秦始皇帝

桑原隲藏




         一

支那四千年の史乘、始皇の前に始皇なく、始皇の後に始皇なし。瞶々者察せず、みだりに惡聲を放ち、耳食の徒隨つて之に和し、終に千古の偉人をして、枉げて桀紂と伍せしむ。豈に哀からずや。
 こは私が去る明治四十年十月十日、始皇の驪山リザンの陵を訪うた當時の紀行の一節である。五年後の今日、復た始皇の傳を作つて、彼の爲に氣を吐くとは、淺からぬ因縁といはねばならぬ。
 從來始皇帝の評判は餘り馨くない。彼を世界の偉人の伍伴に加へることに就いては、多少の反對あるべきことと思ふ。漢初政略的に使用した暴秦とか無道秦とかいふ語が、所謂先入主と爲り、吾人の腦裏に拔くべからざる印象を存して居て、始皇帝といへば、直に破壞壓制を連想する程である。いかにも始皇帝に幾多の缺點短處があらう。しかし之が爲に彼の美點長處まで全然沒了するのは偏頗である。過酷である。〔已に司馬遷もこの點は六國表に注意して、
秦取天下暴。然世異變。成功大。傳曰。法後王何也。以其近己而俗變相類。議卑而易上レ行也。學者牽於所一レ聞。見秦在帝位日淺。不其終始。因擧而笑之。不敢道。此與耳食異。悲夫。
と述べて居る。〕虚心にして考へると、始皇帝が支那歴代の君主中、稀有の大政治家であり、又その立てた制度が、久しく且つ廣く後世に影響して居ることは、到底否定し難い事實と思ふ。又その人格も、一般に信ぜられて居るよりは、餘程善い方面があると思ふ。この批評の當否は、彼が一生の事蹟を根據として、判定するより外はない。事實が最後の裁決者である。

         二

 始皇帝は孝公五世の孫、秦の莊襄王の子で、年十三の時、父の後を承けて秦王となつた。その最初の十年間は、政を大臣、殊に相國の呂不韋に委ね、二十三歳の時から萬機を親しくした。彼は爾後十六年間に天下を統一した。即ち西暦前二百三十年に韓を滅ぼしたを手初に、趙・魏・楚・燕といふ順序に列國を併せ、西暦前二百二十一年に、最後の齊を滅ぼして天下を統一した。始皇帝五世の祖に當る孝公が、かの商鞅を任用して、富國強兵の大政策を建ててから、天下の大勢は已に秦に歸しかかつて居たが、始皇帝の親政時代、僅々十數年の間に、首尾よく一統の實を擧げ得たに就いては、彼の功績も亦尋常ならずといはねばならぬ。
 天下統一後に實行した始皇帝の事業は、中々多端であるが、要するに内政と外交とに區別することが出來る。内政では君權の擴張、外交では漢族の發展が主眼となつて居る。從つて彼一代の政策は、尊王攘夷の實現に在るとも解釋し得るのである。先づ内政の主要なるものを列擧すると下の如くである。
 〔君主專有の名稱撰定〕 始皇帝は法家の説を奉じて居る。君主の位置は無上絶對、あらゆる點に於て、下民と儼然たる區別がなければならぬといふ信條から、彼は六國統一の年に、君主のみに限り使用し得べき名稱を制定した。その四五の實例を示すと、
 (イ)皇帝 始皇帝以前の君主は皆王と稱した。夏・殷・周三代の君主は、何れも王と稱して居る。所が春秋時代となつて、周の王室が衰微すると、楚・呉・越等南蠻の國君が王號を僭し初め、降つて戰國時代となると、中國の諸侯達も亦之に倣ひ、最後に陪臣より諸侯となつた韓・魏・趙の三晉の君すら王と稱して、王號の價値は甚だ低落して來た。そこで國富み兵強き大諸侯は、最早王號では滿足出來ず、別に他の美號を稱したものもある。始皇帝の曾祖父に當る昭襄王が、齊の※(「さんずい+緡のつくり」、第4水準2-78-93)王と約して、一時相並んで、西帝東帝と稱したのもこの理由に本づく。六國を討平し海内を混一した始皇帝が、今更王號や帝號を襲ぐを潔とせず、新に一層の美號を採用せんとするのは、必然の要求といはねばならぬ。かくて彼は群臣の意見を參酌し、その功徳は古の三皇五帝を兼ねたりとて、皇帝と稱することとなつた。
 (ロ)朕 先秦時代には朕は一人稱として、上下の區別なく使用された。楚の屈原の離騷にも、その父のことを朕皇考と書いてある。然るに始皇の時から、朕は皇帝專有の一人稱となつた。
 (ハ)陛下 臣民が天子を呼ぶに陛下と稱するのは、始皇以後のことで、秦以前には見當らぬ。『史記』の始皇本紀が、この字面の出處であらう。
 (ニ)詔 詔は告知の義である。秦以前には、上下ともにこの字を通用した。『左傳』に晉の將欒書ランショが※[#「安/革」、読みは「あん」、507-12]の役に齊軍を打ち破つて、國に凱旋の日、功を同僚の※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67、507-13)しせふに讓つて、今囘の戰勝は士※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)の軍令宜しきを得、部下よくその命を聽きし故なりといへるを記して、「※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)之詔也。士用命也」とある。始皇の時から天子の命令に限つて詔と稱することとなつた。
 (ホ)璽 玉にて作つた印を璽といふ。秦以前は上下の區別なく之を使用した。『韓非子』に秦の甘茂といふ人が、太僕といふ官につき、兼ねて行人の職を執つたことを、佩僕璽而爲行事と記してある。僕璽とは太僕の官印のことである。始皇の時に天子の印に限つて玉を用ゐ、之を璽と稱することとなつた。
 これらの規程は、要するに始皇帝が金科玉條と奉じて居る、尊君抑臣主義の一端を發揮したに過ぎぬ。先秦の歴史を通覽すると、代一代と君權漸長の痕を認めることが出來る。周禮の作者たる周公旦の如きは、君權擴張の棟梁である。天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟、士は一廟とか、天子の堂は高さ九尺、諸侯は七尺、大夫は五尺、士は三尺とか、天子に崩といひ、諸侯に薨といひ、大夫は卒、士は不禄、庶民は死といふとか、天子の墳には松を樹ゑ、諸侯は柏、大夫は欒、士は槐、庶民は楊柳を樹うるとか、あらゆる方面に於て、煩瑣なる規程を設けて、上下の區別を嚴にしたのは周時代である。始皇帝は要するに古來漸長しつつあつた、尊君抑臣主義を大成した人といはねばならぬ。漢以後陽に秦を非難しつつ、陰に秦にならつて、是等の名稱を採用して居るのは、始皇の政策が時代の要求に適した證據ともいへる。

         三

 〔諡法の廢除〕 おくりなは周よりはじまつたもので、『逸周書』に「諡法解」がある。周公旦の定めた所と傳へられて居る。その「諡法解」に、諡者行之迹也、(中略)是以大行受大名、細行受細名とある通り、身分ある人の生前の行爲に相應した、死後の諡を定めて、勸善懲惡の意を寓したものである。〔序に申添へるが、新に崩御された君上を、大行皇帝とか大行天皇とか稱するのは、生前に徳行高い方で、やがて大名――美しい諡――を受くべき方といふ意味である。これを永遠の旅に就かれた方といふ意味に解するのは、正しくない。〕
 諡法の起原のことはしばらく措き、兔も角も諡法が周時代に實行されて居つたことは事實である。當時の規定によると、身分ある臣下が死すると、君上より諡を賜はる例で、天子崩御の時は、大臣會議して、その行爲に相當せる諡を定め、且つ君に佞して、天を欺かざる主意とて、京師の南郊に於て、上帝臨監(?)の下に、之を披露することとなつて居る。列國の諸侯達は天子より諡を賜はる筈であるが、周の王室の衰へると共に、天子同樣その國の大夫達が詮議して、その諡を定めることとなつた。さてかく天子崩じ諸侯薨じた場合に、その人に相當せる諡を議定せんには、勢ひ臣子として、その君父生前の行爲を批評せねばならぬ。こは甚だ君父の尊嚴を損ずる譯である。故に始皇は爾後諡法を除くこととした。
 漢は多くの點に於て秦の制度を採用したに拘らず、諡法のみは秦の制度に反對して、之を復活した。復活はしたが、漢以後の諡法は次第に骨拔きとなつて、本來の意義を沒了した。臣下はただ君上に佞して、美諡のみを呈することとなり、全く勸善懲惡の主意を失つたからである。例せば諡法に愛民好與曰惠とあるに、西晉の惠帝の如きがある。また辟土服民曰桓とあるに、東漢の桓帝の如きがある。諡法中に見える躁とか荒とか刺とか醜とかいふ惡諡は、遂に使用された例がない。隋の煬帝の如き惡諡は稀有の例外で、諡法に好内遠禮曰煬とも、逆天虐民曰煬ともある。
 しかのみならず周時代には一字の諡を普通としたに、世の降ると共に字數を増して、多きを誇り、一字の諡號が二字となり、唐時代には普通に六七字となり、更に明・清時代になると二十字内外に増加した。清の太祖の如きは、承天廣運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安宏文定業高皇帝と三十字近き諡號をもつて居る。諡號が長くなり、記憶や使用に不便を加へたから、唐以後は天子の諡號を稱せずに、高祖とか太宗とか廟號を稱するのが慣例となつた。兔に角漢以後の諡は、行の迹といふ本義を失ひ、ただ崩後飾終の追讚に過ぎなくなつた。

         四

 〔郡縣の治〕 秦以前の支那は封建であつて、幾多の諸侯が各※(二の字点、1-2-22)土地人民を私有して居つた。夏の初には天下の諸侯の數一萬、殷の時には三千、周の初には千八百と傳へられて居る。長い年月の間には、攻爭併呑の結果、是等の諸侯は次第にその數を減じ、春秋時代には百六七十國、戰國時代には十國内外となり、最後に秦の一統となつた。天下一家といふことは、始皇帝の時に始めて現實となり、その以前に未曾有の事である。
 さて一統した天下を如何に處分するかは、當時の一大問題であつた。丞相王綰ワウワンを始め、群臣多數の意見は、周の舊にならつて封建の制を行ひ、遠隔の地に同姓子弟を分封して諸侯王といたし、皇室の藩屏たらしむるに在つたが、始皇帝は李斯の言を聽き、天下を擧げて皇室の直領とし、郡縣の治を布くこととなした。『左傳』や『史記』に明記してあるが如く、春秋の末期から戰國時代にかけて、諸侯の數の減少すると反比例に、郡縣の數は増加して居るが、始皇帝は全天下を郡縣にしたのである。即ち天下を三十六郡に分ち、各郡に守・尉・監を置いた。守は文治を、尉は兵事を掌り、監はその監察をする。郡の下には更に縣を置き、令が之を治むるのである。これら郡縣の官吏は、皆天子の代理として民に臨み、その進退任免は一に皇帝の命令に由るのであるから、君權頗る強大となり、一統の政治も亦、完全に行はれる譯である。『史記』に群臣の言を載せて、
昔者五帝、地方千里。其外侯服・夷服。諸侯或朝、或否。天子不制。今陛下(中略)平定天下。海内爲郡縣。法令由一統。自上古以來。未曾有
とあるのは、必ずしも誇張の言ではない。
 〔劃一の制〕 夏・殷・周三代の間、諸侯は各※(二の字点、1-2-22)その國に便宜の政を行ひ、天下の制度は區々として、頗る劃一を缺いて居つた。尤も君權の擴張した周時代すら、夏の後の杞、殷の後の宋は、各※(二の字点、1-2-22)その先代の政を繼承せしを始め、その他の列國でも、悉くは中央政府の制度を循奉して居らぬ。『中庸』に今天下車同軌書同文といひ、『詩經』に「溥天之下、莫王土。率土之濱、莫王臣」といへるが如きは、畢竟一種の希望若くは理想を述べたるものに過ぎぬ。眞に天下劃一の政を見るを得たのは、始皇帝以後のことである。
 始皇帝は六國を併合すると、法度といはず、權量といはず、丈尺・車軌・律歴・衣冠・文字まで、すべて劃一主義を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行した。彼が四方に立てた碑文に、或は器械一量、同書文字と勒し、或は遠邇同度と刻し、この點に關して得意滿面の態を示して居るのも、無理ならぬ次第である。中にも吾人の注意に値するのは、始皇帝が文字の整理に熱心なりしことである。彼は文字を統一したのみならず、またこれを改良した。複雜不便なる古文を省略して、所謂秦篆を作り、更に之を平易にして隷書を作つた。これら文字の整理によつて、當時の社會が如何に大なる便益を受け得たかは、設想に難くない。始皇帝が所在に碑を立てた目的の一半も、或は文字の統一を促す一方便であつたかも知れぬ。
 〔天下巡游〕 始皇帝は天下併一の翌年、即ち彼の在位二十七年から以後、頻繁に四方に巡幸した。
 二十七年 今の陝西の西部及び甘肅方面
 二十八年 今の河南・山東・安徽・湖北・湖南方面
 二十九年 今の河南・山東・山西方面
 三十二年 今の直隷・山西方面及び陝西の北部
 三十七年 今の湖北・湖南・江蘇・浙江・山東方面
 彼はかく四方を巡行しつつ、到る處に秦の頌徳碑を立てた。有名な※(「山+繹のつくり」、第3水準1-47-91)エキザンの碑、琅邪臺の碑、之罘チーフーの碑、泰山の碑、會稽山の碑等は、皆この時に立てられたもので、何れも秦が四海混一した功徳を勒してある。秦は六國を併合したものの、六國の遺臣や遺民は、決して一朝に秦に心服するものではない。そこで天下の耳目を新にする必要が起る。始皇帝が頻年四方を巡游した目的も、畢竟六國割據の餘風を打破して、彼自身が決して秦一國の君でなく、四海の共主であることを、天下萬民に會得せしめん爲で、極めて時宜に適當した政略といはねばならぬ。清の康煕・乾隆二帝が、屡※(二の字点、1-2-22)天下を巡行したのも、全く同樣の趣旨で、近くはわが明治天皇が、維新以來、或は東海、或は奧羽、或は北陸と巡幸せられたのも、或は同一の理由に本づくことと拜察されるのである。

         五

 〔焚書〕 始皇帝の施政中、尤も後世の不評を招いたのは、いはゆる焚書・坑儒の二點である。世の學者は多く之によつて彼を人道の敵、文教の仇と信じて居る。如何にも焚書・坑儒は、多少亂暴であつたかも知れぬ。しかし之にも幾分の理由がある。一概に始皇帝のみを非難し去る譯にはいかぬ。
 學者の羨稱おかざる夏・殷・周の三代も、專制時代である。決して後人の想像するが如き、自由の世ではなかつた。造言の刑とか亂民の刑とか、若くは左道の辟とか稱して、すべて恢詭傾危の言を弄して、民心を蠱惑する者は、容赦なく國憲に處して居る。然るに周室衰へ、春秋より戰國と、世の降る儘に、實力競爭時代となつて、諸侯は何れも天下の人材を羅致して、國の富強を圖ることとなつた。かく人材登傭の途の開けると共に、處士横議の弊が釀し初めた。
 戰國時代に於ける處士の跋扈は、隨分厄介な問題であつた。孔子すら不其位其政というて居るに、彼等は何れも無責任不謹愼なる政治論を敢てして、治安を害し、民心を惑はすのである。温良なる孔子すら、衆を聚めて奇を衒つた少正卯を誅殺したではないか。當時の政治家にとつて、處士の横議は到底其儘に看過し難い程であつた。心ある政治家は早く之を抑壓するに腐心し初めた。或者は更に進んでその檢束に着手し、且つ又處士横議の源泉となるべき書籍、即ち當時の政治に反對せる思想を載せた、書籍の處分さへ實行したものもある。秦の如きはその一例で、已に孝公の時から、民間の政治論を禁じ、犯す者は國境以外に放逐し、治安に害ありと認めた、『詩經』『書經』等の古典を焚いたことがある。
 戰國の末に出た韓の韓非は、その著『韓非子』のうちに、國を治むるには、法律とその法律を執行する官吏とあれば十分である。この以外に先王の道とか、聖人の書とかの必要はない。然るに今天下到る所に、儒者と稱する者あつて、古聖の書を引いて當世の政を誹り、上下の心を惑はしむるは、甚だ不都合千萬である。先づこの儒者を除き去ることが、刻下の急務であると主張して居る。韓非と同時の秦の呂不韋も亦、その著『呂氏春秋』のうちに、略同樣の意見を述べて居る。
 始皇帝はかねて韓非を崇拜して居つた。寡人得此人之游、死不恨矣とさへいうた程である。呂不韋は始皇即位の初に、國政を委ねた大臣で、然も始皇の實父とさへ傳へられて居る。この韓非、この呂不韋、何れも處士を抑へ古書を除くべしと主唱する以上、始皇は最初より處士と古書の處分に腐心して居たのは、むしろ當然のことと思はれる。かかる事情の下に、彼の尤も信任せる丞相の李斯が、思想統一の爲、君權擁護の爲、異端邪説に關係ある古書を禁止せんことを上書したから、始皇は直に之を納れ、遂に所謂挾書の禁、焚書の令が發布されたのである。
 秦の焚書は、文運の大厄であつたことは申す迄もない。しかし世人は多くその書厄を過大視して居るやうである。現に『舊唐書』などにも、三代之書經秦殆盡と記してあるが、こは誇張の言で、頗る事實を誣ふるものといはねばならぬ。始皇の典籍を銷燬した記事は、詳に『史記』に載せてあるが、之を熟讀すると、左の事實を否定することが出來ぬ。
(イ)秦に不利益な記事の多い六國の史料は焚いたが、秦の史料は焚かぬ。
(ロ)醫藥・卜筮・農業に關係ある書籍は、民間に使用して差支ない。
(ハ)上記以外の書籍、殊に『詩經』『書經』及び諸子百家の書は、一切民間に所藏することを禁じ、必ず禁令發布後三十日以内に官省に差出さしめて、之を燒棄した。
(ニ)朝廷所屬の博士は、如何なる書籍を所藏しても差支ない。
 故に民間一般の書籍を燒棄したのは事實であるが、煩雜なる古文を竹簡に漆で書いて、書籍を作つた當時のこととて、書籍の價も甚だ不廉で、且は携帶にも頗る不便であつたから、民間の藏書の案外貧弱であつたことは申す迄もない。先秦時代に藏書の多きことを、五車の書と稱するが、竹簡に寫した書籍が五車に滿載する程あつても、今日の印刷にすれば、誠に貧弱なものである。されば當時の學者は、大抵は書籍を貯藏するよりも、書籍を諳誦したのである。東漢時代に紙が發明され、寫書やや容易となつた頃にも、民間では依然諳誦の風を繼續して居つた。また當時『公羊傳』『穀梁傳』等の如く、專ら口傳により、未だ竹簡に載せられなんだ書籍も多かつたから、天下の書を焚くといふ條、世人の想像する程、大なる損害はなかつたものと察せられる。殊に秦の朝廷には七十人の博士があつて、その藏書は無難の筈であるから、秦火災厄の程度は愈※(二の字点、1-2-22)輕小といはねばならぬ。その後ち楚の項羽が關中に入つて、咸陽の宮殿を一炬に焚き盡した時、官府所藏の典籍多く灰燼に歸したので、古書佚亡の責は、始皇よりも咸陽を焚いた項羽、若くば項羽に先だつて關に入りながら、官府の藏書の保護を怠つた、劉邦や蕭何らが負ふべき筈である。
 思想統一の爲、君權擁護の爲とはいへ、天下の書籍を焚くなどは、勿論贊むべきことでないが、ただ世人は焚書事件のみを知つて、その當時の事情と實際とを察せぬ者が多いから、聊か始皇の爲に辯じたのである。

         六

 〔坑儒〕 始皇帝は挾書の禁令發布の翌年に、諸生四百六十餘人を咸陽に坑殺した。世に所謂坑儒事件である。この事件も根本史料の『史記』を調査すると、後世の所傳は、事實を誣ふるもの、尠からざることが發見される。
 戰國の頃から、不死の靈藥を求むることを專門とする、方士といふ者が出來、燕・齊・楚等の諸國王は、何れも方士を信任した。始皇帝も亦當時の風潮に從ひ、幾多の方士を寵用したが、その方士の中で侯生・盧生の二人は、始皇帝を詒き、不死の藥を求むる費用として萬金を貪つたが、固より藥は見當る筈なく、早晩詐僞暴露して、罪に處せられんことを恐れ、行掛けの駄賃に、散々始皇を誹謗して逃亡した。始皇は金を騙られし上に、惡口されしこととて大いに怒り、侯盧二生と日夕往來して、朝廷や皇帝を誹謗した在咸陽の諸生を驗問させた。所がこれら諸生は、徒に一身を免れんが爲に、卑劣にも甲は乙に、乙は丙にと互に罪を他人に嫁したから、拘引の範圍は次第に廣まり、遂に四百六十餘人の檢擧となつたが、眞の犯罪者は發見出來ぬ。始皇も處置に窮して、容疑者全體を坑殺することとした。これが所謂坑儒事件の實相である。
 右の事實に由つて觀ると、坑殺された諸生は多く方士である。其うち幾分儒生も混じて居つたやうであるけれど、此等の儒生とても、咎を人に嫁して平然たるが如き破廉恥漢で、儒生の名あつて儒生の實なきものである。殊に彼等は何れも誹謗妖言の犯罪容疑者である。無辜の儒者を、何等の理由なくして殺戮したものと、同一視することは出來ぬ。
 犯罪容疑者を擧げて無差別に坑殺したのは、やや亂暴の譏を免れぬが、當時の事情を斟酌すると、これにも多少恕すべき點がある。罪は輕きに從ひ賞は重きに從ふとは、儒家の意見で、法家はその反對に、罪は重きに從ひ、賞は輕きに從ふを原則として居る。法家の説を信奉する始皇帝が、罪の疑はしき者に對して、嚴に從つて處罰したのは、その所信に忠實なる結果である。彼は終始この主義を一貫して居る。坑儒事件に就いてのみ、無情過酷であつた譯ではない。
 始皇は一日丞相李斯の途中行列が、餘りに堂々たるを見て、君主の位置を無上絶對に置く彼は、甚だ不平であつた。下尅上の漸とならんことを恐れてである。然るにその翌日から、李斯は打て變つて、その前騎從車の數を減じた。始皇は之を見て、我が不平を李斯に内通した者があるとて大いに怒り、左右の者を案問したが、遂にその人を認め得なんだから、當日左右に侍した者一同を捕へて、死罪に處したことがある。又その後ち、東郡地方で石に始皇帝死而地分の七字を刻した者があつた。始皇は官吏を派遣して、その犯罪者を搜索したが、目的を達し得ずして、遂に附近の住民一同を死罪に處したこともある。此等の事件を坑儒事件と對比すると、始皇の主義も自から理會することが出來る。
 若し坑儒事件の當時に、四百六十餘人の諸生中に、一人でも男子らしい者があつて、自からその犯罪を名乘り出で、一同の犧牲となつたならば、決して彼が如き大事を惹き起さなんだに相違ない。坑儒事件に就いては、始皇の暴戻を責めんより、むしろ諸生の卑怯を憫むべきことと思ふ。
 私は上數章に渉つて、始皇の内政の重なる點を紹介したが、之によると、彼の政策は多少非難すべき所があつても、大體に於いて時勢に適切であつたことは、否定すべからざる事實である。その他始皇は天下の武器を沒收したこともある。地方の城壁を撤去したこともある。また天下の富豪十二萬戸を國都咸陽に移住させたこともある。何れも割據の餘風を破つて、一統の實效を擧げ、地方を彈壓して、中央を鞏固にするには必要なる政策といはねばならぬ。

         七

 眼を轉じて始皇帝の外交策を見ると、彼は徹頭徹尾對外硬であつた。彼は南北に向つて異族征伐を實行し、帝國主義を發揮して居る。この異族征伐には、かのアレキサンダー大王のアジア征伐の如く、豐太閤の朝鮮征伐の如く、一種の政略をも含んで居るのは勿論である。六國を討平した彼は、異族征伐か外國侵略によつて、國民の注意を外に嚮け、國内の安全を圖るのを、得策と考へたものと見える。
 〔越人征伐〕 始皇は先づ南に向つて越人征伐に着手した。越人は今の浙江・福建・廣東・廣西四省から、安南地方にかけて蔓延して居つた種族で、幾多の部落に分裂したから、百越と呼ばれて居つた。春秋の末期より次第に中國の舞臺に活動して來た。有名なる越王勾踐の如き、その君主こそ夏の後で、漢族と稱して居るけれども、國民は皆この越種族であつた。始皇は六國を統一すると間もなく、江を越えて次第に越人を征服し、その地を※(「門<虫」、第3水準1-93-49)中(福建)、桂林(廣西)、南海(廣東)、象郡(安南)の四郡に分ちて中國に加へ、又ここに漢族五十萬人を移住させた。漢族の南方殖民はこの時から始まつて、代一代と發展した。近くフランスが後印度方面に勢力を扶植するまで、二千年の間、南海諸國は常に支那を宗主と仰いだ由來も、ここに起源するのである。
 殊に始皇の南方經略によつて、海上交通の門戸が開けた。南海の番禺、象郡の交趾――過去二千年間絶えず外國貿易船の輻輳したこの二都會――が、始めて中國民族の手に歸したからである。是より象牙・犀角・※(「王へん+毒」、第3水準1-88-16)瑁・珠※(「王へん+幾」、第3水準1-88-28)等殊域の産物の輸入が日に多きを加へる。やがて中國の市舶、大秦の賈船の往來が始まるといふ風に、東西交通の序幕が、茲に開けることとなつた。
 〔匈奴征伐〕 始皇は更に北の方匈奴を驅逐した。支那の歴史に據ると、匈奴の祖先は淳維といひ、夏の桀王の後と稱して居る。夏の後などは、固より信憑するに足らぬが、その祖先の淳維といふ名が訛つて、匈奴といふ種族の名となつたものであらう。始祖の名を其の儘種族の名とすることは、北狄に普通の慣習である。匈奴の文字は戰國時代から始めて使用されて居る。その以前は或は※(「けものへん+嚴」、第4水準2-80-56)※(「けものへん+允」、第4水準2-80-30)ケンイン、或は※(「けものへん+僉」、第4水準2-80-49)※(「けものへん+允」、第4水準2-80-30)或は葷粥・薫育・※(「けものへん+熏」、第4水準2-80-53)クンイク等、區々一定して居らぬ。しかし何れもフンニの音譯で、ただその文字を異にしたのみである。即ち西暦四世紀の頃から西洋史上に現はれ來るフン種族のことである。この種族は上古から絶えず漢族を劫掠して、尠からざる迷惑を加へて居る。周の祖先の古公亶父タンポが、岐山へ避難したのも、※(「けものへん+熏」、第4水準2-80-53)鬻の爲である。西周末の詩人が、靡室靡家と嗟嘆したのも、※(「けものへん+僉」、第4水準2-80-49) ※(「けものへん+允」、第4水準2-80-30)の爲である。始皇帝は天下一統の後ち、蒙恬モウテンを將として兵三十萬を率ゐて匈奴を征伐せしめて、悉く之を黄河以北に驅逐した。攘ひ斥けた地面に三十四縣――或は四十四縣とも傳ふ――を置き、ここに漢族數萬家を移住せしめ、所謂萬里の長城を築きて、華夷の疆界を嚴重に限定した。
 北狄の侵入に對して長城を築くことは、必ずしも始皇帝の時に創つたのではない。『詩經』によると、西周の末頃から、朔方に城きて※(「けものへん+嚴」、第4水準2-80-56)※(「けものへん+允」、第4水準2-80-30)を防いで居る。降つて春秋戰國の交から、秦・魏・趙・燕等北邊の諸國は、相繼いで北狄を防がん爲に、長城を築いたことがある。始皇帝は幾分これら以前の長城を利用して、萬里の長城を作つたものと見える。その萬里の長城は、今の甘肅省鞏昌府附近から起つて、黄河の外を廻り、今の山西・直隷二省の北邊を縫うて、盛京省の東部に達したのであるから、勿論今日現存の長城とは、大いに相違して居る。今日の長城は、秦以後西漢・後魏・北齊・北周・隋・明時代に渉つて、幾度となく増築又は改築されたものである。

         八

 〔領土の膨脹〕 かく南に北に異族を攘うて土地を拓いた結果、始皇帝時代に於ける漢族の版圖は、空前に擴大された。儒者は唐虞三代を黄金時代と稱揚するけれども、その時代の漢族の勢力圈は、甚だ狹隘であつた。周時代でも、漢族の根據地の所謂中國は、黄河の左右に限られ、今の地理でいへば、大略河南省の全部と、陝西・山西・直隷・山東・湖北の一部に過ぎぬ。殊に白狄・赤狄を始め、犬戎・小戎・驪戎等の異族の、その間に雜居するもの多く、齊・秦・楚・呉・越等邊裔の國となると、言語風俗など隨分漢族と相違して居つたのである。秦の始皇帝が四圍の異族を攘うてから、漢族の勢力範圍は、周の初に幾倍し、その四十郡――もとの三十六郡に、後に拓いた四郡を加へて――の廣袤は、殆ど今の支那本部と大差なくなつた。
 始皇帝の力によつて、空前の一大帝國が建設されると共に、秦の威名は遠く海外に振ひ渡つた。兩漢から三國時代にかけて、北狄でも西域でも、中國人を呼んで常に秦人というて居る。南海方面でも同樣であつた。西暦一世紀頃のギリシア人の地理書には、世界の極東の國をシナと記載してあるが、恐くは當時南海方面で、中國を秦と呼んだのを、極東來航の泰西の商賈達が訛り傳へたものであらう。シナといふ國號の起源に就いては、學者間に異説があつて、或は雲南地方の※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)國と結合せしめ、或は之を安南地方の日南郡に還原せしめて説明する人もあるが、皆採るに足らぬ。シナは必ず秦と關係せしめて解釋すべきものである。
 シナ又はシニスタン(秦人の國の義)といふ名稱は、印度から中央アジア・西アジアへかけ、更に歐洲まで尤も廣く使用されて居る。支那又は至那等はシナの音譯、震旦又は振旦等はシニスタンの音譯である。漢や唐も國威四方に張つた結果、その國號は中國の代名として、外域に使用されたことがあるけれども、到底支那の如く世界的でない。秦の天下に君臨した年月は短かつたに拘らず、その國名は中國の國號として、不朽に傳へらるることとなつた。

         九

 如上の事實によつて考察すると、始皇は實に中國民族の爲に氣を吐いた者といはねばならぬ。外敵に對しては一意和親偸安を事とする、支那歴代の君主の間に在つて、彼は確に一異彩を放つて居る。支那四千年の外交史――屈辱的失敗的外交史――は、彼によつてわづかにその面目を維持し得たというても、甚しき誇張の言であるまい。
 試みに秦以後の支那の外交史を達觀すると、漢の高祖は群雄平定の餘威を藉り、三十萬の大軍を率ゐて匈奴を親政したが、白登の一敗に意氣銷沈し、或は宗女を與へ或は金帛を遺り、ひたすら彼等の歡心を買うた。高祖の崩後、漢の君臣は專心この政策を襲踏して、如何なる匈奴の慢辱をも神妙に我慢して居る。この間武帝の如き一二豪傑の君主が出て、北狄征伐を行うたけれど、要するに九失一得、功は勞に酬ひずといふ有樣であつた。支那の史家は歴代の對異族策を評して、周は上策を得、秦は中策を、漢は下策を得たと評して居る。周は果して上策を得たか否かは疑問であるが、漢一代の對異族策は、始皇のそれに比すると、費は多くして功は尠いといふ事實を否定することが出來ぬ。
 三國西晉以降は、五胡跋扈の時代で、無頓著な支那人すら、神州陸沈、華胄左衽と憤慨して居る時代であるから、事々しく茲に贅する必要がない。唐の太宗は古今の英主である。天下併合の後ち、異族に對しては、武斷主義を實施する素志もあつたが、當時の大臣の兵凶戰危の説に動かされて、遂に懷柔和親策を執ることとなつた。唐一代の間、四裔の君長に、請ふが儘に所謂和蕃公主を下嫁せしめたのは、この政策の結果である。「美人天上落。龍塞始應春」と詠はれた永樂公主も、「九姓旗旛先引路。一生衣服盡隨身」と詠まれた太和公主(?)も、皆この政策の犧牲となつた和蕃公主である。しかし貪婪※(「厭/食」、第4水準2-92-73)くなき夷狄は、通婚のみで羈縻されるものではない。朝に公主を送ると、夕に金帛を求むるといふ有樣であつた。結婚と贈遺とによつて異族を緩和して、その劫掠を免るるといふのが、漢・唐――漢族の國威の尤も揚つたと稱せらるる――を通じて、對異族策の大方針であつたが、結果はやはり不首尾で、羽檄の飛ぶことも、烽火の擧ることも、依然として減少することがなかつた。
 宋に於ける契丹・西夏・女眞、明に於ける北虜・南倭の事蹟も、茲に絮説を要せぬ。元・清二代は、天下を擧げて異族の臣妾となつた時代、固より批評すべき限りでない。過去二千年の積弱累辱此の如しとすれば、この間に在つて、南は越人を服し、北は匈奴を攘つて、盛に殖民政策を實行した始皇は、確に中國民族の一大恩人といふべきである。殊に種族革命の成功した中華民國の今日、始皇こそ百代に尸祝さるべき偉人であるまいか。

         十

 私は已に始皇帝の内外の事業を敍述したから、茲に彼の人物に就いて一言いたさう。始皇は細心にして放膽なる政治家であつた。更に又よく己を虚くして人に聽き、衆に謀つて善く斷ずる政治家であつた。『史記』に始皇帝の政治振りを載せて、天下の事大小となく、皆自身で裁決して、臣下に委任せぬ。その日所定の裁決を終らぬと、夜中になつても休息せぬと記してある。或は之を以て彼が權勢を貪る故と、非難するのは間違ひである。主權を人に假さぬのは法家の極意で、刑名學を好んだ蜀漢の諸葛亮が、細事を親裁したと同樣、寧ろ始皇の勤勉細心なる證據とすべきである。
 始皇は細心であると同時に大膽であつた。六國を滅ぼした彼が、如何にその遺族舊臣の怨府となつて居るかは、彼自身は萬承知して居る。前には荊軻の匕首閃き、後には張良の鐵椎が投げられた。尋常一樣の君主であつたら、必ず警戒して出遊せぬ筈であるが、彼は何等顧慮する所なく、連年巡幸を繼續した。支那流に膽斗の如しと讚しても差支なからう。
 始皇は又世人の設想とは反對に、よく人の諫を容れた。二三の實例を示すと、第一が※※キウアイ[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522-10][#「士/毋」、読みは「あい」、522-10]事件である。※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522-10][#「士/毋」、読みは「あい」、522-10]は太后の寵を負ひ、亂を起して失敗し、その黨與は皆重きに從つて處分せられ、太后もこの關係から雍の離宮に移された。この母后の處置につき、齊人の茅焦が死を冒して苦諫した時、始皇は殿を下り、手から茅焦を扶け起し、その諫を聽き、母を咸陽に迎へ取つて、舊の如く厚遇したことがある。
 第二は逐客事件である。始皇は宗室大臣の意見により、他國の産で秦に來り仕へ居る者は、信用し難いといふ理由から、一切之を放逐することにした。この時楚人の李斯は上書して、逐客の利少く害多きを述べ、「泰山不土壤。故能成其大。河海不細流。故能就其深」の名句をつらねたから、始皇は之に動かされ、已に歸國の途中に在つた李斯を召還して、逐客の令を撤囘したことがある。
 第三は伐楚事件である。始皇は楚を伐たんとて、之に要すべき兵數の多寡を諸將に尋ねた時、李信は二十萬にて可なりといひ、王翦は六十萬を要すと答へた。始皇は李信に聽き、之に二十萬の兵を授けて出征させたが、却つて大敗した。そこで始皇は不面目を忍び、態※(二の字点、1-2-22)當時不滿を懷いて故山に歸臥せる王翦の宅を訪うて、再三その出征を懇願し、遂に楚を滅ぼしたことがある。
 此等の實例を見ても明白なる通り、始皇はたとひ諫に從ふこと流るるが如しと迄の雅量はなくとも、過を飾り非を遂ぐる程狹量の人ではない。始皇の評に必ず引用される暴戻自用といふ語は、もと侯生や盧生が始皇を誹謗せんが爲に發した語で、之によつて始皇を評し去るのは、片言を過信するもので、酷といはねばならぬ。

         十一

 始皇が果斷の人であることは、ことさらに茲に申し添へる必要がない。天下統一の後ち、群臣の多數は封建再興を主張したに拘らず、彼は敢然として郡縣の治を行うた。文字の整理といひ、古典の處分といひ、尋常の政治家では、到底一朝に實行し得ぬ大問題を、彼は何ら遲疑する所なく斷行した。始皇が天下の共主となつたのは、僅々十年餘に過ぎぬ。この短年月の間に、比較的多大の事業を實行し得たのは、全く彼の果斷の賜である。
 多くの偉人に普通であるが如く、始皇も亦豪華を喜ぶ性質を具へて居る。驪山の陵の如き、司馬遷の記する所、劉向の傳ふる所は、勿論幾多の誇張を加へてあるけれども、その規模構造が、厚葬の風の盛な當時にあつても、人の視聽を聳かしたのは事實に相違ない。爾後幾度の破壞發掘の厄を累ねて、頗る原形を損した現在の陵――見る影もなく荒廢して居るが――でも、猶方二百間、高さ十八間許りの宛然たる一阜丘で、當年の榮華を髣髴の間に認めることが出來る。其他咸陽の國都といひ、阿房の宮殿といひ、萬里の長城といひ、彼の計畫したものには、どこにか雄大の面影を存して居る。或はこの間に幾分、「不皇居壯。安知天子尊」といふ一種の政略も含まれて居つたかも知れぬ。
 或は始皇帝の專ら刑法に依頼して、仁義を蔑視するのを非難する者がある。如何にも始皇には多少刻薄少恩の憾ないではない。しかし彼は法家の信者である。法家には仁義が禁物である。かく考へると、始皇が孔孟仁義の道を忽にしたのも、誠に已を得ざる次第といはねばならぬ。一體春秋から戰國にかけては、亂臣や賊子の輩出した時代で、君主の位置は甚だ不安であつた。そこで成るべく君主に多大の權力を與へて、油斷ならぬ臣民――人性を惡と觀ずるのが法家の説である――を威壓して、國家の安全を保つといふのが法家の主張で、この主張は孔孟の學説よりは、確に時代の要求に適して居つた。等しく儒學の正統と自稱せるに拘らず、孔子の主張した仁は、孟子になると義と變じ、荀子に至ると更に禮に變ずるといふ風に、儒家の教義が次第次第に具體的となり、又消極的となつて來たのは、全く當時の外界の事情に促された變化である。老子はその『道徳經』のうちに、
道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。
と述べて、この順序で世間が段々と澆季になるといふのであるが、不思議にもこの豫言が事實となつて現はれて居る。即ち老子自身は道と徳とを説き、次に出た孔子は第三の仁を説き、孟子は第四の義を、荀子は第五の禮を説いた。この次に今一歩進めて具體的消極的となるには、法律より外ない。この事情がやがて法家の起源を説明し、併せて始皇が法術に依頼して、天下を治めた理由を、説明し得ることと思ふ。

         十二

 支那人は元來保守主義に囚はれて居る。「述而不作。信而好古」とか、「率由舊章」とか、彼等は一切の革新を罪惡視して居る。西晉時代に嘗て黄河に橋を架せんと計畫した時、堯舜すら實行せなんだといふ理由で、朝臣の多數が反對した。かかる國民の間に、始皇の如き革新的色彩を帶びた政治が、不古底の暴政として排斥されるのは、已むを得ぬ次第である。
 支那人は又平和主義に囚はれて居る。天子守在四夷とか、王者不夷狄とか、彼等は消極退守を以て、無上の安全策と信じて居る。昔舜が千羽を舞はして、三苗を來服せしめたのが、彼等の理想である。七徳の舞には首を俛し、九功の舞には顏をげるのは、魏徴一人に限らぬ。かかる國民が始皇の攘夷拓地を以て、兵を窮め武を涜すものとして、贊成せぬのも無理ならぬことである。
 秦の榮華は一朝であつた。始皇がその三十七年に、東南巡游中に病に罹つて崩御すると、その後を承けた少子の胡亥は、やがて宦者の趙高に弑せられ、孫の子嬰は間もなく劉邦(漢の高祖)に降つて秦は亡びた。萬世までもと豫期した始皇の望は絶えて、彼の崩後三年の間に、社稷覆るとは誠に悲慘な末路であるが、之が爲に始皇を輕重することは出來ぬ。帝政は約十年にして倒れても、ナポレオンの豪傑たることは否定出來ぬではないか。豐臣家は二世で滅びても、太閤の英雄たることは否定出來ぬではないか。人間の眞價は年月に在らずして、事業に存するのである。始皇は年五十、長生とはいへぬ。四海統一後の在位僅に十二年、むしろ短祚といはねばならぬ。しかし大なる事業をなした。驪山の陵が夷げらるることがあつても、長城の礎が動くことがあつても、支那史乘に於ける始皇の位置は確固不拔であらう。


始皇帝年譜
西暦前   始皇帝     事
      年齢  在位
二五九年  一歳      始皇帝生る
二四七年  一三歳     始皇帝位に即き國政を大臣に委ぬ
二三八年  二二歳 九   ※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、526-4][#「士/毋」、読みは「あい」、526-4]亂を作す
二三七年  二三歳 一〇  相國呂不韋を罷め始皇帝政を親らす 茅焦の諫を納る 逐客の令を下す 李斯の諫を聽く
二三〇年  三〇歳 一七  韓を滅ぼす
二二八年  三二歳 一九  趙を滅ぼす
二二七年  三三歳 二〇  荊軻始皇帝を刺さんとして失敗す
二二六年  三四歳 二一  秦將李信楚を伐つて失敗す
二二五年  三五歳 二二  魏を滅ぼす
二二四年  三六歳 二三  始皇帝王翦の言を納れ六十萬の大軍を發して楚を伐つ
二二三年  三七歳 二四  楚を滅ぼす
二二二年  三八歳 二五  燕を滅ぼす
二二一年  三九歳 二六  齊を滅ぼして天下を一統す 皇帝專有の名稱を定む 諡法を除く 郡縣の治をはじむ 天下の兵器を沒收す 劃一の制を布き天下の文字を同くす 天下の富豪を國都咸陽に徙す
二二〇年  四〇歳 二七  西北方を巡行す
二一九年  四一歳 二八  東方を巡行す 泰山に登つて石を立つ 鄒※(「山+繹のつくり」、第3水準1-47-91)山・泰山・琅邪臺等の碑を刻す 南方を巡行す
二一八年  四二歳 二九年 東方を巡行す 張良始皇帝を狙撃して失敗す 之罘の碑を刻す
二一五年  四五歳 三二年 東北方を巡行して碣石門に刻す 秦將蒙恬匈奴を伐つ
二一四年 四六歳  三三年 越人を征す 長城を築く
二一三年 四七歳  三四年 焚書の令を下す
二一二年 四八歳  三五年 阿房宮を營む 始皇帝その左右の密事を泄しし者を案問す 諸生を坑殺す
二一一年 四九歳  三六  東郡の刻石事件起る
二一〇年 五〇歳  三七  東南方を巡行す 會稽の碑を刻す 東方を巡行す 始皇帝崩ず
(大正元年十二月七日稿)(大正二年一月『新日本』第三卷第一號所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月1日公開
2004年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について