従妹に

伊藤野枝




 今、私の頭の中で二つのものがもつれ合つて私をいろいろに迷はして居ります。
私は今までうして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為にも大変不幸だと思はれますので止めました。けれども、どうしても書きたくてたまらないので。二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。
 きみちやんにはね、姉さんがどう見えますか? 恐らくきみちやんには、私をいゝ人かわるい人かと聞かれたら、一寸ちょっと答へに困るでせう? もしかしたらきみちやんは、姉さんはいけない人だと思つてゐるかもしれませんね、それにしてもなほ、いろ/\な疑問が沢山に私についてあるだらうと思ひます。その疑問は決して私自身ばかりでなくきみちやんにとつてもきつと大事なものかもしれません。屹度きっと私がこれから書くことを読んで行くうちには思ひあたることがあるだらうと思ひます。
 私のやつたことに就いてきみちやんは皆はしらないのでせう? 叔母さんなんかの考へでは、私は本当に仕様のない堕落した我儘わがまま娘だとでも思つてお出でせう。私の今迄の行為を極く普通な、世間的に観れば誰にでもさうとしか思へないことは私自身にも分ります。けれども私にはまた私の理屈があるのです。そして私は、それを一番本当だと信じて居ります。何事によらずすべて人の考へと云ふものはその人自身より他の人には何にも分らないものだと思ひます。さうでせう? きみちやんが何か考へてゐるでせう、それをいくら他の人が考へて見た処できみちやんの考へてゐる本当のことは分らないものです。きみちやん一人ばかりが本当で後の人の考へは、あて推量だとか臆測とか云ふものでそれは間違つてゐるのです。私の場合にそれをあてはめて見ますと私の父さんや母さんそれから、叔母さんたちやその他の人たちでもみんなその当推量をしててんでに怒つたり恨んだりしてゐるのです。で、きみちやんは矢張りその叔母さんの当推量で怒つたり悪口云つたりしてゐるのばかり聞いてゐるのでせう――しかしそれにもかゝはらずきみちやんは矢張り私の事について冷淡ではないと私は思つてゐます。――或は私の独りきめできみちやんが読んだらふきだすかもしれないけれど――。だからいま私が私の本当の気持ちをきみちやんに聞いてもらふのです。そして、母さんたちの当推量と、私の本当の考へがどれだけ違つてゐるかをくらべるといふことは決して無駄ぢやないと私は信じてこれを書きます。
 づ私が何時でも皆から浴びせられる言葉はわがまゝだと云ふこと、不孝者と云ふこの二つの言葉です。本当にさうだと私自身も思ひます。さうしてさう云ふ両親やその他の人たちの気持も私にはよく分ります。皆は私のことを人を苦しめておいて何とも思はないなんて云ひます。何とも思はないどころか苦しくてたまらないのです。くるしくてたまらないのを我慢して自分の道に進んで行かなければならない、私の本当の心の奥底の苦痛は、誰一人何とも思つてはくれないのです。理智と感情は決して一緒には働かないものです。父さんや母さんのなさる事に就いてあれは正当だこれは誤だと云ふやうな批判は、独りで何でも考へられるやうになれば――つまり一人前になれば誰でもすることです。けれども今直ぐ、お父さんはあんないけないことをした、お父さんを嫌いにならう、お父さんとは他人同様にしやうと思つたつてさう単純に行くものではないのです。殊に親子とか兄妹だとかその他肉親の関係は実に複雑な絶対的のものなのです。誰が親や兄妹を泣かして気持よがるものがありませう? 皆には、この理屈はよく分つてゐるのです。けれどもその考へを押し進めてこちらの気持ちを考へることなんかなしに直ぐ自身の方に引き戻して愚痴にしてしまふのです。物の考へ方がまるでもう根本から違つてゐるのです。
 私が嫌がるのを無理に自分達の都合の為めに結婚さした。もし私がをとなしい、何にも考へることの出来ない魂のない娘だつたらハイとをとなしく自分では少々嫌やな男だと思つても無理にでも辛抱したかもしれない。さうすると、親たちはじめ皆は喜ぶでせう。そして本当に孝行な娘だとほめるでせう。けれど自分はどうでせう。どんな馬鹿な娘だつて、いくら仕方がないとあきらめてゐたつて人がわい/\云つてくれるほど幸福だとは思はないでせう。
 私はそんな嘘は自分と云ふものに対して本当に恥かしいことだと思ひます。きみちやんはさう思ひませんか、まるで他人の為めに生きてゐるやうではありませんか。自分のものときまつた、何人も犯すことの出来ない体や精神をもつてゐながらそれで他人の都合や他人のためにその体や精神をむざ/\とまかしてしまふのは意久地いくじがないと云ふよりはむしろ生れた、甲斐がない生甲斐がないと云ふより他仕方がありません。
 人間は誰でも自分より可愛いゝものはないと云ふけれどそれは本当だと思ひます。自分を犠牲にしてとか、汝の敵を愛せよとか、身命をなげうつて国家につくすとか云つてもその実、さう云ふ人たちは、矢張り自分の死んだ後で幾千代の後までも、名を残すことの出来ると云ふその人にとつてはこの上もない或る期待をもつてその大きな名誉心に馳られてゐるので結局は矢張り自分の為めなのです。汝の敵を愛せよと云ふ教へも結局は『尾を振る犬には手をあてられぬ』とか何とか云ふたとへをうまく利用したものと思へば間違ひがないやうに思ひます。それは本当に自分を愛し、又尊敬する人から見れば一番自分をふみつけたそして一番無理な、不自然な考へ方です。だから、油断をすると直ぐに、逆戻りをするのです。人間が死んでからはどうなるのかは分らないぢやありませんか、それなのに立派な体や精神を折角自分のものとして与へられてゐながら他人の都合の為めばかりにすりへらすと云ふことが本当に、肉体や精神を賦与された真の目的に添ふものであるかどうかと考へて御覧なさい。直ぐに分るでせう。けれどもね、きみちやん自身に考へてもいゝしそれから周囲についてもいゝ、よく考へて御覧なさい。どんな些細なことでも自分がこれがいゝと思つてやらうとするでせう、そのときにすら/\と思ふやうに出来たことがありますか。あつてもそれは、極くわづかしかないでせう、また、つまらない、思ふとほりに出来なくても大して困らないことなのでせう。自分が是非かうしたい出来なければ大変困ると云ふやうな自分にとつては重大なことはなか/\思ふやうにならないでせう? そしてそれは、そう云ふことを思ふ通りにされると困る人が屹度自分の近くにゐてその人の邪魔で出来ないものです。
 私の場合もそうなのです。私は自分の意志に依つてした結婚ではないのだから是非破壊せねばならないし私の両親や叔父さんたちはそんな無鉄砲なことをされては困るので止めさせやうと邪魔するのです。勿論私は他の人が困るからと云つたところで自分が苦しいから無理にも破壊しました。自分の考へてゐるとほりにどし/\やつてしまひました。それで一番困つたのは矢張り誰でもなく私を無理強ひした人達です。そしてその人たちの困るのは本当から云へば当然なのです。けれども嘘で固めた所謂いわゆる世間の道徳と云ふものは決してそれが当然だとは皆に思はせないのです。何にも頭におかずに考へて御覧なさい。長上――目上のしかもたゞ自分より年が上だとか親だとか云ふことを楯にして自分の都合のためばかりに僅かばかりの経験とか何とかを無理な理屈にこぢつけて理不尽に服従させてもいゝと云ふやうな理屈があるでせうか。皆は私のことをわがまゝだとか手前勝手だとか云つてゐますけれども本当に考へて見ると私よりも、周囲の人たちの方がよほどわがまゝです。私は自分がわがまゝだと云はれる位に自分の思ふことをずん/\やる代りに人のわがまゝの邪魔はしません。私のわがまゝと他人のわがまゝが衝突した時は別として、でなければ他の人のわがまゝを軽蔑したり邪魔したりはしません。自分のわがまゝを尊敬するやうに他人のわがまゝも認めます。けれども世間にはさう云ふことを考へてゐる人はそんなにありません。皆誰も彼も自分は仕たい放題なことをして他人にはなるべく思ふとほりなことはさせまいとします。自分は自分けのことを考へて行ふし、他人は他人の勝手にまかして置くと云ふのが本当なのですけれど自分と他人との区別をはつきりたてることの出来ないのが大抵の人の悪い欠点です。それはその人たちが悪いのではなくて日本の所謂道徳がいけないのです。今の日本の多くの人たちを支配してゐる道徳は一つも本当のものはなくて皆無理な虚偽で固めたものなのです。だから窮屈なのです。話が一寸外れました。余計なことは云はないことにします。今私の云つた自他の区別が出来ない人達だから、本当の意味の正しい個人主義だとか自己本位とか云ふことゝ自分を甘やかすわがまゝとか傲慢な専横との区別がちつとも分らないのです。そしてまた、共同と云ふやうなことをもち出しては各自がわがまゝをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく云ひます。これもまるで根本から考へ方が違つてゐるからです。皆が皆他人にかゝはらずに自分は自分丈けのことをやつて行きさへすれば自然な最も自然な共同が出来ます。何のとりつくろひもないし自分をおさへると云ふやうな不快な感情なんかは少しもまじらないから厭なくだらない争闘なんかは決して起らずに済みます。けれども共同とか何とかわい/\云つてゐる人達はそんなことを云ひながら内々はみんな自分のいゝやうにしたくてたまらないのです。そして自分のいゝことをする為めに他人に迷惑をかけることはさほどに思はないで他人のしてゐることが自分にかゝはり出すと、直ぐに邪魔をし出すのです。それも卒直にやればいゝけれど妙に道徳とか習俗とか云ふものに囚はれてまはりくどい嫌味な愚劣な争ひをしてゐるのです。何だか変な理屈になつて来ましたね、解りますか。
 私は自分の自信を貫徹させるにあたつて一番に其処につきあたりました。誰でも皆さうなのです。併し私は他の多くの人たちのやうな、悧巧なずるいことは出来なかつたのです。私は何はさておいても服しなければならないと云ふやうな信念を少しも所謂道徳に対して抱くことが出来ないのです。そしてまた、その軽蔑してゐるものに対して膝を折り曲げるにはあまりに自分に対する気位が高かすぎるのです。他人が自分の行為に対してどんなおもはくをもつかと云ふやうなことまで考へる程の余裕が私にはもてないのです。そして私はそのことを決して悪いとは思ひません。私はとうとうすべてを排して自身を通しました。そして皆の一番尊敬してゐる、そしてまた私を縛するに最もたしかなものだと信じてゐた道徳や習俗を見事ふみにじりました。話が大変に抽象的になりました。解りにくいでせう。私はもつと具体的にわかりやすく書く筈でしたのにこんな変なものになりました。もつと沢山書くつもりでした。今の気持と、これを書きはじめるときとの気持がすつかりはぐれてしまつたのです。書きたいことを思ふやうに書けないむしやくしやが先にたつてどうしても書けないから止めます。今度もすこし落ちついて書くつもりです。きみちやんには屹度解らないだらうとおもひます。自分ながら何を書いたのかまるで筋道がたつてゐないのが分るのですもの。もしきみちやんがこれを読んで不服なことや解りにくい処があつたらかまはず突き込んで聞いて下さい。そうすればこんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持が落ちつきしだいに書き代へて送ります。でもきみちやんに私がどういふつもりでこんな手紙を書き出したかと云ふその私の心持だけでも分つてくれゝば大変うれしいと思ひます。 (三、二、二三)
[『青鞜』第四巻第三号、一九一四年三月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第三号」
   1914(大正3)年3月号
初出:「青鞜 第四巻第三号」
   1914(大正3)年3月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年4月28日作成
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