人間と云ふ意識

伊藤野枝




 十月号掲載の岩野清子氏の「個人主義と家庭」と云ふ論文を読んで私は或る点については全く私の考へ方と同一であるのを見出したけれど他の方面に於いて私の考へてゐるのとは可なりに違つてゐることにおどろいた。そうして私はらいてう氏の感想を読んだ。氏の云つてゐられることはまあ私の云はうとしてゐることである。私はだからそのことについては黙つてゐやうと思つたけれど矢張り満足が出来ないので書くことにした。然し私は岩野氏の思想について云々うんぬんするよりも多く自分の考へについて云ひ度いと思ふ。また実際私は他人の思想に立ち入ることは好まないから。たゞそれに依りて考へさゝれた私の感想を述べやうとするのである。私の考へてゐることゝ岩野氏の思想のの点に相違があるかは読む人の判断にまかせる。私はたゞ岩野氏の論文によつて考へさゝれた事で云ひたいことけを云ふ。

 私は如何なる場合ひにも自分の考へてゐる事に対象を置き度くない。それは今の私たちの生活ではむづかしいことではあるけれど。否むしろむづかしいと云ふよりも夢想であるかもしれない。考へてゐることが外面的に表はれたときにはどうしても何かの対象が現はれないでは済まないけれどもその発想に何の対象も有しないと云ふことはうれしい事である。
 私は常に他人との接触に何時も幼い時から私についてまはつてゐる習俗的なあるものが殆んど絶えずつきまとつて私を苦しめる。私はこの頃それがだん/\深味へ入つて来たことを意識してゐる。それはおもに家族との交渉である。私の所謂いわゆる姑と小姑とその夫たちと私の或る間接な関係から必然に起つて来る接触である。明らさまに云へば私の今なやんでゐる問題はそれである。この家庭の問題では私は岩野氏以上に苦しんでゐることを断言し得る。私は常にその事で悩まされてゐる。私の日常生活を知つてゐる限りの人は皆その事を知つてゐる。私はその問題に対して自分の心弱さが腹立たしくてたまらない。私は私の当然とるべき道はすつかり知つてゐる。けれども私に最後までまつはつてゆく私の他人に対する弱いこゝろづかいがつい思ひあがつた私の決心をにぶくしてしまふ。それには或る程度にまで私の心の中に侵入して来てゐる夫の心持ちも多少は手伝つてゐることは勿論である。私は殆んど毎日その問題になやんでゐる。そして私の優しい友達は早く私がその境遇を捨てゝしまふことをすゝめてゐる。これも勿論はやく捨てたい。けれども私はこの頃になつて自分の問題がだん/\と生長して来たことを意識し出した。それは自分と云ふことが人間と云ふことに変つて来たことである。置かれた処によるのかもしれないし私は今迄たゞ自分かぎりの他のことについて考へなかつた。自分がどんなにも小さいものだかと云ふことがわからなかつた。自分と云ふものが本当にどの位広い大きなものに結びついてゐると云ふことに気がつかなかつた。前に云つた私のその問題について私は随分ばか/\しい努力やまたは犠牲を払つた。そして私は不満だつた。私はその不満な為めにいろ/\にその解決方法を考へた。しかし一つも他人の気持はさし置いて自分の意に満つやうな気持のいゝ解決方法はなかつた。つて私が私の両親や血族に向つてした方法より他はなかつた。私はその苦い経験をまた繰返さねばならない。それはまだまざ/\と私の記憶に残つてゐる。どんなに私の涙がその為に絞られたことだらう。私たちは何時までこんなに馬鹿々々しいことを繰り返さねばならないのだらう? しかもその為めに私は極度まで疲労しなければならない疑惑と怨嗟の渦が私を捲き込む。私はそれと戦はねばならない。そしてその努力が決して終局ではない。と考へたとき私は今迄私の考へてゐたいろ/\な細々した問題が不意に暗い大きなものに出会つたことを感じた。私の考へてゐたことが皆そのやみに吸ひ込まれた。それは私一人が考へてゐる問題ではなかつた。否問題ではなくこの大きな暗が私の上に投げた不快な陰影に過ぎなかつた。私は今こそ本当に直接にヒタと本当の問題に出会でくはした。それは社会と云ふ大きなものに包まれたいろ/\なものについての疑問である。それは痛切な私の問題である。それは無論他人の問題をも含んでゐるに違ひない。一人の私が直接した問題であり数万数億の人の面前に迫つてゐる問題である。そうして私は真実に自分の孤独と云ふことが今迄考へてゐたやうに狭くも何ともないことを発見した。その孤独は自分一人丈けの孤独でなくあらゆる人をとり巻いてゐる孤独であつた。もつと広い深いものであつた。あらゆる事物を包含した偉大なる孤独であつた。私の今迄の考へ方はあまりに狭く小さかつた。私は今迄足元ばかりを見詰めてゐた。漸く私は人達の所謂社会問題を自分の問題として考へることが出来るやうになつた。小さな私の問題が拡がつた。そして深い根ざしを持つた。そして私の問題の解決は六ヶむずかしくなつてしまつた。私はあの暗を焼きつくす火が欲しい。それですべては解決する。私は自分で燃す火力を充分に猛烈にする為めに蓄え得らるゝ限りの燃料を蓄へなければならない。私はもつと苦しまなければならない。私はあらゆる苦しみで自分をさいなみ自分に対するあわれみの心をもつと深刻にしなければならない。それは直ちに多くの人に対する同情がなくてはならない。私のやうな心弱いものでは到底その道より他はない。私はだからどんな小さな苦しみでも拾つてゆかうと思ふ。もつとこの社会問題の痛切に自分の問題として他を待つてゐられない程に迫つた気分になる日を私は待つてゐる。私のこの気持ちがどう云ふ風に育つて行くかわからないが私はいま本当にあらゆるものを肯定する丈けの広い心持ちになつてゐる。私のこの心持ちが何の努力もなしに私の日常生活に迄深く及ぼすことが出来たらどんなに幸福だらう。そしたら私は如何なる場合ひにも他人に何にも求めないで済む。併しそうなるには可なりな時と努力をまたねばならぬ。なほこれから後も私の日常生活は今迄とおなじ馬鹿々々しいこと、忌々いまいましいこと、口惜しいこと、嫌やなこと、悲しいことで持ち切るかもしれない。併し私の考へが前の程度に迄進んで来たから私にわづかの考へる時間がありさへすれば私は別に苦しいことはない。私はそれらを唯一の燃料としてとり入れることをはげまされるだらう。私はいくらかの時丈け他人の行動や言葉に対して不快である事に度々出会ふだらう。けれども私はこれからそれを気にすると云ふことよりもそれ等を包んでしまふことに努力するだらう。今、私は私の心の動き方にぢつと目を注いでゐる。私には今自分と云ふものが限りなく広い偉大なものに思へる、――否自分と云ふ関門を通つて出た人間の世界と云ふものが――。それは今迄全然わからないでもなかつたけれど今私が感じてゐる程真実に、又近く、痛切には感ぜられなかつた。それは自分と云ふ足元を視点としたボンヤリした視野であつた。 (三、一〇、二五)
[『青鞜』第四巻第一〇号、一九一四年一一月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第一〇号」
   1914(大正3)年11月号
初出:「青鞜 第四巻第一〇号」
   1914(大正3)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2019年8月30日作成
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