臨終の田中正造

木下尚江




   直訴の日

 君よ。
 僕が聴いて欲しいのは、直訴後の田中正造翁だ。直訴後の翁を語らうとすれば、直訴当日の記憶が、さながらに目に浮ぶ。
 明治三十四年十二月十日。この日、僕が毎日新聞の編輯室に居ると、一人の若い記者が顔色を変へて飛び込んで来た。
『今、田中正造が日比谷で直訴をした』
 居合はせた人々から、異口同音に質問が突発した。
『田中はドウした』
『田中は無事だ。多勢の警官に囲まれて、直ぐ警察署へ連れて行かれた』
 翁の直訴と聞いて、僕は覚えず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた。
 やがて石川半山君が議会から帰つて来た。開院式に参列したので、燕尾服に絹帽だ。僕は石川と応接室のヴエランダへ出て、直訴に対する感想を語り合つた。通信社からは、間もなく直訴状を報道して来た。引きつゞき、直訴状の筆者が万朝報の記者幸徳秋水であることを報道して来た。直訴状と云ふものを読んで見ると、成程幸徳の文章だ。
『幸徳が書くとは何事だ』
 僕は堪へ得ずして遂にかう罵つた。
『まア、然う怒るな』
と言つて、石川は僕の心を撫でるやうに努めて呉れたが、僕は重ね/″\の不愉快に、身を転じて空しく街道を見下して居た。銀座の大道を、その頃は未だ鉄道馬車が走つて居た。
『やア』
と、石川が出しぬけに大きな声を立てたので、僕は思はず振り向いて見ると応接室の入口の小暗い処に幸徳が立つて居る。
『君等に叱られに来た』
 かう言うて、幸徳は躊躇して居る。
『叱るどころぢや無い、よく書いてやつた』
 石川は燕尾服の腹を突き出して、かう言うた。
『然うかねエ』
と言ひながら、幸徳は始めて応接室を抜けて僕等の間に立つた。でツぷり肥えた石川、細長い僕、細くて短い幸徳、恰も不揃ひの鼎の足のやうに、三人狭いヴエランダに立つた。僕は口を結んだまゝ、たゞ目で挨拶した。
 幸徳は徐ろに直訴状執筆の始末を語つた。昨夜々更けて、翁は麻布宮村町の幸徳の門を叩き起した。それから、鉱毒問題に対する最後の道として、一身を棄てゝ直訴に及ぶの苦衷を物語り、これが奏状は余の儀と違ひ、文章の間に粗漏欠礼の事などありてはならぬ故、事情斟酌の上、筆労を煩はす次第を懇談に及んだ。――幸徳の話を聴いて居ると、黒木綿の羽織毛襦子の袴、六十一歳の翁が、深夜灯下に肝胆を語る慇懃の姿が自然に判然と浮んで見える。
『直訴状など誰だつて厭だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、厭だと言うて振り切ることが出来るか』
 かう言ひながら幸徳は、斜めに見上げて僕を睨んだ。翁を返して、幸徳は徹夜して筆を執つた。今朝芝口の旅宿を尋ねると、翁は既に身支度を調へて居り、幸徳の手から奏状を受取ると、黙つてそれを深く懐中し、用意の車に乗つて日比谷へ急がせたと云ふ。
『腕を組んで車に揺られて行く老人の後ろ影を見送つて、僕は無量の感慨に打たれた』
 語り終つた幸徳の両眼は涙に光つて居た。僕も石川も、黙つて目を閉ぢた。
 直訴に就ては、僕は恰も知らないやうな顔をして過ぎて居たが、十年を経て幸徳も既に世に居なくなつた後、或時、僕は始めて翁に「直訴状」の事を問うて見た。それは、幸徳の筆として世上に流布された直訴状の文章が、大分壊はれて居て、幸徳が頗る気にして居たことを思ひ出したからだ。例へば、鉱毒被害の惨状を説明した幸徳の原文には
「――魚族弊死し、田園荒廃し、数十万の人民、産を失ひ業に離れ、飢て食なく病で薬なく、老幼は溝壑に転じ、壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれり」
 如何にも幸徳の筆で、立派な文章だ。ところが世上に流布されて居るものは、
「魚族弊死し田園荒廃し、数十万の人民の中、産を失へるあり、営養を失へるあり、或は業に離れ、飢て食なく病で薬なきあり――今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり」
 かうなつて居る。
 あの当日、毎日新聞社のヴエランダで、三人で語つた時にも、幸徳は通信社の印刷物を手にしながら、『黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり、では、君、文章にならぬぢやないか』と、如何にもナサケなげな顔をして言うた。これは翁が自ら手を入れたものに相違ない。僕はそれを知りたかつたのだ。
 翁の物語で、いろ/\の事情が明白になつた。翁は先づ直訴状依頼の当夜の事から語つた。翁が鉱毒地の惨状、その由来、解決の要求希望、すべて熱心に物語るのを、幸徳は片手を懐中にし、片手に火箸で火鉢の灰を弄ぶりながら、折々フウン/\と鼻で返事するばかり、如何にも気の無ささうな態度で聞いて居る。翁は甚だ不安に感じたさうだ。自分の言ふことが、この人の頭に入つたかどうか、頗る不安に感じたさうだ。偖て翌朝幸徳から書面を受取る、直ぐに車で日比谷へ行つた。時が早いので、衆議院議長の官舎へ入つた。この日は開院式の為めに、議長官舎は無人で閑寂だ。翁は応接室の扉を閉ぢて、始めて懐中から書面を取出して読んで見た。前夜自分の言うた意思が、良い文章になつて悉く書いてある。
『良い頭だ』
と言うて、翁は往事を回顧して、深く感歎した。
「伏て惟るに、政府当局をして能く其責を竭さしめ、以て陛下の赤子をして日月の恩に光被せしむるの途他なし。渡良瀬河の水源を清むる其一なり。河身を修築して其の天然の旧に復する其二なり。激甚の毒土を除去する其三なり。沿岸無量の天産を復活する其四なり。多数町村の頽廃せるものを恢復する其五なり。加毒の鉱業を止め毒水毒屑の流出を根絶する其六なり。如此にして数十万生霊の死命を救ひ、居住相続の基を回復し、其人口の減耗を防遏し、且つ我日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各其権利を保持せしめ、更に将来国家の基礎たる無量の勢力及び富財の損失を断絶するを得べけん也。若し然らずして長く毒水の横流に任せば、臣は恐る、其禍の及ぶ所将に測るべからざるものあらんことを」
 これが直訴の要領だ。けれど、文章の上に翁の意を満たさない箇所がある。そこで筆を執つて添削を始めた。鉱毒地は広い。被害民は多い。害毒の激烈な処もあれば、稀薄な処もある。黄茅白葦満目惨憺の荒野となれる処もあれば、それ程にまでならぬ処もある。直訴と言ふ以上、その区別を明かにせねばならぬ。
『嘘をついちや、いけねエ』
 かう言つて、翁は顔を振つた。
 文章の添削が未だ容易に済まぬ所へ、予ねて頼んで置いた官舎の給仕が、ドアを明けて、御還幸を告げて呉れたので、未完成のまゝに携へて直ぐに駈け出したのださうである。
『いやはや』
と言うて、翁は両手で頭を叩いた。
 翁の歿後、僕は直訴状の本物を見たいと思つた。幸徳の書いた上へ翁が筆を入れた本物を見たいと思つた。何処にか存在するに相違ないと、窃かに心当りを尋ねて居ると、それが一度田中家の養女になつたことのある、翁の実の姪に当る原田武子さんが持つて居ることがわかつた。美濃半紙に書いて、元は簡単に紙ヨリで綴つてあつたものを、立派に表装して巻物になつて居る。筆者を偲んでその肉筆に対すると、見たゞけで、胸に熱気が動く。
「草莽の微臣田中正造、誠恐誠惶、頓首頓首、謹で奏す。伏て惟るに、臣田間の匹夫、敢て規を踰へ法を犯して鳳駕に近前する、其罪実に万死に当れり。――伏て望むらくは、陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐みて、少しく乙夜の覧を垂れ給はん事を」
 これが冒頭の原文だ。すると、翁の神経にこの「狂愚」の一語が触れたものと見え、狂の一字を墨で消して「至愚」と修正してある。これを見て僕は様々な事を思ひ出した。翁が始めて直訴を行つた時、世間はこの事件の成行を懸念して重大視した。然るにたゞ一夜警察署に泊まつたのみで、翌日翁は仔細なく解放された。世間は再びその案外の軽易に驚いた。これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱つたものだ。以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになつてしまつた。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがつた』
と言つて、翁は、笑ふにも笑はれず怒るに怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
 僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかつたが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになつた。
『若し天皇の御手元へ書面を直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行れば、何の造作も無い事だ。然しながら、議員の身でそれを行つたでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ――』
 翁は粛然として曾てかう語つた。
 武子さんの話を聞くと、用談云々の端書が来たので、直訴の前夜、芝口の宿屋へ尋ねて行つたさうだ。行つて見ると、別に用談の景色も無い。翁は目を閉ぢて独り何か冥想して居るのみで、さしたる用事のあるでも無いらしい。帰らうとすると、『も少し居よ』と言うて留める。けれど何の話があるでも無い。夜が更けるので、遂に立つて帰つた。
『私が帰つてから、伯父は幸徳さんへ出掛けたのでせう。私を呼んだのも、用事があつたのではなく、暇乞の為であつたかと思はれます』
と、武子さんは言うた。
 翁が死の用意をして居たことは、種々行動の上から推測される。前年即ち明治三十三年の春、兇徒嘯集被告事件の勃発した時、郷里の妻へ送つた手紙の如きも、能くそれを語つて居る。
「一、其方殿事、明治二十四年父庄造死去の節、正造何の用意も無之候処、其方殿、多年間予ねて御丹誠を以て、老父臨時の用意、身分相応に御心掛置き被下候より、葬儀の準備差支もなく相済候段、正造に代り子たる者の役相立、偏に御蔭と忝次第に候。爾来正造何の功能もなく、留守中家事は元より祖先の供養等までも、多年間御一任被下候段、今更に御礼申上候。何分此上とも御頼申上置候。草々。
   明治三十三年三月廿六日
正造
     かつ子江
二白。兎角失礼も多し、御病後折角御大切に。鉱毒婦人乳汁欠乏之儀、御すくひ被下度候事」

   四十日の入獄

 直訴の翌年、明治三十五年の夏、翁は官吏侮辱罪で四十日の軽禁錮に処せられた。これより先、鉱毒地の兇徒嘯集被告事件の公判が前橋地方裁判所に開廷され、愈々検事の論告と云ふ幕になつた時、この立会検事の態度が如何にも傲慢で、その言論が余りに冷酷なので、五十名の被告等は、場所柄を考へ、何れも歯がみをして忍んで居たが、傍聴席の真中に、目を閉ぢて厳粛に耳傾けて居た田中翁が、忽然口を開いて、声を立てゝ、長い大アクビをした。検事は、血相を変へて論告を中止し、直に翁を起訴した。翁のアクビは、検事の職務を侮辱する悪意の発動だと云ふのだ。
 このアクビ事件が一審から控訴上告と転々し、愈々確定して、この年六月十六日六十二歳、東京の監獄へ出頭して刑の執行を受けることになつた。世人は、「田中正造のアクビ事件」と、一時の笑話にして忘れてしまつたが、翁の波瀾の一生に取つてこの四十日の監獄生活が、実に重要な一関鍵であつたことは、翁の知人等の間にさへ、恐らく殆ど承認されずに過ぎたであらう。
 この獄中で翁は始めて新約聖書を読んだ。六十年苦難の生涯、常に死地を往来して鍛錬もされ粉砕もされた失敗の経験を以て、基督の短かくして永き勝利の生涯を見た。――基督がどんな風に翁の目に映つたかと想像することは、一つの興味深き問題だ。若し議会に於ける翁の演説を読んだ人は、翁の性格面貌を胸裡に描くことが出来る。僕は今、基督を見た後の田中翁を説くに当り、それを一層深く君に理解して貰ひたい為めに、翁の素性素質に就て、尚ほ少しく話して見たい。
 翁の故郷は下野安蘇郡の小中と云ふ所で、祖父以来の名主の家であつた。翁の自叙伝の中に幼少時代の事が書いてある。
「予が幼時の剛情は、母に心配をかけしこと幾何ぞ。五歳の時、或雨の夜の事なりき。予、奇怪なる人形の顔を描きて、傲顔に下僕に示せしに、彼冷然として『余りお上手ではありません』と笑へり。己れ不埒の奴、然らば汝上手に書き見せよと、筆紙を取りて迫れば、下僕深く己が失礼を謝して、赦されんことを乞ふも、予更にるさず、剛情殆ど度に過ぎたり。今まで黙視し居たる母は、此時頻りに予を宥めたれど、予頑として之を用ゐざりしかば、終に戸外に逐出し、戦慄泣き叫ぶ予をして、夜雨に曝さしむること二時間余に及べり。母の刑罰、真底心を刺して、誠に悔悟の念を起さしめぬ。思ふに予をして永く下虐の念を断たしめたるもの、誠に慈母薫陶の賜なり」
「予生来口訥にして且つ記憶力に乏しかりき。赤尾小四郎(白河浪士)予の為に試筆の手本を書す。『日長風暖柳青々』――幾度教へらるゝも、予遂に此の読方を記憶すること能はず。地方の俗として、児童試筆をなす時は、之を親族に献じて賞銭を受く。然れ共予は是を読ましめられんことを恐れ、賞銭を顧みずして窃に之を台所へ投げ込みたり。是れ予が七歳の時なり。去れば予も自ら発憤して独り窃に富士浅間を信仰し、厳冬堅氷を砕き水浴をとりて、記憶力を強からしめたまへと祈れり。五十年後の今日、予が猶ほリウマチスの病に困しむもの、幼時厳冬の水浴に原因せるに非ざるか。」
 翁が十九歳の時、父富蔵は割元に進み、翁は父に継で名主となつた。この時代の事が自叙伝に書いてある。
「予は又此頃より大に農業に勉めたり。実に当時の勉強は非常にして、他人に比ぶれば、毎反二斗の余収を得たり。右手には鍬瘤満ち、鎌創満ちて其痕今尚ほ歴然たり。」
「さりながら農の利潤は極めて僅少にして、是は誠に粒々辛苦の汗のみなれば、終に藍玉商とならんと企てたり。父曰く、汝の職苟も名主たり、然るに商となりて錙銖を計らんとするは何ぞやと。然れ共いつかな聴入れず。日課を左の如く定めたり。
一、朝飯前必ず草一荷を刈る事。
一、朝飯後には藍ねせ小屋に入り、凡二時間商用に従ふ事。
一、右終りて寺入りせる小児等に手習を授くる事。
一、夕飯後また藍ねせ小屋を見廻り、夜に入りて、寺院に会して朋友と漢籍の温習をなす事。
 藍玉の原料仕入は、毎年残暑の頃にして、前後三十日許は日夜非常の運動なり。一日近村に原料を集む。炎熱焼くが如くにして、沿道たま/\瓜を鬻ぐ。予乃ち食はんと欲して其価を問へば、曰く五十文なりと。(当時米価の廉なるに反して、瓜西瓜などは非常に高し)予や此日未だ一銭をも儲けざる為に、五十文の銭を惜むこと甚しく、遂に買はずして去れり。思ふに是れ父が所謂商人根性に陥れるものならん。然れども此の如くにして拮据経営、三年にして三百両を儲け得たり。」
 世間では、翁の鉱毒運動を佐倉宗吾と並べて語るものがあるが、宗吾の農民運動と並称すべき翁の行動は、既に二十歳の名主時代に一度やつて居る。六角越前守と云ふ幕府の高家が、野州の幾個村を領して居て、翁もこの六角家領内の名主であつた。この六角家の弊政を改革して、農民の痛苦を救ふと云ふ相談が領内有志の間に盛になり、当時若年の翁はその総代となつて奔走した。この運動だけでも、実に無尽の興味ある物語になるのだが、一切略して、こゝにはその最後の牢獄生活の一節を自叙伝中から抜いて君の一読を煩はす。
「予が封鎖されたる牢獄と云ふは、其広さ僅に三尺立方にして床に穴を穿つて大小便を兼ねしめるが如き、其の窮屈さ能く言語の尽くし得る所にあらず。若し体の伸びを取らんとする時は、先づ両手を床に突き、臀を立てゝ、虎の怒るが如き状をなさざるべからず。また足の伸びを取らんとする時は、先づ仰向きに倒れ、足を天井に反らして、恰も獅子の狂ふが如き状をなさゞるべからず。去りながら入牢中の困難は啻に此に止まらず。予が如き入獄者の容易に毒殺せらるゝ例は、其当時珍らしからぬ事――予は実に大事を抱ける身なり。若し毒手にかゝりて空しく斃るゝ事あらんには、予は死して瞑する能はざるなり。一念こゝに至りて煩悶やる方なく、断じて獄食をなさじとの決心を起し、庄左衛門と云へる同志が二本の鰹節を杖とも柱とも頼みて、生命を一縷の間に繋ぐこと三十日に及びぬ。」
「在獄すでに十個月と二十日。第四回の訟廷は開かれて、左の如き判決を受けぬ。即ち予は、
『領分を騒がし、身分柄にも有るまじき容易ならざる企を起し、僣越の建白をなせしは、不届の至なるに依り、厳重に仕置申付くべきの処、格別の御慈悲を以て、一家残らず領分永の追放を申付くるもの也。』
と申渡を受け――此に於て一件全く落着を告げたるが、此事件の起りてより前後五年の久しきに亙り、村々名主等苟も此事件に関係あるもの、其間の運動費に巨額の金銭を投じたれば、落着後或は田畑を売り或は家屋敷を売り、妻子眷属また為めに離散するの惨状を見るに至れり。」
 翁が六角の獄舎を出て見れば、世は既に明治二年と云ふ新時代になつて居た。二十九歳。領内追放の判決に従て、一細流を距てた隣村、井伊掃部頭の飛び領地堀米村の地蔵堂に閑居して、暫くは村の小児等に手習算術など教へて居たが、勉学の雄志に駆られて東京へ出た。それから妙な因縁で、翌三年に一小吏となつて奥羽の山奥花輪と云ふ所へ赴任したが、こゝで図らず同僚殺人の嫌疑を受けて、四ヶ年に亙る惨酷な牢獄生活を嘗めた。
 君よ。たとひ明治時代とはいへ、法律は尚ほ拷問取調の時代であつたことを念頭に置いて呉れ。翁の自筆の文章から、当時拷問の実状を話して見たい。
「――予は再び口を開き、弾正台は今尚ほ隣県山形にあり。(当時弾正台と云ふ巡廻裁判があつたのだ)今一たび此の審問を受けたし、何卒片時も早く御計らひ下されたしと願ひたるに、聴訟吏は何思ひけん。忽ち赫と怒り、せき込み、直に拷問に掛けたり。疑の点を糺すにはあらで、無法にも拷問の器械をば用ひたり。其は算盤責めと云うて、木を以て製し、仰向に歯を並べたる上に、膝をまくりて坐せしめ、膝の上に重量五貫目の角石を三つ積み重ね、側より獄吏手を以て之を揺り動かす。脛はミリミリ破る。予は大喝『何故拷尋の必要ある』と。石は取り除けられぬ。痛みは反動して、脛を持ち去らるゝが如し。漸く獄吏に引立てられて獄に帰り、案外なる無法の処置に呆れたり。」
 始め、花輪支庁から足にはカセを打たれ、高手小手に縛められ、五十里の山路を四日、牢籠に封じられたるまゝ、江刺県の本庁へ護送された時、その中間に上下八里の七時雨峠と云ふがある。盛岡から北を望むと、岩手姫神両嶽の間に横はる高原の奥に、サヾエ貝を伏せたる如く尖つた峰が見える。こゝを越す時の翁の歌がある。
後ろ手を負はせられつゝ七時雨
   しぐれの涙掩ふ袖もなし
 この奥州の寒地に於ける翁が獄裡生活の一片を、自叙伝の自筆草稿より抜抄す。
「さて、此地の寒気は、人も知る如く、人並みの衣服を纏へりとも、肌刺されて耳鼻そがるゝばかりなるに、冬の支度の乏しきに寒気俄に速に進み来り、故郷は山川遠く百五十里を隔てゝ運輸開けず、県庁の御用物すらに二個月に渉りて往返せる程なれば、衣類を故郷より取寄せんこと、囚人の身として迚も迚も覚束なく、また間に合ひもせぬ気候の切迫、いかゞはせんと案じわづらひける折柄、偶々囚人の中に赤痢を病みて斃れたる人ありしかば、獄丁に請ひて、死者の着せし衣類を貰ひ受けて、僅に寒気を凌ぎけり。此年、此獄中の越年者中、凍死せる者四人ありき。」
「獄中に書籍の差入もなく、只だ黙念するのみなれば、予は記憶力乏しきより難儀に至る事少なからざれば、茲に記憶の工風凝らして一種の発明せしものあり。此事長ければ略すと云へども、要は只だ専門と云ふに外ならず。他の事は忘れよ、予が記憶乏敷性来にて、二課以上を兼ぬるは過りなりと。故に予は出獄以来、何事も兼ぬる事をば避けて為さゞるなり。」
「予は又た幼年の頃よりドモリにて、談話と喧嘩の区別なく、議論も常に喧嘩と同一に聴取られて、其身を禍ひすること多ければ、せめては少しく弁舌ドモらざる迄の研究をせばやと思ひしに、偶々中村敬宇が訳書西国立志編の文章、舌頭に上り易きを幸とし、一語邁返、舌頭錬磨、研究殆ど年余、他日獄を出でて人に接し、始めて其功の著しきを知れり。」
「明治七年四月、一日突然呼出だされぬ。県令島惟清(此時県の併合ありて岩手県)厳然訟廷に現はれ予に申渡す事ありとて、
『其方儀、明治四年四月某日以来、江刺県大属木村新八郎暗殺の嫌疑を以、入獄申付吟味中に候処、此度証人等申立により、其方の嫌疑は氷解せり、爾来取調に及ばず、今日無罪放免を沙汰す。』
 入獄三十六ヶ月と二十日なり。」
 かくて三十四歳、青天白日の身となりて、久々にて故郷へ帰つて見れば、母はこの三月九日に亡き人の籍に入つて居た。翁に取て如何ばかり悔恨の痛事であつたことぞ。
 君よ。僕は田中翁が一身を政治運動に投じた動機に就て、君の深き理解を求める為め、自叙伝の草稿からその一二節を抜書きする。
「明治八年、正造、隣村酒屋の番頭となり、家族及親戚朋友の為に自ら模範者となり、樽拾ひまでに尽力せり。一日、夏天、黒雲低く暴雨来らんとす。馬に石灰を積みたる馬丁、店頭に銅貨二銭を投じて酒を出せよと叫ぶ。正造其馬を見れば、背に汗して淋漓たり。正造おもへらく、今雨来らば此馬や病気せんに、憎むべき馬丁よと。依て汝は何人の雇人なりやと問ふ。馬丁答へて、此方は足利郡稲岡村武井の作方奉公人なりと。正造更に、汝の名を言へ、汝は、馬は主人のなれば、今将に雨降らんとするに不拘酒を呑まんとす。馬の汗かきたるを知らざるか、汗かきたる背に雨をうたせば馬は忽ち病気せん。主人の荷、主人の馬、汝之を愛せざるか。明日主人に、此旨を通ずべし、と罵りければ、馬丁の恐怖一方ならず、二銭の銭を取戻して、酒を呑まずに馬に鞭打ちて出て行きける。偖て此話の広く伝はりて、正造は酒屋の番頭には不適当なりとの誹謗攻撃至らざるなく、終に主人茂平も正造に暇を出すの都合とはなれり――」
「十年、西南戦乱に伴ふ紙幣濫発の事あり。予思へらく、物価必ず騰貴せんと。乃ち十年前六角家事件にて貧困せる正義派の疲弊を回復せん為め、勧めて田畑を買入れしめんとす。皆な冷笑して曰く、正造既に産を破つて且つ世事に疎し、酒屋の番頭を勤むる二年、僅に差引勘定を学べるに過ぎず、彼が経済の空論信ずるに足らずと。是に於て予は自ら成敗を試みて朋友に示さんと欲し、父妻に謀て、土蔵納屋を始め、父祖伝来のガラクタ道具を売却し、姉妹の財をも借り加へて僅に五百両にまとめ、病床に在て徐々に近傍の田畑を買入れたり。未だ数月ならずして地価は俄に上騰し、二倍となり四倍となり六倍七倍となり、遂に十倍以上となりて、容易に三千余円を儲け、以て父祖の財産を復し得たり。父祖の財産復旧す。予思へらく、普通脳力を有する者ならんには、一方に営利事業にたづさはり、一方に政治の事に奔走するを得べきも、如何せん予が脳力偏僻にして之に堪へず。如かず、一刀両断、一身一家の利益を抛つて政治改良の事に専らならんにはと。是に於て一毛の私心万益を破るの道理に基き、先づ姉妹の負債を返却し、謹で一書を老父の膝下に捧げ、こゝに再び財産を犠牲に供し、一身以て公共に尽すの自由を得んことを請へり。其要に曰く
一、今より後、自己営利事業の為め精神を労せざる事。
一、公共上の為め毎年百二十円づゝ三十五年間の運動に消費する事。(此予算は、後に明治二十二年以来選挙競争の為に破れたり)
一、男女二人の養児は、相当の教育を与へて他へ遣はす事。
 書中又た述べて曰く。正造には四千万の同胞あり、天は我が屋根、地は我が床なりと。予窃に老父が容易に許可を与へざるべきを思へり。然るに老父是を見て喜色満面、曰く嗚呼能く此言をなせり、汝の志や可し、只だ能く是を貫き得るや否やと。乃ち老筆を揮て古人の狂歌一首を書して予に示す。
死んでから仏になるはいらぬ事
   生きて居る中善き人になれ
 予感激、斎戒、実行を神祇に誓ふ。」
 時に明治十二年、三十九歳。爾来二十余年の政治生活。初めの十年は、明治十七年に、県令三島通庸の暴政に対して、これが糾弾の為めに死地を往来し、後の十年は、帝国議会の開会と共に、鉱毒問題を高唱して一日の閑天地に憇ふことも出来なかつた。何事ぞ、今国家刑罰権の恩恵の為めに、四十日と云ふ豊かな安息時を監獄の一室に与へられ、青年基督の生涯に照して静かに我が六十年の苦難の瘡痕を点検し、更に我が真使命の何処に存在するかを黙想することが出来た。
 出獄後の翁は「陸海軍の全廃」を唱へた。また聖人の出現を夢想した。これは爾後常に翁の胸に燃えて居たことで、日記を見ると、折々思ひ出したやうに書きつけてある。明治四十四年の日記中にもかう書いてある。
「我れ、去る三十七年の春、神田の青年会館にて、新学生歓迎の演説に曰く、東洋に聖人が生まれ現はるゝ也。但し其の以前に一度日本は亡ぶ。其時までは、個々専門に励みて其道の聖となるべし。翌日一学生来り問ふ、何の証拠ありて昨夜の如き事を述べしやと。予答、只だ我心に思ふのみと。」
 此頃の詠歌一二。
雨風のために変らで雨風と共にはたらけ
我は雨風
我国をはいづる虱よく見れば彼も造化の
手足なるらん
降る雪よやみかたなくば積もれかし我はふみ立て
けたて行くべし

   谷中村破壊

 今も世間で偶々田中翁の事を語る時に「谷中村の破壊事件」を言ふ。けれどもこの「谷中村の破壊」と云ふ一語に何が含まれて居るかを明瞭に知る者は殆ど無い。これは翁が老後而かも最も細密な苦辛を嘗めた事件であるが、茲には極めて大体の輪廓を語る外に道が無い。
 翁は嘗て議会で、足尾鉱毒事件は最早渡良瀬川沿岸のみの問題では無く、既に江戸川の問題であり、東京府の問題であることを叫んだ。政府は江戸川の上流関宿の口を狭めて、利根川の下流を渫ひ、更に渡良瀬川が利根へ合流する口を拡げて、洪水の時には大きな利根の水が渡良瀬の水を押へてこれを何十里逆流させ、以て江戸川の氾濫を禦ぐ策を立てた。そこでこの渡良瀬川の逆流洪水を緩和する為めに渡良瀬の下流谷中村一帯の農村を亡くして、大遊水池を造ると云ふのである。政府が治水会と云ふものを設け全国河川の改修諮問案を出した中に、この渡良瀬改修案をも加へてある。治水会の会員には官吏技師議員など網羅してある。田中翁は絶叫した。『これは銅山党の奸策だ。鉱毒問題を治水問題に塗り変へる銅山党の奸策だ。』
 けれど翁のこの熱弁に耳を仮す者は恐らく一人も無かつたらう。のみならず、今や渡良瀬川沿岸の鉱毒地ですら、一には多年の疲弊の為め、一には目前逆流洪水の損害を免れる為め、この政府の渡良瀬改修案、即ち、谷中村亡滅案を歓迎する情態で、現に彼の兇徒嘯集罪の英雄等すら、この渡良瀬改修案の餌の為めに、多年の首領田中正造に楯を衝くことになつた。
 明治三十七年末の栃木県会に於て、知事は政府の命令に従て堤防修築費の偽名の下に三十六万円の谷中村破壊追加予算案を県会最後の日に提出した。この間秘密の運動あり、深夜開議、質問もなく答弁もなく、全会闇黙の裡にこれを可決通過した。この県会の決議を待つて、政府は衆議院へ「栃木県災害土木補助費二十二万円」の臨時予算を提出し、議会は無造作にこれを通過した。翁は東奔西走した。けれど翁の『銅山党の奸策』は殆ど全く何処にも反響しなかつた。寧ろ田中の狂激として却て到る所に反感を買つたに過ぎなからう。この政府の補助費二十二万円の中十二万円が谷中亡滅費に加へられるので、即ち谷中村破壊費用総計四十八万円と云ふことである。隣地藤岡町に県庁の「栃木県瀦水池設置処分事務所」の看板が掛かつた。かくして翁は、全く着のみ着のまゝの姿となつて、この鉱毒事件の犠牲者谷中の農村へ一身を投げた。
 世は日露戦争の狂熱で、たゞ外へのみ目を奪はれて居る間隙に乗じ、この谷中村と云ふ一小村は、地獄の如き苦悩に襲はれた。こゝに明治三十九年の四月、翁が寸時も抜き難き足を村から抜いて、新紀元の日曜講演会と云ふ一小集会で、切迫の状態を訴へた演説の一節を、君に一読して貰ふ。
「世の中では、谷中村買収問題は、四十八万円で人民の所有地を買ふものだと言つて居る。大間違である。四十八万円と云ふ金は幾らか田畑にも渡さうが、この金の性質は、実際人民をして流離顛沛乞食たらしめる運動費である。こんなことが世の中にある。これだけでは御わかりになりますまいから、少しく理由を申上げます。
 一体人民が、何故たつた四十八万円ばかりの金で、村を売るかと申しますと、これには種々な御話がある。一体この村の価と云ふものは、若し金にして言へば、現在七百万円がものはある。この七百万円と云ふ品は、何年の間にこしらへたかと言ひますと、四百年からの物である。四百年の間に人民が段々と積立て来た。そこに残つて居るものが、今日現場で七百万円以上が物はある。現にこの村で、一ヶ村を守る堤防費も、新築するとなると三百五十万円かゝる。この外田畑、宅地、立木――容易なものでない。然うでがせう、今日の戸数が四百五十戸ある。四百五十戸の村をこしらへるのですから、二三百万円で出来るもので無い。されば現物七百万円がものがあるから、七百万円で買つたら穏当のやうだ。一寸考へると、七百万円で売れば可いやうでございます。七百万両がものはあるから七百万両で売つたらドウだと言ふと経済を知らぬ人民は大喜だが、七百万両の村を捨てゝ新しい村が其金で出来るかと言ふと、それは出来ない。それを僅か四十八万両で買ひ潰すと云ふのは、買ふのでは無い、村を取る運動費に過ぎないのである。それで、これまでに皆な僅かな移住費を与へて、人民を四方へ追散してしまつた。然らば何故に人民が然う政府の言ふことを聴くか。余り意気地の無い人民では無いか。かう諸君の御軽蔑もございませうが、これは深く謀つたことで、これを少しでも御訴へ申したくて出ましたから、暫く御猶予を願つて御話したいのでございます。
 谷中村を買上げると云ふことは、三十八年即ち昨年の事です。然るに三十五年の洪水に堤防の切れたを幸として、堤防をこしらへずに居りました。当年まで五ヶ年。堤防がございませぬから水が這入つて作物が取れない。非常な借金をしたり艱難辛苦してやつと生活を繋いで居る。所で三十七年末に県会が谷中を買収すると云ふやうな意味の決議をした。夜分十二時頃、何を話したか秘密会で決めた。それが買収の事である。これを地方の新聞へ出した。畑は三十両、田は二十八両と云ふ値を付けた。かう云ふ値をつけて新聞に出しましたから、最早、売買が止まつてしまつた。直ぐ隣村の田地が二三百両する所へ、こんな値段で広告してしまつた。県庁で買ふことになつた地面でありますから、売買を禁じたも同然である。――斯様に多年衣食の道を妨げ金融の道を塞いで、そこで一方に、此処へ来い買つてやると云ふことを始めた。仕方が無いから人民は逃げ出すのである。逃げ出すについて、何程なりとも銭を持つて行きたい。田地を提げて逃げることも家屋敷を脊負つて逃げることも出来ないから、何程とも御授次第の銭を貰つて、他所へ行くと云ふことになつた。
 それは実に非常な有様で――昨年の八月以来、谷中村を買上げると云ふことになりますと、また一層ヒドイことをやつた。色々の商人を村へ入り込ませた。これが流言家である。先づ古道具商人を凡そ百人も村へ入れました。道具を売れ、近い中に家を打壊はされるさうだから早くお売りなさい、政府の言ふことを聴くものも聴かないものも皆な打壊はすさうだから今の中に早く道具を売れ――かう言つて運動する。屋敷の木を売れ。鶏も用が無からうから売れ。船も此処に居ないとなれば不用だらうから売れ――種々な商人を何百人も入り込ませて、無智の人民を狂乱させてしまつた。それから村の中へ七人の悪党を入れて、非常な流言を放たせて、人民を騒がせて歩く。さうなくともこの三四年、人民は借金が出来て居る。そこで其の金貸へ手を廻はして、非常な催促をさせる。三百代言を入れて、さア寄越せと云ふ。田地を抵当にしようとしても取り手が無い。売らうとしても買手が無い。金融を塞ぎ、食物を奪ひ、この村に堤防は永世築かないと云ふ公文書まで発して、人を迷はす。人民が発狂するのも無理はない。殆ど狂人のやうになつて村を逃出す。逃出すについて、何程でも銭が欲しいと云ふ所へ、僅の銭を与へるに過ぎぬ。
 諸君如何でございませう。諸君が日常御心配下ださる事は、これに似寄つたことばかりで、格別珍しいと思召さぬか知りませぬが、私は一昨年以来、この谷中村へ這入り込んで居りまして、この村の一例から観察しますと、決して日本と云ふものは在るもので無い。何が日本であるか。戦争などは何の為めにするか。政府たるものゝ人民に対する仕事が、実に戦争の有様である。」
 谷中村破滅の時が切迫した。それは政友会内閣が成立して原敬が内務大臣となつたことだ。日露戦争に依て寿命を延ばした桂内閣は、戦争の終局、媾和条約の非難に堪へ切れず、明治三十九年の元朝、媾和全権大使小村寿太郎の帰朝を待ち受けて総辞職に及び、一月七日、政友会総裁西園寺公望が立つて総理大臣となりかくて原敬が内務大臣となつた。これより先き明治三十六年四月足尾鉱山主古河市兵衛が七十二歳で病死、養子潤吉が相続したが、病弱で役に立たない。三十八年、組織を変へて「古河鉱業会社」となし、潤吉を名儀上社長に据ゑると同時に陸奥宗光との関係上、原敬が推されて副社長となつた。而して今や、内閣の更迭を機として、出でて内務大臣となつた。抑も明治廿四年、議会に始めて鉱毒問題が提出され、時の農商務大臣陸奥宗光が、これに対する政治的画策を建てた時、原敬は陸奥の秘書官であつた。爾来こゝに十五年、今や原敬は一方には古河鉱業会社の実際的社長として、一方には日本政府の内務大臣として、「鉱毒問題」をば一指弾の下に政治的に抹殺する機会が到来した。
 看よ、その四月、栃木県知事は谷中廃村の手順として、左の諮問案を出した。
  町村合併に付諮問   下都賀郡谷中村
下都賀郡谷中村は、瀦水池設置の必要上其土地家屋等大半を買収し、村民を他に移住せしめたる為め、将来独立して法律上の義務を負担するの資力なきに至れるものと認むるに依り、谷中村を廃し其区域を藤岡町に合併せんとす。
右諮問す。
 但本月十六日迄に意見答申すべし。
  明治三十九年四月十四日
栃木県知事 白仁 武
 十四日にこの文書が県庁を出で、それから村会を開いて、十六日迄に答申せよと言ふのだ。今日の法律は如何か知らぬが、その頃の町村制には、
「町村会の招集竝に会議の事件を告知するには、急施を要する場合を除くの外少くも三日前たるべし。」
 かう書いてある。「町村合併の諮問」が「急施を要する場合」とは如何なる三百代言でも赤面して言ひ兼ねる事だらう。この時谷中村は既に自治制が半ば破られて郡書記が派遣されて村長職務管掌と言ふことになつて居た。この職務管掌の手で十五日、即日村会開会の招集状が配達された。引き継ぎ第二の招集状が配達された。これは当時の町村制に、第二回招集状の村会は、出席議員が規定に達しなくとも、開会することが出来るとある法文を逆用し、かくの如き詐偽方法に依て、直に第二回招集状の村会と云ふことに表面を糊塗した。この日県庁からは保安課長が出張し、多数の警官で、この小さな村会を取り巻いた。村会は諮問案を否決した。けれど村会の意思などが眼中に在るのでは無い。
 六月八日、田中正造は予戒令を執行され、七月一日、藤岡町合併の事発布され、この日以後「谷中村」と云ふ名儀は法律上永く消滅することになつた。
 君よ。考へると寧ろ微笑を催したくなることがある。曾て陸奥宗光の外務大臣時代、日本の漁船が朝鮮近海で、難船した一件で、一議員が衆議院でその遭難の人数を質問した。その時たしか陸奥の下に通商局長であつた原敬が、政府委員として演壇に進み、「二十数名」と手軽く答弁して席に返らうとした。質問者もこの答弁に満足したと見えて、黙つて居たが、『議長々々』と連呼して田中正造が議席に立つた。『二十数名とは何事だ。二十数名とは何事だ』――彼は政府委員が人命を軽蔑する傲慢の態度を罵倒して、正確な遭難者の報告を要求した。原は真赤な顔して堪へて居たが、理の当然に余儀なく失言を謝し、改めて調査答弁するを約して退席した。その原が今内務大臣の椅子に坐して、僅に眉を動かせば、一県の知事が、白昼公然、この法律蹂躙の醜態を演じて恥辱ともしない。
 さて谷中の堤内には、遂に十六戸の農民が居残つた。政府は暴力を以てこの家屋を破壊することになつた。これが今も世に伝唱される「谷中村の破壊」と云ふのだ。この前後に於ける田中翁の心――蒼き淵の如き深さ、絹糸の如き細密さ、その壮厳さ、その痛ましさ、これは到底僕のやうな粗末な筆に描くことは出来ない。
 県庁からは、警察部長が警部巡査人夫の一大隊を引率して乗り込んで来た。僕は一切を略して、その戸主の名とその破壊の日取とをのみ記してこの記事を終る。
明治四十年六月二十九日
 佐山梅吉、小川長三郎、川島伊勢五郎
六月三十日
 茂呂松右衛門
七月一日
 島田熊吉
七月二日
 島田政五郎、水野彦市
七月三日
 染宮与三郎、水野常三郎、間明田粂次郎、間明田仙弥
七月四日
 竹沢鈎蔵、竹沢房蔵、竹沢庄蔵
七月五日
 宮内勇次、渡辺長輔
 七月五日には鉱毒婦人救済会の矢島楫子、島田信子の両夫人が見舞に見えた。七日には兇徒嘯集事件の弁護士花井卓蔵、卜部喜太郎、石山弥平、今村力三郎その他多数の見舞客があつた。花井君等の一行を見送つて古河駅への舟中で、誰か手にせる白扇を開いて、翁の揮毫を求めた。翁は腰から矢立を抜いて、筆を持つてしばし文句を案じて居たが、忽ちサラ/\と書いて投げ出した。見ると墨痕鮮やかに、
「辛酸入佳境」
 翁は両手で長髪の頭を叩いて、カラ/\と高く笑つたが、船中の人、皆な目を伏せて、誰れ一人顔を上げるものが無かつた。
 翁時に六十七。

   聖人論

 明治四十二年の夏、或日、翁から一封の郵便物が届いた。例の書状とは違ふ。開けて見ると、一冊の手帳に、大きな字で一杯自在奔放に書き散らしてある。一読僕は愕然として目を見張つた。これは「谷中村破壊」と云ふ大割礼を受けた翁の自画像だ。僕は今この一篇の大文章を抄出して、君の熟読を求める。
「独り聖人となるは難からず。社会を天国へ導くの教や難し。是れ聖人の躓く所にして、つまづかざるは稀なり。男子、混沌の社会に処し、今を救ひ未来を救ふことの難き、到底一世に成功を期すべからず。只だ労は自ら是に安んじ、功は後世に譲るべし。之を真の謙遜と言ふ也」
「人として交はるは聖人に如くは無し。然れども神にあらざれば聖に至らず。聖は神に出づ。故に古来聖にして、天を信じ神を信ぜざるは無し。憐むべし、凡庸の徒、神を知らず。知らざれば信ずるに由なし」
「神の姿、目あるものは見るべし。神の声、耳あるものは聞くべし。神の教、感覚あるものは受くべし。此の三者は信ずるに依りて知らる」
「目なき者に見せんとて木像を造る。木像以来、神ますます見えず。音楽以来また天籟に耳を傾くるなし」
「聖人は常の人なり、過不及なき人なり。かの孔子が常あるものを見ば可なりと言はれしは、狭義の常にして予が言ふ所の常は広大の常なり。意は一にして大小の差あり。今世の人の常識を言ふは、多くは是れ神を離れたる常識、天を畏れざる常識、信仰なき常識のみ。是れ真理に遠き常識なり。真理を離れたる常識は即ち悪魔の働となる。常の一字難いかな」
「眼鏡のゴミの掃除をのみ専業とする者あり。眼鏡は何の用か。物を見るに在り。物を見ることをなさずして、只管眼鏡をコスリて終生の業とす。夫れ神を見るは眼鏡の力に非ず。仏智は心眼と言ふ。心を以て見るに、尚ほ私心を免れず。口に公明と言ひ誠大と言ふも、力よく聖に到らざれば心眼明かなりと言ふこと能はず。聖も尚ほ之を病めり、聖なればこそ之を病めり。常人は病ともせざるなり。私を去り慾を去り、正路に穏かに神に問ふべし、我が信によりて問ふ所、神必ず答ふ」
「人若し飽くまで神を見んと欲せば、忽にして見るべし。誠に神を見んと欲せば、先づ汝を見よ。天を仰ぐも未だ見るべからず。精を尽し力を尽して先づ汝の身中を見よ。身中一点の曇なく、言行明かにして、心真に見んことを欲す。然る後に見るべし。神は木像にあらず。徒らに神の見えざるを言ふ、其愚憐むべし」
「既に神を見んと欲せば、先づ汝を見よ。汝を見て克く明かなり。仰で天を見よ。天の父も母も皆な見ゆ。天地一物、神一物。我は分体にして神の子なり」
「偶々聖に似たるものあれども、一人の聖、独りの聖のみ。独立の成人なく、世界を負ふの聖人なし。故に我は我を恨む。我力の弱き、我信の薄き、我精神の及ばざる、我が勇気の足らざるを恨む」
「罪、汝が身に在り。寸毫も他を売るの資格なし。是れ予の熱誠、是れ誠に予が神を見るの秘訣なり。人生最上の天職は神秘の発明に在り。神秘研究の方面また甚だ多からん。予が神秘の要領は、即ち神を見るにあり」
「到底日本は狂して亡び、奢りて亡び、勝ちて亡び、凌いで亡び、詐りて亡び、盗んで亡ぶ、最も大なるは無宗教に亡ぶる事なり。誰ぞキリストの真を以て立つ人なきか。世界を負ふの大精神を有するもの無きか。予は在りと信ず。無しと言へば無し。在りと言へば在り。信の一のみ。神と共にせば、何事の成らざるなし。是れ億兆を救ふ所以なり」
「世界的大抱負は誠に小なる一の信に出づ。此の小や、無形にして小とだに名づけ難しと雖も、而かも天地に充ち、自在にして到らざる所なし。神ともなり、牛馬ともなる。世人此の易きを難しとして学ばず。予の悲痛苦痛、此処に在り」
末尾にかう書いてある。
 明治四十二年七月七日
  古河町停車場田中屋の休息室にて書  正造
 その文章と云ひ筆蹟と云ひ、一気呵成、所謂インスピレーシヨンの所作だ。この当時、翁は僕の態度に対して甚だ不満を抱いて居た。僕が一切世間に背を向けて逃避の生活に落ちて居るのに対し、少なからぬ不満を抱いて居た。さればこの文章をワザ/\郵便で送り越されたこと、必定訓戒の深意を含めてあるものと推察し、一層難有く拝読驚歎した。その次ぎにお目にかゝつた時
『あゝ云ふものが、どうしてお出来になりましたか』
と聞いて見たが、翁は、
『何だか死ぬるやうな気がして、たゞ無暗に書いて見たのです』
 かう云ふ返事であつた。

   岡田虎二郎に逢ふ

 明治四十三年。――八月三日付の翁の端書が来た。表面に「不急の土用消息」と大書してある。
「一昨日、埼玉の川辺利島、茨城の古河町の南新郷村を見たり。本年、今日まで洪水なく、気候十分、田の稲は色黒きまで濃く茂りたり。無事ならば、三ヶ村四十万円の収入ならんと云ふ。然るに此三ヶ年一粒の得るなきは、利根川流水妨害工事の為めなり。本年の気候は妨害工事の功力もなし。面白し/\。たゞ目出度取らせたいです。
 予正造も大納涼の主義を取れり。天地の広き、山川原野樹林の多き、出れば必ず風あり。就中、田の草を取る農民は、実利的納涼の本旨を得たるものなり。何ぞ家に在りて団扇を用ひんや。世の大家大庭を作造するは、其為の小なるを証するのみ。大寺大伽籃[#「大伽籃」はママ]また殆ど無用と存候。如何可有之也」
 然るにその頃から霖雨が始まつて、次で関東河々の大洪水が来た。僕は三河島の町屋と云ふ小農村に閑居中であつたが、丁度九日の夜の大風で、翌朝カラリと一天晴れ渡ると、午後俄然として濁流が押し寄せて来た。水脚の早いこと、忽ちの間に水は床上へまで上がつてしまつた。夜まで水量は増す。田や畑の上を舟で往来する。――水は引いたが未だ畳も敷かぬ二十三日の昼頃、思ひもかけず田中翁が見えた。袴の股立を高く取り上げ、杖の先へ草簑をくゝつて肩に担ひ、足袋はだしと云ふ軽装。水害の視察だ。今朝古河を立つて、北千住で汽車を下り、途中浸水の迹を見ながら来たと云ふお話、急に二三枚畳を半乾きの床上に竝べてこの良客を迎へた。
 翁は早速、懐中から半紙を取り出し、腰の矢立を抜いて、慣れた手付で河々の地図を画き、近年洪水の説明を始めた。東京の洪水をたゞ荒川の氾濫とのみ思ふは大間違で、つまり利根川氾濫の余勢だと云ふ結論であつた。七十の老翁、何せよ、大した元気だ。
『深呼吸と運動で、何十年のリウマチを、到頭退治てしまひました』
 かう言ひながら翁は、その痛んだ方の太い腕を高く上げたり、背中へ廻したりして見せた。僕は好い機会と思つて翁に勧めた。
『岡田虎二郎氏にお逢ひになつては、どうです』
 すると翁は、うるさげに顔をしかめて、
『何分、どうも、忙がしうがして――』
 僕は直ぐ外の話に移つた。それから枕を出して少し休息を勧めた。翁はゴロリと障子口に横になつて、忽ちグウ/\と安らかな大鼾き。僕は団扇で蠅を追ひながら、ツク/″\この巨大な老戦士をながめた。
 やがてポカリと眼を開いた翁は、物影を長く地に引いて、夏の日の傾き行く空を見て、
『や、これは寝過ごした』
と言ひながら、急ぎ起き上がつて、帰り支度にかゝる。
『お泊り下さるんぢや無いんですか』
と、晩餐の支度をして居た妻が、台所から顔を出したが、
『今日中に番町まで行つて置かぬと都合が悪るい』
 かう言ひながら、袴を締めなほし、足袋をはいて、さつさと出掛けてしまふ。村外れまで見送るつもりで、僕も一所に出た。丁度、村の人達が市中の肥料を汲んで帰る時刻で、向うから車がつゞいて来る。父親や良人の車を、盲縞の仕事着に手拭で髪を包み、汗も拭はず好い血色した娘や若妻等が、勇ましげに車の後押をして来る。それを見て、翁は始めて担つて居る草簑の由来を物語つた。翁が所持の草簑は、先月三日谷中村破壊三年の記念会の折、翁からの依頼で、僕がワザ/\この村から持つて行つたのだ。この前翁が僕の村へ見えた時、丁度雨で、若い婦人達が簑笠で働いて居たその姿が如何にも元気で美くしく見えた。翁は自分もこの簑を着て見たいと心が動いたのださうである。
『所で、わしが着ると、まるで百姓一揆のやうで、余り好い恰好でねい』
 かう言つて、翁は真面目な顔して笑つた。僕は覚えず噴き出して笑つた。この機会に僕は又勧めて見た。
『岡田氏へ行つて御覧になりませんか』
 すると翁の顔は忽ち曇つて、
『何分、時が無くて――』
 翁は岡田と云ふ人を、その頃流行の催眠術か何かの如く思つて居たらしい。僕は直ぐ別な話をしながら、小川に沿うて曲り曲り歩を進めた。何時の間にか、村界の小橋へ来た。こゝで別れねばならぬ。翁は既に一足橋を越え、向き直つて挨拶しようとして居る。その瞬間、僕は三たび言うた。
『岡田氏へ、一度行らつしやい。あなたには直ぐ御合点の行くことです』
 翁は簑を担いだまゝ、目を閉ぢてヂツと黙つて居たが、厳然と面を上げて、
『参ります。必ず参ります。では、今晩は日暮里に御厄介になることに致します』
 僕は、翁の姿が、生垣の角をまがるまで見送つて、引き返した。
 その頃、僕は頻りに日蓮の事を空想して居た。日蓮々々と世間では非常な評判だが、僕は何も知らなかつた。この夏始めて日蓮の『遺文録』と云ふものを読んで見た。僕がこの直接資料に依つて見た日蓮と云ふ男は世間でワイ/\騒ぐ日蓮とは全く面貌が違ふ。評判の『立正安国論』と云ふものは、法然坊の弾劾に過ぎない。嘗て朝廷に対して念仏宗の禁止を迫つた叡山の僧権の暴意を、そのまゝ鎌倉の新政府の門へ投げたのが、『立正安国論』だ。文中に内難外難云々の経文を抜いて※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して置いたものを、後日元寇の兆が見えて来た時、てつきり予言が的中したものと、自瞞自欺に脱線したのが、日蓮一生の不運であつた。老後彼は身延の山中で日本軍の必敗を期待して居た。されば鎌倉の某信女から、壱岐対馬に於ける元軍の乱行を報告して来た時、日蓮は返書を与へて、それは壱岐対馬の遠島の事では無く、近い中に京鎌倉も同様の惨禍の巷になる、今の中に罪悪の鎌倉を引き上げて、この日蓮の身延の聖地へ逃げて来いと言うて居る。某信女から元軍全敗の報告が来た時、日蓮はそれを虚偽だと言つて居る。それはこの日蓮を讒誣中傷する奸悪な流言に相違ないから信用してはならぬ、とさへ返事を書いて居る。然れば元寇の全滅が確実とわかつた時の日蓮の心情如何。――多年の焦慮、心身の破壊、遂に山を下りて東海道を湯治の途に就いた。武蔵国の海岸をトボ/\たどる時、最早や馬上に堪へ得ずして、土地の郷士池上某の館に寝込んで了つた。その遺跡が今の本門寺だ。僕は日蓮が六十一歳、大に大懺悔の時機に到着して居たと思ふ。惜い哉、彼は大脱皮を果たさずして死んで了つた。僕が日蓮を思うて居る時、いつの間にか田中翁の顔に変つて了ふ。日蓮が最後の疲労を空想する時、直訴当時の田中翁の姿が自然に浮ぶ。――今翁を見送つて家路をたどりつつ、僕はまたおのづからこの二人のことを一つにして思つた。
 今翁の日記を開いて、この前後の記事を少しく抄出す。
八月十三日。暴風怒濤起る。前十時より十一時。
八月十四日。野木村野渡に泊。此日、米五俵割麦一俵を買取りて谷中に通知す。
十六日。谷中に入。恵下野にて避難人に面会。
二十三日。古河町出立、日暮里に来る。泊。床上尺余浸水。
二十四日。今朝逸見氏御夫婦と、岡田氏へ行けり。
二十五日。岡田神呼吸を訪ふ。

十二月十七日。朝、利根川の北岸邑楽郡千江田村の江口を出でて、川俣村の停車場に至る。途中暴風西より急に吹き荒して、歩行危し。道路は近日泥土を以て普請したるばかりにて、下駄の歯立たぬ所あり。杖さへ烈風に奪はれんとす。笠も吹き去らるゝ恐あり、手早く脱ぎて、予を送り来れる人夫に託す。忽ちに風また一層烈しく来りて予を倒さんとするにぞ、下駄を捨てゝ足袋はだしになりたるに、態度一変、如何なる烈風も却て面白くなり、弱者忽ち強者と化し、風に向て詩歌すら朗吟し、田圃に布ける水害後の泥土の、寧ろ作物の為め天然の肥料たるなどを見分しつゝ、心中窃に喜ぶ所あり。倒れ流れたる村民の悲哀を思うて、喜憂交々多し。洪水後の悲惨の中、回復の道の一端を見る。人生の事、誠に心底の決定に在り。
十二月十八日。昨日、日暮里金杉逸見斧吉氏へ来泊。今日クリスマス。
    食前の祷
 天の父母、我が父母を生み、我が父母、神の命によりて我を孕み我を産めり。肌と乳とを以て我を育せり。其の愛、神の如し。また天地の如し。我之を受けて恩とせず、其心また神の如し。
 我れ水火を識別するに及で、父母我が飲食を斟酌す。此頃になりては、父母また神の如くならず。我亦た食慾を覚ゆ。
 我やゝ長ずるに及で我が飲食を制す。我れ壮年に及で父母の制裁に安んぜず。或は暴飲暴食、時に病を受く。此時に当り、身を破り人道に反き、多く罪悪に陥る。陥りて後ち悔ゆ。其悔や厚く而も改むるに至らず。後ち大に悔いて大に改むるも、年已に遅し。
 晩年に及で、知友の力ある誡告によりて、終に全く過を改むるに急なり。而して後はじめて神に仕へ、神より食を受くるの道を知り、食するものは皆な神より賜はるものたるを明かにさとりたり。こゝに数年の実行を践んで、いよ/\神の為に働くものは神より食を受くるなりと信ぜり。今日の働は今日の食に充つ。――
十二月二十八日。日暮里逸見氏にて、岡田霊に逢ふ。是れ予が三十七年春神田青年会館の演説に於て学生に告げたる予言に応ふるの思あり。果して然らん。
 夜、古河町に帰着。
二十九日。古河町及野渡の白米商に代金皆済。
 この岡田虎二郎と云ふ人に逢つたと云ふ一事は、田中翁の生涯に取つて、極めて大切な事であつたと僕は見る。この人は僕自身に取ても実に再生の恩師であるが、僕にはこの人を語る力が無い。この人の名の語られる時が来るであらう。語る人が出るであらう。

   臨終

 翁は山川視察の途次、大正二年八月三日、下野国足利郡吾妻村字下羽田なる庭田清四郎と云へる農家で、遂に病床の人となつた。
 君よ。言ひたい事は河の如く際限無いが、一切を棄てゝ直にその日を語る。
 九月四日、晴朗な初秋の朝空、僕は翁の顔をのぞき込んで朝の挨拶をした。
『如何です』
 翁は枕に就いたまゝ軽く首肯いたが、やがて、
『これからの日本の乱れ――』
 かう言ひながら眉の間に深い谷の如き皺を刻んで、全身やゝ久しく痙攣するばかりの悩み。
 時は正午、日はうらゝかに輝いて、庭上の草叢には虫が鳴いて居る。
 翁は起きると言ふ。僕は静かに抱き起したまゝ殆ど身も触るばかり背後に坐つて守つて居た。夫人の勝子六十何歳、団扇を取つて前へ廻つて、ヂツと良人の面を見つめて軽く扇いで居る。
 翁は端然と大胡坐をかいて、頭を上げて、全身の力を注いで、強い呼吸を始めた。五回六回七回――十回ばかりと思ふ時、「ウーン」と一声長く響いたまゝ――
 瞬きもせずに見つめて居た勝子夫人が、
『お仕舞になりました』
と、しとやかに告げた。
 翁が所持の遺品と言うては、菅の小笠に頭陀袋のみ。翌晩遺骸の前に親戚の人達が円く坐つて、頭陀袋の紐を解いた。
 小形の新約全書。日記帳。鼻紙少々。
 僕は取り敢へず日記帳を押し戴いて、先づ絶筆の頁を開けて見た。
「八月二日。悪魔を退くる力なきは、其身も亦悪魔なればなり。已に業に其身悪魔にして悪魔を退けんは難し。茲に於てか懺悔洗礼を要す」
 享年七十又三。
〔『中央公論』昭八・九〕





底本:「近代日本思想大系 10 木下尚江集」筑摩書房
   1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論」
   1933(昭和8)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年7月24日作成
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