歴史上より觀たる南支那の開發

桑原隲藏




この論文を讀む人は、更に大正十四年十二月發行の『白鳥博士還暦記念東洋史論叢』中に收めた拙稿「歴史上より觀たる南北支那」(本全集[#「桑原隲蔵全集」]第二卷所收)を參照ありたい。

         一

 支那には古來南北の區別があつて、風俗・人情・地味・物産等百般に渉つて、顯著なる相違を有して居る。この南北の區別を基礎として、歴史上より南支那開發の蹟をたづぬることは、可なり興味深い問題と思ふ。
 一體支那の古代に於て、純支那人ともいふべき漢族の根據地は、黄河流域の北支那に限つたものである。彼等はその根據地を中國とか中夏とか、又は華夏とか誇稱したが、そは今の河南省を中心とした北支那の異名に過ぎぬ。當時揚子江沿岸の南支那は、蠻夷の域として擯斥されて居つた。
 春秋戰國にかけて約五百年間は、支那の文化の絢爛を極めた時代であるが、その時代に出た文武の大人物を見渡すと、皆北支那の産で、南支那人は殆ど見當らぬ。例へば儒家の孔子・子思・孟子・荀子の如き、道家の老子・列子・莊子の如き、兵家の孫・呉二子の如き、縱横家の蘇秦・張儀の如き、その他管仲も墨※(「櫂−木」、第3水準1-90-32)も楊朱も韓非も、皆北支那の人である。南支那には之に比敵すべき一個の大人物をも見出し難い。
 秦の始皇帝や、漢の武帝が、南方經營に力を盡くし、この方面に漢族の移住する者多きを加ふると共に、南支那の風氣は幾分開發されて來たけれど、漢代の諺にも、關西出將、關東出相とある通り、文武の大人物はみな函谷關(河南省)の左右に當る北支那から出て來た。始めて漢と西域(中央アジア)との交通を開いて、その功績をさをさ新大陸發見のコロンブスにも比較される、張騫は漢中(陝西省)の人、支那史學の開祖で、支那のヘロドトスと呼ばれる司馬遷は龍門(陝西省)の人、訓詁學の大家で、一部の經學者から孔子以上に尊崇された鄭玄は北海(山東省)の人、支那嫌で有名な平田篤胤すら、孔子以後唯有孔明とて、その完全無缺の人格を推奬措かざる諸葛亮(孔明)は、瑯邪(山東省)の人、何れも北支那に屬する。兩漢三國時代を通じて、文化の中樞が依然北支那に存したことは、否定することが出來ぬ。
 然るに今より約千六百年前に、匈奴・ケツ・鮮卑・※(「低−にんべん」、第3水準1-86-47)テイ・羌等の所謂五胡と稱する塞外種族、或は之に烏丸ウグワンを加へて六夷と稱する塞外種族が、北支那を占領して、漢族の建てた晉室は、彼等の爲に、洛陽(河南省)、長安(陝西省)の舊都を奪はれ、揚子江の南の建康(江蘇省)に都を移して、東南半璧の天地に東晉を建設することとなつた。かくて古來漢族の根據地で、同時に文化の中心點であつた北支那が、爾後三百年間、殺伐野蠻な塞外諸族に占領さるると共に、彼等の支配の下に、漢族は多大の輕悔と虐待を受けたこと申す迄もない。彼等は漢族を斥けて漢狗といひ、又一錢漢といふ。漢とは漢族(支那人)のことで、漢狗とは狗同樣の漢人といふ意味、一錢漢とは一文奴の漢人といふ意味である。卑劣漢とか無頼漢とか、乃至癡漢・惡漢・沒曉漢とか、すべて人を痛罵する時に、漢の字を使用することは、五胡時代以後の慣習に外ならぬ。
 之に反して南支那はこの三百年の間、終始漢族の天子を戴いた。晉室の南渡と共に、中國の貴顯・大官・名族・甲姓――學問に於て、知識に於て、當時尤も卓越した漢族――の多數が、塞外諸族の支配を見限つて、南支那に移轉し永住したことが、漢族特有の文化を傳播して、南方開發に多大の貢獻をなすに至つたこと勿論である、かくてこの期間に於ける人物は、却つて多く南方に輩出した樣に思ふ。書道の神と呼ばるる王羲之、畫家の聖と推さるる顧※(「りつしんべん+豈」、第3水準1-84-59)之は、皆南支那に人と爲つて居る。兔に角南方の文化が優に北方のそれに對抗するを得、また南方の人物が優に北方のそれに比敵することが出來、時に或は之を凌駕せんとする勢さへあるといふことは、晉室の南渡以來の新現象で、確に破天荒の事件と申さねばならぬ。之に關するやや詳細の記事は、大正三年十月の『藝文』に掲げた、「晉室の南渡と南方の開發」(本卷[#「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」]一三七頁參照)。といふ拙稿中に述べてあるから、併せて參考ありたい。

         二

 隋唐時代に南支那の風氣は一層開發されたが、その實こは南支那の北部、即ち今の江蘇・安徽・浙江方面に限つたことで、南支那の南部にある、今の湖南や江西の南邊、乃至福建・廣東方面は、唐時代に於ても、その文化頗る微々たるものであつた。福建地方で古來尤も勢力を有する、林・黄・陳・鄭の所謂四姓も、晉室南渡の頃に、北支那から茲に移住し來て、藝文儒術の萌芽を扶植したと傳へられて居る。されど唐の中世の頃まで、この地方の人物で進士の科、即ち當時の高等文官試驗を通過したものが、極めて寂寥たるのを見ると、當時の文化の程度の貧弱なること、察知し得て餘りあるではないか。
 廣東・廣西方面は一層未開である。漢代から六朝を經て、唐代にかけて、嶺南地方は政治犯罪者、若くばその家屬の遠謫される場所であつた。韓退之が唐の憲宗の佛骨を迎ふるを諫めて罪を得、西暦八百十九年に潮州に流された。潮州は今の廣東省の潮安縣(もとの潮州府)に當る。有名な雲横秦嶺家何在、雪擁藍關馬不前の句は、この時の作で、秦嶺も藍關も、唐都長安から潮州に至る途中の地名である。同時代の柳子厚も亦、王叔文の黨徒として咎を受け、憲宗の時西暦八百五年に永州(湖南省)の司馬に貶せられ、ついで八百十五年に柳州(廣西省)の刺史に移された。彼の詩句に、一身去國六千里、萬死投荒十二年とあるのは、柳州の作である。
 かく政治犯罪者――知識階級に屬する――が貶謫されて、その儘南方に永住する者、即ち當時いはゆる落南の人士が次第に多きを加へ、又唐の中世の安史の亂、さては唐末五代の亂に、北方の士庶の難を南方に避くる者も尠くなかつた。此等の理由によつて、福建・兩廣方面の文運も、代一代と開けて行く。殊に晉の南渡の後ち約八百年にして、宋の南渡が起る。西暦千百二十七年に、宋は塞外より起つた女眞(金)種族の爲に、その國都開封(河南省)を陷られ、宋の高宗は南に移り、遂に杭州(浙江省)を根據として、ここに宋室を中興した。宋の南渡と共に、北支那の名門・右族が多く王室に從つて江南に移住したことは、東晉時代と略同樣である。韓世忠(陝西省)、岳飛(河南省)、張俊(甘肅省)等、南宋の初期に活躍した人を見渡しても、北支那から南移した者が多い。此等の事情は勿論南方の開發に、可なり大なる影響を與へねばならぬ。
 南宋時代に於ける福建地方の開發は、眞に刮目に價する。唐の中世まで人文未開の域であつた福建が、三四百年後の南宋時代になると、道學者の淵藪となつた。大儒朱子の如き安徽の産ではあるが、主として福建で修業をした。故に當時朱子の學派を指して※(「門<虫」、第3水準1-93-49)學と稱した。※(「門<虫」、第3水準1-93-49)とは福建の異名に過ぎぬ。實際道家若くば宋學の錚々たる者には、福建出身が多い。楊時(龜山)や胡安國や羅從彦や李※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)(延平)や、はた蔡沈・黄幹ら、何れも福建に人と爲つた。當時の人が、福建地方を指して、古の鄒(孟子の生地)魯(孔子の生地)又は古の中原に比したのは無理ならぬ次第である。福建に隣接する嶺南地方の文化が、之が爲に多大の影響を受けたこと、勿論といはねばならぬ。
 南宋は蒙古種族に滅ぼされて、元朝が支那を統一する。元の後が明で、明が滅亡すると、滿洲から興つた清朝が之に代つて天下を支配した。此の如く唐以後の北支那は、遼・金・元と引き續き、明一代を除いて又清といふ風に、絶えず塞外種族の壓迫や蹂躙によつて、傳來の文物が萎靡する間に、南支那は比較的に此等の災厄から超脱して、その學術・文藝を保存長成することが出來た。
 南宋以來の大勢を達觀すると、北支那の文化は到底南支那のそれに比敵し得ざること、明白にして疑を容れぬ。朱子を始め、宋の陸象山(江西省)とか、明の王陽明(浙江省)とか、大思想家は皆南支那の産である。清一代の思想・學術に甚大なる影響を與へた顧炎武(江蘇省)、黄宗羲(浙江省)、王船山(湖南省)等の先覺者も、亦同樣すべて南支那に屬する。公羊學の流行は、支那近代學界の一特徴であるが、この公羊學の開拓に功勞ある學者は、莊述祖(江蘇省)、※(「龍/共」、第3水準1-94-87)自珍キヨウジチン(浙江省)等南支那人が多い。その他變法自強の提唱といひ、孔子教の更張といひ、すべて此等の新氣運は、南支那から勃興して來る。
 科擧は支那人にとつての登龍門である。支那人の學問・教育は、大半科擧を目的として居る。故に登第者の多寡は、其地方の文運を卜すべき一つのバロメーターともいへる。明清時代に於ける常科の登第者の數によつて、南北を對比すると、北支那は最早明白に南支那の敵でない。清朝の康煕時代や乾隆時代に、天子の特別の思召で、博學鴻詞科――普通の科擧(常科)に對して、之を制科といふ――といふを開いて、天下非常の人材を召募したことがある。その成績を觀ると、矢張り南支那の人材が遙に北支那に優越することを立證する。康煕十八年即ち西暦千六百七十九年に擧行した制科は、一等二十人、二等三十人計五十人であるが、その貫籍を調べると、南支那の四十二人に對して、北支那は僅に八人に過ぎぬ。乾隆元年即ち西暦千七百三十六年の制科は、一等五人、二等十人計十五人で、その内譯は、南支那の十四人に對して、北支那は僅に一人を出して居る。南北文野の懸隔實に甚しい。

         三

 文化のみでなく、戸口・物力の上から觀察しても、南支那の開發の經路は、大抵同樣である。明代の『圖書編』や『續文獻通考』に據ると、天下の總戸數に對する南支那の戸數は、略左表の如き割合で増加して居る。
王朝  年代     (西暦)    割合
西漢  元始二年   (二年)    十分の一
西晉  太康元年   (二八〇年)  十分の三
唐   開元二十八年 (七四〇年)  十分の四弱
北宋  元豐三年   (一〇八〇年) 十分の五
明   隆慶六年   (一五七二年) 十分の六
 右は支那全體――南北支那に四川等の西支那を加へたる――と、南支那との戸數の比例である。若し南支那と北支那との戸數を比較すると、西漢の元始時代に、北支那の九百萬戸に對して、南支那は約一百萬戸に過ぎざりしものが、北宋の元豐時代には、北支那の五百五十萬戸に對して、南支那は八百五十萬戸、明の隆慶時代には、北支那の三百四十萬戸に對して、南支那は六百七十萬戸を算する。
 先秦から兩漢時代にかけて、繁華な大都會といへば、北支那に限つたもので、長安・洛陽は固より邯鄲カンタン(直隷省)、大梁(河南省)等、中々の景氣であつたが、南方の開發すると共に、揚州(江蘇省)、建康(江蘇省)さては杭州(浙江省)、蘇州(江蘇省)等、南支那の大都會の繁華が、次第に北方のそれを凌駕するに至つた。唐時代には揚一といふ諺がある。揚州の富庶全國に冠絶する意味である。南宋から元明時代にかけては、天上天堂、地下蘇杭といふ諺がある。蘇州と杭州との繁華が、天下第一に推された。北支那の諸都會は最早之に對抗し得なかつた。
 物力に關しても、『書經』の禹貢を見ると、支那古代の田地を、上の上より下の下に至る九等に區別してあるが、北支那の田地は、上等又は中等を占め、南支那の田地は、下の下とか下の中といふ劣等に位する。かく古代に於ける、南支那の田業は言ふに足らざる有樣であつたが、南方の開發するに從ひ、その農耕も進み、隋唐以後は、南支那が米穀の本産地として、北支那は却つてその供給を受けなければならぬこととなつた。即ち唐代には毎年約二百萬石、宋代には約六百萬石、元・明・清時代でも毎年三四百萬石ほど、南支那から米穀の供給を受けねば、國都を維持することが出來ぬ。
 支那の運河は、南方の米穀を國都へ漕送する目的の爲に、開鑿されたものが多い。故に長安・洛陽・開封・北京と國都の變更する毎に、自然運河の水道をも變更して居る。この漕運に故障が出來ると、國家の命脈に直接の影響が及ぶ。唐の徳宗の時、暫く漕運の阻絶せし爲め、長安は饑窮に迫り、不穩を極めたが、やつと南米が到達すると、天子は太子と共に、吾父子得生矣とて、祝杯を擧げられた。元の滅亡した一大原因は、江南の糧道を絶たれた故と傳ふ。明代の諺に、江(江蘇)浙(浙江)熟、天下足とある。支那全國の食料問題は、殆ど南支那の豐凶に據つて決する有樣といはねばならぬ。

         四

 南支那の開發は、秦漢時代からその緒につき、晉室の南渡によつて、急にその度を進め、唐・宋・元・明と歩武を續けて、遂に南方は文化・戸口・物力すべての點に於て、北方を凌駕することになつた。支那の學者は、この現象を解して、天運の循環、地氣の盛衰に歸して居るが、吾が輩の所見では、南支那の開發に預つて力ある第一の原因は、北支那には絶えず野蠻な塞外種族の侵入があり、之と共に優秀なる北方の住民が、次第に南支那に移轉したことに存すると思ふ。
 塞外種族は何時も北支那へ侵入し、また先づ北支那を占領する。北支那人は南支那人に比して、遙に長い年月の間、異族の支配を受けた。その自然の結果として、彼等との間に雜婚が行はれて居る。此等の理由により、北支那人は餘り異族を排斥せぬ。燕趙地方――大體に於て今の直隷省に該當する――に、悲歌慷慨の士の多かつたのは、秦漢時代若くばその直後の時代のこと、後世の事實はこの傳説を裏切つてゐる。金の世宗は曾て燕人に就いて、
燕人自古忠直者鮮。遼(契丹)兵至則從遼、宋人至則從宋、本朝(女眞)至則從本朝。其俗詭隨有自來矣。
と評した。この評は燕人に限らず、廣く北支那人一般にも通用することが出來る。絶えず異族の侵略に暴露されて居る北人には、此の如き冷淡なる態度――旅舍の主人が行客を送迎するが如き――も亦、一つの必要なる處世法であつたかも知れぬ。
 ところが南支那となると、頗るその趣を異にして居る。茲では以前から異族排斥の風氣が強い。南宋時代の學者は、當時北支那を占領した女眞種族の金に對抗する爲に、盛に尊王攘夷説を主張した。宋の蒙古に滅された時、また明が夷狄の滿人に併呑された時、支那の歴史に稀に見る程、忠義の士が奮起して、頑強に抵抗を試みた。この最後まで戰つた忠義の士は、大抵南支那人であつた。
 國家や種族を愛護する念がより強く、知識もより進んで居る、且つ物力のより豐富なる南支那人は、支那の前途に就いて、北支那人より重要なる位置を占むべきは申す迄もない。支那今後の興廢盛衰は、多く南支那人の發奮如何に關係することと思ふ。吾が輩は南支那人に對して、多大の期待を有すると共に、彼等がその重大なる責任を自覺して、支那人一流の徒なる悲憤や、空しき慷慨にのみ滿足せず、進んで中華民國興隆の爲め、積極的にして徹底的なる方法を採らんことを希望するのである。
(大正八年四月『雄辯』第十卷第五號所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年2月26日公開
2004年2月22日修正
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