宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館
今日私はあなたがおたちになる前に、二三日前からの私の
自分で、我儘な事も片意地も何も彼も皆なよく解つてゐて、そしてつまらない事に
自分の頭で考へた事を直ぐに決して話さないと云ふこと。私はそのためにどんなにあなたにいやな思ひをさせたかを知つてゐるのです。知りながら、その癖に打ち勝てない自分に反感を起さずにはゐられないのです。それを考へますと、私は直ぐメランコリイになるのです。それをあなたが御覧になると、あなたも直ぐ不快におなりになるし、それが今度は私の方にはまた一層強く来るのです。さうして、だん/\に気持が妙に外れて来るのを見てゐますと、私はもうたまらなくなるのです。
私が、昨日だか一昨日だか、パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話を持ち出しました時、私はあの主人公と女主人公の事をふと思ひ出して、私があれをどんなに興味をもつて読んだかをお話して、そして私の片意地をお話しようと思ひました。けれども、さう思ふと同時に、頭の中ではあなたにお話しようとする事は綺麗に整つて仕舞ひましたけれど、さてそれをそのまま話す事は、もう何んだか不自然な気がして、素直に口にする事が嫌やになつて、そのまま黙つて仕舞ひましたのです。
そんな風で、昨日山を一人で歩いてゐます時にも、その事ばかり考へてゐましたの。自分で自分に手のつけようがないのですもの。
今日あなたがお帰りになることは分りきつた事ですし、直きお会ひ出来るのも分つてゐますから、それは何んともなかつたのですけれど、この二三日の私の我儘から、あなたに不快な日を送らせて、それをお詫びしようと思ひながら、反対にあなたからお詫びを云はれて、まだ自分では何にも云へなかつた事を考へますと、私は自分にいくら怒つても足りないのです。あなたが
さつき、あなたのお乗りになつた汽車の発車するのを聞きながら、小熱いお湯の中にひとりで浸つてゐる内に、私はすつかり落ちつきました。今も大変静かにしてゐます。今頃はあなたはもう東京の明るい町を歩いてゐらつしやるでせうね。此処は今、私がかうやつて書いてゐるペンの音だけしかしません。雨もやんだやうです。明日からは仕事が出来さうな気がします。
あなたがこちらにゐらつしやる間に神近さんから手紙が来て、あなたがそれを読んでゐらつしやる時、私は本当に淋しくなつて仕舞ふのです。ゼラシイぢやないんです。本当にただ淋しいんです。ぢつと私は、私のまはりを見まはしたくなるんです。そして、だん/\に沈んで仕舞ふのです。それが、何時でも自分ひとりでゐる時のやうに、用心深く自分を見てゐないからだと云ふことがよく分ります。うつかり、あなたと一緒にゐるといい気になつて仕舞ふのです。さうしては、さう云ふ場合になつて、自分のその弱味を見る事が、私には口惜しくて仕方がないんです。それでつい黙つて仕舞ふのです。
ひとりでゐますと、総ての事が非常にはつきりしますから、すきを持たずにゐられます。ですから、あなたが神近さんの傍にゐらしても保子さんの処にゐらしても、何んのさびしさも不安も感じません。本当に、一緒にゐますと、離れてゐる事が苦痛ですけど、かうしてゐますと却つてその方がいいやうな気がします。出来るだけ離れてゐる事にしませうね。早く仕事をすまして九州へゆきます。さうして、一二ヶ月後にあなたに会へる事を楽しみにして勉強します。
今夜はもう止めます。私は今日お湯にはいつてから急に足が痛んで困つてゐます。昨日の疲れだらうと思ひます。
つまらない手紙を書きましたね。でも、何かしら書いたので少しいい気持になりました。おやすみなさい。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]