女絵師毒絵具を仰ぐ

(三面記事評論)

伊藤野枝




 利欲一点張りの父と思想上の衝突からと云ふ註をつけて女子美術学校を中途でやめた松尾松子と云ふ婦人が将来画家としてたつゝもりで自宅で退学後も研究中の処父は彼女を歯科医として教育することにし度々意見の衝突をしたあげく不本意ながら父の意に従ふことになり近々専門校に入学して研究する筈になつてゐたが矢張り画を描くことを思ひ切ることが出来ずに煩悶し近き頃は家人ともろく/\口もきかず一室にとぢこもつて絵をのみかき哲学の書なども耽読してゐたが何時か自殺を決心して十八日午前二時画用の黄と青の毒絵の具を多量に服したと云ふことが十九日の紙上に見えた。
 果して自殺の真の原因が新聞紙の伝へるやうに目的をはゞまれたと云ふことゝすれば松子と云ふ女は小心な意久地いくじのない女だと云はなければならない。
 希望をもつことの出来ない歯科医などになることをしぶしぶながら承知する位の勇気があれば何も死なゝくともよさゝうなものだとづ私達ならば思はれる。本当に死ぬほどつきつめた心持になる程画に執着があればたとへ今ひ出されるといつてもその愛をまげることが出来ないのが通常であるのに、矢張り一時の苦しさの為めにの妥協がのがれやうとした苦痛を一層大きくしてしまつたのだ。其処までゆくともうすつかりまゐつて仕舞つたのだ。もう一と勇気出してふみこたへればそれがきつと彼女をもつと明るい処に導いたにちがひない。
 到底自分の望みが容れられない場合に二つの方法がある。それはどんなにしても自分一人の生活の道をたてて親の手許からはなれ去ること、それでなければこれは少し性は悪いかもしれないけれどもそれも一の手段として自分に許すことが出来れば、親の要求通りの道をえらんでその傍ら絵をかくことを続けてゆきどうしても他の事をさせたのでは駄目だと親の方で覚るやうに仕向けてゆくかの二つだ。本当に生きる為めの仕事に対する愛着からならばその位のことは何でもないことだと私は云ひ得る。
 私の考へによれば彼女にはこの位のことは見当はついてゐたのだとも思はれる。しかし彼女は彼女自身の臆病からそれを断行することが出来なかつたのであらう。けれども後者は割り合ひに容易に出来ることだと思ふ。たゞそれにばかりついてやることは出来ないかもしれない。けれども彼女が片手間の研究で満足が出来なければどうも仕方がないとも云へるけれどそれにしても場合によつては描くことを懸命にやつて医学の研究を片手間でもかまはないではないか。小心なものゝ常としてさうした方に向けば向いたで矢張りそれにも全力を傾けて他人にひけをとりたくない劣等者になりたくないと云ふやうな欲ばつた考へになつて矢張り人並の勉強もしなければならず、それには時間はかゝるし疲れはするしとても絵などは書けないと云ふ考へが先きにたつことになるとつい失望もしなければならない。かく自分の事にけ懸命になつてゐさへすれば何でもなく処置の出来ることなのだ。この自分の真の仕事についての長上との意見の相違は今はじまつたことでなく随分ながい歴史をもつてゐるのだ。あまりに周囲ばかりを見つめてゐる、周囲によつて生きてゐる人間には内心の要求が強い程かの矛盾に苦しむのであるが併しその要求が昂じてそれで一人の人間全体がはり切れさうになりさへすれば周囲のことなどはおもつてはゐられなくなつて仕舞ふに相違ない。さうしてさういふ人でなければ決して成就はむづかしいのだ。処がおかしいことには多くの教育者は精神一到何事か成らざらんなどゝ教へてゐながらさて其処にぶつかればきつと何とか彼とか圧迫しやうとする。ことに女にとつてはこの圧迫は一番苦しいものゝ一つだ。女は始終その圧迫の前におづ/\暮して来た。そうしてそれは殆んど女の先天的素質に近いまで喰ひ込んで来た。彼女は父に対して不平をもち不満を抱きながらも矢張り一種の因習の圧力、父の圧力にまけたのだ。彼女にはそのすきを見つけ出すこともはねかへす力もなかつた。さうして彼女は日夜かなしんで遂々とうとう死を決心した。彼女は一命をとりとめたから此度は自分のすきな道に向つて歩むことを許されるかもしれないけれども彼女はどうしても一度はまけたのにちがひない。彼女の生命が全くその為めに失はれたのならば彼女は父の持つた因習の圧力にまけて死んだのだ。そして彼女は何にも得ることは出来なかつたであらう。
[『新公論』第三〇巻第八号、一九一五年八月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「新公論 第三〇巻第八号」
   1915(大正4)年8月号
初出:「新公論 第三〇巻第八号」
   1915(大正4)年8月号
入力:酒井裕二
校正:きゅうり
2018年8月28日作成
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