役小角とか、行基菩薩などいう時代の、今から一千有余年の昔のことはともかく、近々三十年前位までは、大体に登山ということは、一種の冒険を意味していた。完全なテントがあるわけでなく、天気予報が聞けるでもなく、案内者という者も、土地の百姓か猟師の片手間に過ぎなかった。
で、登山の興味は、やれ気宇を豁大するとか、塵気を一掃するとか、いろいろ理屈を並べるものの、その実、誰もが恐がって果し得ない冒険を遂行する好奇心が主題であった。
天佑と我が健康な脚力を頼みにして。
無事に下山して来て、日に焼けた紫外線光背面を衆人
そういう卑近な我々の経験から割り出すと、役小角時代の冒険味は、どの方面から言っても、常に生命線を上下する危険そのものだったに違いない。自然雷を吸い雲に乗ると言った、人間を超越した仙人的修行を積まなければ、到底其の難行苦行には堪えなかった。いつでも木の芽を食らい、木の根を噛んで、其の健康を維持するだけの経験を積んでいた。言わば原始的、野獣的な行動であったのだ。吉野の大峯に残る修行場というような、奇岩怪石を背景にしての
現に四国の
霞を吸い、雲に乗るという仙人観も、仮空な想像でなく、人間も苦難な経験を積めば、そこに到達し得る可能な実在であったのだ。
今日のように、登山文化が遺漏なく発達しては、最早や冒険味など殆ど解消し、納涼的享楽味化した観がある。オイ、一寸烏帽子岳まで、と浴衣がけで出かけるような気持など、それがいいわるいは別として、文化人の一種の矜りであるかも知れない。槍ヶ岳の坊主小屋あたりまで、人間の体臭、いや糞臭で一杯だというじゃありませんか。ロック・ウォーキング、垂直の岩壁を散歩するのでなければ、現代のアルピニストではないそうですね。
まあ前時代? と言っていいでしょう。我々時代の登山は、一歩役小角に近づき、仙人修業の一端に触れた、むしろ珍妙と言ってもいいステージの想い出、手ぐれば尽きない糸のように。
初めて白山登山を志した時、地理も余り究めず、ただ一番の捷径というので、前日其の山麓の尾添で一泊した。後できくと、それは白山の裏道で、尾添道という最も峻険な難路だった。ともかく、山にかかったとッつきの胸突き八丁、これは手強いの感を与えた。が、やっと眺望の開けた、約千
あそこに黒百合がありますよ、で連れの一人が、そこらの二株三株を土と共に掘りあげ、いい土産が出来ました、と言っている間に、今まで風もなく晴れ上がっていた、今日一日を保証していた空が、一陣の
立山サラサラ越えの黒百合の伝説は、昔物語として一笑にしていたが、黒百合の怨霊、其の山荒れ、今
何しろ着替一枚も持たない浴衣はビショ濡れ、雨の洗礼を全身に受けた聖者の姿、逃避しようにも見透しはきかず、寒くて寒くてじっとしては居れず、其の中ゴロゴロ雷は鳴る
荒れ狂っている大自然と、孤軍奮闘する私であった。
この足跡が果して白山頂上への道なのか、それとも? 私は急に胸騒ぎをさえ感じながら、と言って、外に踏むべき道はないではないか?
若し其の道が、越中へ抜ける道であるとか、飛騨へ下る岐れであったとしたら、私は本統に、濡れ仏のコチコチな
が、私の暴挙に類した突進は、幸いに頂上への道を誤ってはいなかった。それから二三時間の後、我々一行は室堂の焚火にあたりながら、九死に一生を得たような顔を突き合わせていたのだった。
黒部の主、吉澤庄作君、猫又のダムが出来た当時、ダムの堰きとめる水量は、黒部峡谷の半分にも足らない、ダムの一つや二つでビクともしませんや、と強いことを言っていた。が、鐘釣温泉から猿飛に溯るまでの巨岩怪石の、それが黒部の
が、楢平のダムが新たに築かれると、猿飛さえが水中に没してしまう新聞に、黒部保勝会が先ず初耳らしい慌てかた。鐘釣温泉主人の、温泉破壊の泣き言も、身に沁みて聴いてやらねばならぬ破目になった。どえらい山津浪でもして、一気にダムの一つや二つぶち壊してくれりゃァ、ねえ吉澤君、とも言いたい黒部の現状である。
ダムの事なんか夢にも想像しなかった、アノ頃の黒部は、想い出してもゾッとする程、雄渾で壮烈だった。小山のような岩が渓を埋めて、それに激突する水が怒号狂吼しているのだ。そうして、その岩の配置に、背景の削ぎ立った懸崖に連峯に、人を威圧しながらも、
爪先上りの林道を歩いている間は、至極平凡無為であった。が、ここで林道が尽きたという処に小さな瀑がある。仕方なし、垂直な懸崖になった灌木林中にもぐり込んで、そこを横に渡らねばならない。まるで猿に退化した狂躁曲の乱戦乱舞を演じて、やっと瀑の上の
この磧をたどって猫又の頭に出る分には、もう大したことはない見込みの案内者の眼前に、又しても瀑の数丈が懸る。
これもえんやらやっと、横にかわして、再び滝の上に落著いた時は、予定どころか日は既に西に傾きかけた。もう白馬の小屋にたどりついている時分に、まだ猫又の頭さえが見つからない不安と焦燥。あれが猫の踊り場という平、こういう日あたりのいい日には、よく熊が昼寝しているから気をつけなさい、なんて呑気そうな話をする案内者の顔にも、一抹拭いきれない失敗の暗皺。
やっと猫又の頭によじて、遙かに祖母谷の白煙を瞰下した時は、暮色既に身辺に迫っていた。幸いとでもいうのか、久しい以前誰かが焚火した跡のそれらしい平を発見して、露天の露宿より外にもう手段も方法も無かった。
そこらの夜叉の木という生木を伐るのも、総て暗中の模索、何はともあれ、空腹を充たす味噌汁と米の炊き上った時は、ヤケな歓声も揚るのだった。
三四枚の毛布に五人がもぐり込んで寝ようとはしたが、さて今夜の星の多いこと! キラキラヒカルこと! 星がより合って、この憐れむべき一行を指ざしつつ笑ってるような。
お蔭で、始めて生木というものを、どうして火にするかの方法を覚えたなど、ゆとりのあるような口吻を洩らしていたものの、若し今夜天候が変って、暴風の山荒れとなったら、其の時の覚悟は?、今夜はまあ無風状態の天佑で過し得るにしても、一宿分の糧食しか持たない我々は、明日若し白馬の小屋に到着し得なかったら、一行は餓死の運命! 実際山の大きさと恐ろしさを知っている一行のリーダーとしての次の責任感は、絶えず胸に早鐘を撞いていたのだ。そうして若し私の予感が実現したとすれば、恐らく一行は皮肉の洗い晒された白骨となって、始めて捜査隊に発見されたのだ。
幸いにも翌日も無事晴天、青起画伯が腹痛を訴えたり、一時霧がかかって見透しのつかなかった小故障はあったが、白馬の三角点を見つける迄は、昼弁当は開かない約束の下に、総て予定通り進行。あの
それにしても、あの猫又の頭から、折節蒼然と暮色の襲う中に、アルプス連峯の