書簡 大杉栄宛

(一九一六年五月七日 二信)

伊藤野枝




宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館


 今朝あなたへの手紙を出して仕舞ふと直ぐに仕事にかかるつもりで居りましたが、何んだかグルーミーな気持になつて仕舞つて、机の前に座るのがいやで仕方がありませんので、障子を開けてあすこから麦の穂を眺めながら、あなたの事ばかり考へて、五六本煙草を吸つて仕舞ふまで立つてゐました。ひどい風で、海岸から砂が煙のやうに飛んで来るのが見えるやうなのです。
 こちらでも、あなたの評判がまた馬鹿にいいんですよ。そんないやな処にゐないで、早くいらつしやい、こちらに。お迎へにゆきませうね。あなたが私と直ぐにゐらつしやるおつもりなら、土曜日の昼頃そちらに着くようにゆきませう。そして日曜の、あなたのフランス語がすんだら直ぐに五時のでこちらに来るようにしては如何です。それまでには、私の方でも少しはお金の都合は出来ると思ひます。さうしませうね。大阪の新聞の方、神近さんの名をそのままに書きましたよ。社の方で差支へがあれば頭字にでも直すようにしませう。
 保子さんには、もう少し理解が出来るようにはお話しになれませんか。私は何を云はれてもかまひませんが、もう少しあなたと云ふ事をお考へになれないでせうか。私には、何んだかもつとあなたがよくお話しになれば、お分りにならない方ではないやうな気がします。けれど、あなたは保子さんによくお話しをなさる事を、面倒がつてゐらつしやるのではありませんか、もしさうなら、私は出来るだけもつと丁寧にあなたがお話しになるようにお願ひします。どうでもいいと云ふやうな態度はお止しになつた方がよくはありませんか。勿論、私はまだ何にもあなたにそんな事はお聞きしませんから分りませんけれど。さうでなければそれ以上仕方はありませんが、あなたが神近さんに対して、また私に対して、さしのべて下さつたと同じ手を、保子さんにもおのばしになる事を望みます。
 私は神近さんに対しては、相当の尊敬も愛も持ち得ると信じます。同じ親しみを保子さんにも持ちたいと思ひます。保子さんは私に会つて下さらないでせうか。私は何んだかしきりに会ひたい気がします。あなたの一昨日のお話しのやうに、触れる処まで触れて見たい気がします。私も保子さんを知りませんし、保子さんも多分よく私と云ふものを御存じではないだらうと思ひます。触れるところまで触れて、それでも私の真実が分らなければ仕方がありませんけれど、知らないでゐるのは少し不満足な気がします。もっとも、保子さんが私に持つてゐらつしやるプレジユデイスは可なり根深いものであるかも知れませんけれども、この私のシンセリテイとそれとが、どちらが力強いものであるかを見たい気も致します。し保子さんがお許し下さるなら、私は今度お目に懸りたいと思ひます。
 けれどもまた、若しその結果が保子さんに大変な傷を与へるやうな事になるとすれば、これは考へなければならない事であるかも知れません。けれども、私達の関係は、知らない人同士で認め合ふと云ふやうな、いい加減な事は許されないだらうと思はれます。今会ふことは出来ないとしても、一度は是非お目に懸らなければなるまいと思ひます。あなたのお考へは如何でございますか。
 それからもう一つ気がついた事ですが、経済上の事は、私は、保子さんにとつては一番不安な事ではないかと思ひます。私は私だけでどうにかなりますから、あなたの御助力はなるべく受けたくないと思ひます。で、その事も出来るだけ本当の事をお話しになつて下さい。私は多分一人きりになれば、その方はどうやらやつて行ける事と思ひます。ああ云ふ風に思はれてゐる事は、私には大変不快ですから。これも小さな私の意地であるかも知れませんが。私は、どこまでも自分だけの事は自分で処理してゆきます。あんな事を云はれて、笑つてすますほどインデイフアレントな気持ではゐられないのです。あなたはお笑ひになるかも知れませんが。
 その事は、私がお八重やえ(野上彌生)さんに話をした時に一番に注意された事でもありました。お八重さんはその問題に就いては絶対に何の交渉も持つてはいけないと思ふとさへ云ひました。お八重さんが私に持つた不快の第一は、萬朝にあつたあの記事によつて、直ぐにもう私があなたにその助力を受けたと云ふ事を知つたからだと思ひます。殊に、保子さんの私に対する侮蔑はすべてが其処にあるやうにさへ私には思はれます。国民の記事にしても、萬朝のにしても。今のところ、私にはそれが一番大きな苦痛です。何卒、私がそんな下らない事にこだはつてゐる事を笑はないで下さいまし。私は自分で自分を支へる事が出来ない程の弱い者でもないつもりです。愈々いよいよする事に窮すれば、私は女工になつて働く位は何んでもない事です。体も丈夫ですし、育ちだつて大して上品でもありませんからねえ。まあこれ位の気持でゐれば大丈夫喰ひつぱぐれはなささうです。何卒さう云つて説明して上げて下さいね。
 何んだかいやな事ばかり書きましたね。御免なさい。もう一週間すれば会へますね。
 肩がはつたなんて云ひながら、あなたへの手紙は夢中になつて書けるんですね。勝手なのにあきれます。今少し嵐が静かになつて来ました。いくらでも書けさうですけれども、もうおそいやうですから止めませう。今頃あなたは何をしてゐらつしやるのでせうね。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会
   1926(大正15)年9月8日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード