出版の今昔

市島春城




 版書版本は文化の生んだ華で、昔は或る階級の外見ることが出來なかつたものである。この華の咲かない前の吾等の遠い祖先などは夢にも版本を知らずに墓に入つた。出版が出來てからも地方のものなどは全く知らなかつた時代もある。今は婦女小兒の娯樂用に澤山の繪本があるが、或る時代には貴族の家でも、お伽草子は筆寫のものであつた。平安朝には既に版書が行はれた頃だが、版書は幾んど寺院の摺經に限られてゐた。源氏物語を書いた紫式部などは、石山寺で版經は見たでもあらうが、己れの筆作に係る大部の小説が、後世版刻されようなどとは夢にも期さなかつたであらうと想像されるが、出版が盛んになつた後の世には、幾十囘もこれが板に刻されて教科書ともなり、その注釋、その評論、その拔萃等の末書が幾百に及んでをることを式部を地下に起して見せたらどんなに驚くことであらうか。
 書物が如何に文化に大切であつても、それが衆庶の眼に觸れないでは、文化に餘り裨益する所がない。出版はその傳播の方便であることは、ラヂオが思想の傳播機關であると同樣で、出版を知らない國土には文化は無いとも言ひ得るのである。隨つて日本の出版の歴史は取りも直さず日本の文化史である。その歴史は複雜であるから、簡單に語ることは困難だが、日本の出版は佛教宣傳より其因を發し、その發達も佛教の隆盛に伴ひ、出版の歴史は佛教の歴史と常に纒綿し、長い間出版と云へば佛教の經典に幾んど限られたものであつた。往々佛書以外の書物即ち外典が出版されたけれども、それは佛書出版の餘波に過ぎなかつた時代もある。
 佛教では教義の研究のため又誦讀のために多くの經文を要したが、經文を作ることが佛の供養とされ、亦罪障消滅と云ふ思想からも作られたから、其數は實に夥しいものであるが、それは宗教を弘めるに功があつても、直接一般文化を裨益したのは佛書以外の書物が多く出版されてからで、それは比較的近世の事に屬してゐる。文權は久しく僧侶の手にあつたから、僧侶の爲めに詩文や字書や韻書などは寺から出版されたこともあるけれども、一般※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、386-11]書が佛典から獨立して出版さるゝに至つたのは、文祿の役に朝鮮の活字を持ち來り、出版界に一生面を開いてからの事である。豐公の征韓は此意味に於て日本文化に偉功があると云ひ得るのである。
 日本の最古の出版は世界最古の出版で、それが矢張り佛典であるが、勅版から端を發してゐるのは面白いことである。則ち聖武帝が[#「聖武帝が」はママ]百萬塔を寺々に納めらるゝに當り、塔内に置く百萬部の四種の陀羅尼を印刷したのが、所謂寳龜版で[#「寳龜版で」はママ]、此時代には世界のどの國にも出版はまだ無かつた。支那の書物には寶龜に少しく先んじて出版があつたと書かれてゐるけれども、其實物が存在しないから、日本が最古出版の誇りを持つものである。この陀羅尼經は小さなものであるけれども、其數が百萬と云ふ大量である爲め、便宜上出版が工夫されたが、それが木版であつたか金屬版であつたか、研究家に一二の説はあるが、金屬版であつたらしい。これが空前の最古の出版で、この先蹤はありながら、久しいこと出版はまだ行はれなかつた。
 古く佛教の開けた所は、奈良の舊都で、こゝには東大寺、興福寺、法隆寺等の名刹があり、この興福寺の配下には春日社があり、紀州には高野山があり江州には叡山がある。京都を繞つて、多く有力の寺があつたが、京都も各宗の本山があつたので、京都を中心とする上方が、出版の淵叢で、寺々の出版物はこゝに輻輳した。大なる寺院には自から版を刻し旦つ[#「旦つ」はママ]自から印刷した所もあつたが、多くは京都の書肆によつて出版され、江戸に徳川幕府が開け文權はこゝに移つても、出版となると京都が專賣で、諸侯その他が出版を企ると、多くは京都の書肆に托した。江戸で盛んに出版するやうになつたのは降つて元祿頃である。京都は江戸の如く火災の無い處だから、方々から托された版木がこゝにどれほど堆積したか、想像も及ばない程の大量であつたに相違ないが、預りものであるから勝手に處分することも出來ず、縱まゝに出版することも出來なかつた。當時の法として、版木を二三軒の書肆に分けて預ける法が行はれたから、其書肆が共同しなければ、出版が出來ないので、そこにおのづから版權の保護と制裁もあつた。江戸に出版が盛んになつた沿革的記述は煩瑣に渉るから、それは後項に點出することゝして、出版界の大勢を知る便宜のため、左の六類に分つて多少の觀察を試みよう。時代を逐うて多數の書目を列擧する如きはこの短篇の企て及ばない所であるから、六類に就て聊か述るに過ぎない。
一 勅版
二 官版
三 諸侯版
四 豪族版
五 寺院版
六 私版
 此分類は勿論學術的ではないが、談説の便宜から假りに斯く分つたに外ならない。
(一)勅版の最も古いのは聖武帝の[#「聖武帝の」はママ]百萬塔納經四種の陀羅尼で、これが日本ばかりでなく、世界の最古の出版であることは前に言うた通りである。其後朝廷の支援で多くの名刹から種々の經典が出版されたが、勅版は其後長く無く、文祿二年秀吉が朝鮮から獲た活字を朝廷に獻じたので、時の天皇後陽成帝が、その活字を以て古文孝經を出版遊ばされ近侍に賜つた。これが聖武帝[#「聖武帝」はママ]勅版後初めてゞあつて、其後同じ御宇の慶長二年より同八年に至るまでに、錦繍殿、勸學文、日本書紀神代卷、四書、職原抄などが出版されたが、その活字は朝鮮に傚つて製作されたものであつた。尚後水尾天皇も父帝に傚つて元和七年に皇朝類苑十五册を活字で印行せしめられ、これも近侍に賜つただけで、廣く流布しなかつたにせよ、以上の勅版は大なる刺戟を公家其他に與へ、徳川家康が、特に活字を製して皇室に獻ずるに至つた。家康が足利學校の元信[#「元信」はママ](三要)に命じて作らせた木活字や、晩年林羅山や金地院の崇傳に作らせた銅活字などで、大藏一覽集、群書治要、孔子家語、三略、六韜、東鑑、其他を刷行したのは、勅版の刺戟に由るとも云ひ得るのであつて、こゝに注意すべきは、儒書が漸く佛書から獨立して出版さるゝに至つたことである。
(二)官版は爲政者の出版であると解すれば、勅版も官版であり、家康の出版に係る數多の※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、389-12]書も官版と見るべきであらう。徳川將軍が諸藩に命じて出版せしめたものも官版に準ずるものであるが、勅版と諸侯版は便宜上類を立てたから、それを除くとすると、官版は樂翁公執政の時多く出てをる。林述齋が昌平學校で官版の銘を打つて出版された多くの書物は支那刊本の覆刻であつた。支那に佚して日本のみに存する佚書の叢刊(佚存叢書)と塙保己一の和學講談所で出版した群書類從なども共に幕府の補給で出版されてゐるから官版として差支ないであらう。
(三)諸侯版と云ふのは各藩で出版したものを云ふので、藩には大抵學校があつたので、その教科用に出版したものは勿論少くない。又藩公に著述があつてそれを出版したことも少くない。水戸の大日本史の如きは其顯著の例である。尚徳川幕府は諸藩に令して出版を奬勵し此結果として、各藩競うて思ひ/\の出版を試みた。それ等は大抵儒書で、宋版の覆刻も少くなかつた。如何なる小藩と雖檢討すれば必ず何か出版のあるのは、幕府の奬勵に由來するものである。諸藩の出版の内によく知れてゐるのは、川越版の校刻日本外史などである。この書は確か八版位重ねて、江戸の板木師は長い間この板刻に專らかゝり切りであつたと云はれる程盛んに行はれた。同藩では當初學校用に版刻したので、營利の爲めにしたのでなかつたが、この版本が盛行のため、頼家の出版が押されて一向賣れなくなつたので、頼家から版權の訴訟をやつた結果、五萬圓の權料を取るに至つた位よく流布したものだ。尚道樂出版とも云ふべきものを擧ると、樂翁公の集古十種の如き豪華版があり、水野閣老の丹鶴叢書百三十餘册の佳版があり、富山侯が本艸の豪華版を作りつゝある時、仕事場が火災に罹つたので、擔當者が斬罪に處せられた悲慘事があつたので、後世その書に「人斬り本艸」の名を留めるやうな椿事もあつた。
(四)豪族版と云ふのも自分の便宜上一類を立てたので、諸侯にもあらざる人で、出版界に功績ある有力者の名を沒却しなくない微意に外ならないが、此部類には正平版論語を刻した堺浦の道祐がある。同じく堺の阿佐井野宗瑞は醫書大全を刻してゐる。高師直、足利尊氏が罪障消滅の祈願に佛典を刊し、尼子晴久、大内義隆にも刊經があり、秋田城介泰盛は高野山の開版事業を助けて功績があり、直江兼續は文選を開刊し、豐臣秀頼は倭漢合運※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、391-6][#「倭漢合運※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、391-6]を」はママ]出版してゐる。本阿彌光悦、角倉素庵が幾多嵯峨本を開刊してゐるのと、醫師で出版に功績あるものは小瀬甫庵や五十川了庵、延壽院玄朔、醫徳堂守三、梅壽軒などがあつて、共に活字本を多く出してゐるが、以上醫家の出したものは醫書のみでもない。以上は書史に著名の人々であるが、皆室町より慶長に到る出版の困難時代の有力者であつた。尚以上出版の内、嵯峨本と唱ふるものは、光悦の獨創の意匠に成り、光悦書風の活字を作り、紙も特別に作らせ、或は五色に染め或は雲母を引き、標紙には雲母の繪で裝飾せらるゝなど、當時のみならず後世に至つても異彩を放つ豪華本で、此式で謠曲百番が開版され、光悦の門人角倉素庵は師の意匠に傚つて諸版を作つた中に史記の出版もあつた。
(五)寺院版は出版歴史の最も須要の一類で、出版の最初でもあり、亦一般※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、391-15]書出版の範ともなつたものは此類である。日本最古の百萬塔納經は聖武帝の[#「聖武帝の」はママ]勅版であることは前に陳べたが、この古い先蹤はありながら、追隨は餘程後年で、寛弘六年(一千九年)十二月の御堂關白の日誌に中宮の御安産を祈るため法華經千部を「摺初」したことが見えてゐるが、或は此頃が經典出版の初めであるかも知れぬ。佛教では摺經供養が大切とされ、多くの經を納めれば、納めるほど功徳がありとされたから版經が珍重されたことは言ふまでもない。南都の興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺などは帝室の歸依もあつたので、寺の裕福時代であつたから、各寺が競うて摺經を行うたことは想像に難くない。尚南都諸寺の外に空海の野山があり最澄の叡山があつて、こゝにも多くの摺經が行はれ、京都は後の帝都で各宗の本山は爰に集まつたから、各宗の摺經が盛んに行はれた。殊に禪宗が導かれてから、近世名づけて五山版といふものが出た。この宗は武家の支持を得たので、吉野朝時代には隆盛を極め、經典の外に外典も多く出た。これまでは寺院は隆盛であつても、經典の出版に忙しく、未だ儒書、詩文、字書、韻書などに手が延びなかつたが、五山隆盛の時には多くの宋元本が支那から舶載され、五山の寺院は之を覆刻する爲めに多數の刻工を支那から招致したから、此際の覆刻に佳版の多いのも偶然でない。この覆刻のため吾刻術も一生面を開き、後來進歩をなしたのはお手本が宋版で、指南番が本場の刻工であつたからとも云ひ得よう。五山版は匡郭の一隅に姓名が細刻されてゐるが、それが即ち支那の刻工の名である。尚支那の刻工兪良甫、陳孟榮の兩人が特に自家の名義で、刻した相當大部の儒書がある。此等は寺の出版とも思はれず、彼等の自家出版とすると、吉野朝時代の一異彩と見るべきものである。
 活字が導かれてから、京洛の各寺は競うて活版の法を用ひて摺經を行うた。その寺院の中にも法華宗の要法寺が最も多く活字本を出した。勿論寺で活字を作つた。所謂要法寺活字と云ふもので、今でも存在してゐる。直江版の文選も實は要法寺版である。此寺の僧は日性で圓智と云うたが、出版には餘程の熱心家であつて、佛書の外に、論語集解、太平記、沙石集、倭漢皇統編年合運※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、393-8]などを出して、慶長五年より同十八年迄十數種の本を活字で出版してゐるのが、活字應用の顯著の例である。高野山、比叡山等にも活字版の行はれたことは申すまでもない。後年活版を底本として覆刻された出版が少くないが、如何に活版が盛んに行はれたかの一端を語るものであらう。
 宗教出版の因縁でこの類に附記を要するのは、耶蘇教徒の吉利支丹版である。天正前後九州に耶蘇教が盛んであつた頃、宣教師が本國から、印刷機械を携帶し、幾多の書物が出版された。それは總じて吉利支丹版と云はれてゐるが、耶蘇教布教の用として信徒の間に流布したもので、宗旨に關する書物外に日本の歴史や文學もある。即ち平家物語、太平記のやうなものゝ外に、字書などが和字を以て出版された。これ等の書物は耶蘇教の禁令と共に影を收めたが、この活字版は朝鮮活字の渡來より數年先だち、活版の先輩であるが、これは宗教上に專用された爲め、他の出版物に何等の交渉もなかつた。
(六)私版の一類は勅版や官版に對して云ふのでなく、モツト廣く前に擧げた五類の外のものを全部包羅して云ふのである。豪族版などは勿論私版であつて、その尤なるものである。出版の困難時代には有力者でなければ私版を作ることが出來なかつたが、追々板行の術が進むと、個人が自家の著述を出版したり、書肆が獨自の見込で種々のものを出版するやうになつて、官府や寺院に獨立して出版が出來るやうになつたのは主として經濟状態が斯ることを可能ならしめたからである。元祿時代以後江戸の文化が多くの※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」、394-9]書を生み出したのは概ね此類に入るのだから、その一端と雖この短篇に陳べることは出來ないから、僅かに一事を陳るに止める。それは江戸文學の隆盛につれて、娯樂書の多く出版されたことである。これは太平の文化を語るもので、既往には多く見ないことである。勿論多少娯樂の書物は早く出版されてもゐるが、繪入本の出版は江戸時代に最も盛んであつた。これは浮世繪の發達に由るのでもあるが、娯樂の書には必ず※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪が伴ひ、終には本文よりも※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪の方が讀者の喜ぶ所となつて、草双紙などは宛がらパノラマ式に毎頁にあつて、それが半分物を言ふやうになり、繪の板刻は江戸が本場とさるゝまで進んだ。
 以上の如き簡單な説話でも出版の大勢が略々分れば望外の幸であるが、尚二三觸れて置かねばならぬことがある。それは或る時代に僞書僞版の出たことである。僞書は内容の論で、こゝには關係がないやうでもあるが實は幾多の僞書僞版の出たことは、明かに出版界が進歩して、それだけ餘裕があつたことを語るものである。日本にはまだ纒まつた僞書僞版考は著はされてゐないが、自分が曾て聊か調べた結果に據ると、意外に澤山あるのを認めた。其委曲はこゝに語ることを得ないが、著名なものには舊事大成經と云ふ大部のものがある。これは伊勢の内宮外宮のお株を奪はん爲め作つたものであるが、相當の勞力と資力を以てしないでは出來ない業であつて、遂々禁版となり著者は罰されてケリが附いた。尚寺や家の本末の爭で、證據として作つた系譜や縁起類の僞書や、神道佛教の兩部一住説を浮屠氏が方便の爲め僞書で宣傳したものが少からずあり、書肆が營利の爲め、學者が學殖を衒ふ爲めに、佚書を僞造して正書とした類等は一々擧げるのも煩はしいが、こんなものゝ多く出たのも、出版界にそれだけ餘裕が生じた一端を語るものと云はざるを得ない。尚以上と相似た一事に聊か觸れて置きたいのは、末書の盛んに出版されたことである。末書と云ふは本書乃ち根本書に對して云ふので根本書は唯だ一であるが、それに附屬する末書が頗る多く出て、著名の書物となると末書の出版が數百に及んでゐる。乃ち長く流布した寫本には謄寫の誤があるので、それを校正した本が幾種も出で、その注釋本が亦幾種も出で、評論書が出るとそれを駁する書が出版され、摘要の書やその書に擬した書迄も刻さるゝ仕末で、日本の古い時代の根本書を煎じ詰めると、割合に少いものであるが、末書の多いことはこれに十倍――百倍し目録は多く末書を以て充たされてゐる。此類の書物は古事記や日本書紀や萬葉集や源氏物語其他のクラシツクであるが、これも亦出版區域が大いに擴がつたことを語るものである。
 以上の如く僞版や末書が多く出た位だから、江戸時代の出版隆盛期には、出版の冀望者は格別の困難なく其目的を達したであらうと想像するのも強ち無理はないが、事實はさうでなく、なか/\難儀をしてゐる。その事實の一二を語るのも、當時の出版界の實情を知るに無益でもあるまいと思ふ。柴野栗山には雜字類編と云ふ二册の著書がある。初學に熟字を教へるために編したもので、どこの古本屋にも轉がつてゐるものだが、誰もそれを見て栗山が出版に苦心したと考へない。それも其筈、昌平學校の三大儒の一人である栗山先生あれほどの本を出版する氣があれば、どんな書物屋でも直ちにお受けをしてヤス/\と出版したであらうと思はれるが、事實はそんな譯のものでなく、今の人が想像も出來ない苦心を經てゐる。栗山は先づ刻工を自分の家に置き、それに衣食を供して彫刻させた。當時は旗本の次男坊などで、生計の爲め版木師となつたものがいくらもあつた。栗山は之を搜して家につれてきたのである。さて一年も費して刻は成つたが、之を刷るに、紙が要る段となつて、之を購ふ資に窮した。そこで郷里讃岐の實弟で醫業を營んでゐるものに手紙を寄せて紙代を借りたいと無心を云ふて、若干の借銀をしてヤツト刷り立たのが此書の出版された經路で、其手紙が現存してゐるので、私と雖其意外なるに驚いた。若しこの手紙が無かつたら、何人も書物屋の出版と輕々に理解するであらうが、當時の大儒でも僅かに二百枚許の出版に自ら刻工を傭ひ借金までして、紙を購はなければ成功しなかつたことを思ふと、當時出版の容易でなかつたことが窺はれる。
 福山藩の儒者太田全齋の韓非子翼毳(十一册)は韓非子の注釋本で、支那にも誇り得る名著だが、その出版には悲哀の歴史がある。全齋が多年心血を灑いだ此書が脱稿した時、江戸の藩邸附近に火災があつて、藩邸が類燒すれば、此苦心の結晶も一炬に附し去つたかも知れないのであつた。幸ひに免れたが、全齋は此時戰慄しながら案じた。僅かに一部しかない稿本が、どんな變災で亡びないとも限らない。せめて二十部位版にしたいものと考へた。偶々知る人から木活字の供給があつたので、家庭で年少の小供等を役して組にかゝつて見ると、足らない文字が澤山あるので、先づそれ等を補刻する必要が起り、それを長男次男に課したが、それが容易の業で無かつた。この補刻中全齋の妻が病に臥したので、まだ乳離れをしない幼兒を全齋が抱いたり負うたりして兒等を督勵して、泣きの涙で、辛うじて二十部を印刷し卒へた。この家庭の印刷には四人の青年兄弟が皆與つたので、全齋は其の始末を敍して卷尾に附し、子供の名を列記してゐるが、この始末書は涙なくしては讀めないものである。
 菊池容齋の前賢故實は、歴代著名人物の風貌とその時代の服裝を考證して繪にしたもので、今は珍重されて居るが、しきりに繪本が刻された江戸時代だから、何の面倒もなく出版されたと思ふ人も多いが、事實は之に反し、容齋が半生の心血を灑いだ此本も、當時出版の方法が無かつたのである。芝増上寺の學僧福田行誡が、容齋に同情を寄せて、或る富豪を説いて千圓の資を出させ、それに由つてヤツト世に出たのが此書である。斯る例はまだいろ/\あるが、他は略するとして、平田篤胤が前金豫約の法を案じて、自家の著述を出版したことを語らう。
 平田篤胤は秋田出身の倭學者で、該博の學問がある上に經綸もあつたので、その豐富の著書が盛んに流布した。併し篤胤の著書もヤス/\と出版された譯ではなく、なか/\苦心の結果漸く成功したのである。篤胤は先づ購讀講とでも云ふべきものを方々に組織し、その講元を江戸と大阪に置いた。この講中の規定の大略を云ふと、講員は毎日神棚を拜する時に、必ず十文錢を賽錢として神棚に上げよと勸めた。これが一種の貯金法で、二三ヶ月若くは五六ヶ月を經ると、其金を講元に屆ける。さうするとその價に相當する篤胤の著書が配本されると云ふのが規定の骨子で、毎日十文錢を神棚へ上げる位は、誰れにも苦痛のないことで、それが積れば篤胤の新著が手に入るから、多くの人々は喜んで之を實行した。講元は信用ある富豪で、金の管理に聊かも間違が無かつたので、この法が成功したと云はれる。自分は曾てこの宣傳ビラを手に入れたことがある。それには貯金の法も書物頒布の法も委しく且つ巧みに書かれてゐたが、多分篤胤自身が書いたものであらうと思うた。篤胤の著述が多く出版され、所謂篤胤宗が到る處に出來たのも、斯る手段によつたからであらう。前金豫約法を巧みに工風したのは流石に社會通の篤胤である。
 江戸時代は出版の隆盛期であつたとは云へ、實際に於て以上語る如き惱みがあつた。慶長頃に風靡の勢をなして、整版を壓した活版印刷も漸く衰退して江戸時代に整版の復興を見るに至つた。江戸の出版界には稀に活版印刷もあつたけれども、大體は整版印刷であつた。これは一寸不思議に思はるゝ現象で、活版が便利とされ、それが整版を壓するまでに行はれたとすれば、活版が益々珍重され江戸の出版界も既往に倍する活版の盛行を見るべき筈であるのに、その然らざるは整版が漸く發達して敏速の點も敢て活版に讓らないのみならず印刷の面目は活版に比して優つた故でもあらうか。兎に角活版の隆盛期は明治以後に屬するのである。明治より今日に至り活版は遂に整版を壓し、整版は幾んど其影を止めない迄に至つたのは既往に見ざることで、全く活版の威力に由るものである。但し今日の活版を以て慶長頃のものと比較することは不倫である。私共は明治以前の活字を古活字と稱してゐるが、この古活字は多くは木彫で、版に字を彫る代りに活字を植ゑて彫刻の勞を省く相違があり、一旦用ひた活字を幾囘も使用する便利はあるにせよ、實はそれだけでは整版と餘り隔りが無い。況して當時は印刷の術が進まず、一枚/\の手摺であつたから整版の印刷とは些しも違が無かつた。一時盛つた活版が、衰退した原因はこの邊にもあつたであらう。實を云へば活版の威力は活字にあると云ふよりも刷行の敏速にあるのである。活版の本能は全く機械の作用で發揮せらるゝので、斯る發達を見たのは明治以後の事に屬してゐる。活字で一枚版を作ると紙型に取つて同じ版を幾枚も幾十枚もつくり、輪轉機にかけて、一瞬幾百千枚を印刷し、それを裁斷機で斷り離し、更に機械で綴る如きは、江戸時代に於てすらまだ無かつたことである。斯る敏速の功程が出版の價を低廉にし、書物を廣く流布する原因をなしたのである。但しいくら廉價出版が出來ても運搬の便が開けねば流布は出來ない。更に書物を欲求するだけの文化即ち教育が普及せねばならぬ。今日毎朝百萬以上の新聞紙を發行する社が京阪で數社あり、一部幾十萬の雜誌を發行するものが幾社もあるのは、單に印刷術の進歩に依るばかりでなく、社會の進歩に由るものであることは云ふまでもなからう。
 以上の如く大量出版が要求さるゝやうになると、獨立の製産會社の起るのも自然の勢である。昔も印刷所があつたであらうが、すべての印刷は書肆が擔當して之を刻工や印工に頒つてやらせた。獨立して印刷業を專門とする會社などは無かつたやうである。昔寺院で盛んに出版した時には寺院自らも印刷したが、寺院附の書肆が御用をつとめた。川瀬一馬氏の調査に依ると、慶長寛永頃に寺院の用をたした書肆が四五十軒も寺町にあつたと云うて、其表を示されたことがある。此等の書肆は即ち印刷者であつたのであらう。今日では印刷業は書肆と獨立し、大書肆と雖印刷工場を有するものはいくつも無いが、併し多少の除外がある。新聞紙のごとき敏速を要する出版をなす所は、社内に必ず工場がある。内閣に隷屬する印刷局などは獨立の印刷所として早く起つたもので、民間に印刷會社が起つてもこの局で種々の印刷をやつた。元來この局の主務は紙幣、印紙、官文書等を發行する特別の任務があるので、そこに特異性があるが、私設の印刷會社も早くから續出して、一張一弛の沿革はあるが、時運に伴うて今日では西洋に比して遜色のないまでに發達してゐる。その發展は機械の充實などばかりでなく、寫眞術の發達と相待つて美的印刷が大いに進んだ。しかし我邦の印刷には西洋と異る難件がある。西洋では廿六個の羅馬字を組み合せる單純なものだが、我邦では「いろは」四十八文字の假名の外に、數萬の漢字が交るので、活字を作るにも、活字を拾ふにも複雜な手數がかゝつて職工にいくばくの教育も要る。今より僅かに二十年程前、早稻田大學出版部と冨山房が互ひに相期せず、漢文の出版をした際の事を想ひ起すが、早大出版部では漢籍國字解全書を、冨山房では漢文大系を毎月一册、十數ヶ月に渉り定期に續刊を企てたが、當時第一流の印刷會社は毎月一册を製することを引受けなかつたので、已むを得ず早大では一會社を起すことを計畫するに至つた。それが今共同して大日本印刷會社となつてゐる日清印刷會社を起した動機であるが、冨山房でも同じやうな難關に出遇つて三四の一流會社に仕事を分擔せしむることを餘儀なくされたと云ふが、二十年前は印刷の幼稚時代でもないのに、漢文となると尚この惱みがあつた。
 明治以後の出版界に就ては沿革的に語るべきものが少くないが、餘りに近いことであるからすべてを略する。唯最後に觸れて置きたいことは、書肆が漸く確實性を帶びてきて、或る時代には書肆が獨立でなし得ないことゝなつてゐた事業が今はそれによつて成され、官府が爲すよりも、學者がなすよりも却つて確實の信を博するに至つたことである。それは數年若くは十數年を要する大部の書物の出版である。就中字書辭典の類は編纂に多くの歳月を要し、昔は官府の力で別に一局を開き、多數の專門學者を會し、巨大の資を投じて幾十年も費し、纔かに成したことを今は有力の書肆の手で着々出版さるゝことになつた。これを餘り古い時代でもない蘭學渡來の時、學徒が一々字書を筆寫した頃の事を思ひ、薩摩字書が初めて出版された時、官府がそれを買上げて頒布を手傳つた頃のことなどを考へ合せると、眞に今昔の感に堪へない。今日の字書辭典は曾ての如く洋書の飜譯を事とする舊套を脱して獨創のものが多くある。百科辭典なども一部十數册のものもあるが、これも獨創のもので、西洋のエンサイクロペヂアに較べて決して讓るものではない。如斯は明治以後出版界の偉觀で、書肆が目前の小利を顧みず、其氣宇を大にした爲めと、その實力が増進した結果で、慶ぶべき現象と云はざるを得ない。





底本:「『冨山房五十年』」冨山房
   1936(昭和11)年10月15日発行
※「うわづらをblogで」(http://uwazura.seesaa.net/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「旦つ」と「且つ」、「小供」と「子供」、「廿」と「二十」の混在は、底本通りです。
入力:しだひろし
校正:mt.battie
2024年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとつたもの」    386-11、389-12、391-6、391-6、391-15、393-8、394-9


●図書カード