嫁泥棒譚

伊藤野枝




盗まれた祖母の実話


『ね、お祖母ばあさん、うちぢや、Aにも親類があるのでせう?』
 私は、祖母から彼方此方あちこちの親戚との関係を聞かされた時、ふと思ひ出してかう尋ねました。
『ないよ、何故ね?』
 祖母は妙な顔をしてさう答へました。
『だつて私のちひさい時分に、よくAの叔母さんつて人がくるまに乗つて来た事を覚えてゐますもの』
『あゝさうかい、あれはお前の本当の伯母さんさ、よく覚えてるね。もう死んでしまつてゐないよ』
『ぢや矢張り、お父さんの妹?』
『お父さんより上だよ、だけど、あれは此処のうちの子ではないよ。お祖母さんが前にお嫁に行つて産んだ子さ』
『ぢや、お祖母さんは、うちに来る前に、何処かに行つたの』
『あゝ、Aに盗まれて行つたのだよ』
『へえ、お祖母さんが?』
 私は思はずさう云つてお祖母さんの大きな眼鏡をかけた、皺だらけな顔をながめました、もう少しでふき出しさうになりながら。でも考へて見れば、そんな事は別に、をかしがらずにはゐられない事でも何でもありませんでした、何故なら、私達は子供の時分からよく、何処其処のお母さんは盗まれて来たのだとか、何処の娘が盗まれたとか、何処の娘を盗み出してゆくのだとか云ふ話は聞き馴れてゐるのですから。しかし、私の祖母が盗まれた――などゝ云ふ事は私にはどう考へても、あまりに突飛な事のやうにしか思へませんでした。けれど、祖母はその盗まれた当時のことをポツポツ思ひ出すやうにして私に話して聞かせました。

寺詣りの帰途に盗まる


 祖母が、十六とか七とかの頃の事ださうです。或る晩、お寺に説教を聞きに出かけました。夜、家をあける事の出来ない祖母の母は、一緒にゆく隣りのかみさんに祖母の事をよく/\頼んで出してやりました。やがて説教がすんで大勢がゾロゾロ寺の門を出て来た時には、町はもうしんとしてゐて、寺から三四町も離れると、一緒に寺を出た人もちり/″\になつてしまひました。すると、いきなり暗闇から四五人の男が出て来て、連れのかみさんを突き飛ばしておいて、驚いて逃げやうとする祖母の手取り足取り、ひつかついで駆け出してゆきました。祖母はびつくりして声を出さうとしても、幾人もにかつがれてドン/\駆けられるので身体の自由がきかないのと、息苦しいので、どうしても声が出せずにもがいてゐるうちに町外れの橋の傍まで来ますと、かごが用意してあつて否応なしにその中におしこまれてしまひました。やつと駕の中に腰をおちつけるや否や、また一散に走り出しました。
 駕の中で祖母は、自分が何処かの者に盗まれてゆくのだと云ふ事だけは承知してゐました。けれども、行く先きも、何もかも分らないのですから、たゞ気味わるく恐しくて、どうかして逃げなければならないとばかり考へてゐました。何処へ連れてゆかれるかは分りませんけれど、西に向つて走つてゐる事だけはたしかに解つてゐましたけれど、どうして逃げやうかと云ふやうな具体的な事などは、とても考へられませんでした。そのうちにふと外の様子を見ますと、うも其処は、町から十五六町もはなれたIの松原の中の道らしく思はれました。其の松原は一里あまりも続いてゐるのです、『この松原の中で、逃げなければとても逃げる道はない』
 祖母は真暗な松原の中の恐さなどは忘れて、たゞもう、その松原を、滅茶々々に、逃げさへすればいいと云ふ考へでさう極めました。

嫁泥棒は酒造家の息子


『はゞかりにゆきたいから』
さう云つて、やつと駕から出して貰ひました。其処は、松原の中にある、たつた一つの村で、村と云つても、街道の両側に十軒位づゝの家が並んでゐるばかりなのです。祖母のつもりでは、その何処かの家を起して便所を借りて、隙を見て逃げる気なのでした。しかし、男共は、夜中、見もしらぬ家を叩き起して便所を借りる訳にはゆかないから、其処の松原の中ででも用を足せと云つて聞きませんので、祖母はソロ/\松原の中に這入はいつてゆきました。もとより、はゞかりにゆきたいのでも何でもありませんから、どうかして隙を見て逃げやうとしてしばらく暗い中にしやがんで、様子をうかがつてゐました。しかし、三四人の男が厳重に見張りをしてゐるのを見ますと、とても駄目だと思つてしを/\駕の中にはいりました。それでもまだ逃げることを断念する訳にゆきませんでした。
『水が欲しい』
『はゞかり』
 さう云つては幾度も駕から出ました。しかし、どうしても隙がありません。とう/\夜明けまでにAと云ふ、祖母の家からは西に六七里離れた処まで連れて来られて仕舞ひました。
 連れ込まれた家は生家と同じ、其の土地の酒造家でした。其の家の息子の嫁として盗まれて来たのでした。盗んで来た男共はその家の蔵の男共だつたのです。
 私が祖母から聞いたのは、それけの話です。祖母がどの位、其処にゐたのか、どうして実家に帰つて私の家に来たかそんな事は聞き洩しました。けれど、その盗まれた先きで出来た一人の子供が、死ぬまで尋ねて来た、私達のAの叔母だつたのです。祖母はもう八十に近い年寄りです。その十六七の頃と云へば、私の生れた処のやうな田舎で、さうした、野蛮な、人間の掠奪が、ありふれた事実として一般に認められてゐた事に、それ程の不思議は感じなくとも済みますが、その野蛮な風習が、今も私共の地方では、依然として保存されてゐるのです。然しそれが結婚に伴ふ種々な障碍しょうがいを超えるのに、一番造作のない、有利な手段として利用される為めにのみ保存されて来た事は云ふ迄もありません。

恋人を盗み出す


 最近に、私の耳に入つたその掠奪の話は、SとKと云ふ二人の間に恋愛関係の成立した事に始まります。SもKも二人とも、私共の地方では中流の暮らしをしてゐる家の子なのです。で普通ならば二人の結婚は、割り合に容易に許されるのでありませうが、Sと云ふ男の家は、私共の地方では誰しらぬ者もない悪血統の家なのです。それ故、Kの家やその親類の誰彼が不承知なのは云ふ迄もありません。しかし、二人はどうかして結婚しようとしSの親達も、どうかしてSの望みを叶へてやりたいと思ひました。そのうちにKは、とう/\家をぬけ出して、Sの家に連れ込まれました。半月ばかりたつてからKの家から厳重な談判があつたので、SはどうしてもKを返さねばなりませんでした。帰るとKは厳しい看視を受けるやうになつて、まるで外へなどは出されないやうになりました。しかし、とうとう或る晩、毎晩のやうに外から家の者の隙をねらつてゐたSの為めにKは盗まれました。しかし二人が五六町も来た頃に、直ぐに追手がかゝつて、Sは散々な目に遇はされて、Kはまた家に連れ帰られました。Kの看視は一層厳重になりましたけれど、Sはそれでも思ひ切ることが出来ないで、此度は四五人の若者をかたらつて、出かけました。此度はもう家の人に感づかれても何でもよいと云ふ気で、家の裏手にまはつて様子を覗つてゐました。運よく下女に提灯ちょうちんをもたせたKが、物置きの方に出かけて来ました。皆は飛び出してKをひつかついで逃げ出しました。下女の知らせで、家の物は後をおつかけまはしましたけれども、四五人もの屈強な男達にはとても向へないのでそのまゝになつてしまひました。
 Sは、前にこりて、家には連れてゆかずに二里ばかり山奥に二人で隠れました。Kの家では躍起となつてさがしましたけれど、遂々一年あまりも、二人のありかは分りませんでした。それでも、二年目には遂々見出されました。此度はKはうつかり、弟の口にだまされて、家に連れ帰られました。けれども夜になるとKはどうかして逃げやうとそはついて来ますし、SはSで友達をつれては、すきをねらつてゐるのを見ますと家の人もとう/\断念しました。そして、わざと油断を見せて、Kがぬすまれてゆく事を許しました。
うつちやつたのを拾つて行つたんだ』
Kの家ではさう云つて、もうどんな事をしても、再び家の敷居をまたがせないと云ふ事を親戚に誓つたと云ひます。

島に囲はれて狂死す


 盗むとか、盗まれるとか云ふ話は、今でも始終さう云う風に、聞きますけれども大抵は、SとKのやうに当人同志の合意の上の事が多いやうです。私の祖母の場合のやうに、全く見も知らぬ、遠くの土地に盗まれてゆくと云ふやうな事は此の頃では、あまりないやうです。けれど、祖母よりはもつと惨めな盗まれ方をした人が、私の母の若い時分にあるさうです。私の母も、盗まれかけた事はあるさうですが、幸運にも助け出されたのださうです。もし先方まで行つたら否応なしに、不具者の妻にされる処だつたのだと脅かされたと云ひます。
 その母の友達と云ふのは、その両親と、盗まうとする者が合意の上の事なのださうです。最初に、其処へ結婚の話があつたときに、その娘は拒絶したのださうです。しかし、直ぐに盗まれて、其処へゆきましたけれども、どうしても厭やで仕方がないので彼女は幾度も逃げかけましたけれど、其処は、私の方からは海上一里ばかり隔てた島なので、村の家敷まで、晴れた日には見ながら、どうしても、逃げる訳にはゆきませんでした。そのうちに、遂々、気が狂ひ出して、毎日海辺に出ては泣いてゐたさうですが、仕舞ひには井戸に身を投げて死んだのです。
 この妙な風習は、私共には不思議でたまらない、しかし、多くの興味をそゝるものであります。しかも、これは、私共の狭い一地方に限られた風習ではなく、原始時代に始まつて、全世界を覆ふものであるとすれば、必ず、彼方此方に、より以上に種々な形式で保存されてゐることゝ思はれます。

嫁泥棒は蛮族共通の風習


 シヤルル、ルトウルノの『男女関係の進化』中には、それについての興味深い多くの事実が集められてあります。氏によれば、掠奪婚姻と云ふ言葉はあつても、本当には婚姻の様式ではなく、妻を得る一つの方法に過ぎないと云ひます。
 その『男女関係の進化』の中の掠奪婚姻の例として各地に拡がつたその掠奪の風習が挙げられてあります。
『メラニシアでは、此の掠奪は女房共、即ち絶対的に掠奪者の意のまゝになる、あらゆる労働の女奴隷を得る、原始的一方法であつた。又タスマニアでは、したがつて又濠洲では、此の掠奪と云ふのが、屡々しばしばほんの真似事に過ぎなくなつて、男と女との間の、あらかじめの合意から行はれる。けれども、此の掠奪の行はれる、乱暴な方法を見れば、くの如き親密な合意と云ふのも例外的の事である事が十分に証拠だてられる。他の部落に属する女を奪ひ取らうとする濠洲人は、づ敵陣の周囲をうろつきまはる。そして保護者のついてゐない女を見つければ、直ぐさま飛びかゝつて棍棒で打ちのめして、其の髪をつかんで近所の森の中に引きづつてゆく。やがて女が息を吹き返すと、自分の部落に連れて行つて、皆んなの面前で侵して見せる。女は男の所有物家畜となつたのだ。斯くして掠奪された女は一般に、苦もなく云はれるまゝになる。女にとつては実は、一般には只だ其の主人を代へただけの事で、其の地位には何んのかはりもない。

二人がかりで嫁泥棒


 時としては又、二人の男が此の掠奪に協力する事がある。二人して夜ひそかに隣部落へはいり込む。一人が眠つてゐる女の髪を、鉤のついた槍に捲きつける。一人は自分の槍を女の胸につきつける。女は眼をさましても、声を出す事が出来ない。二人は女を連れて行つて樹に縛りつけて置く。そして再び同じやうな方法で、第二の掠奪をしにゆく。斯くして二人は凱歌をあげて、自分の部落に帰る。女は滅多に反抗する事がない。女は此の掠奪と云ふ事に随分慣らされてゐるのだ。先づ子供の時分から自分を待つてゐる運命に慣らされてゐる。掠奪の真似事をするのが濠洲人の子供の遊戯の一つになつてゐる。やがて、美しい娘の生涯は幾度かの掠奪の計画と、実際の掠奪との連続である。幾人かの手から手に移され、争闘の際の負傷を受け、又捕はれて行つた部落の他の女共の虐待にも遇ふ、時としては又、其の生れた土地から幾百マイルの遠い所に連れられて行く。
 かう云ふ掠奪は、亜弗利加アフリカの黒人の間でも亜米利加アメリカの土人の間でも、極く普通に今でも行はれて居るのださうです。それ等の土人の争闘は、大抵女の掠奪と、その復讐が原因になつてゐると云ひます。

平和な結婚にも掠奪の儀式


 更らに、平和な結婚の儀式に、掠奪の真似事をすると云ふ多くの例が、矢張り、ルトウルノによつて集められてあります。その儀式と云ふ事に就てはルトウルノは次のやうに云つてゐます。
『掠奪を真似た儀式があると云つた処で其平和な男女の結合が、女を掠奪する事から出たと云ふ意味ではない。たゞ遠い時代、即ち暴力が非常に尊ばれた、そして有らゆる種類の労働の奴隷を武器の力で得る事が名誉とされた時代からの伝習、心の中での遺物だと云ふに過ぎない。そして彼等は平和な結婚をするやうになつても其の昔日の掠奪を儀式の中に入れたがるのに過ぎない。従つてその掠奪行為には、他の何等の意味も含まれてゐない。たゞ、両親から買はれて来た花嫁が其の夫たる主人に絶対の服従をしなければならない事と、その家の中での最も卑しい地位に就かなければならない事を意味するに過ぎない』
 しかし、此の儀式は、ニユウジーランド辺の土人の間では、婚姻の儀式の一番重大なものになつて居ります。結婚の約束が成立すると、男は女をかすめてゆきます。女は極力それに抵抗する事になつて居りますので、着物が、ボロ/\に切れ裂けるまで抵抗して引きづられてゆきます。またシナイのペドウイン族では、男は二人の友人を連れて、女を奪ひにゆきます。女は石を投げて反抗します。そして遂に男達は女をその父親の内まで連れて行つて其処で許される事になつて居ります。

欧洲諸国にも掠奪の儀式あり


 多くの欧洲人もやはり此の掠奪の儀式を行つたものであります。羅馬ローマでは此の儀式は永い間平民の婚姻に行はれました。矢張り他と同様に、掠奪の真似事をするのであります。しかし、身分のある人の婚姻にも、その真似事は重大な事としてありますが、しかたは、ずつと簡単になつてゐます。その他シルカシアでも、ウエルスでも同様の儀式が行はれてゐました。リヴオニアでは婚姻には必ず騎士のたたかいがつきものになつてゐたり、ポオランドや露西亜ロシアでも、結婚する前に一度娘を掠めると云ふやうな風習があるのも、矢張りその掠奪を意味するものだと云ふ事です。
 私共の地方でも、さうして、本当に盗むとか、盗まれるとか云ふ露骨な方法の他に、結婚の儀式のつきものとして、花嫁の行列を邪魔するとか其の他それに類似したやうな村の若者等のいたづらがさう云ふ掠奪の真似事から転じたのかと思はれるやうな事があります。其の他結婚の儀式は、地方々々によつて随分奇妙な事が沢山ありますが、さうした、古い伝説や、慣習から来たものが随分あるに相違ないと思はれます。
 それが本当の意味の強奪であるにしろ、さう云ふ形式を利用する合意的のものであるにしろ、或はまた、全然儀式としての真似事であるにしても、かく、暴力で、女を掠奪すると云ふ風習が、全世界の何処の隅にまでも一様に保存されてあると云ふ事は、女がどう云ふ風に扱はれて来たかと云ふ事を考へるには種々な暗示を与へ得る興味深い事実であらうと思はれます。

女を物品扱ひする遺風


 朦昧人が女を掠めとつたと云ふ事には、大きな一つの理由があります。それは、それ等の朦昧人の部落では、女が高価な財物であるからです。女が普通の財物と同一視されて、その所有者の意志のままに女は売られたり、交換されたり、賃貸をされたりしてゐます。しかしそれは決して朦昧人や、野蛮人ばかりではありません。私達は、現在の私達の周囲にさへさう云ふ事実が沢山あることを否む訳にはゆきません。朦昧の間では、男が女をゆづり渡して貰ふには、女の両親に、金を払ふと云ふ負担がある為めに、それをのがれる一つの方法として掠めて来るのであります。この事実は、私共には甚だ奇怪な事実としか思へませんが、しかし振り返つて、現在の結婚制度に就いて考へて見ますと女に対する根本の観念にはそれ等の朦昧人とは幾許いくばくの相違もありません。『貰ふ』とか『遣る』とか云ふ言葉がすでに充分それを説明して居ります。『売る』『買ふ』と云ふ事と『貰ふ』『遣る』と云ふ事との差異は、その受け渡しに、金銭の取引きがついてゐるかゐないの差異だけにすぎないのです。私共の地方での娘の掠奪にしても、女の親への金銭の負担から逃れる為めに掠奪する朦昧人の掠奪といくらの差異がありませう、彼等はたゞ、金銭の負担の代りに、色々な面倒な難題を負ひ切れないので、それをのがれる為めに掠奪するのであります。かうして男の暴力によつて、保護されたり、掠奪されたり、物品と同格にあつかはれる女の生活中には何があるのでせうか。私は朦昧人によりて示された、魂のない女の生涯が、如何にみぢめなものであるかに驚くと同時に、今も私の近い周囲に、同様な女の為めに用意されたやうな風習を見出しますと、何とも云へない気がするのであります。私共の地方にはまだ/\いろ/\なさうした風習の利用された話が沢山あります。恐らく斯うした例は、到る処にあることゝ思ひます。それ等の事実に暗示された種々な問題に就いて持つ私の考へは此処には書きません。しかし、私は私達の気づかずにゐる、手近かな事実からもさうした意味ある暗示を受け得ると云ふ事に、深い興味を感じたと云ふ事を特に附記して置きます。
[『女の世界』第三巻第一二号、一九一七年一二月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「女の世界 第三巻第一二号」
   1917(大正6)年12月号
初出:「女の世界 第三巻第一二号」
   1917(大正6)年12月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2019年12月27日作成
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