南予枇杷行

河東碧梧桐




 上り約三里もある犬寄いぬよせ峠を越えると、もう鼻柱[#「鼻柱」は底本では「鼻桂」]を摩する山びやうぶの中だ。町の名も中山。
 一つの山にさきさかつてゐる栗の花、成程、秋になるとよくこゝから栗を送つてくる。疾走する車の中でも、ある腋臭を思はせる鼻腔をそゝる臭ひがする。栗の花のにほひは、山中にあつてのジャズ臭、性慾象徴臭、などであらう。
 南伊予には、武将の名を冠したお寺が多い。長曽我部氏に屠られた諸城の亡命者が山中にかくれて寺号の下に安息の地を得たのだともいふ。
 中山にも「盛景寺」がある。勤王の武将河野盛景の創建、今は臨済宗である。現住僧は私の回縁者である。玉井町長を始め、数氏と共にその招宴に列した。
 食後一かごの枇杷が座右に置かれる。この辺は伊予の名物唐川からかわ枇杷の本場である。唐川枇杷も、長崎種子を根接ぎしで、播種改良に没頭してゐるので、土地の特有の影は地を掃らつて去らうとしてゐる。この枇杷は豊満な肉づきを思はしめる改良種のそれとは全く別趣だ。小粒で青みを帯びてゐる。産毛の手につくのすらが、古い幼な馴染に出会つた、懐旧の情をそゝる。ほのかに残つてゐる酸味は、今もぎたてのフレッシュを裏書きするのである。食ふに飽くことを知らぬ。南予枇杷行の感、殊にその第一日といふので深い。前途に尚黄累々たる、手取るに任せ足踏むに委する、甘潤満腹の地をさへ想見せしめる。
 この枇杷は、寺内土着の古木の産であるといふ。創建者盛景の唯一の遺跡とも見るべき枇杷風景か。

 大洲おほずの町には、昔から少名彦命に関する伝説口碑がいろいろあつた。町の背ろ柳瀬山続きに、その神陵と目さるゝ古墳さへがある。文政年間、菅田村の神主二宮和泉、その神陵確認を訴へ出て、当局の忌避に触れ、その志を継いだ矢野五郎兵衛なる者は、却つて獄に投ぜられた事実がある。
 一体少名彦命といふ方が、どういふ事跡を持たれてゐるのか、僅に古事記、日本書紀、出雲、播磨、伊豆、伊予等各地風土記に現れた簡素な筆によつて、それが大国主命の補佐者であり、蒙昧を開拓して各地を巡遊されたといふ事位しか判然してゐない。
 最近この大洲の町をとり囲む――それがやがて口碑にいふ所の少名彦命の陵を中心にして――神南備かんなんび山、如法寺山ねほうじやま、柳瀬山、高山に出雲民族の特性とも見らるゝ巨石文化――巨石をまつり、そを神聖視する祭壇的設備――の遺跡を、余りに著るしい数で発見した。
 この巨石文化の発見は、当然少名彦命の口碑と結びつくべき運命である。大洲を中心とする一区画が巨石文化の宝庫であり、他に比類のない盛容であるのは、神代当時の重要地域および重要人物との関聯をも裏書きするのである。
 少名彦命の神陵も、この傍系によつて確認されなければならない。
 肱川の上流、菅田のほとり、荒瀬を渉らうとされた命を、川向ひの老婆が認めて、そこ危しと声をかけたにも拘らず、お向きかはりされる間もなく御流れになつた、といふ最期の一シーンまでが、同時に確認されなければならなくなる。
 従来巨石文化の遺跡として知られてゐるのは、大和三輪のそれである。三輪みわは大国主命をまつるといはれてゐるが、その巨石群は大洲柳瀬やなぜ山に発見されたのと、ほぼ同一規模であるといふ。その他石を神体とする大小諸社各地に散在してゐるが、大洲のそれのやうに、立石(メンヒル)、机石(ドルメン)、環状石群(ストーン・サアクル)等各種の形状を尽くして、整備保存せらるゝもの、真に天下無比であるといふので、有史以前の考古探討趣味は、蝸牛角上の争ひである現町政をさへ圧倒しつゝある。

 考古探訪癖は、私も幸ひに持ち合はせてゐる。外科医にして巨石狂の称ある城戸氏を先導に、まづ高山の「疣石」と俗称のあるドルメンから見学する。出石寺といふ弘法大師の開いた霊地へ通ふ峠の茶店の側にある。神代二神の垂迹の巨石、今や燦然として輝けば、四国最古の文化を語つてゐた弘法の垂迸も、ために光を失ふ。
 ドルメンの「疣石」は、今でも土民崇拝の霊石で、祈ればいぼがとれるといふ。七尺に十二尺、厚さ八尺の机形の石は天然にころがつてゐるのでなくて、割石の基礎工事を施した上に安置されてゐるのみならず、この大石を中心に、四方に霊域をかぎつたと思はれる、環状石群の遺石がある。このドルメンが、天神地祇をまつる祭壇であるか、それともたれか貴人を葬つた墓標であるか、まだ断定されてゐない。試みにその地下数尺を掘つて見たが、これといふ遺物を発見しなかつたともいふ。
 更に数町を登つて、俗称「石仏」のメンヒルの前に立つ。この石を橋梁用に下さうと曽て掘り倒した翌朝、もとのやうに立つてゐたので、村民が恐れをなした、など口碑がある。石の前には香華が供へてあり、祈願のかなつたしるしか、高さ一丈四尺の石面にはブリキ作りの鳥居が所々打ちつけてあつたりする。
 この石仏から、曲流する肱川と大洲の町を見おろす眺望は、一幅の画図である。富士形をした如法寺山の、斧鉞を知らぬ蓊鬱な松林を中心にして、諸山諸水の配置は、正に米点の山水である。
 もし巨石群の遺跡に富む「かん」「かん」二峰の神南備山が、鬼門を守つて立つならば、この高山の石仏は、正にその正反対の裏鬼門にあたる。神南備の頂上に俗称「おしようぶ岩」のドルメンのあるに対して、この高山に立石のメンヒル――として稀有の高さを持つ――を立てたのは、神代にも天体の観測による方角観念の支配した結果でないであらうか。
 次いで村社三島神社境内にある立石――この立石を祀つた遺習が、今の三島神社建立の因となつたと想像される――を見て、暫く神社の回り縁に腰して休む。同行の一人、この山に野生するとも見えた枇杷を米嚢に一杯かついでくる。飢ゑた渇いた咽喉に、正に甘露の糧であつた。思ひを我等祖先の悠久な原始時代に馳せて、彼等が巨石の霊を信じながら、祭祀の盛典を設けた時分から、こゝに生ひ立ちみのつてゐたであらうところの、枇杷を口にする奇遇をしみ/″\感ずるのでもあつた。さうしてそれは又私の南予枇杷行のクライマツクスでなければならなかつた。

 翌日は巨石文化に関聯する、少名彦命の神陵に参拝した。途中に「神楽駄場かぐらだば」の平地があり、霊地を象徴する環状石群があり、遠き昔から「いらずの山」としてもつたいづけられてゐた神陵所在地は、近年或る淫祠建立のため蹂躪され、その土饅頭式陵墓の大半を破壊されてしまつた。それも某盲人の無智な少名彦神尊に端を発すといふ。
 維新前の大洲藩は、少名彦命神陵決定の場合、あるひは天領となるを恐れ、俗吏根性から極力その証左を湮滅せしめようとした形跡さへがあつた。無智な敬神観念が、陵墓の何たるやを理解せず原形を破壊する位、むしろ当然であつたかも知れぬ。
 今後に残された問題は、合法的研究と、物的証左の収集によつて、神産巣日御祖命の手の俣から漏し御子――古事記――ともいはるゝ少名彦命時代のばうばくたる伝奇の上に、多少とも史実の光明を照射することである。大陸民族の渡来と信ぜらるゝ出雲民族の上に加へらるゝ史実的批判、その材料は、出雲の郷土よりも、却てこの大洲に恵まれてゐるとも見るべきなのである。

 伊予第一の長流肱川は丁度香魚狩り時季であつた。坂石といふあたりまで自動車を駆つて、そこから舟を下す。大洲まで約七八里。
 両岸重畳の山々高からねど、翠微水にひたつて、風爽やかにたもとを払ふ。奇岩怪石の眼を驚かすものなけれど、深潭清澄の水胸腔に透徹す。男性的雄偉は欠くも、女性的和暢の感だ。ところ/″\早瀬に立つ友釣りの翁から、獲物の香魚をせしめて、船頭の削つた青い竹ぐしで焼きあげる。浅酌低唱的半日の清遊だつた。
 一人の漁夫に喚びかけて、香魚の釣れ高をきくと、それが大洲署長さんであつたなどのカリカチユヤもあつた。一日吹き通した南風が舟を捨てる間際、沛然たる驟雨になつた。掉尾の爽快さも忘れられない光景であつた。
 思ふに、肱川のやうに、どこまでさかのぼつても、どこまで下つて見ても、いつも同じところに停滞してゐるやうな感じは、環境の大小深浅の相違はあれ、支那の揚子江のそれのやうに、大江的趣致であるともいへる。たゞこれは山容水態、淡装をこらした美女佳妓の侍座する四畳半式なだけだ。
 四畳半式も結局、上流に如法寺山を控へ、臥竜淵を添へ、下流に城跡の小丘、高山の屏風をめぐらして、大きくS字形に曲流する大洲の肱川観が、この長流の中心、その枢要の地であるといふことになる。
 風景にも恵まるゝ大洲町であることを祝福せねばならない。

 この風光明媚の地、一人の人材を生まざりしや。
 曽て如法寺に駐杖した盤珪禅師は播磨の人であり、藩公の招聘に応じた中江藤樹は近江生れであつた。維新前蘭学の輸入に際し、一商賈の身をもつて、疾くシーボルトの門下に馳せた三瀬諸淵は、お隣の新谷町に生れて岩倉公に侍し、憲法制定に尽瘁した香渡晋と共に、近代先覚者の名をほしいまゝにするものである。
 諸淵の伝記をこゝに叙する余裕はない。シーボルトについて蘭学医学を研めた三十九歳の生涯は二度獄に投ぜられ、後シーボルトの孫女を配偶者に迎へるまで、過渡的維新史の数奇な裏面史であつた。
 大阪に客死した当時の墓碑は、諸淵の甥三瀬彦之進によつて、現に大洲町大禅寺に移されてゐる。その墓碑を守りて、なほ生けるに仕ふる如き彦之進氏も、洋学を志して古武士の風を存した諸淵没後を辱かしめざる、洒脱朴訥の士、現に大洲名物第一者であるのを奇とする。
 香渡氏に関しては、他日又記することもあらう。前日大洲に至る途中、その生家を訪問して、遺族諸氏に面接した。岩倉公と往復の信書なほ幾多現存する。思ふに、貴重な維新史料でなければならない。

 八幡浜やわたはま町は、山中でありながら又海岸である、天賦の港湾である。深く湾入した海には、港口を扼する佐島がある。自から風波を防いで、南予の要港となつた。されば維新時代一漁村に過ぎなかつた寒村が、今や豪富軒を列ぶる殷盛を極めてゐる。昨今天下を支配する生繭相場も、この地の出来値を一基とするともいふ。
 神代遺跡をもつて誇る大洲との間に「夜昼峠」がある。彼は東陽、これは西陰、彼は上古史、これは近代史、原始と新進の対照、「夜昼峠」は正に的確な名詮自称である。
 川之石町にも遊んで、天下第三位を占めるといふ蚕種製造所を一見することを得た。
 さうして両地とも、土地特有の枇杷に親しんで、連日陰うつな梅雨日和を、しかも清爽な気持で過ごした。敢て白氏の琵琶行に擬する所以ではない。徒らに吐くべき核子の多きを恥ぢるのみである。





底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※この作品は、1929(昭和4)年7月に執筆された。
※「垂迩」は、校正に使用した1983(昭和58)年12月1日第4刷に従って、「垂迹」にあらためました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について