らいてう氏の『処女の真価値』を読みて

伊藤野枝




青鞜」二月号に私は処女の価値については全然わからないと明言して置いた。実際私にはうしても処女そのものにそんなに重大な価値を見出すことは出来ないでゐた。そのくせ私自身は殆んど「本能的に」としか答へられないその処女を矢張りどうしても大事がらずにはゐられない。私はその矛盾について可なり考へさゝれた。しかしそれは結局いくらいろ/\な理屈を考へて見ても自分の真の愛人との中にお互自身より他の何物も交へたくないと云ふ気持――即ち神経的な潔癖から、みだりに自分自身にとつて薄弱なものゝ為めに汚されたくないと云ふ気持が一番本当の深い理由であつた。もう一度私は断つて置くこれは決して処女の価値ではなく神経的に私が処女を大切にしたがる奥底の理由である。
 らいてう氏の「処女の真価値」が新公論に掲載されたと聞いて私は多大な興味をそれに向けた。私がいくら考へても探がしても求められなかつた価値は果して何か? 私は幾度も幾度も繰り返し読んだ。併しらいてう氏に依つて私は私の求めてゐるやうな価値については何にも見出すことが出来なかつた。氏は生田花世氏、原田皐月氏及び私の云つた事に対して「何等の根本的な確実なそれ自身の真価値を提供してゐないと云ふ点に於いて一致してゐる。」と云つてゐられるが私は氏に対しておなじ言葉をお返して矢張りあなたも私達と一致してゐらつしやると云ひたい。
 らいてう氏は私や生田氏が単に「外的な規定に依つて概括された「処女」と云ふ名称のもとに各個人に於て非常に相違のある性的生活の状態を無視しすべてを同一のものとして取扱はふとしたところに根本的な誤謬があつた。」と云はれた。「その為に真理が見えなかつた」と云はれた。私は勿論それを皆同一に取扱はうとは始めからしてはゐない。二月号に私は私けの考へとして特にことはつてゐる。私は一般的には何にも断言した覚えはない、たゞ私自身としての考へについてなら私は何処までもはつきりと云つてゐるつもりだ。私は私の考へてゐることが万人にあてはまること柄ではないと特に断はつた。そして私はなを云はねばならない事は私はあの雑感は処女の価値と云ふことに就いて云々うんぬんしたのではないと云ふことである。生田氏の場合について自身の感想を述べた迄で私は生田氏に対してすらそう積極的には云はなかつたつもりだ。
 私があの感想について一番中心にして書いたのは生田氏のあゝ云ふ場合の態度や考へ方が私にあつてはどうかと云ふこと、及びどの位適当な、又は不適当な場合であつたかと云ふことであつた。或は又私の考へ方や態度を以てすれば生田氏のそれはどの位に迄同一であつたかと云ふ事実がそれである。再び繰り返して私は断つて置く私はあの感想で処女の価値については何にも云はなかつた。ただ一言「不明」と丈け云つた。
「処女は大切であるかないかと云ふやうなことは決してさう全般的にきめられるものではない。各個人の性的生活の特質状態、殊に発達の現階段に依つてきめねばならないのは実はあまりに見易い、当然な真理ではあるまいか。」と氏は云はれた。勿論! そうして氏が「根本的な誤謬の為めに割り合ひに見易い真理が見えなかつた」と云はれたその真理がこれなのであらうか。そんなら氏はどうして私が、「根本的な確かな理由それ自身の価値」が分らないのに処女を大事にする事についてこれは特に私だけの考へだ、万人には知らないと断はつたのがおわかりにならなかつたであらうか。
 私は先きに氏が何等の価値をも見出させて下さらなかつたと云つた。氏は此処まで説いて来てさてこれから氏自身の建設的な意見、処女の価値に就いての――を述べられねばならない処だが巧みに頭を転じてそれを説いてはない。氏自身の処女の真価値についての意見はまだ何にも私の頭には這入はいつてはゐない。そしてそれが「問題」と云ふ漠然とした言葉に代はつて来た。私は私の所論を進めるために以下氏の文をそのまゝ引用する。
「だから只単に処女は大切かどうかと云ふのでは始めから問題になつてゐない。問題は「彼女には何時迄処女を保つと云ふことが彼女自身のために大切か」とでも書き換へられねばならぬ。それ程個人的な問題なのである。
 そして今もし一般的に云ひ得ることがあるとすればそれはこれ丈けのことに過ぎまい。
「総べての女子は彼女が所有する処女を捨てるに最も適当な時に達する迄大切に保たねばならぬ。更に云へば不適当な時に於て処女を捨てるのは罪悪であるが如く、適当な時にありながらなを捨てないのは罪悪である。」と。
 此処で残された問題は処女を捨てるに最も適当な時と云ふことである。そしてこれが形式的結婚を意味するものでないのは云ふ迄もない。併し此の問題はなか/\困難な事である。色々な方面から、又はいろいろの立場から観察されもしやう、研究もされやう、そして色々に説明されもしやう、けれど今の私として只以下のことより他云へない。
 各自の内的生活の経験から見るときは、それは恋愛の経験に於いて、恋人に対する霊的憧憬(愛情)の中から官能的要求を発し自己の人格内に両者の一致結合を真に感じた場合ではあるまいか。(私は処女にあつては恋愛のないもしくは恋愛から分離した単なる異性に対する官能の要求と云ふやうなものはあり得ないと信じてゐる。しあつたとすれば例外である)私は今ふとジヨーヂ、サンドの或る言葉を思ひ出した。彼女は霊性が官能を官能が霊性を裏切らないのが貞操であると云ふやうな意味のことを云つてゐる。処女を捨てる場合も亦これと同様ではあるまいか。なほこれを他の方面即ち効果の側から云へば処女を捨てることによつて性的生活に自然な健全な発達を持ち来すのみならずそれによつて他のあらゆる方面に於いてその人の全生活を更に充実し豊富にし生活力の増大を示す場合でなければなるまい。
 しかも実際にあたつて処女を捨てるに最も適当な場合を知るものは処女自身を他にしてありやうがないのである。だから彼等はよく自己を知り自己の真要求の存する処に従つて其の時其の場合に於て自己に最もよき道徳を創造しそれを実行し得る丈けの智慧と力を常に持たねばならぬ。
 実に婦人貞操の第一歩は此処にあるのである。処女を純潔に保ち、それ自身最もよき時に処女を捨てると云ふことにあるのである。かう考へて来ると処女の価値は誠に大きい。婦人の中心生命である恋愛を成就させるか、させないか、婦人の生活の中枢である性的生活の健全な自然な発達を遂げしむるか、しめないか、ひいては婦人の全生活を幸福にするか、しないかの重要な第一条件が此処にあるのである。若し其の間に於いて自己の所有である、この処女を犯さうとする者がある時最後までこれと戦ふのは自己の生活の権利を主張し自我の欲求を尊重する自覚ある婦人にとつては猶更当然の行為でなければならぬ。
 私は此の点を他にして何処にも処女それ自身の真価値、処女を重んずる根本的理由を見出し得ないものである。」
 これが氏の処女に対する根本的な所説である。立派な整然とした論理によつて明瞭に説明されてある。しかし読者はこの整然たる論理に引き入れられて大事な事を見のがしてはならない。説明してある根本の事柄が何であるかと云ふことを忘れてはならない。注意深く読まなければこの滔々たる論理に引き込まれる。
 づ私には此処に突然氏が問題と云ふぼつとした言葉を殊更に用ゐ出された真意を解しかねる。第二に右の所説中に私は氏が所謂根本的な確実なそれ自身の真価値についての氏自身の建設的な意見を何処にも発見し得ない。右に引照した氏の文をわかりよく一部分づゝを概括して其処に含まれた氏の意見を見るならば更にその事は明瞭になる。即ち引照した最初の一節では「処女が大切かどうかと云ふ事は問題にならない。そんなに一様に云へない程個人的な問題である」と云ふ事。第二は「もし一般的に云ふならば彼女が所有してゐる処女を捨てる時期が適当か不適当かと云ふことだけであること。」第三に「処女を捨てるに適当な時期と云ふことについての氏自身の所説を所謂いわゆる内的経験からと効果側からとの二つによつて説いてあること。」第四に「一般に実際に当つて処女を捨てる適当な時期は処女自身でなくてはならぬ故に常に彼等はよく自己を知らねばならぬと云ふこと」等である。そして氏は『婦人貞操の第一歩はその処女を純潔に保ちそれ自身に最もよき時に捨てると云ふことにあるのである。』と云ひそしてかう考へて来ると『処女の価値は誠に大きい』と云つてゐられる。併し私はかう考へて来ると「処女の価値は誠に大きい」と云ふその言葉に肯くことは何うしても出来ない。今迄の何処に処女の真価値に就いて説明されたか? 此処に到つて読者は少々馬鹿にされた気味がないでもない。何故に聡明な確実な頭脳と智識を持つた氏がくの如き不明瞭なものを書かれたか。もとより氏の一寸ちょっとした考への錯誤に依る事だと思ふが切に私は再考を望みたい。併し不明瞭ながら氏の意志を見出せないでもない。即ち氏は氏の所謂処女を重んずる根本的理由をそれ自身の価値としてゐられるらしいと云ふことだ。併し私としては理由と価値の間は可なりな距離を持つてゐる。その理由が価値と云ふ処にゆきつく迄にはその間にいろ/\な多大な説明されなければならぬものがある筈だ。先づその理由が価値とされる前に其処迄の経路について何等かの説明を要することだと思ふ。恐らく私の考へでは――よしどうにか理由から価値にまで橋渡しが出来たとしても注目に価する程の物では決してない。むしろそれならば誰にも気づかれてゐる事だ。氏はそれを以つて氏自身の建設的な徹底した意見だと思つてゐらるればそれは間違ひだ。もしその根本的理由なるものがが氏の所説のすべてならば私の考へと何処に相違があらう。
青鞜」二月号に私は何を書いたか?
 私は私の考へをもつて生田氏を見るときに生田氏の処女を捨てられた時期が氏の云はれる事のみを信じて考へるときに如何に不自然で不適当でそしてまた氏自身への申し訳けが如何に薄弱なそしていたましい云ひ訳けであるかを書いた。氏の云ふ根本的理由と私の云ふ神経的に私が処女を大切にしたがる理由と何処に相違があらう。仮令たとい如何なる理屈がつかうとも、私は私の真の最もよき愛人を見出す迄愛人によつて苦痛なしに破らるゝ迄即ち氏の所謂最も適当の時期迄私の処女を無条件に大切にすると云ふことになるのである。神経的に、と私は特に断はつた神経は一番意志の力に依つてどうすることも出来ないものだと私は信じてゐる。人間の肉体に一番深く喰ひ入つて一番それを支配してゐるのは神経であるらしく私には思へる。この理由から愛が相互の愛人の神経を相互のものにして仕舞へる時にはじめて完全な愛の誓ひがかはされるものだと私は思ふ。これを即ちらいてう氏が「愛人に対する霊的憧憬の中から官能要求を発し自己の人格内に両者の一致結合を感じた場合」と云はれたのと同一だと私は思ふ。
 私は氏の所説の中からそれ自身の真の価値を探がさうと思ふ程見えない。氏の論とても矢張り私の考へてゐる範囲から出てはゐない。理屈は一と通りついてゐる。併し一歩深く求むればその理屈は破棄しなければならぬ。私は「青鞜」二月号に「私は私のこの理屈なしの事実をすべての人に無理にあてはめる訳けにゆかない。勿論つければいろ/\な理屈もつくが無理にさう云ふ表面的な理屈をつけた処で根本的な道理がわからなければ矢張り駄目である」と云つた。失礼かもしれないけれども平塚氏のそれは私の所謂表面的な理屈であつた。
 私の求める処女の価値とは然らば何を指すか? 同じ二月号に――「何故なら私は先づ何故に処女と云ふものがそんなに尊いのだ。と聞かるればその理由を答へることは出来ない」と書いた。此処にも答へやうとすれば無理にも答へられないことはない。即ちらいてう氏は処女を最も適当に又は不適当に捨てることが婦人の中心生命である恋愛を成就させるかさせないか。性的生活の健全な発達を遂げしめるかしめないかひいては婦人の全生活を幸福にするかしないかの第一条件が此処にあると云はれた。併しそれは何処までも処女を捨てる場合――時期の如何についての効果的理由であつて決して処女自身の価値についてではない。効果が即価値かもしれないが併しそれとても矢張りそれ自身のではなくて「如何にそれをよく捨てれば」と云ふ条件が必ず附けられなければならない。その上また、処女と云ふものは一度すてれば永久に消滅してしまふものである。丁度白紙に墨を塗るやうに。此処で私はらいてう氏の所説が始めて明瞭に分つた。純潔に保たれた白紙に如何によく墨を塗られるかと云ふことによつて白紙の価値がつくのである。と云ふことを氏は云はれたのである。其処で白紙が使用の方法によつて価値づけられるものであつてそれ自身には何のねうちも持つてはゐないと云ふことになる。最も厳密に云へば何かを描き出すことの出来る可能性を持つてゐると云ふことがそれ自身の唯一の価値である。私はこれより以上のことがないと同時にらいてう氏にもわかつてゐないと私は思ふ。しかも氏について見れば何処までも処女そのものの価値については説いてない。
 さてかう考へをめぐらして見ると二月号で私の書いたことも、又新公論平塚氏のも最後まで説明をしないでいゝ加減に投げやつてしまつた所に誤謬に他人を導くと云ふことを私は見出した。注意しなければならない事だと思ふ。要するに処女それ自身についてはさまでさはぎたてる程の価値は先づないと見てさしつかへない。併し最もよくそれに価値づけるために破られやすい可能性をもつたそれを自身で保つと云ふことは必要なことである。
 私は新公論らいてう氏の論文に依つて以上の事を感じ、考へ、そして発見した。いゝ加減で投げやらうとした私の考へを誘つて此処まで引きづつて来て下すつた氏の論文に私は深い感謝を捧げずにはゐられない。
[『第三帝国』第三五号、一九一五年三月二〇日]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「第三帝国 第三五号」
   1915(大正4)年3月20日
初出:「第三帝国 第三五号」
   1915(大正4)年3月20日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:笹平健一
2024年4月7日作成
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