新らしき婦人の男性観

伊藤野枝




 世間には可成に女を知りぬいたつもりで、かれこれと女を批評する男がすくなくないやうですが、それが大抵九分九厘迄は当つてゐないので、こちらの耳へはむしろ滑稽に聞える位なものです。男は独りよがりを楽むものと思はれます。
 男は寛大で、万事が大まかです。随つて綜合的な点に於て女は男に及ばないでせうが、部分的な細かい洞察は、とても女に勝てますまいと思はれます。
 女は綜合的で無いかわりに部分的に深刻です。男は綜合的ではあるが、如何にも粗笨そほんで浅薄です。何をるにも独り合点で、片端から独断でやつてのけます。男の為ることは馬鹿々々しい程無邪気に女には見えます。
 浅薄な、手妻師てづましのやうな男が其処等中に転がつてゐますが、左様そう云ふ男が女に対する場合、能きるけの猫をかぶつてゐます。けれども其の猫の皮は何んでも無く観破れるのです。直とお底が知れるのです。
 処が、実を云ふと、猫を被ぶるのは女の方がもつと/\ひどいのです。ひどいのですが細心な注意を払つて男に対する城塞を固めてかゝるので、男には容易にそれと悟れません。れだけ女は罪が深いのでせう。それだけ男は無邪気なのでせう。
 男は穴だらけ隙だらけです。女は男のその弱点を如何様にも利用することは容易です。然しそれは最も卑劣な行為と言はねばなりません。弱点は無論女にもあるのですから、弱点と弱点とは互に調和して行かなければならないことで、弱点を包み隠し合ふ必要が無いと同時に、弱点を利用すると云ふことは罪悪でせう。
 水商売の女は巧に男の弱点を利用してゐます。水商売の女で無くても、世間にはんな種類の女が沢山あります。
 男を怖いもの、いかめしいものゝ様に思ふのは、世間知らずの娘時代に多いことで、人の妻となり母と成つた女の眼には、男は怖いものでも厳めしいものでも無く、親しみ易いくみし易い無邪気なおめでたいものとしか映らないのです。其の証拠には、愈々いよいよ突きつめた場合になって[#「なって」はママ]、男は意気地が無い程早く折れますが、女は然う云ふ場合に徹頭徹尾自分の強さを示す事のきるものです。いざと云ふ場合此方こちらに強く出られて、高飛車に強勢を執る男はめつたに有るものでありません。大抵はコロリと参つちまひます。
 女が男に服従しなきやならないと云ふ理由は成り立ちません。たゞ永い日本の習慣が女の独立を妨げたが為めに、女は自分の生活の保障をして呉れる男に対して一歩を譲つて相当の敬意を払ふと云ふ丈けのものです。そこへ男が付け込んで奴隷扱ひにし、女が盲従的に甘んじてその屈辱を受けると云ふのは訳の解らないことです。
 やがて女の独立の道が確立されたら、この弊は除れてしまふでせうが、其処に到る迄の女の自覚は今の処仲々容易なことではありますまい。
 婦人問題は担ぎ上げられても、世間一般の婦人はウンともスンとも言ひません。夫れもその筈、担ぎ挙げる人達が男も女も、真個ほんとに覚醒して見えるのが無いからです。この青鞜社にだつて、書物で醒めた自覚者はあつても、切実に実際問題に触れて衷心から自覚の声を放つ人は殆ど無いと申しても宜しいのです。
 しかし世間の男の方にだつて真に自覚した人と云ふのは余り有りさうにも見えません。男の方の方が女よりももつと尠いかも知れません。何は兎もあれ男のかたに覚醒の実をあげて貰はねばなりますまい。男の方に先き立つて貰はねば、現在の社会の制度では婦人の自覚などは謂ふ丈けが野暮に終るかも知れません。
 現今世界各地に於ける婦人覚醒のムーヴメントは、今後う発展し実現して行きますことか。――話が横道に外れますからこれ位にして置きます。
[『新婦人』第四年一月之巻、一九一四年一月]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「新婦人 第四年一月之巻」
   1914(大正3)年1月
初出:「新婦人 第四年一月之巻」
   1914(大正3)年1月
入力:酒井裕二
校正:Butami
2019年8月30日作成
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