感想の断片

伊藤野枝




 私は、いつも同じ事をばかり云つてゐると思ふ人があるかもしれない。けれども、私は何時までも、自分の考へてゐる最も重要なことについては、駄々つ子が物ねだりをするよりも、まだうるさいと思はれる位に、云ひたいと思つてゐる。私自身が既でにさうだが私たちの周囲のどの人もあんまりいそがし過ぎると私は思ふ。そして他人の云ふ事はおろか、自分の云つた事でさへ僅かな時間のたつた間に忘れて既でに次の自分の云つてゐる事に熱中してゐる。他人の云ふことを一々頭の中で翫味がんみしたりしてゐる人なんかはまあないといつてもいゝ位だと私は思ふ。それ故、私は是非とも受け入れて欲しいと思ふ程重要なことについては何時までも/\うるさいと怒鳴られる程続けたいと思つてゐる。
 当然通るべき道として私自身の通つて来た道をふりかへつて見るとき私は取りかへしの出来ない失策を沢山に持つてゐる。まだあぶなつかしい随分と通りにくい処も通つて来た。しかし私がいまかうしていろ/\な事件のあつた過去をふり返るとき一番自分を導いて教へたものは私自身の内心の争闘である。一番自分にとつて苦痛であつたのもそれである。
 私が可なり楽な学校生活を終へてづぶつかつたものは不法な周囲の圧迫に対する反抗であつた。それは誰にも、大抵同じ形式をもつて来る結婚であつた。私はそれをはね返した。併しそれは可なり煩さい情実がひし/\とからみついた面倒な結果をもたらした。私は数かぎりもない種々な詰責や束縛や嘲罵を受けた。併しあらゆるものに敵意を含んで見える中にゐる私は、それに対する反抗で一杯になつてゐた。たまに、肉親の者たちの感傷的な態度に反抗の機先を折られさうなこともあつた。けれどもより多くの真意をもつて自分を抱く愛人があつた。さうして切りぬけた時、私は立派な一つの仕事をなし遂げた気でゐた。私は他人の知らぬ多くの苦痛を自分一人で味はつた気でゐた。私は本当にえらい仕事をした気でゐた。併し今の私にはそれは何でもない事であつた。私はより多くのより深い苦痛を知らなければならなかつた。
 私が初めて、他人ばかりの中に交渉しはじめた時、私はやうやく自分と云ふものゝみぢめなのを見た。私は本当にひとりだ、と思つた時、私の心はひとりでに捨てゝ来た故郷の友達の上に吸ひよせられて行つた。私がいくら習俗を軽蔑して反抗で一杯になつたつて私の臆病な心はその反抗を他人に、かつて私が肉親の人たちに向つてしたやうに容易たやすくは、向けることをがえんじなかつた。私の体中を人々に対する憎悪と反抗と侮蔑が渦を巻いて出口を見つけやうとあせつてゐる時でも私はその渦の出処を探さうとは容易にしなかつた。
 私は自分のそのふしぎな矛盾をぢつと見つめてゐた。そうして、その渦をしづめるよりも出すのが当然のことだといふことがはつきり私にわかつてゐた。私はその度びにいつも此度こそはと云ふ決心をした。けれどもそれが何時でも直ぐに行為に出ては来なかつた。遂に私の内心では決心を断行する勇気が出ないかと云ふ自身の弱い意志への憤怒に燃えた。併し私の血球の中に細胞の一つの中に迄くひ入つた習俗の前には私の憤怒は何の抵抗力もなくくづをれた。私は自分に絶望しさうになつた。
 けれども私は、そのことについて可なり考えた。私はその卑怯な態度が他人に悪い感じを持たれたくないと云ふ虚栄から来てゐることをよく知つてゐた。それにもかゝはらず私はそれを打ち破ることをしなかつた。併し直きに私は自分がいくらさうしてよく思はれやうとつとめてもそれに何の効果もないことを知る事が出来た。私は私の本当の値以外にいくらかよく見て貰はうとしても駄目なことを確実に見せられた。私の下だらない遠慮や気づかひはずん/\消えて行つた。けれども矢張り主要な交渉になるとそれが出たがつて困つてゐる。私は本当につまらないことながら肉親と他人と云ふやうな関係の区別があまりに深く自分に染み込んでゐることに驚かずにはゐられない。
 冷静に批判をする上には肉親も他人もおなじである。私の頭の中では両親であらうが或は他人であらうが、一切かまはずに無遠慮に解剖し批判する。けれどそれが一度実生活の上に関して来ると不思議な愛は肉親に対する軽侮の心を片よせ他人の上にはそのまゝな批判が依然と支配する。これも私をどの位苦しめたか知れない。殊に私は愛する良人おっとの肉親に対しては他人であつた。無理に交渉しなければならなかつた。私は前に私が肉親にそむいた時の苦痛よりも更に幾倍も/\の苦しみをその交渉のうちにしなければならなかつた。私は初めそれを馬鹿々々しいと思つた。何故私はこんなに苦しまなければならない理由があるのだらう。こんな苦しみに囚はれてゐる位ならば私は私一人で別にこんな人達と交渉しなくてもすむやうにしたいとも思つた。けれども、私がそれ等の人々に対して不快な感を持つ程自分の肉親の愛を力強く思ひ出すことを私はぢつと眺めてすます訳にはゆかなかつた。良人は私が彼を愛してゐるやうに私を愛してくれる。さうして私が肉親を愛するやうに彼も肉親を愛するに違ひない。
 昔からどれけの婦人がこの事について苦しんで来たかと思つたときに私はこの苦しみが決して馬鹿々々しいものでも何でもないことを知つた。私はこの苦しみをどう片附けるかと云ふことに自分自身に対する興味をおぼへた。皆んなこの苦しみをあきらめて通して来た。そして私自身も人並みにこの道へふみ込んで来た。私は決して馬鹿々々しいことだとおもつてはならない。私は何かしてこの道をごまかさずに通りぬけたいと願つた。
 けれども私がさう考へたときにはその苦痛はさまで強いものではなかつた。私はだん/\に自分と他人の区別をたてる事が出来て来た。他人のしたり、云つたりすることが気にならなくなつて来た。自分のしたいことをする。云ひたいことをする。他人にも勝手にさせる云はせると云ふことが平気で出来るやうになつた。自分の価値がよく云はれたり悪く云はれたりすることに依つて動くものでないと云ふ自覚がはつきりして来た。
 私は何の為めにくだらない経験ばなしを持ち出したか? それはすべての若い婦人達の前にひらかれた道がいま同じであると云ふことが私にわかつてゐる。それはしば/\未知の人々から若い婦人たちから自分の境遇を訴へて来る多数の手紙に依つても知れ、その他私達のせまい見聞のうちの多数をそういふ問題が占めて居るけれども彼女等は大方は、頑強には反抗が出来ないらしいし、出来たにしてもさきに私が書いたやうに、もうその反抗が立派な一つの自分の力を証明した事実として安神あんしんしてゐる人の方が多い。しかし私の考へる処ではそれはほんの関門を出たにすぎないので、それから先き自分一人を他人の中につきだして交渉しはじめるときに本当の仕事がまつてゐるのだと思ふ。他人との交渉には傲慢と虚偽はどうしても許されない。或ひは傲慢でないかも知れない。肉親に対すると同じ「わがまゝ」と反抗をそのまゝ他人に向けやうとする。そして多くの人が失敗する。さうして自分のした事に権威がなくなる。つては私もその道をたどつたのだ。さうして誤解されて怒つたけれども、その誤解は当然であつた。通るべき道は避くることは出来ない。私はこゝに述べた私の内心の経験がこれからさうした道を歩かねばならない人にとつて些細な助けにでもなればと云ふ年よりじみた考へで書いて見た。併しすべての人に一様に私が考へてゐる程重大な事であるかどうかは私にもわからない。たゞこれは私一個のあやまちをふり返つて見て思ひついた事に過ぎない。
[『第三帝国』第三九号、一九一五年五月五日]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「第三帝国 第三九号」
   1915(大正4)年5月5日
初出:「第三帝国 第三九号」
   1915(大正4)年5月5日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年4月28日作成
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