「僕がこんなことを言ったのは、つまり入質人はきっとたくさんだったでしょうに……それを全部記憶していらっしゃるのは、容易じゃなかろうと思ったからなんです……ところが、あなたはそれどころか、一人一人はっきり覚えてらっしゃるし、それに……それに……」
『ばかげてる! 力がない! なんだってこんなことをくっつけたんだろう!』
「なに、入質人はもう今じゃたいていみんなわかってるんです。だから、あなた一人くらいなもんですよ、今までおいでにならなかったのは」やっと見えるか見えないかの嘲笑ちょうしょうの影を浮かべて、ポルフィーリイは答えた。
「僕すこし不快だったものですから」
「それも承知していました。それどころか、何かでたいへん頭を悩ましておられたことも聞きました。今でもなんだか顔色がお悪いようですね?」
「顔色なんかちっとも悪かありません……それどころか、すっかり健康ですよ!」とラスコーリニコフは急に調子を変えて、ぞんざいな毒々しい口ぶりで、断ち切るように言った。
 憤怒の念は彼の身内で煮えたぎった。彼はそれを抑えることができなかった。
『腹を立てると、うっかり口をすべらすぞ!』こういう考えが再び頭にひらめいた。『だが、なんだってやつらは俺を苦しめるんだろう!……』
「少し不快だった?」とラズーミヒンはことばじりを取った。「何をごまかしてやがるんだ! つい昨日までほとんど人事不省でうわ言を言ってたくせに……ねえ、君、ポルフィーリイ、これが本当になるかい――やっと足が立つか立たぬ体でいながら、昨日僕らが、僕とゾシーモフがちょっと脇見をしたかと思うと――その間に服を着て、そっと抜け出してさ、かれこれ夜中ごろまで、どこかしらほっつき歩いたんだぜ。しかも、君、まるっきり夢中なんだからね。こんなことが君想像できるかい! 実に珍しい話じゃないか」
「へえ、まるっきり夢中で? それはどうも!」なんとなく女じみた身ぶりで、ポルフィーリイはかぶりを振った。
「ええっ、ばかなことを! あなたに受けちゃいけませんよ! もっとも、それでなくたって、本当にはしていらっしゃらないが!」ラスコーリニコフはそれこそ全く面当つらあてに、うっかり口をすべらしてしまった。
 けれどポルフィーリイはこの奇怪なことばを、よく聞き分けなかったようである。
「だって夢中でなけりゃ、どうして出かけたんだい?」とラズーミヒンは急に熱くなった。「なぜ出て行ったんだ? なんのために?……なぜわざわざ秘密にしてさ? え、いったいあの時の君に健全な理性があったのかい? もう今ではいっさい危険が去ってしまったから、僕はあえて忌憚きたんなく君に言うんだよ!」
「昨日はやつらがうるさくて、うるさくてたまらなかったんだよ」ラスコーリニコフはずうずうしいいどむような微笑を含んで、急にポルフィーリイの方へふり向いた。「で、僕は貸間を捜そうと思って、人のそばから逃げ出したんです。もう二度と見つけ出されないように、金をしこたま引っつかんで出たわけです。ほら、あのザミョートフ氏がその金を見ていますよ。ねえ、ザミョートフ君、きのう僕は正気だったか、それとも夢中だったか、一つ争論を解決してくれませんか」
 彼はこの瞬間、ザミョートフを絞め殺しもしかねないような気持がした。彼の目つきと沈黙が、いかにも気に食わなかったのである。
「僕に言わせると、君の話しっぷりはきわめて理性的で、むしろずるいくらいでしたよ。ただあまりいらいらしすぎるところはありましたがね」とザミョートフはそっけなく言い切った。
「きょう署長のニコジーム・フォミッチから聞いたんですが」とポルフィーリイは口を入れた。「昨日もうだいぶ遅くなって、馬に踏み殺されたある官吏の家で、あの男があなたに出合ったとかって……」
「さあ、現にその官吏のことだってさ!」とラズーミヒンはことば尻を抑えた。「ねえ、君はその官吏の家でしたことだって、いったい気ちがいざたじゃなかったのかい? なけなしの金をはたき上げて、葬式の費用に後家さんにくれてしまったじゃないか! そりゃ、助けてやろうと思ったら――十五ルーブリか二十ルーブリもやればいいじゃないか。まあなんにしても、せめて三ルーブリくらいは自分に残しておくべきはずなのに、二十五ルーブリそっくりほうり出してしまうなんて!」
「だが、もしかしたら、僕はどこかで埋めた宝でも見つけたのを、君が知らないのかもわからんぜ! 現に昨日もあの通り、大尽ぶりを見せたんだからな……ほら、あのザミョートフ氏も、僕が宝を見つけたのをご存じだ! あなた、どうぞごめんください」彼は唇をふるわせながら、ポルフィーリイの方へふり向いた。「こんなくだらない詮索せんさくで、半時間もあなたのおじゃまをして。さぞあきあきなすったでしょうね、え?」
「とんでもない、それどころですか、それどころですか! あなたがどれくらいわたしに興味を感じさせなさるか、恐らく想像もおつきにならんでしょう。見ていても、聞いていても、実に面白いんですよ……で、正直なところ、とうとうあなたがおいでくだすったのが、私は非常にうれしいんです……」
「だが、せめて茶でもくれないか! のどがからからになっちゃった!」とラズーミヒンはどなった。
「いいことに気がついた! 諸君もつき合ってくださるだろう。だが、どうだね……もっと実のあるものをやったら、茶の前に?」
「早くとっとと行くがいい!」
 ポルフィーリイは茶を言いつけに出て行った。
 さまざまな想念が旋風のように、ラスコーリニコフの頭の中を渦巻いた。彼はむやみにいらいらしていた。
『問題は何よりも、やつらが隠しもしなければ、遠慮しようともしないことだ! もしまるっきりおれのことを知らなければ、どういうわけで署長とおれの話なんかするんだ? これで見ると、やつらはもう犬の群れみたいに、おれのあとをつけ回しているのを、隠そうとも思ってないんだ! もうあけすけに、面と向かってつばをひっかけてやがる!』彼は憤怒ふんぬに身をふるわせた。『ぶつならさっさとぶつがいい、猫が鼠をおもちゃにするようなまねはよしてくれ。それはあまり無礼じゃないか、え、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、おれだって黙ってそんなことをさしちゃおかないかもしれないぞ!……いきなり立ち上がって、やつらのしゃっつらに真相を残らず吐きかけてやるぞ。その時こそ、どれくらいおれがきさまたちを侮蔑ぶべつしてるかわかるだろう!……』彼はやっとのことで息をついた。『だが、もしこれが唯おれの気のせいだったら? ほんの蜃気楼しんきろうにすぎないで、おれがすべてを誤解しているのだったら? 無経験なためじりじりして、この卑劣な役を持ちこたえることができないのだったら? もしかすると、あれは別に思わくあってのことじゃないかもしれないぞ! やつらが言うのは、みんな平凡なことばばかりだが、しかしその中には何かある……あんなことはいつでも言えることばだが、しかしどうも何かある。なぜあいつは「あの女のところ」とぶっつけに言ったんだろう? なぜまたザミョートフは、おれがずるい口のきき方をしたなんて言い足したんだろう? なぜやつらはあんな調子で話をするんだろう? そうだ……調子だ……ラズーミヒンも同じようにここにいながら、なぜ何も感じないんだろう? いや、この罪のないでくの坊は、いつだって何も感じやしないんだ! また熱が出てきた!……さっきポルフィーリイはおれに瞬きしたんだろうか、それとも違うかな? きっとなんでもないんだろう。なんのために瞬きする必要がある? やつらはおれの神経を刺激したいのか、それともおれをいらいらさせるつもりか? ああ、何もかも蜃気楼なのか、それともやつらは知ってるのか? ザミョートフまでが生意気な……いや、本当にザミョートフは生意気なのかな? ザミョートフは一晩で考えを変えたんだ。おれもやつが考えを変えるだろうと予感していた! やつはここを我家のように振舞ってるが、そのくせはじめて来たばかりじゃないか。ポルフィーリイも客とは思っていないとみえ、やつの方へ背を向けてすわっている。やつらは慣れ合いやがったんだ! てっきり、おれのことで慣れ合いやがったんだ! きっとおれたちの来るまで、おれの話をしてやがったんだ!……ところで、あの住まいを見に行ったことを、知ってやがるかな? ああ、少しも早くそれを突き止めなくちゃ。おれがきのう貸間を捜すために逃げ出したと言った時、やつは聞き流して問題にしなかったが……とにかく貸間のことを一口はさんどいたのはうまかった。あとで役に立つ。夢中で、というわけだからな!……は、は、は! やつは昨夜のことを残らず知ってる! ところが、母の来たことは知らないんだ! あの鬼婆おにばばめ、鉛筆で日付を書いてるって!……どっこい、そんな手に乗るもんか!……だって、それはまだ事実じゃなくて、蜃気楼にすぎないじゃないか! だめだよ、一つ事実を指摘して見せてもらおう! 貸間を見に行った件だって事実じゃない、熱のせいだからな。やつらに言う口実は、ちゃんと心得てるぞ……だが、貸間の一件は知ってるだろうか? それを突き止めるまでは帰らないぞ! なんのためにここまで来たんだ? ところで、今おれはこんなにじりじりしているが、この方がどうやら事実らしいて! ちょっ、おれはなんてかんしゃくもちだ! が、これもかえっていいかもしれない。病的の役割だからな……やつはおれに探りを入れてるから、おれをまごつかせにかかるだろう。ああ、おれはなんのためにこんなとこへ来たんだ?』
 こうしたいっさいの想念が、稲妻のごとく彼の頭をひらめき過ぎた。
 ポルフィーリイ・ペトローヴィッチはすぐ引っ返した。彼はなんだか急にうきうきしてきた。
「僕はね、昨日の君の宴会以来どうも頭が……それに体じゅうがなんだかぜんまいがゆるんだようなぐあいでね」と彼は全然べつな調子で、笑いながらラズーミヒンに口を切った。
「で、どうだった、面白かったかい? 何しろ僕はちょうど興の乗ったところで抜けちゃったもんだから! で、誰が勝ったい?」
「もちろん、誰も勝ちゃしないさ。永遠無窮の問題ととっくんで、天空を駆けたばかりだ」
「おい、ロージャ、昨日われわれはどんな問題ととっくんだと思う? 犯罪の有無という問題なんだぜ。しまいには、とてつもない迷論になっちゃったのさ!」
「何も不思議はないじゃないか? ありふれた社会問題だよ」とそわそわした調子でラスコーリニコフは答えた。
「問題はそんな形をとっていたんじゃないよ」ポルフィーリイは注意した。
「形は多少ちがう、それは正にそうだ」ラズーミヒンはいつものくせでせき込んで熱しながら、すぐにこう同意した。「いいかね、ロージャ、一つ聞いて、意見を聞かしてくれ。ぜひ所望なんだ。きのう僕は彼らを相手に苦心惨憺さんたんしてね、君の来るのを待ってたんだよ。僕は皆に君の来ることを話したもんだから……まず最初は社会主義の見地から始まったのさ。その見地たるや周知の如く、犯罪は社会制度の不備に対する抗議だというのさ――ただそれっきりで、それ以外にはなんにもないんだ。それ以外にはいかなる原因も受けつけないんだ――まるで何一つ!……」
「またでたらめを言ってる!」とポルフィーリイは叫んだ。
 彼は目に見えて活気づいてきた。そして、ひっきりなしに笑いながら、ラズーミヒンの顔を見ては、一そう彼をたきつけるのであった。
「いーっさい受けつけないんだ!」とラズーミヒンはやっきとなってさえぎった。「でたらめじゃないよ!……なんならあの連中の本でも見せてやる。あの連中に言わせると、なんでも『環境にむしばまれた』がためなんだ――それ以外には何もありゃしない! 十八番の紋切型さね! それをまっすぐに推して行くと、もし社会がノーマルに組織されたら、すべての犯罪も一度に消滅してしまう。なぜなら、抗議の理由がなくなって、すべての人がたちまち義人になってしまうから、とこういう結論になるのさ。自然性なんか勘定に入れられやしない。自然性は迫害されてるんだ。無視されてるんだ。彼らに言わせると、人類は歴史的の生きた過程を踏んで、最後まで発展しつくすと、ついにおのずからノーマルな社会となるのじゃなく、その反対に、何かしら数学的頭脳から割り出された社会的システムがただちに全人類を組織してさ、一瞬の間に、あらゆる生きた過程に先だって、生きた歴史的過程などいっさいなしに、それを正しい罪のない社会にするんだそうだ! だからこそ、彼らは本能的に歴史というものが嫌いなのだ。『歴史なんてみんな醜悪で愚劣なものだ』そう言って、すべてを愚劣一点張りで説明している! だからこそ、人生の生きた過程を好まないで、生きた魂などはいらないと言うのだ! 生きた魂は生命を要求する、生きた魂は機械学に従わない、生きた魂はうさんくさい、生きた魂は退嬰的たいえいてきだ! ところが、社会主義的社会の人間は、少し死人臭いにおいはするけれど、ゴムで作ることができる――しかし、その代わり生きていない、その代わり意志がない、その代わり奴隷みたいなもので、反逆もしない! で、その結果は、ただ共同宿舎の煉瓦れんがを積んだり、廊下や部屋の間取を按排あんばいしたり、それだけのものに簡略されてしまった! しかし、共同宿舎はできたにしても、共同宿舎のための自然性がまだできていない。生活がほしい、生きた過程をまだ完成していない、墓場へ行くのはまだ早い! とこう叫ぶのだ。ただ論理だけで、自然性を飛び越すことはできない! 論理はただ三つの場合を予想するのみだが、実際にはそれが無数にあるんだからな! その無数の場合を切り離して、すべてを快適コムフォルトという一つの問題に片付けてしまうんだから、問題を解決するのにこれより楽な方法はありゃしないさ! 人を誘惑するに足りるほど明瞭めいりょうだ、考える世話がないからね! かんじんなのはここさ――考える世話がない! 人生のあらゆる秘密も、三十二ページの印刷物パンフレットで尽きてしまうんだからなあ!」
「さあ、暴れ出したぞ、滔々とうとうとして尽くることなしだ! こいつ手でも抑えてやらなくちゃいかんわい」とポルフィーリイは笑った。「ねえ、どうでしょう」と彼はラスコーリニコフの方へふり向いた。
「昨夜もやはりこの通りだったんですよ、六人が声をそろえて……しかもその前にポンス酒を飲んでるんですからね――たいてい想像がつきましょう?――ところで、君、そりゃ違うよ、でたらめだ。『環境』というものは、犯罪に重大な意義を持ってるよ。これは僕が証明してみせる」
「重大な意義を持ってるくらいのことは、僕だって知ってるよ。じゃ一つ、僕の質問に答えてみたまえ。四十男が十になる女の子を凌辱りょうじょくしたとしたら――それも環境がさせたわざかい?」
「なに、そりゃ厳密な意味でいえば、やはり環境だとも言えるさ」と驚くほどものものしい口調で、ポルフィーリイはこう言った。「一少女に対するその種の犯罪は、もちろん、もちろん『環境』で説明ができるよ」
 ラズーミヒンはもう危うく夢中になりそうだった。
「よし、お望みなら、今すぐにでも論証してやるぞ」と彼はわめき立てた。「君のまつ毛の白いのはほかでもない、ただイヴァン大帝(クレムリン内にある大鐘の異名)の高さが三十五間あるがためにすぎないってわけを、明快に、的確に、進歩的に、いやそれどころか、リベラリズムの陰影さえつけて論証してみせよう? いいか、やるぞ! なんなら、けだ」
「よしきた! ね、どんな風に論証するか、一つ聞こうじゃありませんか!」
「ええ、くそっ、どこまでも白っぱくれやがる、こんちくしょう!」とラズーミヒンは叫んで、おどり上がりざま片手を一振りした。「ちょっ、きさまなんかと議論する価値はないや! あれはね、君、みんなわざとやってるんだよ、ロージャ、君はまだよくこの男を知らないんだ! 昨日もこいつはみんなを愚弄ぐろうしたいばかりに、やつらの肩を持ったんだぜ。ああ、昨日この男の言ったことときたら! しかも、やつらはそれを喜んでるんだからな!……この男はこんな調子で二週間ぐらいは持ちこたえられるさ。去年も、なんのためだか知らないが、坊主になるなんて言い出して、僕らを信じ込ましてさ、二月も強情を張り通したもんだ! ついこの間も、おれは結婚する、式の用意もすっかりできたといって、僕らもほんとうにお祝いまで言い出したんだよ。ところが花嫁もいなけりゃ、なんのもありゃしない、何もかも蜃気楼さ!」
「ほら、でたらめだ! 服はその前にこしらえたんだよ。新調の服ができたについて、君らをかついでやろうという考えが起こったのさ」
「実際あなたは、そんなに白っぱくれる名人なんですか?」とラスコーリニコフは無造作に尋ねた。
「あなたはそうじゃないと思ったんですか? 待ってらっしゃい、今にあなたも一杯くわしてあげますから――は、は、は! いや、なんですよ、あなたにすっかり本当の事を言ってしまいましょう。犯罪とか、環境とか、女の子とか、すべてそういう問題に関連して、今ふと思い出したんですが――いや、今までもずっと興味を持っていたんですが、あなたの書かれたちょっとした論文なんです。犯罪に就いて……とかなんとかいいましたね、題はよく記憶しませんが、二月ばかり前に『定期新聞ペリオジーチェスカヤ・レーチ』で拝見の栄を得ました」
「僕の論文? 『定期新聞』で?」とラスコーリニコフは驚いて問い返した。「僕はじっさい半年ばかり前、大学をよす時に、ある本のことで論文を一つ書きましたが、そのとき僕はそれを『週刊新聞エジエネジェーリナヤ・レーチ』に持って行ったんで、『定期新聞』じゃありません」
「ところが、『定期新聞』にのったんですよ」
「ああ、全く『週刊新聞』が廃刊したので、そのとき掲載されなかったんです……」
「それはそうに違いありませんが、『週刊新聞』は廃刊すると同時に、『定期新聞』と合併したので、あなたの論文も二月前に『定期新聞』にのったわけです。いったいご存じなかったんですか?」
 ラスコーリニコフは事実少しも知らなかった。
「冗談じゃない、あなたは原稿料を請求することもできるくらいなのに! だが、あなたもなんというご気性でしょう! 直接自分に関係したことまでご存じないほど、世間ばなれのした生活をしておられるんですね。だって、それは事実ですよ」
「えらいぞ、ロージャ! 僕もやっぱり知らなかったよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「さっそくきょう図書館へ行って、その号を借りて見よう! 二月前だね? 日はいつだろう? いや、まあ、どうでもいい、捜し出してやるから! こいつぁ面白い! それでいて、なんにも言わないんだからなあ!」
「でも、あれが僕のだということが、どうしておわかりになりました? ぼく頭字だけしか署名してなかったのに」
「ふとしたことでね、しかもつい二、三日まえですよ。編集者から聞いたんです。知合いなもんですから……非常な興味を感じましたよ」
「たしか僕は、犯罪遂行の全過程における、犯罪者の心理状態を検討したようにおぼえていますが」
「そうです。そして犯罪遂行の行為は、常に疾病を伴なうものだと、主張していらっしゃる。実に、実に独創的な意見ですな。しかし……わたしが興味を抱かされたのは、あなたの論文のこの部分じゃなくて、結末の方にちょっと漏らしてあった一つの感想なんです。けれど、残念なことに、そこはただ暗示的に書かれてるだけなので、明瞭でないんです……一口に言えば、お覚えですかどうですか、つまり世の中には、あらゆる不法や犯罪を行ない得る人……いや、行ない得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい――とこういう事実に対する暗示なのです」
 ラスコーリニコフは、この故意に誇張した自分の思想の曲解に、にやりと薄笑いを漏らした。
「ね、なんだって? 犯罪に対する権利だって? じゃ『環境にむしばまれた』からじゃないんだね」と何かしらおびえたような表情さえ浮かべながら、ラズーミヒンは尋ねた。
「いや、いや、そうばかりでもないよ」とポルフィーリイは答えた。「問題はだね、この人の論文によると、あらゆる人間が『凡人』と『非凡人』にわかれるという点なのさ。凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。だって、その、彼らは凡人なんだからね。ところが非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行ない、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている、たしかそうでしたね、わたしが誤解していないとすれば?」
「いったいどうしてそんなことになるんだ? そんなことはあるわけがない!」とラズーミヒンは合点がいかぬという風で、こうつぶやいた。
 ラスコーリニコフはまたにやりと笑った。彼はどこへ自分を釣り出そうとしているのか、相手の真意は那辺なへんにあるのか、立ちどころに見抜いてしまった。彼は自分の論文を思い出し、いよいよ挑戦に応じようと決心した。
「僕が書いたのは、全然そうでもないんですよ」と彼は率直なつつましい調子で言い出した。「もっとも、正直なところ、あなたはほとんど正確にあの内容を叙述してくだすった。いや、なんなら、ぜんぜん正確にといってもいいくらいです。(……彼はぜんぜん正確だと承認するのが、真実いい気持だったのである)。ただ唯一の相違というのは、ほかでもありません、僕はけっしてあなたがおっしゃったように、非凡な人は常に是が非でも、あらゆる不法を行なわなければならぬ、必ずそうすべきものだと主張したのじゃありません。そんな論文は発表を許されなかったろう、とさえ思われるくらいです。僕はただただ次のようなことを暗示しただけなんです。すなわち『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている……といって、つまり公けの権利というわけじゃありませんがね。ただし、それは自分の思想――時には全人類のために救世的意義を有する思想の実行が、それを要求する場合にのみ限るのです。あなたは僕の論文が明瞭を欠くようにおっしゃいましたね。それなら、できるだけ闡明せんめいの労をいとわないです。あなたもどうやらそれがご希望なんでしょう? こう想像しても間違いじゃないですね。なら、やりましょう。僕の考えによると、もしケプレルやニュートンの発見が、ある事情のコンビネーションによって、一人なり、十人なり、百人なり、あるいはそれ以上の妨害者の生命を犠牲にしなければ、どうしても世に認めさせることができないとすれば、その場合にはニュートンは、自分の発見を全人類に普及するため、その十人なり百人なりの人間を除く権利があるはずです。いや、そうしなければならぬ義務があるくらいです……しかし、それかといって、ニュートンが誰彼なしに手当りしだいの人を殺したり、毎日市場で泥棒したりする、そんな権利を持っていたという結論は、けっして出て来やしません。それから、僕の記憶しているところでは、こんな風に論旨を発展さしたように思います。つまりあらゆる……まあたとえば、全人類的な立法者なり建設者なりは、太古の英雄を初めとして、引き続きリカルガス、ソロン、マホメット、ナポレオンなどといったような人たちは、皆一人残らず、新しい法律をいては、その行為によって、従来世人から神聖視されてきた父祖伝来の古い法令を破棄した、その一事だけでも立派な犯罪人です。したがってむろん彼らは、おのれを救い得るものただ血あるのみという場合になると(たといその血が時として、ぜんぜん無辜むこなものであろうと、古い法令のために勇ましく流されたものであろうと)、流血の惨にすらちゅうちょしなかったのです。これら人間の恩恵者、建設者の大部分が、とりわけ恐ろしい流血者であったということは、刮目かつもくに価いするくらいじゃありませんか。一口に言えば、人は誰でも、単に偉人のみならずわずかでも凡俗の軌道を脱した人は、ちょっと何か目新しいことを言うだけの才能にすぎなくとも、本来の天性によって必ず犯罪人たらざるを得ないのです――もちろん、程度に多少の相違はありますがね。これが僕の結論なんです。でなくては、とても凡俗の軌道を脱することはむずかしい。が、それかといって、そのまま凡俗の軌道に甘んじていることは、やはり本来の天性によってできない相談です。いや、僕に言わせれば、むしろ甘んずべからざる義務があるくらいです。要するに、これまでの僕の議論には、ごらんの通り、かくべつ新しい点など少しもないのです。こんなことはもう何百ぺんも書かれたり、読まれたりしたことです。ところで、凡人、非凡人の分類については、それが少し気まぐれだってことに、僕も異存ありません。しかし僕もあえて、正確な数字に基づいて主張するわけじゃありませんからね。僕はただ根本思想を信じるだけです。その根本思想というのはこうなんです。人は自然の法則によって、概略二つの範疇はんちゅうにわかれている。つまり、自分と同様なものを生殖する以外になんの能力もない、いわば単なる素材にすぎない低級種属(凡人)と、いま一つ真の人間、すなわち自分のサークルの中で新しいことばを発する天稟てんぴんなり、才能なりを持っている人々なのです。その細別は、もちろん無限にあるわけですが、この二つの範疇を区別する特質はかなり截然さいぜんとしています。第一の範疇すなわち材料は、概括的にいって保守的で、行儀がよく、服従をこれ事として、服従的であることを好む人々です。僕に言わせれば、彼らは服従的であるべき義務すら持っているのです。なぜなら、それが彼らの使命なのですからね。そこには彼らにとって断じて何ら屈辱的なものはありません。第二の範疇はすべてみな、法律を踏み越す破壊者か、あるいはそれに傾いている人たちです。それは才能に応じて多少の相違があります。この種の人間の犯罪はもちろん相対的であり、多種多様であるけれど、多くは極めてさまざまな声明によって、よりよきものの名において、現存せるものの破壊を要求しています。で、もしおのれの思想のために、死骸しがいや血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼らは自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることができると思います――もっとも、それは思想の性質により、思想のスケールによって程度の差があります――ここを注意してください。ただこの意味においてのみ、僕はあの論文の中で、犯罪に対する彼らの権利を論じているわけなのですから(この議論が法律問題から始まっているのを、ご想起ねがいます)。しかし、大して心配することはありませんよ。群衆はほとんどいつの時代にも、彼らにこうした権利を認めないで、彼らを罰し、彼らを絞殺してしまいますから(程度に多少の相違はありますがね)。そして、その行為によって極めて公明正大に、自分の保守的使命を果たしているのです。が、ただし次の時代になると、この同じ群衆が前に罰せられた犯罪人を台座に載せて、彼らに跪拝きはいするのです(多少程度の差こそありますが)。第一の範疇は現在の支配者であり、第二の範疇は未来の支配者であります。第一の範疇は世界を保持して、それを量的に拡大して行く。第二の範疇は世界を動かして、目的に導いて行く。だから両方とも同じように、完全な存在権を持っているのです。要するに、僕の考えとしては、誰でもみな同等の権利を持っているんです。そして――Vive la guerre ※(アキュートアクセント付きE小文字)ternelle(永久の戦い万歳です)――もちろん、新しきエルサレムの来現までですがね」
「じゃあなたはなんといっても、新しきエルサレムを信じていらっしゃるんですか?」
「信じています」ときっぱりした声でラスコーリニコフは答えた。こう言いながらも彼は今までずっと、あの長広舌の初めからしまいまで、絨氈じゅうたんの上のある一点を選んで、じっとそこばかりみつめていた。
「そ、そ、それで、神も信じていらっしゃる? ものずきな質問で失礼ですが」
「信じています」目をポルフィーリイの顔へ上げながら、ラスコーリニコフはくり返した。
「ラザロの復活も信じますか?」
「しーんじます。なぜそんなことをお聞きになるんです?」
「文字通りに信じますか?」
「文字通りに」
「ははあ……いや、ちょっと物ずきにおたずねしたまでで。失礼しました。ところで、一つ伺いますが――またさっきの話に戻りますよ――非凡人はいつも必ず罰せられるとは限りますまい。中にはかえって……」
「生きながら凱歌がいかを奏する、とおっしゃるのですか? そりゃそうですとも。中には、生存中に目的を達するものがあります。その時は……」
「自分で人を罰し始める、ですか?」
「必要があれば。いや、なに、大部分そうなるでしょう。全体に、あなたの観察はなかなか警抜ですよ」
「ありがとう。ところで、もう一つどうか。いったいどういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです? 生まれる時に何かしるしでもついているんですか? わたしの言う意味は、そこにもう少し正確さがほしいと思うんです。いわば、いま少し外面的な特徴がなくてはね。これは実際的な常識家たるわたしとして、自然な不安だと思っておゆるしを願います。しかし、どうでしょう、そこにたとえば、何か特殊な制服でも決めるとか、何か身につけるとか、それとも烙印らくいんのようなものでもすとか、そんなわけにはいかんものでしょうかね……さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたのうまい表現を借りると『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……」
「ああ、それは実によくあるやつです! このあなたのご観察は、前のより更に警抜なくらいですよ……」
「どうもありがとう……」
「どういたしまして。しかし、こういう事を考慮に入れていただきたいのです。そうした誤解は、ただ第一の範疇つまり『凡人』(これははなはだまずい呼び方だったかもしれませんが)の側にのみ起こりうるものですからね。服従に対する生来の傾向にもかかわらず、牝牛めうしにすら見受けられる自然のたわむれによって、彼らのうちかなり多くの者が好んで自分を先覚者、『破壊者』であると妄想して、『新しいことば』を発しようとしたがる。しかも、それが大まじめなんですからね。と同時に、彼らは実際の新人を認めない場合が非常に多い。それどころか、かえってそれを時代おくれの卑劣な考え方をする人間として、軽蔑けいべつしているくらいです。けれど、僕の意見では、そこには大した危険はないと思うんです。だから、あなたも全くご心配には及びませんよ。なぜなら、彼らはけっして、深入りするようなことはないですからね。もっとも、時には前後を忘れた罰として、身のほどを知らせるために、むちで打ってやるのはもちろんよろしい。が、それでたくさんです。刑罰の執行人もいりゃしませんよ。彼らは自分で自分を打ちます。何しろ非常に心がけのいい連中ですからね。お互い同士にその面倒を見合う者もあろうし、中には自分の手で自分を罰する者もあるでしょう……その上、いろいろと公けに悔悟の意を表明するようなこともやるから――美しくって教訓的な効果がありますよ。要するに少しもご心配はいりません……そういう法則があるんですよ」
「いや、少なくともその方面では、多少わたしを安心さしてくだすったが、しかしまだここにもう一つ困ったことがあるんですよ。一つ伺いますが、いったいその他人を殺す権利を持ってる連中、つまり『非凡人』は大勢いるんでしょうか、もちろん、わたしはその前に跪拝きはいするのをいといませんが、しかしねえ、考えてもごらんなさい、そういう連中がやたらにたくさんあった日にゃ、気味が悪いじゃありませんか、え?」
「ああ、その心配もご無用です」とやはり同じ調子でラスコーリニコフは続けた。「概して新しい思想を持った人は、いや、それどころか、ほんのやっと何か新しいことを言いうるだけの人でも、ごくごく少数しか生まれてきません。不思議なくらいなんです。ただ一つ明瞭めいりょうなのは、これらの範疇および細別に属する人の生まれる順序が、何かある自然の法則によって、極めて精密的確に定められているに相違ないということです。この法則は、もちろんいまのところわかっていません。けれど僕は信じます。それは必ず存在しています。やがてそのうちに明瞭になるかもしれません。で、人類の大部分すなわち材料は、ただある努力を経て、今日まで神秘になっている何かの過程プロセスとか、種族の混合とかいう方法によって、一しきり陣痛に悩んだ後、たとい千人に一人でも、独立不羈ふきの精神をもった人間を生み出す、ただそれだけのためにこの世に存在しているのです。それよりもっと博大な精神を持った人間は、一万人に一人くらいしか生まれてこないかもわからない(僕はわかりいいように概略のことを言ってるんですよ)。それより更に更に博大な精神の所有者は、十万人に一人です。天才的な人間は百万人の中に一人しか出て来ないし、偉大な天才、人類の完成者は、幾百万人と流れ過ぎた後に、やっと生まれ出るか出ないかです。ひと口に言えば、こうしたものがいっさいかもされている蒸溜器レトルトは、僕ものぞいて見たわけではないが、一定の法則は必ず存在している。また存在しなければならないはずです。そこには偶然などはあり得ません」
「いったい君らは二人とも冗談を言い合ってるのかい?」とうとうラズーミヒンがこう叫んだ。「君らはお互いにごまかしっこでもしているのかい、いったい? 二人ともすわり込んで、お互いになぶりっこしてるじゃないか! ロージャは、まじめなのかい?」
 ラスコーリニコフは無言のまま彼の方へ、青ざめたほとんどもの悲しげな顔を上げたが、なんとも答えなかった。この静かなもの悲しげな顔と並んで、ポルフィーリイの隠しても隠し切れない、ずうずうしい、いらいらした、無作法な冷嘲れいちょうが、ラズーミヒンには異様に感ぜられるのであった。
「ねえ、君、もし実際それがまじめなら……そりゃむろん君の言う通りだ、これは別に新しいものじゃない、われわれが幾度となく読んだり聞いたりしたものに、似たり寄ったりだ。しかし、その中で実際の創見、まぎれもなく君一人にのみ属している点は、恐ろしいことだが、とにかく君が良心に照らして血を許していることだ……失敬だが、そこには狂信的なところさえある……したがって、つまりこの点に君の論文の根本思想が含まれているわけだよ。ところが、この良心に照らして血を許すということは、それは……それは、僕に言わせると、血を流してもいいという公けの、法律上の許可よりも恐ろしい……」
「全くそうだ、その方がもっと恐ろしい」とポルフィーリイが応じた。
「いや、君はどうかして釣り込まれたんだ! そこには考え違いがある。ぼく読んでみよう……君は自分で釣り込まれながら書いたんだ! 君がそんなことを考えるはずがない……ぼく読んでみよう」
「論文の中にはこんなことはまるでありゃしない。あれには暗示があるだけだ」とラスコーリニコフは言った。
「そうです、そうです」ポルフィーリイはじっと座に落ち着いていられない様子だった。「あなたが犯罪に対してどんな見解を抱いておられるか、今こそほぼ明瞭になりましたよ。しかし……どうもはなはだうるさいようで相済みませんが(全くご迷惑な話で、自分ながら気がさすくらいです!)実はですね、先刻の範疇はんちゅうの混同という誤解の場合については、十分安心のできるように説明してくださいました、しかし……それでもわたしはまだいろいろ、実際上の場合が気になるんですよ! まあ、仮りに誰か一人の男もしくは青年が、自分をリカルガスかマホメットのように妄想して……(未来のですよ、もちろん)さあやっつけろと、それに対する一切の障害を除去し始めたらどうでしょう……たとえば大遠征でも企てたとする、遠征には金がいる……そこで、遠征の軍資金の獲得にかかる……ねえ?」
 ふいに隅の方で、ザミョートフがぷっと吹き出した。が、ラスコーリニコフはその方をふり向いて見ようともしなかった。
「それは僕も同意せざるを得ません」と彼は落ち着き払って答えた。「実際、そういう場合があるに違いありません。馬鹿なやつや見栄坊などは、えてこの誘惑にかかるんです。ことに青年がね」
「ね、そうでしょう。そこで、いったいどうなんです」
「なに、どうもしませんさ」とラスコーリニコフはにやりと笑った。「それは何も僕の責任じゃありませんからね。それは現在もそうだし、将来も常にそうです。現にあの男も(と彼はラズーミヒンをあごでしゃくった)、今しがた僕が血を許すって言いましたが、そんなことがいったいなんです? 人間社会は流刑や、監獄や、予審判事や、懲役などで、十分すぎるくらい保証されてるじゃありませんか――何を心配することがあります? 遠慮なく泥棒を捜したらいいでしょう!……」
「じゃ、もし捜し出したら?」
「当人の自業自得です」
「とにかく論理的ですね。ところで、その男の良心はどうなります?」
「そんなことはあなたの知った話じゃないでしょう?」
「なに、ただちょっと人道的感情でね」
「良心のある人間なら、自分の過失を自覚した以上、自分で勝手に苦しむがいい。これがその男に対する罰ですよ――懲役以外のね」
「じゃ、ほんとうに天才的な人間は」まゆをしかめながらラズーミヒンが言った。「つまりその、殺人の権利を与えられてる人間は、自分の流した血に対しても、全然苦しんじゃならないのかい?」
「なぜこの場合ならないなんてことばを使うんだ? そこには許可も禁止もありゃしない。もし犠牲を不憫ふびんだと思ったら、勝手に苦しむのがいいのさ……全体に苦悶くもんと悩みは、遠大な自覚と深い心情の持主にとって、常に必然的なものなんだ。ぼく思うに、真の偉大なる人間はこの世において、大いなる哀愁を感じなければならないのだ」と彼は急にもの思わしげな、この場の話に不似合な調子で言い足した。
 彼は目を上げて、思い沈んだように一同を見回し、微笑をもらして帽子をとった。彼は先ほどはいって来た時に比べると、あまり落ち着きすぎるくらいであった。彼自身もそれを感じていた。一同は立ち上がった。
「どうも、お叱りを受けるかどうか、お腹立ちになるかどうかしりませんが、わたしはどうしてもがまんしきれないんです」と再びポルフィーリイは口を切った。「どうかもう一つちょっとした質問を許していただきたいのです(いやはや、たいへんご迷惑をかけますね)、実は一つちょいとした着想を発表したかったのです、ただほんの忘れないために……」
「よろしい、あなたの着想を言ってごらんなさい」ラスコーリニコフはまじめな青ざめた顔をして待ちもうけるように彼の前に立っていた。
「それはこうなんです……いや、なんと言ったら少しでもうまく現わせるかな……どうもその着想があまりふざけた……心理的なものなんで……実はこうです。あなたがあの論文をお書きになった時に、まさかそんな事はないはずに決まっていますが、あなたが自分自身をですな、へ、へ! たといほんのこれっから先でも『非凡人』であり、新しいことばを発する人間だと、お考えにはならなかったでしょうか――つまり、あなたのおっしゃる意味でですよ……え、そうじゃありませんか?」
「大きにそうかもしれません」とラスコーリニコフはさげすむような調子で答えた。
 ラズーミヒンは身じろぎした。
「もしそうだとすれば、あなたもそんな事を決行されはしないでしょうかね。まあ、言ってみれば、何か生活上の失敗、窮迫のためとか、あるいは全人類に対する貢献のためとか、そういったような理由で――障害を踏み越えはなさらないでしょうかね……さよう、たとえば、人を殺して盗みをするといったようなことを……」
 こう言って、彼はふいにまた左の目で、彼に合図でもするように、ぽちりと一つまばたきした。そして、せんとそっくりそのままに、声のない笑いを立てた。
「よし僕が踏み越したとしても、もちろんあなたになんか言わないでしょうよ」いどみかかるような傲慢ごうまん軽蔑けいべつの色を浮かべながら、ラスコーリニコフはそう答えた。
「いや、これはただちょっと伺っただけなんです。つまり、あなたの論文をよくみ込むために、ただ文学的な意味でね……」
『ふう、なんという見え透いたずうずうしいやり口だ!』と嫌悪の情を感じながら、ラスコーリニコフは考えた。
「失礼ですがお断わりしておきます」と彼はそっけない調子で答えた。「僕は自分をマホメットだとも、ナポレオンだとも……すべて誰にもせよ、そうした種類に属する人間だと思っていませんから、したがって、そういう人間でない僕が、今言われたような場合、いかなる行動をとるかについて、ご満足のいくような説明を与えることはできかねます」
「いやご冗談でしょう、今日こんにちわがロシアにおいて、自分をナポレオンと思わないものがありますか?」急に恐ろしくなれなれしい態度で、ポルフィーリイは言った。
 その声の調子にすら、今度はもう特に明瞭めいりょうなあるものがひびいていた。
「先週わがアリョーナ・イヴァーノヴナをおのでやっつけたのは、本当に何か未来のナポレオンとでもいったような者じゃないかな?」とだしぬけに隅の方から、ザミョートフがずばりと言ってのけた。
 ラスコーリニコフは無言のまま、しっかり目を据えてポルフィーリイをみつめた。ラズーミヒンは眉をしかめて、暗い顔をしていた。彼はもう先ほどから、何かある想念に打たれていたのである。彼は腹立たしげにあたりを見回した。暗い沈黙の一分間が過ぎた。ラスコーリニコフは身を転じて、出て行こうとした。
「もうお帰りですか!」と思いきり愛想よく彼の方へ手を差しのべながら、優しい調子でポルフィーリイは言った。「お近づきになって実に、実に愉快です。ご依頼の件については、けっしてご心配なく。わたしが言った通り、そのまま書いてお出しください。いや、それより直接わたしの役所へ寄ってくださるのが一番いい……二、三日のうちに……なんなら明日にでも。わたしは、さよう、十一時にはあちらへ行っております、間違いなく。何もかもすっかり片をつけましょう……そして、お話しましょう……あなたはあすこへ行った最後の一人だから、何か話してくださることもおできになるでしょうからね……」と彼はこの上もない好々爺こうこうやらしい顔つきでつけ足した。
「あなたは正式に僕を調べるつもりなんですか、すっかり道具立てをそろえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? 今のところそんな必要はありませんよ。あなたははきちがえなすったんです。もっとも、わたしは機会を逃したくないんでしてね……それでたいていの入質人とはもう会って話したんです……中には口供を取ったのもあります……で、あなたも最後の一人として……ああ、ちょうどいいついでだ!」と彼はふいに何やらうれしそうに叫んだ。「いいところで思い出した、おれもいったいどうしたんだろう!……」と彼はラズーミヒンの方をふり向いた。「ねえ、例のニコライのことで、君はあの時耳にたこのできるほどやいやい言ったっけね……なに、あれはわかってるよ、ちゃんとわかってるよ」彼はまたラスコーリニコフの方へ向き直った。「あの男はきれいなもんだ。だが、どうも仕様がないから、ミーチカも調べなくちゃならん仕儀になったんです……で、つまり用というのはこれなんですよ。要点はですね、あなたはあのとき階段を通りすがりに……失礼ですが、あなたが行かれたのは七時過ぎだったようですね!」
「七時過ぎです」とラスコーリニコフは答えたが、同時に、こんなことは言わなくてもよかったのにと、すぐ不快に感じた。
「で、七時過ぎに階段をお通りになったとき、せめてあなたくらいごらんにならなかったですかね――二階のあけ放しになったアパートの中に――ね、覚えておいででしょう? 二人の職人がいたのを――あるいはその中の一人だけでも? そこでペンキを塗っていたんですが、気がつきませんでしたか? これは彼らにとって、ごくごく重大なことなんですがね!……」
「ペンキ屋! いや、見ませんでした……」とラスコーリニコフは記憶をかき回すように、ゆるゆる答えた。と同時に、自分の全力を緊張させながら、少しも早くわなのあるところを看破しなければならぬ、何か見のがしはしないかと、苦痛に心臓のしびれる思いがした。「いや、見ませんでした。それに、そんなあけっ放したアパートなんて、なんだか気がつきませんでしたよ……ああ、そうだ、四階のところで(彼はもう完全にわなを見破って、凱歌がいかを奏した)――一人の官吏が引っ越していたのを覚えています……アリョーナ・イヴァーノヴナの向かい合せの住まい……覚えていますよ……それなら僕はっきり覚えています……兵隊あがりの人夫が、長椅子みたいなものをかつぎ出して、僕を壁へ押しつけたんです……が、ペンキ屋は、いや、そんなものがいたような覚えはありません……それに、あけ放したアパートなんてものは、どこにもなかったようです。そうです、ありませんでした……」
「おい、君は何を言ってるんだ」ラズーミヒンはわれに返って、事情を考え合せたという風に、いきなりこう叫んだ。「だって、ペンキ屋が塗っていたのは、殺人の当日じゃないか? ところが、この男の行ったのは三日前だぜ。君は何をきいてるんだ?」
「ふう! すっかりごっちゃにしてしまった!」ポルフィーリイは額をたたいた。「いまいましい、僕はこの事件で頭の調子が狂ってしまったよ!」と彼は謝罪でもするように、ラスコーリニコフの方へふり向いた。「わたしはただもう誰かあのアパートで、七時過ぎに二人を見た者はないかと、そればかり一生懸命に考えてるもんだから、あなたにきいたらわかりゃしないかと、ついそんな気がしたようなわけで……すっかりごっちゃにしてしまった!」
「そんなら、もっと気をつけなくちゃだめだよ」ラズーミヒンは気むずかしげに注意した。
 最後の会話は、もう控室で交わされたのであった。ポルフィーリイはいたって愛想よく、彼らを戸口まで見送った。二人は陰鬱な気むずかしい顔をして通りへ出、幾足かの間一言も口をきかなかった。ラスコーリニコフはほっと深く息をついた……


「……僕は信じない! 信じられない!」すっかりどぎもを抜かれてしまったラズーミヒンは、一生懸命にラスコーリニコフの推理をくつがえそうと努めながら、こうくり返すのであった。
 彼らは早くもバカレーエフの下宿近くまで来ていた。そこではプリヘーリヤとドゥーニャが、先ほどから待ちかねているのであった。ラズーミヒンは、彼らがこのことを初めて口に出したということで、もうすっかりまごつき興奮してしまっていたので、話に夢中になっては、のべつ道のまんなかに立ち止まった。
「信じないがいいさ!」とラスコーリニコフは冷たい、無造作な薄笑いを浮かべて答えた。「君は例によって、なんにも気がつかなかったらしいが、僕は一言一言はかりにかけて量っていたんだよ」
「君はうたぐり深いから、それで秤にかけたりなんかするんだよ……ふむ……しかし、実際ポルフィーリイの調子はかなり変だった。それは僕も承認する。ことにあのザミョートフの畜生がさ!……君の言う通りだ、やつには何か臭いところがあった。しかし、なぜだろう? なぜだろう?」
「一晩のうちに考えを変えたのさ」
「いや、そりゃ反対だ、そりゃ反対だよ! もしやつらにそんなばかげた考えがあるのなら、それこそ全力をあげてそれを隠してさ、自分のカルタを伏せておこうと骨折るはずだ。あとで急所を抑えるためにさ……ところが今は――あんなやり方はずうずうしくて、不注意すぎるよ!」
「もし彼らが事実を、つまり正真正銘の事実をつかんでいるか、あるいはいくらかでも根拠のある嫌疑を持っていたら、更に大きな勝利を得ようという期待から、本当に勝負を秘密にしたかもしれないさ(もっとも、本当ならずっと前に家宅捜索をしてるはずだ!)ところが、彼らには事実がない、一つもない――すべてが蜃気楼しんきろうだ、すべてどっちにでも解釈のできることばかりだ、ふわふわした観念ばかりだ――だから、やつらはいけずうずうしいやり口でまごつかそうと、懸命になってるんだ。が、もしかすると、事実がないのに業を煮やして、いまいましさ半分にやけをやったのかもしれない。それとも、何か思わくがあるのかもわからん……あの男はなかなか聡明そうめいらしいからね……もしかすると、知ってるふりをして、僕をおどかそうとしたのかもしれない……そこには、君、またそれ相当の心理があるよ……だが、こんなことを説明するのは汚らわしい。よしてくれ!」
「全く侮辱だ、侮辱だ! 君の気持はよくわかる! しかし……僕らはもう今はっきり言い出したんだから(とうとうはっきり言い出したのは、実にいいことだ、僕は喜んでるよ!)、だから今こそ僕も率直にぶちまけていうが、僕はずっと前から、やつらがそんな考えをいだいているのに、気がついてたんだ、ずっとこの間じゅうからね。もちろん、ほんのあるかなしの疑念で、かすかにうごめいている程度なんだがね。しかし、うごめいている程度にもせよ、いったいなぜだろう? どうしてそんな失敬な考えを起こしたんだろう! どこに、どこにそんな根拠がひそんでるんだろう? それで僕がどんなに憤慨したか、君にはとても想像ができないくらいだよ! いったいなんてえことだ? 貧乏とヒポコンデリイに悩み抜いてる不遇な大学生が、熱に浮かされ通しの恐ろしい大病になる前日、ことによると、もう病気が始まっていたかもしれない時にさ、(いいかい!)この疑り深くって自尊心の強い、おのれの真価をわきまえている男が、もう半年も前から自分の部屋に閉じこもって、誰にも会わずにいたあげく、ぼろを身につけ底の破れた靴をはいてさ、どこの馬の骨ともしれない警官連の前に立ち、彼らの侮辱をじっと辛抱している。そこへ思いがけぬ借金――七等官チェバーロフに渡った期限の切れた手形を、鼻先へ突きつけられる。それに、腐ったペンキのにおい、列氏三十度の暑さ、しめ切ったむんむんする空気、人混み、前の日にたずねたばかりの人間が殺された話――こうしたものがいっときに、空腹の体へきたんだからね! これがどうして卒倒しないでいられるもんか! ところがこれを、これをいっさいの根拠にしようてんだからなあ! ちくしょう! むろんいまいましい、そりゃ僕もよくわかる。しかしね、ロージャ、僕がもし君だったら、やつらを面と向かって笑い飛ばしてやる。いや、それよりいっそ、やつらの顔へたんをひっかけてやる。せいぜい粘っこいのをね。そして四方八方へ二十くらい頬げたを見舞ってやらあ。これがもっともりこうだ、いつでもこの手をやるといいんだよ。僕ならそれで片をつけてしまうなあ。君、なんのくそ! という気になって、元気を出してくれ! 恥かしいじゃないか!」
『だが、こいつなかなかうまく説明したぞ』とラスコーリニコフは考えた。
「なんのくそだって? だが、明日はまた尋問だぜ!」と彼は悲痛な調子で言った。「あんなやつらに弁解じみたことを言わなくちゃならんのかなあ? 僕は昨日あの酒場で、ザミョートフ輩を相手に自ら卑しゅうしたのさえも、心外なくらいだよ……」
「ちくしょう! 僕自分でポルフィーリイのところへ行ってやろう! そして、親戚としてやつの胸ぐらを抑えつけて、何もかもすっかりぶちまけさしてやろう! ザミョートフなんかもう……」
『やっと気がつきやがった!』とラスコーリニコフは考えた。
「待てよ!」突然彼の肩を抑えながら、ラズーミヒンは叫んだ。「待てよ! 君は間違ったことを言ったんだ! 僕よく考えてみたが、君は間違ったことを言ってる! だって、あれがなんのトリックなもんか? 君は職人云々うんぬんの質問をトリックだと言ってるが、よくかみ分けてみろ。もし君があれをやったのなら、職人が……壁を塗っていたのを見たなんて、かりにも口をすべらすだろうか? どうしてどうして、よしんば見たにしろ、なんにも見なかったというのがあたりまえだよ! 自分に不利なことを自白するやつが、どこにあるもんかね?」
「もし僕があれをやったとすれば、きっと職人もアパートも見たと言うね」目に見えて嫌悪の色を浮かべながら、いやいやそうにラスコーリニコフは答弁を続けた。
「でも、なんだって自分に不利なことを言うんだい?」
「なぜって見たまえ、尋問のときに何もかもいっさい合切、知らぬ存ぜぬの一点ばりで押し通すのは、ただ百姓かずぶ無経験な新米のすることだよ! 多少でも教養があり経験のある人間なら、必ずできるだけやむを得ない外面的な事実を、すっかり自白しようと努めるに相違ない。ただ別な原因を捜し出して、事実にすっかり違った意味を与え、全然べつな光りに照らし出して見せるような、何かこう思いもよらぬ特性をちょっとはさみ込むのだ。ポルフィーリイも、僕が必ずそういう答弁の仕方をして、本当らしく思わせるために見たと答えた上、説明の意味で何かちょっとはさむだろうと、それを当てにしてたに違いないんだ……」
「だってあの男はすぐその場で、二日前あそこに職人がいるわけはないから、したがって、君はどうしても凶行のあった日の七時すぎに、あそこにいたに相違ないと、こう言いそうなはずじゃないか。つまり、つまらんことでつり出して尻尾を抑えたろうよ!」
「そうなのさ、やつはつまりそれを当て込んでたのさ。僕がよく考える暇がなく、少しでもまことしやかに答えようとあせって、二日前に職人のいるはずのないことを、忘れるだろうというわけさ」
「どうしてそんなことが忘れられるんだ!」
「大きにありがちなこったよ! そういうごくつまらないことで、狡猾こうかつな連中が一番よくまごつくものさ。人間が狡猾なら狡猾なだけ、そいった小さなことで尻尾をつかまれようとは、思いもそめないからね。ごく狡猾な人間は、つまり思い切ってくだらないことで、尻尾を抑えなくちゃならないんだ。ポルフィーリイは、君の思ってるほど、まんざらの馬鹿じゃないよ……」
「もしそうだとすりゃ、あいつは卑劣漢だ!」
 ラスコーリニコフは笑い出さずにいられなかった。がそれと同時に、彼は最後の説明を試みた時、ああまで活気づいて乗り気になったのが、不思議に思われた。それまでの会話は気むずかしい嫌悪の気持で、仕方なしに続けていたのではないか。
『おれもある点では、調子に乗るんだな!』と彼は腹の中で考えた。
 しかしそれとほとんど同じ瞬間に、思いもよらぬ不安な想念に打たれたかのように、彼は急に落ち着きがなくなった。不安はしだいに増してきた。二人はもうバカレーエフの下宿の入り口まで来ていた。
「君一人で行っててくれないか」とだしぬけにラスコーリニコフは言った。「僕すぐ引っ返して来るから」
「どこへ行くんだ? もう来てしまったんじゃないか!」
「僕ちょっと、ちょっと、用があるんだ……三十分たったらやってくる……二人にそう言っといてくれないか」
「じゃ、勝手にしたまえ、僕も一緒について行くから!」
「なんだい、君まで僕を苦しめたいのか!」と彼はなんともいえぬ悲痛な焦燥と、この上もない絶望を声に響かせながら叫んだので、ラズーミヒンはもうあきらめてしまった。ラズーミヒンはしばらく入り口の階段に立って、ラスコーリニコフが自分の横町の方角へ足早に歩いて行くのを、むずかしい顔をしてながめていたが、ついに歯を食いしばりこぶしを固めて、今日にもさっそくポルフィーリイのやつをレモンのようにしぼり上げてやろうと心に誓いながら、二人があまり長く姿を見せないので、もうそろそろ気をもみかけているプリヘーリヤを安心させようと、階段をのぼって行った。
 ラスコーリニコフが自分の家までたどり着いた時――こめかみは汗でびっしょりぬれ、息づかいはさも苦しそうであった。彼は急いで階段をのぼり、あけ放しになっている自分の部屋へはいると、そのままかぎをかけてしまった。それから、にわかにぎょっとした風で、気でも違ったように、あのとき贓品ぞうひんをかくしておいた片隅の壁紙の穴へ駆け寄って、その中へ手を突っ込み、隅々隈々のこりなく、折れ目までひっくり返して調べながら、二、三分間、念入りに穴の中を探りまわした。なんにもないことを確かめてから、彼は立ち上り、ほっと息をついた。さきほどバカレーエフの家の玄関口まで行き着いた時、ふと心の迷いが起こったのである。ほかでもない何かの品、たとえば鎖かカフスボタンか、あるいはそれを包んだ紙きれで老婆が手ずから上書きしたものが、あの時どうかしたはずみですべりぬけ、どこかの隙間へ落ち込んだかもしれない。そうしたら後日になって、思いがけないいやおう言わさぬ証拠となって、ふいに彼の目の前へ突き出される、そういうことがないとも限らない。
 彼はもの思わしげな様で、じっと立っていた。恥かしめられたような、半ば無意識な怪しい微笑が、その唇にただよっていた。とうとう彼は帽子をとり上げ、そっと部屋を出て行った。彼の頭はこんがらかっていた。彼は物思わしげに門の下へおりて行った。
「ほら、ちょうどその人が見えましたよ!」と高い声でこう叫ぶものがあった。
 彼は頭を上げた。
 庭番が自分の小部屋の戸口に立って、誰やらあまり背の大きくない男に、彼をさして見せていた。それは部屋着のような服にチョッキを着込み、遠目には女のように見える、一見して町人ていの男だった。脂じみた帽子をかぶった頭は下の方へがっくりとたれ、全体の姿もなんだか背中が曲がっているような感じだった。ひねてしわの寄った顔は、年が五十も越していることを示している。小さなどんよりした目は気むずかしそうにきびしく、なんだか不満らしい表情をしていた。
「なんだね?」と庭番の方へ近寄りながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
 町人は額ごしに横目を使って、彼をじっと注意深く落ち着き払って見つめた。それから、ゆっくりとくびすを返して、ひと口も物を言わずに門の中から通りへ出て行った。
「いったいどうしたんだ!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「誰だか知りませんが、あの男があんたの名を言って、ここにこういう大学生がいるか、誰のところに下宿してるか、なんて尋ねるんですよ。そこへあんたがおりて見えたから、わたしが指で教えてやったら、さっさと行っちまうじゃありませんか。ほんになんてこった」
 庭番もやはりいくらかけげんそうな様子だったが、大したことでもなく、またちょっと小首をひねった後、くるりと向きを変え、自分の小部屋へ引っ込んでしまった。
 ラスコーリニコフは、町人のあとを追って駆け出すと、すぐにその男を見つけた。相変わらず規則ただしい悠々とした足どりで、じっと足もとをみつめながら、何やらしきりに考えるらしく、通りの向こう側を歩いて行く。彼は間もなく男に追いついたが、しばらく後ろからついて行った。とうとうそのうちに男と並んで横からその顔をのぞき込んだ。向こうもすぐ彼に気がついて、すばやくちらりと彼を見やったが、また目を落としてしまった。こうして、彼らはものの一分間ばかり、たがいに体を並べながら、無言のまま歩いて行った。
「あなたは僕をお尋ねになったんですね……庭番のところで?」とうとうラスコーリニコフは口を切ったが、なぜかばかに小さい声だった。
 町人はなんの返事もしなければ、ふり返ろうともしない。二人はまた黙りこんでしまった。
「あなたはいったいどうしたというんです……人を尋ねて来ながら……黙ってるなんて……いったいなんてことです?」
 ラスコーリニコフの声はとぎれ勝ちで、ことばはどうしたものか、はっきり発音されたがらないような感じだった。
 町人も今度は目を上げて、気味のわるい陰鬱いんうつなまなざしで、じろりとラスコーリニコフを見やった。
「人殺し」とふいに男は、低いけれど明瞭めいりょうな、しっかりした声で言った。
 ラスコーリニコフは男のかたわらを歩いていた。彼の足は急に恐ろしく力抜けがし、背中がぞうっと寒くなった。心臓は一瞬間、まるでかけてあった鉤がはずれたように、いきなりどきんとした。こうして二人はまた百歩ばかり、全く無言のまま並んで行った。
 町人は彼を見もしない。
「何を言うんです……何を……誰が人殺しなんです?」やっと聞きとれるほどの声で、ラスコーリニコフはつぶやいた。
お前が人殺しだ」男は一そうはっきり句を切りながら、腹の底までしみ込むような声で言った。それは憎々しげな勝利の微笑を帯びているような風だった。そして、またしてもラスコーリニコフの真っ青な顔と、その死人のような目をひたとみつめた。
 二人はその時四つ角へ近づいた。町人は左手の通りへ曲がって行くと、後ろも見ずにすたすた歩き出した。ラスコーリニコフはその場にたたずんだまま、長い間その後ろを見送っていた。男は五十歩ばかり行ったころ、くるりと振り返って、みじろぎもせずに立っているラスコーリニコフをながめた。それは彼の目にも見えた。ラスコーリニコフは、はっきり見分けることはできなかったけれど、今度も男があの冷たい憎しみにみちた、勝ち誇ったような微笑で、にやりと笑ったような気がした。
 ぐったりとしたような静かな足どりで、膝頭ひざがしらをがたがた震わせながら、まるで凍えきったようになったラスコーリニコフは、もと来た方へ引っ返し、自分の小部屋へのぼって行った。帽子を脱いでテーブルの上に置き、十分ばかりというもの、そのかたわらに身じろぎもせずに立っていた。それから力なげに長椅子の上に倒れて、かすかなうめきを立てながら、病人のようにその上へ長くなった。目は閉じられた。こうして、彼は三十分ばかりじっとしていた。
 彼は何も考えなかった。ただほんの何かの想念、というより想念の断片か、それとも幻想めいたものが、秩序も連絡もなく頭をかすめるだけであった――以前子供の時分に見たか、あるいは、どこかでたった一度会ったばかりで、とても思い出しそうになかった人たちの顔や、V教会の鐘楼や、料理屋の玉突台や、玉突台のそばにいた士官や、どこかの地階にある煙草店たばこやの葉巻のにおいや、居酒屋や、汚水でびしょびしょになった上に、卵の殻の散らかっている、いつもほとんど真暗な裏梯子うらばしご……と、どこからか日曜日らしい鐘の音が響いてくる……こうしたものが入り変わり立ち変わり、旋風のように渦巻くのであった。中には気持のいいものもあって彼はそれにすがりつこうとしたが、それはすぐに消えてしまった。全体の感じからいうと、何かしら中の方で彼を押しつけるようだったが、それも大したことではない。どうかすると、かえっていい気持だった……軽い悪寒はまだ去らなかったけれど、これも同じようにほぼこころよい感触だった。
 ふとラズーミヒンの忙しそうな足音と、その声を聞きつけたので、彼は目を閉じて、寝たふりをした。ラズーミヒンはドアを開けて、しばらく思案でもするように、しばらく敷居の上に立っていた、やがて、そっと部屋の中へ一足踏み込んで、用心深く長椅子に近づいた。ナスターシャのささやきが聞こえた。
「さわらないどきなさい。ぐっすり寝かしといた方がいいよ。あとで食がすすむから」
「そりゃそうだ」とラズーミヒンは答えた。
 二人は用心深く外へ出て、ドアを閉めた。また三十分ばかりたった。ラスコーリニコフは目を開いた。そして、両手を頭のうしろにかって、再び仰向けに寝返り打った。……
『あの男は何者だろう? あの地の底からわき出たような男は、いったい何者だ? どこにいて何を見たんだろう? あいつは何もかも見ていたんだ、それはもう間違いない。それにしても、いったいあの時どこに立って、どこから見ていたんだろう? それならなぜ今になって、床の下からわいたように出て来たんだ? それに、どうして見ることができたんだろう――そんなことができるだろうか?……ふむ……』
 ぞっとする悪寒に身を震わせながら、ラスコーリニコフは考え続けた。『またミコライがドアのかげで見つけたサック、これだってもあり得べきことだろうか? 証拠になる? 十万分の一ほどの小さなものでも、見落としたら最後――エジプトのピラミッドくらいの証拠になるんだ! はえが一匹飛んでいたが、あれでも見たのか! そんなことがあってたまるものか?』
 と、彼はにわかに自分が力抜けのしたことを――肉体的に力抜けのしたことを感じて、嫌悪の念を覚えた。『おれはこれを知ってなければならなかったのだ』と彼は苦い薄笑いをもらしながら考えた。『どうしておれは自分自身を知っていながら、自分自身を予感していながら、おのなどをとって、血まみれになるようなことをあえてしたのか? おれは前もって知っておかなけりゃならなかったのだ……いや、なに、おれは前もって知っていたんじゃないか!……』と彼は絶望のあまりうめくように言った。
 時々彼はある想念の前に、身じろぎもせずに立ち止まった。
『いや、ああいう人間は作りが違うんだ。すべてを許されている真の主権者は、トゥーロンを廃墟にしたり、パリで大虐殺を行なったり、エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征に五十万の大兵を消費したりしたあげく、ヴィリナではいっさいをしゃれのめして平気でいる。しかも死んだ後では、みんなで彼を偶像に祭り上げるんだからなあ――してみると、すべてが許されてるんだ。いやこうした人間の体は肉じゃなくて、青銅でできてるらしい!』
 ある思いがけない見当違いの想念が、ふいに彼を笑い出させないばかりだった。
『ナポレオン、ピラミッド、ワーテルロー――それから一方には、寝台の下に赤皮の長持を入れている、やせひょろけたきたならしい小役人の後家の金貸しばばあ――ふん、なんぼポルフィーリイでも、これをこなすのはたまったものじゃない!……やつらにどうして消化しきれるもんか! 美的感覚がじゃまをするからな――「ナポレオンが婆さんの寝台の下にはい込むだろうか!」てなわけで! ええっ、なんてやくざな!』
 時々瞬間的に、彼は熱に浮かされているような気がした。彼は熱病的な歓喜の気分に落ちた。
『婆あなどはくだらない些細事ささいじだ!』と彼は熱くなって、意気ごみ激しく考えた。『婆あはあるいは過失かもしれないが、あんなものは問題じゃない! 婆あは単なる病気だったのだ! おれは少しも早く踏み越したかったんだ……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺したが、踏み越すことは踏み越せなくて、こっち側に残ってしまった……ただ殺すことだけやりおおせたんだ。いや、それさえ今になってみると、やりおおせなかったんだ……ところで主義の方は、ラズーミヒンの馬鹿はまたなんだって、さっき社会主義者を罵倒ばとうしたんだろう。彼らは仕事好きな、商売に抜け目のない連中で、「人類一般の福祉」のために働いてるじゃないか……だがおれには生は一度与えられるだけで、二度とはやって来やしない。おれは「人類一般の福祉」を待っているのはいやだ、おれは自分で生きたいんだ。さもなければ、むしろ生きない方がましだ。なに、おれはぼんやり「人類一般の福祉」を待ちながら、自分の目腐れ金をふところに握りしめて、飢えに迫っている母の傍を素通りするのがいやなだけだったんだ。「おれは人類一般の福祉を建設するために、煉瓦れんがを一つ運んで行ってるんだ。だから心の慰めを感じてるんだ」だとさ。はっは! どうして君らはおれをすっぽかしたんだ? おれだって、一度きりっか生きられないんだ。おれだって、やはり生きたかろうじゃないか……ええっ、おれは美的しらみだ、それっきりさ』ふいに気ちがいのように笑い出して、彼はこうつけ加えた、『そうだ、おれは実際しらみだ』彼はひねくれた喜びをもってこの想念にしがみつき、それを掘り返したり、玩具おもちゃにしたり、慰んだりしながら考え続けた。『それはもう、一つ二つの理由だけで明瞭だ。第一に、今おれは自分がしらみだってことを考察していることだ。第二に、おれはまる一月の間、おれのこの計画は自分の欲望や気まぐれのためでなく、立派な気持のいい目的のためだなどといって、万知万能の神を証人に引っ張り出そうとして、とんだご迷惑をかけたことだ――はっは! それから第三には、実行に当たって、できるだけの正義と、中庸と、尺度と、数学を遵奉じゅんぽうしようと決心して、多くのしらみの中からもっとも無益のやつを選び出し、しかもそいつを殺してから、自分の第一歩にいるだけのものを、かっきり過不足なしに取ろうとしたことだ。(残った金は、つまり遺言状によって修道院行きというわけなんだ――はっは!)……こういうわけだから、だからおれはまぎれもないしらみだ』と彼は歯がみをしながらつけ足した。『もしかすると、おれ自身の方が殺されたしらみより、もっといやなけがらわしい人間かもしれない。そして、殺してしまったあとで、きっとこんな事をいうだろうと、前から予感していたんだ! ああ実際、この恐ろしさに比べうるものが、何かほかにあるだろうか! おお、この俗悪さ! この卑劣さ!……ああ、今のおれはよくわかった――馬上に剣をふるいながら、アラーの神これを命じたまう。服従せよ、ふるいおののける卑しき者ども! と呼号した、かの「予言者」がよくわかる! どこかの街の真中にすばらしい放列をしいて、罪があろうとなかろうと、手当たりしだいにどんどん打ち殺し、弁解めいたことさえ言わなかった「予言者」は本当だ。服従せよ、震いおののける卑しき者ども、希望など持つな、きさまらの知ったことじゃない!……これでいいんだ! おお、どんなことがあっても、どんなことがあってもおれは婆あを許しはせんぞ!』
 髪の毛は汗でぐっしょりになり、わななく唇はからからに乾き、じっとすわった目は天井にそそがれていた。
『母、妹、おれはどんなに二人を愛していたか! それなのに、どうして今は二人が憎いのだろう? そうだ、おれは二人が憎いのだ。肉体的に憎いのだ。そばにいられるのがたまらないのだ……さっきもおれはそばへ寄って、母に接吻せっぷんしたが、今でも覚えている……母を抱きながら、もしあのことがしれたら、などと考えるのは……それなら何もかも話してしまおうか? それはもうおれしだいなんだ……ふむ! 母もおれと同じような人間でなければならないはずだ』彼はまるで襲いかかってくる悪夢と戦うように、必死になって考えながら、そうつけ足した。『ああ、今おれはあの婆あが憎くってたまらない! もしあいつが息を吹き返したら、おれはきっともう一度殺すに違いない! 可哀想なリザヴェータ! なんだってあんな所へひょっくり出て来たんだろう! だが、不思議だな、なぜおれはあの女のことをほとんど考えないんだろう、まるで殺しなんかしなかったように!……リザヴェータ! ソーニャ! 二人ともつつましい目をした、つつましい可哀想な女だ……やさしい女たち……なぜあの女たちは泣かないのか? なぜうめかないのか?……あの女たちはすべてを与えながら……つつましい静かな目つきをしている……ソーニャ、ソーニャ! 静かなソーニャ……』
 彼は前後不覚になってしまった。で、いつの間にどうして往来のまんなかに立っているのか、覚えのないのが不思議に感じられた。もう夕方もだいぶ遅いころだった。たそがれの色も濃くなり、満月が刻々にえていっていた。けれど、空気はどうしたのか恐ろしくむし暑かった。人々は群れをなして往来を歩いている。職人や用のある連中は家々に別れて行き、その他の者はぶらぶら歩いている。石灰と、ほこりと、たまり水のにおいがする。ラスコーリニコフは心配そうな沈んだ様子で歩いた。彼は何かつもりがあって家を出たので、何かしなければならない、急がなければならない、ということだけはよく覚えていたけれど、それがなんだったか――とんと忘れてしまったのである。ふと彼は立ち止まった。通りの向こう側の歩道に一人の男が立って、彼を手招きしているのを見つけたのである。彼は通りを横ぎり、その男の方へ行った。と、男はふいにくるりと身をひるがえして、まるで何事もなかったように、頭をたれたままふり向きもしなければ、自分で呼んだような素振りも見せず、ずんずん歩き出した。『おい、しっかりしろよ、ほんとうにあの男が呼んだのかい?』とラスコーリニコフは考えたが、それでもあとを追い始めた。と、十歩も行かないうちに、彼はたちまちその男に気づいて、ぎょっとした。それは例の部屋着を着て、同じように背を丸くしたさっきの町人だった。ラスコーリニコフは少し離れてついて行った。心臓はどきどき動悸どうきを打った。やがてとある横町へ曲がった――男は相変わらずふり向こうとしない。『おれがつけて行くのを知ってるだろうか?』とラスコーリニコフは考えた。町人はある大きな門内へはいった。ラスコーリニコフは急いで門へ近づいた。そして、男が振り返りはしないか、自分を呼びはしないかと、しばらくじっと見ていた。するとはたして、男は門の下を通り抜けて、裏庭へ足を踏み入れた時、急にくるりと振り返り、どうやら再び彼を手招きしたようである。ラスコーリニコフはすぐさま門の下を通り抜けたが、裏庭にはもう町人の姿が見えなかった。してみると、男はすぐとっつきの階段をのぼって行ったに相違ない。ラスコーリニコフはそのあとを追って行った。はたして二階ばかり上の方で、誰かの規則ただしい、悠々とした足音がまだ聞こえている。不思議なことには、階段はなんとなく見覚えのあるものだった! 現にもう一階の窓が見える。月の光りがわびしげに神秘めかしく、ガラスを通してさし込んでいる。やがてもう二階目だ。やっ! これは例の職人のペンキを塗っていたアパートだ……どうしてすぐに気がつかなかったのか! 先へ行く人の足音は聞こえなくなった。『してみると、やつは立ち止まったか、どこかへ隠れたかしたんだな』ああ、もう三階だ、先へ行ったのだろうか? 上の方はなんという静かさ、恐ろしいくらいだ……けれども、彼は進んで行った。彼自身の足音が彼を脅かし、不安にした。ああ、なんという暗さ! 町人はてっきりどこかこの辺の隅に隠れたに違いない。あっ! 例の住まいは階段へ向かったドアをすっかりあけ放してある。彼はちょっと思案して、はいって行った。控室はまっくらで、がらんとして人気なく、何もかも運び出してしまったようだ。そっと爪先つまさき立ちで、彼は客間へ通って行った。部屋は一面月の光りにさえざえと照らされている。ここは何もかも元のままだった。椅子、鏡、黄色い長椅子、額入りの画。大きな丸い銅紅色をした月が、まともに窓からのぞいている。『これは月のせいでこんなに静かなんだ』とラスコーリニコフは考えた。『月は今きっと謎をかけてるんだ』彼は立って待っていた。長いこと待っていた。月光がしんとすればするほど、心臓の鼓動はいよいよ激しくなり、痛いくらいであった。どこまでもしんと静まり返っている! ふと、木片こっぱでも折ったように、一瞬間、ものの裂ける乾いた音がした。そして、あたりは再び死んだようになった。目をさました一匹のはえが、急に勢いよく飛んだ拍子に、ガラスへぶっつかって、哀れげにぶんぶん鳴き始めた。ちょうどこの瞬間、片隅の小さい戸棚と窓の間の壁にかかっている女外套がいとうらしいものが見分けられた。『どうしてあんなところに女外套があるんだろう?』と彼は考えた。『せんあんなものはなかったのに……』そっと忍び寄ってみると、外套のかげに誰か隠れているらしいのに気がついた。彼は用心深く手で外套をのけてみた。と、そこには椅子が置いてあり、その椅子の上に老婆が腰かけていた。すっかり体を前へ折り曲げて、頭を下へたれているので、どうしても顔を見分ける事ができなかったけれど、それはまさしく彼女である。彼はしばらくその前に立っていた。『こわいんだな!』と彼は考えて、そっと輪さからおのを抜き出し、老婆の脳天目がけて打ちおろした。一度、もう一度。が不思議にも、彼女は斧の打撃にも身じろぎさえしない、まるで木で作ったもののようである。彼はぎょっとして、なおも近く身をかがめ、老婆をと見こう見し始めた。すると老婆もいよいよ低く頭をたれた。その時彼は床につくほどすっかり身をかがめて、下から彼女の顔をのぞき込んだ。のぞいて一目みると、死人のようになってしまった。老婆は腰かけたまま笑っている――彼に聞かれまいと一生懸命に辛抱しながら、聞きとれないくらい静かに笑っているのだ。ふと寝室のドアがごく細目に開かれて、そこでやはり笑ったり、ひそひそささやいたりしているような気がした。彼は狂憤のとりこになって、力まかせに老婆の頭を打ち始めた。けれども斧の一撃ごとに、寝室の笑声とささやきはますます高く、はっきり聞こえてきた。そして、老婆は全身をゆすぶりながら笑うのである。彼はやにわに逃げ出そうとしたが、控室はもう人でいっぱいだった。階段へ向った戸口は、どこもかしこもあけ放され、階段の踊り場にも、それから下にも――人の頭がうようよつながって、みんなこちらを見ている――しかし、誰も彼もが息をひそめて、無言のまま待っているのだ!……彼は心臓が苦しくなり、足は生えついたように動かなくなった。……彼は声を立てようとして――目をさました。
 彼は苦しげに息をついた――けれど不思議なことには、夢が依然として続いているように思われた。部屋のドアはあけ放されて、敷居の上にはかつて見たことのない男が立ったまま、じっと彼を見まもっているではないか。
 ラスコーリニコフは、まだ十分目を開く間もなく、すぐにまた閉じてしまった。彼は仰向きになったまま、身じろぎもしなかった。
『これは夢の続きかな、違うかな?』と彼は考えた。そして、一目だけ見ようと思って、ごくわずかだけ気づかれぬように、もう一度まつ毛を上げて見た。見知らぬ男はまだ元の所にたたずみ、彼の方をうかがい続けている。
 ふいに男は用心深く敷居をまたいで、うしろ手にそろっとドアを閉め、テーブルへ近寄って、一分ばかり待っていた――その間ずっとラスコーリニコフから目を放さなかったので――それから静かに、音のしないように、長椅子の傍の椅子に腰をかけた。帽子をわきの床において、両手をステッキの上に重ね、その上へあごをのせた。見うけたところ、長く待つ用意らしい。ラスコーリニコフがしばたたくまつ毛を通して見分け得た限りでは、この男はすでに若い方でなく、ほとんど真っ白なくらい薄色の濃いひげをはやした、肉づきのいい男であった……
 十分ばかりたった。まだ明るくはあったが、もうそろそろ暮れに近い。部屋の中は森閑と静まり返っている。階段の方からも、物音一つ聞えてこなかった。ただ一匹の大きなはえが、勢いよく飛んだはずみに、窓ガラスにぶっつかっては、ぶんぶん鳴いているだけであった。とうとう、そうしているのがたまらなくなってきた。ラスコーリニコフはいきなり身を起こし、長椅子の上へすわった。
「さあ、言ってください、いったいあなたは何用なんです?」
「いや、わたしもあなたが眠っていらっしゃるのじゃなく、ただ寝たふりしていられるのを、ちゃんと知っていましたよ」と見知らぬ男は落ち着き払って笑いながら、奇妙な調子で答えた。「自己紹介をお許しください。わたしはアルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」
[#改ページ]


第四篇



『いったいこれは夢の続きだろうか?』もう一度ラスコーリニコフの頭にこんな考えが浮かんだ。
 用心深い信じかねるような目つきで、彼はこの思いがけない客に見入った。
「スヴィドリガイロフ? 何をばかばかしい! そんなことがあってたまるものか!」彼はとうとういぶかしさに堪えかね、声に出してこう言った。
 客はこの叫び声にも、いっこう驚いた様子はなかった。
「わたしは二つの理由があってお訪ねしたのです。第一には、もうよほど前からあなたのことを、あなたにとってきわめて有利な方面から、いろいろ聞かされていたので、親しくお近づきになりたいと思ったわけです。第二には、お妹さんのアヴドーチャ・ロマーノヴナに直接利害関係のある一つのことについて、あるいはあなたも援助を拒みはなさらんかもしれないと、こんな空想を持っているからです。わたしが一人で紹介もなしに行ったら、お妹さんはある先入見のために、庭先へも入れてくださらないかもしれません。ところが、あなたのお口添えがあれば、その反対に……とこう目算しましてね……」
「悪い目算ですよ」とラスコーリニコフはさえぎった。
「ちょっと伺いますが、おふたりはつい昨日お着きになったばかりでしょうな?」
 ラスコーリニコフは答えなかった。
「昨日です、知っていますよ。わたしも実はおととい着いたばかりなんで。そこで、ね、ロジオン・ロマーヌイチ、あの件については、あなたにこう申し上げようと思うのです。弁解は無用だとは思いますが、これだけのことは言わしてもらいます。いったいあのことについては、あの一件については、全くのところ、わたしの方にそれほど犯罪めいたものがあるでしょうか? 偏見を抜きにして、良識で判断してですな?」
 ラスコーリニコフは無言のまま、いつまでも彼をじろじろ見回していた。
「自分の家で頼りない娘を追っかけ回して、『けがらわしい申し出でその娘をはずかしめた』ということですか――そうですか? (どうも自分の方から先回りしますな!)――しかし、わたしだって人間です、そして nihil humanum(すべて人間的なものには無関心でない)……一口に言えば、わたしも人並に誘惑を感じて、れることもできるんです、それをまず考えてください。そうすれば、すべてきわめて自然に解釈がついてしまいます。いっさいの問題は、わたしが悪人か、それともあべこべに犠牲なのか? という点にあるんですよ。犠牲とはどういうわけか? ほかでもありません、あの時アメリカか、スイスへでも駆け落ちしようと言い出した時、わたしはこの上もない敬虔けいけんな感情を持っていたのかもしれませんよ。そればかりか、双方の幸福を築こうと考えていたのかもわかりませんぜ! 何しろ理性ってものは、情欲に奉仕するものなんですからね。事によったら、わたしの方がよけいに自分の身を破滅さしたのかもしれませんぜ。ほんとうに冗談じゃない!……」
「いや、問題はまるでそんなことじゃありませんよ」と嫌悪の表情でラスコーリニコフはさえぎった。「僕はただもうあなたがいやでたまらないんです。あなたが本当だろうと間違っていようと、お近づきになるのもいやなんです。さ、こうして追い立ててるんだから、帰ったらいいでしょう!……」
 スヴィドリガイロフはふいに大きな声でからからと笑った。
「どうもあなたはなかなか……あなたはなかなかごまかしがきかない!」思い切りあけっ放しな笑い方をしながら、彼はそう言った。「わたしは細工で物にしようと思ったんだが、あなたはすっかり本当の足場に立っておしまいになった!」
「ところが、今そういいながら、あなたはまだ小細工を続けている」
「それがどうしたんです? それがどうしたんです?」とスヴィドリガイロフはあけすけに笑いながらくり返した。「だって、これはいわゆる bonne guerre(正々堂々たる戦い)で、立派に許さるべき小細工ですからね!……しかし、なんにしても、あなたは話の腰を折っておしまいなすった。で、もう一度念をおしますが、例の庭先の一件さえなかったら、なんにも不快なことはなかったんですよ。マルファ・ペトローヴナが……」
「そのマルファ・ペトローヴナだって、やはりあなたがなぐり殺したそうじゃありませんか?」とラスコーリニコフは無作法に口を入れた。
「あなたもその話をお聞きでしたか? もっとも、お耳にはいらずにゃいないわけですなあ……さて、このご質問に対しては、全くなんと申し上げたらいいかわかりませんよ。もっとも、自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものですがね。といって、このことでわたしが何か心配していたように、思ってくだすっちゃ困りますよ。あれはごくごくあたり前な、正確無比な状態のもとに起こった事なんですからな。臨検の警察医も、酒をほとんど一びんもやっつけて、飯をたらふく食って、すぐ水にはいったために起こった卒中だ、とこう診断しましたよ。それに、ほかの原因なんか、けっして出てくるはずがないんですからね……いやね、それよりわたしはしばらくの間、ことにこんど汽車に乗ってくる途中、こういうことを考えたんですよ。自分はあの……不幸を、何かのはずみで間接に招来したのじゃないか? 何か精神的刺激とか、そんな風の原因でね。ところが、わたしは自分で結論しましたよ。それさえ断じてあろうはずがないって」
 ラスコーリニコフは笑い出した。
「そんなに心配するなんて、いい物好きですね!」
「いったい何をお笑いになるんです? まあ考えてもみてください。わたしは前後を通じてたった二度、むちで打ったきりですよ。しかも、あとさえつかないくらいなんで……どうか、わたしを恥知らずだなどと思わないでください。わたしだって、あれが愚劣千万なことだくらい、百も承知していますよ。が、それと同時に、マルファがわたしのこの、なんといいますか、前後を忘れた行為を、むしろ喜んでいたらしいのも、わたしは確かに知っております。あなたの妹さんに関する物語も、すっかりかすも残らないほどおさらいしてしまった。で、さいはもう三日も家にくすぶっていなけりゃならなかったんです。何しろ町へ持って行く材料もなくなったし、手紙の朗読も(手紙を読み歩いたことはお聞きになったでしょう!)町の人に飽かれてしまったんでね。そこへふいにこの二つの鞭が、まるで天の賜物たまもののように、降ってきたわけなんですよ! で、あれはまず第一番に、馬車のしたくを言いつけました! わたしはもう今さららしく申しませんが、女ってものは、たとえどんなに怒った顔をしていても、侮辱されるのが非常に、非常にいい気持だ、といったような場合があるものです。もっともそれは、そうした場合は誰にでもありますがね。概して人間は、侮辱されることが大好きなんですよ。これにお気がつきましたか? しかし、女はこれが格別なんです。それどころか、ただそれだけを楽しみに過ごしてる、と言ってもいいくらいですからね」
 一時ラスコーリニコフは立ち上がって部屋を出てしまい、それでこの会見を打切ろうかと、ちょっと考えてみたけれど、多少の好奇心と一種の打算ともいうべきものが、ほんの一瞬間彼を引止めた。
「あなたは喧嘩けんかがお好きですか?」と彼はぼんやりした調子で問いかけた。
「いや、大して」とスヴィドリガイロフは落ち着き払って答えた。「マルファとだってほとんど一度も、つかみ合いなんかしたことはありませんよ。わたしどもはごくむつまじく暮らしていて、あれはいつもわたしに満足していました。わたしが鞭など使ったのは、七年の結婚生活のあいだ、あとにもさきにもたった二度きりです。もっとも、どうにでも意味のとれる第三の場合を別にしてね、初めての時は、結婚後ふた月して、田舎へ引っ込む早々でした。それから今度の最近の場合ですな。あなたはさだめしわたしのことをひどい悪党で、時代逆行者で、農奴搾取者だと思っておられたでしょうな? へ、へ……ときに、ロジオン・ロマーヌイチ、一つ思い出していただきましょう。五、六年まだあのありがたい言論自由時代(農奴解放前後の風潮をさす)に一人の貴族が――名を忘れましたが――公衆の面前ですこぶる文学的に面皮をはがれたことがあります。先生、汽車の中でドイツ女を鞭で引っぱたいた、というわけなんです、おぼえておいでですか? その時分もう一つ、やっぱりその年のことですが、『ヴェークの醜悪な行為』が起こったのです(ね、そら、『エジプトの夜』(プーシキン作)の公開朗読、おぼえておいでですか? 黒き目よ! おお、わが青春の黄金の時よ、なれは今いずくにかある! ね)。さて、わたしの意見はこうです。そのドイツ女を引っぱたいた先生には、あまり深く同情しません。なぜって、実際それは……何も同情することなんかないからです! しかし、にもかかわらず、わたしはこう声明せずにいられません。どうかすると、どんな進歩主義の人でも絶対に紳士的な態度で終始一貫しうると、自分で自分に保証しかねるような、そうした挑発的な『ドイツ女』どもが、この世の中にいるもんですよ。その当時は、誰一人としてこの見地から、事件を見る人はなかったのですが、その実この見地こそ、真の人道的見地だったのです。いや、まったくですよ!」
 こう言って、スヴィドリガイロフはまただしぬけに笑い出した。ラスコーリニコフの目にはもう疑う余地もなかった。この男は何か堅く決心して、胸に一物ある男に相違ない。
「あなたはきっと五、六日の間ぶっ通しに、誰とも口をきかずにいたんでしょう?」と彼は尋ねた。
「まあそうですね。それがどうしたんです。わたしがこんな調子のいい人間なので、あなたはきっとびっくりなすったんでしょう?」
「いや、あなたがあまり調子がよすぎるのに、驚いてるんです」
「つまり、あなたの無作法な質問に腹を立てなかったからですか? そうなんですか? しかし……何も腹を立てることはありませんからね。あなたがお尋ねになったとおりに、こちらも返事をしているんで……」不思議なほど素朴な表情をして、彼はこう言い足した。「実のところ、わたしはなんにもこれという興味を持たない男なんですよ、じっさい」彼はなんとなくもの思わしげな調子で、ことばを続けた。「ことに今はそれこそ、なあんにもしていない……もっともあなたとしては、何か当てあってとり入ろうとしているのだ、とそうお思いになっても無理じゃありません。ことにあなたの妹さんに用があるなどと、自分で明言したんですからね。しかし、露骨に言ってしまいますが、わたしは非常に退屈なんです! 特にこの三日というものはね。だから、あなたに会ったのがうれしくてたまらないくらいなんですよ……悪く思ってもらっちゃ困りますがね、ロジオン・ロマーヌイチ、あなただってわたしの目には、なぜかどうも恐ろしく妙な人のように見えますよ。なんとおっしゃっても、どうもあなたには何かあるようだ。ことに今ね――といって、今のこの瞬間をいうのじゃありません、全体にこのごろ……いや、いやもう言いません、もう言いません、そんなに顔をしかめないでください! これでわたしだって、あなたの思っておられるような、そんな熊男じゃありませんからね」
 ラスコーリニコフは陰鬱いんうつな表情で彼を見つめた。
「それどころか、あなたはまるで熊男じゃないかもしれませんよ」と彼は言った。「僕の見たところでは、あなたは上流社会の人か、少なくとも場合によっては、立派な紳士になれる人です」
「いや、なに、わたしは別だん誰の評価にも興味を持っちゃいないんですよ」そっけない、いくらかごうまんな影を帯びた調子で、スヴィドリガイロフは答えた。「だから、時には俗物になったって、いいわけじゃありませんか。だって、この俗物という着物が、わが国の気候では着ごこちがいいし、それに……自分でもそれに対して、生来の傾向を持っているとすればね」と彼はまた笑いながら言い足した。
「でも、僕の聞いたところでは、君はここに大勢知人を持っておられるそうじゃありませんか。いわゆる『相当縁故や伝手つてのある』方じゃありませんか。だとすると、いったいどうしてなんの当てもないなんていわれます?」
「それはおっしゃる通りです、知己はあります」とかんじんな点には答えないで、スヴィドリガイロフは引きとった。「もうちょくちょく出会いましたよ。もうこれで三日ぶらつき歩いていますからね。で、こっちも気がつけば、先方でもこっちに気がつく様子です。そりゃあもちろん、わたしも身なりはきちんとしていますし、全体に貧乏な方じゃありません。だって、農奴解放もわたしの方には大したこともなくてすんだんですからね。森林や河沿いの草場などが主で、収入は少しも減らなかったわけなんです。しかし……わたしはそんな連中のとこへは行きません。前からもうあきあきしていましたからね。これでもう三日も出歩いていますが、誰にも声をかけないくらいですよ……それにまたこの街! まあ、いったいどうしてこんなものがロシアにできたんでしょうなあ、あきれたもんじゃありませんか! 役人どもとあらゆる種類の神学生の街ですからなあ! もっとも、八年ばかり前に、ここでぶらぶらしていた時分には、ずいぶんいろいろ気のつかないこともありましたがね……ただ一つ解剖にだけは、今でも望みを託していますよ、全く!」
「解剖学って?」
「が、いろんなクラブとか、デュッソートだとか、諸君の好きな爪先舞踏トーダンスだとか、それからまあ、進歩プログレスというやつも加えていいでしょう――まあ、こんなものは我々がいなくたって、勝手に存続させたらいいでしょうよ」彼はまたもや質問を無視して、こうことばを続けた。「それに、いかさまカルタ師になるのも、ぞっとしませんからね?」
「あなたは、いかさまカルタ師までやったんですか?」
「どうしてそれをせずにいられます? 八年ほど前、われわれはこの上もない立派な仲間を作って、時を過ごしていたもんですよ。それがね、みんな態度や押し出しの堂々たる人間ばかりで、詩人もいれば、資本家もいるという有様でした。それに全体わがロシアの社会では、もっとも洗練された態度や作法は、ちょいちょいやられたことのある連中に属しているものなんですよ――あなたそれにお気がつきましたかね? わたしがこのとおりなりふりかまわなくなったのは、このごろ田舎に逼塞ひっそくしているからですよ。それでもやっぱり、当時はわたしも借金のことで、ろうへぶち込まれようとしたこともあるんです。相手はネージンのギリシア人でしたよ。その時偶然マルファ・ペトローヴナなる人物が現われて、種々掛け合ってくれた上、三万ルーブリでわたしを身受けしてくれたのです(わたしの借金は全部で七万ルーブリだったんで)。そこで、わたしとマルファは正式に結婚しました。マルファはわたしを宝物か何かのようにして、すぐさま自分の田舎へ連れて帰った。何しろ、あれはわたしより五つも年上でしたからね。たいへんわたしを愛してくれましたよ。わたしは七年間というもの、村から外へ出ないで暮らしましたよ。ところで、どうでしょう、あれはずっと死ぬまで、例の三万ルーブリというわたしの借用証文を、他人の名義にして握っていたんですよ。だから、わたしが何かちょっと謀叛気むほんぎでも起こそうものなら、すぐわなへかかってしまうわけです! またそれくらいのことはしかねない女でしたよ! 何しろ女ってやつは、そうしたいろんな気持が一緒くたに入り交じってるものですからなあ」
「もしその証文がなかったら、あなたは逃げ出しましたかね?」
「それはなんともご返事に困りますね。わたしはそんな証文なんかにはほとんど束縛されてなかった。自分でどこへも出て行きたくなかったんですね。マルファは、わたしがつまらなさそうにしているのを見て、自分から二度も外国行きをすすめてくれたものです。しかし、そんなことをしたって仕様がないじゃありませんか! 外国へは前にもちょくちょく行ったことがありますが、いつもいやあな気がするばかりでした。いやな気がするというのとも違うが、朝、東が白むころ、ナポリ湾の海を見ていると、なんとなく気がめいってくるのです。分けてもいやでたまらないのは、実際、何か気の滅入めいる原因がありそうなことなんです。いや、やっぱり故郷が一番いいですよ。故郷では少なくとも、万事を人のせいにして、自己弁護をすることができますからね。わたしはいま北極探険にでも出かけたいくらいの気持なんです。何ぶん J'ai le vin mauvais(私は酒癖が悪いもんですからね)しかも、飲むのがいやでたまらないんです。でも、酒をやめたら、あとに何も残りゃしません。もうやってみたんですよ。ときにどうです、この日曜にユスーポフ公園で、ベルグが大きな軽気球に乗って飛ぶので、一定の料金で同乗者を募集してるそうですが、ほんとうですか?」
「じゃなんですか、あなた飛ぶつもりなんですか?」
「わたしが? いいや……ただちょっと……」スヴィドリガイロフは真剣に考え込んだ様子で、こうつぶやいた。
『いったいこの男はどうなんだろう、本気なのかしらん?』とラスコーリニコフは考えた。
「いいや、証書なんかに束縛されたんじゃありませんよ」とスヴィドリガイロフは物思わしげにことばを続けた。「わたしは自分の勝手で村から外へ出なかったのです。それに、もうかれこれ一年になりますが、わたしの命名日にマルファはその借用証書を返してくれて、おまけにまとまった金まで添えてくれました。あれはなかなか財産家だったんですよ。そして『わたしがどんなにあなたを信じているか、これでわかりましょう、アルカージイ・イヴァーヌイチ』って――ほんとうにあれはこのとおりなことばを使っていったんですよ! しかしあなたは、あれがこんなことばを使っていったなんて、ほんとうになさらないんでしょうな? それはとにかく、わたしは村で押しも押されもせぬひとかどの地主になって、近在でも人に知られるようになったんですよ。書籍などもやはり取り寄せて読みました。マルファは初めそれに賛成してくれましたが、しまいにはあまり勉強に凝りすぎはせぬかと、心配するようになりました」
「なんだかなくなったマルファ・ペトローヴナが、しきりに懐しく思い出されるようですね!」
「わたしが? そうかもしれません。いや、大きにそうかもしれません。ときに、ついでですが、あなたは幽霊の存在をお信じですか?」
「どんな幽霊です?」
「どんなって、普通の幽霊ですよ!」
「じゃ、あなたは信じますか?」
「さあ、もしなんでしたら、信じないといってもいいかもしれませんな……でも、信じないというのとも違うかな……」
「じゃ、出てくるわけなんですか、え?」
 スヴィドリガイロフはなんだか妙な目つきで彼を見やった。
「マルファ・ペトローヴナが時おりご来訪あそばすんです」と、なんとなく奇妙な微笑に口をゆがめながら彼は言った。
「ご来訪あそばすって、どうなんです?」
「なに、もう三度もやって来たんですよ。最初は葬式の当日、墓場から帰って一時間ばかり後で、あれに会った。それはこちらへ向けてつ前の晩でした。二度目はその途中、一昨日の夜明け方に、マーラヤ・ヴィシェーラの停車場で見たし、三度目はつい二時間ばかり前、わたしの泊まっている宿の部屋の中でしたよ。その時わたしは一人きりでしてね」
「夢でなくうつつに?」
「うつつですとも。三度ながらうつつなんです。やって来て、一分ばかり話をすると、戸口から帰っていくんです。いつも決まって戸口から出ていくんです。足音まで聞こえるようでした」
「いったいどういうわけだろう、君には必ず何かそんな風なことがあるに相違ないと、僕は初めからちゃんと考えてたんですよ!」とふいにラスコーリニコフは言った。
 と、同時に、そんなことを口走ったのにわれながらびっくりした。ひどく興奮していた。
「へーえ? あなたはそんなことをお考えになったんですか?」と驚いてスヴィドリガイロフは尋ねた。「いったいほんとうですか? だからそう言ったじゃありませんか、われわれ二人にはどこか共通点があるって、ね?」
「そんなことはけっしておっしゃりゃしませんよ!」やっきとなってことばするどく、ラスコーリニコフはこう答えた。
「申しませんでしたか?」
「そうですとも」
「なんだか言ったような気がしますがね。さきほどはいって来たとき、あなたが目をつむって横になったまま、寝たふりをしておられるのを見て――わたしはこうひとりごとをいったようなしだいです、『これがあの男だな!』と」
「それはいったいなんのことです、あの男とは? いったいそれはなんの話です?」とラスコーリニコフはどなりつけた。
「なんの話ですって? 全くのところ、なんの話やら、わたしも知らないんですよ……」自分でもいささかまごつき気味で、スヴィドリガイロフは心底からそうつぶやいた。
 ちょっとの間、二人はだまりこんだ。二人とも目をいっぱいに見張って、たがいに見合っていた。
「こんなことはみんな愚にもつかぬことだ!」といまいましそうにラスコーリニコフは叫んだ。「いったい奥さんは出てきて、どんな話をするんです?」
さいですか? まあ、どうでしょう、思い切ってくだらない話ばかりなんです。ところで、人間って妙なものじゃありませんか、わたしはそれがしゃくにさわるんでしてね。最初の時にははいって来て(実はわたしは疲れていたんです。葬儀、冥福祈祷めいふくきとう、それからミサ、饗応きょうおうと続いたあげく、やっと一人になって、書斎でシガーを吸いつけながら、考え込んでいたちょうどその時なんです)、戸口からはいって来ましてね、『ねえ、アルカージイ・イヴァーヌイチ、あなたはきょう忙しさにとりまぎれて、食堂の時計を巻くのをお忘れになりましたね』と言うんです。ところがその時計は、実際七年の間毎週きまって、わたしが自分で巻いていたので、どうかして忘れると、いつもあれが注意したものなんです。その翌日、わたしはもうこちらへ向けて発ちましてね、明けがた停車場の食堂へはいったわけです――前の晩にちょっとうとうとしたばかりなので、体はくたくただし、目はとろんとしている――わたしはコーヒーを手にとって、ふと見ると、いつの間にかマルファがカルタを一組手に持って、わたしの傍に腰をおろしながら、『あなた道中を占ってあげましょうか、アルカージイ・イヴァーヌイチ?』という。あれはカルタ占いの名人だったんです。いや、わたしはあの時占わせなかったのが、われながら残念でたまりませんよ。びっくりして、いきなり逃げ出したわけなんで。もっとも、そのとき発車のベルも鳴りましたがね。それから今日は、仕出し屋から取ったお粗末きわまる昼食をすまして、重苦しい腹をかかえながらすわっていました。腰かけて煙草をふかしてると、またしてもふいにマルファが、新しい緑色の絹服の長い長いトレーンをひきながら、恐ろしくめかしこんではいってくるじゃありませんか。『今日は、アルカージイ・イヴァーヌイチ! いかがですこの服は、お好みに合いまして? アニーシカでもこうは仕立てられませんよ』と言うんです(アニーシカというのは、わたしどもの村のお針で、農奴あがりなんですが、モスクワへ修業に行っていたかわいい娘です)。それから、マルファはわたしの前に立ったまま、ぐるりと一回りして見せましたよ。わたしは服をながめて、それからじいっと気をつけてさいの顔を見てやりました。『お前もいい物好きだなあ、マルファ・ペトローヴナ、こんなくだらないことで一々ご苦労千万にわたしのところへやってくるなんて』と言いますと、『あらまあ、もうちょっとくらいおじゃまをしてもいけませんの』と言います。わたしは少しあれをからかってやるつもりで、『わたしはね、マルファ・ペトローヴナ、結婚しようと思ってるんだよ』というと、『そりゃあなたのご了見しだいですけれどね、アルカージイ・イヴァーヌイチ、女房の問い弔いを十分すまさないうちから、すぐ結婚に出かけたりなすっちゃ、あまりご名誉な話でもありますまいよ。せめて相手でも、れっきとした人を見つけなすったのならともかく、わたしはちゃんと知っていますが、あののためにも、あなたのためにもなりゃしません、ただ世の笑い草になるだけですよ』こう言ったかと思うと、とたんに出て行きました。まるでトレーンきぬずれの音まで聞こえるようでしたよ。ねえ、なんとばかげた話じゃありませんか、え?」
「しかし、いい加減なことを言っておられるのかもしれませんね」とラスコーリニコフは応じた。
「わたしはめったに嘘をつきません」とスヴィドリガイロフは物思わしげに答え、質問の無作法なのにまるで気もつかない様子だった。
「じゃ以前、それまでに、幽霊をごらんになったことは、一度もなかったんですか?」
「いーいや、見ましたよ。生まれてからたった一度、六年前のことでした。わたしどもにフィーリカというやしき奉公の百姓がいましたが、その男を葬ったばかりの時に、わたしはついうっかりしてフィリップ、パイプだ! と大きな声でいいつけると、そいつがいきなりはいってきて、わたしのパイプののせてある隅棚すみだなの方へ、つかつかと歩いて行くじゃありませんか。わたしはじっと腰かけたまま、『こいつおれに仕返しに来やがったな』と考えましたよ。というのは、そいつが死ぬ前に、ひどく言い合いをしたからなんです。で、わたしは『よくもきさまはひじの抜けたものを着て、おれのとこへはいってこられたな――とっとと出て行け、このやくざ者!』と言ってやりました。すると、くるりと向き直って出て行ってしまいましてね、それきりもう出ませんでしたよ。マルファにはその時話をしませんでした。わたしはその男のために法事でもしてやろうと思いましたが、気恥ずかしくなって、よしてしまいました」
「医者に見ておもらいなさい」
「そりゃおっしゃるまでもなく、ちゃんと承知しとります。正直、どこが悪いかわからないけど、健康でないことだけは確かですな。が、わたしに言わせれば、わたしの方があなたより確かに五倍は丈夫ですよ。わたしがお尋ねするのは、幽霊の出現を信じなさるかどうか、というのじゃありません。わたしがお尋ねしたのは、幽霊の存在をお信じになるかどうか、ということなんです」
「いや、断じて信じません!」声に一種の憎悪ぞうおさえ響かせながら、ラスコーリニコフは叫んだ。
「だって、普通なんて言っています?」スヴィドリガイロフはそっぽを見ながら、頭を少し傾けて、ひとり言のようにつぶやいた。「世間のものは『お前は病気だ、したがってお前の目に見えるものは、ただ現存せざる幻にすぎない』といいます。がそれには厳密な論理がないじゃありませんか。なるほど、幽霊はただ病人にだけ現われるものだ、ということにはわたしも同意です。しかしこれは単に、幽霊は病人以外のものには現われない、ということを証明するだけで、幽霊そのものが存在しない、ということにはなりませんからね」
「もちろん存在しませんよ!」とラスコーリニコフはいらだたしげに言いはった。
「存在しない? あなたはそうお考えですか?」スヴィドリガイロフはゆっくり彼を見やりながら、ことばを続けた。「では、こういう風に考えたらどうです(一つ知恵を貸してください)。『幽霊はいわば他界の断片であり、その要素である、もちろん健康な人間には、そんなものなど見る必要もない。なぜなら、健康な人間はもっとも地上的な人間だから、したがって充実と秩序のために、この世の生活のみで生きなければならん。ところが、ちょっとでも病気をして、肉体組織が少しでもノーマルな地上的秩序を冒されると、たちまち他界の可能性が現われ始める。そして、病気が進むにつれて、他界との接触がいよいよ多くなってくる。で、すっかり死んでしまうと、たちまち他界へ移ってしまう』わたしはこのことをだいぶ前から考えていたのです。もし来世というものを信じておられるのでしたら、この考え方も信じていいわけですよ」
「僕は来世など信じやしません」とラスコーリニコフは言った。
 スヴィドリガイロフは物思わしげにじっとすわっていた。
「どうでしょう、もしそこには蜘蛛くもか何か、そんなものしかいないとしたら?」と彼はだしぬけにこう言った。
『こいつは気ちがいだな』とラスコーリニコフは考えた。
「われわれは現にいつも永遠なるものを不可解な観念として、何か大きな大きなもののように想像しています! が、しかし、なぜ必ず大きなものでなくちゃならないんでしょう? ところが、あにはからんや、すべてそういったようなものの代わりに、いなかの湯殿みたいなすすけたちっぽけな部屋があって、その隅々に蜘蛛が巣を張っている、そして、これがすなわち永遠だと、こう想像してごらんなさい。実はね、わたしはどうかすると、そんな風のものが目先にちらつくことがあるんですよ」
「いったい、いったいあなたの頭には、それよりもちっと気安めになるような、もちっと公平な考えは浮かばないんですか!」と、病的な感じを声に響かせながら、ラスコーリニコフは叫んだ。
「もちっと公平な? そりゃわかりませんよ。ことによったら、これがあなたのおっしゃる公平なのかもしれませんからね。それにわたしは必ず、わざとでもそうしたいんですよ!」なんともつかぬ微笑を浮かべながら、スヴィドリガイロフは答えた。
 この醜怪な答えを聞くと、ラスコーリニコフは一種の悪寒おかんに打たれた。スヴィドリガイロフは頭を上げて、じっと彼を見つめていたが、急にからからと高笑いをした。
「いや、こりゃ実にどうしたことでしょう」と彼は叫んだ。「つい三十分ばかり前までは、われわれお互いにまだ顔を知らないでいたんだし、今でも敵同士のように思っていて、しかも二人の間には片づかない用事があるんですよ、ところが、われわれは用事をそっちのけにして、こんな文学談をおっ始めたんですからね! え、わたしが言ったのはほんとうじゃありませんか、われわれは一つ森の獣だって?」
「どうかお願いですから」とラスコーリニコフはいらいらしてことばをついだ。「失礼ですが、早く用件をおっしゃってくださいませんか。何用でご来駕らいがをかたじけのうしたのか、それを聞かしてくださいませんか、……それに……それに……ぼく急ぐんだから。ぼく時間がないんです、ちょっと出かけたいんですから……」
「承知いたしました、承知いたしました。さて、お妹さんのアヴドーチャ・ロマーノヴナは、ルージン氏と結婚なさるんですね。ピョートル・ペトローヴィッチと?」
「どうかして妹に関する問題はいっさい避けて、あれの名を口にしないようにしていただけないでしょうか? あなたが僕の目の前で、よくもあれの名を口に出されると思って、僕はそれが不思議なくらいです――もしあなたが本当にスヴィドリガイロフだったら?」
「だって、わたしはあのひとのことを話しに来たんですもの、口に出さずにゃいられませんよ!」
「じゃよろしい。お話しください。しかし、なるたけ手っとり早く!」
「実は家内の親戚しんせきに当たるあのルージン氏については、あなたご自身もうちゃんと意見をおもちのことと信じます。よし半時間でもあの男と面会なさるとか、あるいは何に限らずあの男について確かな、ほんとうの話をお聞きになるとかすればですね。あの男はお妹さんの配偶になる資格はありません。わたしに言わせると、アヴドーチャ・ロマーノヴナは今度のことについて、きわめて高潔な打算を無視した心持から、その……家族のために一身を犠牲にしようとしていらっしゃるのです。わたしは、これまであなたのことで聞いた噂を綜合そうごうして見た上で、利害関係を破壊することなしに、この結婚を破談にできたら、あなたの方でもきっとご満足になるだろう、とこんな気がしたしだいなのです。ところが、今こうして親しくお目にかかってみると、わたしはむしろそれを確信してしまいました」
「あなたとしてそれはあまり無邪気すぎますね。いや、ごめんなさい、僕はついずうずうしすぎると言いかけましたよ」とラスコーリニコフは言った。
「というのは、つまりわたしが自分の利益のためにあくせくしてる、というご解釈なんですね。ご心配には及びませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もしわたしが自分の利益のためにあくせくしてるんでしたら、こうまともに言やしません。わたしだって、まんざらばかじゃありませんからね。このことについて一つの心理的不思議をあなたに打明けてお目にかけましょう。先刻わたしはアヴドーチャ・ロマーノヴナに対する愛を弁解するとき、自分の方が犠牲だったと言いました。で、はっきり申し上げますが、現在わたしは愛など少しも感じていません、絶対に。だから、わたし自身不思議なくらいなんです。だって実際あの当時は、何かしら感じていたんですからなあ……」
「遊惰と淫蕩いんとうのためです」とラスコーリニコフはさえぎった。
「実際わたしは淫蕩無為の人間です。しかしお妹さんは、いろいろ多くのすぐれた点をもっておいでになるので、わたしだってある種の印象に対して、抵抗ができなかろうじゃありませんか。だが、こんなことは皆くだらないことだ、今では自分でもそれがわかりますよ」
「よほど前からおわかりでしたか?」
「わかりかけたのはもう前からですが、いよいよそうと確信したのは、一昨日ペテルブルグへ着いた瞬間でした。もっともモスクワでは、まだアヴドーチャ・ロマーノヴナの愛を求めて、ルージン氏と競争する気でいたのです」
「話の腰を折ってすみませんが、お願いですから、話を少しはしょって、いきなりご来訪の用向きに移っていただけませんか。僕急ぐんですから、ちょっと外出したいんですから……」
「かしこまりました。わたしはここへ着いてから、今度ある……航海をしようと決心したので、その前に種々必要な処置をつけてしまいたい、という気になったのです。わたしの子供たちは伯母おばの所へ残っていますが、それぞれ財産を持っていますから、わたしという人間は別に用がないのです。それに、わたしなんか父親の資格などありゃしませんよ! わたし自身は、一年前にマルファがくれたものだけを持ってきました。わたしにはこれで十分なんです。ごめんなさい、今すぐ用件に移りますから。ついては、おそらく実現するだろうと思われる航海に出かける前に、わたしはルージン氏との話もつけていきたいと思うのです。あの男はきらいでたまらないというわけでもありませんが、あいつのおかげでマルファとも喧嘩けんかしたんですからね。つまり、この縁談もマルファのきもいりだということが、わたしの耳へはいったわけなんです。で、わたしは今度あなたを仲介にして、お妹さんとお目にかかりたいと思うんです。なんなら、あなたも列席してくだすってもいい。まず第一にお妹さんに向かって、ルージン氏との結婚は、けっしてこれっぱかりの利益にもならないのみか、みすみす損になるということを、なっとくのゆくようにお話ししたい。それから、せんだってのいろいろな気まずいでき事についておわびをした上、わたしから一万ルーブリ贈呈することを許していただきたいのです。つまりそれによって、ルージン氏との決裂から生ずる損害を軽減してさしあげたいと思いましてね。もっとも、この決裂にはお妹さんもたいしてご異存はない、ただ機会さえ来てくれれば、とこう思っていらっしゃるのは、わたしの信じて疑わないところです」
「あなたはほんとうに、ほんとうに気ちがいです!」ラスコーリニコフは腹が立つというよりも、むしろあきれてこう叫んだ。「よくもそんなことが言えますね!」
「あなたにどなられることは、わたしもちゃんと覚悟していましたよ。が、第一ですね、わたしは金持というではありませんが、この一万ルーブリはあってもなくてもいい金なんです。というより、わたしにはぜんぜん不用なんです。もしアヴドーチャ・ロマーノヴナが納めてくださらなければ、わたしはおそらくいっそうばかげたことにつかってしまうでしょう。これが一つとして、二つには、わたしとして良心にやましいところは毛頭ありません。つまり、いっさいなんの思わくもなしに、この金を提供するのだからです。まあ、ほんとうになさろうとなさるまいと、いずれあなたにしろ、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしろ、わかってくださる時がありますよ。問題はすべて、わたしが尊敬すべきあなたのお妹さんに苦労をかけたり、不快な思いをおさせしたりした点なのです。だから、いま衷心から悔悟して、誠心誠意こう思い込んでいるのです――といって、何も金で帳消しにしようとか、自分の加えた不快に対して賠償しようとか、そう言った意味じゃありません。唯々あの方のために、何かご利益になることをしたい、というにすぎないのです。つまりわたしだってほんとうに、何も悪いことばかりする専売特許を握ったわけじゃない、という点を基礎にして申し出たしだいです。もしわたしのこの申し出に、百万分の一でも打算が含まれていたら、わたしはこうまともに言い出すはずがないし、またわずか一万ルーブリやそこいらの金を提供などしません。現につい五週間前も、ずっと多額の金をお妹さんに提供したんですからな。のみならず、ことによると、わたしはごく近々ある娘と結婚するかもしれないのです。してみれば、アヴドーチャ・ロマーノヴナに野心を持っているのじゃないか、というようなお疑いは、いっさい自然に消滅するはずでしょう。結論として申しますが、アヴドーチャ・ロマーノヴナはルージン氏と結婚されても、この程度の金はおとりになるわけですよ。ただ出どころが違うだけでね――まあ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたも腹をお立てにならないで、落ち着いて冷静によく考えてください」
 こういうスヴィドリガイロフ自身も、しごく冷静に落ち着き払っていた。
「お願いですから、それで切り上げてください」とラスコーリニコフは言った。「なんにしても、許すべからざる暴言です」
「けっして、けっして。そんなことをおっしゃったら、人間はこの世でおたがい同士、くだらない世間的な形式のために、ただ悪いことばかりし合って、いいことはこれから先もできないことになってしまう。それはばかばかしいじゃありませんか。では、もしかりにわたしが死んで、それだけの金をお妹さんに遺言で残したとしても、それでもやはりお妹さんは拒絶なさるでしょうか?」
「そりゃ大きにありそうなことです」
「いや、それはどうも違いますよ。もっとも、だめならだめでいい、そういうことにしときましょう。しかし、一万ルーブリの金はいざという時、なかなか悪いものじゃありませんがね。いずれにしても、今お話ししたことを、アヴドーチャ・ロマーノヴナにお伝え願います」
「いや伝えません」
「そういうことでしたら、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはやむをえず、自分で無理にも会見の機会を求めます。つまり、ご迷惑をかけることになりますよ」
「じゃ、僕が伝言すれば、あなたは会見を強要しませんか?」
「さあ、なんと申し上げたらいいか、ちょっと困りますね。一度だけはぜひお目にかかりたいと思うんですが」
「あてになさらない方がいいでしょう」
「残念ですなあ。もっとも、あなたはわたしをよくご存じない。やがても少し意気投合するようになるでしょう」
「あなたは、われわれが意気投合するなんて、考えてるんですか?」
「なぜそうならないと言い切れます?」スヴィドリガイロフはにやりと笑ってこう言うと、立ち上がって帽子を取った。「わたしも実は、是が非でもあなたをわずらわそうという気はなかったのです。で、こっちへ来る道々も、さほどあてにしてはいませんでしたよ。もっとも、今朝ほどあなたの顔を見て、はっと思うには思ったのですがね……」
「今朝どこで僕をごらんになったんです?」とラスコーリニコフは不安げに尋ねた。
「偶然のことでね……わたしはどうもあなたを見てると、何か自分に似通ったところがあるような、そんな気がしてならないんです……しかし、どうかご心配なく。わたしはしつこい人間じゃありませんから。いかさまカルタの仲間ともうまを合わすことができるし、遠い親戚にあたるスヴィルベイ公爵という高官にもうるさがられなかったし、ラファエルのマドンナに関する感想をプリルーコヴァ夫人のアルバムに書く腕もあったし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも、七年間ひと足も村を出ないで同棲どうせいしたし、昔は乾草広場センナヤのヴィャーゼムスキイ公爵の家に泊まったこともあるし、おまけにベルグと一緒に軽気球にも乗って飛んでみるかもしれないという人間なんですよ」
「まあ、いいです、ときに、伺いますが、あなたはじき旅へお発ちになるんですか?」
「旅って?」
「ほら、あの『航海』ですよ……あなた自分で言ったじゃありませんか」
「航海? あっ、そうだ!……ほんとうにわたしは航海の話をしましたっけ……いや、それは広範な問題ですよ……だが、もしあなたの尋ねていらっしゃることが、どういうことだかおわかりになったらなあ!」と彼は言い添え、だしぬけに大きな声で引っちぎったように笑った。「わたしは事によると、航海の代わりに結婚するかもしれないんです。縁談を世話する人がありましてね」
「ここで?」
「そうです」
「いつそんな暇があったんです?」
「それにしても、アヴドーチャ・ロマーノヴナには、ぜひ一度お目にかかりたいと思っています。まじめなお願いです。では、さようなら……あ、そうだ! だいじなことを忘れていたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、どうかお妹さんにお伝えください。あの方はマルファの遺言で、三千ルーブリもらえることになっていらっしゃるんですよ。これは全く確かな話なんです。マルファは死ぬ一週間前に、わたしの見てるところで、その処置をしたんですから。二、三週間たったら、アヴドーチャ・ロマーノヴナはその金をお受け取りになれるはずです」
「あなたそれはほんとうですか?」
「ほんとうですとも。どうぞお伝えください。ではごきげんよう。実はわたしの泊まってる所は、ここからごく近いんですよ」
 スヴィドリガイロフは出しなに、戸口でラズーミヒンにぱったり出会った。


 もうかれこれ八時だった。二人はルージンより先に行きつこうと、バカレーエフの下宿へ急いだ。
「おい、いったいありゃ何者だい?」通りへ出るとすぐラズーミヒンは尋ねた。
「あれはスヴィドリガイロフだ。妹が家庭教師を勤めているとき、侮辱を加えた例の地主さ。あいつが妹のしりを追い回しやがったために、妹は細君のマルファ・ペトローヴナに追い出され、あすこの家から暇を取らなきゃならなくなったんだよ。そのマルファ・ペトローヴナは、あとでドゥーニャにわびをしたんだがね。今度突然頓死とんししたんだよ。さっきあすこで話していたのは、その女のことさ。なぜだかしらないが、僕はあの男が恐ろしくてたまらないんだ。やつは細君の葬式をすますと、すぐここへやって来たんだが、実に変わった男で、何か決心したことがあるらしいんだ。どうも何か知っているような風だよ……やつを用心して、ドゥーニャを守ってやらなくちゃならない……このことを君に言おうと思ってたところなんだ、いいかい?」
「守る? あんなやつがアヴドーチャ・ロマーノヴナに対して、何をすることができるものかい? いや、ロージャ、そういう風に言ってくれてありがとう……よし、よし、大いに守るとも!……だが、どこに住んでるんだい」
「知らない」
「なぜきかなかったんだ? ちょっ、惜しいことをしたなあ! もっとも、僕がすぐに探り出してやらあ!」
「君はあの男を見たのかい?」ややしばらく沈黙の後ラスコーリニコフは尋ねた。
「うん、見た。しっかり頭へ入れといた」
「君はあの男を正確に見たのかい? はっきり見たのかい?」とラスコーリニコフは追及した。
「うん、そりゃはっきりと覚えてるよ。千人からいる中でも見分けられる。僕は人の顔を覚えるのが得意なんだからね」
 二人はまたちょっと黙っていた。
「ふむ!……そうだそうだ……」とラスコーリニコフはつぶやいた。「ねえ、君……僕ちょいとそんな考えが浮かんだんだ……ぼく始終そんな気がするんだが……あれは事によったら、幻想かもしれないな」
「そりゃいったいなんのことだい? 僕は君のいうことがはっきりわからないよ」
「だって、君らはみんなそう言ってるじゃないか」とラスコーリニコフは、薄笑いに口をねじ曲げてことばを続けた。「おれのことを気ちがいだってさ。ところが、いま僕自分でもふいとそういう気がしたんだよ――もしかすると、僕はほんとうに気ちがいで、ただ幻を見ただけかもしれない」
「いったい君それはどうしたというんだ?」
「だって、それは誰にもわからないじゃないか! 実際、僕は気ちがいかもしれないさ。そして、この二、三日の間にあったことは、何もかも想像の産物にすぎないかもしれないよ……」
「ああ、ロージャ! 君はまた頭をめちゃめちゃにされたな!……いったいあの男は何を言ったんだ。何用でやって来たんだ?」
 ラスコーリニコフは答えなかった。ラズーミヒンはちょっとしばらく考えていた。
「まあ、一つ僕の報告を聞いてくれよ」と彼は口を切った。「僕は君のところへ寄ったが、君は寝ていた。それから食事をすまして、ポルフィーリイのところへ出かけたんだ。ザミョートフはやはりまだあそこにいるんだ。僕はすぐあの話を持ち出そうとしたが、根っからうまくいかないんだ。どうしてもほんとうにちゃんと話せないのさ。やつらは、まるで話がわからない、合点がいかない、というようなようすなんだ。が、いっこうまごついたらしいようすもない。僕はポルフィーリイを窓の方へ呼んで、話を始めてみたが、またどうしたわけか、とんちんかんになってしまうのだ。あの男がそっぽを見てると、僕もそっぽを見てるといった風でね。とうとう僕はやつの鼻先へ拳固げんこを突きつけて、親戚しんせきとしてきさまをたたきなますにしてやるぞ、と言ってやったよ。ところが、やつはただじろっと僕を見ただけなんだ。僕ぺっとつばをはいて出てしまった。これでおしまいさ。実にどうもばかげてるよ。ザミョートフとは一つも口をきかなかった。ところで僕は、こいつかえってへまをやってしまったぞ、というような気がしたんだが、階段をおりているうちに、ひょいとある考えが浮かんで、僕の迷いをさましてくれたんだよ。ほかでもない、なんだって僕らはお互いにこうあくせくしてるんだ? もし君に危険なことか何かあるというなら、そりゃもうもちろん騒がなきゃならないが、実際なんにもないじゃないか! 君はまるでこの事件に風馬牛なんだから、あんなやつらには唾でもひっかけてやりゃいいんだよ。あとであいつらを笑ってやろうじゃないか。もし僕が君だったら、かえってからかってやるんだがなあ。なに、あとでやつら恥ずかしくてたまらなくなるんだから! くそくらえだ! あとでまたとっちめてやる方法もあるんだから、今のところは笑ってやろうじゃないか!」
「もちろんそうさ!」とラスコーリニコフは答えた。
『明日になったらなんというつもりだい?』と彼は腹の中で考えた。不思議なことに、『わかった時には、ラズーミヒンはどう思うだろう?』という考えは、今まで一度も彼の頭に浮かばなかったのである。今ふとそれを考えると、ラスコーリニコフはじっと相手の顔をながめた。ポルフィーリイ訪問に関する今のラズーミヒンの報告には、彼はほんのちょっとした興味しか持たされなかった。あれ以来、彼の利害を左右する事情に、あまり多くの増減があったのである!……
 彼らは廊下でぱったりルージンと出会った。ルージンはきっかり八時にやって来て、部屋をさがしているところなので、三人はそろってはいって行ったが、たがいに顔も見合わなければ、会釈もしなかった。青年二人はずんずん先へ通ったが、ルージンは作法を守って、控室で外套がいとうを脱ぐのをわざと手間どらせた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは彼を迎えに、すぐさま敷居のところまで出てきた。ドゥーニャは兄と挨拶あいさつしていた。
 ルージンは部屋へはいると、かなり愛想のいい態度ではあったが、前にもまして容態ぶりながら、婦人たちに挨拶した。もっとも、ちょっとへどもどして、なんといっていいかわからないような様子だった。プリヘーリヤはなんとなく照れた形で、サモワールのたぎっているまるテーブルのまわりに、急いで皆に席をすすめた。ドゥーニャとルージンは、テーブルの両端に相対して座を占めた。ラズーミヒンとラスコーリニコフは、プリヘーリヤと向き合うことになったが、ラズーミヒンの方はルージンに近く、ラスコーリニコフは妹の傍にすわった。
 ほんの一瞬間、沈黙が襲った。ルージンは香水のぷんぷんにおう麻のハンケチを悠々ゆうゆうと取り出して、君子然とした品位を保ちながらも、傷つけられた自分の面目めんぼくに対して、十分説明を求めようとかたく決心したような態度で、ちゅんと一つ鼻をかんだ。彼はもう控室にいた時から、このまま外套も脱がずに帰ってしまい、たちどころに二人の婦人に万事を思い知らせ、腹にしみるだけ厳重にこらしめてやろうか、という考えが浮かんだのであるが、さすがに決行はできなかった。その上この男は、はっきりしないことがきらいだったので、この場合、事情闡明せんめいの必要があった。かくも露骨に命令がじゅうりんされたところをみると、そこに何かなければならない。してみれば、まずそれを知ることが第一だ。こらしめるのはいつでもできるし、それは彼の手中にあることだ。
「道中べつにおさしさわりもなかったことと存じますが」と彼は改まった口調で、プリヘーリヤに話しかけた。
「おかげさまでね、ピョートル・ペトローヴィッチ」
「何よりけっこうなことで。アヴドーチャ・ロマーノヴナもお疲れにはならなかったですか?」
「わたしは若くって丈夫ですから、疲れなんかいたしませんが、母はよほどつらかったようですわ」とドゥーネチカは答えた。
「どうもいたし方がありませんな。お国名物の道がばか長いんですから。いわゆる『母なるロシア』は偉大なものと相場が決まっておりますので……昨日はお出迎いに行きたいのは山々でしたが、どうしても間に合わせかねましたしだいです。しかし、まあ大した面倒もなくすんだことと思いますが」
「いいえね、ピョートル・ペトローヴィッチ。わたしたちはもうもう、がっかりしてしまったんでございますよ」特別声に力を入れながら、プリヘーリヤは急いで言った。「もし神様が昨日このドミートリイ・プロコーフィッチを、わたしたちのところへおつかわしくださらなかったら、二人は全く途方に暮れてしまうとこだったんでございますよ。この方が、そのドミートリイ・プロコーフィッチ・ラズーミヒンさんですの」と言いそえて、彼をルージンに紹介した。
「もうお知合いになったようです……昨日」いまいましげにラズーミヒンをしり目にかけて、ルージンはこうつぶやいた。そしてまゆをしかめながら、黙りこんだ。
 いったいルージンは人中にいるとき、見かけはきわめて愛想らしく、また愛想のいいのを得意にしているくせに、ちょっとでも気に食わぬことがあると、たちまち取っときの手をすっかりなくしてしまい、座をにぎわす気さくな紳士というより、むしろ粉袋という方が似つかわしくなる、そうした部類に属する人間だった。一同はまた黙り込んでしまった。ラスコーリニコフはかたくなに黙りこくっているし、アヴドーチャはある時機まで沈黙を破らないつもりでいたし、ラズーミヒンは何も話すことがなかった。で、プリヘーリヤはまた気をもみ始めた。
「あの、マルファ・ペトローヴナがおなくなりになりましたねえ。あなたはお聞きになりましたか?」例の取っときの種をまた持ち出しながら、彼女は口を切った。
「そりゃ聞きましたとも。まっさきに聞いて承知しております。それどころか、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフが、奥さんの葬式をすますとすぐ、急いでペテルブルグへ向けて出発したことも、お知らせしようと思ってあがったんですよ。少なくとも、わたしの受け取った確実無比な情報によると、そうなんで」
「ペテルブルグへ? ここへ?」とドゥーネチカは不安らしく問い返して、母親と目を見合した。
「たしかにそうです。そして、出発のあまり急なことや、その前のことを考慮に入れてみると、もちろん何か当てあってのことですよ」
「まあ! あの人はまたここでも、ドゥーネチカを困らせるんでしょうかねえ?」とプリヘーリヤは叫んだ。
「わたしが思うには、あなたにしろ、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしろ、何も格別ご心配なさることはありませんよ。それはむろんあなたが、あの男と何かの関係をつけよう、という考えさえお出しにならなければですな。わたし自身としても気をつけて、今でもあの男がどこに泊まっているか、捜しておるしだいです……」
「ああ、ピョートル・ペトローヴィッチ、あなたが今どんなにわたしをびっくりおさせになったか、とてもおわかりにならないくらいですよ!」とプリヘーリヤはことばをついだ。「わたしはあの人をたった二度見たきりですけれど、恐ろしい、恐ろしい人のように思われましたよ。なくなったマルファ・ペトローヴナも、あの人が殺したに違いないと、わたしは思い込んでいるほどですの」
「その点はそうばかりも決められないんです。わたしは正確な情報を手に入れていますがね。そりゃあの男が、いわば侮辱というような精神的な影響で、あの事態を早めたかもしれない、その点はわたしもあえて争いはしません。何しろ、あの人物の平素の行状や道徳的傾向に至っては、仰せのとおりですからな。あの男はいま財産を持っているかどうか、マルファ・ペトローヴナがあの男にどれだけのものを残していったか、そこはわたしも知りません。もっともそれはごく短期間にわたしの耳へはいりますがね。けれど、もちろんこのペテルブルグへ来たら、たとえわずかの金でも持っているでしょうから、あの男はたちまち前と同じことをやり出すに相違ありません。あの男はすっかり堕落しきって、道楽に身を持ちくずした随一人なんですからね! わたしは確たる根拠をもっていうのですが、運悪くも八年前にあの男にれ抜いて、借金から救い出してやったマルファ・ペトローヴナは、もう一つ別の点でも、あの男に尽くしているんです。全くあの婦人の尽力と犠牲のおかげで、たしかにシベリア行きになってしまいそうな、ある残虐無類ざんぎゃくむるいな犯罪事件、いわば怪奇きわまる殺人、といったような分子を交えたものが、きわめて初期のうちにもみ消されてしまったのです。まあ、あれはこんな風な男ですよ、もしご承知になりたければ」
「まあ、なんということでしょう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ラスコーリニコフは注意深く聞いていた。
「あなた正確な情報を握っていらっしゃるって、それはほんとうですの?」ドゥーニャは相手の腹にこたえるような、きびしい調子で尋ねた。
「わたしはただなくなったマルファ・ペトローヴナから、自分の耳で秘密に聞いたことを言ってるだけなんです。お断りしておきますが、法律上の見地からすると、この事件はすこぶるあいまいなものです。当地にレスリッヒといいまして、小金を貸したり、外の商売にも手を出したりしている外国女がいた、いや、今でもいるらしいのです。このレスリッヒなる女と、スヴィドリガイロフ氏は、昔から一種きわめて親密な、しかも神秘な関係を持っていたんです。この女のところに遠縁の娘、たしかおしでつんぼだったと思いますが、年のころ十五か、ひょっとすると十四くらいかもしれない、めいが一人おりました。それをこのレスリッヒがむやみに憎んで、はしの上げおろしにもがみがみ叱りつける、いや、それどころか、むごたらしく打ち打擲ちょうちゃくするんです。それがある時、屋根裏で首をくくっているところを、見つかったわけなんです。娘は自殺と判定されて、型どおりの手続で事はすんだ。ところがあとで、その小娘は……スヴィドリガイロフのために無残な凌辱りょうじょくを受けたと、密告する者があったんです。もっとも、その辺がどうもあいまいなんで。というのは、その密告したやつがやはりドイツ女で、信用のおけないあばずれものなんですからね。それに、厳重な意味で密告というほどのことでもなかったので、結局マルファ・ペトローヴナの尽力と金のおかげで、事件はほんの噂だけですんでしまったのです。とはいうものの、この噂は意味深長なものでした。もちろんあなたはね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、あの家で拷問のために死んだ、下男のフィリップの話をご存じでしょう。六年前、まだ農奴制時代の話です」
「わたしの聞いたのはまるっきり違います。フィリップは自分で首をくくったんだそうですわ」
「それは正にそうです。しかしそれは、スヴィドリガイロフ氏の絶え間のない虐待やせっかんが、あの男にそういう不自然な死に方をさせた、いや、もっと適切に言えば、死ぬるようにしむけたわけなんですよ」
「わたしそんなことは存じません」とドゥーニャはそっけなく答えた。「わたしはただなんだか妙な噂を聞いたばかりですの。つまり、そのフィリップという男は、憂鬱症ゆううつしょうの気味のある、いわば独習哲学者で、みんなのことばをかりていうと、『本に読まれた』んだそうです。首をくくったのも、スヴィドリガイロフさんに打たれたためじゃなくって、人に冷かされたからだということですわ。わたしがいた時分、あの人は召使の扱いがよくて、みんなもあの人を愛していたくらいですわ。もっとも、フィリップの死んだことでは、あの人を責めてはいましたけれど」
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、お見うけしたところなんだかあなたは、急にあの男を弁護なさりたくなったご様子ですね」あいまいな微笑に口をゆがめながら、ルージンはこう言った。「実際、あの男は女にかけたら煮ても焼いても食えない男ですよ。それには、あの奇怪な最後をとげたマルファ・ペトローヴナが、悲しむべき実例ですからね。わたしはただ、疑いもなくあなた方の眼前に迫っている、やつの新しい計画について、あなたとお母さんにご注意申し上げて、お役に立とうと思ったまでです。わたし一個としては、あの男はまた債権者から監獄へぶちこまれるに違いないと固く信じております。マルファ・ペトローヴナは子供の将来を思って、あの男に何か所有権を移してやろうなんて考えは、毛頭もっちゃおりませんでした。だから、たとえあの男に何か残していったにしろ、それはただ必要かくべからざる程度のものだけで、大した価値もない一時のものに違いないから、ああいう習慣をもっている男なら一年ともたないに決まっておりますよ」
「ピョートル・ペトローヴィッチ、どうぞお願いですから」とドゥーニャは言った。「スヴィドリガイロフさんのお話は、もうこれきりにしようじゃありませんか。そんな話を伺ってると、いやあな気がしてまいりますから」
「あの男はつい今し方、僕んとこへ来てたんだよ」ふいにラスコーリニコフは初めて沈黙を破った。
 四方から叫び声が起こった。一同は彼の方へひとみを向けた。ルージンさえわくわくし出した。
「一時間半ばかり前、僕が寝ているところへはいってきて、僕を起こして名乗りを上げたんだ」とラスコーリニコフはことばを続けた。「かなりくだけた態度で、愉快そうな風だったよ。そしてなんだか、そのうちに僕と意気投合するものと、すっかり一人であてこんでいたっけ。いろいろ話のあった中で、あの男はしきりにお前と会いたがってね、ドゥーニャ、僕にその仲介をしてくれと頼むんだ。あの男はお前にあることを申し入れたいといって、その内容を僕に打明けたよ。そのほかにね、ドゥーニャ、あの男は確実な話として、マルファ・ペトローヴナが死ぬ一週間前に遺言して、お前に三千ルーブリ残してくれたと、僕に報告したよ。そして、その金はごく近いうちに、お前の手にはいるだろうという話だった」
「まあ、ありがたいこと!」とプリヘーリヤは叫んで、十字を切った。「あの人のためにお祈りしてあげなさいよ、ドゥーニャ、お祈りして!」
「それは全く本当です」とルージンはつい口をすべらした。
「で、で、それからどうだったの?」とドゥーネチカはせきたてた。
「そう、それからあの男のいうには、自分も大して金持じゃない、財産は全部、いま伯母のところにいる子供たちに渡ってしまうのだ。それから、どこか僕の近くに泊まってるとか言ったが、どこだか知らない。聞かなかった……」
「でも、あの人はいったい何を、何をドゥーニャに申し入れるんだろうね?」とプリヘーリヤはおびえ上がって尋ねた。「お前に話したって?」
「ええ、話しました」
「なんなの?」
「あとで言いましょう」
 ラスコーリニコフは口を閉じて、茶の方へ手を伸ばした。
 ルージンは時計を出して見た。
「わたしは仕事の都合で、おいとましなくちゃなりません。そうすればおじゃまにもならないし」彼はいささかむっとしたような顔つきで、こう言いたしながら、椅子から腰を浮かしかけた。
「いらっしゃらないでくださいまし、ピョートル・ペトローヴィッチ」とドゥーニャは言った。「あなたは一晩じゅういるつもりで、いらしってくだすったんじゃありませんか。それにあなたはご自分で、何やら母と話したいことがあるって、そう書いていらっしゃるじゃありませんか」
「それは正にさようです。アヴドーチャ・ロマーノヴナ」とルージンは再び椅子に腰をおろしながら、相手に思い知らせるような調子で言ったが、帽子は手に持ったままだった。「わたしは、おっしゃる通り、あなたともご母堂とも、よくお話ししたい考えでおりました。しかも、ごく重要な件に関するお話です。けれどご令兄が、わたしの前ではスヴィドリガイロフ氏の申し出をいうわけにはゆかないとおっしゃる、それと同じりくつで、わたしも……ほかの人の前では……きわめて重要な二、三の件についてお話ししたくもありませんし、またできもしないわけです。それに、あれほど堅くお願いしといたかんじんな点が、実行されていないような始末ですから……」
 ルージンは苦い顔をして、しかつめらしく口をつぐんだ。
「兄が、この会見に同席しないようにという、あなたのご希望を実行しなかったのは、ほかでもありません、わたしがそれを主張したからでございますの」とドゥーニャは言った。「あなたは兄に侮辱されたとかって、お手紙に書いていらっしゃいましたが、それなら猶予なく事情をはっきりさして、お二人に仲直りしていただかなければならないと、こう考えましたの。もしロージャがほんとうにあなたを侮辱したのでしたら、兄はあなたに謝罪しなければなりませんし、またするだろうと思います」
 ルージンはとたんに元気づいてきた。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、この世の中には、いかに善良な意志をもっていても、忘れられない侮辱があります。何事にも一定の限界があって、それを踏み越えるのは危険なわざです。一度越したら最後、あとへ返すことはできません」
「わたしが申し上げたのは、その事じゃございませんの、ピョートル・ペトローヴィッチ」と少しじれったそうにドゥーニャはさえぎった。「ようくお考えになってくださいまし。わたしたちの将来というものは、この問題ができるだけ早くはっきりして、円満に解決するかどうか、それだけで決まるんじゃありませんか。わたしは遠慮なくぶっつけに申しますが、そうするよりほか考えようがないのでございます。もしあなたがいくらかでも、わたしを大切に思ってくださいますなら、むずかしいことではありましょうけれど、この話は今日にもすぐ片づけてしまわなければなりません。もう一度申しますが、もし兄に失礼がございましたら、兄がおびをいたしますから」
「あなたがそんな風に問題をおとりになるとは、驚きましたね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」とルージンはしだいにいらいらしてきた。「わたしはあなたを大切に思い、かつ尊敬してはおりますけれど、それと同時に、ご家族のうちの誰かを愛しないということは、きわめてありうべき事柄ですよ。僭越せんえつながら、あなたの愛という幸福こそ求めてはおりますが、同時に不可能な義務を負うことはできません……」
「ああ、そんなに了見の狭いことはよしてくださいまし、ピョートル・ペトローヴィッチ」とドゥーニャは情のこもった調子でさえぎった。「そして、わたしがいつも信じていたように、また信じたいと願っているように、あのよく物のわかった上品な人になってくださいまし。わたしはあなたに大切なお約束をいたしました。わたしはあなたの許嫁いいなずけです。だから、この話はどうぞわたしにおまかせくださいまし。そして、わたしに公平な裁きをつける力があるものと、信じてくださいまし。わたしが裁判官の役を引受けるということは、兄にとっても、またあなたにとっても、思いがけない贈物でございます。わたしは今日あなたのお手紙を拝見してから、ぜひこの席に来てくれと兄に頼んでやりました時も、自分の考えは少しも知らせてやりませんでした。ね、とくと合点してくださいまし。もしあなた方が仲直りしてくださらないと、わたしはあなた方ふたりのうち、どちらかを選ばなければなりません。あなたの方からも兄の方からも、問題がそういう風になって来たんですの。わたしこの選択は誤りたくありませんし、また誤ってもならないのです。あなたのためには兄と別れなければなりませんし、兄のためにはあなたと手を切らなければなりません。今わたしは、あの人がわたしの兄かどうかということを、確実に知りたいと思います。そして、知ることができると思います。またあなたについては、わたしがあなたにとって大切な人間かどうか、あなたがわたしを尊重してくださるかどうか、つまりあなたはわたしの夫かどうか、ということをね」
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ」ルージンはむっとして言った。「あなたのおことばはわたしにとってあまりにも意味深長です。いや、もっと突っ込んでいいますが、あなたに許していただいているわたしの位置から見て、むしろ心外千万なくらいです。わたしとこの……高慢ちきな青年を同列に扱おうとなさる、心外千万な合点の行かぬ対照のなさり方は、今さら申し上げないとしても、今のおことばでみると、あなたはわたしになすった約束を、破棄する可能を認めておいでなさるわけです。あなたは『わたしか兄さんか』とおっしゃる。してみれば、わたしがあなたにとって大した意味を持っていないことを、思い知らせていらっしゃるわけです……わたしは、おたがいの間に存在している関係からいっても……義務からいっても……そういうことは断じて許容するわけにいきません」
「なんですって!」とドゥーニャはかっとなって「わたしはあなたの利害を、今までわたしにとって大切であったもの、わたしの生活全部だったものと、同列に見なしているんですよ。それだのに、わたしがあなたを十分尊重しないといって、急に腹をお立てになるんですのね!」
 ラスコーリニコフは無言のまま、皮肉ににやりと笑った。ラズーミヒンは全身をぴくっとさせた。が、ルージンはこの反駁はんばくを頭から相手にしないで、一言一言にいよいよ執念ぶかく、いらいらしてきた。まるでしだいに油が乗ってくる、というようなあんばいだった。
「やがて生涯の伴侶になろうという人、つまり夫に対する愛は、兄弟に対する愛を凌駕りょうがしなければならないはずです」と彼は教訓的な調子で言った。「いずれにもせよ、わたしは……なにとひとしなみに見られるのはたまりません……先刻わたしは訪問の用向きをご令兄の前では申し上げたくもなし、また申し上げるわけにいかないと主張しましたが、それにもかかわらず、わたしは今一応ご母堂にお願いして、一ばん根本的な、しかもわたしにとって心外千万な点について、ぜひとも事態を闡明せんめいいたしたいと思うのです。ご子息は」と彼はプリヘーリヤの方へ向き直った。「昨日ラッスードキン氏……(それとも……確かそうでしたね? ごめんください、お名前をつい失念しまして……と彼は愛想よくラズーミヒンに会釈した)この方の前で、わたしの考えを曲解して侮辱されたのです。つまり、いつぞやあなたとコーヒーを飲みながら、内輪話の中に申し上げたことですが、世間の苦労を味わった貧しい娘さんとの結婚は、わたしの考えでは、何不自由なく育った娘さんと結婚するよりも、道徳的にも有益なことであるから、夫婦関係の上からいっても有利だと申し上げた、あのことなのです。わたしの見たところでは、ご子息はあなたご自身の通信を基礎として、故意にばかばかしいくらいことばの意義を誇張して、何か悪だくみでも持っているように、わたしを非難なすったのです。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、どうかわたしの誤解をといて、安心させてくだされば、わたしはそれをもって幸福といたします。つまり、わたしの言ったことをどんな形で、ロジオン・ロマーヌイチ宛ての手紙にお伝えになったか、一つ聞かせていただきたいものです」
「わたしはもう覚えておりませんので」とプリヘーリヤはへどもどした。「わたしは自分で伺ったとおりに書いてやりましたので、ロージャがあなたになんとお伝えしたか存じませんが……ことによったら、あれがほんとうに何か大げさに申したかもしれません」
「しかし、あなたの暗示がなかったら、ご子息も誇張なさるわけにいかないはずですよ」
「ピョートル・ペトローヴィッチ」とプリヘーリヤはきっとなった。「わたしとドゥーニャとが、あなたのおことばを大して悪い方へとらなかったのは、わたしたちのここへ来ている事が証拠でございます」
「そうだわねえ、お母さん!」と賛成するようにドゥーニャは言った。
「してみると、このこともやはりわたしが悪いわけなんですな!」とルージンはむっとした。
「ピョートル・ペトローヴィッチ、あなたはそういう風に、何もかもロージャをお責めになりますけれど、あなただって、先刻のお手紙に、あれのことで嘘を書いていらっしゃるじゃありませんか」とプリヘーリヤは急に元気づいて、こう言いたした。
「わたしが何か嘘を書いたなんて、そんな覚えはありませんな」
「あなたはこう書いておられるのです」ルージンの方をふり向こうともせず、ラスコーリニコフはずけずけと言い出した。「僕がきのう金をやったのは、まさに轢死者れきししゃ寡婦かふだったのです。それを寡婦ではなくて、娘にやったのだなんて書いておられる(その娘というのは、僕きのうの日まで見たこともなかったんですよ)。あなたがそれを書かれたのは、僕を家族のものと喧嘩さすためで、そのために陋劣ろうれつきわまる文句で、自分の知りもしない娘の行状を書き添えたんです。それはみな卑しい陰口というものです」
「失礼ですが」憤怒に身を震わせながら、ルージンは答えた。「あの手紙であなたの性格や行為にまで言い及んだのは、ただそれによって、ご令妹とご母堂の依頼を履行したまでです。つまり、あなたをお訪ねした時の模様はどうだったか、あなたがわたしにどんな印象を与えられたか、そういうようなことを細かく知らせてほしいとのことだったのです。ところで、いま指摘された手紙の文面に関しては、そこに一行でも事実相違の点があったら、見せていただきましょう。つまり、あなたが金を使われなかったかどうか、あの家族はたとえ不仕合せだとはいい条、汚らわしい人間は一人もいなかったかどうか、というような点に関してですな」
「が、僕に言わせると、あなたなんかありたけの美点をかき集めても、あなたがいま石を投げているあの不幸な娘の、小指だけの価値もありゃしない」
「すると、あなたはあの女をご母堂や、ご令妹と一座させるだけの決心がおありですな?」
「それはもう実行しましたよ、もし知りたいとおっしゃれば申しますがね。僕は今日あの娘を、母とドゥーニャと並んですわらせましたよ」
「ロージャ!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ドゥーネチカは顔を赤らめ、ラズーミヒンは眉を寄せた。ルージンは毒々しく、高慢ちきににやっと笑った。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ」と彼は言った。「ごらんのとおりですから、これじゃ話の折り合うわけがありません。わたしはもうこれで永久に万事了したもの、事情闡明したものと考えさしていただきます。もはやこの上親子兄妹対面のお楽しみや、秘密ご伝達のおじゃまをしないように、遠慮することといたしましょう(と彼は椅子から立ち上がって、帽子を取った)。けれど、帰りがけにあえて注意させていただきますが、こんな出会い、いや、あいまいな妥協は、ごめんこうむりたいものですな。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、あなたには特にこの点をお願いしておきます。ましてあの手紙はほかの誰でもない、あなたに宛てたものなんですからな」
 プリヘーリヤも少々むっとした。
「あなたはなんですか、わたしたちをご自分の権力で、自由にしようとしていらっしゃるようですね、ピョートル・ペトローヴィッチ。どうしてお望みどおりにしなかったかというわけは、もうドゥーニャが申し上げました。あれはいい考えを持っていたのでございます。それにあなたのお手紙は、まるで命令でもなさるような書き方ですもの。いったいわたくしどもはあなたのお望みを、一々命令のように守らなくてはならないでしょうか? それどころじゃありません、わたしはっきり申し上げますけれど、あなたは今わたしどもに対しては、かくべつ優しく寛大にしてくださらなければならないはずです。だって、わたしたちは何もかも振り捨てて、ただあなたを頼りにここまで出て来たんですもの。してみれば、それでなくても、大方あなたの権力内におかれてるわけじゃありませんか」
「いや、そうばかりでもありませんよ、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ。ことに今しがた、マルファ・ペトローヴナの遺言状に書かれた、三千ルーブリのご披露があった後ですからな。しかもそれはわたしに対するお話し振りの変わったのから見ても、たいへんいい折だったらしいご様子で」と彼は毒々しく言い足した。
「そのおことばからみますと、ほんとうにわたしどもの頼りない身の上を当てにしていらしったものと、想像してもよさそうですね」といらだたしげにドゥーニャは言った。
「けれども今は少なくとも、そんなことを当てにするわけにいきません。ことにアルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフ氏の秘密な申し出を伝達される、おじゃまをしたくもありません。あの男はご令兄にその全権を委任したわけなんでしょう。わたしの見るところでは、その申し出はあなたにとって重大な意味、いや事によったら、きわめて愉快な意味を持っているのかもしれないようですな」
「まあ、なんということを!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ラズーミヒンは椅子にじっとしていられなかった。
「お前これでも恥ずかしくないのかい、ドゥーニャ?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「恥ずかしいわ、兄さん」とドゥーニャは言った。「ピョートル・ペトローヴィッチ、とっとと出て行ってください!」彼女は憤怒にさっと青ざめながら、彼の方へふり向いた。
 ルージンもこうした結末になろうとは、夢にも思いがけなかったらしい。彼はあまりに自分自身と、自分の権力と、二人の犠牲の頼りない境遇に、希望をかけすぎていたのである。今でもまだ本当にならないほどであった。彼は真っ青になり、唇がわなわなと震え出した。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、わたしが今こんなはなむけをもらって、この戸口から出てしまったら、その時には――どうか覚悟してください――わたしはもう二度と帰っては来ませんから。ようっくお考えなさい! わたしの言ったことに変改へんがいはありませんぞ」
「なんてずうずうしい!」ドゥーニャはすっくと席を立ちながら叫んだ。「えええ、わたしもあなたに帰って来ていただきたくありません!」
「えっ? なるほどそうですか!」最後の瞬間までこうした大団円を信じていなかったルージンも、今はまるでつぎ穂を失って、思わずこう叫んだ。「なあるほど、そうですか! しかし、いいですか、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、わたしは抗議することだってできますよ」
「あなたはどんな権利があって、娘にそんなことをおっしゃるんです!」とプリヘーリヤは熱くなって割ってはいった。「いったいどんな抗議がおできになるんですの? いったいどんな権利を持ってらっしゃるんですの? ふん、あなたのような人に可愛いドゥーニャを上げましょうかい? さ、出て行ってください、わたしたちにかまわないでいただきましょう! もともとわたしたち自分の方が悪いんです。こんな間違ったことを思い切ってしようとしたんですからね。とりわけわたしが一ばん悪かったのです……」
「しかし、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」とルージンは狂憤のあまり夢中になってしまった。
「あなたはああした約束で、わたしを縛っておきながら、今さらそれを破棄するなんて……そして、そして、おまけに……おまけにわたしはおかげで、余計な失費をさせられたじゃありませんか……」
 この最後の抗議は、あまりにもルージンの性格にはまっていたので、憤怒の発作とそれを押える努力のために、真っ青になっていたラスコーリニコフも、急にがまんし切れなくなり、からからと笑い出した。けれど、プリヘーリヤは思わずわれを忘れてしまった。
「失費ですって? それはいったいどんな失費なんですの? まさかあなたは、わたしたちのトランクのことをおっしゃるんじゃありますまいね? だって、あれは車掌があなたにただで乗せてくれたんですよ。まあ、なんてことでしょう、わたしたちがあなたを縛ったんですって! まあ正気になってくださいよ、ピョートル・ペトローヴィッチ、それはね、あなたの方がわたしたちの手足を縛ったので、わたしたちがあなたを縛ったのじゃありませんよ」
「もうたくさんよ、お母さん、後生だからもうよして!」とドゥーニャは哀願した。「ピョートル・ペトローヴィッチ、どうぞお願いですから、出て行ってくださいまし!」
「出て行きますとも。ただ最後にたった一言いっておきます!」もうほとんど自制力を失って、彼は叫んだ。「ご母堂はもうすっかり忘れてしまわれたようですが、わたしはあなたのああした風評が、近所近在一円にひろがったにもかかわらず、あなたをもらおうと決心したんですよ。わたしはあなたのために輿論よろんを無視して、あなたの名誉を回復してあげたのだから、もちろん、大いばりでその報酬を当てにしても、いや更にあなたの感謝を要求しても、いいわけだと思いますがね……しかし、今ようやく目があけてきました! ことによると輿論を無視したのは、きわめてきわめて軽率な行為だったかもしれない、それが自分でもわかります……」
「この野郎、頭が二つあるとでもいうのか!」ラズーミヒンは椅子からおどり上がって、今にも制裁を加えようと身構えながら、こうどなりつけた。
「あなたは卑劣な、意地の悪い人です!」とドゥーニャは言った。
「何もいうな! 何もするな!」と、ラズーミヒンを押し止めながら、ラスコーリニコフは叫んだ。それから、ぴったり顔を突き合わさないばかりに、ルージンの傍へ進み寄った。「さあ、とっとと出て行ってください!」と彼は低い声で、はっきりことばを分けながら言った。「もう一言も口をきかないで、さもないと……」
 ルージンはややしばらく、憤怒にゆがんだ真っ青な顔をして、じっと彼を見つめていたが、やがてくるりとくびすを転じて、そのまま出て行った。今この男がラスコーリニコフにいだいたほどの憤怒と憎悪は、誰しもめったに感じることがなかったに相違ない。彼はラスコーリニコフを、彼一人のみを、いっさいの原因にしてしまったのである。しかし、ここに特筆しなければならないのは、もう階段をおりて行きながらも、事はまだぜんぜん瓦解がかいしてしまったのではないかもしれない、二人の婦人に関しては『十分、十分』回復の見込みさえあると、こんな風に考えたことである。


 何よりかんじんなのは、最後の瞬間までこうした結末を、夢にも予期しなかったことである。彼はいよいよのどんづまりまで、赤貧洗うがごとき頼りない二人の女が、自分の勢力下から脱出するかもしれないなどと、そうした可能性を想像もしていなかったので、傲然ごうぜんと力み返っていたのである。この信念を手伝っていたのは、彼の虚栄心と、うぬぼれと呼ぶのがもっともふさわしい自信の念であった。雑輩からたたき上げたルージンは、病的なほどうぬぼれがつよく、自分の頭脳と才知を高く評価していた。時とすると一人でそっと、鏡に映る自分の顔に見惚みほれることさえあった。しかし、彼がこの世の何より愛していたのは、あらゆる方法を尽くしながら粒々辛苦の結果手に入れた自分の金だった。その金こそは彼を引上げて、自分より上にあったあらゆるものと、同列にしてくれたのである。
 今さっき彼がドゥーニャに向かって、自分は悪い風評があるにもかかわらず彼女をめとろうと決心したのだと、悲痛な語調でほのめかしたのは、あくまでまじめな気持で言ったのであった。それどころか、ああした「浅ましい忘恩のふるまい」に対して、深い憤懣ふんまんの情さえも覚えたほどである。もっとも、ドゥーニャに縁談を申し込んだ時には、すでにマルファ・ペトローヴナ自身が、公然とそうした風説を根底からくつがえしてしまい、町じゅうの人もそんなことなど忘れて、ドゥーニャをかばっていたので、彼もそれが愚にもつかない妄説もうせつだということを、十二分に信じていたのである。それに彼自身も、そういう事情をあの当時から知っていたのを、否定するわけにはいかなかったろう。にもかかわらず、彼はドゥーニャを自分と同じ地位まで引上げてやろうとした自分の決断を、やはりどこまでも高く評価し、それを功業のように思っていた。で、今ドゥーニャにこのことを言い出したのも、これまでひたすらいつくしみ、内心ひとりで嘆賞していた大事な秘密の想念を表白したわけなので、どうして人がこの功業を嘆賞しないのかと不思議でたまらなかった。もうラスコーリニコフを訪ねて行ったあの時からして、彼は十分に自分の功業の成果を収め、この上もない甘美な謝辞を聞くつもりで、恩人気取りではいっていったものである。で、いま階段をおりながら、彼が自分の真価を認められず、この上ない侮辱を受けたように考えたのは、無理からぬしだいである。
 ドゥーニャは彼にとって、もうそれこそなくてならぬものだった。彼女を思い切るなどとは、思いも及ばないことである。もう長い間、五、六年このかた、彼は結婚という事を楽しい空想にしながら、それでも絶えず金をちびちびめて、時節到来を待っていたのである。彼は希望に満ちた気持で、心の深い深い奥の方で、品行がよくて貧乏な(どうしても貧乏でなくてはならない)、若くてきりょうのいい、素性も正しければ教育もあり、しかも浮世の苦労をなめつくして臆病おくびょうになった娘――あくまで従順な(彼一人だけに)、生涯自分を恩人として敬いあがめ、頭も上げないような娘を夢想していた。彼が仕事のひまひまに静かなところで、この魅惑に富んだ楽しいテーマについてどんな甘いエピソードや情景を空想の中に描いたかわからない! そこへ急に、数年来の空想がほとんど実現されるばかりになった。アヴドーチャ・ロマーノヴナの容色と教養は、彼を驚嘆させ、その頼りなげな境遇は、いやが上にも彼の欲望をそそったのである。しかもそこには彼が空想していたのより、より以上のものさえあった。この娘は誇りが強くて意地があり、品行は模範的で、教養と頭脳の発達は彼以上である(彼はこれを直感した)。しかも、これほどな尤物ゆうぶつが一生涯彼の偉業に奴隷的感謝をささげ、彼の前にうやうやしくおのれをむなしゅうする。そして、彼は絶対無限に君臨しようというのである!……ちょうどわざとねらったように、彼はそのちょっと前から、長い熟慮と期待の後に、ようやく根本的に方針を改めて、一層広い活動圏内へ踏み出すと同時に、もう久しい間おぼれるほどあこがれていた一段上の社会へも、徐々に移って行こうと決心していた……一口に言えば、彼はペテルブルグへ打って出ようと決心したのである。彼は女というものが仕事の上で、「あくまで、あくまで」助けになることを知っていた。美しく、品性の高い教養ある女性の魅力は、彼の人生行路を飾り、人々を彼の方へひきつけ、彼のために一種の後光となることができる……それが、急に何もかも崩壊しようとしているのだ! この思いもかけぬ醜悪な決裂は、彼にとって落雷のような作用をしたのである。それは一種醜悪な悪ふざけだった、ばかげた話だった! 彼はほんの少しいばって見たばかりで、ろくろく言いたいことも言えなかった! 彼はただちょっと冗談をいって、調子に乗り過ぎただけなのだが、こんな重大な結果になってしまった! おまけに、彼はもう自己一流の愛し方で、ドゥーニャを愛していた。心の中ではもう彼女に君臨していた――しかるに、がぜん!……いや! 明日にも、明日にもさっそく事態を回復し、手当てを加え、修正しなければならない。第一――いっさいの原因たるあのごうまんな乳くさい青二才を、ぺしゃんこにやっつけてやらねばならぬ。それからラズーミヒンのことも、この時病的な感覚とともにわれともなく思い出された……が、しかし、それについては、彼もすぐ安心してしまった。『もちろんあんな男はあいつと十ぱひとからげだ!』けれど、彼が真剣に恐れたのは誰かというと――それはスヴィドリガイロフだった……とにかく、いろんな心労が目の前に控えていたのである……
 ……………………………………………………………………………………………………
「いいえ、わたしが、わたしが一ばん悪いんだわ!」母を抱きしめて接吻せっぷんしながら、ドゥーネチカはこう言った。「わたしはあの人のお金に目がくらんだのよ。でも、兄さん、わたし誓って言うわ――わたしはまさかあの人が、あれほど取るに足りない人だとは、夢にも思わなかったわ。もし前からあの人をよく見抜いてたら、どんなことがあっても迷やしなかったんだけど! 兄さん、わたしを責めないでね!」
「神様が救ってくだすったのだよ! 神様が救ってくだすったのだよ!」プリヘーリヤは、いま起こったいっさいのことが、まだはっきりに落ちないらしく、なんだか無意識のようにそうつぶやいた。
 一同はたがいに喜び合った。五分もたつと、笑い出しさえもした。ただ時々ドゥーネチカが、始終のことを思い浮かべながら、青い顔をしてまゆを寄せているばかりだった。プリヘーリヤは、自分も一緒になって喜ぼうなどとは夢にも思っていなかった。つい今朝ほどまで、ルージンとの決裂が恐ろしい不幸に思われていたのである。ただ、ラズーミヒンは有頂天になっていた。彼はまだ思い切って十分にその歓喜を表白できなかったが、まるで五プードもあるおもりが胸から取りのけられでもしたように、まるで熱病やみのように震えた。今こそ彼は自分の全生涯を投げ出して、彼女たちに奉仕する権利を得たわけである……それに、今だって何事が起こるか、しれたものではないのだ! しかしそれから先の事となると、彼はなおのこと小心翼々として、そういう考えを追いのけ、自分自身の想像を恐れていた。ただ一人ラスコーリニコフはじっと同じ椅子に腰かけたまま、ほとんど気むずかしいといっていいくらいに、放心したような様子をしていた。彼は何よりもまずルージンを遠ざけることを主張しておきながら、今のできごとに誰よりも一ばん興味がないような風だった。ドゥーニャは、兄がまだ自分にひどく腹を立てているのだと考えた。プリヘーリヤはおどおどと彼の方へ視線を投げていた。
「スヴィドリガイロフは兄さんになんと言って?」とドゥーニャは彼の傍へ近よった。
「あっ、そう、そう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ラスコーリニコフは頭を上げた。
「あの男はどうしても、お前に一万ルーブリ贈りたいというのだ。それについて僕も立会いの上で、一度お前に会いたいというのだ」
「会いたい! そんなことはこんりんざいできません!」とプリヘーリヤは叫んだ。「よくもこの子にお金を贈りたいなんてそんなことが言えたものだ!」
 それからラスコーリニコフは(かなりそっけない調子で)、スヴィドリガイロフと会見の顛末てんまつを物語った。もっとも、余計なことも言いたくなし、また実際必要以外なことには何一つ話頭を向けたくなかったので、マルファ・ペトローヴナの幽霊の話は抜いてしまった。
「で、兄さんはどう返事をなすったの?」とドゥーニャは尋ねた。
「はじめ、お前に伝言などしないと言った。するとあの男は、あらゆる手段を講じて直接会見の目的を達すると声明するのだ。彼の断言するところによると、お前に対する狂気の沙汰さたは、あれは一時の迷いだった。今ではお前に対して何も感じちゃいないというのだ……あの男はお前をルージンと結婚させたくないんだよ……まあ、全体としても、なんだかあいまいな話ぶりだった」
「兄さん自身は、あの人をどう解釈なすって? どんな風にお思いになって?」
「正直、なんにもわけがわからないんだ、一万ルーブリ提供するというかと思えば、自分は金持じゃないという。どこかへ行ってしまうつもりだと言うかと思えば、十分もたたぬうちに、そういったことを忘れてるんだ。それからまた急に、結婚しようと思っている、相手も世話する者がある、とも言ったっけ……もちろん、何か目的はあるに違いない。そして十中八九、ろくなことじゃないだろう。が、それにしても、もしあの男がお前に対して、よくないもくろみを持ってるとすれば、あんなとんまなやり方をしようなんて、ちょっと想像しかねるし……もっとも、僕はお前に代わって、その金はきっぱり断わっといてやったよ。概してあの男は、僕の目には妙に思われたよ……いや、むしろ……発狂の徴候があるようにさえ思われた。しかし、僕だって間違ってないとも限らない。ことによると、それは単に独自なごまかしにすぎないかもしれん。しかし、マルファ・ペトローヴナの死んだことは、あの男にもがんと来たらしい……」
「おお、神様、どうぞあのひとの魂をお安めくださいまし!」とプリヘーリヤは叫んだ。「わたしはいつまでも、いつまでもあのひとのために祈ります! ねえ、ドゥーニャ、その三千ルーブリがなかったらわたしたちは今どうなっていたろうね! ほんにまあ、天からでも降って来たようだ! どうだろう、ロージャ、今朝わたしたちの手もとにはもう天にも地にも、たった三ルーブリしか残っていなかったんだよ。で、わたしとドゥーニャは時計でも質に置こうかと、そればかりいろいろ考えたくらいなんだよ。先方から言い出さないうちには、あの男からもらうまいと思ったのでね」
 ドゥーニャはスヴィドリガイロフの申し出に、よほどショックを受けたらしく、じっと考えに沈んだまま、いつまでも立ちつくしていた。
「あの人は何か恐ろしいことを考え出したんだわ!」彼女はほとんど震え上がらんばかりに、ささやくような声でひとりごちた。
 ラスコーリニコフはこの並々ならぬ恐怖に気づいた。
「なんだか僕はまだちょいちょい、あいつと会いそうな気がする」と彼はドゥーニャに言った。
「あいつに気をつけてやりましょう! 僕が居どころを突きとめてやる!」とラズーミヒンは元気よく叫んだ。「ちょっとも目を放すことじゃありませんよ! ロージャが僕に許可してくれたんですからね。ロージャ自身がさっき僕に『妹を守ってくれ』ってそう言ったんですよ。ねえ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、あなたもお許しくださるでしょうね?」
 ドゥーニャはにっこり笑って、彼に手を差し伸べたが、心痛の色はその顔から去らなかった。プリヘーリヤはおずおずと彼女の顔を盗み見ていた。とはいえ、三千ルーブリは明らかに彼女を安心させたらしい。
 十五分の後には、一同はおそろしくはずんだ調子で話していた。ラスコーリニコフさえも、自分は話こそしなかったが、しばらくの間は熱心に耳を傾けていた。さかんに熱弁をふるっているのは、ラズーミヒンだった。
「いったいなぜ、なぜあなた方はお帰りにならなきゃならないんです!」彼は陶酔したような風で、歓喜にあふれることばをとうとうと吐き出すのであった。「それに、いなか町で何をなさろうというのです? 何よりかんじんなのは、あなた方がここで一緒にいらっしゃるということです、お互い同士が役に立ち合うってことです――全くどれだけ力になるか、まあ考えてもごらんなさい! まあ、たとえしばらくの間でもね……そして、どうか僕を友人にしてください。話相手にしてください。そうすれば、嘘じゃありません、それこそすばらしい仕事が始められますよ。まあ、こうなんです、聞いてください、そいつをすっかり詳しくお話ししましょう――その計画をね! まだ今朝の事で、まだなんにも起こらない前に、僕はふいと頭に浮かべたんですよ……実はこういうわけです。僕には伯父おじが一人あるんですが(いずれご紹介しますよ。いたってよくできた、なかなか上品ないいじいさんです!)その伯父が貯金を千ルーブリばかり持ってるんですが、自分は恩給で食ってるので、少しも不自由しない。で、伯父はもう二年越し、その金を使ってくれ、利子は年六分でいいからと、しつこく僕を責めるんです。しかし、その機関からくりはわかってるんで、伯父はただ僕を助けたいんですよ。ところが、去年は僕もべつだん必要がなかったが、今年は伯父の出てくるのを待ちかねて、それを借りる決心をしたのです。その上に、あなた方も今度の三千ルーブリだけ提供してくだされば、手はじめとしてはまず十分です。こうしてわたしたちは合資したわけです。ところで、いったいなにをするとお思いになります」
 ここでラズーミヒンは、自分の計画の説明に移った。そして、ほとんどすべての書籍や出版業者が、自分の商品の性質をよくわきまえていないから、したがって普通に出版業は成功しないと相場を決められているが、しっかりしたものさえ出せば、必ず収支つぐなって、利潤をあげるばかりか、時々は相当なもうけもあるということを一生懸命に説明した。ラズーミヒンはもう二年から人のために働いて来たし、三か国の欧州語にかなり通じていたので、出版業を始めることは、つねづね空想していたところである。もっとも六日ばかり前に、彼はラスコーリニコフに向かって、ドイツ語はいっこう「ぺけ」だといったが、それは彼に翻訳を半分引受けさせて、三ルーブリの先金さききんを握らせるための方便だった。ラスコーリニコフも、それが嘘なことはよく知っていた。
「どうして、どうしてこの好機を逸するわけにゃゆきません。だって、一ばんかんじんな資本の一つ――つまり、自分の金がちゃんとあるんですもの!」とラズーミヒンは熱くなって言った。「もちろん、たいへんな努力が必要です、しかしわたしたちは働こうじゃありませんか。あなたとね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、それから僕とロジオンと……出版業者の中には、いま非常にいい成績をあげてるのがあるんですからね! ところで、この事業の根本の基礎となるのは、結局何を訳せばいいか、それをよく知ることなんです。僕らは翻訳もすれば、出版もやり、勉強もやる、何もかも一緒なんです。今なら僕も役に立ちますよ。経験があるんですからね。何しろもう二年も方々の出版屋を歩き回って、やつらの内幕は知り抜いているんです。玄人くろうとだって別に神さまじゃありませんよ、全く! なんだってわざわざご馳走ちそうを口の傍まで持ってきてもらいながら、素通りさせる必要があります? 僕はすてきな本を二つ三つ知っています。そいつを翻訳して出版するという案だけに対しても、一冊で百ルーブリずつも取れそうなのを、大切に胸の中に秘めているんですよ。その中の一冊などは、思想だけ五百ルーブリ出すといっても、僕は相手にしたくないくらいですよ。あなた方はどうお思いです? もし僕が誰かにそんな話をしたら、こんなでくのぼうが! といって、あるいはまだ疑うかもしれませんね。しかし、印刷とか、用紙とか、販売とかの雑務となったら、それはいっさい僕におまかせなさい! 僕が裏の裏まで承知していますから! はじめは小体こていにやって、大きく仕上げるんですな。少なくとも、食ってゆくだけのものはありますよ。どう間違ったって、出した金くらいは戻って来ます」
 ドゥーニャの目は輝いた。
「あなたのおっしゃることは、わたしたいへん気に入りましたわ、ドミートリイ・プロコーフィッチ」と彼女は言った。
「わたしはこういう話になると、むろん何もわかりませんけれど」とプリヘーリヤは応じた。「それはけっこうなことかもしれませんが、これも先の事は誰にもわかりませんでね。なんだか新しいことだものだから、不安心なようでね。もっとも、わたしたちはどうしたって、ここに残らなければなりません、当分の間だけでもね……」
 彼女はロージャを見やった。
「兄さんどうお思いになって?」とドゥーニャは言った。
「僕も非常にいい考えだと思うよ」と彼は答えた。「会社を作るなんてことは、もちろん、前から空想すべきことじゃないが、五、六冊の本の出版なら、実際必ず成功さすことができるよ。僕も間違いなく売れる本を一つ知っている。ところで、この男が経営をうまくやってゆくということは、少しも疑いがないね。仕事の頭があるから……もっとも、まだよく相談する暇はあるさ……」
万歳ウラー!」とラズーミヒンは叫んだ。「ところで、ちょっと待ってください。ここに、この家に、同じ主人の持っている住まいがあるんです。それは独立した離れた部屋で、このあいまいな部屋とは通路がなくって、道具つきなんです。家賃も格安で、小さいながら三あります。まあとりあえずこれをお借りなさい。時計は僕があした質屋へ持って行って、金にして来て上げます。それから先は何もかもうまく行くでしょう。何よりかんじんなのは、三人ご一緒におられるってことです、ロージャも一緒に……おや、ロージャ、君はどこへ行くんだい?」
「まあ、ロージャ、お前もう帰るの?」プリヘーリヤはほとんどぎくりとしたていでこうきいた。
「しかも、こういう時をねらって!」とラズーミヒンは叫んだ。
 ドゥーニャは迂乱うろんらしい驚きの色を浮かべながら、兄を見やった。彼の手には帽子があった。彼は出て行きそうにしていたのである。
「なんだかみんなまるで僕の野辺送りをするか、永久の別れでも告げてるようだね」なんとなく奇怪な調子で、彼はこう言った。
 にやりと笑ったようでもあったが、それはまた微笑でないようでもあった。
「僕たちが顔を見るのも、これが最後かもしれないからね」と彼はさりげない様子で言い足した。
 彼はこれをふと心の中で考えたのだが、どうしたはずみか、つい口へ出てしまったのである。
「まあ、お前はどうしたの!」と母は叫んだ。
「兄さん、あなたどこへいらっしゃるの?」なんとなく妙な調子で、ドゥーニャはこう尋ねた。
「ちょっと、僕どうしても行かなきゃならないんだ」自分の言おうとしたことに動揺を感じるらしい様子で、彼は漠然と答えた。が、その青ざめた顔には、一種きっぱりした決心の色が現われていた。
「僕そう言おうと思ったんです……ここへ来る道々……そう言おうと思ってたんです、お母さん、あなたにも……それからドゥーニャ、お前にも。つまり、僕たちはしばらく別れていた方がいいんです。……僕は気分がすぐれない、心が落ち着かないんです……僕そのうちに来ます、自分で来ます、もし……そうしていい時が来たら。僕はあなた方を忘れやしません。愛しています……どうか僕にかまわないでください! 僕を一人きりにしといてください! 僕はそう決心したんです、もう前から……それは堅く決心したことなんです……たとえ僕の一身にどんなことがあろうとも、破滅してしまうようなことがあろうとも、僕は一人でいたいんです。僕のことはすっかり忘れてください。その方がいい……僕のことなど問い合せないでください。必要があれば、ぼく自分で来るか……あなた方を呼ぶかします。事によったら、何もかも復活するかもしれません!……けれど、いま僕を愛していらっしゃる間は、どうか思い切ってください……でないと僕はあなた方を憎みます、僕それを感じてるんです……さようなら!」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 母と妹は激しい驚愕きょうがくに打たれていた。ラズーミヒンとても同様だった。
「ロージャ、ロージャ! 仲直りしておくれ、昔通りになろうよ!」と哀れな母親は絶叫した。
 彼はのろのろと戸口の方へくびすを転じ、のろのろと部屋から出て行った。ドゥーニャはそのあとを追った。
「兄さん! いったいお母さんをどうするつもりなんですの!」憤りに燃える目で兄を見つめながら、彼女はささやいた。
 彼は重苦しい視線で妹を見た。
「なんでもない、僕はまた来るよ、ちょいちょいやって来るよ!」自分が何を言おうとしているのか、よく意識していないように、彼は小声でこうつぶやくと、ぷいと出てしまった。
じょうなしのいじわるなエゴイスト!」とドゥーニャは叫んだ。
「あれは――き、ち、が、いです、情なしじゃありません! あれは発狂してるんです! いったいあなたはそれがわかりませんか? それじゃ、あなたの方が情なしです!……」ラズーミヒンは彼女の手を堅く握りしめながら、その耳もとへ口を寄せ、熱した声でささやいた。
「僕すぐ来ますから!」死人のようになっているプリヘーリヤに叫び捨てて、彼は部屋の外へ駆け出した。
 ラスコーリニコフは、廊下のはずれで彼を待ち受けていた。
「君が駆け出してくることは、僕もちゃんと知っていたよ」と彼は言った。「二人のところへもどって行って、あれたちと一緒にいてくれ……明日も来てやってくれ……そしていつも。僕は……また来るかもしれない……もしできたら。じゃ失敬!」
 こう言うなり、手も差し伸べないで、彼はどんどん離れて行った。
「いったい君はどこへ行くんだい? 君どうしたんだ? いったいこれはなんとしたことなんだい? そんなのってあるかい!……」ラズーミヒンはすっかり途方に暮れてつぶやいた。
 ラスコーリニコフはもう一度立ち止まった。
「これを最後に言うが、もうけっして何事も僕にきいてくれるな。僕は何も君に答えることなんかないんだから……僕んとこへ来ちゃいけないよ。もしかすると、僕がやって来るかもしれない……僕を打っちゃっといてくれ……だが、あれたちは見すてないでくれ、わかったかい?」
 廊下は暗かった。二人はランプのそばに立っていた。一分ばかり、彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺し貫くような視線は、あたかも一刻毎に力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識を貫くようであった。ふいにラズーミヒンはびくっとした。何か奇怪なものが二人の間をかすめたような感じだった……ある想念が、まるで暗示のようにすべり抜けたのである。何かしら恐ろしい醜悪なものが、突如として双方に会得された……ラズーミヒンは死人のようにさっと青くなった。
「今こそわかったろう?」ふいにラスコーリニコフは、病的にゆがんだ顔をして言った……「ひっ返して、あれたちのところへ行ってくれ」彼は急に言い足してくるりとくびすを返すと、家から外へ出てしまった……
 この晩プリヘーリヤのもとであった事の顛末は、今さららしく書きたてまい。ラズーミヒンはひっ返して来ると、二人のものを慰めて、ロージャは病ちゅう静養が必要だ、あれは必ずやって来る、毎日やって来る、彼は非常に健康を害しているから、いらいらさせてはいけない、自分ラズーミヒンは彼によく気をつけて、一流のいい医者をつれて来てやる、それどころか、大勢の医者に立会診察をさせてやる、云々うんぬんと誓った……一口に言えば、この晩からラズーミヒンは彼らのために息子ともなり、兄ともなったわけである。


 ラスコーリニコフはいきなりその足でソーニャの住まっている濠端ほりばたの家をさして行った。それは緑色に塗った古い三階家であった。彼は庭番を捜し当てて、裁縫師カペルナウモフがどこに住まっているか大体の見当を教えてもらった。裏庭の片隅で、狭い真っ暗な階段へ通ずる口を見つけ、彼はやっと二階へ上がった。そして、裏庭の方から二階を取り巻いている廊下ギャラリーへ出た。彼が暗闇の中をうろうろして、カペルナウモフの住まいへはいる口はどこだろうと思案に暮れていると、ふいに彼から三歩ばかり離れたところで、何か戸のようなものが開いた。彼は機械的にそれへつかまった。
「誰、そこにいるのは?」と不安らしい調子で女の声が問いかけた。
「僕です、あなたのところへ」とラスコーリニコフは答えて、思いきり小さな入り口の間へはいって行った。
 そこには、ぺちゃんこになった椅子の上に、ひん曲がった銅の燭台しょくだいにさしたろうそくがとぼっていた。
「あなたでしたの! まあ!」とソーニャは弱々しい声で叫び、くぎづけにされたように立ちすくんだ。
「あなたの部屋はどう行くんです? こっちですか?」
 こう言ってラスコーリニコフは、彼女の方を見ないようにしながら、大急ぎで部屋へ通って行った。
 しばらくたって、ソーニャもろうそくを持ってはいってきた。そして、ろうそくを下へ置くと、思いがけない彼の訪問に驚かされたらしく、名状し難い興奮のていで、途方にくれたように彼の前に立っていた。と、にわかにくれないの色がさっとその青白い顔にさし、目には涙さえにじみ出してきた……彼女は忌まわしくもあれば、恥かしくもあり、また甘い気持でもあった……ラスコーリニコフはつと顔をそむけ、テーブルに向かって椅子に腰をおろした。その間に彼はちらと一目で、部屋の様子を見てとることができた。
 それは広いけれどいたって天井の低い部屋で、カペルナウモフが貸しに出している唯一の部屋だった。左手の壁に、その住まいへ通ずるしめきりの戸口があった。反対の側に当たる右手の壁には、いつもぴったりしめきりになっている、もう一つの戸口があった。そこはもう番号の違った隣りの住まいである。ソーニャの部屋はなんとなく物置きじみていて、恐ろしく不揃いな四辺形をしていたが、それがこの部屋に一種不具的な感じを与えるのであった。掘割に面した窓の三つある壁は、部屋を斜めに横切っているので一方の隅はひどい鋭角をなし、鈍いあかりではよく見分けられないほど奥深くはいり込んでいるのに反して、いま一方の隅はみっともないほど鈍角になっている。この大きな部屋全体に家具らしいものはほとんどなかった。右手の隅に寝台があって、その傍には戸口に近く椅子が一つ置いてあった。寝台のある壁に沿うて、よその住まいへ通ずる戸口のすぐ傍に、青いクロースのかぶせてある粗末な荒削りのテーブルがあって、その回りにはとう椅子が二つ置かれてあった。それから、反対側の壁に沿うて鋭角をした隅に近く、小さな雑木のたんすががらんとしたなかに置き忘れられたように立っていた。それがこの部屋にあるすべてであった。すれてぼろぼろになった黄ばんだ壁紙は、隅という隅が黒くなっている。定めし冬になると湿っぽく、炭酸ガスでもこもるに違いない。貧しさは一目でわかった。寝台のかたわらにすらカーテンがないほどであった。
 ソーニャは無言のまま、注意深く無遠慮に部屋をじろじろ見回す客を、じっとながめていたが、しまいにはまるで裁判官か、自分の運命を決する人の前にでも立っているように、恐ろしさのあまりわなわな震え始めた。
「僕こんなに遅く……もう十一時でしょう?」やはり彼女の顔へは目を上げず、彼は尋ねた。
「ええ」とソーニャはつぶやいた。「あっ、そう、そうですわ!」まるでこの一言に救いがあるように、彼女は急にあわてて言った。「いま仕立屋さんのところで時計が打ちましたわ……わたし自分で聞きましたから……そうでございます」
「僕があなたのところへ来るのはこれが最後です」ここへ来たのは今が初めてなのに、ラスコーリニコフは気むずかしげな調子でことばをついだ。「僕はもしかすると、もうあなたにお目にかかれないかもしれません……」
「どこかへ……いらっしゃいますの?」
「わかりません……何もかも明日の事です……」
「では、明日カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、いらしってくださいませんの?」ソーニャの声はぴくりと震えた。
「わかりません。何もかも明日の朝です……いや、しかし問題はそんなことじゃない。僕は一こと言いたいことがあって来たんです……」
 彼は彼女の方へ物思わしげな視線を上げた。と、急に初めて、自分は腰をかけているのに、相手はまだずっと立ちどおしでいることに、ふと気がついた。
「なんだって立ってらっしゃるんです? おかけなさいよ」彼は急に調子を変えて、穏やかな優しい声でそう言った。
 彼女は腰を下ろした。彼は愛想のいい同情のこもったまなざしで、一分ばかり彼女を見つめていた。
「あなたはなんてやせてるんでしょう! あなたのまあ、この手はどうでしょう! まるで透き通るようだ。さわったらまるで死人のようだし」
 彼は女の手をとった。ソーニャは弱々しげににっこりほほえんだ。
「わたしいつもこうでしたの」彼女は言った。
「家にいる時から?」
「ええ」
「いや、そりゃむろんだ!」彼はちぎれちぎれにこう言った。と、その顔の表情も声の響きも、また急に変わってしまった。
 彼はもう一度あたりを見回した。
「この部屋はカペルナウモフから借りてらっしゃるんですか?」
「さようでございます……」
「それはあちらに、ドアの向こう側にあるんですか?」
「ええ……あちらにもやっぱりこれと同じ部屋がございますの」
「みんな一つ部屋に?」
「ええ、一つ部屋に」
「僕はこんな部屋にいたら、夜はさぞこわいだろうと思いますね」と気難かしげな調子で彼は言った。
「うちの人はそれはいい人たちですから。それはそれは優しい」まだなんとなくわれに返りかねて、よく前後が考え合されない様子で、ソーニャは答えた。「それに道具もみんな、何もかも……何もかも仕立屋さんのものですの。みんなたいへんいい人で、子供たちもしょっちゅうわたしのところへ遊びにまいりますの……」
「それはどもりの子供でしょう?」
「ええ……亭主はどもりでびっこでございます。おかみさんもやはり……どもるというほどでもないんですけど、なんだかすっかり皆まで言わないようなぐあいですの。おかみさんはそれはそれはいい人ですわ。主人はもと地主のやしきに奉公していた百姓出で、子供が皆で七人あります……ただ一ばん上のがどもるんですけど、あとの子はただ病身なだけ……別にどもりはいたしません……でも、そんなことどこからお聞きになりまして?」彼女はやや驚いた風でこう言いたした。
「あの時あなたのお父さんが、すっかり僕に話してくだすったのです……お父さんはあなたのこともみんな話してくれましたよ……あなたが六時に出かけて行って、八時過ぎに帰って来たことも、カチェリーナ・イヴァーノヴナがあなたの寝台のかたわらにひざを突いていたことも」
 ソーニャはどぎまぎした。
「わたし今日あの人を見たような気がしましたの」と彼女は思い切り悪そうにささやいた。
「誰を?」
「父ですの。わたし通りを歩いていました。すぐ近所の角のところで、九時過ぎでしたわ。すると、父が前の方を歩いてるようなんですの。それがまるで父そっくりなんですもの。わたし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ行こうかと思ったくらいですわ……」
「あなたは散歩してたんですか?」
「ええ」とソーニャはまたどぎまぎして目を伏せながら、引っちぎったように答えた。
「だってカチェリーナ・イヴァーノヴナは、ほとんどあなたを打たないばかりだったそうじゃありませんか、お父さんのところにいる時分?」
「まあ、とんでもない、まああなた何をおっしゃいますの、違いますわ!」とソーニャは何やらおびえたように、彼の顔をみつめた。
「じゃ、あなたはあの人を愛してるんですか?」
「あのひとを? ええ、そりゃあ――もう!」突然切なそうに両手を組み合せながら、ソーニャは哀れっぽくことばじりをひいた。「ああ! あなたはあのひとを……もしあなたがあのひとをご存じでしたら。だってあの人はまるで子供なんですもの……だってあのひとはまるで頭が狂ったみたいになってるんですもの……苦労しすぎたせいで。まあ、もとはどんなに賢い人だったでしょう……どんなに気持の広い人だったでしょう……どんなに優しい人だったでしょう! あなたはなんにも、なんにもご存じないんですわ……ああ!」
 ソーニャはまるで絶望したもののように、わくわくして身をもだえ、手をもみしだきながら、これだけのことを言った。彼女の青白い頬はまたぱっと燃えて、目には苦痛の色が現われた。察するところ、彼女の心の琴線にいろいろ激しくふれることがあって、何かを表現し、物語り、弁護したくてたまらないらしかった。何かしら飽くことを知らぬ同情が(もしこういう表現が許されるなら)、突然彼女の顔の輪郭にくまなく描き出された。
「ぶったなんて! いったいあなたは何をおっしゃるんですの! まあ、ぶったなんて! またかりにぶったにしても、それがなんですの? ねえ、それがなんですの? あなたはなんにも、なんにもご存じないんですわ……あの人はそりゃ不仕合せな人ですの。ああ、なんて不仕合せな人でしょう! しかも病身なんですもの……あのひとは公平ってものを求めているんですわ……あのひとは清い人なんですの。あのひとは、何事にも公平というものがなくちゃならないと信じ切って、それを要求しているんですの……たとえあのひとはどんなに苦しい目にあっても、曲がったことなんかいたしません。あのひとはね、世の中のことが何もかも正しくなるなんて、そんなわけにゆかないってことに、自分じゃてんで気がつかないで、そしていらいらしてるんですの……まるで子供ですわ、まるで子供ですわ! けども、あのひとは正しい人ですわ、正しい人ですわ!」
「ですが、あなたはどうなるんです?」
 ソーニャは反問するような目つきで相手を見た。
「あの人たちはみんなあなたの肩へかかってきたわけじゃありませんか。もっとも、そりゃ前だってあなたにかかっていたにゃ相違ない。それに、なくなったお父さんも酒代をねだりに、あなたのところへちょいちょい来たという話ですからね。ねえ、そこでこれからどうなるんです?」
「わかりませんわ」とソーニャは沈んだ調子で答えた。
「皆あそこにずっと続けているんですか?」
「さあわかりませんわ、あの家にはりがあるんですものね。現に今日もおかみさんが立ちのいてもらいたいと言ったところ、カチェリーナ・イヴァーノヴナも、もう一刻だっていたくないと言ったんだそうですの」
「どうしてあのひとはそんなにいばってるんです? あなたを当てにしてるんですか?」
「ああ、いけません、そんな風におっしゃらないでくださいまし!……わたしたちは一つ家のもので、一緒に暮らしてるんですもの」ソーニャは急にまた興奮し、いらいらさえしてきた。それはちょうどカナリヤか何か、そうした小鳥が、腹を立てたらこうもあろうかと思われるようなぐあいだった。「それに、あのひとはどうしたらいいのでしょう! どうしたら、いったいどうしたらいいのでしょう?」と彼女は熱くなって興奮しながら、たたみかけて尋ねた。「それに今日だっても、あのひとはどんなに泣いたことでしょう! あのひとは頭がめちゃめちゃになっていってるんですの。あなたはそれにお気がつきませんでした? 頭がめちゃめちゃになっているんですの。明日は何もかもかたどおりにしたい、前菜ザクースカやいろんなものをそろえなくちゃ、などと子供みたいに気をもんでいるかと思うと……両手を折れるようにもんだり、血を吐いたり、泣いたりして、今度は急にやけになったように、壁へ頭をぶっつけようとしたりするんですの。ところが、そのうちに気がしずまってくると、あのひとは今だにあなたを頼りにしましてね、今あの人はわたしの助け船だ、なんて申すんですの。それから今度は、どこかで少しお金を工面くめんして、わたしと一緒に自分の生まれた町へ帰って、いいところのお嬢さん方を入れる寄宿学校を建てて、わたしをその舎監しゃかんにする、こうして、まるっきり別な美しい生活を始めるんだなどと言って、わたしを接吻せっぷんしたり、抱きしめたり、慰めたりしてくれるんですの。だって、すっかり信じ切ってるんですもの! そんな夢みたいなことを信じてるんですもの! だけど、どうして、あのひとに逆らうことができましょう? 今日なども、いちんち自分で掃いたり、ふいたり、つくろったり、あの弱い力でたらいを部屋の中へ引っ張り込んだりしたあげく、とうとう息を切らして、床の上へぱったり倒れてしまったんですの。でもまだ今朝はわたしあのひとと二人で、ポーレチカとレーナの靴を買いに市場へ行って来たんですよ。もうすっかり破けてしまったものですから。ところが、胸算用して行ったのに、お金が足りなかったんですの。とても足りなかったんですの。あなたはご存じありませんけれど、あのひとはなかなか好みがあるもんですから、それはしゃれた可愛い靴をったんですの……でね、いきなりその店さきで、商人たちのいる前で、お金が足りないって泣き出すじゃありませんか……ああ、わたしそれを見ているのが、どんなに気の毒だったでしょう」
「そりゃそのはずですよ、あなた方が……そういう暮らしをしておられる以上……」とラスコーリニコフは、苦い薄笑いを浮かべて言った。
「まあ、いったいあなたは可哀想じゃないんですの? 可哀想じゃないんですの?」とソーニャはまたもや椅子からおどり上がるようにした。「だってあの時あなたは、まだなんにもごらんにならないうちから、ありたけのお金を恵んでくだすったじゃありませんか。ですもの、もし何もかもごらんになったら、ああそれこそどうでしょう! わたしは幾度、ほんとに幾度、あの人を泣かせたことでしょう! つい先週だってそうでしたわ! ああ、わたし、なんて人間でしょう! 父のなくなるつい一週間前のことでした。わたしはむごたらしい仕打ちをしましたの! それは幾度、幾度、したかわからないくらいですわ。ああ、今日も今日とてそれを思い出して、一日どんなに苦しかったかしれませんわ!」
 ソーニャは思い出の苦しさにたえかねて、こういいながら両手をもみしだいた。
「それはあなたがむごたらしい人だとおっしゃるんですか?」
「ええ、わたしですわ、わたしですわ! わたしがその時参りますと」と彼女は泣きながらことばを続けた。「なくなった父がこう申しますの。『ソーニャ、わしに本を読んで聞かせてくれんか。なんだか頭痛がして仕方がない。読んでくれ……ほら、この本だよ』といって何かの本を出しました。それはすぐ隣りに住んでいるアンドレイ・セミョーヌイチのところで――レベジャートニコフのところで借りてきたんですの、いつもそんな滑稽本こっけいぼんを借りてきていましたわ。その時わたしは、『もう帰る時刻ですもの』と言って、そのまま読もうとしなかったんですの。わたしがその時寄ったのは、ただカチェリーナ・イヴァーノヴナに襟を見せたいのが主だったんですもの。古着屋をしているリザヴェータが、襟と袖口そでぐちを安く持って来てくれたんですけどね、それはきれいな、まだまだ新しい品で、模様がついていますの。すると、たいへんカチェリーナ・イヴァーノヴナの気に入りましてね、自分でかけて鏡に映してみたりして、それこそもうすっかり気に入ってしまったんですもの。そして、『わたしにおくれよ、ソーニャ、後生だから』っていうじゃありませんか。『後生だから』といったんですもの、よくよく欲しかったものとみえますわ。だって、あのひとがそんなものを掛けたって仕様がないじゃありませんか? ただなんとなしに、昔の幸福な時代が思い出されたんですわね! あのひとは自分の姿を鏡に映して、つくづくと、見とれてたんですけど、着物なんて何一つないんですの、持物なんて何一つありゃしません、もうなん年も前から! でもあのひとはこれまでついぞ一度も、人にものをねだったことはありませんでした。気位の高い人で、かえって自分の方から、なけなしのものでもやってしまうたちなんですの。それが急にくれというのですから、よくよく気に入ったものに相違ありませんわ! ところが、わたしは上げるのが惜しかったんですの。『あなたに上げたって、仕様がないじゃありませんか、カチェリーナ・イヴァーノヴナ?』ほんとうにそう言ったんですのよ。『仕様がないじゃありませんか』って。全くこれこそほんとうに余計なことだったんですわね! すると、あのひとはじっとわたしをみつめました。わたしが断ったのが、つらくてつらくてたまらなくなったのでございます。ほんとに見ているのも気の毒なくらい……それは襟のためにつらかったのじゃなくて、わたしが断ったそのためなんですの。わたしちゃんとわかりましたわ。ああ、今となると、何もかももう一度元へもどして、やり直しができたらと思いますわ。せんに言ったことをすっかり……ああ、わたしは……え、どうなさいまして!……だってこんなこと、あなたにはどうだって同じじゃございませんの!」
「あの古着屋のリザヴェータを知ってますか?」
「ええ……では、あなたもご存じでしたの?」やや驚いたさまで、ソーニャは問い返した。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナは肺病です、しかもたちの悪い方です。あのひとは間もなく死にます」
 ラスコーリニコフはしばらく無言の後、彼女の質問には答えないでそう言った。
「いいえ、違います、違います、違います!」
 こう言って、ソーニャは無意識に彼の両手を握った。それは、どうかそんなことのないようにしてくれと、哀願でもするような風情ふぜいだった。
「だって、その方がいいじゃありませんか、なくなった方が」
「いいえ、よかありません、よかありません、けっしてよかありませんわ!」と彼女はおびえたように、口を突いて出るままくり返した。
「だが、子供たちは? もしそうなったら、あなたはどこへ子供らをやるつもりです、あなたのところでないとすると?」
「ああ、わたしもうわかりませんわ!」とほとんど絶望の調子でソーニャは叫ぶと、いきなり両手で頭をかかえた。
 察するところ、この考えはもう幾度も幾度も、彼女自身の頭にひらめいたもので、彼はただそれをまたつっつき出したのにすぎないらしかった。
「したが、もしあなたが、今まだカチェリーナ・イヴァーノヴナの生きてるうちに、病気にかかって病院送りになったら、その時はどうします?」と彼は容赦なく問いつめた。
「ああ、あなたは何をおっしゃるんですの、何をおっしゃるんですの! そんなことこそあろうはずがありませんわ!」
 こう言ったソーニャの顔は、恐ろしい驚愕きょうがくにゆがんだ。
「どうしてあろうはずがないんです?」とラスコーリニコフは残酷な薄笑いを浮かべながら、ことばをついだ。「あなただって保証されてるわけじゃないでしょう? もしそうなったら、あの人たちはどうなるんです? 一家族ぞろぞろ往来へ物乞いに出かける。あのひとはごほんごほんせきをして、袖乞そでごいをする。そして今日のように、どこかの壁へ頭をぶっつけ始める、子供らは泣く……やがてあのひとはたおれて警察へ運ばれる。それから病院送りになって死んでしまう。ところで、子供らは……」
「ああ、違います……そんなことは神様がおさせになりません!」しめつけられたソーニャの胸からやっとこれだけのことばがほとばしり出た。
 彼女はことばに出さぬ哀願に両手をあわせ、まるでいっさい彼の意志で左右されることであるかのごとく、祈るような目つきで彼の顔を見ながら、じっと聞いていた。
 ラスコーリニコフは立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。一分ばかり過ぎた。ソーニャは恐ろしい悩みに、手と首とをぐったりたれたまま、そこに立ちつくしていた。
「貯金することはできないですか? 万一の時の用意にのけておくことは?」ふいに彼女の前に立ち止まりながら、彼はこう尋ねた。
「いいえ」とソーニャはささやいた。
「もちろん、だめでしょう! しかし、ためしてみたことがありますか?」と彼は心もちあざけるような調子で言い足した。
「やってみましたわ」
「そして、もち切れなかったんですね! いや、そりゃ知れきった話だ! 聞いてみるがものはありゃしない!」
 彼はまた部屋の中を歩き出した。また一分ばかり過ぎた。
「毎日もらうわけじゃないんでしょう?」
 ソーニャは前よりいっそうどぎまぎした。くれないが再びさっと顔を染めた。
「いいえ」彼女はせつない努力をしながら、ささやくように答えた。
「ポーレチカもきっと同じ運命になるんだろうな」と彼はだしぬけにこう言った。
「いいえ! いいえ、そんなことのあろうはずがありません、違います!」とソーニャは死にもの狂いの様子で、まるで誰かふいに刀で切りつけでもしたかのように叫んだ。「神様が、神様がそんな恐ろしい目にはおあわせになりません!」
「だって、ほかの人にはあわせてるじゃありませんか」
「いいえ、いいえ! あの子は神様が守っていてくださいます、神様が!……」と彼女はわれを忘れてくり返した。
「だが、もしかすると、その神様さえまるでないかもしれませんよ」一種の意地悪い快感を覚えながら、ラスコーリニコフはそう言って笑いながら、相手の顔を見やった。
 ふいにソーニャの顔には恐ろしい変化が生じ、その上をぴりぴりとけいれんが走った。ことばに現わせない非難の表情で、彼女はじっと彼を見つめた。何かものいいたげな様子だったけれど、一言も口をきくことができないで、ただ両手で顔を隠しながら、なんともいえぬ悲痛なすすり泣きを始めた。
「あなたは、カチェリーナ・イヴァーノヴナの頭がめちゃめちゃになりかかってるとおっしゃったが、あなたご自身の頭だって、めちゃめちゃになりかかってるんですよ」しばらく無言の後に、彼はこう言った。
 五分ばかり過ぎた。彼は絶えず無言のまま、彼女の方は見ないようにしながら、あちこち歩き回っていた。やがてついに彼女の傍へ近づいた。彼の目はぎらぎらと光った。彼は両手で女の肩を押えて、ひたとその泣き顔に見入った。彼のまなざしはかさかさして、しかも燃えるように鋭く、唇はわなわなと激しく震えていた……突然彼はすばやく全身をかがめて、床の上へ体をつけると、彼女の足に接吻した。ソーニャは愕然がくぜんとして、まるで相手が気ちがいかなんぞのように、彼から一歩身を引いた。じっさい、彼はまるっきり気ちがいのような目つきをしていた。
「あなたは何をなさるんです、何をなさるんです? わたしなんかの前に!」と彼女は真っ青になってつぶやいた。と、急に彼女の心臓は痛いほど強く強くしめつけられた。
 彼はすぐ立ち上がった。
「僕はお前に頭を下げたのじゃない。僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ」彼はなんとなくけうとい声で言い、窓の方へ離れた。「実はね」一分ばかりたって、また彼女の傍へもどって来ながら、彼はつけ足した。「僕さっきある無礼なやつに言ってやったよ。そいつなんかは、お前の小指一本の値打ちもないって……それからまた、きょう僕が妹をお前と並んですわらせたのは、妹に光栄を与えたわけだって」
「まあ、あなたは何をおっしゃいましたの! しかもお妹さんの前で?」とソーニャはおびえたように叫んだ。「わたしと並んでかけるのが! 光栄ですって! だってわたしは……けがれた女じゃありませんか……ああ、あなたはまあ何をおっしゃったんでしょう!」
「僕はお前の不名誉や、罪悪に対してそういったのじゃない、お前の偉大なる苦痛に対していったのだ。ところで、お前が偉大なる罪人つみびとだってことは、そりゃそのとおりだ」と彼は感激に満ちた調子で言い足した。「お前が罪人なわけは何よりも第一に、役にも立たぬことに自分を殺したからだ、売ったからだ。これが恐ろしいことでなくてなんだろう! そうとも、それほど憎んでいるこの泥沼の中に住んでいて、しかも同時に、ちょっと目を開きさえすれば、こんなことをしていたって誰を助けることにもならないし、どんな不幸を救うことにもならないのを、自分でもちゃんと知っているんだもの。これが恐ろしいことでなくてなんだろう! それに、第一ききたいことがある」と彼はほとんど狂憤に近い様子で言った。「どうしてそんなけがらわしい卑しいことと、それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう? いっそまっさかさまに水の中へ飛び込んで一思いに片づけてしまった方がずっと正しい、千倍も正しい、りこうなやり方じゃないか!」
「じゃ、あの人たちはどうなりますの?」とソーニャは悩ましげに、けれど同時に、彼のこうした提議にべつだん驚いた様子もなく、相手をちらと見上げて、弱々しい声でこう問い返した。
 ラスコーリニコフは不思議な顔をして彼女を見やった。
 彼はいっさいのことを、彼女のまなざし一つに読んだのである。してみると、この考えはじっさい彼女自身にも前からあったのだ。事によったら、彼女はもう幾度も絶望のあまり、どうしたらひと思いに片づけることができようかと、真剣に考えたのかもしれない。いま彼のことばを聞いても、かくべつ驚くこともないくらい、真剣に考えたのかもしれない。彼女は相手のことばの残酷なことにすら、気がつかなかったのである(彼の非難の意味にも、彼の汚辱に対する彼女の特殊な見方の意味にも、彼女はもちろん気がつかなかった。そして、それは彼にもわかっていた)。けれど、この浅ましい恥ずべき境遇を思う心が、もう以前から悪夢のように激しく彼女を苦しめ、さいなんでいたことは彼も十分に了解した。今日の日まで、一思いに死のうという、彼女の決心をひかえさす力を持っているのは、はたしてなんであるか? それを彼は考えた。と、その時初めて、あの哀れな幼いみなし児たちと、半気ちがいのようになって頭を壁へぶっつけたりする、あのみじめな肺病やみのカチェリーナが、彼女にとっていかなる意味を持っているかを悟ったのである。
 しかしそれにしても、これだけの気性をそなえ、曲がりなりにも教育を受けているソーニャが、どんなことがあろうとも今のままでいられないのは、彼も明瞭めいりょうにわかっていた。なぜ彼女があまりにも長い間、こうした境遇に甘んじていられたのか? 身投げすることができなかったとすれば、どうして発狂せずにいられたのか?――これはなんといっても彼には疑問だった。もちろん、ソーニャの位置は不幸にして、唯一の例外とはけっして言えないながらも、とまれ社会における偶然の現象である。その点は彼も了解していた。けれどもつまりこの偶然性と、彼女の受けた多少の教育と、彼女のそれまで送ってきた生活などは、この忌まわしい道へはいる第一歩において、たちまち彼女を殺す原因となりえたはずである。いったいなにが彼女を引き止めているのか? まさか淫蕩いんとうの味ではなかろう! そんなことはない、この汚辱はただ機械的に彼女に触れたのみで、まだ真の淫蕩は一しずくも彼女の心にしみ込んではいない。彼はそれを見てとった。彼女はまのあたり彼の前に立っているではないか……
『彼女の取るべき道は三つある』と彼は考えた。『ほりへ身投げするか、ふうてん病院へはいるか、それとも……それとも最後の方法として、理知をくらまし心を化石させる、淫蕩のただ中へ飛びこむかだ』最後の想像は彼にとって、もっとも忌まわしいものであった。けれど、彼はあまりに懐疑派であり、若年であり、抽象家であり、したがって残酷であったから、最後の解決すなわち淫蕩が、何よりも一番ありうべきことと信じないわけにゆかなかった。
『しかし、いったいそれが真実なのだろうか』と彼は心の中で叫んだ。『今だに心の清浄を保って来たこの少女も、はたして最後にはあの汚らわしい悪臭に満ちた穴の中へ、意識しながら引き込まれてゆくのだろうか! いったいその緩慢な堕落はすでに始まっているのだろうか? そして、彼女が今までそれをがまんしていられたのも、この悪行がそれほどいとわしいものに思われなくなったからだろうか? いや、いや、そんなことがあろうはずはない!』と彼は先ほどソーニャが叫んだ通りに、心の中でこう叫んだ。『いや、今まで身投げから彼女を引き止めていたのは、罪という観念だ。そしてあの人たちだ……もし彼女が今まで気が狂っていないのなら……しかし、彼女の気が狂っていないなんて、そもそも誰が言った? いったい彼女は健全な判断力を持っているだろうか? 健全な判断力を持っていて、さっきいったような、あんなことがいえるだろうか? いったい彼女の持っているあんな考え方ができるだろうか? 滅亡の深淵しんえんのふちに――もうそろそろ自分を引きずり込みかけている臭い穴の上に立って、危険の警告されているのを聞こうともせず、手を振り耳をおおっているなんてことが、いったいまあできるものだろうか? ひょっとしたら、何か奇跡でも待っているのじゃなかろうか! いや、確かにそうだ。はたしてこうしたいろいろの事実は、発狂の徴候でないといわれるか?』
 彼はしつようにこの想念を守ろうとした。この結論は何よりも彼の気に入った。彼は一そう目をこらして彼女の顔に見入った。
「で、ソーニャ、お前は一心に神様にお祈りをするのかい?」と彼は尋ねた。
 ソーニャは黙っていた。彼はその傍に立って、返事を待っていた。
「もし神様がなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」と彼女は力をこめて早口にささやきながら、急にきらきら輝いてきた目をちらと男に投げ、その手をぎゅっと堅くにぎった。
『ああ、やっぱりそうだった!』と彼は考えた。
「で、神様はその褒美ほうびに何をしてくださるんだい?」彼はどこまでも追求しながら、こう尋ねた。
 ソーニャは答えかねるように、長い間黙っていた。その弱々しい胸は興奮のために波打った。
「どうか黙っててください! きかないでください! あなたにそんな資格はありません!……」いかつい腹立たしげな目つきで彼を見据えながら、彼女は急に叫んだ。
『そうだったのだ! そうだったのだ!』と彼は執拗しゅうねく心の中でくり返した。
「なんでもみんなしてくださいます!」また目を下へ伏せて、彼女は早口にささやいた。
『これが解決だ! これが解決の説明なんだ!』むさぼるような好奇心をいだいて、しげしげと彼女を見ながら、彼は一人で心に決めてしまった。
 新しい、不可思議な、ほとんど病的な感情をいだきながら、彼はその青白くやせて輪郭のふぞろいなこつこつした顔や、ああいう激しい火に燃え立ったり、峻厳しゅんげんな力強い感情に輝きうる、つつましやかな青い目や、憤懣ふんまん激昂げきこうになおも震えているその小柄な体に見入った。すると、それらすべてのものが、彼の目にいよいよ不思議な、ほとんどありうべからざるもののように思われてきた。
『狂信者だ! 狂信者だ!』と彼は心の中でくり返した。
 たんすの上に何やら本が一冊のせてあった。彼はあちこち歩きながらその前を通るたびに気づいていたが、とうとう手にとってみた。それは露訳の新約聖書であった。古い手ずれのした皮表紙の本である。
「これはどこで手に入れたの?」と彼は部屋の端から声をかけた。
 彼女はテーブルから三歩ばかり離れた同じ場所に、やはりじっと立っていた。
「人が持ってきてくれましたの」彼女は気の進まぬ調子で、彼の方を見ずに答えた。
「誰が持ってきたの?」
「リザヴェータが持ってきてくれましたの、わたしが頼んだものですから」
『リザヴェータ! 奇妙だなあ!』と彼は考えた。
 ソーニャの持っているすべてのものが、彼にとって一刻一刻、いよいよ奇怪に不可思議になって行く。彼は本をろうそくの傍へ持ってきて、ページをめくり始めた。
「ラザロのことはどこにあるだろう?」と彼はだしぬけに尋ねた。
 ソーニャは執拗くうつ向いたまま、返事をしなかった。彼女はテーブルへややはすかいに立っていた。
「ラザロの復活はどこ? ソーニャ、捜し出してくれないか」
 彼女は横目に彼を見やった。
「そんなところじゃありませんわ……第四福音書です!……」彼の方へ寄ろうともしないで、彼女はきびしい声でつぶやいた。
「捜し出して、読んで聞かせておくれ」と彼は言って腰をおろし、テーブルにひじをついて、片手で頭をかかえ、聞こうという身構えをしながら、気むずかしげな顔をして脇の方へ目を据えた。
『三週間もたったら、別荘の方へおいでを願いますよ。どうやら僕自身もそちらへ行ってるらしいんだから――もしそれ以上悪いことさえなければ』と彼は腹の中でつぶやいた。
 ソーニャは会得のゆきかねるような風で、ラスコーリニコフの不思議な望みを聞きおわると、思い切り悪そうにテーブルへ近づいたが、それでも、本を取り上げた。
「いったいあなたはお読みにならなかったんですの?」彼女はテーブルの向こう側から、上目づかいに、相手を見ながら、こう尋ねた。彼女の声はしだいしだいにいかつくなってきた。
「ずっと前……中学校の時分に。さあ読んで!」
「教会でお聞きにならなかったんですの?」
「僕は……行ったことがないんだ。お前はしょっちゅう行くの?」
「い、いいえ」とソーニャはささやくように答えた。
 ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「そうだろう……じゃ、明日お父さんの葬式にも行かないの?」
「行きますわ。わたし先週も行きました……ご法事に」
「誰の?」
「リザヴェータ。あのひとはおので殺されたんですの」
 彼の神経はしだいに強くいらだってきた。頭がぐらぐらし始めた。
「リザヴェータとは仲がよかったの?」
「ええ……あれは心の真っ直ぐな人でした……ここへも来ましたわ……たまにね……たびたびは来られなかったんですもの……わたしはあのひとと一緒に読んだり、そして……話したりしましたわ。あのひとは親しく神を見るでしょうよ」
 こうした書物めいたことばが、彼の耳には異様に響いた。のみならず、リザヴェータとの秘密な会合や、二人とも狂信者であるという事実も、やはり耳新しく感じられた。
『こんな所にいると、自分も狂信者になってしまいそうだ! 感染力を持っている!』と彼は考えた。
「さあ、読んでくれ!」と彼は突然強情らしい、腹立たしげな調子で叫んだ。
 ソーニャはいつまでもちゅうちょしていた。彼女の心臓はどきどき鼓動した。なんとなく彼に読んで聞かせるのがためらわれたのである。彼はこの『不幸な狂女』を、ほとんど苦しそうな表情で見つめていた。
「あなたに読んであげたって、仕様がないじゃありませんの? だって、あなたは信者じゃないんでしょう?……」と彼女は小さな声で、妙に息を切らせながらささやいた。
「読んでくれ! 僕はそうしてもらいたいんだ!」と彼は言いはった。「リザヴェータにゃ読んでやったんじゃないか」
 ソーニャはページをめくって、その場所を捜し出した。彼女は手が震えて声が出なかった。二度も読みかけたけれど、最初の一句がうまく発音できなかった。
「ここに病める者あり、ラザロといいてベタニアの人なり……」と彼女は一生懸命にやっとこれだけ読んだ。が、突然第三語あたりから声が割れて、張り過ぎた弦のようにぷっつり切れた。息がつまって、胸が苦しくなったのである。
 ラスコーリニコフは、なぜソーニャが自分に読むのをちゅうちょするのか、そのわけが多少わかっていた。しかし、そのわけがわかればわかるほど、彼はますますいらだって、ますます無作法に朗読を迫った。彼女はいま自分の持っているものを、何もかもさらけ出してしまうのが、どんなにかつらかったのだろう。それは彼にわかりすぎるほどわかっていた。彼女のこうした感情は実際むかしから、事によったらまだほんの子供の時分から、不幸な父と悲嘆のあまり気のふれた継母の傍で、飢餓に迫っている子供たちや、聞くにたえぬ叫声や叱責しっせきなどにみちた家庭にいる時分から、彼女の真髄ともいうべき秘密をなしていたに相違ない。そのことも彼は了解した。が、それと同時に、こういうことにもはっきり気がついた……いま彼女は朗読にかかりながら、心を悩ましたり、何やらひどく恐れたりしているくせに、一面ではそうした悩みや危惧きぐを裏切って、ほかならぬという人間にぜひとも、あとで何事が起ころうとも!……読んで聞かせたい、聞いてもらいたいという願望が、苦しいまでに彼女の心を圧していたのである。彼はそれを彼女のひとみに読み、感激にみちた興奮によって会得した……彼女は自分を制御して、第一節の初めに声をとぎらせたのどのけいれんを押しつけながら、ヨハネ伝の第十一章を読み続けた。こうして彼女は十九節まで読み進んだ。
「多くのユダヤびと、マルタとマリアをその兄弟のことにりて慰めんとて、すでに彼らのところに来たりおれり。マルタは、イエス来たまえりと聞きて、これを出迎え、マリアはなお家に坐せり。その時マルタ、イエスに言いけるは、主よ、なんじもし此処ここにいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。さりながらたとえ今にても、なんじが神に求むるところのものは、神なんじにたまうと知る」
 ここで彼女はまたことばを切った。またしても声が震えてとぎれるだろうという恥ずかしさを、予感したからである……
「イエス彼女に言いけるは、なんじの兄弟はよみがえるべし。マルタ、イエスに言いけるは、終わりの日の甦るべき時に、彼甦らんことを知るなり。イエス彼女に言いけるは、われは甦りなり、命なり、われを信ずるものは、死すとも生くべし。すべて生きてわれを信ずるものは、永遠に死することなし。なんじこれを信ずるや? 彼女イエスに言いけるは――」
(ソーニャはさも苦しげな息をつぎ、句読ただしく力をこめて読んだ。それはさながら全世界に向かって、説教でもしているような風であった。)
「主よ、しかり! 我なんじは世にきたるべきキリスト、神の子なりと信ず」
 彼女はちょっと朗読をやめて、ちらとすばやく彼の顔へ目を上げたが、大急ぎで自己を制し、さらに先を読み続けた。ラスコーリニコフは腰をかけたまま、その方をふり向こうともせず、テーブルに肘突ひじつきしてそっぽを見ながら、身動きもしないで聞いていた。ついに第三十二節まで読み進んだ。
「マリア、イエスのところに来り、彼を見て、その足もとに伏して言いけるは、主よ、なんじもし此処にいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。イエス彼女のなげきと、彼女と共に来りしユダヤびとの泣くを見て、心を痛ましめ身震いて言いけるは、なんじいずこに彼を置きしや? 彼ら言いけるは、主よ、来りて見たまえ。イエス涙を流し給えり。ここにおいてユダヤびと言いけるは、見よ、いかばかりか彼を愛するものぞ。その中なるもの言いけるは、盲者めしいの目をひらきたるこの人にして、彼を死なざらしむるあたわざりしや?」
 ラスコーリニコフは彼女の方をふり向いて、胸をおどらせながらその顔を見た。そうだ、はたしてそうだった! 彼女はすでにまぎれもなく本当の熱病にかかったように、全身をぶるぶる震わせていた。彼はそれを期待していたのである。彼女は偉大な前後未曾有みぞうの奇跡を語ることばに近づいた。偉大な勝利感が彼女をつかんだ。彼女の声は金属のようにさえた響きを帯びてきた。内部うちに満ちあふれる勝利と歓喜の情がその声に力をつけた。目の中が暗くなったので、行と行が入り交じってきたが、彼女はそらでちゃんと読むことができた。『盲者めしいの目をひらきたるこの人にして……能わざりしや?』という最後の一節では、彼女はちょっと声を落として、信ぜざる盲目のユダヤびとの疑惑と、非難と、中傷を伝え、また彼らが一分の後に、さながら雷にでも打たれたように、大地に伏して号泣しながら信仰にはいった気持を、燃えるような熱情をこめて伝えたのである……『この人もこの人も――同じように盲目で不信心なこの人も、すぐにこの奇跡を聞いて、信ずるようになるだろう、そうだ、そうだ! すぐこの場で、たった今』と彼女は空想した。彼女は喜ばしい期待に全身を震わしていた。
「イエスまた心を痛ましめて墓に至る。墓はほらにて、その口のところに石を置けり。イエス言いけるは、石をけよ。死せし者の姉妹マルタ彼に言いけるは、主よ、彼ははや臭し、死してよりすでに四日を経たり」
 彼女はことさらこの四日ということばに力を入れた。
「イエス彼女に言いけるは、なんじもし信ぜば神の栄を見るべしと、われなんじにいいしにあらずや。ついに石を死せし者を置きたる所より取り除けたり。イエス天を仰ぎて言いけるは、父よ、すでにわれにけり、われこれをなんじに謝す。われなんじが常に聴くことを知る。しかるにわがかく言うは、傍に立てる人々をして、なんじのわれを遣わししことを信ぜしめんとてなり、かく言いて、大声に呼びいいけるは、ラザロよ、出でよ、死せし者……」
(彼女はさながら自分がまのあたり見たもののように、感激にふるえて身内みうちをぞくぞくさせながら、声高く読み上げた。)
「……布にて手足をまかれ、顔は手巾しゅきんにてつつまれて出ず。イエス彼らに言いけるは、彼を解きて歩かしめよ」
その時マリアと共に来りしユダヤ人イエスのなせしことを見て多く彼を信ぜり
 彼女はもうその先を読まなかった。また読めなかったのである。彼女は本を閉じて、つと椅子から身を起こした。
「ラザロの復活はこれだけです」と彼女はきれぎれに、きびしい調子でこう言うと、彼の方へ目を上げるのを恥じるかのように、わきの方へくるりと体を向けて、身動きもせずにじっと立っていた。彼女の熱病的な戦慄せんりつはなお続いていた。ゆがんだ燭台しょくだいに立っているろうそくの燃えさしは、しくもこの貧しい部屋の中に落ち合って、永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦いんばいふを、ぼんやりと照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになっていた。五分かそれ以上もたった。
「僕は用があって、その話に来たんだ」ラスコーリニコフはまゆをしかめながら、突然声高にこう言って立ち上がり、ソーニャの傍へ近よった。
 こちらは無言で彼の方へ目を上げた。彼のまなざしはことに峻烈しゅんれつで、その中には一種の荒々しい決意が現われていた。
「僕はきょう肉親を捨ててしまった」と彼は言った。「母と妹を。僕はもうあれたちのところへは行かないのだ。あっちですっかり縁を切ってきた」
「なぜですの?」とソーニャはどぎもを抜かれたように尋ねた。
 先ほど彼の母と妹に会見したことは、自身でこそはっきりしないけれど、彼女に並々ならぬ印象を残していた。彼女は親子兄弟絶縁の報告を、ほとんど恐怖に近い気持で聞いた。
「今の僕にはお前という人間があるばかりだ」と彼は言い足した。「一緒に行こうじゃないか……僕はわざわざお前のところへ来たのだ。僕らはお互いにのろわれた人間なのだ。だから一緒に行こうじゃないか!」
 彼の目は輝いた。『まるで半分きちがいだ!』とソーニャは考えた。
「どこへ行くんですの?」と彼女は恐ろしそうに尋ねて、思わず一歩あとへしさった。
「僕がどうして知ってるもんか? ただ同じ道づれだということが、わかっているだけだ。それだけはたしかに知っている――ただそれだけなんだ。目あては一つだ!」
 ソーニャは彼をじっと見てはいたが、何一つわからなかった。彼女はただ彼がこの上なく、限りなく不幸だということだけ了解した。
「お前があいつらに話をしたって、誰一人わかってくれるものはない」と彼はことばを続けた。「ところが、僕はわかった。お前は僕にとって必要なんだ。だから、僕お前のところへやって来たんだよ」
「わかりませんわ……」とソーニャはささやいた。
「そのうちにわかるよ。お前だって僕と同じことをしたじゃないか。お前もやっぱり、踏み越えたんだよ……踏み越えることができたんだよ。お前は自分で自分に手をくだした。お前は一つの生命を滅ぼしたんだ……自分の生命を(それはどっちだって同じだからな!)お前は精神と理性で生きていける人間なんだよ、しかし結局乾草広場センナヤで終わる運命なのだ……けれど、お前には持ちきれまい。もし一人きりになったら、僕と同じように気が狂うだろう。お前はもう今でも気ちがいじみている。してみると、僕ら二人は一緒に同じ道を行くべきなんだ! 行こうよ!」
「なぜ? なぜそんなことばかりおっしゃるの!」彼のことばに怪しくとどろく胸を騒がせながら、ソーニャはそう言った。
「なぜだって? なぜといって、いつまでもこうしてはいられないからだ――これがそのわけなのさ。それに第一、子供みたいに泣いたり、神様が許さないなどとわめいたりしてないで、真剣に端的に分別しなくちゃならないんだよ! もし明日にでもお前がほんとうに病院送りになったら、いったいどうなると思う? 半きちがいの肺病やみは、やがて死んでしまうだろうが、子供はどうする? いったいポーレチカが身を滅ぼさずにすむと思う? お前は町の角々で、母親のために物乞ものごいに出されている子供たちを、見たことはないのかい? そういう母親たちがどこで、どんな風に暮らしているか、僕はちゃんと知っている。そこでは子供も、子供ではいられないんだ。そこには七つの子供も性的に堕落したり、泥棒になったりするんだ。ところが、子供はキリストの化身なのじゃないか。『天国は彼らのものなり』だ。イエスは彼等を敬い愛せよと命じた。彼らは未来の人類なのだ……」
「どうしたら、いったいどうしたらいいんでしょう?」ソーニャはヒステリックな泣き声をあげ、両手を、もみしだきながらくり返した。
「どうしたらいいかって? 破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。そして苦痛を一身に負うのだ! え? わからないかい? あとでわかるよ……自由と権力、ことに権力だ! 震えおののくうぞうむぞうに対して、蟻塚ありづかのような群れに対して権力を握るのだ! これが目的だ! これを覚えておくがいい! これがお前に対する僕のはなむけだ! ことによったら、お前と話をするのも、これが最後かもしれない。もしあした僕が来なかったら、何もかも自然と耳にはいるだろう。そうしたら、今のことばを思い出しておくれ。そのうちにいつか、何年か後に、生活を重ねるにつれて、そのことばの意味がわかるかもしれない。が、もしあした来たら、その時には、誰がリザヴェータを殺したか、お前に言って聞かそう。じゃ、さようなら!」
 ソーニャは驚きのあまりぴくりと身を震わした。
「まあ、いったいあなたは誰が殺したのか、知っていらっしゃるの?」恐怖のあまり氷のようになり、けうとい目つきで相手を見つめながら、彼女はこう尋ねた。
「知ってる、だから言って聞かせるんだ……お前に、お前一人だけに! 僕はお前を選んだのだ。僕はお前のところへ許しを請いにくるんじゃない、ただ言いに来るだけなんだよ。僕はずっと前から、初めてお父さんがお前の話をした時から、僕はこのことを聞かせる人にお前を選んでいたのだ。リザヴェータがまだ生きてる時から、それを考えていたのだ。さよなら。手を出さないでくれ。では明日!」
 彼は出て行った。ソーニャは気ちがいでも見るように、彼を見送っていた。けれど、彼女自身もまるで気ちがいのようであった。そして、自分でもそれを感じた。彼女はめまいがしていた。『ああ! あの人はどうしてリザヴェータを殺した下手人を知ってるのだろう? あのことばはどういう意味なんだろう? 恐ろしい!』けれどこの瞬間、そうした想念は彼女の頭に浮かばなかった。夢にも、夢にも浮かばなかった!……『ああ、あの人は恐ろしく不仕合せなのに違いない!……お母さんや妹さんを捨ててしまったって、なぜだろう? 何があったんだろう? そしてあの人は何をもくろんでいるのだろう? いったいあの人はわたしに何を言ったんだろう? あの人はわたしの足に接吻せっぷんして、そう言った……そう言った。(そうだ、あの人ははっきりそう言った。)わたしを離れては、もう生きていられないって……おお、なんということだ!』
 ソーニャは一夜を熱と悪夢の中に過ごした。彼女は時おりはね起きて、泣いたり、両手をもみしだいたりするかと思うと、また熱病やみのような眠りに前後を忘れた。そして夢にポーレチカや、カチェリーナや、リザヴェータや、福音書を読んだことや、それから彼……青ざめた顔をして、目を燃えるように輝かしているラスコーリニコフなどを見た。彼は彼女の足に接吻して、泣いている……おお、神よ!
 右手のドア、ソーニャの部屋をゲルトルーダ・カールロヴナ・レスリッヒの住まいとへだてているドアの向こう側には、同じくレスリッヒ夫人の住まいに属する中間の部屋があって、もう長いこと空き間になっていた。それは貸しに出されているので、その広告が門口や、掘割に面した窓ガラスなどにはりつけてあった。ソーニャはずっと前から、この部屋には人が住まっていないものと思い込んでいた。ところが、その空き間のドアの傍には、スヴィドリガイロフ氏がその間ずっとたたずんで、息をこらしながら、立聞きをしていたのである。ラスコーリニコフが出て行ったとき、彼はしばらく立って考えたのち、爪先つまさき立ちで空き間に隣った自分の部屋へもどり、一脚の椅子を取って、ソーニャの部屋へ通ずるドアの傍へそっと運んだ。二人の会話は彼にとって興味のある意味深いものに思われて、すっかり気に入ってしまった――で、彼はこの先、たとえば明日にもさっそく、今のようにまる一時間もじっと立ちどおすような不快な目を二度とまたくり返さないために、そしてあらゆる点において十分満足をうるために、少しでもぐあいよく落ち着こう――とこういうわけで、わざわざ椅子を運んできたのである。


 翌朝きっかり十一時に、ラスコーリニコフが警察の予審部へはいって行って、ポルフィーリイに取次ぎを頼んだ時、彼はあまり長く通してくれないのに、むしろ驚いたくらいだった。彼が呼ばれるまでには、少なくとも十分くらいたった。彼の目算によると、いきなり向こうから飛びかかって来なければならぬはずだった。それにもかかわらず、彼が控室に立っていると、見うけたところ、彼などになんのかかわりもなさそうな人々が、彼の傍をしきりにあちこちしていた。事務室らしい次の間には、幾人かの書記が控えて、書きものをしていたが、そのうちの誰一人として、ラスコーリニコフが何者でどういう人物なのか、そんなことはかいもく知らないらしかった。落ち着きのない疑わしげな目つきで、彼は周囲を見回しながら、その辺に誰か看守のような者がいはしないか、彼がどこかへ行ってしまわぬように監視を命ぜられた何かの秘密な目はないか、見つけ出そうとした。しかし、そんなものはいっこうなかった。彼はただこせこせと忙しげな事務の連中の顔と、ほかにいくたりかの人を見たばかりで、よしんば彼が今すぐ勝手にどこへ飛び出しても、誰一人それを問題にする者はなかった。で、もしあの謎のような昨日の男が――あの地からわき出したような幻がほんとうにいっさいのことを見、いっさいのことを知っているとしたら――いま彼ラスコーリニコフにこうして立って、悠々と待っているようなことを、させておくはずがない――こういう想念が、だんだん彼の頭の中に固まってきた。それに、彼が十一時ころになって、自分の都合でやっと足を運んで来るまで、のんべんだらりと待っているはずがなかろうじゃないか? してみると、あるいはあの男がまだ何も密訴していないのか……あるいはやっぱりなんにも知らないので、自分の目ではまるきり何も見なかったのか、二つに一つである(そうだ、どうしてやつに見ることができるものか?)としてみれば、きのう彼ラスコーリニコフの身に起こったいっさいのことは、またぞろ例のいらいらした病的な想像に誇張された幻影にすぎなかったのだ。こうした推測はまだ昨日、もっとも激しい不安と絶望のただ中に、彼の心中に固まりかけていたのである。今これらすべてのことを思い返し、新しい闘争の心構えをしながら、彼は突然自分の体が震えているのを感じた――あの憎んでも余りあるポルフィーリイを恐れて震えているのだと思うと、彼の心中には忿懣ふんまんの情さえわき立ってきた。彼にとって何より恐ろしいのは、またあの男と顔を合わせることだった。彼はこの男を底の知れぬほど、限りなく憎んでいた。憎悪のあまりについ何かの拍子で、自己を暴露するようなことがありはしないかと、それを恐れるくらいだった。その忿懣の情があまりに強かったので、震えはすぐに止まってしまった。彼は落ち着いた不敵な顔つきではいって行く準備をした。そしてできるだけ沈黙を守り、目をこらし耳を澄まして様子をうかがおう、せめて今度だけはどんなことがあろうとも、病的にいらいらした自分の性質に打ちかとうと、心に誓った。ちょうどこの時、彼はポルフィーリイのもとへ呼ばれた。行ってみると、この時ポルフィーリイは自分の部屋に一人でいた。彼の部屋は大きくもなければ小さくもなく、その中には大型の書物卓ライティングテーブル、その前に置かれた模造皮張りの長椅子、事務卓ビュロー、片隅にある戸棚、それから数脚の椅子などで、すべて磨きのかかったマホガニー製の公有品だった。正面の壁というよりむしろ仕切り板の隅に、しめ切った戸口があった。その仕切り板の向こうには、確かまた何かの部屋が続いているに相違ないらしかった。ラスコーリニコフがはいると、ポルフィーリイはすぐそのドアをしめてしまったので、彼らは二人きり差し向かいになった。彼は見たところこの上もなく愉快そうな、愛想のいい態度で客を迎えた。しかしもう幾分かたった時、ラスコーリニコフは二、三の徴候によって、彼がなんとなくまごついているらしいのに気がついた。それはふいに何かで面くらわされたか、あるいは一人で何か秘密な事をしているところを、人に見つけられたような風であった。
「ああ、これは大人たいじん、ようこそ……こんな遠路をはるばると恐れ入りますな……」彼の方へ両手を差し出しながら、ポルフィーリイは口を切った。「さあ、先生どうぞおかけください! それとも、あなたは大人とか……先生とか呼ばれたりするのが、お好きじゃないのかもしれませんな――まあ tout court?(つまり)どうか慣れ慣れしいなどと、お考えにならないでください……さあ、どうぞこの長椅子へ」
 ラスコーリニコフは、相手から目を放さないで、腰をおろした。
『こんな遠路をはるばると』だの、慣れ慣れしさの謝罪だの、tout court などというフランス語だの、――すべてこういったものは、特殊な徴候であった。『だが、この男はおれに両手を差し出しておきながら片手も握らせないで、うまくひっ込めてしまいやがった』こういった想念が彼の頭にうさんくさくひらめいた。二人は互いに様子をうかがい合ったけれど、双方の目が出会うやいなや、二人は稲妻のような早さで、それをそらすのであった。
「僕は届を持って来たんです……例の時計のことで……これなんですが、書式はこれでいいでしょうか、それともまた書き直さなくちゃいけないでしょうか?」
「なんですって? 届ですか? いいです、いいです、ご心配なく、それでけっこうです」ポルフィーリイはまるでどこかへ急いででもいるように、せかせかとこう言ったが、言ってしまってから届を手にとり、それに目を通した。「そうです、これでけっこうです。ほかに何もいりません」と彼は同じ早口でくり返して、紙をテーブルの上においた。
 それから、一分ばかりたった時、何かほかのことを話しながら、またそれをテーブルから取り上げて、自分の傍の事務卓ビュローへ移した。
「あなたは確かきのう僕に……あの……殺された老婆との関係を……正式に……尋ねたいと、おっしゃったようですね?」とラスコーリニコフはまた言いだした。
『ちょっ、なんだっておれは確かなんてよけいなことを入れたんだろう?』という考えが、電光のように彼の頭をかすめた。『ちょっ、またなんだっておれは、この確かを入れたことを、気にしてるんだろう?』とすぐにほかの考えが電光のようにひらめいた。
 と、彼はふいに直覚した――彼の猜疑心さいぎしんはポルフィーリイにたった一度接触しただけで、わずか一言二言かわしただけで、一、二度目を見合せただけで、一瞬の間にものすごいほどの大きさに成長してしまった……これはきわめて危険なことだ、と彼は感じた。神経がいらいらすると興奮は増してくる。『困ったことだ! 困ったことだ! またうっかり口をすべらすぞ!』
「そう、そう、そうです! ご心配にゃ及びません! 時間はたっぷりあります、時間はたっぷりあります」テーブルのまわりをあちこち歩きながら、ポルフィーリイはつぶやいた。けれど、別になんの目的があるという様子もなく、窓の方へつかつかと行ったかと思うと、事務卓ビュローの方へ突進したり、またテーブルへもどったりした。そして、ラスコーリニコフのうさんくさそうな視線をさけているかと思えば、今度は急に一つところに立ち止まって、彼の顔をまともにぴったり見つめるのであった。
 その時彼のふとった小さな丸々した姿が、まりのようにあちこち飛んで行って、四方の壁や隅々からすぐはね返って来るのが、なんともいえず奇怪に感じられた。
「間に合いますとも、間に合いますとも!……ときに、煙草をおやりになります? お持ち合わせですかな? さあ、お一つ」と彼は紙巻煙草をすすめながら、ことばを続けた……「実は、今ここへお通ししておりますが、わたしの住まいはすぐそこの仕切り板の向こうにあるんです……官舎がですね、今は私宅におります。当分の間だけ。ちょっと修繕をしなくちゃならないもんですから。もうほとんどでき上がりましたよ……官舎ってものは、いやはや、ありがたいものですて――え? あなたどうお考えですな?」
「さよう、ありがたいものですよ」ほとんどあざけるように彼を見ながら、ラスコーリニコフは答えた。
「ありがたいものです、ありがたいものです……」急に何かほかのことを考え出したような調子で、ポルフィーリイはこうくり返した。「さよう、ありがたいものです!」彼はふいにラスコーリニコフに視線を投げて、彼から二歩ばかりのところに立ち止まりながら、とうとうほとんど叫ぶような声で言った。この官舎はありがたいものだという馬鹿げたことばの反覆は、その俗悪な点からいって、彼がいま客の方へそそいでいるまじめな、意味ありげな、なぞめいたまなざしと、あまりに矛盾しているのであった。
 しかし、それがラスコーリニコフの憤怒を、いやが上にもわき立たせた。で、彼はかなり不用意な冷笑的な挑戦を、もうがまんすることができなかった。
「ときに、どうでしょう」彼はほとんど不敵な目つきで相手を見つめ、その不敵さに一種の喜びを感じながら、ふいに問いかけた。「こういう場合には――あらゆる種類の検察官にとって――一種の司法的原則というか法律家的方法というか、そんなものがあるようですね。つまり最初は遠廻しにごくくだらないことか、それとも、よしまじめな問題にもせよ、まるで関係のない事から始めて、それでもって被訊問じんもん者に元気をつけ、いやむしろ注意をそらして、その警戒心を眠らせておき、その後でふいにそれこそとうとつに、のるかそるかという危険な質問をまっこうから浴びせかけるんです。そうじゃありませんか? 察するところ、このことはあらゆる法則や訓戒の中に、今でも依然として説かれてるんでしょう?」
「すると、すると……あなたはなんですか、わたしが官舎の話をしたのも、やはりその、なにだと……え?」
 こういって、ポルフィーリイは目を細め、ぱちりとまたたきした。何やら愉快そうな狡猾こうかつらしいものが彼の顔面を走り過ぎた。額のしわが伸びて、目が細くなり、顔の輪郭が長くなったかと思うと、彼はラスコーリニコフの目をまともに見入りながら、ふいに全身を波のようにゆすぶり、神経的な長い笑いを立て始めた。こちらも幾分自ら強いる気味で笑い出した。しかし、ポルフィーリイがそれとみて、顔が紫色になるほど腹をかかえて笑い出したとき、ラスコーリニコフの嫌悪の情は突如いっさいの警戒心を圧倒してしまった。彼は笑いやめてまゆをしかめ、ポルフィーリイが何か思わくありげにとめどなく、長々と笑いつづけている間じゅう、相手から目を放さず、いつまでも憎々しげにその顔をみつめていた。とはいえ、不注意は明らかに双方に認められた。ポルフィーリイも客を面と向かって嘲笑ちょうしょうしながら、客がその笑いを憎悪ぞうおで受け取っているにもかかわらず、その状態を大して気にしている様子もなかった。この最後の事実はラスコーリニコフにとって、きわめて意味深いものであった。彼は悟った。ポルフィーリイはさっきもいっこうまごつきなどしたのでなく、かえって彼ラスコーリニコフの方がわなに落ちたのかもしれない。ここには明瞭めいりょうに、彼の知らない何かがある。何かの目的がある。もしかすると、もはやすべて準備が整っていて、今すぐにもそれが暴露し、頭上にくずれかかるのかもしれない……
 彼はさっそくいきなり用件に取りかかろうと、席から立ち上がって、帽子をつかんだ。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ」断乎たる口調ではあったが、かなりかんの強い声で、彼は口を切った。「昨日あなたは何かの尋問のために、僕に来てほしいとおっしゃった(彼は特に尋問ということばに力を入れた)。で、僕はやって来ました。何かご用があれば、どうか尋ねてください。でなければもう失礼さしていただきたいのです。僕いそがしいんですから、ぼく用があるんですから……あの、あなたも……ご存じの、馬に殺された官吏の葬式に行かなくちゃならないんです……」と彼はつけ足したが、すぐこのつけ足しにいらいらしてしまった。それから、またすぐにいっそういらいらしながら、「僕もうこのいきさつにはすっかりあきあきしてしまいました。おわかりですか、もうずっと前からです……一つはこれがもとで病気になったんです……一口に言えば」病気云々うんぬんの一句がいっそうへまだったと感じて彼はほとんど叫ぶように言った。「一口に言えば、尋問するか、つきまとうのをよすかしてください……だが、もし尋問するなら、ぜひ必ず正式にやっていただきたい! それ以外には承知しません。だから、今日のところは失敬します。今われわれ二人きりでは何も仕様がありませんから」
「とんでもない! いったいあなたは何をおっしゃるんです! 何をあなたに尋問することなんかありましょう?」ポルフィーリイは急に笑うのをやめて、調子も顔つきも改めながら、まるでめんどりが鳴くような声でせかせかと言い出した。「まあ、どうぞご心配なく」またしても四方八方へひょこひょこ歩き出したかと思うと、今度はふいにラスコーリニコフを席に着かせようと世話を焼いたりしながら、彼はあたふたやり出した。「時間はたっぷりありますよ、時間はたっぷりありますよ。それに、こんなことはなんでもありません! それどころか、あなたがとうとういらしってくだすったのを、非常に喜んでいるくらいです……あなたをお客様として迎えているんですからね。もっとも、さっきのいまいましい無作法な笑いに対してはロジオン・ロマーヌイチ、お許しを請わなくちゃなりません。ロジオン・ロマーヌイチ、たしかそうでしたね、あなたの父称ふしょうは? わたしは神経家だもんですから、あなたの恐ろしい穿うがった観察に笑わされてしまったんですよ。どうかすると、まったくゴム細工のように体じゅうぶるぶる震え出すほど笑うことがあるんです。かれこれ半時間くらいぶっ通しに……笑いっぽいたちでしてな。わたしの体質ですから、卒中を恐れてるくらいなんですよ。がまあお掛けになったら、あなたどうしたのです?……さどうぞ、あなた、でないと、すっかりご立腹になったのだと思いますよ……」
 ラスコーリニコフは依然として腹立たしげに眉をしかめたまま、黙って相手のことばを聞きながら、じっと観察していた。もっとも、彼は腰をおろしたけれど、まだ帽子は手から離さなかった。「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしは自分のことを、いわば性格の説明として申し上げておきましょう」部屋の中を気ぜわしなげに歩きながら、相変わらず客と視線を合わすのをさけるような風で、ポルフィーリイはことばを続けた。「実はわたしは独身者で、社交界というものを知らない、名もない一介の人間です。しかもそれでいて、もうでき上がってしまった人間、固まってしまった人間で、もう種になりかかっているんです。で……で……で、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはお気づきかどうか知りませんが、わがロシアでは、とりわけこのペテルブルグの社会では、お互いにかくべつ深い知合いではないが、両方で尊敬し合っている二人の聡明そうめいな人間が、まあたとえば、今のあなたとわたしのような人間が、一緒に落ち合ったとすると、まる三十分くらい、どうにも話題を見つけることができず、お互いに固くなってしまって、腰かけたまま照れ合っているんです。いったい話題というものは誰でも持っているもので、たとえば女の人なんかそうです……上流の社交界の人たちでも、話題はいつだって持ち合わせています。C'est de rigueur(それは必要欠くべからざるものですからね)ところが、我々みたいに中流の人間になると――皆はにかみやで、話下手はなしべたです……つまり、思索人ですな。いったいこれはどういうわけなのでしょう? われわれには社会的な興味が欠けているのか、あるいはまたあまり正直すぎて、お互いにだまし合うのを望まないからか、どうもわからんです。え? あなたなんとお考えですな? まあ、その帽子をおおきになりませんか、まるで今にも帰ろうとしていらっしゃるようで、まったく、見てても変ですよ……わたしはそれどころか、やたらにうれしくって……」
 ラスコーリニコフは帽子をおいたが、依然として無言のまま、まじめに眉をしかめながら、ポルフィーリイの空虚な、とりとめのない饒舌じょうぜつに耳を傾けていた。『いったいこの男はこんな愚にもつかないおしゃべりで、おれの注意をそらそうとでも思ってるんだろうか?』
「コーヒーは別に差し上げません、場所が場所ですから。しかし、五分やそこいら友人と対談して、気晴しをやるのがいけないというわけはありますまい」とポルフィーリイはのべつしゃべり立てた。「何しろ、こうしたいろんな職務上の仕事というやつは……ですが、あなた、わたしがこう始終あちこちと歩き回るのを、どうかお腹立ちにならんでください。失礼ですが、わたしはあなたの気を悪くしやしないかとはらはらしてるんですが、運動というやつはわたしにとって、なんとしても必要なんでしてね。年じゅう腰をかけどおしなもんですから、五分間でも歩き回れるのが、うれしくてたまらないんですよ……がありますんでね……いつも体操で治療しようと思ってるんですが。なんでも噂で聞くと、五等官や四等官の連中、いや三等官あたりの役人までが、進んで縄飛びをやってるそうですよ。全くどうも今日は科学万能の時代ですからな……さよう……ところで、ここの職務だとか、尋問だとか、そうしたいろんな形式的なことになると……現にあなたも今ご自分で、尋問ということをおっしゃったが……そりゃ実際、あなた、ロジオン・ロマーヌイチ、この尋問てやつは、どうかすると尋問される者よりか、尋問者の方をまごつかすものですよ……それはあなたがいま実に正鵠せいこくを穿った、皮肉な観察をお述べになったとおりです(ラスコーリニコフはそんな事など何もいわなかったのである)。混乱してしまいますよ! 実際、混乱してしまいますよ! いつもいつも同じことばかり、太鼓でもたたくように言ってるんですからな! このごろ改革が始まりかけていますから、われわれもせめて名称だけでも変えてもらえるだろうと、嘱望しているしだいです、へ、へ、へ! ところが、法律家的方法となると(あなたの巧みな表現をかりるとですな)、もう完全にあなたのご意見に賛成です。ねえ、そうじゃありませんか、どんな被告だってどんな頭のかたい百姓出の被告だって、ちゃんと心得ていないものはありませんよ。たとえば、初めは無関係な質問を浴びせかけて(あなたの的確な表現に従えばです)、その後でふいにおのをふるってまっこうからみね打ちを食わせる。へ、へ、へ! その真っ向からですな、あなたの巧みな譬喩ひゆに従えばね! へ! へ! それくらいのことはみんな心得ていますよ。じゃ、あなたはわたしが本当に、官舎の話であなたを……なにしようとしたなんて、そんなことをお考えになったんですか……へへ! あなたもなかなか皮肉な人ですな。いや、もう言いません! あっ、そうだ、ついでに一つ。どうもことばでも思想でも、一つがまた一つを誘い出すものでしてな――ほらあなたは先ほど正式にとおっしゃいましたね、つまり尋問の態度について……しかし、正式にっていったいなんでしょう! 形式なんて、あなた、多くの場合くだらんものです。時によると、友達づき合いで話した方が、案外有利なことがありますよ。形式はけっして逃げてゆきやしません。その点はどうかご安心ください。それに、本質的に見て、形式とはいったいなんでしょう、一つお尋ねしたいくらいですよ。形式なんて、いかなる場合でも、予審判事を拘束することはできません。予審判事の仕事は、いわば一種の自由芸術ですからな。一種のというより、むしろそのなんですな……へ、へ、へ!……」
 ポルフィーリイはちょっと息をついだ。彼は少しも疲れる様子がなく、やたらにまくし立てた。無意味な空虚な文句を並べているかと思うと、急に何か謎めいたことばを漏らしたり、かと思うと、すぐまた無意味な饒舌に落ちてゆきながら、とうとうとしゃべりつづけた。彼は部屋の中をもうほとんど駆け回っていた。太った短い足をいよいよ早く動かしながら、絶えず足もとをみつめたまま、右の手を背中へ回し、左手をひっきりなしにふり回しては、驚くほどことばの意味に一致しない、さまざまな身振りジェスチュアをするのであった。彼は部屋を駆け回るうちに、二度ばかりドアの傍にほんのちょっと立ち止まり、耳を澄ましたらしいのに、ラスコーリニコフはふと気がついた。
『やつ何か待ってでもいるんだろうか?』
「いや、実際あなたのおっしゃったことは、全く真理です」とまたもやポルフィーリイはさも愉快げに、並みはずれて気さくな様子でラスコーリニコフを見ながら(そのためこちらはぷるっと身震いして、一瞬間に心構えをした)、こうことばをついだ。「実際あなたが法律上の形式に対して、あの鋭い嘲笑を加えられたのは、ぜんぜん正鵠を穿っております。へ、へ! どうもあの(もちろん、全部ではないが)、意味深長な心理的方法というやつは、いやはや滑稽こっけいなもので、あまり形式に拘泥こうでいすると、むしろ有害無益なくらいですて。さよう……おや、わたしはまた形式のことを言い出してしまった。ところでもし仮りにわたしが委任された何かの事件で、甲にしろ乙にしろ丙にしろ、いわば犯罪者として認める、いや、もっと適切に言えば、嫌疑をかけるとする……ときに、あなたは法律家になるつもりで勉強しておられたのでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ?」
「ええ、そのつもりでしたが……」
「でしょう、だから一つあなたに、いわば将来のご参考として――しかし、わたしは生意気にあなたをつかまえて、講義をするなんて思ってくだすっちゃ困ります。とんでもない、あなたはああいう堂々とした犯罪論を発表していらっしゃるんですからなあ! とんでもない、わたしはただ一つの事実としてちょっとした例をご参考に供するだけなんです――そこで、仮りにわたしが、たとえば甲なり乙なり丙なりを犯人と考えたとしましょう。で二つ伺いますが、その場合よしんば多少の証拠を手に入れたにせよ、時機の熟さぬうちに当人を騒がせる必要がどこにあります? もっとも、中には一刻も早く捕縛しなければならん相手もある。ところが、また中には別な性質の人間もありますよ、全く。そんなのに対しては、しばらくの間街を歩き回らしたっていいじゃありませんか、へ、へ! しかしどうやら、あなたはよくおわかりにならんらしいですね。じゃ、もう少しはっきり説明しましょう。たとえばですね、もしわたしがその男をあまり早くから未決へぶち込むと、それによって、わたしはその男に、いわば精神的支点を与える事になるかもしれませんから、へ、へ! あなたは笑っておいでですな? (ラスコーリニコフは笑おうなどとは考えてもいなかった。彼は唇を堅く結んで、燃えるような視線をポルフィーリイから放さず、じっと腰をかけていた)。しかし、実際ある種の連中に対しては、ことにそうなんですよ。人間は多種多様ですが、実地応用の方法は誰に対しても一つしかありません。たった今あなたは証拠といわれました。そりゃまあ、仮りに証拠は必要だとしてもいいですが、しかし証拠というやつは、あなた、大部分両方に尻尾しっぽを持っているのでしてな。われわれ予審判事なんて弱い人間ですから懺悔ざんげしますが、予審というものは数学的に明瞭にやりたい、二二が四といったような証拠を握りたくてたまらない! 抜きさしのならないまともの証拠を手に入れたくてたまらないんですよ! もしわたしがその男を時期尚早しょうそうなのに収監してごらんなさい――たとえこれこそそうだという確信を持っていたにせよ――その時わたしはその男に対して、それ以上の証拠を握る方法を、われとわが手で奪うようなものじゃありませんか。なぜとおっしゃる? ほかでもありません、わたしはその男にいわば一定の地位を与える、いわば心理的に一定の方向を与えて、その男を落ち着かせてしまうからです。するとその男はわたしから離れて、自分の殻の中へもぐり込んでしまいます。つまり、いよいよ自分は囚人だと悟るわけなのです。なんでもあのセヴァストーポリでは、アリマ役の直後、今にも敵が正面攻撃で一挙にセヴァストーポリを陥落させるだろうと識者連が恐れおののいたものです。ところが、敵が正攻法による包囲を選んで、最初の平行ごう開鑿かいさくするのを見ると、その識者連が大喜びに喜んで、安心したという話です。つまり正攻法による包囲ではいつらちがあくかわからないから、少なくともふた月は先へ延びることになるからです! またあなたは笑っておいでですな、また本当になさらないんですな? そりゃなんです、もちろんあなたが正しいともいえます。正しいですとも、正しいですとも! 今のような話はみな特殊な場合です、あなたのおっしゃるとおりです。こんなことはみんな特殊の場合です! しかし、ロジオン・ロマーヌイチ、この際つぎの事実も観取しなけりゃなりません――つまりあらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの対象となり、書物にまでちゃんと書き込まれている普遍的な場合なんてものは、ぜんぜん存在していないんですよ。というのは、すべての事件、たとえば犯罪などでも皆、それが現実に発生するやいなや、直ちにぜんぜん特殊な一個の場合になってしまうからです。時によると、まるっきり前例のないようなものになってしまいます。したがって、そんな意味で滑稽きわまる事件が生ずることも、往々ありますよ。まあ仮りにわたしがある男を勝手に一人でうっちゃっておくとしましょう――逮捕もしなければ、いっさい迷惑をかけるようなこともしない。ただこっちがいっさいの秘密を知り尽くしていて、夜も昼もその行動に注目し、油断なく監視していることを、当人にしょっちゅうたえまなく感じさせる。少なくとも、疑うように仕向けるのです。こうして、その男が絶えずわたしから嫌疑を受け、脅威を与えられているものと意識してごらんなさい。それこそ全く頭がぐらぐらしてきて、あげくの果てには自首するようになります。しかもその上に二二が四といったような、いわゆる数学的に正確な証拠となるようなことをしでかすに決まっています――なかなか愉快なもんですて。こういうことは熊みたいな百姓にもありうる例なんですから、まして我々仲間の現代的頭脳を持った、おまけにある方向に発達を遂げた人間はなおさらです! だから、その男がいかなる方向に発達を遂げた人物か、それを知るのが一ばんかんじんですて。それから神経ですな、神経というやつ、あなたはこいつを忘れていらっしゃる! 現今この種の連中の神経はみな病的で、栄養不良で、おまけにいらいらしているんですからな!……つまり胆汁の作用ですな。彼らにはこの胆汁がどれくらいあるか底がしれないほどですよ! これは実際言ってみれば一種の鉱脈みたいなものでしてな! だから、その男が縄をつけられないで街を歩き回っていても、わたしには別段なんのけねんもありゃしません! なに、勝手にしばらくのあいだ散歩さしとけばいいのです、勝手に。わたしは何をしなくたって、その男が要するにこっちの獲物で、わたしの手からどこへも逃げられないのが、ちゃんとわかっているんですから! それに、どこへ逃げて行く先があります。へ、へ! 外国ですかね? 外国へ逃げるのはポーランド人くらいなもので、その男じゃありません。ことにわたしはしじゅう監視して、相当の手段を講じているんだからなおのことです。では、内地の奥深くへでも逃げ込みますかな? しかし、そこには百姓どもが住んでいるんですぜ。正真正銘のむくつけきロシアの百姓ですよ。教養のある現代人だったら、わが国の百姓みたいな外国人と一緒に暮らすよりは、むしろ監獄の方を選ぶでしょうよ、へ、へ! しかし、こんなことはみんなくだらない、外面的な問題です。いったい逃亡とはなんのことでしょう? そんなことは形式的なものにすぎません。かんじんなことはそれと違います。その男はどこへも逃げる先がないというだけの理由で、わたしの手から逃げないのじゃありません。心理的にわたしの傍を逃げ出されないのです、へ、へ! どうです、この表現は! つまり、その男は自然の法則によって、よしんば逃げる先はあっても、逃げられないのです。あなたはろうそくの火を慕ってくる蛾をごらんになったでしょう? ねえ、ちょうどあれと同じように、その男はわたしのまわりを始終ぐるぐる回るでしょう。ちょうど蛾がろうそくのまわりを回るようにね。自由もうれしくなくなり、考え込んだりうろたえたりしだす。そして、蜘蛛くもの巣へまきこまれたように、自分で自分をすっかり縛り上げてしまい、死ぬほど一人で苦しい目をするに決まっております!……そればかりか、二二が四といったような数学的に正確な証拠を、自分でこしらえてこっちへ提供してくれます――ただ少しばかり幕間を長くしてやりさえすればね……そして、絶えずひっきりなしにわたしのまわりで圏を描きながら、その直径をだんだん狭くして、最後にぱたっと引っかかる! 真っ直ぐにわたしの口へ飛び込むんです。すると、わたしがそれをがぶりと飲み込むという寸法でさあ。ねえ、これは実に愉快なもんですよ。へ、へ、へ! あなた本当になさいませんか?」
 ラスコーリニコフは返事をしなかった。彼は始終おなじ緊張した表情で、ポルフィーリイの顔を見つめながら、真っ青な顔をして、身動きもせず腰をかけていた。
『けっこうなお説教だ!』彼は全身に寒さを覚えながら考えた。『こうなると昨日のように、猫が鼠をおもちゃにしてるどころの話じゃない。まさかこの男はおれに意味もなく自分の力を示して……助言してくれてるわけじゃあるまい。そんなへまをするには、この男少しりこうすぎるて……これには何かほかに目当てがあるんだが、いったいそれはなんだろう? ちぇっ、ばかばかしい、きさまはおれをおどかして、裏をかこうとしてるんだろう! ところが、きさまにはなんの証拠もないんだし、昨日の男だってこの世にいやしない! ただきさまはおれをまごつかせた上、早まっていらいらさせておき、その隙にぱっさりいこうという魂胆だろう。ご冗談でしょうよ、しくじるに決まってる、しくじるに決まってるとも! だがなぜ、いったいなぜ、これほどまでに入れ知恵をするんだろう?……おれの病的な神経をねらってでもいるんだろうか!……なあに、だめなこった、きさまがどんな小細工をしたって、しくじるに決まってるんだ……まあ、一つ見てやろうよ、きさまがどんな細工をしているか』
 こう考えた彼は、恐ろしい測りしれぬ破局カタストロフに対して心構えをしながら、全身の力をこめて心を強く持とうとした。どうかするとポルフィーリイにおどりかかって、その場で締め殺してしまおうか、と思うことがあった。彼はここへ来る途中から、この憎悪が起こるのを恐れていたのである。彼は唇がからからにかわいて、心臓がどきんどきんと鼓動し、唇につばがひからびつくのを感じた。が、それでも彼は沈黙を守って、時機の来るまで一言も漏らすまいと覚悟した。彼は自分の立場として、これが最善の戦術なのを悟ったのである。なぜなら、そうすれば自分の方でうっかり口をすべらす心配がないのみか、かえってその沈黙によって敵自身をいらいらさせ、あまつさえまだ何かうっかりしゃべらすことさえできるかもしれない。少なくとも、彼はこれを当てにしていた。
「いや、お見受けするところ、あなたは本当になさらんらしい。そして、まだわたしが何か罪のない冗談でも並べているように、思っていらっしゃるらしい」ポルフィーリイはますます愉快そうな様子になり、満足のあまり絶えずひひひと笑いながら、こうわれとわがことばを引きとって、またもや部屋の中をぐるぐる回り出した。「そりゃもちろんごもっともなしだいです。わたしはもうこの風体からして、人に滑稽な感じしか起こさせないように、神様から創られてるんですからな。ずんぐり男ですよ。しかし、わたしはこう申し上げたいのです。もう一度くり返して申しますが、ロジオン・ロマーヌイチ、どうか老人の差し出口をお許しください。あなたはまだお若くて、いわば青春の花ともいうべき時期にある人です。だから一般に若い人の例に漏れず、人知というものを何より尊重しておいでになる。遊戯的な機知の発露や理知の抽象的な演繹えんえきなどが、あなたを誘惑しているようです。それはちょうど、わたしが軍事に関して判断しうる限りでは、オーストリアの軍事会議ホフ・クリーグスラートにそっくりそのままですな。彼らは紙の上ではナポレオンを粉砕して、捕虜にまでしてしまいました。とにかく自分たちの書斎では、縦横の機知をろうしていっさいを計画し、敵を術中におとしいれました。ところが事実の上ではどうでしょう、あにはからんやマック将軍、全軍を率いて降伏してしまった。へ、へ、へ! いや、わかっていますよ、わかっていますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしが文官の身でありながら、軍事上の例ばかりを引くのを、あなたはおかしく思っておいでになるのでしょう。だが、どうもいたし方がありませんよ、これがわたしの弱点なんですから。軍事上のことが好きでしてな、戦争報告類を読むのが大好きなんですよ……全くわたしは自分の進路を誤りましたよ。わたしなどは軍隊に勤めるとよかったんです、全く、ナポレオンにはなれなかったにしても、まあ少佐くらいにはなれたでしょうにね、へ、へ、へ! さて、ここでわたしはあなたにそのなんですな、特殊な場合という事について、ほんとうのことを詳しくお話ししましょう。ねえ、あなた、現実とか自然とかいうものは実に重要なものですよ。時とすると、それは周到をきわめた計画をも瓦解がかいさしてしまいますからね! ま、ま、老人のいうことをお聞きなさい。わたしはまじめにいってるんですから、ロジオン・ロマーヌイチ(こう言った時、三十五になったばかりのポルフィーリイが全く急にすっかり年をとったように見えた。声まで変わって、腰もかがんだように思われた)。それにわたしはあけっ放しな男でしてな……わたしはあけっ放しでしょう、それとも違いますかな? どうですあなたのお考えは? もう十分そうだろうと思われますがね。何しろこんな事まであなたにただでお教えして、おまけになんのお礼も請求しないんですからな、へ、へ! さて、そこで先を続けますが、機知というものはすばらしいもので、いわば自然の美であり、人生の慰めであって、いかなる細工でもみごとにやってのけられそうに思われます。どうかすると、自分の妄想に夢中になっているどこかのみじめな予審判事などには、とてもそいつを見破ることなんかできそうもない、という気がするくらいです。これはよくあるやつで、何しろ予審判事もやはり人間ですからな! ところが、自然性というやつが、そのみじめな判事を救ってくれるんで、これが困りものなんですよ! それだのに、機知に深入りして『あらゆる障害を踏み越して行く』(これは昨日あなたがいわれた賢明かつ巧妙無比な表現なんですが)青年は、この点をまるで考えようともしないのです。で、そりゃ仮りにうまく嘘をつくとしましょう、ある男がですよ。つまり特殊な場合のことですよ。人知れず、手ぎわよく、巧妙無比な嘘をつきおおせるとしましょう。もうこれで大成功、いよいよ自分の機知の成果を楽しむことができる、とこう思っていると、あにはからんや、先生、ぱったりいってしまう! もっとも大切な、もっとも騒動を起こしやすい場所で卒倒なんかしてしまう。そりゃまあ病気だとか、あるいは部屋の中が息苦しかったとか、いうようなことはありましょうが、それにしてもねえ! やはりある暗示を与えたことになります! 先生、嘘だけは無類につきおおせたが、自然性を勘定に入れることを忘れたんです! ここにその、天の配剤があるんですな! またどうかすると、その男は自分の機知の遊戯性につり込まれて、自分に嫌疑をかけている相手を愚弄し始めるんです。さもわざとらしく、さもお芝居らしく青くなって見せるが、しかしあまり自然らしすぎるくらいに、あまりまことしやかに青くなって見せる。で、結局やはり暗示を与えるわけになってしまう! よし初め一度は欺きおおせても、相手がまぬけでない限り、一晩のうちにこっちだって悟ってしまいます。何しろまあ、一歩毎にこの調子なんです! いや、何もいちいち言うがものはありませんよ。自分の方からお先き回りをしたり、問われもしないことに口を出したり、またその反対に、黙ってなければならんことを、やたらにぺらぺらしゃべったり、いろんな謎をかけたりするようになるんですよ、へ、へ! しまいには自分からのこのこやって来て、なぜわたしをこんなに長く捕縛しないんです? なんて尋ね始める。へ、へ、へ! しかも、これはきわめて機知の発達した心理学者や文学者などにも生じうる現象なんですからね! 自然は鏡です、この上もなく澄みきった鏡です! まあ、せいぜい自分を映して、よく見惚みとれるんですな、全くの話! おや、ロジオン・ロマーヌイチ、なんだってあなたはそう青くなってしまったんです、息苦しいんじゃないんですか、窓でもあけましょうか?」
「いや、どうかご心配なく」ラスコーリニコフはこう叫ぶと、だしぬけにからからと笑い出した。「どうかご心配なく!」
 ポルフィーリイは彼に向かい合って立ち止まり、しばらく待っていたが、やがて続いて自分でも急にからからと笑い出した。ラスコーリニコフはその純発作的な笑いを急にぷつりと切り、長椅子から立ち上がった。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ!」彼はわなわなと震える足で、ようやく立っていたにもかかわらず、声高にきっぱりと言った。「僕はとうとうはっきりわかりました。あなたはあの老婆と妹リザヴェータの殺害者として、間違いなく僕に嫌疑をかけておられるのです。僕は自分の方として声明しますが、僕はもうずっと前から、そういう事にはあきあきしてしまいました。もしあなたが法律によって僕を調べる権利があると考えておられるのなら、どうか調べてください。捕縛するなら、捕縛なさい。しかし、僕を面と向かって嘲弄ちょうろうしたり、苦しめたりするのを、許すわけにゆきません」
 ふいに彼の唇は震え出して、双の目は狂憤に燃え、今まで押えていた声がりんりんと響き出した。
「許すわけにいきません!」と彼はだしぬけに叫ぶと、力いっぱいこぶしでテーブルをたたきつけた。「あなた聞こえますか、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ? 許すわけにいきません!」
「こりゃどうも、あなたはまた何をおっしゃる!」すっかりおびえ上がった様子で、ポルフィーリイは叫んだ。「あなた、ロジオン・ロマーヌイチ! え! しっかりなさい! いったいどうなすったんです?」
「許すわけにいきません!」とラスコーリニコフはもう一度叫ぼうとした。
「あなた、もう少し静かに! 人が聞きつけて、やって来るじゃありませんか! そうしたらなんと言います、考えてもごらんなさい!」ポルフィーリイは自分の顔をラスコーリニコフの顔の、すぐ傍へすり寄せながら、さも恐ろしそうにささやいた。
「許すわけにいきません、許すわけに!」とラスコーリニコフは機械的にくり返したが、急にこれも全くのひそひそ声になってしまった。
 ポルフィーリイはすばやく身をひるがえして、窓をあけに駆け出した。
「新しい空気を入れなくっちゃ! そして、あなた、水でも少し上がるといい。何しろこれは発作ですからね!」
 こう言って、彼は水をいいつけに戸口の方へ飛んで行こうとしたが、折よくすぐそこの片隅に、水のはいったびんがあった。
「さあお飲みなさい」びんを持ってラスコーリニコフの傍へとんで来ながら、彼はささやくように言った。「ちっとはよくなるかもしれません……」
 ポルフィーリイの驚愕きょうがくと介抱ぶりがあまり自然らしかったので、ラスコーリニコフは思わず口をつぐんで、けうとい好奇の表情で彼をじろじろ見回した。もっとも、水は受け取らなかった。
「ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ! ほんとにそんな風にしていらっしゃると、自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますよ、ほんとうに、ええっ! ああっ! お飲みなさい! ね、少しでもいいからお飲みなさい!」
 彼は無理やりに水のはいったコップを彼の手に持たせた。こちらは機械的にそれを唇まで持って行ったが、ふと気がついて、嫌悪の表情を浮かべながら、テーブルの上に置いた。
「そうです、あれは発作だったんですよ! そんなことをしていると、あなた、また以前の病気をぶり返してしまいますよ」とポルフィーリイは親身の同情を帯びた調子で、例のめんどりが鳴くような声をたて始めたが、しかしまだなんとなく途方に暮れたような顔つきをしていた。「ああ! あなたはなぜそう自分の体を大切になさらないんです? 昨日もラズーミヒンがやって来ましてね――もっとも、わたしの性分が皮肉でよくないってことは、自分でも異存ありませんさ、異存ありませんとも。しかし、あの連中はそれからどんな結論を引出したと思います!……ああ、やりきれない! あの男、昨日あなたの帰られた後でやって来て、一緒に食事をしましたが、先生しゃべるわしゃべるわ。わたしはただ両手を広げて、あきれ返るばかりでしたよ! やれやれまあまあ……と思いましてね! いったいあの男はあなたの使者で来たんですか? まあ、あなた、おかけなさい、ちょっと腰をおろしてください、お願いですから!」
「いや、僕の使者じゃありません! だが、あの男がお宅へ伺ったことも、なんのために伺ったかということも、ちゃんと知っていました」とラスコーリニコフはきっぱりと答えた。
「知っておられたんですって?」
「知っていました。で、それがどうしたというんです?」
「ほかでもありません、ロジオン・ロマーヌイチ。わたしはあなたのご行跡は、まだこれどころじゃない、大したものを知っておりますよ。何もかも承知しております! もう日が暮れて夜近いころに、あなたが貸間を捜しにお出かけになって、呼鈴を鳴らしたり、血のことをきいたりして、職人や庭番どもを煙にまかれたことまで、ちゃんと知ってるんですからね。そりゃその時のあなたの精神状態はわたしだってわかっております……が、それにしても、あんな事をしていたら、それこそ自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますぜ、全くのところ! 頭がぐらぐらしてきますよ! あなたの内部にはさまざまな侮辱――第一には運命から、次には警察の連中から受けた侮辱のために、高潔な忿懣ふんまんが激しくわき立ったので、そのためにあなたはなんですな、少しも早く皆に口を開かせて、それでもって一時にすっかり片をつけてしまおうというので、あちこちもがき回っておられるんでしょう。つまり、あんな愚にもつかない想像や、ああした嫌疑が、いやで厭でたまらなくなったんですな。え、そうでしょう? あなたの気持をうまくいい当てたでしょう?……そんな風にしておられると、あなたは自分一人だけじゃない、ラズーミヒンまで逆上させてしまいますよ。あの男はそんな役回りにはあまり善人すぎますからね。ご自分だって承知しておいででしょう。あなたのは病気で、あの男のは友情だが、しかし病気ってやつは感染しやすいものですからな……いや、今にあなたの気分が落ち着いたら、わたしがよくお話ししますよ……まず、ともかくおかけなさい、ね、お願いですから! どうか少し休んでください、まるで顔の色ったらありませんよ。さ、少しおかけなさい」
 ラスコーリニコフは腰をおろした、戦慄せんりつはしだいにおさまり、体じゅうが一面にぽっぽっとしてきた。深い驚きに打たれながら、彼は注意を緊張させて、びっくりしたようにまめまめしく世話を焼くポルフィーリイのことばに、じっと耳を傾けていた。けれども彼は、信じたいと思う一種の不思議な要求を感じながら、その一言もほんとうにしなかった。貸間捜し云々という、ポルフィーリイの思いもよらぬことばは、根底から彼に激しい衝動を与えた。『これはいったいどうしたことだ? してみると、あすこへ行ったのを知ってやがるんだな?』という考えがふいに浮かんだ。『しかも、自分の方からおれにしゃべるなんて!』
「さよう、ちょうどそれと同じような心理的事件が、われわれの扱った裁判事件の中にありましたよ。そういう病的な事件がね」とポルフィーリイは早口に続けた。「やはりある男が自分で自分に殺人罪を塗りつけてしまったんですが、しかもその妄想の程度がひどいんですよ。自分の見た幻覚を引っ張り出して、事実は具陳する、その場の状況は詳述するという風で、みんな誰も彼もことごとく煙にまかれてしまっている、とまあどうでしょう! その男は全く偶然に意識せずして、多少殺人の原因になったとはいうものの、全く多少という程度にすぎないんです。ところがその男は、自分が殺人の導因を与えたと知ってから、急にくよくよし出し、頭の調子が変になり、いろんな妄想に悩まされ出して、すっかり気ちがいみたいになってしまいましてね、あげくの果てに自分を犯人と思いこんだわけなのです! しかし、結局大審院が事件を明瞭めいりょうに審理したので、不幸な男はやっと無罪を証明されて、監視つき釈放ということになりました。これなんかひとえに大審院の功によるものですな! いやはや、どうも驚くべき事じゃありませんか! だから、あなた、そんな風にしてると、どんなことになるかわかりゃしませんよ。夜中に呼鈴を鳴らしに行ったり、血のことを尋ねたりして、自分で自分の神経をいらいらさせたがる傾向が現われ出したら、脳炎くらいひき起こすのは、造作もないことでさあ! だってこうした心理は、わたしが経験によって研究したんですからね。こういう風なことがこうじると、場合によっては、窓や鐘楼からでも飛びおりたくなってきますよ。そういった感覚は魅惑の強いものですからな。呼鈴のことだって同じりくつですて……病気ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、病気ですとも! あなたは自分の病気をあまり軽視しておられますよ。いかがです。経験のある医者におせになったら? だって、あなたのかかりつけの太っちょ、ありゃいったいなんです!……あなたは熱に浮かされてるんですよ! あんなことはみな熱に浮かされて夢中でやっておられるんですよ!……」
 一瞬間、ラスコーリニコフの周囲のものが、ぐるぐると回り出した。
『いったい、いったいいまもこの男は嘘をついてるんだろうか?』という想念が彼の頭にひらめいた。『それはあり得ない、あり得ないことだ!』と彼はこの想念を追いのけるようにした。彼はこの想念が自分をいかなる狂憤におとしいれるかわからない、またそうした狂憤の結果、発狂さえしかねないということを、あらかじめ感じたからである。
「あれは熱に浮かされてしたのじゃありません、あれは正気だったのです!」ポルフィーリイの戦術を見抜こうと、あらん限りの理知の力を緊張させながら、彼はそう叫んだ。「正気だったのです、正気だったのです! おわかりですか?」
「いや、わかっていますよ、聞いていますよ! あなたは昨日も、熱に浮かされちゃいないとおっしゃって、なんだか特別それを強調なすった! あなたの言われそうなことは、みなよくわかっていますよ! ええ、どうしてどうして!……しかし、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、一つこれだけでも聞いてください。もし仮りにあなたが、じじつ、本当に罪があるとか、あるいはあの忌まわしい事件になんらかの関係があるとかすれば、ね、あなたは何もかも夢中でやったのじゃない、完全に意識してやったのだなんて、冗談じゃない、そんなことを自分で言い張ったりなさるでしょうか? しかも、格別それを強調する、強情なくらいに強調する、ねえ、いったいそんなはずがあるでしょうか? ねえ、全く、そんな理屈ってあるものでしょうか、考えてもごらんなさい! わたしに言わせると、全然その反対です。だって、もしあなたに何か後ろめたいことがあれば、あなたはどうしたって『たしかに夢中だった!』と主張なさらなけりゃならんはずです。そうじゃありませんか? ね、そうでしょう?」
 この問いの中には、何かしら悪ごすい感じのするものが響いていた。ラスコーリニコフはかがみ込んでくるポルフィーリイを避けて、長椅子の背へ身をもたせた。そして無言のまま、思い惑うようにじいっと相手を見つめていた。
「それからまた、あのラズーミヒン君のことにしてもそうです。つまり、あの男が昨日わたしのところへ話しに来たのは、自分の意志から出たことか、それとも、あなたの使嗾しそうによるものか? という問題ですな。あなたの立場にあったら、あれは自分の意志で来たのだと答えて、あなたの使嗾によるものだということは、隠さなくちゃならんはずです! ところが、あなたはお隠しにならないんですからな! それどころか、自分の使嗾によるものだと主張なさる!」
 ラスコーリニコフは、けっしてそんなことを主張した覚えがなかった。悪寒が彼の背筋を走って通った。
「あなたは嘘ばかり吐いていらっしゃる」彼は病的な微笑に唇をゆがめながら、弱々しい声でのろのろと言った。「あなたはまたしても、僕の戦術をすっかり見抜いている、僕の答えを全部あらかじめ承知している、というような顔がして見せたいんですね」自分でももうことばの選択に対して、当然の注意を払っていないと感じながら、彼はこう言ってしまった。「あなたは僕をおどかそうとしていらっしゃるんです……でなけりゃ、ただもう僕を愚弄ぐろうしていらっしゃるんだ……」
 彼はそう言いながら、いつまでもひた押しに相手をじっと見つめていた。と、ふいにまた限りなき憎悪が彼の目にひらめいた。
「あなたは嘘ばかりいってるんです!」と彼は叫んだ。「あなたは自分でもよく知っていらっしゃるでしょう――犯人にとって一番いいごまかしの方法は、隠さないでもいいことはできるだけありのままを言うことなんです……できるだけ。僕はあなたを信用しない!」
「あなたはなんというひねくれ者だ!」ポルフィーリイはひひひと笑った。「あなたにゃ手こずってしまいますよ。どうもあなたには何か偏執狂モノマニアみたいなところがありますな。じゃ、わたしを信用しないとおっしゃるんですね? ところが、わたしはこう言いますよ――あなたはもう信用していらっしゃる、四分の一尺くらい信用していらっしゃるんです。しかも、わたしは一尺ぜんぶ信用させて見せますよ。だって、わたしは誠心誠意あなたを愛し、しんからあなたのためよかれと願っているんですからね」
 ラスコーリニコフの唇はわなわなと震え出した。
「そうです、願ってるんです。ですから、はっきり言いますがね」ラスコーリニコフの手をひじの少し上のところで、さも親しげに軽く握って、彼はことばを続けた。「はっきり言いますがね、あなた病気に注意なさい。おまけに、今あなたのところへ、家族の方が見えてるんですから、その人たちのことも少しお考えにならなくちゃ。あなたはその人たちを安心させて、いたわってあげなきゃならないのに、びっくりさせてばかりいらっしゃるんだからなあ……」
「それがあなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれをご存じなんです? なんのためにそんなことに興味をお持ちになるんです? してみると、あなたは僕を監視しておられるんだな。そしてそれを見せつけようとしてらっしゃるんだ!」
「とんでもない! それはみんなあなたから、あなた自身から聞いたことじゃありませんか! あなたは興奮のあまりご自分で、わたしやほかの人たちに、先走りしてお話しなすったのに、お気がつかないんですね。ラズーミヒン君――ドミートリイ・プロコーフィッチからも、昨日いろいろ興味のある詳細な話を聞きましたよ。いや、あなたはわたしの話の腰をお折りになった。で、続けて言いますがね、あなたはその猜疑心さいぎしんのために、鋭い機知を持ちながら、事物に対する健全な判断力までなくしてしまわれたのです。まあ、たとえば、また同じ題目になりますが、あの呼鈴のことだってそうです。あんな貴重な材料を、あんな大きな事実を(全く大した事実ですよ!)わたしは何もかもそっくり、あなたにぶちまけてしまったじゃありませんか。予審判事のわたしがですよ! ところが、あなたはそれになんの意味も認めていらっしゃらんでしょう? ねえ、もしわたしがほんのちょっとでもあなたを疑っていたら、こんなことをしていいものでしょうか? どうしてそれどころか、まず初めあなたの疑念を眠らせておいて、わたしがすでにこの事実を知っているということは、おくびにも出さないようにすべきはずです。あなたの注意をまるで別な方へそらしておいて、ふいにおので脳天へみね打ちを食わせ(あなたの表現法をかりればですね)、それからやつぎばやに、『いったいあなたは晩の十時、いやもうかれこれ十一時に近い刻限に、殺人のあった住まいで何をしましたか? なんのために呼鈴を鳴らしましたか? なんのために血のことを尋ねましたか? なんのために庭番どもに変なことをいって、警察へ――副署長のところへ行けなどとすすめましたか』ときく。まあさしずめこんなぐあいにやるべきはずなんです。もしわたしが爪のあかほどでもあなたを疑ってたらね。それから、すっかり正式に口供をとって、家宅捜索をやるばかりか、しだいによっては、あなたを捕縛さえしなくちゃならないかもしれません……してみると、そういう態度に出ない以上、わたしはあなたに対してなんの嫌疑もいだいていないわけです! ところが、あなたは健全な判断力を失っておられるもんだから、くり返して申しますが、何一つお見えにならないんです」
 ラスコーリニコフはぴくりと全身を震わせたので、ポルフィーリイは明瞭すぎるほど明瞭にそれを見て取った。
「あなたはやはり嘘をいってるんです!」と彼は叫んだ。「あなたのねらっていることは、何かわからないけれど、あなたは嘘ばかりついているんです……さっきあなたが言われたのは、そんな意味じゃなかった。ぼく誤解なんかするはずがない……あなたは嘘をついてるんです!」
「わたしが嘘をついてる?」とポルフィーリイはかっとしたらしく、ことばじりを押えたが、例の愉快らしい嘲笑ちょうしょう的な表情を保ったまま、ラスコーリニコフが自分のことをどう思っていようと、少しも気にしていないらしい様子だった。「わたしが嘘をついてるんですって?……ではさっきわたしはあなたに対してどんな行動をとりました(わたしがですよ、予審判事がですよ)。わたしは自分の方からあなたにありったけの弁護法を暗示したり、ぶちまけたりしたじゃありませんか。いわく、『病気、熱病の発作、極度の侮辱、憂鬱症ヒポコンデリイ、警察の連中』などといったような心理描写まで、自分の口から拾い上げたじゃありませんか? え? へ、へ、へ! もっともそれは――ついでに申し上げておきますがね――すべてそうした心理的弁護法や口実や言いぬけなどきわめて効力のないもので、どうにでもとれるやつなんですよ。『病気、熱病の発作、うわごと、幻覚だ。覚えていない』これはみな実際にそうに違いないが、しかし、その病気の時、うわごとの間に、いつも決まってそういう幻覚ばかり見えて、なぜほかの事が現われなかったのでしょう? ほかの事だって幻に現われていいはずじゃありませんか? そうでしょう? へ、へ、へ、へ!」
 ラスコーリニコフは傲然ごうぜんと、さげすむように相手を見やった。
「一口に言えば」彼は立ち上がりながら、その拍子にポルフィーリイを少しばかり突きのけ、どこまでも主張するような調子で声高く言った。「一口に言えば、あなたは僕を絶対に嫌疑の余地のないものと思っていらっしゃるのか、あるいはそうでないのか、それを僕は知りたいんです。どうか聞かしてください。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、はっきりと決定的に言明してください、さあ早く、今すぐ!」
「いやはや、こりゃどうもやっかい千万な! やれやれ、あなたを相手にするのは実にやっかいですなあ」とポルフィーリイは愉快らしい、狡猾こうかつな、いささかも心配そうにない顔つきで叫んだ。「それに、あなたがそんなことを知って何になるんです、まだあなたにご迷惑をかけようともしない先から! なんのためにそういろんなことを知ろうとなさるんです。全くあなたはねんねえですな。手の中へ火を入れてくれ、早く入れてくれとねだってる形ですものね! それに、あなたはなぜそう心配なさるんです? どうしてそう自分の方から押しつけがましくおっしゃるんです、なんの理由で? え? へ、へ、へ!」
「くり返して言いますが」とラスコーリニコフは狂暴な勢いで叫んだ。「僕はもうこの上我慢ができません!……」
「何がです? 未知の不安というやつがですか?」とポルフィーリイはさえぎった。
「毒口をきくのはよしてください! 僕はもういやだ!……もういやだと言ってるんですよ!……我慢ができない、いやです!……わかりましたか! わかりましたか!」またこぶしでテーブルをどんとなぐりつけ、彼は大喝だいかつした。
「まあ静かに、静かに! 人に聞こえるじゃありませんか! わたしはまじめにご注意しますが、自分というものをだいじになさい。わたしは冗談言ってるのじゃありませんぞ!」とポルフィーリイはささやくような声で言ったが、今度はさっきのような女じみた善良さも、おびえたような表情もその顔に浮ばなかった。それどころか、いま彼はまゆをしかめて、いっさいの秘密とあやふやな態度を一度に破り捨てるような風で、おおっぴらに厳然と命令したのである。
 けれど、それはほんの刹那せつなにすぎなかった。荒肝をくじかれたラスコーリニコフは、しかしたちまち正真正銘の狂憤におちいったが、不思議にも、彼は憤怒の発作の頂上にあったにもかかわらず、またもや静かに話せという命令に服従したのである。
「僕はおめおめと人に苦しめられなんかしませんぞ!」と彼は急にさっきと同じ調子でささやいたが、命令に従わずにいられない自分自身を、苦痛と憎悪の念とともに稲妻のように意識した。そして、その意識のために、一そう激しい狂憤のとりこになったのである。「僕を逮捕してください、家宅捜索をしてください。しかし、いっさいの行動を正式にやってもらいましょう。人をおもちゃにするのはよしてください! そんな失敬なまねは承知しません……」
「いや、形式のことはご心配に及びませんよ」ポルフィーリイは以前の狡猾そうな微笑を浮かべ、満足そうな様子さえ見せて、ラスコーリニコフの狂憤に見とれながら、そのことばをさえぎった。「わたしは今日あなたを家庭的にお招きしたので、つまりまあ、ぜんぜん友人関係なんですよ!」
「僕はあなたの友誼ゆうぎなんか望みません。そんなものは、つばでも引っかけてやりたいくらいだ! いいですか? さあこの通り、僕は帽子を取って出て行くんだ。おいどうだ、捕縛するつもりなら、これに対してなんというね?」
 彼は帽子をつかんで、戸口の方へ行きかけた。
「ときに、一つ思いがけない贈物があるんですが、見たかありませんかね?」またもや彼の肘の少し上をつかんで、戸口で引止めながら、ポルフィーリイはひひひと笑った。
 彼は目に見えてますます愉快げな、遊戯的な気分になって行った。そのためにラスコーリニコフはすっかり前後を忘れてしまった。
「思いがけない贈物とはなんです? どんなものだ?」彼はふいに立ち止まって、おびえたようにポルフィーリイを見やりながら尋ねた。
「思いがけない贈物は、そら、あすこに、ドアの向こうのわたしの住まいの方にいますよ。へ、へ、へ! (と彼は自分の官舎へ通ずる、仕切り壁に設けたしまった戸口を指さした)。逃げて行かないように、かぎをかけてしめ込んどいたのです」
「いったいなんです? どこに? 何ものです?……」
 ラスコーリニコフはそのドアへ歩み寄り、あけようとしたが、ドアには鍵がかかっていた。
「かかってるんです、さあ鍵!」
 と言いながら、ほんとうに彼はポケットから鍵を取り出して、それをラスコーリニコフに見せた。
「きさまはのべつ嘘ばかりついてやがる!」ラスコーリニコフはもうこらえきれなくなって、怒号を始めた。「でたらめを言うな、このいまいましい道化め!」彼はこうわめきながら、ドアの方へあとずさりしてはいたものの、いささかもおくした様子のないポルフィーリイに飛びかかった。
「おれは何もかもみんなわかったぞ!」と彼はポルフィーリイの傍へ駆けよった。「きさまは嘘ばかりついてるんだ、おれに尻尾を出させようと思って、人をからかってるんだ……」
「いや、もうそのうえ尻尾しっぽを出すわけにはゆきませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。あなたはまるで夢中になっておられる。そんなにどなるのはおよしなさい、人を呼びますよ」
「嘘をつけ、何があるもんか! 人を呼ぶなら呼ぶがいい! きさまはおれの病気を知ってるものだから、人を夢中になるまでからかって、尻尾を押えようと思ってるんだ。それがきさまの魂胆なんだ! そんな手はだめだ、証拠を出せ! おれは何もかもわかったぞ! きさまにゃ証拠なんかありゃしない。ただザミョートフ式の愚にもつかぬ、くだらない邪推があるだけなんだ!……きさまはおれの性格を知ってるもんだから、おれを夢中になるほどおこらした上、ふいに牧師や陪審員などを引張って来て、どぎもを抜くつもりだったんだろう……きさまはその連中を待ってるんだろう? おい? 何を待ってるんだ? どこにいるんだ? 出して見せろ!」
「どうも、あなた、こんなところに陪審員なんかいてたまるもんですか! 人間ってとんでもない妄想を起こすもんだ! そんな風じゃ、あなたのおっしゃるように、正式にやることも何もできやしませんよ。あなたはその辺のことをなんにもご存じないんだ……正式にはどこへも逃げやしませんよ。今に自分でおわかりになりますよ!……」と、ドアの方へ耳をそばだてながら、ポルフィーリイはつぶやいた。
 実際この瞬間、次の間のすぐ戸口のところで、何かしら物音らしいものが聞こえた。
「あっ、来たぞ」とラスコーリニコフは叫んだ。「きさまはあいつらを呼びにやったんだな!……きさまはあいつらを待ってたんだろう? きさまは思わくがあったんだ……さあ、そいつらをみんなここへ出せ。陪審員でも、証人でもなんでも好きなものを……さあ出せ! おれも用意ができてるぞ! 用意が!」
 けれども、その時奇怪なことが持ち上がった。それこそラスコーリニコフはもちろん、ポルフィーリイでさえも、こんな大団円は予期することができなかったくらい、普通の場合では思いがけないでき事である。


 後になってラスコーリニコフが、この瞬間のことを思い出すたびに、すべてが次のような形で浮かんでくるのであった。
 ドアの向こう側で聞こえていた物音は、とたんにたちまち大きくなって行き、ドアが細目に開かれた。
「どうしたんだ、いったい?」とポルフィーリイはいまいましそうに叫んだ。「前からちゃんと注意しといたじゃないか……」
 その瞬間、答えはなかったが、察するところ、ドアの向こうには四、五人の人がいて、誰かを突きのけようとしているらしかった。
「おい、どうしたんだよ?」とポルフィーリイは不安そうにくり返した。
「未決囚のニコライをつれてまいりました」という誰かの声が聞こえた。
「いけない! 向こうへ連れて行け! もうしばらく待つんだ!……なんだってあいつこんな所へのこのこ来たんだ! だらしのない!」戸口の方へ飛んで行きながらポルフィーリイはこうどなった。
「でも、こいつが……」とまた同じ声が言いかけたが、急にとぎれてしまった。
 二秒ばかり(それより長くはなかった)、戸の外では本物の格闘が続いた。それからふいに、誰かが誰やらを力まかせに突き飛ばしたらしい気配がした。と、続いて誰か真っ青な顔をした男が、いきなりポルフィーリイの書斎へつかつかとはいってきた。
 男は見るからに奇妙な様子をしていた。彼は真っ直ぐに前の方を見ていたが、誰の顔も目に入らないような風である。目には決心の色がひらめいていたが、同時に、まるで刑場にでも引かれて行く人のように、死のような青みがその顔をおおい、血の気を失った白い唇は軽くおののいていた。
 それは、平民らしい服装をして、頭を短かくおかっぱに刈りこみ、妙に乾いたような細い顔の輪郭をした、やせぎすで中背の、まだいたって若い男だった。思いがけなく突き飛ばされた男は、彼のあとから第一番に部屋へ飛び込んで、その肩をつかまえた。それは看守だった。がニコライは手をぐいとしゃくって、またもや振りほどいてしまった。
 戸口の所には、いくたりかの物見だかい連中が集まった。あるものは、部屋の中まではいりこもうとしていた。以上のことはほとんど一瞬時に起こったのである。
「あっちへ行け、まだ早い。こっちから呼ぶまで待っておれ!……なんだって先へ連れてくるんだ?」とポルフィーリイはやや度を失った形で、いまいましくてたまらないというようにつぶやいた。
 ニコライはいきなりぱたりとひざを突いた。
「なんだおまえ?」とポルフィーリイは驚いてこうどなった。
「悪うございました! あれはわっしの仕業なので! わっしは人殺しでございます!」とふいにニコライは、いくらか息をはずませてはいたが、かなり高い声で言った。
 十秒ばかりの間、沈黙が続いた。一同はあきれてものが言えないというような風だった。看守さえ思わず一歩後ろへたじろいで、もうニコライの傍へ寄ろうともせず、機械的に戸口の方へあとずさりして棒立ちになった。
「なんだって?」つかの間の麻痺まひ状態からわれに返って、ポルフィーリイはこう叫んだ。
「わっしは……人殺しでございます……」ほんの心もち無言でいた後、ニコライはまたくり返した。
「なんだって……お前が!……どうして……誰を殺したのだ?」
 ポルフィーリイは明らかに狼狽ろうばいしていた。ニコライはまたほんの心もち無言でいた。
「アリョーナ・イヴァーノヴナと、妹さんのリザヴェータ・イヴァーノヴナを、わっしが……殺しました……おので。魔がさしたんでございます……」彼はふいにこう言い足すと、また黙ってしまった。
 彼はその間ずっと膝をついていた。
 ポルフィーリイはややしばらく、思いめぐらすように立っていたが、急にまたおどり上がり、呼ばれもしないのに集まった証人連に手を振って見せた。こちらはすぐに姿を消してドアはぴったりしまった。それから彼は片隅に立ったまま、けうとい目つきでニコライをながめているラスコーリニコフをちらと見て、その方へ足を向けようとしたが、急にまた立ち止まり、彼を見やったと思うと、すぐさま視線をニコライの方へ移した。それから、またラスコーリニコフとニコライを見比べたが、急に夢中になったようなようすで、またもやニコライの方へ飛んで行った。
「なんだってきさまは魔がさしたなんかって、出しゃばったまねをするんだ?」と彼はほとんど憎々しげにどなりつけた。「お前に魔がさしたかささないか、おれはまだ尋ねちゃおらんじゃないか、さあ言え……お前が殺したのか?」
「わっしが下手人げしゅにんなので……申し立てをいたします……」とニコライは言った。
「ちょっ! なんで殺したんだ?」
「斧でございます。前から用意しておいたんで」
「ちょっ! 先ばかり急いでやがる! 一人でか?」
 ニコライは問いがわからなかった。
「一人で殺したのか?」
「一人なんで。ミーチカにゃ罪はありません。あの男はまるっきりこれにかかわり合いがないんで」
「ミーチカのことなんかあわてて言わなくてもいい! ちょっ!……じゃ、お前はどうして、どうしてお前はあの時階段を走っておりたのだ? だって、庭番がお前たち二人に出会ったじゃないか?」
「あれはみんなの目をくらますためなんで……そのためにその時……ミーチカと一緒に走っておりたんで」ニコライはせき込みながら、前から用意しておいたらしくこう答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」と憎々しげにポルフィーリイは叫んだ。「腹にもないことを言ってるんだ!」と彼はひとり言のようにつぶやいたが、ふいにまたラスコーリニコフが目についた。
 察するところ、彼はニコライのことにすっかり気を取られて、ちょっとの間ラスコーリニコフのことをほとんど忘れていたらしい。で、いま急にわれに返ると、きまり悪そうな様子さえ見せた……
「ロジオン・ロマーヌイチ! 失敬しました」と彼はラスコーリニコフの方へ飛んで行った。「それじゃいけません……どうぞ、失礼ですが……あなたはここにおられても仕様がありませんから……わたし自身も……ごらんのとおり、どうもこういう思いがけない贈物なんでして!……さあどうぞ!……」
 彼はラスコーリニコフの手をとって、戸口を指さして見せた。
「あなたもどうやら、こんなこととは予期なさらなかったようですね?」とラスコーリニコフはもちろん、まだ何一つはっきりわからないなりに、もうこの間にかなり元気づいて問い返した。
「あなただって思いがけなかったでしょう。ほうら、手が、こんなに、震えている! へ、へ!」
「それにあなたも震えていらっしゃいますね、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ」
「わたしも震えていますよ。あまり意外だったもんですからね!……」
 彼らはもう戸口のところに立っていた。ポルフィーリイは、ラスコーリニコフが出て行くのを、じれったそうに待っていた。
「ところで、思いがけない贈物は、結局、見せてくださらないんですか?」だしぬけにラスコーリニコフは、あざけるような調子で言った。
「とはおっしゃるが、そのご当人の口の中じゃ、歯の根が合わずがちがちいってるじゃありませんか、へ、へ! あなたも皮肉な人ですな! ではまた、いずれ改めて」
「僕はもうこれでさようならだろうと思いますが!」
「何事も神さまの思召おぼしめしです、何事も神さまの思召しです!」妙にひん曲がったような微笑を浮かべながら、ポルフィーリイはそうつぶやいた。
 事務室を通り抜けるとき、ラスコーリニコフは、大勢のものがじっと自分の方をみつめているのに心づいた。控室の群衆の中で彼は目ざとく、あの時夜中に警察へ行けといったあの家の庭番二人を見分けた。彼らは立って、何かを待っていた。けれど、彼が階段へ出るが早いか、ふいにまた自分のうしろに、ポルフィーリイの声を聞きつけた。振り返ってみると、ポルフィーリイがはあはあ息を切らしながら、追っかけて来るのであった。
「もう一言だけ、ロジオン・ロマーヌイチ。ああしたいろんなことは、みんな神さまの思召しですが、しかしやっぱり正式に、なんとかお尋ねしなくちゃならんことになるでしょう……そういったわけで、またお目にかかれるはずですな、そうでしょう!」
 こう言って、ポルフィーリイは微笑を含みながら、彼の前に立ち止まった。
「そういったわけですな」と彼はもう一度言い足した。
 彼はもっと何か言いたかったのだが、なんとなく、言い出しにくいらしい、とも想像ができた。
「いや、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、どうか先ほどのことは何分お許しを願います……少々とりのぼせたものですから」ちょっとからいばりがしてみたいという欲望を抑えかねるほど、もうすっかり元気を回復したラスコーリニコフは、こんな風なことを言いかけた。
「どうしまして、どうしまして」とほとんどうれしそうな調子で、ポルフィーリイは引きとった。「わたしもご同様ですよ……わたしはどうも皮肉な性分でしてな、慙愧ざんきにたえません、慙愧にたえません! またお目にかかりましょう。神さまのお手引があれば、必ず必ずお目にかかりますよ!――」
「そして、徹底的にお互い同士を認識しあいますかね?」とラスコーリニコフは引きとった。
「そう、徹底的にお互い同士を認識しあいましょう」とポルフィーリイはおうむ返しに言った。そして、目を細めながら、まじめくさって彼をじろりと見た。「これから命名日の祝に?」
「葬式です」
「ああ、そうだったっけ、葬式にね! まあ、お体を大切に、お体を」
「どうも、僕の方からはなんと申し上げたらいいやら、見当がつきません!」もう階段をおりかけたラスコーリニコフは、こう相手のことばを受けたが、ふいにくるりとポルフィーリイの方へ振り返って、「まあ、今後いっそうのご成功をお祈りする、とでも申しましょうか。だが、なんですね、あなた方の職務も実に滑稽こっけいなもんですね!」
「なぜ滑稽なんです?」同じく帰りかけていたポルフィーリイは、たちまち耳をそばだてた。
「だって、そうじゃありませんか。ほら、あの可哀想なミコールカ(ニコライ)を、あなたはずいぶん責めさいなんだことでしょうね。心理的に、あなた一流のやり方で、あの男が白状するまで、ね。昼も夜も『きさまは人殺しだ、きさまは人殺しだ……』と言っていじめつけなすったに相違ない。ところで今度あの男が白状してしまうと、あなたはまた、『嘘つけ、きさまは人殺しじゃない! きさまにそんなことのできるはずがない! 腹にもないことを言ってやがる!』なんて体じゅうの骨がみしみしいうほど痛めつけようとなさる。ねえ、これでも滑稽な職務じゃないでしょうか?」
「へ、へ、へ! 今わたしがニコライに『腹にもないことばかり言ってやがる』といったのに、ちゃんとお気がついたんですね?」
「どうして気がつかないでいられます?」
「へ、へ! なかなか敏感ですね、実に敏感だ。なんにでも気がおつきになる! 全くユーモアの天分を持っていらっしゃる! 滑稽の真髄を把握なさるんですからな……へ、へ! 作家の中ではゴーゴリが、こういう天分をきわめて豊富に持っていたそうですな?」
「そう、ゴーゴリがね」
「さよう、ゴーゴリがね……じゃいずれまた」
「いずれまた……」
 ラスコーリニコフは真っ直ぐに家路へ向かった。彼はすっかり頭が混乱して、何が何かわからなくなってしまったので、家へ着くが早いか、いきなり長椅子に身を投げて、やっと体を休めながら、いくらかでも考えをまとめようと努めながら、十五分間ばかりじっとしていた。ニコライのことに至っては、とかくの判断に取りかからないことにした。彼は激しい衝動を受けたのを感じていた。ニコライの自白の中には、今の彼にはどうしても理解することのできない、説明の仕様もない、驚くべきものがひそんでいる。しかし、ニコライの自白は厳然たる事実であった。この事実の結果は、彼にとってたちまち明瞭めいりょうになった。虚偽は暴露しないでいるはずがない。その時はまた彼の取調べを始めるに違いない。しかし、少なくともそれまで彼は自由である。だから、ぜひ何か自分を守るために工作しておかなければならぬ。なぜなら危険は避けがたいからであるから。
 とはいえ、それはどの程度だろう? 状況は段々はっきりしてきた。ポルフィーリイとの先刻の一幕を、ざっと荒筋だけ拾って思い出したとき、彼は恐怖のあまり、もう一度戦慄せんりつせずにいられなかった。もちろん、彼はまだポルフィーリイの目算を、すっかり知っているわけではない。先ほどは彼の作戦を残りなく看破することができなかった。けれど作戦の一部は暴露された。そして、ポルフィーリイの作戦上のこの『一手』が、彼にとっていかに恐ろしいものであったかということは、もちろんなん人といえども、彼以上に理解することはできなかったはずだ。ほんのいま一歩で、彼はもう完全に、実質的に、正体を現わしてしまったかもしれないのだ。彼の病的な性格を知って、一目で確実に彼を見抜きかつ把握したポルフィーリイは、あまり思い切りがよすぎたものの、しかしほとんど確実な行動を取ったのである。先ほど、ラスコーリニコフはずいぶん自分の立場を傷つけた。それはなんとしても争われないにしても、しかし事実にまではやはりまだ達していなかった。これらはすべてまだ相対的なものにすぎない。が、はたしてそうだろうか? はたして彼は今すべてを理解してるのだろうか? 誤算してはいないか? 今日ポルフィーリイはどんな結果へ導いてゆこうとしたのだろう? 実際、彼は今日なにか準備していたのか? そうだとすれば、それはいったいなんだろう? 実際、彼は何か待っていたのだろうか、どうだろう? もしニコライのおかげで、あの思いがけない破局カタストロフがやって来なかったら、二人は今日どんな風に別れたろう?
 ポルフィーリイは自分の作戦を、ほとんど全部見せてしまった。もちろんそれは冒険だったに相違ないが、とにかく見せてしまった。もし実際ポルフィーリイに何かあれ以外の計画があったとすれば、それをも出して見せたに相違ない(ラスコーリニコフはどうもそう思われて仕方がなかった)、いったいあの『思いがけない贈物』とはなんだろう? ただの嘲弄ちょうろうにすぎないのか? それとも何か意味があるのか? この謎の下に何か具体的な証拠なり、有力な起訴理由なりに類したものが、ひそんでいるだろうか? 昨日の男は? あの男はいったいどこへ消えてしまったのだろう? 今日どこにいたのだろう? もしポルフィーリイが何か確かなものを握っているとすれば、もちろん、それは昨日の男と関連したことに相違ない……
 彼は頭を垂れて膝にひじを突き、両手で顔をおおい、長椅子に腰かけていた。神経的な戦慄はまだ全身を走り続ける。ついに彼は帽子をつかんで立ち上がり、ちょっと考えたのち、戸口の方へ足を向けた。
 彼はなんとなく、少なくも、きょう一日だけはほとんど絶対に安全と見なしていい、そういう予感がした。ふいに心の中でほとんど喜びに近い感じを覚えた。彼は少しも早くカチェリーナのとこへ行きたくなった。葬式にはむろん遅れてしまったが、法事には間に合うだろう。そうすれば、そこですぐソーニャに会える。
 彼は立ち止まって、ちょっと考えた。病的な微笑がその唇に押し出された。
『今日だ! 今日だ!』と彼は口の中でくり返した。『そうだ! どうしても今日だ! きっとそうしなくちゃ……』
 彼がドアをあけようとしたとたん、急にそのドアがひとりでに開き始めた。彼は思わず震え出し、あとへ飛びしさった。ドアはそろそろと静かに開いて、ふいに人の姿が現われた――あの大地からわき出たような昨日の男である。
 男はしきいの上に立ち止まって、無言のままラスコーリニコフをちらと見た後、部屋の中へ一足踏み込んだ。彼は昨日と寸分違わぬ身なりをし、同じような格好をしていたが、顔と目つきには著しい変化が生じていた。今彼はなんとなくしょげた様子で、しばらくじっとたたずんでいたが、やがてほっと深いため息をついた。もしこのうえ掌を片頬におしあてて、首を一方に傾けさえすれば、まるで百姓女そのままという形だった。
「なんの用です?」ラスコーリニコフは生きた心地もなくこう尋ねた。
 男はしばらく黙っていたが、急に低く腰を曲げて、ほとんど床に届くほどの会釈をした。すくなくとも、右手の指は床に触れた。
「君どうしたんです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「わっしが悪うございました」と男は低い声で言った。
「何が?」
「悪い了簡りょうけんを起こしまして」
 二人はたがいに顔を見合せていた。
「いまいましくなったんでございます。あの時あなたがあそこへおいでになって、たぶん酔っておられたのではありましょうが、庭番に警察へ行けといったり、血のことを尋ねたりなさいましたね、それをぼんやり酔っ払いだと思って、うっちゃっておいたのが、いまいましくなりましたんで。あんまりいまいましくって、夜の目も寝られないようになりました。で、わっしゃあなたの所番地を覚えておりましたんで、昨日ここへ来て尋ねましたようなわけで!……」
「誰が来たんです?」ラスコーリニコフは瞬間的に記憶を呼びさましながら問い返した。
「わっしでございます。つまり、あなたにゃ申し訳のない事をしましたんで」
「じゃ、君はあの家にいるんですか?」
「へい、あすこなんで。わっしゃあの時みんなと一緒に、門の下に立っておったんですが、それとももうお忘れになりましたかね? わっしどもはもうずっと昔からあすこに仕事場を持っておりますんで。わっしどもは毛皮屋商売の町人で、家で注文仕事をしておりますんですが……なんともいえないほどいまいましくなりまして……」
 ふいにラスコーリニコフは、一昨日の門下の情景がはっきり思い出された。あの時そこに庭番のほか、まだいくたりかの男と、女も二、三人立っていたことが、思い合わされた。あの時いきなり警察へ突き出せといった一人の声を思い起こした。その顔は思い出せないし、いま会っても気がつくまいけれど、自分がその時そっちを向いて、何やら答えたことが頭に残っている……
 してみると、これで昨日のあの恐怖は、すっかり解消したわけである。今かんがえてみてさえ何よりも恐ろしいのは、こんなつまらないことのために、危うく破滅にひんしていたことである。危うく自分で自分をほろぼそうとしていたことである。これで見れば、間借りの一件と血の問答以外、この男には何も話せないわけである。したがってポルフィーリイもやっぱりあの夢中でしたことよりほか、全く何も握っていないはずだ。首鼠両端の例の心理よりほか、なんの証拠もなければ、確かなつかまえどころもいっさいないはずである。してみれば、この上なんの事実も上がらないとすれば(そんなものはもう上がるはずがない、はずがない、はずがない!)その時……彼らは自分をどうすることができよう? たとえ捕縛したところで、なんの理由で自分を断然有罪にすることができよう? これで見れば、ポルフィーリイはたった今、つい先ほど、貸間捜しのことを聞いたばかりで、それまではまるで知らなかったのだ。
「じゃ、今日ポルフィーリイに話したのは君なんですね……僕が行ったということを話したのは?」思いがけない想念に打たれて、彼は叫んだ。
「ポルフィーリイって?」
「予審判事ですよ」
「わっしが話しました。あのとき庭番が行かなかったので、わっしが出かけました」
「今日?」
「あなたのお見えになるほんのちょっと前でございます。そして、あの人があなたをいじめてるところを、すっかり聞いておりましたよ」
「どこで? 何を? いつ?」
「なに、やはりあすこでございますよ。あの仕切り壁のかげで。わっしゃ、ずっとあすこにおりましたんで」
「えっ? じゃ、君があの思いがけない贈物だったんだな? どうしてそんなことができたんだろう? ああ!」
「実はこういうわけなんで」と町人は語り始めた。「わっしゃね、庭番たちがわっしのいうことを聞かないで、もう時刻が遅いから、かえって今ごろなにしに来たと叱られる、なんかって、警察へ行こうとしないんでね、もういまいましくって、夜の目もおちおち寝られないようになりましたので、いろいろと調べにかかりました。昨日すっかり調べ上げたんで、きょうは出かけて行ったわけでございます。初め行ったとき、あの方はお留守でした。一時間ほどしてから行ってみたら、今度は会ってくださいませんでした。三度目に行って、やっと通されましたんで。そこでわっしは何もかも、ありのまま申し上げました。するとあの方は、部屋の中をあちこち歩き出しなすって、拳固げんこでご自分の胸をたたきながら『きさまはこのおれをなんという目にあわすのだ、悪党! そんなことと知っていたら、護送つきで召喚するところだったに!』とおっしゃいました。それから駆け出して、誰かを呼んで来て、その人と隅の方で話を始めなすったが、さてまたわっしの所へ来て、いろいろ尋ねたり、怒りつけたりなさいました。そしてさんざんわっしをお責めになりましたよ。わっしは何もかも申し上げて、昨日あなたがわっしのことばに対して、何ひとつ返事ができなかったことや、わっしが誰かおわかりにならなかったことなどを話しました。その時もまた、あの方は部屋の中を駆け回り出して、自分の胸をたたいたり、腹を立てたり、また駆け出したりなさいましたが、あなたのお見えになったことを取りついで来ると――さあ、仕切り壁の向こうに隠れろ、そしてしばらくの間、どんな事が聞こえても身動きもしないでじっとすわっていろ、とこうおっしゃいましてね、自分で椅子を運んだりして、戸にかぎをかけておしまいになりました。ひょっとしたら、お前も尋問するかもしれんという事でございました。ところで、ニコライが連れられて来ると、あなたのお帰りになった後でわたしを出してくださいました。そして、またいずれ呼び出して、尋問するとおっしゃいました……」
「君の前でニコライを尋問したのかい?」
「あなたを送り出すと、わたしもすぐに出してしまって、それからニコライの尋問を始めました」
 町人はことばを切って、ふいにまた指が床に着くほど頭を下げた。
「どうかわっしが讒訴ざんそしたり、悪心を持ったりしたのを、かんべんなすってくださいまし」
「神様が許してくださるさ」とラスコーリニコフは答えた。
 彼がこのことばを発するやいなや、町人は今度は床まででなく、帯の辺まで頭を下げて、ゆっくりくびすを転じ、そのまま部屋から出て行った。『何もかも両端に尻尾しっぽができたぞ、これですっかりどっちへでもとれるようになったぞ』とラスコーリニコフはくり返し、いつにもまして元気よく部屋を出た。
『さあ、これからまだ闘うんだ』彼は階段をおりながら、憎々しげな薄笑いを浮かべてそう言った。その憎悪は自分自身に関するものであった。彼は侮蔑ぶべつ羞恥しゅうちの念を覚えながら、自分の『気の狭い行為』を思い浮かべた。
[#改ページ]


第五篇



 ドゥーネチカとプリヘーリヤの親子を相手に、運命を左右するような談判をしたその翌朝は、さすがのルージンも酔いのさめたような気がした。彼がこの上なく不快に感じたのは、実際できてしまったこととはいいながら、昨日のうちはまだ夢みたいな、ありうべからざるもののように思っていたあのでき事を、しだいにとり返しのつかぬ既定の事実として、受け入れなければならなくなってくることだった。傷つけられた自負心の黒いへびが、夜っぴて彼の心臓を吸いつづけたのである。寝床から起き出ると、ルージンはすぐに鏡を見た。夜の間に胆汁が体じゅうに回りはしなかったかと、それを気づかったのである。しかし、その方面は今のところ無事だった。近ごろすこし脂ぎってきた、上品な、色の白い自分の顔をながめた彼は、ことによったらもっとたちまさった花嫁を、どこかほかで捜し出せるに相違ないと腹の底から確信して、ちょっとの慰藉いしゃの念を感じたくらいである。けれど、すぐさまわれに返り、やけに脇の方へぺっとつばを吐いた。この仕種しぐさは、彼と同居している若い友人、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの口辺に、ことばにこそ出さね皮肉な微笑を浮べさしたものである。この微笑に気がつくと、彼はさっそく腹の中で、それをこの若い友人との貸借勘定の中へ入れた。最近この友人に対する彼の勘定書は、だいぶ計算がかさんでいたのである。ことに、昨日の会見の結果をこの男に話したのは間違いだったと考えついたとき、彼のむしゃくしゃはいっそう募ってきた。それは彼が熱くなって、つい口数が多くなるにつれて、かんしゃくまぎれにしゃべってしまったので、昨日としてはもう二つめの失策なのであった……それから後も、この朝はまるでわざとねらったように、不愉快な事ばかりあとからあとから起こった。あまつさえ大審院の方でも、今まで奔走していたある事件の失敗が、彼を待ち受けていた。とりわけ彼をいらいらさせたのは、間近な結婚を見越して借り受け、彼が自分のふところで造作までした住まいの家主である。この家主というのは成り上がりもののドイツの職人で、この間取り決めたばかりの契約の解除を、いっかな承知せず、ほとんどま新しく造作した住まいをそのまま返すというのに、契約書にうたってある違約金の全額支払を要求した。家具屋がこれまた同じく、買ったばかりでまだ届けてない家具の手付金を、一ルーブリも返そうとしなかった。
『まさか家具のために、わざわざ結婚するわけにもいくまい!』とルージンは腹の中で歯ぎしりした。が、それと同時に、彼の頭にはもう一度死にもの狂いの希望がひらめいた。『いったい、いったいあの話はほんとうにもうあれきりとり返しのつかぬほど瓦解がかいして、おじゃんになってしまったのだろうか? いったいもう一度やってみるわけにゆかないだろうか?』ドゥーネチカのことを思うと、彼の心はまたもや誘惑に動かされて、ずきずきした。彼は悩ましい心持でこの瞬間をじっと忍んだ。もし今すぐただの願望だけでラスコーリニコフをなきものにすることができたら、ルージンはゆうよなくそれを実行したにちがいない。
『失策はまだこればかりではない。あの二人に金をまるでやらなかったことだ』レベジャートニコフの小部屋へ、沈んだ気持で帰って来ながら、彼はそう考えた。『なんだって、くそいまいましい、おれはこうユダヤ人じみてしまったのかなあ? それじゃまるで先の見とおしがなかったというものだ! おれはあの二人にも少し不自由さしておいて、おれを神様のように思わしてやろう、とこう考えていたのだが、どっこい、あの始末だ!……ちょっ……いや、もしおれが二人にこの間じゅうから結納ゆいのうや贈物――たとえば箪笥たんすだとか、手箱だとか、宝石だとか、反物だとか、全体にそういったような、クノップの店やイギリス商館などで売ってるがらくたに、千五百ルーブリも出していたら、この事件はもっと手ぎれいに……もっとがっちりまとまっていたに違いないのだ! そうしたら今度みたいに、ああ手軽く破談にするわけにもいかなかったろうに! ああいう手合は、破談にする場合には、贈物も金も必ず返さなくちゃならんと思う、そういうたちの連中なのだからな。ところが、返すのはつらくもあるし、惜しくもある! それに、良心の方からいったって、しりくすぐったいわけだからな。今まであんなに金ばなれがよく、かなり優しくしてくれた人を、そうそうやぶから棒に追い出すなんて、できるわけのもんじゃない……といったようなぐあいでな……ふむ! こいつはしくじったわい!』
 ルージンはまたもや歯がみをしながら、自分で自分をばかと言った――もちろん、腹の中だけで。このような結論に到達すると、彼は出がけより二倍も毒々しい、いらいらした気持で帰ってきた。カチェリーナの部屋で行なわれている法事のしたくは、いくらか彼の好奇心をひきつけた。彼はもう昨日のうちから何かの拍子で、この式の話を聞いていたのみか、なんだか自分も招待されているような覚えさえあった。が、自分の用にまぎれて、ほかの事はいっさい聞き流していたのである。墓地の方へ行っているカチェリーナの留守を預って、食事の用意にかかったテーブルのまわりを、忙しそうにしているリッペヴェフゼル夫人のところへ、彼は急いで尋ねに行き、法事が盛大にとり行なわれるはずで、同じ家に住んでいるものがほとんど全部招待されていることを知った。その中には、故人と一面識もない人まではいっていて、カチェリーナと喧嘩けんかしたことのあるレベジャートニコフさえ招待されている。そして最後には当の彼ルージンも、ただ招待されているというだけでなく、この家の間借人全体の中で、一番おもだった客として、今か今かと待たれているのであった。またそういうリッペヴェフゼル自身も、これまでいろいろさや当てがあったにもかかわらず、礼を厚うして招かれていた。で、彼女は今ほくほくしながら、主人代わりにまめまめしく世話をやき、そのうえ、喪服ではあったけれど新しいものを着て、めちゃめちゃにめかしこみ、得意然としていたわけである。こうした様々な事実と情報は、ルージンに一種のヒントを与えた。で、彼はなんとなく思い沈んだ様子で、自分の部屋――といってもレベジャートニコフの部屋へ帰って来た。それはほかでもない、招待された人たちの中に、ラスコーリニコフも交じっているのを知ったからである。
 レベジャートニコフはどうしたわけか、この朝ずっと家に引きこもっていた。この男とルージンの間には一種奇体な、しかしある点から見れば自然な関係が、ちゃんとできあがっていた。ルージンはここに移って来たそもそもの日から、むしょうやたらに彼を軽蔑けいべつし憎んでいたが、同時にいくらか彼をけんのんがっているようなところもあった。彼がペテルブルグへ着くとともに、この男の所に宿を決めたのは、けちな経済観念のためばかりではなかった。もっともそれも原因だったに相違ないが、そこにはまたほかの理由もあったのだ。彼はまだ田舎にいる時分、かつて自分の教え子であったレベジャートニコフが、もっとも尖端的せんたんてきな若い進歩主義者の一人として、とほうもない内容を持ったある面白い団体で、重要な役割を働いているとの噂を聞いた。これがルージンに非常なショックを与えたのである。こうした底力のある、いっさいを知りいっさいを軽蔑し、かつ万人を暴露する団体は、もうかなり以前からルージンに脅威を感じさせていた。それは何かしら特殊な、しかもすこぶる漠然とした恐怖なのである。むろん彼自身は、まだ田舎にいた時分の事だから、こうした種類の事柄については、概略的な程度でも正確な観念を持つことができなかったのである。彼もまた多くの人々と同じく、都会――ことにペテルブルグには、何かしら進歩主義者とか、虚無主義者とか、暴露主義者とか、その他何々何々という連中のいることを聞いていた。そして多くの人々同様に、これらの名称の性質や意義をばかばかしいほど誇張し、曲解していたのである。この数年来、彼が何よりも恐れていたのはこの暴露主義であった。これこそ彼の絶え間なき不安の最大原因なのであった――しかもその不安は、折から彼が自分の事実をペテルブルグへ移そうと空想していた際とて、いっそう誇大されていた。この点、彼はちょうどよく小さい子供がおどかされるようなぐあいに、いわゆる『おびえ上がって』いたのである。五、六年前、彼がまだ田舎でやっと自分の栄達を築こうとし始めたばかりのころ、その時まで彼が一生懸命にしがみついていた県の有力者で、かつ彼の保護者である人が、むごたらしく暴露の犠牲になった場合を二つまで見た。一つの場合は、なんだかかなりな醜態を演じて結末になったし、もう一つの方はあやうく面倒なことになりかかったくらいである。つまりこういうわけで、ルージンはペテルブルグへ着くと同時に、とりあえずこうした方面の真相を調べ上げ、必要に応じては万一の場合のために先手を打って、『わが新しき世代』にとり入ろうと決心したのである。この万一の場合のために、彼はレベジャートニコフに期待をかけていた。で、たとえば、ラスコーリニコフを訪問した時なども、彼はもう他人の口まねで覚えたきまり文句を、どうにかすらすらと使いこなせるようになったのである。
 もちろん彼は、レベジャートニコフが恐ろしく単純な俗人であるということを、早くも見わけてしまった。しかし、この事実も、いっこうにルージンの迷いを解きもしなければ、元気をつけもしなかった。たとえ進歩主義者が一人のこらず、同じような馬鹿者であると確信しても、なお彼の不安は静まらなかったに相違ない。実のところ、そうした教理とか、思想とか、体系システムとか(こういうものでレベジャートニコフは彼に突撃して来たのである)、そういったものなどは彼になんの用もなかった。彼には独特の目的があった。彼はただゆうよなく寸時も早く、そこでは何がどうなっているかを知るのが、必要なのであった。はたして、これらの人々に実力があるかどうか? はたして自分にとって恐るべきものがあるかどうか? もし自分が何か仕事をはじめたら、彼らは自分を暴露するかどうか? もし暴露するとしたら、いかなる点に対して暴露を行なうのだろう? また全体に、このごろはどんな点に対して暴露を行なっているのか? もし彼らが実際に力を持っているとすれば、どうにかして彼らに接近した上、さっそく彼らにいっぱい食わしてやることはできないか? これは必要なことか、どうか? たとえば彼らの力を利用して、何か自分の出世の助けになるようなことはできないか? 一口に言えば、彼の前には数百の疑問が控えていたのである。
 このレベジャートニコフはどこかの勤め人だが、腺病質せんびょうしつのるいれきもちで、不思議なくらい亜麻色の毛をした、背の低い小柄な男で、カツレツのような頬ひげを立て、それを自慢にしていた。おまけにほとんど年じゅう目が悪かった。気持はかなり柔和な方だったが、ことばは恐ろしく自信ありげで、時には度はずれに高慢くさく聞こえることがあった――それが彼の貧弱な風采ふうさいと比較して、ほとんどいつも滑稽こっけいの感を与えた。それでも、リッペヴェフゼルの下宿人の中では、かなり幅のきく方だった。つまり酔っ払い騒ぎをしないし、間代もきちょうめんに払ったからである。こうした性質があるにもかかわらず、レベジャートニコフはどこか間が抜けていた。彼が進歩主義や『わが新しき世代』に合流したのは、実は感激から出たことなのである。この男はお手軽に最新の流行思想に付和雷同して、すぐさまそれを凡化してしまい、時にはきまじめで奉仕しているいっさいのものをまたたく間にカリカチュア化してしまうような、そんじょそこらにうようよしている俗人や、へなへなした月足らずや、何一つ学びおおせたことのないわからずやなどの、種々雑多な大群の一人なのであった。
 もっとも、レベジャートニコフはごくのお人よしだったにもかかわらず、自分の同居人であり昔の後見人であるルージンが、こっちでもやはりいやでたまらなくなりかかっていた。それは双方からとつぜん相互的に起こったことなのである。レベジャートニコフがいかに単純でも、ルージンが自分をだましていることも、内心ひそかに軽蔑していることも、『実際はけっしてそんな人間じゃない』ということも、だんだん少しずつ見抜いたのである。彼はルージンにフーリエの教義や、ダーウィンの理論などを説いて聞かそうと試みたが、こちらは特に近ごろになって、なんだかあまり冷笑的な態度でそれを聞くようになったのみか、最近は悪口までつくようになった。それはほかでもない、ルージンが本能的に相手の正体を見抜くようになったからである。つまり、レベジャートニコフは平凡な薄馬鹿であるばかりか、もしかすると嘘つきで、自分のサークルでさえ、少し重立ったところとはなんの関係もなく、ただまた聞きで少しばかり知っているにすぎない。のみならず、話のしどろもどろになり勝ちなところから見ても、自分の宣伝事業すらろくすっぽ知らないらしいから、暴露家などにはどうしてどうしてなれそうもない! ついでにちょっと言っておくが、ルージンはこの一週間半ばかり(ことに最初の間は)、レベジャートニコフから妙な賛辞を受けていた。といって、つまり別に抗議をしないで、黙って聞いていたのである。たとえば、間もなくどこか町人街メシチャンスカヤあたりに、新しい『共産団』ができれば、あなたは喜んでその建設に尽力するだろうとか、あるいは結婚のその当日に、ドゥーネチカが恋人を作るような了見を起こしたとしても、あなたはそのじゃまをしないだろうとか、また将来生まれる子供にも洗礼を受けさせないだろうとか、すべてそういった風のことだった。ルージンはいつものくせで、どんな性質を自分に押しつけられても抗弁しようとせず、こんな風な賞め方でも黙認していた――それほど彼はあらゆる賛辞がうれしかったのである。
 この朝、どういうわけか、五分利つきの証券をなん枚か両替してきたルージンは、テーブルに向かって紙幣や債券の束を勘定していた。今までほとんど金というものを持ったことのないレベジャートニコフは、部屋の中を歩き回りながら、この紙幣さつ束を無関心なといおうより、むしろ侮蔑の気持で見ているような顔をしていた。ルージンの方では、レベジャートニコフがこんな大金を平気でながめられようとは、これっから先も信じていなかった。またレベジャートニコフの方でも、情けないような気持でこう考えた――もしかするとルージンは自分のことをそんな風に考えかねない男かもしれない、それどころか、自分の無力さや、二人の間に大きな距離のあることを当てつけるために、紙幣の束をひろげ立てて自分の気持をくすぐり、嘲弄ちょうろうする機会が来たのを喜んでいるのかもしれない。
 レベジャートニコフはルージンをつかまえて、新しい特殊な『共産団』の建設という、十八番おはこの題目を進展させにかかったけれど、今日は相手が今までになくいらいらして、いっこう注意を払おうとしないのに気がついた。そろばん玉のかちかちという合い間合い間に、ルージンの口から漏れる簡単な抗弁と批評はあまりにも見え透いた意識的な侮辱と嘲笑にみちみちていた。が、『人道主義的』なレベジャートニコフは、ルージンの不機嫌を昨日の破談のせいにして、一刻も早く、その題目へ話を持ってゆこうとあせった。彼はこの問題について、この先輩の失望を慰めうるのみならず、将来の精神的発達に『必ず』裨益ひえきしうるような、進歩主義的で宣伝価値のある意見を持っていたのである。
「いったいあすこじゃ、あの……あの後家さんのとこじゃ、どんな法事があるんです?」レベジャートニコフのことばを一ばんかんじんなところでさえぎりながら、ルージンはふいにこう問いかけた。「まるでご存じないような口ぶりですね。つい昨日わたしがそのテーマについて話をした上、すべてこうした宗教的儀式に関する思想を発展さしたじゃないですか……それに、あの女はあなたも招待したじゃありませんか。わたしは、聞きましたよ。あなたはご自分で昨日あの女とお話しなすったし……」
「僕はまさかあのばかな乞食こじき女が、あのもう一人のばかやろうからもらった金を、すっかり法事に入れ上げようとは夢にも考えなかった。今あの傍を通って、びっくりしたくらいですよ。酒だとかなんだとかいって、たいへんなしたくなんですからね……おまけに何人も客を呼んでるが、なんのことだかさっぱりわけがわからん!」とルージンは何か目的でもあるらしく、何やかや尋ねるような顔をして、話をこっちへ持ってきながらことばを続けた。「なんだって? 僕も招待されてるんですって?」急に頭を上げながら、彼は言い足した。「それはいったいいつのことです? 僕は覚えがないが。もっとも、僕は行きませんよ。僕があんな所へ行ってどうするんだ? 僕はただ昨日ちょっと通りすがりに、あの女と話しただけなんですよ――貧しい官吏の未亡人として、一時扶助という形で一年分の俸給を、扶助金にもらえるかもしれないという話をね。してみると、あの女はそのお礼に僕を招待したんじゃないかな? へ、へ、へ!」
「わたしもご同様行かないつもりです」とレベジャートニコフは言った。
「そりゃそうだろうとも! 自分が手を下してなぐったんだからね。気がさすのはわかりきってるさ。へへ!」
「誰がなぐったんですって? 誰を?」とレベジャートニコフは急にどきっとして、顔まで赤くした。
「なに君がですよ、カチェリーナ・イヴァーノヴナをね、ひと月ばかり前に、どうです! 僕は聞いたんだからね、昨日……つまりこれが君らの信念というやつなんですよ!……それじゃ婦人問題の議論だって怪しいもんだ、へ、へ、へ!」これで気休めになったらしく、ルージンはまたそろばんをはじきにかかった。
「そんなことは皆でたらめの誹謗ひぼうですよ!」この一件を持ち出されるのを、たえずびくびくしていたレベジャートニコフはむきになった。「それはまるで事実と相違していますよ! それは別の話ですよ……あなたは聞きちがえをしていらっしゃる。根もない世間の陰口ですよ! あの時わたしはただ自己防衛をしただけなんです。あの女が先にわたしに飛びかかって、引っかこうとした……あの女はわたしの頬ひげを片っ方すっかり引抜いてしまったんですからね……どんな人間だって、自分の身柄くらいは守ってもよさそうなものですね。それに、わたしは誰にだって暴行を加えることなんか、許すわけにゆきませんよ……主義としてね。だって、あれはもう専制主義デスポチズムです。いったいわたしはどうすればよかったんです? ぼんやりあの女の前に立ってるんですかね? わたしはただあの女を突きのけただけですよ」
「へ、へ、へ!」とルージンは意地の悪そうな笑い方を続けた。
「あなたは自分が腹が立って、むしゃくしゃするものだから、わざと突っかかってくるんでしょう……あんなのくだらない話で、婦人問題なんかにはけっして少しもふれちゃいません! あなたの解釈は間違っています。わたしはこう考えたんですよ。もし婦人が万事につけて、体力までも男子と同等だとすれば(このことはもう肯定されていますよ)、そうすればしたがって、あの場合だっても平等でなくちゃならんはずです。もっとも、後でよく考察した結果、そんな問題は本質的に存在すべきでない、と論結しました。なぜかといえば、喧嘩けんかはあってはならないもので、喧嘩なんて場合は来るべき社会において、考えることさえできないものだからです……したがって、もちろん、喧嘩の中に平等を求めるのは、奇怪なことに決まっています。わたしもそれほど馬鹿じゃありませんからね……もっとも、喧嘩というものはあります……つまり、今後はなくなるけれど、今はまだある……ちょっ! ちくしょう! どうもあなたと話してると、妙に脱線してしまう! わたしが法事に行かないのは、ああした不快ないきさつがあるからじゃない。ただ主義として行かないだけです。法事などといういまわしい偏見の仲間入りをしたくないからです、そうなんですよ! そりゃ、もっとも、行ったってさしつかえはないですよ。ただ冷笑してやるために。ね……ただ残念なのは、司祭が来ないということです。さもないと、むろん行くんですがね」
「というと、つまり他家よそへごちそうになりに行って、そのごちそうと一緒に、自分を招待してくれた人たちにまで、その場でつばを引っかけようというんですね。いったいそうなんですか?」
「いや、けっして唾を引っかけるのじゃありません、ただ抗議をするんです。わたしは有益な目的をいだいて行くんです。開発と宣伝を間接に助けうるわけなのです。人は誰でも開発し、宣伝する義務があります。それも峻烈しゅんれつであればあるほど、いいのかもしれませんよ。わたしは思想の種を投ずることができます……その種から事実が生じるというわけですよ。なんでわたしがあの人たちを侮辱することになります? もっとも、はじめは怒るかもしれないけれど、やがてそのうちに、わたしが利益をもたらしてやったことに、自分でも気がつくでしょう。現にわれわれ仲間のテレビヨーワですね(いま共産団にはいっている婦人なんです)、それが家庭を飛び出して……ある男に身を任せた時、自分の両親にあてて、偏見の中に住んでいるのはいやだから、自由結婚をするという手紙を送った。ところがそれではあまり乱暴すぎる、両親にはもう少し斟酌しんしゃくしなくちゃ、手紙だってもう少し穏やかに書かなくちゃと言って、非難するものがあったのです。が、わたしに言わせると、そんなことは全くくだらないことで、穏やかに書く必要は少しもありません。むしろそういう時にこそ抗議する必要があるくらいですよ。あのワレンツなどは七年間も夫と同棲しながら、二人の子供を捨てて、一挙に手紙で夫にこう宣告したものですよ。『わたしはあなたと一緒にいては、幸福でいられないことを自覚しました。あなたは、共産団という手段による、ぜんぜん別な社会組織のあることをわたしに隠して、このわたしをだましていらっしゃいました。それは永久に許すわけにいきません。わたしは最近そのことをある立派な人から聞いたので、その人に身を任せ、一緒に共産団を組織することにしました。あなたをだますのは破廉恥はれんちなことと思いますから、率直に申します。あとはどうともお好きなように。わたしを引戻そうなどとは考えないでください。あなたはあまり手遅れにしておしまいなすったのですもの。ご幸福を祈ります』まあ、そうした種類の手紙はこんな風に書くもんですよ!」
「そのテレビヨーワってのは、君がいつか三度目の自由結婚をやったとかいってた、あの女じゃありませんか?」
「いや、厳密に判断すれば、やっと二度目ですよ! しかし、よしんば四度目であろうと、十五度目であろうと、そんなことはくだらない枝葉の問題ですよ! わたしなんか、いつか自分の両親が死んだのを悔んだことがあるとすれば、それはもういうまでもなく今です。もしもまだ両親が生きていたら、それこそプロテストでもって、うんと心胆を寒からしめてやったものをと、そんなことをなん度空想したかもしれないくらいです! わざとでもそうしたはずですよ……子供はいわゆる『切り離されたパンのきれ』で、親のふところへ戻りっこないなんて、ちょっ、そんな旧式の消極主義はだめです! わたしは親たちに思い知らせてやったんだがなあ! びっくりさせてやったんだがなあ! まったく、誰もいないのが残念ですよ!」
「びっくりさせるためにですか? へ、へ、それはどうでもお好きなように」とルージンはさえぎった。「それより、一つお尋ねしたいことがある。あなたはあのなくなった役人の娘を知ってるでしょう、あの貧相なひ弱そうな女! あの娘のことでみんなが言ってるのは、全く事実なんですかね、え?」
「それがいったいどうしたんです? わたしに言わせると、つまりわたし一個の確信によると、あれは女としてもっともノーマルな状態ですよ。なぜあれがいけないんでしょう? つまり distinguons(特性)なんですものね。現在の社会では、そりゃもちろん、全然ノーマルとはいえません。現在は強制的なものですからね。しかし未来の社会では完全にノーマルなものになります。なぜなら、自由行為なんですもの。それに、今だってあの娘はその権利を持っていたんです。あの娘は苦しんだが、それはあの女の基金、つまり資本で、あの娘はそれを自由にする権利があったんですよ。もちろん、未来の社会では、基金も不必要になるでしょうが、あの娘の役割は別の意味を付せられるようになり、整然とした合理的な条件を与えられるでしょう。ところで、ソフィヤ・セミョーノヴナ一個に関しては、現在わたしは彼女の行為を社会制度に対する勇敢な、具象化された反抗プロテストと見ています。そして、このために彼女を深く尊敬しているのです。彼女をながめていると、喜びを感じるくらいです!」
「だが、この家からあの娘をいびり出したのは、ほかでもない君だってことを聞きましたぜ?」
 レベジャートニコフは猛烈な勢いで怒り出した。
「そらまた中傷だ!」と彼は絶叫した。「真相はまるで、まるで違っています! それこそ話が違いますよ! それはみなカチェリーナ・イヴァーノヴナが何もわからないもんだから、あの時でたらめを言ったんです! それに、わたしはけっしてソフィヤ・セミョーノヴナをねらったことなんかない! わたしは全くそういう野心なしに、ただもうあの女に反抗プロテストの意識を呼び起こそうと努力し、彼女の精神発達を志したきりです……わたしにはただ反抗プロテストが必要だったんです。それに、ソフィヤ・セミョーノヴナ自身が、もうこの家にいられなくなったんじゃありませんか!」
「じゃ、共産団へでもはいれとすすめたんですかね!」
「あなたは始終ひやかしてばかりいらっしゃる。しかも、それがはなはだまずいんですよ。失礼ながらご注意しときます。あなたはなんにもおわかりにならないんです! 共産団にはそんな役割はありません。共産団はそんな役割をなくするために設立されてるんですよ。共産団になると、この役割は現在の本質をすっかり変えてしまいます。そして、ここで愚劣だったものも、あちらでは賢明なものになる。ここで、現在の状態では不自然なものも、あちらではきわめて自然なものになる。万事はすべて、人間がいかなる状況の中に、いかなる環境の中にいるか、で左右されるものです。すべては、環境のいかんにかかっているので、人間そのものは問題じゃないのです。ソフィヤ・セミョーノヴナとわたしは、今でも円満に交際していますが、これで見ても、彼女がまだ一度もわたしを自分の敵だとか、侮辱者だとかいう風に思わなかった、立派な証拠じゃありませんか。わたしは彼女に共産団入りをすすめていますが、ただしそれはぜんぜん、ぜんぜん別な基礎の上に立つ共産団です! あなた何がおかしいんです? 今われわれは従前のものよりいっそう広い基礎の上に、自分自分の特殊な共産団を創立しようとしているのです。われわれは信念の点からいって、さらに一歩進んでいるのです。われわれはさらに多くを否定するものです! もしドブロリューボフが棺の中からよみがえってきたら、わたしは彼と一論争したでしょう! ベリンスキイなんか一ぺんでやっつけてやりますよ! がまあさしあたり今のところ、ソフィヤ・セミョーノヴナの啓発を続けますよ。あれは実に実に美しい性質の持主です!」
「ふん、つまりその美しい性質を利用しようってんでしょう、え? へ、へ!」
「けっして、けっして! けっしてそんな! まるで反対です!」
「ふん、まるで反対もすさまじい! へ、へ、へ! よく言ったもんだね!」
「ほんとうですというのに! いったいどんな理由があって、あなたに隠す必要があるんでしょう、まあ考えてもごらんなさい! それどころか、わたしは自分でも不思議なくらいなんですよ――わたしとさし向かいになると、彼女はなんだかとくべつ固くなって、恐怖に近いほど純潔なはにかみやになるんですからね!」
「それで君が大いに啓発してるわけなんでしょう……へ、へ! まあ、そういう羞恥しゅうちなんて無意味なものだと、証明してやってるんでしょうな?……」
「まるで違います! まるで違います! あなたはまあなんてがさつに、なんて愚劣に――いや、これは失礼――啓発という語を解釈していらっしゃるんでしょう! あなたはなあんにもおわかりにならないんだ! ああ、驚いた、あなたは実にまだ……できていないんですねえ! 我々は女性の自由というものを求めているのに、あなたの頭にあるのはただ……わたしは女性の純潔とか羞恥とかいう問題は、それ自体無益な偏見だと思うから、頭から問題にしないことにしていますが、彼女がわたしに対して純潔な態度を持しているのは、十分に十分に認めてやります。なぜって、そこに彼女の意志と権利の全部があるからです。もちろん、もし彼女が自分からわたしに向かって『あなたと一緒になりたい』と言えば、わたしは自分を非常な幸運児と考えるでしょう。わたしはあの娘がとても気に入ってるんですからね。しかし今のところ、少なくとも今までは、わたし以上に礼儀ただしくいんぎんに彼女に対し、彼女の価値に尊敬を示した人間は、かつて一人だってありゃしませんよ……わたしは待っているんです、望みをかけてるんです――ただそれだけです!」
「君それより何かあの女に贈物をしたらいいでしょう。僕はけでもするが、君はまだこのことを考えもしなかったに違いない」
「今も言ったことだが、あなたはなあんにもわからないんですね! そりゃもちろん、彼女の境遇はそういったものに違いないです。しかし――これは別問題ですよ! ぜんぜん別問題ですよ! あなたはてんからあの女を侮蔑していらっしゃる。あなたは侮蔑に値すると誤認した事実だけを見て、人間そのものに対してまで、人道的な見方を拒もうとしていらっしゃるんです。あなたはまだあの女がどんな性質を持っているか、よくご存じないんだ! ただ一つ非常に残念なのは、彼女が近ごろどうしたのか、すっかり読書をやめてしまって、わたしのところへも本を借りにこなくなったことです。もとはよく借りてたんですがね。それからもう一つ残念なのは、反抗プロテストに対する意力と決心とはありあまっていながら、――しかも一度はそれを実地に証明して見せながら――まだどうも独立心が、つまり自己以外のものに左右されない精神、いっさいを否定する精神が足りないので、ある種の偏見や……ばかげた習慣などから、全く絶縁しきれないことですよ。が、それにもかかわらず、彼女はある種の問題に対してはきわめてすぐれた理解力を示しています。たとえば、彼女は手の接吻せっぷんに関する問題を立派に理解しました、つまり、男が女の手に接吻するのは、非平等の観念で女を侮辱するものだということですね。この問題は我々仲間で討論されたことがあるので、わたしはすぐ彼女に伝えてやったわけです。フランスにおける労働組合のことも、彼女は熱心に聞きましたよ。わたしはいま未来の社会で、他人の部屋へ自由に出入りができるという問題を、彼女に説明してやっているところです」
「それはまたいったいなんのことです」
「最近われわれ仲間でこういう問題を討論したんです。つまり共産団の団員は、他の団員の部屋へ、それが男であろうと女であろうと、いつでもはいる権利があるや否やの問題ですが……結局、あるということに決議されました……」
「じゃ、もしその時その男なり女なりが、欠くべからざる要求の遂行中だったら、どうするんです、へ、へ!」
 レベジャートニコフは腹を立ててしまった。
「あなたはいつもそんなことばかり! あなたは唯もうそんなことばかり、そんないまいましい『要求』なんてことばかり言っていたいんですね!」と彼は憎々しげに叫んだ。「ちょっ、わたしはあなたに体系システムを説明するとき、つい早まって、このいまいましい要求なんてことを口にしたのが、実にしゃくにさわる。腹が立ってたまらない! ちくしょう! これはあなた方のような人にとってつまずきの石です。一番いけないのは、まだはっきり会得のいかない前から、笑い草にしてしまうことですよ! しかも、それで自分たちの方が本当だと思って、得々としているんだからなあ! ちぇっ! わたしは幾度となく主張したんですよ――こういう問題を新参者に説明するのは、いよいよその当人が十分発達をとげ、方向が決まった時でなくちゃだめだってね。それにまあ考えてもごらんなさい、下水めにだって何も恥ずかしい軽蔑けいべつすべきものはないじゃありませんか? わたしなんかまっさきにどんな下水溜めでも、掃除して見せる用意があります! これは自己犠牲でもなんでもありませんよ! 単に仕事です、社会のために有益な高尚な活動にすぎません。それは他のいかなる活動にも劣るものでなく、むしろたとえば、ラファエルやプーシキンなどの活動よりも、はるかに上位にあるくらいです。なぜって、この方がより有益だからです」
「そしてより高尚なんでしょう、より高尚なんでしょう、へ、へ、へ!」
「より高尚とはいったいなんですか? 人間の活動を定義する意味において、そんな表現はわたしにはわからないです。『より高尚』とか、『より寛大』とかいうような、そんなことはことごとく無意味です、愚劣です、わたしの否定している古い偏見にとらわれたことばです! 人類にとって有益なものはすべて高尚なんです! わたしはただ有益という一語を解するのみです! まあ、いくらでもひひひ笑いをなさい。しかしそれはそうなんですから!」
 ルージンはむしょうに笑った。彼はもう勘定をすまして金をしまっていた。けれど、その中のいくらかは、なぜかそのままテーブルの上に残しておいた。この『下水溜めの問題』は、下劣きわまる性質を有しているにもかかわらず、もう幾度となく、ルージンとその若い友人の間で、不和と反目の原因になっていた。何よりもばかげているのは、レベジャートニコフがむきになって腹を立てると、ルージンはそれをいい腹いせにしていることだった。ことにいま彼は、特別にレベジャートニコフを怒らしてみたかったのである。
「あなたは昨日の失敗が原因もとで、そんなにむしゃくしゃして、やたらに人にからんでくるんです」とレベジャートニコフはとうとう腹にすえかねて、こう言ってしまった。彼は概して言えば、その『独立心』や反抗プロテストの精神にもかかわらず、どういうものか、ルージンには思い切って反対する勇気がなかった。全体として、いまだに彼はルージンに対して、長年の習慣になっている一種のうやうやしい態度を、守り続けているのであった。
「まあ、それよりこういうことを聞きたいんですがね」とルージンは高飛車な調子でいまいましそうに言った。「君にできるかしらん……いやそれより、こういった方がいいかな――君はほんとうに今いった若い娘とそれだけ親密なんですか? なら、今すぐちょっとここへ、この部屋へ呼んでもらいたいんですがね。もうみんな墓地から帰ったらしい……なんだか騒々しい足音が聞こえてきたから……僕は、一つあの女に会って話したいことがあるんだけれど、あの娘とね」
「あなたいったいなんの用で?」とレベジャートニコフはびっくりして尋ねた。
「なに、ちょっと用があるんでね。僕は今日明日にもここを立つつもりだから、ちょっとあの女に知らせておきたいことがあるんですよ……もっとも君もその話の間ここにいてさしつかえありませんよ。いや、むしろいてもらいたいくらいだ。でないと、君はどんなことを考えるかわかりゃしないからね」
「わたしはけっして何も考えやしませんよ……ただちょっと聞いてみただけですよ。もし用があるんでしたら、あの女を呼び寄せるくらい造作もないこってす。すぐに行って来ましょう。が、ご安心なさい、あなたのじゃまなんかしませんからね」
 はたして五分ばかりたつと、レベジャートニコフはソーネチカを連れて帰ってきた。ソーニャはさも驚いたらしい様子で、いつものくせでおどおどしながらはいってきた。彼女はこういう場合いつもおどおどして、新しい顔、新しい知己を極端に恐れるのであった。以前まだ子供の時分からそうだったのが、このごろではいっそうひどくなっていた……ルージンは『優しくいんぎんに』彼女を迎えたが、そこにはなんとなく浮わついたなれなれしさがあった。もっともそれは、ルージンの意見によると、彼のように名誉もあれば重みもある男が、彼女ごとき年の若い、ある意味において興味のある女に対するには、ふさわしいものなのであった。彼は急いで彼女を『元気づかそう』と努めながら、自分とさし向かいにテーブルに着かせた。ソーニャは腰をおろし、あたりを見回して――レベジャートニコフから、テーブルの上においてある金に、それからまたちらとルージンに目を移した。そして、まるでくぎづけにでもされたように、そのまま彼から目を放さなかった。レベジャートニコフは戸口の方へ行こうとした。ルージンは立ち上がって、仕ぐさでソーニャにすわっていろというこころを見せ、レベジャートニコフを戸口のところで引止めた。
「あのラスコーリニコフは、あすこにいますかね? 来ていましたかね?」と彼はささやくように尋ねた。
「ラスコーリニコフ? いましたよ。それがどうしたんです? ええ、あすこにいますよ……いまはいって来たばかりです。わたしは見ましたよ……それがどうしたんです?」
「いや、だからこそ僕は特にここに残って、われわれと一緒にいてくれたまえと頼むんですよ。僕があの……娘さんと二人きりになってしまわないようにね。話はくだらないことだけれど、それがためにどんな臆測おくそくをされるかわからないからな。僕はね、ラスコーリニコフにあそこですっぱ抜かれるのがいやなんだ……僕が何を言ってるか、わかるでしょう?」
「あ、わかりました、わかりました!」とレベジャートニコフは急に察しがついた。「そうだ、あなたはその権利がある……もっとも、わたし一個の信ずるところによると、むろんあなたの心配はちとおおげさすぎますがね、しかし……それでもあなたには権利がある。よろしい、わたしは残りましょう。ここの窓の傍に立っていて、あなたのじゃまをしないようにします……わたしの意見では、あなたはその権利があります……」
 ルージンは長椅子へ戻って、ソーニャの向い側に腰をおろし、じっと穴のあくほど彼女を見つめていたが、ふいに、恐ろしくしかつめらしい、いくらかいかついくらいの顔つきをした。それは『お前だって何か変なことを考えるんじゃないよ』とでもいうような風だった。ソーニャはすっかりまごついてしまった。
「第一に、ソフィヤ・セミョーノヴナ、あなたのお母さんにあやまっていただきたいんです……確かそうでしたね? カチェリーナ・イヴァーノヴナは、あなたにとってお母さん代わりですね?」とルージンは大いにしかつめらしい、とはいえ、かなり愛想のいい調子で口をきった。
 彼がきわめて友誼ゆうぎ的な意図をいだいているのは、よそ目にもそれと察しられた。
「ええ、そのとおりでございます。そのとおりですわ。母がわりなので」とソーニャは早口に、おどおどした調子で答えた。
「ところで、実はわたしはやむを得ない事情のために、失礼しなければならないので、そのことをお母さんにお断わりしてくださいませんか。せっかくご親切に招待してくだすったのですが、僕はお宅のお茶の会に……いや、法事に出られなくなったんで」
「は……そう申します……今すぐ」ソーネチカはあわただしく椅子からとび上がった。
まだそれだけじゃないんですよ」ルージンは彼女がうすぼんやりで作法を知らないのを見、にやりと笑いながら、彼女を押し止めた。「あなたは私をよくご存じないんですね、ソフィヤ・セミョーノヴナ。わたしがこんなつまらない、自分一人に関したことで、あなたのような方をわざわざお呼び立てしてご迷惑をかけるなんて、そんなことを考えてくだすったら困ります。わたしの目的はもっと他にあるんですよ」
 ソーニャは急いで腰をおろした。テーブルの上におきっ放しにしてある灰色(二十五ルーブリ)や虹色にじいろ百ルーブリ)の紙幣が、またしても目の中でちらついたが、彼女はすばやくそれから顔をそむけて、ルージンを見上げた。と、ふいに彼女は、他人の金に目をくれるのが無作法な、特に彼女にとって無作法なことに思われたのである。彼女はルージンが左の手で押えている金の柄付眼鏡えつきめがねと、それから同じ手の中指にはめている大きな、どっしりした、すばらしく立派な黄色い石入りの指環ゆびわに、視線を止めようとした。が、急にそれからも目をそらしてしまったので、やり場に困ったあげく、またもやルージンの目をまともに見つめた。こちらはしばらく無言の後、前よりもいっそうしかつめらしくことばを続けた。
「わたしは昨日ふと通りがかりに、お気の毒なカチェリーナ・イヴァーノヴナと、一言二言口をきき合ったんですが、その一言二言でも、あの人が不自然な状態におられることを承知するのに、十分なくらいでした――もしこうしたいい方ができるとすればですね……」
「そうでございます……不自然な」とソーニャはあわててあいづちを打った。
「あるいはもっと簡単に、もっとわかりやすく言えば――病的状態ですな」
「はあ、もっと簡単に、わかりやすく……そうですわ、病気なのですわ」
「そうですよ。そこでわたしは、あのひとのさくべからざる運命を見通して、人道的な感情――そのう、いわば同情の念に堪えないので、何かお役に立ちたいと思うのです。どうやらあの気の毒千万な家族一同は、今もうあなた一人を命の綱にしているようですな」
「失礼でございますが」と急にソーニャは立ち上がった。「昨日あなたは母に年金がいただけるかもしれないと、お話しになったそうでございますね? で、母はもう昨日からわたしをつかまえて、あなたが年金のおりるように骨折ってくださるって、そう申しておりました。いったいそれは本当でございましょうか?」
「いや、けっして。ある意味からいうと、そんなことはばかげているくらいですよ。わたしはただ服職中に死んだ官吏の未亡人に支給される、一時金のことをそれとなしにお話ししたまでです――それもひきがあればという話なんですよ――ところが、たしかあなたのご親父しんぷは、年限を勤め上げていらっしゃらないばかりか、最近ではまるで勤めにも出ておられなかったようでしたね。要するに、たとえ望みがあるとしても、それはきわめて幻のようなものですよ。なぜといって、実際のところ、この場合には扶助料を受けるなんの権利もないどころか、むしろその反対なんですからね……それだのにあのひとはもう年金なんてことを考え出すなんて、へ、へ、へ! なかなかがっちりした奥さんだ!」
「そうでございますわ、年金のことなんか……というのも、つまりあのひとが信じやすい、いい人だからでございますの。人がいいために、なんでも本当にするのでございます。そして……そして……そして……そして……頭があんな風な……そうですの……では、ごめんくださいまし」とソーニャは言って、また出て行きそうに立ち上がった。
「失礼ですが、あなたはまだすっかりお聞きにならないんですよ」
「はあ、すっかり伺いませんでしたわ」とソーニャはつぶやいた。
「ですから、おかけなさいよ」
 ソーニャは恐ろしくどぎまぎして、また三度めに腰をおろした。
「あのひとが不仕合せな幼い子たちをかかえて、ああしている様子を見ると、わたしは――今もお話しした通り――何か力相応なことで、お役に立ちたいと思うんです。つまり力相応のことで、それ以上じゃありませんがね。たとえば、あのひとのために義捐金ぎえんきんを募るとか、あるいは、慈善富くじのようなものでももよおすとか……まあ、そういった風のことをするんですな――よくこうした場合に親しい知人とか、または縁のない他人でも、一般に人助けをしたいと思う連中の企てることですね。つまり、そのことをお話ししたいと思ったのです。それはできると思いますが」
「はあ、けっこうでございますわ……きっと神様があなたを……」じっとルージンを見つめながら、ソーニャはあいまいな調子でいった。
「できますとも。しかし……それはまたあとで……いや、今日でも始めようと思えば始められることです。晩にお目にかかって、ご相談の上、いわゆる基礎を作ることにしましょう。そうですな、七時ころにここへ、わたしのところへ来てください。多分アンドレイ・セミョーヌイチも、われわれの仲間にはいってくれるでしょう……しかし、ここに一つ前もって、ようく申し上げておかなければならないことがあるんです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、つまりそのためにわざわざあなたをお呼び立てして、ご迷惑をかけたわけなんです。ほかでもありませんが、わたしの意見はこうです――金をカチェリーナ・イヴァーノヴナの手へ渡すのはいけません、第一危険ですからね。その証拠は――今日のあの法事です。いわば明日の日なくてはならぬパンの一きれもなければ……はきものとかその他、何もかも不自由な身の上でありながら、今日はやれヤマイカのラム酒だの、やれマデイラの赤ぶどう酒だの、やれ……コーヒーだのと買い込むんですからな。わたしは通りすがりにちょっと見ましたよ。ところが明日はまた、パンの一きれのことまで、あなたの細腕にかかって来る始末でしょう。それはもうばかげた話ですよ。だからその義金募集にしても、わたし一個の考えによると、あの不幸な未亡人には金のことは知らさないで、ただあなただけに含んでいてもらうようにしなければなりません。わたしのいう通りでしょう?」
「わたしにはよくわかりません。でも、母があんなのはただ今日だけなんですの……何分生涯に一度きりのことですから……母はもうちゃんと供養がしたい、立派にあとを祭りたい、法事がしたいの一心でして……でも、母はたいへん賢い人なんですの。もっとも、それはもうどちらでもおよろしいように。わたしほんとうに、ほんとうに……あの人たちも皆あなたに……神様もあなたを……そして父のない子供たちも……」
 ソーニャはしまいまで言い終わらず、泣き出した。
「さよう。では、そのお含みで。ところで、さしむき当座のために、わたし一個人として分相応の額を、とりあえずお納めください。それにつけて、くれぐれもお願いしますが、わたしの名は出さないでください。さあ……自分にもその、いろいろ心配があるので、これだけしかできませんが……」
 こう言って、ルージンは十ルーブリ紙幣を念入りにひろげ、ソーニャに差し出した。ソーニャは受け取ると、ぱっと顔を赤くして、おどり上がった。そして何やらもぞもぞ言いながら、急いで別れの挨拶あいさつをはじめた。ルージンは得々として彼女を戸口まで見送った。彼女はやっとのことで部屋から飛び出すと、すっかり興奮して、へとへとになり、激しい困惑を感じながら、カチェリーナのところへもどってきた。レベジャートニコフはこの一幕の間、話の腰を折るまいとして、ずっと窓の傍に立ったり、部屋の中を歩き回ったりしていた。ソーニャが出て行くと、彼は急にルージンの傍へ近より、荘重な態度で手を差しのべた。
「わたしは何もかも聞きました、何もかも見ました」特に最後のことばに力を入れながら、彼はこう言った。「あれは実に高潔です。いや、そうじゃない、わたしは人道的と言おうと思ったんです! あなたは感謝を避けようとなさいましたね、わたしは見ましたよ! 実を言えば、わたしは主義として個人的慈善には同感できない、なぜならば、慈善は悪を根本的に絶滅しないばかりでなく、かえってそれを培うようなものだからです。がそれでも、あなたの行為を見て満足を感じたことを、白状しずにいられません――そうです、大いにわが意を得たりです」
「なあに、つまらんことですよ!」と、いくらか興奮した様子で、何かレベジャートニコフの方をうかがうようにしながら、ルージンはつぶやいた。
「いや、つまらなかありません! あなたのように、昨日の事件で侮辱され、憤慨させられていながら、同時に他人の不幸を考えることのできる人――そういう人は……たとえ自分の行為で社会的に過失を犯しているにもせよ――それでもとにかく……尊敬に値いしますよ! わたしはね、ピョートル・ペトローヴィッチ、あなたにこんなことができようとは、思いもよらなかったですよ。まして、あなたの物の見方から推してゆけばね、ああ! あなたの物の見方が、どれくらいあなたのじゃまをしていることでしょう! たとえば、あの昨日の失敗が、どんなにあなたを興奮させていることか」とお人好ひとよしのレベジャートニコフは、またしてもルージンに好感の増してくるのを覚えながら感嘆の叫びを上げた。「なんのために、いったいなんのためにあなたはこの結婚がぜひとも必要なんです。この法律的結婚が? わが敬愛するピョートル・ペトローヴィッチ、なんのためにあなたは結婚の合法性が必要なんです? ねえ、お望みならわたしをぶってもいいです――わたしはあの結婚が破談になって、あなたが自由の身になったのを喜んでいます。あなたが人類のために、まだ全然ほろび尽くさなかったのを喜んでいます。喜んでいますとも……さあ、これですっかり言ってしまいました!」
「それはほかでもない、君のありがたがる自由結婚なんかして、つのを生やさせられたり(妻に不貞を働かれること)人の子供を背負い込まされたりするのがいやだからですよ。だから僕には合法的結婚が必要なんですよ」ただ何か返辞をするためといった調子で、ルージンはこう言った。
 彼は何かしら非常に気がかりなことがあって、考え込んでいる様子だった。
「子供? あなたは子供の問題にふれましたね」進軍ラッパを聞きつけた軍馬のように、レベジャートニコフはぶるっと身震いした。「子供――これはもっとも重大な社会問題です。それはわたしも同感です。しかし、子供に関する問題は別様に解決されねばなりません。ある人々は子供というものを家庭の暗示として、根本から否定しています。が、子供のことはあとで話すことにして、今はつのの方を論じましょう! 実を言うと、これはわたしの苦手なんですよ。あの醜悪な、軽騎兵(伊達寛濶な女性征服者の代名詞)式なプーシキン的の表現は、将来の辞書には想像もできないくらいですよ。いったい角とはなんであるか? おお、なんという錯誤だろう! いったいなんの角です? なんのための角か? なんてばかばかしい! それどころか、自由結婚にはそんなものはありゃしません! 角、それはただ法律的結婚の自然的産物にすぎません。いわばその修正であり、反抗プロテストであるんです。だからこの意味において、少しも恥ずべきものじゃありません……もしわたしがいつか――仮りにそういう愚劣な想像を許すとして――合法的結婚をするとすれば、その時わたしはむしろあなたの呪われる角を喜ぶでしょう。その時わたしは妻にこう言います。『ねえ、僕はこれまではお前をただ愛していただけだが、今からお前を尊敬するよ。なぜって、お前は立派にプロテストをやったからだ!』とね。あなた笑いますね? それはまだ偏見から解放される力がない証拠です! くそっ、わたしだって合法的結婚で、妻に裏切られる場合の不愉快さがどんなものかってことは、よく知っています。しかし、それはただ双方が自ら卑しゅうしている、陋劣ろうれつな事実の陋劣な結果にすぎないのです。自由結婚のように角が公然になってしまえば、その時はもう角なんかはなくなってしまう。そんなものは想像もできないようになり、角なんて名称さえなくなってしまいます。それどころか、あなたの奥さんはその行為によって、あなたを尊敬していることを証明するわけになります。だって、奥さんはあなたという人を、妻の幸福を阻害しない人、新しい夫ができたといって、妻に復讐なんかしない精神的発達をとげた人と見なしたことになるんですものね。いいなあ、ちくしょう、わたしは時々空想するんですよ――もしわたしが嫁入りするようなことがあったら――ちょっ! 何を言ってるんだ、もしわたしが結婚するようなことがあったら(自由結婚でも合法結婚でもそれは同じですが)、もしさいがいつまでも色男をこしらえなかったら、わたしはおそらく自分から、色男を引っ張って来てやるだろうと思いますよ。『ねえ』とわたしはいうでしょう。『僕はお前を愛しているが、その上にまだお前から尊敬してもらいたいのだ――そうなんだよ!』という風にね。そうでしょう、僕の言うとおりでしょう……」
 ルージンはそれを聞きながら、ひひひと笑った。しかしかくべつ身を入れている様子はなかった。それどころか、ろくすっぽ聞いてもいなかった。彼は実際なにか他のことを考えていたのである。とうとうレベジャートニコフもそれに気がついた。ルージンは興奮のていで、もみ手をしながら考え込んだ。レベジャートニコフは、後になっていろいろ考え合せ、こういうことをすべて思い起こしたのである……


 いったいどうしたわけでカチェリーナの混乱した頭に、こうした無意味な法事の計画が生まれたのか、その原因を明確に説明するのはむずかしいことである。実際そのために、マルメラードフの葬儀費用として、ラスコーリニコフからもらった二十ルーブリなにがしのうち、ほとんど十ルーブリ近くの金が注ぎ込まれたのである。事によったら、カチェリーナは間借り人一同、わけてもアマリヤ・イヴァーノヴナ(リッペヴェフゼル)に、故人が『彼らと比べてけっして劣らなかったばかりか、もしかすると、ずっとすぐれていたかもしれない』、したがって、彼らの誰一人として、故人を見下す権利を持っていないということを思い知らせるために、『型の如く』彼の供養をするのが、故人に対する義務だと考えたのかもしれない。あるいはまたそこには特別な貧者の誇りが、何より影響していたのかもしれない。この心理のために多くの貧民は、ただもう他人に『ひけをとらない』ために、他人に『うしろ指をさされない』ために、最後の力をふり絞って、今の生活習慣であらゆる人々に必要かくべからざるものとなっている社会的儀式などに、なけなしの貯金をはたいてしまうのである。それからまたカチェリーナは、世の中のすべてから見放されたような気のする今この時、これを機会として、『とるに足らぬけがらわしい間借り人たち』に、彼女が『世の中のしきたりや接待の仕方』を知っているばかりでなく、第一こうした境遇を送るために育てられたのとはまるで違う『立派な、貴族といってもいいくらいな大佐の家庭』に人となったので、自分で床を掃いたり夜中に子供のぼろを洗濯したりするように、しつけられてきたのではないということを、見せつけてやりたいと思った――こういう解釈も真実に近いような気がする。こうした矜持きょうじと虚栄の発作は、時おり非常に貧しい、生活に打ちのめされた人々をも訪れて、どうかするといらだたしい、矢もたてもたまらぬ要求に変じるものである。しかも、カチェリーナはその上に、けっして打ちのめされた人間ではなかった。彼女は境遇のために殺されたかもしれないけれど、精神的に打ちのめされること、つまりおどしつけて屈服させられることは、あり得ないのであった。ソーネチカが彼女のことを、頭がめちゃめちゃになりかかっていると言ったのは、十分根拠のあることである。もっとも、確かに絶対にそうだとはまだ言えなかったけれど、最近この一年間に、彼女の哀れな頭はあまりに悩まされ通して来たので、いくらか変調を来さざるを得なかった。医者のことばによると、肺病の劇烈な症状亢進こうしんも、やはり知的能力の混乱に影響するとのことである。
 酒類は複数で現わすように、いろいろ種類があったわけでもない。マデイラ酒も同様である。それは誇張にすぎないが、しかし酒はあった。ウォートカ、ラム酒、リスボンぶどう酒などで、品質は思いきり下等なものながら、量はいずれも十分にあった。食い物の方は、聖飯のほかに二、三の料理があったが(その中にはプリンも交じっていた)、それはみなリッペヴェフゼルの台所から運ばれたのである。その上に食後の茶とポンス酒のために、サモワールが一時に二つも用意された。買出しの方はカチェリーナ自身がどういうわけか、リッペヴェフゼル夫人のところに居候いそうろうしているみじめなポーランド人を助手にして取りしきった。この男はすぐさま走り使い用にカチェリーナのもとへさし向けられて、一生懸命に舌を吐き吐き、しかもそれを人目に立てようと努めながら、きのう一日と今朝一ぱい駆け回った。そしてくだらないちょっとした用でも、のべつカチェリーナのとこへ相談に駆けつけたり、勧工場かんこうばまで追っかけて捜しに行きなどして、ひっきりなしに彼女を『少尉夫人バニ・ホルンジナ』と呼びかけるので、初めのうちこそ、この『まめな親切な』人がなかったら自分はとほうに暮れていたとこだ、などと言っていた彼女も、しまいには閉口してうんざりしてしまった。
 いったいカチェリーナの性分は、誰でも彼でも手当たりしだいの人をつかまえて、この上もなく立派な輝かしい色に塗り上げ、人によってはきまり悪くなるほど性急にめちぎるくせがあった。そして相手をめたいがいっぱいで、てんでありもしないことまで考え出して、自分でも心からまじめにそれを本当のことと信じてしまう。ところが、あとで突然一時に幻滅を感じて、つい何時間か前までは文字通りに崇拝しきっていた人と喧嘩けんかをして、つばを吐きかけて突き出してしまう、というような風であった。彼女は生来笑い上戸じょうごの快活で穏やかなたちであったが、つづく不幸と失敗の結果、すべての人が平和と喜びの中に暮らして、それ以外の生活など考えもしないようにという願望をあまり激しく持ちすぎるばかりか、それを要求するほどになったので、生活上のごくなんでもない不調和や、ほんのちょっとした失敗でも、ほとんど狂憤の状態に彼女を突き落とした。今までこの上もなく輝かしい希望と空想をいだいていたかと思うと、たちまち運命をのろいながら、手当たりしだいのものを引裂いたり、投げつけたり、壁に頭をぶつけたりするようになる。アマリヤ・イヴァーノヴナもどうしたわけか、急にカチェリーナから一方ひとかたならぬ信頼と尊敬をかち得た一人である。それはただこの法事が企てられた時、アマリヤが衷心からいっさいの面倒を見ようと腹を決めた、その辺からきているらしかった。彼女は食卓のしたくから、テーブル・クロースや食器その他のくめんを始め自分の台所で料理を作ることまで引受けた。カチェリーナはいっさいの全権を彼女にゆだね、留守のことを万事頼んで、自分は墓地へ出かけたのである。
 実際、何もかも立派に準備ができた。テーブルはさっぱりとクロースでおおわれた。食器、フォーク、ナイフ、杯、コップ、茶碗ちゃわん、これらのものはむろん、いろんな間借り人から借り集めたので、形も大きさもちぐはぐではあったが、とにかく一定の時間にはそれぞれ各々の場所に並んでいた。で、アマリヤは立派に役目をしおおせたと感じながら、黒の服に新しい喪章をつけた室内帽子をかぶり、大めかしにめかしこんで、やや得意げに帰ってきた人たちを出迎えた。この得意さは当然なものであったにかかわらず、なぜかカチェリーナの気に入らなかった。『まるでアマリヤ・イヴァーノヴナがいなくちゃ、テーブルのしたくもできないといったような顔つきだよ、ほんとに!』それから新しいリボンのついた帽子も、やはり気に入らなかった。『ひょっとしたら、このばかなドイツ女は自分がおかみさんだのに、お慈悲で困っている店子たなこを助けてやるんだなどと、鼻にかけているんじゃないかしら? お慈悲で! とんでもないことですよ! カチェリーナ・イヴァーノヴナの父親は大佐で、ほとんど知事に匹敵するくらいなんですからね、時には四十人分からの食卓を用意したこともありますよ。だから、どこの馬の骨ともしれないアマリヤ・イヴァーノヴナなんか――じゃなかった、リュドヴィーゴヴナといった方がいいのだ――そんな人間なんか台所へだって入れてもらえやしませんよ……』で、カチェリーナは腹の中で、今日こそはどうでもアマリヤをやっつけて、身のほどを思い知らせてやろう、でないと、どこまで増長するかしれやしないと、内々決心はしていたけれど、今のところ唯そっけなくあしらっただけで、いざという時になるまでは、こうした感情は口には出すまいと、腹をきめたのである。
 それからいま一つの不快な事情も、カチェリーナをいらだたせる一部の原因をなしていた。ほかでもない、葬式の場には墓地までついてきたポーランド人をのけると、招かれた間借り人たちが誰一人顔を出さなかったくせに、法事には、つまり振舞の方には、ごくつまらない貧乏たらしい、まるで人並みでないようなかっこうをしたやくざな連中が、ぞろぞろやってきたことである。しかも、彼らの中で少しは年功もあり、地位もあるような連中は、申し合せたように、みんなすっぽかしてしまった。たとえば、間借り人の中で一ばん地位のありそうな、ピョートル・ペトローヴィッチ・ルージンなどが、顔を出していなかった。しかもカチェリーナは昨日の晩、世界じゅうの人を向こうに回して、つまりアマリヤだの、ポーレチカだの、ソーニャだの、ポーランド人だのをつかまえて、あの高潔無比で寛大この上もない紳士は、もと彼女の先夫の友人だった人で、彼女の父の家に出入りしたこともあり、広く各方面に縁故があるので、彼女に相当な年金がさがるように、あらゆる手段を講じてやると約束してくれたと、さんざんふいちょうしたのである。ここで注意しておくが、カチェリーナはよし他人との関係や、状況を自慢するようなことがあっても、それはいっさいなんの利害観念も利己的打算もあるのではなく、全くの無心無欲で、いわば感情のあふれ出るままに、ただもう人のことをよく言いたい、そして相手に一段の価値を添えたいという、そうした喜びから出ていたのである。ルージンに続いては、多分『そのまねをした』のだろう『あのいやなやくざ者のレベジャートニコフ』も顔を出さなかった。この男などはいったい自分をなんと心得ているのだろう? この男こそほんのお慈悲で招待してやったのではないか。それもルージンと同じ部屋に住んで、その知合いでもあるので、招待しないのも具合が悪かったからというまでのことだ。それから、とうのたった娘を連れているやせた夫人も来なかった、それはアマリヤの貸間へ来てから、やっと二週間にしかならないのに、マルメラードフ一家の部屋で――ことに故人が酔っ払って帰って来た時に――起こる騒ぎや叫び声に対して、もうなん度か苦情を持ち込んだことがある。この話はむろんもうとっくにアマリヤを通じて、カチェリーナの耳にはいっていた。というのは、彼女がカチェリーナと口論して、家族全部を追い出してやるとおどしたついでに、お前さん一家が『お前さんたちなど足もとにも及ばぬ立派な間借り人』に迷惑をかけて困ると、ありったけの声でわめいたことがあったからである。それでカチェリーナはいまわざわざ、自分など『足もとにも及ばぬ』この夫人と娘を招待したのである。ことにこれまで偶然出会うたびに、その夫人が高慢らしく顔をそむけていたのだから、なおさらのことである――つまり、彼女はその夫人に、『自分たちは考え方も感情もあなた方より高尚で、恨みを忘れて招待する』ということを思い知らせ、またカチェリーナがこうした生活に慣れた人間でないことを、見せつけてやろうというのであった。この点は食事の間に、亡父の知事云々うんぬんのことと一緒に、彼らに説明してやらなければならない。それと同時に、途中で会ったとき、何も顔をそむけることはない、そんなことはばかばかしい話だということを、それとなくほのめかしてやるはずであった。まだそのほかに、ふとった陸軍中佐(実は退職の二等大尉)もやって来なかった。が、これはもう昨日の朝から『酔っ払って足が立たない』でいることがわかった。
 要するに、出席したのはただポーランド人と、脂じみた燕尾服えんびふくを着ていやなにおいをさせる、にきびづらの無口で貧弱な腰弁と、それからもう一人、昔どこかの郵便本局に勤めていたが、いつの昔からかなんのためともわからず、誰かの情でこのアマリヤの貸間に置いてもらっている、つんぼでほとんど盲目同然の老人くらいなものだった。それからいま一人酔っ払いの退職中尉がいたが、これも実は糧秣りょうまつ局の役人で、無作法きわまる傍若無人ぼうじゃくぶじんな笑い声を立てる男で、しかも『どうだろう』チョッキもつけていないのである! また誰やら得体もしれぬ一人の男は、カチェリーナに挨拶あいさつもしないでいきなりテーブルに着いてしまった。それから最後に一人の女が、着物の持ち合わせがないので、寝間着のままではいって来ようとしたが、それは、あまりといえばあまり無作法すぎるので、アマリヤとポーランド人で骨を折って、やっと外へ引っ張り出した。もっともポーランド人は、アマリヤの貸間にはかつて住んだこともなく、ここでは誰もついぞ見かけたことのない、仲間のポーランド人を二人つれてきた。それやこれやが一緒になって、カチェリーナをたまらなく不愉快にいらいらさせた。『こんなことなら、誰のためにあんなしたくをしたのかわかりゃしない!』場所にゆとりをつけるために、子供たちはたださえ部屋じゅうをふさいでいるテーブルにつかせず、うしろの片隅で箱の上に布をかけてすわらせた。しかも、二人の小さい子供をベンチにかけさせたので、ポーレチカは姉の役目で、二人の世話をして養ってやったり、『上品な子供らしく』二人の鼻をかんでやったりしなければならなかった。
 一口に言えば、カチェリーナはわれともなく常にもまして尊大な、むしろごうまんといってもいいくらいの態度で、一同を迎えなければならなかった。中でも二、三のものには、まずいかつい目つきでじろじろ見回した後、高飛車に着席を請うた。カチェリーナはどういうわけか、すべての不参者に対する責任はことごとくアマリヤが負うべきものと考えたので、急にひどく彼女にぞんざいな態度を取り出した。すると、こちらはすぐにそれを気取けどって、これまたはなはだ感情をそこねてしまった。こうした発端は無事な結末を予想させるはずがない。やがて一同は席についた。ラスコーリニコフは、皆が墓地から帰ってきたのと、ほとんど同時にはいってきた。カチェリーナは彼の出席を心から喜んだ。第一、彼は来客一同の中で唯一の『教養ある客』だし、それに『人も知るとおり、二年後には、ここの大学で教授の講座を占めるはず』だからである。第二には、彼がすぐさま鄭重ていちょうなことばで、なんとか葬儀に参列しようと思いながら、その意を果たすことができなかったと、びを[#「びを」は底本では「びを」]言ったからである。カチェリーナは彼に飛びつくようにして、自分のすぐ左手にすわらせた(右手にはアマリヤが腰をおろした)。彼女は、料理が順序よく運ばれてみんなに行き渡るよう、のべつ気をくばったりやきもきしたりした。その上、この二、三日ことに根づよくなったらしい苦しげなせきが、絶えず彼女の声をとぎらせ、のどを締めつけるにもかかわらず、ひっきりなしにラスコーリニコフに話しかけて、半ばささやくような声で胸にたまった感情や、法事が失敗に終わった不満などを、性急に吐き出そうとするのであった。けれどその不満はまただしぬけに、ここに集まっている客たち――それも主として当のおかみに対する嘲笑ちょうしょう――さも愉快そうなこらえ切れない嘲笑に入れかわるのであった。
「何もかもこのかっこう鳥のせいでございますよ。わたしが誰のことを言ってるかおわかりになりまして? あの女のことですよ、あの女の!」とカチェリーナはおかみの方をあごでしゃくって見せた。「まあ、あれをごらんなさい。あんな大きな目をして、わたしたちであの女のことを話してると感づいたんですよ。でも、なんのことだかわからないものだから、目の玉ばかりむき出してるんですよ、ちょっ、ふくろうだ! は、は、は!……ごほん、ごほん、ごほん! いったいあの女はあの帽子がどうだというんだろう! ごほん、ごほん、ごほん! あなた気がおつきになりまして? あの女はね、しじゅう自分がわたしを保護してるので、この席に出るのはわたしにとって光栄なのだ、とこういう風に皆さんに思われたくってたまらないんですよ。わたしはあの女をしっかりした人だと思ったものですから、少しは気のきいた人たちを、つまり故人の知合いだけを招待してくれと頼んだのに、まあごらんなさい、なんて連中を引っ張ってきたんでしょう! なんだか道化みたいな者ばかり! 汚らわしいったらありゃしない! ちょっと、あの薄ぎたない顔をした男をごらんなさい。二本足を生やしたかさぶたのお化けじゃありませんか! それからあのポーランド人たち……は、は、は! ごほん、ごほん、ごほん! 誰一人、誰一人、あんな者を一度もここで見た人はないんですよ。わたしだって、あとにも先にも見たことはありゃしない。ねえ、いったいなんだってあんな連中がやって来たんでしょうね。本当にお尋ねしたいくらいですよ。お行儀よく並んですわってること。あなたパーネ、もし!」彼女はふいにその一人に呼びかけた。「あなたプリンをおとりになりましたか? もっとおとんなさいまし! ビールを召しあがれ、ビールを! ウォートカはいかが? まあ、ごらんなさい、とび上がってぺこぺこおじぎをしていますわ。ごらんなさい、ごらんなさい、きっとひもじくてたまらないんですよ、可哀想に! なに、かまやしませんよ、少し食べさせてやりましょう。まあ、とにかく乱暴しないんですからね。ただ……ただ、わたしは全くかみさんの銀匙ぎんさじが心配ですの……アマリヤ・イヴァーノヴナ!」と彼女はだしぬけにおかみの方へふり向き、ほとんど皆に聞こえるような声で言った。「もしひょっとあなたの匙が盗まれても、わたしは責任を持ちませんからね、前もってお断わりしておきますよ! は、は、は!」と彼女はまたラスコーリニコフの方へ向き直って、またもやおかみの方をあごでしゃくり、自分の奇抜な思いつきを喜びながら、からからと高笑いをした。「わからないんだ、まだわからないんだ! 口をぽかんとあけてすわってる様子ったら、ごらんなさい、ふくろうですわ、正真正銘のふくろうですわ、新しいリボンをつけた雄ふくろう、は、は、は!」
 その時またもやこの笑いは絶え入るような咳にさえぎられ、それが五分も続いた。ハンカチには血のあとが残り、額には汗の玉がにじみ出た。彼女は無言でラスコーリニコフに血を見せた。そして、やっと息がつけるようになると、もうさっそくむしょうに元気づいて、赤いしみを頬に浮かべながらひそひそ彼にささやき始めた。
「まあどうでしょう、わたしはあの女に、あの奥さんと娘を呼んでくれるようにって(誰のことかおわかりになるでしょう)、いわばごくデリケートな使者を頼んだんですよ。何しろそういう場合には、それこそデリケートな態度で、うんと上手じょうずに話をしなければならないのに、あの女のやり方がまずいものだから、あの他所よそ者のばか女が、高慢ちきな下司げす女が、あのやくざないなか者が、ただ来ないことに決めてしまったばかりか、こういう場合ごく普通な礼儀になっている断わりさえ言ってよこさないんですよ! それも自分がどこかの少佐の未亡人で、年金の運動をするためにやってきて、お役所にお百度を踏んで、その上もう五十五にもなるというのに、まゆを描いたり、白粉をつけたり、口紅をさしたりする(これはもう誰でも知っていますよ)、そのためなんですからね! それから、ピョートル・ペトローヴィッチがなぜ来てくださらないのか、わけがわかりませんわ。それはそうと、ソーニャはどこにいるんだろう? どこへ行ってしまったんだろう? ああ、そう言ってるところへあの娘がまいりました、やっとのことで! どうしたの、ソーニャ、どこへ行ってたの? ほかならぬお父さんのお弔いだというのに、そんなにだらしなくしてちゃおかしいじゃないの。ロジオン・ロマーヌイチ、どうぞこのをあなたの隣りへかけさせてやってくださいまし。さあ、ここがお前の席だよ、ソーネチカ……なんでも好きなものをおとり。まあ魚の煮凝にこごりでもおとりな、それがいいよ。いまプリンを持って来るからね。それはそうと、子供たちにはやったかしら。ポーレチカ、お前たちの方には皆あるかえ? ごほん、ごほん、ごほん! ああ、よしよし。いい子をしてるんですよ、ソーニャ。それからおまえ、コーリャ、あんよをばたばたさせるんじゃありませんよ。坊ちゃんらしくお行儀よくすわってらっしゃい。え、なんだってソーネチカ?」
 ソーニャはさっそく大急ぎで、みんなに聞こえるように苦心しながら、自分が当人に代わってこしらえ上げて、しかもその上に修飾を施したよりぬきの鄭重なことばづかいで、ルージンの謝辞を彼女に伝えた。それからまた、ルージンがじきじき差し向かいで用件の話もしたり、今後とるべき方法について打合せもしたいしするから、暇ができしだいさっそくお訪ねするという、伝言をも申し添えた。
 ソーニャは、この報告がカチェリーナの心をやわらげ、落ち着かせるばかりでなく、その自尊心を喜ばせ、かつ何よりもその誇りを満足させるにちがいないということを、よく承知していた。彼女はラスコーリニコフの傍に腰をおろすと、あわただしく彼におじぎをして、ちらと好奇の視線を投げた。もっとも、それから後はずっとしまいまで、彼の方を見ることも口をきくことも、妙にさけるようにしていた。彼女はカチェリーナのきげんをとるために、その顔ばかり見ていたが、なんとなく放心したような様子だった。彼女もカチェリーナも、着物の持ち合わせがないために、喪服をつけていなかった。ソーニャは何やら肉桂にっけい色のじみなものを着ていたが、カチェリーナは一ちょうらのじみなしまサラサの服を身にまとっていた。ルージンに関する報告は、するすると無事になめらかに通過した。ものものしくソーニャのことばを聞き終わったカチェリーナは、同じくものものしい口調で、ピョートル・ペトローヴィッチのごきげんはどうかと尋ねた。それからすぐほとんど聞こえよがしに、よしルージンが彼女一家に深い信服の念をいだき、彼女の父親と古い友情こそあるにしても、ああいう尊敬すべきれっきとした紳士が、こんな『とっぴな一座』に仲間入りなどしたら、まったく奇怪千万なことだったろうと、ラスコーリニコフにささやいた。
「こういうわけですからね、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたがこんなていたらくなのもおいといなく、こんな心ばかりのおもてなしをこころよく受けてくださいましたのを、格別ありがたく存じているのでございますよ」と彼女はかなり大きな声で言い添えた。「もっとも、あの気の毒な主人とああまで親しくしてくだすったればこそ、お約束を守ってくださいましたこととは存じますが」
 それから彼女はもう一度ごうぜんと品位にみちた態度で、客一同を見回したが、ふいにとくべつ主婦らしい心づかいを見せながら、テーブルごしにつんぼの老人の方へ向いて、『焼肉をあがりませんか、リスボン酒はおつぎしましたかしら?』と大きな声で問いかけた。老人は返事をしなかった。隣席の人たちが面白半分に傍からつついたりしたけれど、何を問われたのか長いこと合点がゆかなかった。彼は口をぽかんとあけたまま、あたりを見回すばかりだった。それがまたよけい一座のうきうきした気分に油をかけた。
「まあなんてとんまだろう! ごらんなさい! いったいなんのためにあんな人を引っ張ってきたんでしょう? ところで、ピョートル・ペトローヴィッチのことは、わたしいつも信用しきっていたんですよ」とカチェリーナはラスコーリニコフに向かってことばを続けた。「そりゃむろん比べものになりませんさ……」彼女はこう鋭く声高にいって、ふいに恐ろしくいかつい顔をしながら、アマリヤの方へ向き直った。こちらはそのけんまくにおじけづいたくらいだった。「まったくあの二人みたいなお高くとまったお引きずりとは、比べものになりゃしませんよ。だいたいあの母娘おやこなんか、わたしの父だったら、台所の料理女にだって雇うことじゃありません。まあなくなったたくなら、ああいう底のしれない善人ですから、採用の光栄を授けてやったでしょうけれどね」
「さよう、一杯やるのがお好きでしたな。これが好物でしたな。なかなかいける方で!」と、十二杯目のウォートカをほしながら、糧秣りょうまつ官吏の古手がだしぬけにわめいた。
「なくなった主人は、なるほどそういう欠点を持っておりました。それはもう世間にも知れていることです」とカチェリーナはいきなりその男に食いさがった。「けれど、主人は人がよくて潔白な性質で、自分の家族を愛しもし、尊敬もしておりました。ただ一ついけなかったのは、人がいいためにそんじょそこらの放埒者ほうらつものを一々信用して、まるで得体のしれないような人とでも、自分の靴底だけの値打ちもない人とでも、一緒にお酒を飲んだことですの! でもね、ロジオン・ロマーヌイチ、まあどうでしょう、あの人のポケットににわとりの形をしたしょうがもちがはいってたんですよ。死人のように酔っ払って歩いていても、子供の土産は忘れなかったとみえましてね」
「にわーとーり? あなた、にわーとーりとおっしゃったんですか」と糧秣官吏がどなった。
 カチェリーナはそれにはてんで返事もしてやらなかった。彼女は何やら考えこみ、ほっとため息をついた。
「ねえ、あなたもやはりみんなと同じように、わたしがあの人をきびしく扱いすぎたとお考えなさるでしょうね」と彼女はラスコーリニコフに向かってことばを続けた。「ところが、それは間違いなんでございますよ! 主人はわたしを尊敬してくれました、それはそれは尊敬してくれました! 優しい心の人でしたからねえ! ですからどうかすると、あの人が気の毒でたまらなくなることがありました! よくじっと腰かけたまま、隅っこの方からわたしの顔色を見ておりましたが、そんな時には気の毒でたまらなくなって、優しくしてあげようかとも思いますけれど、すぐ心の中で、『いやいや優しくしたら、また酔いつぶれてしまうだろう』と思い直したものです。ただやかましく言っておれば、多少でも引きしめることができたんでね」
「さよう、よく横びんをむしられたことがありましたなあ、一度や二度でなく」とまたもや糧秣官吏はわめいて、ウォートカをもう一杯口の中へ流しこんだ。
「横びんをむしるどころじゃありません、どうかしたばか者なんか、ほうきで始末してやった方が、よっぽど為になりますよ。ですが、これはもう主人のことを言ってるんじゃありませんよ!」とカチェリーナは断ち切るように糧秣官吏に一矢むくいた。
 彼女の頬の赤いしみはますます濃くなり、胸は大きく波うっていた。いま一分もしたら、彼女はもうひと騒動もち上げかねない有様だった。多くの者はひひひひと笑った。彼らはそれが面白いらしかった。みんなは糧秣官吏を突っついて、何やら彼の耳へささやき出した。明らかに二人をかみ合わそうというたくらみらしい。
「なあんですって、あなたはいったい誰のことをおっしゃるんです?」と糧秣官吏はやり出した。「つまり、誰の……誰さまのことをあてつけて……あなたは今……だが、まあ、どうでもいい! くだらないことだ! 後家さんなんだからな! 未亡人なんだからな! 許してやろう……中止パスだ!」
 こう言って、彼はまたウォートカをごくりとあおった。
 ラスコーリニコフは黙って腰かけたまま、嫌悪けんおの念を感じながらこれらの話を聞いていた。彼は唯ほんの礼儀を守るために、カチェリーナが、ひっきりなしに皿へとってくれる料理に手をつけていたが、それもカチェリーナの気を悪くしないためである。彼はじっとソーニャの顔に見入っていた。ソーニャはだんだん不安をまして、しきりに気のもめる様子だった。彼女もやはり、この法事が穏やかな結末を見ないのを予感していたので、恐怖の念をいだきながら、しだいにつのっていくカチェリーナの興奮に注意していた。彼女はなぜいなか出の婦人と娘が、カチェリーナの招待をああまでぶしつけに無視してしまったか、そのおもな原因を知っていた。それはほかならぬ、彼女ソーニャなのである。彼女はアマリヤの口から、母親の方がかえってこの招待に腹を立て、『どうしてあたしはあの女と、自分の娘を一緒にすわらせることができると思います?』と逆ねじを食わせた話を聞いたのである。ソーニャはこの話がどうかして、カチェリーナの耳にもはいっているものと感じた。ところで、彼女ソーニャに加えられた侮辱はカチェリーナにとって、彼女自身やその子供たち――いな、父親に加えられた侮辱よりも、もっと重大な意味を持っていた。つまり、手っとり早く言えば、致命的の侮辱だったのである。で、今となったらもはやカチェリーナは、『あの引きずり女どもに、ご当人がどんな人間か思い知らせないうちは』、けっして落ち着きそうもない、それをソーニャはよく知っていた。しかもちょうどわざとねらったように、テーブルの一方の端から誰かしらソーニャのところへ、矢に貫かれた二つの心臓を黒パンで作り、それを皿にのせて回してよこした。カチェリーナはかっとなって、さっそくテーブルごしに大きな声で、それを回してよこしたものは、むろん『酔っ払いのろばに相違ない』と言った。やはり何かよくないことを予感すると同時に、カチェリーナの高慢な態度にしん底から業を煮やしていたアマリヤは、一座の不快な気分をほかへそらせ、かつ同時に、みんなに自分を認めさせようと思って、なんのきっかけもなくだしぬけに、『薬屋のカルル』という彼女の知合いが、夜辻馬車に乗って行ったところ、『御者がその男を殺しかけました。カルルは御者に殺さないでください、とたいへんたいへん頼みました、泣きました、手を合わせました。そしてびっくりして恐ろしくって、心臓を突き刺されたような気がしました』という話を始めた。カチェリーナもにやりと笑いはしたものの、すぐそのあとで、アマリヤ・イヴァーノヴナなんかはロシヤ語でしゃれた話をする柄じゃない、と注意した。こちらはよけいに腹を立てて、『わたしのファーテルは、アウス・べルリン(ベルリンでも)たいへんたいへん、偉い人で、いつも手をポケットに入れて回っていました(ロシア語ではすりを働く意になる)』と言い返した。笑い上戸のカチェリーナはがまんしきれず、腹をかかえながらからからと笑った。で、アマリヤもとうとう堪忍袋の緒を切らしかけたが、やっとのことでおしこたえた。
「ほら、まったくふくろうでしょう!」カチェリーナは浮かれ出さないばかりの様子で、すぐまたラスコーリニコフにささやき始めた。「あの女は、手をポケットに入れて歩いてた、と言いたかったんですが、手を人のポケットに突っこんで回ったことになっちまったんですよ、ごほん、ごほん! ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなた気がおつきになりませんか? このペテルブルグにいる外国人、といって、つまりおもに、どこから集まってくるんだか得体のしれないドイツ人なんですけれど、そろいもそろってわたしたちよりばかばかりなんですよ! 必らずきまってそうなんですの。ねえ、そうじゃありませんか、『薬屋のカルルが恐ろしくって、心臓を突き刺された』だの、その男が(鼻たれ小僧が!)御者をふん縛ってやろうともしないで、『手を合わせました、泣きました、たいへん頼みました』なんて、お話にもならないじゃありませんか。ちょっ、なんておたんちんでしょう! そのくせ当人は、これがとても面白い話みたいに思って、自分がどんな大ばかか、夢にも考えてみないんですからね! わたしに言わせると、この酔っ払いの糧秣官吏の方が、まだしもずっとりこうですよ。とにかく、なけなしの分別まで飲んでしまった道楽者だってことが、ちゃんとわかってますからね。ところで、あの連中のそろいもそろってお行儀がよくって、まじめなこと……おや、ふくろうさんがつんとして、目を丸くしている。怒ってるんだ! 怒ってるんだ! は、は、は! ごほん、ごほん、ごほん!」
 すっかり浮かれてしまったカチェリーナは、すぐにいろいろ詳しい身の上話を夢中で始めたが、ふとだしぬけに、年金が手にはいったら、それを元手に必らず故郷の町で、良家の女子を収容する寄宿学校を創立するつもりだ、と言い出した。このことはまだカチェリーナ自身の口から、ラスコーリニコフに話してなかったので、彼女は魅力に富んださまざまなデテールに、すっかり夢中になってしまった。いつの間にどうしてだかわからないが、例の『賞状』が彼女の手に現われた。それはなくなったマルメラードフが、いつぞや酒場でラスコーリニコフをつかまえて、妻のカチェリーナが学校を卒業する時、『知事やその他の人たちの前で』ヴェールの舞をまったことを話した時、彼にふいちょうした賞状なのである。この賞状はいうまでもなく、こんど寄宿学校を設立するに当たって、カチェリーナの資格を証明することになるわけらしかった、が、何よりかんじんなのは、『母娘おやこの高慢ちきなお引きずり』が、法事の席に連なった場合に、二人をぐうの音も出ないようにやっつけて、カチェリーナが非常に素質のいい、『貴族といってもいいくらいな大佐の家に生まれた娘で、近ごろやたらにふえてきた女山師に比べると、確かにずっと気がきいている』ということを、はっきり証明しようという目算で、用意してあったのである。賞状はさっそく酔った客たちの手から手へ渡り始めた。カチェリーナも別にそれを止めようともしなかった。それには、彼女が七等官で帯勲者の娘だということが、立派に間違いなくうたってあるので、したがってまったく大佐(大佐は五党官相当)の娘といっても、ほとんど変わりないからである。有頂天になってしまったカチェリーナは、T市における未来の美しい、平安な暮らしを、さっそくこと細かに詳しく話し出した。寄宿学校の教授に招聘しょうへいする中等教師のことや、まだカチェリーナ自身が学校時代にフランス語を習ったマンゴーという尊敬すべきフランスの老人のことや、その老人は今でもT市に余生を送っているので、俸給も折合いのいいところできっと来てくれるに相違ない、というようなことである。ついに話はソーニャのことに及んだ。『この娘はわたしと一緒にT市へ行って、そこで万事わたしの手助けをするのです』ところが、その時ふいに、誰かテーブルの端の方でぷっと吹き出した。カチェリーナは急いでさも軽蔑けいべつしたように、テーブルの一端で起こった笑い声には気もとめないふりをしようと努めたが、すぐにわざと声を高めて、ソフィヤ・セミョーノヴナが彼女の助手として、疑いもなく十分な才能を持っていることだの、『彼女がおとなしくて、忍耐づよく、自己犠牲の精神に富んで、潔白で教育がある』ことなどを、むきになって話し出した。そしてソーニャの頬を軽くたたきながら、ちょっと腰を浮かし、彼女に二度も熱い接吻を与えた。ソーニャは真っ赤になったが、カチェリーナは急にわっと泣き出した。そして、自分で自分のことを、『わたしは神経の弱いばかな女で、興奮しすぎて体の調子が変になってしまった、もうそろそろ切り上げなければならない。それに食べるものも片づいてしまったから、もうお茶でも出したらよかろう』と言った。
 ちょうどこの時、誰の話にもてんで仲間入りができず、自分のいうことを誰にも聞いてもらえなかったので、すっかり憤慨してしまったアマリヤが、ふいに最後の試みとして一つの冒険を企てた。彼女はカチェリーナに向かって、こんど出来る寄宿学校では、ヴェーシェたちの肌着がきれいなように、とくべつ注意を払って、『かならず皆の肌着によく気をつける、しっかりした婦人ダームをおかなけりゃならない』、第二には『すべて年ごろの娘たちがよる夜中、いっさい小説などを隠れ読みなどしないように』しなければならない、とまことにもっとも千万な、意味深長な注意をした。実際体の調子が変になって、もう接待もいやになっていたカチェリーナは、即座に『愚にもつかぬことばかり言ってる』あなたなんかにはなんにもわかりゃしないのだ、ヴェーシェの肌着の心配などは衣服がかりの仕事で、立派な女学校の校長のすることではない、また小説の隠れ読み云々のことは、それはもうまったく無作法というもので、どうか黙ってもらいたいと、きっぱり『とどめを刺し』た。アマリヤは真っ赤になって、さもにくにくしそうに、わたしはただ『為を思って言ったのだ』、わたしは『たいへんたいへん為を思って言ったのだ』、おまけに『あんたはもうずっと前からゲルトも払わないじゃないか』とやり返した。カチェリーナはすぐそれに対して、『為を思って言った』なんて嘘の皮だ、現につい昨日まだ故人の遺骸いがいがテーブルの上にのせてあるのに、家賃の催促で自分を苦しめたではないかと『やりこめ』た。これを聞くと、アマリヤは恐ろしい順序だった論法で、わたしは『あの夫人母娘おやこを招待したが、夫人たちは来なかった、だってあの母娘おやこは素性の正しい人たちなので、素性の卑しい女のところへは来られないのだ』と言ってのけた。カチェリーナはすかさずそのことばじりを押えて、お前さんなんか下司女だから、どんなのがほんとうに正しい素性なのか判断ができないのだ、と『やっつけた』。アマリヤはたまりかねてすぐにまたもや、『わたしのファーテルはベルリンでもたいへん、たいへん偉い人で、両手をポケットに入れて回っていた、そしていつもこんな風に――プーフ! プーフ! やっていた』と声明した。おまけに、自分の父親ファーテルをいっそうまざまざと現わして見せるために、椅子からおどり上がって、両手をポケットに突っ込み、頬をふくらませて、プーフ! プーフという音に似るように、口で何かあいまいな響きを出し始めた。すると、間借り人一同はどっとばかりに笑いくずれ、つかみ合いの喧嘩けんかを予想しながら、わざとアマリヤをおだてた。しかし、カチェリーナもこれだけは我慢し切れなくなり、いきなり皆に聞こえるように、アマリヤにはファーテルなんてまるでありゃしない、アマリヤはペテルブルグをうろうろした飲んだくれのフィンランド女で、以前はきっとどこかの女中奉公か、まかり違えば、もっと悪い商売をしていたに違いないと、『ずばりと言ってのけた』。アマリヤはえびのように赤くなって、それは多分、カチェリーナこそ『まるでファーテルがなかったろうが、わたしのファーテルはアウス・ベルリンあって、こんなに長いフロックを着込み、始終プーフ、プーフ、プーフやっていた』と金切り声を立てた。カチェリーナはさも軽蔑したように、彼女の出生は誰でもが知っていることで、現にこの賞状にも、彼女の父が大佐だったことがちゃんと活字で印刷してある。ところが、アマリヤの父は、『もし父親というものがあったとすれば』、きっと牛乳でも行商していたペテルブルグのフィンランド人だったに相違ない。が、まあ父親などてんでなかったというのが、一ばん勝ちらしい。今日までアマリヤの父称がイヴァーノヴナだか、リュドヴィーゴヴナだか、よくわからないのが何よりの証拠ではないか! と言った。その時アマリヤはすっかりかんかんになって、げんこでテーブルをたたきながら、わたしはアマリヤ・イヴァーノヴナで、リュドヴィーゴヴナではない、わたしのファーテルは『ヨハンといって市長をしていた。ところが、カチェリーナのファーテルは一度だって市長などしたことはない』と金切り声でわめき出した。カチェリーナは椅子から立ち上がって、きっとそり身になり、上面うわべだけは落ち着いた声で(すっかり血の気を失って、胸を激しく波立たせてはいたが)、アマリヤに向かい、『おまえさんがまたほんの一度でもそのやくざな父親ファーテルとわたしのお父様をひとしなみにとり扱ったら、その時こそわたしは、カチェリーナ・イヴァーノヴナは、おまえさんの帽子をひったくって、足で踏みにじってやるから』と言った。それを聞くと、アマリヤは部屋じゅうを駆け回りながら、自分はおかみだから、カチェリーナに『今すぐ家を引き払ってもらおう』と、ありたけの声をしぼってわめき立てた。それから、なんのためにか、いきなりテーブルの上のさじをかき集めにかかった。騒々しい物音と叫び声が起こった。子供たちは泣き出した。ソーニャはカチェリーナをなだめようと、その傍に駆け寄った。けれど、アマリヤがふいに黄色い鑑札がどうとか叫び出したとき、カチェリーナはソーニャを突きのけて、帽子云々の先ほどの威嚇をさっそく実行するために、アマリヤの方へ飛んで行った。と、ちょうどこの時ドアがあいて、入り口のしきいの上へ思いがけないルージンが姿を現わした。彼はそこに突っ立ったまま、いかめしく部屋じゅうを見回した。カチェリーナはその傍へかけ寄った。


「ピョートル・ペトローヴィッチ!」と彼女は叫んだ。「せめてあなたでも、わたしの味方をしてください! あのばか女に言い聞かせてやってください。不幸にあった潔白な婦人をあんなふうに扱う法はない、そんな事をすると裁判にかかるぞといって……わたしは総督さまへじきじき……あの女はその報いを受けるんです……どうぞ父のお尽ししたことをおぼし召して、みなし児たちを守ってやってください」
「まあ、まあ、奥さん……まあ、失礼ですが、ちょっと、奥さん」ルージンは両手で払いのけた。「あなたのお父さんとは、ご存じのとおり、わたしはまだ一度もお目にかかる光栄を得なかったんですから……まあ、ちょっと、奥さん! (誰やら大きな声で笑った)それに、わたしはあなたとアマリヤ・イヴァーノヴナの際限のない喧嘩に、かかりあうつもりはありませんよ……わたしは自分の用で来たんですから……さっそくあなたの継娘ままこの、ソフィヤ……イヴァーノヴナに……確かにそうでしたな?……お話ししたいことがありましてな。ちょっと通していただきましょう……」
 ルージンは体を横にして、カチェリーナを避けながら、ソーニャのいる反対側の隅をさして行った。カチェリーナは雷にでも打たれたように、そのままそこに立ちすくんだ。彼女は、どうしてルージンが父の交誼こうぎを否定したのか、ふつふつわけがわからなかった。一度この交誼ということを考え出して以来、彼女は自分でそれを神聖犯すべからざるもののように信じ切っていたのである。ルージンの事務的なそっけない、侮辱的な威嚇に満ちた調子も、同じく彼女を驚かした。また一座のものも、彼が姿を現わすと同時に、なんとなくしだいに鳴りをひそめてきた。おまけに、この『事務的なまじめくさった』男は、一座の空気とあまりにもきわ立って不調和に感じられたのである。のみならず、彼が何か重大な用件があって来たということも、彼をこうした集まりへ引き出したのは、よくよくのわけがなければならぬ、そうすれば、今に何か起こるに違いない、何事かあるに違いないということも、はっきり察しられたのである。ソーニャの傍に立っていたラスコーリニコフは、彼を通すために少し脇へ寄った。ルージンは、まるでそれに気づかない様子だった。一分ばかりたって、しきいの上へレベジャートニコフも姿を現わした。部屋の中へははいらなかったが、やはり一種とくべつな好奇心、というよりほとんど驚愕きょうがくの表情を浮かべて、そこに立ち止まりながら、じっと耳を澄ましていたが、どうも何やら合点のいきかねる様子であった。
「せっかくのお楽しみの腰を折ることになるかもしれませんが、その段はおゆるしを願います。しかし事柄はかなり重大なものなんです」とルージンは特に誰に向かうともなく、漠然とした調子で口を切った。「わたしはむしろ皆さんがご列席なさるのを好都合なくらいに思います。アマリヤ・イヴァーノヴナ、あなたは家主という意味で、これから始まるわたしとソフィヤ・イヴァーノヴナとの話を、注意して聞いてくださるように折り入ってお願いします。ソフィヤ・イヴァーノヴナ」と彼は驚き惑っているソーニャの方を向いてことばを続けた。「わたしの友人アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの部屋であなたがお訪ねくだすったすぐあとで、わたしの所有にかかる百ルーブリ紙幣がわたしのテーブルの上から一枚なくなったのです。もしどうかしてあなたがそれをご存じで、それが今どこにあるのか教えてくだすったら、わたしは名誉にかけて、またここにおられる皆さんを証人として、あなたに誓っていいますが、事はそれで済んでしまうのです。が、もしそうでなかった場合には、わたしはやむを得ず非常手段に訴えなければならなくなる。その時には……あなたはもう自分を恨むより仕方がありませんよ」
 部屋の中がしんとなってしまった。泣いていた子供までが黙りこんだ。ソーニャは死人のように青い顔をして立ったまま、ルージンの顔を見つめるだけで、一言も返事ができなかった。彼女はまだ話がよく飲み込めないらしい。幾秒か過ぎた。
「さあ、それで、いったいどうなんです?」ひたと彼女を見つめながら、ルージンは問いかけた。
「わたし存じません……わたし少しも存じません……」やっとソーニャは弱々しい声で答えた。
「知らないんですって? ご存じない?」とルージンは問い返したが、また幾秒間か黙っていた。「よく考えてごらんなさい。マドモアゼーユ」厳格ではあるが、それでもまだなんとなくさとすような調子で、彼は言い始めた。「よく分別してごらんなさい。わたしはもう少し熟考の時間を差し上げるのに異存ありません。ね、そうじゃありませんか、もしわたしが確信を持っていなかったら、もちろんわたしくらい経験のある人間が、頭からあなたに罪をかぶせるような冒険はしませんよ。なぜと言って、こんな風に真正面から公然と、あなたに無実の罪をかぶせたら、たとえそれが間違いから起こったことにもせよ、わたしはある意味において自ら責任を問われねばなりませんからなあ。それくらいのことはちゃんと心得ていますよ。今朝わたしは必要があって、額面三千ルーブリの五分利付債券を現金に換えたのです。その勘定は紙入れの中に書きとめてあります。家へ帰ると、わたしは――その証人はアンドレイ・セミョーヌイチですが――金の勘定を始めた。二千三百ルーブリまで数えて、それを紙入れにしまい、紙入れはフロックの脇かくしへ入れたのです。テーブルの上には紙幣で五百ルーブリばかり残っていました。その中の三枚はいずれも百ルーブリの紙幣だったのです。ちょうどその時あなたがはいって来られたのです(わたしの招きに応じて)。それから、わたしのところにおられた間じゅう、あなたは非常にもじもじしていらした。で、話の途中に三度も立って、話がまだすっかり済んでいないのに、どういうものかあわてて出て行こうとなすった。この事実はすべてアンドレイ・セミョーヌイチが証明してくれますよ。マドモアゼーユ、おそらくあなた自身も否定はなさらんでしょうな、わたしのことばを確かめてくださるでしょうな――わたしがアンドレイ・セミョーヌイチを通じてあなたを呼んだのは、ただただあなたの義母に当たるカチェリーナ・イヴァーノヴナの(わたしはこの人のところへ、法事に出席することができなかったものですから)孤児同然な頼りない境遇についてお話をし、またこの方のために何か義金募集とか、慈善富くじとか、そういったようなものを催したら、どんなに有意義な事だろうと思って、それをご相談するためだったのです。あなたはわたしに感謝して、涙さえお流しなすった(わたしは何もかもありのままにお話ししているのです。それは第一に、あなたの記憶を呼びさますためと、第二には、どんなささいな事でもわたしの記憶から消えていないのを、あなたに知ってもらうためなんです)。それから、わたしはテーブルの上から十ルーブリ紙幣を取って、あなたの義母のために暮らし向きの扶助という形で、寸志としてあなたにお渡しした。これも皆アンドレイ・セミョーヌイチが見ていたことです。それから、わたしはあなたを戸口までお送りしました――その時もあなたはやはりもじもじしておられた。そのあとでアンドレイ・セミョーヌイチと二人きりになってから、二人で十分ばかり話しました――やがてアンドレイ・セミョーヌイチが出て行ったので、わたしはまた紙幣の勘定を済まして、前から考えていた通り別にしておくつもりで、金ののっているテーブルに向かった。ところが、驚いたことには、その金の中に百ルーブリ紙幣が一枚見えないんです。ねえ、一つとっくり考えてみてください。アンドレイ・セミョーヌイチを疑うことは、わたしにはどうしてもできません。そういうことは想像するのさえ恥ずかしいくらいです。しかし、わたしが勘定間違いをするということも、同様あり得ないことです。なぜといって、あなたの来られる一分ほど前に、一度全部勘定をすまして、総計に間違いないのを確かめておいたんですからな。え、あなただってこれが無理とはお思いになりますまい。あなたのもじもじした様子や、しじゅう出て行こうと急いでおられたことや、それからあなたがしばらくの間テーブルの上に手をおいておられた事を思い出して、さらにまたあなたの社会上の境遇と、それに関連する習性を考えに入れた結果、恐ろしい事ではあるけれど、自分の意志に反しながらも、一つの疑念――もちろん残酷ではあるけれど――正当な疑念を肯定せざるを得なかったのです! もう一言くり返して言い添えておきますが、わたしは十分明白な確信があるにもかかわらず、この告発がわたしにとってやはり一種の冒険だということを自分でも承知しているのです。けれど、わたしはごらんの通り、そのままうやむやに葬ることをしないで、敢然とたちました。それはなぜかといえば、つまりただあなたのにくむべき忘恩によるのです! いったいどうでしょう? わたしはあなたの貧しい義母のためを思って、わざわざあなたをお招きし、その上わたしとしてできる限りの喜捨、十ルーブリという金をあなたに差し上げているのですぞ。それにあなたはすぐその場で、それに対してかような行為をもって報いるんですからな! いいや、これはどうも実によくない! 教訓が必要です。よく分別してごらんなさい。その上に、わたしはあなたの真実の友として、あなたにお願いする(わたし以上の友はこの瞬間あなたにはあり得ないんだから)、どうか正気に返ってください! さもないと、わたしはそれこそなんといっても承知しませんぞ! さあ、どうです?」
「わたし、あなたのものを何もとった覚えはございません」とソーニャはぞっとしたように小声で言って、「あなたはわたしに十ルーブリくださいました。さあ、どうぞお受け取りくださいまし」
 ソーニャは、ポケットからハンカチを取り出し、結び目をさがしてそれを解き、十ルーブリ紙幣を抜き出すと、その手をルージンの方へ差し伸べた。
「すると、そのほかの百ルーブリのことは白状しないんですな」その紙幣は受け取ろうともせず、彼は責めるようにいっこくな調子で言った。
 ソーニャはあたりを見回した。誰もかれもが恐ろしい、いかめしい、あざけるような、にくにくしげな顔つきをして、彼女をみつめていた。彼女はちらとラスコーリニコフをながめた……彼は腕を十字に組んだまま壁ぎわに立ち、火のようなまなざしで彼女を見つめていた。
「ああ、なさけない!」という叫びがソーニャの胸をほとばしり出た。
「アマリヤ・イヴァーノヴナ、警察へ知らせなけりゃならないから、どうかご面倒ですが、さしずめ庭番を呼びにやってくださらんか」と静かな愛想のいい調子でルージンは言った。
あれあれまあまあゴット・デル・パルムヘルツイゲ! わたしもあの娘が盗んだのは、ちゃんと知っていた!」とアマリヤはぱっと両手をうち鳴らした。
「あなたもちゃんと知ってたんですって?」とルージンはことばじりを押えた。「すると、以前からもうそんな風に推定する根拠が、多少なりとあったんですね。じゃ、アマリヤ・イヴァーノヴナ、お願いですから今おっしゃったことを覚えていてください。もっとも、証人も大勢いることですがね」急に四方からがやがやと話し声が起こった。一座はざわついてきた。
「な、な、なんですって!」カチェリーナはわれに返って、ふいにこう叫んだ。そして――まるで鎖が切れたように――ルージンの方へ飛びかかった。「なんですって! あなたはこのを泥棒とおっしゃるんですね? このソーニャを? ああ、あなた方はなんて卑劣な、卑劣な人たちだ!」
 こう言って、彼女はソーニャの方へ駆け寄ると、しめ木にでもかけるように、やせ細った手で彼女を抱きしめた。
「ソーニャ! よくもお前はあんな人から、十ルーブリもらってこられたねえ! ああ、ばかなったら! こっちへおよこし! さあ、すぐその十ルーブリをおよこしったら――それ!」
 カチェリーナはソーニャの手から紙幣をひったくり、手でもみくちゃにすると、すぐその手を返してまともにルージンの顔へ叩きつけた。丸められた紙玉はルージンの目にあたって、はね返りながら床の上に落ちた。アマリヤは飛んで行って金を拾い上げた。ルージンは火のように怒り出した。
「この気ちがい女を押えろ!」と彼はわめいた。
 この時戸口には、レベジャートニコフと並んで、四、五人の顔が並んでいた。その中には、例の田舎から出て来た婦人親子ものぞいていた。
「なんだって! 気ちがい女? それはわたしが気ちがい女だというんだね? ばかあ!」とカチェリーナは金切り声を上げた。「お前こそ馬鹿だ、三百代言だ、卑怯者ひきょうものだ! ソーニャが、ソーニャがお前の金を盗んだって。ソーニャが泥棒だって! ちょっ、かえってあのの方がお前にやるくらいだよ、ばか!」こう言って、カチェリーナはヒステリックにからからと笑い出した。「皆さんこの馬鹿をごらんになりましたか?」彼女は一同にルージンを指さしながら、四方八方へ飛んで行って叫ぶのであった。「ああ! お前もそうだ!」彼女はふいにおかみを見つけた。「ええ、この女腸詰屋(腸詰屋は、ドイツ人に対する悪口)、お前まで尻馬しりうまに乗って、今あれが『ぬしゅんだ』と言ったね、スカートをはいたげすなプロシアのにわとりの足め! ああ、みな! ああ、皆なんというやつらだろう! 第一あのは、お前んとこから帰って来たまま部屋の外へ出しゃしないよ、ちくしょう、ちゃんとここに、わたしと並んで腰をかけたんだよ。それはみんな見ていた。ロジオン・ロマーヌイチと並んで腰をかけたんだよ……あの子を調べてごらんなさい! どこへも出て行かなかったんだから、お金はきっとあの子の身についてるはずです! 調べてごらん、お調べ、お調べ! だがね、もしなんにも見つからなかったら、その時こそはお気の毒だがね、お前ただじゃすまないよ! わたしは陛下のところへ、陛下様のところへ、お情け深い陛下様のところへ、駆けつけて、おみ足のかたわらに身を投げてお願いするんだから、これから、今日すぐ! わたしは身よりのないやもめだもの! わたしなら通してくださる! 通してもらえないとお前は思ってるんだね! おふざけでない、行ってみせる! 行ってみせるとも! これはなんだな、あのがおとなしいもんだから、それを見込んでこしらえたんだな? お前はそれを当てにしたんだろう? ところがね、おまえさん、その代わりわたしの方がきかないから! 一泡ひとあわふかせてやるとも、お調べったら! お調べ、お調べ、さあお調べよう!」
 カチェリーナは夢中になって、ルージンをソーニャの方へしょびきながら、こづき回した。
「わたしは覚悟しております、責任を負いますとも……しかし、まあ気を静めてください、奥さん、気を静めて! あなたがきかない気性なことは、わかりすぎるほどわかりましたよ!……これは……これは……これはいったいどうしたもんでしょうな?」とルージンはまごまごして言った。「それは警察が立会いの上でなくちゃ……もっとも、今でも証人は多すぎるくらいだから……わたしはそのつもりでいますよ……しかし、いずれにしても男にはやりにくいですよ……性の関係があるから……もしアマリヤ・イヴァーノヴナにでも手を貸していただけば……もっとも、そういうやり方はないし……これはいったいどうしたものかな?」
「誰でもよござんす! 誰でもやりたい人は勝手に調べるがいい!」とカチェリーナは叫んだ。「ソーニャ、あいつらにポケットをひっくり返して見せておやり! ほら、ほら! 見るがいい、悪党、ほら、からじゃないか、ここにハンカチがあっただけで、ポケットは空だよ、わかったかい! 今度はもう一つの方だ、ほら、ほら! わかったかい! わかったかい!」
 カチェリーナはもう裏返すどころでなく、両のポケットを一つ一つ外へ引っ張り出して見せた。ところが、つぎの右かくしから、ふいに紙ぎれが一つ飛び出して、空中に放物線を描き、ルージンの足もとに落ちた。一同はそれを見た。多くのものはあっと叫んだ。ルージンはかがみ込んで、二本指で紙ぎれを床からつまみ上げ、みなに見えるように差し上げて、ひろげて見せた。それは八つにたたんだ百ルーブリ紙幣であった。ルージンは手をぐるぐると振り回しながら、みんなに紙幣を見せた。「女泥棒! さあ出て行け! 巡査ポリス巡査ポリス!」とアマリヤはわめき出した。「あいつらシベリアへ追っぱらってやらなくちゃ! 出てくれ!」
 叫喚の声が四方八方から飛び始めた。ラスコーリニコフはソーニャから目を離さなかったが、時々ちらとルージンの方へ視線を転じながら、じっと押し黙っていた。ソーニャは意識を失ったように、同じところに立ちつくしていた。彼女はほとんど驚くのを通りこしていたのである。と、ふいに紅がその顔にさっとみなぎった。彼女は一声叫び上げて、両手で顔をおおった。
「いいえ、それはわたしじゃありません! わたしは、とった覚えはありません! わたしは知りません!」彼女ははらわたのちぎれるような叫び声と共に、カチェリーナに身を投じた。
 こちらは彼女を引っかかえ、我とわが胸ですべての人から守ろうとするように、ひしとばかり抱きしめた。
「ソーニャ! ソーニャ! わたしは本当にしやしないよ! ごらん、わたしは本当にしてやしないから!」カチェリーナは(明瞭めいりょうな事実を無視して)、彼女を両手で子供のようにゆすぶっては、数かぎりなく接吻せっぷんの雨を降らしながら、その手を探り求めて、食い入るようにむさぼり吸いながら、こう叫ぶのであった。「お前がとるなんて! まあ、なんてばかな人たちだろう! ああ、なさけない! あなた方はばかだ、ばかです」と彼女は一同に向かって叫ぶのであった。「そうです、あなた方はまだご存じないのだ――このがどんなか、どんな心を持っているか、ご存じないのだ! この子が盗みをする、この子が! それどころか、この子はね、もしあなた方がいると言えば、かけがえのない着物を脱いで売り飛ばし、自分ははだしで歩いても、みんなあなた方に上げてしまいます、このはそんななんです! この子は黄色い鑑札も受けました。それはね、わたしの子供がかつえ死にそうになったから、わたしたちのために身を売ってくれたんです! ああ、天国にいるわたしの主人、ねえ、あなた! ああ、セミョーン、セミョーン! あなたごらんになって? ごらんになって? これがあなたの法事なんですよ! なんていうことだろう! この子を守ってやってください。いったいあなた方は何をぼんやり立ってるんです! ロジオン・ロマーヌイチ! あなたまでがなぜ肩を持ってくださらないんですの? あなたもやはり本当にしてらっしゃるんですか? お前さんたちはみんな、みんな、みんな、みんな、あのの小指だけの値打ちもありゃしない! 神さま! どうぞ守ってくださいまし!」
 哀れな肺病やみの、みなしご同然なカチェリーナの嘆きは、一同に深い感銘を与えたらしかった。この苦痛にゆがめられた、骨と皮ばかりの肺病やみらしい顔、このからびて血のこびりついた唇、このしゃがれた叫び声、この子供の泣き声に似たすすり泣き、この信頼の情に満ちた子供らしい、同時に絶望的な、保護を祈る哀願、それは誰でもこの不幸な女に惻隠そくいんの情を感じざるを得ないほど、いじらしさ、切なさのこもったものだった。少なくも、ルージンはすぐに惻隠の情を表わした。
「奥さん! 奥さん!」と彼はさとすような調子で叫んだ。「これは何もあなたに関係したことじゃありません! 誰もあなたに悪意があったとも、共謀ぐるになっていたとも、そんなことをあえて思うような者はありませんよ。まして、あなたが自分でポケットを裏返して、犯行を暴露されたんですからな。あなたが夢にもご存じなかったのは明白です。もしなんですな、貧困がソフィヤ・セミョーノヴナをって、かかる行為をさせたものとすれば、わたしも同情を惜しむわけじゃありません。が、しかし、マドモアゼーユ、なぜあなたは自白しようとしなかったのです? 恥辱を恐れたんですか? 初犯だからですか? あるいは気が顛倒てんとうしていたのかもしれませんね? それはもっともなことです、大きにもっともなことです……しかし、なんのためにこんな種類のことを断行したもんかなあ! 皆さん!」と彼は一座の人々に向かってこう言った。「皆さん! わたしはなんです、いま個人的に侮辱まで受けたのではありますが、同情の意味でまあ許して上げてもかまいません。いいですか、マドモアゼーユ、今のこの恥辱を将来の教訓になさるがいい」と彼はソーニャに向かって言い添えた。「わたしもこれ以上追及しないことにして、水に流してしまいます。いよいよこれで打切り、もうたくさんだ!」
 ルージンは横目でラスコーリニコフをちらと見た。二人の視線はぴったり出会った。ラスコーリニコフの燃えるようなまなざしは、彼を焼き尽くさんばかりであった。けれど一方、カチェリーナはもうなんにも耳にはいらぬ様子だった。彼女は狂気のようにソーニャを抱いて接吻していた。子供たちも同じように小さな手で、四方からソーニャにとりすがっていた。ポーレチカはまだよくわからないながら、ただもう涙におぼれつくした様子で泣きじゃくりしながら、涙にはれ上った可愛い顔を、ソーニャの肩に隠していた。
「なんという卑劣なことだ!」この時ふいに戸口のところで、大きな声が響きわたった。
 ルージンはすばやく振り返った。
「なんという卑劣なことだ!」じっと彼の目を見つめながら、レベジャートニコフはまたくり返した。
 ルージンはぴくりと身震いさえしたような風だった。一同はそれに気がついた(あとで人々はこのことを思い出したのである)。レベジャートニコフは一歩部屋の中へはいってきた。
「あなたはよくもずうずうしく、わたしを証人に立てるなんて言いましたね!」ルージンの傍へ歩みよりながら、彼はそう言った。
「いったいそれはなんの意味です、アンドレイ・セミョーヌイチ! 君はいったい、なんのことを言ってるんです?」ルージンはへどもどしながらつぶやいた。
「ほかでもない、あなたが……誣告ぶこくをやったということです、これがわたしのことばの意味です!」とレベジャートニコフはしょぼしょぼした小さな目で、相手をきっと見すえながら、熱くなって言った。彼はかんかん玉に憤慨していた。ラスコーリニコフは、その一言一言受け止めて、はかりにでもかけて調べるように、穴のあくほどその顔に見入っていた。またもや沈黙が室内を領した。ルージンはほとんど狼狽ろうばいしたような風だった。
「もし君が僕にそんな……」と彼はどもりながら言い出した。「いったい君はどうしたんです? 気でも狂ったんじゃありませんか!」
「僕はちゃんと正気だが、あなたこそかえって……悪党だ! ああ、なんという卑劣なことだろう! 僕は何もかも聞いていました。僕は万事とっくり了解しようと思って、わざと今まで待っていたんです。というのも、白状すると、今だに十分論理的でないくらいなんだから……いったいあなたはなんのためにこんな事をしたんです……わけがわからない」
「僕が何をしたというんです! 君はそんな愚にもつかないなぞなぞ話を、いいかげんにしてよすつもりはないんですか! それとも、一杯きこし召してるんじゃないかな」
「それはあなたみたいな下劣な人間なら、酔っぱらうこともあるだろうが、僕はそんなことなんかしやしません! 僕はウォートカなんかかつて口にしたこともない。つまり信念に反するからです。どうでしょう皆さん、あの男は、あの男は自分自身の手で、この百ルーブリ紙幣をソフィヤ・セミョーノヴナにやったんです――僕が見ていました、僕が証人です、僕は宣誓でもします! この男です、この男です!」レベジャートニコフは一人一人に向かって、こうくり返すのであった。
「ほんとに君は気でも違ったのか、どうです、この青二才」とルージンは黄色い声でわめいた。「その当人が君の前に、ちゃんと目の前にいるんだ――その女が現在ここで、いま皆の前で、白状したじゃないか――十ルーブリよりほかに僕から何も受け取りゃしないって。してみれば、どうして僕がそれを渡せたというんだ?」
「僕が見たんだ、僕が見たんだ!」とレベジャートニコフはくり返し叫びつづけた。「こんなことは僕の主義に反するけれど、僕は今すぐにでも裁判所へ出て、どんな宣誓でも立てる。だって、あなたがそっと紙幣さつを押しこむのを、僕ちゃんと見たんですからね! その時は僕ばかだもんだから、あなたが慈善を施すためにそっと押しこんだものと思ったんだが! 戸口であのひとと別れる時です、あのひとが振り返り、あなたが片っ方の手でその手を握った時、あなたはもう一方の手――左手で、あのひとのポケットへそっと紙幣さつを押し込んだのです。僕は見ました! 僕は見ました!」
 ルージンは青くなった。
「何を君はでたらめばかり言うのだ!」と彼はずうずうしくどなりつけた。「君は……窓のそばに立っていたのに、どうして紙幣さつと見分けがついたんです? それは君の目の迷いだろう――そのしょぼしょぼした目の。君はうわ言を言ってるんだ!」
「いいや、目の迷いじゃありません! 僕は離れて立ってたけれど、何もかもすっかり見たんです。もっとも窓のそばからでは、実際紙幣を見分けることはむずかしい――それはおっしゃるとおりです――けれども僕は特別な事情があって、それが百ルーブリ紙幣に違いないことを、確かに知ったんです。というのは、あなたがソフィヤ・セミョーノヴナに十ルーブリ紙幣を渡そうとなすった時――僕はちゃんと見ていたが――その時あなたがテーブルの上から、百ルーブリ紙幣を取ったからです(僕はその時そばに立っていたのでちゃんと見定めました。それに、その時僕の頭にある考えが浮かんだので、あなたの手に紙幣のあることを忘れなかったのです)。あなたはそれをたたんで、手に握りしめたまま、ずっと持っていたんです。それから、僕はほとんどそのことを忘れていたんだけど、あなたが立ち上がりながら、それを右から左の手へ持ちかえて、危うく落っことそうとした。僕はそこでまた思い出したんです。なぜって、僕の頭にはまた先と同じ考え――つまりあなたは僕に隠して、そっとあのひとに慈善をしてやるつもりだな、という考えが浮かんだからです。それがしかもどうでしょう。僕は特に気をつけていたところ、あなたが首尾よくあのひとのポケットへ押しこんだのを見届けました。僕は見ました、ちゃんと見ました。宣誓してもいいくらいです!」
 レベジャートニコフはほとんど息を切らさないばかりだった。四方からいろいろな叫び声――何よりも一番に驚愕きょうがくを現わす叫び声が起こった。しかし、威嚇的な調子を帯びた叫びも聞こえた。一同はルージンの方へつめ寄った。カチェリーナはレベジャートニコフに飛びかかった。
「アンドレイ・セミョーヌイチ! わたしはあなたを誤解していました! どうぞあのに加勢してやってください! あのの味方はあなたきりです! あれはみなし児ですもの! 神様があなたを差し向けてくだすったのです! アンドレイ・セミョーヌイチ、あなたは命の親です、親切な方です!」
 こう言いながらカチェリーナは、ほとんど自分のしている事もわきまえず、いきなり彼の前にひざをついた。
「世迷い言だ!」気ちがいじみるほどたけり立ったルージンは、夢中にわめき立てた。「君は世迷い言ばかりこねまわしてるんだ……『忘れた、思い出した、思い出した、忘れた』――いったいなんのことだ! してみると、僕がわざと紙幣を入れたというんだね。そりゃ全体なんのためだね? どういう目的で? いったい僕とこの女になんの共通点があるんだね……」
「なんのために? つまりそれが僕にわからないんです。しかし、僕が正真正銘の事実を話してるのは、そりゃもう確かです! つまりこれがために、僕はあの時すぐあなたに感謝して、あなたの手を握りながらも、この疑問が僕の頭に浮かんだのを、今でもちゃんと覚えているほどですもの、間違えたりなんかするわけがないじゃありませんか。ほんとうにあなたはなんという汚らわしい、罪の深い人だろう。その時僕が不思議に考えたのは、なんのためにあなたはあのひとのポケットへ、そっと金を入れたのだろう? つまり、そのそっと入れたのはなぜだろう? ということでした。それともただ、僕が常々慈善反対の信念を持っていて、根本的には悪をいやし得ない個人的慈善を否定しているのを、あなたがちゃんと知っておられるので、僕に自分の行為を隠したかったからにすぎないのか? という風に考えて、結局これはあんな大金を恵むのが僕に対してきまりが悪かったのだ、とこう解釈しました。またそのほかに、もしかすると、あなたはあのひとに不意の贈物シュルプリーズがしたかったのかもしれない。あのひとが自分のうちへ帰って、ポケットの中に百ルーブリという大金のあるのを見てびっくりする、それが面白かったのかもしれない(なぜといって、ある種の慈善家は自分の善行をそういう風にこねくるのを、非常に好むものですからね。僕は知っています)。それからなおこんな風にも考えられたのです。ほかでもない、あなたは試験してみたかったのではないか。つまりあのひとがそれを見つけて、礼を言いに来るかどうかってね! またそれから、いわゆる『己が右手にすら知らしむべからず』という主義で、あなたが感謝を避けようとしていられる……とも思われる。一口に言えば、まあその時は何やかやいろんな考えが頭に浮かんできたので、僕はすべてをあとでよく考え直すことに決めました。しかし、自分が秘密を知ってることを、あなたの前に暴露するのは、なんといってもぶしつけなわざだと思ったのです。が、そうは思いながら、すぐそのそばから、ソフィヤ・セミョーノヴナは気がつかないうちに、ひょっと金を落とすようなことがないとも限らない、という問題がまた頭に浮かんだのです。つまりこのために僕はここへ出向いて、あのひとを呼び出し、ポケットに百ルーブリはいっていることを知らせようと、こう決心したわけなんです。それに、途中まずカブイリャートニコフ夫人の部屋へ寄って、『積極的方式概論』を届けもし、また特にビデリットの論文を(ワグネルのも同様に)推薦する用もあったのです。それからここへ来てみると、もうこの騒ぎじゃありませんか! さあ、どうです、あなたがあのひとのポケットへ百ルーブリ入れたのも見もしないで、こんな考えや想像が僕の頭にわくと思いますか!」
 レベジャートニコフは、かくも論理的な帰納法を結論に応用した長広舌を終わると、ひどくがっかりしてしまって、その顔からは玉のような汗まで流れ出た。悲しいかな、彼はロシア語でさえろくすっぽ説明する能がなかったのである(もっとも、ほかのことばだって一つも知らなかったので)。彼はこの弁護士的大偉業を成就したあとで、なんとなく中身をすっかり吐き出したようなぐあいで、一時にげっそりやせたように思われた。にもかかわらず、彼の演説は非常な効果をもたらした。彼はやっきとなって、恐ろしい信念をいだきながら話したので、みんな彼のことばを信じたらしかった。ルージンは形勢かんばしからずと直感した。
「君の頭にどんなばかげた疑問が起ころうと、それが僕にとって何だというのです」と彼は叫んだ。「そんなことは証拠になりゃしない! それはみんな君が夢にでも見たんだろう、それだけの話だ! 僕は断言するが、君は嘘をついてるんです! 君は僕に何か悪意をいだいてるものだから、嘘をついて人を中傷するんです。つまり、僕が君の自由思想的な無神論的な社会思想に共鳴しなかった、その腹いせなんですよ、そうですとも」
 しかしこの言いぬけはルージンになんの利益ももたらさなかった。それどころか、かえって不満の声が聞こえた。
「ええ、きさまはそんなところへ話を持っていくんだな!」とレベジャートニコフは絶叫した。「だめだよ! 巡査を呼べ、僕は宣誓でもしてやるから! ただ一つ合点がいかないのは、この男、なんのためにこんな卑劣な行為を思い切ってしたんだろう! ああ、なんてみじめな陋劣ろうれつな人間だろう!」
「なんのためにこの男が、思い切ってあんな行為をしたか、それは僕が説明しましょう。もし必要とあれば、僕も宣誓していいです!」ついにラスコーリニコフがきっぱりした調子で口を切り、一歩前へ進み出た。
 彼は見たところ、落ち着いてしっかりしていた。ひと目見ただけで、彼がじっさい事の真相を知っており、事件もいよいよ大団円に達したことが明白になった。
「いま僕は何もかもすっかり明瞭めいりょうにすることができました」いきなりレベジャートニコフの方に向かいながら、ラスコーリニコフはことばを続けた。「もうこの事件の最初から、これには何か卑劣な奸計かんけいがあるのじゃないかと、僕は疑問をいだいていたのです。僕が疑問をいだくようになったのは、僕一人だけしか知らないある特別な事情によるもので、それをこれからお話ししましょう――いっさいの秘密はその中に含まれているのですから! しかもアンドレイ・セミョーヌイチ、今あなたのいわれた貴重な証言で、何もかも根本的に明瞭になったのです。どうか皆さんぜひぜひ聞いてください。この先生は(と彼はルージンを指さした)最近一人の娘に、名ざして言えば僕の妹アヴドーチャ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコヴァに結婚を申し込んだのです。ところが、ペテルブルグへ来ると、おととい初対面早々から僕と喧嘩けんかをして、僕はこいつを自分の部屋から追い出したのです。これには証人が二人あります。この男はなかなか腹の黒いやつでして……もっとも、一昨日は僕もまだ、この男がこの家の貸間に、アンドレイ・セミョーヌイチのとこにいることは、いっこう知らなかったのです。したがって、その喧嘩をした当日、つまり一昨日ですね、僕が故マルメラードフ氏の友人の資格で、その未亡人たるカチェリーナ・イヴァーノヴナに、葬式の費用として何がしかの金を贈った顛末てんまつを、この男がちゃんと見ていようとはなおさら知るはずがなかったのです。ところが、この男はさっそくそのことを僕の母のところへ手紙に書き送って、僕がありたけの金をカチェリーナ・イヴァーノヴナでなく、ソフィヤ・セミョーノヴナにやってしまったなどと報告し、おまけにソフィヤ・セミョーノヴナの……その……性質について、極端に下劣なことばをろうした。つまり、僕とソフィヤ・セミョーノヴナの間に、何か特別な関係でもあるようにほのめかしたんです。これはみなお察しでもありましょうが、僕が肉親のくめんしてくれたなけなしの金を、よくない目的のために浪費したと吹き込んで、僕を母と妹から離間しようという魂胆だったのです。で、昨日の晩、僕はこの男の面前で母と妹に、金はカチェリーナ・イヴァーノヴナに葬式の費用として贈ったので、ソフィヤ・セミョーノヴナにやったのではない、ソフィヤ・セミョーノヴナとはつい一昨日まで知合いでもなかったし、顔も見たことがなかったという証明をして、事の真相を明瞭にしたのです。その時僕は、彼ピョートル・ペトローヴィッチ・ルージンなんか、ありたけの長所を集めても、彼がかくも悪しざまにいっているソフィヤ・セミョーノヴナの小指だけの価値もない、とこう言いそえたのです。それから、じゃ君は自分の妹をソフィヤ・セミョーノヴナと同席させる勇気があるか? というこの男の質問に対して、僕は『それはもうちゃんと今日実行した』と答えました。母や妹が自分の差し金通りに僕と仲たがいしないのを見て、ことごとく業を煮やしてしまったこの男は、一口ごとに二人に向かって、許すべからざる無礼なことを言い出したので、とうとう取返しのつかない破裂となり、この男は家の外へ追い出されてしまいました。これはみな昨晩ゆうべのでき事なんです。そこで、いま特に注意をお願いしたいのは、ほかでもありません。どうでしょう、もし今ソフィヤ・セミョーノヴナが泥棒であると証明できれば、彼は第一に僕の妹と母に対して、自分の疑念がほぼ正当だったことを証明できることになるでしょう。つまり、僕がソフィヤ・セミョーノヴナと妹を同列においたことに対して、この男が憤慨したのはもっとも千万な話で、僕を攻撃したのは、僕の妹、つまり自分の花嫁の名誉を保護したのだ、とこういう事になりますからね。一口に言えば、この事件を通じて、彼はもう一度僕を家族のものと離間させて、その上もちろん、再び母や妹のご機嫌を[#「ご機嫌を」は底本では「ご機嫌をを」]取り結ぼうと期待していたのです。彼が僕に対して個人的復讐ふくしゅうを企てたのだということは、今さら特に喋々ちょうちょうする必要はありますまい。何しろ、ソフィヤ・セミョーノヴナの名誉と幸福が、僕にとってきわめて貴重なものだと考える根拠を、この男は持っているのですからね。これがこの男の目算の全部です! 僕はこの事件をこう解釈します! これが原因の全部で、それ以外にはあり得ません!」
 こんな風に、あるいはほとんどこんな風に、ラスコーリニコフは自分の説明を終わった。もっとも彼のことばは、熱心に聞いている人々の叫び声に、しょっちゅうさえぎられはしたけれど、そうした邪魔がはいったにもかかわらず、彼は落ち着き払って、正確に明瞭に、きっぱりと鋭い語調で語り終わった。その鋭い声や、信念に満ちた語調や、きびしい顔つきなどは、一同に異常な効果をもたらしたのである。
「そうです、そうです、それはそうに違いありません!」とレベジャートニコフは有頂天になってあいづちを打った。「これはもうそうに決まっています。だってこの男は、ソフィヤ・セミョーノヴナが僕らの部屋へはいって来るが早いか、僕をつかまえて、あなたがここへ来てるかどうか? カチェリーナ・イヴァーノヴナの客の中にあなたを見かけなかったか? などと尋ねたんですもの。この男はそのために僕を窓の方へ呼んで、そこでこっそり聞いたんですからね。これで見るとこの男は、ぜひあなたにこの席にいてもらいたかったんですよ! それはその通りです、すっかりそのとおりです!」
 ルージンは無言のまま、にやにやと侮蔑ぶべつの微笑を浮かべていた。もっとも、その顔は真っ青だった。見うけたところ、彼はどうしてこの場をすべり抜けようかと、思案をめぐらしているらしかった。彼はできることなら、喜んで何もかもうっちゃらかして、この場を去ってしまったかもしれない。が、今となっては、それもほとんど不可能だった。それはつまり、自分に浴びせられた非難攻撃が本当のことで、正しく自分がソフィヤ・セミョーノヴナを讒訴ざんそしたのを、自白することになるからであった。それに、たださえ一杯機嫌の連中が、大分がやがやと騒いでいたのである。中でも糧秣りょうまつ官吏は、よくも合点がゆかないくせに、誰よりも一番にわめき立て、ルージンにとってしごく面白からぬ処置を提言した。が、そこには素面しらふのものも交じっていた。方々の部屋からも人がやって来て、そこに集まっていた。ポーランド人は三人とも恐ろしく憤慨して、のべつ『この悪党めベーネ・ライダーク』とどなっていたが、同時に、まだいろんな威嚇のことばをポーランド語でぶつぶつ言っていた。ソーニャもやはり緊張した様子で聞いていたが、さながら卒倒から気がつきかかった人のように、やはりまだ事情がよく飲み込めない様子であった。彼女はただラスコーリニコフから目を放そうとしなかった。この人こそ自分の救い主だと感じたからである。カチェリーナは、苦しげに、のどをぜいぜい言わせながら息をついていたが、もうへとへとに疲れ切っている様子だった。アマリヤは誰よりも一番ばか面をして、口をぽかんとあけたまま、何が何やら皆目わからず立っていた。彼女は、ただルージンが苦しい羽目に落ちたのを、見てとったばかりである。ラスコーリニコフはまた何か言い出そうとしたが、もう口をきかしてもらえなかった。みんながののしったりおどかしたりしながら、ルージンの回りにひしひしと詰め寄ったからである。しかし、ルージンは臆する色もなかった。ソーニャを罪人にする企てが全然失敗に終わったのを見ると、彼はいきなり人を食ったずうずうしい態度に出た。
「ちょっと、皆さん、ちょっと。そう押さないで、通り道をあけてください!」と群衆を押し分けながら彼は言った。「そして、どうかそんなおどかしはやめてもらいましょう。わたしは断言しておきますよ。そんな事をしたって、どうなるものですか、何ができるものですか。そんなのでびくびくするような人間じゃありませんよ。それどころか、君方は暴力で刑事事件を隠蔽いんぺいしたかどで、法の前に答えなけりゃなりませんぞ。女泥棒の犯行は立派に暴露されてるんだから、わたしはどこまでも追及する。裁判官はそれほど盲目でもなければ……酔っぱらってもいやしないから、この二人の折紙つきの無神論者、扇動者、自由思想家の言うことなんか、取り上げやしませんよ。やつらは私怨しえんでわたしに復讐しようとしてるんです。それはやつらが馬鹿だものだから、ちゃんと自分で白状してますよ……さあ、ちょっとごめんなさい!」
「もう僕の部屋にあなたのにおいもしないように、すぐどこへでも越して行ってください。それでわれわれの関係はいっさいおしまいです! ああ、思えばいまいましい、僕は一生懸命に汗水たらしながら、この男を啓発してやろうと思って、いろいろ説明してやったものだが……まる二週間も……」
「いや、アンドレイ・セミョーヌイチ、僕はさっき君がしきりに引止めた時だって、もうかならず越して行くと、ちゃんと言っておいたじゃありませんか。今はただ君がばかだということだけつけ加えておきますよ。最後に、僕は君の頭とそのしょぼしょぼまなこを、療治されるように望みます。ちょっとごめんなさい、皆さん!」
 彼は人垣を押し分けて行った。ところが糧秣官吏は、ただの罵倒ばとうだけでやすやすと放してやりたくなかったので、テーブルの上のコップをつかむが早いか、ルージン目がけて投げつけた。けれど、コップはみごとアマリヤに命中した。彼女はきゃっと悲鳴をあげた。糧秣官吏ははずみで体の中心を失い、どっとテーブルの下へ倒れた。ルージンは自分の部屋へ引上げた。そして三十分後には、彼の姿はもうこの家に見られなかった。生まれつき臆病おくびょうなソーニャは以前から、自分という人間が誰よりも一ばん犠牲にされやすいことを知っていた。誰でもほとんど罰せられることなしに、自分を凌辱りょうじょくしうることを知っていた。けれど、やはりこの最後の瞬間までは、ありとあらゆる人々に対する警戒心や、温良従順な態度によって、どうにか不幸を避けられそうな気がしていた。で、今度の幻滅は彼女にとってあまり苦しかった。もっとも彼女は何事によらず――この災難すらも、ほとんど不平がましいことさえ言わず、じっと辛抱することができたに相違ない。しかし、最初の瞬間は、あまりにもなさけないことに思われたので、今あかしが立って勝利を得られたにもかかわらず――最初の驚愕きょうがくと最初の失神状態が過ぎて、いっさいをはっきり会得し、思い合わせてみると――身の頼りなさと侮辱のつらさが、耐え難いほど胸を締めつけるのであった。ついに彼女はヒステリイを起こした。彼女はたまらなくなって、部屋の外へ飛び出すと、自分の下宿へ走って帰った。それはルージンが出て行ったほとんどすぐあとだった。アマリヤも、一同の哄笑裡こうしょうりにコップを投げつけられた時から――やはり振舞い酒に乱れたこの場の空気にいたたまらなくなった、彼女は気ちがいめいた金切り声を立てながら、カチェリーナをいっさいの責任者のように思い込んで、いきなり彼女に武者ぶりついた。
「家をあけてくれ! 今すぐ! さっさと!」
 彼女はこう言いながら、カチェリーナの品物を手当たりしだいにひっつかみ、床の上へほうりつけにかかった。それでなくてさえさんざん痛めつけられて卒倒しないばかりになり、真っ青な顔をしてはあはあ息を切らしていたカチェリーナは、ぐったり寝台の上に倒れていたが、いきなりがばとはね起きて、アマリヤにおどりかかった。けれど、戦いはあまりに段が違いすぎた。アマリヤはまるで羽根でも吹き飛ばすように、彼女を突き飛ばした。
「まあ、なんてことだ! 人にあられもないぎぬを着せただけで足りないで――このげす女はわたしまで! ああなんてことだろう! 夫の葬式の日に、腹さんざ人のご馳走ちそうになっておきながら、みなし児かかえた寡婦やもめを家から追ん出そうなんて! いったいわたしはどこへ行ったらいいんだろう」と不幸な女は泣きじゃくりながら、はあはあ息をはずませて、わめき立てるのであった。「神さま!」とふいに彼女は目を輝かしながら叫んだ。「いったいこの世に正義というものはないのでございますか! わたしたちみなし児を守らないで、あなたは誰をお守りになるのでございます! ああそうだ、見てみよう? きっとこの世にはさばきもまこともあるのに違いない、わたしはそれを捜し出して見せる! 罰あたりのげす女め、今すぐだ、待ってるがいい! ポーレチカ、この子たちと一緒に残っておくれ、わたしはすぐ帰って来るからね。よしんば家の外ででもいいから、待っておいで! さあ、見てみよう、この世にまことがあるかどうか?」
 そう言ってカチェリーナは、いつかなくなったマルメラードフがくどき話の中で説明した、例の緑色したドラデダーム織りの肩掛を頭からかぶり、まだ部屋の中にひしめいている間借り人たちの、だらしない酔っぱらった群れを押し分けながら、悲鳴と涙とともに往来へ駆け出した――いますぐ即座に、どうあろうとも、どこかで正義を見つけようという、あてどもない目的をいだきながら……ポーレチカは恐怖のあまり、子供たちをつれて片隅の箱の上にちぢこまり、そこで二人をしっかと抱きしめて、全身をわなわなと震わせながら、母の帰りを待っていた。アマリヤは部屋の中を暴れ回って、泣いたりくどいたりしながら、手当りしだいのものを床へ投げつけ、狂い立てるのであった。間借り人の連中は、てんでに勝手なことをしゃべっていた――中には今のでき事を、自分の知恵相当に解釈して、結論をつける者もあった。中には喧嘩けんかをして、ののしり合っている者もあり、かと思えば、歌をうたい出す者もあった……『もうおれも帰っていいころだ!』とラスコーリニコフは考えた。『さあ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、一つ見てみようじゃありませんか、今度あなたが何を言いだすか!』
 彼はソーニャの住まいへ足を向けた。


 ラスコーリニコフは自分の胸の中に、あれほど恐怖と苦痛を蔵していたにもかかわらず、ルージンを向うに回して、ソーニャのために敏腕かつ勇敢な弁護士となった。彼は朝のうちあれだけ苦しみ抜いたために、いよいよ堪え難くなって来る気分を転換する意味で、あの機会が与えられたのをむしろ喜んだくらいである。しかしソーニャを助けようとする彼の意欲の中には、きわめて多量の個人的な真実感が含まれていたのはいうまでもない。のみならず、当面の問題として彼の頭にこびりつき、時には堪え難いほど激しく彼の胸を騒がしていたのは、目前に迫っているソーニャとの会見である。彼は誰がリザヴェータを殺したかを、説明しなければならなかった。彼はその恐ろしい苦痛を予感し、両手でそれを払いのけるようにしていた。で、カチェリーナのところから出がけに、『さあ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今度あなたは何を言いだすか一つ見てみよう』と叫んだ時の彼は、まだ明らかに、ルージンに対する先ほどの勝利で、外面的に興奮させられ、勇敢な挑戦的気分になっていたのである。しかるに、不思議なことが起こった。カペルナウモフの住まいまで来ると、彼はふいに力ぬけがして、心に恐怖を覚えた。彼は『誰がリザヴェータを殺したのかぜひ言わなけりゃならないだろうか?』という奇怪な疑問をいだきつつ、もの思わしげにドアの前に立ち止まった。この疑問は、げにも奇怪なものであった。なぜなら、彼はそれと同時に、単に言わずにいられないのみならず、たとえ一時にもせよ、この瞬間を延ばすことさえ不可能なのを、はっきり感じたからである。しかし、彼はまたなぜに不可能なのか知らなかった。ただそう感じただけである。そして、この必然に対して自分が無力であるという悩ましい意識が、ほとんど彼を圧倒しつくすばかりであった。もうこの上考えて苦しみたくなかったので、彼は急いでドアをあけ、しきいの上からソーニャを見た。彼女はテーブルにひじ突きして、両手で顔をおおいながらすわっていたが、ラスコーリニコフを見ると、あわてて立ち上がり、待ちかねていたように、彼の方へ向かって歩き出した。
「ほんとにあの時あなたがいらしてくださらなかったら、わたしはどうなっていたでしょう!」彼と部屋のまんなかで落ち合った時、彼女は早口に言った。
 彼女は明らかに唯これだけの事が少しも早く言いたかったらしい。で、あとは黙って待っていた。
 ラスコーリニコフはテーブルの傍へ寄り、今ソーニャが立ったばかりの椅子へ腰をおろした。彼女は昨日と寸分たがわず、彼から二歩前のところにたたずんだ。
「どうです、ソーニャ?」と彼は言ったが、ふと自分の声の震えるのに気がついた。「いっさいのことは皆、『社会的地位とそれに関連した習慣』とに根をおいているんですよ。あなたはさっきのことがわかりましたか?」
 苦悩の色が彼女の顔に現われた。
「ただね、昨日のようなことを言わないでください!」と彼女はさえぎった。「どうぞもうあんなことは言い出さないで。でなくっても、いいかげんくるしいんですから……」
 彼女はこんな非難めいたことを言って、もしか彼の気にさわりはしまいかと、はっとしたように、急いで笑顔を作って見せた。
「わたし無考えに、ぷいとあのまま出てしまったんですが、あちらじゃ今どうしてるでしょう? わたしこれからも一度行って見ようと思ったんですけど、いまにも……あなたがいらっしゃりそうな気がしたものですから」
 彼は、アマリヤが彼女一家に立ちのきを迫ったことから、カチェリーナが『真実まことを捜す』と言って、どこかへ駆け出して行ったてん末を、ソーニャに話して聞かせた。
「ああ、どうしましょう!」とソーニャは叫んだ。「さあ、早く行きましょう……」
 こう言って、彼女は自分のマントをつかんだ。
「いつもいつも同じことばかり!」とラスコーリニコフはいらだたしげに言った。「あなたの頭の中には、あの人たちのことしかないんですね! 少しは僕と一緒にいてくださいよ」
「だって……カチェリーナ・イヴァーノヴナは?」
「カチェリーナ・イヴァーノヴナなら、家を駆け出してしまった以上、けっしてあなたをぬきにするわけには行きませんよ、今に自分であなたのところへ来るに決まっています」と彼は気むずかしげに言い足した。「その時あなたが留守だったら、それこそあなたが悪いことになるじゃありませんか……」
 ソーニャは決しかねるていで、悩ましげに椅子へ腰をおろした。ラスコーリニコフはじっと足もとをみつめたまま、何やら一心に考えこみながら、おし黙っていた。
「まあ、さっきはルージンがそんな気を起こさなかったからいいようなものの」ソーニャの方を見ないで、彼は口を切った。「もしあの男がそんな気を起こしたら、もしそんな事がやつの計画にはいっていたら、あなたは監獄へぶち込まれたかもしれませんよ。もし僕と、それからレベジャートニコフがいあわせなかったら! え?」
「そうですわ」と彼女は弱々しい声で言った。「そうですわ!」彼女は心の落ち着かぬさまで、そわそわした調子でこうくり返した。
「だって実際、僕はいあわせなかったかもしれないんですからね! レベジャートニコフにいたっては、あの男があすこへ来たのは全くの偶然ですよ」
 ソーニャは黙っていた。
「ねえ、もし監獄へでもはいったら、その時はどうなったと思います? 僕が昨日言ったことを覚えていますか?」
 彼女はやはり答えなかった。こちらはしばらく待っていた。
「僕はあなたが、『ああ、言わないでください、よしてください!』とわめくだろうと思いましたよ」とラスコーリニコフは笑い出したが、それはなんとなくわざとらしかった。「どうです、また沈黙ですか?」一分間ばかりして彼は尋ねた。「だって、何か話をしなくちゃいけないじゃありませんか? 僕はね、レベジャートニコフのいわゆる一つの『問題』を、あなたがどう解決するか、それを知りたいんですがね(彼は混乱してきたらしい様子だった)。いや、実際、僕はまじめなんです。ねえ、こういうことを考えてごらん、ソーニャ。あなたがルージンのたくらみを前からすっかり知っているとしましょう。それがためにカチェリーナ・イヴァーノヴナも、それから子供たちも、おまけにあなたまで一緒に(あなたは自分をなんとも思っちゃいないからね、それでおまけなんですよ)、破滅してしまわなくちゃならないと知ってたら、つまり正確に知ってたらどうです(ポーレチカも同様ですよ……あの子もやはり同じ道をたどって行くに決まってますからね)。ねえ、そこでこういうことになるんですよ――もし万一この場合すべてがあなたの決心一つにあるとしたら――つまり、この世の中で彼と彼らと、どちらが生きていくべきであるか、ルージンが生きて汚らわしいことをなすべきであるか、またはカチェリーナ・イヴァーノヴナが死ぬべきかとこういうことになるとしたら、あなたはどう判決します? 二人のうちどちらが死ぬべきだと思います? 僕はそれが聞きたいんです」
 ソーニャは不安げに彼を見つめた。このあいまいな、何か遠まわしに忍びよるようなことばの中に、ある特殊なものが響いていることを感じたのである。
「わたしもう初めから、あなたが何かそんなことをおききになりそうな気がしていましたわ」ためすような目つきで相手を見ながら、彼女はそう言った。
「そうですか、かまいません。しかし、それにしても、どう判決します?」
「あなたはなんだって、そんなできもしないことをおききになりますの?」と嫌悪の表情を浮かべながらソーニャは言った。
「してみると、ルージンが生きていって、卑劣なことをする方がいいんですね! あなたはそれさえ判決する勇気がないんですか?」
「だってわたし、神様の御心みこころを知るわけにゆきませんもの……どうしてあなたはそんなに、きいてはならないことをおききになるんですの? そんなつまらない質問をして、いったい何になさいますの? そんなことがわたしの決断一つでどうにでもなるなんて、それはなぜですの? 誰は生きるべきで、誰は生きるべきでないなんて、いったい誰がわたしをそんな裁き手にしたのでしょう?」
「神の意志なんてものがはいってきたんじゃ、もうどうすることもできやしないさ」とラスコーリニコフは気むずかしげに言った。
「それよか、いっそ真っ直ぐに言ってください、あなたどうして欲しいんですの!」とソーニャは苦痛の表情で叫んだ。「あなたはまた何かへ話を持ってゆこうとなさるんですわ……いったいあなたは私を苦しめるために、ただそれだけのためにいらしったんですの!」
 彼女はこらえかねて、ふいにさめざめと泣き出した。彼は暗い憂愁をいだきながら、じっと彼女を見つめていた。五分ばかり過ぎた。
「いや、お前の言う通りだよ、ソーニャ」彼はとうとう低い声で言いだした。
 彼は突然別人のようになった。わざとらしいずうずうしさも、無力な挑戦的態度も、すべて消えてしまった。声まで急に弱々しくなった。
「きのう僕は自分で、許しを請いに来るんじゃないと言ったね。ところが今は、ほとんど許しを請うも同然なことばで話を始めてしまった……僕がルージンや神の意志のことを言ったのは、あれはつまり自分のためだったんだ……あれは僕が許しを請うたんだよ、ソーニャ」
 彼はにっこり笑おうとしたけれど、その青白い微笑の中には、何かしら力ない中途半端なものが浮かび出た。彼はこうべをたれ、両手で顔をおおった。
 とふいに、ソーニャに対する刺すような怪しい憎悪の念が、思いがけなく彼の心を走り流れた。彼はこの感情にわれながら驚きおびえたように、とつぜん頭を上げて、彼女の顔をひたとみつめた。けれども彼は、自分の上にそそがれている不安げな、悩ましいほど心づかいにみちた彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の憎悪は幻のごとく消え失せた。あれはそうではなかった。ある一つの感情をほかのものと取り違えたのだ。それはつまり、あの瞬間が来たことを意味したにすぎないのだ。
 彼はふたたび両手で顔をおおい、こうべを低くたれた。と、ふいにさっと青くなって椅子から立ち上がり、ソーニャをちらと見やったが、なんにも言わず、機械的に彼女の寝台にすわり直した。
 この瞬間はラスコーリニコフの感覚の中で、彼がかの老婆の後ろに立ち、おのを輪さからはずしながら、もう『この上一分もゆうよできない』と感じた瞬間に、恐ろしいほど似通っているのであった。
「どうなすったんですの?」と、すっかりおびえ上がったソーニャはこう尋ねた。
 彼は一言も口がきけなかった。こんなぐあいに声明しようとは、まるで少しも予想していなかったので、今いったい自分がどうなっているのか、われながらわけがわからなかった。彼女は静かに彼に近づき、寝台の上に並んで腰をおろし、その顔から目を離さないで、じっと待っていた。彼女の心臓は激しく鼓動して、今にも麻痺まひしそうな気がした。もうたまらなくなってきた。彼は死人のように青ざめた顔を、女の方へふり向けた。その唇は何か言い出そうともがきながら、力なげにゆがむのであった。恐怖の念がソーニャの胸をさっと流れた。
「まあ、どうなさいましたの?」やや男から身を引きながら、彼女はくり返した。
「なんでもないよ、ソーニャ。びくびくしなくったっていいよ……くだらないことだ! まったく、よく考えてみればくだらないことだ」うなされて前後を覚えない人のような風で、彼はつぶやくように言った。「なんだって僕はお前ばかり苦しめに来たんだろう?」女を見つめながら、彼はふいにこうつけ足した。「まったくなぜだろう? 僕は始終この問いを自分に発してるんだよ、ソーニャ……」
 彼は事実十五分前には、この問いを自分に発していたかもしれないけれど、今は全身に絶え間なき戦慄せんりつを感じながら、すっかり力が抜けた様子で、ほとんどわれを忘れて言ったのである。
「ああ、あなたはどんなにか苦しんでらっしゃるんでしょうねえ!」と、彼の顔に見入りながら、彼女は同情にあふるる調子でそう言った。
「何もかもばかばかしいことさ!……ところでね、ソーニャ(彼は急になぜか青白く、力なげに、ものの二秒ばかり、にやりと笑って見せた)――きのう僕がお前に何を話そうとしたか、覚えているだろう?」
 ソーニャは不安な面持で待っていた。
「僕は帰りしなに、ことによったら、これが永久の別れになるかもしれない、しかしもし明日やって来たら、そうしたらお前に……誰がリザヴェータを殺したか、聞かしてやるといったろう」
 彼女はふいに全身をわなわなと震わせ始めた。
「ねえ、だから僕はそれを話しに来たんだよ」
「じゃ、ほんとにあなたは昨日……」と彼女はやっとのことでささやいた。「どうしてそれをご存じですの?」ふとわれに返った様子で、彼女は早口にこう尋ねた。
 ソーニャは苦しげに息をつき始めた。顔はいよいよ青白くなってゆく。
「知ってるんだ」
 彼女はしばらく黙っていた。
「見つけでもなすったの、その男を?」彼女はおずおずと尋ねた。
「いや、見つけたんじゃない」
「じゃ、どうしてあなたがそれをご存じなんでしょう?」またしても一分ばかり無言の後、また今度も聞きとれないほどの声で彼女は問い返した。
 彼は女の方へくるりとふり向いて、じいっと穴のあくほどその顔をみつめた。
「あててごらん」さっきと同じひん曲がったような、弱々しい微笑を浮かべて、彼はこう言った。
 と、彼女の全身をけいれんが走り過ぎた――というような風情であった。
「まあ、あなたは……わたしを……なんだってあなたはわたしをそんなに……びっくりさせようとなさるんですの?」幼い子供のような微笑を浮かべながら、彼女はつぶやいた。
「つまり、僕はその男と仲のいい友だちなんだよ……知ってる以上にね」とラスコーリニコフはもはや目を放すことができないように、彼女をどこまでも見つづけながら、ことばを続けた。「その男はあのリザヴェータを……殺そうとは思わなかったんだ……その男はあれを……ほんのはずみで殺したのだ……その男はばばあだけを殺そうと思ったのだ……婆あが一人きりの時に……そして、出かけて行ったのだ……ところが、そこへリザヴェータがはいってきた……で、あの女まで殺してしまったのだ……」
 また恐ろしい一分間が過ぎた。二人はいつまでもたがいに顔をみつめあっていた。
「これでもあてることができない?」ふいに鐘楼からでも飛びおりるような感じで、彼はそう尋ねた。
「い、いいえ」とソーニャは聞こえるか聞こえないくらいの声でささやいた。
「ようく見てごらん」
 彼がこういうやいなや、またもや先ほど覚えのある感覚が、ふいに彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た。と、せつなその顔に、リザヴェータの顔を見たような気がした。あの斧を持って近づいて行った時、あの時のリザヴェータの顔の表情を、彼はまざまざと思い浮かべた。小さな子供が急に何かに驚いた時、自分を驚かしたものをじっと不安そうに見つめて、ぐっと後ろへ身を引きながら、小さな手を前へ差し出して、今にも泣き出しそうにする――ちょうどそういったような子供らしい驚愕きょうがくの色を顔に現わしながら、リザヴェータは片手を前へかざして、彼をけるように壁ぎわへあとずさりした。ほとんどそれと同じことが、今のソーニャにくり返されたのである。同じように力なげな風で、同じような驚愕の表情を浮かべながら、彼女はしばらく彼をじっと見ていたが、ふいに左手を前へ突き出し、きわめて軽く指で彼の胸を押すようにして、だんだん彼から身を遠のけながら、じりじりと寝台から立ち上がった。彼の上に注がれた視線は、いよいよ動かなくなった。彼女の恐怖は突如、彼にも伝染した。全く同じ驚愕が彼の顔にも現われた。全く同じ様子で彼も女の顔を見入った。そして、ほとんど同じような子供らしい微笑さえ、その顔に浮かんでいるのであった。
「わかったね?」ついに彼はこうささやいた。
「ああ!」と彼女の胸から恐ろしい悲鳴がほとばしり出た。
 彼女は頭を枕に埋めるようにしながら、ぐったり力なげに寝台の上へ倒れた。けれど、すぐにさっと身を起こして、つかつかと彼の傍へ寄ると、その両手をつかみ、しめ木にでもかけるように、その細い指でひしとばかり握りしめながら、またもやくぎづけにされたように、身動きもせず、彼の顔をみつめにかかった。この最後の絶望的なまなざしで、彼女はせめて何か最後の希望らしいものを見つけ出し、それをとらえようと試みたのである。が、希望はなかった。疑惑はごうも残らなかった。すべてはそのとおりであった! それからずっと後になって、この事を思い出した時でさえ、彼女はいつもなんともいえない不思議の感がするのであった――あの時どうしていきなり、もう疑惑はいっさいないと、見きわめてしまったのだろう? 実際、こうした風のことを何か予感していたとは、どうしたって言えないではないか? それだのに、いま彼があれだけの事を言うが早いか、彼女は急に実際それを予感していたような気がしたのである。
「もういいよ、ソーニャ、たくさんだ! 僕を苦しめないでおくれ!」と彼は悩ましげに頼んだ。
 彼はこんな風に彼女に打ち明けようとは、まるで夢にも思わなかった。ところが、こんな事になってしまったのである。
 彼女はわれを忘れたように飛び上がって、両手をもみしだきながら、部屋のまんなかまで行ったが、すばやくくびすを転じて彼の傍へ引っ返し、ほとんど肩と肩がすれ合うほど近々と並んで腰をかけた。ふいに、彼女は刺し通されでもしたように、ぴくっと身震いして、ひと声叫びを上げると、自分でもなんのためともしらず、いきなり彼の前にひざをついた。
「なんだってあなたは、なんだってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」と絶望したように彼女は叫んだ。
 それから急におどり上がりざま、彼の首へ飛びついて、両手で堅く堅く抱きしめた。
 ラスコーリニコフは思わず一歩後ろへよろけて、わびしげな笑みを含みながら、彼女を見やった。
「お前はなんて妙な女だろう、ソーニャ――僕がこんなことを言ったのに、抱いて接吻せっぷんするなんて。お前、自分でも夢中なんだろう」
「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」彼の注意など耳にも入れず、彼女は興奮の極に達したようにこう叫んだ。とふいにヒステリイでも起こったように、しゃくり上げて泣き出した。
 もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のごとく澎湃ほうはいと押しよせて、みるみる彼の心を柔らげた。彼はもうそれに逆らおうとしなかった。涙の玉が二つ彼の両眼からこぼれ出て、まつ毛にかかった。
「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」ほとんど希望の念さえいだきながら、彼は女の顔を見つめてこう尋ねた。
「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャは言った。「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く! おお、神さま!……ああ、わたしは不幸な女です! なぜ、なぜわたしはもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう! なぜあなたはもっと早く来てくださらなかったの? おお、なさけない!」
「だからこのとおりやってきた」
「今! おお、今さらどうすることができましょう?……一緒に、一緒に!」と彼女は前後を忘れたように、またもや彼を抱きしめながらくり返した。「わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!」
 彼は急に全身ぴりりとけいれんさせた。その唇にはさっきのにくにくしげな、ほとんど傲岸ごうがんな微笑がしぼり出された。
「僕はね、ソーニャ、まだ懲役に行く気はないかもしれないよ」と彼は言った。
 ソーニャはすばやく彼をながめた。
 不幸な男に対する感激と苦痛に満ちた同情の発作がすむと、またしても殺人という恐ろしい観念が彼女の胸を打った。急に変わった彼のことばの調子に、彼女はふと殺人者の声を聞いた。彼女はぎょっとして彼を見やった。どういうわけで、どうして、なんのためにこんなことが行なわれたのか、彼女はまだなんにもわかっていなかったのだ。これらの疑問が一時にぱっと、彼女の意識に燃え上がった。と、彼女はまたもや本当にならなかった。『この人が、この人が人殺し! いったいそんなことがあってよいものだろうか?』
「いったいこれはどうしたことだろう! わたしはどこに立っているのだろう!」彼女はまだ我に返れない様子で、深い疑惑に悩まされながらそう言った。「どうしてあなたは、あなたはそんな……そんなことが思い切ってできたのでしょう? いったいこれはどうしたというんでしょう!」
「ふん、なに、物をるためさ! もうよしてくれ、ソーニャ!」なんとなく疲れたような、むしろいらだたしげな調子で、彼は答えた。
 ソーニャは脳天を打ちのめされたように突っ立っていたが、ふいに声を上げて叫んだ。
「あなたは食べるものがなかったんでしょう! あなたは……お母さんを助けようと思って? ね、そうでしょう?」
「いや、ソーニャ、違う」と彼は顔をそむけてうなだれたままつぶやいた。「僕はそんなにかつえちゃいなかった……僕はじっさい母を助けてやろうと思った。しかし……それだって完全に当たっているとも言えない……もう僕を苦しめないでくれ、ソーニャ!」
 ソーニャは両手をうち鳴らした。
「ではいったい、いったいこれは何もかも本当なんですの! ああ、これがどうして本当なもんですか! 誰がこんなことを本当にできましょう?……それにまたどうして、どうしてあなたはご自分から、なけなしの金を人に恵んでやりながら、物をるために殺したなんて! ああ!……」と彼女はふいに叫んだ。「あのカチェリーナ・イヴァーノヴナにおやりになったお金も……あのお金も……ああ、いったいあのお金もやはり……」
「違うよ、ソーニャ」と彼は急いでさえぎった。「あの金はそうじゃない、安心しておくれ! あの金は母がある商人の手を通して送ってくれたのだ。僕が病気で寝ているところへ届いたのだ。お前たちにあげた当日なのだ……ラズーミヒンが見て知っている……あの男が僕の代わりに受け取ったくらいなんだから……あの金は僕のものだ、僕自身のものだ、ほんとうの僕の金なんだ」
 ソーニャはいぶかしげに彼のことばを聞きながら、一生懸命に何やら思い合わそうと苦心していた。
「ところで、その金だが……僕はそこに金があったかどうか、それさえ知らないんだ」と彼は物思わしげに低い声で言い足した。「僕はあの時、婆さんが首にかけていた財布をはずしたんだ。ぎっちりいっぱいにつまったもみ皮の財布だ……だが、僕はその中を見なかった。きっと見る暇がなかったんだろう……ところで品物は、みんな飾りボタンだのくさりだのというものだが――僕はそんなものを全部財布と一緒に、翌朝V通りのある空地の石の下へかくしてしまった……今でもやはりそこにあるだろうよ……」
 ソーニャは一生懸命に聞いていた。
「まあ、それじゃなんだって……どうしてあなたは……物をるためだなんておっしゃりながら、ご自分じゃなんにもお取りにならなかったの?」と、わらしべ一本にもすがりつく心持で、彼女は早口に尋ねた。
「知らない……僕はまだ腹が決まっていなかったんだ……その金を取るか、取らないか」と彼はまたもや物思わしげにそう言ったが、ふとわれに返り、ちらと短かい薄笑いを浮かべた。「ちえっ、僕はなんてばかなことを言ったもんだろう、え?」
 ふとソーニャの頭には、『気違いではないだろうか?』という考えがひらめいた。けれど、彼女は即座にそれを否定し、『いや、これは何か別なことだ』彼女には何一つ、まったくわからなかった!
「ねえ、ソーニャ」とふいに彼はある感激に打たれて言い出した。「ね、僕はお前に何を言おうとしてるかわかるかい。もし僕がかつえてるために人殺しをしたのなら」彼は一語一語に力をこめて、謎でもかけるように、とはいえ真剣に彼女を見つめながら、こうことばを続けた。「それならいま僕は……さぞ幸福だったろう! お前それを承知しといておくれ! それに、お前にとってなんだろう、それがお前にとってなんだろう」と、すぐ次の瞬間、一種の絶望さえ声に響かせながら、彼は叫ぶのであった。「ねえ、僕が今わるいことをしたと懺悔ざんげしたからって、それがお前にとってなんだろう? ああ、ソーニャ、僕はそんなことのために、今お前んとこへ来たんだろうか!」
 ソーニャはまた何か言おうとしたが、やはり沈黙を守っていた。
「きのう僕がお前に、一緒に行ってくれと頼んだのは、僕に残ってるのはお前よりほかに何もないからだよ」
「どこへ行くんですって?」とソーニャは問い返した。
「泥棒するためでも、人を殺すためでもないから、心配しなくていいよ。そんなことじゃない」と彼は皮肉ににやりと笑った。「僕ら二人は、まるで違った人間なんだからね……ところで、ソーニャ、僕は今、ついたった今、昨日お前をどこへつれて行こうと言ったのか、はじめてわかったよ! 昨日ああいった時には、僕自身もどこかわからなかったんだ。僕が頼んだのも、ここへやって来たのも、目的はたった一つだ。お前ぼくを見捨てないでくれ。見捨てないでくれるね、ソーニャ?」
 彼女は男の手をかたく握りしめた。
『ああなぜ、なぜおれはこの女に言ったのだろう、なぜこの女に打ち明けたのだろう!』限りない苦悩をいだいて彼女を見ながら、彼はしばらくしてから絶望したように叫んだ。「現にお前は僕の説明を待っている。ね、ソーニャ、お前はじっとすわって待っている、僕にはそれがちゃんとわかる。だが、僕お前に何を言えばいいのだ? お前はこの問題じゃなんにもわかりゃしない、たださんざん苦しみ抜くばかりだ……俺のために! ね、ほらお前は泣きながら、また僕を抱きしめる――え、いったいなんだってお前は僕を抱きしめるのだろう? まさか僕が自分で持ち切れなくなって、『お前も苦しむがいい、おれが楽になるから!』といったようなぐあいに、自分の苦しみを他人の肩へ背負わせにやって来た、そのお礼でもなかろうね。いったいお前はこんな卑劣な人間を愛することができる?」
「だって、あなたもやはり苦しんでらっしゃるのじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
 またもや彼の胸には、さっきと同じ愛情が波のように押し寄せ、一瞬かれの心を柔らげた。
「ソーニャ、僕の心は毒を持ってるんだよ。お前それに気をつけておくれ。いろんなことがこれで説明できるんだから。僕は毒のある人間だから、それでやって来たんだよ。中には、やって来ないような連中もある。だが、僕は臆病おくびょう者で……卑劣漢だ! だが……どうでもかまわない! こんなことはみな見当ちがいだ……いま話さなくちゃいけないんだが、僕にはどうもうまく切り出せない……」
 彼はことばをとめて、考え込んだ。
「ええっ、僕ら二人は別々な人間なんだ!」と彼は再び叫んだ。「まるで一つにならないんだ。なんだって、なんだってここへやって来たんだろう! このことは実にわれながら許し難い!」
「いいえ、いいえ、来てくだすったのはいいことですわ!」とソーニャは叫んだ。「そりゃわたしが知ってた方がよござんすわ! ずっとよござんすわ!」
 彼は苦痛の表情で彼女を見つめた。
「いや、そりゃ本当だ!」十分考え抜いたという様子で彼は言った。「まったくそのとおりなんじゃないか! つまりこうなんだよ。僕はナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ……え、それでわかるかい?」
「い、いいえ」とソーニャは無邪気に臆病らしくささやいた。「だけど……言って、言ってちょうだい。わたしわかるわ、腹ん中でわかるわ!」と彼女は一心に頼んだ。
「わかるって? いや、よろしい、一つ見てみよう!」
 彼は口をつぐんで、長いこと想を練っていた。
「実はこういうわけなんだ。ある時ね、僕は自分にこんな問題を出してみた。たとえば、僕の位置にナポレオンがいたとしよう。そして、その立身の道を開くのに、ツーロンも、エジプトも、モン・ブラン越えもなく、そういう美しい偉大モニュメンタルなものの代わりに、ただもう滑稽こっけいな十四等官の後家婆さんしかいない。しかもおまけに、そいつの長持から金を引き出すために(立身の道を開くためだよ、わかってるね?)そいつを殺さなけりゃならんとしたら――それ以外に方法がないとしたら、彼はそれを決行しただろうか? それがあまりに非モニュメンタルで、そして……そして罪深い事だからというので、ちゅうちょしやしないだろうか? ねえ、そこで、いいかい、僕はこの『問題』にうんと長い間悩み抜いた。でやっと(ふいと何かの拍子に)、ナポレオンならこんなことでちゅうちょするどころか、それが非モニュメンタルだなんてことは、夢にも考えなかったろう……いや、そこに何をちゅうちょすることがあるのか、それさえまるでわからなかったに違いない、とこう考えついた時には、僕はむしょうに恥ずかしくなったくらいだ。もしほかに道がないとすれば、彼はむろんいっさい何も考え込んだりなどせず、きゅっという暇もないうちに絞め殺してしまったに相違ない! そこで僕も……考え込むのをよして……絞め殺したのだ……権威者の例にならってさ。これは実際このとおりだったのだ! お前、おかしいかい! そうだ、ソーニャ、ここで何よりおかしいのは、これがまったくそのとおりだってことなんだよ……」
 ソーニャはおかしいどころではなかった。
「あなた、それよかありのままを話してくださいな……たとえ話なんか抜きにして」彼女はいっそうおどおどして、やっと聞こえるくらいの声で頼んだ。
 彼はその方へふり向いて、沈んだ目つきでその顔をながめ、その両手をとった。
「そうだ、今度もまたお前の言う通りだ、ソーニャ。これはみんなばかげたことだ。ほとんどただのおしゃべりにすぎない! 実はね、お前も知ってるだろうが、僕のおふくろはほとんど無一物なんだ。妹はほんの偶然で教育を受けていたので、よその家庭教師などして回らなきゃならない仕合せなのだ。で、二人の望みはすっかり僕一人にかかっていたわけだ。僕は勉強していたのだが、大学の学資を続けられなくなって、退学しなくちゃならなくなったんだよ。よしまたあのまま続けていけたにしろ、十年か十二年たつうちに(それも事情がうまく転回してくれれば)、どうやらこうやらどこかの教師か官吏になって、年千ルーブリくらいの俸給にはありつけるようになるだろう……(彼は暗記したものでも復習するような調子で話した)。ところがその時分には、おふくろは苦労と悲しみでやせ細ってしまうだろう。で、僕はけっきょくおふくろを安心させることができないわけだ。ところで妹……いや、妹にはもっと悪いことが起こるかもしれない!……してみると、僕はなんだってものずきに、一生涯すべてのもののかたわらを素通りして、いっさいのものから顔をそむけ、母を忘れ、妹の恥辱を忍ばなけりゃならんのだ? いったいなんのためだ? 彼らを葬って、その代わりに新しいもの――妻や子をもうけた後、またそれをも同じように無一文で、一片のパンもない境遇に残してゆくためなのか? で……で、つまり僕は決心したのだ。ばばあの金を没収して、最初なん年間かの学資に当て、母を困らせないで、大学にいる間の勉強を安全にした上、大学を出てからの第一歩にも使おう――しかも、そいつをすべて大きく根本的にやって、ぜんぜん新しい形で社会へ打って出てさ、新しい独立不羈どくりつふきの道に立つ!……まあ……まあ、これでみんなだ……そりゃ、もちろん僕が婆あを殺したのは……それは悪い事をしたに違いない……だが、もうたくさんだ!」
 なんとなく力ない語調で、やっと話の終わりまでこぎつけると、彼はがっくり首をたれてしまった。
「ああ、それは違います、それは違います」とソーニャは悩ましげに叫んだ。「いったいそんなことがあっていいものですか……いいえ、それは違います、それは違います!」
「お前は自分でそんな事はないと思うんだね!……でも、僕は真剣で話したんだよ、真実を!」
「まあ、それがなんの真実なものですか! おお、神さま!」
「だって、僕はただしらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、汚らわしい、有害なしらみを」
「まあ、しらみですって!」
「そりゃ僕だって、しらみでないことは知ってるさ」と、妙な目つきで彼女を見ながら、彼は答えた。「だがもっとも、僕はでたらめを言ってるんだよ、ソーニャ」と彼は言い足した。「僕はもうずっと前からでたらめばかり言ってるんだよ……あれはみな見当ちがいだ。実際お前の言うとおりさ。そこには全然、全然、全然べつな原因があるんだ!……僕はもう長いこと、誰とも話をしなかったもんだからね、ソーニャ……ああ、僕は今やたらに頭が痛い」
 彼の目は熱病やみのような火に燃えていた。彼はほとんど熱に浮かされないばかりであった。不安げな微笑がその唇の上をさまよっていた。興奮した気持の陰から、もう恐ろしい無力が顔をのぞけるのであった。彼がどんなに苦しんでいるか、ソーニャにはよくわかっていた。彼女もやはりめまいがしかけていた。それに、彼の話し振りもなんとなく奇妙だった。なんだかわかるような気もするけれど、しかし……『しかし、どうなのだろう! いったいどうなのだろう! おお、神さま!』彼女は絶望のあまり両手をもみしだいた。
「いや、ソーニャ、あれは見当ちがいだ!」突然新しい思考の屈折にショックを受けて、興奮を感じたように、彼は急に頭を上げて、また言い出した。「あれは見当ちがいだ! それよりいっそ……こんな風に想像してみてくれ。(そうだ! 実際この方がいい!)僕が自尊心の強い羨ましがりやで、意地悪で、卑劣な執念深い人間で……その上気ちがいの傾向があるとしてもいい――こういう男だと想像してみておくれ。(もういっさいがっさい、一時にひっくるめてしまえ! 発狂ということは前にも人が言っていたよ。僕気がついていた!)いま僕はお前に、大学の学資が続けられなかったと言ったろう。ところがね、ことによったら、続けられたかもしれないんだよ。大学に納めるだけのものは、母が送ってくれたろうし、靴だとか、服だとか、パンだとかを買う金は、僕自分でかせげたろうと思う。確かにかせげたよ! 出稽古でげいこの口がちょいちょいあって、一回五十カペイカずつもらえたんだからね。ラズーミヒンだって働いている! ところが僕は意地になって、働こうとしなかったんだ。そうだ、意地になったんだ。(これはうまいことばだ!)僕はそのとき蜘蛛くもみたいに、自分の巣の隅っこへ引っ込んでしまった。お前は僕の部屋へ来たから、見て知ってるだろう……ねえ、ソーニャ、わかるだろう、低い天井や狭苦しい部屋は、魂も頭もおしつけてしまうものだ! おお、僕はあの犬小屋を、どんなに憎んだかしれやしない! が、それでもやはりそこから出ようとしなかった! わざと出ようとしなかった、幾日も幾日も外へ出もしなければ、働こうともしなかった。ものを食う気にさえならなく、始終ねてばかりいた。ナスターシャが持って来れば食うし、持って来なければそのまま一日過ごしてしまった。わざと意地で頼まなかったのだ! 夜はあかりもない暗闇の中にねたまま、ろうそく代をかせごうともしないんだ! 勉強しなくちゃならないのに、本は売り飛ばしてしまい、テーブルの上のノートや手帳などには、今でも一分くらいの厚みにほこりが積んでいる。僕はそれよりねてて考えるのが好きだった。そして、のべつ考えていた……そしてね、始終いろんな変てこな夢ばかり見ていたのさ! どんな夢かって、そんなことは言ったって仕様がない! ところが、そのころからそろそろ頭に浮かびかかったのだ、その……いや、これもそうじゃない! 僕はまた見当ちがいなことを言い出した! 実はね、僕そのころしじゅう自分で自分に尋ねていたんだ――なぜ自分はこんなにばかなんだろう? もし人がみんな馬鹿で、自分がその事を確かに知っているなら、なぜ自分だけでももう少し賢くなろうとしないんだ? ところが、そのあとで僕は悟ったんだよ、ソーニャ――誰もかれもが賢くなるのを待っていたら、それこそあまり長すぎるだろうってね……それからまた僕は悟ったんだ――そんな時はこんりんざい来やしない、人間はどうにも変わるもんじゃないし、誰だって人間を作りかえられるものでもない、そんな事に手間をつぶす値打ちはない! そうだ、それはそのとおりだ! これが彼らの法則なのだ……法則なんだよ、ソーニャ! それは正にそのとおりだよ!……そこで、こんど僕は知ったんだ――頭脳と精神のしっかりした強い人間は、彼らの上に立つ主権者なのだ! 多くをあえてなしうる人間が、群衆に対して権利を持つんだ! より多くのものを無視しうる人間は、群衆に対して立法者となるのだ! 誰よりもっとも多く敢然と実行しうる人間は、それこそもっとも多く権利をもつことになるんだ! これは今までもそうだったし、これから先もずっとそうだろう! ただ盲目にはそれが見分けられないんだ!」
 ラスコーリニコフはそう言いながら、ソーニャの顔は見てはいたけれど、もう彼女にわかるかどうかということを、少しも気にかけなかった。激しい熱情がすっかり彼をとらえてしまったのである。彼は一種の暗い歓喜に包まれていた。(実際、彼はあまり長く誰とも話をしなかったのである!)ソーニャは、この陰鬱いんうつな教典が彼の信仰となり、法律となっているのを悟った。
「僕はその時悟ったんだよ、ソーニャ」と彼は感激にみちた調子で語をついだ。「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、身を屈することをあえてする人にのみ与えられたのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない――あえてしさえすればいいのだ! その時僕の頭には生まれて初めて、一つの考えが浮かんだ。それは僕より前に誰一人、一度も考えた事のないものだ! 誰一人! ほかでもない、世間の人間はこれまで誰一人として、この馬鹿げたものの傍を通りながら、ちょっと尻尾しっぽをつかんで振り飛ばすことさえ、あえてするものがなかったんだ、また今だって一人もいやしない。これがとつぜん僕の目に、太陽のごとく明瞭めいりょうになったのだ! で、僕は……僕は……それをあえてしたくなった、そして殺したのだ……僕はただあえてしたくなっただけなんだ、ソーニャ、これが原因の全部なんだよ!」
「ああ、お黙んなさい、お黙んなさい!」とソーニャは両手を打鳴らして叫んだ。「あなたは神様から離れたのです。それで神さまがあなたを懲らしめて、悪魔にお渡しになったのです!……」
「ああ、思い出したよ、ソーニャ、それは僕が暗闇の中でねていた時、のべつ頭に浮かんだことなんだよ。じゃ、あれは悪魔が僕を誘惑したのだね? え?」
「お黙んなさい! ひやかすのはおよしなさい、あなたは涜神者とくしんじゃです、あなたはなんにも、なんにもわからないんです! ああ、どうしよう! この人はなんにも、なんにもわからないんだわ!」
「お黙り、ソーニャ。僕はちっともひやかしてなんかいやしない。僕はちゃんと自分で知っている――僕は悪魔に誘惑されたんだ。お黙り、ソーニャ、お黙り!」と彼は陰鬱な調子でしつようにくり返した。「僕は何もかも知っている。そんなことはみんなもうあの時、暗闇の中にねているとき、さんざん考え抜いて、幾度も自分で自分にささやいたことなんだ……そんなことはみんな僕がごくごく細かいところまで、自分自身で議論し抜いたことなんだ。みんな! 知ってるよ、みんな! 僕はもうその時から、こんなおしゃべりにあきあきしちゃったんだ。すっかりあき果てたんだよ! 僕は何もかも忘れて、新しく始めたかったんだよ、ソーニャ。おしゃべりがやめたかったんだよ! まさかお前は、僕が無鉄砲にばかみたいなことをした、などと思いはしないだろうね? 僕は知者として行動したんだよ。ところが、それがつまり僕を破滅さしたんだ! お前まさかこんな事を考えはしないだろうね――僕が自分で自分に向かって、おれは権力を持っているかどうか? などと自問したり反省したりする以上、つまりそれを持たないわけだという事が、僕自身にわかっていなかったのだなんて、まさかお前そんなことを考えやしないだろうね。それから『人間はしらみかどうか?』などという問いを自ら発する以上、人間は僕にとってしらみじゃない、ただこんな考えを夢にも頭に浮かべない人にとってのみ、なんら疑問なしに進みうる人にとってのみ、初めて人間はしらみであることを、僕が知らないと思っているのかい?……ああ僕は、ナポレオンならあんなことをやったかどうかという問題で、あんなに長い間悩み通したんだもの、自分がナポレオンではないことを明確に感じたわけなんだ……僕はそういった空虚な反省の苦しみを、とうとう持ちこたえたんだよ、ソーニャ。そして、そんなものをすっかり肩から振り落としたいと思った。僕はね、ソーニャ、理くつぬきで殺したくなったのだ。自分のために、ただ自分のためだけに殺したくなったのだ! 僕この事については、自分にさえ嘘を吐きたくなかったんだ! 僕は母を助けるために殺したのじゃない――ばかな! また金と権力を得て、人類の恩人になるために殺したわけでもない。ばかばかしい! 僕はただ殺したのだ、自分のために殺したのだ。自分だけのために殺したのだ。それから先は、誰かの恩人になろうと、一生涯蜘蛛くものようにあらゆる人間を網に引っかけて生き血を吸うようになろうと、その瞬間僕にとっては同じ事でなければならなかった!……僕が殺人を犯した時に、必要だったのは金じゃない。金よりもっとほかのものが欲しかったのだ……それは今僕にみんなわかっている……ね、僕の言うことを飲み込んでおくれ。僕はたとえ同じ道をたどって行くとしても、もう今後はけっして殺人などくり返しゃしない。僕は別のことが知りたかったんだ。別のことが僕の背中を貫いたんだ。僕はその時知りたかったんだ、少しも早く――自分も皆と同じようなしらみか、それとも人間か、それを知らなければならなかったんだ。俺は踏み越すことができるかどうか? 身を屈して拾い上げることを、あえてなしうるかどうか? 俺は震えおののく一介の虫けらか、それとも権利を持つものか……」
「人を殺す? 人を殺す権利を持ってるんですって?」とソーニャは両手をうち合した。
「ええっ、ソーニャ!」と彼はいらだたしげに叫び、何か言い返そうとしたが、急にさげすむように口をつぐんだ。「話の腰を折らないでくれ、ソーニャ! 僕はただ一つのことをお前に証明しようと思ったんだ。ほかでもない、あの時は悪魔が僕を引きずって行ったのだ。そして、悪魔のやつ、あとになってから、『お前はあんなまねをする権利を持っていなかったんだ、なぜって、お前もみんなと同じしらみにすぎないのだから』と僕に説明しやがったんだ! 悪魔が僕を愚弄ぐろうしたんだ。だからこそ、僕は今、お前のとこへやって来たのだ! さ、お客様の取り持ちをしておくれ! もし僕がしらみでなかったら、どうしてお前のとこへやって来るものか! 実はね、あの時僕がばばあのとこへ行ったのは、ただ試験するために行ってみただけなんだ……それを承知しといてもらおう!」
「そして殺したんでしょう! 殺したんでしょう!」
「だが、いったいどんな風に殺したと思う? 殺人てものはあんな風にするもんだろうか? 僕が出かけて行ったように、あんな風に人を殺しに行くものだろうか……僕がどんな風に出かけて行ったか、それはいつか話して聞かせよう。いったい僕は婆あを殺したんだろうか? いや、僕は自分を殺したんだ、婆あを殺したんじゃない! 僕はいきなりひと思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!……あの婆あを殺したのは悪魔だ、僕じゃない……もうたくさんだ、ソーニャ、たくさんだ! 僕をうっちゃっといてくれ」ふいに、けいれんするような悩みに身をもだえながら、彼はこう叫んだ。「僕をうっちゃっといてくれ!」
 彼はひざの上に両ひじついて、くぎ抜きで締めつけるように、両の手で頭を抱きしめた。
「ああ、なんという苦しみだろう!」悩ましい悲鳴がソーニャの胸からほとばしり出た。
「さあ、これから僕はどうしたらいいんだろう、言ってくれ!」急に頭を振り上げ、絶望のあまり醜くゆがんだ顔を向けて彼女を見ながら、彼はこう尋ねた。
「どうしたらいいって!」と彼女は叫ぶなり、いきなり席をおどり上がった。と、今まで涙でいっぱいになっていた彼女の目が、急にらんらんと輝き始めた。「お立ちなさい! (と彼の肩をつかんだ。彼はほとんど驚愕きょうがくに打たれて彼女を見ながら、体を持ち上げた。)すぐ、今すぐ行って、四つつじにお立ちなさい。そして身をかがめて、まずあなたがけがした大地に接吻せっぷんなさい。それから、世界じゅう四方八方へ頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、『わたしは人を殺しました!』とおっしゃい! そうすれば神さまがまたあなたに命を授けてくださいます。行きますか? 行きますか?」彼女は発作にでも襲われたように、全身をわなわなとおののかせ、男の両手をつかんでひしと握りしめ、火のような目で彼をみつめながら、こう問いかけた。
 彼は驚愕に打たれた、というよりむしろ、彼女の意外な感激にあっけに取られたほどである。
「お前は懲役のことでもいってるのかね、ソーニャ? 自首しろとでもいうの?」と彼は陰鬱な調子で尋ねた。
「苦しみを身に受けて、それで自分をあがなうんです、それが必要なんです」
「いや! 僕はあんな連中んとこへ行きゃしないよ、ソーニャ」
「じゃ、どうして、どうして生きていくつもりなんですの?」とソーニャは絶叫した。「そんな事がいまできると思って? ねえ、お母さんにどんな話をなさるおつもり? (ああ、あの人たちは、あの人たちは、この先どうなるんだろう!)まあ、わたしは何を言ってるんだろう! あなたはもうお母さんも、妹さんも捨てておしまいになったんですわね。もうちゃんと捨ててしまったんです、捨ててしまったんです。おお、なんてことだろう!」と彼女は叫んだ。「だって、この人はもう何もかも自分で承知してるんだもの! でもどうして、どうして人を離れて生きていけます! あんたはこの先どうなるんでしょう!」
「赤ん坊じみたことを言うのはおよし、ソーニャ」と彼は低い声で言った。「いったい僕はやつらになんの罪があるんだい? なんのために自首に行くんだ? やつらに何を言おうってんだ? そんな事はみんなただの幻でしかないよ……やつら自身からして、幾百万の人を滅ぼして、しかも善行のつもりでいるんじゃないか。やつらはごまかし者の卑劣漢だよ、ソーニャ!……僕は行かない。それに、いったい何を言うんだい? 人は殺したが、金をとる勇気がなく、石の下へ隠しました、とでも言うのかね?」と彼は皮肉な薄笑いを浮かべながらつけ足した。「そんなことをしたら、やつらの方が僕を笑って、こう言うだろう。『ばか、なんだって取らなかったんだ? 卑怯者のばかやろう!』やつらはなんにも、なんにもわかりゃしないよ、ソーニャ、わかるだけの資格がないんだよ。なんのために僕が行かなきゃならないんだ! 僕は行きゃしない。赤ん坊じみたことはおよし、ソーニャ……」
「あなたお苦しみになってよ、お苦しみになってよ」死物狂いな哀願の表情で、彼の方へ両手を差し伸べながら、彼女はくり返した。
「僕は事によったら、まだ自分で自分を中傷していたかもしれないな」と彼は物思わしげに、陰鬱な調子でいった。「もしかしたら、僕はまだ人間で、しらみじゃないかもしれない。あまり急いで自分を責めすぎたかもしれない……僕はも少し闘ってやる」
 不敵な微笑が彼の唇にしぼり出された。
「まあ、そんな苦しみをもって暮らすんですの! しかも一生涯、まる一生涯!……」
「そのうちに慣れるよ……」と彼は気むずかしい、もの思わしげな調子で言った。「実はね、話があるんだ」と彼は一分ばかりして、また言い出した。「泣くのはもうたくさんだ、用事にかからなきゃ。今日ここへ来たのは、僕が今お尋ねものになって、つかまえられかかっているってことを、お前に知らせるためなのだ……」
「ああ!」とソーニャはおびえたように叫んだ。
「え、なんだってそんな声を出すんだい! お前は自分の方から、僕が懲役に行くのを望んでるくせに、今度はそんなにびっくりするなんて? だがね、お聞き、僕はあんなやつらに屈しやしないから。僕はもっと闘ってやるんだ。そうすりゃ、やつらはどうすることもできやしない。やつらには本当の証拠がないんだ。僕は昨日とても危ない羽目に落ちて、もうだめかと思ったくらいだが、今日はまた事情が一変したんだ。やつらの持っている証拠は、皆どうにでもとれるようなものばかりだ。つまりやつらの起訴材料を、僕は自分に有利なようにふり向けることができるんだ、わかったかい? ほんとうにふり向けてみせるとも。僕はもう要領を覚えちゃった……しかし、監獄へは必ずぶち込まれるだろう。もしある事件が起こらなかったら、今日はぶち込まれていたかもしれないんだ。いや、まだ今日これからぶち込まれるかもわからないんだ……だけど、そんなことはなんでもないよ、ソーニャ。しばらくいたら、また出してくれるよ……だってやつらは一つだって本当の証拠を持っていないんだから、またこれから先も出て来やしないんだから。そりゃきっと受け合うよ。ところで、今やつらの持ってるような証拠では、人間一人台なしにするわけにゆかないんだ。いや、もうたくさんだ……僕はただお前に知っていてもらおうと思って……妹や母にはなんとかして、二人が信じないように、びっくりしないようにするつもりだ。もっとも、こんど妹の身の上は保証されたらしいから……したがって母も同様だ……さあ、これでおしまい。しかしそれにしても、用心しておくれ、もし僕がぶち込まれたら、お前監獄へ面会に来てくれる?」
「ええ、行きますとも! 行きますとも!」
 彼らはさながら嵐の後に、ただ二人荒涼たる岸へ打上げられた人のように、わびしげに悄然しょうぜんと並んで腰かけていた。彼はソーニャをじっとみつめていた。そして、彼女の愛がいかばかり豊かに、自分の上に注がれているかを感じた。と、不思議にも彼は突然、それほどまでに愛されているということが、苦しくも切なく感じられた。そうだ、それは奇妙な恐ろしい感触だった! ソーニャのところへ来る道々、彼は自分の希望と救いが、あげてことごとく彼女にあるような感じがしていた。彼は自分の苦しみを一部だけでも、軽くしてもらうつもりでいたが、今や忽然こつぜん、彼女の心がことごとく自分に向けられたのを知ると、彼は急に前よりも限りなく不幸になったのを感じ、意識したのである。
「ソーニャ」と彼は言った。「僕が収監されても、いっそ来てくれない方がいいな」
 ソーニャは答えなかった。彼女は泣いていた。幾分か過ぎた。
「あなた十字架を持ってらっしゃる?」ふと思い出したように、思いがけなく彼女はだしぬけに問いかけた。
 彼は初め問いの意味がわからなかった。
「ないでしょう、ね、ないでしょう?――さあ、これを持ってらっしゃい、糸杉サイプレスで作ったものよ。わたしにはまだ真鍮しんちゅうのが残ってますの、リザヴェータのくれたのが。わたしリザヴェータと十字架のとりかえっこをしたんですの。あのひとがわたしに十字架をくれて、わたしがあのひとに肌守りのお像を上げたんですの。わたしこれからリザヴェータのを掛けるから、これあんたに上げるわ。さあとってちょうだい……わたしのですもの! わたしのですもの!」と彼女は哀願するように言った。「だって一緒に苦しみに行くんですもの、一緒に十字架を負いましょうよ!……」
「およこし!」とラスコーリニコフは言った。彼女を落胆させたくなかったのである。けれどすぐにまた、十字架を取ろうと差し伸べた手を引っ込めた。
「今はいけない、ソーニャ。あとにした方がいい」彼女を安心させるために、彼はそう言い足した。
「そうだわ、そうだわ、その方がいいわ、その方がいいわ」と彼女は夢中になって受けた。「苦しみに行く時にね、その時かけてらっしゃい。その時わたしのところへ寄ってね、わたしが掛けて上げますから。一緒にお祈りをして行きましょう」
 この瞬間、誰かが三度ドアをノックした。
「ソフィヤ・セミョーノヴナ、はいってもいいですか?」と、誰やらたしかに聞き覚えのある、ていねいな声が聞こえた。
 ソーニャはおびえたように戸口へ駆け寄った。白っぽい毛をしたレベジャートニコフ氏の顔が、ぬっと部屋の中をのぞきこんだ。


 レベジャートニコフは心配らしい様子をしていた。
「わたしはあなたを訪ねて来たのです、ソフィヤ・セミョーノヴナ。どうも失礼しました……僕はきっとあなたがおられるだろうと思いましたよ」と言って、彼は急にラスコーリニコフに話しかけた。「いや、なに、別になんにも考えやしなかったんですよ……そんな風なことは……しかし、僕はつまりこう考えたんです……実はお宅でカチェリーナ・イヴァーノヴナが発狂したんですよ」彼はラスコーリニコフの方はうっちゃって、突然ソーニャに向かってぶっきらぼうに言った。
 ソーニャはあっと叫んだ。
「といって、つまり、少なくとも、そう思われるんです。もっとも……僕らはどうも、どうしていいかわからないもんで、つまりこういうわけなんですよ! さっきあのひとが帰って来た――というより、どこからか追い出されて来たらしい。おまけに、少しなぐられたらしいんです……少なくとも、そう思われるんですよ……あのひとは長官のセミョーン・ザハールイチのところへかけつけたんですが、主人は留守だった。長官はやはりどこかの将軍のところへ、食事に招かれたんで……ところがどうでしょう、あのひとはその食事をしているところへ飛んで行った……そのもう一人の将軍のとこへね。そして、どうでしょう――とうとう強情を張り通して、長官のセミョーン・ザハールイチを呼び出したもんです。おまけに、まだ確か食事ちゅうのところをね。それからどうなったか、すぐに想像がおつきになるでしょう。もちろん、あのひとは追っ払われたんだが、当人の話でみると、あのひとは長官をさんざん罵倒ばとうして、おまけに何やらぶつけたんだそうです。まあそれは大いに想像しうることですがね……どうしてあのひとが取り押えられなかったのか――それが不思議なくらいですよ! 今あのひとはみんなに話してるんです、アマリヤ・イヴァーノヴナにもね。しかし、どうもわかりにくい。わめいたり、もがいたりしてるんで……ああそうだ、あのひとはこんなことをわめきながら言ってたっけ――今じゃもうみんなに捨てられたから、自分はこれから子供をつれて、手回し風琴を持って街へ出て、子供たちに歌わせたり踊らせたりする、そして自分も同じようにして金を集めながら、毎日将軍の窓の下へ行ってやるんだ……『そして、官吏の父を持った由緒ただしい子が、往来を乞食こじきみたいにして歩くところをあいつに見せてやるんだ!』なんか言って、子供たちを打つもんだから、子供たちはわいわい泣き出す始末です。レーニャに『田舎家』の歌を教えて、男の子には踊りを教える、ポーレチカも同様なんです。それから、着物という着物を引き裂いて、それでもって役者のような帽子を子供たちに作ったり、自分は楽器がわりにたたくんだといって、金だらいを持ち出そうとしたり……人のいうことなんか、てんで耳に入れることじゃない……まあ考えてもごらんなさい、なんということでしょう? もうお話にならんじゃありませんか!」
 レベジャートニコフは、もっとしゃべり続けそうだったが、ようやく息をつぎながらその話を聞いていたソーニャは、いきなり小外套マンチリヤと帽子を引っつかみ、走り走りそれを身につけながら、部屋の外へ駆け出してしまった。ラスコーリニコフはそのあとから飛び出した。レベジャートニコフもそれに続いた。
「確かに気が狂ったんですよ!」彼は連れ立って通りへ出ながら、ラスコーリニコフにこう言った。「僕はただソフィヤ・セミョーノヴナを驚かしたくないばかりに、『らしい』と言ったんですがもう疑う余地はありません。肺病患者にはこうした小結節が、脳へ出て来るそうですからね。残念ながら僕は医学の方のことを知らないんで。もっとも、僕はあのひとをなだめる試みはやってみたんですが、何一つ耳をかそうともしないんですよ」
「あなたは結節のことをあのひとに言ったんですか」
「いや、はっきり結節といったわけでもないんですよ。それに、あのひとはなんにもわかりゃしないんですからね! しかし僕が言いたいのはこうなんです。人ってものは、本質的に何も泣くわけがないのだと、論理的に説伏してやると、泣くのをやめるものですよ。これは明瞭めいりょうなことです。あなたのご意見はどうです、やめない方ですか?」
「それじゃ、生きていくのがあまり楽になりすぎますよ」とラスコーリニコフは答えた。
「待ってください、待ってください。もちろん、カチェリーナ・イヴァーノヴナにはかなり了解が困難でしょう。しかし、あなたはご承知ないかもしれませんが、パリではもう単なる論理的説伏の方法で、狂人を治療しうるという学説が現われて、まじめな実験が行なわれているんですよ。最近なくなったえらい学者の某教授が、その方法で治療しうると想像したのでね。その人の説によると、狂人には特別なオルガニズムの障害があるわけじゃない、精神錯乱はいわば論理的誤謬ごびゅう、判断上の錯誤、事物に対する不正確な見解にすぎないという、これが根本なんです。その教授は徐々に病人に論駁ろんばくして、どうでしょう、ついに好結果を得たという話です! もっともこの際、教授は霊魂をも利用したので、この治療の結果はもちろん疑問の余地を有しています……少なくも、そう思われますよ……」
 ラスコーリニコフはもう前から聞いてはいなかった。自分の家の前まで来ると、彼はレベジャートニコフに一つうなずいて、門内へはいってしまった。レベジャートニコフはわれに返って、あたりを見回すと、先の方へ駆け出した。
 ラスコーリニコフは自分の小部屋へはいり、そのまんなかに立ち止まった。『なんのために俺はここへ帰って来たのだろう?』彼は例の黄ばんだ傷だらけの壁紙や、ほこりや、例の長椅子などを見回した……内庭の方からは何かの鋭い物音が、絶間なく聞こえていた。どこかで何かくぎでも打っているような風である……彼は窓ぎわへ行って爪立つまだちしながら、異常な注意集中の表情で、内庭の中を目で捜してみた。けれど、内庭はがらんとして、たたいている人の姿は見えなかった。左手の離れには、そこここにあけ放した窓が見え、窓じきりの上には、貧弱な銭あおいの植わった鉢がおいてあった。窓の外には洗濯物が干してある……こんなものは皆そらで知っていた。彼はくるりと向き直って、長椅子に腰をおろした。
 彼はこれまでかつてあとにも先にも、かばかりの恐ろしい孤独を感じたことがなかった!
 そうだ、彼はソーニャを前よりさらに不幸にした今となって、ほんとうに彼女を憎むようになったかもしれない、こういうことを彼はもう一度感じた。
『俺はなんのために彼女の涙をねだりに行ったのだろう? なんのために彼女の生命をむしばむのが、ああまで俺に必要だったんだろう? おお、なんという卑劣なことだ!』
「俺は一人きりになるんだ!」彼はふいにきっぱりとこう言った。「あの女も監獄へ面会になんか来やしまい!」
 五分ばかりすると、彼は頭を上げて、妙ににやりと笑った。それは奇怪な想念であった。
『ことによったら、ほんとうに懲役の方がいいかもしれない』という考えがふいに浮かんだのである。
 彼は、頭に群がってくる漠とした想念と相対して、どれだけの間自分の部屋にじっとしていたか、覚えがなかった。ふいにドアがあいて、ドゥーニャがはいって来た。彼女は初め立ち止まって、ちょうど先ほど彼がソーニャを見たように、しきいの上から彼をみつめていたが、やがて部屋の中へはいり、昨日自分の席となっていた椅子に、彼と向き合って腰をおろした。彼は無言のまま、なんの想念もないように、ぼんやり彼女をながめた。
「怒らないでちょうだい、兄さん、わたしちょっと寄っただけなの」とドゥーニャは言った。
 彼女の顔の表情は物思わしげではあったけれど、きびしいところはなかった。そのまなざしは澄んで、落ち着いていた。彼はこの女もやはり愛をもって、自分のところへ来たのだなと悟った。
「兄さん、わたしはもう何もかも、何もかも知ってるのよ。ドミートリイ・プロコーフィッチがすっかり説明して、話してくだすったの。兄さんはばかばかしい、汚らわしい嫌疑を受けて、苦しめられてるんですってね……でも、ドミートリイ・プロコーフィッチは、何も心配な事はないのに、ただ兄さんがやたらに気にして、恐怖観念に襲われてるんだって、そうおっしゃったわ。だけど、わたしそうは思いません。兄さんがどんなに憤慨して、体じゅうの血を沸き返らせてらっしゃるか、ようくわかります。この口惜しさが永久にあとを残しやしないかと、それをわたしは心配するんですの。兄さんがわたしたちを捨てておしまいになったことでも、わたしは非難めいた事を言いません、そんな生意気なことできませんわ。せんわたしが兄さんを責めたのは、許してちょうだいね。わたし自分でもそう感じますわ――もし自分にそういった大きな悲しみがあったら、わたしもやはりいっさいの人から身を隠したでしょうよ。お母さんにはこの事は一口も話しません。けれども、兄さんの噂は始終するようにします。兄さんのおことづけというていさいで、もうやがていらっしゃるだろうと、そう言っておきますわ。お母さんのことは気に病まないでちょうだい。わたしがうまく安心させてあげます。だけど、兄さんもあまりお母さんを苦しめないでね。――せめて一度でいいから来てちょうだい。あれがお母さんだってことを思い出してちょうだい! 今わたしが来たのはね(とドゥーニャはたつ用意を始めた)、ただこれだけのことが言いたかったからですの。もしひょっとわたしが何かの役に立つことがあったら、でなければ……わたしの命でも、なんでも……入用なことがあったら……そしたらわたしを呼んでくださいね、いつでも来ますから。じゃ、さようなら!」
 彼女はくるりとくびすを返して、ドアの方へ行きかけた。
「ドゥーニャ!」とラスコーリニコフは呼びとめて立ちあがり、そのかたわらへ近づいた。「あのラズーミヒンは、ドミートリイ・プロコーフィッチは、実にいい男だよ」
 ドゥーニャはぽっとかすかに赤くなった。
「それで!」ちょっと待ってから、彼女はこう尋ねた。
「あの男は事務家で、勤勉で、正直な、そして強く愛することのできる男だ……じゃ、さようなら、ドゥーニャ」
 ドゥーニャはすっかり真っ赤になったが、やがて急に不安げな面持ちになった。
「兄さん、まあそれはなんの事ですの。いったいわたしたちはほんとに、永久に別れでもするんですの、だってわたしに……そんな遺言みたいなことを言ったりして?」
「どっちにしても同じことだ……さようなら……」
 彼はくるりと背を向けると、彼女から離れて窓の方へ行った。彼女はしばらく立ったまま、心配そうに兄を見ていたが、やがて不安に胸を騒がせながら出て行った。
 いや、彼は妹に冷淡だったのではない。一瞬間(いよいよ最後の瞬間)、彼は妹をひしと抱きしめていとまを告げ、何もかも言ってしまおうとさえ思った。しかし、彼は妹に手を与えることすら、思い切ってできなかったのである。
『今おれが抱きしめたということを、あとになってあれが思い出したら、おぞけをふるうかもしれない。そして、おれが妹の接吻を盗んだというだろう!』
『ところで、あれは持ちこたえられるだろうか、どうだろう?』と彼は五、六分してから、こう心の中で言い足した。『いや、持ちこたえられまい。あんな連中には持ち切れるものじゃない! あんな連中はけっして持ち切れたためしがない』
 彼はソーニャのことを考えたのである。
 窓からは冷気が流れて来た。外はもはや前ほど赤々と日がさしていなかった。彼はいきなり帽子をとって、外へ出た。
 彼はもちろん、自分の病的な状態をいたわることができなかったし、またいたわろうともしなかった。けれど、この絶間なき不安な内部の恐怖は、何かの結果を残さずに終わろうはずがなかった。彼がまた本当の大熱にかかって、床についてしまわないのは、つまりほかならぬこの絶間なき内部の不安が、彼の足を支え、意識を保っていたがためかもしれない。が、それはなんとなく人工的、一時的のものにすぎなかった。
 彼は当てもなくさまよい歩いた。太陽は沈みかかっていた。近ごろ彼はある特殊な憂愁を覚えるようになっていた。そこには何もかくべつ刺すようなものも、焼けつくようなところもなかったが、そこからは何かしら絶間のない、永遠の感じが漂って来て、かの冷たいいっさいを死化さすような、救いなき憂愁の長い年月が予感された。『方尺の空間』における無意味な永遠性が予感された。たいていたそがれ時になると、この感触はひとしお激しく彼をさいなみ始めるのであった。
「何かしら日没などに左右されるような、この愚劣きわまる、純然たる肉体的衰弱をかかえてるんだから、よっぽど気をつけなけりゃ、どんな馬鹿をしでかすかしれやしない! ソーニャのところはおろか、ドゥーニャのところへだっても懺悔ざんげに行きかねないぞ!」と彼はにくにくしげにつぶやいた。
 彼を呼ぶものがあった。振り返ってみると、レベジャートニコフが飛んで来ている。
「どうでしょう、僕はあなたのところへ行ったんですよ。あなたを捜してるんです。どうでしょう、あのひとは自分の計画を実行して、子供を連れて出ちゃったんですよ! 僕はソフィヤ・セミョーノヴナと一緒に、やっとのことで捜し出したんです。見ると、自分はフライパンをたたいて、子供たちを踊らせてるんですが、子供たちはしくしく泣いてるという始末でね。四つつじや小店の前に立ってやってるんで、弥次馬連がそのあとを追っかけ回しているんですよ。さあ行きましょう」
「で、ソーニャは?……」とラスコーリニコフはレベジャートニコフの後ろから急ぎながら、心配そうに尋ねた。
「ただもう夢中です。いや、ソフィヤ・セミョーノヴナじゃない、カチェリーナ・イヴァーノヴナの方です。もっとも、ソフィヤ・セミョーノヴナも夢中ですがね。が、カチェリーナ・イヴァーノヴナの方は、まるっきり夢中なんです。ぼく断言しますが、全く気が狂っちゃったんですな。警察へ連れて行かれるに決まっているが、もしそうなったらどんなショックを受けるか、およそ想像がおつきでしょう……あの人たちは今××橋の傍の濠端ほりばたにいます。ソフィヤ・セミョーノヴナの住まいからあまり遠くないとこ、ついそこです」
 橋からごく近い濠端で、ソーニャの住んでいる家から二軒とへだてぬところに、ちょっと人だかりがしていた。ことに男の子や女の子が駆け集まっていた。カチェリーナのしゃがれたかきむしるような声が、早くも橋のあたりから聞こえていた。それは実際、弥次馬連の興味をひくに足る奇怪な観物だった。いつもの古ぼけた着物をきて、ドラデダーム織の肩掛をかぶり、見苦しい塊りになって脇の方へずっている壊れた帽子を頭にのせたカチェリーナは、全く正真正銘の逆上状態になっていた。彼女は疲れて息をきらせていた。その弱り果てた肺病やみらしい顔は、ふだんよりひとしお苦しそうに見えた(それに、肺病患者というものは、家の中にいる時よりも外光の中で見る方が、ずっと病人くさく、醜く見えるものである)。けれど、彼女の興奮状態はなかなか静まらなかった。彼女は一刻一刻とますますいらだたしげになっていった。彼女は子供たちに飛びつくようにして、どなりつけたり、さとしたり、人の大勢いる前で踊り方や歌い方を教えたり、なんのためにこんな事をするのか言い聞かせたりしたが、子供たちの飲み込みが悪いのに業を煮やして、彼らをたたくのであった。それから、何かしさしにして、群衆の方へ飛んで行き、ちょっとでも小ぎれいな服装なりをした人が、立ち止まって見物しているのを見つけると、すぐにその男をつかまえて、『素性の正しい、貴族といってもいいくらいな家』の子供らが、なんという身の上になったものかと、口説き始める。もし群衆の中に笑い声や、からかうようなことばを聞きつけると、いきなりその無作法ものに食ってかかり、ののしり合いを始めた。ある者はじっさい笑ったし、ある者は小首を振っていた。とにかくおびえて小さくなっている子供たちを連れた狂女を見るのは、誰にしても面白かったのである。レベジャートニコフの話したフライパンはなかった。少なくともラスコーリニコフは見かけなかった。けれどフライパンをたたく代わりに、カチェリーナはポーレチカに歌をうたわせ、レーニャとコーリャを踊らせる時には、そのかさかさした手を打ち合わせて拍子をとっていた。同時に彼女は自分でも一緒に歌おうとしたが、そのつどこみ上げるせきに妨げられ、第二句あたりでとぎれてしまった。そのためにまた業を煮やして、情ない咳をのろいながら、涙さえ流した。わけても何より彼女を逆上させたのは、コーリャとレーニャの泣声と、おどおどした様子だった。実際レベジャートニコフの話した通り、子供たちに大道芸人風のいでたちをさせようという試みもあったのである。男の子はトルコ人のつもりで、何やら白に赤のまじったターバンを巻いていたが、レーニャには衣裳いしょうがなかったので、ただ頭に亡夫の紅い毛糸の帽子(あるいはナイトキャップといった方がいいかもしれない)をかぶせて、それに、カチェリーナの祖母の持物で、今まで家宝として箱の中へしまってあった、白いだちょうの羽の切れっぱしがさしてあった。ポーレチカはふだん着のままである。彼女は途方に暮れて、おろおろと母を見まもりながら、しばしの間も傍を離れなかった。彼女は涙をかくすようにしていたが、母の発狂を察して、不安げにあたりを見回していた。往来と群衆は恐ろしく彼女を脅かしたのである。ソーニャは絶えず、家へ帰るようにと、泣き泣き頼みながら、カチェリーナのそばを離れずについて歩いていた。けれど、カチェリーナはいっかなきこうとしなかった。
「およし、ソーニャ、およし!」彼女は急ぎ込んで息を切らし、ごほんごほんき入りながら、早口にこう叫んだ。「お前は自分でも何を頼んでるんだか、わかっていないんだろう、まるで子供だね! わたしはもうさっきお前にそう言ったじゃないか――あの酔っ払いのドイツ女のところへは、二度と帰りゃしないって。わたしは世間の人に、ペテルブルグじゅうの人に見せてやるんだよ。忠実に正直に一生お上の勤めをして、職務中に倒れたといってもいいくらいの父親を持った、素性の正しい子供たちが、物ごいをして歩くところを見せてやるんだよ(カチェリーナは、早くもこうした幻を作り上げて、それを妄信してしまったのである)。あのやくざな将軍めに見せてやる、見せてやるとも。それに、お前もばかだねえ、ソーニャ。この先わたしたちはどうして食べていくんだえ。わたしたちはもうずいぶんお前をいじめたんだから、この上あんなことはしたくない! あら、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたですか!」とラスコーリニコフを見つけて、その方へ駆け寄りながら、彼女は叫んだ。
「どうぞね、あなたお願いですから、このおばかさんに言い聞かしてやってくださいな――これよりりこうなやり方はないってことを! 手風琴回しだって稼ぎがあるんですもの、わたしたちなんかすぐに見分けてもらえます。乞食こじきにまで成り下がっていても、もとは素性のいい気の毒な家族だということを、知ってくれるに決まってます。あの将軍めなんかは、今に免職になるから、見てらっしゃい! わたしたちは毎日あいつの窓の下へ行ってやります。そのうちに皇帝さまがお通りになったら、わたしはその御前にひざをついて、子供たちを前の方へ突き出してお目にかけながら、『父よ、お守りください!』と申し上げる。皇帝さまはみなし児の父で、お情深くいらっしゃるから、見ててごらんなさい、きっと守ってくださいます。あの将軍めなんか……レーニャ! Tenez vous droite!(体をしゃんとして)コーリャ、お前はすぐもう一度おどるんだよ。何をめそめそしてるの? まためそめそ始めた! え、いったいお前はなにが怖いんだえ、おばかさんだね! ああ、なさけない、ほんとうにこの子らをどうしたらいいでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ? あなたはご存じないでしょうけれど、ほんとうにわからずやで困ってしまいますよ! ああ、こんな者をどうしたらいいんだろう!……」
 彼女は自分でもほとんど泣かないばかりに(しかしそれでも、のべつやみ間なく早口にしゃべりたてるじゃまにはならなかった)、しくしく泣いている子供たちを彼に指さして見せた。ラスコーリニコフは帰宅をすすめようと試みながら、彼女の自尊心に働きかけるつもりで、手風琴回しと同じように町をうろつき歩くのは、立派な女学校長たるべき彼女としてはしたないことだ、とまで言ってみた。
「女学校、は、は、は! そんなおとぎ話は、いくら美しくたってだめですよ!」とカチェリーナは叫んだが、笑ったかと思うと、すぐさま激しく咳き入るのであった。「いいえ、ロジオン・ロマーヌイチ、夢はもう消えてしまいました! わたしたちはみんなに捨てられたのです!……あの将軍め……ロジオン・ロマーヌイチ、実はねえ、わたしあいつにインキつぼをほうりつけてやったんですよ――ちょうど小使部屋のテーブルの上にあったんですの、皆が署名して行く紙(わたしも署名しましたわ)の傍にあったんですの、それをほうりつけて、さっさと逃げ出してやりましたよ。ああ、なんてさもしいやつらだろう、なんてさもしいやつらだろう! でも、勝手にしやがれだ。わたしは今から自分でこれたちを養っていきます、誰にも頭なんか下げやしない! もうあの子に苦労をかけるのはたくさんです! (彼女はソーニャをさしてみせた)。ポーレチカ、いくら集まったの、お見せ! え? 皆でたった二カペイカ? なんてきたない連中だろう! 舌を吐き出しながら、人のあとを追っかけて歩くだけで、なんにもくれやしない! ふん、何をこのでくの坊は笑ってやがるんだ? (と彼女は群衆の中の一人を指さした)。これというのも、みんなこのコーリャがわからずやだからです、世話ばかり焼かすからです! お前はなんだい、ポーレチカ? さあ、わたしにフランス語でお話し、Parlez moi fran※(セディラ付きC小文字)ais(私にフランス語でお話し)だって、わたしが教えてやったじゃないか、お前は幾つか文句を知ってるじゃないか!……でなけりゃ、お前たちが上品な家庭の子供で、教育があって、そんじょそこらの手風琴回しとは違うんだってことが、わかりっこないじゃないか。わたしたちは街なかで『ペトルーシカ』(指人形の芝居)をやってみせるのじゃなくて、上品なロマンスを歌うんですよ……ああそうだ! ところでわたしたちは何を歌ったらいいんだろう? あなたがじゃまばかりお入れになるもんだから、わたしたちは……ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしたちがここに立ち止まったのは、何かいい歌をより出すためなんですよ――つまり、コーリャにも踊れそうなものをね……だってね、お察しでしょうけれど、わたしたちは用意なしにこんな事をやってるんですものね。だから、すっかり練習をして申し合わせをした上、ネーフスキイ通りへ行くつもりですの。あすこへ行けば、上流社会の人がずっとたくさんいますから、わたしたちをすぐ見分けてくれます。レーニャは『田舎家』を知っています……今たれもかれも『田舎家』『田舎家』で、猫もしゃくしも歌いますが、わたしたちはもっとずうっと高尚なものを歌わなくちゃなりません……さあ、お前は何を考え出したえ、ポーリャ、せめてお前でもお母さんを助けてくれたらねえ! わたしは覚えというものがなくなってしまったんだもの。さもなけりゃ、いろんなものを思い出すんだけど! だって『軽騎兵はつるぎりつ』なんか、歌うわけにゃいかないからねえ! ああそうだ、フランス語で『Cinq sousサン スウ』をうたおうよ! ほら、お前たちにもわたしが教えてあげたじゃないか、教えてあげたじゃないか。それに第一、フランス語だから、お前たちが上流の子供だってことがすぐわかって、その方がずっといじらしく聞こえるよ……それから『Malborough s'en-va-t-en……guerre』(マルボルーの大将は戦争をしに行かしゃった)でもいいねえ! これは本当の子供の歌で、貴族の家じゃどこでも子供を寝かす時に歌うものなんだから」

Malborough s'en-va-t-en guerre
Ne-sait quand reviendra ……
マルボルーの大将は戦争をしに行かしゃった
いつ帰りゃんすことじゃやら

 と彼女はうたいかけたが、
「いや、これよかやっぱり『Cinq sousサン スウ』の方がいい! さあ、コーリャ、両手を腰に当てて、早くさ、レーニャお前も向こっ側へ回ってお行き。わたしとポーレチカが歌をつけて、拍子をとってあげるから!

Cinq sous, cinq sous
Pour monter notre m※(アキュートアクセント付きE小文字)nage……
たったの五銭、たったの五銭
それが暮しの命綱

 ごほん、ごほん、ごほん! (彼女は身もだえしながら咳き入った)。着物を直しておやり、ポーレチカ、肩が下がったじゃないか」と彼女はようやく咳の切れ目に注意した。「こうなったら、お前たちはいっそう所作しょさふるまいに気をつけて、上品にしなくちゃいけませんよ。みんなが由緒ある家の子だと気がつくようにね。わたしはあの時そう言ったんだけど――チョッキを少し長めにして、その上二幅に裁つようにって。それを、ソーニャ、お前があのとき、『短かく、短かく』って口を出すもんだから、子供がこんなみっともないかっこうになってしまったじゃないか……ちょっ、またお前たちは誰もかれも泣いてるね! なんのためなの、馬鹿だねえ! さあ、コーリャ早くお始め、さ、早く、早くったら――ええ、ほんとになんてやりきれない子供だろう!……

Cinq sous, cinq sous

 また兵隊が来たよ! いったいお前さん何用だい?」
 なるほど、一人の巡査が群衆を押し分けてきた。が、それと同時に、官吏の略服に外套がいとうをまとい、首に勲章をつけた(それがカチェリーナには愉快でたまらないらしいし、巡査の心持にも影響を与えたのである)、五十格好の立派な紳士が近づいて、無言のままカチェリーナに緑色の三ルーブリ紙幣を与えた。彼の顔には心から同情が現われていた。カチェリーナはそれを受けて、うやうやしく、というより儀式ばった会釈をした。
「あなた、どうも有難うございます」と彼女は高飛車に言い出した。「わたしたちがこんなことをするようになったわけと申すのは……お金を預っておくれ、ポーレチカ。ね、ごらん、この通り不幸に沈んでいる哀れな貴婦人をさっそく助けてくださる、高潔な腹の大きい方があるもんだよ。あなた、これが由緒ただしい、貴族といってもいいくらいの家に親戚しんせき知己をもった、みなし児だってことはおわかりでございましょうね。それをあの将軍めは食堂にすわり込んで、山鳥なんか食べていましてね……わたしがじゃましたといって、地だんだ踏むじゃありませんか……わたしはそう申したんでございますよ。『閣下、なくなったセミョーン・ザハールイチを、よくご存じなのでいらっしゃいますから、どうぞみなし児たちをお守りください。卑劣も卑劣も、またとないほど卑劣なやつが、たくの生みの娘の顔に泥を塗ったのでございますから……しかもあの人の死んだ日に……』ああ、またあの兵隊が! どうぞ助けてください!」と彼女は官吏に向かって叫んだ。「なんだってあの兵隊はひとにつきまとうんだろう? もう町人街メシチャンスカヤでも一人やって来たものですから、ここへ逃げて来たんですのに……さあ、お前なんの用があるんだい、ばか!」
「往来でこんなことは禁じられておるんです、ぶていさいなことをしちゃいけません」
「お前こそ無作法ものじゃないか! わたしは手風琴回しと同じわけだよ、お前の知ったことじゃありゃしない!」
「手風琴回しなら鑑札がいります。ところが、あなたは自分勝手にそんなことをして、人だかりなんかさしているんですからな。お住まいはどちらです?」
「なに鑑札だって?」とカチェリーナはわめき立てた。「わたしは今日主人の葬式をしたばかりなんだよ。なんの鑑札どころかね!」
「奥さん、奥さん、まあ気をお落ち着けなさい」と官吏は口を入れた。「さあ行きましょう、わたしがあなた方を送ってあげます……こんなに人だかりのしている所ではぶていさいですから……あなたは体も本当でないし……」
「どういたしまして、どういたしまして、あなたはなんにもご存じないのです!」とカチェリーナは叫んだ。「わたしたちはネーフスキイ通りへ行くんですもの――ソーニャ、ソーニャ! まあ、いったいあの子はどこへ行ったんだろう? やっぱり泣いてるんだ! お前たちはみなそろいもそろってどうしたというんだね!……コーリャ、レーニャ、お前たちはどこへ行くの?」と彼女はぎょっとしたように叫んだ。「まあ、なんてばかな子供たちだろう! コーリャ、レーニャ、いったいあの子たちはどこへ行くんだろう!」
 それはこうだった。往来の人だかりと、気の狂った母親の突飛なしぐさにすっかりおびえ上がっていたコーリャとレーニャは、巡査が彼らをつかまえて、どこかへ連れて行こうとするのを見ると、いきなり言い合わせたように、手に手を取って駆け出したのである。哀れなカチェリーナはけたたましい悲鳴を上げ、そのあとを追っかけて行った。息を切らせながら泣き泣き走って行く彼女の姿は、見苦しくもあれば痛ましくもあった。ソーニャとポーレチカも、続いて駆け出した。
「つれて帰っておくれ、あの子たちをつれて帰っておくれ、ソーニャ! ああ、なんてばかな、恩知らずな子供たちだろう! ポーリャ! 二人をつかまえておくれ……お前たちのためを思えばこそわたしは……」
 彼女は一生懸命に走る勢いでつまずいたと思うと、どうとばかりその場へ倒れた。
「まあ、怪我けがをして血だらけ! ああ、どうしよう!」とソーニャは一声叫んで、彼女の上に身をかがめた。
 人々ははせ集まって、そのまわりにひしめき合った。ラスコーリニコフとレベジャートニコフは、まっさきに駆けよった。官吏も同じく急いで来た。巡査もそのあとからついて来たが、事が面倒になりそうだなと直覚して、片手を振りながら、『やれやれ!』とつぶやいた。
「どいた! どいた!」と彼は四方から詰め寄る群衆を追いのけようとした。
「死にかかってるぞ!」と誰かがわめいた。
「気が狂ったんだよ!」ともう一人が言う。
「ああ、とんでもない!」と一人の女が十字を切りながら言った。「その娘っ子と餓鬼がきはつかまったのかしら? ああ、あすこに連れられて来る、姉っ子がつかまえたんだよ……きかんぼうだねえ!」
 けれど、カチェリーナをよく調べてみたとき、彼女はソーニャの考えたように、石にぶっつかって怪我をしたのではなく、歩道をあけに染めた鮮血は、彼女の胸から吐き出されたのだとわかった。
「これはわたしも知っております、見たことがあります」と官吏はラスコーリニコフとレベジャートニコフに向かって、しどろもどろに言った。「こりゃ肺病ですよ。こんな風に血がどっと出て、のどがつまるんですな。親戚の女にありましたよ、つい近ごろ見せられましたよ。さよう、コップにかれこれ一杯半くらい……しかも突然……しかし、いったいどうしたものでしょうな、今に死んでしまいますよ」
「こっちへ、こっちへ、わたしの家へ!」とソーニャは祈るように言った。「わたしはちょうどここに住まっているのですから!……ほら、あの家、ここから二軒目ですの……さ、わたしのところへ、早く早く!……」一同に飛びかかるようにしながら、彼女は言った。「お医者を呼びにやってください……ああ、どうしよう!」
 官吏の尽力で、事はうまく運んだ。巡査までがカチェリーナを運ぶ手伝いをした。彼女はほとんど死んだような有様で、ソーニャのところへかつぎこまれ、寝台の上にねかされた。出血はまだやまなかったが、当人はだんだん正気に返りかけたらしかった。部屋の中へは、ソーニャのほかにラスコーリニコフとレベジャートニコフ、それに官吏と、群衆を追い払った巡査が、一どきにはいって来た。群衆の中の幾人かは、戸口のところまでついて来た。ポーレチカは、震えながら泣いているコーリャとレーニャの手を引いてきた。カペルナウモフの家のものも集まってきた。当の亭主はびっこで目っかちで、こわい髪や頬ひげが針のように突ったった、奇妙な風体の男だった。なんだか永久におどしつけられたような顔をした女房も、年じゅうびっくりしているので化石したような顔をし、口をぽかんとあけたいくたりかの子供たちもやって来た。こうした連中の中に、突然スヴィドリガイロフが姿を現わした。ラスコーリニコフは、彼を町の群衆の中に見た覚えがないので、どこから来たのか合点がいかず、驚いたように彼をみつめた。
 医者や僧侶そうりょの話が出た。官吏はラスコーリニコフに向かって、こうなったらもう医者は無駄だろうとささやきながらも、迎えにやる指図をした。カペルナウモフが自分で駆け出したのである。
 その間に、カチェリーナはやや落ち着いて、喀血かっけつも一時とまった。彼女は病的な、けれど心の底までしみこむような目で、哀れなソーニャをじっとみつめていた。彼女は義母の額から玉の汗をハンカチでふきながら、わなわな震えていた。やがてカチェリーナは、起こしてくれと言い出した。人々は彼女を両側から支えながら、寝台の上にすわらせた。
「子供たちはどこ?」と彼女は弱々しい声で尋ねた。「ポーリャ、お前二人を連れて来たかえ? ほんとにばかったらない!……え、なんだって駆け出したの……ああ!」
 血はまだ彼女の乾いた唇に、いっぱいこびりついていた。彼女は調べてみるように、あたりにぐるりと目をくばった。
「なるほど、お前はこんな風に暮らしてるんだね、ソーニャ! わたしはまだ一度も来たことがなかったが……思いがけなく見られることになった」
 彼女はさも苦しげにソーニャを見た。
「わたしたちはすっかりお前の生血を吸ってしまったねえ、ソーニャ……ポーリャ、レーニャ、コーリャ、ここへおいで……さあ、これでみんなだ、ソーニャ、どうぞこの子たちを引取っておくれ……手から手へ渡すよ……わたしはもうたくさんだ!……芝居もこれで幕切れだ! ああ! もうねさせておくれ、せめて死ぬだけでも静かに死なせて……」
 人々は再び彼女を枕につかせた。
「え? 坊さん?……いらない……わたしたちにどうしてそんな余分なお金があるものかね?……わたしには罪障つみとがなんかありません……でなくたって、神様は許してくださる……わたしがどんなに苦しんだか神様はちゃんとご存じでいらっしゃる……でも、許してくださらなけりゃ、それもかまわない!……」
 不安な失神状態がしだいに強く彼女を領していった。時おり彼女は身震いして、あたりを見回し、ちょっと一瞬、一同を見分けたが、すぐに意識はうわ言にかわった。彼女は苦しげにしゃがれた息をした。何か喉でごろごろいっている風だった。
「わたしはあの人に言いました。閣下……」一言ずつで息を継ぎながら、彼女は叫んだ。「あのアマリヤ・リュドヴィーゴヴナめ……ああ! レーニャ、コーリャ! お手々を腰に当てて、早く、早く、滑足グリッセ滑足グリッセ、パー・ド・バスク(バスク風の足づかい)足で拍子をとって……すっきりした可愛い子になるんですよ。

Du hast Diamanten und Perlen ……
ダイアモンドや真珠ばかりか……

 その先はどうだったけ? そうだ、これを歌ったらいいよ……

Du hast die sch※(ダイエレシス付きO小文字)nsten Augen.
M※(ダイエレシス付きA小文字)dchen was willst du mehr?
上なく美しいひとみを持って
乙女よこの上なにを望むぞ?……

 ふむ、そりゃそうでなくってさ! was willst du mehr――なんてことを考えつくものだろう、まぬけめ!……ああそうだ、まだこんなのがあったっけ。

真昼の暑さ!……ダゲスタンの!……谷間にて!……

 ああ、わたしはこれがどんなに好きだったろう……わたしはこの小唄ロマンスがたまらなく好きだったんだよ、ポーレチカ!……これはお前のお父さんがね……まだ約婚いいなずけのころよくおうたいになったんだよ……ああ、あのころは!……これだ、これを歌ったらいいんだ! おや、どうだったっけ、どうだったっけ……ああ、わたし忘れちまった……ねえ、思い出さしておくれ、どうだったっけ?」
 彼女は激しく興奮しながら身を起こそうとあせった。とうとう彼女は、一言一言叫ぶようにしては息を継ぎながら、何やら刻々募っていく驚愕きょうがくの表情で、はらわたをたつような恐ろしいしゃがれ声で歌い始めた。

真昼の暑さ!……ダゲスタンの!……谷間にて……胸に鉛の弾丸たまを持ち!……(レールモントフの詩「夢」

「閣下!」ふいに彼女はさめざめと涙にくれながら、胸を裂くような悲鳴とともにこう叫んだ。「みなしたちをお助けくださいまし! なくなったセミョーン・ザハールイチの饗応もてなしをおぼし召して!……貴族といってもいいくらいの!……ああ!」彼女は突然われに返って、何かぎょっとしたようにあたりを見回しながら、ぴくりと身を震わしたが、すぐソーニャに気がついた。「ソーニャ、ソーニャ!」ソーニャが前に立っているのに驚いたように、彼女はつつましやかな優しい声でくり返した。「ソーニャ、可愛いソーニャ! お前もここにいたの?」
 人々はもう一度彼女を起こした。
「たくさんだ!……もうおさらばをしていいころだ!……さようなら、ソーニャ、お前も苦労したねえ!……みんなで痩馬やせうまを乗りつぶしたんだ!……もう精も根も尽きはーてーたー」と彼女は絶望したように、にくにくしげにひと声叫ぶと、どうとばかり枕の上に頭を落とした。
 彼女は再び意識を失った。けれど、この最後の昏睡こんすい状態は長くも続かなかった。彼女のやせ衰えた青黄ろい顔は、仰向けにがっくりたれ、口はいっぱいに開いて、足はけいれんするようにぐっと伸びた。彼女は深い深い息をついて、ついにこときれた。
 ソーニャは空しいむくろの上に倒れ、両手でひしと抱きかかえ、やせ細った胸に頭を押しつけたまま、じっと身動きもしなかった。ポーレチカは母の足もとに身を投げると、しゃくり上げて泣きながら、しきりに接吻せっぷんするのであった。コーリャとレーニャは、まだ何ごとが起こったのかわからなかったが、何か非常に恐ろしいことを予感して、互いに両手で肩をつかみあい、互いにじっと眼をすえ合っていたが、いきなりそろって一時に口をあけ、わっと大声に泣き出した。二人ともまだ衣裳をつけていた――一人はトルコ頭巾ずきんを巻き、いま一人はだちょうの羽根飾りのついたおわん帽子をかぶったまま。
 いつの間にどうして出たのか、例の『賞状』がふと寝台の上に、カチェリーナのそば近くころがっていた。それはすぐそこの枕もとにあった。ラスコーリニコフはそれに気がついた。
 彼は窓の方へ離れて行った。レベジャートニコフがその傍へ飛んで来た。
「死にましたなあ!」とレベジャートニコフは言った。
「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたに一言申し上げなけりゃならんことがあるのですが」とスヴィドリガイロフが寄って来た。レベジャートニコフはすぐに場所を譲り、気をきかして姿を消してしまった。スヴィドリガイロフはびっくりしているラスコーリニコフを、なおも奥まった隅の方へ引っ張って行った。
「今度のいっさいの面倒は、つまり葬儀万端のことは、わたしが引受けます。なに、ただ金さえあればいいんでしょう。ところが、この前もお話しした通り、わたしにはいらない金があるんですから。わたしはこの二人のひなっ子とポーレチカを、どこかなるべく気のきいた孤児院へ入れてやります。それからソフィヤ・セミョーノヴナがすっかり安心するように、三人が丁年に達するまで、一人あたま千五百ルーブリずつてといてやりましょう。それにソフィヤ・セミョーノヴナも、泥沼から引出して上げます。だって、いい娘さんですものね、そうじゃありませんか? で、どうかあなたからアヴドーチャ・ロマーノヴナに、あのひとの一万ルーブリはこういう風に使ったとお伝えを願いたいのです」
「いったいあなたはなんの目的で、そんな慈善の大盤振舞をするんです?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「ええっ! 疑り深い人だ!」とスヴィドリガイロフは笑い出した。「そう言ったじゃありませんか、その金はわたしにゃ不用なんだって。それに、単に人道上からいっても、あなたはこれだけのことすら許さないとおっしゃるんですか、え? だってあの女は(と彼は死骸しがいのある方を指さした)、どこかの金貸ばばあみたいに、『しらみ』だったわけじゃありませんからね。そうじゃありませんか、『実際、ルージンが生きて卑劣なことをすべきか、それともあの女が死なねばならぬか?』ですよ。もしわたしが助けなかったら、『たとえばポーレチカだって、やはり同じ道を行く』ことになるじゃありませんか……」
 彼は意味ありげに目くばせでもするような、陽気ないたずらっ子らしい顔つきで、ラスコーリニコフから目も放さず、これだけのことを言い終わった。ラスコーリニコフは、ソーニャに言った自分自身のことばを聞き、みるみる真っ青になって、冷水を浴びせられたような気がした。彼はたちまち一歩後ろへよろけて、けうとい目つきでスヴィドリガイロフを見つめた。
「ど、どうして……あなたは知ってるんです?」かろうじて息をつぎながら、彼はささやくように言った。
「だって、わたしはここに、壁一重ひとえ隔てて、レスリッヒ夫人のとこに下宿してるんですからな。こっちはカペルナウモフ、あっちにはレスリッヒ夫人、わたしの古い親友ですよ。だから隣り同士なので」
「あなたが?」
「わたしが」体をゆすって笑いながら、スヴィドリガイロフはことばを続けた。「で、親愛なるロジオン・ロマーヌイチ、誓って言いますが、わたしはあなたに驚くほど興味を感じ出したんですよ。ねえ、わたしはそう言ったでしょう――われわれはきっとうまが合うだろうって、ちゃんと予言しといた――ところが、はたしてこの通りうまが合った。いや、わたしがどんなに調子のいい人間か、今におわかりになりますよ。見ておってごらんなさい、わたしとなら、なに、一緒に暮らしていけますよ……」
[#改ページ]


第六篇



 ラスコーリニコフにとって、不思議な時期が襲ってきた。ちょうどふいに霧が目の前に立ちこめて、出口のない重苦しい孤独の中へ、彼を閉じ込めてしまったようなぐあいである。ずっと時がたった後で、この時期のことを思い起こしてみると、その当時意識がもうろうとしていたらしく、しかも途中いくたびか切れ目はあったものの、それが最終の破局まで続いていたのに、彼は自分でも気がついた。彼はそのころさまざまなこと、たとえば起こった事の期間とか時日とかで考え違いしていた――それを彼ははっきりと確信することができた。少なくとも、その後何かの事を思い起こして、その思い出したものを自分にはっきりさせようと努めた時、彼は多く第三者から受けた情報にたよりながら、いろいろ自分のことを知ったのである。彼は一つの事件を別の事件とごっちゃにしたり、またはある事件をもくして、自分の思念裡しねんりにのみ存在する事件の結果みたいに思い込んだりした。時とすると、極度な恐怖に変じた病的に悩ましい不安が、彼の全幅を領することもあった。かと思うと、これまでの恐怖に打って変わった、ゆるみ切った倦怠けんたいが彼を領する数分、数時間、いや、あるいは数日さえもあったように覚えている――それはある種の瀕死ひんしの病人に起こる、病的な無関心状態に似た倦怠だった。概してこの最近数日間というもの、彼は自分でも自分の状態を明瞭めいりょうに、完全に了解するのを避けようと苦心していたような風であった。特にゆうよなく闡明せんめいを要するある種の緊急な事実が、かくべつ彼の心に重くのしかかった。それを忘れたら、彼の立場としていやおうなしに、完全な破滅を招来する恐れがあることでも、彼はある種の煩いをのがれて自由になれたら、どんなにうれしいかと思った。
 ことに彼の心を騒がせたのはスヴィドリガイロフであった。彼の心はスヴィドリガイロフの上に縛りつけられていた、と言ってもいいくらいである。カチェリーナの臨終の時、ソーニャの住まいでスヴィドリガイロフの言ったことば――彼にとってあまりにも恐ろしい、あまりにも明白に語られたことばを聞いて以来、彼の平常の思想の流れはかき乱されたようなぐあいになった。しかし、この新しい事実が極度に彼を騒がしたにもかかわらず、ラスコーリニコフはなぜか事態の闡明を急ごうともしなかった。時々彼はどこか遠くの淋しい場末で、みすぼらしい安料理屋のテーブルに向かって、一人瞑想めいそうに沈んでいる自分をふと見出みいだして、どうしてこんなところへ来たのか、ほとんど合点のいかない有様でいながら、急にスヴィドリガイロフの事を考え出すのであった。すると、ふいに、一時も早くあの男と話し合って、できるだけきっぱり解決してしまわねばならぬという不安な意識が、明瞭すぎるほどはっきり浮かんできた。一度など、どこかの見付け外へさしかかったとき、彼は今ここでスヴィドリガイロフを待っているので、二人はここで会見する約束になっていたっけ、などという妄想を起こしたことさえあった。かと思えば、またある時は夜明け前に、どこかやぶの中の地べたで目をさまし、どうしてこんなところへさ迷って来たのかと、われながらわけのわからなかったこともある。もっとも、カチェリーナが死んでから二、三日の間に、彼はソーニャの住まいで、すでに二度もスヴィドリガイロフと会っていた。彼はそこへなんの当てもなく、ちょっと一、二分のつもりで寄ってみたのである。彼らはいつも簡単に一言二言口をきき合っただけで、一度もかんじんの点には触れなかった。ちょうど、それについてはある時機まで待つという黙契が、二人の間に自然と成立しているようなぐあいであった。カチェリーナの遺骸はまだひつぎにはいったままだった。スヴィドリガイロフは葬式の世話で奔走していた。ソーニャも同じく忙しそうにしていた。最後に会った時、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフに向かって、カチェリーナの子供たちは自分が始末をつけた。しかもうまく始末をつけた、自分は多少いい手づるがあるので、適当の人をいくたりか見つけたから、その助力をかりて、三人の孤児みなしごをしごくぐあいのいい孤児院へさっそく入れることができた、何しろ資産を持っている孤児は、まる裸の孤児よりずっと始末がしいいので、自分の提供した金がいろいろ役に立った――などと報告した。彼はソーニャの事も何やら言って、二、三日のうちに、自分でラスコーリニコフを訪ねようと約束した。そして、『よくお話しした上ご相談したいと思っております。重大な用件がありますのでな』と言った。この会話は、階段に近い入り口の廊下でかわされたのである。スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの目をじっとみつめていたが、しばらく無言の後に、ふいに声を落として問いかけた。
「いったいあなたはどうなすったんです、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで生きた空もないみたいじゃありませんか? まったく、聞きもし見もしていらっしゃるけれど、なんにもおわかりにならない様子だ。もっと元気を出しなさいよ。まあ、一つよくお話ししましょう。ただ残念なことには、用事が多くてね、人のことだの自分のことだの……ああ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼は急に言い足した。「人間は誰しも空気が必要ですよ。空気がね……それが一番ですよ!」
 折からそこへ階段を上って来た司祭と補祭を通すために、彼はいきなりわきへ身を引いた。彼らは看経かんきんに来たのである。スヴィドリガイロフの指図によって、看経は日に二度ずつきちょうめんに行なわれた。スヴィドリガイロフは自分の用で行ってしまった。ラスコーリニコフはしばらくそこに立って考えていたが、やがて司祭のあとについて、ソーニャの住まいへはいって行った。
 彼は戸口に立ち止まった。勤行ごんぎょうは静粛に秩序整然と、物悲しげに始められた。彼はずっと子供の時分から、死を意識し死者の存在を感じるたびに、なんとなく重苦しい神秘的な恐ろしいものが、そこに伴うのであった。それに、彼はもう久しい以前から、こうした法要の席に、連なったことがなかった。おまけに、そこにはまだ何かほかの、あまりにも恐ろしい、不安なものがあったのである。彼は子供たちを見やった。彼らはみな棺の傍にひざを突いていた。ポーレチカは泣いている。その後ろには、ソーニャがおじけたように、声を忍んで泣きながら祈っている。『そうだ、彼女あれはこの二、三日、おれを一度も見もしなければ、一言も口をきかなかったっけ』とラスコーリニコフはふとそんなことを考えた。太陽は明るく家内を照らしてい、香の煙は渦まきながら立ち昇っている。司祭は『主よ、やわらぎを与え給え』を読み上げた。ラスコーリニコフは勤行の間ずっと立ち尽くした。祝福していとまを告げながら、司祭はなんとなく妙な目つきであたりを見回した。勤行が終わってから、ラスコーリニコフはソーニャの傍へ寄った。彼女はふいに彼の両手を取り、その肩へ頭をのせた。このちょっとした親しみの動作はラスコーリニコフに、ぎょっとするほど不思議な感じを与えた。彼は合点がいかないくらいだった。どうしたことだろう? 自分に対していささかの反撥はんぱつも、いささかの嫌悪も見られないし、彼女の手にいささかのおののきも感じられない! これは何か一種無限の自己卑下に相違ない。少なくとも、彼はこう解釈した。ソーニャは何も言わなかった。ラスコーリニコフは彼女の手を握りしめ、そのまま外へ出た。
 彼はたまらなく苦しくなった。もしこの瞬間どこかへ行ってしまって、完全に一人きりになれたら、よしやそれが一生続こうとも、彼は自分を幸福と思ったに相違ない。けれど困ったことには、このごろ彼はほとんどいつも一人でいるくせに、どうしても自分が一人だと感じられないのであった。彼はしょっちゅう郊外へ去ったり、街道へ出たり、一度などは、どこかの森の中までさまよい入ったこともあるが、淋しい場所へ行けば行くほど、何物かの間近な不安にみちた存在が、いよいよ強く意識された。それは恐ろしいというのではないにせよ、何かしら非常にいまいましい気持を呼び起こすので、彼はいつもあわてて街の方へ引っ返し、群衆の中に交じったり、安料理屋や酒場へ行ったり、古物市や乾草広場センナヤへ足を向けたりするのであった。こういう場所にいると、それこそなんだか気が楽で、かえって孤独な感じさえするのであった。日暮れ間ぎわに、ある居酒屋で歌をうたっていた。彼はそれを聞きながら、まる一時間も腰をすえていたが、それが非常に愉快にさえ思われたのを、後々までも覚えていた。しかし、終わりごろになると、彼はまたぞろ急に不安になった。それは良心の呵責かしゃくがにわかに彼を悩まし始めたような風であった。『おれは今こうして腰かけて歌を聞いているが、俺がしなくちゃならないのは、いったいこんなことなんだろうか!』このように彼は考えたものらしい。もっとも、すぐその瞬間、自分の心を騒がせるのはあながちこればかりでないのに気がついた。そこには、何かゆうよなく解決を要求しているものがあったけれど、それは考えに表わすことも、ことばに伝えることもできないものだった。すべてが一つの糸玉にくるくるまき込まれてしまうのであった。『いや、もうなんでもいいから闘った方がましだ! いっそまたポルフィーリイとやり合うか……それともスヴィドリガイロフとでも……誰でもいいから一刻も早く挑戦して来ればいい、攻撃してくればいい……そうだ! そうだ!』と彼は考えた。彼は居酒屋を出ると、ほとんど駆け出さないばかりに歩いた。ドゥーニャと母親を思う心が、なぜか矢もたてもたまらない恐怖を呼びさました。つまりこの夜の明け方に、彼は全身を熱に打震わせながら、クレストーフスキイ島の藪のなかで目を覚ましたのである。彼は家路をさして歩き出し、まだごく早朝に帰り着いた。幾時間か眠った後、熱はようやく下がったけれど、もうすっかり遅くなってから、彼は目を覚ました。それは午後の二時だった。
 彼はカチェリーナの葬式が今日だったことを思い出して、これに参列しなかったのを喜んだ。ナスターシャが食事を運んできた。彼は飢えに近いほどの異常な食欲をもって、食いかつ飲んだ。彼の頭はいつもよりせいせいして、彼自身もこの三、四日に比べると、だいぶ落ち着いていた。そして、先ほどの矢も楯もたまらぬほどの恐怖に、われながら不思議な感じがした(もっとも、それはほんの頭の一角をかすめただけであるが)。そのときドアがあいて、ラズーミヒンがはいって来た。
「ああ! 食ってるな、してみると病気じゃないんだね!」とラズーミヒンは言いながら、椅子を取り、ラスコーリニコフに向き合ってテーブルについた。
 彼は興奮している様子で、それを隠そうともしなかった。彼は明らかにいまいましそうな調子で話したが、しかし急ぎもしなければ、かくべつ声を高めるでもなかった、彼の心中には何か特殊な、容易ならぬ意向が蔵されているようにも考えられた。
「おい聞けよ」彼は断固たる調子で切り出した。「僕はもう君らのことはどうなったっていっさい知らん。僕には何もわかりっこないということを、今こそ明瞭に悟ったからだ。しかし、どうか僕が君を尋問に来たなどと思わないでくれ。くそくらえだ! こっちがごめんだよ! よし君がいま自分で秘密を全部打明けたって、僕は聞こうともしないで、つばを吐きかけて出てしまうかもしれないよ。僕はただ第一に、君が気ちがいだっていうのは事実かどうか、それを親しく根本的に確かめようと思って来たんだ。君の事についてはね、もしかすると気ちがいか、さもなければ、非常にその傾向を持った男だという確信が存在している(まあどこかそこらあたりに、そういう確信があるんだ)。実を言えば、僕自身もこの意見を支持する方へ、かなり傾いているのだ。それは第一に、君の愚劣な、しかもいささか忌まわしい(なんとも説明のしようもない)行為によって、また第二には、お母さんと妹さんに対する君のこの間の態度によって判断したわけなんだ。君があの人たちにとったような態度は、もし気ちがいでなければ、悪党か卑劣漢以外には、とてもできないことだからね。してみれば、君は気ちがいだ……」
「君はよほど前に二人に会ったのかね?」
「たった今だ。ところが君はあの時以来会わないんだな? いったいどこをほっつき歩いてたんだ、お願いだから聞かせてくれ、僕はもう三度も君んとこへ寄ったんだぜ。お母さんが昨日から病気で重態なんだ。君のとこへ来る来ると言ってね、アヴドーチャ・ロマーノヴナがいくら止めても、まるで聞こうとしないんだ。『もしあの子が病気だったら、もしあの子が気でも触れてるのなら、母親でなくて誰があの子の看護をします?』とこう言うのさ。で、あの人を一人うっちゃっとくわけにもいかないから、我々はみんなでここへやって来た。この戸口へ来るまで、二人でお母さんをなだめなだめしたんだ。ところが、はいってみると、君がいない。お母さんはここんとこに腰かけておられたんだ。十分ばかりじっとすわっておられた。僕らは黙ってその傍に立っていたよ。するとお母さんは立ち上がって、『もしあの子が外へ出られるとすれば、病気ではないわけだ。そして、母親のことも忘れてしまったのだろう。そうだとすれば、わが子のしきいぎわに立って、施し物でももらうように、優しくしてくれとねだるのは、母親として不見識な恥ずかしい話だ』とおっしゃってね、家へ帰って、どっと床に就かれたのだが、いま熱が出てるんだよ。そして『わかった、あの子は自分の女のためになら暇があるんだろう』なんて言われるのさ。自分の女というのは、お母さんの腹では、ソフィヤ・セミョーノヴナのことなのさ。君の許婚いいなずけだか、恋人だか知らないがね。そこで、僕はすぐソフィヤ・セミョーノヴナのところへ行ったんだよ。だって、いっさいをはっきり知りたいと思ったもんだからね――行ってみると――棺が置いてあって、子供たちは泣いているし、ソフィヤ・セミョーノヴナは、子供たちに喪服の寸法を取ってやるって騒ぎじゃないか。しかも君はいない。僕はそれをざっと見てから、失礼をびて帰ってきた。そして、アヴドーチャ・ロマーノヴナにありのまま報告した。してみると、みんなくだらない噂話で、自分の女なんてものはてんでいやしない。してみると、一番確かなのは、やっぱり発狂ということになる。ところが、君はこのとおりすわり込んで、まるで三日もものを食わなかったみたいに、子牛肉のシチュウをむしゃむしゃやっている。そりゃまあ、気ちがいだって食うことは食うだろうさ。だが、君は僕に一言も口をきかないけれど、しかし君は……気ちがいじゃない! これは僕が誓ってもいい。何はさておいても、けっして気ちがいじゃない。こうなると、君たちなんかもうどうとも勝手にしやがれだ。だって、これには何か秘密がある、秘密があるに相違ない。しかし、僕は君の秘密に頭を悩まそうとは思わないよ。ただ君を罵倒ばとうして、気分をすっとさせるために寄っただけなんだ」と彼は立ち上がりながらことばを結んだ。「僕はいま何をしたらいいか、ちゃんと心得ているからね!」
「いったい君はいま何をしようと思ってるんだい?」
「僕がいま何をしようと思ってたって、君の知ったことじゃないよ!」
「気をつけろよ、君は無茶飲みを始めるんだろう!」
「どうして……どうして君それがわかった?」
「わからなくってさ」
 ラズーミヒンはちょっと口をつぐんだ。
「君はいつも非常に思慮の深い男だった、けっして、けっして気なんか狂やしなかったんだ」と彼はふいに熱した調子で叫んだ。「まさに君の言う通り、僕は無茶飲みをやるんだ……失敬!」
 こう言って、彼は出て行きそうにした。
「一昨日だったと思う、僕は妹と君の話をしたんだよ、ラズーミヒン」
「僕の話? だって……一昨日どこで君はあのひとに会えたんだい?」ラズーミヒンは急に立ち止まって、いくらか顔の色さえ青くした。
 彼の心臓がその胸の中で徐々に緊張して、鼓動を始めたのが察しられた。
「あれがここへ来たのさ、一人で。ここに腰をかけて、僕と話したんだ」
「あのひとが!」
「そうだ、あれが!」
「で君は何を言ったんだね……つまりその、僕のことで?」
「僕はあれに君のことを、非常にいい、正直な、よく働く男だといった。君があれにれてることは別に言わなかった。だって、そんなことはあれが自分で知ってるからね」
「自分で知ってるって?」
「そうさ! あたり前だ! たとえ僕がどこへ行こうと、僕の身に何が起ころうと――君はいつまでも二人の保護者でいてくれるだろうね。僕は、いわば君に二人を手渡しするんだよ、ラズーミヒン。僕がこんなことを言うのは、君がどんなにあれを愛しているか十分に知り抜いてる上、君の心の純潔を信じているからなんだよ。そのほかに、あれも君を愛するようになるかもしれない、いや、もしかすると、もう愛してるかもしれないのを、ちゃんと承知しているからさ。さあ、これで君自分の好きなように決めるがいい――無茶飲みをやってもいいかどうか」
「ロージカ……実はね……つまり……ええい、くそっ! だが、君はいったいどこへ行くつもりなんだい? まあ、それが秘密だというなら、それはそうでかまわないさ! しかし僕は……僕は今にその秘密を探り出すよ……そして、きっとくだらないばかばかしいことに違いないと信じてるよ。君は始終一人で何かたくらんでるんだよ。が、とにかく、君はすばらしい男だ! 実にすばらしい男だ!……」
「僕さっき言い添えようと思ったのに、君がじゃまをしたので言いそびれたが、君はさっき神秘だの秘密だの、そんなもの知る必要がないと言ったが、あれはすこぶるいい考えだよ。時の来るまではうっちゃっといてくれ、心配しないがいいよ。何もかもそのうちにわかる、つまり必要な時が来ればだ。昨日あの男が僕に向かって、人間には空気が必要だ、空気が、空気がと言ったが、僕はこれからすぐその男のとこへ行って、どういう意味か聞いてこようと思うんだ」
 ラズーミヒンは、物思わしげに興奮した様子で立ったまま、何やら思い合せていた。
『これは政治上の秘密結社に関係してるんだ! てっきりそうだ! そして何か思い切った事を断行しようと考えているのだ――もうそれに違いない! ほかには全く解釈の仕方がないじゃないか。それに……それにドゥーニャもこれを知ってるんだ……』と彼は急に心の中で考えた。
「じゃ、アヴドーチャ・ロマーノヴナが君のとこへ来るんだね」一語一語に気をつけながら、彼は言った。「ところで、君自身は、もっと空気がいる。空気がと言った男に、会いに行こうてんだね。で……で、でみると、あの手紙も……あれもやはり同じ所から出たものだろうね」と彼はひとりごとのようにことばを結んだ。
「手紙って?」
「妹さんがある手紙を受け取ったんだ、今日。で、あのひとはたいへん心配そうな様子だったよ。たいへん。あまりたいへんすぎるくらいだったよ。僕が君のことを言い出すと――あのひとは黙っててくれと言ったっけ。それから……それから、ことによると、我々は遠からず別れるようになるかもしれないと言われた。それからまた、何かしら熱心に僕に礼を言ったあとで、自分の部屋へはいって、かぎをかけてしまわれたんだ」
「あれが手紙を受け取った?」考え深そうな調子で、ラスコーリニコフは問い返した。
「そう、手紙だ。じゃ君は知らなかったのかい? ふむ」
 二人ともしばらく黙っていた。
「じゃ失敬するよ、ロジオン。僕はね、君……一時ちょっと……いや、しかし、さよならだ。実はね、一時ちょっと……、しかし、さよなら! 僕もやはり行かなきゃならない所があるんだ。飲みゃしないよ。今はもうやめた……なんのくそっ!」
 彼は急いだ。けれども、もう外へ出ていったんほとんどドアをしめてから、ふいにまたあけて、どこかそっぽを見ながら言いだした。
「ついでにちょっと! 例の人殺しを覚えてるだろう? ほら、あのポルフィーリイさ、婆さんさ? いいかい、あの犯人がわかったんだよ、つまり自白してね、証拠をすっかり提供したのさ。それが例のペンキ屋の一人なのさ。ほら、僕があのとき弁護してやった、覚えてるだろう? どうだい、君は本当にできないだろうが、庭番と二人の証人が上がって来た時に、階段で仲間を相手に喧嘩けんかしたり笑ったりしたのは、ごまかしにわざとやったんだとさ。あんな若造にしちゃ、なんて狡猾こうかつなやり方だろう、なんというくそ度胸だろう! とても信じられないくらいだ。ところが、自分ですっかり白状して説明したんだから仕方がない! 実に僕もまんまといっぱいくったもんだよ! もっとも、僕に言わせると、これはただ仮面めんかぶりと頓知とんちの天才、法律的ごまかしの天才なんだからね――してみれば、なにも特に驚くにゃ当たらない! いったいこんなのがあり得ないことかい? だが、やつが持ち切れなくなって、白状したという点に至っては、僕はその方をよけいに信用するよ。その方がずっと本当らしいものね!……が、あの時は僕も実に、僕もまんまといっぱいくったもんだよ! やつらのために一生懸命で大騒ぎしたんだからなあ!」
「どうか聞かしてくれないか、いったい君はそんなことをどこから知ったんだい? そして、なぜ君はこんなことにそう興味を持つんだい?」明かに興奮の様でラスコーリニコフは尋ねた。
「あれ、あんなことをきいてるよ! なぜ僕が興味を持つかって? きいたもんだね!……ほかの人からも知ったが、ポルフィーリイの口からも知ったんだよ。もっとも、おもにポルフィーリイから一部始終を知ったんだ」
「ポルフィーリイから?」
「ポルフィーリイからよ」
「いったい何を……何をいったいあの男は?」とラスコーリニコフはおびえたように問い返した。
「あの男は実にうまく説明してくれたよ。先生一流の心理的闡明せんめいなんだ」
「あの男が説明したのかい? 自分で君に説明したのかい?」
「自分でだよ、自分でだよ。失敬! あとでまた何やかや話すとして、今は少し用があるから。いずれ……僕も実は一時そう思った事があるんだよ……が、まあ、そんなことはいいや。あとにしよう!……僕ももう飲む必要なんかない。君は酒なしで僕を酔わしてくれた。僕は酔ってるんだぜ、ロージカ! 今は酒なしで酔ってるんだよ。じゃ、失敬。またくるよ、じきに」
 彼は出て行った。
『あいつは、あいつは政治上の秘密結社に関係してるんだ、確かにそうだ、それに違いない!』とラズーミヒンはゆっくり階段をおりながら、すっかり心の中で決めてしまった。『そして、妹まで引っ張り込みやがった。それはアヴドーチャ・ロマーノヴナの性質として、大きに、大きにありそうなことだ。二人はしょっちゅう会ってるんだ……そういえば、あのひともおれににおわせたことがある。あのひとのいろんなことば……ちょっとしたことばの端々や……におわすような話しっ振りから見ても、つまり、そういうことになる! だってそれ以外に、このごちゃごちゃを説明しようがないじゃないか? ふむ! 俺もちょっと一時あんな事を考えかけたが……ちょっ、いまいましい、俺はいったい何を考え出したんだろう。そうだ、あれは一時の心の迷いだった。俺はあの男に対してすまんことをした! それはあの男があの時廊下で、ランプの傍で、俺にそういう迷いを起こさせたのだ。ちょっ! あれは俺としては実に汚らわしい、無作法な、卑劣な考えだった! ミコールカのやつ、自白してくれてえらいぞ……これで以前のこともすっかり説明がつく! あの時のあの病気も、ああした奇怪な振舞いも……それから以前まだ大学にいた時分だって、いつもああいう陰鬱いんうつな気難かしい男だったんだからな……が、さてあの手紙はいったいどういう意味なんだろう? これにも確か何かあるに違いない。いったい誰から来た手紙なのだろう? どうも怪しい……ふむ。いや、俺が何もかも洗い上げてやる』
 彼はドゥーニャのことを思い浮かべて、いろいろ心に照らし合わせていた。と、急に心臓がしびれるような気がしてきた。彼はいきなりおどり上がって、そのまま一もくさんに駆け出した。
 ラスコーリニコフは、ラズーミヒンが出て行くが早いか、立ち上がって、くるりと窓の方へ向き、まるで自分の部屋の狭いのを忘れたように、隅から隅へと一、二ど歩き出したが……再び長椅子へ腰をおろした。彼はなんだか身も心も新しくなったような気がした。また、闘うんだ――それはつまり、出口が見つかったことになる。
『そうだ、つまり出口が見つかったわけだ! これまではあまり始終ぴったりしめ切って、堅く栓をしてしまっていたものだから、苦しくて圧迫に堪えなかったのだ。まったく頭が妙にぼうっとしてしまったのだ。ポルフィーリイのとこでミコールカの一件を見て以来、おれは出口もない狭くるしい中で、息がつまりそうだった。ミコールカ事件の後で、同じ日にソーニャの所でも一幕あった。おれはその一幕を、予期したのとは全然ちがった結末にしてしまった……つまり瞬間的に急激に心が弱ったのだ! 一どきに! そして、あの時おれはソーニャに同意したじゃないか。自分で同意したのだ、心底から同意したのだ。こんな事実を胸に抱いていては、とても一人で生きて行けるものではないってことに同意したのだ! ところで、スヴィドリガイロフは? スヴィドリガイロフは謎だ……スヴィドリガイロフのことは気になる。それは事実だが、なんだか方面が違うような気がする。スヴィドリガイロフとも、やはり闘わなければならんかもしれない。ことによると、スヴィドリガイロフは立派な出口になるかもしれない。しかし、ポルフィーリイは別問題だ』
『そこで、ポルフィーリイは直接ラズーミヒンに説明したんだな、心理的に説明したんだな! またしても、あのいまいましい一流の心理的方法を持ち出したのだ! あのポルフィーリイが? あのポルフィーリイが、二人の間にああいうことのあった後で、ミコールカの現われる前に二人が面と面をつき合わせて、ああいう一場を演じた後で、よしただの一分でも、ミコールカを犯人だと思い込むなんて、そんなことがあってたまるものか! あの時の出来事に対しては、正しい解釈を見いだすことはできない。ただ一つの解釈を別として(ラスコーリニコフはここ四、五日いくたびも、ポルフィーリイとのこの一幕を、きれぎれに思い出した。ひとまとまりにしては、どうしても記憶を引き出すことができなかった)。あの時二人の間には、もうこうなった以上ミコールカなどの力では、ポルフィーリイの確信の根底を動揺さすべくもないようなことばが発せられ、そうした挙動やしぐさが演ぜられ、そうした視線が交換され、そうした声である種の事が語られ、どんづまりの境目まで押して行ったのだ(ポルフィーリイはミコールカの腹の中など、最初の一言一動で、そらんずるように見抜いてしまったのさ)』
『だが、いったいなんてことだろう! ラズーミヒンまでが嫌疑をかける気になったとは! してみると、あの廊下の、ランプの傍の一場は、あの時ただではすまなかったのだ。そこで、あの男をポルフィーリイのとこへ駆けつけたわけだ……しかし、ポルフィーリイはどういうわけであの男をだましにかかったのか? ラズーミヒンの目をミコールカの方へそらせたのは、どういう目的なんだろう? いや、確かにやつは何か考え出したに違いない、これにはきっと計画がある、だがどんな計画か? もっとも、あの朝からずいぶん時日がたっている――あまり、あまりたちすぎてるくらいだ。それだのに、ポルフィーリイのことは噂も影もない。ともかく、これはむろんいいことじゃない……』ラスコーリニコフは帽子を取って、考えに沈みながら、部屋を出て行った。この間じゅうから、彼が自分で少なくも健全な意識を持っていると感じたのは今日が初めてだった。『まず、スヴィドリガイロフの片をつけなくちゃ』と彼は考えた。『どうでもこうでも、一刻も早く。あの男もきっと俺がこっちから行くのを、待っておるに違いない』と、ふいにこの瞬間、彼の疲れた心の底から、なんともいえない憎悪の念がこみ上げてきて、スヴィドリガイロフかポルフィーリイか、二人のうちどちらでも殺してしまいかねないような気がした。少なくも、もし今でなければ、いつかあとでやっつけられそうに感じた。『まあ見てみよう、見てみよう』と彼は心にくり返した。
 しかし、彼が入り口の廊下へ出るドアをあけた拍子に、思いがけなく当のポルフィーリイにばったり出会った。こちらは彼の部屋へはいって来るところであった。ラスコーリニコフはちょっと一瞬間、棒立ちになってしまったが、それはほんの瞬間のことだった。不思議にも、彼はさしてポルフィーリイに驚きもしなかったし、ほとんどおびえもしなかった。彼はただぴくっとしただけで、たちまちとっさの間に心構えをした。
『ことによると、これで大団円かもしれない! だが、なんだって猫みたいに、こっそりやって来やがったんだろう? おれはちっとも気がつかなかった! まさか立聞きしていたのでもあるまい?』
「こんな来客は思いがけなかったでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ」とポルフィーリイは笑いながら叫んだ。「もうだいぶ前から一度お寄りしようと思ってたもんですから、ふとそばを通りがかって、五分ぐらいおじゃまをしたってよかろうじゃないか、とこう考えましてな。どこかへお出かけのところですね? じゃ、お暇をとらせません。ただ煙草を一本すうだけ、もしお許しくだされば」
「さあおかけなさい。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、どうぞ」もし自分で自分を見ることができたら、まったくわれながらあきれたろうと思われるほど満足らしい、親しげな様子をして、ラスコーリニコフは客に席をすすめた。
 それはびんの一ばん底に残ったおりまでかきさらうような努力だった! 人はよくこんな風に、強盗に直面した死のごとき恐怖の半時間を持ちこたえるものである。そして、いよいよ喉へやいばを擬せられた場合には、かえって恐怖も通り越してしまうことがある。彼はまともにポルフィーリイの前に腰をかけ、またたき一つしないで彼を見つめていた。ポルフィーリイは目を細めて、煙草をふかし始めた。『さあ、言ってみろ、言ってみろ』まるでこういうことばが、ラスコーリニコフの心臓から飛び出そうとでもするようであった。『さあなぜ、なぜ言わないんだ?』


「いや、実際この煙草というやつは!」一本のみ終わって息をつきながら、やっとポルフィーリイは口を切った。「毒ですよ、まったく毒ですよ。ところが、どうしてもやめることができないんですからな! せきが出る、のどがむずむずする、ぜんそくは起こる。わたしは臆病おくびょうな方でしてね、この間もBのところへてもらいに行ったんですがね、患者をひとりひとり最小限ミニマム三十分ずつも診るんですよ。わたしを見ると、笑い出したくらいでしたよ。こつこつたたいたり聴診器をかけたりしたが――あなたには、わけても煙草がよくない、肺が拡大してるから、とこう言うんです。といって、これがどうしてやめられましょう? 何を代わりにしろと言うんでしょう? 酒を飲まないもんですから、これに全く困ってしまうんですよ。へ、へ、へ、飲めないのが不幸なんですからなあ! 何事もすべて相対的なものですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、何事もすべて相対的なものですて」『いったい何を言ってやがるんだ、またいつかのお役人式な紋切型を始めやがるのかな!』とラスコーリニコフは嫌悪を感じながら考えた。この前の会見の光景が細大もらさず、たちまち彼の記憶によみがえった。そしてあの時の感情が、波のように心臓へ打ちよせた。
「わたしは一昨日の夕方にも、一度お寄りしたんですよ。あなたはご存じありませんか」部屋の中をじろじろ見ながら、ポルフィーリイはことばを続けた。「部屋の中へ、この部屋の中へはいったんですよ。やはり今日のように、傍を通りかかったもんだから――一つ訪問してみようかなと思いましてな。はいって来ると、戸があけっ放しになっている。で、様子を見てしばらく待っていましたが、女中にも言わないで、そのまま出てしまったのです。かぎはおかけにならんのですか?」
 ラスコーリニコフの顔はいよいよ憂鬱ゆううつになっていった。ポルフィーリイは彼の意中を見抜いたように、「実は、お話をつけに上がったんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、お話をつけにね! わたしはあなたに対して、話をつけなけりゃならぬ義務があるのです、責任があるのです」と彼は微笑を含みながらことばをついで、軽く手でラスコーリニコフの膝までたたいた。
 しかし、それとほとんど同じ瞬間に、彼の顔はまじめな、気がかりらしい表情になったばかりでなく、ラスコーリニコフの驚いたことには、なんとなく一まつの憂愁の陰すら帯びたかに見えた。彼はこれまでかつて彼のこういう顔つきを見たこともなければ、そんな表情ができようなどと想像したことさえなかった。
「ロジオン・ロマーヌイチ、この前はわれわれ二人の間に、実に妙なことが起こったものですなあ。もっとも、初めてお会いした時も、われわれの間には、奇妙なことが起こったとも言えます。しかしあの時は……いや、今になってみれば、どっちもどっちですがね! そこで、わたしはあなたに対して、大いに申しわけがないのかもしれません。わたしはそれを感じております、実際、あの時のわたしたちの別れ方はどうでした、覚えていらっしゃいますか? あなたも神経がおどって膝頭ひざがしらががくがく震えていたし、わたしも神経がおどって、膝頭ががくがくしていましたからね。それにあの時は、二人の間がどうもめちゃくちゃで、非紳士的でしたね。しかし、わたしたちはなんといってもやはり紳士ですよ、つまりいかなる場面にも、何よりもまず紳士ですからね。これは心得ておく必要があります。ねえ、あの時どんなところまでいったか、ご記憶でしょう……まったく不作法と言ってもいいくらいでしたよ」
『こいついったい何を言ってるんだ、おれをなんだと思ってやがるんだ?』とラスコーリニコフは頭を上げ、目をいっぱいにみひらいて、ポルフィーリイをみつめながら、あきれてこう自問した。
「で、わたしはこう考えたんですよ――お互いにざっくばらんにやった方がよかろうって」ポルフィーリイは、以前の犠牲いけにえを自分の視線でこの上当惑させたくもなし、また以前のやり口や小細工を用いたくもないというように、少し顔をそむけて目を伏せながら、ことばを続けた。「そうです、あんな嫌疑やあんな場面は、長く続けていられるものじゃありません。あの時はミコールカが引込みをつけてくれたからいいようなものの、さもなければ、われわれの間はどこまで進んだか、見当もつかないほどです。あの時わたしのところでは、あのいまいましい町人のやつが、仕切り壁の向こうにずっと待っていたのです――あなた想像がおつきになりますかね? もっとも、あなたはもちろんこのことをご存じだ。あの時、やつがあとからあなたのとこへお寄りしたことは、わたしにもちゃんと知れてるんですから。しかし、あの時あなたが想像しておられたような事、そんな事はなかったんですよ。わたしもあの時はまだ誰を呼びにやりもしなければ、なんの処置もとりはしなかったのですからな。なぜ処置をとらなかったか、とおききになるでしょうが、さあなんと言ったらいいか、あの時はわたし自身も、ああいういろんな事にぶっつかって、いわばまごつき気味だったんですな。庭番を召喚の手筈てはずをするのも、やっとこさだったくらいですから(多分あなたも通りすがりに、庭番に気がおつきになったでしょうな?)あの時、わたしの頭に、ある考えが稲妻のようにぱっとひらめいたんです。何しろあの時は、その、てっきりそれに違いないと、信じ切っていたんですからな、ロジオン・ロマーヌイチ。そこでわたしはこう考えたんです――なに、一時ひとつの方を逃がしても、その代わりほかの方の尻尾しっぽを押えてやる。自分の方は少なくとも自分の方だけは逃がしっこないとね。ところで、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたは生まれつきどうもあまり癇癖かんぺきが強くていらっしゃる。あなたの性格と感情のさまざまな根本的特質から考えると(わたしもその一部は了解したつもりで、ひそかに自負していますがね)、どうもあんまりだと思われるくらいですよ。いや、なに、もちろん、わたしはあの時だって、人がちょっと立ち上がったかと思うと、いきなり大事の秘密をぶっつけにしゃべるなんてことが、そうざらにあるものでないくらいの判断はできなかったんですよ。なるほど、そんなこともあるにはあります。特に、人がいよいよ堪忍袋の緒を切った場合なんかはね。けれど、いずれにしてもまれですな。それはわたしにも判断がついた。で、わたしは思いましたな――いや、ほんのちょっとした、目にはいらぬようなものでもいい! よしどんな小さな針で突いたようなものでもいい、単なる心理だけでなく、こう手でつかめるもの、形のあるものでさえあればいい、と思ったわけなんです。というのは、もしある人に罪があるなら、いずれにしても、必ず何か具体的なものが現われねばならぬ、とこう考えられるからです。全く、きわめて意想外な結果さえ期待することができるくらいですよ。あの時わたしは、あなたの性格を当てにしていたんです、ロジオン・ロマーヌイチ、何よりも一ばん性格を当てにしていたんです! あの時はそれこそ、あなたの人となりに望みをおいてたんですよ」
「ですがそれにしても、あなたはなんだってそんな事をおっしゃるんです?」自分の質問の意味をよく考えもしないで、とうとうラスコーリニコフはこうつぶやいた。
『やつはいったいなんのことを言ってるんだろう?』と彼は内心ひそかに途方に暮れていた。『ほんとうにおれを無罪だと思ってるんだろうか?』
「なんだってこんなことを言うのかですって? 話をつけに来たんですよ。つまり、これを神聖な義務と心得ましてね。わたしは何もかも洗いざらい、あの時のいわば心の迷いを一部始終、ありのままお話ししてしまいたいのです。わたしはあなたにもずいぶんくるしい目をおさせましたね、ロジオン・ロマーヌイチ。しかし、わたしだって悪人じゃありませんからね。わたしだってわかっていますよ。いろいろの事情にしいたげられながら、しかも気位の高い、誇りの強い、気短かな――特にこの気短かな人にとって、こういう苦しみを背負っていくのがどんなかというくらいは、十分承知しておりますとも。わたしはいずれにしても、あなたをこの上もない高潔な方として、いや、それどころか、寛大というものの胚子はいしを持った方として、尊敬しておるのです。もっとも、あなたの信念に一から十まで、同意するわけじゃありません。これは義務として率直に、十分な誠意をもって、あらかじめ申し上げておきます。わたしは何よりも、人をだますのが嫌いなのですからね。あなたの人となりを認識して、わたしは心ひかれる思いがしたんですよ。あなたはわたしのこういうことばを聞いて、あるいはお笑いになるかもしれませんね? いや、その権利がおありですとも。あなたがわたしを最初の一目から嫌っていらっしゃるのは、わたしは知っております。また事実、好きになるわけがありませんやね。けれど、あなたはなんとお思いなさろうとご勝手ですが、わたしは今自分としては、あらゆる方法を尽くしてこれまでの印象を消した上、自分が誠意もあれば良心もある人間だということを、証明したいと思うのです。これはまじめに言ってるんですよ」
 ポルフィーリイは品位を見せてことばを休めた。ラスコーリニコフは一種あたらしい驚愕きょうがくの襲来を感じた。ポルフィーリイが、彼を無罪のように見なしているという想念が、突如かれを驚かしたのである。
「そこで、あのとき急に起こった顛末てんまつを一々順序立ってお話しする必要は、まあまあありますまい」とポルフィーリイはことばをつづけた。「わたしはむしろ余計なことだと思います。それに、わたしにはとてもできそうもありません。だって、これがどう得心のいくように説明できましょう? まず最初は風評が立った。それがどんな風評で、いつ誰から出たか……そして、いかなる動機であなたの身にまで及んだかということも、やはりわたしはくだらない話だと思います。わたし一個についていうと、これは偶然の結果として起こったことなんです。全く最高の意味における偶然で、起こることもありうれば、起こらない事もありえたのです――では、いったいどんな偶然かというと、ふむ、これもやはり改めていうがものはないと思います。つまりいっさいのことが、風評と偶然が、その時わたしの頭の中で符合して、ある考えになったんですな。どうせもう白状するくらいなら、何もかもきれいに白状してしまいますが――あの時あなたに嫌疑をかけたのは、わたしが第一だったんですよ。なに、たとえば、あの質物に婆さんの覚え書きがあったとか、なんとかいう――あんなのは皆くだらないことです、あんなことは百でも、二百でも数えあげられますよ。それから、またあの時たまたま、わたしは例の警察署の一件を詳しく聞いたんです。しかも、通りすがりにちょっと聞いたなどというのじゃなくって、ある特別なすばらしい話し手から聞いたんですからね。その男は自分ではそれと気がつかないで、この一幕を驚くほど飲み込んだのですな。こういうことがみんなあとからあとから、あとからあとからと重なっていったんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ、それですもの、どうしてあの方向へ考えが傾かないでいられますか? 百のうさぎが集まったって、一ぴきの馬を創ることができんわけで、百の嫌疑も結局一つの証拠にはなりません。それはもうあのイギリスのことわざがいってるとおりです! しかし、それは落ち着いた時の分別で、かっとなった時にそういうことが言っておられますか。何分、判事だって人間ですからね。そこへもってきて、わたしはあなたの論文を思い出したんです。ほら、初めてあなたがお訪ねくだすった時、くわしくお話しした雑誌の論文ですよ。わたしはあの時あなたをからかいました。しかし、あれはもっと先の方へあなたを釣り出すためだったんです。くり返して申しますが、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはあまりこらえしょうがなくて、あまり病的ですよ。あなたが大胆で、誇りが強く、まじめで、そして……感じていらっしゃる、あまり感じすぎるくらい感じていらっしゃる、そういうことは、わたしもずっと前からよく知っておりました。こうした色々な感じは、わたしには馴染なじみの深いもので、あなたの論文にしても、わたしはなんだか覚えがあるような気持で読みました。それは眠れない晩、気ちがいみたいに興奮した気分で着想されるのです。胸がおどり高鳴って、圧迫された興奮の中に書かれたのです。この圧迫された誇りにみちた興奮というやつは、若い人にとって危険なものですて! わたしはあの時愚弄ぐろうしましたが、今はあえて言います。わたしは全体に、いや、文字の愛好者として、あの若々しい熱烈な最初の試作を非常に愛しているのです。あれは煙です、霧です、霧の中にげんが響いているのです。あなたの論文はばかばかしい空想的なものです。しかし、そこにはなんともいえない真摯しんしな気持がひらめいています。若々しい不屈の誇りがあります。自暴自棄の勇気があります。あれは陰鬱な論文ですが、それもけっこう。わたしはあなたの論文を読むと、別にしまっておきました……その時わきへしまっておいて考えたのです。『この男はこのままじゃすむまい』ってね。さあ、こういうわけですもの、こういう前置きがあった後で、どうしてその次に起こったでき事に夢中にならずにおられましょう、考えてもごらんなさい! ああ、とんでもない! わたしは何も言ってるんじゃありませんよ! わたしは今なにも断定してるんじゃありませんよ! あの時わたしはただちょっと気がついたのです。いったいこれはなんだろう、とわたしは考えました。なんにもありゃしない、全くなんにもない、それこそ本当になんにもありゃしない。それに、そんな事で夢中になるのは、わたしとして、予審判事として、全く不都合なくらいです。わたしの手にミコールカというものがあって、しかも事実までそろってるんですからね――いやそりゃなんとおっしゃっても、事実に相違ありません! 彼もまた自分相応の心理的方法をやっておるのです。この男も調べなきゃならん。何しろ生死にかかわる問題ですからね、ところで、今なんのためにこんなことを色々説明すると思います? ほかでもありません、あなたはその知と情によって事態をよく了解していただき、あの時のわたしの毒々しいやり口に対して、わたしをお責めにならんようにというそのためです。もっとも、けっして毒々しいことなんかありませんがね、全くのところ、へ、へ! あなたはなんですか、わたしがあの時あなたの住まいへ、捜索に来なかったとお思いですか? 来ましたよ、来ましたとも、へ、へ! あなたがここで病床についておられた時に、やって来たんですよ。正式にでもなければ、またわたしという人間としてでもありませんが、とにかく来たんですよ。そして、あなたの住まいにあるものは、まだ証跡の消えないうちにと、髪の毛ひと筋残さないように、一々調べ上げたんですよ。しかし―― umsonst(徒労)でした! わたしはこう思ったのです――今にこの男はやって来る、自分の方からやって来る、しかも遠からずやって来る。もし罪があるなら、それこそ、もう必ずやって来るに違いない。ほかのものは来なくても、この男はやって来る、とこう考えたのです。それから、覚えていますか、ラズーミヒン君がいろんなことをしゃべり出したのを? あれはあなたを興奮させるために、われわれのしくんだことで、あの男があなたにしゃべるように、わざと風説を放ったんですよ。何しろラズーミヒン君はああいう風な、公憤を押え切れない男ですからな。ザミョートフ君は何より一番に、あなたの憤りとあけっぱなしの大胆不敵さに、目をつけたんですよ。ねえ、だって料理店なんかで、だしぬけに、『おれは人を殺した!』などとずっぱり言ってのけるなんて、あまりに大胆ですよ、あまりに不敵ですよ。そこでわたしは、もし彼が有罪であるとすれば、実に恐るべき闘士だと思った! 実際その時そう思ったんですよ。それから待ちました! あなたの来るのを一生懸命に待ちました! ザミョートフはあの時あなたに圧倒されてしまったのです……つまり、そこが例のどっちにでもとれる心理というやつでしてな! そうして、わたしはあなたを待っておると、どうでしょう神の恵みか、あなたがみえたじゃありませんか! わたしは全く胸がどきんとしましたよ。ねえ! なぜあなたはあの時いらっしゃる必要があったんでしょう? それからあの笑い、覚えておいででしょう、あのときはいって来ながら立てられた笑い声、わたしはまるでガラスごしに見るように、すっかり見抜いてしまった。もしああいう特殊な事情の下にあなたを待っておるのではなかったら、それこそ何一つ気がつかなかったでしょうが、その気持でいるということは恐ろしいもんですな。それからあの時はラズーミヒン君が――あっ! そうだ、石、石、覚えておいでですか、贓品ぞうひんをかくしてある石? ね、わたしはその石がどこかの菜園にあるのが、まざまざと見えるような気がします。あなたはザミョートフに菜園とおっしゃったでしょう、それからわたしの所でもまた二度めにね。ところで、あの時例のあなたの論文を解剖しかけたとき、あなたが説明を始められたとき――それこそあなたの一語一語が、まるでその陰に別なことばを隠してでもいるように、二重になって響いたものです! いやね、ロジオン・ロマーヌイチ、そうしたわけで、わたしは最後の柱まで来て、そこで額をっ突けると、やっとわれに返ったんですよ。いや、おれとしたことが、これは何をしているのだ! もしその気にさえなれば、こんなことはみな最後の一点一画に至るまで、反対の方面へでも説明ができるじゃないか。それどころか、その方がかえって自然に見えるくらいだと、自認せざるを得ないのでした。わたしも苦しみましたね! 『いや、せめて何かほんの毛筋ほどでも証拠が握れたら!……」[#「」」はママ]と思っている矢先へ、例の呼鈴一件を聞き込んだ。わたしは思わずぞくぞくっとして、身震いがついたくらいでしたよ。さあ、これこそ毛筋ほどの証拠だ! まさにそうだ! もうその時わたしはとかくの判断などしなかった。ただもうそんな事をしたくなかったのです。実際その時は、あなたを自分の目で見るためなら、千ルーブリくらい自腹を切って投げ出したろうと思われるほどでしたよ。ほら、あの町人があなたに面と向って『人殺し』と言った後で、あなたはその男と百歩も並んで歩きながら、まるで百歩の間、一言もその男をなじることができなかった、その時のあなたの顔が見たかった!……ねえ、その背筋を走る寒けはどうです? 病中なかば熱に浮かされながら引いた呼鈴はどうです? こういうわけですから、ロジオン・ロマーヌイチ、あの時わたしがあなたにあんな悪ふざけをしたのも、あながち驚くには当たらないでしょう? それに、あなたはなぜちょうどあの時、わたしのところへみえたのです? あなたもやはり、何者かに背中をかれたようなぐあいだったのでしょう、まったく。もしあの時ミコールカがわたしたちを引分けてくれなかったら、それこそ……あの時のミコールカを、あなた覚えておいででしょうな! よく覚えておいでですか? 実際、あれは青天のへきれきでしたよ! あれは雷が黒雲の間からとどろいて稲妻の矢がさっと一せんひらめいたのです! さあ、そこでわたしがあれをどう迎えたでしょう? わたしはあんな稲妻の矢なんか、これっから先も信じなかった。それはあなたも自分でごらんになったとおりです! どうしてどうして! あの後、あなたがお帰りになってから、何かの点に対して、なかなかどうもつじつまの合った答弁を始めたので、さすがのわたしも驚いたくらいですが、しかしこれっぱかしも本当にはしませんでした! ねえ、わたしも金剛石のように、うんとがっちりがんばり通したわけなんですよ。で、わたしは思いましたよ――どっこい赤ん目! ミコールカなんかにそんな事ができてたまるもんか!」
「ラズーミヒンが今さき、僕にそう言いましたよ――あなたは今でもニコライを有罪と認めて、それを自分でラズーミヒンに力説なすったって……」
 彼は息がつまり、しまいまで言うことができなかった。彼は相手の腹を底の底まで見破って、自分で自分を拒否した人のように、名状し難い興奮のていで、耳をすましていた。彼は信ずるのを恐れた、そして信じなかった。まだ二様にとれることばの中をむさぼるようにかき回して、何かもっと正確な、もっとはっきりしたものをつかもうとあせった。
「ラズーミヒン君ですか!」今までずっと黙り続けていたラスコーリニコフのこの質問が、さもうれしくてたまらないように、ポルフィーリイは叫んだ。「へ、へ、へ! いや、ラズーミヒン君なんかはあんな風に、わきの方へどけとかなくちゃいけなかったんですよ。二人さしの方が好ましい、他人は出しゃばらないでくれ、というやつですな。ラズーミヒン君のは見当ちがいだし、それに門外漢ですよ。わたしのところへ、それはそれはまっさおな顔をして駆け込みましてね……が、まあ、あの男なんかうっちゃっとけばいい、ここへ一緒にすることはありません! ところで、ミコールカのことですがね、あれがどんな面白い創作の題材だか、ご存じないでしょう。つまり、わたしの解釈しているような意味でですよ。まず第一に、あれは未成年のからねんねえです。そして臆病者というのでもないが、まあ、一種の芸術家みたいなものですな。いや、全く。わたしが彼をこんな風に説明したからって、お笑いになっちゃいけません。無邪気で、何事に対しても感受性を持っていて、真情があります、つまり夢想家ファンタストなんですな。あの男は歌もうたえば、踊りもやるし、話をさせれば、よそからわざわざ聞きに来るほど上手だそうです。学校へも通ってるし、はしのころんだことにもぶっ倒れるほど笑いこけるが、また正体なしに酔いつぶれもする。しかしそれも道楽で飲むのじゃなく、時々飲まされるとやるんで、まだ子供っぽいんですよ。あの時彼は盗みを働いたが、自分じゃそれを知らないんですな。『床の上に落ちたのを拾ったのが、なんで盗みだ?』というわけでね。ときに、あなたはあの男が分離派教徒ラスコーリニックなのをご存じですか? いや分離派教徒というでもないが、何か別派の教徒なんですよ。あの男の一族には、ベグーン派(最も原始的な民間の一宗教)の者がいたんですからね。かれ自身もつい最近までまる二年間も、村のある長老スタレッツの下で聴法者生活をしておった。こういう話はすべてミコールカ自身と、同郷のザライスクの人間から聞いたんですよ。それどころか! いきなり荒野へ苦行に出かけようとしたこともあるんですからな! なかなか熱心でね、毎晩神さまにお祈りもすれば、古い『本当の』書物を読んで、読みふけったものなんですよ。ところが、ペテルブルグ――ことに女と酒が、彼に強烈な作用を及ぼしたんです。もともと感受性の強い男だもんだから、すぐ長老のことも、何もかも忘れてしまったのです。こういう話も聞いて知っとります。ここのある画家があの男を可愛いがって、ちょいちょい訪ねて行くようになった。そこへ今度の騒ぎがやって来たんですな! すると、すっかりおじ気がついてしまって、首をくくろうとする、ね! 逃げようとする、ね! いや、わが法律に対する民衆の観念と来たら、どうも始末におえない。中にはただ『裁判される』ということばを恐れるのがいるんですからな。これは誰の罪でしょう! 新制度による裁判は、今に何か答えを与えるでしょう。どうかそうありたいものですて! さてそこで、監獄へはいってみると、また有難い長老さまのことが思い出されたとみえるんです。でまた聖書が出てきたわけです。ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、彼らのある者にとって、『苦患くげんを受ける』ということが何を意味するか、おわかりですか! それはもう誰のためというのではなく、『ただ苦しまねばならぬ、苦患を受けねばならぬ』というのです。ましてお上から受ける苦患なら、なおさらだってわけですよ。わたしの知っている中にも、こういう例がありました。あるきわめて恭順な囚人が、まる一年ばかり入獄している間、毎晩毎晩暖炉の上で聖書ばかり読んでおりました。一生懸命に耽読たんどくして、それに凝り固まってしまいましてな、別にどうという訳もないのに、煉瓦れんがを拾って来て、何一つひどい扱いもしない典獄にほうりつけたものです。ところで、そのほうりつけ方がふるってる、つまりけがのないように、わざわざ一アルシンも脇へよけて投げたんですよ! が、長官にものを投げつけた囚人がどんなことになるか、わかり切った話です。そうしてつまり『苦しみを受けた』というわけですよ。そこでわたしも今、ミコールカが『苦しみを受けようとしている』か、あるいは、それに似寄ったことをしたがっていると、こう疑うのです。いや、もう事実上明確にわかってるくらいです。ただわたしが知っているってことを、当人が知らないだけなんですよ。どうです、あんな民衆の中から、空想家が出て来るということを、あなたは否定なさいますか! いや、もうざらですよ。そこでまた長老が心に働きかけてきた。ことに首をくくろうとした後では、いっそうしみじみと思い出されたのです。もっとも、今に自分からやって来て、何もかもわたしに打ちあけますよ。あなたあれに持ち切れるとお考えですか? まあ待ってごらんなさい。今にかぶとを脱ぐにきまっているから! わたしはもう今か今かと、あの男が口供を否定にやって来るのを、待っているんですよ。わたしはあのミコールカが好きになったので、根本的に研究するつもりです。ねえ、あなたはどうだとお考えになりました! へ、へ、へ! あの男はある点に対しては、実によくつじつまの合った答弁をしましたよ。必要な材料を供給してもらったとみえて、うまく準備していましたよ。ところが、その他の点になると、もうまるで水たまりへでも落ちたように、てんで何一つ知りゃしない、芋の煮えたもご存じない。しかも自分が何も知らないことを、ご当人いっこうご存じないんですからな! いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコールカじゃありませんよ! これは幻想的な事件です、陰鬱いんうつな事件です、人心が溷濁こんだくし、血で『一掃する』という文句が到るところに引用され、全生活が安逸コムフォートを旨とする現代のでき事です。そこには机上の空想と、理論的にいらいらさせられる心があるのです。そこには第一歩に対する決断が見られます。しかし、これは特殊な性質の決断です――まるで山からころげ落ちるような、あるいは鐘楼から飛びおりるような気持で決心したので、犯罪に向かっていくのにも、まるで足が地についていない。自分のはいったあとのドアをしめることも忘れながら、とにかく殺した、二人まで殺した、理論によってね。殺したには殺したが、金をとることはし得ないで、どうやらこうやら持ち出したものは、石の下へ隠してしまった。しかも、兇行きょうこうの現場でドアのかげに隠れていたとき、外からドアをたたいたり押したりして呼鈴をがらがら鳴らしたりした――その時の苦痛だけでは足りないで、その後また半ば熱に浮かされながら、その呼鈴を思い出すために、もう空き家になっているその住まいへ出かけて行った。背筋を走った悪寒を、いま一度経験したいという要求が起ったんですな……しかし、まあそれは病気のせいとするにしても、まだこういうことがある。人を殺しておきながら、自分を潔白な人間だと思って、他人を軽蔑けいべつし、青ざめた天使のような顔をして歩き回っている――なんの、これがどうしてミコールカなもんですか、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコールカじゃありませんよ!」
 この最後のことばは、その前に語られた否定めいたことばの続きとしては、あまりに思いがけないものだった。ラスコーリニコフはまるで突き刺されたように、全身わなわなと震え出した。
「では……誰が殺したんです?……」彼はがまんし切れなくなり、あえぐような声で尋ねた。
 ポルフィーリイは、まるで思いもよらぬ質問にあきれ果てたように、椅子の背へさっと身を反らした。
「え、誰が殺したかですって!……」自分の耳が信じられないように、彼はこう問い返した。「そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたがつまり殺したんです」彼はほとんどささやくような、とはいえ十分確信のこもった声で、こう言い足した。
 ラスコーリニコフは椅子からおどり上がって、幾秒間か突っ立ったままでいたが、やがて一言ひとことも言わずにまた腰をおろした。小刻みなけいれんがふいに彼の顔面を走った。
「唇がまたあの時のように震えていますぜ」とポルフィーリイは同情さえ帯びたような調子でつぶやいた。「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしのことばを見当ちがいに解釈なすったようですな」しばらく無言の後、彼はまた言い足した。「だから、そんなにびっくりなすったんです。わたしがこんにち伺ったのは、つまり何もかもすっかり言ってしまって、事柄を明らさまに運ぼうと思ったからなんです」
「あれは僕が殺したのじゃありません」何か悪いことをしている現場を押えられて、びっくりした小さい子供のような調子で、ラスコーリニコフはささやいた。
「いいや、あれはあなたです、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたです、ほかに誰もありません」いかつい確信に満ちた声で、ポルフィーリイはこうささやいた。
 彼らは二人とも口をつぐんだ。沈黙は奇妙なほど長く、ものの十分ばかりも続いた。ラスコーリニコフはテーブルにひじづきして、無言のまま指で髪をかき回していた。ポルフィーリイはおとなしく腰かけたまま、じっと待っていた。ふいにラスコーリニコフは、さげすむようにポルフィーリイを見上げた。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、またあなたは古い手を出しましたね! 相も変わらず、例のあなたの手口だ! よくそれで飽きないもんですねえ、実際?」
「ええ、もうたくさんですよ、今のわたしに手口も何もあるもんですか? もしここに証人でもあれば別の話ですが、われわれは二人きり差し向かいで、内証話をしてるんじゃありませんか。ごらんの通り、わたしはあなたをうさぎのように追いかけて、つかまえに来たのじゃありません。自白をなさろうとなさるまいと――今この場合おなじことです。あなたがなんとおっしゃらなくても、わたしの腹の中でちゃんと確信してるんですから」
「それなら、なぜおいでになったんです?」とラスコーリニコフはいらだたしげに尋ねた。「僕はまた以前の質問を発しますが、もし僕を有罪と認めておられるなら、どうして収監しないんです?」
「はあ、その質問ですか! よろしい個条を追ってお答えしましょう。第一、あなたをそういきなり逮捕するのは、わたしにとって不利だからです」
「なぜ不利なんです! もしあなたが確信しておられるなら、そうしなくちゃならないはず……」
「ええっ、わたしの確信がなんです? こんな事はすべて今のところ、わたしの空想にすぎないんですからね。それに、あなたを監獄へ入れて落ち着かせる必要が、どこにあるんです? あなたは自分から要求していらっしゃるくらいだから、自分でもおわかりになるでしょう。たとえば、あなたをあの町人に突き合せたって、あなたはただこう言われるだけです。『きさまは酔っ払ってるのかどうだ? おれがきさまと一緒にいたところを誰が見た? おれはただきさまを酔っ払いと思ったんだ。それに実際、きさまは酔っ払っていたじゃないか』――さあ、その場合わたしはこれに対して、なんと言えばいいんです。まして、やつの言うことより、あなたの申し立ての方が本当らしいんですからな。だって、やつの口供は、ただ心理だけですが――そんなことはああいう面をしてちゃ、第一柄に合いませんよ――ところが、あなたの方は急所を突いてるわけですからね。何分あの野郎、大酒呑みで通っておるんですよ。それに、わたし自身がもう幾度となく、この心理主義が両方に尻尾しっぽを持っていることを、ちゃんと白状しましたからね。それどころか、うしろの尻尾の方が大きくて、ずっと本当らしいほどですが、今のところわたしはそれ以外、あなたに対抗すべく何一つ持っていないことまで白状しました。それに、結局はあなたを収監することになるでしょうし、第一、こうして何もかもあらかじめあなたに声明するために、自分からわざわざやって来たのですが(世間並みのやり方じゃありませんやね)、それでも結局あなたに向かって(これも世間並みじゃありませんが)、こんな事をするのはわたしにとって不利だと、真っ直ぐに言ってるんですからね。さて第二に、わたしがやって来たわけは……」
「さあ、それで第二の理由は?」(ラスコーリニコフはやはりまだ息を切らしていた)
「そのわけはもうさっき言ったとおり、わたしはあなたと話合いをつけるのが、自分の義務だと考えるからです。わたしはあなたに悪人と思われたくない、まして、本当になさろうとなさるまいとご勝手ですが、わたしは心からあなたに好意を持っているんですから、なおのことです。したがって第三に、わたしはいさぎよく自首なさいと、真正面から歯をきぬきせずおすすめしようと思って、ここまでやって来たのです。これはあなたにとってどれだけ有利かしれないし、またわたしにとってもやはり有利なんです――肩の荷がおりますからね。さあ、どうです、わたしとしてざっくばらんな態度じゃありませんかね?」
 ラスコーリニコフはちょっと考えていた。
「ねえ。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、あなたは自分で心理だけだと言いながら、やっぱり数学に入りこんでおしまいになりましたね。それで、もしあなたの考え違いだったらどうします?」
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ、考え違いじゃありません。例のほんの毛筋ほどの証拠を握ってるんですからね。その毛筋ほどのやつを、わたしはあの時見つけたのです。神さまが授けてくだすったんです!」
「毛筋ほどのやつって?」
「それは言いますまい、ロジオン・ロマーヌイチ。それにどっちみち、わたしも今はもうこの上ゆうよする権利がないから、いよいよ収監します。だから、あなたもよく分別なさい――今となったら、わたしにとってはどちらでも同じことです。したがって、ただあなたのために言ってるだけなんです。全くその方がいいですよ。ロジオン・ロマーヌイチ!」
 ラスコーリニコフは毒々しい薄笑いを漏らした。
「こうなると、もうおかしいのを通りこしますよ。それは無恥というものです。まあ、仮りに僕が有罪だとしても(そんなことは僕けっして言やしませんが)、あなた自身がもう僕を収監して、落ち着かせてやると言っておられるのに、僕の方からわざわざ自首して出るわけがないじゃありませんか?」
「ええっ、ロジオン・ロマーヌイチ、そうことば通りにおとりなすっちゃいけませんよ。事によったら、そう落ち着くわけにいかないかもしれませんからね! だって、これはただの理論で、しかもわたしの理論なんですよ。え、わたしなんかがあなたに対して、なんの権威オーソリティになれます? もしかすると、わたしは今でもあなたに、何かかくしているかもしれませんぜ。わたしにしたって、いっさいあなたにぶちまけてしまうわけにはいきませんからね、へ、へ! そこで第二段として、あなたにとってはどんな利益があるかという問題です。ねえ、そうすればどんな減刑を受けることになるか、それはおわかりでしょうな! だってこの自首がどういうとき、どういう瞬間に当たるのか、よく考えてごらんなさい! もうほかの男が自分に罪を引受けて、事件をすっかりこんぐらかしてしまった時じゃありませんか? わたしは神の前に誓って申しますが、あなたの自首はぜんぜん突発的に起こったことのように、『あすこで』(法廷の意)うまくつくろってこしらえて上げますよ。あんな心理はまるでないものにします、あなたに対する嫌疑はみな闇から闇に葬ってしまいます。そうすればあなたの犯罪も、一種の頭脳の混迷という風になります。もっとも、正直なところ、混迷に違いありませんからね。わたしは潔白な人間です、ロジオン・ロマーヌイチ、自分のことばは守ります」
 ラスコーリニコフはもの悲しげに沈黙して、こうべをたれてしまった。彼は長いことを考えていたが、ついにまたにやりと笑った。けれど、それはもうつつましい沈んだ笑いであった。
「ええっ、いりません!」まるでポルフィーリイにかくそうともしないような調子で彼は言った。「そんなことをする価値はない! 僕は何も、あなた方に減刑してもらう必要はないんだ!」
「さあ、それをわたしは恐れていたのですよ!」ポルフィーリイは熱した調子でほとんどわれしらずといったように叫んだ。「つまり、それをわたしは恐れていたのですよ――減刑なんかしていらないというやつをね」
 ラスコーリニコフはもの悲しげな、しみ入るような目で彼を見ていた。
「いや、命を粗末にしちゃいけませんよ!」ポルフィーリイはことばを続けた。「あなたはこの先まだまだありますよ。どうして減刑が不必要なんです、どうして不必要なんです! あなたは実にこらえしょうのない人ですなあ」
「何がそんなにあるんです?」
「生活が! いったいあなたは予言者ででもあるんですか、いったいどれだけのことをご存じなんです? 求めよさらば与えられんですよ。おそらく、神もここにあなたを期待しておられるのかもしれませんからね。それに、あれだって永久なものじゃありませんしね、鎖だって……」
「減刑がある、ですかね……」とラスコーリニコフは笑い出した。
「なんです、あなたはブルジョア的な恥辱でも気にしていらっしゃるんですか? どうやらそいつをびくびくして、しかも自分で気がおつきにならんらしい――だからお若いと言うんです! が、それにしても、あなたが恐れたり、自首を恥ずかしがったりすることは、別になさそうなもんですがね」
「ええっ、ばかばかしい!」ラスコーリニコフは口をきくのもいやだという風に、嫌悪の表情でさげすむように言った。
 彼はどこかへ出て行こうとでもするように、またちょっと腰を上げたが、ありありと絶望の色を面に現わして、すぐまた腰をおろしてしまった。
「それだ、それだ、それがばかばかしいなんて! あなたは信頼の念というものをなくしてしまったもんだから、わたしがあなたに見え透いた世辞でも言ってるようにお考えになる。いったいあなたはこれまでに、十分生活をしましたか? 十分物事がおわかりですか? 理論を考え出したところが、まんまとしくじって、どうもあまり平凡な結果になってしまったので、恥ずかしくなったんです! 結果は俗だった、それは事実です。しかし、あなたは望みのない卑劣漢じゃありません。けっして、そんな卑劣漢じゃない! 少なくとも、あなたはあまり長く自己欺瞞ぎまんをやらないで、一度に最後の柱へぶっつかったのです。いったいわたしはあなたをなんと見ていると思います? わたしはあなたをこう見ています。あなたはただ信仰とか神とかを見つけさえすれば、よし腸を引出されようと、じっと立ったまま笑みを含んで、自分を苦しめる連中をながめている、そういう人間の一人だと思っています。だから、早くそれをお見つけなさい、そうすれば生きていかれますよ。あなたは、第一、もうとっくに空気を一変する必要があったんです。なに、苦痛もいいものですよ。お苦しみなさい。事によると、苦しみたいというミコールカの考え方が、あるいは本当なのかもしれません。そりゃわたしだって、容易に信じられないってことはよく承知しています――がまあ、あまり理屈っぽく詮索せんさくしないで、何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありません――ちゃんと岸へ打上げて、しっかり立たせてくれますよ。では、どんな岸かといえば、それはわたしにゃわかりっこありませんよ。ただあなたはまだまだ生活すべきだと、こう信じておるだけです。あなたが今のわたしのことばを、紋切り型のお説法のようにとっておられるのは、わたしも承知しております。しかし、またあとで思い出されたら、役に立つことがあるかもしれません。それだからこそ言うのです。あなたがただ婆さんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ! まだしも神に感謝しなきゃならんかもしれませんて。なんのために神があなたを守ってくださるのか、そりゃ、あなただってわかりっこありませんや。あなたは大きな心になって、もう少し恐れないようにおなんなさい。目前に控えている偉大な実践を、あなたはびくびくしてるんですか? いや、この場に及んでびくびくするのは、それこそ恥辱です。いったいああいう一歩を踏み出した以上、歯を食いしばって我慢しなくちゃいけません。それはもう正義です。だから、正義の要求するところを実行なさい。あなたに信仰がないのは、わたしも承知しているが、しかし大丈夫、生活が導いてくれます、やがて自分から好きになりますよ。あなたは今ちと空気が足りない、空気が、空気がね!」
 ラスコーリニコフはぴくりとなった。
「あなたはいったい何者です!」と彼は叫んだ。「いったいあなたは予言者なんですか? どんな権利があって、そう偉そうに落ち着き払って、さも高みから見おろすように、りこうぶった予言をするんです?」
「わたしが何ものかって? わたしはもうおしまいになった人間です、そりゃまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちっとは心得た人間かもしれませんが、しかしもうおしまいになった人間です。ところが、あなたは別ものです。神はあなたに生命を準備してくだすった(もっともあなたの場合だって、煙のように消えてしまって、何も残らないかもしれない、そりゃ誰にもわかりませんがね)。あなたが別な人間の部類へ移ったからって、それがなんです? まさか、あなたのような心をもっている人が、安逸コンフォートなんか惜しむのじゃないでしょう? またあまりにも長い間、人があなたを見ないことになるかもしれないが、いったいそれしきのことでなんです? 問題は時にあるのじゃなくて、あなた自身の中にあるのです。太陽におなりなさい、そうすればみんながあなたを仰ぎ見ますよ! 太陽は、まず第一に太陽でなければなりません。あなたはまた何をにやにやなさるんです? わたしがこんなシラーめいたことを言うからですか? わたしはかけでもするが、あなたはきっとわたしのことを、今おべっかで取り入ろうとしていると考えておいでなんでしょう! いや、実際おべっかを言ってるのかもしれませんよ、へ、へ、へ! ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしのことばなんか、まあ信じないがいいですよ。けっしてこれっから先も信じないがいいかもしれない――これはわたしの性癖なんだから。それに異存はありません。ただ一言つけ加えておきますが、わたしが、どれほど卑しい人間で、どれほど潔白な人間か、それはあなた自身に判断がつきそうなものですね!」
「あなたはいつ僕を逮捕するつもりです?」
「さあ、まだ一日半か二日くらいは、あなたに散歩をさせてあげましょう。ねえ、よく考えて、神に祈っておおきなさい。それに、その方がとくですよ、全くとくですよ」
「が、もし僕が逃亡したら?」なんとなく妙ににやにやしながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、あなたは逃げやしませんよ。百姓なら逃げるでしょう、近ごろはやりの分離派教徒なら逃げるでしょう――他人の思想の奴隷なら――なぜってそんな連中は、海軍少尉補のドゥイルカみたいに、ただ指の先をちょっと見せさえすれば、なんでも好きなものを、一生涯信じさせることができるんですからな。ところが、あなたはもう自分の理論も、信じちゃいらっしゃらないんだから――何も持って逃げるものがないじゃありませんか! それに、逃亡生活に何があります? 逃亡生活はいやな苦しいものですよ。ところが、あなたにはまず第一に生活が必要です、確固たる状態が必要です、適当な空気が必要です。逃亡生活にあなたの空気があると思いますか? 一たん逃げても、また自分で帰って来ますよ、あなたはわれわれを離れちゃやってゆけないんです。もしわたしがあなたを牢に入れれば――ひと月なり、二月なり、三月なり暮らすうちに、あなたはふいにわたしのことばを思い出して、自分から自白にやってみえます。しかも、自分でも思いがけないくらいにね。まさか自白に行こうなんて、つい一時間前までは、自分でもわからないくらいでしょうよ。わたしは確信しておりますよ――あなたは『苦患くげんを受けようと考えつかれる』に相違ありません。今はわたしの言うことをお信じにならないが、自然そこへ来るに決まってますよ。なぜって、ロジオン・ロマーヌイチ、苦痛というやつは偉大なものですからな。どうかわたしがぶくぶくふとっているからって、そんなことを気になすっちゃいけませんよ。おっしゃるまでもなく、自分でよく知ってるんですから。そんなことを笑っちゃいけません。苦痛の中には理念があります。ミコールカの考える通りです。いや、あなたは逃亡なんかしやしませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ」
 ラスコーリニコフは席を立って、帽子をつかんだ。ポルフィーリイも同じく立ち上がった。
「散歩にでもお出かけですかな? 今晩はいい天気でしょうな。ただ夕立がなけりゃいいが。もっとも、その方がいいかもしれません。空気を清めてくれますからね……」
 彼も同じく帽子に手をかけた。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、どうかそんなことを考えないでください」ときびしい執拗しつような調子で、ラスコーリニコフは言った。「僕はいま白状したわけじゃありませんからね。あなたがあまり不思議な人だもんだから、僕はただ好奇心であなたのことばを聞いていただけです。僕はけっして何一つあなたに白状はしなかった……これを覚えていてください」
「いや、そりゃもう心得ております。覚えときましょう――まあ、どうだ、この震えていることは。いやご心配には及びませんよ、あなたのお心任せですよ。少し散歩していらっしゃい。ただあまり長い散歩はいけませんよ。それから万一のために、ちょいとしたお願いがあるんですが」と彼は声を落として言い足した。「それは少々言いにくいことですが、かんじんなことなんで。もし万が一(そんなことは、しかし、わたしも信じやしません、あなたがそんなことのできる人とは思っていませんからね)、もし万一――つまりその万々一の場合――この四、五十時間の間に別な方法で、何か突拍子もない方法で事件を片づけようということが、あなたの頭に浮かぶようなことがあったら――つまり自分で自分に手をかけるようなことがあったら(これはばかばかしい想像ですが、まあ一つ許してください)、その時は――短くてもいいから、要領を得た書きものを残して行ってください。ほんの一、二行、ただの一、二行でよろしい。石のことも書いてください――その方が堂々としていますからね。では、また……いいご思案と立派なご行為を祈ります!」
 ポルフィーリイは妙に身をかがめて、なんとなくラスコーリニコフの視線を避けるようにしながら、出て行った。ラスコーリニコフは窓ぎわに寄り、いらいらしたもどかしい気持で、客が往来へ出て少し離れる時間を、胸の中で計りながら待っていた。それからやがて、自分もせかせかと部屋を出て行った。


 彼はスヴィドリガイロフのもとへ急いだのである。この男から何を期待することができたか――それは彼自身も知らなかった。けれどこの男には、彼を支配する一種の権力が潜んでいた。一度このことを意識すると、彼はもう落ち着いていられなかった。それに、今はもうその時機が来たのである。
 道々、一つの疑問が特に彼を悩ました――いったいスヴィドリガイロフはポルフィーリイの所へ行ったのだろうか?
 彼が判断し得たかぎりで、何を賭けて誓ってもいいと思ったのは――いや、行ってはいない! という答えであった。彼はまたくり返しくり返し考えて、ポルフィーリイの訪問の一部始終を思い起こした上、いや、行ってはいない、もちろん行ってはいない! と推定した。
 が、もしまだ行かなかったとすれば、今後ポルフィーリイを訪ねるだろうか、訪ねないだろうか? が、今のところ、訪ねないだろうという気がした。それはなぜか? 彼はそれも説明がつかなかった。けれど、よし説明がついたとしても、今の彼は特にそれで頭を悩まそうとはしなかったに相違ない。これらはすべて気にかかる事ばかりだったが、同時に彼はそれどころでないような気がした。実に奇怪な話で、誰もそんなことを信じないかもしれないが、彼は現在目前に迫った自分の運命について、ほんのぼんやりと微かな注意しか払っていなかった。何かそれ以外にずっと重大な、並々ならぬものが、彼を悩ましていたのである――それは彼自身に関したことで、ほかの誰のことでもないけれど、何か別のことで、何か重大なことである。それに、彼は限りなく精神的疲労を感じていた。もっとも、この朝はこの二、三日に比べて、彼の理性はずっと確かに働いていたけれど……
 それに、ああいう事のあった今となって、こんなくだらない新しい困難を征服するために、努力を払う価値がはたしてあるだろうか? たとえば、スヴィドリガイロフがポルフィーリイを訪ねないように、努めて策略をめぐらす価値がどこにある! スヴィドリガイロフ風情のために、研究したり、調べたり、ひまをつぶしたりする価値があるものか!
 ああ、こんなことはすべてたまらなくあきあきしてしまった!
 が、それにもかかわらず、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。はたして彼はこの男から何か新しい暗示なり、逃げ道なりを期待しているのか? じっさい、人はわらしべにでもつかまろうとするものである! 彼ら二人を一緒にしようとするのは、宿命とでも言うのだろうか、それとも何かの本能か? 事によったら、これはただ疲労の結果かもしれない、絶望のためかもしれない。またもしかしたら、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、誰かほかの人かもしれない。スヴィドリガイロフはただ偶然そこに介在しただけかもしれぬ。ではソーニャだろうか? しかし、今なんのためにソーニャのところへ行くのだ? またしても彼女の涙をねだるためか? それに、彼はソーニャが恐ろしかった。ソーニャは彼にとって頑として動かぬ宣告であり、変わることのない決定であった。問題は――彼女の道を選ぶか、彼自身の道を進むかである。特にいま彼はソーニャに会うことはできなかった。いや、それよりスヴィドリガイロフを試みた方がよくはなかろうか。そもそも彼は何ものだろう? 彼はずっと以前から、なんとなくこの男が何かのために必要なのをひそかに自認しないわけにはいかなかった。
 が、それにしても、彼らの間にいったいいかなる共通点がありうるだろう? 彼らの間では悪事すらも一様ではあり得なかった。この男はその上、あまりといえば不愉快で、この上ない淫乱いんらんものらしく、きっと狡猾こうかつな嘘つきに相違ない。あるいは、恐ろしく悪意の強い人間かもしれない。彼については大変な噂が行なわれている。もっとも、彼はカチェリーナの子供の面倒をみたが、しかしそれはなんのためやら、どんな意味を蔵しているのやら、しれたものではない。この永久に何かの野心や、たくらみを持っているのだ。
 この二、三日というもの、ラスコーリニコフの頭には、絶えずある一つの想念がひらめいて、恐ろしく彼を不安にしていた。もっとも、彼はしきりにそれを追い退けようと努めていたが、それほどこの想念は彼にとって苦しかったのである! 彼は時々こんなことを考えた――スヴィドリガイロフは絶えず彼の身辺をうろうろしていた、今でもうろうろしている。スヴィドリガイロフは彼の秘密をぎつけた、スヴィドリガイロフはドゥーニャに野心をいだいていた。で、もし今もやはりいだいているとすれば? この問いに対してはほとんど確実に、しかりと答えることができる。もし、いま彼がラスコーリニコフの秘密を知り、それによって彼に対する支配権を得た以上、それをドゥーニャに対する武器に使用する気になれば……
 この考えは時々夢にさえ彼を苦しめたが、意識的にはっきりと現われたのは、今スヴィドリガイロフのところへ足を向けた、この時が初めてだった。彼はこう考えただけでも、暗鬱あんうつな憤怒に引込まれた。第一そうなれば、もう何もかも一変してしまう。彼自身の状態にすら変化が生ずる。つまり、今すぐドゥーニャに秘密を打明けねばならぬ。もしかすると、ドゥーネチカに何か不用意な行為をさせないために自分自身を法の手に渡さねばならぬかもしれない。手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャは何かの手紙を受け取った! ペテルブルグに来て、彼女が誰から手紙を受けるはずがあろう? (まあ、ルージンくらいなものか?)もっとも、そんな時にはラズーミヒンが守っていてくれるけれど、ラズーミヒンはなんにも知らない。事によったら、ラズーミヒンにも打明けねばならぬかもしれない! ラスコーリニコフは嫌悪の情を覚えながら、このことを考えた。
 何はともあれ、一刻も早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ――と彼は腹の中できっぱり決心した。有難いことに、ここで必要なのは、詳しいこまごました事というよりも、むしろ事件の本質である。しかし、もし彼がそういう事をしかねない男だったら――もしスヴィドリガイロフがドゥーニャに対して、何かたくらんでいるとしたら――その時は……
 ラスコーリニコフは最近、ことにこの月じゅう、ずっとへとへとに疲れ切っていたので、もはやこうした問題になると、「その時はあいつを殺してやる」という唯一の決心よりほか、どうにも解決ができなかった――彼は冷やかな絶望を覚えながらまたそれを考えた。重苦しい感じが心臓をおしつけた。彼は往来のまんなかに立ち止まり、どの道を通ってどこへ迷い込んだかと、あたりを見回し始めた。と、彼はいま通り抜けた乾草広場センナヤから三、四十歩隔てた××通りに自分を見出した。左手のとある家の二階は、そっくり一軒の料理屋で占領されていた。窓という窓はいっぱいにあけ放されている。窓に動いている人影から見ると、店は客でいっぱいらしかった。広間には歌声があふれ、クラリネットやヴァイオリンが響き、トルコ太鼓がとどろいていた。女の黄色い叫び声も聞こえた。彼はなんのために××通りへ曲がって来たのかと怪しみながら、引っ返そうとする拍子にふと見ると、片端のあけ放された窓の一つに茶テーブルに向かってパイプをくわえているスヴィドリガイロフの姿が目にはいった。これはなんとも言えないほど、ぞっとするほど彼の胸を打った。スヴィドリガイロフは黙って彼をじろじろ観察していた。そして同じくラスコーリニコフを驚かした事だが、彼はどうやら自分に気づかれないうちに、こっそり逃げようと腰を持ち上げかけたらしい。ラスコーリニコフはすぐさま自分でも彼に気づかず考え込みながらわきを見ているような振りをして、引続き目の隅で彼を観察していた。心臓は騒がしく鼓動した。はたしてその通りである。スヴィドリガイロフは明らかに、人に見られるのをいやがっているらしかった。彼は唇からパイプを離して、あわや今にも姿を隠そうとした。が、身を起こして椅子をのける拍子に、ふとラスコーリニコフが彼を見つけて観察しているのに気がついたらしい、二人の間には、彼が半醒半睡はんせいはんすいのラスコーリニコフをその部屋に訪れた、最初の会見の一場に似たものが生じた。ずるそうな微笑がスヴィドリガイロフの顔に現われ、それがだんだん広がって行った。そして二人ともお互い同士を見て、観察しているのを悟った。とうとうスヴィドリガイロフは、からからと大きく笑った。
「さあ、さあ! よろしかったら、どうぞおはいりください。わたしはここにいますから!」と彼は窓から叫んだ。
 ラスコーリニコフは料理店へ上がって行った。
 彼は大広間に隣り合った、窓一つしかない、いたって小さな奥の部屋に、スヴィドリガイロフを見出した。広間では二十ばかりの小テーブルに向かって、歌うたい連の合唱を聞きながら、商人や、官吏や、その他あらゆる種類の人が茶を飲んでいた。どこからか、球を突く音が響いて来た。スヴィドリガイロフの前の小テーブルには口をあけたシャンパンの瓶と、半分ばかり酒をついだコップがおいてあった。そのほか部屋の中には、小形な楽器を持った手風琴回しの子供と、しまのスカートのすそをからげ、リボンつきのチロール帽子をかぶった、健康そうに頬の赤い十八ばかりの歌うたいの女がいた。娘は隣室の合唱にもめげず手風琴の伴奏に合わせて、だいぶしゃがれたコントラルトで、何やら下男くさい歌をうたっていた……
「いや、もうたくさん!」とスヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフのはいって来るのを見て、彼女の歌をさえぎった。
 娘はさっそく歌をぷつりと切って、うやうやしげな期待の格好で控えていた。彼女はその韻を踏んだ下男情調まで、やはりまじめなうやうやしい表情で歌っていたので。
「おい、フィリップ、コップだ!」とスヴィドリガイロフは叫んだ。
「ぼく酒は飲みません」とラスコーリニコフは言った。
「どうぞご勝手に、これはあなたのためじゃないんで。さあ、飲め、カーチャ! 今日はもうこれでいいよ、お帰り!」
 彼は娘に酒を一杯ついでやり、黄色い一ルーブリ紙幣さつを一枚出した。カーチャは、女が誰でもするように一息に、つまり唇を放さず二十口ばかりに酒を飲みすと、紙幣さつを取ってスヴィドリガイロフの手を接吻せっぷんした。こちらは大まじめでその接吻を許した。娘は部屋を出て行った。手風琴を持った男の子も後ろに続いた。二人は往来から呼び込まれたのである。スヴィドリガイロフがペテルブルグへ来てまだ一週間にもならないのに、彼の周囲のものは何もかも古い族長的な感じになり切っていた。ここの給仕のフィリップもちゃんと『お馴染なじみ』になり、彼の前でぺこぺこしているし、広間へ通ずるドアはしめ切ることになっていた。スヴィドリガイロフはこの部屋をわがのようにして、幾日も幾日もここで居続けするらしかった。この料理店はやくざできたならしく、二流とまでもいかないくらいだった。
「僕はあなたんとこへ行こうと思って、捜していたとこなんですが」とラスコーリニコフは口を切った。「ところが、今どうして僕は急に乾草広場センナヤからこの通りへ出たんだろう! 僕は今まで一度もこっちへ曲がったこともなければ、ここへ寄ったこともなかったのに。僕はいつも乾草広場センナヤから右へ曲がるんです。第一、あなたんとこへ行く道はこっちじゃない。ところが、ふっと曲がると、この通りあなたに出くわした! どうも不思議だ?」
「なぜあなたは率直におっしゃらないんです――これは奇跡だって!」
「なぜって、これはただ偶然にすぎないかもしれないじゃありませんか」
「いや、どうもこの人たちはなんという考え方をするんだろう!」とスヴィドリガイロフはからからと笑い出した。「腹の中じゃ奇跡を信じていたって、けっして白状しないんですからね! あなたも現に、偶然にすぎない『かもしれぬ』とおっしゃるじゃありませんか。自分自身の意見というものについて、ここの人たちがみんなどれくらい臆病おくびょう者か、あなたにはとうてい想像もつきますまい、ロジオン・ロマーヌイチ! わたしはあなたの事を言ってるんじゃありませんよ。あなたは自分自身の意見を持っていらっしゃる、そしてそれを持つことをびくびくなさらなかった。で、つまりあなたはわたしの好奇心をおひきになったわけです」
「そのほかには何もありませんか?」
「だって、それだけでもたくさんじゃありませんか」
 スヴィドリガイロフは明らかに興奮しているらしかった。が、それはほんのちょっとだった。酒はやっとコップに半分しか飲んでいなかったのである。
「だってあなたは僕のことを、あなたのいわゆる自分自身の意見を持ちうる人間だとご承知になる前に、僕のところへ見えたように覚えていますが」とラスコーリニコフは注意した。
「いや、あの時は話が別でしたよ。誰にだってそれぞれ目的がありますからね。奇跡という点で、わたしはあなたに申し上げますが、どうやらあなたはこの二、三日、眠りとおされたらしいですね。わたしは自分であなたに、この料理屋をお教えしといたんですから、あなたが真っ直ぐにここへいらっしたからって、別に奇跡なんかありゃしません。わたしは自分で道筋を詳しく説明して、この店のある場所と、ここでわたしに会える時間まで、お教えしといたんです。覚えていますか?」
「忘れました」とラスコーリニコフは驚いて答えた。
「本当でしょう。わたしはあなたに二度も言ったんですよ。だから、ここの所が機械的にあなたの記憶に刻み込まれたのです。それで、あなたも自分じゃわからないなりに、ちゃんとその指定どおり、しかも機械的にこっちへ曲がって来たんです。わたしはあの時そう言いながらも、あなたがわかってくださろうとは期待していなかった。どうもあなたはあまり自分の本性を暴露しすぎるようですな、ロジオン・ロマーヌイチ。ああ、それからついでに――わたしはこういう事を確かめました。ペテルブルグでは、歩きながらひとり言を言う人がたくさんあります。こりゃ半気ちがいの街ですよ。もしわが国に本当の科学があったら、医者も、法律家も、哲学者も、それぞれ自分の専門にしたがって、ペテルブルグを対象に極めて貴重な研究をすることができたでしょうよ。ペテルブルグほど人間の心に陰鬱険峻いんうつけんしゅんな、奇怪な影響を与えるところはまずあまりありますまいよ。気候の影響だけでも大したものです! ところが、これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるを得ません。しかし、今の問題はこんなことじゃありません。問題はわたしがもう幾度となく、あなたを脇から観察していたということです。あなたは家を出るときには、まだ頭を真っ直ぐにして歩いていらっしゃる。ところが、二十歩あたりからもうぐったりたれてしまって、両手をうしろに組む。そして目はあけていらっしゃるが、たしかに前も脇の方も、いっさい見てはいらっしゃらない。そしてしまいには唇をもぐもぐ動かして、ひとり言をお始めになる。その上、時には片手を振りまわして、朗誦ろうしょうのような事を始め、あげくの果てには、ながあく往来のまんなかに立ち止まっておしまいになる。これははなはだよくないですなあ。事によると、わたしのほかにまだ確か、あなたに目をつけてる人がないとも限らない。これなどははなはだ不利ですからな。わたしにしてみりゃ、実のところどうでもいいことです。わたしにあなたの治療ができるわけでもありませんし。ですが、あなたは、もちろん、わたしの言うことがおわかりでしょうね」
「じゃ、僕が尾行されてるのをご存じなんですか?」探るような目つきで彼に見入りながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、なんにも知りませんよ」さもおどろいたような顔をして、スヴィドリガイロフは答えた。
「ふん、では僕のことはかまわんでもらいましょうか」とラスコーリニコフは眉をしかめ、つぶやくように言った。
「よろしい、あなたのことは構わんとしましょう」
「それよりも、あなたがここへよく飲みに来られ、しかも僕に来いと言って、自分で二度まで指定してくだすったのなら、なぜいま僕が通りの窓を見た時に、隠れるように行ってしまおうとなすったんです? それを聞かせてください。僕はちゃあんとそれに気がつきましたよ」
「へ、へ! ではいつぞやわたしがあなたの部屋のしきいの上に立った時、なぜあなたは目をつぶって長椅子の上に横になったまま、自分じゃまるで眠ってもいないのに、眠ったような振りをなすったんです? わたしはちゃあんとそれに気がつきましたよ」
「僕には……それだけの理由が……あったかもしれませんよ……それはご自分でおわかりのはずです」
「わたしだって、それだけの理由があったかもしれませんよ。もっとも、あなたはそれをご存じないけれど」
 ラスコーリニコフは、右のひじをテーブルに突き、その指でおとがいを支えながら、じっとスヴィドリガイロフに視線をそそいだ。彼はちょっと一分ばかりの間、これまでもたびたびショックを感じた相手の顔を、しげしげとみつめた。それはなんとなく仮面を思わせる奇怪な顔だった。唇はあざやかな紅色して、あごひげは明るい亜麻色をおび、同じく亜麻色の髪はまだかなり濃く、ばら色の頬をした色白な顔である。目はなんだか少し青すぎて、その視線は何かあまり重苦しく、じっと動かなさすぎた。年にしてはずぬけて若々しく見える美しい顔には、なんだか恐ろしく不愉快なところがあった。スヴィドリガイロフの身なりは軽快なしゃれた夏着で、特にシャツにぜいを見せていた。指には宝石入りの大きな指輪をはめている。
「いったい僕はまだあなたまで相手に、やっさもっさしなくちゃならないんですか」とラスコーリニコフはけいれんするみたいにじりじりしながらいきなりぶっつけに切り出した。「たとえあなたが、害を加える気になったら、非常に危険な人物であるにしても、僕はもうこの上苦労なんかしたくない。僕は今すぐあなたに証明してみせますが、僕はあなたが思っているほど、自分というものを大事にしちゃいないんですからね。ちゃんとお断わりしておきますが、僕があなたを訪ねて来たのはほかじゃありません。もしあなたが僕の妹に対して、あの以前の野心を捨てず、そのために最近知られた事実を何かに利用しようと考えているのだったら、あなたが僕を監獄へぶち込むよりも前に、僕はあなたを殺してしまうから、その事をじきじき言いに来たのです。僕の言うことは正確ですよ。僕が自分のことばを守りうる人間だってことは、あなたもご存じのはずです。第二に、もし何か僕に言明したいことがあるなら――だって、どうもこの間じゅうから、あなたは何やら僕に言明したがっておられるようだから――もしそうだったら、早く言ってください。一刻の時も大事ですからね。事によったら、もう間もなく手遅れになるかもしれないんですから」
「あなたいったいどこへそうお急ぎなんです?」好奇の目で彼をじろじろ見ながら、スヴィドリガイロフは問いかけた。
「誰にだってそれぞれ目的がありますからね」と陰鬱な調子でラスコーリニコフは気短に答えた。
「あなたはいま自分からざっくばらんな話を申し込みながら、もう第一の質問に対して返答を拒絶していらっしゃるじゃありませんか」とスヴィドリガイロフは笑顔で注意した。「あなたはいつも、わたしが何か目算を持っているように思われるので、それでわたしを疑いの目で見ておられるのです。なに、それはあなたの立場として無理もない話です。わたしはずいぶんあなたと意気相投合したいとは思っておりますが、しかしわざわざ骨折ってあなたの疑いを解こうとも思いませんな。なあに、それほど大した問題じゃありません。それに、何もそう特別なことであなたと話し合うつもりもなかったですからね」
「じゃ、なぜあの時僕があんなに必要だったんです? あなたはしきりに僕の尻を追い回していたじゃありませんか?」
「それはただ興味ある観察の対象としてですよ。あなたの状態の奇抜な点が、わたしの興味をひいた――つまりそのためなんですよ! その上あなたは、非常にわたしの興味をひいた婦人の兄さんで、しかも以前わたしはその当の婦人から、あなたのことをしょっちゅう色々と聞いていたので、あなたがその婦人に大きな勢力を持っておられる、とこう推定したわけです。これでもまだ十分でありませんかね、へ、へ、へ! もっとも、実をいえば、あなたの質問はわたしにとって、だいぶ複雑なんですよ。だから、それにお答えするのは骨なんです。だって早い話が、今あなたがわたしのとこへ見えたのも、ただ用件ばかりじゃなくて、何か新しいことを探りにいらしったんでしょう? え、そうでしょう? そうでしょう?」ずるそうな微笑を浮かべながら、スヴィドリガイロフは言いはった。「さて、そこで考えてみてください、わたし自身こっちへ来る汽車の中で、あなたという人を当てにして、あなたもやはり何か新しいことを聞かしてくださるだろう、あなたから何か借り出すことができるだろう、と思ったわけなんですよ! 我々はお互いにこういった物持なんで!」
「そりゃいったいなにを借り出そうというんです?」
「さあ、なんと言ったらいいかなあ? いったいわたしがそれを知ってると思いますか? ごらんのとおり、わたしは始終こういう安料理屋に入りびたっておりますが、わたしにゃこれがいい気持なんで。いや、いい気持っていうのじゃないが、なんということなしにですな。わたしだってどこかにすわらなきゃなりませんからね。まあ、あの可哀いそうなカーチャにしたってごらんになったでしょう?……ねえ、たとえば、仮りにわたしが食いしんぼうだとか、クラブ通いの食道楽だとか、そんな者ででもあればまだ楽なんですが、わたしときたらごらんのとおり、こんなものでも平気で食べられるんですからね! (彼は片隅を指でさして見せた。そこには小さいテーブルがあって、ばれいしょつきのひどいビフテキの残りが、ブリキ皿の上にのっかっていた)時に、あなたは食事は済みましたか? わたしはちょっと一口やったから、もう欲しくないんです。また酒だって、まるで飲みません。シャンパンのほかはいっさいなんにも。ところがそのシャンパンも一晩じゅうかかってたった一杯、しかもそれで頭痛がするんですからね。今これを言いつけたのは、ちょっと景気づけのためなんですよ。というのは、ちょっとあるところへ行こうと思ってるもんですから。だからごらんのとおり、わたしは特別のご機嫌でいるわけなんです。わたしがさっき小学生みたいに隠れたのは、あなたにじゃまされるかと思ったからなんで。しかし、多分(彼は時計を引出した)、まだ一時間くらいご一緒におられるでしょう。いま四時半ですからね。いや、全くのところ、せめてなんでもいいから、何かであるといいんですが、たとえば地主だとか、一家の父だとか、槍騎兵そうきへいだとか、写真師だとか、雑誌記者だとかね……それが、なあんにもないんですよ、何一つこれという専門が! 時には退屈なことさえありますよ。実際わたしは、何か珍しいことを聞かしてくださることと思っていましたが」
「いったいあなたは何者で、なんのためにこっちへ出て来たんです?」
「わたしが何者かって? あなたはご存じじゃありませんか――貴族で、二年ばかり騎兵隊に勤めて、その後このペテルブルグでごろついていて、それから、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎に暮らした。これがわたしの伝記でさあ!」
「あなたはカルタ師だったようですね?」
「いや、なんのわたしがカルタ師なものですか。いかさま師でさあね――カルタ師じゃありませんよ」
「あなたはいかさまカルタ師だったんですか」
「さよう、いかさまカルタ師でもあったんで」
「どうです、なぐられた[#「なぐられた」は底本では「なぐれらた」]事もあるでしょう!」
「そんなこともありましたよ。それがどうしたんです?」
「じゃ、決闘を申し込むこともできたわけでしょう……まあ、とにかくお目ざましの種になりますね」
「お説に反対はしますまい。それに、わたしは哲学めいた事は不得手ですからな。実のところ、わたしが急いでここへやって来たのは、どちらかといえばおもに女のためなんですよ」
「マルファ・ペトローヴナの葬式をすましたばかりなのに?」
「まあ、そうですな」とスヴィドリガイロフは押しの強い、露骨な表情でほほえんだ。「で、それがどうだと言うんです? あなたはなんですな、わたしが女のことをこんな風にいうのを、どうやら悪く思っておられるようですな?」
「というと、つまり僕が淫蕩いんとうを悪とみるかどうか、という意味ですね?」
「淫蕩を? へえ、そんな風に話を持ってこられるんですか! もっとも順序として、まず女に関する問題にお答えしましょう。実はね、わたしは今おしゃべりしたい気分になってるんですよ。ねえ、いったいなんのためにわたしは自己を抑制しなくちゃならないんでしょう? もしわたしが仮りに女好きだとすれば、なぜ女色を捨てなければならないんでしょう。少なくとも、一つの仕事ですからね」
「じゃ、あなたはここでただ淫蕩だけに望みをつないでるんですか?」
「ふん、それがどうなんです! まあ、淫蕩にもつないでおりますよ! だが、あなたはよっぽど淫蕩が気になるんですね。それに、わたしは少なくとも正直な質問が好きなんで。この淫蕩ってやつの中にゃなんといっても、自然に根底を持った、空想にさない、一種恒久なものがありますよ。絶えずおこっている炭火みたいなものが血の中にあって、こいつが始終焼きつくような働きをする。そして、年を取っても容易に消すことができないんですな。ねえ、そうじゃありませんか、これも一種の仕事でないでしょうか?」
「そんなことをしてみたって、何もうれしがるほどのこともないじゃありませんか? それは病気ですよ、しかも危険なやつだ」
「ああ、またあなたはそんな方へ話を持っていく! そりゃわたしだって、これが一定の尺度を越えたすべてのものと同様に、一つの病気だってことには同意です――しかも、この場合では、必ずや尺度を越えざるを得ないんですからな――がそうはいうものの、こいつは人によって、色々まちまちでしょう。これが第一だし、第二には、何事もむろん程度は守るべきで、たとえ卑屈でも何かと胸算用もしなけりゃならんでしょう。けれど、いったいそれがどうなるんです? 結局こいつがなかったら、ピストル自殺でもするよりか仕方がないじゃありませんか。そりゃわたしだって、相当な人間は退屈する義務がある、ということには賛成ですが、しかしそれでも……」
「あなたはピストル自殺ができますか?」
「ああ、また!」とスヴィドリガイロフは嫌悪の表情で、はね返すように言った。「後生ですから、そんな話をしないでください」と彼はせき込んで言い足したが、それまでずっと彼のことばに現われていた空威張りの調子がなくなり、顔つきまでが一変したようであった。「白状しますが、わたしはこの弱点を持っているんですよ。われながら勘忍ができないんだけれど、どうもいたし方がありません。わたしは死というやつが恐ろしいんで、人がそんな話をしてても厭なんです。実はね、わたしは多少神秘論者なんですよ」
「ああ、マルファ・ペトローヴナの幽霊ですか! どうです、引続き出て来ますか?」
「いや、そいつは言い出さないでください――ペテルブルグはまだ出ないんです。それに、そんなことくそくらえだ!」と彼はなんとなくいらいらした様子で叫んだ。「いや、いっそその話を……だが……しかし……ふむ! ちょっ、もう時間があまりない。もうあなたとゆっくりお話ししておられません、残念ですな! お話しすることはあるんですが」
「なんです、女でも待ってるんですか?」
「さよう、女が。なに、ちょっとした偶然のことでね……しかし、わたしが言うのは、そんな事じゃないんです」
「ふん、しかしこうした周囲の汚らわしさも、あなたはもう感じなくなってしまったんですか? あなたはもう踏みとどまる力を失ったんですか?」
「あなたは力がご注文なんですか? へ、へ、へ! あなたにゃびっくりさせられますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もっとも、そうだろうとは前から知っていましたがね。あなたは淫蕩だの美学だのっておっしゃる! してみると、あなたはシラーなんですね。理想家なんですね! もちろん、すべてそうあるべきが当然で、もしそうでなかったら、それこそ不思議なくらいだが、しかし実際となると、やっぱり妙ですな……ああ、残念なことに時間がない。けれど、あなたは実に興味のある人物ですな。ときについでですが、あなたシラーがお好きですか? わたしは恐ろしく好きなんで」
「だが、あなたは実に大したほら吹きだ!」といくらか嫌悪の語調でラスコーリニコフは言った。
「いいや、けっして、けっして!」スヴィドリガイロフはからからと笑いながら答えた。「しかし、あえて議論しません、ほら吹きなら、ほら吹きでもけっこう。しかし、かくべつ害にならなけりゃ、少しはほらを吹いたって構わんじゃありませんか。わたしは七年間、マルファ・ペトローヴナと田舎で暮らしたものだから、今あなたのように聡明な――聡明で、おまけにこの上なく興味ある人に出会うと、いきなり飛びかかっておしゃべりがしたいんですな。それに、ちょくちょく半杯ずつ飲んだ酒が、ほんのいささか頭へ回ったとこなんで。しかも何よりも第一、大いにわたしを得意にならせた事情が一つあるんだが、そのことは……まあ言いますまい。え、あなたはいったいどこへ?」急にスヴィドリガイロフは驚いたようにこう尋ねた。
 ラスコーリニコフは立ち上がろうとした。彼は重苦しい、息づまるような気がして、ここへ来たのが妙にきまり悪くなったのである。スヴィドリガイロフなる人物については、もう世界じゅうでもっとも空虚なくだらない悪党だと確信してしまった。
「いいじゃありませんか! もうしばらく、も少し話していらっしゃい」とスヴィドリガイロフはしきりにすすめた。「せめてお茶でも所望してくだすったらどうです。さあ、も少しすわってください。いや、もうばかなおしゃべりはしません、つまり手前みそのおしゃべりはね。何かあなたに話してお聞かせしましょう。なんでしたら、ある女がわたしを――あなたのことばをかりていえば――『救ってくれた』顛末てんまつをお話ししましょう。これは自然と、あなたの第一の問いに対する答えにもなるんですから。なぜって、その婦人というのは――あなたの妹さんだからです。話してもいいでしょうか? それに、時間つぶしにもなりますしね」
「お話しなさい。しかし改めてお断わりするまでもなく、あなたは……」
「おお、ご心配には及びません! おまけにアヴドーチャ・ロマーノヴナは、わたし如きくだらない空虚な人間にさえも、深い尊敬の念しか起こさせないような方ですからな」


「ご存じかもしれませんが(いや、わたしが自分でお話ししましたっけ)」とスヴィドリガイロフは言い出した。わたしはこの土地で大きなカルタの借金に責められて、てんから払う当てもなく、とうとう監獄へくらい込んだことがある。その時マルファが救い出してくれた顛末は、くだくだしくお話しする必要もありません。ねえ、女ってものはどうかすると、すっかりうつつを抜かして男に打ち込めるものですからなあ! あいつは正直で、中々りこうな女でした(もっとも、教育はまるでありませんでしたがね)。ところで、どうでしょう、その嫉妬しっとぶかい律気な女が、いろいろ恐ろしい乱痴気騒ぎをやったあげく、身を屈してわたしとある契約を結んだのみか、二人の結婚生活じゅうずっとそれを実行したんですよ。実は、彼女あれはわたしよりだいぶ年上だったし、おまけに年じゅう口からいやな臭いをさせていたので。わたしは多分のずうずうしさと、一種の正直さを持った男だもんですから、あれに対して完全に貞操を守り得ないということを、率直に当人に言ってのけたものです。この告白は彼女あれを夢中になるほど怒らせましたが、しかしわたしのずうずうしい率直さが、ある意味において彼女あれの気に入ったようでもありました。『つまり、前もってこう言ってしまうところをみると、自分でもわたしをだますのがいやなんだろう』ってな訳ですな――嫉妬ぶかい女には、これが一ばん大切なことなんで。かなり長く愁嘆場を演じた結果、わたし達の間にはこんな口約束ができました。第一に、わたしはけっしてマルファを見捨てないで、永久に彼女あれの夫でいること。第二に、彼女あれの許可なしにはどこへも旅行などしないこと。第三に、けっしてきまった情婦を持たないこと。第四、その代わりにマルファは時々わたしが小間使に手を出すことを許すが、しかし、これも彼女あれの内諾によらなければならぬこと。第五、われわれとおなじ階級出の女はくれぐれも愛してはならぬこと。第六、こんな事があっては大変だが、万一激しい真剣な情欲がわたしを襲うようなことがあったら、わたしはマルファにそれを打明けねばならぬこと――こういうのです。しかし、最後の点に関してはマルファはいつもかなり安心しておりました。あれはりこうな女でしたから、したがってわたしのことを、真剣な恋などできない道楽者の女好きとよりほかには、見ることができなかったんです。しかし、りこうな女と嫉妬ぶかい女というのは、おのおの異った別々なもので、こいつが困るんですよ。しかし、ある種の人間を公平に批判するには、あらかじめ二、三の先入観念と、普通われわれを囲繞いじょうしている人や事物に対する日常の習慣を、捨ててかからなくちゃなりません。あなたの批判なら、わたしは誰の批判にもまして、希望をかける権利を持っています。あなたはもうマルファのことで、ずいぶんおかしいことや、ばかばかしいことを聞いていらっしゃるかもしれない。実際、彼女あれには何やかや非常におかしいくせがありました。けれど、あえて端的に言いますが、わたしは彼女あれの数知れぬ悲嘆の因を作ったことを、心底から悔んでおります。しかし、優しい夫が優しい妻に捧げるためにきわめて当を得た oraison fun※(グレーブアクセント付きE小文字)bre(弔辞)としても、まあこの程度でたくさんでしょう。喧嘩けんかでもした時には、わたしはおおむね口をつぐんで、かんしゃくを起こしたりなどしませんでした。この紳士ぶりがたいていいつも目的を達したものです。これが彼女あれにある働きをして、御意にさえ召したくらいです。どうかすると、彼女はわたしを自慢にする事さえありましたよ。しかし、それでもあなたの妹さんだけは、我慢がし切れなかったんです。いったいどうして彼女あれがああいう絶世の美人を、家庭教師などに入れたのか! それは、つまり、マルファが情熱的な感受性の強い女なので、自分から妹さんにいきなりれ込んじまった――字義通りに惚れ込んでしまったからだ、とわたしは解釈しております。いや、何しろ妹さんはねえ! わたしはひと目みるなり、こいつはいかんという事が、わかりすぎるほどわかったのです――あなたはどうしたと思いです?――わたしはあの人に目を向けない決心をしたんです。ところが、アヴドーチャ・ロマーノヴナが、自分の方からまず進んで来られたんですよ――あなたは本当になさるかどうか知りませんがね。それはマルファ・ペトローヴナの熱もだんだんこうじてきて、妹さんの噂をしてもわたしが黙っていると言って、腹を立てるくらいでした。彼女あれがのべつ幕なしに妹さんを賞めたてるのに、こっちが平気な顔をしているのが気に入らないんですな。実際、あれがいったい何を望んでいたのか、わたし自身も今だにわからないくらいなんで! まあ、そんなわけだから、もちろんマルファは、アヴドーチャ・ロマーノヴナに、わたしの秘密を洗いざらい話したに相違ありません。あれは一つなさけないくせがあって、まるでもう相手構わず家庭内の秘密をぶちまけ、やたらにわたしのことを壁訴訟するんです。だから、この新しくできた美しい友達を、どうしてただおけるものですか? 察するところ、二人の間にはわたしのことよりほかに話はなかったに違いありません。で、アヴドーチャ・ロマーノヴナにも、人がわたしに塗りつけたがっている不気味な神秘めかしい話が、すっかり知れてしまったのは、疑いもないことです……わたしはかけをしてもいいが、あなたもこういった種類の話を、もう何か聞き込んでおられるでしょう?」
「聞きましたよ。ルージンなども、あなたがある子供の死因にさえなっているって、あなたを責めていましたよ。いったいそれは本当ですか?」
「後生ですから、そんな汚らわしい話はやめてください」とスヴィドリガイロフは嫌悪の表情で、気むずかしそうに言った。「もしあなたがどうしても、そのばかばかしい話の顛末を知りたいとおっしゃるなら、またいつか別にお話しましょう。が、今は……」
「それから、村であなたが下男をどうとかしたって事も聞きました。それもやっぱりあなたが何か原因になっているとかで」
「後生です、もうたくさん!」とスヴィドリガイロフは目に見えてがまんのし切れない様子で、再びさえぎった。
「それは、例の、死んでからもあなたのパイプをつめに来たという、あれと同じ下男じゃないんですか……いつか自分で僕にお話しなすった?」ラスコーリニコフは、だんだんいらだたしそうな様子になった。
 スヴィドリガイロフはじっと注意深くラスコーリニコフを見つめた。ラスコーリニコフは、このまなざしの中に毒々しい薄笑いが電光のようにちらとひらめいたかに思われた。とはいえ、スヴィドリガイロフはそれをおさえつけて、ごくいんぎんな調子で答えた。
「そう、同じ男です。お見受けしたところ、あなたもこういう事にたいへん興味をお持ちのようですな。まあ、せいぜい機会のありしだい、あらゆる点であなたの好奇心を滅足させることを、自分の義務と心得ております。いやはや! どうも見たところ、わたしはじっさい誰かの目にロマンチックな人物と見えるらしい。こうなってみると、マルファがわたしのことでお妹さんに、秘密めいた興味をそそるような話をうんとしてくれた事に対して、どれだけ故人に感謝しなければならぬかわからないほどです。そうじゃありませんか。自分が人に与える印象を判断することはできませんが、いずれにしても、それはわたしにとって有利でしたよ。アヴドーチャ・ロマーノヴナはわたしに対してきわめて自然な嫌悪を感じていられたにもかかわらず――またわたしがいつも陰鬱いんうつな、虫の好かぬ顔つきをしていたにもかかわらず、お妹さんはとうとうわたしが可哀想になってきたのです。一個の滅びたる人間として惻隠そくいんの情を催してこられたのです。ところで妹さんの心の中に可哀想という気が起こると、もちろん当人にとって何より危険な事なんです。そうすればきっと必ず『救って』やりたい、反省させたい、復活させたい、より高潔な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に向かって更生させたい――とまあこんな風のことで、空想しうる限りのことを考え出すのです。わたしはすぐとさっそく、小鳥は自分から網の中へ飛び込んで来るなと悟ったので、こっちでもその心構えをした。おや、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたは顔をしかめられたようですね? なに大丈夫、事件はご承知のとおり、くだらなくすんでしまったんですから。(ちょっ、わたしの酒を飲むことはどうだ!)実はね、わたしはいつも――そもそもの初めから、こう思っておりましたよ。あなたの妹さんを二世紀か三世紀ごろに、どこかのちょっとした王公なり、代官なり、小アジアの総督プロコンスルなりの姫君に生まれさせなかった運命の悪戯いたずらを、残念に思っているしだいですよ。妹さんは疑いもなく、殉教の苦患を堪え得た女性の一人です。真っ赤に焼けた火箸ひばしで胸を焼かれた時でも、もちろん微笑を含んでおられたに違いない。あのひとはわざわざ進んでその方へ向かう人です。ところで四世紀か五世紀ごろだったら、エジプトの砂漠へ隠遁して、そこで三十年くらい草の根と、歓喜と幻で生きていかれたことでしょう。あのひとはただもう誰かのために一刻も早く、何か苦痛を受けたいと、そればかり渇望し要求していらっしゃるんですからな。もしその苦痛を与えられなかったら、自分で窓から飛びおりかねないほどですよ。わたしはラズーミヒンという人のことを、ちょっくら聞きました。噂によると、なかなか分別のある人だということですね(それは姓の示すとおり(ラーズムは叡知の意)ですよ、きっと神学生なんでしょう)。まあその人にお妹さんを保護さしておけばいいでしょう。要するに、わたしはどうやらお妹さんを了解したらしいので、それを自分の名誉としているしだいです。けれどあの時、つまり初めてお知合いになったころは、ご承知の通り、いつも妙に軽はずみな、ばかげた了見になりやすいもんだから、誤った観察をしたり、ありもしないものを見たりするものです。ええっ、ちくしょう、なんだってあのひとはあんな美人なんでしょう? だから、何もわたしが悪いのじゃありませんよ! 一口に言えば、もうどうにも押えようのない情欲の発作から事が始まったんです。アヴドーチャ・ロマーノヴナはとほうもない、聞いたことも見たこともないほど純潔な人です。いいですか、これはお妹さんに関する一つの事実として、あなたにお知らせするんですよ(あのひとはあんなに聡明な方なのに、おそらく病的といってもいいほど純潔です。そして、これがあの人のためによくないのですよ)。ちょうどそこへ、パラーシャという目の黒い娘が小間使の中におったのです。わたしは前に一度もその娘を見た事がなかった。そのころほかの村から連れて来たばかりなんでね――すてきに美しい娘でした。が、お話にならないくらい低能だもんだから、わたしがなにするとたちまち泣き出して、邸じゅうに聞こえるような大声を立てた。それがみっともない騒ぎになってしまったんですよ。ところが、ある時食事のあとでアヴドーチャ・ロマーノヴナは、わたしが庭の並木路に一人でいるところをわざわざ捜し出して、目に涙を光らしながら、可哀想なパラーシャをいじめないでくれと要求されたんです。これがわたし達の二人でかわしたほとんど最初の会話だった。わたしはもちろん、あのひとの希望を満たすのを名誉と心得て、しんから打たれたような間の悪そうな振りをしようと努めましたよ。まあ、一口に言えばうまく役をしこなしたわけなんです。それから交渉が始まって、秘密の会話、教訓、訓戒、懇願、哀願、そして涙まで流されたのです――どうです、本当に涙まで流されたんですよ! 全く若い娘さんによっては、伝道に対する情熱がこのような程度にまでなる事があるんですからな! わたしはもちろんすべてを運命のせいにして、光明にあこがれ渇望するような振りをしていたが、やがて最後に女の心を征服するもっとも偉大な、一ばん間違いのない奥の手を出しました。それはけっして誰にもはずれのない方法で、いっさいの除外例なく、断然すべての婦人にきき目のあるものなんです。それは誰でも知っている方法で――世辞というやつですな。世の中に生一本ほどむずかしいものもなければ、また世辞ほど楽なものもありませんよ。もし、生一本な言行の中に、ほんの百分の一でも嘘らしい調子が交じったら、たちまち不調和を来して、その次には醜態が演じられるのです。それが世辞となると、初めからしまいまで嘘っぱちであっても、多少の満足を感じながら気持よく聞いていられます。よし下品な満足にもあれ、とにかく満足を感じる。世辞というやつは、どんなにとってつけたようなやつでも、必ず少なくとも半分は本当に思われます。これは社会のあらゆる階級、あらゆる発達程度にも、間違いなく適用できるのです。お世辞でいけば、神に仕える聖女でも誘惑することができますよ。だから、普通の人間なんか申すまでもありません。今でも、思い出すたび笑わずにいられないのは、夫と、子供と、自分自身の善行に身をささげ尽くしている一人の夫人を誘惑した時の顛末てんまつです。いやはやその愉快なこと、そして仕事の楽なことといったらなかったですよ! その夫人はじっさい徳行家だったんですよ、少なくとも、自己一流にね。わたしの用いた戦術はごく簡単なもので、ただしょっちゅうその夫人の貞操に圧倒されて、その前にひれ伏していただけなんです。わたしはずうずうしいお世辞を並べて、時たま握手なり一べつなりをかち得ると、すぐさま自分を責めるんです。『これはわたしが無理にもぎとったので、あなたは抵抗したのだ。もしわたしがこんな悪徳漢でなかったら、けっして何も受けることができそうもないくらい、一生懸命に抵抗なすったのです。あなたは自分が無垢むくなものだから、人のずるさを見破ることができないで、つい心にもなくわれしらずそれに引込まれたのです』しかじか云々うんぬんというわけです。手っとり早く言えば、わたしは最後の目的を達してしまった。ところが、わが夫人はまだ自分が潔白で、貞淑で、すべての義務と責任を果たしている、ただふとした事でわれともなく貞操を汚してしまっただけだと、堅く信じて疑わない。ですから、とどのつまりに、わたしがざっくばらんに、自分の深い確信によれば、彼女もわたし同様に快楽を求めていたのだと言ってやった時、夫人はわたしにどれだけ腹を立てたことでしょう。可哀想にマルファ・ペトローヴナも、やっぱり恐ろしくお世辞に乗りやすい性質たちだったのです。だから、わたしが、その気にさえなれば、もちろんあれの財産はまだ存命中に、残らずわたしの名義に書きかえさせる事もできたんです(だが、わたしはどうもやたらに飲んで、おしゃべりしておりますな)。さあ、そこで今わたしが、それと同じ効果がアヴドーチャ・ロマーノヴナにも見えてきたといっても、おそらくご立腹にはならんでしょうな。ところが、わたしがばかでせっかちだったものだから、すっかりぶちこわしてしまったのです、アヴドーチャ・ロマーノヴナは、前から時々(一度なんか特にひどかったようですが)、わたしの目の表情が恐ろしく気に入らなかったんですよ。あなたこれが本当にできますか? 一口に言えば、その中には一種の情火がだんだん強く、だんだん不用意に燃えてきたのです。それがあのひとを脅かして、ついに憎らしいほどになったんですよ。何も詳しくお話するがものはありません。わたし達はたもとを別ってしまったのです。そこへもってきて、わたしはまた馬鹿なことをしたんですな。つまり思い切って無遠慮に、あのひとの伝道だの、教訓だのを冷かしたわけなのです。パラーシャがまた舞台へ現われた、それも一人きりじゃないんです――手っとり早く言えば、すっかり乱脈が始まったんですよ。ああ、ロジオン・ロマーヌイチ、もしあなたが一生に一度でも、お妹さんの目が時おりどんなに美しく光るか、それをごらんになったらなあ! 今わたしが酔ってたって、もうこの通り一杯の酒を飲み干したって、そんな事はなんでもありません。わたしは本当のことを言ってるんですよ。全くのところ、わたしはその目を夢に見たくらいです。しまいにはあのひとの衣ずれの音を聞いても、たまらなくなってきました。実際、わたしはてんかんにでもなるんじゃないかと思いましたよ。かくまで夢中になれようとは、われながら思いも寄らぬほどでしたよ。一口に言えば、結局あきらめなくちゃならなかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、わたしがその時何をしたか、まあ想像してみてください。人は夢中になると、どんなにまで頭が鈍くなるものか、方図がしれませんなあ! ロジオン・ロマーヌイチ、人は夢中になったら、もうけっして何一つろくなことはできっこありませんよ。で、わたしはアヴドーチャ・ロマーノヴナが正直なところ貧乏な(あっ、ごめんください、こう言うつもりじゃなかった……いや、しかし同じ観念を現わす事なら、どちらでも変わりないじゃありませんか)、つまり自分の手で働いて生きておられるのをつけ込んで――母親とあなたを養っていかなきゃならん(あっ、くそ、またあなたの事がちょっと頭に浮かんだものだから……)つまり、そこをつけめにして、わたしはあのひとに自分の全財産を提供しようと決心したのです(三万ぐらいまではその時でもまとめることができたので)。それにわたしと一緒にこの土地へ、ペテルブルグへなりと逃げ出してもらうのが条件なのです。もちろん、わたしはすぐその場で、永久の愛とか、無上の幸福とか、その他あらゆることを誓ったわけです。あなたは本当になさるまいが、実際わたしはその時すっかり参ってしまって、もしあのひとがわたしに向かって、マルファを斬り殺すか毒殺するかして、わたしと結婚してくれ、とでも言おうものなら、即座にやってのけかねないほどでしたよ! けれど何もかも、先刻ご承知のとおりの騒動で終わったのです。その時マルファが、あの卑劣きわまる三百代言のルージンを手に入れて、結婚をまとめないばかりにこぎつけたことを知った時、わたしがどんな気ちがいじみた怒り方をしたか、その辺はご推察くださることと思います――だって、これは本質的に見ると、わたしの申し出と同じことなんですからね。そうでしょう? そうでしょう? ねえ、そうじゃありませんか? 見たところ、あなたはどうやらたいへん身を入れて聞いてくださるようになりましたね……実に面白いお方だ……」
 スヴィドリガイロフはたまりかねたように、げんこでとんとテーブルをたたいた。彼はすっかり真っ赤になった。ラスコーリニコフは、ちびりちびり一口ずつめているうちに、いつの間にか飲み乾してしまった一杯か一杯半のシャンパンが、病的にきいて来たのをはっきりと感じた――で、彼はこの機会を利用しようと決心した。スヴィドリガイロフは彼の目に、きわめてうさんくさく思われたのである。
「いや、それで僕もすっかり確信しました――あなたがここへ来たのは、妹のことを頭においてなんでしょう」彼はいっそう相手をじりじりさせるために、真正面から向きつけに言った。
「ええっ、もうたくさんですよ」急に気がついたように、スヴィドリガイロフは言った。「もうちゃんとお話ししたじゃありませんか……それにお妹さんの方じゃ、わたしがいやでたまらないんですからね」
「さよう、あれが厭でたまらないのは僕も確信しています。しかし、今はそれが問題じゃありません」
「あなたは確信していらっしゃる、厭でたまらないって? (スヴィドリガイロフは目を細めて、にやりとあざけるように笑った)。おっしゃるとおりです、あのひとはわたしを好いてはおられません、けれど、夫婦間や情人同士の間にあったことは、けっして他人に保証できるものじゃありませんよ。そこにはどんな場合でも、断じて世界中の誰にもしれない、ただ彼ら二人にのみわかっている、小さな片隅があるものです。アヴドーチャ・ロマーノヴナの場合にしても、嫌悪の目でわたしを見ていたなんて、あなた保証ができますか?」
「今まであなたのお話に出て来たちょいちょいしたことばの端で、あなたが今でもドゥーニャに対して何か特別な思わくと、のっぴきならぬ計画を持っておられるものと認めます。もちろん卑劣きわまる計画をね」
「なんですって! わたしがそんなことばを口からすべらせましたかね?」ふいにスヴィドリガイロフは、自分の計画に冠せられた形容詞には、まるで注意を払おうともせず、きわめて正直な驚きの色を見せた。
「なに、それは今でも口からすべらせておられますよ。ねえ、たとえば、あなたは何をそう恐れてるんです? いったいどうして今そう急にびくっとしたんです?」
「わたしが恐れてるんですって? びくびくしてるんですって? あなたを恐れてるんですって? むしろあなたの方がわたしを恐れるべきですがね、cher ami(親愛なる友よ)だが、なんてばかばかしい話だ……どうもわたしは酔った、自分でもわかりますよ。またうっかり口をすべらすところだった。もう酒なんかやめだ! おーい! 水をくれ!」
 彼はびんを引っつかんで、無遠慮に窓の外へほうり出した。フィリップが水を持ってきた。
「こんなことはみんなくだらない話です」スヴィドリガイロフはタオルを湿しめして、それを頭へ当てながら言った。「わたしは一言であなたをへこまして、あなたの嫌疑をすっかり吹き飛ばすことができますよ。たとえば、わたしが結婚しようとしていることをあなたはご存じですかね」
「それはもう前にもお話ししておられましたよ」
「お話しした? 忘れていましたよ、しかし、あの時はまだ確かなお話はできなかったのです。何しろまだ相手の娘も見ていなかったんで、ただその意向を持っていただけなんですからね。ところが、今じゃもう相手が決まって、話がすっかりまとまってしまったんです。もしのっぴきならん用事さえなかったら、わたしはもちろんあなたをお連れして、さっそくその方へご案内するはずなんですが――なぜって、あなたのご意見が伺いたいんですからね。ええ、ちくしょう! もうあとたった十分しかない。ね、時計を見てごらんなさい。だが、やはりあなたにお話ししましょう。実際この話は、わたしの結婚はちょっと面白いんですから、もちろん、一風かわった面白さですがね――あなたはどこへ? また帰ろうと言うんですか?」
「いや、もう今となったら、僕はけっして帰りません」
「けっしてお帰りにならない? まあ、見てみましょう! わたしはあなたをそこへご案内しますよ、ほんとうに。そして花嫁をお目にかけましょう。しかし今じゃありませんよ。今はもうあなたもお出かけになる時刻でしょうからな。あなたは右とね、わたしは左。ときに、レスリッヒ夫人をご存じですか? ほらあのレスリッヒ、今わたしが下宿している――え? おわかりですか? ね、あなたはどうお考えです、ほら、娘の子が冬水ん中でなんとかしたって噂のある――ね、わかりましたか? わかりました? で、今度の話は、あの女がいっさいきり盛ってくれたんですよ――『それじゃあなたは退屈でたまらない、少し気晴しをなさるがいい』ってね。実際わたしは陰気な、うっとうしい人間なんですよ。あなたは快活な人間だと思いますか? どうして、陰気な人間なんですよ。別に悪い事はしないが、いつも隅っこにくすぶって、どうかすると三日も口をきかないくらいです。ところが、あのレスリッヒなかなかのしたたかものでね、こんな計画を胸に持っておるんですよ。つまり、わたしが飽きてきて、女房を捨ててどこかへ行ってしまう、すると女房はあの女の手にはいるから、それをまた別口へ回す――やはり我々くらいの階級だが、も少し上のところへね。あの女のいうことには、父親はある退職官吏だが、体がすっかり弱り切って、もう足かけ三年安楽椅子に腰かけたきり、自分の足では動いたことがない、母親もあるが、これは分別のしっかりした女だ。息子はどこかの県で勤めているけれど、家計を助けようとしない、娘は嫁入りしてしまって、見舞いにも来ない。しかも、自分の子供だけで足りないで、小さいおいを二人も引取っている。で、一ばん末の娘をまだ卒業もしないうちに、女学校から下げてしまった。これがもうひと月すれば満十六になる。つまり、ひと月たてば嫁にやれるってわけで、その子をわたしに世話しようというんですよ。そこで、わたし達は出かけました。向こうの家じゃ実に滑稽こっけいでしたよ。わたしは自分のことをこう触れ出しましたよ――地主で、男やもめで、由緒のある家柄で、これこれの親戚しんせき知己があって、財産も持っている――さあこうなると、わたしが五十でその娘がまだ十六にもならないって、それがなんでしょう? 誰がそんなことを気にしますか? ね、大いに食指うごくじゃありませんか、え? 食指うごくでしょう、は、は、は! わたしがその父さん母さんと話し込んだところを、お目にかけたかった! いや、その時のわたしときたら、見料を出しても一目見る価値がありますよ。娘が出て来て、ちょいと小腰をかがめて会釈するんだが、まあどうでしょう、まだすその短かい服を着て、ほころめぬつぼみの花といった風情ふぜいでね、赤くなって、朝焼けのようにぱっと燃え立つんですよ(もちろん、もうちゃんと言い聞かせてあるんで)。あなたは女の顔のことをどうお考えか知りませんが、わたしに言わせるとこの十六歳という年ごろ、このまだ子供っぽい目、このおずおずした様子と羞恥しゅうちの涙――わたしに言わせると、これはまさに美以上ですな。しかもおまけにその娘は、まるで絵に描いたようなんですからね。細かくちぢれていくつも小さいを作っている薄色の髪、ふっくらした真っ赤な唇、小さな足――すてきですなあ……まあ、こうしてわたしは知合いになると、家事の都合で急ぐからと言ったものだから、さっそくその翌日、つまり一昨日、われわれ二人はもう祝福してもらったんですよ。それからというもの、わたしは行くとすぐ膝の上へ娘をのせて、そのままおろそうとしない……すると、娘は朝焼けのように燃え上がる、わたしはひっきりなしに接吻してやる。もちろんおっ母さんが、これはお前の夫で、こうしなければならないのだよと、言い聞かせてやるんですよ。まあ一口に言えば、極楽ですな! で今のこういう許婿なる状態は、実際の夫の状態よりいいのかもしれませんて。これがいわゆる La nature et la v※(アキュートアクセント付きE小文字)rit※(アキュートアクセント付きE小文字)!(自然と真実!)ですな! は、は、は! わたしは娘と二度ばかり話をしましたが――いや、どうしてなかなかりこうな子ですよ。どうかすると、こっそりわたしを見るんですが、まるで焼き尽くさんばかりの目をしていながら、その顔はラファエルのマドンナみたいなんですよ。だって、シスチンのマドンナの顔は幻想的で、悲しめる狂信者の顔なんですものな。あなたそれが目につきませんでしたか? まあ、こんな風の顔なんですよ。両親の祝福を受けるとすぐ、その翌日、わたしは千五百ルーブリの贈物を持って行きましたよ。ダイアモンドの装飾品を一つに、真珠を一つに、銀の婦人用化粧箱、これっぱかりの大きさで、いろいろ様々なものがはいってるんです。これには娘も――マドンナも、顔をぽっと赤くしたほどですよ。昨日もわたしはその子をひざの上にのせましたが、きっとあまり無遠慮すぎたのでしょう――すっかりまっかになって、涙がぽろぽろあふれた。けれど、それをけどられまいと思って、体じゅう火のようにほてらしてるんです。そのうちに、ちょっとの間みんなが出て行って、わたしたち二人きりになると、急にわたしの首っ玉にかじりついて(自分でこんなことをしたのは初めてなんで)、両手でわたしを抱きしめて接吻せっぷんしながら、わたしはあなたのために従順で、貞淑で、善良な妻になって、あなたを幸福にする。そして自分の一生を、自分の生活の一分一秒まであなたにささげて、どんなことでも犠牲にする、その代わりに唯あなたから尊敬だけしてもらいたい、その上はもう『なんにも、なんにもいりません、贈物なんか少しもいりません』とこう誓うんです。ねえ、こんな髪を環のようにちぢらせた、十六やそこいらの天使みたいな娘から、顔を処女らしい羞恥のくれないに染め、目に感激の涙をためながら、こんな風の告白を聞かされると、どんな気持がするか、およそお察しがつきましょう、――まったく魅惑的なものですよ! たしかに魅惑的でしょう? どれだけかの値打ちはあるでしょう、え? ねえ? 値打ちがあるでしょう? ねえ……ねえ、どうです……一つ、わたしの許嫁のところへ行ってみませんか……ただし、今すぐじゃありません!」
「手っとり早く言えば、その年齢と発達の恐ろしい相違が、あなたの情欲をそそったんですよ! いったいあなたはほんとうに、そんな結婚をするつもりなんですか?」
「なぜ? そりゃ是が非でも。人間て自分の事をめいめい好きなようにするもので、誰よりも一番うまく自分をあざむきおおせたものが、一ばん愉快に暮らしていくわけです。は、は! いったいあなたはなんだって、徳行の一本槍で突っかかっていらっしゃるんです? お手柔かに願いますよ、あなた、わたしは罪業の深い人間ですからね。へ、へ、へ!」
「もっとも、あなたはカチェリーナ・イヴァーノヴナの子供たちの世話を引受けなすった。しかし……しかし、それにはまたそれだけの理由があったんだ……僕はいま何もかも合点がいった」
「わたしは全体に子供が好きなんです、非常に好きなんですよ」とスヴィドリガイロフはからからと笑い出した。「これについては、きわめて興味ある一つの挿話をお話しすることができます。それは現在まだ続いてる話なんですよ。こちらへ着くとその日さっそく、わたしは方々の魔窟まくつを歩き回ってみました。何しろ七年ぶりなので、いきなり飛びかかったわけで。あなたもおそらくお気づきでしょうが、わたしは自分の仲間や昔の友達に会うのを別に急がないでいるんです。まあ、できる限りいつまでも、そうしていたいと思っています。実はね、田舎でマルファのそばにいた時分、こうした秘密な場所に関する思い出が、死にそうなほどわたしを苦しめたものですからね。もっともこうした場所にはいり込むと少しでもその方の知識を持った人なら、ずいぶんいろんな事が発見できますよ。大したもんでさあ! 誰もかれも酔っ払っている、教養階級の青年は無為のために、実現できそうもない夢や妄想の中に命を燃やして、さまざまな理論に精神的不具者になっていく。またどこからかユダヤ人どもが押しかけて来て、金を取りこんで隠してしまう。それ以外のものは、ことごとく淫蕩三昧いんとうざんまいでさあ。こんなぐあいで、このペテルブルグという街は、はいって来た瞬間からわたしの顔に、馴染なじみの深いにおいをむっと吹きつけた。わたしはある舞踏夜会と称するものにぶっつかったのです――恐ろしい下水だめです(ところがわたしはこういう魔窟でも、ちょっと薄ぎたない感じのする所が好きなんで)。むろんカンカン(卑猥な舞踏の一種)です。それもほかにはとうていないような、またわたしの時代にもなかったようなやつです。さよう、これにも進歩プログレスが見えますよ。ふと見ると、可愛いらしく着飾った十三くらいの女の子が、斯道しどうの名手と一緒に踊っている。別に二人の一組イザイーが、娘の前で踊っている。そして、壁ぎわの椅子には、娘の母親がかけているんです。ところで、それがどんなカンカンだかとても想像がつくもんじゃありませんよ! 娘はきまり悪がって、顔を赤くしていましたが、しまいには口惜しがって、泣き出したのです。名手は娘をかかえて、きりきりっと回すと、娘の前でいろんな芸をして見せるんです。すると、まわりではどっと笑いくずれる――わたしはこういう時、ペテルブルグの弥次馬連が好きですよ、カンカン的な連中ではありますがね。どっと笑って、わめき立てるところがいい。『うまい、そうしなくちゃいけない! 子供なんかつれて来るのが間違ってるんだ!』などと言ってる。ところが、わたしは、くそくらえだ。皆がそんな慰みをやってるのが、論理的だろうと非論理的だろうと、わたしの知った事じゃない! やがて、わたしはすぐ自分の割り込むべき場所にねらいをつけて、母親の傍へ腰をおろしました。そして、自分もやっぱり旅の者だということから、ここにいるのが誰もかれもお話にならん無教育なやつらばかりで、真に価値あるものを認めて、相当の敬意を払うことすら知らないのだという事に及び、自分には金がうんとあることをにおわせて、わたしの馬車で送ろうと申し出たのです。こうして宿まで送り届けて、改めて知合いになりました(親子はどこかの借家人から、小さい部屋をまた借りしているんですよ。田舎から出て来たばかりなんで)。そこで母親が言うには、わたしと知合いになったことは、母親にとっても娘にとっても、名誉とよりほか申しようがない、とこうなんです。二人はまる裸の無一物で、どこかの官庁で何かの嘆願運動をしに出て来たとの事なので、わたしは骨も折ろうし金も貸そうと申し出たわけです。聞いてみると、二人はほんとうにそこで舞踏を教えるんだと思って、うっかりあの夜会へ行ったんだそうです。で、わたしは自分の方から、若い娘のフランス語と舞踏の教育を引受けよう、とこう申し出たところ、それこそもう大喜びで、光栄の至りだといって受納した。それ以来、知合いの間柄なんで……なんなら行きましょう。ただし今すぐじゃない」
「よしてください、そんなげすなきたならしい話はよしてください。なんて堕落した野卑な好色漢だろう!」
「シラーよ、シラーよ、わがシラーよ! O※(グレーブアクセント付きU小文字) va-t-elle la vertu se nicher?(徳はいずくに巣くうぞ)実はね、わたしはあなたの叫びを聞きたさに、わざとこんな話を持ち出すんですよ。実に愉快だ!」
「もちろんですよ、この瞬間、僕自身がこっけいでないと思いますか?」とラスコーリニコフはにくにくしげにつぶやいた。
 スヴィドリガイロフはのどをいっぱいひろげてからからと笑った。やがて彼はフィリップを呼んで、勘定を済ますと、腰を持ち上げにかかった。
「ああ、だがわたしもすっかり酔払っちゃった、assez caus※(アキュートアクセント付きE小文字)!(たくさんだ!)」と彼は言った。「ああ、実に愉快だ」
「もちろん、あなたが愉快を感じないはずがないさ!」ラスコーリニコフも同じく立ち上がりながら、こう叫んだ。「すっかり手ずれのした淫蕩漢にとって、――しかも、その淫蕩漢が何かしら奇怪な野心アヴァンチュールを持っている場合――そういう野心アヴァンチュールを話すのが愉快でないはずがない。おまけにこうした状況で、僕のような男を相手にするんだから……好奇心が燃え立つわけですよ」
「へえ、もしそうなら」やや驚きの色さえ浮かべて、ラスコーリニコフをじろじろ見ながら、スヴィドリガイロフは答えた。「もしそうなら、あなた自身もかなり無恥漢シニックですな。少なくとも大した素質を内部に蔵しておいでですよ。あなたは多くのものを認識することがおできになる、多くのものを……いや、それに、多くのものを実行することもおできになりますよ。しかしまあ、たくさんだ。十分お話ができなかったのは非常に残念ですが、なに、わたしはけっしてあなたを逃がしっこないから……まあ、ちょっと待っててください……」
 スヴィドリガイロフは安料理屋から外へ出た。ラスコーリニコフもそのあとにつづいた。もっとも、スヴィドリガイロフはさほどひどく酔っているわけでもなかった。頭へ酔いが上ったのは、ほんのつかの間で、やがてじりじりさめていった。彼は何か非常に大きな屈託があるらしく、しきりに眉をしかめていた。何かに対する期待が彼を興奮させ、不安にしているのが、まざまざと見えていた。ラスコーリニコフに対する態度は、最後の四、五分で急にがらりと変わって、一刻一刻と無作法に皮肉になっていった。ラスコーリニコフはそれに気づき、同じく不安らしい様子であった。スヴィドリガイロフなる人物が、ますますうさんくさく思われてきた。彼はそのあとからついて行こうと決心した。
「さあ、あなたは右へ、わたしは左へ。でなければ、その反対かな。とにかく、adieu, mon plaisir,(さらば、わが喜びよ)またお目にかかりましょう!」
 こう言って、彼は右手の乾草広場センナヤの方へ歩き出した。


 ラスコーリニコフは彼のあとからついて行った。
「これは何ごとです!」うしろをふり向きながら、スヴィドリガイロフは叫んだ。「わたしはそう言ったはずじゃありませんか……」
「なんでもありません、僕はもうあなたのそばを離れないということです」
「なあんですと?」
 彼らは二人ながら立ち止まった。ちょっと一分ばかり、二人は互いに探り合うように、じっとにらみ合っていた。
「あなたが今ならべ立てた半生酔いの話で、僕は断然見きわめました」とラスコーリニコフは断ち切るように鋭く言った。
「あなたは僕の妹に対して、例の醜悪きわまる野心を捨てないのみならず、かえって前よりずっと一生懸命に、それに没頭しておられるんです。けさ妹が何やら手紙を受けとったということも、僕はちゃんと知っています。それに、あなたは始終じっと落ち着いていられない様子だった……よし仮りにあなたが方々ふらついてる途中で、花嫁を掘り出したというのが本当だとしても、それはなんの意味もないことです。僕はそれを自分の目で突き止めたいんです……」
 そういうラスコーリニコフ自身も、自分がいま何を欲し、何を親しく突き止めたいのか、はっきり決めることはほとんどできない有様であった。
「これはこれは! なんならすぐ巡査を呼びますぜ?」
「呼ぶがいい!」
 二人はまた顔を突き合せながら、一分ばかり突っ立っていた。やがてスヴィドリガイロフの顔ががらりと変わった。ラスコーリニコフがいっこうおどかしに乗らないのを確かめると、彼は急に思いきり愉快らしい親しげな顔つきになった。
「どうも大したもんだ! わたしはね、好奇心が燃え立っているんだけれど、わざとあなたの事件を言い出さなかったんですよ。幻想的ファンタスチックな事件ですからなあ。わたしはつぎの時まであずけておこうと思ったんだが、どうもあなたは死人でも怒らせる腕を持っていらっしゃる……じゃ、行きましょう。だが前もって断わっておきますが、わたしはいま金をとりに、ちょっと家へ寄って行くだけで、それから部屋にかぎをかけて、辻馬車をやとって、ずっと夜おそくまで、島の方へ行こうと思ってるんです。だから、あなた、とてもわたしについて回れっこありませんよ?」
「僕もさし向き家へ行きましょう、ただしあなたの住まいじゃありませんよ。ソフィヤ・セミョーノヴナの家へ、葬式に行かなかったびに[#「びに」は底本では「びに」]
「それはどうでもご勝手ですが、しかしソフィヤ・セミョーノヴナは家にいませんよ。あのひとは子供たちをみんな引きつれて、わたしのずっと古くからの知合いで、ある孤児院の監督をしている、年とった貴婦人のところへ行ったんです。わたしはね、カチェリーナ・イヴァーノヴナの子供三人の養育料として金を届けたり、孤児院の方へも寄付したりして、お婆さんをすっかり丸めこんでしまったのです。それから、ソフィヤ・セミョーノヴナの身の上も、いっさい隠し立てしないで、何から何まで話して聞かせたところ、まんまと素晴しい効果を奏したわけなんです。そういうわけで、今日さっそく、ソフィヤ・セミョーノヴナは、お婆さんが別荘から出て臨時に泊まっているNホテルへ、出頭することになったんで」
「どうだって構いません、とにかく僕は寄ります」
「どうぞご随意に。だが、わたしはあなたの仲間じゃありませんからね。わたしはどうだって平気でさあ。さあ、もう家へ帰りましたよ。ときにどうでしょう、あなたがわたしをうさんくさい目で見ておられるのは、つまりわたしの方があまり遠慮し過ぎて、今までいろんな質問でご迷惑をかけなかったからだと、こうわたしは確信しているんですよ……え、わかるでしょう? あなたはこいつただでないぞ、という気がしたのでしょう。かけをしてもいい、そうに違いないから! ねえ、だから、これからはあなたも気をおきかせになるといい」
「そして、戸口で立聞きをしなさいか!」
「ああ、あなたはそのことを言ってるんですか!」とスヴィドリガイロフは笑い出した。「いや、わたしにしたって、ああいういろんなことがあったあとで、もしあなたがこれを言わずに済まされたら、かえってびっくりしたでしょうよ。は、は! そりゃわたしもね、あなたがあの時……あそこで気ちがいじみたまねをして、ソフィヤ・セミョーノヴナに自分でぺらぺら話しておられたことは、多少合点のいった筋もありましたが、それにしても、あれはいったいなんでしょう、事によったら、わたしがまるで時代おくれの人間なために、何もわからないのかもしれませんが、後生ですから、一つ説明してくださいませんか! もっとも新しい思想で開発していただきたいもので」
「あなたに聞こえるはずがない、あなたはでたらめばかり言ってるんだ!」
「いや、わたしが言ってるのはそれじゃありませんよ、それじゃありません(もっとも、わたしも多少は聞きましたがね)。わたしが言ってるのは、あなたがしきりに嘆息していらっしゃることですよ! あなたの内部では、絶えずシラーがもだえている。だから今度は、戸の外で立聞きするな、なんてことになるんですよ。もしそうなら、出るところへ出て、これこれこうこうで、こんな事をやらかしました、理論の上でちょっとした間違いができましたと、お上の前で白状したらいいじゃありませんか。ところが、戸口で立聞きしてはならないが、自分のお道楽には、婆さんどもを手当たりしだいなもので殺してもいい、なんていう確信がおありでしたら、少しも早くどこかアメリカあたりへ逃げてお行きなさい! 逃げるんですよ、え、君! 多分まだ間に合いますよ。わたしはまじめに言ってるんですぜ。お金がないとでもいうんですか? 旅費はわたしがあげますよ」
「僕そんなことなど少しも考えていやしません」と、嫌悪の色を浮かべて、ラスコーリニコフはさえぎった。
「わかりました(もっとも、あまり無理をなさらんがいいですよ。もしなんなら、口数をおききにならなくてもいい)。わたしは現在あなたを悩ましている問題がわかりますよ。道徳的問題でしょう? 公民として、人間としての問題でしょう? なに、そんなものは唾でも引っかけておやんなさい。そんなものが今のあなたになんになるんです? へ、へ! つまりなんといっても、あなたはやはり市民であり人間であるからですか? それなら、何も出しゃばることはなかったんですよ。頼まれもしない事に手を出さなけりゃよかったんですよ。まあ、ピストル自殺ですな。どうです、それもお厭ですかね?」
「あなたは僕を追っ払いたいばかりに、わざと僕をからかってるようですね……」
「どうもあなたは変人だな。それにもう来てしまいましたよ。どうぞ階段をお上がりください。ごらんなさい。あれがソフィヤ・セミョーノヴナの部屋の入り口です。ほらね、誰もいないでしょう! あなたは本当になさらないんですか? じゃカペルナウモフにでもきいてごらんなさい。あのひとはあすこの家へいつも鍵をあずけるんだから。ああ、ちょうどあれがマダム・ド・カペルナウモフです。え? なんですって? (あの女は少しつんぼなんでね)出て行ったんですって? どこへ? さあ、今こそお聞きになったでしょう? あの人は留守なんですよ。そしてことによったら、夜遅くまで帰らないかもしれませんぜ。じゃ、今度はわたしの部屋へ行きましょう。だって、わたしのところへも寄るとおっしゃったじゃありませんか? さあ、これがわたしの部屋です。レスリッヒ夫人は家にいません。あの女は年じゅういそがしそうにしていましてね。しかしいい人ですよ、実際……あなたにもう少し分別があったら、あなたの役に立ったかもしれないんだがなあ。さあ、そこでごらんください。わたしは事務卓ビュローから五分利つき債券を一枚出しますよ(こいつがまだこんなにあるんですよ)。ところで、この一枚をきょう両替屋で現なまにするんです。さあ、ごらんになりましたか? だが、もうこの上時間をつぶしてるひまがない。事務卓ビュローに鍵をかけて、部屋に鍵をかけてと、我々はもう一度階段へ出たわけです。ところで、なんならつじ馬車をやといましょうよ。わたしは島へ行くんですよ。少しばかりドライブはいかがですな? そこで、わたしはこの馬車をやとって、エラーギン島へ行きますが、え、なんですって? おいやですか? とうとう意地が張り切れなかったんですね? 少しばかりドライブしましょう、なんでもありませんよ。どうやら雨がやってきそうだが、なにかまいませんよ、ほろをおろしますからな……」
 スヴィドリガイロフは、もう幌馬車の中にすわっていた。ラスコーリニコフは、少なくともこの瞬間、自分の疑いが間違っていたと考えざるを得なかった。彼は一言も答えないで、くるりとくびすを返すと、もと来た乾草広場センナヤの方へ向けて歩き出した。もし彼がこの時途中で、ほんの一度でも振り返ってみたら、スヴィドリガイロフが百歩も行かぬうち馬車屋に勘定を払って、歩道の上へおりたのを見ることができたはずである。が、彼はもう何も見ることができず、街角を曲がってしまった。深い深い嫌悪の情が彼をぐんぐんスヴィドリガイロフから離れさせたのである。『ああ、どうして俺はあの野卑な悪党から、あの淫蕩な道楽者の陋劣漢ろうれつかんから、たとえ一瞬間にもせよ、何かを期待することができたのだろう?』と彼は思わず叫んだ。実際ラスコーリニコフはあまり性急に、あまり軽率に判決を下したのである。スヴィドリガイロフを取り囲んでいる全体の状況には、神秘とまではゆかなくても、少なくとも一種風変りな感じを与えるような何ものかがあったのである。しかし、こうしたいろんなことの中でも、妹に関する限りでは、ラスコーリニコフはやはりなんといっても、スヴィドリガイロフが彼女を打っちゃっておくまいと、堅く信じ切っていた。しかし、こういうことをくり返し巻き返し考えるのは、もうあまりにも苦しく堪えがたくなってきた!
 いつものくせで、彼は一人になると、ものの二十歩も歩くうちに、深いもの思いに落ちてしまった。橋の上へ上がると、彼は欄干の傍に立ち止まり、水をながめ始めた。その間にアヴドーチャ・ロマーノヴナが彼の後ろへ来て立っていた。
 彼は橋のたもとで妹と出会いながら、ろくすっぽ顔も見ないで、そのまま通り過ぎてしまったのである。ドゥーネチカはこれまで一度もこんな風にして、往来を歩いている兄を見たことがないので、ぎょっとするほど驚いた。彼女は足を止めたが、声をかけたものかどうかと思い迷っていた。とふいに彼女は、乾草広場センナヤの方から急ぎ足に近づいて来るスヴィドリガイロフの姿を認めた。
 けれど、こちらはそっと気を配りながら、近寄って来る様子だった。彼は橋へは上らずに、ラスコーリニコフに見つからぬよう一生懸命に苦心しながら、やや離れた歩道の上に立ち止まった。しかし、ドゥーニャにはもうずっと前から気がついていたので、手で彼女に合図を始めた。彼女はその合図によって、彼が兄には声をかけないで、自分の方へ来てくれと頼んでいるように思われた。
 ドゥーニャはそのとおりにした。彼女はそっと兄のうしろを回って、スヴィドリガイロフに近づいた。
「さあ、早く行きましょう」とスヴィドリガイロフは彼女にささやいた。「わたしはね、ロジオン・ロマーヌイチにこの会見を知られたくないんです。前もってお断わりしておきますが、わたし達はついそこの料理屋で一緒にいたんですよ。兄さんが自分でわたしを捜し出されたので、わたしはやっとの事で、今まいて来たところなんでしてね。兄さんはどうしたわけか、わたしがあなたに差し上げた手紙のことをご存じで、何やら変に疑っておられるんです。もちろん、あなたが打明けなすったのじゃありますまいね。でも、あなたでないとすると、いったい誰でしょう?」
「さあ、わたし達はもう角を曲がりましたから」とドゥーニャはさえぎった。「もう兄に見られはしません。わたしちゃんと申し上げておきますが、もうこれから先へはご一緒には参りません。ここですっかりおっしゃってくださいまし、そんな事は往来でも言えることですもの」
「第一に、この話はどうしても往来じゃできませんし、第二に、あなたはソフィヤ・セミョーノヴナの話もお聞きになる必要があります。また第三には、二、三の書類もお目にかけようと思いますし……それに、なんです、もしあなたがわたしの所へ来るのをいやだとおっしゃれば、わたしもいっさい説明をお断わりして、すぐこのまま失礼することにいたします。その際お願いしておきますが、あなたにとって大切なお兄さんのごくごく重大な秘密が、完全にわたしの掌中しょうちゅうにあるということを、お忘れなさらないように」
 ドゥーニャはけっしかねてたたずみながら、刺すような目でスヴィドリガイロフをみつめていた。
「あなたは何を恐れていらっしゃるんです!」とこちらは落ち着き払って注意した。「都会は田舎と違いますよ。それに田舎でも、わたしがあなたに仕向けたより、かえってあなたの方が余計わたしをひどいめに合わせなすったんですからね。ところでこの場合……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナは承知してらっしゃるんですか?」
「いや、あのひとにはなんにも話してありません。それに、いま家にいるかどうか、それさえ不確かなくらいですからね。しかし多分いるでしょう。あのひとも今日は自分の身うちを葬ったばかりだから、お客のところを歩き回るような日じゃありませんからね。わたしは時期が来るまで、このことを誰にも話したくないので、あなたにお知らせしたのさえ、いささか後悔してるくらいなんですよ。この際ほんのわずかな不注意でも、密告と同じになるんですからね。わたしはすぐそこにいるんです、ほらあの家に。さあもうそばまで来ました。ほら、あれがこの家の庭番です。庭番はよくわたしを知っておりますよ。ほらおじぎをしているでしょう。あの男はわたしが婦人同伴で歩いているのを見たわけだから、もうむろんあなたの顔も見覚えたでしょう、もしあなたがひどくわたしを恐れて、疑っていらっしゃるとすれば、これはあなたにとって有利なわけですよ。いや、どうかこんなにずけずけ言うのをお許しください。わたしは借家人から部屋をまた借りしているんですよ。ソフィヤ・セミョーノヴナはわたしと壁一重ひとえの隣り合せで、やはり借家人からまた借りなんです。この階はすっかり間借人でいっぱいなんでしてね。あなた何をそう子供みたいにこわがることがあります? それとも、わたしがそんなに恐ろしい人間なんでしょうか?」
 スヴィドリガイロフの顔は、しいて卑下するような微笑にゆがんだ。しかしその実、彼はいま笑うどころの沙汰さたでなかったのである。心臓はずきんずきんと打って、呼吸がのどにつまりそうなのであった。彼はしだいに募って行く興奮を隠すために、わざと大きな声で話した。けれどドゥーニャは、この異常な興奮に気づく暇がなかった。『まるで子供のように私を恐れている、私はそれほど恐ろしい人間に思われるか』という相手のことばが、もうすっかり彼女をいらいらさせたのである。
「わたしはあなたが……破廉恥はれんちな人だってことは知っていますけれど、少しも恐れてなんかいませんわ。どうぞ先へいらしてください」彼女は見たところ落ち着き払った様子でそう言ったが、その顔はひどく青ざめていた。
 スヴィドリガイロフは、ソーニャの部屋の前に立ち止まった。
「ちょっと伺いますが、お宅でしょうか。留守だ。さあ困った! しかし、あのひとはすぐ帰って来るでしょう。わかってますよ。あのひとが出たとしたら、それはみなしたちのことで、あの婦人を訪問したに違いないから。あの子たちは母親をなくしたんでね。わたしもちょっと手を出して、世話をしてやったんですよ。もしソフィヤ・セミョーノヴナが十分たっても帰らなかったら、ご都合で今日にもすぐお宅の方へ差し向けますよ。さあ、これがわたしの住まいです。部屋が二つあります。ドアの向こうが、貸主のレスリッヒ夫人の部屋になってるのです。さあ、今度はこちらを見てください。わたしの重大な証拠物件をお目にかけますから。このドアが、わたしの寝室から、がら空きになっている二つの貸部屋へ通ずるようになってる。この部屋がそうです……これを少し念入りにごらんになる必要がありますよ……」
 スヴィドリガイロフはかなり広い部屋を二間、家具つきで借りていた。ドゥーネチカはうさんくさそうにあたりを見回したが、部屋の飾りつけにも配置にも、かくべつ変わったものは目にはいらなかった。もっとも、スヴィドリガイロフの部屋が、ほとんど人の住んでいない二つの住居アパートに両方から挟まれているのに、ちょっと気がついたにはついた。彼の部屋へはいるには、直接廊下からでなく、ほとんどがら空きになっている主婦の部屋を二つ通らねばならなかった。スヴィドリガイロフは寝室から、鍵のかかっているドアをあけて、これもがら空きの貸間をドゥーネチカに見せた。ドゥーネチカは、なんのためにこんなものを見ろというのか合点がいかず、しきいの上に立ち止まろうとした。けれど、スヴィドリガイロフは急いで説明を始めた。
「さあこちらを、この二つ目の大きな部屋をごらんください。そして、このドアに注意していただきます。これにはかぎがかかっているんです。それからドアの傍に椅子があるでしょう、二つの部屋を通じてたった一脚きりです。これは聞くのに便利なように、わたしが自分の部屋からもって来たのです。それから、あのドアのすぐ向こう側に、ソフィヤ・セミョーノヴナのテーブルがあるんです。あのひとはそこに腰をかけて、ロジオン・ロマーヌイチと話をしていたわけなので。わたしはこの椅子にかけながら、二晩続けて、しかも二度とも二時間くらい、ここで立聞きしたんですよ――だから、もちろん、わたしも何か少しは知ることができるだろうじゃありませんか。あなたはどうお考えですね?」
「あなたは立聞きなすったんですって?」
「さよう、立聞きしました。さあ、そろそろわたしの部屋へ行きましょう。ここは腰をかける所もありませんから」
 彼はアヴドーチャを導き、客間に当ててあるとっつきの部屋へ引っ返し、彼女に椅子にかけさせた。そして、自身はテーブルの反対の端に、少なくとも彼女から一けんばかり隔てて座を占めたが、どうやらその目の中には、いつかドゥーネチカを脅かした例のほのおが、もうきらりと光ったらしい。彼女はぴくっと身震いして、も一度うさんくさそうにあたりを見回した。このしぐさは無意識なのであった。彼女は疑いの色を顔に出したくないらしかった。けれど、スヴィドリガイロフの住まいの世にもさびしい様子は、ついに彼女をぎょっとさせた。彼女はせめて主婦でも家にいるかと、尋ねてみたいと思ったが、結局尋ねはしなかった……つまりプライドのためである。その上、自分自身に対する不安とは比較にならぬほど大きな苦痛が、もう一つ彼女の心の中にあった。彼女は堪え難い苦痛を忍んでいたのである。
「これがあなたの手紙でございます」彼女はテーブルの上において、こう切り出した。「あなたの書いていらっしゃるようなことが、いったいあっていいものでしょうか? あなたは兄が犯したという、犯罪のことをほのめかしていらっしゃいます。明瞭めいりょうすぎるくらい明瞭にほのめかしていらっしゃるのですから、今となってはごまかしも許されないくらいです。もっとも、お断わりしておきますが、わたしがあなたに伺う前に、このばかばかしい作り話を聞いていましたけど、そんな事これっから先も本当にしませんでした。それは汚らわしい滑稽こっけいな嫌疑です。わたしはそのいきさつも、またどうして、何が原因で、そんな噂が出て来たかって事も、ちゃんと存じています。あなたに何も証拠があろうはずはございません。あなたは証明してみせると約束なすったんですから、さあ言ってください! けれど、前もってお断わりしておきますが、わたしはあなたを信じはしませんよ! 信じませんとも!」
 ドゥーネチカはこれだけの事を、せきこんで早口に言い切った。一瞬間、彼女の顔にはくれないがさっとさした。
「もしお信じにならないのなら、どうして一人でわたしのところへ来るなんて、そんな冒険がおできになるものですか? いったいなんのためにいらっしたんです? ただ好奇心のためですか?」
「わたしを苦しめないで、言ってください、言ってください!」
「あなたがしっかりしたお嬢さんなのは、申すまでもないことです。わたしは全くのところ、あなたがきっとラズーミヒン氏に頼んで、ここへついて来ておもらいになる事と思っていましたよ。ところが、あの人はあなたと一緒にもいなかったし、あなたのまわりにも見えなかった。わたしはよく見たんですからね。これは全く大胆ですよ。これでみると、あなたはつまりロジオン・ロマーヌイチをいたわりたかったんですね。もっとも、あなたの持っていらっしゃるものは、すべて神々しい……ところで、あなたの兄さんに関しては、この上何を話すことがありましょう? あなたは今ご自分で、あの人をごらんになったじゃありませんか。まあ、どんな格好でした?」
「あなたはまさか、それだけのことを根拠にしてらっしゃるんじゃありますまいね?」
「いや、そんな事じゃありません。あの人自身のことばが根拠ですよ。現にここへ、ソフィヤ・セミョーノヴナのところへ、あの人は二晩つづけてやって来たんですよ。二人がどこに腰かけていたか、それは先刻お目にかけたとおりです。そこで兄さんはあのひとに一部始終を告白したんですよ。兄さんは人殺しです。自分で質を置きに行っていた、ある官吏の後家さんで、質屋をしている婆さんを殺したのです。それから、婆さんの殺されたところへ偶然はいって来た、妹のリザヴェータという古着商売の女もやはり殺してしまったのです。二人とも持って行ったおのでやっつけたんです。つまり、もの取りのために殺したんで、それを実行したんですよ、金とそれから何やかやの品物を取ったんです……これを兄さんはそっくり詳しく、ソフィヤ・セミョーノヴナに話したんです。で、秘密を知ってるのはあのひと一人きりですが、しかしあのひとは口でも行ないでも、殺人に関係はありません。それどころか、今のあなたと同じように、ぞっとするほど驚いたくらいです。しかし、ご安心なさい、あのひとはけっして兄さんを売るようなことはしませんから」
「そんなことがあるはずはない!」ドゥーネチカは死人のような土色に変わった唇でつぶやいた。彼女ははあはあ息を切らしていた。「そんなことがあるはずはございません。まるでなんにも、これんばかりの理由もありません、少しも原因がありません……それは嘘です、嘘です!」
「兄さんはもの取りをなすった。これがいっさいの原因です。兄さんは金と品物を取ったんですよ。もっとも自分で白状なすったとこによると、金も品物も手をつけないで、どこかの石の下へ持って行ったとかで、今でもそこにあるそうですがね。しかし、これはただ手をつける勇気がなかったからです」
「だって兄がものを盗んだり、強奪したりするなんて、そんな事があっていいものですか? 兄はそんなことなんか、考えてみることもできる人じゃありません」とドゥーニャは叫んで、椅子からおどり上がった。「だって、あなたも兄をご存じじゃありませんか。お会いになったでしょう? いったい兄に泥棒ができるとお思いになって?」
 彼女はまるでスヴィドリガイロフに、嘆願でもしているような風情だった。自分の恐怖などことごとく忘れつくしていた。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、こういうことには、幾千、幾百万という組合せコンビネーションや分類があるものですよ。泥棒はものを盗むが、その代わり内心ひそかに、自分は卑劣漢だと承知しています。ところでわたしは、郵便物を掠奪りゃくだつしたある高潔な人間のことを聞きましたよ。いや、全くその男はほんとうに立派なことをしたと、思っていたのかもしれませんて! もちろんわたしにしても、これがもし脇から聞いた話なら、あなた同様、けっして本当にはしなかったでしょう。しかし、現在自分の耳を信じないわけにはいかなかったのです。兄さんはソフィヤ・セミョーノヴナに、ありたけの原因を説明なすったけれど、あのひとは初め自分の耳さえ信じませんでしたよ。しかし、とうとう目を信じました。自分自身の目を信用したのです、何しろ兄さんが自分であのひとに話したんですからね」
「いったいどんな……理由なんですの?」
「話せば長い事ですよ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。そこには、さあなんと言ったらいいか、一種の理論があるんですよ。つまり、こういうわけなんです。たとえば、おもな目的さえよければ、一つぐらいの悪業は許さるべきだという、あれと同じ理屈なんですね。一つの悪業と百の善行! その上に、もちろん、はかりしれないほど自尊心の強い才能のある青年にとって、たとえば、三千ルーブリかそこいらの金がありさえすれば、生活の行程も将来もすっかり別なものになってしまうはずだのに、その三千ルーブリがないと意識したら、屈辱を感ぜざるを得ないですからな。そこへもってきて、飢えと、狭苦しい部屋と、ぼろぼろの服と、自分の社会的地位のみじめさに対する明瞭な自覚と、それと同時に妹や母の境遇を思う心、こういうものから起こる焦燥を勘定に入れてごらんなさい。しかし、何よりも一番の原因は虚栄心です、自負心と虚栄心です。もっとも、こりゃあるいはいい傾向のものかもしれませんがね……わたしは何も兄さんを責めてるんじゃありませんよ。どうかそんなことを思わないでください。それにわたしの知ったことじゃないんですからね。そこにはもう一つ独特の理論があったんです――一とおりまとまった理論ですがね――それによると、いいですか、人間は単なる材料と特殊な人間に分類されるんです。そのうち後者は、生存の高い地位のおかげおきての制裁を受けないのみか、かえってその他の人間――つまり材料、ちりあくたに対して、掟を作ってやるというわけです。なに、一とおりものになった理論ですよ。Une th※(アキュートアクセント付きE小文字)orie comme une autre(その他の理論と同じような理論です)それに兄さんは、ナポレオンにすっかり参ったんですね。というより、多くの天才が個々の悪にとらわれないで、ためらうことなく踏み越して行った、ということにひきつけられたんですね。兄さんはどうやら、自分も天才だと考えたらしい――つまり、しばらくの間そう確信しておられたんですよ。兄さんはひどく苦しまれた、そして現に今も苦しんでいらっしゃる、というのは、理論を考え出すことはできたが、ちゅうちょなく踏み越えて行くことができない、したがって自分は天才ではない、とそう考えたからです。もうこれなどは自尊心の強い青年にとって、それこそ屈辱ですからね。ことに現代では特別……」
「でも、良心の呵責かしゃくってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思ってらっしゃるんですね? まあ、いったい兄がそんな人間でしょうか?」
「ああ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、現代は何もかもが溷濁こんだくしてしまってるんですよ。もっとも、今までだって、特にきちんとしていたことはありませんがね。元来ロシア人てやつはね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、ちょうどその国土と同じように広漠とした人間で、幻想的ファンタスチックなだらしのないことにひきつけられる傾向を、やたらに持っているんです。しかし、特殊な天才もなくて、ただ広漠としてるんじゃ困りものですからね。あなたも覚えてらっしゃるでしょう、毎晩いつも夕食のあとで、あなたと二人、庭の露台テラースに腰かけて、よくこれと同じような題目テーマで、これと同じようなことを、盛んに話したものじゃありませんか。おまけにあなたはその広漠性で、わたしを攻撃なすったものですが、ねえ、もしかすると、兄さんがここで横になって、自分の理論を考えていたのとちょうど同じ時刻に、わたし達もそれをしゃべっていたのかもしれませんよ。われわれ教養階級には、特に神聖な伝統というものがないんですからね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。ただ誰かがどうやらこうやら、本を頼りに組み立てるか……それとも、年代記から何か引張り出して来るのが関の山です。しかし、そんなのはどっちかといえば学者だから、たいていはまあ一種のやぼなまぬけです。従って社交界の人にはぶしつけなくらいですよ。概してわたしの考えはあなたもご承知ですが、わたしはけっして人を責めない人間です。わたし自身が白手ホワイトハンドで、またそれを固守してるんですからね。しかしこのことは、わたし達もう一再ならずお話ししましたっけ。それどころか、わたしの議論があなたの興味をひいたことすらあったくらいです……あなた、大へん顔色が悪いじゃありませんか、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」
「わたしもその理論は知っています。いっさいを許されている人間を論じた兄の文章を、わたし雑誌で読みました……ラズーミヒンさんが持って来てくだすったので……」
「ラズーミヒン氏が? あなたの兄さんの論文を? 雑誌にのった? そんな論文があるんですか? わたしは知らなかった。それはきっと面白いに違いない! ですが、あなたはどこへいらっしゃるんです、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」
「わたしはソフィヤ・セミョーノヴナに会いたいんですの」とドゥーネチカは弱々しい声で言った。「あのひとのとこへは、どう行ったらいいんでしょう? もう帰ってらっしゃるかもしれませんわ。わたしはぜひ今すぐあのひとに会いたいんですの。あの人の口から……」
 アヴドーチャ・ロマーノヴナはしまいまで言うことができなかった。息が文字通り切れたのである。
「ソフィヤ・セミョーノヴナは、夜までは帰りますまいよ。わたしはそう思いますね。あのひとはずっと早く帰らなきゃならんはずですが、もしそうでないとすると、うんと遅くなるでしょうよ……」
「ああ、それじゃお前は嘘をついたんだね! 今こそわかった……お前は嘘をついたんだ……お前は嘘ばかりついてたんだ! わたしはお前なんか信用しやしない! 信じない! 信じない!」とドゥーネチカはすっかり夢中になって、もの狂わしげに叫んだ。
 彼女はほとんど失神したように、スヴィドリガイロフが急いで当てがった椅子の上へ倒れた。
「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、どうなすったんです、しっかりなさい! さあ、水です。ひと口お飲みなさい……」
 彼はドゥーネチカに水を吹きかけた。彼女はぶるっと身震いして、われに返った。
「ひどくきいたもんだな!」とスヴィドリガイロフはまゆを寄せながらひとりごちた。「アヴドーチャ・ロマーノヴナ、気を落ち着けなさい! 兄さんには友達があるんですからね。わたし達は兄さんを救います、助け出します、なんなら、わたしが兄さんを連れて外国へ逃げましょうか? わたしは金を持っています。三日の中に切符を手に入れます。たとえ兄さんは人殺しをしたって、そのうちにいい事をうんとしたら、何もかも帳消しができますからね。気を落ち着けてください。それどころか、偉い人になるかもしれませんよ。ええ、どうなすったんです? 気分はいかがです?」
「悪党! まだ人をなぶってる。わたしを出してください……」
「あなたどこへ行くんです? どこへ?」
「兄のところへ。兄はどこにいます? あなたご存じでしょう? どうしてこのドアに鍵がかかってるんです? わたし達はこの戸口からはいって来たのに、それが今は鍵がかかってる。いつの間にあなたは鍵をかけたんです?」
「わたし達がここで話し合ったことを、家じゅうの部屋へ筒ぬけに聞かれちゃ困りますからね。わたしはけっしてなぶってなんかいません。ただわたしはあんな調子で話してるのに、あきあきしたのです。ねえ、あなたはそんな風をして、どこへいらっしゃるんです? それとも、兄さんをわたしたいんですか? あなたは兄さんを気ちがいにしてしまって、あの人が自分で自分をわたすようにしたいんですか? 兄さんはもう目をつけられて、手が回ってるんですからね。それを承知してください。そんな事をしたら、兄さんをわたすばかりですよ。まあおかけなさい。一緒によく考えようじゃありませんか。わたしがあなたをお呼びしたのは、あなたと二人きりでこの事を相談して、よく思案をするためなんですよ。まあ、おかけなさいったら!」
「どうして兄を救うことがおできになるんです? ほんとうに兄を救うことができるんですの?」
 ドゥーニャは腰をおろした。スヴィドリガイロフはそのそばにすわった。
「それは皆あなたのお心ひとつですよ。あなたの心、あなたの心ひとつです」彼は目をぎらぎら輝かしながら、興奮のあまりほかのことばが口に出ないで、どもりどもりささやくように言った。
 ドゥーニャはぎょっとして、思わず一歩後へよろめいた。彼も同じように全身をおののかせていた。
「あなたが……わずかあなたの一言で、兄さんは救われるんです! わたしは……わたしは兄さんを救います。わたしには金と友人があります。わたしはすぐ兄さんをたせてあげます。自分で旅券を取ってあげます、旅券を二枚。一枚は兄さんので、もう一枚はわたしのです。わたしには友人があります。みんないい連中です……いかがです? わたしはその上、あなたの旅券も取ってあげますよ……あなたのお母さんのも……あなたにはラズーミヒンなんかいりゃしません。わたしだってあなたを愛していますよ……限りなく愛しています。どうかあなたの着物の端を接吻せっぷんさせてください、接吻させて! 接吻させて! わたしはそのきぬずれの音を聞いてもたまりません。どうかそれをしろと言ってください、わたしはちゃんとします。わたしは不可能を可能にして見せます。あなたの信じていらっしゃることは、わたしもきっと信じましょう。わたしはなんでも、なんでもします! そんな風にわたしを見ないでください、見ないでください! あなたは、わたしをなぶり殺しにしてらっしゃるのをご存じですか……」
 彼はうわ言でも言ってるような風になってきた。それは、いきなり頭をがんと打たれた人にほうふつとしていた。ドゥーニャはおどり上がって、戸口の方へ駆け寄った。
「あけてください! あけてください!」彼女は両手でドアをゆすぶり、誰にともなく助けを求めながら扉越しにこう叫んだ。「あけてくださいったら! いったい誰もいないんですか?」
 スヴィドリガイロフは立ち上がって、われに返った。毒々しいあざけるような微笑が、まだ震えもやまぬ彼の唇の上へ、そろそろと押し出された。
「あっちにゃ誰もいやしませんよ」と彼は低い声で間をおきながら言った。「かみさんは留守だから、そんな大きな声をしたって無駄ですよ。ただつまらなく自分で自分を興奮させるばかりですよ」
かぎはどこ? すぐドアをあけておくれ、今すぐ、なんて卑怯ひきょうな男だろう!」
「鍵はなくしてしまいました。どうしても見つかりません」
「ああ! それじゃ人を手籠てごめにしようというんだね!」こう叫んだドゥーニャは、死人のように真青になって片隅へ飛びのくと、いきなり手もとにあった小卓を楯にとった。
 彼女はもう叫び声こそ立てなかったが、食い入るようにひたと迫害者をみつめながら、その一挙一動を鋭く見守っていた。スヴィドリガイロフもその場を動かずに、彼女と向き合ったまま、部屋の反対側に突っ立っていた。彼は自分を統御するだけの余裕があった。少なくとも、表面だけはそう見えた。が、顔は依然として青ざめていた。嘲るような微笑は彼の顔を去らなかった。
「あなたは今『手籠め』とおっしゃいましたね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。もし暴力だとすると、わたしの処置が当を得ているのに、なるほどとお思いになりましょう。ソフィヤ・セミョーノヴナは留守だし、カペルナウモフの住まいまではずっと遠くて、しめ切った部屋が間に五つもあります。それから最後に、わたしはあなたより少なくも二倍は力が強いです。その上、わたしには何も恐れることなんかありません。なぜって、あなたはあとで訴えるってことができませんからね。何分、あなたもまさか兄さんをわたす気にはならないでしょう? それに、誰もあなたを信じる人はありませんよ。そうじゃありませんか、若い娘さんが一人で独身者の男の所へ、出かけるわけがありませんからね。だから、よし兄さんを犠牲になすったところで、結局なにも証拠だてることはできませんよ。手籠めってことは、非常に証明しにくいものですからね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ」
「悪党!」とドゥーニャは憤りのささやきを漏らした。
「なんとでもおっしゃい。しかしお断わりしておきますが、わたしはただ仮定の形で言っただけですよ。わたし自身の確信から言えば、たしかにあなたのおっしゃる通りです。暴力は卑劣な行為です。ただわたしが申し上げたのは、もしあなたが……たとえもしあなたがわたしの申し出に従って、進んで兄さんを救おうという気におなりになったとしても、あなたの良心には何もやましいところは無いという、ただそれだけのことなんです。あなたは単に状況(もしそう言わなくちゃ済まないのなら、暴力と言ってもよろしい)に屈服なすったというだけの話じゃありませんか。こういうことを考えてごらんなさい――兄さんとお母さんの運命は、あなたの掌中に握られてるんですよ。しかも、わたしはあなたの奴隷になります……一生涯……わたしはここにこうして待っています……」
 スヴィドリガイロフはドゥーニャから八歩ばかり隔てた長椅子に腰をおろした。彼の決心を動かすことができないのは、彼女にとって疑う余地もなかった。それに、彼女は、彼の人となりを知っていた……
 ふいに彼女はポケットから拳銃けんじゅうを取り出して、引金を上げ、拳銃を持った手をテーブルの上にのせた。スヴィドリガイロフは席からおどりあがった。
「ははあ! そういうことですか!」と彼は驚きながらも、毒々しい微笑を浮かべてこう叫んだ。「いや、それでは事件の進行が一変してしまいますな! あなたはたいへんわたしの仕事を楽にしてくださるわけですよ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ! それに、その拳銃をどうして手にお入れになりましたね? こりゃラズーミヒン氏の斡旋あっせんですかね? おや! それはわたしの拳銃だ! 古い馴染なじみの拳銃だ! あの時わたしはそれをどんなに捜したかしれない!……わたしが田舎でご教授の光栄を有した射撃の稽古けいこも、やっぱり無駄にはなりませんでしたな」
「お前の拳銃じゃない、お前の殺したマルファ・ペトローヴナのじゃないか、悪党! あのひとの家の中には、お前の物なんか一つだってありゃしなかった。わたしは、お前がどんなことをするかしれない人間だと思ったから、これを取っておいたんです。一足でも踏み出してみるがいい、わたし誓ってお前を殺すから!」
 ドゥーニャは半狂乱であった。彼女は拳銃を上げて身構えた。
「じゃ、兄さんはどうします? ちょっと物ずきにお尋ねしますが」やはり同じ所に立ったまま、スヴィドリガイロフは尋ねた。
「したけりゃ告訴するがいい! 一足だってそこを動いたら! ってしまうから! お前は奥さんを毒殺したじゃないか、わたしはちゃんと知ってる、お前こそ人殺しだ……」
「じゃ、あなたはわたしがマルファを毒殺したと、はっきり確信していらっしゃるんですね!」
「お前だとも! お前が自分でわたしににおわしたじゃないか。お前はわたしに毒のことを話した……お前が毒を買いに町まで行って来たのを……わたしはちゃんと知っている……お前は前から用意していたのだ……それはもうお前に違いない……悪党!」
「もし仮りにそれが事実だとしても、それもお前のためなんだ……やはりお前がもとなんだ」
「嘘をつけ! わたしはお前を憎んでいた、いつも、いつも……」
「ええっ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ! あなたは伝道熱で夢中になって、つい妙なそぞろ心になったのを、お忘れになったとみえますね……わたしはあなたの目つきでわかりましたよ。覚えてらっしゃるでしょう? あの晩、月が照らして、おまけにうぐいすまでいていましたっけ……」
「嘘をつけ! (ドゥーニャの目の中にはもの狂おしい憤怒がひらめいていた)。そんなことはない、嘘つき!」
「嘘だって? いや、まあ嘘かもしれない。わたしは嘘を言いましたよ。女にこんなことを言うものじゃないんだ(と彼は薄笑いを漏らした)。おれもお前がぶっ放すのは知ってるよ、まるで可愛いい野獣だ。さあ、撃て!」
 ドゥーニャは拳銃を上げた。そして、死人のようにまっさおな顔をして、血の気を失った下唇をわなわなと震わせ、ほのおと燃える大きな黒い目で相手を見つめながら、彼の方からちょっとでも動き出すのを、心をけっして待っていた。彼はまだかつて一度も、これほど美しい彼女を見たことがなかった。彼女が拳銃をさし上げた瞬間に、その目の中からひらめき流れた焔は、彼を焼いたような気がした。彼の心臓は痛いほどしめつけられた。彼は一歩ふみ出した。と、発射の音が響き渡った。弾丸たまは彼の髪をかすめて、うしろの壁へあたった。彼は立ち止まって、低く笑った。
「蜂が刺した! いきなり頭をねらってやがる……なんだこれは? 血だ!」
 彼は細くたらたらと右のこめかみに流れる血をふくために、ハンカチを取り出した。どうやら弾丸はちょっと上皮を掠めたばかりらしい。ドゥーニャは拳銃をおろして、恐怖というよりも、何かしらけうとい疑惑の表情で、スヴィドリガイロフをみつめていた。彼女は自分でも何をしたのやら、またそれがどうなっているのやら、いっこうわからない様子だった。
「いや、射ち損じなら仕方がない! もう一度おやんなさい、待ってますよ」とスヴィドリガイロフは低い声で言った。まだ薄笑いは依然として浮かべていたが、どことなく陰鬱いんうつな調子だった。
「そんな事をしていると、引金をお上げになる前に、あなたをつかまえてしまうことができますぜ!」
 ドゥーネチカはぴくりと身震いして、すばやく引金を上げ、再び拳銃をさし上げた。
「もう帰してください!」と彼女は絶望の調子で言った。「わたし、誓ってまた撃ちますよ……わたし……殺しますよ!……」
「いや、やむを得ません……三歩の距離じゃ殺せないわけがない。が、もし殺せなかったら……その時は……」
 彼の目はぎらぎらと輝いた。彼は更に二歩すすんだ。
 ドゥーネチカは引金をおろした。ただかちりといっただけである!
装填そうてんが不備だったんだな、なに、かまいません! まだ雷管があるでしょう。お直しなさい、待っていますから」
 彼は二歩離れたところに立って待っていた。そして、情熱に燃える重苦しげな目つきで、野性的な決心を面に浮かべながら、彼女をみつめていた。ドゥーニャは悟った――彼は自分を手放すくらいなら、むしろ死を選ぶに相違ない。『だから……だからもうどうあっても、今度こそ二歩の距離で殺してしまわねばならぬ……』
 突然、彼女は拳銃をがらりと投げ捨てた。
「捨てたな!」とスヴィドリガイロフはびっくりしたように言って、息を吐いた。
 何かあるものが一度に彼の心から離れてしまったようなぐあいだった。しかも、それは死の恐怖の重荷ばかりではなかったかもしれない。それにこの瞬間、彼はほとんどそんなものを感じていなかった。それはおそらく彼自身も完全に定義できない、もっと痛ましい陰惨な別な感情からの解放であった。
 彼はドゥーニャの傍へ寄り、片手を静かに彼女の腰に回した。彼女はあらがおうとしなかったが、全身を木の葉のようにおののかせながら、祈るような目で彼を見た。彼は何か言おうとしたが、ただその唇がゆがんだばかりで、一言も発することができなかった。
「帰して!」とドゥーニャは祈るように言った。
 スヴィドリガイロフはぴくっと身震いした。この敬語を抜いたことばづかいには、どこやら前のとは違った響きがあった。
「じゃ、愛はないの?」と彼は小声に尋ねた。
 ドゥーニャは否定するようにかぶりを振った。
「そして……愛することもできない?……どうしても?」と彼は絶望したようにささやいた。
「どうしても!」とドゥーニャもささやいた。
 スヴィドリガイロフの心の中では恐ろしい暗闇くらやみの一瞬間が過ぎた。名状し難いまなざしで彼は女をみつめていた。突然彼は手をひいてくるりと背を向けると、すばやく窓の方へ離れて、その前に突っ立った。
 また一瞬間が過ぎた。
「さあかぎです! (彼はそれを外套がいとうの左のポケットから取り出して、ドゥーニャの方は見もせず、ふり向きもしないで、うしろのテーブルの上へのせた)おとんなさい。そして早く出て行ってください……」
 彼はしゅうねく窓の外を見ていた。
 ドゥーニャは鍵をとろうと、テーブルに近づいた。
「早くして! 早くして!」いつまでも身動きもしなければ、ふり向こうともせず、スヴィドリガイロフはくり返した。
 けれど、この『早くして』の中には、明らかに何か恐ろしい調子が響いていた。
 ドゥーニャはそれを悟った。彼女は鍵をつかむと、戸口へ駆け寄って、手早く鍵をあけると、やにわに部屋から飛び出した。そして一分後には、気ちがいのように前後を忘れて、掘割通りへ走り出で、××橋の方をさして駆け出した。
 スヴィドリガイロフはまだ三分ばかり窓の傍に立っていた。やがてのろのろと後ろをふり向いて、あたりを見回し、静かに手で額をでた。奇怪な微笑が彼の顔をゆがませた。みじめな、もの悲しい、弱々しげな微笑、絶望の微笑。もう乾きかけていた血が手を汚した。彼は毒々しい目つきでその血をみつめていたが、やがてタオルを湿してこめかみをきれいにふいた。ドゥーニャにほうり出されてドアのそばへけし飛んだ拳銃が、ふと彼の目にはいった。彼はそれを拾い上げてあらためてみた。それは旧式な懐中持ちで、小型な三連発の回転拳銃だった。中にはまだ弾丸が三つと雷管が一つ残っていた。いま一度射てるわけだ。彼はしばらく考えて、拳銃をポケットへ押しこむと、帽子を取って出て行った。


 その晩、彼は十時ころまで、次から次へといろんな料理屋や、曖昧宿あいまいやどを歩き回った。どこかでカーチャも捜しあてた。彼女はまたある『悪性者の女たらし』が『カーチャに接吻せっぷんし始めた』という、今度は違った下男趣味の歌をうたった。
 スヴィドリガイロフは、カーチャにも、手風琴回しにも、給仕にも、どこかの書記二人にも、酒を飲ませた。この二人の書記と関係をつけたのは、ほかでもない、彼らが二人とも曲がり鼻をしていたからである。一人の鼻は右へ、一人の鼻は左の方へ曲がっていた。これがスヴィドリガイロフの目をひいたのである。二人はとうとう彼をある遊園地へ引っ張って行った。そこでは、彼はみんなに入場料を払ってやった。この遊園地には、ひょろひょろした三年もののもみの木が一本と、貧弱な植込みが三ところにあった。そのほか、実質は要するに酒場にすぎない『ホール』が設けてあった。しかし、お茶くらいは注文することができたし、その上にいくつかの緑色に塗った小卓と椅子が置いてあった。ひどい歌うたいの合唱団と、赤鼻の道化者じみた、しかしなぜか馬鹿に浮き立たない、酔っ払ったミュンヘン生まれのドイツ人が、精々見物のご機嫌を取り結んでいた。二人の書記はどこかのほかの書記連と喧嘩けんかをして危くつかみ合いが始まりそうになった。そこでスヴィドリガイロフは仲裁役に選ばれた。彼は十五分ばかりも調停してみたが、みんながあまりわめき立てるので、何が何やらまるでわからなかった。一ばん真相に近そうなのは、彼らの一人が何か盗んで、しかもすぐその場で、ちょうどそこに来合わせたあるユダヤ人にうまく売りつけた。ところが売っておきながら、仲間に山分けという段になって猫ばばしようとした、という事らしかった。結局、その盗んで売った品というのが、『ホール』のスプーンだと知れた。『ホール』の方でそれと気づいたのである。事はいよいよ面倒になってきた。スヴィドリガイロフはさじの代を払って立ち上がると、遊園地から外へ出た。かれこれ十時ごろだった。彼自身はその間一滴も酒を飲まなかった。ただ『ホール』で茶を命じただけで、それもどちらかといえば体裁のためであった。むしむしするうっとうしい晩だった。十時ちかくなると、四方からもの凄い黒雲が押し寄せ、雷が轟然ごうぜんと鳴り始め、雨が滝のように降ってきた。水は一滴ずつ落ちるのではなく、つながった流れになって大地をむちうった。稲妻は絶間なくひらめいて、ぱっと明るくなるたびに、五つまで数を読む事ができた。彼は骨の髄までずぶぬれになって家へ帰ると、部屋の戸に鍵をかけ、事務卓ビュローふたをあけて、ありたけの金を取り出した。それから二、三の書類を引き裂きもした。やがて、金をポケットへ押し込んで、服を着かえようとしかけたが、窓の外を見て、雷鳴と雨の音に耳を澄すと、諦めたように片手を振って帽子を手に取り、戸に鍵もかけずに部屋を出た。まっすぐにソーニャの部屋へ行ってみると、彼女は家にいた。
 彼女は一人きりではなかった。カペルナウモフの小さい子供が四人、そのまわりをとり巻いていた。ソーニャに茶を飲ませてもらっていたのである。彼女は無言のまま、うやうやしくスヴィドリガイロフを迎えたが、びしょぬれになった彼の服をびっくりしたように見回した。が、一言も口はきかなかった。ところで子供たちは、筆紙に尽くし難い恐怖の体で、そうそうに逃げて行ってしまった。
 スヴィドリガイロフはテーブルの前に腰をおろし、ソーニャにも傍へかけてくれと頼んだ。彼女はおずおずと聞く身構えをした。
「私はね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、ことによると、アメリカへ行ってしまうかもしれないんです」とスヴィドリガイロフは言った。「で、あなたとお目にかかるのも、多分これが最後でしょうから、何かの始末をつけておきたいと思って伺ったわけです。さて、あなたは今日あの奥さんに会いましたか? 私はあのひとがあなたに何を言ったか、ちゃんと承知しておりますから、改めて聞かせていただかなくてもいいです。(ソーニャはもじもじして、顔を赤らめた)。ああいう人たちには決まった流儀がありますからね。ところであなたの妹さんや弟さんの方は、もうほんとうに身の振り方がついたわけです。それからあの人たちに決めてあげた金は、一人ひとりべつべつに受取りをとって、確かな然るべきところへあずけておきましたから。もっとも、この証書はあなたあずかっておいてください。なに、ただ万一の場合のためですよ。さあ、お渡ししますよ! さあ、もうこれでこっちは済んだと。それから、ここに五分利つきの債券が三枚あります。すっかりで三千ルーブリです。これはあなたご自分で、ご自分のものとしてとっといてください。これは私たち二人の間だけのことにして、たとえどんな事をお聞きになっても、誰にも知られないように願います。この金はあなたのお役に立ちますよ。だって、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今までのような生活をするのは――汚らわしいことですからね。それに、もうこの先そんな必要もないんですから」
「わたし、あなたにはいろいろご恩になりまして、子供たちも、なくなった母も」とソーニャはせきこみながら言った。「それだのに、今まではろくろくお礼も申し上げないでいましたけど、それは……どうぞあしからず……」
「ええっ、もうたくさんですよ、たくさんですよ」
「で、この金は、アルカージイ・イヴァーヌイチ、まことに有難うはございますけど、わたし、今のところ差し向き入用ございませんの。わたし一人だけの糊口くちすぎはいつでもできますから。どうか恩知らずだなどとお思いくださいませんように。あなたはそれほどお情ぶかい方でしたら、どうぞこのお金は……」
「あなたのものです、あなたのものです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、どうかもうとかくの押し問答はぬきにしてください。それに私は暇もないんですから。あなたには入用になりますよ。ロジオン・ロマーヌイチの行く道は二つしかありません――額へ弾丸たまを撃ち込むか、それともウラジーミルカ行きです(ソーニャはうとい目つきで相手を見て、わなわなと震え出した)。ご心配には及びません。私はあの人自身の口から、何もかも知ったんですが、しかし私はそんなおしゃべりじゃありませんからね。誰にも言やしません。あなたがいつかあの人に、自首しろとおすすめなすったのはいいことでした。その方があの人のためにずっと有利ですよ。ところで、ウラジーミルカ行きの宣告がおりて、あの人がそちらに行ったら、あなたもあとを追っていらっしゃるでしょう? ね、そうでしょう? そうでしょう? ねえ、もしそうとすれば、つまりさっそく金がいるわけじゃありませんか。あの人のためにいるんですよ、わかりましたか? あなたに差し上げるのは、あの人に上げるも同じことなんです。それに、あなたはほらアマリヤ・イヴァーノヴナに、借金を払う約束をなすったじゃありませんか。私は聞いていましたよ。いったいなんだってあなたはいつも無考えに、そんな約束や義務をお引受けになるんです? だって、カチェリーナ・イヴァーノヴナこそ、あのドイツ女に借金しておられたけれど、それはあなたの借金じゃないじゃありませんか。だから、あなたはあのドイツ女なんかには、つばでもひっかけてやればよかったんです。そんな風では世渡りはできやしませんよ。さてそこで、もしいつか、誰かがあなたに――まあ、明日なり明後日なり――私のことでなければ、私に関係した事を尋ねたとしても(あなたは必ずきかれるでしょうよ)、私が今ここへお寄りしたことは言わないように、そして金も見せないようにしてください。また私があなたに差し上げたということを、けっして誰にも言っちゃいけませんよ。では、もうおいとまします(彼は椅子から立ち上がった)。ロジオン・ロマーヌイチによろしく。それからついでですが、金は入用の時まで、ラズーミヒン氏のところへでもあずけておおきなさい。ラズーミヒン氏をご存じでしょう? いや、むろんご存じのはずです。なに、なかなかいい男ですよ。あの人のところへ明日にでも、つまり……時が来たら、持っていらっしゃい。それまでは、なるべくしっかり隠しておおきになるといい」
 ソーニャも同様に椅子からおどり上がり、おびえたように彼を見つめていた。彼女はしきりに何か言いたい、何か尋ねたいような気がしたけれど、初め一、二分はその勇気もなかったし、それにどう口を切っていいかもわからなかった。
「どうしてあなたは……どうしてあなたは、今こんな雨の中を出ていらっしゃいますの?」
「なあに、アメリカまで行こうというものが、雨を恐れていてどうしますか、へ、へ! さようなら、可愛いいソフィヤ・セミョーノヴナ! 生きてらっしゃい、いつまでも生きてらっしゃい。あなたは他人のためになる人ですからね。ついでに……どうかラズーミヒン氏に、私からよろしくとお伝えください。どうかこのとおりに伝えてくださいませんか――アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフがよろしくって。ぜひともね」
 彼はソーニャを驚愕きょうがくと、畏怖いふと、何かぼんやりとした重苦しい疑惑の中に取り残して、そのまま出て行った。
 あとになってわかったことだが、彼はこの夜の十一時過ぎに、いま一つきわめて突飛な、思いがけない訪問をした。雨はまだやんでいなかった。彼は全身ずぶぬれになって、十一時二十分というのに、ヴァシーリエフスキイ島のマールイ通り三丁目にある許嫁いいなずけの両親の手狭な住まいへはいって行った。彼はやたらに表をたたいて、無理に戸をあけさせたので、初めは少なからず恐慌を起こしかけたが、スヴィドリガイロフは自分でその気になると、きわめて魅力に富んだものごしをとれる人だったので、多分どこかでふんだんに酒をあおって、前後不覚に酔っ払ったのだろうという、許嫁の両親のそそっかしい推量も(もっともなかなかうがった推測ではあったが)、たちまち自然と解消してしまった。気だての優しい分別のある母親は、衰弱した父親を車のついた肘椅子ひじいすに載せて、スヴィドリガイロフの所へ押して来た。そしていつもの伝で、何かと遠回しな質問を始めた(この婦人はけっしてまともな質問をしたことがなく、いつも初めは微笑とみ手というようなものから始めて、やがて何かぜひ確かに知らねばならぬことがあると――たとえばアルカージイ・イヴァーヌイチの方では婚礼をいつにしたらご都合がいいか、というようなことをきこうと思うと、まずパリやそこの宮中生活について、好奇心のあふれそうな、ほとんど貪婪どんらんといいたいくらいな質問を皮切りに、それからだんだんと順序を追って、ヴァシーリエフスキイ島三丁目まで持って来るのであった)。もちろんほかの場合なら、それもこれも多大の尊敬を相手に感じさせるのであったが、この時のアルカージイ・イヴァーヌイチは、どうしたのか格別せっかちになっていて、一刻も早く許嫁を見たいと、命令するような調子で言い出した。そのくせ、彼は一番はじめから、もう娘は寝についたと断わられていたのである。もちろん許嫁は出て来た。アルカージイ・イヴァーヌイチは、いきなり彼女に向かって、実はあるきわめて重大な用件のために、一時ペテルブルグを離れなければならないから、いろんな紙幣をとりまぜて一万五千ルーブリを彼女に持参した。つまらないものだが、かねて結婚前に贈呈しようと思っていたのだから、贈物として受けてもらいたいと言った。この贈物と、火急な出発と、夜遅く雨の中をどうしても持って来なければならなかった事情と、これらの間の論理的関係は、もちろんこの説明では出て来ようがなかった。けれど、話はいたってすらすらと進んだ。こういう場合なくてならぬ『おお』とか『ああ』とかいう叫びや、さまざまな質問や驚きさえ、なんだか急に不思議なほどおとなしく控え目になった。その代わり燃ゆるがごとき熱烈な感謝が表示され、それがこの上もなく分別のある母親の涙で裏書された。アルカージイ・イヴァーヌイチは立ち上がってからからと笑い、許嫁を接吻せっぷんしてその頬を軽くたたき、じき帰って来るからとくり返したが、娘の目の中に子供らしい好奇心と、同時に何かしら恐ろしくまじめな、ことばに出さぬ疑惑の色を認めると、ちょっと考えて、もう一度彼女を接吻した。そしてせっかくの贈物がたちまちのうちに、世界じゅうの母親の中でも一ばん分別のある母親にかぎをかけてしまわれてしまうだろうと思うと、すぐ心底からいまいましくなってきた。彼は一同を並々ならぬ興奮の中に取り残して、ぷいと出て行った。けれど、気だての優しい母親は半ばささやくような早口で、すぐに二、三の重大な疑惑を解決した。ほかでもない、アルカージイ・イヴァーヌイチはえらい人で、いろいろ事業にも関係し、親戚しんせき知己も多い金持だから――頭の中で何を考えているかわかるものじゃない。思い立つとどこかへ出かけるし、思い立つと金をくれる。だから、何も驚くことはない。もちろん、全身ずぶぬれなのは奇妙だけれど、たとえばイギリス人などはあれよりもっと突飛なことをやる。それに、ああした身分のある人は誰でも、みんな世間で何を言おうと平気なもので、遠慮気兼ねなどしないものである。事によったらあの人は、誰もこわくないということを見せるために、わざわざあんな格好をして歩いているのかもしれない。が、何よりかんじんなのは、これを一言ひとことも他人にもらさないことだ。なぜといって、これからどんなことが起こるかしれないからである。金は一刻も早く錠をかけてしまわなければならぬ。それにつけても、一ばん都合がよかったのは、女中のフェドーシャがずっと台所にいてくれたことだ。とにかくかんじんなのは、けっして、けっして、けっして、何によらず、あの海千山千のレスリッヒに何一つ知らせてはならない――等々であった。彼らは夜中の二時ころまですわり込んだまま、ひそひそと話し合っていた。もっとも、許嫁の娘はずっと早く床にはいったが、呆気あっけにとられたような、少しもの淋しいような風をしていた。
 その間にスヴィドリガイロフは、ちょうど真夜中にペテルブルグスキイ区をさして、××橋を渡っていた。雨はあがったが、風がごうごう鳴っていた。彼はぶるぶる震え出した。そして、ちょっとの間ある特殊な好奇心と、疑惑の色さえ浮かべながら、マーラヤネヴァ河の黒い水をながめた。けれど間もなく、水の上に立っているのがやけに寒く思われてきた。彼はくびすを転じて××通りの方へ足を向けた。彼は暗い板敷きの歩道で何べんとなくつまずきながら、果てしのない××通りをもうだいぶ長く、ほとんど三十分も歩いて行った。そして好奇の表情で通りの右側に何かを捜し続けていた。彼は近ごろ通りすがりにどこかこのあたりで、もう通りのはずれに近い所に、木造ながら広そうな宿屋を見つけたことがある。その名は、彼の覚えている限りでは、何かアドリアノーポリといった風のものだった。彼の見当は間違っていなかった。くだんの宿屋はこんな場末では、暗闇の中でさえ見つけずにはいられないほど、きわ立った目じるしになっていた。それは長い木造の黒ずんだ建物で、もう時刻も遅いのに、中ではまだあかりがついており、なんとなくにぎやかそうな気配が感じられた。彼ははいって行って、廊下で出会ったぼろ服の男に部屋を尋ねた。ぼろ服はスヴィドリガイロフに一べつを投げると、ぶるっと武者震いをし、どこか廊下のはずれで、隅っこの階段下に当たる陰気な狭い部屋へ、すぐに客を案内した。そのほかにはもう部屋がなかった。全部ふさがっているのであった。ぼろ服は問いかけるようにスヴィドリガイロフを見た。
「茶はあるかい?」とスヴィドリガイロフは尋ねた。
「そりゃできます」
「それから何がある?」
「こ牛肉と、ウォートカと前菜ザクースカで」
「こ牛肉と茶を持って来てくれ」
「そのほかにゃ何もご注文はございませんか?」とぼろ服はけげんそうな顔をして尋ねた。
「何もない、何もない!」
 ぼろ服はすっかり当てがはずれて出て行った。
『こりゃきっといい場所に相違ない』とスヴィドリガイロフは考えた。『どうして俺はこれを知らなかったろう。どうやら、俺もどこかカフェー・シャンタンの帰りで、しかも何か途中でひと騒動やったという様子をしているらしい。だがそれにしても、いったいここはどんなやつが泊まって行くのだろう、ちょっと興味があるな』
 彼はろうそくをつけて、しさいに部屋を見回した。それはほとんどスヴィドリガイロフの背丈にも足りない、窓の一つしかない、小さなおりのような部屋だった。恐ろしくきたならしい寝台と粗末な塗りテーブルと椅子一脚がほとんど部屋じゅうを占領していた。壁は板でも打ちつけたような外観を呈していた。壁紙は色(黄色)こそどうにかまだ察せられるが、模様にいたっては、まるっきり見分けがつかないほどほこりにまみれて、裂け傷だらけで、見るかげもなくなっていた。壁と天井の一部はよく屋根部屋に見かけられるように、斜めに断ち切られていたが、ここではこの傾斜の上が、階段になっているのだった。スヴィドリガイロフはろうそくを置いて、寝台の上に腰をおろし、じっと考え込んだ。けれど、どうかすると叫び声といってもいいくらい高くなる、奇体な絶え間のない隣室のひそひそ話が、とうとう彼の注意をひいた。このひそひそ話は、彼がはいって来た時から、やみ間なく続いていたのである。彼は聞耳を立てた。誰かもう一人の相手をののしったり、ほとんど涙を流さんばかりに責めたりしているのだ。しかし、聞こえるのはただその声ばかりだった。スヴィドリガイロフは立ち上がって、手でろうそくのかげをした。と、すぐ壁にちらと隙間すきまが光った。彼はその傍へ寄って、隙見を始めた。彼自身のよりいくらか大きい部屋の中には、二人の客がいた。恐ろしくもしゃもしゃと渦巻いた頭に、真っ赤な燃えるような顔をした中の一人は、上着なしで、弁士のような姿勢を取りながら、体の平均を保つために、両足をひろげて突っ立ったまま、片手で胸をたたきながら、相手の男を責めていた。彼がまる裸の乞食こじきで、なんの官等も持っていないのを、自分が泥沼の中から引上げてやったのだから、いつでも好きな時に追い出せるのだが、それもこれも天帝のみが見そなわすだけだ――というようなことだった。責められている方は椅子に腰かけて、くしゃみが出たくてたまらないのに、どうしてもうまく出ないような顔をしていた。彼は時々羊のような、どんよりした目で弁士を見やったが、いまなんの話をしているのやら、かいもくわからないらしい様子が見え透いていた。それに、ほとんど何一つ耳にはいらないらしかった。テーブルの上にはろうそくが危うく燃え残って、大方からになったウォートカのびんや、さかずきや、パンや、コップや、きゅうりや、もうとっくに飲みほされた茶器などがのっていた。この光景を注意深く見てとると、スヴィドリガイロフは気のない様子で隙間から離れ、再び長椅子に腰を下した。
 茶とこ牛肉をもって引っ返したぼろ服は、いま一度『まだ何かご注文はありませんか?』と問いかけずにはいられなかったが、またもや『ない』という返辞を聞くと、もうすっかり引っ込んでしまった。スヴィドリガイロフは暖まるために、急いで茶に飛びかかった。そして、コップ一杯飲みほしてしまったが、食欲がまるでないので、料理の方は一きれも口に入れなかった。どうやら熱が出てきたらしい。彼は外套がいとうとジャケツを脱ぎ、毛布にくるまって、寝台へ横になった。彼はいまいましい気がした。『なんといっても今だけは健康でいたかったのに』と彼は考えて苦笑した。部屋の中は息苦しかった。ろうそくはうす暗く燃え、外では風が吹き荒れ、どこか隅の方では二十日鼠ががりがりいわせていた。それに部屋じゅう鼠と、革らしいもののにおいがしていた。彼は横になったまま、まるで熱にでも浮かされているような思いであった。想念はあとからあとへと入れ変わった。彼はなんでもいいから、想像のすがりつく所がほしくてたまらないらしかった。『この窓の下はきっと庭になってるに違いない』と彼は考えた。『樹のざわざわいう音がしている。俺は夜あらしの吹く真っ暗な中で、樹の騒ぐ音を聞くのは大きらいだ。実にいやな感じだ!』ふと彼は今しがたペトローフスキイ公園の傍を通りながら、いやあな気持でそのことを考えたのを思い起こした。すると、それに関連して、××橋のことや、マーラヤネヴァ河のことを思い出した。と、彼はまたなんとなく、さっき水の上に立っていた時と同様、身内が寒くなってきたような気がした。『おれは生まれてこのかた水が嫌いだった。絵で見てもいやだ』と彼は再び考えたが、ふとまたもやある奇妙な想念に苦笑した。『もう今となっては、こんな美学や快感なんかどうだっていいはずなのに、この場に及んでよけいより好みが強くなってる。まるで……こういったような場合に、必ずいい場所を選ぶ野獣みたいなものだ。全くおれはさっきあの時、ペトローフスキイ公園へ曲がってしまうべきだったのだ! たぶん暗くて、寒そうに思えたんだろうよ、へへ! それどころか、ほとんど気持のいい感じまでほしくなったのだからな……それはそうと、なぜ俺はろうそくを消さないんだろう?』(彼はふっと吹き消した)『隣りでも寝たらしいな』とさっきの隙間に明りが見えないので、彼はこう考えた。『さあ、マルファ・ペトローヴナ、今こそご光栄にもってこいの時だに。暗くはあり、場所も似つかわしいし、場合も奇抜なんだからな。今こんな時にやって来ないなんて……』
 彼はふいにどうしたわけか、先ほどドゥーネチカに対する計画を実行する一時間前に、ラスコーリニコフをつかまえて、妹をラズーミヒンの保護に託すがよいとすすめた、あのことが思い出された。『実際俺はあの時、何よりも自分で自分の傷をつっつくために、あんなことを言ったのかもしれないぞ。ラスコーリニコフの察した通りにな! だがそれにしても、あのラスコーリニコフはずぶといやつだ! ずいぶん大きな荷を背負って行ったものだ。あのくだらない考えが頭から飛び出したら、やがてそのうちに大した悪党になれるかもしれない。が、今はあまり生きたがりすぎる! この点にかけたら、ああした手合は卑劣漢ぞろいだ。が、まあ、あんなやつのことはどうだっていいや。勝手にしやがれ、俺の知ったことじゃない』
 彼は眠れなかった。しだいしだいに、先ほどのドゥーニャの姿が目の前に立ち現われ始めた。と、ふいに戦慄せんりつが彼の体を流れ走った。『いや、こんな事はもううっちゃってしまわなけりゃいかん』と彼はわれに返って考った。『何かほかのことを考えなけりゃならん。どうも不思議でもあれば、滑稽でもあるが、俺はこれまで誰に対しても、大きな憎しみを感じたことがなかったのみか、かくべつ復讐ふくしゅうしたいと考えたことさえない。これは悪い徴候だ、悪い徴候だ、悪い徴候だ! 議論するのも好きでなく、熱くなるということがなかった。これもやはり悪い徴候だ! ところで、さっき俺はあの女に、どれだけのことを約束したろう――ちょっ、ばかな! まったく、あの女がなんとかして俺を鍛え直してくれたらよかったんだがなあ……』彼はまた黙りこんで、歯を食いしばった。またもやドゥーネチカの幻が彼の目の前に立ち現われた。彼女が初めに一つ火蓋ひぶたを切ってから、ひどくおびえて拳銃けんじゅうを下げ、死人のように青くなって彼を凝視していた、あの時と寸分ちがわぬ姿だった。彼はあのとき二度でも彼女を抱く暇があったが、もし彼が自分で注意してやらなかったら、彼女は防御の手を上げさえしなかったろう。その瞬間に、彼女が可哀想でたまらなくなり、胸をしめつけられるような気がしたことを、彼は思い出した……『ええ! くそっ! またこんな考えが、こんなのは皆うっちゃってしまわなくちゃ駄目だ、うっちゃってしまわなくちゃ!……』
 彼はもう昏睡こんすい状態に落ちかけた。熱病的な戦慄はだんだん収まっていった。とふいに何かしら毛布の下で、手や足をかけ回るものがあった。彼はぴくっとした。『ええっちくしょう、こりゃねずみらしいぞ!』と彼は考えた。『そうだ、俺はこ牛肉をテーブルの上にうっちゃっといたっけ……』けれど、せっかくくるまった毛布をはねて起き上がり、寒い目をする気になれなかった。けれど、急にまた何かが足の上で、気持わるくごそりとした。彼は毛布をはねのけて、ろうそくをともした。熱病的な悪寒に震えながら、寝床を調べに身をかがめた――何もいない。彼は毛布をふるった。とふいに、敷布の上へ二十日ねずみが一匹飛び出した。彼は飛びかかってつかまえようとした。が、ねずみは寝台から駆けおりないで、ちょろちょろ四方八方へジグザグを描きながら、彼の指の間をすべり抜けたり、手を伝って走ったりして、急に枕の下へちょろりともぐり込んだ。彼は枕をほうり投げた。と、そのせつな、何やら彼の懐へとび込んで、体じゅうちょろちょろし、あっと思うまに、もうシャツの下から背中へ回った。彼は神経的に身震いして、目をさました。部屋の中は真っ暗で、彼はさっきの通り毛布にくるまったまま、寝台の上で横になっていた。窓の下には風がほえている。『なんていやなこった!』と彼はいまいましくこう考えた。
 彼は起き上がって[#「 彼は起き上がって」は底本では「彼は起き上がって」]、窓に背を向けながら、寝台の端に腰をかけた。『もういっそ寝ない方がいい』と彼は腹を決めた。しかし窓からは、寒さと湿気が伝わってきた。彼はその場を立たないで、毛布を引き寄せてくるまった。ろうそくはつけなかった。彼は何ごとも考えなかったし、また考えようともしなかった。しかし妄想はつぎからつぎと起こって、初めもなければ終わりもなく、連絡もない思想の断片が、ちらちらとひらめき過ぎた。なんだかしだいしだいに、半ば仮睡の状態に落ちていくようだった。寒さか、闇か、湿気か、または窓の下でほえながら木々をゆすっている風か、とまれ彼の心の中に一種の執拗しつような幻想的な傾向と、願望を呼び起こすものがあった。けれど、やがてしきりに花が目の前に現われ始め、やがて花咲きみちた美しい景色が心に描き出された。明るくて暖かい、ほとんど暑いくらいな祭の日で、五旬節である。家のぐるりの花壇に植えてある香りの高い花に包まれた、ぜいを尽くした立派な英国風の木造コッテージ。つたがからみついて、ばらの花壇をめぐらした玄関。ぜいたくな絨毯じゅうたんを敷きつめて、シナ焼の花瓶にさした珍奇な花で飾られた明るくすがすがしい階段。ことに窓の上におかれた水のはいった鉢の中で、あざやかな緑色をしたみずみずしく長い茎の先に頭をかしげている、かおりの高い白水仙の花束が、彼の目をひいた。その傍が離れたくないくらいである。しかし、彼は階段を上って、天井の高い大きな広間へはいって行った。するとそこにもまたいたるところに――窓際にも、テラスへ向けてあけ放された戸口にも、そのテラスの上にも――花があった。ゆかには刈り立ての香ばしい草がまかれて、あけ放した窓からはさわやかなすがすがしい微風が部屋をおとずれ、窓の下では小鳥がさえずっていた。ところが、広間のまんなかには白いしゅすのクロースでおおわれたテーブルの上にひつぎがのっていた。その柩は絹織物グロドナブルで包まれ、白い分厚な飾りひだが一面に縫いつけてあった。長い花房が四方からそれを囲んでいる。棺の中には、白いレースの服を着た娘が全身花に包まれて、さながら大理石で彫ったかと疑われる手を、胸の上にしっかり組み合せていた。けれど、そのばらばらに解いた明るいブロンドの髪は、しとどにぬれて、ばらの花の冠がその頭をとりまいていた。もう堅くなったきびしい横顔は、同じく大理石で刻まれたようであった。けれどその青ざめた唇に浮かんでいる微笑は、なんとなく子供らしくない無限の悲哀と、偉大な哀訴の表情をたたえている。スヴィドリガイロフはこの娘を知っていた。この柩の傍には聖像もなければ、ろうそくのともしもなく、祈祷きとうの声も聞こえない。この娘は身投げをした自殺者であった。彼女はまだやっと十四でありながら、その心はすでに破れていた。この心は堪えがたい凌辱りょうじょくを受けたために、われとわが身をほろぼしたのである。その若々しく子供らしい意識を脅かし、慄然と恐れおののかしめた凌辱は、天使のように清らかな彼女の魂を羞恥しゅうちの念に浸して、風吹きすさぶ湿っぽい雪どけの夜に、闇と寒さの中で、誰の耳にもはいらない絶望の叫びを一声ふりしぼって、容赦ない悪魔の嘲笑ちょうしょうとともに身を滅ぼしたのである。
 スヴィドリガイロフは目をさまして、寝台から立ち上がると、窓の傍へ歩みよった。彼は手探りで栓を見つけ窓をあけた。風はすさまじい勢いで狭い部屋へ流れ込み、まるで凍った霜のようなものを、彼の顔とシャツ一枚の胸へ吹きつけた。果して窓の下には庭のようなものがあった。しかも、やはり遊園地風のものらしかった。たぶん昼間は、ここでも歌うたいが歌をうたったり、小テーブルの上へは茶が運ばれたりしたのだろう。けれど今は立木やくさむらからしぶきが窓へ飛んでくるばかりで、穴倉のようにまっくらである。何かしらところどころに暗い斑点しみが見分けられて、何かそこにあるなと想像されるくらいなものであった。スヴィドリガイロフはかがみこんで、両ひじを窓じきりに突いたまま、もう五分ばかり目も放さずにこのもやの中を見つめていた。と、闇と夜をつんざいて、大砲の音が響き渡った、続いてまた一つ。『ああ号砲だ! 水が出たんだな』と彼は考えた。『夜明け方には、低いところは往来へ水がのって地下室や穴倉は水浸しになるだろう。穴倉の鼠どもがぶくぶく浮き出すんだ。人間は雨と風の中をののしりさわぎながらずぶぬれになって、めいめい自分のがらくたを二階へ引っ張り上げるのだ……それにしても、もうなん時かな?』彼がこう考えたとたんに、どこか近くでちくたくと一生懸命に急ぎながら柱時計が三つ打った。『ははあ、もう一時間たつと明るくなるんだ! 何を待つことがいるもんか? これからすぐ出かけて、いきなりペトローフスキイ公園へ行こう。そこでどこか雨にびっしょりぬれた大きな茂みを捜そう。ちょっと肩が触ると、幾百万ともしれぬ滴を頭の上へ降らせるようなやつをな……』彼は窓を離れて、ろうそくをつけ、チョッキや外套をまとって、帽子をかぶり、ろうそくを持って廊下へ出た。どこかそこいらの小部屋で、がらくた道具やろうそくの燃えさしの間で寝ているぼろ服を見つけ、勘定を済まして外へ出ようと思ったのである。『一番いい折だ、これよりいい折ってあるもんじゃない!』
 彼はしばらく細長い廊下を端から端まで、なん度も歩き回ったが、誰ひとり見つからなかったので、すんでの事に大きな声で呼ぼうとした。と、その時暗い片隅の古ぼけた戸棚とドアの間に、何か生きものらしい妙なものが目にはいった。ろうそくを持ったまま身をかがめてみると、それは一人の子供だった。五つそこそこくらいの女の子が、雑巾ぞうきんみたいなびしょぬれのぼろ着物を着て、震えながら泣いているのだ。スヴィドリガイロフを恐れる様子もなく、大きな黒目に鈍い驚きを浮かべて、彼をみつめていた。そして、長い間泣いて、やっと泣きやんだ子供が、もうすっかり気がまぎれていながら、何かの拍子でまたすすり上げるように、時々しくしく泣いていた。娘の顔は青白くやせこけて、寒さのためにこちこちしていた。だが、『どうしてこんなところへ来たんだろうきっとここへ隠れ込んで、一晩じゅう寝なかったに違いない』彼はいろいろ娘に問いかけた。娘は急に元気づいて、子供らしい回らぬ舌で、何やら早口に片言を言い出した。その中には『母ちゃん』とか、『母ちゃんがぶちゅんだもの』とか、茶わんを『こわちた』などというのが聞き分けられた。娘はひっきりなくしゃべった。そうした話の全体から、やっとどうにかこうにか次のことが察せられた。この娘は親にきらわれている子供らしかった。おそらくこの宿屋の台所で働いて、年じゅう酔っ払っている母親に、ぶたれたりおどされたりしているに相違ない。きょう娘は母親の茶わんをこわしたので、すっかりおびえ上がってしまい、もう夕方から逃げ出したものらしい。おそらく長い間雨の降る中を裏庭のどこかに隠れていたあげく、やっとここまではいり込んで、戸棚の陰に身をひそめ、湿気と闇と、それからこんなことをしたために今にもぶたれるだろうという恐怖の念に震えながら、泣き泣きこの片隅に夜っぴてすわりとおしていたのだろう。彼は娘を抱き上げて、自分の部屋へ連れて帰り、寝台の上へすわらして、着物を脱がせにかかった。素足にはいた穴だらけの靴は、まるで一晩じゅう水溜みずたまりにつかっていたように、ぐしょぐしょになっていた。着物を脱がせてから、彼は娘をベッドに寝かせ、頭からすっぽり毛布に包んでやった。娘はすぐ寝入ってしまった。これだけのことをし終わると、彼はまた難かしい顔をして考え込んだ。
『まだこんな事にかかわり合う気になってる!』と彼は突然重苦しく、毒々しい気持でそう考えた。『なんてばかばかしいことだ!』彼はいまいましそうにろうそくを取り上げて、是が非でもぼろ服を見つけ、少しも早くここを出ようと考えた。『ええ、あんな娘なんか!』もうドアをあけながら、彼はのろわしげに考えたが、もう一度娘を見に引っ返した。寝ているだろうか、どんな寝ぶりだろうか? こう思って、彼はそっと毛布を持ち上げた。娘はさも気持よさそうにぐっすり眠っていた。毛布の中であたたまったので、もう青白い頬に紅がみなぎっていた。ところが不思議なことには、その紅が普通の子供の赤みから見ると、なんだかどぎつく濃いように思われた。『これは熱の赤みだ』とスヴィドリガイロフは考えた。『これはまるで酒を飲んだ赤さだ、まるでコップに一杯も飲ませたようだ。赤い唇はかっかと燃えて、火を吹いてるようだ、いったいどうしたというのだろう?』ふと彼は娘の長い黒いまつ毛が、震えながらぽちぽちして、なんだか心もち持ち上がるような気がした。そしてその下からずるそうな、鋭い、どこか子供らしくない、合図でもするような目がのぞいた。娘は寝ているのでなく、寝たふりをしているらしく思われた。と、はたしてそうだった。娘の唇は微笑にひろがっていったが、まだがまんしようとでもするように、唇の端がかすかに震えている。けれど、やがて彼女はもうがまんするのをやめてしまった。それはもう笑いである、まがうことなき笑いである。何かしらずうずうしい挑発的なものが、まるで子供らしくないその顔に光っている。それは淫蕩である、それは娼婦カメリヤの顔である。フランスの娼婦の無恥な顔である。おお、もうてんで隠そうともせず、両の目を開いている。その目は火のような無恥な視線で彼を見回し、彼を呼び、彼に笑いかけている……この笑い、この目、子供の顔に浮かんだこうしたすべてのけがらわしい表情の中には、何かしら無限に醜悪な、良心を侮辱するようなものがあった。『これはどうだ! 五つばかりの子供のくせに!』とスヴィドリガイロフは心からぞっとしてつぶやいた。『これは……これはいったいどうしたことだ?』けれど、彼女は燃えるような顔をもうすっかり彼の方へ向け、両手を差し伸べている……『ええ、この汚らわしい女め!』娘に手を振り上げながら、スヴィドリガイロフはぞっとしてこう叫んだ。……けれど、その瞬間に目がさめた。
 彼は同じ寝台の上に、同じように毛布にくるまっている。ろうそくはついていなかったが、窓にはもうあけ放れた朝の光が白んでいた。
『夜通し悪夢の見つづけだ!』全身たたきのめされたように感じながら、彼は毒々しい表情で身を起こした。体の節々が痛んだ。外は一面に深い霧で、何一つ見分けることができなかった。もう五時ちかい刻限である。寝過ごした! 彼は起き上がって、まだ湿っぽいジャケツと外套がいとうを見につけた[#「見につけた」はママ]。ポケットの中で手が拳銃けんじゅうにさわると、それを引出して雷管を直した。それから腰をおろして、ポケットから手帳を取り出し、最初の一ばん目につきやすい頁へ、大きく二、三行書きつけた。それを読み直してから、彼はテーブルにひじ突きしながら考え込んだ。拳銃と手帳は、すぐ傍の肘のところにほうり出されていた。目をさましたはえは、同じテーブルの上におき放しになっている、手もつけてないこ牛肉にたかっていた。彼は長いことそれをみつめていたが、やがてあいている右手で、はえを一匹つかまえにかかった。彼は長い間へとへとになるほど骨を折ったが、どうしてもつかまえられなかった。やがてふと、この面白い仕事に夢中になっている自分に気がつくと、ぶるっと身震いして立ち上がり、思い切って部屋を出て行った。一分の後には彼はもう往来に立っていた。
 乳のような濃い霧が、街の上一面に立ちこめていた。スヴィドリガイロフはすべっこい泥だらけの板敷歩道を小ネヴァ河の方へ向けて歩き出した。彼の頭の中には、一夜のうちに水嵩みずかさの増した小ネヴァの流れや、ペトローフスキイ島や、湿った公園の小道や、ぬれた草や、ぬれた木立や、灌木かんぼくの茂みや、果てはあの例の茂みまで、幻のごとく浮かぶのであった……彼はいまいましそうな顔をして、何かほかのことを考えようと、家々を見回しはじめた。通りには一人の通行人も、一台の辻馬車も見えなかった。けばけばした黄色に塗った木造の家々は、窓の鎧戸よろいどをしめたまま、ものうげにきたならしいかっこうをしていた。寒さと湿気が体の中までしみとおって、彼は悪寒を感じ始めた。時々小店や八百屋の看板にぶっつかると、彼はいちいちていねいにそれを読んだ。もう板敷の歩道は尽きて、彼はとある大きな石造の家の前へ来ていた。きたならしい小犬がぶるぶる震えながら、尻尾をまいて彼の行く手を横切った。誰やら死んだように酔っ払った外套の男が、うつ向きに倒れて歩道いっぱいに巾をしている。彼はそれを一べつして先へ進んだ。高い火の見やぐらが左手にちらと目にうつった。
『あっ!』と彼は考えた。『これはいい場所だ。ペトローフスキイなんか行くことはありゃしない? 少なくとも、官憲の証人がいるわけだからな……』
 彼はこの新しい思いつきに、ちょっとにやりと笑って、××通りの方へ曲がった。そこには火の見やぐらのある大きな家があった。しまった大きな門の傍に、灰色の兵隊外套を着てアキレスめいた真鍮しんちゅうのかぶとをかぶった小がらな男が、一方の肩で門にもたれながら立っていた。彼はとろんとした目で、近づいて来るスヴィドリガイロフに冷やかな流し目を与えた。その顔の上には、あらゆるユダヤ族の顔に一人の例外もなく不景気に刻みつけられている、気むずかしげな永遠の悲しみが見えていた。スヴィドリガイロフとアキレスの二人は、しばらく無言のままたがいに相手を見回していた。とうとうアキレスは、別に酔ってもいない男が人の鼻っ先に突っ立ったまま、ものも言わずにじっとにらみつけているのが、尋常でないように思われてきた。
「いったいあんたここになんの用ある?」彼は依然として身動きもしなければ、姿勢を変えようともしないでこう口を切った。
「いや、なんでもないよ、君、こんちは!」とスヴィドリガイロフは答えた。
「ここ場所ない」
「僕はね、君、これからよその国へ行こうとしてるんだよ」
「よその国へ?」
「アメリカへ」
「アメリカへ?」
 スヴィドリガイロフは拳銃を取り出して、引金を上げた。アキレスは肩をつり上げた。
「いったいなにする、ここそんな冗談、場所ない!」
「どうして場所でないんだろう?」
「どうしても、場所ない」
「なあに、君、そんなことはどうでもいいんだよ。いい場所じゃないか。もし聞かれたら、アメリカへ行ったと答えときなさい」
 彼は拳銃を右のこめかみへ押し当てた。
「ああ、ここいけない、ここ場所ない!」アキレスはますます大きくひとみを開きながら、ぴくりと震え上がった。
 スヴィドリガイロフは引金をおろした……


 それと同じ日ではあるが、もう晩の六時過ぎに、ラスコーリニコフは母と妹の住まいへ近づいていた。それはラズーミヒンが世話をした例のバカレーエフの持家の中の貸間である。階段の上がり口は往来に向いていた。ラスコーリニコフははいろうかはいるまいか、と思い惑うさまで、いつまでも歩みを控え目にしながら近づいて行った。しかし、彼はどんなことがあっても、けっして引っ返しはしなかった。決心は堅くついていたのである。
『それにどっちだって同じことだ、二人はまだなんにも知らないのだから』と彼は考えた。『そしておれのことは、前から変わりもの扱いにし慣れてるんだし……』
 彼の身なりは恐ろしいものだった。一晩じゅう雨に打たれたために、何もかも汚れ、方々裂け傷だらけのぼろぼろである。彼の顔に疲労と、悪天候と、肉体の困憊こんぱいと、ほとんど一昼夜も続いた自分自身との闘争のために、ほとんど醜いくらいになっていた。彼は夜っぴて、どこともしらずさまよい続けたが、少なくとも決心だけはついていた。
 彼がノックすると、母親がドアをあけた。ドゥーネチカは家にいなかった。女中までがちょうどこの時留守だった。プリヘーリヤは初めうれしさのあまり、興奮して口もきけなかった。やがてわが子の手をとって部屋の中へ引っ張って行った。
「ああ、やっと来ておくれだったねえ!」と彼女はうれしさにどもりどもり言い出した。「ねえ、ロージャ、こんな涙なんかこぼしたり、ばかばかしいまねをするのを、怒らないでおくれね。これはわたし泣いてるんじゃなくて、笑ってるんだから。お前はわたしが泣いてるとお思いかえ? いいえ、わたしは喜んでるんだよ。わたしはどうもこういう馬鹿げたくせがあってね、すぐ涙が出るんだよ。これはね、お前のお父さんがなくなった時からで、何かというとすぐ泣けるんだよ。まあ、おかけ、お前さぞお疲れだろうね。ちゃんとわかるよ。あらまあ、なんて汚れ方だろう」
「僕きのう雨の中を歩き回ってたからですよ、お母さん……」とラスコーリニコフは言いかけた。
「なに、いいんだよ、いいんだよ!」とプリヘーリヤはわが子をさえぎりながら叫んだ。「お前はわたしが昔からの年寄りのくせで、いろんなことをうるさく尋ね出すかとお思いだろうが、心配しないでおくれ。わたしはわかったんだから、すっかりわかったんだから。わたしはもうこのごろ、こっちの風を飲み込んでしまったよ。それになるほど、ここの人の方がりこうだよ。わたしははっきり合点がいった――どうしてわたしなんかにお前の考えることがわかったり、お前にわけを尋ねたりする力があるものかね。お前には、なんだか知らないけれど、いろんな仕事や計画があるだろうし、思想とやらも頭に浮かぶんだろうからね。だもの、何を考えてるかなんて、お前の手を取ってこづきまわしたり、そんな事がどうしてできるものかね。わたしはそれでね……ああ、まあなんてことだろう! どうしてわたしはこう気ちがいみたいに、あれこれといろんなことを言い出すんだろう……わたしはね、ロージャ、あの雑誌にのったお前の論文をもう三度も読み返してるんだよ。ドミートリイ・プロコーフィッチが持って来てくださったのでね。わたしはそれを見ると、ああなるほどと思ったよ。ほんとにわたしはばかだったと、心の中で考えたのさ。あの子はこういう事をしているのだ。これで謎は解けた! 学者というものは、誰でもこうなのだ。あの子の頭にはいま何か新しい想が浮かんで、あの子はそれを考えているのかもしれない。それだのにわたしは、あの子を苦しめたり、うるさがらせたりしている、とこんなに思ったんだよ。読むには読んでもそりゃもうわからない事がたくさんある。もっとも、それは当たり前のことで、わたしなんかにわかってたまるものじゃないよ」
「ちょっと見せてくれませんか、お母さん」
 ラスコーリニコフは新聞を取り上げて、自分の文章にちらと目を走らせた。彼の状態にも境遇にも矛盾した事ながら、自分の書いたものを印刷で初めて見た筆者の経験する、あの不思議な刺すような甘い気持を、彼も同様に感じたのである。それに、二十三という年齢のせいもあった。しかし、それはほんの一瞬間で、二、三行読むと、彼は顔をしかめた。恐ろしい憂愁が心臓をしめつけたのである。この二、三か月間の内部の闘争が、一時にことごとく思い起こされた。嫌悪の念をいだきながら、彼はいまいましそうに論文をテーブルの上へほうり出した。
「でもねえ、ロージャ、わたしがどんなに馬鹿でも、それでもお前が近いうちに、今の学者仲間で、よしんば一番えらい人でなくても、えらい人の一人になれるってことは、ちゃんと見分けがつくよ。それだのにあの人たちは、お前の気が狂ったなんて、よくも考えられたものだね。ほ、ほ、ほ! お前は知らないだろうけれど――でも、あの人たちはそんなことを考えたんだよ! なんの、あんな卑しい虫けらみたいな連中に、偉い人の頭がどうしてわかるもんかね! でもドゥーネチカがね、ドゥーネチカまでが、すんでのことでそれを本当にするとこだったのさ――ほんとになんということだろう! お前のなくなったお父様もね、二度ばかり雑誌へ原稿をお送りになったことがあるんだよ――初めは詩で(わたしはちゃんと原稿をしまってるから、いつかお前にも見せてあげようね)、二度めのはもうまとまった小説だった(わたしは無理にお父様にお願いして、それを清書させてもらったんだよ)。それからわたしたちは二人で、どうか載りますようにと祈ったんだけれど――載らなかったっけ! わたしはね、ロージャ、六、七日前までは、お前の身なりや、お前の住まいや、食べているものや、はいて歩くものなどを見て、どんなにつらかったかしれないんだよ。でも、今になってみると、これもやはりわたしが馬鹿だったと、合点がいったよ。だってお前はその気にさえなれば、今だってなんでも頭と腕で手に入れることができるんだものね。つまり、お前は今のところ、そんなものが欲しくないので、ずっとずっと偉いことをしているわけだわね……」
「ドゥーニャは家にいないんですか、お母さん?」
「いないんだよ、ロージャ。このごろあの子はしょっちゅう家をあけて、わたしを一人ぽっちにするんだよ。でも、有難いことに、ドミートリイ・プロコーフィッチがちょいちょい来てくだすってね、わたしの相手をしてくださるんだよ。いつもお前の話が出るが、あの人はお前を好いて、そして尊敬していらっしゃるね、ロージャ。妹の方は、大してわたしを粗末にするなんて、そういうわけじゃないんだよ。わたしは別に不足なんかありません。あの子の気性はああだし、わたしの性分はまた別なんだからね。あれには何やら秘密ができたらしいが、わたしはお前たちに隠すことは一つもありません。もっとも、わたしはドゥーニャが十分かしこい人間だってことも知っているし、おまけにわたしやお前を愛していることもよくわかってはいるがね……でも、結局これがどうなることだか、まるで見当がつかないんだよ。今もね、ロージャ、お前はこうして出かけて来て、わたしを喜ばせておくれだけれど、あの子はこのとおりふらふら出てしまった。帰って来たら、わたしそう言ってやるよ――お前の留守に兄さんが見えたが、いったいお前はどこで暇をつぶしておいでだった? ってね。でも、ロージャ、あまりわたしを甘やかさないでおくれ。お前の都合がよかったら――寄っておくれ。悪かったら――どうも仕方がない。わたしは待っているよ。だって、なんといっても、お前がわたしを愛してくれるのは、わたしも知っているから、わたしはそれでたくさんだもの。こんな風にお前の文章を読んだり、みんなからお前の噂を聞いたりしていると、そのうち、ひょっこり自分で訪ねて来てくれる。ね、それよりけっこうなことはないじゃないか! 現に今だってこの通り、お母さんを慰めに来てくれたんだものね。わたしは自分でもわかるよ……」
 ここまで言うと、プリヘーリヤはふいに泣き出した。
「またわたしとしたことが! どうかわたしを、こんな馬鹿を気にかけないでおくれ! ああ、どうしよう、なんだってわたしはぼんやりすわりこんでるんだろう」いきなり席から飛び上がりながら、彼女は叫んだ。「ちゃんとコーヒーがあるのに、わたしお前にごちそうしようともしないでさ! ほんに年寄りの身勝手って方図のないものだね。すぐあげるよ、すぐ!」
「お母さん、うっちゃっといてください、僕はすぐ帰りますから。僕そんなことで来たんじゃありません。どうか僕の言うことを聞いてください」
 プリヘーリヤはおずおずとわが子の傍へ寄った。
「お母さん、たとえどんなことが起ころうとも、また僕のことでどんな話をお聞きになろうとも、また僕のことで人があなたに何を言っても、お母さんは今と同じように僕を愛してくださいますか?」彼は自分のことばを考えもしなければ、細心に大事をとろうともせず、胸からあふれ出るまま、いきなりこうたずねた。
「ロージャ、ロージャ、お前どうしたの? それに、よくもお前はそんなことがきけるもんだね? 誰がお前のことをわたしにかれこれ言うものかね? わたしは誰の言うことだって信用しやしないよ。誰がやって来たって、わたしいきなり追い返してしまうから」
「僕はね、お母さん、僕がいつもお母さんを愛していたことを、はっきり知っていただくためにやって来たのです。だから、いま僕たち二人きりなのがうれしいんです。ドゥーネチカのいないのさえ、かえってうれしいくらいなんです」と彼は前と同じ興奮した調子で、ことばを続けた。「僕はお母さんにざっくばらんに言いに来たんです――たとえあなたが不幸におなりになっても、やっぱりあなたの息子は、自分自身よりもあなたを愛しているということを、承知してください。僕が冷酷な人間で、あなたを愛していないなどとお思いになるとしても、それはみんな間違いです。僕があなたを愛しなくなるようなことは、けっしてけっしてありません……さあ、もうたくさんです。僕はこういう風にして、これから始めなけりゃならないって、そういう気がしたんです……」
 プリヘーリヤは無言のまま、わが子を胸に抱きしめながら、忍びに泣いた。
「いったいお前どうしたの、ロージャ、わたしにはわからないんだよ」とうとう彼女はこう言った。「わたしはこの間じゅうから、ただお前がわたし達をうるさがっているのだとばかり思っていたけれど、今こそいろいろのことでわかりました――お前には大きな悲しみがあって、そのためにお前は悩んでいるのです。こんなことを言い出して悪かったね、かんにんしておくれ。わたし、こんなことばかり考えてるものだから、夜もおちおち眠れないんだよ。昨夜はドゥーニャも、一晩じゅううなされていた様子で、始終お前のことを言っていたっけ。わたしも何やかや聞き分けはしたものの、いっこうなんにもわからなかった。今日も朝のうちずっと、死刑でも受けに行く前のようにそわそわして、何かしら待つような気持になっていたんだよ。虫が知らせるような風でね。ところが案のじょう、このとおりしるしがあった! ロージャ、ロージャ、お前どこへ行くの? どこか旅にでも行くの?」
「旅に行くんですよ」
「わたしもそうだろうと思っていた! わたしだってね、もしそうした方がよければ、お前と一緒に行ってもいいんだよ。ドゥーニャだってそうです。あの子はお前を愛していますよ、それはそれは愛していますよ。それからソフィヤ・セミョーノヴナも、なんなら一緒に連れて行ってもいいよ。わたしは喜んであの人を娘の代わりにしますよ。ドミートリイ・プロコーフィッチが一緒に出立の手伝いをしてくださるから……だが……いったいお前は……どこへ行くの?」
「では、さようなら、お母さん」
「え! 今日すぐなの!」永久にわが子を失おうとでもしているように、彼女は思わず叫んだ。「僕ゆっくりしていられないんです、僕は行かなくちゃならない。たいへんな用があるんですから……」
「わたしが一緒に行ってはいけないの?」
「いや、それよりお母さん、ひざをついて僕のため祈ってください。あなたのお祈りはきっと届くでしょうから」
「じゃ、お前に十字を切らしておくれ、お前を祝福して上げるから! これでいい、これでいい。ああ、まあいったいわたしたちは何をしているのだろう!」
 そうだ、彼はうれしかった、誰もいあわさないで、母と二人きりでいられたのが、心からうれしかった。この恐ろしい一週間ばかりを通じて、彼の心は初めて一度にやわらげられたような気がした。彼は母の前に身を投げて、その足に接吻せっぷんした。二人は抱き合って泣いた。彼女も今度は驚きもしなければ、くどくどと尋ねもしなかった。彼女はもう前から、わが子の身に何か恐ろしいことが持ち上がっていて、今こそ彼にとって恐るべき瞬間が到来したのだ、ということを悟っていた。
「ロージャ、かわいい、かわいいロージャ」と彼女はしゃくり上げながら言った。「今お前がそうしていると、お前の小さい時分そっくりだよ。お前はいつもこんな風にわたしの傍へ来て、わたしを抱いて接吻しておくれだった。まだお父さまも生きていらして、貧乏で困っていた時分、ただお前だけが、お前が一緒にいてくれるということだけで、わたしたちを慰めてくれたものです。それからお父様を見送ってからというものは――なん度いまのように、抱き合って、お墓のそばで泣いたかしれやしない。わたしが前からこんなに泣いてばかりいるのは、親心で災難の来るのがわかったからだよ。わたしはあの晩、覚えておいでだろう、わたしたちがこっちへ着くとすぐ、初めてお前を見た時に、お前の目つき一つで何もかも察したんだよ。あの時わたしの心臓は思わずどきっとしたものだ。ところが、今日もお前にドアをあけて上げて、ちょっと一目見るが早いか、いよいよ悲しい時が来たらしい、とそう思ったんだよ。ロージャ、ロージャ、でもお前は今すぐ行くんじゃないだろうね?」
「いいえ」
「お前また来ておくれだろうね!」
「ええ……来ます」
「ロージャ、腹を立てないでおくれ、わたしは別に、くどくどきこうとしやしないから。そんなことができないのは、よく承知しているんだから。でも、ちょっと、たった一言でいいから言っておくれ。お前はどこか遠いところに行くの?」
「非常に遠くです」
「すると、そこに勤め口とか、出世の道とか、何かそんな風のものでもあるの?」
「何ごとも神様の思召おぼしめししだいです……ただ僕のために祈ってください……」
 ラスコーリニコフは戸口へ向かって歩き出した。けれど、母は彼にしがみついて、絶望のまなざしで彼の目を見つめた。彼女の顔は恐怖にゆがんでいた。
「もうたくさんですよ、お母さん」ここへ来る気になったのを、深く心に悔みながら、ラスコーリニコフは言った。
「一生の別れじゃないだろうね? まさか一生の別れじゃないだろうね? ね、お前来ておくれだろうね、明日にも来ておくれだろうね?」
「来ますよ、来ますよ、さようなら」
 彼はとうとう振り切って出て行った。
 それはさわやかな、はればれした、暖かい夕暮れだった。天気はもう朝から持ち直っていた。ラスコーリニコフは自分の住まいをさして歩き出した。彼は急いだ。いっさいを日没までに片づけてしまいたかったのである。で、それまでは誰にも会いたくなかった。自分の部屋へ上って行く途中、ナスターシャがサモワールの傍を離れて、じっと目をすえながら、一生懸命に自分を見送っているのに、ふと気がついた。『こりゃ誰かおれのところへ来ているのじゃないかな?』と彼は考えた。嫌悪の念と共に、ポルフィーリイの顔がちらと頭にうつった。が、自分の部屋へのぼりついて、ドアをあけると、ドゥーネチカの姿が目にはいった。彼女はたった一人ぼっちで、深い物思いに沈みながら腰かけていた。もう前から待っていたらしい。彼はしきいの上に立ち止まった。彼女はぎくっとして長椅子から腰を持ち上げ、彼の前に棒立ちになった。じっと兄の顔にそそがれた彼女の視線は恐怖の情と、かぎりない悲しみを現わしていた。このまなざしだけで、彼はたちまち妹が何もかも知っているのを悟った。
「どうだろう、お前の所へはいって行ってもいいかい、それとも出て行こうか?」と彼は疑ぐり深い調子で尋ねた。
「わたしね、きょう一日ソフィヤ・セミョーノヴナのところにいましたの。わたしたちは二人で兄さんを待ってたんですのよ。兄さんがきっとあすこへいらっしゃると思ったもんですから」
 ラスコーリニコフは部屋へはいって、ぐったり椅子に腰をおろした。
「僕はなんだか精がないんだよ。ドゥーニャ。もうすっかりへとへとになったんだ。実はちょっと今だけでも十分冷静に、落ち着いていたいと思うんだけれど」
 彼は疑わしげな視線をちらと妹に投げた。
「いったい兄さんは一晩じゅうどこにいらしたの?」
「よく覚えていない。ねえ、ドゥーニャ、僕はいよいよ決心しようと思って、幾度も幾度もネヴァ河の付近を歩き回ったんだ。それだけは覚えている。僕はそれでいっさいの片をつけようと思ったんだが……しかし思い切れなかった……」またもや疑わしげにドゥーニャを見ながら、彼はささやくように言った。
「まあ、よかった! わたしたちもつまりそれを心配したのよ、わたしもソフィヤ・セミョーノヴナも! してみると、兄さんはまだ生を信じてらっしゃるのね。まあ、よかった、ほんとうによかった!」
 ラスコーリニコフは苦い笑いを漏らした。
「僕は信じはしなかった。だが、今お母さんと抱き合って、一緒に泣いたよ。僕は信じてはいないが、お母さんに僕のことを祈ってくださいと頼んできた。これはいったいどうなっているのか、わけがわからないよ、ドゥーネチカ。僕もそのことになると、まるで見当が立たない」
「お母さんのところへいらしたの? そして、お母さんにお話しなすったの?」とドゥーニャはぎょっとして叫んだ。「ほんとに兄さんは思い切ってお話しになったの?」
「いや、話はしなかった……ことばでは。けれど、お母さんは大分もう察しがついたよ、お母さんはね、夜中にお前の言ったうわ言を聞いたんだよ。お母さんはもう半分くらいわかっていると思うね。僕が行ったのはよくなかったかもしれない。なんのために行ったんだか、それさえわからないほどだ。僕は下劣な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間ですって、でも、苦しみを受けに行く覚悟がついてらっしゃるんでしょう! 兄さんはいらっしゃるんでしょう?」
「行くよ、今すぐ。僕はこの恥辱をのがれるために、身を投げようと思ったんだよ、ドゥーニャ。しかし、もう水の上にかがみながら立ってから、こう思ったんだ。もしおれが今まで自分を強者と思っていたんなら、今だってこんな恥辱を恐れるものかってね」と彼は先回りしながら言った。
「しかし、これはごうまんというものだろうか、ドゥーニャ?」
「ごうまんだわ、ロージャ」
 彼の消沈した目の中に、火花がひらめいたように感じられた。自分がまだごうまんなのが、愉快だとでもいうようなぐあいだった。
「だが、ドゥーニャ、お前は僕が単にこれだけを恐れたのだ、などと思いはしないかい?」とみにくい微笑を浮かべて、妹の顔をのぞき込みながら彼は尋ねた。
「ああ、ロージャ、そんなことよして!」とドゥーニャは叫んだ。
 二分ばかり沈黙が続いた。彼はうなだれて腰かけたまま、じっと床を見つめていた。ドゥーネチカはテーブルの反対側に立って、なやましげに兄をみつめていた。ふいに彼は立ち上がった。
「もう遅い、そろそろ時刻だ。僕はこれから自首しに行く。だが、いったいなんのために自首しに行くのか、自分でもわからない」
 大粒な涙がはらはらと、彼女の頬を伝って流れた。
「ドゥーニャ、お前は泣いてるね。では、お前ぼくに手がのばされるね!」
「兄さんはそんなことまでお疑いになったの?」
 彼女はしっかり兄を抱いた。
「兄さんはこれから苦しみを受けにいらっしゃるんですもの、もう半分くらい罪を洗い落としていらっしゃるんじゃなくって?」兄を抱きしめて接吻しながらも、彼女はこう叫んだ。
「罪? いったいどんな罪だい?」急に何やら思いがけない興奮のさまで彼は叫んだ。「それは僕があの汚らわしい有害なしらみを――誰の役にも立たない金貸ばばあを殺したことなのかい。あんな貧乏人の汁を吸っていた婆あを殺すのは、かえって四十の罪が許されるくらいだ、それだのに、これが罪なのかい? 僕は罪なんてことは考えない。だから、それを洗い落とそうとも思わないよ。それをなんだってみんな四方八方から、『罪だ、罪だ!』とつっつくんだろう。今になって、こんな役にも立たぬ恥辱を受けに行こうと決心した今になって、僕はやっと初めて自分の小胆さと愚かさかげんがはっきりわかったよ! 僕はただ卑屈で無能なために決心したのだ。それから事によったら、あの……ポルフィーリイがすすめたように、自首の有利ということのためかもしれない……」
「兄さん、兄さん、あなた何をおっしゃるの! だって、兄さんは血を流したんじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望したように叫んだ。
「すべての人が流している血かい!」彼はほとんど前後を忘れたような調子でことばじりをとった。「世間で滝のように流されている血かい、今までたえまなく流れていた血かい? みんながシャンパンみたいに流している血かい? おおよく流したといって、下手人に神殿カピトルで月桂冠を授け、後には人類の恩人よばわりするその血かい? お前ももう少し目をすえて、しっかり見分けるがいい! 僕は人類のために善を望んだのだ。また実際、幾百幾千の善を行なったかもしれないのだ。ところが結果は、こんな愚劣なこと――いや、愚劣ではない、ただ単に拙劣なこと一つに終わってしまった。だって、この思想は全体的に見て、今この失敗が明瞭めいりょうになってから考えられるように、けっしてそれほど愚劣なものじゃないからね(どんなことでも、失敗すると愚劣に見えるものだよ!)この愚劣な行為で、僕は自分を独立不羈どくりつふきな立場において、生活の第一歩を踏み出し、資金を得ようと思ったのだ。そうすれば、それから先は何もかも、比較上はかるべからざる利益によって埋合せがつくと考えたのだ……ところが、僕は、僕は第一歩さえ持ちこたえることができなかった。それはつまり、僕が卑劣漢だからだ! 問題はすべてこの点にあるんだ! が、とにかく、僕はお前たちの見方は取りゃしないよ。もしあれが成功してたら、僕は名誉の冠を受けていたに相違ないんだが、今はもうわなに引っかかってしまった!」
「だって、それは見当ちがいよ、まるっきり見当ちがいよ! 兄さん、それはいったい、なにをおっしゃるの!」
「ははあ! それじゃ形式が違うというんだね、審美的に気持のいい形式じゃないというんだね! だが、僕はまるっきり合点がいかないよ――大勢の人間を爆弾や、正規の包囲攻撃でやっつけるのがより多く尊敬すべき形式なんだろうか? 審美的な恐怖は、無力を示す第一の徴候だよ!……僕は一度も、まったくただの一度も、今ほどこれをはっきり意識したことはない。そして、今までにもまして、いっそう自分の犯罪理由を解しないよ! 僕は一度も、まったくただの一度も、今ほど強くなったことはない、今ほど確信を持ったことはない!……」
 彼の青ざめてやつれはてた顔には、さっとくれないの色さえさしてきた。しかし、この最後の叫びを発しながらも、彼はふとドゥーニャの視線にぶっつかった。そしてこのまなざしの中に、兄を思う深い深い苦悩を認め、思わずはっとわれに返った。彼はなんといっても、この二人の哀れな女たちを不幸なものにしたのだと感じた。なんといっても、やはり自分が原因なのだ……
「ドゥーニャ、かわいいドゥーニャ! もし僕に罪があったら、どうか許しておくれ(もっとも、もし罪があるとしたら許すことなんかできないけれど)。じゃ、さようなら! もう議論はよそう! 出かける時だ、もう時が過ぎてるくらいだ。僕のあとからついて来ないでおくれ、後生だから。僕はまだ寄る所があるんだから……お前はこれからすぐ帰って、お母さんの傍についてておくれ。これはお前に折り入って頼む! これは僕がお前にたのむ一ばん最後の、一ばん大きなお願いだ。お母さんの傍を一刻も離れないようにしておくれ。僕はお母さんを不安の中に取り残して来たんだ。それはお母さんにとても堪えきれそうもないほどの不安なのだ。お母さんは死んでしまわなければ、気が狂うに決まってる。傍についててあげておくれ、ラズーミヒンが力になってくれるから。あの男には僕から話しておいた……僕のために泣くのはよしておくれ。僕はたとえ人殺しでも、生涯男らしい潔白な人間でいるように努力するから。事によったら、いつか僕の名を聞くことがあるかもしれないが、僕はお前のつらよごしになるようなことはしない、まあ見ていてくれ、今にそれを証明して見せるから……が、今は当分さよならだ」兄の言った最後の数語と約束を聞いたとき、またもやドゥーニャの目に現われた一種異様な表情を見てとって、彼は急いでこうことばを結んだ。
「なんだってお前はそんなに泣くの? 泣かないでおくれ、泣かないで。まだこれきり別れてしまうわけでもないんだから!……ああ、そうだ、ちょっと待っておくれ、僕は忘れていた!……」
 彼はテーブルに近より、ほこりまみれになった一冊の厚い書物をとり上げて、ぱたりと開くと、象牙ぞうげに水彩で描いた小さな肖像を、頁の間から抜き出した。それは例の熱病で死んだ下宿のおかみの娘で、もと彼の許嫁いいなずけだった女――あの尼寺へ行きたがっていた風変りな娘の肖像だった。彼はちょっとの間、その表情に富んだ病的な顔を見つめていたが、やがてそれに接吻せっぷんして、ドゥーネチカに渡した。
「実はね、僕はこの女を相手に、たびたびあのことを話し合ったんだよ。ただこの女ひとりだけと」と彼は考え深そうに言った。「僕はこの女の胸へ、後になってああもみにくい実現を見たことを、いろいろと伝えたものだ。だが、心配しなくってもいいよ」と彼はドゥーニャの方へふり向いた。「この女もお前と同じように同意はしなかったよ。だから僕も、あの女が今いないのを喜んでいる。大切なことは、大切なことは、すべてがこれから新しく始まって、まず二つに屈折するということだ」急にまたしても自分の憂悶ゆうもんの方へ帰って行きながら、彼はこう叫んだ。「何もかも、何もかもみんな。だが僕はこんなことに対して用意ができてるだろうか! 自分でこんなことを望んでいるだろうか? 人は、これが僕の試練に必要だと言う! しかし、なんのために、なんのために、この無意味な試練が必要なんだ? そんなものがいったい何になるんだ? 僕が二十年の流刑を勤め上げて、老いぼれのよぼよぼになってから、苦痛に虐げられてふぬけのようになってから、やっとそれを自覚した方が、いま意識してるよりもいいのだろうか? もしそうだったら、僕はなんのために生きていくんだ? どうして今さらそんな生き方に同意できよう? ああ、僕は今日の夜明けに、ネヴァの川ぶちに立っていた時、おれは卑劣漢だなと悟ったよ!」
 二人はとうとう外へ出た。ドゥーニャは苦しかったが、でも彼女は兄を愛していたのである! 彼女は歩き出した。が、五十歩ばかり離れてから、もう一度彼を見ようと思って振り返った。彼の姿はまだ見えた。けれど、曲がり角まで行ったとき、彼の方でも振り返った。二人は最後の目を見かわした。しかし、妹が自分を見ているのに気がつくと、彼はじれったそうに、というよりむしろいまいましげに、行けというように片手を振って見せた。そして、自分はいきなり角を曲がってしまった。
『おれは意地悪だ、それは自分でもわかる』すぐ一分もたった時、ドゥーニャにいまいましそうな身振りなど見せたのを恥じながら、彼は心に思った。『だが、どうしてあれたちはおれをこんなに愛してくれるのだろう、俺にそれだけの価値もないのに! ああ、もしおれが一人ぼっちで、誰一人愛してくれるものもなく、また自身もけっして人を愛さないとしたら、その時はこんなことなどいっさい起こらなかったろう! だが、はたして今後十五年か二十年の間に、俺の心がすっかり折れてしまって、二言目には自分を強盗よばわりしながら、みんなの前でうやうやしく頭を下げたり、めそめそ泣いたりするようになるだろうか? こりゃ面白い問題だぞ。いやきっとそうなる、そうなるに違いない! つまりそれが目的で、やつらは今おれを流刑にしようとしてるんだ、それがやつらに必要なんだ……現にやつらはみな町をあちこちしているが、やつらは一人ひとり例外なしに、生まれながらの卑劣漢か泥棒だ。いや、それよりもっと悪い――白痴だ! ところが、もし俺が流刑を許されたら、やつらはみんな公憤を起こして、気ちがいのように騒ぐだろう! ああ、おれはやつらがどれもこれも憎くて憎くてたまらない!』
 彼は深く考えこんだ。『いったいどういう経路をとって、俺がいよいよやつらすべての前に、理くつも何もなく屈従してしまうなんて、そんなことが起こりうるのだろう! 確信をもって屈従するなんてことが! だがしかし、どうして絶対にないといえるか? もちろん、そうなるに決まってる。何しろ二十年間の絶間ない圧迫が、徹底的に俺をぶちのめしてしまわないはずがない? 雨だれだって石に穴をあけるじゃないか。それならなぜ、いったいなぜこんなにしてまで生きていかなくちゃならんのだろう? それがすっかり本にでも書かれているように、必ずちゃんとそうなって、それ以外になりようがないと承知しながら、なぜ今その方へ進んでいるのだろう!』
 彼は昨日の晩から、おそらくもう百ぺんくらいも、この問いを自ら発していたのだが、それでもやはりまだ足を止めなかった。


 彼がソーニャの部屋へはいった時は、もうたそがれになりかかっていた。ソーニャはいちんち恐ろしい興奮の中に彼を待ち通したのである。彼女はドゥーニャと一緒に待っていた。ドゥーニャは、『ソーニャがこのことを知っている』というスヴィドリガイロフの昨日のことばを思い出して、もう朝から彼女を訪ねて行ったのである。二人の女のこまごました会話や、涙。それから、二人がどれだけへだてのない仲になったか? というようなことは、今さらここに述べ立てまい。ドゥーニャはこの会見によって、少なくとも兄は一人ではない、という一つの慰めを得た。兄は彼女ソーニャのところへ、まず第一番に懺悔ざんげに来た。してみると、兄は人間が必要になったとき、彼女の中に人間を求めたのである。彼女は運命の導くところへ、どこまでも兄に従って行くだろう。彼女は何もきかなかったけれど、これがそうなるに違いないのを知り抜いていた。彼女はソーニャに対して、一種敬虔けいけんともいうべき態度を見せたので、初めはその敬虔の情で相手を当惑させたくらいである。ソーニャは危うく泣き出さないばかりだった。彼女はそれどころか、自分という人間が、ドゥーニャを見上げるだけの値打ちもないように考えていたのである。ラスコーリニコフの部屋で初めて会った時、ドゥーニャが非常な注意深い尊敬にみちた態度で会釈をしたその瞬間から、彼女の美しい面影は、ソーニャの生涯を通じてもっとも美しい、及び難い幻影の一つとして、永久に彼女の心に残ったのである。
 そのうちドゥーネチカは、とうとう辛抱を切らして、兄の住まいで彼を待つために、ソーニャを残して立ち去った。兄が先にそちらへ行くような気がして、仕様がなかったのである。一人になったとき、ソーニャは急に彼が本当に自殺したのではないかと、心配でたまらなくなって来た。そのことはドゥーニャも同様に恐れていた。けれど二人はいちんちじゅう、ありたけの理由を数えあげて、そんなことはあるはずがないと、お互いに一生懸命うち消し合っていた。で、二人一緒にいる間は、いくらか気が落ち着いていた。けれど、今こうして別れてみると、ふたりともただこの事ばかり考え始めた。ソーニャは昨日スヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフには二つしかとるべき道がない――ウラジーミルカか、さもなくばと言ったことばを思い出した。その上ソーニャは彼の虚栄心が強く、ごうまんで、自尊心がさかんで、無信者なのをよく知っていた。
『いったいただ小胆で、死ぬのが恐ろしいというだけのことが、あの人を無理に生きさせる力を持っているんだろうか!』彼女はついに絶望の気持でこう考えた。
 そのうちに、太陽はいつしか西に沈み始めた。彼女はうれわしげに窓の前にたたずんで、じっと窓外を見つめた――けれどこの窓からは、ただ隣家の大きな荒壁が見えるばかりだった。いよいよ彼女が、不幸な男の死を完全に信じ込んだとき――当人が部屋へはいって来たのである。
 よろこびの叫びが思わず彼女の胸からもれた。しかし、じっと彼の顔を見やったとき、彼女はたちまちさっと青くなった。
「ああ、そうなんだ!」とラスコーリニコフは苦笑しながら言った。「僕はお前の十字架をもらいに来たんだよ。ソーニャ。お前は自分で僕に、四つ辻へ行けと言ったじゃないか。それだのに今、いよいよ実行という段になると、急におじ気がついたのかい?」
 ソーニャは愕然がくぜんとして彼を見やった。彼女の耳にはその調子が変に聞えたのである。冷たい戦慄せんりつが彼女の背筋を流れた。しかし、すぐ次の瞬間には、この調子もこのことばもみな付焼刃なのだと察した。彼は彼女と話すのにも、なんだか隅の方ばかり見ていて彼女の顔をまともにながめるのを、避けるようにしていた。
「僕はね、ソーニャ、どうもそうした方が得らしいと考えたんだよ。それには、一つの事情があって……いや、話せば長いことだし、また話したって仕様がない。ただね、何が僕のかんに触るかといえばほかでもない! あの愚劣な畜生づらをした連中が、たちまち僕をとり巻いて、目を皿のようにして、まともに人の顔をじろじろ見ながら、愚劣な質問を持ちかけて、それに答弁を強いたり――うしろ指さしたりするかと思うと……それがいまいましいんだ。ちょっ! 僕はね、ポルフィーリイのところへは行かないよ。あいつにはもうあきあきしちゃった。僕はいっそ仲好しの火薬中尉のところへ行く。さぞびっくりすることだろうな。それこそまた一種の効果があろうというものだ。だが、もっと冷静でなくちゃならない。近ごろ僕はあまりに癇が強くなり過ぎたよ。お前は、本当にしないだろうが、今も僕は危うく拳固げんこを振り上げて、妹を脅かしそうにしたんだよ。それも、ただちょっと妹がお名残りに僕を見ようとして、振り返ったからにすぎないのさ。実に下劣きわまる――なんという見下げ果てた気持だ! ああ、僕もこんなにまでなってしまったか! さあ、こんなことを言ったって仕様がない、十字架はどこにある?」
 彼はまるで心もそらの様子であった。一つ所に一分と立っていることもできなければ、一つのものに注意を集中することもできなかった。彼の想念はたがいに追っかけ合ったり、飛びこし合ったりしていた。彼は夢中にしゃべり始めた。その手はかすかに震えていた。
 ソーニャは無言のまま箱の中から糸杉サイプレスのと真鍮しんちゅうのと、二つの十字架を取り出した。そして自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやった後、その胸へ糸杉サイプレスの方をかけてやった。
「これはつまり、僕が十字架の苦しみを背負うという象徴シンボルだね、へ、へ! まるで僕が今までに、苦しみ方が足りなかったとでもいうようだね! 糸杉サイプレスのは、つまり民間に行なわれるものなんだね。そして真鍮の方はリザヴェータので、それを自分でとるんだね――どれお見せ! なるほど、これがあの女の胸にあったんだな……あの時? 僕はこれと同じような十字架を二つ知ってる、銀のと肌守りの聖像と。僕はそれをあの時ばばあの胸に投げつけてきた。いっそ僕は今あれでもかけるとよかったんだがなあ、まったく、あれをかけるとよかったんだ……だが、僕はでたらめばかり言って、これじゃかんじんの用を忘れてしまう。僕はなんだかぼんやりしている!……実はねえ、ソーニャ、僕はただお前に予告しようと思って、お前に知っててもらおうと思って、つまりそのために来たんだよ……まあ、それっきりだ……ただそれだけのために来たのさ(ふむ、だが、もう少し話すことがあるような気がしてたんだがなあ)。だって、お前は自分でも僕に行かせたかったんじゃないか。だからさ、僕はこれから監獄住まいをするんだ。これでお前の望みも実現されるわけだよ。それだのに、いったい、お前は何を泣くんだい? お前までも? よしてくれ、たくさんだ。ああ、そういうことが僕にとってどんなにつらいと思う!」
 とはいえ、ある感情が彼の心中に生まれ出た。彼女を見ていると、彼の心臓はしめつけられるようであった。『この女は、この女はいったいなんだろう?』と彼は心の中で考えた。『この女にとっておれは何者なんだ? なんだってこの女は泣いているのだ。なんのためにこの女は、母やドゥーニャと同じようにおれをかばおうとするのだ? おれのためにはいい乳母になるだろうよ!』
「せめてたった一度でも十字を切って、お祈りをしてくださいまし」おどおどした震え声でソーニャは願うように言った。
「ああ、いいとも、そんなことならいくらでも、お前の好きなだけやるよ! それはほんとうに心からだよ、ソーニャ、心からだよ……」
 とはいえ、彼は何かほかのことが話したかったのである。
 彼は幾度か十字を切った。ソーニャは襟巻ショールをとって、それを頭にかぶった。それも緑色のドラデダームの襟巻ショールだった、おそらくいつぞやマルメラードフが話した例の『家族用』のものらしい。ラスコーリニコフの頭には、ふとこうした想念がちらとひらめいたが、別に尋ねもしなかった。実際かれはもう自分でも、自分が恐ろしくぼんやりして、なんだか見苦しいほどそわそわしているのに、気がつきかかっていたのである。彼はそれにぎょっとした。と同時に、ソーニャが一緒に出かけようとしていることも、思いがけなく彼の心を打った。
「お前どうするの! どこへ行くの? よしておくれ、よしておくれ! 僕は一人で行く」と彼は狭量ないまいましさを覚え、ほとんど腹立たしげにこう叫ぶと、戸口の方へ足を向けた。「それに、なんだってそんなお供がいるんだ!」と彼は出て行きながらつぶやいた。
 ソーニャは部屋のまんなかにとり残された。彼は別れを告げようとさえしなかった。もう彼女のことさえ忘れていた。ただ毒々しい反抗的な疑惑が、心の中ににえくり返っていたのである。
『いったいこれでいいのだろうか、何もかもこれでいいのだろうか?』彼は階段をおりながら、またしてもそう考えた。『実際もう一度立ち止まって、万事をやり直すわけにいかないのだろうか……そして、自訴しないですますわけにいかないだろうか?』
 しかしそれでも、彼は歩いて行った。と、ふいに彼ははっきりと、何も自分に問いを発する必要はないと感じた。通りへ出たとき、彼はソーニャに別れを告げなかったのを思い出した。彼女は彼の一喝に身動きもなし得ず、例の緑色の襟巻ショールをかぶったまま、部屋のまんなかにとり残された。こう思うと、彼は一瞬間そこに立ち止まった。すると同時に、ふとある想念がまざまざと彼の心を照らした――それはちょうど、彼を底の底まで驚かそうと待ち構えてでもいたような風であった。
『いったい俺はいまなんのために、なんの用であの女のとこへ行ったのだろう? 俺はあれに、用があって来たと言った。いったいどんな用なんだ? なんの用もありゃしなかったんだ! これから行くと断わるためか? いったいそれがなんだろう! そんな必要がどこにあるのだ! それとも、俺はあの女を愛してでもいるのだろうか? だって、そんなことはないじゃないか? そんなことはないはずだ! 現に今もあの女を、犬のように追っ払ったじゃないか。ではほんとうにあの女から十字架を、もらわねばならぬ必要があったのだろうか? ああ、どこまでおれは堕落だらくしたものだろう! いや、俺はあの女の涙がほしかったのだ! 俺はあの女のびっくりする様子が見たかったのだ! あの女の心が痛み苦しむところが見たかったのだ! なんでもいいすがりついて、時間が延ばしたかったのだ、人が見たかったのだ! ああ、俺はよくも自分に望みをかけようとしたものだ、よくもあんなうぬぼれが持てたものだ! 俺は乞食だ、俺はやくざな卑劣漢だ。卑劣漢だ!』
 彼は掘割の河岸通りを歩いていた。もう歩くところはいくらも残っていなかった。けれど、橋まで行きつくと、彼はしばし立ち止まった。と、ふいに脇へそれて橋を渡り、乾草広場センナヤの方へ歩いて行った。
 彼はむさぼるように左右を見回して、一つ一つのものに緊張した視線を向けたが、何ものにも注意を集中することができなかった。何もかもすべり抜けるのであった。『今に一週間か一月たったら、俺はあの囚人馬車に乗せられてこの橋を渡り、どこかへ連れられて行くのだろう。その時俺はどんな風にこの掘割をながめるだろう――これを覚えておきたいものだ?』こういう考えが彼の頭にひらめいた。『ほら、あの看板にしても、その時俺はあの字をどんな気持で読むだろう? ああ、あすこに「会社」と書いてある。ところであのAを、Aという字を覚えておいて、一か月後にあのAの字を見たら、その時俺はどんな気持で見るだろう? その時俺はいったいなんと感じるだろう、何を考えるだろう?……だが、こんなことはみな実に下劣なものに相違ない――今の俺のこうした心配は! もちろん、これはみんな興味のあることに相違ない……一風変わったものとして……(は、は、は! いったい俺は何を考えているのだろう!)俺は子供になってしまった。俺は自分で自分にからいばりして見せているのだ。ふん、なんのために俺は自分で自分を恥じてるんだろう? ちょっ、やたらにみんなぶっつかりやがる! ほら、いま突き当たったあの太っちょは、きっとドイツ人に違いない、いったい誰に突き当たったのか知ってるだろうか? それから、子供を連れた女房が物ごいをしてるが、あの女、俺を自分より幸福だと思ってるから面白いて! どうだろう。一つ面白半分に施しをしてみたら。や、ポケットにまだ五カペイカ残っているぞ、どこから出て来たのだろう? さあ、さあ……とっておおき、おっ母さん!』
「神さまのご守護がありますように!」こういう女乞食こじきの泣くような声が聞こえた。
 乾草広場センナヤへはいった。彼は人混みにまじるのが不愉快だった。たまらなく不愉快だったけれど、彼はわざと人のたくさん見える方へ進んで行った。彼はたった一人でいるためには、この世のあらゆるものを投げ出したいくらいだったが、しかしもう一分間も一人でいられないのを、彼は自分でも感じていた。人混みの中で、一人の酔漢が醜態を演じていた。なんだかしきりに踊りたがっていたが、のべつ横の方へ倒れかかってばかりいるのだ。群衆が男をとり巻いた。ラスコーリニコフは人々を押し分けて、しばらく酔漢をながめていたが、ふいに短かい引っちぎったような笑い声を立てた。しかし一分もたつと、彼はもうそんなことなど忘れてしまい、現にその男を見ていながら、目にはいらないほどであった。とうとう彼は、自分が今どこにいるかさえ覚えないで、そこを離れた。が、広場のまんなかまで行った時、突然彼の内部にある衝動が起こった。ある感じが一時に彼を領して、身心の全幅をとらえつくした。
 彼は急にソーニャのことばを思い出したのである。「四つつじへ行って、みんなにおじぎをして、地面へ接吻せっぷんなさい。だって、あなたは大地に対しても罪を犯しなすったんですもの。そして、大きな声で世間の人みんなに、『わたしは人殺しです!』とおっしゃい」このことばを思い出すと、彼は全身をわなわなと震わせ始めた。この日ごろ、ことにこの四、五時間の、出口もないような悩ましさと不安は、すっかり彼を圧倒しつくしたので、彼はこの新しい、充実した渾然こんぜんたる感情の可能性へ飛び込んでいった。それは一種の発作のように、突如として彼を襲い、彼の心の中で一つの火花をなして燃え上がり、たちまち火焔かえんのごとく彼の全幅をつかんだのである。そのせつな、彼の内部にあるいっさいが解きほぐれて、涙がはらはらとほとばしり出た。彼は立っていたままその場も動かず、地面へどうと打倒れた……
 彼は広場のまんなかにひざを突いて、土のおもてに頭をかがめ、歓喜と幸福を感じながら、そのきたない土に接吻した。彼は立ち上がって、もう一度身をかがめた。
「どうだ、酔いくらいやがって!」と彼のそばにいる一人の若者が言った。
 どっと笑い声が起こった。
「こりゃエルサレムへ行くんだよ、皆の衆。子供たちや生まれ故郷に別れを告げて、世間の人たちに挨拶あいさつしてるんだよ。サンクト・ペテルブルグの都と、その地面に接吻しているんだ」と町人の中で誰か一杯きげんらしいのが、こう言い足した。
「まだ生若なまわかい男だぜ!」ともう一人が口をはさんだ。
「ただの平民じゃないよ!」と誰かがもったいぶった声で言った。
「いまどき、誰が平民で誰が士族か、そんな見分けがつくもんか」
 すべてこうした叫びや話し声が、ラスコーリニコフの気持を控えた。もう舌の先まで出かかっていた『わたしは人を殺しました』ということばも、そのまま消えてしまった。とはいえ、彼は落ち着き払って、こうした叫び声を聞き流しながら、あたりを見向きもせずに横町を通り抜け、まっすぐに警察をさして歩き出した。途中ある一つの幻がちらと目に映ったが、彼は別に驚きもしなかった。それはもうそうなければならぬ、と予感していたのである。彼が乾草広場センナヤで二度目に地面へ身をかがめた時、ふと左の方をふり向いた拍子に、五十歩ばかりへだてたところにソーニャの姿を認めたのである。彼女は広場にある木造バラックの一つに、彼の目にかからぬよう身をひそめていた。してみると、彼女はずっと始終、彼の悲しい歩みにしたがっていたのである! ラスコーリニコフはこの瞬間、今こそソーニャが永久に自分を離れることなく、運命がどこへ彼を導いて行こうと、世界の果てまでもついて来るに違いないとはっきり直感し、了解したのである。彼の心はにえ返るようであった……けれど、もうのっぴきならぬ場所にたどり着いていた……
 彼はかなり元気よく構内へはいって行った。三階まで上らなければならなかった。『まだのぼって行く間がちょっとあるな』と彼は考えた。概して、運命的フェータルな瞬間はまだ遠く彼方にあって、だいぶ時間が残っている、まだいろいろなことを考え直すことができる、というような気がしていた。
 またしてもらせん形の階段は、依然としてほこりだらけで、依然として何かの殻がごろごろしていた。またしても各アパートのドアがあけ放しになってい、またしても方々の台所からは、依然たる炭気と臭気が漏れてくる。ラスコーリニコフはあの時以来、ここへ来るのは初めてだった。彼の足は麻痺まひしてがくがくと膝頭が曲がったけれど、それでも歩き続けた。彼は身なりを正して、人間らしくはいって行くために、一息入れようと、わずかの間立ち止まった。『だがいったいなんのためだ? どういうつもりだ?』自分の動作の意味を考えてみて、突然彼は考えた。『もうどうせこの杯を飲みほさなくちゃならんとすれば、要するに同じことじゃないか? 見苦しければ見苦しいほど、結局かえっていいのだ』この瞬間かれの想像裡そうぞうりに、火薬中尉イリヤー・ペトローヴィッチの姿がちらと映った。『いったいほんとうにあの男のところへ行ったものだろうか? ほかの人じゃいけないのか? ニコジーム・フォミッチ(署長)じゃいけないだろうか? すぐに引っ返して、まっすぐに署長の家へ行こうか? 少なくとも、家庭的に事がすむわけだ……いや、いや! 火薬中尉のところがいい、火薬中尉のところが! どうせ飲むなら、何もかも一度に飲みほしてしまえ……』
 総身にさっと寒けを感じながら、ほとんどおのれを意識しないほどの気持で、彼は警察の事務室のドアをあけた。今度は署内にもいたって人は少なく、ただ庭番が一人と、ほかに平民らしいのが一人いるきりだった。小使も自分の居場所になっている仕切りの陰から、顔を出そうともしない。ラスコーリニコフは次の間へ通った。『ことによると、まだ言わなくてもいいかもしれんな』という想念が彼の頭にひらめいた。そこには一人平服を着た書記らしい男が、事務卓ビュローに向かって何やら書く身構えをしていたし、隅の方にはもう一人の書記がしりの落ち着きを直していた。ザミョートフはいなかった。ニコジーム・フォミッチもむろんやはり来ていない。
「どなたもおられないんですか?」とラスコーリニコフは事務卓ビュローの男に問いかけた。
「誰にご用なんです?」
「や、や、や! 声も聞かず、顔も見ないが、ロシア人のにおいがする! という文句が何かの昔ばなしにありますな……忘れてしまったが、やあ、いらっしゃい!」突然聞き覚えのある声がこうどなった。
 ラスコーリニコフの体はぶるぶる震え出した。彼の前に火薬中尉が立っていた。彼はだしぬけに三つ目の部屋から出て来たのである。『これはまったく運命の仕業だ』とラスコーリニコフは考えた。『なぜこの男がここにいるんだ?』
「われわれを訪ねてみえたんですか? なんのご用で?」とイリヤー・ペトローヴィッチは叫んだ(彼は見たところごくごくの上きげんで、ほんの心もち興奮しているらしかった)。「もし用で見えたのなら、まだ早すぎましたよ。こういう我輩も偶然来合わしたようなわけでね……しかし、できることならなんでも。我輩は正直なところあなたに……ええと、ええと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです」
「ああ、そう、ラスコーリニコフ! あなたはまさか、我輩が忘れたのだなんて、お考えになりゃしないでしょうな! どうかお願いですから、我輩をそんな人間とお思いなさらんように……ロジオン・ロ……ロ…… ロジオーヌイチ、確かそうでしたな?」
「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そう、そう! ロジオン・ロマーヌイチ! ロジオン・ロマーヌイチ、それを我輩もいろいろ苦心して、なん度も調べたくらいですよ。我輩は白状しますが、あの時以来、心から遺憾いかんに思っていたのです。あの時われわれがあなたに対して、その……我輩はあとで説明を聞きましたが、あなたは青年文学者というより、学者といってもいいくらいで……いわば……その第一の試みだということで……まったく、そうですとも! ねえ、いったい文学者や学者で、手はじめに奇想天外的な第一歩を踏み出さない人が、およそ誰かあるでしょうか! 我輩も家内も――二人とも文学を尊重している方でしてな、ことに家内などは夢中なくらいですよ! 文学と芸術にね! 人間ただ高潔でさえあれば、ほかのものはすべてなんでも、才能と、知識と、理性と、天才で獲得できますからね! 帽子――たとえば、帽子なんかいったいなんです? 帽子は薄餅プリンも同じことで、そんなものはチムメルマンの店で買えます。けれど、帽子の下に守られるもの、帽子でおおわれるものになると、もう買うわけにいきませんて!……実をいうと、我輩はあなたのお宅へ釈明に上がろうとさえ思ったのです。けれど、また事によったら、あなたもなんだろう……と思いましてな。いや、それはそうと、お尋ねもしないでおりましたが、あなたはほんとうに何かご用ですか? 聞けば、あなたのところへ身内の方がみえたそうですね?」
「え、母と妹が」
「いや、お妹さんにはもう拝顔の光栄と幸福を得ましたよ――教養のある美しい方ですな。実をいうと、我輩はあの時あなたを相手に、ああまで興奮し合ったのを、遺憾千万に思いましたよ。変な事でしたな! あの時我輩はあなたの卒倒を一種特別な目で見ましたが――それもあとで、きわめて明瞭めいりょうな解釈が得られましたよ! 狂信です、ファナチズムです! あなたが憤慨されたのもごもっともですよ。で、ご家族がみえたのを機会に、住まいでもお変わりになるのですかな!」
「い、いや、僕はただその……僕はちょっとお尋ねしようと思って寄ったんです……ザミョートフ君が来ておられるかと思って」
「ああ、そうですか! あなた方は仲よしになられたんでしたっけね。聞きましたよ。ところが、ザミョートフはここにおりません――お気の毒さま、さよう、われわれはアレクサンドル・グリゴーリッチを失いましたよ! 昨日から現存しないわけです。転任したんで……しかも、転任して行きがけに皆と喧嘩けんかまでしたんですからね……もう無作法と言っていいくらいですて……軽率な小僧っ子、それっきりですよ。将来のぞみを嘱するに足りそうでしたがね。しかしまあ、あの連中と――このごろの華々はなばなしい青年諸君と、ちょっとしばらく一緒にやってごらんなさい! あの男は何か試験を受けるとか言ってるんだけれど、このごろのはちょっと何かしゃべって、少しばかり空威張りしてみせると、それで試験はおしまいなんですからな。そりゃ全く、たとえばあなたとか、あなたの親友のラズーミヒン氏なんかとはまるで違いますよ! あなたの専門は学問の方だから、けっして失敗なんかにめげるようなことはありゃしません! あなたにとっては人生のあらゆる美も、いわば―― Nihil est(空の空で)で、あなたはつまり禁欲主義者であり、修道士であり、隠者であるわけでしょう!……あなたにとっては、本とか、耳にはさんだペンとか、学術的研究とかが大切なので、こういうものの間に精神が高翔こうしょうしているんです! 我輩も多少はその……ときに、あなたはリヴィングストンの手記をお読みになりましたか?」
「いや」
「ところが、我輩は読みましたよ。もっとも、このごろやたらに虚無主義者ニヒリストがはびこってきましたな。しかし、それも当然な話で、時代がこういう時代ですからな。え、そうじゃありませんか? もっとも、我輩はあなたと……ねえ、あなたはもうむろん、虚無主義者ニヒリストじゃありますまいね? どうか腹蔵なく答えてください、腹蔵なく!」
「い、いいや……」
「いや、どうぞ我輩には腹蔵なくやってください、どうぞ自分一人きりのつもりで、遠慮なく話してください! 但し、職務スルージバは別問題ですがな、こりゃ別問題です……あなたは我輩が友情ドルージバを言いそこなったとお思いですか。いや、そりゃご想像ちがい! 友情ドルージバじゃありません。市民として、人間としての感情です。人道的感情、全能なる神に対する愛の感情です。我輩も職務に当たっては、一個の公人にもなり得ますが、しかし、我輩は常におのれを市民であり、人間であると感じ、その責任を完了せんけりゃならんのです……今あなたはザミョートフのことを言われましたが、ザミョートフなんか、あの男はけしからぬ場所へ出入りして、シャンパンやぶどう酒などを飲みながら、フランス風の醜態を演じようというやつです――あなたのザミョートフはこんな男ですよ! ところが、我輩は忠誠と高潔な感情に燃えておりましてな、その上に身分もあり、官等もあり、ちゃんとした地位も占めております! それに家内もあって、子供も持っている。市民として、人間としての義務をも履行しております。ところでお尋ねしますが、あのザミョートフはそもそも何ものです? 我輩はあなたを教養のある、品位の高い人としてお話ししてるんですよ。ときに、あの産婆ってやつがやたらにふえていきますなあ」
 ラスコーリニコフはいぶかしげに眉を上げた。見うけたところ、つい今しがた食卓を離れたばかりらしいイリヤー・ペトローヴィッチのことばは、大部分くうなそうぞうしい響きとなって、彼の前にまき散らされるのであった。しかし、一部はそれでもどうにかこうにか頭へはいった。彼はいぶかしげに相手をながめながら、この結末がいったいどうつくのか見当が立たなかった。
「我輩が言うのは、例の髪を短かく切った娘たちのことなんで」と話ずきなイリヤー・ペトローヴィッチはことばを続けた。「我輩はやつらに産婆とあだ名をつけてやったんですよ。そして、このあだ名が実によくはまってると思うんで、へ、へ! あの連中はずうずうしく大学へはいって、解剖学なんか習ってる。しかしねえ、どうでしょう、もし我輩が病気にかかるとしたら、あんな娘っ子を治療に呼べるものですかね、へ、へ!」
 イリヤー・ペトローヴィッチは自分の洒落しゃれにすっかり満足して、からからと高笑いした。
「そりゃまあ、文明開化に対する限りない渇望のためかもしれませんさ。しかし、開化したんだから、それでたくさんじゃありませんか。何も濫用することはないはずだ。あのやくざ者のザミョートフみたいに、何も高潔なる人格を辱しめる必要はないはずだ。なんのためにあの男は我輩を侮辱したのでしょう? 一つうかがいたいもんで。ああ、それからまたあの自殺のふえたことはどうです――とてもあなた方の想像も及ばんくらいですよ。それが皆一カペイカもなくなるまで使ってしまって、自分で自分を処決するんです。ちっぽけな娘っ子も、小僧っ子も、老人も……現につい今朝も、最近上京したある紳士のことで報告がありましたっけ。ニール・パーヴルイチ、おい、ニール・パーヴルイチ、さっき報告の来た紳士は、なんといったっけね? ほら、ペテルブルグ区で拳銃けんじゅう自殺をした」
「スヴィドリガイロフです」と誰やら隣りの部屋から、しゃがれ声でにべもなく答えた。
 ラスコーリニコフは思わずぴくりとした。
「スヴィドリガイロフ! スヴィドリガイロフが自殺した!」と彼は叫んだ。
「え! あなたはスヴィドリガイロフをご存じなんですか?」
「ええ……知ってます……ついこのあいだ来たばかりです……」
「そう、このごろ上京したばかりです。細君をなくしたんだが、身持のよくない男でしてね。それが急に拳銃自殺をやったんです。しかも、お話にならないような醜態でしてな……手帳の中には、自分は正気で死ぬのだから、自分の死因で人を疑ってくれるなということが、二言三言書き残してありました。この男は金を持っておったそうですがね。どうしてあなたはご存じなんです?」
「僕は……知合いなんです……妹がその男のところへ家庭教師で住みこんでいたので……」
「おや、おや、おや……してみると、あなたはあの男のことで、何かお話しくださることがおできですね。あなたはそんな風の疑いをいだかれたことはありませんか?」
「僕は昨日あの男に会いました……酒を飲んでいましたが……僕なんにも知りません」
 ラスコーリニコフは何やら上から落ちてきて、自分をおしつけたような気がした。
「あなたはまた顔色が悪くなられたようだ。ここはどうも空気の流通が悪いから……」
「ええ、僕もうおいとましなくちゃ」とラスコーリニコフはつぶやいた。「では、ごめんください、おじゃましました……」
「どういたしまして、どうぞいくらでも……おかげで愉快でした。我輩よろこんでそう言明しますよ……」
 イリヤー・ペトローヴィッチは、手まで差し伸ばした。
「僕はただ……僕はザミョートフ君のところへ……」
「わかってます、わかってます。おかげで愉快でした」
「僕も……非常にうれしいです……さようなら……」ラスコーリニコフはにこりと笑った。
 外へ出た。彼はよろよろしていた。頭がぐるぐる回るようだった。彼は自分が立っているのかどうか、それさえ感じなかった。右手を壁に突っぱりながら、彼は階段をおり始めた。帳簿を手に持ったどこかの庭番が、下から警察をさして上がってきながら、とんと突き当たったような気がした。犬がどこか下の階段でけたたましくほえ立てていると、一人の女がそれに麺棒めんぼうを投げつけて、わめいていたような気もした。彼は下までおりきって構内へ出た。と、そこには出口のかたわら近く、死人のように真っ青な顔をしたソーニャが立っていて、なんともいえない恐ろしい目つきで彼を見つめていた。彼はその前に立ち止まった。何かしらいたましい、悩み抜いたような表情が、彼女の顔に浮かんでいた。それは一種絶望的な表情である。彼女ははたと両手をうち合せた。見ぐるしい途方にくれたような微笑が、彼の唇に押し出された。彼はしばらく立っていて、やがてにたりと笑うと、また階上の警察へ引き返した。
 イリヤー・ペトローヴィッチはどっしりすわりこんで、何かの書類をかき回していた。その前には、今しがた階段を上りながら、ラスコーリニコフに突き当たった、例の百姓男が立っていた。
「あーあーあ! あなたはまた! 何か忘れものでもなすった?……だが、いったいあなたはどうなすったんです?」
 ラスコーリニコフは血の気のうせた唇をして、目をじっとすえたまま、静かに彼の方へ近づいた。テーブルのすぐ傍まで行くと、それに片手を突っぱって、何か言おうとしたが、言えなかった。ただ何かとりとめのない響きが聞こえるばかりだった。
「あなたは気分が悪いんでしょう、おい椅子だ! さあ、この椅子へおかけなさい! おい、水!」
 ラスコーリニコフは椅子の上へぐたりと腰をおろしたが、きわめて不愉快な驚きに打たれている火薬中尉の顔から少しも目を離さなかった。二人は一分間ほど互いに顔を見合わせながら待っていた。水が来た。
「あれは僕が……」とラスコーリニコフは言いかけた。
「水をお飲みなさい」
 ラスコーリニコフは片手で水をおしのけ、低い声で一語一語間をおきながらもはっきりと言いきった。
あれは僕があの時官吏の後家の婆さんと妹のリザヴェータを斧で殺して、金や品物を強奪したのです
 イリヤー・ペトローヴィッチはあっとばかり口をあけた。四方から人々がはせ集まった。
 ラスコーリニコフは自分の口供をくり返した……
 ……………………………………………………………………………………………………
[#改ページ]


エピローグ



 シベリア。茫漠ぼうばくたる大河の岸に、ロシアの行政中心の一つとなっている市街がある。街には要塞ようさいがあり、要塞の中に監獄がある。監獄の中にはもう九か月というもの、第二級徒刑囚ロジオン・ラスコーリニコフが禁錮きんこされていた。彼の犯行の日から、ほとんど一年半の歳月が流れた。
 彼の犯罪に関する裁判は大した困難なしに終了した。犯人は事情を紛糾させることもなく、自己を有利にするために事実を曲げたり、状況をやわらげたりすることもなく、いかなる微細な点をも忘れず、きっぱりと正確明瞭に自分の口供を裏書した。彼は殺人の全過程を一分一厘も漏れなく詳述し、殺された老婆の手中に発見された質物(薄い金をはさんだ板切れ)の秘密を明瞭めいりょうにした。それから殺した老婆の手からかぎを取った模様を詳しく物語り、その鍵の形まで説明し、長持そのものとその内容を説明した。それのみか、中にあった個々の品物さえ二、三点数え上げた。彼はまたリザヴェータ殺害の謎をも解いて聞かせ、コッホが来てドアをたたいたことや、そのあとから大学生がやって来て、二人がかわした話の内容まで物語った。それから犯人の彼が階段を駆けおりて、ミコールカとミーチカのきゃっきゃっという叫び声を聞き、空家のアパートに隠れていて、それから家へ帰った一部始終を述べ、最後にヴォズネセンスキイ通りのとある邸内の門の下に、石材のあることを明示した。はたしてその下からは、贓品ぞうひんや金入れが発見された。一口に言えば、事件は明々白々となったのである。とりわけ予審判事や裁判官たちは、彼が金や物品を使いもせず、石の下に隠していたことに驚いたが、しかしそれにもまして、彼が自分の盗んだ代物しろものの詳細を知らないのみならず、その点数さえ誤っていたことに、深く驚かされたのである。彼が一度も金入れを開かないで、その中に、いくら金がはいっているかさえも知らなかった事実は、ことにありうべからざることに思われた(金入れの中には三百十七ルーブリの紙幣さつと、二十カペイカ銀貨が三つはいっていた。長い間石の下敷になっていたために、上の方にあった大きい紙幣さつの二、三枚はひどくいたんでいた)。ほかのことは細大もらさず、進んで正直に白状しているのに、なぜ被告はただこれ一つだけ嘘をつくのか? この点をつき止めるのに、人々は長いこと苦心した。結局ある人々は(特に心理学者は)、彼がじっさい金入れの中をのぞかなかったこと、したがってその中に何があったか知らないままに、石の下へ隠してしまったということは、ありうべき場合だと承認したが、それと同時に、犯罪そのものもある一時的な精神錯乱によるもので、それ以上なんらの利得を目的とする打算のない、強盗殺人の病的偏執狂モノマニアから生じたので、それ以外の何ものでもないという結論に達した。ちょうどそこへ、今日しばしばある種の犯人に適用しようと努めている、一時的精神錯乱という最新流行の理論が加勢にはせ参じた。なおその上に、ラスコーリニコフの痼疾こしつ的なヒポコンデリイ症状が、医師のゾシーモフや、昔の学友や、下宿のおかみや、女中や、その他多くの証人によって、確実に証明された。こうしたすべての事情は、ラスコーリニコフがありふれた殺人犯や、強盗や物とりなどとはまったく似ても似つかぬもので、そこには何かもっと違ったものがある、と論結させる上にあずかって力があった。ただこの意見をとった人々が、この上もなく遺憾に思ったのは、犯人自身がほとんど自己弁護をしようとしなかったことである。いったい何が彼をかって殺人におもむかしたか、また何が彼をかって掠奪りゃくだつを行なわせたか、といういよいよ最後の質問を受けたとき、彼はきっぱりと明瞭に、思い切り乱暴なほど正確な語調で、いっさいの原因は彼の苦しい状態であり、赤貧であり、頼りない境遇であると答え、老婆を殺したら手にはいるものと当てにしていた、少なくも三千ルーブリの金を土台にして、出世の第一歩を確実にしようと望んだのであると言った。彼が殺人を決心したのは、自分の薄志狭量にかてて加えて、窮乏と不遇のためにいらだちやすくなった性格から来たのである。では、自首を決心した動機は何かという尋問に対して、彼は心底からの悔悟だと端的に答えた。これらはすべて、ほとんど乱暴といっていいくらい無造作であった……
 とはいえ判決は、人々が犯行から推して期待していたよりは、はるかに寛大なものであった。これはまったく犯人が自己弁護をしようとしなかったばかりか、かえって自分の方から、できるだけ罪を重くしようとする気持を示したからである。そして、この事件の有している奇怪な特殊な点が、ことごとく考量にとり入れられた。犯罪遂行前の犯人の病的な痛ましい心の状態は、いささかも疑いをさしはさまれなかった。彼が贓品を利用しなかった事実は、一部は悔悟の念のきざしてきた影響と、一部は犯行当時の精神能力が十分健全でなかったためと判定された。思いがけなくリザヴェータを殺したことも、かえってこの想定を裏書する実例として役立った。二度まで殺人を行なった人間が、しかもそれと同時に、ドアのあけ放しになっているのを忘れていたのである! また最後に、意気悄沈しょうちんした狂信者ニコライの虚偽の自白があったために、事件が並々ならず紛糾していた上、真犯人に対して明白な証拠どころか、ほとんど嫌疑さえかけられていなかったにもかかわらず(ポルフィーリイは完全に約束を守ったので)、そうした時に自首して出たということ、これらすべてが相寄り相たすけて、いよいよ被告の運命を緩和する助けになったのである。
 なおその他にまったく思いがけなく、被告にとって非常に有利な事情が、もう一つ現われたのである。もとの大学生ラズーミヒンが、どこから掘り出したのか、被告ラスコーリニコフが大学在校当時に、なけなしの財布の底をはたいて、貧しい肺病患者の一学友を補助し、ほとんど半年間も面倒を見てやったという情報をもたらして、有力な証拠を提供したのである。彼はその学友が死んでしまうと、あとにとり残された老衰している亡友の父を世話してやった(この学友はまだ十三になるやならずの時から、自分の働きで父親を養っていたのである)。そしてついにはこの老人を病院へ入れ、これも同じく死んでしまった時、弔いまでしてやったとのことである。すべてこれらの事情は、ラスコーリニコフの運命の決定にかなりよき影響を与えたのである。前の下宿のおかみで、なくなったラスコーリニコフの許嫁いいなずけの母に当る寡婦やもめのザルニーツイナも[#「ザルニーツイナも」はママ]」、彼らがまだ五つ辻ピャーチ・ウグロフの家に住まっていた当時、ラスコーリニコフがある夜中の出火に際して、もう火の回った一軒の住まいから、二人の幼い子供を救い出し、そのために火傷やけどまでしたことを証言した。この事実は綿密にとり調べられ、多くの証人によってかなり十分に証明された。結局、一口に言えば、犯人がいさぎよく自首したことと、その他二、三の酌量すべき情状を尊重して第二級懲役を宣せられ、刑期もわずかに八年と決まったのである。
 まだ裁判の初めごろから、ラスコーリニコフの母は病気になった。で、ドゥーニャとラズーミヒンはこの裁判の間じゅう、彼女をペテルブルグから連れ出すことにした。ラズーミヒンは裁判の模様を細大もらさず正確に知ると同時に、できるだけ多くアヴドーチャ・ロマーノヴナと会えるように、ペテルブルグからほど遠からぬ鉄道沿線の一市街を選んだ。プリヘーリヤの病気は一種奇妙な神経病で、しかも全然とは言えないまでも、多少は精神錯乱の徴候を伴っていた。ドゥーニャが兄と最後の面会から帰ってみると、もう母親はすっかり病人になっており、熱に浮かされながらうわ言を言っていた。その日の晩に、彼女はラズーミヒンと相談して、母から兄のことを聞かれた場合、なんと答えたらよいか申し合せをして、ラスコーリニコフは、将来金と名声をもたらすべきある非公式の依頼を受けて、どこか遠い国境地方へ出立したという、一条の物語さえ母のために考え出したくらいである。けれども、二人の驚いたことには、プリヘーリヤはこの点について、当時ばかりかその後になっても、何一つ尋ねようとしなかった。それどころか、彼女自身も息子の急な出発について、一条の物語を作り上げているのであった。彼女は涙ながらに、ロージャが彼女のところへ暇乞いとまごいに来た時の模様を話した。それから彼女一人だけが、きわめて重大な秘密の事情を知っているということや、ロージャには非常に有力な敵がたくさんあるので、一時身を隠さなければならないのだということなどを、それとなしにほのめかすのであった。彼の将来の身の収まりという段になると、二、三の面白からぬ事情さえ済んでしまえば、疑いもなく華々しいものになるに相違ないと、彼女は思い込んでいるのであった。彼女はラズーミヒンをつかまえて、息子はやがてそのうちに国家的な人物になるだろう、それは彼の論文と華々しい文学的才能が、ちゃんと証拠立てていると言い張った。この論文を彼女はのべつひっきりなしに読んだ。時には音読までするくらいで、それこそ抱いて寝ないばかりだった。が、それでも、現在ロージャはどこにいるかという段になると、みなが話をさけているのが見え透いていて、それだけでも疑いを呼び起こすのに十分だったが、にもかかわらず、彼女はこのことを聞こうとしなかった。で、とうとう彼らは、二、三の点に関するプリヘーリヤの奇怪な沈黙を、心配するようになった。たとえば、以前田舎の町にいた時は、かわいいロージャの手紙が少しも早く来るようにと、その希望と期待だけで生きていたのに、今は彼から手紙の来ないことを少しも哀訴しなくなってしまった。このことはもうあまりと言えばあまりに説明のできないことなので、ひどくドゥーニャを不安にした。彼女の頭にはこういう考えが浮かんだ――事にたったら、母は息子の運命に何かしら恐ろしいことを予感していて、この上もっと恐ろしいことを知らされはしないかと、いろいろ詳しく尋ねるのを恐れているのではあるまいか。いずれにもせよ、ドゥーニャは母の頭がほんとうに健全な状態でないのを、明瞭めいりょうに見てとったのである。
 もっとも、二度ばかり母親の方から、今ロージャがどこにいるかを答えずにいられないようなぐあいに、話を持って行ったことがある。その返辞がいやでも応でも、あいまいな、うさんくさいものになってしまったとき、彼女は急に恐ろしく悲しげに気難かしく、黙りこんでしまい、それがいつまでも続いた。でとうとうドゥーニャは嘘をついたり、細工をしたりするのが難かしいのを悟って、二、三の点に関してはまったく沈黙を守った方がよいという、最後の結論に到着した。しかし、あわれな母親が何か恐ろしいことを疑っているのは、だんだん明瞭すぎるほど明瞭になってきた。それやこれやの間にドゥーニャは、最後の運命的フェータルな日の前夜、スヴィドリガイロフとあの恐ろしい一場を演じた後、彼女が夜中にうわ言を言ったのに母が耳を澄ましたそうだから、ことによったら、その時何か聞き分けたかもしれない、と言った兄のことばを思い出した。しばしば――時によると幾日も幾週間も、気むずかしい陰鬱いんうつな沈黙と無言の涙が続いたあとで、病人はなんとなくヒステリックに元気づき、突然声に出して、息子のことや、自分の希望や将来のことなどを、ほとんどやみ間なしにしゃべり出すことがあった……彼女の想像は時とすると、きわめて奇怪なものだった。二人は彼女をなぐさめて、一生懸命にあいづちを打った。彼女自身もおそらくは、二人がただ気休めに、あいづちをうっているにすぎないのを、はっきり知っていたかもしれないが、彼女はやっぱり話し続けた……
 犯人の自首から五か月たって、判決がくだった。ラズーミヒンはできうる限り牢内で彼と面会した。ソーニャも同様だった。ついに別離の時が来た。ドゥーニャは兄に向かって、この別離は永久のものでないと誓った。ラズーミヒンも同様である。ラズーミヒンの若々しく熱しやすい頭には、この三、四年の間にできる限り、せめて将来の地位の基礎だけでも作り、いくらかなり貯えをした上、あらゆる点において土地が豊穣で、働き手と資本の少ないシベリアへ移住しようという計画が堅く根を張っていた。そこでロージャのいる町に居を定め、そして……みんな一緒に、新しい生活を始めようというのである。別れぎわには誰もかれも泣いた。ラスコーリニコフは最後の三、四日間、非常に考え込んでしまって、いろいろ母親のことを根ほり葉ほり尋ね、たえず彼女の上を心配していた。あまり心配ばかりするので、ドゥーニャが不安を感じ始めたほどであった。母の病的な気分について詳しいてん末を聞いてから、彼はいっそう憂鬱になった。ソーニャとはなぜかずうっと、特に口数が少なかった。ソーニャはスヴィドリガイロフが残してくれた金で、もうとっくにすっかりしたくをすまし、やがて彼の交じって行く囚徒の隊について、出かけて行く心構えをしていた。このことは彼女もラスコーリニコフも、まだたがいに一度も話し合ったことがなかったけれど、そうなるに違いないのは二人とも承知していた。いよいよ最後の別れの時、妹とラズーミヒンが出獄後の幸福な未来を熱心に誓ったとき、彼は奇怪な微笑を漏らしながら、母の病的な状態が近く不幸に終わるだろうと予言した。彼とソーニャはついに出発した。
 二か月の後に、ドゥーネチカはラズーミヒンと結婚した。結婚式はわびしい、しんみりしたものだった。もっとも、招待された人々の中には、ポルフィーリイとゾシーモフが交じっていた。最近ずっとラズーミヒンは堅く決意した人らしい様子をしていていた。ドゥーニャは、彼がいっさいの意図を実現するに相違ないと盲目的に信じ切っていた。また信じないではいられなかった。この男には鉄のごとき意志が見えていたからである。さまざまな事のある間にも、彼は大学を完全に卒業するため、また講義を聞きに通学を始めた。二人はたえず未来の計画を立てていた。五年後にはかならずシベリアへ移住しようと、二人ながら堅く決心していた。それまでは向こうにいるソーニャに望みをかけていたのである……
 プリヘーリヤは喜んで娘を祝福し、ラズーミヒンとの結婚を許した。しかしこの結婚後はなんだかいっそう沈みこんでしまい、よけい心配そうな様子になった。ラズーミヒンはちょっとの間でも母を喜ばせようと、ラスコーリニコフの学友と老衰したその父親に関する一件だの、去年ロージャが二人の幼児の命を救って、身に火傷を負ったばかりか、病気にまでなった事実を話して聞かせた。この二つの報告は、それでなくとも頭の調子の狂っているプリヘーリヤを歓喜のあまりほとんど有頂天にしてしまった。彼女はのべつこの話ばかりして、町へ出てまで人をつかまえて、その話を始めるのであった(もっともいつもドゥーニャが傍についてはいたけれど)。乗合馬車の中でも店屋でも、誰でもかまわず聞き手をつかまえて、自分の息子のこと、その論文のこと、学友を援助したこと、火事で負傷をしたことなどに話を向けるのであった。ドゥーネチカはどうして母を止めたらいいかと、とほうにくれるほどであった。こうして病的に興奮した気分そのものの危険もさることながら、その上にまだ、誰かがいつか裁判事件で有名になったラスコーリニコフの姓を思い出して、それを言い出さぬとも限らないので、その方の心配があったのである。プリヘーリヤは、火の中から救い出された幼児の母親の住所までも聞き出して、ぜひとも彼女を訪ねたいと言い出した。そのうちにとうとう彼女の不安は極度に激しくなった。彼女はどうかするとふいに泣き出したり、しょっちゅう病みついては、熱に浮かされてうわ言を言ったりした。ある朝、彼女はいきなり真正面から、自分の勘定によると、ロージャはもう間もなく帰って来るはずだ、あの子はわたしと別れて行く時に、九か月たったら帰るものと思ってくれと、自分で言ったのを覚えている、とこう言明した。それから始終うちの中を片づけて、わが子を迎える準備を始め、ロージャのものと決めた部屋(つまり自分自身の居間)の飾りにとりかかり、家具を清めたり、窓掛けを洗ったり掛けかえたりするのであった。ドゥーニャは心を痛めたが、なんにも言わないで、自分でも兄を迎えるために、部屋の片づけを手伝った。たえまのない空想と、よろこばしい夢と、涙の中に不安な一日を送った後で、彼女はその夜発病したが、翌朝はもう熱が高くなり、うわ言ばかり言うようになっていた。熱病が始まったのである。こうして、二週間後に彼女は死んでしまった。うわ言の間に彼女の口から漏れたことばによると、彼女ははたで想像していたよりもずっと深く、わが子の恐ろしい運命について疑念をいだいたものと断定することができた。
 ラスコーリニコフは長い間母の死を知らなかった――もっとも、彼がシベリアに落ち着いたその時から、ペテルブルグとの通信は規則的に行なわれていた。通信はソーニャを通してつづけられていたのである。彼女は毎月きちょうめんに、ラズーミヒンへあててペテルブルグへ手紙を送り、そして毎月きちょうめんにペテルブルグから返事を受け取った。ソーニャの手紙は初めのうちドゥーニャやラズーミヒンの目から見てなんとなくそっけなく、物足らぬように感じられたが、後になって彼らは二人とも、それ以上うまく書くのは不可能だと悟った。なぜなら、彼らは結局それらの手紙のおかげで、不幸な兄の運命についてこの上なく充実した、正確な観念を持つことができたからである。ソーニャの手紙はきわめて平凡な日常茶飯事と、ラスコーリニコフの獄中生活の環境に関する、いたって平凡明瞭な叙述にみたされていた。そこには彼女自身の希望の表明も、未来に対する想像も、自分自身の感情の発露もなかった。彼の精神状態とか、全体にその内面生活とか、そういうものを説明する代わりに、単なる事実の報告があるばかりだった。つまり、彼の言ったことばだとか、彼の健康状態に関する詳細な報告だとか、いついつの面会の時に彼がどういうものを望んだとか、彼女に何を頼んだとか、どういうことを委任したとか、そういった風のことである。しかも、これらの報告はすべて精密をきわめているので、結局、不幸な兄の面影が自然と浮き彫りになってき、正確明瞭に描き出された。そこには間違いなどのあろうはずがない。なぜなら、すべてが正確な事実だったからである。
 しかし、ドゥーニャとその夫はこれらの報告から、ことに最初の間は、あまり多くの喜びをくみとれなかった。ソーニャはたえず、彼がいつも気むずかしく、ことば数の少ないことを報じてきた。ペテルブルグから手紙を受けとるたびに、ソーニャがいろいろの報告を伝えてやっても、彼は少しも興味を持たないとのことであった。時に母親のことをたずねていたけれど、もうほぼ真相を察しているだろうと思ってソーニャがついに母の死を告げた時、驚いたことには、彼は母親の訃報ふほうにさえ大して動かされた様子はなかった。少なくとも、外面から判断するとそう思われたとのことである。とりわけソーニャの報知によると、彼は見たところ深く自分自身に沈潜して、まるでいっさいのものから自己を遮蔽しゃへいしているように見えるが、それにもかかわらず――自分の新しい生活に対しては、きわめて率直自然な態度をとっていた。彼は自分の境遇をはっきり了解して、近い将来に何一つよき変化を期待もせず、いっさい軽率な希望をいだこうともしないで(これは彼の境遇として当然なことであるが)、以前とは似ても似つかぬ新しい環境にとり巻かれたまま、ほとんど何事にも驚く様子がないのであった。またソーニャは彼の健康に少しも気づかいのない旨を報じた。彼は黙々と労役に出かけて行って、別段それをさける様子もないけれど、さりとて進んでしたがる様子もない。食物に対してはほとんど無関心であるが、この食物というのが日曜祭日以外は、いかにもひどいものなので、とうとう彼も進んで彼女――ソーニャからいくらかの金を受けとり、毎日きまって茶を飲むことにしたほどである。しかしそれ以外のことでは、あまり自分のためにそういろいろ心配してもらうといらいらするばかりだから、いっさいかまわないでほしいと堅くソーニャに断わった。それからなお彼女の報知によると、獄内における彼の監房は、みんなと共同だとのことであった。彼女は獄舎の内部を見たことはないが、そこは狭くてきたなくて、健康にわるいと断言している。彼は毛布を敷いて寝板の上にねむるのだが、それ以外にはどういう設備も望んでいない。けれど、彼がこんな粗末な、貧しい生活に甘んじているのは、けっしてあらかじめ考えた計画や意図によるのではなく、ただただ自分の運命に対する外面的な無関心と、不注意からきているにすぎない。ソーニャはまたつぎのようなことを知らせてきた。彼はことに初めの間、彼女の訪問を喜ばないのみか、かえって彼女にいまいましそうな顔を見せ、口もろくろくきかず、ほとんど無作法なくらいの態度をとっていたが、しまいにはこの面会が彼にとって習慣、というよりほとんど要求になってきて、この頃ではもし彼女が病気でもして、二、三日訪ねることができないような時には、非常にさびしがるようになったと、あからさまに報じている。二人の面会は日曜祭日に、監獄の門ぎわか衛舎内かで行なわれる。彼はそこへ四、五分間だけ呼び出されてくるのであった。平日は労役へ出るので、彼女はそちらへ出向いて行き、時には作業場、時には煉瓦れんが工場、時にはイルトゥイシュ河畔の小屋で会った。自身のことについては、ソーニャは町でいくたりの知合いや後援者ができて、仕立物などさしてもらっているが、町にはほとんど気のきいた婦人服屋がいないので、方々の家でなくてかなわぬ人間になった、というようなことを報じた。ただ彼女のおかげで、ラスコーリニコフが長官の保護を受け、労役なども軽減されている、などというようなことだけは筆にしなかった。やがて最後に(もっとも、ドゥーニャは彼女から受けとった最近の二、三通に何か一種特別な動揺と不安さえ認めていたが)、彼がいっさい人をさけるようにするので、獄内でも囚人たちが彼をきらうようになったし、彼自身も幾日も幾日も黙りこんでいるので、非常に顔色が悪くなっていく、という報告がとどいた。そのうちに突然ソーニャは最後の一通で、彼は非常な重患にかかり、監獄病院にはいっていると知らせてよこした。


 彼はもう久しくわずらっていた。しかし、彼の力をくじいたものは、牢獄生活の恐怖でも、労役でも、食物でも、り落とされた頭でも、つぎはぎだらけの着物でもなかった――ああ! 彼にとってこれしきの苦痛や呵責かしゃくがなんであろう! それどころか、彼はむしろ労役を喜んでいるくらいだった。労働で肉体的に苦しんだとき、彼は少なくとも安眠の数時間を獲得できるのであった。また彼にとって食物――たとえば、あの油虫のはいったのない汁がなんだろう! 学生時代の以前の生活では、それすら手にはいらないことがたびたびあった。着物は暖かくて、彼の生活様式に適当していた。足かせなど彼はまるで感じないくらいだった。剃り落とした頭やしるしのついた上着などを彼として恥ずかしがる筋がどこにあろう? また誰に対して? ソーニャに対してか? ソーニャは彼を恐れているのに、その彼女に対して恥じるわけがないではないか!
 ではなんだろう? 彼はソーニャに対してさえも身を恥じて、そのために侮蔑ぶべつにみちた粗暴な態度で彼女を苦しめたのである。しかし、彼が恥じたのは剃り落とした頭でも、足かせでもなかった。彼の自負心が極度に傷つけられたゆえである。彼が病気になったのも、この傷つけられた自負心のためであった。ああ、もし彼が自ら罰することができたら、どんなに幸福だったろう! そうしたら彼は恥でも屈辱でも、いっさいのものを堪え忍んだはずである。ところが、彼は峻厳しゅんげんに自己を裁いてみたけれど、たけり狂った彼の良心は、誰にでもありがちの単なる失敗を除いては、自分の過去にかくべつ恐るべき罪を見出みいださなかった。彼が恥じたのはほかでもない。彼ラスコーリニコフが盲目な運命の判決によって、かくまで盲目愚劣に、むざむざとなんの希望もなく身をほろぼし、もし多少とも心を落ち着けたいと思えば、得体のしれぬ判決の『無意味さ』と妥協し、その前に屈服せねばならぬということなのである。
 現在においては、対象もなければ目的もない不安、未来においては、何ものをも与えない不断の犠牲――これがこの世で彼を待っているいっさいである。八年たっても彼はまだやっと三十二で、また生活を新規まき直しにすることができるといったって、いったいそれになんの意味があろう! なんのために生きていくのだ? 何を目標におくのだ? 何に向かって突進するのだ? 存在せんがために生きていくのか? しかし、彼はもう以前から百ぺんも千べんも、思想のため希望のために、いやそれどころか空想のためにすら、自己の存在を投げだす覚悟をしていたのではないか。単なる存在そのものは、彼にとって常に多くの意義を持たなかった。彼は常々より多くのものを欲していた。おそらく彼は単に自分の欲求の力のみで、あの当時、他人に比べてより多くのものを許された人間と、自ら思いこんでいたのかもしれない。
 もし運命が彼に悔恨を送ったら! 心の臓を打ちくだき眠りを奪う焼けつくような悔恨、その恐ろしい苦痛に堪えかねて、縊死いし入水じゅすいさえ心に描かずにはいられないような悔恨を、もし運命が送ったら! おお、彼はそれをいかばかり喜んだかしれない! 苦痛と涙も要するにやはり生活ではないか。けれど彼は自分の犯罪を悔いなかったのである。
 少なくとも、われとわが愚劣さに憤懣ふんまんを感じることができたら、どんなに楽だったろう。以前彼は自分を囹圄れいごの人としたおのれの醜悪愚劣をきわめた行為に憤懣を感じたものであるが、しかし今は、もう牢獄の中にありながら自由になってしまった彼は、自分の過去の行為をもう一度残りなく吟味し、熟考してみたのであるが、かつて運命的な瞬間に感じられたほど、それほど醜悪愚劣なものとは、なんとしても考えられなかった。
『どういうわけで』と彼は考えた。『いったいどういうわけでおれの思想は、開闢かいびゃく以来この世にうようよして、たがいにぶっつかりあっているほかの思想や理論にくらべて、より愚劣だったというのだ? 完全に独立不羈どくりつふきな、日常茶飯事の影響から離脱した、広範な見方で事態を観察しさえすれば、その時はもちろんおれの思想も、けっしてそれほど……奇怪でなくなってくるのだ。おお、五カペイカ銀貨ほどの値打ちしかない否定者や賢人たち、なぜ君らは中途半端なところで立ちどまるのだ!』
『いったいどういうわけで彼らの目には、おれの行為がそれほどみにくく思われるのだろう?』と彼はひとりごちた。『それが悪事だからというのか? しかし、悪事とは何を意味するのだろう? おれの良心は穏かなものだ。もちろん、刑法上の犯罪は行なった。もちろん、法の条項がおかされ、血が流されたにちがいない。では、法律の条項に照らして、おれの頭をはねるがいい……それでたくさんなのだ! もちろんそうすれば、権力を継承したのではなくて、自らそれを掌握した多くの人類の恩恵者は、各々その第一歩からして、罰せられなければならなかったはずだ。しかし、それらの人々は自己の歩みを持ちこたえたがゆえに、したがって彼らは正しいのだ。ところが、おれは持ちこたえられなかった。したがって、おれはこの第一歩をおのれに許す権利がなかったのだ』
 つまりこの一点だけに、彼は自分の犯罪を認めた。持ちこたえられないで自首したという、ただその点だけなのである。
 彼はまたこういう思念にも苦しめられた――なぜ自分はあの時自殺しなかったのか? なぜあの時川のほとりに立ちながら、自首の方を選んだのか? いったいこの生きんとする願望の中には、かばかりの力がこもっていて、それを征服するのがかくも困難だったのであろうか? あの死を恐れていたスヴィドリガイロフでさえ、それを征服したではないか?
 彼は悩ましい思いをいだきながら、始終この問いを自分自身に発したが、もうあの時川のほとりに立ちながら、自分自身の中にも自分の確信の中にも、深い虚偽を予感していたかもしれないのを、彼は了解することができなかった。またこの予感が彼の生涯における未来の転機、未来の復活、未来の新しき人生観の先駆だったかもしれないのを、彼は悟ることができなかったのである。
 彼はむしろそこにただ本能の鈍い重圧のみを許容しようとした。彼はそれを引きちぎることもできなければ、またそれを踏み越えて行こうという力も、やはりなかったのである(つまり無力で意気地がないためである)。彼は獄中の仲間を見て、彼らが誰も彼も人並みに人生を愛し、かつ尊重しているのに一驚を喫した! まったく彼の感じたところによると、彼らは獄中にいる時の方が自由な時よりも、はるかに人生を愛し、尊重しているのであった。彼らの中のあるもの、たとえば浮浪漢などは、どんな恐ろしい苦痛や拷問を経験したかわからない。それにもかかわらず、たった一筋の太陽の光線や、蓊鬱おううつたる森林や、どこともしれぬ森の奥にたまたまみつけた冷たい泉などが、どうして彼らにあれほどの意味を持ちうるのだろう? たとえば、その泉を見つけたのはもう一昨年のことなのだが、浮浪漢はそれに再びめぐり合うのを、まるで恋人と逢引でもするように空想して、夢にまでその泉や、それをとり巻く緑の草や、木叢こむらにうたう小鳥などを見るほどである。じっと周囲の現象に見入れば見入るほど、彼はますますこうした説明のできぬ実例を無数に発見するのであった。
 彼は牢獄内や、自分をとり巻いている周囲の中に、もちろん、多くのものを認めなかったし、また頭から認めようともしなかった。彼は、いわば目を伏せたような風に生活していた。彼としては見るのがいまわしく、堪えがたいのであった。しかしだんだんそのうちに、色々なことが彼を驚かすようになった。彼はいつともなく、以前ゆめにも考えてみなかったことに、気がつくようになった。概して何より彼を驚かし始めたのは、彼自身とそれらすべての人々の間に横たわっている、かの恐ろしい越え難い深淵しんえんであった。彼と彼らはまるで違った人種のようだった。彼と彼らはたがいに不信と、敵意の目で見合っていた。彼はこうした乖離かいりの一般的な原因を知ってもいたし、また悟ってもいた。しかし以前はかつて一度も、この原因が実際かくまで根深く力強いものとは、仮想さえもしたことがなかった。獄内にはやはり流刑の国事犯であるポーランド人もいた。彼らはこうした人々全体を、単に無教育な奴隷扱いにして、頭から軽蔑していた。けれど、ラスコーリニコフはそんな見方ができなかった。彼はこれら無教育者が多くの点から見て、むしろ当のポーランド人たちよりもはるかに賢明なのを、明らかに見てとったのである。そこにはまた同様に、これらの人々を軽蔑し切っているロシア人もいた。それは一人の将校あがりと二人の神学生であった。ラスコーリニコフは彼らの誤謬ごびゅうをも、明瞭めいりょうに認めたのである。
 彼自身はどうかというと、一同は彼をきらって、さけるようにしていた。のみならず、ついには憎むようにさえなった――なぜだろう? 彼はそれを知らなかった。一同は彼を軽蔑し、彼を嘲笑ちょうしょうした。彼よりもずっと罪の重い犯人が、彼の犯罪を嘲笑するのであった。
「お前は旦那だんな衆じゃないか!」と彼らは言った。「お前はおのなんか持って歩く柄かね。そんなのは旦那衆のするこっちゃねえよ」
 大斎期の二週間目に、彼は同房の一同と共に精進する番になった。彼は教会へ行って、ほかのものと一緒に祈った。ある時何が原因だったか、彼自身にもわからなかったが――喧嘩けんかが持ち上がった。一同はものすごい勢いで、一度に彼に襲いかかった。
「この不信心者め! 手前は神さまを信じねえんだ!」と彼らは叫んだ。「手前なんかぶち殺してやらなきゃならねえ野郎だ!」
 彼は一度も神や信仰の話をしたことはなかったが、彼らは無神者として彼を殺そうとしたのである。彼は沈黙を守って、ことばを返そうとしなかった。一人の囚人はもうすっかり夢中になってしまい、彼に飛びかかろうとした。ラスコーリニコフは落ち着き払って、無言のまま待ち受けていた。彼はまゆひとつ動かしもせず、顔面筋肉一本の震えも見せなかった。おりよく看守が彼と乱暴者の間へ飛びこんだが、さもなかったら、血を流さねばやまないところだった。
 彼にとってはまだ一つ、解決し難い問題があった。ほかでもない、なぜ彼らが一人のこらずソーニャを愛するようになったか、ということである。彼女は別に彼らのきげんをとるでもなかったし、また彼らもたまにしか彼女を見なかった。彼女はただ時おり一同の仕事場へ、彼に会うために、ほんのちょっとやってくるばかりであった。にもかかわらず、一同は彼女を知っていた。彼女が彼のあとを追って来たことも、彼女がどこでどう暮らしているかということも、ちゃんと知っていた。ソーニャは彼らに金を恵んだこともなければ、かくべつこれという世話を焼いてやったこともなかった。ただ一度クリスマスの時、獄の囚人全部に、肉まんじゅうと丸パンを贈っただけである。けれど、彼らとソーニャの間には、しだいに一種の近しい関係が結ばれていった。彼女は彼らのために、身内の者へ送る手紙を書いてやったり、それを郵便で出してやったりした。この街へやってきた彼らの親戚は、彼ら自身の指定に従って彼らに贈る品物ばかりか金までも、ソーニャの手に残して行った。彼らの妻や情婦たちも彼女を知って、彼女のところへやってきた。彼女がラスコーリニコフを訪ねて仕事場へ姿を現わした時とか、労役に行く囚徒の一隊と道で出会った時などは――みんな帽子をぬいで彼女におじぎをした。「ああ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、おまえはおれたちのおふくろがわりだよ。やさしい思いやりの深いおふくろだよ!」これらの荒くれた刻印つきの懲役人たちが、このちっぽけなやせこけた女に向かってこんな風に声をかけるのであった。彼女はにっこり笑いながら、会釈を返した。彼らはみんな彼女の笑顔が好きだった。その歩きぶりまでが好きだった。誰もかれもが、彼女の歩いて行く姿を見送るために、わざわざふり返って彼女をほめそやした。彼女があんな風に小柄なことをまでほめそやして、しまいには何をほめたらいいかわからないくらいだった。中には彼女のところへ、病気を直してもらいに行くものさえあった。
 彼は大斎期の終わりと復活祭の一週間全部を、ずっと病院に寝てすごした。もうそろそろ回復期に向かったころ、彼はまだ熱に浮かされてうわ言ばかり言っていた時分の夢をふと思い起こした。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。アジアの奥地からヨーロッパへ向けて進む一種の恐ろしい、かつて聞いたことも見たこともないような伝染病のために、全世界が犠牲に捧げられねばならぬこととなった。いくたりかのきわめて少数な選ばれたる人々を除いて、人類はことごとく滅びなければならなかった。それは人間の肉体に食い入る一種の新しい微生物、旋毛虫が現われたのである。ところがこの生物は、理性と意志を賦与ふよされた精霊だった。で、それにとりつかれた人々は、たちまちきものがしたようになり、発狂するのであった。しかし、人間は今まであとにも先にも、これらの伝染病患者ほど自分をかしこい、不動の真理を把握したもののように考えたことは、かつてないのであった。彼らほど自分の判決や、学術上の結論や、道徳上の確信や信仰などを、動かすべからざる真理と考えたものは、またとためしがないほどである。人々は村を挙げ、町を挙げ、国民全部をこぞって、それに感染し、発狂してゆくのであった。誰もかれも不安な心持に閉ざされて、たがいに理解しあうということもなく、めいめい自分一人にだけ真理が含まれているように考え、他人を見ては煩悶はんもんし、われとわが胸をたたいたり、手をもみしだいたりしながら泣くのであった。誰をどう裁いていいかもわからなければ、何を悪とし、何を善とすべきかの問題についても意見の一致というものがなかった。また誰を有罪とし、誰を無罪とすべきかも知らなかった。人々は何かしら意味もない憎悪にとらわれて、たがいに殺しあった。たがいをほろぼし合うために大軍をなして集まったが、軍隊はもう行軍の途中で、突然自己殺戮さつりくをはじめた。列伍れつごは乱れ、兵士はたがいにおどりかかって、突きあったり、斬りあったり、噛みあったり、食いあったりした。町々ではついに警鐘を鳴らして、人を呼び集めたが、誰がなんのために呼んでいるのか、それを知るものは一人もなかった。一同はただ不安に包まれていた。ありふれた日常の仕事は放擲ほうてきされてしまった。てんでに思い思いの意見や善後策を持ち出すけれど、一致を見ることができないからであった。農業も中止された。人々はここにひとかたまり、あちらにひとかたまりとかけ集まって、何かの決議をした上、けっしてわかれまいと誓った――けれどたちまちのうちに、たったいま自分たちで予定したのとは、まるで反対なことをやりだして、たがいに相手を責めながら、つかみ合い斬り合いを始めるのであった。火災が起こり飢饉ききんが始まった。何もかも、ありとあらゆるものが滅びていった。疫病はしだいに猖獗しょうけつを加え、ますます蔓延まんえんしていった。世界じゅうでこの厄をのがれたのは、ようやく四、五人にすぎなかった。それは新しき人の族と新しき生活を創造し、地上を更新し浄化すべき使命を帯びた、選ばれたる純なる人々であった、しかし誰一人として、どこにもそれらの人を見たものもなければ、彼らのことばや声を聞いたものもなかった。
 この無意味なうわ言が、彼の記憶にかくもうらさびしく、かくも悩ましく反響をつづけ、この熱に浮かされた夢の印象が、かくも長く消えようとしないのが、ラスコーリニコフを苦しめるのであった。それはもう復活祭後の第二週間目だった。あたたかく明るい春らしい日がつづいた。監獄病院でも窓が開かれた(それは格子づくりになっていて、下を歩哨ほしょうが歩いていた)。ソーニャは彼の病ちゅうたった二度しか、病院へ見舞に来られなかった、そのたびに許可を得なければならなかった上に、それが容易でなかったからである。けれど彼女はしょっちゅう(ことに夕方)、病院の庭へ来て、病室の窓の下に立った。また時には、ほんのちょっとのま庭に立って、せめて遠くからでも病室の窓を見るために、わざわざやって来ることもあった。ある日の夕方、もうほとんど全快していたラスコーリニコフは、一寝入りして目をさますと、何気なく窓に近寄った。と、はるか病院の門のそばに、ソーニャの姿をみとめた。彼女はじっと立って、何か待っているような風情であった。この瞬間、何かが、彼の心臓をぐさっと刺したような気がした。彼はぴくりと身震いし、急いで窓のそばをはなれた。翌日ソーニャは来なかった。三日めも同様だった。彼は不安をいだきながら彼女を待っている自分に気づいた。やがて彼は退院した。監獄へ帰って囚人仲間から聞いてみると、ソフィヤ・セミョーノヴナは病気して家にこもったきり、どこへも出ないでいるとのことだった。
 彼は一方ひとかたならず心配して、彼女の容体を聞きに人をやった。やがてまもなく、彼女の病気は危険なものでないとしれた。ソーニャはソーニャで、彼がそんなにまで自分を恋しがり、心配しているのを知ると、鉛筆で走り書きの手紙をよこして、もう体はたいへんよくなった。病気はただちょっとした感冒なのだから、近いうちに、ごく近いうちに仕事場の方へ会いに行く、と前ぶれした。この手紙を読んだ時、彼の心臓は痛いほど鼓動した。
 それはまたよく晴れたあたたかい日であった。早朝六時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。そこには一軒の小屋があって、雪花石膏せっこうを焼くかまどの設備があり、そこで焼いた石をつくのであった。みなで三人の働手がそこへ出かけた。囚徒の一人は看守について、何かの道具をとりに要塞ようさいへ行った。いま一人はたきぎをこしらえて、それをかまどの中に積み始めた。ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋の傍に積んである丸太に腰をおろし、荒涼とした広い大河をながめ始めた。高い岸からはひろびろとした周囲の眺望がひらけた。遠い向こう岸の方から、かすかな歌声が伝わってきた。そこには日光のみなぎった目もとどかぬ草原の上に、遊牧民の天幕が、ようやくそれと見分けられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。そこには自由があった。そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるで違った人間が生活しているのだ。そこでは、時そのものまでが歩みを止めて、さながらアブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。ラスコーリニコフは腰をおろしたまま、目も放さずにじっとみつめていた。彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移っていった。彼はなんにも考えなかったが、なんともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった。
 突然、彼の傍へソーニャが現われた。ほとんど足音も立てずに近寄ると、彼と並んで腰をおろした。時刻はよほど早かった。朝寒あさざむはまだやわらいでいなかった。彼女は例の貧しげな古い外套ブルヌースを着て、緑色のきれを頭からかぶっていた。その顔はまだ病気の名残りをとどめて、やせて青白く、頬がげっそりこけていた。彼女はよろこばしげに愛想よく、にっこり彼にほほえみかけたが、いつものくせで、おずおずと手を差し伸べた。
 彼女はいつもおずおずと彼に手を差し伸べるのであった。時によると、おしのけられはしないかと恐れるように、まるで出さないことさえあった。いつも彼はさもいやらしそうにその手をとり、なんだかいまいましいという様子で彼女を迎えた。時によると、彼女が訪ねてきている間じゅう、かたくなに口をつぐんでいることもあった。で、彼女は男の気をかねてちりちりしながら、深い悲しみをいだいて帰るのであった。ところが、今は二人の手は離れなかった。彼はちらとすばやく彼女を見ただけで、なんにも言わずに目を伏せた。彼らは二人きりだった。誰も彼らを見るものはなかった。看守はちょうどこの時向こうをむいたのである。
 どうしてそんなことができたか、彼は自身ながらわからなかったけれど、ふいに何ものかが彼をひっつかんで、彼女のもとへ投げつけたようなぐあいだった。彼は泣いて、彼女のひざを抱きしめた。はじめの一瞬間、彼女はすっかりおびえ上がって、顔はさながら死人のようになってしまった。彼女はその場からおどり上がり、わなわな震えながら彼をみつめた。けれどすぐその瞬間に、彼女は何もかも悟った。彼女の目の中には無限の幸福がひらめいた。彼女は悟った。男が自分を愛している、しかも限りなく愛しているということは、彼女にとってもうなんの疑いもなかった。ついにこの瞬間が到来したのである……
 彼らは口をきこうと思ったけれど、それができなかった。二人の目には涙が浮かんでいた。彼らは二人とも青白くやせていた。しかし、この病み疲れた青白い顔には、新生活に向かう近き未来の更生、完全な復活の曙光しょこうが、もはや輝いているのであった。愛が彼らを復活させたのである。二人の心はお互い同士にとって、生の絶えざる泉を蔵していた。
 彼らは隠忍して、待とうと決心した。彼らにはまだ七年の歳月が残っていた。それまでにはいかばかり堪えがたい苦痛と、限りなき幸福があるかしれない! けれども、彼はよみがえった。そして自分でもそれを知っていた。自分の更生した全存在で、それを完全に感じたのである。そして彼女は――彼女はもとよりただ彼の生活のみで生きていたのだ!
 その日の夕方、はや監獄もしまった時、ラスコーリニコフは寝板の上で横になって、彼女のことを考えていた。この日は、かつて彼の敵であった囚人たち一同が、もう別な目で彼を見ているような気がした。彼は自分の方から進んで、彼らに話しかけたくらいである。すると、向こうでも優しくそれに答える。彼は今それを思い出した。しかし、それは当然そうなくてはならなかったのだ。今すべてが一変してはならぬという法はないではないか?
 彼は彼女のことを考えた。自分がたえず彼女を苦しめ、彼女の心をさいなんでいたことを思い出した。彼女の青白いやせた顔を思い浮かべた。が、今ではこれらの思い出も、ほとんど彼を苦しめなかった。これからどんなに限りない愛をもって彼女のいっさいの苦痛をあがなうかを、自分で知っていたからである。
 それに、こうしたいっさいの、いっさいの過去の苦痛とははたしてなんであるか! 今となってみると何もかも――彼の犯罪、宣告、徒刑さえも、この感激の突発にまぎれて、何かしら外面的な奇怪事のような、まるで人の身の上に起こったことのような気がした。とはいえ、彼はこの夕べ何ごとによらず長くみっちり考えたり、思想を集中させたりすることができなかった。いま彼は何ごとにもせよ、意識的に解決することができなかったに相違ない。彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ。したがって意識の中にも、何かまったく別なものが形成されるはずである。
 彼の枕の下には福音書があった。彼は機械的にそれをとりあげた。この書物は彼女のもので、かつて彼にラザロの復活を読んで聞かせた、あの本である。彼は徒刑の初めころ、彼女が宗教談で自分を悩まし、うるさく福音を説いて、書物を押しつけるだろうと思っていた。ところが、驚き入ったことには、彼女は一度もそのような話をしないどころか、まるで福音書をすすめようとさえしなかった。とうとう彼は病気になるちょっと前に、自分から彼女に持って来てくれと頼んだ。彼女は何も言わずに本を持ってきた。しかしこの時まで、彼はそれをあけて見ようともしなかったのである。
 彼はその日もそれを開かなかった、けれど、ある一つの想念が彼の頭にひらめいた。『今となったら、もう彼女の確信は同時におれの確信ではないか? 少なくとも、彼女の感情、彼女の意欲ぐらいは……』
 彼女もやはりこの日いちんち興奮していたが、夜になってからまたまた病気になってしまった。けれど彼女は幸福だった、あまり思いがけなく幸福だったので、自分の幸福にほとんど恐れおびえたほどである。七年、たった七年! こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日とみなすほどの心持になった。彼は、この新生活が無報酬で得られたのではなく、まだまだ高い価を支払ってそれを買いとらねばならぬ、そのためにはゆくゆく偉大な苦行で支払いをせねばならぬ、ということさえ考えないほどだった。
 しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている――一人の人間が徐々に更新してゆく物語、徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移ってゆき、今までまったく知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これはゆうに新しき物語の主題となりうるものであるが、しかし本篇のこの物語はこれでひとまず終わった。





底本:「罪と罰 上」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年9月30日初版発行
   2008(平成20)年11月25日改版初版発行
   「罪と罰 下」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年10月10日初版発行
   2008(平成20)年11月25日改版初版発行
底本の親本:「罪と罰 上」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年9月30日初版発行
   1968(昭和43)年5月13日改版初版発行
   「罪と罰 下」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年10月10日初版発行
   1968(昭和43)年5月23日改版初版発行
初出:「ドストイエフスキイ全集 第五巻」三笠書房
   1935(昭和10)年1月20日発行
※「五辻ピャーチウグロフ」と「五つ辻ピャーチ・ウグロフ」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:高柳典子
校正:門田裕志、Juki
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード