書簡 大杉栄宛

(一九一六年四月三〇日 二信)

伊藤野枝




宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館


 ひどい嵐です。一寸ちょっとも外には出られません。本当にさびしい日です。けれど今日は、さつきあなたに手紙を書いた後、大変幸福に暮しました。何故かあててごらんなさい。云ひませうか。それはね、なを一層深い愛の力を感じたからです。本当に。
 こないだ、あなたに云ひましたね、あなたの御本だけは持つて出ましたつて。今日は朝から夢中になつて読みました。そして、これが丁度三四回目位です。それでゐて、何んだか始めて読んだらしい気がします。あなたには前から幾度も書物を頂く度びに、何にか書きますつてお約束ばかりして書きませんでしたわね。私は書きたくつてたまらない癖に、どうも不安で書けませんでしたの。それは本当に、あなたのお書きになつたものを、普通に読むと云ふ輪廓だけしか読んではゐなかつたのだと云ふ事が、今日はじめて分りました。何んと云ふ馬鹿な間抜けた奴と笑はないで下さい。
 私が無意識の内にあなたに対する私の愛を不自然に押へてゐた事は、思ひがけなく、こんな処にまで影響してゐたのだと思ひましたら、私は急に息もつけないやうなあなたの力の圧迫を感じました。けれども、それが私にはどんなに大きな幸福であり喜びであるか分つて下さるでせう。あんなに、あなたのお書きになつたものは貪るやうに読んでゐたくせに、本当はちつとも解つてゐなかつたのだなんて思ひますと、何んだかあなたに合はせる顔もない気がします。けれども、それは本当の事なんですもの。それをとがめはなさらないでせうね。今は本当に分つたのですもの。そしてまた私には、あなたの愛を得て、本当に分つたと云ふ事はどんなに嬉しい事か分りません。これからの道程だつて真実たのしく待たれます。
 今夜もまたこれから読みます。一つ一つ頭の中にとけて浸み込んでゆくのが分るやうな気がします。もう二三日位はかうやつてゐられさうです。一ぱいにその中に浸つてゐられさうです。でも、何んだか一層会ひたくもなつて来ます。本当に来て下さいな、後生ですから。
 嵐はだん/\ひどくなつて来ます。あんな物凄いさびしい音を聞きながら、この広い二階にひとりつきりでゐるのは可哀さうでせう。でも、何にも邪魔をされないであなたのお書きになつたものを読むのは楽しみです。本当に静かに、おとなしくしてゐますよ。でも、一寸の間だつてあなたの事を考へないではゐられません。かうやつてゐますと、いろいろな場合のあなたの顔が一つ一つ浮んで来ます。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会
   1926(大正15)年9月8日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年1月4日作成
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