貞操に就いての雑感

伊藤野枝




 在来の道徳の中でも一番婦人を苦めたものは貞操であるらしい。
 私は今迄かなり貞操と云ふことについては他人の考へを聞いたり教へられたりしたけれど私自身のちやんとした貞操観と云ふものは持たなかつた。私は本当にその事に就いてはさう考へるやうな事に今迄出会はなかつたし自分でも是非考へなければならないことであるとも思はなかつた。しかし今迄他の人々の所謂いわゆる貞操観を聞く度びに多少の意見は持たないでもなかつた。
 此度はしなく生田花世氏と安田皐月氏の論文によつて私は始めて本当に考へさゝれたけれどもそれとても矢張両氏のお書きになつたものを土台としての自分の考へでまだちやんとした貞操観にはなつてゐない。
 十日頃平塚氏と会つたときその話が出ていろ/\話して見てまた更に自分の考へを進めて見た。けれども結局本当に痛切な自分の問題にはならなかつた。そうして最後に私が従来の貞操と云ふ言葉の内容に就いて考へ得たことは愛を中心にした男女の結合の間には貞操と云ふやうなものは不必要だと云ふことけであつた。
 在来の貞操と云ふ言葉の内容は「貞女両夫にまみえず」と云ふことだとすれば私はこんな不自然な道徳は他にあるまいと思ふ。
 かう云ふと又其処らでいろ/\うるさい理屈を云ふ人があるかもしれないけれど例へば此処に良人おっとに死別れた婦人があるとしてしもその婦人が死んだ良人に対して何時迄も同じ愛が続いてゐてそれが動かすことの出来ない程力強いものであるならばそれはその婦人にとつては独身でゐることは不自然でなく普通な事柄であると云はなければならない。然し多くの世間の寡婦達の間にはさう何時迄も寡婦でゐることを幸福だと思つてゐる人許りはない。貞操と云ふ道徳観念をその人達の頭から取り去つてしまつて欲するまゝに動かしたら屹度きっとその人達がよろこんで相手をさがす事は必定である。またそれは決していけないことではないと私は思ふ。極めて自然な事柄である。
 最も不都合な事は男子の貞操をとがめずに婦人のみをとがめる事である。これは最も婦人の人格を無視した道徳であると思ふ。男子の再婚或は三婚四婚は何の問題にもならぬが婦人の相当の人達の再婚は直ぐと問題になる、これは何と云ふ不公平な事であらう。男子に貞操が無用ならば女子にも同じく無用でなくてはならない。女子に貞操が必要ならば同じく男子にも必要でなくてはならない。処がこの不公平な見解が一般の婦人達をして大変な誤まつた考へに導いた。
 私はその誤まつた考へを生田氏によつて初めて知つたのだ。私は驚いた。けれどもそれは氏が世間一般の人達のその卑劣な考へに対して皮肉なあてつけを云つたのだと思つたけれどもあの論文をいよ/\深く考へる程それが生田氏の本当の考へであることを知つた。私は私達の直ぐ傍にゐる人にさへさういふあやまつた考へが染みこんでゐることを悲しく思つた。それはかうである。
 婦人が処女を保つと云ふことは最もよき結婚に一番必要な条件を保つことゝ同じだと云ふ事だ。今此処にあの生田氏のお書きになつたのがないから引照することは出来ないけれども確かにさうである。「いゝ幸福な結婚が出来ない」と云ふことが処女を失くした女の損失である。と生田氏は云つてゐられる。そうしてこの処女性に就いての生田氏の単純な考へが食べると云ふ目前に迫つた要求との争闘になつた。そうしていゝ結婚をあきらめさへすれば処女を失くしたつて構はないのだと云ふ考へが勝利を占めて遂に氏は処女を失くされた。併し女が処女を失くすると云ふことは例へそれが愛人に依つてであつてもなを多少の煩悶をしまた悲しみの情を感ぜずにはゐられない。併もそれが単にパンとの交換問題とではどうしても及びつかないやうな気がする。極く普通な境遇でさうだ。生田氏の境遇は本当に大変だつたらうと想ふ。私は喰べられなかつた経験は矢張り生田氏同様に持つてゐる。どんなにそれが苦しいかは充分知つてゐるつもりだ。氏はまだ貧乏と云つても若干の収入があつてのことだ。私は無収入で苦しんだ。二ヶ月も三ヶ月も満足に御飯にありつけなかつた事だつてある。けれどもどんな事があつても人間が餓死すると云ふことは生きやう食べやうと云ふこと以上に苦しい六ヶむずかしい忍耐の必要なことだと私は思ふ。乞食になつて物を貰つてたべたつてはづかしくはないと私は思ふ。たべる位はいろ/\なぜいたくな心さいおこさなければ本当に窮迫のどん底まで落ちてしまへば却つて楽だと私は思ふ。生田氏は食べる事に苦労したと云ふことを一種の誇にしてゐられるらしい。それは勿論随分たべる苦労も大変だがどんな尊いこともたべる事と交換が出来る程たべると云ふことが大切なことだとは思はない。生田氏は安田氏に向つて喰べる事に就いてはあなたより先輩だ、あなたはお膳立のとゝのつた前にばかり座つてゐらしつた。私は自分でお膳立したと云つて真先にそれを楯にされたが私から見れば氏はまだ三度々々お米の御飯をたべておかずがなくては生きられないと思つてお出になるやうだ。ひもじい思ひをしては生きられないと思つてお出になるらしい。氏は自分丈けでなく弟がゐる。と云つてお出になる。併しそれが三つや四つの子供ではないのだから一通りの理屈は分る筈だと私は思ふ。
 氏が本当に自分の処女と云ふものを大切にしようとなさればまだそうたべると云ふこと位に動かされずに済んだのだと思ふ。けれども氏は婦人の処女を保つと云ふことの意義を単なる利益問題にしてしまはれた。其処に氏の考への落ち度があると私は思ふ。そしてこの考へは日本婦人の大半にさう云ふ間違つた考へを持たした。
 氏は又処女を失くした事は自分の永久のかなしみだと云つてゐられる。それはそうあるべきである。そうしてそのかなしみは吉原や千束町せんぞくちょうの暗い家にゐる女達の持つてゐるのとおなじかなしみだと云つてゐられる、如何にも、氏のゆきかたとさう云ふ女たちのゆきかたは同じだ。彼女達もまたいゝ結婚をあきらめてパンと処女を交換した。氏もさうだ。氏の彼女等に対する同情の涙は氏自身への涙である。私は氏のその涙をけなしもしない笑ひもしない。私は真実にいたましく思ふ。けれども氏のその苦しい涙はむしろより安価に買ふことが出来たのだ。氏がわづかな餓さえ堪へられたらその苦がい盃はのまずとも済まされたであらう。無教育な唯たべることや着ることより他に何物も持たないの吉原や千束町の女たちならまだ仕方がないけれども兎に角一と通り物もよみ、書き、道理も解る方が何故もう少し考られなかつたかと私は遺憾に思ふ。自分には良人が有からもう再びそんな事はないと氏は云つてゐられる。併し氏が「あの頃はまだ誰も自分の貞操を所有してゐた人はなかつたから」と云つた様なことを云はれたことから見れば全然ないとも云へない。其の頃は夫も恋人もなくて他にさう云ふことをしても済まないなど思ふ人はなかつた。併し今は良人がゐるから良人に対して出来ないと云つてお出になる。それは普通の理屈だ。良人があつて愛人が食べるに困るからと身を売る女が何処にあらう。併しういふ事情で夫からまた愛人から去らうも知れぬ。その時はまた所有主がないから食べるに困つて同様なことをするだらうと云ふ理屈の成り立つことに氏はお気がつかないのであらうか。氏のことについてはこの位で止める。以上私の述べたことは私自身の思想感情によつてのことである。だから私はこれが絶対の真理であるとは云ひかねる。何故なら私はづ何故に処女と云ふものがそんなに貴いのだと問はるればその理由を答へることは出来ない。それは殆んど本能的に犯すべからざるものだと云ふ風に考へさゝれるからと答へるより他はない。だから私は私のこの理屈なしの事実をすべての人に無理にあてはめるわけにはゆかない。勿論つければいろ/\な理屈もつくが無理にさう云ふ表面的な理屈をつけた処で根本的な道理が解らなければ矢張り駄目である。で私の考へは以上の通りとして又他にかう云ふ事も考へ得られる。処女とか貞操とか云ふことをまるで無視する事である。さういふ事もないとは限られぬ。またそれが悪くも何ともない事だと云ふことも考へ得られる。若し生田氏がさう云ふ態度ではじめから無視してかゝられたのならそれは又問題はおのずから別になるわけである。さうして私は最早生田氏のその態度について云ふべき何物も持たない。欲を云へば私はあゝ云ふ弱い態度よりもかうした確信のある態度でゐて貰ひたかつた。氏は貞操を超越しやうと思つたと云つてゐられるけれど決して超越したのではなくて余儀なくさせられたのである。それもあく迄結婚をあきらめたと云ふ範囲を出でないで――である。独身生活をしやうと決心したとは云ふものゝそれはあやふやな決心である。さう決心でもしなければ処女を捨てた云ひ訳けが自分に対してたゝなかつたからである。それは決心でも何でもない。自分に対するはかない慰さめであつた。氏はただ徹頭徹尾女性の弱さを失はなかつた。らいてう氏が生田氏のあの論文を読んで男子に同感され同情されさうな文章だと評されたのはもっともだと思ふ。男性を引きつくる女性の弱々しさが遺憾なくその根本の思想に表はされてゐる。氏は何処までも従来のたをやかな弱々しい涙をたゝへた婦人である。親の為めに身を売る婦人である。氏が単独で男子と同じ社会の表面に立つて自活の生活に堪えられなかつたのは尤もである。さうしてあゝした事になつたのも氏としてはすべてが自然であるには相違ない。
 私がもしあの場合処女を犠牲にしてパンを得ると仮定したならば私はむしろ未練なく自分からヴアージニテイをひ出してしまふ。そうして私はもつと他の方面に自分を育てるだらうと思ふ。私はそれが決して恥づべき行為でないことを知つてゐる。現在結婚しつゝある、又、した、これからしやうとする男子のうちに真に結婚する迄純潔を保つてゐる人が幾人あるかと云ふことを考へて見ると私はそれにくらべて女子のしをらしさをおもふと腹立たしくなる。彼等にはさう婦人の貞操を云々うんぬんと云へる資格のある人はない筈である。彼等はその事を全で当然のことのやうな顔をしてゐる。そして却つて婦人の節操については往々甚だしい矛盾した侮辱が加へられる。
 私はそれをいゝ事だとは勿論思はないけれども傲慢な彼等の前に弱々しい涙のみを見せてゐないで強い態度を見せ得る人もあつて悪くはないと思ふ。寧ろ自分の行為に強い確信と是認の閃めきを見せる壮烈な女を見たいと思ふ。そして一方に処女を失ふと云ふことについても前に述べたやうな単純な誤まつた考へを打破することは必要である。そんな誤まつた考への為めに捨てなくてもいゝものを捨てる女がどの位ゐるか知れないと思ふ、前に云つたやうに生田氏の吉原や千束町の女たちと同じ悲哀だと云ふやうな事を云つて自分を慰さめてゐる間は何時までたつてもその日蔭の女たちを明るみへ出す日はない。それ等の女たちと同じだと自分で叫べる程に徹底する事の出来る氏が何故処女を捨てゝは結婚が出来ないかと迄考へをお進めにならなかつたことを私は残念に思ふ。
 私は先きに処女を大切なものだと云つた。けれどもそれは万人にあてはまる真理ではないと云つた。併し最近に私の聞いた処に依ると女が一度男子と接触すれば血球に変化が起つて最早その婦人の純粋のものではなくなつてしまふ。だから此度他の男子との接触の場合ひには矢張りその女の血球は第一の男によつて影響せられた上に又第二の男の影響を受けるので若し第二の男との間に子供が出来るとしてもその子供は純粋な第二の男と女との子ではなく幾らか第一の男の影響がある。と云ふ理屈がある。そう聞けば処女を許すと云ふことも余程きびしい理由が付くがまた他の人に聞くとそれはまだ俄かに信ぜられない事だと云ふ。それは千人が万人のうちには左様さような例がないとも限らないが併しその僅かな例を持つて直ぐにそれが動かすことの出来ない真理だとは考へられないとその人は云ふ。それも左様そうらしく思はれる。何しろ何故処女を犯されると云ふことがそんなに女にとつて大事であるかと云ふ理由は私にもはつきりとはわからない。私は左様な道理をさがす程にまだ熱心にはならなかつた。だから私は処女を失くしたものがいゝ結婚の出来ないと云ふ理由は屹度ないだらうと思はれる。たゞその事だけが結婚の最も必要な条件であるとは云はれまいと思ふ。云ふ迄もなくそれは結婚しやうとする男女両人の愛の如何に依つて定まるのである。若しその結婚しやうとする婦人の処女が既でに犯されてゐると云ふことが相手の男子をして悩ます場合は仕方がないとして若しも男子がそのことを是認しさへすれば何でもなくいゝ結婚が出来る訳けである。現に生田氏はさうして幸福な結婚をなすつたではないか。私は女が処女を失くしたからと云つて必ず幸福な結婚の出来ないと云ふ理由はないと考へる。何故もつと婦人達は強くなれないのだらう。もう一つ例を挙げれば正直な人たちはさうして処女を失つたことを涙と共に告白してかなしい独身生活とか云ふあきらめの陰にかくれてゐる。けれども不正直な所謂悧巧な人達は処女を失つたと云ふこと等は知らぬ顔で立派な結婚をして幸福らしく暮してゐる。私のわづかな知人の間にすらそう云ふ悧巧な人達はどの位あるかしれない。そう云ふ人達よりはまだ正直な人々の方がどの位尊敬する価値があるかしれない。不正直な女、傲慢な男にはいくら幸福らしく見えても真に幸福な結婚は六ヶしい。たゞ正直な真実な心を失はない女とその価値を認むることの出来る男とは幸福な結婚が出来る。生田氏もまたその幸福な結婚をなすつた一人だ。なぜ氏はあんな弱々しい涙のかはりに虚偽な貞操観の下に屈伏せずに堂々と失はれたものよりも更に自分を幸福にした自分の誇りで安田氏におむかひにならなかつたらう。更に私は思ふ。世間の寡婦たちがつまらない貞操観に囚はれて味気ないさびしい空虚な日を送りながら果敢はかない習俗的な道徳心にわづかになぐさめられてゐる気の毒さを――。何と云ふみぢめな事であらう。
 あゝ、習俗打破! 習俗打破! それより他には私達のすくはれる途はない。呪ひ封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ! 私達は何時までも何時迄もぢつと耐へてはゐられない。やがて――、やがて――。
[『青鞜』第五巻第二号、一九一五年二月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第二号」
   1915(大正4)年2月号
初出:「青鞜 第五巻第二号」
   1915(大正4)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年8月28日作成
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