「西周哲學著作集」序

井上哲次郎




 西周氏は元と石州津和野の人である。けれども蚤に江戸に出で幕府に仕へ、幕府の命により和蘭ライデン大學に留學し、教授フ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ツセリングに就いて主として法制の學を修めたのである。留學中已にカントの永遠平和の論を知り、又コントの實證哲學に興味を感じたやうである。而して歸來明治初年に至つて哲學に關する著譯を發行し、加藤弘之、西村茂樹等と共に我國哲學發生の源頭を成したのである。然れども尚ほ仔細に是等と比較對照して之を考ふるに何人よりも早く指を哲學研究に染めたること明瞭的確、復た疑を容るゝの餘地がない。已に明治七年に『百一新論』を著はして百教皆哲學によつて總括せらるべきことを論じたのである。哲學と云ふ術語の用ひられたのも是れを以て始めとなすのである。同年又『致知啓蒙』を著して之を發行したが、是れが亦我國に於ける論理學の嚆矢である。但し論理學と云ふ術語は氏の譯語ではない。明治十年に至つて氏はミルのユーチリタリアニズムを飜譯して『利學』と題して世に公にし、其翌年米國人ジヨセフ・ヘーブンのメンタル、フ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ロソフ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ーを譯して『心理學』と題し、其上卷を發行し、又一年を經て其下卷を發行したのである。心理學と云ふ學名も、此書名によつて一定したのである。氏の哲學的傾向は大體經驗主義的實證主義的であつた。氏の和蘭在學中に經驗學派の哲學者オプゾーマーの影響もあつたかも分らぬが兎に角ミル、スペンサー等の影響を受くること多大であつた。特にミルに尸祝したのである。ミルは言ふ迄もなくコント派の人であつた。西周氏が未だ進化論を唱道するに至らなかつた所を考へて見るとスペンサーの影響はミルのそれ程ではなかつたやうである。氏は加藤弘之や津田眞道のやうに唯物主義を唱道することを敢てしなかつた。然し氏を理想主義者と見るには餘り經驗主義的實證主義的傾向が勝つて居つた。氏は福澤諭吉に先ちて大に女性の敬重すべきことを認めたのであるが、是れ亦蓋しミルの影響であつたであらう。氏は蘭、英、佛の諸國語に通じ、又漢學の素養があつた。漢學は主として頼山陽の門人後藤松陰に學んだのである。それで氏は譯語を鑄造すること頗る巧妙で、而して又文才に富んで居つた。曾て『心理學』を譯するに當つて其中引用せられたる詩句を或は漢詩に或は新體詩に巧妙に譯出したのである。新體詩は明治十五年余等の發行せる『新體詩抄』を以て起原となすのであるけれども、氏がそれより三年前に已に之を試みたことは十分注目に價すると思ふ。其譯詩に云く、
つるぎつゑに。松陰まつかげの。いはほさゝ[#「てへん+掌」の「手」に代えて「冴のつくり」、U+6490、2-8]へて。吐息といきつく。時哉をりしも見ゆる。若武者わかむしやは。そもいくさの。使つかひかや。ればころもの。美麗うるはしさ。新郎はなむことかも。あやまたる。其鬚髯そのほうひげの。新剃にひそりは。秋田あきたを刈れる。刈稻かりしねの。そろへるさまに。さもたり。ちかづくまゝに。にほは。そもかう款貨舖ぐやの。むすめかも。ゆびはさめる。香盆かうばこの。何爲なにことなりや。時々とき/\に。はなかさして。くめるは。
 余は曾て學生時代に『心理學』を飜閲したのであるけれども、何故か此れに對して無關心であつたが、今囘此一篇は明治文學史の研究上看過すべからざる事であると氣付いたから之を茲に掲げて讀者の注意を促す次第である。麻生義輝君昨年余を訪ひ、今夏再び余を訪うて曰く、西周氏の哲學に關する已刊未刊の著作を悉く編纂して之を『西周哲學著作集』と題し、岩波書店に托して、世に公にせんと欲す、請ふ之が序文を作れと。余之を諾して未だ果たさゞるに偶※(二の字点、1-2-22)遊意動き、伊香保に之き、尋いで四萬に抵り、靈泉に浴すること十有餘日にして歸京せしに、麻生君より督促あり、該書印刷已に成る、速に其序文を送れと。乃ち筆を援つて此序文を作る。囘顧すれば明治十七年の春、余獨逸留學を命ぜられ、將に彼地に向はんとするに當つて、哲學會に於て余の爲に送別會を開きたるに西周氏も亦來會せられたので余は氏と一面識あることを喜ぶのである。處がそれは實に今より五十年前の事である。余は亦『哲學字彙』の草稿を氏に送つて其意見を問うたこともある。それから昨年余の岩波講座に執筆したる『明治哲學の囘顧』には劈頭第一に西周氏を擧げて論じたのである。さう云ふ譯で余は哲學上氏と因縁の淺からざる者であるが、氏の姻戚にして曾て氏の傳を艸したる鴎外森林太郎氏とは在獨中以來親交ありし者である。是れ余の喜んで此序文を作る所以である。此書一たび世に出でんか哲學界の興味を惹くこと決して鮮少ならざることを疑はないのである。
昭和八年九月廿一日
文學博士 井上哲次郎識す





底本:「西周哲學著作集」岩波書店
   1933(昭和8)年10月20日第1刷発行
初出:「西周哲學著作集」岩波書店
   1933(昭和8)年10月20日第1刷発行
※底本における表題「序」に、底本名を補い、作品名を「「西周哲學著作集」序」としました。
入力:岩澤秀紀
校正:フクポー
2018年11月24日作成
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●表記について

「てへん+掌」の「手」に代えて「冴のつくり」、U+6490    2-8


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