凧の話もこれまで沢山したので、別に新らしい話もないが、読む人も違おうから、考え出すままにいろいろな事を話して見よう。
凧の種類には扇、
袢纏、
鳶、
蝉、あんどん、
奴、
三番叟、ぶか、
烏、すが凧などがあって、主に細工物で、扇の形をしていたり、蝉の形になっていたりするものである。これらの種類のものは支那から来たもののようである。また普通の凧の絵は、達磨、
月浪、
童子格子、日の出に鶴、
雲龍、
玉取龍、
鯉の
滝上り、
山姥に金太郎、
或いは『
三国志』や『
水滸伝』の人物などのものがある。また字を書いたのでは、
鷲、
獅子、
虎、
龍、嵐、魚、鶴、などと
大体凧の絵や字は定まっている。けれども『三国志』や『水滸伝』の人物の二人立三人立などの細かい絵になると、高く
揚った場合、折角の絵も分らないから、それよりも月浪とか童子格子とか、字なら龍とか嵐などがいいようである。長崎の凧は昔
葡萄牙や
和蘭の船の旗を模したと見えて、今日でも信号旗のようなものが多い。
糸目のつけ方にはいろいろあって、
両かしぎ、下糸目、上糸目、
乳糸目、三本糸目、二本糸目、本糸目などがある。
両かしぎというのは、左右へかしぐようにつける糸目で、凧の
喧嘩には是非これに限る。下糸目にすれば
手繰った時凧が下を向いて来るし、上糸目にすれば下って来る。乳糸目というのは普通糸目の他に乳のように左右へ別に二本
殖やすのである。二本糸目というのは、うら張りの具合で、上下二本の糸目でも充分なのである。本糸目というと、即ち骨の
重った所及び
角々全部へ糸目をつけたものである。骨は
巻骨即ち障子骨、六本骨、七本骨などがあって、巻骨は骨へ細い紙を巻いたもので、障子の骨のようになっているので、障子骨の名もある。六本骨七本骨は、普通の骨組みで、即ちX形に組んだ骨が
這入っているのである。そうしてこの巻骨の障子骨は丈夫で良い凧としてある。なお上等の凧は、紙の周囲に糸が這入っているのが例である。
糸は「いわない」またの名を「きんかん」というのが最もよいとしている。この凧に附随したものは、即ち「
雁木」と「うなり」だが、長崎では「ビードロコマ」といって雁木の代りにビードロの粉を
松やにで糸へつけて、それで相手の凧の糸を
摺り切るのである。「うなり」は鯨を第一とし、次ぎは
籐であるが、その音がさすがに違うのである。また
真鍮で造ったものもあったが、値も高いし、重くもあるので
廃ってしまった。今日では「ゴムうなり」が出来たようだ。それからこの「うなり」を、凧よりも長いのを付けると、昔江戸などでは「おいらん」と
称えて田舎式としたものである。
凧にも随分大きなものがあって、阿波の
撫養町の凧は、
美濃紙千五百枚、岡崎の「わんわん」という凧も、同じく千五百枚を張るのであるという。その他、
大代の「菊一」というのが千四百枚、北浜の「笹」というのが千枚、吉永の「
釘抜」が九百枚、木津新町の「菊巴」が九百枚の大きさである。
珍らしいものでは、飛騨に
莨の葉を凧にしたものがある。また南洋では袋のような凧を
揚げて、その凧から糸を垂れて水中の魚を釣るという面白い用途もある。朝鮮の凧は五本骨で、真中に大きな丸い穴が空いていて、上に日、下に月が描いてある。真中に大きな穴が空いていてよく揚ると思うが、誠に不思議である。前にいった「すが凧」というのは「すが糸」であげる精巧な小さな凧で、これは今日では飾り凧とされている。これは江戸の頃、秋山正三郎という者がこしらえたもので、上野の広小路で売っていたのである。その頃この広小路のすが凧売りの
錦絵が出来ていたと思った。
さて私の子供の時分のことを思い出して話して見よう。その頃、男の子の春の遊びというと、
玩具では
纏や
鳶口、外の遊びでは竹馬に
独楽などであったが、第一は凧である。電線のない時分であるから、初春の江戸の空は狭きまでに
各種の凧で飾られたものである。その時分は町中でも諸所に広場があったので、そこへ持ち出して揚げる。揚りきるとそのまま家々の屋根などを巧みに避けて、自分の家へ持ち帰り、家の内に坐りながら、大空高く揚った凧を持って楽しんでいたものである。大きいのになると、十四、五枚のものもあったが、それらは大人が揚げたものであった。
私のいた日本橋
馬喰町の近くには、秩父屋という名高い凧屋があって、浅草の観音の市の日から、店先きに種々の
綺麗な大きな凧を飾って売り出したものであった。昔は凧の絵の赤い色は皆な
蘇枋というもので描いたので、これはやはり日本橋の伊勢佐という
生薬屋で専売していたのだが、これを火で温めながら、凧へ塗ったものである。その秩父屋でも
何時も店で、火の上へ蘇枋を入れた皿を掛けて、温めながら凧を立て掛けて置いて、いろいろな絵を描いていたが、誠にいい気分のものであった。またこの秩父屋の
奴凧は、名優
坂東三津五郎の似顔で有名なものだった。この秩父屋にいた職人が、五年ばかり前まで、上野のいとう松坂の横で凧屋をしていたが、この人の家の奴凧も、主家のを写したのであるから、やはり三津五郎の顔であった。
それからもう一つ、私の近所で名高かったものは、両国の
釣金の「堀龍」という凧であった。これは両国の
袂の
釣竿屋の金という人が
拵らえて売る凧で、龍という字が二重になっているのだが、これは
喧嘩凧として有名なもので、
随って尾などは絶対につけずに揚げるいわゆる
坊主凧であった。
今日でも
稀には見掛けるが、昔の凧屋の看板というものが面白かった。
籠で
蛸の形を拵らえて、目玉に金紙が張ってあって、それが風でくるりくるりと引っくり返るようになっていた。足は例の通り八本プラリブラリとぶら下っていて、頭には家に
依って
豆絞りの
手拭で鉢巻をさせてあるのもあり、
剣烏帽子を
被っているものもあったりした。
この凧遊びも二月の
初午になると、その後は余り揚げる子供もなくなって、三月に這入ると、もう「三月の下り凧」と俗に唱えて、この時分に凧を揚げると笑われたものであった。
さておしまいに、手元に書きとめてある凧の句を二ツ三ツ挙げて見よう。
えた村の空も一つぞ凧 去来
葛飾や江戸を離れぬ凧 其角
美しき凧あがりけり乞食小屋 一茶
物の名の鮹や古郷のいかのぼり 宗因
糸つける人と遊ぶや凧 嵐雪
今の列子糸わく重し人形凧 尺草
(大正七年一月『趣味之友』第二十五号)