『女
今日婦人の為めに新聞雑誌など云ふものが幾種類も出来てゐます。そしてこの後もずんずん殖えては行くでせうがその殆んどすべてを通じてどんな内容をもつてゐるかと申しますと、それは大方の人々が知つてゐるやうにそれは低級な子女の何の訓練も加へられない情緒を
日本の婦人雑誌で一番多数の読者を持つてゐると云はれる『婦人世界』はその最も安つぽさを振りまはしてゐる点では恐らく矢張り一番であらうと思はれます。その内容は一目見ても何の思慮も分別もなしに吐き出された『何々夫人の経験談』『何々夫人の苦心談』『某夫人の夫を助けて何々せし談』等がかずかぎりもなく記載されてあります。
彼等は
大方の今の日本婦人の仕事の全体は家事と育児位なものだとおもひます。彼女等は一日一日その為めに全精力をあげて働いてゐます。併しその効果はどの点から云つても不満足なるものばかりです。彼女等は育児についても家政についても秩序だつた一通りのそれに必要な智識を与へられてゐます。それにもかゝはらず彼女等が家庭を形造つたときには相変らずの習慣のまゝな型にはまつた家庭が出来ます。授かつた智識の三分の一も彼女は自分の家庭にそれを応用することが出来ません。彼女等がたまにそれを応用しやうとしますとそれは甚だ不手際なプアなものになります。そして半可通的な臭味と嫌味がそひます。彼女等は与へられた智恵を理解することが出来ません。かみくだいて吸収することを知りません。
併しこれは決して教へられるものゝ罪ばかりではありません。恐らく彼女等はそれ等の智識を固定した型として教へられ、それを如何に必要に応じて崩したり砕いたりして用ふべきかと云ふことを教へられなかつたのです。彼女等は教へられたまゝに、それを鵜呑みにしましたのでいざと云ふ場合ひに邪魔で仕方がなくなりますので自然片附けられるわけになるのです。そうすれば彼女はもはや極めて愚鈍な無智な女だちと何の点についてもかはらなくなつて仕舞ふのだと思ひます。それはすべての場合にたゝります。そこでなまじこんな何の役にもたゝない学校へなどゆく位ならばもつとそんなひまに実際の経験を積んでおいた方がと云ふやうなことになつて仕舞ふのです。
「理解」といふことは何んといつても大事なことですがわけて教育と云ふことには一番むづかしい多くの理解が必要だと思ひます。これにはかなりな努力を要します。それにもかゝはらず
子供の教育に腐心すると称する世の母たち、大変らしく苦しんで子供のことをばかり考へて育てゝゐると自慢する夫人達が何故さう云ふ大切な点にお気がおつきにならないのかと
子供の本当の教育は子供自身にしか出来はしないと私は思ひます。他のすべては子供が自分を育てゝゆくに必要ないろ/\なことについて手伝ひをするにすぎないのだと思ひます。私たちは如何に子供を育てるかと云ふよりは如何によく子供の手伝ひをすべきかと云ふことが問題なのだと思ひます。さてかうした考への上に立つて子供の動き方をぢつと見、そして考へてゆきさへすればさう/\子供に対して見当ちがひや有難迷惑となるやうなことはしなくてもすむと私は思ひます。併し何事もぶつかつたその場その場でどうにかこじつけて済まさうとしてゐる人達には何時までもさう云ふ気持はわかりさうもありません。自慢にも何にもならぬことをさも手柄顔に話す人の気が本当に知れません。
凡ての方面に向つて乱脈にはつてゐる根をさがさなければならないと思ひます。それをさがし出すことが出来さへすればあとの方法や、手段は自然にわかつて来ます。私はかの多くの婦人雑誌などに載せられてある経験談や発見の努力を尊重しますが、それと同時にそれまでにしその一つのことにたどりついたまでの努力の経路或ひは考へ方をもつといろいろな場合に応用されることを望みます。私たちが周囲の多くの婦人達を見てゐますと彼女等の一番損なまた間の抜けて見えるのは何にむかつても積極的でないと云ふことです。殊にあらゆる自分の欲望について積極的な意志を持たないことです。彼女等は『つゝしみ』と云ふことを
見渡しますと何処にも/\それから来る弱さが女を身うごきの出来ないものにしてゐます。先づ学校生活に於ての彼女の智識欲に卒業後のすべての行動について、或は結婚に於て、または結婚後の種々なる欲望について、
彼女等は本当に自分の欲望を真実に尊重して積極的な意志をもつて何処までも遂行しやうとする勇気があれば彼女等は、そのまへにいやでももつと考へなければならなくなります。私はその時はじめてすべての婦人の生活が健全にあらゆる方面に生長してゆくことを信じて居ります。彼女等は小ざかしい経験や手柄ばなしをする間にその方面にむかつて心がけることが一番必要だと私は思ひます。
[『第三帝国』第三八号、一九一五年四月二五日]