登山は冒険なり

河東碧梧桐




 役小角とか、行基菩薩などいう時代の、今から一千有余年の昔のことはともかく、近々三十年前位までは、大体に登山ということは、一種の冒険を意味していた。完全なテントがあるわけでなく、天気予報が聞けるでもなく、案内者という者も、土地の百姓か猟師の片手間に過ぎなかった。
 で、登山の興味は、やれ気宇を豁大するとか、塵気を一掃するとか、いろいろ理屈を並べるものの、その実、誰もが恐がって果し得ない冒険を遂行する好奇心が主題であった。いわんや、金銭に恵まれない当時の書生生活では、無理とは知りつつ、二重三重に冒険味を加える登山プランしか立て得なかった。
 天佑と我が健康な脚力を頼みにして。
 無事に下山して来て、日に焼けた紫外線光背面を衆人稠坐ちゅうざの中にツン出し、オイどうだ! と得意な一喝を与えたものだ。
 そういう卑近な我々の経験から割り出すと、役小角時代の冒険味は、どの方面から言っても、常に生命線を上下する危険そのものだったに違いない。自然雷を吸い雲に乗ると言った、人間を超越した仙人的修行を積まなければ、到底其の難行苦行には堪えなかった。いつでも木の芽を食らい、木の根を噛んで、其の健康を維持するだけの経験を積んでいた。言わば原始的、野獣的な行動であったのだ。吉野の大峯に残る修行場というような、奇岩怪石を背景にしての練膽れんたん法は、即ち役小角時代からの伝統の遺物とも見るべきだ。
 現に四国の石鎚いしづち山では、七月一日の山開きの当日から、七日間断食して毎日頂上をかける――かける、とは山腹の社から頂上までを往復するをいう――というふうな特異な登山行者がある。其の行者のいう所によると、三日目頃が最も苦痛で、今にも倒れそうであるが、七日満願頃には、却って神身爽快、雲に乗るかの思いをするとの事だ。又山中高原に結廬けつろし、笹の芽を食って、幾日か難苦の修業をする者もある。彼等の経験によると、本統に餓渇を訴えなければ、笹の芽など到底咽へは通らないと言う。
 霞を吸い、雲に乗るという仙人観も、仮空な想像でなく、人間も苦難な経験を積めば、そこに到達し得る可能な実在であったのだ。
 今日のように、登山文化が遺漏なく発達しては、最早や冒険味など殆ど解消し、納涼的享楽味化した観がある。オイ、一寸烏帽子岳まで、と浴衣がけで出かけるような気持など、それがいいわるいは別として、文化人の一種の矜りであるかも知れない。槍ヶ岳の坊主小屋あたりまで、人間の体臭、いや糞臭で一杯だというじゃありませんか。ロック・ウォーキング、垂直の岩壁を散歩するのでなければ、現代のアルピニストではないそうですね。
 まあ前時代? と言っていいでしょう。我々時代の登山は、一歩役小角に近づき、仙人修業の一端に触れた、むしろ珍妙と言ってもいいステージの想い出、手ぐれば尽きない糸のように。

 初めて白山登山を志した時、地理も余り究めず、ただ一番の捷径というので、前日其の山麓の尾添で一泊した。後できくと、それは白山の裏道で、尾添道という最も峻険な難路だった。ともかく、山にかかったとッつきの胸突き八丁、これは手強いの感を与えた。が、やっと眺望の開けた、約千米突メートルも登った頃、そこらそこらに残雪も見え出した。早昼の結び飯を食って、茶のかわりに、雪を掻いて食ったりした。
 あそこに黒百合がありますよ、で連れの一人が、そこらの二株三株を土と共に掘りあげ、いい土産が出来ました、と言っている間に、今まで風もなく晴れ上がっていた、今日一日を保証していた空が、一陣のなまぐさい風と共に変に翳った。見る見るうちに、脚の迅い雲が、向うの谷からこの谷へ疾駆して来る。天候が変った。少し急ごう。いつの間にか我らも雲中の人になって、殆ど咫尺しせきを弁ぜぬ濃霧だ。風が募って笠も胡蓙も吹き飛ばす。ザアーと大粒の力強い雨だ。
 立山サラサラ越えの黒百合の伝説は、昔物語として一笑にしていたが、黒百合の怨霊、其の山荒れ、今覿面てきめんに、我らの頭上に降りかかって来たのだ。ただの山荒れでない恐怖も手伝って、前途は尚更ら暗澹戦慄。
 何しろ着替一枚も持たない浴衣はビショ濡れ、雨の洗礼を全身に受けた聖者の姿、逃避しようにも見透しはきかず、寒くて寒くてじっとしては居れず、其の中ゴロゴロ雷は鳴るあられも交って矢のように打ちつける。正に天柱砕け地軸折るるかの轟音。えらい事になった、こんな時狼狽うろたえるではない、と言っても別に心の落著けようもないのだ。私は、僅に脚もとだけ届く私の視野、そこには人の歩いた跡の自ら道になっている痕跡をたどって、一気に突進する外はなかった。ままよ、運を天に任して。いつか案内者にも、連れの男にもかけ離れてしまった。時々「オーイ」と呼んで見るが、それらしい返事もしない。
 荒れ狂っている大自然と、孤軍奮闘する私であった。
 この足跡が果して白山頂上への道なのか、それとも? 私は急に胸騒ぎをさえ感じながら、と言って、外に踏むべき道はないではないか?
 若し其の道が、越中へ抜ける道であるとか、飛騨へ下る岐れであったとしたら、私は本統に、濡れ仏のコチコチな白堊はくあのような聖者となって、二千米突附近の疾駆する雲の脚に蹴散らされていたであろう。そうして、其の聖者を発見した後人が、著替えも食糧も何一つ持たないで登山するなんて、無謀な馬鹿者もあったものだ、と冷笑の一瞥を手向けたであろう。
 が、私の暴挙に類した突進は、幸いに頂上への道を誤ってはいなかった。それから二三時間の後、我々一行は室堂の焚火にあたりながら、九死に一生を得たような顔を突き合わせていたのだった。

 黒部の主、吉澤庄作君、猫又のダムが出来た当時、ダムの堰きとめる水量は、黒部峡谷の半分にも足らない、ダムの一つや二つでビクともしませんや、と強いことを言っていた。が、鐘釣温泉から猿飛に溯るまでの巨岩怪石の、それが黒部のたましいであった壮美の中心は、もう大半無くなっていますよ、と難癖をつけると、吉澤君、奥に大きな雪崩れか、山ぬけでもすりゃァ、あんな岩位、また流れて来まさァ、で洒々たるものだった。
 が、楢平のダムが新たに築かれると、猿飛さえが水中に没してしまう新聞に、黒部保勝会が先ず初耳らしい慌てかた。鐘釣温泉主人の、温泉破壊の泣き言も、身に沁みて聴いてやらねばならぬ破目になった。どえらい山津浪でもして、一気にダムの一つや二つぶち壊してくれりゃァ、ねえ吉澤君、とも言いたい黒部の現状である。
 ダムの事なんか夢にも想像しなかった、アノ頃の黒部は、想い出してもゾッとする程、雄渾で壮烈だった。小山のような岩が渓を埋めて、それに激突する水が怒号狂吼しているのだ。そうして、その岩の配置に、背景の削ぎ立った懸崖に連峯に、人を威圧しながらも、お言い知れぬ風致と雅趣に微笑んでいたのだ。其の頃、黒部から白馬を志して、細木原青起画伯と外に富山の同人数人を連れて鐘釣温泉を出発した。祖母谷を廻ると、とても一日では白馬の小屋に達しないというので、其の年出来た猫又谷の林道を行けば、ずっと近径になると教えた余計な案内者があった。まだ日のある中に、白馬の小屋に着いて、楽々と寝れるような夢を描きながら、別にテントも用意せず、携帯行糧は、一行七人の一宿分で沢山、と言った気軽な準備だった。
 爪先上りの林道を歩いている間は、至極平凡無為であった。が、ここで林道が尽きたという処に小さな瀑がある。仕方なし、垂直な懸崖になった灌木林中にもぐり込んで、そこを横に渡らねばならない。まるで猿に退化した狂躁曲の乱戦乱舞を演じて、やっと瀑の上のかわらに下りた。ものの二三丁の距離に一時間余を費して一行はもう腹が減った。
 この磧をたどって猫又の頭に出る分には、もう大したことはない見込みの案内者の眼前に、又しても瀑の数丈が懸る。
 これもえんやらやっと、横にかわして、再び滝の上に落著いた時は、予定どころか日は既に西に傾きかけた。もう白馬の小屋にたどりついている時分に、まだ猫又の頭さえが見つからない不安と焦燥。あれが猫の踊り場という平、こういう日あたりのいい日には、よく熊が昼寝しているから気をつけなさい、なんて呑気そうな話をする案内者の顔にも、一抹拭いきれない失敗の暗皺。
 やっと猫又の頭によじて、遙かに祖母谷の白煙を瞰下した時は、暮色既に身辺に迫っていた。幸いとでもいうのか、久しい以前誰かが焚火した跡のそれらしい平を発見して、露天の露宿より外にもう手段も方法も無かった。
 そこらの夜叉の木という生木を伐るのも、総て暗中の模索、何はともあれ、空腹を充たす味噌汁と米の炊き上った時は、ヤケな歓声も揚るのだった。
 三四枚の毛布に五人がもぐり込んで寝ようとはしたが、さて今夜の星の多いこと! キラキラヒカルこと! 星がより合って、この憐れむべき一行を指ざしつつ笑ってるような。
 お蔭で、始めて生木というものを、どうして火にするかの方法を覚えたなど、ゆとりのあるような口吻を洩らしていたものの、若し今夜天候が変って、暴風の山荒れとなったら、其の時の覚悟は?、今夜はまあ無風状態の天佑で過し得るにしても、一宿分の糧食しか持たない我々は、明日若し白馬の小屋に到着し得なかったら、一行は餓死の運命! 実際山の大きさと恐ろしさを知っている一行のリーダーとしての次の責任感は、絶えず胸に早鐘を撞いていたのだ。そうして若し私の予感が実現したとすれば、恐らく一行は皮肉の洗い晒された白骨となって、始めて捜査隊に発見されたのだ。
 幸いにも翌日も無事晴天、青起画伯が腹痛を訴えたり、一時霧がかかって見透しのつかなかった小故障はあったが、白馬の三角点を見つける迄は、昼弁当は開かない約束の下に、総て予定通り進行。あの清水しょうず平あたりのお花畑の美しさは、恐らく日本第一と、今でも其の印象の焼きついた想い出を、さも楽しそうに話すことの出来る幸福を顧みねばならない。
 それにしても、あの猫又の頭から、折節蒼然と暮色の襲う中に、アルプス連峯のしのぎを削るピークを見はるかした時の、荘厳とも痛烈とも言いようのない脅威に充ちた凄惨な光景はどうだったか。白馬は見えなかったが、鹿島鎗から後立、針の木、不動、野口五郎、剣、立山、薬師、黒、槍、穂高、それらが二列或は三列の縦隊となって、さも遠征の首途に上る行動を起こしたように、無音の進軍喇叭を吹きつつあったのだ。殊に蒼白とも灰白とも、それぞれのピークを彩っている底蒼い色の強さは、山岳の決死を象徴するように、真に崇高なる精神そのものだった。私はまだあの時程、山岳の壮美に打たれたことはない。それもこの冒険の賜物であったとも言える。青起画伯は、帰来あの冒険の印象、偉大な自然の黙示に打たれて、それまでの美意識を抛擲ほうてきせざるを得なくなった、と真心から語るのであった。





底本:「紀行とエッセーで読む 作家の山旅」ヤマケイ文庫、山と溪谷社
   2017(平成29)年3月1日初版第1刷発行
底本の親本:「煮くたれて」双雅房
   1935(昭和10)年11月9日第1刷刊行
初出「山 第一卷第三號」梓書房
   1934(昭和9)年3月1日発行
入力:富田晶子
校正:雪森
2020年1月24日作成
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