魚美人

佐藤惣之助




 もう一般に釣技といふ言葉が通じるなら、やがて釣道といふ言葉もあつてよい訳で、殊にその釣道の真諦、――とたずねられると、実技の奥義は暫く措いて、何が人をさういふ風に引つけるか、夢中にするかといふと、どうも釣人の落ちゆくところは、あの得も云はれぬ感覚の反応にあるやうに思ふ。つまり魚のアタリ、魚力と争ふ感応、又は魚をぐつとやる把握的な触覚にあるやうに思へる。それを先づ基調とする。中枢とする。或は醍醐味と云つてもよし、牽引力ないし恍惚こうこつ境といつてもよい。こいつばかりは獲物の多少でもなく、単なる自然研究、細かくは魚類学の勉強でもなく、又川海の※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきや体育の保健とか、或は環境がしかあらしめたものでもなく、求め努めて迎へ逢着するところの、性癖性感へまでに基因するものではなからうかと思ふ。一と度釣りをして、それが釣れるとなると、誰しも単に釣ることや魚に興味を見出すが、釣師も一度は釣れなくなり、考へて練つて、よく目的を極めて、一つ宛魚の習性を極めてゆくと、帰するところは捕魚の利潤でもなく、職漁意識でもなく、実はあの感覚、あの官能一点につながるやうになるのではなからうかと思ふ。しかも水天一髪の間に泛んで、澄明清気を通してやつてくる魚信あたり――魚の引く力といふものは、水をり骨を浸透してシン身に応える。くくとして、ぐつとして。重く軽く、電光の如く、電波もたまらず身に応へる味といふものは、言外の言、幽なる、こうたる、感覚を絶した官能の冷たい花火である。それが朦として、膜として血管に残り、脳枢部を刺激して、不思議な記憶の花模様を全身にりつけてくると人は鬼狐きこの如くこの感覚一点に繋がれて、又昨日の魚を思ひ、ねぎらひ、たわみ、迷うて、再び河海を遊弋ゆうよくするやうになる。従つて魚のアタリそのものを目的とし凝つてしまふと、そのアタリの感覚一つで、どの魚はかう、あの魚はかうといふ事になつて、魚のためではなく、専念もっぱらアタリそのものをよく品騰ひんとうし、価値づけて、体力から、量と質から、自分の中の夢想や好みの感応を抜きさしして、れに当り応じ赴くやうになる。しかしそれもその人の好む感覚によつて魚を選定するのであるから、強く重い引きがよいか、敏捷な、鋭截的な奴がよいか、或はトーンと軽く、とろとろと、みらみら、つさつさと、ぎくと、てろりとやつてくるのがよいか、それによつてその日の釣堀なり川釣りなり沖釣りなりを決定するやうになるのではなからうかと思ふ。
 そんな感情と感覚で、私もこの秋はマルタに凝り、沖タナゴに凝り、近くは口細くちぼその引かけなどをやらうとしてゐる。鯉は知らず鮒のひりりつんといふのも曲なく、まして川海老の異端振り、ボラ・イナの引かけなどの粗暴な手答へに較べて、カイヅの変化、セイゴの突張り、キスの先合せなどよりも、今の私にはマルタのアタリがこよなきものになつてゐる。これは年々変化する味であらうが、秋の喰はせのマルタは極上、とんと軽く来て、須臾すゆもあらせずぐつと重く、カイヅやボラのやうに頭が強くないから、綸糸もしなやかに重く、ぬつと這入つて、すうとそれ、ぐぐとためてゐると、すぐ水面へふうと出る、それを玉網無しでツイと上げる。長方形な滑かな頭と胴体をぐつと掴んで、しみじみと見ると、キララともせず、柔かく、素直で、スツキリとして、まさに清長の美人の体駆である。ボラは綺羅きらを張り、荒い鱗を飛ばし、滑稽な口をして、どかどと悶えるがマルタは静かである。カイヅの棘もなく扇の黒銀もないが、すなほでうねつて、柔かく、円細く、時に茜の紅を、あいの鱗を、つんとして、情を見せて、しかも清らかな魚相をして、スズキに似て、よりうぶなところがある。沖タナゴも私はハヤ鉤で細い綸糸で釣るのであるから、波中の赤金をたのしみ、あの段のついたひらひらと引く味を好むのである。これからは川タナゴのしもり釣りもよいが、口細くちぼそを二三喉一度に引かける細竿の味も亦妙である。(もちろん、川の女王鮎は此処では例外とする)
 そんな意味で、魚のアタリと引きを品騰し夢想し待望してゐると、どうも魚といふものは恋の美人にはうふつとして来るやうにさへ思へてくる。これはあながち魚相の美醜ではなく、魚のもつ触覚と力との愛惜である。たとへばキスにしても、スズキにしても、鮎やたいにしても、美しい魚はいくらもあり、又オコゼ、ゴンズイ、鷺穴子、ハモ、ガラ、メバル、ゴリのやうな醜いものもあるが、私達にまで感情や感覚から触れてくるところは、その法悦境の味いかんの好みにある。いかにそのアタリや引きが私達を喜ばせ、又ハラハラとさせ、ドキリとしたり、ハツとしたり、カツと熱せしめるか、その身応へ、すき透つた感触、全き浸透にある。それによつて魚への美感や愛惜の情が異つてくる。鮒専門の人はあの処女的な溌剌さがよいのであらうし、大物のこいをやる人は、その執拗な、稀な、強さと電力が、絶世の張りある美人に思へようし、ぶり松魚かつおへまで望みを延ばし、或は外国流なかわり種を捜して、北海のオヒヨウ満洲のなまずへまで手をのばす人まであるとしても、それは少々イカモノ食ひであつて、魚の一つの真実味、肌あひ、哀怒の表示に注意せぬ気の荒い人である。その点で私もこれからは少しく人情――いや魚情を出して、一つの魚に真実をつくして惚れて見たいと思ふ。もし釣師にも貞潔があるとしたら、その点でその人と魚との深い冥合めいごうを研究して行つたら面白からうと思ふ。何しろ魚といふ奴は冷い、驚き易い、逃げ易い、そして人外境にあつて千尋の海を遊弋ゆうよくしてゐる。人間の感情感覚では計り知れるものではない。その及びもつかぬ魚情に惚れて、一竿一糸をもつて情誼を尽さうといふのだ。剣を放つて春風をるの概もあらう。然りである。魚は美人である。この世の私達の美人とは異つた愛惜をそそる美人である。感官に於ける神会の性感もものかは。まさに魚道の真諦は、その感官の意欲一点に纜らう。と云つたところで人よかゆがつてはいけない。私は一つの魚の釣り味といふものがどうも私達にまで響いてくるところのものは、結局この感覚ではなからうかといふのだ。して見れば私達がどんな都合や考へで釣らうと、魚も魚だけの情をもつて、否その場の自然現象によつて来るのであるとしても、そこに何等かの深い感情といふものが成立しなければならない。そして深くその感覚をべてゆくと、どうも魚といふものは千古の美人であつて、古書や古画の中のまぼろしでもなく、生きて私達にまで性の神会を再びほうふつせしめてくれるものであるやうに思へてくる。魚美人! 人も不惑を過ぎるとそんな奇怪な想像をもつて釣る。釣中果して真諦ありや。これは千年の謎としても、魚のアタリ、その引き、その釣者の恍惚境といふものは、如上じょじょうの味に近いものであらうと思ふ。釣狂痴者きちがいの迷夢哀れみたまへ。
(昭和五年十二月)





底本:「集成 日本の釣り文学 第一巻 釣りひと筋」作品社
   1995(平成7)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「釣心魚心」第一書房
   1934(昭和9)年4月発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:門田裕志
校正:湖山ルル
2015年9月1日作成
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