生みの力

片上伸





 批評的精神も創造的精神も、今は共にその意味が變りかゝつてゐる。生活に對しても藝術に對しても、吾々は自分自からの解釋を作つて行かねばならない。吾々は自分自からの道を歩いて行かねばならない。自分自身の言葉、自分自身の生命を掴んで行かなければならない。
 リアリズムの藝術は批評の藝術であつた。ロマンティシズムが創造の藝術であつたのに對して、リアリズムは新しい批評的精神の發露した藝術であつた。冷やかな理智から情緒本能へ、有限から無限へ、平靜な滿足から渇仰と憧憬へ、要するに淺薄な皮相的な批評から創造時代への激しい移り變りであつたロマンティシズムが、更に精確と定限と堅實とを欲するリアリズムの藝術を招致して、第二の批評的精神、寧ろ眞實の意味で初めての批評的精神の發露を見たのは、今更詳しく言ふにも及ぶまい。こゝで吾々の考へなければならないのは、リアリズムの批評的精神の内容如何である。リアリズムの批評的精神の力が、どれ程まで生活を批評し得たかといふことである。
 リアリズム乃至ナチュラリズムは、放散した生命を、空虚な幻影から確實な物質の基礎の上へ引き戻した。無定限な夢の世界から定限あるうつゝの世界へ呼びさました。人は初めてゆるぎなき大地に足を着けて、人間の生活を如實に觀た。物質の力の偉大なことも初めて知ることが出來た。人間が一面獸であることも十分に分つて來た。これ等の新らしい觀察知識は、確かに新らしい世界の發見であつた。一つの新らしい驚異であつた。夢の如く空漠でもなく、放慢でもない。極めて確實な秩序ある驚異であつた。人は自分の智力の無限を信ずると同時に、新らしく發見した物質の力に對して、無上の尊重を捧げざるを得なかつた。
 物質の力を尊重する心は、リアリズムの批評的精神が成就し得た一つの大いなる功績である。吾々はこの心によつて、初めて自己の生活を根柢から知ることが出來るやうになつた。自己の生活に對して實際的に謙遜に考へねばならぬことを教へられた。吾々の生活は初めて地に着いた確かな間違ひのない生活になつて來た。吾々は自己の生活の最初の、少くとも最低の條件として、約束として、物質の力を否定するわけには行かなくなつた。


 しかし物質の力は盲目の力であつた。物質の力を尊重する結果は、物質の盲目な力の前に屈することであつた。盲目な力の大いなることを認めれば認めるほど、その力から脱出することの出來ないことを痛感せざるを得なかつた。人は物質の力の前に慴伏せねばならぬ苦しみに※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)き疲れて、結局重い鈍い濁つたやうなあきらめに、強ひて自分を抑へつけて置く外はなかつた。人生は到底逃れられない一種の係蹄わなであると思ふ外はなかつた。動かすことも逃れることも出來ない冷嚴なる盲目の力、運命の前に立つて、人の取り得る道は唯一つある。冷嚴なる運命の支配する人生に、靜かなる觀照の眼を放つて、そこに營まれる一切の姿を見まもるのである。人は運命に抵抗してそれを支配することが出來ないとすれば、せめてはその不可抗の運命の物凄い戲れを、ぢつと[#「ぢつと」は底本では「ぢつて」]觀てゐる外はない。瞑想靜觀のうちに自分の興味を求める外はない。それでなければ、更に進んで運命の物凄い戲れから、出來るだけ苦痛なしに逃れ避ける外はない。たとへば自殺にも快感を伴ふモルヒネ中毒の手段を選ぶやうにする外はない。或ひはまた、技巧的な半醒半醉の心持ちに身を浸して、出來るだけ苦痛の刺戟を忘れる外はない。
 運命の壓迫に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)き疲れたあきらめも、逃避も、幻影の惑溺も、要するに運命の不可抗力を承認してゐる點に於いては一つである。いや/\ながらにもせよ、物質の力の克ち難いことを認めてゐる點に於いては一つである。リアリズムの初發の精神は、果たして運命の不可抗力の承認に在つたであらうか。リアリズムの批評的精神は、單に空虚放慢なる幻影を拂拭して、苦澁にして苛烈なる物質的現實を暴露することに止まるべきであつたらうか。もしさうであつたとすれば、その批評的精神は單に生命を冷却し滅殺する傷害の刄たるに過ぎないことになる。リアリズムの弱點は事實そこに現はれてゐると言はねばならぬ。
 批評的精神は人間の生活に確實なる根據を與へようとして、これを物質に求めた。しかし物質の力のみが、果たしてよく人間生活の確實なる根據であり得るか否かは、もとより多く言ふを俟たない。リアリズムの批評的精神が、結局生命を冷却し滅殺する刄となつたのは、それが生活の根據を物質の上にのみ限つたからである。物質の力を過大に見ることによつて、人間の意力を無視したからである。批評的精神の眞の意味は、人間生活の確實なる根據を築き上げる爲めに、新らしい生活を作り出す爲めに、古きものと虚僞とを破壞するに在る。批評の眞の意味は、あくまでも創造でなくてはならぬ。批評的精神が物質の力を發見して、その前に屈せざるを得なかつたとすれば、それは批評的精神そのものの初發の意義を忘れたものであると言はねばならぬ。何故といへば、批評的精神は、あらゆる固定せる障壁を突破して、常住不斷に前進するのを其の本性としなければならぬからである。


 バーナード・ショウはそのイブセン論の中で、アイディアリストとリアリストとの區別を説いてゐる。彼の謂ふところに從へば、こゝに假りに千人の住民から成り立つてゐる社會があるとすると、その中の七百人は現状に甘んじて、何の不平をも苦痛をも感じない。殘りの中、二百九十九人は現状に甘んじてはゐないのだが、自分等が少數であつて意見を貫徹させる見込みがないから、いや/\ながら辛抱する。眼前の事實に面して内心の聲を表白するだけの勇氣がないからである。昔噺の中の狐は自分の持つてゐない葡萄は酸いと言つたが、彼等二百九十九人は自分の持つてゐる杏は甘いと言ふ。即ち假面を作るのである。彼等は赤裸々の現實では忍び切れないので、自から描く空想畫即ち理想を現實だとして置く。そして盛んにその所謂理想を世間一般に説教する。ところが前の七百人は眼前の現實をあたり前として少しも怪しまないのであるから、そんなことには無頓着である。そこで理想家は七百人を俗物として輕蔑する。たゞ最後の一人は眞實に面する勇氣を有する人である。反抗者であり、現實の暴露者であり、偶像破壞者である。七百人はこの一人に對しては氣狂ひ扱ひにして初めから相手にしない。この最後の一人の出現に際して大騷ぎをするのは二百九十九人である。そして今まで輕蔑してゐた七百人に對して應援を求める。即ち社會の輿論を作る。イブセンはこの最後の一人である。これがリアリストである、云々。この場合七百人は現實に對して初めから批評をしてゐない。二百九十九人は全然批評をしてゐないのではないが、その批評は徹底してゐない、中途で行き止まつてゐる。つまり眞の批評はこの一群の理想家の間にも存在してゐない。眞の批評家は最後の一人ばかりである。これが批評的精神の代表者で、リアリストである。
 イブセンはショウの謂ふ意味で確かにリアリストであつた。偶像破壞の精神に充ちた勇者であつた。しかし彼は單に偶像を破壞するだけの批評家ではなかつた。破壞の後の荒凉に坐して靜觀默想するに止まる人ではなかつた。彼の破壞や暴露は、將來の可能の爲めに、現存の假面を剥ぎ取ることであつた。ショウの謂はゆる理想家は、將來の可能に對する信仰などは[#「信仰などは」は底本では「信仰などほ」]毫も有つてゐないで、現在の糊塗に專らなるものであつた。現在を糊塗する爲めの假面を有つといふ意味での理想家であつた。しかしイブセンは現在の假面を剥ぎ取るときに、何等か將來の可能を信じて居つた。少くとも將來の可能を切望しつゝ現在の假面を剥ぎ取つた。彼は將來の可能を信じ、若しくは切望することの強くなれば強くなるほど、ます/\殘酷なほどに容赦なく現在の假面を剥いだ。この意味に於いて彼はリアリストであると共に、また深刻なアイディアリストである。將來の可能を信じ且つ望むといふ意味に於いてのアイディアリストである。
 將來の可能を信ずるといふ言葉は、一面現在に對する批評を含んでゐる。現在に對する批評なしには、將來の可能を信ずるといふことは無意味である。而しまた、將來の可能を信ずることのない、漫然たる現在の批評といふことも無意味である。批評の精神は常住不斷に前進するのをその本性としてゐる。批評は現在當面の事實に對して加へられねばならぬと同時に、その連續として將來の可能へ向つて進むことを豫想してゐる。批評的精神の眞意は、現在に即して將來の可能に前進するところに在る。この意味に於ける批評的精神が、本當の現實的精神であると共にまた本當の理想的精神である。イブセンは確かにこの意味の現實的精神と併せてこの意味の理想的精神を有してゐたに違ひない。けれども彼の戲曲は、謂はゆる將來の可能に就いては、極めて漠然たる暗示の如きものを提出してゐるに過ぎない。吾々はイブセンの戲曲をその年代の順を追うて讀むとき、最後の『蘇生の日』に於いて、尚且つ彼が一生の第三帝國の何處にも見出だされなかつたことを知つて、一種悽愴の感を懷かざるを得ない。個人の意力と運命乃至社會、戀愛と事業、さま/″\に形を異にしたそれ等の問題は、いづれも解決を迫りつゝ解決せられずに終つてゐる。彼の偶像破壞には、將來の可能を信ずる心が常に裏づけられてゐたことは勿論であるが、而かもその將來の可能に到達すべき道は、イブセンと雖も明らかに示すことが出來なかつた。


 不可抗な物質の力の承認は、人間の意力の活動を殆んど極端まで窘縮させようとした。けれども人間の本性は到底久しくそれに堪へることが出來なかつた。あきらめも遁避も幻影の惑溺も、要するに一時の自欺に過ぎなかつた。吾々は及ばぬまでも、生活活動の力と範圍とを自分自から押し擴げて行かずにはゐられない。吾々は自分の生命を僅かに保存し意識することだけで滿足することは出來ない。吾々は自分自からの力によつて、自分自からの力を増大することによつて、更に新らしき創造を營まなければならない。自分の生活力の併發によつて、自分の生命の汾出によつて、自からの生活を作つて行かなければならない。自分の生命の燈し火を燃やし盡して、同時に新らしく強き光りを作りつゝ進まねばならない。吾々の生活活動は、自己の燒盡であると同時に、新らしき生命の油の汾湧であらねばならない。要するに、現在の生活に固着して、動かすべからざる現實の地面に地だんだを踏んでゐてはならない。未來の生命の活躍を信じて、當面の現實を愛し得なければならない。物質の力に屈したときに、吾々はその盲目な活動の對象たるに過ぎなかつた。吾々は自から再び生活活動の主宰者であらねばならぬ。吾々自からが生命の抵抗そのものであらねばならぬ。吾々自からが再び生命の創造者でなければならぬ。吾々自から自己の生みの力の限りなきことを再び信じ得なければならぬ。自からの無限の創造力を信ずることに、生活の根柢を置いて、初めて吾々は自分の自由なる生活を再造することが出來る。自分の創造力の無限を信ずるといふことは、即ち未來の可能を信ずることである。更にまた、自分の創造力の無限を信ずるといふことは、人間の本性を信愛して疑はないことである。人間の本性の力と光りとを信愛して措かないことである。即ち生命そのものの濃厚強烈なる信愛である。
 フランス象徴主義の詩人の中でも、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌは最も濃厚に最も充實した生活を生きた。彼は各の刹那に、自から與へ得る限りの生命を與へ、また貪り得る限りの生命を貪つた。彼の生活は必ずしも快樂ではなかつた。必ずしも謂はゆる幸福ではなかつた。しかし彼の生活はエナジーの生活であつた。彼は生活に對して受け身でなかつた。また躊躇逡巡するものでもなかつた。彼は活力の與へるがまゝに與へ、活力の受けるがまゝに受けて、活力の波動の生活を生きた。彼は決して運命を口にしなかつた。彼は決して運命の前に慴伏したりするものではなかつた。けれども彼もまた、人間の愛は狂喜にして同時に絶望であると言つてゐる。魂の底の冷たく打ち克ちがたい何ものかを悲しんでゐる。而かもその事實は、彼がその悲しみを懷きつゝ尚且つ生命の力を信じたことを打ち消しはしない。
 ドストイェフスキーはロシア人の中から生れた純ロシア風のリアリストである。彼は聖者の心と惡魔の心とを併せ有してゐた。彼の心は惡魔を解する聖者の心であつた。彼は現實の醜惡、兇暴、殘忍、痴呆、陋劣、これ等の暗黒な一切の生活を知つてゐたと同時に、その暗黒な生活の中にも、消す可からざる光りの照り輝いてゐるのを見た。彼は惡に對する深刻な悲哀を感じた。そして惡即ち死の中から、善即ち生を甦らしめることを望んだ。博大深厚な愛と熱情との力によつて、生活を向上せしめることを望んだ。彼は眞理を知れるものの深い悲哀、萬衆の自分と共に眞理に與らざる悲しみを感ずることが出來た。彼の心がこの強い誇りと深い悲しみに充ちるとき、彼は眞に惡魔を解する聖者であつた。彼の深厚博大な同感は、普通の同情とか人情とかいふものではなかつた。普通の人情には價値の選擇がない。少くとも同感を與へる對象の價値を見出してやるといふことが足りない。對象の價値を認めてやらない同感はセンティメンタルな淺薄と偏狹とに墮する。價値を認めての同感によつて、吾々は初めて對象の生命を躍動させることが出來る。初めて對象を生かすことが出來る。ドストイェフスキーの深厚博大な同感は、生命を躍動させることの出來る同感であつた。
 ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌもドストイェフスキーも、現實の靜觀に安んじなかつた人である。當面の状態を凝視するに止まらなかつた人である。彼等は何れも變化なく固定して見えるものの中から、變化を認め、生命の流動を導いた。生命の活躍と自由と解放とを望み且つ信じて、寂寞な暗黒の道にも、「眞晝に漂ふ白日」[#「白日」」は底本では「白日」]の光りを仰ぐことを忘れなかつた。彼等は自己の生命の力を信じ、人間の愛を信じた。彼等は人間の本性の破壞すべからざる生みの力を信じた。彼等は無限の創造の力によつて、人間の最高の生活、神を信ずる生活に到達し得ることを信じた。彼等は未來の可能を十分に信じて、そこに自分の力を得た。


 ドストイェフスキーや※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌが生命の無限の創造力に對する信念は、實に深刻なる批評的精神から胚胎してゐることを見落してはならぬ。イブセンの深刻な批評的精神は、彼をして破壞の後に未來の可能を信ぜしめた。けれどもイブセンの力は、彼が未來の可能を吾々に強く信ぜしめるところに在るといふよりも、寧ろ多く未來の可能の爲めに現在の破壞をなすところに在ると謂はねばならぬ。偶像破壞者としてのイブセンに於いて、既に認めることの出來た深刻な批評的精神即ち未來の可能を信ずる心は、ドストイェフスキーや※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌに於いて一層明らかに見ることが出來る。前にも繰り返し言つた通り、批評的精神の本性は、一切の障壁を突破して、常住不斷に前進するに在る。即ち突破の精神である。突破の精神が物質力の前に停止したのは、未來の可能を信ずることが出來なくなつたからであつた。即ち批評的精神の内に萠芽してゐる無限の創造力――人間の意力を信ずることが出來なくなつたからであつた。ドストイェフスキーや※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌが生命の創造力を信じ得たのは、あらゆる障壁に向つても突破することの出來る力が、人間の本性の内に潜んでゐると信じたからである。彼等に於いては、深刻な批評的精神は、直ちに生命を信愛し、生命の無限の創造力を信ずることであつた。
 吾々は現實そのものに對する誤解を避けねばならぬ。現實は感覺的物質的の實在をのみ意味するのでは勿論ない。現實の眞性は、人間の本性そのものに外ならない。人間生活そのものに外ならない。生きて動き流れてゐる人間の生活、生活活動の一切の流れ、これが現實である。肉も靈も、物質も精神も、死も生も、一切のものが混沌錯綜して流動してゐる。隨つて現實は決して固定したものではない。變化して已まないのがその本質である。批評し破壞し突破し創造し増大し充實し緊張して、常住不斷に變化し進化して已むときがない。即ち生命の流れである。個性を見出し、捉へ、生み出して行く生活が具體的の現實である。
 現實の暴露は、いふまでもなく批評的精神の發動である。しかし眞の批評的精神は、單に現實を暴露することにのみ止まるべきではない。流動する現實の中に、偶々停滯せる流れを突破しようとするのが批評的精神であるとするなら、それはまた、現實の停滯を暴露する以上に、未來の流動を促進することを本意としなければならぬ。吾々はあばくよりも破らねばならぬ。打つよりも進めねばならぬ。かりにフランスの作家は現實を傷けないといふよりも寧ろ蔽はない作家であると言へるなら、ロシアの作家は蔽はないよりも寧ろ傷けない作家であると言ふことが出來るであらう。フランスの作家は一體に鋭い批評心で現實を發き究めようとする。發き究めることに深い興味を感ずる。ロシアの作家は一體に深い愛情で現實の一切を知らうとする。矯め歪めないで眞實の生命に觸れようとする。知るが爲めに發く心と、愛するが爲めに知らうとする心との相違があるとも言へるであらう。もし假りにこの大まかな比較が許されるなら、吾々は愛するが爲めに知り、愛して知らうとするが爲めに發くのでなければならぬ。而してその發くことは、同時に人間の本性の價値を探り當てることでなくてはならぬ。それが新らしい創造的精神の發動である。
 しかし批評することは易くして、創造することは極めて難い。破壞し暴露することは、一時の快を買はうとするものにも出來るらしく見える。リアリズム乃至ナチュラリズムの模倣者追隨者の輩出した所以である。けれどもその破壞の後に新らしい生命を生むといふこと、暴露の後に生命の活躍を信ずるといふことは容易でない。吾々は信じたり愛したりする前に、先づ信じたり愛したりすることの出來る力を有たなければならない。生命の抵抗でなくして生命の充實を有たなければならない。突く力でなくして與へ包む力を有たなければならない。自分以外のものよりも先づ自分自からを信愛する力がなくてはならぬ。生命の力は無限であり、創造の力は無限である。隨つて吾々はその力の一切を眼のあたりに見ることは出來ない。見て初めて信ずることは出來ない。吾々はその力を自から内に有ち、内に充たし、而して内に感ずる外はない。自から生命の活躍を内に感じ、その奔騰を内に感ずる外はない。抑へんとしても抑へられない、已むに已まれぬ生命の發動、生命の果てしない汾湧によつて、何ものか無限の力の活躍を信ずる外はない。要するに吾々は自から内に生みの力を感じて信ずる外はない。
 限りなき生みの力は、人間にとつて一つの大いなる神祕である。また同時に大いなる一つの啓示である。大いなる沈默であると共に絶大の詩歌である。沈默と言葉と、かくしとあらはしと、無限と有限と、凡てたゞ一つである。無限の力が形ある人間の間に形をとつて現はれるとき、吾々はそれを創造と名づける。そこに吾々は有限の形につて無限の生命に接觸し到達することを感ずる。有限固定の物質の中に、無限の生命の躍動を感ずる。吾々は初めて無限の生命と無限の信愛との光りを彷佛することが出來る。眼に見える世界ばかりが吾々の現實ではなくなつて來る。眼に見えぬ世界が決して夢ではなくなつて來る。神祕は恐怖でなく不可解でなく、生命そのものの力に感ずることに外ならなくなる。そのときに吾々は初めて眞の人間である。眞に神を信じ、惡魔を愛することの出來る人間である。この無限の生命の力を信じ、無限の生みの力を有することが、批評と創造との精神の本意である。眞の批評と創造とは一つでなければならぬ。深刻な批評に基づく無限の創造力、批評と創造との力の深刻な渾融、これが生活の上にも藝術の上にもシムボリズムの精神である。吾々は先づこの未來の可能を信じて進まねばならぬ。





底本:「片上伸全集 第1巻」日本図書センター
   1997(平成9)年3月25日復刻発行
底本の親本:「片上伸全集 第一卷」砂子屋書房
   1938(昭和13)年12月30日発行
入力:高柳典子
校正:岩澤秀紀
2012年7月1日作成
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