支那人辮髮の歴史

桑原隲藏




         一

 中華民國が成立してから殆ど一週年、黄龍旗が五彩旗と變つたと共に、支那人の辮髮も次第に散髮と變じ、清朝最後の皇帝であつた宣統帝すら、昨夏既に辮を解いたと傳へられて居る。名物の辮髮がその影を中華全土に絶つに至るは、或は遠き將來であるまいと思はれる。
 この名物の支那人の辮髮は、世間で普通に考へられて居るやうに、決して清朝からはじまつたものではない。遙かその以前の金時代、即ち今より約八百年前に實行されたこともある。金以前にも辮髮種族が支那内地を占領して、國を建てたことがあるけれども、當時果してその領内の漢人が辮髮したか否かは判然せぬ。内地在住の漢人が、明に辮髮したのは、金以來のことである。
 金即ち女眞は辮髮種族であつた。その辮髮に就いては、宋の陳準の『北風揚沙録』(1)に、
人皆辮髮、與契丹異。耳垂金環、留臚後髮、以色絲之。富人用珠金飾。
とあるのが尤も詳い記事である。『大金國志』(2)にも略同樣の記載をして居る。辮髮の形状は、此等の記録によつても、多少不判明であるが、金と後の清朝とは同一か、然らずとも極めて近親の種族の間柄であるから(3)、女眞の辮髮の形は、滿人のそれと大差なかつたものと想像される。
 金は西暦千百十四年に遼より獨立し、千百二十五年に遼を滅ぼして、中國の北邊十餘州を手に入れ、ついで千百二十七年に北宋の國都開封を陷れてから、中國の半を占領することとなつた。今の地理でいへば、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部は、金の版圖に歸したのである。かくて金の太宗の天會七年(西暦一一二九)に、始めてその領内の漢人に對して、胡服・※(「髟/几」、第4水準2-93-19)髮の令を下した。
是年六月行下禁。民漢服及削髮不式者死。(4)
 この禁令は決して空文でなかつた。實際頂髮式に背いた爲、又は漢服を着けた爲に、死罪に處せられた者がある(5)。宋の官吏で金の手に捕はれた者は、何れも辮髮を強いられた。青州の觀察使李※(「しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)、保義郎李舟(6)、右武大夫の郭元邁(7)等は、何れも宋の忠臣として、髮を惜んで義に死した人々と傳へられてゐる。宋の周※[#「火+單」、読みは「せん」、442-9]の『北轅録』(8)や、宋の樓鑰の『北行日録』(9)等、南宋時代に金へ使した人々の紀行を見ると、金の領内の漢人が、女眞服を着けて居つたことを明記してある。已に胡服する以上、彼等は同時に辮髮して居つたものと推察される。
 金の章宗の承安五年(西暦一二〇〇)に、女眞人・漢人等の拜儀に就いて議論があつた時、司空の完顏襄が、
今諸人袵髮皆從本朝(金)之制。宜本朝拜。(10)
と主張して、その説が實行された。是によつても當時金廷の官吏は、女眞人と漢人との別なく、一律に胡服・辮髮したことがわかる。之を天會七年の※(「髟/几」、第4水準2-93-19)髮の令と對比すると、金一代を通じて漢人――少くとも漢人で官吏たる者――の辮髮した事實に就いて、殆ど疑を挾むべき餘地がない樣である。

         二

 金の後に蒙古が興る。蒙古は西暦千二百三十四年に先づ金を滅ぼし、續いて千二百七十六年に、南宋を併せて天下を統一した。この蒙古も女眞と同樣、辮髮種族であるが、辮髮の形は可なり相違して居る。蒙古人の辮髮のことは、諸書に散見して、一々列擧するに暇ない程であるが、中に就いて宋の孟※(「王へん+共」、第3水準1-87-92)の『蒙韃備録』と、宋の鄭所南の『心史』との記事が、尤も委細を盡して居る。前者は次の如くである。
上至成吉思ジンギス、下及國人、皆剃婆焦、如中國小兒。留三搭頭〔髮?〕。在※((ノ/(囗<メ)/心)+頁」、第3水準1-93-94)者、稍長則剪之。在兩下者、總小角垂於肩上。(11)
鄭所南の記事も略同樣である。
韃主剃三搭辮髮(中略)云三搭者、環剃去頂上一彎頭髮。留前髮、剪短散垂。却析兩旁髮。垂綰兩髻、懸加左右肩衣襖上。曰不狼兒。言左右垂髻礙於囘視、不上レ狼顧。或合辮爲一。直※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)衣背。(12)
 此等の記録によると、蒙古人は前頭と左右兩側頭に髮を留めて、他は皆剃り去つたものと見える。前頭に留めた髮は、今日の南支那の婦人の前髮の如く、その儘に垂下し、兩側頭に留めた髮は、之を辮み綰げて、幾分わが古代の耳鬘みづらの如くして、その餘端を垂下したのである。鄭所南の記する所によると、左右兩旁の留髮を合せて一辮となし、あたかも滿人の辮髮の如く、背後に垂下したものもある樣であるが、然し之は稀有の場合で、普通は左右両耳の後に二個の辮髮を垂れたものである。『竹崎季長蒙古襲來繪詞』を見ても、國中の蒙古人は皆二個の辮髮――不思議に何れも前頭の留髮はないが――を垂れて居る。
 蒙古人の辮髮のことは、當時東亞へ旅行して來た西洋人の紀行を見ると、一層明瞭である。蒙古時代に東洋に旅行した西洋人の紀行は可なり多いが、中でも William of Rubruck の紀行が一番好い材料を供給する。Rubruck はフランス王の命を奉じて、蒙古の憲宗の廷を訪ひ、西暦千二百五十三年の十二月から、翌千二百五十四年の八月まで、約九ヶ月間蒙古に滯在した人である。彼は蒙古人の辮髮に就いて下の如く記して居る。
男子は皆その頭の頂上を四角形に剃り開き、この四角形の前方の兩隅から蟀谷こめかみまで、頭の兩側を剃り下げる。頭の後部も同樣頸窩ぼんのくぼまで剃り下げる。前頭には一束の髮を殘して、その餘は剃り捨てる。この殘した一束の髮はその儘眉際まで垂れ散らし、頭の左右兩側に存する髮は、編みて兩耳の邊に辮髮とする。(13)
 Rubruck に先だつて、ローマ法皇の使節として、蒙古の定宗の廷に往つた Plano Carpini 、同じくローマ法皇の使節として、ペルシアの Baidjou の營を訪うた Anselm 等も、蒙古人の辮髮に就いて參考すべき記録を傳へて居る(14)。此等の記事を漢籍のそれと比較すると、蒙古人の辮髮の有樣は容易に理會される。『中國歴代帝后像』に收むる所の、元の諸帝の肖像を參照すると、一層理會を容易ならしめる。

         三

 辮髮種族の蒙古人が支那を統一した時、その主權の下に立つた漢人の多くは、辮髮したものと見える。蒙古時代には朝鮮でもペルシアでも、蒙古人の直間接の支配を受けた地方では、一律に辮髮が流行した。西暦十三世紀の頃に、ペルシア地方では耶蘇教徒たると囘教徒たるとを問はず、多く皆辮髮をして居つた。(15)
 朝鮮では高麗の元宗の時、始めて蒙古の風俗採用の議が出たが、實行されずに濟んだ(16)。元宗の子の忠烈王は早く蒙古に質となり、殊に元の世祖忽必烈フビライの女、忽都魯掲里迷失クツルガイミシ(Khutlgaimish)公主をその妃に迎へた關係から、早く辮髮・胡服して得意滿面であつた(17)。西暦千二百七十四年に彼が元から歸り、父元宗の後を承けて高麗王となると、劈頭にその國人の辮髮せざる者を叱責して居る。かくて大臣先づ辮髮を行ひ、後ち四年にして千二百七十八年に、國内に辮髮の令を下した。
忠烈王四年二月。令境内皆服上國(元)衣冠開剃。蒙古俗剃頂至額。方其形髮其中。謂之開剃。(18)
辛※[#「しめすへん+禺」、読みは「ぐ」、445-6]の十三年(西暦一三八七)に辮髮・胡服を廢して、大明の衣冠をとるまで(19)、約百十年間、朝鮮の官吏、學生等は皆辮髮したのである。
 朝鮮やペルシアの例から推測すると、蒙古の支配を受けた漢人も、或は同樣であつたらうと想像される。吾が輩は昨年の一月の『大阪朝日新聞』に、支那の革命に關する一文を寄せた時、蒙古時代に於ける漢人の辮髮のことに論及して、その直接の證據は未だ見當らぬと述べて置いたが、その後『皇明實録』を閲して、確實なる證據を發見することが出來た。即ち明の太祖の洪武元年(西暦一三六八)二月の條に、下の如き記事がある。
詔復衣冠唐制。初元世祖起朔漠以有天下。悉以胡俗易中國之制。士庶咸辮髮推髻。深※[#「ころもへん+瞻のつくり」、読みは「せん」、445-12]胡帽。(中略)無復中國衣冠之舊。甚者易其姓氏胡名。習胡語。俗化既久、恬不怪。上久厭之。至是悉命復衣冠唐制。士民皆束髮於頂(中略)其辮髮推髻胡服胡語胡姓一切禁止。(中略)於是百有餘年。胡俗悉復中國之舊矣。
 明の太祖が中原を光復するや否や、胡元の風俗を改め、中國傳來の衣冠を再興したので、元時代の漢人が辮髮・胡服して居つた事實は、最早疑ふべき餘地がなくなつた譯である。
 蒙古時代の漢人の辮髮・胡服を事實として、その辮髮・胡服は金時代と同樣、政府の禁令によつて強制された結果であるか、或は漢人の迎合主義で、自ら進んで官憲の意に阿つた結果であるかは、輕々に斷定し難い。上に引用した『皇明實録』の記事では、元朝の政策の結果の樣にも考へられるが、然し元一代を通じて――未だ十分の調査はせぬが――漢服・蓄髮の禁令は發布されて居らぬ樣である。
 しかのみならず高麗人が服飾を變更した時、元の世祖は却つてみだりに國風を改むることを不可として、その輕薄を戒めて居る(20)。されば蒙古時代に朝鮮人の辮髮・胡服したのは、蒙古の命令でなく、例の迎合主義から實行したものである。主權者の意を迎合することに於て、甚しく朝鮮人に讓らざる漢人のことであるから、殊に蒙古時代には漢人の多くが、自から進んで蒙古名を稱し、蒙古語を習つて、得意となつた事實もあるから(21)、彼等の辮髮も或は迎合主義の結果かも知れぬ。

         四

 明一代は中國主義の發揮された時代で、その二百八十年の間、漢人は皆蓄髮した。されど明が滅んで清朝となると、復た又辮髮が行はれて來た。清朝の辮髮に就いては、吾が輩は極めて簡單ながら、昨年一月の『大阪朝日新聞』紙上に紹介したことがある。清の太祖・太宗時代から、遼東方面に於て投降して來た漢人には、皆薙髮即ち辮髮さして居るが、支那本土に於ける漢人の辮髮・胡服は、世祖の順治元年(西暦一六四四)に試行せられ、翌二年に強制せられたのである。順治元年清軍が關を入ると間もなく、沿道の漢人に辮髮を命じて居る。その五月二日に愈※(二の字点、1-2-22)北京に入ると、その翌三日に早くも、
凡投誠官吏軍民。皆セシム薙髮衣冠、悉遵本朝制度。(22)
といふ※(「にんべん+布」、第3水準1-14-14)告を出した。所がこの衣冠變更は頗る漢人の感情を害し、形勢不穩と見て取つたる當時の攝政、睿親王多爾袞ドルゴンは、同月二十四日に次の如き諭文を下して居る。
予前因降順之民、無上レ分別。故令薙髮以別順逆。今聞甚モトル民願。反非予以文教民之本心矣。自茲以後、天下臣民照舊束髮、悉從其便。(23)
 即ち一時辮髮と蓄髮とは人民の便宜に任せたのであるが、順治二年(西暦一六四五)江南ほぼ平定に歸すると同時に、その六月十六日から清廷の態度は俄然一變して、辮髮を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行することとなつた。その時の諭文は左の如くである。
向來コレマデ薙髮之制、不即令畫一、姑聽自便者。欲天下大定始行此制耳。今中外一家、君猶父也、民猶子也。父子一體、豈可違異。若不畫一、終屬二心。不異國之人乎。(中略)自今布告之後、京城内外限旬日。直隷各省地方、自部文到日亦限旬日、盡令薙髮。遵依者爲我國之民、遲疑者同逆命之寇、必※(「宀/眞」、第3水準1-47-57)重罪。若規避惜髮、巧辭爭辯、決不輕貨。該地方文武各官、皆當嚴行察驗。若有復爲此事、涜進章奏、欲已定地方人民仍存明制不隨本朝制度。殺無赦。(24)
 かくて清朝の保護の下に立つ者は、僧侶と道士とを除くの外、皆必ず辮髮・胡服せねばならぬこととなつた。孔子の裔なる孔文※[#「言+票」、読みは「ひょう」、447-14]が、その宗家の衍聖公孔允植の爲に、孔廟の禮儀を執行するに、新制は不便多ければ、蓄髮して先王の衣冠を用ゐたしと願ひ出でて大譴責を蒙り、孔聖の裔たる故を以て、僅に死罪を免ぜられたといふ事件も、この當時のことである。金・元時代――漢人の辮髮・胡服した時代――でも、曲阜の聖裔に限つて、儒冠・儒服を著けたが、清朝では一律に辮髮・胡服を命じたので、その決心の鞏固なる一端を察知することが出來る。
 然し夷を以て華を變ぜんとするこの規定は、當時の漢人――保守的自尊的で、殊に父母より受けたる身體髮膚を毀傷せざるを孝道の始と信じて居る漢人――の反感を招いたことは想像以上である。清廷も漢人の反感の大なれば大なる程、愈※(二の字点、1-2-22)嚴重に辮髮を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行し、留頭不髮、留髮不頭といふ制札を、江南地方に掲示させた(25)。之に關せず漢人は猶も頑強に護髮の決心を捨てぬ。江陰の虐殺も、嘉定の屠城も、畢竟この衝突の一結果たるに過ぎぬ。南風競はずして、大勢不可と極つた時でも、頭可斷、髮不薙と豪語した左懋第がある。膝不屈、髮不披と壯言した余煌がある。欲鬚髮千古、※[#「てへん+弁」、読みは「べん」、448-6]取頭顱九逵の句を留めた王之仁がある。勢不爲、髮膚將獻、畜固難存、薙亦見羞の詞を殘した傅日炯がある。更に奇拔な者には、其の頭髮を埋めて髮塚を立て、自から嚢雲髮塚銘を作つた周齊曾がある。その他海島に遁がれた者、山林に隱れた者は、一々列擧するに暇がない。昨年上海で出版された『滿夷猾夏始末記』中に、髮史の一篇がある。不充分ながら清初の辮髮に關係ある事件を集録してあつて、幾分の參考に供することが出來る。

         五

 更に飜つて明・清革命の際に關係ある二三歐人の記録を繙くと、漢人が如何に激しく辮髮に反對したかが一層判然する。第一に d'Orl※(アキュートアクセント付きE小文字)ans の『支那を征服せし韃靼二帝の歴史』は、當時の光景を次の如く描いて居る。
辮髮・胡服の新制は、痛く漢人の反感を招いた。彼等は所在に滿洲政府に對して叛亂を起した。漢人は異族に羈絆さるるよりも、その羈絆の徽號シンボルとして辮髮・胡服を強制さるることを、大屈辱と信じて居る。さきにその頭を斷ざらんが爲に、羊の如く柔順であつた漢人は、今やその髮を斷ざらんが爲に、虎の如く奮起した。當時若し江南の明の諸王がよく一致して、内訌を釀さなかつたら、滿人が果してよく支那を統一し得たか否かは、頗る疑問に屬したのである。(26)
d'Orl※(アキュートアクセント付きE小文字)ans の著書は西暦千六百八十八年の出版で、時代はやや後れて居るけれども、その記事は當時支那在住の耶蘇教士、殊に Adam Schall 即ち湯若望の報告にもとづいたもので、頗る信用すべきものである。
 d'Orl※(アキュートアクセント付きE小文字)ans の著書より一層參考に供すべき材料として、有名なる Martin Martini の『韃靼戰記』がある。Martini は漢名を衞匡國といふ。耶蘇教會の宣教師で、明・清鼎革の際の前後にかけて、約十年間南支那に滯在して、親しく當時の實地を目撃した人であるから、その記事の信憑すべきは申す迄もない。彼の『韃靼戰記』には、辮髮に關する記事尠からざる中にも、浙江省紹興府に就いて、次の如く敍述して居る。
韃靼軍は格別の抵抗を受けずに紹興府を占領した。浙江省南半の府縣も、容易に征服し得べき形勢であつたが、然し韃靼軍が新に歸順した漢人に辮髮を強制するや否や、一切の漢人――兵士も市民も――は皆武器を執つて起ち、國家の爲よりも、皇室の爲よりも、寧ろ自家頭上の毛髮を保護せんが爲に、身命を賭して韃靼軍に抵抗して、遂に彼等を錢塘江以北に撃退した。(27)
Martini 自身は當時もと仕へて居つた明の唐王の許を辭して、南浙江に居つたが、温州陷落の時、韃靼軍の手に歸して、遂に辮髮・胡服に姿を變へた。
 清の順治五年(西暦一六四八)に起つた、江西の總兵金聲桓の叛――清軍の南方經略に一時尠からざる障碍を與へた事件――の眞相は、支那の史料ではやや不明瞭であるが、Martini によると、矢張り辮髮に關係してゐる。金聲桓が嘗て觀戲の際、俳優の著けた支那古代の服裝を賞讚したのが、彼の政敵によつて、滿洲の服裝に不滿を懷く者と誣告せられ、罪を得んことを恐るる餘り、遂に兵を擧げたのである。
 『韃靼戰記』の中で、今一つ注意すべき記事は、清朝の朝鮮に辮髮を強制せんとしたことである。その記事によると、最初朝鮮が清朝に服從した時、衣冠はその舊に依る約束であつたに拘らず、後に清朝は舊約を無視して、朝鮮に辮髮・胡服を命じたから、朝鮮は之に不平を懷き、その羈厄を脱せんと企てた。然しこの事件は Martini の支那出發間際に起つたので、その後の消息を詳にせぬといふことである。(28)
 この記事には年月を繋けてないが、彼がローマへ出發する西暦千六百五十年頃の出來事なるは疑を容れぬ。西暦千六百五十年頃は、正しく朝鮮の孝宗時代に當つて、當時朝鮮と支那との國際關係頗る不穩の状態を呈し、已に順治七年(西暦一六五〇)には、清廷より朝鮮に對して、「其修城集兵整頓器械之事、※(「山/而」、第4水準2-85-6)モツパラ朕爲一レ難也。(中略)朕惟備之而已。夫復何言」といふ勅諭を發して居る位である(29)。されどこの紛爭は衣冠の變更とは關係ない樣に思はれる。一寸清・韓の史料を調査した所では、Martini の記事を其の儘に信用する譯にはいかぬ。或は Martini の訛傳か、或は吾輩の調査の不行屆かは、更に他日の研覈に待たねばならぬ。
 Martini は支那から歐洲への歸途に、Batavia に立ち寄つて、そこの蘭人に明が滅び、新に興つた清朝はむしろ海外通商に好意を有する由を告げた。之に動かされて蘭人は清朝へ使節を派遣することとなつた。西暦千六百五十五年に派遣された使者一行は、翌千六百五十六年(順治一三)の七月に北京に入り、順治帝に拜謁して居る。この一行に加つた Nieuhoff の記録によると(30)、直隷・山東の二省は、初め極めて柔順に韃靼軍に歸服したが、一旦辮髮の令が出ると共に、俄然大抵抗を企て、その頭髮を保護せん爲に、幾千の死人を出して居る。北支那でも當初辮髮反對熱の隨分高かつたことがわかる。

         六

 時は一切を軟化せしむる魔力をもつて居る。最初死ぬ程辮髮を嫌つた漢人は、流石に康煕の末頃までは――Careri の『世界一週記』にも明記せるが如く(31)――頗る辮髮を喜ばなかつたが、雍正・乾隆・嘉慶と年を經る儘に、次第に辮髮に慣れて來て、果ては髮の編み樣、頭の剃り樣に、追々流行を競ふ有樣となつた。清の中世以後となると、漢人がその辮髮を大切にすることは一通りでない。五天一打辮子、十天一剃頭とて、五日毎に一囘辮子を編み直し、十日毎に一度頭髮を剃るのが、普通であるけれども、之では滿足出來ぬ者が尠くない。天子諒闇の時は、可なり長い期間、臣民は一切剃頭出來ぬ規定であるが、この期間を待ち詫び、官憲の目を掠め、或はその默許を得て、剃頭鋪かみそりやに立ち寄る者が甚だ多い。咸豐帝崩御の際に於ける光景は、當時北清在留の英人の手によつて傳へられて居る(32)。光緒帝崩御の時の實況は、吾が輩の親しく經驗した所である。
 されば長髮賊の亂の時代には、江南の漢人でも、容易にその辮髮を改めることを肯かなかつた。今囘中華民國が建設された當初、嚴しく辮髮を排斥して、官吏學生の間には、可なり斷髮が實行されたが、民間ではまだまだ辮髮が勢力を持つて居る。特に北支那に於て左樣である。昨年一、二月の交、マレー半島に於ても、ジャワに於ても、在留支那人間――勿論江南の漢人が多いが――に大騷動が起つたが、その最大原因は、辮髮と斷髮との爭であつた。その後引續いて起つた支那内地の紛擾も、辮髮に關係したものが尠くない。舊革命黨側の人々は、或は北京で斷髮強制會を結び、或は參議院に斷髮※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行法を出したけれども、その結果は要するに失敗に終つた。今日でも北京在住民の約五分の四は、依然辮髮者と傳へられて居る。この樣子では辮髮の命脈は、意外に長く持續するかも知れぬ。
 支那では髮厄又は髮禍といふ熟字が出來て居る。全世界に於て、漢人程頭髮の爲に厄禍に罹つた種族はあるまい。金時代に辮髮の令發布されてから、今日まで約八百年、明の三百年足らずを除くと、その餘の五百年の間、漢人――殊に北支那の漢人――の多くは辮髮をして居つたので、この辮髮の強制には、必ず怖るべき威嚇殺戮が伴つて居る。明・清革命の際、若くば髮匪興起の際に當つて、辮髮すれば南軍に殺され、蓄髮すれば北軍に誅せられるといふ有樣で、兩軍の間に立つた漢人が、その頭髮の處置に窮したことは、吾人の想像以上である。頭髮の爲に古今幾十百萬の漢人が、その生命を失つた。實に世界稀覯の奇現象といはねばならぬ。(一月十四日稿)

參照
(1)『説郛』※[#「弱」の片側のみ、452-8]第五十五
(2)『大金國志』卷三十九
(3)De Harlez ; Niu-tchis et Mandchous, rapports d'Origine et de Language(J. A. 1888). p. 248.
Lacouperie ; The Djurtchen of Mandshuria(J. R. A. S. 1889). p. 454.
(4)(5)『大金國志』卷五
(6)『續資治通鑑』卷一百六
(7)『宋史』卷四百四十九
(8)『説郛』※[#「弱」の片側のみ、452-15]第五十六
(9)『武英殿聚珍版全書』所收『攻※(「女+鬼」、第4水準2-5-73)集』卷百十一
(10)『金史』卷三十五禮志八
(11)『説郛』※[#「弱」の片側のみ、452-18]第五十六
(12)元の鄭所南の『心史』大義略敍
(13)(14)(15)Rockhill ; The Journey of William of Rubruck to the Eastern Parts of the World. p. 7.
(16)『高麗史』卷二十八
(17)『高麗史』卷二十七
(18)(19)『高麗史』卷七十二輿服志
(20)『高麗史』卷二十八
(21)清の趙翼の『二十二史箚記』卷三十、『國粹學報』乙巳號所載、黄節氏族變第五、及び『心史』大義略敍
(22)(23)『東華録』順治卷二
(24)『東華録』順治卷四
(25)『痛史』所收『江上弧忠録』
(26)d'Orl※(アキュートアクセント付きE小文字)ans ; History of the two Tartar Conquerors of China. 24.
(27)Martin Martini ; Bellum Tartaricum or the History of the Warres of the Tartars in China. 283.
(28)Martin Martini ; Bellum Tartaricum. p. 298.
(29)『同文彙考』卷七十八
(30)An Embassy from the E. I. C. of the United Provinces to the Grand Tartar Cham. p. 311.
(31)A Voyage round the World(Churchill's Voyages and Travels. Vol. IV). p. 358.
(32)Rennie ; Peking and the Pekingese. Vol. II. p. 192.
(大正二年二月『藝文』第四年第二號所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
※底本では、注釈番号は、本文の右脇にルビのように組まれている。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年3月4日公開
2004年2月21日修正
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