探檢實記 地中の秘密

嶺の千鳥窪

江見水蔭




――雪ヶ谷の道路――金槌で往來を擲く――嶺千鳥窪發掘歴史――土瓶の續出――露西亞式の發掘――棄權の跡――土瓶の仇討――都々逸の功徳――異臭紛々――内部に把手の有る破片――

 みね發掘はつくつかたまへに、如何どうしても飯田東皐君いひだとうくわうくんとの關係くわんけいかたらねばならぬ。
 三十六ねんなつ水谷氏みづたにしうち望蜀生ぼうしよくせいとも採集さいしふかけて、ゆき圓長寺えんちやうじうら往還わうくわんつてた。道路だうろ遺跡ゐせきあたるので、それをコツ/\りかへしてたのだ。
 其所そこ來合きあはせた一紳士しんしが、貴君方あなたがたなにをするんですかととがめたので、水谷氏みづたにし得意とくい考古學研究かうこがくけんきう振舞ふりまはした。其紳士そのしんししきりに傾聽けいちやうしてたが、それではわたくし仲間なかまれてもらひたい。かく手前てまへたくくださいといふので、二人ふたりはのこ/\いてつた。
 其先そのさきは、つい、したの、圓長寺えんちやうじ日蓮宗にちれんしう大寺おほでらである。紳士しんし帽子ぼうし取去とりさると、それは住職じうしよく飯田東皐氏いひだとうくわうし
 此所こゝ水谷氏みづたにし飯田氏いひだしとはすツかり懇意こんいつてしまつたので、今度こんどぼく弟子でしれてますから、一しよ發掘はつくつしませうと、大採集袋だいさいしふぶくろひろげた結果けつくわ、七ぐわつ十八にち水谷氏みづたにし高橋佛骨氏たかはしぶつこつしと、望蜀生ぼうしよくせいとをひきゐてこととなつた。
 望生ぼうせいとは徒歩とほである。幻花げんくわ佛骨ぶつこつ自轉車じてんしやである。自轉車じてんしやの二よりも、徒歩とほ余等よらはうきへゆきいたなどは滑稽こつけいである。如何いかに二がよたくりまはつたかを想像さうぞうするにる。
 てども/\つてぬので、ハンマーをつて往還わうくわんをコツ/\穿うがち、打石斧だせきふうもれたのなど掘出ほりだしてたが、それでもない。仕方しかたいので此方こつち二人ふたりは、きへてらなかはいつた。
 其後そのあと自轉車隊じてんしやたいて、居合ゐあはせた農夫のうふに、二人連ふたりづれの、人相にんさうわる男子をとこが、此邊このへんをうろ/\してなかつたかとうてると、農夫のうふすこぶふるつたこたへをした。
『はアいまき、二人連ふたりづれで、んだかんねえが、金槌かなづちつて、往來わうらいたゝきながらあるいてたツけ』
 金槌かなづち往來わうらいたゝくとは奇拔きばつである。大笑おほわらひをして、自轉車隊じてんしやたいてらはいつた。
 四にんがつして頼母たのもうてると、住職じうしよく不在ふざいとある。
 や、大失敗だいしつぱいと、がツかりして、本堂ほんだう椽側えんがはこしける。いつしかそれが誰先たれさきとなく草鞋わらじぐ。到頭たう/\にん本堂ほんだうあがんで、雜談ざつだんをする。寐轉ねころぶ。ては半燒酎なほしむらたのんでひにつて、それをみながら大氣焔だいきえんく。留守居るすゐ女中ぢよちうけむまかれながら、ちやれてす。菓子くわしす。菓子くわしくにたひらげてしまつて、其後そのあと持參ぢさん花竦薑はならつきやうを、びんから打明うちあけて、さけさかなにしてる。
 其所そこへ、ひよツくり住職じうしよくかへつてて。
『いやこれは/\』とおどろかれた。
 うして、四へんをきよろ/\見廻みまはしながら。
留守中るゐちう[#ルビの「るゐちう」はママ]これは失禮しつれいでした。さいませんので、女中ぢよちう[#ルビの「ぢよちう」は底本では「ぢうちう」]ばかり‥‥や、つまらんもの差上さしあげて恐縮きようしゆくしました』と花竦薑はならつきやう下目しためる。
 入物いれもの其方そつちのですが、そのつまらん中身なかみ持參ぢさんですとひたいところを、ぐツと我慢がまんして、余等よら初對面しよたいめい[#ルビの「しよたいめい」はママ]挨拶あいさつをした。
 それから東皐子とうくわうし案内あんない[#ルビの「あんない」は底本では「あんなん」]で、嶺村みねむら是空庵ぜくうあん原田文海氏はらだぶんかいしうべく立出たちいでた。
 原田氏はらだし[#「はらだし」は底本では「 らだし」]星亨氏ほしとほるし幕下ばつか雄將ゆうしやうで、關東くわんとうける壯士さうし大親分おほおやぶんである。嶺村みねむら草分くさわけ舊家きうけであるが、政事熱せいじねつ大分だいぶのきかたむけたといふ豪傑がうけつ美髯びせん[#ルビの「びせん」はママ]禿頭とくとう、それがシヤツ、ヅボンしたに、大麥稈帽おほむぎはらぼうかぶつて、いましもはたみづつてところ
『やア、ぼくいま、フアーマーをしてところだ。まアあがたまへ。あしあらふ。離座敷はなれざしき見晴みはらしがいから』ときやくこのむ。
『いや、あがらんで其儘そのまゝい。りにくのだから、フアーマーが結構けつかうだ』と東皐氏とうくわうしはいふ。
るのならぼくつてもの雜木山ざふきやまい。案内あんないするから來給きたまへ』と文海子ぶんかいしきにつた。
 同勢どうせいにんつてると、それは我等われらあひだすで名高なだかき、嶺千鳥窪みねちどりくぼ遺跡ゐせきである。
 此所こゝならば度々たび/″\たが、大發掘だいはつくつはせずにるのだ。今日けふつてもいかとふと、大丈夫だいじやうぶだ。原田文海はらだぶんかい心得こゝろえとると大呑込おほのみこみ。
 それ、かゝれツと、蠻勇隊ばんゆうたいは一突貫とつくわん。これがそもそ嶺千鳥窪大發掘みねちどりくぼだいはつくつ發端ほつたん
 そもそ此所こゝ千鳥窪ちどりくぼが、遺跡ゐせきとしてみとめられたのは、隨分ずゐぶんふることで、明治めいぢ二十一ねんの九ぐわつには、阿部正功あべせいこう若林勝邦わかばやしかつくにの二すで發掘はつくつをしてる。其後そのごぐわつ二十八にちに、内山うちやま九三らう發掘はつくつして、大把手おほとつてした。其記事そのきじ東京人類學會雜誌とうきやうじんるゐがくゝわいざつしの八十六がう記載きさいせられてある。
 其後そののち表面採集へうめんさいしふあるひ小發掘せうはつくつひとは、すくなくあるまいが、正式せいしき發掘はつくつかゝるのは我々われ/\が三番目ばんめあたるのだ。
 加之それにまへ諸氏しよし發掘はつくつしたのは、畑中はたなかつかかたちしてところで、それはいまひらかれてかたちめぬ。
 我々われ/\著手ちやくしゆするのは、一ぽん老松らうしやうのある雜木山ざふきやまなかで、一寸眼ちよつとめには、古墳こふんでもるかとおもはれるが、これは四はうはたひらいて自然しぜん取殘とりのこされた一區劃くゝわくほかならぬ。つまり、はたひらにくいので其儘そのまゝ放棄はうきされてる、それだけ貝層かいそうふかいのである。
 幻花子げんくわし佛骨子ぶつこつしともに、松下しやうか南面なんめん左端さたんからすゝみ。望蜀生ぼうしよくせいとは右端うたんからすゝみ、中央ちうわう東皐とうくわう文海ぶんかい初陣うゐぢんまかせた。たちまちのうちあな連續れんぞくして、大穴おほあなひらいた。
 が、なにぬ。大破片だいはへんがチヨイ/\見出みいだされるが、格別かくべつ注意ちういすべきものではない。おほいに疲勞ひらうしてたので、引揚ひきあげやうかとかんがへてうち幻花子げんくわしは、口部こうぶだけけて、完全くわんぜんなる土瓶どびんを一掘出ほりだした。
 大氣焔だいきえんもつ威張ゐばらされるので、品川軍しながはぐん散々さん/″\敗北はいぼく文海子ぶんかいしかへりにつてれといふのもかず、望蜀生ぼうしよくせいれて、せツせとかへ支度じたくした。ぷツぷツおこつてゞある。
 幻花子げんくわしは、此土瓶このどびん布呂敷ふろしきつゝみ、はすけてひ、自轉車じてんしや反身そりみつてはしらすのを、うしろから佛骨子ぶつこつしが、如何どうかして自轉車じてんしやからちて、土瓶どびんこはしたら面白おもしろからうとのろつたといふ。それでかんがへても幻翁げんおう大氣焔だいきえんるべしである。
 これで病附やみついた東皐子とうくわうしは、翌日よくじつ徒弟とていおよ穴掘あなほり老爺おやぢ同行どうかうして、さかんに發掘はつくつし、朝貌形完全土器あさがほがたくわんぜんどきしたなどは、茶氣ちやき滿々まん/\である。
 七ぐわつ二十三にちには、幻翁げんおう望生ぼうせいおよの三にん出掛でかけたが、此時このときまた幻翁げんおう完全くわんぜんなる小土瓶せうどびんを一し、望生ぼうせい砧形きぬたがた小角器せうかくき用法ようはふ不明ふめい類品るゐひん下總しもふさ余山よやまよりづ)と朝貌式あさがほしき完全土器くわんぜんどきとをし、しかして大失敗だいしつぱい
 うなるといやつてる。貧乏貝塚びんぼうかひづかだの、馬鹿貝塚ばかかひづかだの、狗鼠貝塚くそかひづかだの、あらゆる惡罵あくばくはへるのである。
 東皐子とうくわうしはそれをいて、手紙てがみで『おもなほしていかとり枯木かれきに二とまる』とつて寄越よこす。幻翁げんおうもすゝめる。のゝしりながらもじつきたいので、また出掛でかける。相變あひかはらずなにい。
 電車でんしやし、汽車きしや大森おほもりまでく。それからくるまはしらせるなど、却々なか/\手間取てまとるのだが、それでもく。
 とあま猛烈もうれつてるので、地主ぢぬし感情かんじやうがいして、如何どう中止ちうししてもらひたいと掛合かけあひるのである。
 つてるあなのぞきながら、地主ぢぬし頑固ぐわんこ中止ちうし言張いひはる。したではりながら、談判だんぱんはどうか原田はらださんのはうつてれと取合とりあはぬ。これを露西亞式ろしあしき發掘はつくつつてわらつたのであつた。
 うしてうちに、松下しようか南面なんめんはう大概たいがいつくしてしまつた。は九ぐわつ幻翁げんおう佛子ぶつしの二にんともつて、らうとしたが、あなは、まつ根方ねかたまで喰入くひいつてしまつて、すゝこと出來できぬ。
 むをず、まつ東面とうめんはうあなひらかうとして、草原くさはらけてると、其所そこけの小坑せうかうがある。先度せんど幻翁げんおう試掘しくつして、中止ちうししたところなのだ。
如何どうです、きみ此所こゝりますか』とうてると。
『いや、其所そこ駄目だめで、貝層かいそうきにきてしまうです』と幻翁げんおうはいふ。
 それでは其棄權そのきけんしたあと讓受ゆづりうけやうとて、けると、なるほど貝層かいそうは五六すんにしてきる。が、其下そのしたつち具合ぐあひだシキともえぬので、根氣好こんきよ掘下ほりさげてると、またあたらしき貝層かいそうがある。二ぢうつてるらしい。
 其貝層そのかいそうのシキまで掘下ほりさげてると、萬鍬まんぐわつめなかうまくゞつて、つちなかから、にゆツと突起物とつきぶつ
 把手とつてでもあるかと、そろ/\つてると、把手とつてには相違さうゐないが、それは土瓶どびんのツルカケのと、それにせつして土瓶どびんくち
 おや/\とおもひながら、なほねんれてつちつてると、把手とつての一のみけて完全くわんぜんなる土瓶どびんであつた。(第三圖參照)
「第三圖(武藏嶺)」のキャプション付きの図
第三圖(武藏嶺)
イ(土瓶) ロ(土器)

た/\』とさけぶ。
『出た?』といろへて、幻翁げんおうのぞむ。佛子ぶつしつてよろこび。
嶺千鳥みねちどり土瓶仇討どびんのあだうち』と地口ぢぐる。
 此日このひまつた大勝利だいしやうりであつた。土瓶どびんほか完全土器くわんぜんどきが一
 東皐子とうくわうしこれいて、まさしく都々逸どゞいつ功徳くどくだとほこるのであつた。
 あぢめて同月どうげつくと、完全くわんぜんなる大土器だいどきおよ大土器だいどき下部かぶれて上部じやうぶのみを廢物利用はいぶつりようしたかとおもふのと、土器製造用どきせいざうよう石具せきぐかとおもふのと、鋸目のこぎりめきざみたる獸牙じうがとをした。大當あたあた[#ルビの「あたあた」はママ]りである。
 其代そのかはり二十八にちには大失敗だいしつぱいをして、あなるとたちま異臭ゐしう紛々ふん/\たるもの踏付ふみつけた。これは乞食こじき所爲しよゐだとおもふ。
 貝塚發掘かひづかはつくつために、種々しゆ/″\遭難そうなんかさねるけれど、此時このときごと惡難あくなんおそらく前後ぜんごからうである。
 到頭たう/\此坑このあな見捨みすてるのむをぬにいたつた。(いや土器どきかゝつてゞもれば、けつして見捨みすてるのではい)
 其後そののち望生ぼうせいが、土偶變形どぐうへんけいともるべき一把手とつてゆうする土器どき(第三圖參照)其他そのた土器どきし。また土器どきを三ばかりした。幻翁げんおう大分だいぶした。
 した破片はへんうちに、内模樣うちもやうのある土器どき内部ないぶ把手とツてゆうするのがある。これなぞも珍品ちんぴんかぞふべしだ。
 くして嶺千鳥窪みねちどりくぼ遺跡ゐせきは、各部面かくぶめん大穴おほあな穿うがらした。いまでも其跡そのあと生々なま/\しくのこつてる。
 露西亞式發掘ろしあしきはつくつしかことではい。それり余等は行はぬ。





底本:「探檢實記 地中の秘密」博文館
   1909(明治42)年5月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「東皐子」と「東皐氏」、「嶺千鳥窪」と「千鳥窪」の混在は、底本通りです。
※「把手」に対するルビの「とつて」と「とツて」、「其後」に対するルビの「そのご」と「そののち」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った「女中ぢうちう」「案内あんなん」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
※ルビの抜けを疑った「原田氏 らだし」を、前行の「原田文海氏はらだぶんかいし」に従って、あらためました。
※本文中の「‥‥」は底本では5点リーダーで表記されています。
入力:岡山勝美
校正:岡村和彦
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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