今日は元時代の蒙古人の話を申すのですが、諸君の中の多數は此學校で既に幾分東洋史も習つて居るだらうし、又中學校あたりで東洋史も習つたであらうから、元時代の蒙古人の話は大概知つて居るだらうと思ひます。東洋史の中で一番面白いのは蒙古時代であつて、彼等の活動した舞臺が非常に廣いといふことと、又それが後世に及ぼした影響もなかなか廣い。例へて云へばアメリカ發見即ち新大陸發見も決して偶然に起つたことではない。無論イタリーのコロンブスが發見したのであるが、彼をしてさういふ新大陸を發見せしむるに至つた最も有力なる原因は蒙古が起つたことと非常に關係して居る。蒙古が起つた爲に支那といふ國が西洋の方へ知られ、その支那及び印度へ行く目的でコロンブスが西の方から出て遂にアメリカの方へ到着したのであります。
唯に東洋史上に於ての興味ある時代であるのみならず、恐らく世界史の中でも蒙古時代ほど面白い時代はなからうと思ふ(拍手)。盛に四方を征伐して大いなる舞臺に活動したことはギリシアのアレキサンダーもあるし、ローマのシーザーもあるし、それから以後にも種々の英雄豪傑が澤山出て居りますけれども、其等の人々の事業は蒙古人の其に比べては殆ど太陽の前の星のやうなもので、到底比較にならぬのである。併しながら私は今日斯では蒙古人が、どんな大きな事業を立てたか、どんな戰爭をしたかといふことは言はない。それは普通の東洋史を習ふ時にも大抵聽き居ることと思ふ。例へば
其事は今まで殆ど誰も餘り注意して居らない問題である。その内には吾々が今日から見ると隨分奇妙なこともあるのです。此樣なる話は聽いて居つては或は蒙古の戰爭の話よりも面白くないかも知れぬが、實際其方が有益なことで、蒙古人が大いなる事業をしたといふ所の根底も其間に横たはつて居るのである。所が前にも申す通り此問題といふものは今迄誰もさう調べたことのない問題でありますから、吾輩が此處で話をしようと思うて實は三日程前から一寸調べて見たけれども、いろいろな用事もあるし、なかなかどうもそのはや旨く往かない(笑聲起る)。それで今日はまあ其時間が來たからして、仕方なしに出て來たものの、自分の希望を云へばもう二三日延ばすともう少し面白く、もう少し完全に諸君の前にその話をすることが出來ると思ひますが、唯今となりては致し方もありません(笑聲起る)。
さて元時代の蒙古人が如何なる有樣であつたかといふことを調べるのには支那の書物は殆ど參考するに足らぬ。全く間に合はないとは申さぬけれども、それは丁度砂を披きて金を拾ふと同じことで、偶には砂金などというて見付からぬことはないかも知れぬけれども、それは惡くすると殆ど徒勞に屬するのであります。それでは元時代に於ける蒙古人の風俗を知るのに何が一番の材料であるかといふと、それは當時のヨーロッパ人の旅行記を讀むのであります。
元時代には蒙古人は東の方は朝鮮から、西の方はロシア、ハンガリーの邊りまでも皆領地にして置いて、アジア大陸を横切つてヨーロッパまで領地にして居りましたから、其間には非常に交通が便利になつて居りまして、ヨーロッパの人なども澤山來たのであります。其來た人は幾らもあります。けれども、其中には極めて不注意な者があつて、そんな時代に來ながら何等の記録を遺さない人もあるし、偶々記録を遺した所が左程參考にもならない記録があるけれども、其中には立派な人があつて、吾々に取つて今日歴史上缺くべからざる材料を給するやうな紀行もあるのです。この紀行が第一の材料になるのです。一體人の風俗習慣などといふものは時分の國の人は却て書かない。他國人が書くのです。自分では自國の風俗習慣などには深く注意せぬが、外國人から見ると是は奇妙とか彼は新奇とかその注意を惹きて記録する樣になるのです。其故すべて過去つた國民の風俗といふものは其の國の人の記録に待つよりも却て他國人で其地方を見物に行つた、其人の記録の方が何時も參考になるのであります。他國人は極めて細かい所まで注意して居る。此元時代も其通りである。前に申す通り支那人などの記録に依るよりも、却て其時分蒙古地方へ旅行した外國人の紀行が間に合ふのであります。その中にいろいろ澤山ありまするけれども、先づ Plan Carpin 又は Plano Carpini それからもう一つは William of Rubruk 又は Gulielmus de Rubruquis といふのがあります。それから三番目は Marcopolo 有名な人であります。
一番さきのプラノ・カルピニといふ人は――私のは兔に角六ケ敷いことを言ひますが、併しながら六ケ敷いだけ覺えて置いたら確に後の爲になる(笑聲起る)。このプラノ・カルピニといふ人は千二百四十五年にヨーロッパを發しまして千二百四十七年にヨーロッパへ歸つて來たのであります。丁度足掛け三年の間不在であつたのです。この人はインノセント四世といふローマ法皇の命令を奉じて蒙古へ使者に行つた。此時は蒙古の王樣は成吉思汗の孫の定宗の時です。其時行きまして、さうして西暦の千二百四十六年七月から十一月まで五ヶ月の間蒙古に滯在して居つて、蒙古を見物した。其見物したことをいろいろ記録してあります。歐洲を立つてから歐洲へ歸るまでは三年ですけれども、實際蒙古地方に滯在して蒙古のことを見聞したのは今申した通り西暦千二百四十六年七月から十一月まで、十一月に蒙古を發足して歐洲へ歸つて來ました。
其次ぎのウヰリアム・ルブルック、此人はフランスのサンルイと云ふ王樣の命令に依て蒙古の方へ行つたのですが、これは成吉思汗の孫で、定宗の次に立つた憲宗の時に行つたのです。此人は今申す通りヨーロッパを出發したのが千二百五十三年で千二百五十五年にヨーロッパへ歸つて來ましたので、矢張り三年掛つて居りますが、此人の蒙古に居つたのは前のプラノ・カルピニよりも少し長くして千二百五十三年の十二月から翌年即ち千二百五十四年の八月まで、それですから足掛け九ヶ月居りました。九ヶ月の間蒙古の状態を能く視察しました。
それから一番後のマルコ・ポーロといふ、是は諸君も能く聽いて居るだらうと思ひますが、歐洲を出發したのが千二百七十一年で、歐洲へ歸つて來たのが千二百九十五年であります。二十五年ばかり歐洲を留守に致しました。十七歳の折りに出發しましたから四十二歳位の時分に歸つて來たのです。併しながら此人の蒙古の方に居つたのは此時代悉く皆ではありませぬ。蒙古に居つたのは千二百七十五年から千二百九十二年まで十八年ばかりであつて、此人が一番長かつた。けれども此人は千二百七十一年から九十五年まで、兔も角も自分の家即ちイタリーのベニスですが、其處へ二十五年目に歸つて來る。其時にはまるで蒙古人の風をして毛皮の衣服を着て二十五年目で故郷へ歸つて來ましたが、故郷の者は既に二十五年前にマルコ・ポーロが出たきり歸つて來ないので、彼奴は死んだのだらうて思つて居つた。今時分は佛樣になつて居るだらうと――耶蘇教ですから佛樣はないけれども、皆で其跡始末をして、此人の遺した家は親族で保存して居りましたが、其處へ以てマルコ・ポーロが殆ど見たこともない蒙古人の風をして歸つて來ましたから皆の者は
其他に未だいろいろありまするが、先づ大體はこの三人の紀行に依て御話をしようと思ふ。けれども前に申した通り實は此等の書物を讀んで、彼方此方同じことを纏めることは隨分な仕事であつて最初私は一日か二日で出來るだらうと思つてやつて見た所がどうしてなかなか一週間も掛らなければ出來ぬことを發見しました、左樣の次第故自然今日は極めて不完全なお話ししか出來ぬと思ふ。
家屋(住所) 一番先きに家屋の話をしようと思ふ。家屋といふ言葉は宜くないかも知れぬ。或は寧ろ住所といつた方が宜いかも知れぬ。無論蒙古人の住んで居るのは帳幕の中である。それは必ずしも珍しいことでなくして、蒙古人より以前に匈奴とか突厥とか總て支那の北方に居つた所の夷狄は、みな帳幕の中に住んだので蒙古人のみが帳幕に住んだのではないから、さう不思議ではないけれども、併し帳幕はどんな形で、どんな風であるかと云ふことに就きては、匈奴や突厥ではどうもよくは分らない。蒙古人に至つて前の三人の記録に依て、最も明かに分るのであるから、先づ其事を申さうと思ふ。
帳幕は木を以て圓形に組合はすのであります。樹の枝などを寄せ集めて造るのでありますが、それは圓く造りまして其縁へは皮でずつと壁の代りに卷くです。其皮は大抵いろいろのチョークとか其他のもので白く塗るです。或物は黒く塗るのがあるけれども、白いのが普通である。其屋根は矢張り樹の枝で圓錐形に造るのであります。其上を矢張り皮で被ふのであります。一番の中央の所は穴をあけてある。其處は煙出しと
衣服及び頭飾の話 蒙古人が着ます衣服は、夏は絹或は木綿の物を使ひます。それは大抵支那からして輸入されるのであります。木綿はペルシアからして輸送される。けれども冬は毛皮を着ます。寒い地ですから、其毛皮はロシアから或はその附近のブルガリヤなどから來るのであります。毛皮の衣服を着ました其上へ、蒙古人は大抵二枚の外套を着ます。それは二枚とも毛付きの外套です。一枚の下の方へ着る外套は裏毛になつて居る。それから表へ着る外套は
それから女の方の服裝は男と同じことです。それで結婚するまでは、外國人などから見ると男か女かまるで分らぬさうです。結婚すると少し頭髮の飾が違ひます。衣服は男女同樣で、唯少し女の方が長い。長いけれども殆ど區別が付かぬさうです。無論蒙古人の衣服も日本と同じで右で合はすです。突厥人は左ですが、蒙古人は日本人と同じやうに右です。女の髮の形は是れはなかなか面白いです。口で言ふと却つて分らぬ。繪で描いた方が能く分りませう。嫁に行つて仕舞うて頭髮の前半分剃る。後頭の髮のみを殘す。それを結びます。さうして其處へ以て行つて大きな、今日で言ふ朝鮮人の帽子に似たやうな物を冠ります(この時畫を描く)。斯ういふ風に鉢皿などを逆樣に戴いたと同じことです。頭の上へきちんと冠るやうになつて縁は出て居ります。これを蒙古人は Bocca と申します。それは木の皮で拵へる。其上へ美しい絹を張つて居る。それから其冠り物の頂邊からかう四角な長い物がずつと出て居る。この四角な長い物の側面には穴を明けてある。此處へいろいろな飾りを置きます。鳥の羽根位です。鳥の羽根でなくても何でも宜い。或は絹の布などをやる。それから一番上へ行つては細くなりますが、孔雀の羽根を飾り付けます。冠り物は此處から此處までで高さ二尺何寸、長いのは三尺位あります。この高い冠り物には無論
飮食の話 先づ飮物の方から申しますと、蒙古人は冬の間は米或は小麥などから拵へた所の飮料を飮みます。それは多く支那の方から輸入されます。時に依ると葡萄酒も多少飮む。それはペルシアから輸入される。けれどもそれは極めて少量で、彼らの一般に殊に夏の間に用ゆるのは馬の乳です。馬乳です。馬乳を其儘飮むのではなくして、馬の乳からして製した所のクーミー(Koumis)といふ酒を飮みます。是れは牝馬の乳を搾り取り、それを皮の袋へ澤山詰めて、その皮袋をしつかり括つて大きな棒で皮を敲くです。さうすると熱を起しますから其間に自然に醗酵が出來ます。其熱でハーメントする。それは餘程酸ぱいさうです。蒙古人は之を非常に好くのです。それが彼らの最も好む所の飮料であります。天子とか或は大將とかいふ人になると、此普通のクーミーをもう少し精製した、カラクーミー(Karakoumis)を使用します。是は餘程甘いさうです。善い所を取て年を經て十分精製したのがカラクーミー。是はなかなか普通の人には飮めないのである。身分のある人でなければ飮めぬ。蒙古人は此クーミー或はカラクーミーを非常に用ゐるですから、大抵身分のある人は牝馬を澤山養つて其乳を搾らす。例へて云へば
それから一つ面白いことは蒙古人が客に酒を勸める時です。御客樣があつてクーミーでも飮ます時分には一人は酒を注いだ盃を持つて客の前に往き、其左右へ二人附いて、さうして三人進んで自分の遣らうとする所の人の前へそれを出すです。さうすると片方の貰ふ先生は無論蒙古人でクーミーの嫌ひな者はないから咽喉を鳴らしてそれを取らうとすると逃げて仕舞ふ。又暫くするともう一遍出る。又手を出すと又逃げる。三度か四度必ず盃を渡し掛けて先方が取らうとすると逃げて仕舞つて、四度か五度目に初めて酒を注ぎて飮ますので、さうすると咽喉を鳴らして居る時であるから、それを貰ふと餘程美味いさうです(笑聲起る)。
次に食物はどうかと云ふと、蒙古人は、否蒙古人ばかりでもありませぬ、他の北狄など言ふ蠻族には一體に米がありませぬ、狩りをやつて野獸を捕つてそれを食ふのが唯一の食物ですから、平素から食物を非常に儉約しますが、蒙古人などは其の最も甚だしきもので、どんなものでも食ふ。見付けた物を食ふ。鼠も食ひます。鼠の死んだのでも食ふ。ペストの時には危險な話ですけれども(笑聲起る)、併し蒙古人がペストに罹つたといふ話も餘り聞かない。死んだ鼠でも食ひます。面白い話は虱までも食ふといふ(笑聲起る)。蒙古人は他國人に向つて、君等はこの虱を食はないか、是れは私等の子供の血を啜つたり肉を喰つたりした奴だ、此人間の血肉を餌食とする動物を食はないものがあるものかと云つて虱をすすめたといふことがあります。實際考へれば他の草を食つたり、詰らぬ物を食つて生活して居る動物でも可成り美味いから、人間の血とか肉より食はない虱の方が餘程美味いかも知れない(笑聲起る)。いろいろな物を食ふですが、食ふ時には無論手で掴むです。箸とか肉刺とかいふそんな贅澤な物はありませぬから手で掴む。濟めば構ひはしない靴などで手を拭ふです。さうでなければ何れ野天でありますので草がありますから草でも拭きます。
蒙古人は一體さきに申す通り極めて少量の食物しか取らぬのですから、食物に對しては非常に儉約するですから、お客樣に對しても百人位のお客さんを招んで置いて、唯一つの小豚か何かを一疋殺すです。それですからなかなか皆に渡らぬ位である。けれども蒙古人は極めて少く食つて、それで滿腹するのです。百人程のお客さんにそんな小さい獸類一疋位切つて、それだけでお仕舞ひです。日本人のやうに二皿も三皿も出たりなんぞする贅澤な御馳走は望むことが出來ない。それから切り取つた所の骨なども決して捨てない。骨などを捨るなどといふ贅澤なことはしない。自分に切つて貰つた骨があれば、必ず其骨は腰に下げて居る皮の袋の中へ入れて置く。空腹になつた時分にはそれを出して舐つて又入れて置く。幾度も舐つて終に木を噛んで居ると同じになれば始めて捨てる。決して宴會へ行つて骨があつたからと云つて其骨を遺して歸るといふそんな贅澤なことはしない。それを大切に保存しておき暇のあるとき出して舐る。なかなか食物に對しては儉約なものです。それで其ヨーロッパあたりから蒙古へ行つた人々、例へば前に言つたプラノ・カルピニとかルブルックといふ人々は蒙古にとつてお客樣ですから、勿論蒙古の政府から食料を渡して呉れる。けれどもそれだけでは中々不足勝で中には腹を減らして泣いて居つた人があります。初め呉れた折りに一度分の食物だらうと思つて一遍に食つて仕舞つた所が後から三度分だと聞いて大いに困つたのです。蒙古人は食量が少いから他國人も少いと思つて居る。餘り食物の少量なのは衞生に害があるやうですけれども、是れは戰爭に當つて非常に蒙古人の利益になることがあります。追撃などの場合には數日間殆ど絶食の有樣で敵を追窮することが出來ます。酒嚢飯袋などいふ無藝大食の者より遙か優つて居ります。隨分話が長くなりますが一番後に戰爭の時にはどんなことをするかといふことのお話をしますが、是れは少し面白いです。
戰爭の話 蒙古人は平素は無論牧畜が職業です。いざ戰爭と云ふと其平素牧畜をやつて居つた蒙古人が皆徴發されて兵隊になる。兵隊には給料がありませぬ。何年やつても外債を起す必要はない。何故だと云ふと只で働かせるから。その代り戰爭に行きますと、それには分捕品を分けて遣る。戰爭に行つたら必ず分捕物をする。分捕りをする爲に戰爭をするのです。分捕品を分けるときには丁度此頃相撲などで大關が何程、關脇が何程と云うて割を取るやうにちやんと按分比例になつてあると同樣に、大將には何人分、普通の兵卒はどれだけと云うてちやんと分捕り物を分ける役人があります。其役人が銘々に分捕品を分けて遣ります。それで生活をして參ります。戰爭のときは給料を貰ふのが目的でなくして分捕品を分けるのが目的ですから、何年やりても少しも差支ない。さうして愈戰爭をするときには蒙古兵は大抵騎馬です。蒙古人は小さい時分から皆馬へ乘ることを稽古します。三歳位の時分から馬へ乘つて弓を射ることを稽古しますからして七八歳になつたならばなかなか恐しいものです。蒙古の太祖成吉思汗の西域征伐から歸つて來まして今のアルタイ山の附近に
戰爭の時になりますと蒙古人は一人で澤山の馬を連れます。平均十八頭位連れます。乘るのは一時に十八頭に乘るのではない。一頭に乘つて疲れれば代へる。ですから速力は他國人の想像することの出來ない程早いです。敵を襲撃したりするに頗る都合がよい。それから前に申した通り蒙古人は極めて物を少量しか食ひませぬから是れが戰爭のとき非常に都合が好いのであります。のみならずどんな物でも食ふのですから是れは尚更戰爭中には都合が好いのです。
前に言ひました所のプラノ・カルピニといふ人の記録によると、蒙古人は毎朝稗の粉に水を混ぜた物を一杯飮んで、一日を過ごす。稗の粉に水を混ぜて、それを一杯飮んで、もうそれで一日何にも食はない。とても外國人では想像することの出來ない程小食である。一日や二日必要に應じて何にも食はずとも平氣である。二日位絶食しても決して何とも言はない。鼻歌を唄つて平生の通りで嬉々として居るといふことです。蒙古人は戰爭中殊に敵を追撃する場合、例へば先般の奉天方面の追撃とか、さういふ場合には何にも持たずに飛ぶです。それから空腹になると自分の乘つて居る馬から降りて馬足を刺絡します。馬は非常に駈けて十分充血して居ります故に、其馬の足の血を啜つて其上へ乘つて十日位そんな風にして戰爭に從事するです。からして兵站部が後ろの騎兵に襲はれたから何うとか斯うとかいふやうな戰術の發達した今日の贅澤な兵と同一には出來ない。騎馬は上手であるし、途中で飯がなくても今のやうな方法でやりますからそれは非常な速力です。それから愈戰爭といふことになりますると、蒙古人は必ず冬を選ぶです。秋から冬春の初めまで掛けてが蒙古人の戰爭時期です。夏の間は決して戰爭しませぬ。夏の間は休戰の時期です、其理由はいろいろある。一體蒙古人は馬へ乘つて戰ひますから馬は夏の間草の茂つたときに十分休息をさせるです。馬の肥ゆるのは秋に限つて居ります。是れは蒙古に限つたことではなく、匈奴以來すべて北狄といふものが支那へ入つて來るのは秋に限りますから支那人は北狄の侵入を防ぐことを防秋と書く位です。秋の初めになりますると馬が肥えますから其時を利用するです。それが冬に戰爭をする理由の一つ。もう一つは蒙古人は暑氣を非常に厭ふ。それが第二の理由。それからもう一つは冬は五穀などの收穫を終つたときで何處の國でも一番百姓の富んで居る時であるから其の時に行くと一番掠奪品が多い。夏の頃に行くと丁度前年の收穫の盡きんとする時で十分の掠奪が出來ませぬから必ず冬を見掛けて行く。さうすると掠奪品が多いので利益の點から冬を撰ぶ。もう一つは冬だと云ふと一面に土地河水が氷結するから道路が惡くとも亦河があつても橋を架ける必要がない。蒙古人は水に對しては甚だ意氣地がない。それが一面の氷になると働ける。夏は水になりますから蒙古人は困るです。水は蒙古人は非常に困るです。だから冬だといふと橋などを態架けずとも自然の氷の橋が架りますから、運動には極めて宜い。それからもう一つは冬でありますと草木が皆枯れて展望が宜いです。蒙古人は何れ他國へ侵入するのですから草木が茂つて居ると思はぬ所からどんと襲はれる。冬だと草木が枯れて十分展望が出來ますから、さうすると知らぬ他國へ行つても伏兵に襲はれる氣遣ひはないです。それであるからさういふ點より冬を撰びます。
さてその次には何んな軍隊の組織かといふと、蒙古の軍隊の組織は十人長、百人長、千人長、一萬人長といふ風にして十進法で十人に一組長を置き、百人に一組長を置く、千人に一つ、萬人に一つ。それから各兵の持つて居る武器は無論弓矢を第一とします。蒙古兵の戰場へ行く時は必ず一人毎に弓二張、矢は箙に三杯だけ持つて行く。其外には鑢を用ゐます。鑢は何にするかといふと
愈戰爭を開始するときには大臣會議(蒙古人のいふクリルタイ Kuriltai)を開きます。それには蒙古の王族、大臣、それから各部屬の長などが皆集ります。夫れに依て今度は何處の國を征伐すべきか、其國を征伐するに付ては何時頃から出立して、どういふ手段を取るか又軍隊の分け方、何人程兵を繰出すとか、總大將は誰かといふ其他一切の事を、クリルタイで定めます。それが愈定りますと云ふと出陣する。それから討つ所が定まりますと、殆ど蒙古の習慣として先づ自分の討たんとする國へ使者を派出して降參を勸める。其方は斯く斯くの不都合があるから吾々が征伐しやうと思ふが、潔く降參をしろと勸告する。降參に潔くもない筈です(笑聲起る)。それが第二の順序であります。第三番目には愈降參をする、仰せの通り承知を致した、降參を潔く致すと云ふと、さうすると相當な金穀を納めさす。貴樣の所は人口是れ程あつて盛んな所であるから、それに應じて何萬圓出せとか、幾千の家畜を出せと云つて、必ず出すべきだけの財産を命ずる。若しも先方が勸誘に應ぜず、又は此方から命じた財産を納めぬと、始めて其處を討ちに行く。それからして愈先方と戰爭をする時分には、僞つて逃げて伏兵に陷らしめるのが蒙古人慣用の手段であります。一番に逃げる、先方が追駈けて來るのを伏兵で陷れる。敵が苦しき經驗を嘗めて後には蒙古人が逃げても追駈けるなといふことになりますると、蒙古人は成るたけ先方を怒らせ、さうして其城兵をおびき出す工夫をする。併しどうしても先方がこの計略に乘らずして、城に皆楯籠つて居るときには愈前に申したを使つて石を投るです。平地から投つても城の壁が高いから旨く往かぬ故に、大抵城と同じ高さの築山を拵へます。其上へを置いて、さうして城の中へ石を投込む。百貫位の石を
歐洲征伐の時蒙古兵はハンガリーを攻めたことがありますが、其時は秋の頃で四方を見ると五穀がよく實つて居る。それに住民は蒙古兵が來たと云うて山へ逃げたですから、是は困つたと云うて布令を出した。山へ逃げ込んだハンガリー人が村に歸つたものは決して殺しはしないといふ布令を出しましたから、ハンガリー人は本當かと思つて歸つて來ると、貴樣達は寶が地面一杯にあるのに
以上は住民の事ですが、戰場で蒙古の兵が敵兵を斬りまして日本なら首を斬る時に首を斬らずに左の耳を切ります。首は五十人も三十人も殺すと持ち運ぶのに困りますから、首は是れだけで人間の身體の三分の一近くの重量があるとかいひますから、持ち運びに困るです。それですから左の耳を切る。自分の手柄の代りに殺して仕舞つた奴の左の耳を斬つて、それを君の前へ持つて行つて何人殺しました、耳の數は是れだけと言つて耳を列べる。耳を揃へて返すなどは其處から出たものだらうと思ふ(笑聲起る)。併し果して然るや否やは私は保證する限りでない。蒙古人が南ロシアの南方を征伐した間に斬つた耳の數が二十七萬、それからシレジアといふ其地方では切り取つた耳の數が大きな九個の皮の嚢に一杯になつて這入り切らなんだといふ話があります、終にのぞんでもう一つ殘したことがありますから申しませう。
蒙古人は戰爭は強いですが、一つ弱いことは水の上で戰ふことです。是れは蒙古人だけではない、總て北狄は水に熟ぬから水戰は弱いです。蒙古人は船はありませぬから水に遇ふと困る。河などを渡るときにはどうしますかと云ふと、前に申しました皮の嚢がある。それは軍用品を入て置くのでありますが、それから中の物を出して皮の嚢を浮べて其上へ乘つて渡る。さうでなければ馬を泳がして馬の尻尾をしつかり掴んで向岸へ渡る。そんな仕末ですから海を控へてどんどん戰ふといふことになると蒙古人は駄目です。蒙古人は陸上でこそ天下敵なしの勇兵ですけれども、海の上と來ては誠に意氣地がない。其點から云へば日本は海陸共に蒙古兵よりは強いかも知れぬ。海上ではたしかに日本の兵の方が強い。一體この水に弱いといふことは蒙古人ばかりではありませぬが、同じ支那でも南船北馬と言ひまして北支那の人はまるで水上の働きは駄目です。揚子江から南になると水になれて船にも乘ります。夫故に支那人でも北方の方から起つた支那人はまるで水には弱い。今日でも支那人の海軍を志願するのは揚子江以南の者が多い。三國志などを見ても分りますが、赤壁の戰で魏の曹操が八十萬の兵を率ゐ、呉の周瑜が三萬を率ゐたとか云ふ大きな戰爭ですが、其當時天下第一の智者と言はれた魏の曹操でももともと北方の人ですから水上となると閉口する。揚子江は廣い所は二マイルもあるといふが、何しろ内地を流れて居る河ですから高が知れて居る。それに魏の曹操の軍勢は船へ乘つても船がぐらつくというて怖がつて、とうとう連艦の計とかいふ支那人相當の考を出し、小さい船の澤山あるやつを、此船も此船も鎖で繋ぎつけました。成程船は小さいけれども、皆鎖で繋いであると、大きな船になりますから、所謂大船に乘つた氣で安心して乘りましたが(笑聲起る)、其處を燒討にされましたから逃げる譯に往かない。そんなことで大敗したのです。支那人でもさうですが、所で蒙古人はもう一つ北の方ですから尚更水に付ては弱い。それで蒙古人自身でも陸なら天下敵なしだが、水は宋の人にでも負けると明言して居る。宋は南方の弱い國です、それにも敵はぬと云つて居ります。所がわが弘安の役は其弱い蒙古人が出て來ましたから、たとひ伊勢の神風がなくとも無論彼等は大敗せなければならぬ譯です。弘安の役に來ました敵軍は十四萬人で、支那の方から來たのが十一萬人、それから高麗の方から來たのが三萬でありますから都合十四萬でありますが、其内蒙古人は今申した通り海戰では弱蟲、從軍して來た支那人は蒙古の下に居ることを好まぬ、高麗などは有難迷惑で居りますから、夫等の者どもは十分力を盡す譯はない。其故勝敗の數は初めから分つて居ります。蒙古人は水戰には非常に弱いのであつて、朝鮮と蒙古と戰爭をしたことがありますけれども其時分朝鮮の王樣が朝鮮半島を一寸離れた其處にも見えるといふ位の江華島へ逃込んだので、蒙古の軍隊が其處を三十年も攻めたが降すことが出來なかつたと云ふ位に蒙古兵は水上は弱いです。隨分話が長くなり私も疲れましたから是だけにして置きます。
(明治三十八年六・七・十月『明治學報』所載)