監獄挿話 面会人控所

伊藤野枝




一 静かな読書生活


 受附の看守が指した直ぐ向側の『面会人控所』の扉は重く閉されてゐた。龍子は新しい足駄の歯がたゝきにきしむのを気にしながら静かに歩み寄つて其の扉に手をかけた。重い戸が半ば開くと、直ぐ正面に同志のMの蒼白い顔が見えた。
 此の控所は、東京監獄の大玄関の取りつきの右側で、三間ばかりの奥行をもつたそのたゝきの土間にそふてゐる細長いへやであつた。這入はいつて左へ突き当つた廊下へ上る扉口と入口を除いた外は、此の九尺に三間の細長い室の三方の壁には面会人の腰をかける為めの幅の狭い木の腰掛けが、恰度ちょうど、棚のやうな工合に取りつけてあつた。廊下へ上る扉口と向き合つた南側の、前庭に面した壁の上の方に大きな窓が一つ開いてゐた。
 Mは其の入口の正面に腰をかけてゐた。室の内には、傘や、下駄や、スリツパが、二三足おいてあつたが、面会人はMを除いた他には、三つか四つ位の子供を縞目もわからないやうな汚いねんねこで背負つた女房が一人隅つこにうづくまつてゐる外には誰もゐなかつた。
『もう済んで?』
 思ひの外に人もゐず、ひつそりした室の内にMを見出した龍子は直ぐMの傍に腰を下しながらきいた。
『いや、まだです。僕は午後から――今S爺がY君に会つてゐる処』
『Sさんが? さう、ぢやあなたはWさんに会ふのね』
『えゝ、僕がY君のつもりでしたけれどSさんが先きに来てさう云ふ手続きをしてゐたもんだから――』
 Mは昨日みんなでめたのとは少し手順が違つて来た事を龍子に説明した。それから二人は、昨日、此処の未決にゐる四人が裁判所へ出た事を知つて、うかして遇へないまでも皆んなでゐるのを知らせたいと思つて半日其処の仮檻の前に立ちつくしてゐた事や、思ひがけない四人の収檻についてのいろんな事を話し合つた。
『Mさん、あれも囚人のゐる処?』
 開放された廊下への上り口から見える中庭の向ふの低い屋根を圧して高く聳え立つた家の側面が、フト龍子の注意を引いた。それは一と目見て、封建時代の古い牢獄を思はせるやうな頑丈な木造の建物だつた。黒つぽい褐色のぬり色が風雨に曝されて如何にも古めかしい色をしたのも、丸太を横に積み重ねたやうなその外壁の上の棟近くにある僅かに光りを採るばかりの、まるで動物の檻のような感じの四角な横木をはめたちいさな天井裏の窓も、Eが不断から云ひ馴らしてゐる『牢屋』と云ふ感を其のまゝ現はしてゐるとしか見えなかつた。で、龍子は、つて此処の未決檻に多勢の同志と一緒にゐた事のあるMに聞いた。
『いゝえ、あれは違います。あれは屹度きっと看守やなんかのゐる処でせう? 囚人のゐる処はあのもつと向ふにあるんです。僕等の同志の行く処は大抵四檻と八檻と云つて一番左側の棟になるんです。』
 Mは其処からは見えない檻房の位置や構造などに就いてくわしい説明をしながら、自然にいろんな事を思ひ出すと見えて、呑気のんきな檻房生活の話をして聞かした。それは龍子も屡々しばしばEからも聞いてゐた。龍子はMの話を聞きながら、Eから聞き知つた此の中でのいろんな挿話を思ひ出すと、今此処の独房の何の一つかに胡座あぐらをかいて読書をしてゐるEの姿をまざ/\と見るやうな気がするのだつた。
『半年や一年なら………………。』
 牢屋の話が出るときまつてEはさう云つた。
『遮断生活もたまにはいゝもんだよ。ああ、しばらく本を読まないな………………………。』
 いろんな、下らない雑事におはれ通しで、疲れた時などは、彼は本当に静かな、何んの煩ひもなく読書三昧に暮らせる檻房生活を、染々しみじみとしさうな調子で、よくさう云つた。
『Eは此の間N警察で会つた時に、二三ヶ月読書が出来さうだなんて呑気な事を云つて笑つてゐたけれど、他の三人は何うしてるでせう。Nでは皆んな一緒だつたから元気がよかつたけれど、別々になつてからはきつと心細くなつて悄気しょげてるかも知れないわね』
 龍子は、廿代の半ば以上を獄中にゐて、其処の生活には馴れ切つてゐると云ふよりは親しみをさへ持つてゐるEの事を考へると同時に、此度初めて、さう云ふ経験をする他の三人の人達の事も心配になつた。
『何あに大丈夫皆んな平気ですよ。それに未決だもの、着物はうんと着てゐるし、毛布もはいつてるし、弁当なんかいゝのが入れてあるし。U君は先刻H君が会つて差入れの事を云つたら、万国史と辞書がはいつたのならそれでもう申分なしだと云つてゐたさうですよ。W君だつてさうだ、悄気てるとすればY君だが――何あに、そんなに心配したもんでもありませんよ』
『其のYさんよ、の人ぢや昨日もTさんに散々当てこすられたり嫌味を云はれたりしたんですよ。Tさんでさへあゝだから他の人達は何んと云つてるか知れないわ。何うしてまた、うちの三人と、方角ちがひに帰る筈のYさんが一緒になつたのか知らないけれど、飛んだ人が仲間になつたわね。TさんなんかまるでEが無理にでも引つぱつて行つたやうな事を云つてゐるけれど、EとYは初めてあの晩、あの集会で会つた位のものぢやありませんか。それをわざ/\引つぱつて帰らうとするなんて事はなささうに思へるけれど。』
 Yは、現在日本でのソシアリストの首領とされてゐるT氏とK氏を便たよつて最近に地方から出て来た青年だつた。そしてT氏の経営してゐるB社で働いてゐた。EとT氏とはいろんな点で従来は深いつながりを持つてゐたが此の五六年Eのアナーキストとしての旗幟きしが鮮明になると同時に思想的にも、感情的にも二人は折れ会ふ事が出来なくなつてゐた。自然、古くからの情実にからまれた同志が何方どちらにもよらずさわらずにゐる外は、二人の周囲に集る顔ぶれも違つて来てゐた。で、Yの名前はかねて聞き知つてはゐたが、YがEに会つたのは、数日前の同志の集会の席で会つたのが初めてなのだつた。そして、其の夜遅く其処から帰る途中浅草のN警察に止められたのだつた。EとUWの三人は同じ亀戸かめいどの一つ家にゐるのだから一緒なのは不思議はないが、日比谷へ帰るべきYが一緒だつたと云ふ事は、他のものはどうしてもわからなかつた。しかし、それをEやWがわざわざ引つぱつて行つたものとは考へられなかつた。しかし二日前に龍子がT氏に会つたときT氏は、わざわざEが其処へ引つぱつて行つたかのやうな口吻で、Eの無謀を非難がましく龍子に当てつけた、少くとも、Yと云ふ連れのある際に無謀な事をしたものだと云ふ腹は明らかに龍子に見せつけられた。『Eの無茶』は、もう大分永い事、T氏達の間では、Eに対する唯一の批難だつた。しかしEにはまた、其の無茶にはちやんとした理由があるのであつた。龍子はT氏のその腹を見せられても軽蔑をこそ感ずれ、別に腹立たしいとは思はなかつた。しかし、もう一段、くだらない感情の為めにくらまされたT氏を見せつけられた時には、彼女はいろんな複雑した憎悪と憤りを感じずにはゐられなかつた。

二 意味の解らぬ収檻


 E達が何んの為めに収檻されたのか、その本当の理由を知つてゐるものは、其の収檻された人達以外には誰れも知らなかつた。勿論新聞紙の無責任な報道が全然あてにならないと云ふ事は、少し物わかりのいゝ人なら誰でも知つてゐる。
『何にをしたんです? 一体――』
 彼女はN警察で会つたとき、食後の煙草を呑気らしく吸ひながら、何彼と差入れや其他の事を彼女に注意してくれるEの言葉のとぎれるのを待つて聞いて見た。
『何んでもない事さ――』
 彼は笑つて彼女の問ひには取り合はなかつた。他の三人も、それに就いては、たゞ黙つて笑ふばかりで何んにも云はなかつた。そして、龍子も、それで重ねては何んにも聞かなかつた。
 普通の人の生活では、それは決して『何んでもない事』としては通らない事だ。けれど、Eや龍子の生活にはむしろ有りがちな、と云ふよりは、始終折さへあれば、何にかの名で降つて来るにきまつた、小さな災難だつた。否災難として受取るには余りに必然的な事としてさへ考へられる程のものだつた。で、彼女は、それに就いての大げさな心配や昂奮は一切しない事にかねてから心をきめてゐた。そしてたゞ、そう云ふ際にすべき事は、出来るだけのカムレエドシップ[#「カムレエドシップ」はママ]をつくして、不自由な処に拘束されてゐる人達の為めに尽すと云ふ事のみだつた。
 T氏は、さうした事に対しては一番理解のある人でなくてはならなかつた、また、実際ある人だとも聞いてゐた。然し、龍子の前のT氏はさう云ふ温かさを持つた、首領らしい寛大さなどは少しも見る事は出来なかつた。Yのみよりの人から、此度の為めに持ち込まれた苦情を受ける迷惑と不快さを愚痴つぽくまた皮肉に彼女の前に並べるのだつた。そして、此の数年前の××事件も矢張りEの先立ちになつたさわぎで、皆んなは高々五六ヶ月か二三ヶ月と高をくゝつてゐたのに二年、二年半などゝ云ふやうな長い刑期を受けねばならなかつた、と云ふやうな事を、何の為めに云ふのかと怪しまれるやうな調子で、龍子に話すのだつた。取り方によつては、龍子が、さうした最初の経験に、案外平気でゐるのを小面憎くゝ思つて脅すのかとも思へるし、『Eの無茶』の結果が、此度もまた、どの位他人にたゝるか知れないのだぞ、と云ふ腹とも思はれるのだつた。龍子は、さう云ふ言葉を聞くと一層忌々いまいましさがこみ上げて来るのだつた。例へ何んにも知らないYが巻き添へを喰つたからと云つて、それは、さう云ふ危険な人達や場所に近よつたY自身の不用意からで、何もT氏の知つた事ではない筈だ。それで迷惑を感ずるなら、その迷惑を拒絶すればいゝ。その迷惑を何にも未練らしく龍子の前に並べる事はないではないか。龍子は、眼前に腰をかけて皮肉らしい態度で話してゐるT氏に対する反感が湧き上つて来るのだつた。
 それのみではない。T氏は、う云ふ場合に初めて出遇つた龍子が、何一つ、何にも彼もさう云ふ事に就いては知りつくしてゐるT氏に教へを受けようとせず、何処までも一人で、すべてをやうとするのがむしろ憎い感じを起させたらしい。差入れや、其他の細々した事に就いて、一々彼女に聞きただした。
『飯なんか、どうするつもりか知らないが三度々々入れる必要はありませんよ、の中では。そんなに食べるもんぢやないし一度位は彼処のも食ふ方がいゝんだ。それに、金だつてどうせ続きはすまい、あんまり最初よくしてそれが続かないと、最初の親切が何んにもならんから――』
『えゝ――』
 それはもつともな事には違ひなかつた。彼女だつて、その位の事は最初から考へてもゐたし、Eにも注意されてゐた。で、食事の差入れは朝夕二度、朝は軽いパンと牛乳、夕飯には少しいゝ弁当ときめてゐた。金――それも続くまい、と見くびられゝば猶の事、どんな事をしても、皆んなが未決にゐる間は続けなければならないと云ふ決心が固くなるのだつた。一つ一つさうしてT氏と龍子の話は龍子の反感を高めて行つた。ほんの一寸ちょっとした事でも、さうした種類の侮辱を耐へる事の出来ない龍子は、自分の胸が煮えかへるやうなおもひを、此の老爺の面前に叩きつけてやらうかと思つた。しかし、はしたない真似はしまいとおもふ他の気持が、Eとの古い複雑な関係を思ひ出させて、やつとその激した心持を取しづめた。丁度、其処に、他の同志が一人顔を出して、彼女と一緒に、監獄の前まで行かうと云つてくれた。
 外に出て、同志のやさしい慰さめの言葉を聞くと、龍子は今まで、耐へ/\てゐたいろいろなおもひが、一時に湧き上つて来て、熱い涙が、とめどもなく頬を伝ふのだつた。彼女は道を歩きながら、幾度もハンケチで顔を覆つた。そして、一しきり溢れ出て来た涙が皆んなが留守になつてから四五日間感じた事のない、物がなしい、たよりなさが、今はじめて、染々と感じられるのだつた。T氏に対する反感は、それ以来此の二三日の間、物にふれ事にふれて龍子の気持を熱くするのであつた。
 今も、龍子は、それをおもひ出してゐた。
『どうせ、何んとか彼んとか云ひますよ。何あに、云ふ奴には勝手に云はしとくさ、Y君だつてさう悄気てもすまい。出来ちやつた事何に云つたつて仕方がない。』
 Mは煙草に火をつけながら静かな調子で云つた。
『Tさんもそんなにわからない事を云ふ人ぢやないんだけどなあ、E君の事と云ふと妙に変るんだなあ。』
 龍子は黙つてうつむいた。そして、せめて未決にゐる間だけは、皆んなの世話を、どうかして自分の手で続けたいと切に思ふのだつた。殊に、Yの世話は、一切T氏達の手を退けるようにしたいと云ふ気持が、次第に募る反感と一緒に強くなるのだつた。

三 地獄の扉の音


『ガタ――ン!』
 控所の直ぐ近くの室の入口の重い扉が、力一杯に手荒くブツケるやうにしめる音がした。龍子は思はず眉をよせた。
『まあ何んていやな音だらう? まるで体がすくむやうな音ね』
 本当に脅かすやうな音だ。あれがきつと囚人をしめ込む音なんだ、と龍子は思つた。きつと彼の音が誰れの宣告よりも確実に囚人の魂を脅かしたり冷笑したりするんだと思つた。
『…………………、あの音を聞くと実に、…………………………暫くあの音を聞かなかつたなあ。』
 Mは微笑しながら、龍子の言葉をうけてさう云つた。
『しかし、彼れぢやまだ駄目だなあ、檻房の扉は、とてもこんな扉とはくらべものにはならない位あつく頑丈に出来てゐますからねえ、もつとずつと重い重い音がするんです、そして鍵の音がガチャ/\[#「ガチャ/\」はママ]しないぢや、本当の気持は出ませんね。』
 Mは遠のいた自分の獄中生活を染々今、その音で思ひ出したやうな調子で話し出した。
『狭い独房にポツンと一日中座つてゐるんですからねえ、一寸でも外に出るのはそれは楽しみなもんですよ、面会所まで出て来る途中なんか、随分遠い処がありますからねえ、ブラブラ彼方此方あちこち眺めながら歩いて来るのはそれやせいせいしていゝ気持なものですよ。』
 二人が話をしてゐる処に面会を終つて帰つて来たS翁の大きな体が廊下の入口をふさいだ。
『やあー』
 S爺と同志の間に呼ばれてゐる老人は、その肥つた血色のいい顔にいつものやうな穏やかな笑を見せながら石階を降りて龍子の方に近づいて来た。龍子が腰をかゞめて挨拶するのを受けて爺は叮嚀ていねいに見舞を云つた。
『何うです? Y君は。元気でゐますか?』
 挨拶のすむのを待つてMが直ぐに傍から口を出した。
『え、えゝ大変に元気です。皆さんによろしく申ましたよ、それから書物を入れて欲しいと云ふ事でした。えゝと――』
『あ、それは今日持つてまゐりました。Yさんが御自身で云つてらしたモウパサンの短篇集とゴルキイのカムレエドと辞書を入れました。長くなるやうでしたらまた何か入れるつもりです。』
 龍子がさう云ふとS爺は大きく肯きながら
『あゝさうですか、ではそれでいゝでせう何しろ、あゝやつて一日座つてゐるのぢやあ何うも読むものが第一ですからな』
左様そうです。で、寒くはないでせうか?』
『え、えゝ着るものも充分着てゐるし、毛布もはいつてゐるんで楽だと云つてました。しかし、何しろ火がはいらないんですからな。新聞に出ましたかなんて聞いてゐましたよ、出ましたよつて云ひましたら、そいつあいゝななんて云つてましたつけ。』
『出ちやあ困るんでせうがねえ。』
 Mは煙草の灰をおとしながら笑つた。
『しかし、Y君もこれが機会になつて本当の決心が出来るかもしれませんね。それから、SさんはこれからB社の方へお出ですか?』
 Mは少し改まつて云つた。
『えゝ。さうしようと思つてゐます。』
『では、B社へお出になつたら、僕はY君に会ふ筈で来たんだけれど、あなたが先きに会ふ事になつてゐたんで、僕はW君に会ふ事になつたんだと云ふ事をよくさう云つておいて下さいませんか。でないとまた神経の鈍つた人達が多いから、自分達に近い者ばかり大さわぎして、此方の近い者はうつちやつておくなんて云ひかねませんからねえ』
『承知しました。よく云つときませう。何うもその、皆んな吾々の仲間の人は、普通の人よりは矢張り神経質ですからな、えゝ、承知しました、よくさう云つときませう。』
 爺は幾度かうなづきながら云つた。
何卒どうぞお願ひします。』
『えゝ確かにそ云つときます。ぢや、私はこれで失礼しますから、何卒Eさんにお会ひになりましたらよろしく仰云おっしゃつて下さい。何しろ、斯う云ふ事になつて来ると、またあなたが一番お骨折りですよ。まあ何卒何分よろしくお願ひしておきます。』
 爺は龍子にさう云ふと、立ち上つて出て行つた。
『アーアツ』
 爺の姿が見えなくなるとMは不精らしく懐手をしたまゝで体をのばしながら大きな欠伸あくびをした。
『雨があがつたやうだな』
 たつた一つの高い窓にその時うつすらとたよりない日影が射してゐた。室の中には始めから、その窓の下の腰掛に究屈らしく座つてゐる子供を背負つた女がゐるだけでひっそりしてゐた。ぢつと腰をかけてゐる裾の方から冷えて来るのが龍子にはつきり分つてゐた。Eは風邪を引いてゐた。去年の秋の初頃からその風邪はしつこくこぢれて、ぬけないでゐた。それだのに火の気のない檻房に座つてゐてはどんなに冷えるかしれない。何よりも寒さに対しては意久地いくじのないEはどんな格好をして座つてゐるだらう。龍子はしきりに、此度はEの体が心配になり出した。
『ねMさん、毛布は下に敷いて座つてゝもいゝの?』
『えゝ、いゝんですよ。皆んな一枚づゝはいつてるんでせう?』
『えゝ、でも、この寒さに火の気なしはたまらないわね、冷えるでせうねえ。Eはそれに去年からの風邪がまだぬけないんですからねえ。』
『大丈夫ですよ、彼処にゐる間は。とにかく気持が違ふから風邪なんか抜けてしまひますよ、それに何んと云つてももう三月ですからね。もう一と月早いと、こんなもんぢやありませんよ。丁度いゝ時だ。これから二三ヶ月や五六ヶ月なら一番いゝ時ですよ。』
 Mは立ち上つて龍子の前をソロ/\往つたり来たりしながら云つた。

四 ハハア…内妻ですな?


『もう何時頃でござんせう?』
 ふと、隅つこに座つてゐた女が向き直つて聞いた。龍子はコオトのポケツトをさぐつて時計を出して見た。
『一時に二十分前ですよ』
『あ、左様ですか、何うもありがたう御座います。』
 女は座つてゐた足を痛さうにのばしながら汚い下駄の上に乗せた。背中の子は大きな坊主頭を母親の背におつつけてよく眠つてゐた。その母親の櫛の歯のあとなど見えない油つ気のぬけた、そゝけ放題な頭の毛や汚いねんねこで、龍子の眼には、何うしても、その日暮らしの人足か立ん坊の内儀としか見えなかつた。
『随分待ちますねえ』
 Mはもちまへの優しい調子でそのかみさんに話かけた。
『えゝ、朝からですから、随分長いことまちます。まだおひるつからのは、なか/\で御座いませうか?』
『いや、もう直きでせう。一時になつたら会はすでせう。』
『あ、左様で御座いますか、何うもありがたう御座います。』
 かみさんはそれで口をつぐんだ。丁度其の時に受附の窓口に洋服を着た一人の男が立つた。受附の男は何か頻りに聞き糺しながら面会の手続をしてやつてゐるらしかつた。龍子は直ぐに立つて行つた。その男が番号を書いた札を受取つて退くと直ぐ龍子は代つた。
『誰に会ふ?』
 受附の年老としとつた役人はさも横風おうふうに龍子の顔を睨みつけた。広い室の中に縦横に置かれた大きな机の前の彼方此方の顔が物珍らしさうに龍子の顔を老人の肩越しに覗いてゐた。龍子は爺さんの横風な問にムツとして睨み返しながら、素つ気なくE――の名を云つた。
『ア、Eさん――さうですか、あなたは?』
 爺さんは急に態度も言葉使ひも改めながら、云つた。龍子はだまつて自分の名刺をさし出した。
『何う云ふお続柄で――』
『内妻――』
 さう云つて龍子はふつとくすぐつたい笑ひを洩らさうとした。
『何あに、いくら女房ぢやないの何だのつて威張つたつて、裁判所に引つぱり出されたり、監獄に面会に来たりして御覧、内縁の妻にされつちもふよ。』
 Eはよく二人の関係について冗談を云ふ度びに友達の前や何かでそんな事を云つた。
『アラいやだ。』
『あらいやだなもんか本当だよ』
『嫌やだわ内縁の妻だなんて。』
『嫌やだつたつてそれが事実ぢやないか』
『違ふわ』
『ぢや何んだ』
『何んでもないわ、いろだわたゞ――』
『ぢやあし裁判所で内縁の妻だなんて云つたら抗議を申込むか』
『えゝ、内縁の妻だなんてそんなもんぢやない。いろだつてさう云ふわ』
『さうか、そりやあえらいな』
 さう云ふ事は幾度も/\云つてゐた。そして二三日前、警視庁に、或友人と一緒に差入れに行つたときに矢張り其処の係りの巡査から同じ事を尋ねられた。
『あなたはEさんの何んです?』
 巡査はぢつと龍子の顔をみつめながら云つた。何も彼も知つてるくせに――と思ひながら龍子は
『一緒にゐるものです。』
と曖昧な答へをした。
『ハヽア、すると内妻ですな』
 巡査は至極真面目くさつて書きつけた。龍子は巡査のその言葉を聞くと何かくすぐつたいやうな気持と一緒に、何も彼も解り切つた事までも根掘り葉掘り聞かなければ承知の出来ない巡査が、その曖昧な答を馬鹿にのみ込みよく問ひ返しもせずに『内妻』としたのを妙な気持で眺めてゐたが、ふつとEの何時もの言葉を思ひ出して、危くふき出さうとした。そして同時にその内縁の妻と云ふ文字が新聞の三面記事より他の場所ではづ見た事がないんだ等と思ふと、何んだかその言葉が無暗むやみと感の悪い言葉に思えて仕方がなかつた。その晩帰つてからも、その次の日も、龍子はそれを思ひ出すと変な気がした。しかししまひにはだん/\と其の気持を誇張してゐるうちに擬悪的な興味が少しづゝ顔をのぞかし初めて来た。そして何時の間にか平気で自分の口から『内妻』と云ひ得るやうになつたのだ。しかし平気でさう云つた後から直ぐにボツと顔が紅らむやうな気がした。
 龍子が『七十二番』と云ふ番号札を受取つて控所に戻つた時には、外の控所から這入つて来た面会人が十人近くもゐた。そして後から後から三四人づゝゾロ/\這入つて来て、何時の間にか、ヒツソリしてゐた控所の中は一杯になり腰掛には空きがなくなつた。龍子は席にかへると直ぐ時計を出して見た。一時はとうに過ぎてゐた。廊下には書記や看守が往つたり来たりし初めた。
『ガターン!』遠く近く、扉の音が幾度も幾度も龍子の眉をひそめさせた。

五 地獄と思へぬ無邪気な顔


 控所の中の人間の半数は女だつた、かなり年増の如才ない如何にも目はしの敏く利きさうなキリツとした内儀かみさんや、勝気らしい顔をした三十二三の細君や、柔かいムジリのはんてんに前垂がけの小料理屋の女中らしいのや、子供を負つた裏店のかみさんらしいのや、田舎の料理屋の酌婦と云ふやうなひからびた頬骨の出た顔に、まつしろに白粉を塗つたのや、あらい米琉よねりゅうの二枚小袖を上品に着た若い中流の家の細君らしいのや、その他十二三人の女が或ものは呑気さうに連れと話したり、ひとりで黙つて心配相に蒼ざめたり、オド/\不安相にあたりを見まはしたり、済まして人のみなりや頭の恰好に目を留めたりしてゐた。
 男は割り合に皆呑気な話をし合つて笑つてゐた。廊下に上る石階の直ぐ左手に腰掛けてゐた四十四五の色の黒い眉尻の下つた一見区役所の雇と云つた風な顔付に稍々やや滑稽味のある顔をした男が、頻りに其石階にぬぎ捨てた足駄を気にしてゐる。
『どうしたんだらうな本当に、もう出て来さうなもんだ。他人のスリツパをはいて行つて何時までも来ないなんて、困つてしまふな。もう直き時間が来るのに』
 其の男は誰にともなく四辺あたりに聞えるようにうめいてゐる。
『何うしたんです』
 直ぐその傍にゐる、どう見ても間違のない処は肴屋の親方と云ふやうな恰好をした大きな男が口を出した。
『何あに、私が此処にスリツパをおいて置きましたら、先刻此の足駄の主が来て、それをはいて行つたきりに帰つて来ないんでさあ、私はまた直きに来る事だと思つて黙つてましたけれどもう三十分ばかりも出て来ないんです。』
 其の男は少し口をとがらしながら、しかし、その話の中味の事よりは、話のいとぐちが出来たのを喜ぶやうな調子で云つた。
『さうですか、何あに、ぢや直き来るでせう。』
 親方は何んだつまらない、と云ふやうな顔をして云つた。そして直ぐ一緒にゐる若い鳥打帽をかぶつた男と話し出した。初めの男は親方の態度にガツカリしたやうに一たん浮かしかけた腰を下ろした。そして自分の連れらしい六十位の田舎者らしい親爺を相手に話し出した。
『本当に大きな建物だなあ、あの塀が何町四方つて囲つてゐるんだからな。まあこん中に何の位の人間がゐるか知らないけれど、大したものだらう? それをたゞ、賄つたり着せたりするんだが大変なもんだなあ』
 男は頓狂な眉を一層頓狂にしながら高声に云つた。
『さうさなあ、矢張りお上にも無駄なついえと云ふものはいるものだなあ。何んだなあ一日分だけでも、こちとらにすれやあ大したものだなあ。』
『さうさ、無駄と云へば無駄だが、これがなかつた日にや大変だ。しかし此の大きな構への中にあの自動車でもつてプツプーツなんて来る気持は一寸いゝもんだらうなあ。俺達やとても一生懸りでも自動車で煉瓦塀の中に乗り込むなんて事は出来ないらしいな。』
『冗談ぢやありませんぜ』
 親方がまた口を出した。
『自動車だつて色々ありまさあ、あの自動車は人間を乗せるんぢやありませんよ、ありやあなた――』
 親方は得意になつて男の方へのり出しながら云つた。
『ありやあ、人間を積むんでさあ、まあ一つ降りる処でも乗る処でもいゝから見て御覧なさい。手錠をはめられた連中がギシ/\詰め込まれまさあ。外の自動車は知らねえが、此処に来る自動車だけは人間と云ふ荷物を積む自動車でさあ。自動車でのり込むと云やあ大層外聞はいゝけれど私なんかまあ真平まっぴらですね。』
 親方の真面目くさつた反対には皆んながふき出した。Mと龍子も顔見合はせて笑ひ出した。親方もさも何の屈托もなささうな高笑ひをして皆んなの顔を見まはした。丁度其の時廊下を通りかゝつた貧相な看守が一寸立ち止まつて『何事だ?』と云ふやうにギロリと白い眼を光らせて通りすぎた。龍子はその黄色い痩せた噛みつきさうな邪険な顔を見ると忽ち不快な感じに襲はれた。そして、皆んなの顔をまた一わたり見まはした。然し誰も別に気に止めてゐるらしい様子はなかつた。隅つこの男と親方は頻りに無駄口を叩いて皆んなを笑はしてゐる。親方のまはりの人々は、邪気のない親方の軽口で不快な監獄の面会所だ等と云ふことは忘れたやうにニコ/\してゐた。しかし、入口に近く固つた女連は、流石さすがに皆んな心配らしい顔付きを隠すことは出来なかつた。親方の軽口よりは、早く時間が来て面会所に呼び込まれるのを一心に待つてゐるやうな様子だつた。
『もう彼是二時だよ。早くしてくんないかなあ。すつかり腹が減つちやつた。』
 親方の傍にゐた若い男はさも待ち疲れたと云ふ顔をして大きな欠伸をしながら云つた。
『ぐず/\云ひなさんな。今に時が来れやあちやんと会はして下さらあ、お役人様方あ今お昼のおまんまが済んだばかしだ。おめえの腹なんかいくら減つたつてそんな事をお取り上げになるもんか。腹は夕方にならなくつちや減りやしないよ。』
 親方は直ぐおどけた口のきゝ方をして若い男をねめつけた。
『親方あ減らないだらうけど――』
『おい/\おれの腹が減らないつて何時云つたい。俺はもう大ぺこ/\だ。減らないと云つたのはお役人様の腹さ。お前も余つ程人間がドヂに出来てるなあ』
『フフン』
 若い男は仕方のなささうな顔をして外套のポケツトに手を入れて天井を見上げた。
しかしどうも長いですねえ、私なども、朝七時からゐるんですよ。どうも一寸の面会に一日掛りでは全くよはつてしまひますね。仕事を休んで一日掛りで来なきやならないとなつちや、なかなかおつくうになつて一寸と云ふ工合には行きませんね。』
 一番初めの男がまた口を出した。
『さうお手軽には行きませんよ。お上は何んでも几帳面だから――』
『几帳面ならもう始めさうなもんだな、一時まで待てばいゝ筈だつたんだ。』
 龍子と同じ側に座つてゐた五十位の黒い前垂をしたあばたの爺さんが初めて其処で口を出した。
『本当だ。まご/\してゐるうちに日が暮れて仕舞はあ。早くしてくれないかなあ。』
 若い男はさも不平らしく口を尖らして云つた。
『これで散々待たされた挙句に、漸々ようよう面会して五分と話が出来ないんだから嫌んなちやふよ。ろくに話も何んにも出来やしねえ。五分や十分会はしたつて罰も当らねえだらうがなあ。』
 此度は親方も一緒になつて不平を云ひ出した。
『私は此の前来た時に、どうも充分話が出来なくて用が半分しか足りなかつたから此度は二人連れで来ましたよ、二人がゝりで代りばんこに思ひ出しながら話をしたら後であゝさう/\なんて事がなくて済みやしないかしらんと思ひましてね、規則通りの短かい時間でいろんな用を相談しやうとするんですからどうして――』
 男は頻りに首を振つた。
『面会時間のお許しの出てゐる正味の処はどの位でせうな。』
 あばたの爺さんが誰にともなく聞いた。
『さあ』
 皆んなが顔見合はせたが誰も知らなかつた。
『自動電話は五分だなあ、あれよりやあどんな事をしても短かいね』
 親方はまた皆を笑はしておいて、
『時に何時だい、もうそろ/\初まりさうなもんだなあ』
 よく/\辛抱はして見たがと云ふやうな表情をして入口の方を見返つた。此度は誰も口へ出しては何んにも云はなかつたが、急にさう云はれて何かを待ち受けるやうな緊張した顔に戻つた。

六 スリツパ泥棒の恐縮


 龍子は先刻から下半身の冷えがだん/\に体力にひろがつて行くのが分つてゐた。Mは皆んなの話を聞きながら笑ひ笑ひ立つたり歩いたりしてゐた。
『面会所つてものは本当に面白いものね』
 龍子はMが傍に腰かけた時に小声で云つた。
『えゝ、一寸他ぢやこんな気分は出ませんね』
 Mもさう云つて頷いた。
『Eがね始終、裁判の傍聴と監獄の面会には是非行つて見ろつて云つてゐたのが、昨日の裁判所と今日の此処ですつかり解つたわ』龍子はさう云つてあたりを見まはした。
 此処にゐる人は、かく此の未決なり既決に囚人としてゐる人と何かの関係のある人に違いない。親子であり、夫婦であり或は親族であり、友人であり、知人であらう。そしてそれ等の囚人の或者は詐偽、或者は窃盗、或者は強盗であり殺人犯であり、また或者は放火でもあらう。そして、それ等の囚人が世間からどんな眼で見られてゐ、その関係者がどの位、所謂いわゆる世間を狭め、辱かしめられ、憎悪され、軽蔑をされてゐるかしれない。それを考へて此処にゐる人達を見まはすと面白い。龍子は黙つてそんな事を考へてゐた。龍子は初め此処に這入らない前に、この室に這入つてゐる、或は這入つて来る囚人の関係者が、どんなに身体をすくませ、恥らつてゐる事だらうと思つてゐた。彼女自身は恥づべき何物も持つてゐなかつた。何故なら彼女の仲間の誰でもが、少し心のまゝに、無遠慮に行動するならば、監獄にほうり込まれると云ふ事は殆んど当然の事としか考へられてゐなかつた。彼等が政府の意志に反した行動をする。その行動を政府が抑圧すると云ふのは分り切つた事なのだ。それ故、彼等の同志の一人として其処に行く事を不名誉な事だとか恥づべき事だとは考へてゐなかつた。寧ろ皆んなは、入獄した経験を他人に話して聞かす事を一つの誇りのやうにしてゐた。そして又、自づと獄内での待遇が違ふように、世間の見る眼も普通の破廉恥罪と政治犯とは大分違つてゐた。それ等のいろんな事が自然に龍子の心の中にあつた。だから彼女は平気で監獄の門をくぐつた。しかし、多くの人々はどんな気持でこの門を潜りどんな気持で控所の中で、各自の顔を見合つてゐるだらうと思つてゐた。
 しかし、何んでもなかつた。幾分か堅くなつて遠慮はしてゐても、皆んなお互ひ同志に恥かしい思ひをし合つてゐるやうな風には誰も見えない。誰も肩身を狭ばめて隅にかゞんではゐない。と云つて皆んながお互ひに自棄な気持で相対してゐるのでもなければ、勿論同情し合つてゐるのでもない。本当に自然な心持でお互ひがどんな境遇にあるかなどは考へずにゐるらしい。龍子は其の控所の中で、知らない者同志が多人数落ち合つて待合はせをする何の待合所よりも安易を感ずるのを不思議に思つた。勿論楽天家らしいおしやべりな親方が大部分其処の空気を和らげてゐると云ふ事もあるが、しかし、黙つて知らない顔を見合はせてゐる隅の方の女連のどの顔にも、不思議と知らない女同志の、殊にみなりものごしの違つた同志で表はす、侮蔑や、傲慢や、その他あらゆる敵意が、殆んど見えないと云つてもいゝ位なのが龍子には本当に珍らしく思はれた。そしてもつと龍子を涙ぐましい気持にしたのは、最初から此の室にゐた汚いみぢめな子供を負つた内儀さんに対する皆の気持だつた。それは勿論同じ境遇におかれてゐるせいでもあるが皆んなの眼はこの室の中で一番貧しいその内儀さんにぢつとそゝがれてゐた。しかしその貧しさ惨めさに対して高ぶつてゐるものゝ一人もゐないと云ふ事は皆んなの態度で龍子にはハツキリ感じられた。両隣に座つてゐる婦人は頻りにその背中で眼をさました子供をからかつたり、そのかみさんの汚い顔に近づいて、優しい口をききあつてゐた。
 初め、此処の室に這入つて来た時には、皆が皆不安さうな顔や心配らしい顔付をして、それ/″\になじまない様子を見せてゐた。しかし三十分たち一時間たちするうちに、皆んなの気持は何時か、すつかりほぐれて仕舞はないまでも、悪くなりすました処はなくなつて来た。黙つて寒さうに身をすくめてゐる連れのない人達も、何時か他の人と話し出したり、またその親しさが現はせないまでも親方の軽口を皆んなで声をたてゝ笑ふ事の出来る程安易な心持になつてゐるらしかつた。
 話に紛れて忘れてゐたのをまた思ひ出したと云ふやうな様子で最初に口をきいた男は又頻りにはいて行かれたスリツパを気にし出した。今にも自分が呼ばれたら困つて仕舞ふと云つてわざと皆んなを笑はすやうな滑稽な口吻でこぼし出した。しかし其の男がまだ口をつぐまない先きに、そのスリツパをはいて行つた男がその扉口へ出て来た。
『あゝ有りがたい/\、やつとこれで安心した。』
 男は皆の方を向いて頓狂な声でさう云つた。皆も思はず笑ひながらその男の足元を見てゐた。何にも知らぬその男はスリツパを自分の足駄とはきかへながら、けゞんさうに皆んなの顔を『何事です?』と云つたやうな表情で見まはした。
『あなたが、黙つてそのスリツパをはいて行つたものだから此の人が大分心配しましたよ。』
 親方が直ぐあごで『此の人』を指しながら説明した。
『いやそりやあどうも――』
 その男はひどく恐縮しながら親方に一つお辞儀をして、直ぐあはてゝまたそのスリツパの主の方に向いて
『どうもすみませんでした。誠にどうも――』
 真赤になりながら顔をさげた。
『どういたしまして。何にね、向ふへ上つて行くのに間に合ひさへすれやいゝんですよ。何あに。』
 男は詫びられると自分も意久地なく赤くなつてお辞儀を返した。
『何あにあなた。失くなつたつてもと/\此の人のぢやないんです。差し入屋のでさあ。間に合はなくたつて面会が出来ない訳ぢやなし。あやまるに当りませんよ。』
 親方のその冗談にまた皆が笑つた時には、気まりを悪がつた人はもう入口を出かけてゐた。
 丁度其の時、そのスリツパをぬぎ揃へられた廊下の扉口に背の低い小柄な、頭の白くなつた如何にも看守らしい倨傲きょごうな顔付をした老看守が立つた。皆んなはそれを見ると急に笑ひを止めて『さあ来た!』と云ふやうな緊張した顔をして老看守の顔を見上げた。

七 父親を慕ふ可憐の小児


『四十八番!』『四十九番!』
 恐ろしく底力を持つたよく響く濁つた憎々しい声が龍子を驚かした。
『あゝ、あれが囚人を呼ぶ声だな』
 龍子は直ぐにさう感じた。あの不快な圧力を持つた声があの小さな体の何処に蔵されてゐるのか? 長い年月の間鍛練されたその特殊な威圧的な呼声に耳を覆ひたいやうな嫌悪を感じながら龍子はその看守の顔をぢつと見た。
 看守は五六人の人を廊下に呼び上げると、その小さな鼻の上に乗せた眼鏡ごしに、ヂロリと不快な一瞥を残された者の上に投げてその儘皆んなの後をおふて奥の方に這入つて行つた。
『随分待たせたわね、もう二時半よ、四時になればもう暮れかかるのにね』
『何あに、初めれば直ぐですよ、どうせ一人五分とはかゝらないんですから。』
 Mはいつも変らぬ呑気さをもつてすましてゐた。
『しかしどうも何んですな。吾々かうして半日待つてゐてさへ随分怠屈なおもひをしますが、中にはいつて、口もきけず膝もくずせず、話も出来ず、煙草も吸へずと来た日にやあ何うもやり切れませんなあ』
 あばたの爺さんは、呼び込まれた人達のぬいで行つた石階の下駄をぼんやり見て取り残されたやうに立つてゐる男に話かけた。朝早くから待つてゐると云ふ男は、無論午後からの面会には自分が第一番に呼び込まれるものと信じてゐるらしかつた。それで一生懸命にスリツパをも気にしてゐた。看守の姿が見えると第一番に腰を浮かして待つてゐた。しかし、どうした事か遂々とうとう看守は彼の番号を呼ばずに引つこんでしまつた。彼はぼんやりと立つてゐた。しかし爺さんに話かけられると彼は、あはてたやうに、そのぼんやりしたおどけた顔をふり向けて、直ぐそれを受けた。
『実際やり切れませんね。まあ一生こんな処には、はいらないやうに心懸ける事ですねハヽヽヽ』
『しかし、何時どんな事でぶち込まれるかも知れねえな。災難つて奴があるからね。だが、何つて云つても彼といつても半年や一年なら我慢もしようが、五年十年となつちや事だね、こん中にもそんなのがゐるだらうけれど、そんなのは一体どんなつもりでゐるんだらう? たまらねえなこんな窮屈な中にゐちやあ』
 親方は直ぐ横槍を入れる。
『さうさねえ、まあこの中で生れた気にでもならなくつちやとても辛抱は出来まいね。』
『こん中で生れた気か――違えねえ、其処まであきらめりやあ大丈夫だな』
『あゝ、何んでもこれであきらめが肝心ですよ、人間これがなかつた日にや、この苦しみのしやばに生きてくることは出来やしませんや』
 爺さんは短かい煙管きせるを指の先でグル/\まはしながら親方の方に首をつき出してさも覚りすましたやうな事を云つた。
 廊下を折々看守が通つて行く。そして誰一人無関心で其の扉口を通りすぎては行かない。冷たい、底意地の悪い眼で何かをさがすやうにヂロリと控所の中をねめまはして行く。龍子はその度びに癪にさわつてたまらなかつた。
『嫌やな眼をして見てゆくわね、どうしてあんな眼をしなければならないんだらう。彼んな奴等の眼には、此処の門を這入ると、誰でももう囚人に見えるんだわね、面会人まで囚人扱ひしなくつてもよささうなものだわね。』
 龍子は、その反感を自分ひとりでは持ち切れずにMに云つた。彼女は再びさつきの老看守の声の不快な圧力を思ひ出した。天井の高い細長い室、土と石の冷たい室、其処に火だね一つおかずに此の寒中数時間或は終日でも平気で待たして置く役人根性が、龍子には憎くて耐らなかつた。しかしまた彼等が一歩此の城廓から出たら――何と云ふ惨めさ、小ささだらう? それを思ふと龍子は皮肉な笑ひを催さずにはゐられなかつた。せめてもの事に、威張れる処で威張れるだけ威張りたい彼等、たつた一つの彼等の誇り――あのみすぼらしい服や帽子や剣――の馬鹿々々しさ。
 遠くの方で子供の泣き声がする。と思ふうちに火のつくやうな激しい泣き声がだん/\に近づいて来る。皆んなが一斉にはつとしたやうな顔をして廊下の方を向いてゐた。と其の扉口に眼には一杯涙をためて、半泣きになつた惨めなかみさんの姿が出て来た。その背中では汚いねんねこは下の方にふみぬいて上半身を反らせた子供が、真赤になつて手足をもがいて泣き狂ふてゐた。
『やだあ! やだあ! 父ちやん!』
 子供はありつたけの声をふりしぼつて泣き叫んだ。龍子の胸は思はず何かにブツかつたやうにズシンとした。知らず知らず涙が浮んで来た。
『お父ちやんはね、門の処で待つてるんだよ。ね、おし、お止し、さあ泣くんぢやないよ。叱られるよね、ね。』
 母親は汚い下駄の上に足をのせながら頻りになだめやうとした。しかし到底その声が子供の耳に這入らうと思へなかつた。控所の中は子供の泣き狂ふ声で一杯になつた。入口に近くゐた二三人の女連は耐へかねたやうに顔をおほつた。流石呑気な親方も暗然とした顔をして子供の顔と母親のオド/\した顔を見くらべてゐるばかりだつた。
『まあまあ可愛想に! お父さんの顔が見えたんですか?』
 入口に近く立つてゐた内儀らしい年増の女がふみぬいたねんねこに手をかけながら云つた。
『えゝ、一寸見えましたもんですから。それに此の子が不断から親爺つ子なものですから。』
 母親はとう/\耐へ/\た涙をポロ/\こぼしながら云つた。背中の子は猶も父親を呼びながら反りかへつて暴れるのでとても工合よくねんねこを直して着せるわけにはゆかなかつた。子供は泣き続けながら遂々門の傍まで出て行つた。門に近づくに従つて激しくあばれ出して母親の足をよろけさせるばかりだつた。
『あゝ泣かれちやお母さんがたまらないわねえ。可愛想に』
『お母さんもたまらないだらうけど、それよりは、中にゐる親爺がどんなだか知れない。あの泣き声が耳についちややり切れやしない。』
 Mはその親爺の顔でもさがすように奥の方を覗きながら云つた。
『一体此処に子供を連れて来るつて法はありませんよ』
 あばたの爺さんがさも苦々しい事だと云ふやうな顔をして云つた。
『本当にねえ、なまじつか顔を見せちや、父親にも子供にも、どつちにも罪ですわ、私はもう決してこんな処に子供を連れて来るものぢやないと思ひますよ』
 勝気らしい眼に一杯涙をためて立つてゐた内儀さんが相槌を打つた。
『何あに、もう一時間も早けや彼の子供はようく眠つてたんでさあ。時間が後れたばかりで生憎あいにくとこんな事になつたんですよ。』
 今まで黙つて一と口もきかなかつた隅にゐた木綿の紋付羽織に前掛けをしめた五十二三の男が突然口を出した。
『いやもう、此の中にはいつてる奴は本当に親不孝子不孝女房泣かせでさあ』
 直ぐに爺さんは声をおとしてさう云つたまま黙つてしまつた。その中にも奥から一人二人づゝ帰つて来た。やがてまた、先刻の老看守が代りの人々を呼び込んで行つた。
『おや、今五十四番の人が行きましたな、私は五十三番だけれど、どうしたんだらう? 順番通りと違ふんですか。』
 Mの側にゐた男はあはてゝ立ち上りながら誰にともなく云つた。
『順番通りぢやありませんよ。随分後先きになりますよ。私は朝からでまだ呼ばれませんもの』
 二度目にも呼ばれなかつた男は不平さうに云つた。
『へえ、それはまた長すぎますね、どう云ふものだらう?』
『どうもすつかり待ちくたびれましたよ、何あに、かうひまが入るのなら、また出直して来てもいゝんですけれど、今迄待つて帰るのも馬鹿々々しいしねえ。』

八 窃盗犯人の若い女房


 だん/\に控所にゐる人数が減つて行くにつれて万遍なく皆んなが口をきゝ出した。やがてMも呼ばれて這入つて行つた。
 Mが行つて少したつと四十五六の男性的な粗野なものごしをした赤ら顔の、一見筋の悪い口入屋のかかあと云つた風の女が妙な苦笑を浮べながら石階を降りて小さな自分の包を取りに隅の方の腰掛の傍に行つた。
『お会ひになりましたか?』
 その包の番をしてゐた赤ん坊を抱いた細君が少しくゝみ声の物和らかな調子で聞いた。
『えゝ、面会所で喧嘩なんです、馬鹿々々しいつたらあれやしない。もう何んにも構ふもんか!』
 吐き出すやうな乱暴な口調でさう云ふと日和下駄の歯をタヽキにきしませながら後もふり向かずに荒々しく出て行つた。
『ねえ、思つたよりやつれてゐないでせう、前より却つて肥つた位ですよあれなら。』
『本当にね、私しやもつと弱つてるだらうと思つたけれど、あれなら半年や一年位の処なら心配するがものあないわ。』
『えゝ、私ももう其処いらであきらめとかうと思ふの、自分でももう心配するなつて云つてるし。でも弁護士だけは私しつかりした人を頼みたいわ、本当に弁護士がいゝと気強いんですものね。』
 一と連れの女連はさう云つて話しながら、もとの処に腰をおろした。
『気強いつてば、あのおかみさんはえらいのね、よくあれだけ思ひ切つて云へたわね、私驚いちやつた。』
『お内儀さんつてあの赤ら顔のですか?』
 紋附の男が口を出した。
『えゝ左様ですの、随分長い事云ひ合つてましたね、よく看守さんもまたあんなに長くそのまゝにしといたものね全くおどろいたわね。』
『どうしたんです?』
『あの御亭主さんが窃盗で何んでも七年の宣告を受けたんですつて。それが控訴したらあのおかみさんが何か証人によばれて云つた事が悪かつたんで十三年になつたんですつて。だもんだから亭主が怒つて、わざとさう云ふ風に誰かと腹を合せてしたんだらうつて云つてるんですよ。』
『へえ、窃盗で十三年、そんな長いのがあるんですかなあ』
『何んでも前科が五犯とか六犯とかなんですつて、であのおかみさんと一緒になつてまだ一年半とかしか経たないんですつて、それぢや気心を疑ふのも無理もありませんわね』
『とかく、黙つて座つてゐれや、さうでない事もいろ/\気がまはりますからなあ』
『左様ですよ。それを何んとかうまく優しく云へばいゝものをねえ、そおれや、あのおかみさんの方が火がつく程怒つてどなり散らしてゐるんですもの。あゝ云ふえらい真似はとても尋常一様な者にや出来ないわねえ』
『全く驚いたわ』
 二人の女は猶しきりにそのおかみさんの気強い良人おっとに対する乱暴な言葉などを取り上げて噂してゐた。
『あ、いけなかつたんだわ、彼の方はついぞ泣いたりなんかした事ないのに。』
 年上の方の女は先刻まで一とかたまりになつてゐた仲間の三十位の丸髷の細君の姿が扉口に見えると直ぐ小声でさう云つて眉をよせながら立ち上つた。細君は真赤に泣きはらした眼を伏せて、手巾ハンカチで鼻と口を覆ひながら降りて来た。
『如何でした? よくなかつたんですか』
 直ぐに前の二人は歩みよつた。
『えゝありがたう御座います。実は控訴するのは見合はしたつて云ふんで御座いますの、弁護士もいゝ方を二三人頼む事になつてゐるし、何うか控訴するやうにつて云ひましても聞きませんの。』
『まあ、どうしてでせうねえ、あんなに、あなたが心配してゐらつしやるのを御存知ない事もないんでせうに。それで、ぢや控訴なさらないともう直き既決におさがりになるんですね』
『えゝ、まだ一週間ばかり間はあるさうですけれど――』
『ぢやあなたもう一遍弁護士の方だの他の方からすゝめて御覧になつちや何う?』
『ありがたう御座んす。でももう自分で決心してゐるやうですから駄目でせうと思ひます。私もあきらめちやゐますけれど二年や三年の事ならどうでもしますけれど十年もの間子供を抱へてどうして行つたらいゝかと思ふと本当に何もかも分らなくなつてしまひますわ』
 細君はさう云つてしまふと顔をおさへてまた激しくすゝり泣きを初めた。二人も慰さめかねて呆然と震へる細君の頭から肩のあたりを見てゐた。
『十年と云や長いやうですけれど、何あにあなた、私共のやうな老いぼれのこれから先きの十年なら心細いけれど、ねえ奥さんあなたのやうな若い方の十年は直ぐですよ。お子供衆があつたりしちやあ中々大変でせうが、中にはいつて苦役する方もなか/\お大抵の事ぢやない。まあ其処を一つお考へなすつて、気長にお暮らしなさいまし。気短かに考へ詰めちやいけませんよ。どうせ長い人間の一生ですからいろ/\な事がありますよ。』
 暫くして何時の間にか向側に席をかへた爺さんが、体を前に乗り出しながら静かな調子で云つた。
『ありがたう御座います。もうさうきまつて仕舞へば、私もその覚悟で子供のお守りをするつもりで居ります。本当にお恥かしいところをお目に懸けました。もう先達中せんだってちゅうから覚悟はして居りましたけれどやつぱりまだ女々しい考へがぬけませんで――』
 細君はつゝましやかに顔を拭いて爺さんに挨拶した。そして前の二人連れの女と一緒に出て行つた。
『気の毒なものですな、十年と云や、ずゐぶん長いものだが、屹度控訴すればまだ長くなりさうな事があるんですね、一体何をしたんでせう?』
 絞附の男は爺さんの顔を見ながら云つた。
『さあ』
 爺さんはさう云つて首を振つたなりで黙つてしまつた。賑やかな親方がゐなくなつて、スリツパを気にした男も何時まで待つても呼ばれないので悄気てしまつた。控所の中は一時にヒツソリしてしまつた。
 やがてMも帰つて来た。
『どうでしたWさんは?』
『えゝ、元気でニコ/\してましたよ。これからゆつくり勉強するんだなんて云つてました。』
 少し話すと、Mは今夜また会ふ事を約束して先きに帰つた。龍子のポケツトの時計はもう四時近くを指してゐた。
『ねえ君、此の地所や建物も大変だが、此処の一日の経費だけだつて大したものだらうなあ、それが皆んな吾々の税金にかゝつて来るんだぜ。泥棒や放火を養つといてやるなんて実際馬鹿げてらね。こんなのが全国に幾つあるかしれないが皆んな合はすと大変な額だぜ』
『仕方がないやね、安寧秩序を保つて貰ふ為めに払ふ税金だあね、これがなきあ吾々安心して生きて行けないんだもの。併し本当に何んだねえ、世の中に悪い奴がゐなくつて、こんなものもなくなればいろんな方面の負担も大分違つて来るね』
『違ふともさ。ところが悪い奴つてものはだん/\ふえて来るんで困るね。此処に這入る奴と来た日にやあ、此処に這入つてる間はかうして国家の経済に影響を与へるしさ、出ればまた物騒な事をして人を苦しめるし――実際人間のカスだね。改心するなんて奴はめつたにないやうだな。』
 三十分ばかり前から入口を出たりはいつたりしてゐた二人の揃いも揃つて薄い髯のボヤ/\生えた眼の細い、見るからに成り上りの小商人らしい狡猾な顔をした反つ歯と四角な口を持つた三十前後の男が、Mと入れちがひに龍子の傍に腰を下ろすや否や、傍若無人な態度で話し出した。其の横風な人を小馬鹿にしたやうな態度と、場所をわきまへぬか、或は侮視した、不謹慎な話しが忽ちに龍子を激怒させた。龍子は危く其の男達の面皮をはいでやらうと思つて向き直らうとした。しかし丁度その斜向ふに腰をかけてゐた爺さんの顔を見た時に、爺さんは如何にも皮肉な眼をして、ぢつとその不謹慎なおしやべりをしてゐる男の顔を見据えて居た。そして其の口が何か云ひたげにモグ/\してゐた。龍子はそれを見ると黙つた。あの細いのみとり眼。あの鼻に口、あの卑し気な輪廓、そしてあの尊大ぶつた容姿、あれが何んで不正を知らぬものと思はれやう? 龍子は猶もとがめるやうな憎しみの眼をぢつと彼等の上に据えた。彼女と爺さんの強い意地張つた眼に出遇ふと二人とも心持あはてゝ顔を見合つた。そして急に、チグハグな気持をブツつけ合ふやうな間のぬけた他の話を初めた。

九 小窓から出たEの顔


 龍子は定められた順番よりはずつと後れて五時近くになつて呼ばれた。例の老看守は龍子が廊下に上るのを待つて云つた。
『これから共犯者申し合はせて面会に来る事はならんぞ』
 何んな場合にでもまだ龍子は、そんな乱暴な言葉で扱はれた事はなかつた。それともう一つ、『共犯者』と云ふ耳ざわりな言葉が龍子を怒らせた。看守は尋常な答へを龍子に待ち受けてゐた。しかし彼女は黙つて何んにも答へずに済まして看守より先きに歩き出した。
『分つたか、共犯者一緒に来ると、会はせないぞ、会はせても遅くなつたりするからそつちの損だ。』
 しかし龍子はなほすまして歩いて行つた。廊下を直ぐ折りまがつて突き当つた処に、三尺位の引手のついた戸がズラリとならんで、一二三と番号が書いてあつた。
『七十二番は一号の前――』と云ふ指図通りにその扉の前に立つた。彼女はポケツトから小さな手帳を引き出した。それは今、Eと会つて、話し洩らしてはならない用件を書いておいたものだつた。彼女が静かにその手帳を操つてゐるうちに、二号では年老つた母親がその息子に会つてゐた。話し声は筒ぬけに龍子の耳に聞こえた。息子は頻りに母親に詫びて、留守中のことをいろ/\指図してゐた。やがてその話が終るか終らないうちに、隔ての戸のしめられる音がした。しかし息子はなを云ひ残した事を大声に母親に通じさせようとして云ふ。母親も二言三言返事を与へてゐる。と荒々しい看守の声がその話をさへぎつた。耳の遠い老母はしほ/\しながらその戸を押して出て来た。
 入れ違ひに龍子が呼び込まれた。其処は三尺四方のうすぐらい箱だつた。その正面のしきりの向ふに網を張つた郵便局の窓口のやうなものがあつて戸が閉めてあつた。その窓口と龍子のはいつてゐる箱の間の狭い通路に部長が一人立つてゐた。
『何番?』
『七十二番』
『名前は? あ、何んだE? へえEさんが、珍らしいな何時から来てる?』
 部長は意外だと云ふ顔をしながら心持親しみを見せながら聞いた。
『一昨日からでせう? 多分』
『何んで来たんです?』
『よく知りません。公務執行妨害とか云ふ話ですけれど。』
『え、一人? 他には誰? U、W、知らないな、へえEさんが来てるとは知らなかつた。』
 部長はしきりに首をかしげてゐた。
『まだ来ないな、一寸出て下さい、今直ぐですから』
 龍子はまた外へ出た。しかし直ぐ向ふの方に足音がしてEの咳をする声がした。
『よろしい』
と云ふ許しが出て再び這入つて行くと部長は直ぐその窓口をあけた。Eの眼がギロリと暗い中で光つたと思ふと笑ひ顔がぬつと前に突き出された。
『寒くはありませんか?』
 龍子は何から話していゝか分らずにつかぬ口のきゝ方をした。
『いや寒くはない。どうしたい、うちには誰かゐるかい?』
『えゝ』
『早く用事を話さないと時間がありませんよ』
 部長はペンを握りしめながら催促した。龍子は二三日間の事をすつかり、それから相談すべき事をすつかり、何も彼も果さうとして急いで手帳の覚書を見ながら話した。Eは腕組みをして黙つて頷きながら聞いてゐた。用事を話してしまふと、龍子は急にこれから何を話さうかと云ふやうなポカンとした気持になつた。いろ/\話したい事がある。けれど何う云ふ事を話したらいゝか? 時間がないんぢやないか? さう思ふと忽ちヂリ/\して来るのだつた。
 やがて、一寸どうでもいゝ話が続いたのを見てとると部長は直ぐ、窓の傍のハンドルに手をかけた。
『もう別に話す事はありませんか、なければもうしめますよ』
『ぢやまたね』
『あゝ』
 Eの笑顔は直ぐかくされた。
『未決のうちは毎日会へますよ、また明日ゐらつしやい』
 部長は役目をすますと一層くつろいだ調子で龍子に云つた。しかし龍子はその言葉を後ろに戸の外に出た。あの冷たい寒い室に半日待つての面会としてはあんまり馬鹿々々しかつた。それに、何処へ行つても誰の前ででも、思ふまゝに寧ろ傲慢すぎると見える程に自分を振舞ふEが、窮屈らしく拘束されてゐるのを見ては、龍子は何んとなく情ないやうな憤ろしいやうな気持がしてならなかつた。しかし、看守にどなられて無理に引きはなされて悄々しおしおと出て行つた老母を思ひ出すと、まだ手加減をして扱つて貰つた丈けいゝとしなければならなかつた。控所まで来ると龍子は急いで石階を降りた。室の中にはまだ五六人の人々が寒さうに肩をすぼめて話してゐた。外は小暗くなつてゐた。龍子は同志の男達の手にお守りをされながら待つてゐる乳呑の子供の事が焼きつくやうに思ひ出されるのだつた。
『ああ、遅くなつた――』
 門を出て小走りに歩き出した龍子の頭の中には子供の姿と一緒に宅までの長い長い道順がれつたく繰りひろげられるのだつた。それと同時に、待たされた半日の時間が忌々しく惜まれるのであつた。
[『改造』第一巻第六号・一九一九年九月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
   2000(平成12)年3月15日初版発行
初出:「改造 第一巻第六号」
   1919(大正8)年9月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※表題は底本では、「(監獄挿話)面会人控所」となっています。
※「究屈」と「窮屈」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード