東洋人の發明

桑原隲藏




この論文を讀む人は、拙稿「紙の歴史」「カーター氏著『支那に於ける印刷の起源』」[#底本にはここに「(いづれも本全集第二卷所收)」とある]及び拙著『蒲壽庚の事蹟』(本全集[#「桑原隲蔵全集」]第五卷所收)に載せた、支那に於ける羅針盤の使用に關する記事を參照ありたい。

 私は東洋人の發明と云ふ題で、一時間ばかりお話を致します。一體この協議會の趣意から申しまして、學問上のお話を致すよりも、教育上若くは教授上のお話を致す方が適當であることは、私も萬々承知して居りますが、聞く所では、二三日前已にこの席で、白鳥博士が中等教育の東洋歴史とか云ふお話があつたさうで、されば少し目先を變へて、學問に關係の有るお話を申す方が、却つて宜いかとも考へて、取敢へず昨日この題を極めた譯であります。暑い時分にむづかしい話は禁物と云ふことは、勿論承知致して居る。また僅か一時間で、六ヶ敷い話のしやうもありませぬ。其點は御安心下さい。
 さて近頃のやうに、交通の便利が開けた時代は別として、交通の開けない不便な時代でも、矢張り東洋と西洋との間には、宗教上或は政治上・商業上の關係からして、相互の交通が開けて居つて、自然東洋の文化と、西洋の文化とが、互に影響して居ることは明白な事實であります。或る時には東洋の文化が西洋に影響したこともあり、又或る時には其反對に西洋の文化が東洋に影響したこともある。確か昨年の秋十月だと思ふが、『新日本』と云ふ雜誌が、東洋人と西洋人と、何方がより多く世界の文化發展に貢獻致して居るか、即ち何方が今日までの世界の文化發達に、より多く力を寄與して居るかといふ題を掲げて、所謂名士とか申す各方面の人々の解答を求めたことがありました。その雜誌にはこの問題について、種々の解答を掲げてありますが、併し此問題はさう手輕に解答の出來る問題ではありませぬ。東洋人の發明で、世界の文化に影響したものがあることは事實でありますが、西洋の發明と比較して、何方がより多く世界の文化に貢獻したかと云ふことは、六ヶ敷い問題で、到底一朝一夕に解決し難い。私は唯東洋人の發明の中で、世界の文化に幾分貢獻したと思はれるもの二三を、極く簡單に紹介したいと思ふ。
 東洋人の發明と云ひますが、東洋と云ふ言葉が餘程曖昧な言葉であつて、内容がはつきりしませぬ。私が茲に申す東洋とは、極めて狹い意味に解して、東亞若くは極東と云ふのと同じ意味で、主として支那人を指すことと御承知を願ひます。
 東洋人の發明と云ふ中で、第一に注意すべきは印刷のことであります。支那の印刷術は何時出來たかと云ふと、いろいろの議論がありまして、今日でも學説が一定して居る譯でもありませぬ。併しながら普通では隋の時分に出來た、少くとも隋の開皇十三年(西暦五九三)に出來たことになつて居ります。無論之には異議を申立てる學者もあります、私なども之に絶對的信用を置くことは躊躇いたすのでありますが、其次の唐の時代になると、最早印刷術が發明されて居つたことは疑のない事實であつて、當時の記録にも明瞭にその事實が記載されて居るし、又近年新疆や敦煌方面から出て來た佛典のうちに、確に唐時代の刊本と認定されるものもあります。我が日本の稱徳天皇の御代(西暦七六四―七七〇)に作られた、例の百萬塔の中に納められた陀羅尼ダラニの印本も、時代は丁度唐の中頃に當り、西暦八世紀の半頃のものであります。日本の稱徳天皇の御代の印刷は、日本で發明したものか、唐から傳へたものかといふ事については、いろいろ議論がありますが、日本の印刷の歴史のことを餘程調べて居つた、もとの英國の公使のサトウといふ人が、日本の印刷はどうしても支那から傳へたものだと申したことがある樣に記憶しますが、私も同樣な考をもつて居ります。そは兎も角も。この陀羅尼の印刷といふものが、今日世界に現存して居る印刷物の中で、最も古くて尤も年代の確なものであることは、爭ふべからざる事實であります。さきに申した通り、近年支那の新疆や甘肅方面から、古い印刷物も發見されるが、遺憾な事には年代がはつきり明記されてをらぬから、又たまに明記されて居つても年代が下るから、我が國の百萬塔中の陀羅尼に比較すると、價値が減ずる譯であります。
 右に申述べた通り、唐時代から佛典は隨分盛に印刷されて居りますが、次の五代時代からは、佛典の外に儒書が印行される。更に次の北宋時代になると、『史記』だとか、『漢書』だとかいふ歴史物も段々に印刷されて來る。併し其頃までの印刷は、寺か或は政府でやるのが普通でありましたが、北宋の終から南宋の初頃にかけて、丁度西暦十二世紀になると、初めて坊間に書物屋が出來て、どしどし書物を印刷して販賣することになりました。以上が支那に於ける印刷發展の順序であります。
 この印刷と關聯して考へられるのは、活版即ち活字版で、これは普通の木版の印刷よりも一層便利で、一層世界の文化に貢獻したものであります。この活版も矢張り支那人によつて發明されたので、即ち北宋の仁宗の慶暦年間(西暦一〇四一―一〇四八)に、畢昇ヒツシヨウと云ふ人が發明したのであります。この事はその當時の記録に明かに載つて居つて、確な事實であります。この支那のグーテンベルグとも申すべき畢昇の發明した活字は、粘土に膠を加へて乾し固めて作つたもので、印刷する時には、先づ平扁なる鐵の板の上に、蝋若くは松脂など、容易に溶解する物質を布き、其上に土製の活字を列べて、鐵板の下を火で熱するのである。すると火の熱で以て蝋なり松脂が溶けた時機を見計らつて、さきの鐵板と平行して、他の鐵板で活字の上を壓して、活字の面を水平にして印刷するのが、當時の方法であります。木で作つた活字も其當時出來て居つたが、銅とか鉛とかの金屬製の活字は、當時の記録に見えませぬ。ずつと後世の記録に始めて載せてあります。この金屬製の活字のことは、支那の記録よりも、却つて朝鮮の記録に早く見えて居ります。朝鮮へ活字の傳はつたのは、何時代のことか分りませぬが、高麗時代に丁度西暦十三世紀の半頃になると、立派に金屬で作つた活字があつて、これで書物を印刷してゐる。この金屬製の活字のことを、其當時高麗では鑄字と申しました。十三世紀の半頃に、李奎報といふものが作つた『詳定禮文』の跋によると、當時鑄字を用ゐて、この書物を二十八部印行したことが記載してあります。降つて朝鮮時代すなはち李朝時代となると、この活字の使用が益※(二の字点、1-2-22)開けて、殊に李朝三代目の太宗は、銅製活字數十萬を鑄造させて居ります。朝鮮人は銅製活字は朝鮮人の發明だと自慢して居るが、いかにも記録の上から見ると、左樣な結論にもなるが、私の想像では、金屬製活字も矢張り支那で最初に發明されたものであるが、不幸にしてこの事實が支那の記録に傳らぬのであらうと思はれます。朝鮮人ではそんな發明はちよつとむづかしいかと考へますが、併し是は勿論斷定は出來ませぬ。所が朝鮮の活字が日本の文禄の役に分捕物になつて日本に傳はつて、慶長・元和時代の印刷に利用せられて、我が國の文運に貢獻したことは御承知のことで、事新しく茲に申し述べる必要がありませぬ。
 以上は東亞に於ける印刷の歴史の大略でありますが、これを引き詰めて申すと、
 (1)木版は後くも西暦の八世紀の半頃に立派に出來て居つた。
 (2)活版は西暦十一世紀の半頃に發明された。
 (3)金屬製の活字も、後くも西暦十三世紀の半頃には、東洋で發明されて居つた。
斯う云ふ結論になる譯であります。
 西洋の印刷の歴史は、遙に東洋のそれに後れて居ります。西洋の印刷の歴史は西暦十四世紀以後に限ります。今日西洋に現存して居る古代印刷の標本も、十五世紀以前のものはないといふことであります。その以前西洋では、皆書物を手寫したのであります。それで兔に角印刷は西洋の方が東洋より後れて居ることは疑ふべからざる事實であるが、それでは印刷術は東洋から西洋に傳はつたのであらうかと云ふと、隨分六ヶ敷い問題で、つまり今日では、確たる證據がないのであります。ある一部の學者は、西洋の印刷は支那の影響を受けて起つたものだと申して居ります。それは十三世紀に出た有名なマルコ・ポーロと云ふ人が、久しく支那に參つて居つて、十三世紀の末に本國のイタリーで、丁度浦島の龍宮歸りのやうな有樣で歸りました。非常な評判であつて、澤山の人々がマルコ・ポーロを訪問する。マルコ・ポーロが東洋から持つて來た土産物の中に、當時元で盛に使用した紙幣があつた。此紙幣は無論印刷したものでございます。元の前に國を建てた女眞の金でも、矢張り印刷した紙幣を使用して居ります。今日世界に現存して居る紙幣で一番古いのは、金の貞祐年間(西暦一二一三―一二一七)に發行された紙幣であらうと思ひます。勿論これも印刷されたものであります。丁度マルコ・ポーロより八十年餘り前のものであります。この時代に西洋に紙幣のある筈はありませぬ。そこでマルコ・ポーロを訪問して、この印刷した紙幣を見た人々は、誠に珍らしいことにいたし、この紙幣の印刷から思付いて、イタリー人が木版で骨牌を印刷し出し、更に進んで簡單な繪本などを印刷したのが、西洋の印刷の起源であると申す人もあります。ベルリン大學のグオルグ・ヤコブといふ人は、東洋と西洋と文化の關係を研究して居て「西洋に於ける東洋的文明の要素」といふ論文を公にしてをりますが、この人も矢張り印刷は支那が源で、それからして西域に傳はつて、西洋に參つたものであらうと申して居ります。兔に角印刷では、支那が世界の開祖と申して差支ない。
 それから活版の方になりますと、西洋の方で普通活版の發明者と云はれて居る、オランダのコスターやドイツのグーテンベルグなどの出たのは、十五世紀でありまして、支那で活版を發明した畢昇より四百年ばかり後の人であります。西洋の活版が、支那から影響を受けてはじまつたものであるや否は明白でない。今日ではこの關係を明かにするだけの歴史上の證據が見出されて居らぬ。併し支那の活版は、直接西洋のそれに影響せずとしても、世界に於て活版を最初に發明したといふ名譽は、當然支那人に歸する譯であります。
 次に印刷と親密の關係の有る、紙の話を申し述べようと思ふ。紙の發明も印刷の發明に劣らず、世界の文化に大なる關係をもつて居るのであるが、その紙の製造もまた、最初に支那人によつて發明されたのであります。支那で紙を發明したのは、東漢時代の蔡倫と云ふ人である。蔡倫以前には、木とか竹とか、又は帛などに書寫したのであるが、木や竹は重量も重く、持ち運に不便で、帛は價不廉で、皆實用に適しませぬ。そこで蔡倫が色々と工夫して、遂に樹皮・麻屑・敝布ふるぎれなどを原料として、今日の所謂紙を造つた。是が普通謂ふ所の紙の製造の起源であります。丁度東漢の第四代目の和帝の元興元年(西暦一〇五)のことであります。今日世界に現存してゐる一番古い紙は恐らく西晉の武帝の泰始六年(西暦二七〇)及び元康六年(西暦二九六)のデートのある古寫經であらうと思ふ。これらは支那で紙が發明されてから、僅々百七八十年後のもので、前者は英國のスタイン博士が敦煌方面で發掘した一小紙片で、後者は西本願寺から派遣した中央アジア探檢隊が、新疆から持ち歸つた寫經である。
 所が西域の方では、その當時書寫の材料として使用したのは、パピルス即ちカヤツリ紙か、または獸皮を滑した革紙即ちパルチメントであつた。支那の唐の中頃、西暦の八世紀の半頃までは、西域でも歐洲でも、今日謂ふ所の紙の製造法を知らずに、ひたすら不便極まるパピルスや革紙を使用して居つたのであります。
 西暦八世紀に有名な唐の玄宗の時代になると、かのマホメットの建てたサラセン國、即ち唐でいふ大食國と唐との間に戰爭が起りまして、二國の軍隊が中央アジアの怛邏斯タラスといふ處で戰爭をした。此時に唐の方が敗けて、澤山の支那兵士が捕虜となつたが、この捕虜の中に唐の紙漉かみすき職工がありましたから、サラセンの大將は、この紙漉職工を使役して、中央アジアのサマルカンドといふ都で、初めて製紙工場を建て、其所で支那風の紙を製造することに着手した。是が唐の玄宗の天寶十載すなはち西暦七百五十一年のことで、サラセン國に紙の製造の傳はつた起源であります。これまでの革紙などに比較すると便利で、價格も低廉であるから、需要は日を逐うて増加いたし、サラセンの領内のアラビア、ペルシア、スペイン、エジプト、シリヤ地方で、支那紙の製造工場が、どしどし開設される。製造業の勃興につれて從來のパピルスや革紙などは次第に勢力を失つたは勿論、この頃まで矢張り不便な、パピルスとか、革紙とかを使用して居つた西洋諸國へ、このサラセンで製造された紙が段々と輸出されました。そこで西洋の方でもパピルスや、革紙は次第に勢力を失つて、十四五世紀になると、歐洲でも製紙業が發達し、印刷術の應用と並んで、近世文明の發達を促がす大原因となつたものである。この紙の歴史については、私は京都大學から出て居る『藝文』と云ふ雜誌に、可なり詳しく述べて置きましたから、此處では極めて大略のみを紹介した譯であります。
 〔次に遠洋渡航に尤も必要である羅針盤も、先づ支那で發明されたものらしい。實は羅針盤の發明や傳播の歴史は、まだ十分に研究されて居りませぬ。しかし今日まで知られた確實な文獻によると、支那では西暦十一世紀の末か、十二世紀の初に、既に航海に羅針盤を使用して居るが、アラビアや歐洲方面では、約百年後の十二世紀の末か十三世紀の初に、羅針盤の使用が見えて來るといふ。東西傳播の經路は未だ明瞭ではないが、今日の處では兔に角東洋方面で、より早く羅針盤が使用されて居つた事實は承認せなければならぬ。當時アラブ人は、東西兩用の間に、盛に海上交通を營んで居つたから、このアラブ人の媒介で、羅針盤の使用が、東洋から西洋へ傳播したものかと、想像すべき餘地が多い樣であります。〕
 印刷といひ製紙といひ、將た羅針盤の使用といひ、何れも平和的發明であるから、今度は方面を變へて、殺伐な發明の火藥のことを紹介いたさうと思ふ。支那人は可なり古い時代から火藥の使用を知つて居つたやうであるが、その火藥の成分は不明である。〔火藥が焔硝・硫黄・柳炭等の混合物から成立し、之を爆發用として軍事に使用した事實は、同僚の矢野博士が始めて指摘された如く(大正六年七月號『史林』)、北宋の仁宗時代に編纂された『武經總要』に見えて居る。その以前の事實は判然いたしませぬ。〕
 清の趙翼といふ有名な史學者の説によると、西暦十二世紀の半頃(西暦一一六一)に、金の海陵王即ち例の立馬呉山第一峰と傲語した女眞の君主が、南宋に入冦しました。南宋の方では之を揚子江畔の采石で防ぎ戰つたが、この時宋軍は霹靂砲へきれきはうといふ武器を使用して、金軍を苦しめて居る。これは火藥を敵の陣中に撥ね飛ばす器械で、爆發する時の音によつて霹靂砲と名付けたものと見えます。當時の火藥は硝石・硫黄・柳炭等で作られたもので、大體に於て後世の火藥と相違がないといふ。趙翼の説は何に據つたか、その説の根本史料をよく承知せぬから、絶對に信用する譯には參らぬが、しばらく趙翼の説によると、火藥が實地の戰爭に使用されてゐるのは、この時が最初であります。
 この時から更に七十年程後くれて、西暦十三世紀になると、蒙古軍が金を攻めて、その都の※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)京を圍んだ時、城中の金人が盛に火藥を使用して敵を苦しめ、震天雷など稱する火砲を使用して、火藥を敵陣に飛ばして居る。之は鐵の器に火藥を盛つて、それに火を點じて砲といふ機械で、敵の陣中へ投げ飛ばすのである。その爆發する時の有樣は、其聲如雷、聞百里外と記してあるが、支那人の記事故、多少のおまけはあるにしても、震天雷といふ名から推して、大なる爆聲を發したことがわかる。しかのみならずその爆發の時は、附近の兵士に尠からず火傷を負はしたといふことであります。
 金人は又別に飛火槍といふ火器をも使用して居ります。之は紙筒の中に火藥――柳炭・硫黄・硝石・鐵屑・磁末等――を盛つて、金屬製の棒の先端に釣り下げ、敵が近づくと、別に携帶して居る鐵の鑵の中に入れてある火を取出して、紙筒に火を點ずると、火藥が前方へ十餘歩も飛び出して、爆發するのである。この火藥利用の飛道具の爲に、さしもの蒙古軍も散々に苦しめられたといふ。
 元來※(「石+駮」、第3水準1-89-16)又は砲とは、石を飛ばす機械で、支那では秦漢以前の古代から、戰場で使用されたものである。丁度撥釣瓶はねつるべの樣な仕掛けで、大石を敵の軍中へ撥飛ばすのであります。これは宋・元・明の後代までも使用されて居ります。所が火藥を使用することになつてから、鐵の器の中に火藥を盛り、同樣の仕掛けで之を敵陣へ投げ飛ばし、爆發せしむることとなつた。石を投げ飛ばす普通の砲と區別して、之を鐵砲又は火砲といふので、之が鐵砲の本義であります。
 そこで以上申述べました歴史上の事實――大部分は趙翼の『※[#「こざとへん+亥」、読みは「がい」、156-11]餘叢考』によつたので、私自身はまだ根本的に調査せぬ所もあるが――によると、鐵砲や火藥は、宋人が先づ之を使用して金を苦しめ、金人は又之を使用して蒙古を苦しめて居るのであるから、どうも宋人が最も早く火藥や鐵砲の使用を知つて、之が金人・蒙古人と傳はつたものと想はれるのであります。
 蒙古軍が我が國に來冦した時、この鐵砲といふ新武器で、大いに我が國を惱ましたもので、當時の事實を記録した正應年間の古寫本(『伏敵編』所引)に、
てつほうとて鐵丸に火を包で、烈しくとばす。あたりてわるゝ時、四方に火炎ほとばしりて、烟を以てくらます。又その音甚だ高ければ、心を迷はし、きもを消し、目くらみ、耳ふさがれて、東西をしらずなる。之が爲に打るゝ者多かり。
とあるに據ると、我が將士が鐵砲の攻撃に、困難周章した有樣を察知することが出來る。
 蒙古軍は西域征伐をもやつたが、勿論この時火藥や鐵砲を使用したものと認められる。蒙古軍との觸接で、アラブ人(サラセン人)が火藥と鐵砲の使用を知つたのは、西暦十三世紀の半頃のことであらうと想はれます。兔に角火藥は支那からサラセン國へ傳つたものと見え、アラブ人は火藥の主要成分である硝石を Thelg as Sin 即ち支那の雪と呼び、火箭の事を Sahm Khatai 即ち支那矢と稱したさうであります。降つて西暦十四世紀になると、アラブ人から火藥が歐洲へ傳はりました。歐洲に於ける火藥の起源については、從來種々異説もありますが、近時火藥や火器の歴史を研究した學者の説は、多くアラブ人から歐洲に傳へたものといふことに傾いて居ます。
 歐洲へ火藥が傳はつた後ち、火器は次第に改良されて、十六世紀の初になると、有效な鐵砲が製作されて、歐洲の戰術も爲に一變する氣運になる。丁度この十六世紀の半頃の天文年間に、鐵砲がポルトガル人の手を經て、我が國に輸入される。戰國時代とて、間もなくこの舶來の新武器が日本全國に採用されて、五十年後の文禄征韓の頃には、我が國の尤も有力な武器となつたのであります。當時朝鮮人は、殆ど火器殊に鳥銃の使用を知りませぬ。明軍とても遼東方面から來た兵隊は、朝鮮人よりも一層火器の使用に不案内であつた位故、朝鮮人も明人も、皆我が軍の鐵砲に辟易しました。當時我が軍の戰術は、先づ鐵砲で敵軍を威嚇して置いて、日本刀にて切り卷くるのであるから、支那や朝鮮の記録を見ると、何れもこの二つの武器に大閉口して居る。文禄の役に我が軍が勝利を得た原因は、種々ありますけれど、よく鐵砲を使用したことが、確にその重なる原因の一つと申さなければなりませぬ。三百年前の弘安の時には、我が國は蒙古・高麗の聯合軍の爲に、鐵砲で散々惱されたが、三百年後の文禄の時には、同じく鐵砲で朝鮮・明の聯合軍を打ち惱まして、首尾よくさきの仕返しをいたした譯であります。
 最早豫定の時間に達したから、急いで結論だけを申し述べます。先刻から約一時間の講演は、誠に不充分なものでありますが、實はこの講演の主意は、必ずしも事實の考證のみを主とした譯ではなく、事實のうちから若干の教訓を得たいといふ、目的をももつて居るのであります。そこで結論として、一二の教訓を申述べて置きたい。
 (第一) 單に發明といふ點から申せば、長い歴史をもつて居る東洋人は、必ずしも西洋人に劣らぬかも知れぬ。印刷や製紙や羅針盤や火藥の外に、商業の方面では、爲替や紙幣の發行、工藝の方面では、※[#「茲/瓦」、読みは「じ」、158-7]器や漆器の製造なども、先づ支那で發明されたものらしい。近來の支那人は、例の自惚根性から、あらゆる世界の文化や文明は、支那から始まつた樣に主張するものもある。列國平和會議(弭兵會)なども支那が開祖で、已に二千四五百年前の春秋時代に實行されて居る。赤十字社の事業も、同時代から支那で實行されて居る。新聞紙の發行も、議院の開設も、支那が家元であるかの如く吹聽する者も居る。勿論これらは相當に割引を要し、その儘に直に贊成する譯には參らぬが、兔に角東洋人の發明は、中々大したものに相違ないと想はれる。が併し一歩退いて考へると、どうも東洋人の通弊として、研究心に乏しい結果、折角の發明も發明榮えせぬものが尠くない。製紙や印刷や羅針盤や火藥の發明は、大なる發明ではあるが、惜いことには、その家元の東洋では、發明後幾百千年を經ても、依然としてその舊態を脱却せぬ。長い年月の間に、さしたる改良進歩の跡を見得ないのであります。
 所が是等の發明が一旦西洋人の手に渡ると――傳播の經路に就いては、多少不明な點もあるが――彼等の熱心なる研究によつて、忽ちその利用若くは應用の範圍を擴めて、今日の如き製紙機械・印刷機械等が出來て、大いに世界の文明を進めることとなつたので、東洋人の發明したものでも、西洋人の手を經ぬ間は、十分にその效力を發揮することが出來ぬ有樣であります。折角の發明も東洋人にとつては、寶の持腐れの觀がないでもない。誠に遺憾千萬ではあるが、事實であるから仕方がありませぬ。我が國人も東洋人として、支那人などと同樣の缺陷をもつてをらぬとも限らぬ。果して左樣な事があるならば、教育上大いに注意して、一日も早くこの缺陷を充たすやうに努力せねばならないと思ふ。是處にお集りの諸君は、多く地理や歴史の教授に當られる方々ではあるが、教育家といふ廣い意味から申せば、無論この缺陷を充すべき責任と、無關係ではなからうかと考へるのであります。
 (第二) 紙の傳播や火藥の傳播の例によつて明かである通り、東洋の文化が西洋へ傳播するには、多くの場合西域地方を通過する。西洋の文化が東洋に傳播する時も、之と同樣に大抵西域地方を通過するのである。西域は丁度東洋と西洋との文化交換の中繼に當つて居る。それ故廣く世界の文化や文明の發達の跡を明瞭にするには、是非とも西域地方を度外視することが出來ぬ譯であります。
 しかのみならず西域自身、その固有の立派な文化を持つて居つて、その文化が隨分古い時代から東洋に影響して居るのである。唐宋時代や元明時代に、西域文化の支那に影響を及ぼして居ることは、想像以上に多いのであります。或る意味から申すと、支那の文化――從つて幾分日本・朝鮮の文化――の發達を調べるのに、西域を度外視しては、その眞相を盡し難い程であります。殊にこの十年來新疆探檢が流行して、各文明國競うて力をここに盡して居る。その發掘物の研究は、多く未だ發表されぬから、十分效果を知ることが出來ぬけれども、之によつて將來西域文化の價値の一層高まることは疑を容れぬのであります。
 我が國現行の東洋史は、主として支那を中心として、多くの場合、西域の事實は除外される傾になつて居る。これは授業時間の制限や、その他の理由があつて、已むを得ざる點もありませうが、併し之が爲に中等教育で歴史の教授に當られる人々まで、西域のことといふと、全然無關係のやうに考へて、實際以上にこれを輕視する傾向を見受けるのは、如何のものかと思ふ。學生自身には差當りて左程西域のことを授けぬにしても、その教授に當られる方々は、西域の事情に、より以上の注意を拂はれる方が歴史教授に當つて、確に便利と效果が多からうと思ふのであります。
(大正三年十二月刊『中等學校地理歴史教員協議會議事及講演速記録』所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一巻 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年2月26日公開
2004年2月22日修正
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●表記について