元時代の蒙古人

桑原隲藏




 今日は元時代の蒙古人の話を申すのですが、諸君の中の多數は此學校で既に幾分東洋史も習つて居るだらうし、又中學校あたりで東洋史も習つたであらうから、元時代の蒙古人の話は大概知つて居るだらうと思ひます。東洋史の中で一番面白いのは蒙古時代であつて、彼等の活動した舞臺が非常に廣いといふことと、又それが後世に及ぼした影響もなかなか廣い。例へて云へばアメリカ發見即ち新大陸發見も決して偶然に起つたことではない。無論イタリーのコロンブスが發見したのであるが、彼をしてさういふ新大陸を發見せしむるに至つた最も有力なる原因は蒙古が起つたことと非常に關係して居る。蒙古が起つた爲に支那といふ國が西洋の方へ知られ、その支那及び印度へ行く目的でコロンブスが西の方から出て遂にアメリカの方へ到着したのであります。
 唯に東洋史上に於ての興味ある時代であるのみならず、恐らく世界史の中でも蒙古時代ほど面白い時代はなからうと思ふ(拍手)。盛に四方を征伐して大いなる舞臺に活動したことはギリシアのアレキサンダーもあるし、ローマのシーザーもあるし、それから以後にも種々の英雄豪傑が澤山出て居りますけれども、其等の人々の事業は蒙古人の其に比べては殆ど太陽の前の星のやうなもので、到底比較にならぬのである。併しながら私は今日斯では蒙古人が、どんな大きな事業を立てたか、どんな戰爭をしたかといふことは言はない。それは普通の東洋史を習ふ時にも大抵聽き居ることと思ふ。例へば成吉思汗ジンギスカンが西域を征伐したとか、速不台スブタイ哲別チエベらがロシアの方を征伐したとか、或はそれから十年餘り經つてから成吉思汗の孫に當る拔都バツがロシアからハンガリー、ドイツ或はイタリーまで侵入して行つた話とか、或は又それから殆ど二十年ばかり經つて成吉思汗の同じく孫に當る旭烈兀フラグといふものがペルシアからシリア征伐に出掛たなどといふこともあるですけれども、それは以前ならば兔も角も今日では多少人も知つて居るし、夫等の大體の話は他に聽き得る便宜も多からうと思ひますから、私はそれよりもう一つ進んで其時分の蒙古人は如何なる状態であつたか、如何なる生活をして居つたか、如何なる家に住んで居つたか、如何なる食物を食つて居つたかといふことを申して見たいと思ふ。
 其事は今まで殆ど誰も餘り注意して居らない問題である。その内には吾々が今日から見ると隨分奇妙なこともあるのです。此樣なる話は聽いて居つては或は蒙古の戰爭の話よりも面白くないかも知れぬが、實際其方が有益なことで、蒙古人が大いなる事業をしたといふ所の根底も其間に横たはつて居るのである。所が前にも申す通り此問題といふものは今迄誰もさう調べたことのない問題でありますから、吾輩が此處で話をしようと思うて實は三日程前から一寸調べて見たけれども、いろいろな用事もあるし、なかなかどうもそのはや旨く往かない(笑聲起る)。それで今日はまあ其時間が來たからして、仕方なしに出て來たものの、自分の希望を云へばもう二三日延ばすともう少し面白く、もう少し完全に諸君の前にその話をすることが出來ると思ひますが、唯今となりては致し方もありません(笑聲起る)。
 さて元時代の蒙古人が如何なる有樣であつたかといふことを調べるのには支那の書物は殆ど參考するに足らぬ。全く間に合はないとは申さぬけれども、それは丁度砂を披きて金を拾ふと同じことで、偶には砂金などというて見付からぬことはないかも知れぬけれども、それは惡くすると殆ど徒勞に屬するのであります。それでは元時代に於ける蒙古人の風俗を知るのに何が一番の材料であるかといふと、それは當時のヨーロッパ人の旅行記を讀むのであります。
 元時代には蒙古人は東の方は朝鮮から、西の方はロシア、ハンガリーの邊りまでも皆領地にして置いて、アジア大陸を横切つてヨーロッパまで領地にして居りましたから、其間には非常に交通が便利になつて居りまして、ヨーロッパの人なども澤山來たのであります。其來た人は幾らもあります。けれども、其中には極めて不注意な者があつて、そんな時代に來ながら何等の記録を遺さない人もあるし、偶々記録を遺した所が左程參考にもならない記録があるけれども、其中には立派な人があつて、吾々に取つて今日歴史上缺くべからざる材料を給するやうな紀行もあるのです。この紀行が第一の材料になるのです。一體人の風俗習慣などといふものは時分の國の人は却て書かない。他國人が書くのです。自分では自國の風俗習慣などには深く注意せぬが、外國人から見ると是は奇妙とか彼は新奇とかその注意を惹きて記録する樣になるのです。其故すべて過去つた國民の風俗といふものは其の國の人の記録に待つよりも却て他國人で其地方を見物に行つた、其人の記録の方が何時も參考になるのであります。他國人は極めて細かい所まで注意して居る。此元時代も其通りである。前に申す通り支那人などの記録に依るよりも、却て其時分蒙古地方へ旅行した外國人の紀行が間に合ふのであります。その中にいろいろ澤山ありまするけれども、先づ Plan Carpin 又は Plano Carpini それからもう一つは William of Rubruk 又は Gulielmus de Rubruquis といふのがあります。それから三番目は Marcopolo 有名な人であります。
 一番さきのプラノ・カルピニといふ人は――私のは兔に角六ケ敷いことを言ひますが、併しながら六ケ敷いだけ覺えて置いたら確に後の爲になる(笑聲起る)。このプラノ・カルピニといふ人は千二百四十五年にヨーロッパを發しまして千二百四十七年にヨーロッパへ歸つて來たのであります。丁度足掛け三年の間不在であつたのです。この人はインノセント四世といふローマ法皇の命令を奉じて蒙古へ使者に行つた。此時は蒙古の王樣は成吉思汗の孫の定宗の時です。其時行きまして、さうして西暦の千二百四十六年七月から十一月まで五ヶ月の間蒙古に滯在して居つて、蒙古を見物した。其見物したことをいろいろ記録してあります。歐洲を立つてから歐洲へ歸るまでは三年ですけれども、實際蒙古地方に滯在して蒙古のことを見聞したのは今申した通り西暦千二百四十六年七月から十一月まで、十一月に蒙古を發足して歐洲へ歸つて來ました。
 其次ぎのウヰリアム・ルブルック、此人はフランスのサンルイと云ふ王樣の命令に依て蒙古の方へ行つたのですが、これは成吉思汗の孫で、定宗の次に立つた憲宗の時に行つたのです。此人は今申す通りヨーロッパを出發したのが千二百五十三年で千二百五十五年にヨーロッパへ歸つて來ましたので、矢張り三年掛つて居りますが、此人の蒙古に居つたのは前のプラノ・カルピニよりも少し長くして千二百五十三年の十二月から翌年即ち千二百五十四年の八月まで、それですから足掛け九ヶ月居りました。九ヶ月の間蒙古の状態を能く視察しました。
 それから一番後のマルコ・ポーロといふ、是は諸君も能く聽いて居るだらうと思ひますが、歐洲を出發したのが千二百七十一年で、歐洲へ歸つて來たのが千二百九十五年であります。二十五年ばかり歐洲を留守に致しました。十七歳の折りに出發しましたから四十二歳位の時分に歸つて來たのです。併しながら此人の蒙古の方に居つたのは此時代悉く皆ではありませぬ。蒙古に居つたのは千二百七十五年から千二百九十二年まで十八年ばかりであつて、此人が一番長かつた。けれども此人は千二百七十一年から九十五年まで、兔も角も自分の家即ちイタリーのベニスですが、其處へ二十五年目に歸つて來る。其時にはまるで蒙古人の風をして毛皮の衣服を着て二十五年目で故郷へ歸つて來ましたが、故郷の者は既に二十五年前にマルコ・ポーロが出たきり歸つて來ないので、彼奴は死んだのだらうて思つて居つた。今時分は佛樣になつて居るだらうと――耶蘇教ですから佛樣はないけれども、皆で其跡始末をして、此人の遺した家は親族で保存して居りましたが、其處へ以てマルコ・ポーロが殆ど見たこともない蒙古人の風をして歸つて來ましたから皆の者は喫驚びつくりして彼奴詐僞師に違ひないなど申す。前に十七歳で發つて今年四十餘歳で歸つて來ましたので、隨分窶れ果てて歸つて來ましたから他の人はどうも分らない。もと極めて親密なる朋友であつた人でもどうもマルコ・ポーロとは違ふ、あんな白髮はなかつたなどと云うて(笑聲起る)二十五年前と今日とを一緒にして居る。さういふことで殆どマルコ・ポーロは困つたのです。併しいろいろ事情を述べて、さうして家を親類から返して貰つたといふことです。以上申述べた是等の三人の紀行が蒙古人の風俗などを調べる所の一番好い材料になる。
 其他に未だいろいろありまするが、先づ大體はこの三人の紀行に依て御話をしようと思ふ。けれども前に申した通り實は此等の書物を讀んで、彼方此方同じことを纏めることは隨分な仕事であつて最初私は一日か二日で出來るだらうと思つてやつて見た所がどうしてなかなか一週間も掛らなければ出來ぬことを發見しました、左樣の次第故自然今日は極めて不完全なお話ししか出來ぬと思ふ。
 家屋(住所) 一番先きに家屋の話をしようと思ふ。家屋といふ言葉は宜くないかも知れぬ。或は寧ろ住所といつた方が宜いかも知れぬ。無論蒙古人の住んで居るのは帳幕の中である。それは必ずしも珍しいことでなくして、蒙古人より以前に匈奴とか突厥とか總て支那の北方に居つた所の夷狄は、みな帳幕の中に住んだので蒙古人のみが帳幕に住んだのではないから、さう不思議ではないけれども、併し帳幕はどんな形で、どんな風であるかと云ふことに就きては、匈奴や突厥ではどうもよくは分らない。蒙古人に至つて前の三人の記録に依て、最も明かに分るのであるから、先づ其事を申さうと思ふ。
 帳幕は木を以て圓形に組合はすのであります。樹の枝などを寄せ集めて造るのでありますが、それは圓く造りまして其縁へは皮でずつと壁の代りに卷くです。其皮は大抵いろいろのチョークとか其他のもので白く塗るです。或物は黒く塗るのがあるけれども、白いのが普通である。其屋根は矢張り樹の枝で圓錐形に造るのであります。其上を矢張り皮で被ふのであります。一番の中央の所は穴をあけてある。其處は煙出しと明取あかりとりになる。だからして形を描いて見ると斯ういふ風になる(この時圖を描く)。斯ういふ風に圓くして、此處だけが穴があいて居る。さうして此處は即ち前に申す通り明取りと煙出しになつて居る。蒙古人の火を焚くのは此處の中央で、煙は此處を上る。無論家の中で焚くのですが外部は皮で卷きてあるから平素は見えないけれども、今は了解に都合よきやうに見さしたのです(笑聲起る)。それからこの煙出し兼明取りの所はいろいろに色取るのです。此處は或は金を塗る人もあるし、それから黒くする人もあるし、青くする人もある。大抵同じ部族に屬する所のものは彼處の色で區別する。帳幕の色は違はない、此處の色が違ふ。彼處を赤く塗つた人はないけれども――ないこともないでせう、私見て來ないので能く分らないけれども(大笑)、青とか金とか言ふのはあるけれども、赤は餘りないさうです。それから此廣さです。此處から此處の廣さは是れは一樣には無論往かない。身分の高い人は大きい所に居りまして、身分の低い人は小さい處に居ますから一樣には言へないが、併し一番廣いので帳幕の直徑が三十呎です。三十呎四方ですから隨分大きいです。五六間ばかりです。先づ大抵此部屋の長さほどある是れが圓くなつて居りますから無論面積は此部屋よりも隨分廣いです。それからして入口は屹度南向きである。そして其處には皮で幕を垂れてある。それ故帳幕中に入るときはこの皮の幕を押のけて行くのです。其入口の方向は前申す通り必ず南向きである。それは何故かと云ふと是れは蒙古人に限つた譯ではない。北狄は皆さうである。匈奴人でも突厥人でも囘※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)人でもさうである。若し南向きでなければ、屹度東向き、西と北の方には決して入口を設けない。何故と云へば蒙古地方で吹く雨風は大抵西の方向か北の方向に定つて居りますから、夫故に南と東へ開け置けば結構です。一體東か南の方であると云ふと日の照りやうも宜しくて温かいですからね。帳幕の中で各人の居場所といふものは定つて居ります(また圖を描く)。中央がさきに述べた通り火を焚く場所、其前が此處が入口、さうすると家の主人の居る所は屹度此處です。此處が主人の臥たり、腰掛けて居つたり坐つたり、總て居る所は此處です。即ち一番北の方で南へ向ひて居る。それから此方の方は一家の女供の居る所、此方は一家の男子の居る所、即ち右側西の方に男が居るし、左側東の方に女が居る。それで是れは人の起臥する帳幕の話でありますが、蒙古人だつて身分に應じていろいろの寶をもつて居る者もありますから、さういふものを臧むるには倉庫がある。其の倉庫と云つても日本の倉庫とは違つて、矢張り帳幕で出來て居る。さきの帳幕と同じ形であるが、もう少し小さくつて丈夫で、それは必ず駱駝に曳かす車の上に載せるやうに出來てある。其倉庫へは寢道具、蒲團とか掻卷とか其外のいろいろの道具寶物を入れてある。其倉庫の數は身分に應じて餘程違ふ。立派な人は百も二百も持つて居る。少い人は一つも持つて居らぬ(笑聲起る)。さうして夫れを斯ういふ風に置く。二十なり三十なり數はどうでも宜いですが、それを必ず住所の帳幕の左右兩邊へ斯ういふ風に置く(この時圖を描く)。車が二十ほどあると此方へ十此方へ十列べて置く。丁度垣の代りになる。是れは決して車から降さぬ。駱駝に曳かした車の上に載せてある。二百もあれば二重にすることもあるし、長くすることもある。又隣りに住所があれば之も同樣に住所の左右へ倉庫を置く故墻が二重になる譯です。倉庫が一つもなければ隣の方の垣を借用する譯です(笑聲起る)。寶や道具を臧めた倉庫を斯ういふことをして置いたら盜人が入りさうなものですが、蒙古人には盜人がない。蒙古人はまるで盜人といふことはしませぬ。後に申す通り蒙古人は絶えず他國へ侵入して物を掠奪する、戰爭をすると必ず敵の財産を掠奪するけれども、蒙古人と蒙古人の間では盜人をし合ない。蒙古人は鍵とか錠といふものを知らない。是れは皮倉庫だから鍵をおろして置かうといふ、そんな考へは起こらぬ。開け放して置いても盜人がない。だから斯うして置いても差支ないのであります。それから蒙古人は時々水草を逐うて家移りをします。其移轉するときはどうするかと云ふと、折角建てた物を壞すことはしない。其儘に大きな車の上に載せる、車の幅はなかなか大きいです。三間以上もある。車の輪から輪まで(此時圖を描いて説明す)、此處から此處まで、大きいやつは二十呎、其上へ建物を其儘載せるです。是れは隨分大きいですけれども、前申す通りに樹の枝位を組合せて其上へ皮を張つてあるのだから、日本の大きな家を移すより遙に輕いです。大勢寄りさへすれば此上へ載せるには何でもない。けれども先程申した通り、此大きいのになると三十呎ありますから、無論幾分かは輪の外へ出る。載せた所を見ると斯ういふ風になる。小さければ無論此車にきちんと載るのです。入口は矢張り斯ういふ風に前に向いて、載せるです。それから之を牛が曳くです。牛は何頭で曳いても動きさへすれば宜いですけれども、餘計なのになると二十二頭で曳くこともある。三頭でも曳くし五頭で曳くこともある。ずつと大きいものになると二十二頭で曳くです。それを前列に十一頭、其後へも十一頭持て來て、それを馭する者が此處へ乘るです。蒙古の牛でも馬でも極めて柔順で、日本のやうに惡荒れをしませぬから、此處で鞭なりを一つ持つて方向さへ示せば、極めて温和しく行くです。是れで家移りをする。是れは男ですが、時によると女でも樂にやる。蒙古の女などは強うございますから、馬に曳かした車の二十輛や三十輛は一人して連れて行くです。途中で馬の荒れることもないのですから、先づ住所の話は夫れ位にして、其次は、
 衣服及び頭飾の話 蒙古人が着ます衣服は、夏は絹或は木綿の物を使ひます。それは大抵支那からして輸入されるのであります。木綿はペルシアからして輸送される。けれども冬は毛皮を着ます。寒い地ですから、其毛皮はロシアから或はその附近のブルガリヤなどから來るのであります。毛皮の衣服を着ました其上へ、蒙古人は大抵二枚の外套を着ます。それは二枚とも毛付きの外套です。一枚の下の方へ着る外套は裏毛になつて居る。それから表へ着る外套は外毛そとげになつて居る。若し蒙古人の外套を着る人を切つて見たら身體の方に向つて毛があるし、外へ向つて毛がある。斯ういふのを二枚着るです。それでは何獸の毛皮を外套にするかと云ふと、狼、それから狐です。それが普通です。狐か狼の皮を外套にする。けれども貧乏人は大抵犬の皮を外套にするのであります。申す迄もなく是等の外套は所謂防寒衣でありまして家に居る時分には帳幕の中に住んで居る故にそんな物は脱いで仕舞ふ。それから蒙古人の男子はひげはありませぬ。全くないことはないけれども甚だ少い。隨つてひげを伸ばすことはありませぬ。若し伸ばしても鼻の下のひげだけ。けれども伸さぬ方が多い。伸ばす人は少い。鼻の下のひげは漢字で髭と書きます。鬚といふのは天神樣のやうなので、榎本さんのやうな耳の下へ伸ばすひげは髯と書きます。髯も鬚も蒙古人は生さぬ、生すのはここの髭だけです。まあ大抵日本の先生方も蒙古人と同じに鼻の下に髭を伸ばして居る(笑聲起る)。それから頭ですが、頭は是れは面白い。是れは未だ能く人が知らぬやうですが、蒙古人は辮髮です。その辮髮も一種特別なであります。この辮髮する人種といふものは現今の清朝人も其一つで、又蒙古人よりずつと前には、支那内地へ國を建てた、南北朝時代の北朝の拓跋魏タクバツギなどは索虜と呼ばれた位だから勿論辮髮をやりましたが、どんな風にしたか委細には知れないのであります。蒙古人も辮髮をしましたが、其の辮髮の仕樣は人が餘り注意せぬですけれども、一寸面白い、蒙古人は頭髮を大半剃り落します。唯前額の上だけ前髮を殘します。この前髮は眉毛の邊まで垂れる、それから此邊りを悉く皆剃つて仕舞ひますが(この時圖を描く)、耳の上に當る此處だけを少し殘して置きます。ここの髮は成るべく伸ばして之を辮みて長く耳の側に垂れる。だからどういふ風に描いたら宜いですか、まあ……私繪が薩張り下手だが斯ういふ風にして(笑聲起る)、斯うです。辮髮を兩方の耳の側へ二本垂れる。前髮を殘して居るだけは可愛らしい。何んですな、日本の蒙古襲來など云ふ圖がありますが、それを能く注意して見ると、二本の辮髮を垂れてあるのがあります。
 それから女の方の服裝は男と同じことです。それで結婚するまでは、外國人などから見ると男か女かまるで分らぬさうです。結婚すると少し頭髮の飾が違ひます。衣服は男女同樣で、唯少し女の方が長い。長いけれども殆ど區別が付かぬさうです。無論蒙古人の衣服も日本と同じで右で合はすです。突厥人は左ですが、蒙古人は日本人と同じやうに右です。女の髮の形は是れはなかなか面白いです。口で言ふと却つて分らぬ。繪で描いた方が能く分りませう。嫁に行つて仕舞うて頭髮の前半分剃る。後頭の髮のみを殘す。それを結びます。さうして其處へ以て行つて大きな、今日で言ふ朝鮮人の帽子に似たやうな物を冠ります(この時畫を描く)。斯ういふ風に鉢皿などを逆樣に戴いたと同じことです。頭の上へきちんと冠るやうになつて縁は出て居ります。これを蒙古人は Bocca と申します。それは木の皮で拵へる。其上へ美しい絹を張つて居る。それから其冠り物の頂邊からかう四角な長い物がずつと出て居る。この四角な長い物の側面には穴を明けてある。此處へいろいろな飾りを置きます。鳥の羽根位です。鳥の羽根でなくても何でも宜い。或は絹の布などをやる。それから一番上へ行つては細くなりますが、孔雀の羽根を飾り付けます。冠り物は此處から此處までで高さ二尺何寸、長いのは三尺位あります。この高い冠り物には無論ひもが付けてあつて、それを顎下でしつかり括り付けます。蒙古の女は馬に乘ります。小さい時分から馬乘りの稽古をします。蒙古の婦人がこの Bocca を冠りて馬に乘りて居る所を遠くから見ると恰も騎兵が馬に乘つて來ると同じことで、此女などが澤山寄つて一緒に列んで馬に乘つて來るのを見ると、騎兵が自分の方へ襲撃して來るかの如く見える。何故かといふと Bocca の頂の所が騎兵の槍のやうに見えますからして(笑聲起る)、其冠物の皿が兜のやうに見えますから、臆病なる外國人は蒙古の婦人を見ても逃出し兼ねぬのです。蒙古の騎兵が來たかと思うて。次に蒙古の女は、能く肥滿つて居ります。それから鼻が低いです。どうも日本人が西洋人を見ると、鼻が隆い、鳶のやうな鼻をして居るとか何とか言ひますが、先刻申した所のプラノ・カルピニとかルブルックといふ先生達は、西洋人ですから鼻の隆つたに違ひない。それで蒙古人を見ると鼻が低い。鼻が低いといふよりもまるで鼻がない。唯顏の眞中に穴が二つ開いて居ると書いてあります(笑聲起る)。鼻が低いのですから彼等が見ると殆ど鼻がないやうに見えるでせう。酷いことを書いてある。顏の眞中に穴が二つ開いてあると云ふ。女は西洋でも日本でも顏に化粧をしますが、蒙古の婦人は多く黒い物を顏へ塗る。其顏へ少し黒い物を塗るのではない、眞黒に塗りますから隨分怖いさうです。外へ出るときは顏へ黒い物を塗る。日本では白い物を塗りますが、蒙古人は黒い物を塗るのです。次が飮食の話。
 飮食の話 先づ飮物の方から申しますと、蒙古人は冬の間は米或は小麥などから拵へた所の飮料を飮みます。それは多く支那の方から輸入されます。時に依ると葡萄酒も多少飮む。それはペルシアから輸入される。けれどもそれは極めて少量で、彼らの一般に殊に夏の間に用ゆるのは馬の乳です。馬乳です。馬乳を其儘飮むのではなくして、馬の乳からして製した所のクーミー(Koumis)といふ酒を飮みます。是れは牝馬の乳を搾り取り、それを皮の袋へ澤山詰めて、その皮袋をしつかり括つて大きな棒で皮を敲くです。さうすると熱を起しますから其間に自然に醗酵が出來ます。其熱でハーメントする。それは餘程酸ぱいさうです。蒙古人は之を非常に好くのです。それが彼らの最も好む所の飮料であります。天子とか或は大將とかいふ人になると、此普通のクーミーをもう少し精製した、カラクーミー(Karakoumis)を使用します。是は餘程甘いさうです。善い所を取て年を經て十分精製したのがカラクーミー。是はなかなか普通の人には飮めないのである。身分のある人でなければ飮めぬ。蒙古人は此クーミー或はカラクーミーを非常に用ゐるですから、大抵身分のある人は牝馬を澤山養つて其乳を搾らす。例へて云へば拔都バツの如きは自分の所有として三千の牝馬を飼つて居る。それから毎日乳を搾らせて自分の飮料にしてある。蒙古人の酒を飮むときには先づ一番先に家の中の神樣に捧げる。それから續いて家で酒を飮む前に一家の下男が其酒を持つて天幕の外へ出て、さうして東西南北へ以て三遍づつそれを撒きます。或は風の神にやるとか、或は是は何の神にやるとか云つていろいろ儀式があります。兔も角も南へ三度、東へ三度、北へ三度といふ風に撒きまして、それから後で家の者が飮むです。それから一家の主人が飮んで居る間は他の男の者は主人の前で手を拍いて踊りて興を助け、若しも一家の主人の女房が飮む時分には他の女供が其前に行つて踊ります。無論樂器を奏することもあります。
 それから一つ面白いことは蒙古人が客に酒を勸める時です。御客樣があつてクーミーでも飮ます時分には一人は酒を注いだ盃を持つて客の前に往き、其左右へ二人附いて、さうして三人進んで自分の遣らうとする所の人の前へそれを出すです。さうすると片方の貰ふ先生は無論蒙古人でクーミーの嫌ひな者はないから咽喉を鳴らしてそれを取らうとすると逃げて仕舞ふ。又暫くするともう一遍出る。又手を出すと又逃げる。三度か四度必ず盃を渡し掛けて先方が取らうとすると逃げて仕舞つて、四度か五度目に初めて酒を注ぎて飮ますので、さうすると咽喉を鳴らして居る時であるから、それを貰ふと餘程美味いさうです(笑聲起る)。
 次に食物はどうかと云ふと、蒙古人は、否蒙古人ばかりでもありませぬ、他の北狄など言ふ蠻族には一體に米がありませぬ、狩りをやつて野獸を捕つてそれを食ふのが唯一の食物ですから、平素から食物を非常に儉約しますが、蒙古人などは其の最も甚だしきもので、どんなものでも食ふ。見付けた物を食ふ。鼠も食ひます。鼠の死んだのでも食ふ。ペストの時には危險な話ですけれども(笑聲起る)、併し蒙古人がペストに罹つたといふ話も餘り聞かない。死んだ鼠でも食ひます。面白い話は虱までも食ふといふ(笑聲起る)。蒙古人は他國人に向つて、君等はこの虱を食はないか、是れは私等の子供の血を啜つたり肉を喰つたりした奴だ、此人間の血肉を餌食とする動物を食はないものがあるものかと云つて虱をすすめたといふことがあります。實際考へれば他の草を食つたり、詰らぬ物を食つて生活して居る動物でも可成り美味いから、人間の血とか肉より食はない虱の方が餘程美味いかも知れない(笑聲起る)。いろいろな物を食ふですが、食ふ時には無論手で掴むです。箸とか肉刺とかいふそんな贅澤な物はありませぬから手で掴む。濟めば構ひはしない靴などで手を拭ふです。さうでなければ何れ野天でありますので草がありますから草でも拭きます。
 蒙古人は一體さきに申す通り極めて少量の食物しか取らぬのですから、食物に對しては非常に儉約するですから、お客樣に對しても百人位のお客さんを招んで置いて、唯一つの小豚か何かを一疋殺すです。それですからなかなか皆に渡らぬ位である。けれども蒙古人は極めて少く食つて、それで滿腹するのです。百人程のお客さんにそんな小さい獸類一疋位切つて、それだけでお仕舞ひです。日本人のやうに二皿も三皿も出たりなんぞする贅澤な御馳走は望むことが出來ない。それから切り取つた所の骨なども決して捨てない。骨などを捨るなどといふ贅澤なことはしない。自分に切つて貰つた骨があれば、必ず其骨は腰に下げて居る皮の袋の中へ入れて置く。空腹になつた時分にはそれを出して舐つて又入れて置く。幾度も舐つて終に木を噛んで居ると同じになれば始めて捨てる。決して宴會へ行つて骨があつたからと云つて其骨を遺して歸るといふそんな贅澤なことはしない。それを大切に保存しておき暇のあるとき出して舐る。なかなか食物に對しては儉約なものです。それで其ヨーロッパあたりから蒙古へ行つた人々、例へば前に言つたプラノ・カルピニとかルブルックといふ人々は蒙古にとつてお客樣ですから、勿論蒙古の政府から食料を渡して呉れる。けれどもそれだけでは中々不足勝で中には腹を減らして泣いて居つた人があります。初め呉れた折りに一度分の食物だらうと思つて一遍に食つて仕舞つた所が後から三度分だと聞いて大いに困つたのです。蒙古人は食量が少いから他國人も少いと思つて居る。餘り食物の少量なのは衞生に害があるやうですけれども、是れは戰爭に當つて非常に蒙古人の利益になることがあります。追撃などの場合には數日間殆ど絶食の有樣で敵を追窮することが出來ます。酒嚢飯袋などいふ無藝大食の者より遙か優つて居ります。隨分話が長くなりますが一番後に戰爭の時にはどんなことをするかといふことのお話をしますが、是れは少し面白いです。
 戰爭の話 蒙古人は平素は無論牧畜が職業です。いざ戰爭と云ふと其平素牧畜をやつて居つた蒙古人が皆徴發されて兵隊になる。兵隊には給料がありませぬ。何年やつても外債を起す必要はない。何故だと云ふと只で働かせるから。その代り戰爭に行きますと、それには分捕品を分けて遣る。戰爭に行つたら必ず分捕物をする。分捕りをする爲に戰爭をするのです。分捕品を分けるときには丁度此頃相撲などで大關が何程、關脇が何程と云うて割を取るやうにちやんと按分比例になつてあると同樣に、大將には何人分、普通の兵卒はどれだけと云うてちやんと分捕り物を分ける役人があります。其役人が銘々に分捕品を分けて遣ります。それで生活をして參ります。戰爭のときは給料を貰ふのが目的でなくして分捕品を分けるのが目的ですから、何年やりても少しも差支ない。さうして愈※(二の字点、1-2-22)戰爭をするときには蒙古兵は大抵騎馬です。蒙古人は小さい時分から皆馬へ乘ることを稽古します。三歳位の時分から馬へ乘つて弓を射ることを稽古しますからして七八歳になつたならばなかなか恐しいものです。蒙古の太祖成吉思汗の西域征伐から歸つて來まして今のアルタイ山の附近に葉迷爾エミールといふ河がありますが、小さな河ですが、其河へ來た所が其頃まだ子供であつた世祖忽必烈フビライと其弟で後にペルシアの王樣になりました旭烈兀フラグが祖父の成吉思汗を迎に參つたが、其の時世祖は十一歳、旭烈兀は八歳と思ひますが、其十一歳と八歳の子供が祖父さんの西域から歸るのを迎ひに行つて土産に途中で狩りをしまして、八歳の旭烈兀が鹿を射留めますし、十一歳の世祖は兔を射落して祖父さんから賞められたといふ話がありますが、なかなか日本の人では八歳やそこらで鹿を殺したり、素早い兔を殺したりすることは容易に出來ないが、蒙古人は狩りなどは上手です。隨つて馬に乘つて弓を射たりすることは上手です。
 戰爭の時になりますと蒙古人は一人で澤山の馬を連れます。平均十八頭位連れます。乘るのは一時に十八頭に乘るのではない。一頭に乘つて疲れれば代へる。ですから速力は他國人の想像することの出來ない程早いです。敵を襲撃したりするに頗る都合がよい。それから前に申した通り蒙古人は極めて物を少量しか食ひませぬから是れが戰爭のとき非常に都合が好いのであります。のみならずどんな物でも食ふのですから是れは尚更戰爭中には都合が好いのです。
 前に言ひました所のプラノ・カルピニといふ人の記録によると、蒙古人は毎朝稗の粉に水を混ぜた物を一杯飮んで、一日を過ごす。稗の粉に水を混ぜて、それを一杯飮んで、もうそれで一日何にも食はない。とても外國人では想像することの出來ない程小食である。一日や二日必要に應じて何にも食はずとも平氣である。二日位絶食しても決して何とも言はない。鼻歌を唄つて平生の通りで嬉々として居るといふことです。蒙古人は戰爭中殊に敵を追撃する場合、例へば先般の奉天方面の追撃とか、さういふ場合には何にも持たずに飛ぶです。それから空腹になると自分の乘つて居る馬から降りて馬足を刺絡します。馬は非常に駈けて十分充血して居ります故に、其馬の足の血を啜つて其上へ乘つて十日位そんな風にして戰爭に從事するです。からして兵站部が後ろの騎兵に襲はれたから何うとか斯うとかいふやうな戰術の發達した今日の贅澤な兵と同一には出來ない。騎馬は上手であるし、途中で飯がなくても今のやうな方法でやりますからそれは非常な速力です。それから愈※(二の字点、1-2-22)戰爭といふことになりますると、蒙古人は必ず冬を選ぶです。秋から冬春の初めまで掛けてが蒙古人の戰爭時期です。夏の間は決して戰爭しませぬ。夏の間は休戰の時期です、其理由はいろいろある。一體蒙古人は馬へ乘つて戰ひますから馬は夏の間草の茂つたときに十分休息をさせるです。馬の肥ゆるのは秋に限つて居ります。是れは蒙古に限つたことではなく、匈奴以來すべて北狄といふものが支那へ入つて來るのは秋に限りますから支那人は北狄の侵入を防ぐことを防秋と書く位です。秋の初めになりますると馬が肥えますから其時を利用するです。それが冬に戰爭をする理由の一つ。もう一つは蒙古人は暑氣を非常に厭ふ。それが第二の理由。それからもう一つは冬は五穀などの收穫を終つたときで何處の國でも一番百姓の富んで居る時であるから其の時に行くと一番掠奪品が多い。夏の頃に行くと丁度前年の收穫の盡きんとする時で十分の掠奪が出來ませぬから必ず冬を見掛けて行く。さうすると掠奪品が多いので利益の點から冬を撰ぶ。もう一つは冬だと云ふと一面に土地河水が氷結するから道路が惡くとも亦河があつても橋を架ける必要がない。蒙古人は水に對しては甚だ意氣地がない。それが一面の氷になると働ける。夏は水になりますから蒙古人は困るです。水は蒙古人は非常に困るです。だから冬だといふと橋などを態※(二の字点、1-2-22)架けずとも自然の氷の橋が架りますから、運動には極めて宜い。それからもう一つは冬でありますと草木が皆枯れて展望が宜いです。蒙古人は何れ他國へ侵入するのですから草木が茂つて居ると思はぬ所からどんと襲はれる。冬だと草木が枯れて十分展望が出來ますから、さうすると知らぬ他國へ行つても伏兵に襲はれる氣遣ひはないです。それであるからさういふ點より冬を撰びます。
 さてその次には何んな軍隊の組織かといふと、蒙古の軍隊の組織は十人長、百人長、千人長、一萬人長といふ風にして十進法で十人に一組長を置き、百人に一組長を置く、千人に一つ、萬人に一つ。それから各兵の持つて居る武器は無論弓矢を第一とします。蒙古兵の戰場へ行く時は必ず一人毎に弓二張、矢は箙に三杯だけ持つて行く。其外には鑢を用ゐます。鑢は何にするかといふとやじりなどの損んだときにそれを研いだり、或は武器の損じたときにそれを研ぐ。それから篩を持つて行きます。其篩は他國へ行つて、水の惡い所では泥水を掬つて泥を取つて後の水を飮む爲に、即ち水漉の用に供する爲に、其篩を持つて行きます。それから鍵繩を持つて居ります。鍵繩は城へ登るとき必要でありますから持つて居る。それから團隊として天幕を持つて居ります。其外には皮の袋を持つて居る。此皮の袋といふのが種々な場合に必要があるのです。それから石を投げる器械。支那人は※(「石+駮」、第3水準1-89-16)といふ字を用ゐますが日本の撥釣瓶はねつるべみたやうな仕掛けで大きな石をそれで撥て、城の所へどんと石を投げる。今日で言ふ攻城砲の代りに石を投げる器械、即ち※(「石+駮」、第3水準1-89-16)を持つて居る。それからもう一つは石油を投げる。石油の壺を投げる器械があります。今日で言つたら爆裂彈の代りです。石油を一杯詰めて城の中へ投げる。さうすると向ふへ行つてぽんと彈くです。それを持つて居りますし、それから石を入れる袋を持つて居ります。是れは城のほりを埋める時に用ゐます。其外に廣い梯子を用意します。それだけは大抵持つて居ります。
 愈※(二の字点、1-2-22)戰爭を開始するときには大臣會議(蒙古人のいふクリルタイ Kuriltai)を開きます。それには蒙古の王族、大臣、それから各部屬の長などが皆集ります。夫れに依て今度は何處の國を征伐すべきか、其國を征伐するに付ては何時頃から出立して、どういふ手段を取るか又軍隊の分け方、何人程兵を繰出すとか、總大將は誰かといふ其他一切の事を、クリルタイで定めます。それが愈※(二の字点、1-2-22)定りますと云ふと出陣する。それから討つ所が定まりますと、殆ど蒙古の習慣として先づ自分の討たんとする國へ使者を派出して降參を勸める。其方は斯く斯くの不都合があるから吾々が征伐しやうと思ふが、潔く降參をしろと勸告する。降參に潔くもない筈です(笑聲起る)。それが第二の順序であります。第三番目には愈※(二の字点、1-2-22)降參をする、仰せの通り承知を致した、降參を潔く致すと云ふと、さうすると相當な金穀を納めさす。貴樣の所は人口是れ程あつて盛んな所であるから、それに應じて何萬圓出せとか、幾千の家畜を出せと云つて、必ず出すべきだけの財産を命ずる。若しも先方が勸誘に應ぜず、又は此方から命じた財産を納めぬと、始めて其處を討ちに行く。それからして愈※(二の字点、1-2-22)先方と戰爭をする時分には、僞つて逃げて伏兵に陷らしめるのが蒙古人慣用の手段であります。一番に逃げる、先方が追駈けて來るのを伏兵で陷れる。敵が苦しき經驗を嘗めて後には蒙古人が逃げても追駈けるなといふことになりますると、蒙古人は成るたけ先方を怒らせ、さうして其城兵をおびき出す工夫をする。併しどうしても先方がこの計略に乘らずして、城に皆楯籠つて居るときには愈※(二の字点、1-2-22)前に申した※(「石+駮」、第3水準1-89-16)を使つて石を投るです。平地から投つても城の壁が高いから旨く往かぬ故に、大抵城と同じ高さの築山を拵へます。其上へ※(「石+駮」、第3水準1-89-16)を置いて、さうして城の中へ石を投込む。百貫位の石をはふります。頭の上から百貫位の石が落て來ると隨分困る(笑聲起る)。四人位掛らなければ動かせない石を投るです。此石を投るのは城中の兵士を損める目的よりも城の壁を破壞するのが目的であります。けれども石がさう何處にでもある譯ではありませぬから、石がなければ其地方の墓の石とか、挽臼とかいふ物を引張り出して來たりする。愈※(二の字点、1-2-22)石がなければ木の丸太を水へ漬けて置いて泥などで重くして彈くです。かくして城の壁を破つてそれから前に言ひました石嚢へ砂や小石を入れて城の濠を埋めて、大抵城の濠が埋つた時分に※(「石+駮」、第3水準1-89-16)に依つて城の壁が崩れた所へ突進するです。もしも猶ほ壁が破れなければ、前に言つた梯子を用ゐることもあるし、又は鍵繩で登ることもあります。それでも往かぬと前に言つた石油を器へ入れて火を點けて敵の中へ投込みます。それで敵を狼狽さして其間に乘じて突進するのであります。さて愈※(二の字点、1-2-22)さういふことで敵の城を陷れたときは、先づ第一其城へ楯籠つた中から美術家と職工――大工とか左官――其美術家と職工だけは先づ救出します。蒙古人は美術家と職工を非常に大切に致しますから外のものは皆殺してもこれだけは助けます。それは助けて矢張り分捕品として皆に分けて遣る。貴樣の所には美術家が七人大工が五人といふ風に分けて遣る。天子の所有になるのは蒙古へやつて仕舞ひます。それから其次には身體の屈竟な戰爭にも使へるし總ての工事に使へるといふやうな若い奴を引張り出してそれを捕虜にして、それから此次の城を討ちに行く時に使用します。何時でも蒙古人は何處かの城を討たうといふときは、先の一番近傍の城で捕虜にした奴を前列の先鋒に置くのです。向ふの奴は困る。自分の所へ敵が來た、そらと云うて一同武器をとつて見るとかねて昵懇の味方の奴が前列に出て來て憫れな風をして居るからどうしても城から十分材木を投たりする勇氣が鈍るです。蒙古兵は先鋒にはつい近傍で捕虜にした若い奴を使つて、前に申す通り※(「石+駮」、第3水準1-89-16)を置く築山をこしらへるとか敵陣に接近しての土木工事、危險なことは皆捕虜にさす。蒙古人自身は危險少なき後方で先鋒の者は退却しては往けないなどいうて監督ばかりして危險な所へは寄りつかない。捕虜となつて働かされて居る奴は退却すると殺すと云ふので、何方にしても殺されるからまあちつとでも働いて活かして貰はうといふので働く。城の方を守つて居る人は愈※(二の字点、1-2-22)困る。憎い蒙古人なら殺して見たいけれども、影も形も見えなくつて、一番危險な目前に居る奴は同國人とか隣りの城の親類みたやうな者ばかりでありまするから、非常に張合がない。だから日本でも俘虜が七八萬も來ましたから、ちつとは蒙古人流を試みるのも宜いかも知れない(笑聲起る)。それからして蒙古人は酷いです。愈※(二の字点、1-2-22)目的の城を陷れて此處で新たに俘虜が出來ますと前にこき使をした捕虜は皆殺して仕舞ひます。一體蒙古の兵は世界をあの通り征服しましたけれども、蒙古は今でも人口は少いから其時分でも多くはない。其時分戰爭へ出られる人は三十萬餘ですから、それを無暗に戰鬪線へ出して殺しては世界を征伐することが出來ない。だから先鋒へ俘虜を出して使役し、新たに捕虜が出來ると前の捕虜を殺す。それは屈竟な奴を殘して置くと謀叛を起す危險があり、さらばとて十分監督するには人數を要する譯ですから用がなくなれば敵人は皆殺して仕舞ひます。殺して仕舞へば監督の兵を置く必要がないから、それから其新たに取つた俘虜を又土木工事に使つて又更に俘虜が出來ると前に使つた俘虜を殺して仕舞ふ。
 歐洲征伐の時蒙古兵はハンガリーを攻めたことがありますが、其時は秋の頃で四方を見ると五穀がよく實つて居る。それに住民は蒙古兵が來たと云うて山へ逃げたですから、是は困つたと云うて布令を出した。山へ逃げ込んだハンガリー人が村に歸つたものは決して殺しはしないといふ布令を出しましたから、ハンガリー人は本當かと思つて歸つて來ると、貴樣達は寶が地面一杯にあるのに收入とりいれぬといふは馬鹿なことなり、蒙古人は決して掠奪せぬから刈入れをせよといふから、ハンガリー人は喜んで刈入れをしたが、刈入れて仕舞つた時分に皆を集めて殺して、それから收穫せし穀物を取つたといふことがあります。それから愈※(二の字点、1-2-22)城が陷りました後には其處の住民の人數を調べるといふ口實の下で、必ず住民一同を郊外へ出す、武器は無論のこと匙一本でも持たさない、殆ど空手で郊外へ列ばす。さうして其後へ蒙古兵が入つて七日なり十日なりの間掠奪する。皆外へ出してあるから一人も抵抗する者はありませぬ。それから一切の掠奪品を分捕品係り長の所へ持つて行くと、分捕局で計算して前に申したやうに按分比例に依て分つ(笑聲起る)。愈※(二の字点、1-2-22)分捕りが濟みますると住民は城へ歸ることを許しますけれども、歸つた所で殆んど家だけがあるばかりで家財は何にも無くなつて仕舞つて居る。分捕りが濟んだときには住民の歸ることを許しますが、併し此地方の奴は危險であるから一旦歸つても後に謀叛をするだらうといふ心配があると郊外へ出した序に住民を殺して仕舞ふ。それですから花剌子模ホラヅムといふ國の舊都であつた所の玉龍傑赤ウルゲンヂでは二百四十萬の人を殺したと言ひます。是れはマホメット教徒の記録に見えて居るのでありますが、少しは誇張がありませうけれども餘程殺したには相違ない。又ヘラットといふ所があります。是れはロシアと英國との境界問題で有名な所でありますが、此ヘラットでも百六十萬の住民があつたのを其内十六人だけ殘して外は皆討斬つて仕舞つたといふ。隨分殺します。恰も草を薙倒すが如く斬ります。世界の人を虐殺したことの多きことは蒙古人の右に出るものはありますまい。
 以上は住民の事ですが、戰場で蒙古の兵が敵兵を斬りまして日本なら首を斬る時に首を斬らずに左の耳を切ります。首は五十人も三十人も殺すと持ち運ぶのに困りますから、首は是れだけで人間の身體の三分の一近くの重量があるとかいひますから、持ち運びに困るです。それですから左の耳を切る。自分の手柄の代りに殺して仕舞つた奴の左の耳を斬つて、それを君の前へ持つて行つて何人殺しました、耳の數は是れだけと言つて耳を列べる。耳を揃へて返すなどは其處から出たものだらうと思ふ(笑聲起る)。併し果して然るや否やは私は保證する限りでない。蒙古人が南ロシアの南方を征伐した間に斬つた耳の數が二十七萬、それからシレジアといふ其地方では切り取つた耳の數が大きな九個の皮の嚢に一杯になつて這入り切らなんだといふ話があります、終にのぞんでもう一つ殘したことがありますから申しませう。
 蒙古人は戰爭は強いですが、一つ弱いことは水の上で戰ふことです。是れは蒙古人だけではない、總て北狄は水に熟ぬから水戰は弱いです。蒙古人は船はありませぬから水に遇ふと困る。河などを渡るときにはどうしますかと云ふと、前に申しました皮の嚢がある。それは軍用品を入て置くのでありますが、それから中の物を出して皮の嚢を浮べて其上へ乘つて渡る。さうでなければ馬を泳がして馬の尻尾をしつかり掴んで向岸へ渡る。そんな仕末ですから海を控へてどんどん戰ふといふことになると蒙古人は駄目です。蒙古人は陸上でこそ天下敵なしの勇兵ですけれども、海の上と來ては誠に意氣地がない。其點から云へば日本は海陸共に蒙古兵よりは強いかも知れぬ。海上ではたしかに日本の兵の方が強い。一體この水に弱いといふことは蒙古人ばかりではありませぬが、同じ支那でも南船北馬と言ひまして北支那の人はまるで水上の働きは駄目です。揚子江から南になると水になれて船にも乘ります。夫故に支那人でも北方の方から起つた支那人はまるで水には弱い。今日でも支那人の海軍を志願するのは揚子江以南の者が多い。三國志などを見ても分りますが、赤壁の戰で魏の曹操が八十萬の兵を率ゐ、呉の周瑜が三萬を率ゐたとか云ふ大きな戰爭ですが、其當時天下第一の智者と言はれた魏の曹操でももともと北方の人ですから水上となると閉口する。揚子江は廣い所は二マイルもあるといふが、何しろ内地を流れて居る河ですから高が知れて居る。それに魏の曹操の軍勢は船へ乘つても船がぐらつくというて怖がつて、とうとう連艦の計とかいふ支那人相當の考を出し、小さい船の澤山あるやつを、此船も此船も鎖で繋ぎつけました。成程船は小さいけれども、皆鎖で繋いであると、大きな船になりますから、所謂大船に乘つた氣で安心して乘りましたが(笑聲起る)、其處を燒討にされましたから逃げる譯に往かない。そんなことで大敗したのです。支那人でもさうですが、所で蒙古人はもう一つ北の方ですから尚更水に付ては弱い。それで蒙古人自身でも陸なら天下敵なしだが、水は宋の人にでも負けると明言して居る。宋は南方の弱い國です、それにも敵はぬと云つて居ります。所がわが弘安の役は其弱い蒙古人が出て來ましたから、たとひ伊勢の神風がなくとも無論彼等は大敗せなければならぬ譯です。弘安の役に來ました敵軍は十四萬人で、支那の方から來たのが十一萬人、それから高麗の方から來たのが三萬でありますから都合十四萬でありますが、其内蒙古人は今申した通り海戰では弱蟲、從軍して來た支那人は蒙古の下に居ることを好まぬ、高麗などは有難迷惑で居りますから、夫等の者どもは十分力を盡す譯はない。其故勝敗の數は初めから分つて居ります。蒙古人は水戰には非常に弱いのであつて、朝鮮と蒙古と戰爭をしたことがありますけれども其時分朝鮮の王樣が朝鮮半島を一寸離れた其處にも見えるといふ位の江華島へ逃込んだので、蒙古の軍隊が其處を三十年も攻めたが降すことが出來なかつたと云ふ位に蒙古兵は水上は弱いです。隨分話が長くなり私も疲れましたから是だけにして置きます。
(明治三十八年六・七・十月『明治學報』所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年3月4日公開
2004年2月20日修正
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